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遊牧民+複合弓とかいう最強タッグ

はい。

前々回、前回と、人類最強の飛び道具であった「弓」について書いてきました。

弓には、「長弓」「複合弓」「弩」と、大まかに分けて3つの種類があるわけですが、今回は、そのうちの「複合弓」について見ていきたいと思います。

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遊牧民族と複合弓

「遊牧」というのは、牧畜のスタイルの一つで、枯れ痩せた大地で家畜を飼う方法です。

家畜を飼うには牧草が欠かせませんが、中央アジアのような乾燥地帯では草があんまり生えていません。

そこで、定期的に牧草地を移動して、牧草を食べ尽くさないようにする、「遊牧」が行われるようになりました。

彼らは、何百、何千もの家畜の群れを率いて長距離を移動していくため、必然的に馬の扱いにも熟練していきます。

遊牧民族を表す表現に、「馬上で生まれ、馬上で死す」というのがありますが、これは誇張ではなく、男は3歳頃からもう馬に乗るようになり、死ぬまで家畜とともに暮らすのです。

移動が多い生活ですので、食事も睡眠も、馬上で取ることも珍しくありません。馬に乗って狩りもしちゃいます

狩りに使用する武器は弓ですが、長弓では扱いにくく、せっかくの馬の機動力も損なわれてしまいます。

威力を保ったままなんとか小型化できないか。悩みに悩んだ彼らが複合弓を発明し、改良を続けていったのは、必然だったと言えます。

複合弓が発明された結果、馬に乗りながらバシバシ弓を撃つ技術、「騎射」が彼らの代名詞となっていったのです。

農耕民族からすると、馬に乗るだけでもけっこうな訓練が必要。その上、不安定な馬上で弓を扱うというのはもはや神業。

古代ギリシャ人は、騎射をする遊牧民を見て、人馬一体の怪物「ケンタウロス」を想像したと言われています。

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恐怖のモンゴル帝国

そんな超有能な弓騎兵である遊牧民族ですが、普段は家族や親戚単位でバラバラに生活しており、そこまで強大な力を持つことはありません。

それでも、中華を統一した始皇帝ですら万里の長城を築かざるを得ない。それほど、遊牧民族の戦闘力は凄まじいものでした。

始皇帝が、「自分の支配が及ぶ空間はここが限界なのだ」と認めた証。

そこにカリスマ性を持った有能な指導者が登場し、一つにまとまると、反則レベルの戦闘力を発揮します。

中でも最も強大な力を持ったのが、悪名高きモンゴル帝国

13世紀、モンゴル帝国は、ユーラシア大陸全土を支配する勢いで、領土を拡張していきました。

モンゴル帝国の領土の推移。最盛期は地球の陸地の25%を支配しました。

戦争というのは、普通は勝った方も負けた方もそれなりに損害があって、立て続けに戦うことは出来ません。

なのになぜ、モンゴル帝国は、これほど圧倒的な速さで侵攻を続けることができたのでしょうか。

その最大の要因が、複合弓なのであります。

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パルティアン・ショット

彼らが得意とした戦術の一つが、パルティアン・ショットというもの。

これは、パルティア王国という遊牧民族国家(BC247年~BC226年)にちなんだ名称です。

どういうものかというと、

・敵と向かい合ったらとりあえず逃げる。

・追いかけてきたら、逃げながら後ろ向きに一斉射撃。

・敵の陣形が崩れたら、騎馬でドドドッと突っ込む。

・相手がヒェ…っと怯んだところで一斉射撃。

・相手が追ってきたら、また踵を返して逃げながら後ろ向きに一斉射撃。

この戦法にちなみ、パルティアン・ショットは「捨て台詞」という意味もあります。

という戦術。

モンゴル弓騎兵は常に敵と一定の距離を保ち、徹底的に白兵戦を避けます。

これを繰り返すと、相手の軍隊は一方的に戦力を削られボロボロ…。おまけにこちらは無傷。自軍の兵が無傷なので、連戦に次ぐ連戦でもへっちゃら♪なのです。

「弓を打ち返せばいいじゃん!」と思いましたか?

確かに、飛ばす矢の飛距離、威力自体は、双方ともそこまで大きな差があるわけではありません。

しかし、普通の人間は馬に乗った不安定な状態で弓を扱う事などできません。

騎射というのは超高度な戦闘技術。普通は職業軍人が、長い研鑽を経てようやく身につける技術なのです。

したがって、弓兵というのは、歩兵であることが普通です。

一方のモンゴル帝国軍は、全員が熟練した弓騎兵

中国や西洋の国々は、馬の機動力に翻弄され、なすすべなく殲滅されていきました。

というわけで、このパルティアン・ショットという戦術は、まさに飛び道具の理想的な使い方でした。

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ワールシュタットの戦い

ここで、そのモンゴル帝国軍の強さを示す代表的な戦いを一つ。

それは、1241年のワールシュタットの戦いです。

モンゴル帝国は、建国以降、中央アジア→インド→西アジア→…と順調に勢力を伸ばしていき、いよいよヨーロッパの東の入り口とも言えるポーランドへも侵攻を始めました。

ポーランドは、ここ

西洋諸国もこのモンゴル帝国の猛進撃について認識はありましたが、あまり現実味を感じていなかったのかもしれません。

さらに、この時期、キリスト教内での派閥争いとかがあって、みんなの興味はそっちに行っちゃってました。

ポーランド君主からの援軍要請は各国に悉くシカトされ、参戦してくれたのは、義弟の治めるボヘミアと、テンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団の混成軍だけという悲しさでした…。

それでもポーランドは、なんとか2万5千人ほどの大軍をこしらえて、モンゴル帝国軍を迎え撃ちます。

対するモンゴル軍は兵数2万。

レグニツァという都市近くで、両軍は対峙しました。

当時のヨーロッパの基本戦術は、槍を持った騎兵隊が敵の中央に突撃するというもの。

もう、完全に「パルティアン・ショット」の格好の餌食なのです。

まずはポーランドの騎兵隊が突撃すると、モンゴル軍は逃げながら矢の雨を浴びせます。

ポーランド軍が怯んで後退すると、今後はそれを追って矢の雨を浴びせます。なにこのハメ技。

ワールシュタットの戦いのようす。左がモンゴルで右がポーランド。右側は誰も弓を持っていませんな。

こうしてポーランド軍は完膚なきまで叩き潰されました。

モンゴル兵は、戦果の確認として敵の右耳を切り落とすのですが、この戦いでは右耳だけで大袋で9個分になったと言われています。

なお、ワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味。この戦争の損害がどれほどのものだったかを物語っています。


このように、複合弓は、騎馬と組み合わせることにより、その真価を最大限発揮します。

そのため、遊牧民族との相性は抜群であり、騎馬兵が使う複合弓は、ある時期までは間違いなく世界最強の兵科だったと言えます。

次回は「長弓」と「クロスボウ」について。

乞うご期待。

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