遊牧民+複合弓とかいう最強タッグ
はい。
前々回、前回と、人類最強の飛び道具であった「弓」について書いてきました。
弓には、「長弓」「複合弓」「弩」と、大まかに分けて3つの種類があるわけですが、今回は、そのうちの「複合弓」について見ていきたいと思います。
遊牧民族と複合弓
「遊牧」というのは、牧畜のスタイルの一つで、枯れ痩せた大地で家畜を飼う方法です。
家畜を飼うには牧草が欠かせませんが、中央アジアのような乾燥地帯では草があんまり生えていません。
そこで、定期的に牧草地を移動して、牧草を食べ尽くさないようにする、「遊牧」が行われるようになりました。
彼らは、何百、何千もの家畜の群れを率いて長距離を移動していくため、必然的に馬の扱いにも熟練していきます。
遊牧民族を表す表現に、「馬上で生まれ、馬上で死す」というのがありますが、これは誇張ではなく、男は3歳頃からもう馬に乗るようになり、死ぬまで家畜とともに暮らすのです。
移動が多い生活ですので、食事も睡眠も、馬上で取ることも珍しくありません。馬に乗って狩りもしちゃいます
狩りに使用する武器は弓ですが、長弓では扱いにくく、せっかくの馬の機動力も損なわれてしまいます。
威力を保ったままなんとか小型化できないか。悩みに悩んだ彼らが複合弓を発明し、改良を続けていったのは、必然だったと言えます。
複合弓が発明された結果、馬に乗りながらバシバシ弓を撃つ技術、「騎射」が彼らの代名詞となっていったのです。
農耕民族からすると、馬に乗るだけでもけっこうな訓練が必要。その上、不安定な馬上で弓を扱うというのはもはや神業。
古代ギリシャ人は、騎射をする遊牧民を見て、人馬一体の怪物「ケンタウロス」を想像したと言われています。
恐怖のモンゴル帝国
そんな超有能な弓騎兵である遊牧民族ですが、普段は家族や親戚単位でバラバラに生活しており、そこまで強大な力を持つことはありません。
それでも、中華を統一した始皇帝ですら万里の長城を築かざるを得ない。それほど、遊牧民族の戦闘力は凄まじいものでした。
始皇帝が、「自分の支配が及ぶ空間はここが限界なのだ」と認めた証。
そこにカリスマ性を持った有能な指導者が登場し、一つにまとまると、反則レベルの戦闘力を発揮します。
中でも最も強大な力を持ったのが、悪名高きモンゴル帝国。
13世紀、モンゴル帝国は、ユーラシア大陸全土を支配する勢いで、領土を拡張していきました。
モンゴル帝国の領土の推移。最盛期は地球の陸地の25%を支配しました。
戦争というのは、普通は勝った方も負けた方もそれなりに損害があって、立て続けに戦うことは出来ません。
なのになぜ、モンゴル帝国は、これほど圧倒的な速さで侵攻を続けることができたのでしょうか。
その最大の要因が、複合弓なのであります。
パルティアン・ショット
彼らが得意とした戦術の一つが、パルティアン・ショットというもの。
これは、パルティア王国という遊牧民族国家(BC247年~BC226年)にちなんだ名称です。
どういうものかというと、
・敵と向かい合ったらとりあえず逃げる。
↓
・追いかけてきたら、逃げながら後ろ向きに一斉射撃。
↓
・敵の陣形が崩れたら、騎馬でドドドッと突っ込む。
↓
・相手がヒェ…っと怯んだところで一斉射撃。
↓
・相手が追ってきたら、また踵を返して逃げながら後ろ向きに一斉射撃。
この戦法にちなみ、パルティアン・ショットは「捨て台詞」という意味もあります。
という戦術。
モンゴル弓騎兵は常に敵と一定の距離を保ち、徹底的に白兵戦を避けます。
これを繰り返すと、相手の軍隊は一方的に戦力を削られボロボロ…。おまけにこちらは無傷。自軍の兵が無傷なので、連戦に次ぐ連戦でもへっちゃら♪なのです。
「弓を打ち返せばいいじゃん!」と思いましたか?
確かに、飛ばす矢の飛距離、威力自体は、双方ともそこまで大きな差があるわけではありません。
しかし、普通の人間は馬に乗った不安定な状態で弓を扱う事などできません。
騎射というのは超高度な戦闘技術。普通は職業軍人が、長い研鑽を経てようやく身につける技術なのです。
したがって、弓兵というのは、歩兵であることが普通です。
一方のモンゴル帝国軍は、全員が熟練した弓騎兵。
中国や西洋の国々は、馬の機動力に翻弄され、なすすべなく殲滅されていきました。
というわけで、このパルティアン・ショットという戦術は、まさに飛び道具の理想的な使い方でした。
ワールシュタットの戦い
ここで、そのモンゴル帝国軍の強さを示す代表的な戦いを一つ。
それは、1241年のワールシュタットの戦いです。
モンゴル帝国は、建国以降、中央アジア→インド→西アジア→…と順調に勢力を伸ばしていき、いよいよヨーロッパの東の入り口とも言えるポーランドへも侵攻を始めました。
ポーランドは、ここ
西洋諸国もこのモンゴル帝国の猛進撃について認識はありましたが、あまり現実味を感じていなかったのかもしれません。
さらに、この時期、キリスト教内での派閥争いとかがあって、みんなの興味はそっちに行っちゃってました。
ポーランド君主からの援軍要請は各国に悉くシカトされ、参戦してくれたのは、義弟の治めるボヘミアと、テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団の混成軍だけという悲しさでした…。
それでもポーランドは、なんとか2万5千人ほどの大軍をこしらえて、モンゴル帝国軍を迎え撃ちます。
対するモンゴル軍は兵数2万。
レグニツァという都市近くで、両軍は対峙しました。
当時のヨーロッパの基本戦術は、槍を持った騎兵隊が敵の中央に突撃するというもの。
