こんにちは。
突然ですが、今回はユダヤ人についてです。
ユダヤ人の系譜
一般的に、ユダヤ人は古くから、差別・迫害されてきた苦難続きの民族とされています。
そんな彼らの歴史を少し見てみませんか。
BC19世紀〜出エジプト
旧約聖書によると、ユダヤ人の祖はもともとウル(今のイラク)に住んでおり、紀元前19世紀頃にカナン(今のパレスチナ)へと移住してきたとされています。
移住の理由は、YHVH(神様)から「カナンをあげるよ」と言われたから。
ケツの穴が小さい神様として有名。
しかし、紀元前17世紀頃にカナンで大規模な飢饉が発生し、ユダヤ人たちは食料を求めてエジプトに避難してきました。
そうしてなんとか食いつなぐ事は出来ましたが、エジプトでは奴隷扱い。
一応、400年間ほどは奴隷として頑張りましたが、ついに我慢の限界を迎えました。
そして彼らは有能な指導者の元、海を割るなどしてエジプト脱出に成功します。
海を割る元NRA会長
イスラエル王国の建国
エジプトを脱出したユダヤ人はもといたカナンに戻ろうとしますが、400年留守にしている間にカナンはペリシテ人とかいう民族のシマとなっていました。
そして、ユダヤ人vsペリシテ人の戦争が開幕。
ダビデ王(ユダヤ人)と、巨人ゴリアテ(ペリシテ人)。投石器最強。
血で血を洗う死闘を経て、紀元前10世紀にやっとの事でイスラエル王国を建国することに成功しました。
イスラエル王国の象徴、「エルサレム神殿」
しかし、せっかく建国した王国も、内紛によってたったの60年で南北に分裂。
北の方は、紀元前721年にアッシリア帝国に攻められて滅亡してしまします。
南の方は、この時はジャンピング土下座と貢ぎ物で見逃してもらいますが、結局、紀元前586年にバビロニアに滅ぼされてしまいました。
バビロニアに征服されたユダヤ人は、バビロンへと強制移住させられます。
バビロン捕囚
移住後まもなく、バビロニアはペルシャに滅ぼされます。
晴れて自由の身となったユダヤ人でしたが、実際には彼らはバビロンで結構いい生活をしていたため、ほとんどがバビロニアに残留。
故郷へ戻ったのはせいぜい2割程度だったと言われています。
この時イスラエルに戻った人々が、旧約聖書をまとめ、ユダヤ教を確立させたようです。
属国として
この時代、中東の支配者は目まぐるしく変わっていきました。
しかし、いずれの時代も属国ではありつつ、イスラエルの地で一応の自治を保っていました。
そんな中、ローマ帝国時代は、ユダヤ人にとって2つの大きな出来事がありました。
まず一つは、キリストの殺害。
紀元後30年頃、「自分はユダヤの王である」などと嘯く目障りな男だったナザレのイエス(※同じユダヤ人)を謀略により死刑に追い込みました。
この出来事は、2000年経った今でも、キリスト教徒からの差別の根本的な原因なのであります。
もう一つは、ローマ帝国への二度の反乱です。
ユダヤ人たちは、過酷な課税や宗教的価値観の相違から、紀元後66年に反乱を起こして失敗。
反乱後、ユダヤ人への締め付けがキツくなったため、紀元後132年にもう一度反乱を起こしますが、やっぱり失敗。
無慈悲に殺されるユダヤ人
二度の反乱の結果、ユダヤ人は激しい弾圧を受けます。
まず、イスラエルにおける自治権は廃止。
それどころか、地名自体も「パレスチナ」(かつてユダヤ人が追い出したペリシテ人の土地という意味)へと変えられるという屈辱。
さらに、膨大な数のユダヤ人が奴隷として売却され、人間奴隷の価格が馬と同じくらいまで暴落。
こうした弾圧の結果、ユダヤ人はローマ帝国を離れ、それぞれがヨーロッパ各地やアラビア方面へと離散していったのです。
なお、中にはパレスチナに残ったユダヤ人もいて、彼らはイスラム教徒に改宗し、パレスチナ人となっていった模様。
ここまで、ユダヤ人が全然まとまりのない民族でワロタw
離散後のユダヤ人
4世紀以降、ヨーロッパ中にキリスト教が急速に広まっていった事から、「キリスト様を殺した民族」として、ユダヤ人は差別され続けました。
