ちょっと今回は、エジプトがどうとかそういう話はいったん置いときます。
その前に、そもそも「旧約聖書」は一体どういう書物なのか。どのようなプロセスで書かれたものなのか。
先にその辺についてまとめておいた方が、後がスムーズになるかなと思いまして。
といわけで、今回はちと寄り道です。
旧約聖書とはどういう書物か
構成
旧約聖書は、1冊の本ではありません。
ユダヤ教とキリスト教で並び順は微妙に異なりますが、基本的には39の独立した文書をひとまとめにしたものが、旧約聖書なのであります。
いちおうユダヤ教の場合の構成を書き出してみると、
律法
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記
預言者
・前預言者
ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記
・後預言者
イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書
諸書
・真理
詩篇、箴言、ヨブ記
・巻物
雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記
・その他
ダニエル書、エズラ記、ネヘミヤ記、歴代誌
という感じ。
このうち、「律法」と呼ばれる最初の5冊はモーゼが書いたと言い伝えられており、特に重要な書物とされています。この5冊は、イスラム教でも聖典扱いです。
とはいえ、もちろん残りの書物も大事。
それぞれ、各時代の預言者たちや、ダビデ王、ソロモン王などの著作とされています。
内容
そんな旧約聖書ですが、そのボリュームはかなりのもの。
日本語訳版だと全部で400万文字を軽く超えます(日本語訳の場合)。吉川英治の『三国志』シリーズと同じくらいの文量。
興味の無い人なら途中で心が折れるレベルのボリュームなのであります。
書かれている内容は、大きく分けて3つ。
教典
「十戒」に代表される、ユダヤ教の教義。
「偶像崇拝はNG」や「豚肉は食べるな」「同胞から金利を取るな」などなど、今でもユダヤ人が守るべき規範が記されています。
知恵文学
詩や歌、そして成功のための教訓など。
「ユダヤ人は教育に力を入れる」みたいな話は、この知恵文学の教えによるものです。
また、禁欲的な新約聖書と違い、普通にエッチな歌なんかも含まれています。
参考
気高いおとめよ、サンダルをはいたあなたの足は美しい。ふっくらとしたももは、たくみの手に磨かれた彫り物。
秘められたところは丸い杯、かぐわしい酒に満ちている。腹はゆりに囲まれた小麦の山。
乳房は二匹の子鹿、双子のかもしか。
雅歌7章1〜3節
あなたの立ち姿はなつめやし、乳房はその実の房。なつめやしの木に登り、甘い実の房をつかんでみたい。わたしの願いは、ぶどうの房のようなあなたの乳房、りんごの香りのようなあなたの息。
雅歌7章8節
何かの間違いかと思うくらいの内容ですが、「神とユダヤ人はこうあるべき」という比喩らしいですよ。
歴史書
始祖アブラハムから始まり、出エジプト、イスラエル王国の建国と分裂、そしてバビロン捕囚までの歴史。貴重な記録です。
聖書に誤りはない?
このように、古代イスラエル人の思想活動や歴史は、ほとんどが旧約聖書に網羅されています。
そして、その中身に誤りは無いというのが、ユダヤ教、キリスト教のスタンスです。
旧約聖書には今の我々の価値観からしたら、「あり得ない現象」がたくさん登場します。
例えば、「モーゼが海を割った」なんていうのは、我々の知る物理法則に則れば、まさにあり得ない現象なわけです。
ただ、「あり得ない現象」だからこそ、それは奇跡であり、神の御業とも言えます。
ここに合理的な理由や科学的な根拠を求めること自体がナンセンス。全てを超越した全能の存在に、人知が及ぶはずがありません。
しかしその一方で、旧約聖書には「辻褄の合わない部分」もたくさんあります。
こちらは、「あり得ない現象」とは違ってけっこう厄介。
話の辻褄が合わないというのは、普通に受け止めるならば、ミスでしかないからです。
従って、これにうまい説明をつけることは神学の重要なテーマであり続け、多くの聖職者、神学者が腐心してきたのであります。
2つの創造物語
旧約聖書に含まれる矛盾として最も有名なものに、「天地創造の順番がおかしい」というのがあります。
システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」。太陽と月と植物を造ってるとこ。
一つ目の天地創造
まずは、創世記の冒頭の内容を見てみましょう。
創世記 1章1〜5節
1日目。
神は天と地を創造した。
神が「光あれ。」と言うと、光が作られた。
神は光と闇を分け、 光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ。
創世記 1章6〜8節
2日目。
神は「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 と言った。
大空の下と大空の上に水が分かれ、空が造られた。
神は大空を天と名付けた。
創世記 1章9〜13節
3日目。
神は「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」と言った。
乾いた所は地、水の集まった所は海と名付けられた。
神は「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」と言った。
すると、地には草や木が芽生えた。
創世記 1章14〜19節
4日目。
神は「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」と言った。
こうして二つの大きな光る物と星が造られ、大きな方(太陽)に昼を治めさせ、小さな方(月)に夜を治めさせた。
創世記 1章20〜23節
5日目。
神は「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」 と言った。
こうして水の生き物と鳥が造られた。
創世記 1章24〜31節
6日目。
神は「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」と言った。
そして、地上の生き物や家畜が造られた。
神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 といった。
こうして、神は御自分にかたどって人間の男と女を創造した。
創世記 2章1〜4節前半
7日目。