もう、完全に「パルティアン・ショット」の格好の餌食なのです。
まずはポーランドの騎兵隊が突撃すると、モンゴル軍は逃げながら矢の雨を浴びせます。
ポーランド軍が怯んで後退すると、今後はそれを追って矢の雨を浴びせます。なにこのハメ技。
ワールシュタットの戦いのようす。左がモンゴルで右がポーランド。右側は誰も弓を持っていませんな。
こうしてポーランド軍は完膚なきまで叩き潰されました。
モンゴル兵は、戦果の確認として敵の右耳を切り落とすのですが、この戦いでは右耳だけで大袋で9個分になったと言われています。
なお、ワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味。この戦争の損害がどれほどのものだったかを物語っています。
このように、複合弓は、騎馬と組み合わせることにより、その真価を最大限発揮します。
そのため、遊牧民族との相性は抜群であり、騎馬兵が使う複合弓は、ある時期までは間違いなく世界最強の兵科だったと言えます。
次回は「長弓」と「クロスボウ」について。
乞うご期待。
コメント (138件)
おもしろい。
更新きてたな
相変わらず面白いね
いつも更新楽しみにしてますよ
これからもこの路線でよろしく
今回も面白かったです。
次も期待してます。
あと乾燥が感想になってた
>>家畜を飼うには牧草が欠かせませんが、中央アジアのような感想地帯
勉強になります。
モンゴル騎兵なんて、要するに白鵬がナリタブライアンに乗って突っ込んでくるようなもんだからな。
勝てるわけないんだよ。
モンゴル帝国が何故ヨーロッパを完全支配しなかったが気になる。
もう弓の話ではなくなってしまうが。
何にせよ面白かったです。
次も期待です。
このシリーズ大好きです
ケンタウロスwwwwww
※8
当時はイスラム圏の方が発展してて旨味があったからね。
あとこれからヨーロッパ蹂躙しようって時に大ハーンが死去して後継者を決める会議のために本国に引き返さなきゃならなくなった。もし総司令官のバトゥが引き返さなかったらヨーロッパはどうなってたのやら。
これ以外にも交差しざまに振り向き騎射、馬で待ち伏せ、馬の予備を並走させての遊撃などもあったみたいね
和弓は長弓なうえに複合弓
材料の竹を焼いていたりした場合には、材質がカーボン相当
相変わらずおもしろい。
ところで、西側に進攻するにつれて気候も変化する。
雨の日の弓騎兵はどう戦ったのかな。
それとも甲子園みたく雨天順延?
※13
しかも乗馬して撃てる
ちょっと説明が大雑把過ぎて弓だけで勝ったような印象与えちゃうね。
実際のモンゴルの騎馬軍はマングダイと呼ばれる弓を扱う仕事の軽騎兵と、カタフラクトの流れを汲む馬鎧まで着せて槍で武装した重騎兵によって構成されてる。
マングダイはパルティアンショットを行いながら「偽の退却」によって敵騎兵を引っ張り出し、歩兵と分断し、味方の重騎兵の突撃がしやすい場所まで誘導する役割を持ってる。ワールシュタットの場合、引き離した敵騎兵と歩兵の間に煙幕を張り(馬の後ろに棒をロープで引きずって砂煙をあげる)完全に分断したあとに重騎兵の突撃で敵騎兵を殲滅、その後、騎兵を失って壊走する歩兵を軽重両騎兵が掃討するって戦術だった。
確かに弓騎兵ってのはやっかいなんだけど、モンゴルが何よりも優れていた点は野戦での全兵を騎兵で編成したこととその戦術であって、弓騎兵だったらどの時代のどの国の軍でも行える戦術ってわけではなかったんだよ。
撃つだけならどんな種類の弓でも可能
命中率はお察し
流鏑馬も固定した的を弓としてはかなりの至近距離じゃないと当たらない
騎兵は森に弱いって聞いたけど
だから森の多いヨーロッパや熱帯雨林のベトナムでは苦労したみたい
勢力地図を見るとほとんどが馬の機動力が活かせる乾燥地帯だし
武士の騎射戦はどちらかというと西洋のランスチャージの発想に近いからな
大鎧で敵の弓を防いで至近距離で弓を放つ事で相手の陣形を崩す
※16が兵科の違いについて説明してくれてるから、記事本文の足りないところをちょっと補足
弓騎兵は軽装備で、脚が速い。弓なので射程があって、近接戦闘はそんなに得意じゃない。一応それなりには出来たけど。
重騎兵(重装備で槍とか剣とかメイスとかで武装)は近接戦闘ではこの時代最強。歩兵よりはちょっと速いものの脚がクソ遅い。馬のスタミナもアレなので一々馬を換えなければならず、持続力がそんなに無い。
ワールシュタットでの戦いの推移は※16の通り。
モンゴル軍は、元々数が少ないモンゴル出身の人間が死ぬのを異様に嫌がった事もあって、最前線では捕虜や支配地域から徴用してきた兵隊が歩兵として最前線を張って、それを後ろから督戦隊とかいう鬼畜部隊が監視していた。
督戦隊は逃げる味方絶対殺すマンとして機能したよ。
相手が囮でもある最前線の兵士に食いついたら本隊が安全なとこから攻撃したりして、出来る限りモンゴル人兵士の被害を減らして人口を補ったそうな。
あとスパイを多用した事もモンゴルの特徴だったりする。
面白い。
次回も期待してます。
※14
詳しく調べたわけじゃないから想像なんだけども、基本的に雨の日は弓が使いにくい。雨で威力とか飛距離が減衰するから。風が強い日とか、相手が見えない霧の日とかもそうね。
そういった天候のときは白兵戦がメインになると思うんだけど、それだと雨とか足元もぬかるんで踏ん張りもきかないし、足は遅くなるし、疲労も溜まりやすくなる。
基本的にこの時代は野戦では、雨の日は避けたんじゃなかろうか。