特に、職業面での制約は大きく、
・土地所有の禁止→農業NG
・商工業ギルドからの締め出し→商工業NG
という感じ。
となると、ものづくりや、地元に根ざした商売はまず無理です。
その結果、ユダヤ人は「金融」や「行商」、「芸能」といった職業に就くようになったのです。
その中でも、ユダヤ人の代名詞となったのが、「高利貸し」。
いつの時代も消費者金融は儲かるもの。
一部のユダヤ人は被差別民族であるにも関わらず、やたら裕福になり、ますます人々から嫌われていったのであります。
そしてアメリカへ
コロンブスの支援者
コロンブスが結果として新大陸(アメリカ)に到達した事はよく知られています。
しかし、その航海をバックアップしたのがユダヤ人であるという事実はあまり知られていません。
南米で畜生に畜生を重ねた畜生
当初、コロンブスが「西回りでインドに向かう」という計画をプレゼンした際、スペインのイザベラ女王は全く乗り気ではありませんでした。
その女王を説得したのが、お隣のアラゴン王国で財務大臣をやっていたルイス・デ・サンタンヘルというユダヤ人(キリスト教に改宗済)でした。
ルイス・デ・サンタンヘル
当時のスペインは、ガチガチのカトリック国。国内では異端審問によって多くのユダヤ人が苦しめられていました。
さらには、1492年3月31日に「ユダヤ人追放令」なる法令も発布され、ユダヤ人は改宗するかさもなくば国外追放されるという状況でした。
そこで、サンタンヘルは、コロンブスを使ってユダヤ人にとっての新天地を見つけ出そうと考えたのです。
コロンブス自身がユダヤ人だったかどうかは今となっては知る由もありません。
が、サンタンヘルの思惑は見事にはまり、コロンブスは見事に新大陸を「発見」。そして、スペインやボルトガルのユダヤ人は、少しずつ南米へと移住していきました。
初期のユダヤ系アメリカ人
発見当初の南米には、差別も既得権もありません。
鉄すら知らない原住民と、まだ誰も手をつけていない商売のタネがあるのみでした。
結果、初期に新大陸へ渡ったスペイン系やポルトガル系のユダヤ人は、スズや銅、鉄といった資源開発や、タバコの栽培、そして奴隷貿易などで巨万の富を築くこととなります。
しかし、南米でのビジネスが美味しい事は、間も無く他のキリスト教徒にバレます。
そうした後続のキリスト教徒に押しやられる形で、彼らユダヤ人は北米へと拠点を移していきました。
その頃にはオランダやイギリスからも北米へと移住するユダヤ人が増え、その多くが相当な成功を収めました。
当時のニューヨーク。のどか。
北米でのユダヤ人たちは、献金や地域活動への参加、キリスト教への改宗などを積極的に行い、社会の一員として溶け込む努力を惜しみませんでした。
1775年に勃発したイギリス本国との独立戦争においても、戦費の調達でかなりの貢献をしています。中には貸し付けた戦費が返済されず、破産したユダヤ人もいたとか。
こうした貢献の結果、アメリカにおけるユダヤ人の地位はある程度向上し、少なくとも「ユダヤ人だから」というだけの理由で権利が制限されるような事はなくなりました。
もっとも、民間レベルではやっぱりかなりの差別はありました。ヨーロッパと同じように、社交界からはハブられ、業界団体からは干されました。
しかし、アメリカは新しい国であり、既得権益的なものは少ない。
己のやる気と才覚さえあれば、成功するチャンスは十分にあったのです。
1775年時点のユダヤ系アメリカ人は、たったの2千人。
ドイツ系ユダヤ人
こうしてアメリカは、ユダヤ人にとってヨーロッパよりよっぽど暮らしやすい国となりました。
1830年代あたりからは、ドイツ系ユダヤ人が大量に移住し始めます。
彼らの多くは何も持たずにアメリカへ渡ってきましたが、行商で資金を集め、未開拓の分野へと進出していきます。
特に、金融業、繊維業、小売業への進出は目覚ましいものがありました。
例えば、ゴールドマン・サックス。ここの創業者はドイツ系ユダヤ人で、行商で貯めたお金で手形仲介業を起こしたのがはじまりです。