こうして天地万物は完成された。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
これが、天地創造の由来である。
まとめると、
1日目:天と地を造る。光を造る。
2日目:空を造る。
3日目:地と海を造る。植物を造る。
4日目:太陽と月と星を造る。
5日目:水中生物と鳥を造る。
6日目:地上の生物を造る。人間(男女)を造る。
7日目:休む。
という流れです。
二つ目の天地創造
しかし、続く2章4節の後半から、再び天地創造が始まります。
創世記 2章4節(後半)〜5節
ヤハウェ神が地と天を造られたとき、 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。
また土を耕す人もいなかった。
ここまでは一回目の天地創造のおさらいのようです。
確かに、3日目の中盤に地と天が作られた時点では、草木も生えておらず、人間もいません。
しかし…。
創世記 2章7〜23節
ヤハウェ神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。アダムはこうして生きる者となった。
ヤハウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置いた。
ヤハウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす木を地に生えさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生やせた。
(中略)
ヤハウェ神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 と言った。
ヤハウェ神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、アダムのところへ持って来た。
(中略)
アダムはあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
そこで、ヤハウェ神は人を深い眠りに落とした。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさいだ。
そして、抜き取ったあばらで女を造り上げた。
ヤハウェ神が彼女をアダムのところへ連れて来ると、 アダムは「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」 と言った
お分かりいただけただろうか…。
天地創造の矛盾
1回目の天地創造では、人間が造られたのは最後の最後。
3日目に植物、5日目に魚と鳥、6日目に地上の生き物が造られた後、人間が男女同時に造られたことになっています。
しかし、2回目では、最初に人間の男が造られ、続いて植物、動物、鳥、最後に人間の女が造られています。
まとめると、
天地創造(1回目)
天地→植物→魚・鳥→動物→人間(男女)
天地創造(2回目)
天地→人間(男)→植物→生き物→人間(女)
科学的にどうとかいう話をしているのではありません。
宗教であるからして、この世や人間が創造された経緯を神の御業と捉えるのはごく自然なことです。
そうではなく、その創造の順番が思いっきり食い違っていることが問題なのです。
矛盾の解釈
この矛盾の原因は何なのか。
単に設定がガバガバだったという可能性もありますが、それだと「神の言葉」たる聖書の威厳が損なわれてしまいます。
数瞬を詳しく
聖書に誤りはないと考える人がこの矛盾を説明すると、こうなります。
つまり、6日目の「人が造られた」の部分を詳しく語っているのが2回目の部分なんだよ、というわけです。
もう少し詳しく説明すると、
ここで語られているのはエデンの園の中だけの話。
最初、エデンの園にはアダムしかいなかった。なので、神様が外から動物や植物や人間の女を連れてきたんだよ。
と解釈すべきだというわけです。
まあ、そう受け取れないこともないですが。うーむ…。
すんなり納得できるかというと、うーむ…。
つぎはぎ説
この創造の順番の矛盾をもっとスッキリ説明するならば、一言で済みます。
天地創造は、2つの元ネタのコピペである。
1回目と2回目の天地創造は、元々別の物語だった。それを、聖書記者が1つの物語として合体させた。
しかし、創世記が書かれた当時は、今ほどストーリーの整合性には厳密ではなかった。
だから、こうした矛盾が発生してしまったというわけです。
2種類の神様
2つの元ネタがある根拠は、ストーリーの矛盾だけではありません。
神の御名
例えば、1回目の天地創造では、神は一貫して『エロヒム』と書かれています。日本語訳では「神」と訳される
一方、2回目の天地創造では、神は常に『ヤハウェ・エロヒム』と書かれています。日本語訳では「主なる神」
翻訳版の聖書ではどちらも神なので気付きにくいのですが、ストーリーの切り替わりと同時に、神の呼び方も綺麗に切り替わっています。
この事もまた、2つの元ネタの存在を示唆しています。
神のキャラ
さらに、この「エロヒム」と「ヤハウェ」は、そのキャラクター設定も異なっています。
めんどくさいとは思いますが、もう一度、上の天地創造を読んでみてください。
1回目の天地創造を行ったエロヒムは、ただ言葉を発するだけで奇跡を起こす存在。超然とした風格があります。
一方、2回目の天地創造を行ったヤハウェは、若干人間っぽさがあります。
アダムに息を吹きかけたり、イブをアダムのところに連れてきたり、肉体があるような振る舞いをします。また、あばらを抜き取った跡を肉で埋めるとか、行動もいちいち具体的。
このヤハウェは、時にはエデンの園を普通に散歩したりもします。
創世記 3章8節
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
こうした人間っぽいヤハウェの行動と、ただ言葉を発するだけのエロヒムは、まるで対照的なのであります。
文書仮説
天地創造に関しては2つの元ネタですが、旧約聖書全体を同じように「辻褄が合わない」とか「表記が揺れている」部分で分けてみると、少なくとも4つの元ネタがありそうだ、というのが定説となっています。
こうした、聖書には複数の元ネタがあるという考え方を「文書仮説Documentary hypothesis」と呼びます。
次回、この「文書仮説」についてもうちょい詳しく見てみましょう。
参考文献、サイト様
・旧約聖書の誕生
・聖書考古学 – 遺跡が語る史実
・発掘された聖書―最新の考古学が明かす聖書の真実
・コイノニア
・Wikipedia「文書仮説」