ただモンゴル軍は機動力の面で圧倒してるので、逃げられたらそれまで。疲れただけで終わるし、疲労の溜まった状態で次の日あたりに勝負しかけてこられたら終わる。
霧の日とかは戦えない事は無いんだろうけど、敵が見えないから指揮官は戦場を想像で把握してなきゃいけないんだけど、大抵の指揮官の想像以上にモンゴルの脚は速い。あっという間に囲まれて終わるんじゃなかろうか。
未来のバギーモヒカンが銃持っているようなもんだからな
遊牧民の絶対数は決まってるから兵力は増えないだろうな、占領した国は同じ技術を継承できないだろうし。
※20 スパイとかも活用してたのね、とりあえず目に入った国は全部俺のもの的な感じの脳筋国家と思ってた
もちろん「全部俺のもの」にするためのスパイだよ。
行商や外交使節が軍備調べたり他国の王宮事情調べたりしたそうな
新・三大〇〇みたいだ
遊牧民って記録を残すって文化が殆ど無いからな
銃が台頭してくるまでは二千年以上敵無しだったとか
しかし一所に留まる気がないので長期に及ぶ王朝は創られず
結果いつまでたっても蛮族扱いされるのであった
和弓厨には悪いが、普通に遊牧民の複合弓の方がはるかに高性能だぞ。
主に矢の長さ的な意味で。
弓なのに矢の話をするとは、、、ところで遊牧民が使っていた複合弓は湿気に弱いらしいな。まぁ、場所に応じて強さが変わるなんて今に始まった話じゃないかw
弓なんだから矢の話して当たり前じゃないですかね。そして前の記事くらい読んで来いとしか言えない
重箱の隅をつつくようだけど
>>11世紀、モンゴル帝国は、ユーラシア大陸全土を支配する勢いで、領土を拡張していきました。
領土拡大されてく画像を見ると、これって13世紀なのでは?
更新キター
相変わらず面白いです。
続きも期待して待ってます
でも鎌倉武士団にボロ負けしたやん?
おもしろい、つづきはよ
面白かったです。更新ありがとう。
ワールシュタットの意味は知らなかったので勉強になりました。
戦車と野砲みたいな関係だからな
勝てるはずもないチートユニット
※34
騎馬民族じゃない奴らがほとんどだったし
日本の方も数はともかく精鋭は騎乗しながら長弓を使う変態だし
これだけの大帝国の末裔がロシア帝国に苛められ、各地のハン国は消滅しまくり、
今ではロシアと中国に挟まれた緩衝地帯に過ぎないのがなあ・・・
日本海があって良かった
※38
ショッギョムッジョ
モンゴル騎兵のヤバさは現代で言うと戦車が音速で飛び回ってるようなもの
とか誰かが言ってた
※30
矢の長さを無視できないぞ。
初速/重量/所持個数/生産性/貫通力/再利用不可能/静音性/射程距離
全てに影響するんだよ。
だてに弓道の秘伝に「管矢」という技があるわけじゃないんだよ。
和弓(というか弓道全体)が早々に精神修行面に移行しちゃったから
実戦タイプの技が死滅状態だけど。
ゲームの話になるけどFEでも遊牧民/遊牧騎兵は機動力あって早いから追撃も楽々と強クラスだったなぁと思い出す
初めまして、記事を拝見させていただきました!え?なにこのサイトおもしろwwwwと子供のように夢中になり、過去半年の記事を読ませてもらいました!管理人さん、更新楽しみに待ってますね(^ ^)
中国の匈奴には、藤甲兵と呼ばれる兵がいたと風の噂で聞きました。藁を油で固めそれを纏い、弓を無力化するらしいのですが、ありゃ一体どんな原理なのでしょうか
※14 ※22
弓はそもそも基本的に雨に弱いのだが、加えてこの時代の複合弓は異なる素材を膠で接着したものが多く、水によって膠が剥がれてくるという弱点があるため、基本的に雨中での戦闘を避ける
※45
藤甲兵自体が眉唾物の伝承だが、鎧に油を塗ること自体は多湿な地域で水分を含まぬための工夫であったとは推察できる
しかし弓を無力化するというのは現実的には考えにくい
スリングも頼む
『始皇帝が、「自分の支配が及ぶ空間はここが限界なのだ」と認めた証。』っての
蒼天航路で曹操が同じような事言ってたな。
蒼天航路オリジナルなのか、割とよくある言い回しなのか。
和弓は矢がちょっとした槍レベルに長大だから大きさの割に飛距離が無い。
が、その分威力が高い。物体の衝力は質量×速さの自乗だから矢が重いほど威力が増す。
流鏑馬より実践的とされた笠懸の射程(15m)での和弓の威力は、普通の鎧(鉄板の厚さ1ミリ以上2ミリ未満)を10㎝貫通するという。
日本に海と山があるのが
つくづく幸運だったと思いますまる
新しい記事キタキタキタキタキタキタキターー
記事楽しく読ませてもらってます
やるお、やらないおシリーズが廃れてからこういう歴史物世界史物を面白く読めるリンクが減って残念
当時の気象変動がモンゴル高原遊牧民の騎馬数増産に有利に働き、それ以外の地域には生産力の低下に繋がり疲弊していたのも大きいが、間諜を使いまくっていたとするなら、チャンスをずっと狙っていたのだろうか…
弓の話だから騎馬民族の勝因がちょっと大雑把だな
モンゴル帝国版図拡大にはゲルという移動式の家を用いて
町ごと移動することによる兵站面での有利や千戸長などの
部隊編成の先進性も一言でいいから触れないと全部弓騎兵
のおかげで勝ったように思えてしまう
並の人間なら、自己顕示欲満々の蛇足コメ失礼補足コメを気にして
ついつい情報量を増やしてゆき徐々に記事のインパクトを失っていくものだが、
管理人の場合、そのあたり何の迷いもなく
飄々と余分な情報を切り捨て、相変わらず魅力的な世界を維持し続けている。
エンターテインメントのなんたるかを心得ていて
そのスタンスは、ある意味素人離れしている。
・・・実はプロでしょ?