ジーンズを発明したリーヴァイ・ストラウスもドイツ系ユダヤ人。元は織物の卸売からスタートしました。
また小売業で言えば、アメリカの百貨店のおよそ3/4は、ドイツ系ユダヤ人の個人商店から発展したものだったりします。
なお、1870年時点でのユダヤ系アメリカ人は、けっこう増えて20万人。
東欧系ユダヤ人
1880年代に入ると、ロシアを中心に「ポグロム」と呼ばれる大規模なユダヤ人虐殺が盛んに行われるようになりました。
この結果、大量の避難民がアメリカへ殺到することとなります。
この東欧系ユダヤ人は商人というよりむしろ難民。
アメリカ全土のスラムにユダヤ人貧民街を形成するようになりました。
ロシア系ユダヤ人。この人相w
ニューヨークのユダヤ人街
この時、アメリカにおいても、鳴りを潜めていたユダヤ人蔑視の風潮が再燃しかかります。
東欧系ユダヤ人が幸運だったのは、既にアメリカには成功を収めた多くの同胞がいた事です。
先住のユダヤ人達も、内心はウザイと思っていましたが、彼らのせいで、自分達まで再び迫害されてはたまりません。
そこで、先住ユダヤ人たちは、職業の斡旋、教育機会の提供、慈善団体の立ち上げなど、東欧系ユダヤ人を全力でバックアップしたのであります。
元々ユダヤ人経営者が多かった繊維業界などは、その従業員もほとんどユダヤ人が占めるようになりました。
また、細々とした廃品回収に端を発する産廃処理業界やスクラップ業界も、この東欧系ユダヤ人が独占。
元手が殆ど必要なく、専門知識もあまり必要なかった不動産仲介業なんかも、東欧系ユダヤ人が進出しやすい業界でした。
こうした流れが続いた結果、20世紀初頭には、アメリカは世界で一番ユダヤ人の多い国となりました。
さすがにヤバいと感じたアメリカは1924年に移民法を制定。無秩序な移民の流入に制限をかけました。
なお、1924年時点でのユダヤ系アメリカ人は、爆発的に増えて280万人。
最強のロビー団体
はい。
というわけで、ところどころ端折りつつ、ユダヤ人がアメリカへ渡ってくるまでのだいたい流れを見てきました。
要は、ユダヤ人はあちこちで迫害された結果、アメリカに集まってきたわけですね。
そんなユダヤ人が誇る最強のロビー団体が、「アメリカ・イスラエル公共問題委員会」です。
通称「AIPAC(TheAmericanIsraelPublicAffairsCommittee)」。
「アメリカ議会はイスラエル・ロビーに牛耳られている。」
「イスラエル・ロビーがイラク戦争を始めさせた。」
「9.11は自作自演。その黒幕こそ、イスラエル・ロビーである。」
こんな具合に、虚実定かならぬ噂が飛び交っています。
実際、2003年のイラク戦争開戦時、ある下院議員が「在米ユダヤ人社会の強烈な後押しがなかったら、こんな戦争始めてないよ」などと発言して物議を醸しました(のちに謝罪)。
また、引退間際の上院議員が「アメリカはイスラエルのためにイラク戦争を始めた」と発言したこともありました。
こうした発言から、アメリカの中東戦略は、ユダヤ系アメリカ人から多大な影響を受けているのは間違いありません。
だが待ってほしい。
確かにユダヤ系アメリカ人は、経済的には大きな成功を収めていました。
しかし人口割合はせいぜい全体の2〜3%程度であり、少なくとも20世紀の初めまでは、政治への影響力はイマイチ。
ビジネスでの成功は個々の努力や才覚によるものとしても、ユダヤ人「ごとき」に国の舵取りをさせるというのは、当時の標準的なアメリカ人にとってはあり得ないことでした。
実際、当時の政治家たちもユダヤ人を票田として重要視する事はなく、ほとんど無視されていたのであります。
そんな状況の中、ユダヤ人たちは、いったいどのようにしてアメリカ議会への影響力を手にしていったのでしょうか。
参考
最初はNRAについて書こうとしたけれど、なんかパッとしない出来だったのでボツにしました。
詳しく知りたい方は、『ボウリング・フォー・コロンバイン