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木炭と硫黄と硝石を混ぜた結果www

ここ何回か、「飛び道具」について、終わりの見えない話を続けておるわけですが 、今回から「火薬の時代」に突入します。

皆さんのご賢察の通り、あれほど有能だった弓を駆逐したのは銃です。

ですが、その登場までには、これまた長い試行錯誤がありました。けっして「火薬を発見したンゴwww銃を作るンゴwwww」みたいなノリではないのであります。

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木炭×硫黄×硝石=…

古代中国は、国力だけではなく、科学技術の面でもおそらく世界の先端を走っていました。

そんな偉大なる古代中国の4大発明の一つが、「火薬」なのであります。残りは、「紙」「印刷術」「羅針盤」ね。

なぜ中国が火薬を発見することができたのか。

それは、中国に古来より伝わる「神仙思想」、すなわち、仙人になって不老不死の超人となることを願う思想があったためと考えられています。

「不老」じゃない気もする

普通、人は仙人にはなれません。無理。
100歩譲って仮になれるとしても、たいへんな修行や勉強が必要になってきます。

そこで、簡単に仙人になれる「クスリ」を製造する技術が研究されるようになっていきます。

彼らのその試みは、やがて「練丹術」という一種の学問となります。これが紀元前4世紀のこと。西洋の錬金術より遥か昔のことです。

練丹術は、水銀をベースにありとあらゆる物質を混ぜてクスリ(※体には悪い)を製造するというものですが、その試行錯誤の中で、火薬が発見されたというのが通説となっています。

7世紀(唐の時代)になると、「硫黄と硝石と炭を混ぜるとめっちゃ燃えるから気をつけろ」と書かれており、すでに火薬の原型が製造された事が分かっています。

9世紀には、ある練丹術師が、硫黄と硝石と蜂蜜と炭を混ぜて、見事に爆発。顔面と手足に大火傷を負い、自宅が全焼したという、気の毒な記録があります。

ま、そんなこんなで、中国人たちは、見事「火薬」をゲット。それ以降、様々な火薬を使った兵器を生み出していきます。

初期の利用法は、今も中国人が大好きな「爆竹」。

中国では昔から「大きな音を出すと悪霊が逃げていく」というおまじないがあり、お祭りや儀式などで轟音を出すために、少量を竹に詰めて封をしたわけですね。

どんな楽器よりも大きな爆音を轟かせたであろう爆竹は、やがて、悪霊ではなく、人間を退散させるために使われるようになりました。

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火薬の軍事利用

中国の歴代王朝の一番の悩みの種は、周辺にいる騎馬民族の存在でした。

前回も書いた通り、この時代の騎馬民族は鬼神の如き強さ。農耕民族である中国人は真っ向勝負では勝てません。

960年に中華の大部分を統一した北宋も、例外ではありませんでした。
北部には「遼」や「金」という騎馬民族の国があり、どうにも落ち着かない。大金を払って和睦を結んだりしてなんとか凌いでいました。

また、北方の馬の産地も騎馬民族に支配されていたため、深刻な馬不足に陥っており、歩兵で騎兵に対抗しなくてはなりませんでした。

しかし、こうした北宋の軍事的な制約が、様々な火薬兵器を生み出していったのです。

燃焼系

とはいっても、初期の火薬は不純物が多くイマイチ爆発力に欠けおり、爆発そのもので敵を粉砕する事は出来ませんでした。

そこで開発されたのが、「火槍」という兵器。

槍の先に火薬を詰めた筒を設置し、火薬を炸裂させることで敵をひるませたり火花を浴びせかけたりするというものです。

威力の極端に低い火炎放射器みたいな感じか。

画像のショボさとは裏腹に、その音と閃光は、人と馬をビビらすには十分なものであり、騎兵に対してはまぁまぁ有効だったと考えられています。

また、攻城戦においては、その燃焼力を活かした「火球」なるものも開発されています。

手榴弾の先駆け。紐をつけて、スリングの要領で遠くに投げられるようにしています。

火薬を球状の紙で固め、投擲して使用しました。
火薬と一緒に油を混ぜて焼夷弾にしたり、毒を混ぜて毒ガス兵器にしたりと、意外に幅広い用途が可能でした。

これらの兵器は、10世紀に描かれた仏教画にも登場しており、この時代にはすでに存在していた事が分かります。

お釈迦さまを襲おうとする悪鬼を書いた絵。右上の鬼に注目。

しかし、こうした新型兵器の活躍も虚しく、北宋は金王朝に勝てず、中華の南まで追いやられてしまいました(以後を南宋といいます)

爆発系

領土を半分失った南宋でしたが、彼らは復讐を誓い、火薬兵器の研究開発を続けていました。

彼らのたゆまぬ努力の結果、火薬の純度が上がり、木炭・硫黄・ 硝石の混合比率も調整され、爆発力は飛躍的に向上します。そして、ついには「爆発」によって、致命傷を与える事が可能となりました。

当然、この優れた火薬の製法は最高機密。実践に投入するときも、爆発に全然関係のない物質をダミーで入れるなど、秘密を守る工夫がなされました。

こうして考案された強烈な爆弾が、「震天雷」というもの。

天を震わすほどの雷。名前からして凄そうでしょ?

陶器や鋳鉄の容器に、火薬と一緒に石・鉄片などを入れ、殺傷力を高めた爆弾です。まさにボンバーマンの世界です。50メートル四方が焼き尽くされ、その爆音は100km先まで届いたと伝えられています。

なお、元寇の際にモンゴル軍も使用した「てつはう」も、これと同様のものです。

当時の記録によると「投げつけられると人馬ともに大きな音に驚き、煙で追撃ができなくなった」とあり、これにより死傷者がでたという記録はありません。

しかし、2001年に沈没船から引き揚げられた実物を調査した結果、中に鉄片などが封入された事が判明し、わりと「殺る気マンマン」だった事が分かっています。

沈没船から引き上げられたてつはう実物

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銃の起源

そしてもう一つ、南宋が開発した兵器が、「突火槍」。
竹筒の中をくり抜いて火薬と弾丸を充填し、発射するというもの。

相変わらず、画像はショボい。

ついに、「火薬の爆発によって筒の中のモノを飛ばす」という原理の兵器が登場します。銃の起源です。

南宋という王朝は、結局モンゴル帝国に滅ぼされちゃいますし、あまり創作の対象にもならない地味な王朝です。

しかし、現代まで続く火器の原型を考案た、何気に凄い王朝だったりするのです。


なお、こうした火薬技術は、すべてライバルの金王朝にパクられ、結局のところ優位性を確保することはできませんでした。

最終的には、金と南宋を滅ぼしたモンゴル帝国が火薬技術のすべてを引き継ぎ、のちの快進撃に利用していくこととなります。

この突火槍も、モンゴル軍が南宋との戦争の中で手に入れ、複製品を製作。ヨーロッパ侵攻の際に使用したりしています。

そうした中で、ようやく「火薬」と「その利用法」が、ユーラシア大陸の左側へと伝わっていったのです。

中国の外で、文献に残る最初の銃らしきものは、イスラム兵が使用した「マドファ」というもの。

完全に突火槍のバクリ。

これが文献に描かれたのが、1300年のこと。

この後、やっと西洋で火薬が兵器に利用されるようになったわけですが、中国が火薬を発見してから実に400年以上もの時が経過していたのであります。

いや、昔の中国って、本当に有能だったんですね。

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