インドやベトナムはなんでおとせなかったんかな
更新乙
相変わらず面白いな
パルティアのある頃よりもっと前から
パルティアンショットに似た戦い方はあったが
上手くこれをやられたらまともな対策できないまま
モンゴル帝国の時代まできたんだよね
それだけ強力であり毎回上手くできるほど簡単な戦い方ではなかったんだけど
弓騎兵というか、騎馬民族の軽騎兵の強さは非戦闘時には部隊がそのまま輜重部隊になれるって事もある。
進軍速度が牛やロバの部隊と、馬の部隊では軍の展開速度が段違いだし、有利な戦場を押さえやすいって言う利点もある。
逃げながらの後方に弓を放つってすげー理に適ってるよな
相変わらずまとめ方がうまいわ
コメント欄も上手く機能してるのが好きだわ
中国人から見て、モンゴル高原の騎馬民族の特色を示す言葉として
「胡服騎射」という言葉がある。
「騎射」は説明は要らないだろう。
「胡服」とは外国(野蛮)人の服という意味である。
当時の中国人の服は弓を引くのに適していなかったのに対して
匈奴などの騎馬民族は弓を引きやすい服装であった。
要は、騎馬民族と漢民族では、軍装の時点から弓の引きやすさに差が出ていた。
それを知っていた戦国時代の趙の武霊王は、「胡服騎射」を導入した精鋭軍団を作り成果を挙げた。
しかし、その軍団の団長に任命された趙の王子は、文化的アレルギーから
野蛮人である胡服など着たくないと泣いたほどで、武霊王が死んで後は胡服騎射は廃止された。
こうして、騎馬民族の戦闘スタイルは他国に定着される機会を逸し、
しばらくそのアドバンテージを維持することとなる。
ステップ草原地帯はほとんど雨降らないしね
複合弓が最も真価を発揮するステージだよね
あとはモヒの戦いなんかで発揮されたけど、イスラムの回回砲(トレビュシェット)や中国の火器(火槍や火薬爆弾)が、騎兵と組み合わされて前線に投入されて活躍している
騎兵は機動力を生かした戦略戦術が基本で、敵陣の側面包囲や偽装撤退と伏兵側面攻撃は、軽騎兵擁する練度の高い騎兵軍団ならどこもやってるんじゃない、しょぼい大将や運が悪かったりするとそれで壊滅寸前までやられることもある
※43
FEの弓騎兵が強いのはダース単位でそろえてくる敵の話だぞ
味方の弓騎兵は軒並みザコ
ちなみに三国志では弓騎兵が重装弩兵に完敗している。
袁紹と公孫サンによる界橋の戦いね。
遊牧民の複合弓は小型で馬上で扱いやすいが、弩に比べて射程と威力で劣るので、防御を固められた上で長射程の弩の矢を撃ち込まれると四散するしかなかった。
モンゴル軍も槍を持った宋の騎兵の影響を受けた重装騎兵の戦列の合間から弓騎兵が飛び出して矢を射掛け、また重装騎兵の後方へ隠れるという戦術で騎士たちを圧倒している。
※45
藤甲兵は三国志演義の南蛮討伐に出て来る南蛮の兵。
人間離れした容姿の兀突骨に率いられている。
もちろん架空の存在だけど、動物の皮をなめして革にして、更に茹でたりロウを加えたりして強度を高めたハードレザーアーマーに影響を受けた可能性はある。
薄いペラペラな動物の皮が加工する事で硬く鉄製の剣ならある程度防げるようになるのだから、演義の作者には良いネタになったろう。
※56
ベトナムは、長年争っていた北部の陳朝と中・南部のチャンパー王国が協力したこと、
最終的に陳朝軍が罠をはって待ち構える紅河に突入することになった。
日本の元寇もだが、海を隔てた遠征だとモンゴル騎兵はほとんど来なくて、旧金・宋・高麗の兵ばかりだし。
なお、海路で来たベトナムは撃退に成功したが、雲南経由の陸路で攻め込まれたミャンマーのバガン朝は滅ぼされてる。バガンの場合は歴代王や貴族が極端な寺院建設競争にはまりこんでいたので、海陸だけの問題じゃないけど。
このモンゴルの戦い方が仇となり
日本に襲来した際
武士にボコボコにされ
台風のとどめを刺され全滅
武士に夜襲をかけられ
船上での近接戦闘にもちこまれ
為す術なくただ切られまくられる始末
だだっ広い大陸だからできる戦術
デニム「出撃メンバーは全員弓を装備!」
ヴァイス「冗談じゃねぇ、オレは両手にタワーシールドだ!」
カチュア「勝手に装備を変えないでよ!!」
レオナール「すまないが、それは無理だ」
オゴデイの逝去による撤退がなければモンゴルはどこまで広げたのか
フランス、オーストリア、神聖ローマ、イタリア半島諸国はモンゴルに負けそう
島のブリテンとバルト海から戦うだろうスカンジナビアのスウェーデンとノルウェーはあまり攻められず生き残りそう
イベリア半島はわからん
教皇はサルデーニャかコルシカ与えられて生き延びそう
すいません、不躾かもしれませんが
ほかにこのサイトのように素晴らしい雑学を細かくかつ面白く解説解説してくれているサイトは無いでしょうか
更新が待ちきれないです。
Mount&Bladeのカーギットを思い出したわ。
追い掛けても逃げるから、とりあえず馬を狙って潰すのが一番有効だったな。
コメント欄の皆さんの補足も勉強になります!!
管理人さんだけではカバーしきれない箇所を、上手くフォローしていて、いい感じですね。
2万の白鵬や朝青龍に勝てるわけがない
元寇ガーって喚いている知恵遅れが何匹かいるね
知識が無いのなら書き込む前にググる癖を身に付けようよ
やはり遠距離攻撃は最強…とまでは言わないが最高だ
遊牧民強いと聞いてFE封印の剣が思いついた
移動しながら後方へ射撃できるんだからチートだよな
元寇で鎌倉武士団がモンゴルに勝利出来たのは、日本が海を隔てた島国だったからだろうな。
地続きなら蹂躙されていそう。
流鏑馬は戦場の技術ではなかったんだよね、道の一種というか。
一騎打ちが基本的な戦い方だと聞いたような気もする。
※63
封印のスーとシンをご存知でない?
海外の某ドラマで片箭(ピョンジョン・へんせん)なる弓が出てたけど、架空かなって思うぐらい見ないな。
読みやすくて楽しい!
又吉さんに負けてないかも!
これからも更新頑張って下さい(^^)
楽しく読ませていただきました。
ただ秦の始皇帝による万里の長城なのに、相当後の時代である明の長城の写真が使われているところは突っ込みどころですね。
あとパルティアの成立と滅亡の年代もおかしいです。(BC247年~BC226年)
※80
それ日本の「管矢」の朝鮮版や。
起源をたどれば6世紀の中東遊牧民で、原理としては弩と一緒。
同じような武器は
トルコのmajra
ビザンチンのsolenarion
中国の筒箭/筒射
日本の管矢
朝鮮の片箭
etc…
弩は人が引けない強さで矢を飛ばす破壊力が目的だけど
これは射程を伸ばすために使用されて、
イングランドのロングボウの射程距離が300~500m
日本の和弓が射程距離が400~500mに対し、
この方式を使うと800m~1200mまで伸びる。
矢が長いとその分影響を受けるから
命中率が下がるけど、小型の矢を使用できるから命中率もかなり高め。
さらに、重量が減ったので発射速度が異常に伸びて
複合弓の一般的な矢の速度が秒速60Km前後だか、この方式で射つと秒速72Km前後になる。現代のアーチェリーより早い。
矢が小さく、早いので、見てからなぎ払えない。
重量が減った分の破壊力を増えた速度のエネルギーで補っているし、
放たれた後に矢が揺れる事によるエネルギー損失も少ないから
貫通力は変わらないどころか、長い矢より破壊力が高い。
この武器が知られていない理由は、「熟練度が半端無く必要」だからに尽きる
※84の補足
1200mまで出るには熟練度や風などの条件が厳しく、
実戦での有効射程(狙い通りの的に当てられるか)は一般的な弓と同じく500m前後。
射てば当たる状態で、狙いを付ける必要のない弾幕戦の場合、殺傷能力が維持される0~800mまでが現実的な限界。
800m以上は貫通力の喪失されているから、武具を着けない暗殺用。
多分例の半島を領土化したのが運のツキだったな……
機動力 X 攻撃力=機動戦士(元祖)
おや、サイトのデザインが変わっている
いつの間に
設定お疲れ様でした(^ ^)
いつも楽しみに読ませていただいています!
すいません、何故か携帯から閲覧しようとしたら404になるのですが。
相変わらず面白いなぁ。
更新お疲れ様です。
※90
直りましたでしょうか?
おもしれええええ
※85
距離800ⅿじゃどこに飛んでいくか分からないから、結局は大量に射掛けることになるんじゃ……
それを暗殺に使うってことは、大勢の暗殺者が無数の矢を撃って標的を暗殺したということなのか?
それとも、その気になれば弓で800ⅿを当てた名人がいたってことなのか?
コメ欄の和弓厨がちょっときもいこと以外は最高のサイト
500mとか800mとかwwしかも弾幕戦ってなんだよw映画の見すぎだっての。500m先の人間がどんだけ小さく見えるか試してみなよ。弓の現実的な射程はせいぜい100m以内だよ。矢だってそんな安くないし、当たるかわからん位置からぴょんぴょん投げ捨てるように使ってたら一瞬で無くなるよ。
管矢が普及しなかったのはたいして使えなかったからだよ。摩擦で減衰するし、矢が小さくて軽かろうが管の分の重量が射撃の際余分にかかって意味ないし、何よりまずブレまくって当たらない。
※95
和牛でも洋弓でも400mは飛ばせたけど?
※92
重ね重ねすいません。404は表示されなくなったのですが、PC用のサイトを無理矢理ガラケーで閲覧しているような状態です。携帯用のページに変換されていないと言いますか。無理そうならファイルシークから閲覧するようにします。
矢が届くのと有効射程は別です。例えばライフル銃を迫撃砲みたいに上に向けて銃弾の雨みたいなことやんないでしょ。銃の弾より少ない矢でそんな使い方できませんよ。
がそんな民族も日本には勝てなかった模様
日本海と山岳地帯と災害の猛威の中では得意の戦術は全く威力を発揮できなかった
そしてそんな環境で戦いを続けてきた武士も人外の集団であった
※98
こういうのがきもいんだよなあ・・・
誰もそんな話してねえっつーのにそんなに日本を流れ無視して褒められても、あっそうとしか
そりゃ武器ってのは環境に適応したものになるに決まってるわけで
たとえば10式戦車なんかは日本で戦うには最強クラスの第五世代戦車と言われてる
国内での陸戦では10式強いからそう簡単にはやられないよーって話してるときにロシア侵攻時、相手の焦土作戦に対抗できるの?できないじゃん 10式とかゴミ とか言い出すようなもんだぞ
※99
急にどうした?
元寇の実態は
支那軍+朝鮮軍vs日本(主に九州の武士)なんだけどね
軍の構成は支那軍(江南+漢族)が7割、
朝鮮軍(高麗人)が2割、
残りの一割が蒙古軍+少数民族連合軍だよ
モンゴルの遊牧民が無双できたのは弓より馬術のほうが影響が大きい。ヒット&アウェイは考えるのは容易だが実現するのは非常に困難で、さらに多数で連携して動きを合わせるのは至難の業で非常に高い操馬術が要求されるので、遊牧民として馬と共に育ってきたからこそできた事だ。
複合弓に多大な盲信をかけてる粘着質な奴がいるからたたかれるだろうが、トルコ弓やモンゴル弓が優れていたのは大きさの割に高い張力と長い引きがあったとゆうことで、他の弓と格段の差があったわけじゃない。そもそも弩以外の弓は使い手の腕力で引くわけだから、最高値はその人次第とゆうことになる。単純に威力を求めるならイギリスのロングボウや和弓のような長弓の方が強いし、躁馬しながらそんな強力な弓なんか引けないわけで、ほどほどな程度におさえてる。
遊牧民国家の面白いとこはさ
モンゴル以前にもたくさんの大領域国家みたいなのが現れてるのに、それが衰退したらその地域の政治勢力がまるごと「消滅」してしまうことなんだよね。
農耕民の国家だったら、小さな領域に無数の政治集団が乱立したりしながらも、まがりなりにも継続的に歴史は続いていく。
けれど遊牧民国家は、国家としてまとまっておく旨みが無いと判断されると、地図上ではまるで無人の地として表記せざるを得ないような状態になる。むろん遊牧民たちの暮らしはずっと続いているのにね。
人は必ずしも国家に暮らさなければならないわけではない、ということを理解しているのだと思う。だからこそ、国家を形成するメリットがあると判断すればものすごい勢いで騎馬の戦士たちが結集する。つい昨日まで酒のんで羊眺めてたようなおっさんたちが、世界最強最大の騎馬弓兵軍団に早変わりしてしまうわけだ。
蒙古高原統一時、チンギス・ハンのもとには数万から十万規模の騎馬軍団があったという話で、こんなのは近代以前の国家としてはふつうあり得ない規模の軍団。それを集めるだけのメリットを提示できた指導者としてチンギス・ハンを評価してみると、ちょっと面白い見方ができるかもしれない。
馬が戦力、移動手段であると共に食糧にもなる。
結果論になるがこれ程、戦いに特化した生活様式もないだろう。
1人で最低5頭は馬を連れるってのも最高。
和弓も複合弓なんですが・・・
FE脳「弓騎兵弱えぇぇぇぇ」
俺です
確かに一撃離脱と引き撃ちの組み合わせは強い
零戦もそれでやられた
面白いとこ発見、楽しみに見てます
アッティラの侵攻はゲルマン民族が戦闘体勢整える前に突然現れて、気づいた頃には無数の屍と敵の姿が無かったそうで平地戦では無類の強さだったそうだけど攻城戦は征服した現地兵に行なわせていたから精鋭を失う事なく続けられたと
予備馬について。
満洲族の金王朝では、騎兵1に対し、予備馬3、4頭。
モンゴル騎兵は、予備馬7、8頭。騎馬を疲れさせずに長距離を移動できる。
戦いが不利なら、勝ち負けに執着せずに撤退する。撤退は恥ではない。
上に立つ王や高級幹部は、とても気前がよい。気前がよいから王になれる。たとえ降伏した敵兵だった者でも、手柄を立てれば、奴隷身分が解放され、莫大な報賞金や若い女性をくれる。略奪も可。すぐれた兵器、武器を発明あるいは改良すれば、これもたいへんな金額の報賞金をくれる。現代ならば数十億円とかふつう。
元寇の時期のモンゴル弓は和弓より威力射程では劣るって実験結果もあるけどな
長弓すら超えるくらい強いのは19世紀とかのトルコ弓でしょ
形は中世の短弓と一緒だからごっちゃにされてる
19世紀って・・おま、トルコ弓を下に見過ぎでしょ。
※100
ちょっと機嫌が悪かったんだ
すまんね
名前を広めて全国制覇を主張するため『愛媛県今治市 バイクの中島』と印刷された十円玉を全国に広めて暴走していたところ、、
裏切りによって『愛媛県今治市波止浜169 中島大士』という十円玉を広められてしまいました。
最終的には、全国制覇の落書きをした『恒心教大師 中島大士』として有名になってしまいました。
また、調子に乗って元関東連合の皆様のご家族に重大な危害を加えると宣言したことも反省しています。
あとついでに、暴力団関係者の皆様のご家族に重大な危害を加えると宣言したことも反省しています。
反省している証拠として、『中島大士』という名前が印刷されたナカシマタイシコインを買い取りたいと思っています。
つきましては愛媛県今治市波止浜169まで持ってきて頂ければ、1枚1万円で買い取らせていただきます。
この情報はどんどん拡散してください。よろしくお願いします。
>>31
>>42
それって弓の性能じゃなくて矢の性能の話だろw
※116
銃の話をする時に口径や使用する弾丸について語らないの?
※117
銃は撃てる弾丸が決まってるけど弓はそうじゃないぞ
矢も大事だがあくまでメインは弓では?
※118
弓も、弓と矢2つセット揃って初めて武器としての性能を語れるって物だよ。
さらにその武器の目的と用途を考慮しなければならない。
まず、日本では合成弓を製造する能力を持ち得なかったし、
合成弓を使用するメリットより、製造コストと維持コストの方が高かった。
ゆえに弓の大きさによって張力を得るんだけど、
弓が大きくなれば当然、引ける矢も長い矢に限定されていく。
室町時代以降、戦ではより遠くから弓を撃つ事を至高とする風潮が出来て、
長距離でも威力と正確さを維持できる重さを持つ長い矢が有効的になる。
さらに、より長距離での命中率を高めるために
著しく上下非対称の形にすることで少し斜め上方向に飛ぶように改良し、
敵をまっすぐ狙って撃っても当たるようにした。
弓の種類ごとに使用できる矢も違う。
和弓は例えるならスナイパーライフルで
合成弓はアサルトライフル。
両方共、素人が見たら銃だけど
その用途も目的も違うし、使用する弾丸も違うように
弓だって
用途(どのような戦い方)と目的(何の効果を期待されているか)
どのような矢を使用するかもそれぞれ違うのに
なぜか、ミリヲタと弓道の人はみんな一緒くたにして、
長距離をより正確に狙えて、威力を出せる和弓を世界で最も優れた弓のように宣伝するから
するから話がややこしくなるんだよ。
長い矢の短所は、
再射出までの時間がより長い。
初速がより遅い。
射出後の矢の泳ぐ時の揺れ幅が大きく、エネルギー損失がより大きい。
長所は
初速が遅いので、空気抵抗による減速がより少ない。
重量ゆえに風の影響をより受けにくい。
重量ゆえに重力によって、長距離でも威力を維持できる。
短い矢はその速さによって威力を出しているけど、
空気抵抗も速さに比例して増加し、急激に減速していく。
長距離になると本来のスピードは失われ、
その軽さゆえに風の影響も受けやすく、
重力の影響もより軽いため、威力を維持するのが困難。
射程距離自体は短い矢が長いけど、
有効射程距離(狙い通りの場所に、期待された威力で届く距離)の長さは長い矢の方が断然長い。
こんなとこであんまりゲームの話したかないけどお前らFEの弓騎兵弱い弱いと言い過ぎ
他はともかく遊牧民は速いわ移動高いわ騎馬ナイト特効も受けないわでアーチャーの居場所奪うレベルの強さだろが
※119
なるほどね
※112
弓は速射性も重要ですから、
威力は相手を殺傷できればそれで十分で、
モンゴルだったら射程の差は騎乗技術の差で埋められますからね。
そうなると敵よりも多く攻撃が繰り出せる速射性の勝負になってきます。
最も元寇時は得意の騎兵は運用できなかったようですから、
そこも敗因の原因となった理由の一つでしょうね。
モンゴル強すぎだろ、逆にどうやったら大陸でモンゴルに勝てるんだよw
馬の入れない地形を作って無理やり白兵戦に持ち込むとかか?
そりゃあ、日本とベトナムは其々、呉族と越族が祖ですからな。
呉の国は夫差王の時に越王の勾践に滅ぼされたが。
生き残りの将兵は海に船で逃げたんだぜ?
皇紀2600年とか言ってたが、あれ、一年が330日で構成されてる旧暦だからね。
たから、小型船多数による迂回挟撃とか、海上ゲリラ戦は、得意中得意ベトナムは湿地帯に嵌め込んで移動の自由を奪って撃滅したそうだ。
ん?
「複合弓」について見ていきたいと思います。
で記事が終わってるんだけど…
続きはどこや
モンゴル騎兵を過大評価しすぎである。
まずモンゴル騎兵は鈍足である。モンゴルの馬は体高130cm程度しかない。これは我々が目にする現代の馬の体高170cmに大きく劣る。体高147cm以下の馬はポニーに属する。小さく足の短いポニー跨って走り回ったところで機動力など持つはずはない。まして槍を持って突撃したところで運動エネルギーが小さく衝力はほとんどないので敵の脅威にはならないのだ。
また、揺れる馬上で狙いを定めて正確な射撃ができるはずもなく、モンゴル軍の騎射は精々敵に対する脅しや牽制にしかならないのである。さらにモンゴル軍の騎射には右方向に対する射撃ができないという決定的な弱点があり、敵に右から攻撃されると何もすることが出来ず一方的に屠られることになった。
パルティアンショットにしても過大評価で、逃げながら戦闘するということは、人馬のどちらかが負傷して、友軍から脱落すると追撃してきた敵に確実に殺害されることになる、一方の追撃する側は、人馬が負傷してもそこに敵は逃げ去っているので、生還することが可能である。即ち逃げる側よりも追う側のほうが有利であるということだ。このように戦法のメリットばかりでなくデメリットにも目を向け真実を追求しなければならないのに、ここの住民は極度の盲目なため真実が見えなくなっている。
このようにあらゆる真実に目をむけてこそ一流の戦史研究家と言えるようになる。
ここの住人はそういう意味で全くのドシロウトレベルと言わざるを得ない。
もっと勉強してドシロウトレベルから脱却せよと言いたい。
何か最後にすごいのが沸いてて驚いた
モンゴル馬の体高が低かったとして、当時何処の国も現代のサラブレッド並の馬なんてそうそう居なかったのではないのでしょうか?
右方向に対する射撃の弱点にしても、そういった点も踏まえて自軍が有利になるよう持ち前の機動力を以て戦地に布陣したとは考えられませんか?
パルティアンショットの弱点も、前哨戦で負傷した兵が必ず死のうが大勢には影響しないと思いませんか?
百人死んでも後から一万人殺せば勝ちですからね
何やらご高尚な考えがお有りな様ですが、当時の旧大陸の25%を征服したという事実を全く無視したような物言いには賛同できません
失礼かもしれませんが、当時モンゴル軍にあっという間に飲み込まれた弱小国の無能指揮官のようなイメージがしますね
騎射はモンゴル人などの遊牧民族だけが行なっているものではない。西ヨーロッパは例外的に騎射の風習が希薄であったが、中国であれ、日本であれ、中東であれ、東ヨーロッパであれ、騎乗文化のある国々や民族ならほとんど騎射を行っていた。このためモンゴル人などの遊牧民族が逃げながらパルティアンショットを行ったところで、追撃する側も弓で攻撃するのであり、一方的に攻撃できるわけはない。むしろ双方が射撃戦を行った場合、脱落者が屠られるのが逃げる側である以上、逃げる側の方が損耗する。後でもっと多く殺せるなどという保障はどこにもない。したがってモンゴル人などの遊牧民族がパルティアンショットで一方的な攻撃で優位に立ったなどということは例外的事例を除いて有り得ない。
そもそも実のところ、ホラズム・アッバース朝・ルース・南宋など、モンゴル帝国の征服活動において重要な局面は殆ど攻城戦である。攻城戦において馬に乗って城壁を超えることができるであろうか? 答えは否である。ここでは馬上の戦術など有効に活用することはできない。即ちパルティアンショットを含む騎射はモンゴル帝国拡大の重要要素ではないということだ。では実際に攻城戦で活躍したのはどのような人々であったかというと、襄陽の戦いでトレビュシェットを作成して勝利に大きく貢献したように、ペルシャ人などの非遊牧民であった。支配下に置いた非遊牧民の有効活用こそがモンゴル帝国拡大の重要要素であると結論づけるべきである。
右タウロス弱そう
※128
では何がモンゴルに勝利をもたらしたのかというと、騎馬軍が行う略奪だわな。
逆に遊牧民は深く攻め込まれてもテントを引き払って逃げる事が可能。
彼らは国土を奪いにくるというより侵略にくる。侵入しては現地の農村から略奪するので、迎え撃つ国々は篭城に必要な食料などを自国の農村からゲットできなくなって城を支える力が衰える。そこを攻められるとツライ。
普通の戦争なら、侵略して自分の国土にした時を考えて、敵国民だろうが農民は生かしておく必要があったが、遊牧民にはそんなの関係ねぇわな。どんどん現地調達する。
だから城ではなくそもそも国土に侵入させない長壁が防衛に必要になったわけで。
アーマードコアでいうとブレオンの重二で引き撃ちする軽二に立ち向かうようなもんか
>まして槍を持って突撃したところで運動エネルギーが小さく衝力はほとんどないので敵の脅威にはならないのだ。
動物のパワー舐めすぎじゃないかなあ
ある程度の大きさの動物と接したことあるんだろうか
『弓』と言う武器から見た歴史と戦術と言う意味では興味深いです。
遊牧民の騎射命中率が高くないとしても集団で1エリアに撃ち込めばそれなりの威力。
モンゴル帝国が強かったのは
・優れた技術や文化を取り入れる度量がある。
攻城兵器や文字・政治経済も取り入れている。
・移動国家である
首都はゲルやパオを使って集団形成してるだけで、戦場が移れば首都も移動する。
連絡体制は狼煙・騎馬・光を使い中継するリレー方式が全土に確立。
>180さんの言う通り、狩猟民族の基本は収奪。用が済めばさっさと引き上げ。防衛戦の必要が無いが敵は取り戻した土地の回復にどれだけの労力を使う事になるかと思えば悪夢。
司馬遷の『史記』の中でも匈奴問題が歴代王の課題だと記される。
読み物として興味深いので続きお願いします!
モンゴル信者キモいな。初期以外はどれもモンゴル人ほとんど参加してないぞ。むしろ元寇はかなりモンゴル人居る大派兵だったぞ
私は弓道弐段です 矢を100m飛ばすのは無理です 遠的60mで普通の畳を打ち抜けません 張力15kgの弓です
弓道は矢を上に撃たないでしょ
戦争では距離をとってるときは一斉に揃って斜め上に向けて撃って弧を書く軌道で敵をねらう。
弓道とはまったく別の方法。実戦で弓道のメソッドなんてまったく役に立たないのやっててわかるでしょ。
次回の長弓とクロスボウの回ってまだ?
日本の武士も元は大陸の遊牧民だったんですよ。
平安時代。当時はとても寒い時代でした。
なので東北に住む原住民は、大和に逃げて来ました。
そして東北には誰も住んでない状況になりました。
大和も米や作物が寒すぎて採れない東北に興味ありませんでした。
そこに大陸から遊牧民が入って来ました。
人が居なくなった東北には、野生の動物が溢れ遊牧する必要はありません。
それが武士の起源です。
日本刀も遊牧民が馬上で使う曲刀です。
武士は大小の刀を持ってますが、これにも意味があります。
日本は山地が多く移動には、雑木や草を切り払いながら進まねばなりません。
曲刀では切っ先が逃げるので、鉈代わりに二本持ってました。
遊牧民の武士(先祖)も複合弓を持ってたのですが、高温多湿の日本です。
膠が剥げて使えません。そこで生まれたのが和弓という独特の弓でした。
大和は最初、家族単位で動く武士達に脅威を抱く事もなく交易の相手として接しました。
しかし阿弖流為というリーダーが現れて、彼らをまとめると話しは別です。
交渉の内容も強気になり、いよいよ討伐する事になりました。
数に勝る大和には勝てません。
武士達は各地に分散され、底辺での生活を余儀なくされました。
中央では藤原氏が朝廷を食い潰し、下級官僚や地方官僚がリストラされました。
想像して下さい。
警察は有っても、交番にお巡りさんが居ない世界を。
武士達は野盗と化して、村を襲う様になりました。
これが深刻化しましたが、朝廷には新たに兵を養う金はありません。
そこで苦肉の策として、強力な武士に治安の維持を任せました。
世に知られる清和源氏の誕生です。
元々は流れ者の遊牧民を先祖に持つ、無法者達です。
朝廷は格好を付ける為に、出家した皇族で皇位継承に影響しない者を還俗させました。
その家を武士が形式的に継ぐ事で、何とか公の役職を与える事が出来ました。
なので足利家も武田家も、大和民族ではありません。
武士が権力を握る様になると、他の勢力も武士を名乗る様になりました。
有名なのは、古代氏族の流れを汲む地方役人の末裔である島津家。
藤原氏の一族で社家の織田家等です。
更に戦国時代で純粋な武士達が没落し、戦で武功を上げた豪農が武士になりました。
江戸時代には武士の境界が完全に曖昧になってしまいました。
日本人は自分達を武士だと思い込み、サムライジャパンと誇らしげに叫ぶ様になりました。
イタリア人がローマ帝国の末裔だと思い込んでるのと同じですね。
江戸時代には、武士のお家芸だったパルティアンショットも忘れ去られ、単なる役人になってしまいました。
武士が日本人でない事も。遥か昔に忘れ去られ、武士は日本人の代名詞になったのです。