我々の生活に欠かせない設備であるトイレ。生物である以上、排泄という行為は絶対に切り離せないものです。
長い人生の中で、トイレで過ごす時間は3年間とも言われています。完全に人生の一部になっています。
そんな大事なトイレは、時代や地域によって技術的や文化的な差はあるものの、基本的には「流す」「捨てる」「埋める」の三パターンです。
排泄は人間にとって生理現象ですので、文明が発達するより前から、トイレ的な場所は存在していました。
そして、世界各地で古代文明が発展してくるにつれ、想像以上にちゃんとしたトイレが整備されていってたのです。
大昔のトイレ
現在確認されている世界最古のトイレは、イラクにある古代メソポタミア文明のテル・アスマル遺跡から発見されています。紀元前22世紀頃のもので、宮殿にはレンガ製の便器があり、今でいう洋式タイプでした。
写真がない…
そして、この便器は、なんと地下の下水管に通じていて、その下水管から川へと流されるようになっていました。下水管にはアーチ状の石が積み上げられ、メンテ用の通路まで設けられていました。
下水管
4000年以上前に、現代と変わらない仕組みの水洗式トイレが存在したという事実。すごいですね(こなみ)
また、インダス文明(紀元前20世紀~紀元前17世紀)における最大の都市、モヘンジョ=ダロからも、古いトイレの遺跡が見つかっています。
こちらも水洗式で、汚水は竪樋を通って地下の沈殿槽に流される仕組み。大変清潔なものでした。ただし、このトイレを使えるのは上流階級のみだったようです。
エーゲ海のクレタ島にあるクノッソス宮殿(紀元前20世紀~紀元前13世紀)にも、水洗トイレがありました。
ミノタウロス伝説で有名ですね
この宮殿のトイレは王妃専用。床に溝が掘ってあって、そこに侍女が外から桶で水を流すという仕組み。その溝は下水道に繋がっており、これもまた立派な水洗式トイレと言えます。
古代ギリシャ・ローマのトイレ
少し時代が下り、紀元前8世紀くらいになると、古代ギリシャ文明が発展してきします。多くの偉人を輩出し、学問の基礎を築いた古代ギリシャでしたが、トイレはさっぱり発達しませんでした。
当然、下水なんて概念はなく、野グソ立ション当たり前、ほぼ垂れ流しに近い状態だったと言われています。
しかし、ローマ帝国時代になると、ついに水洗式の公衆トイレが登場しています。現在のトルコ西部にあるエフェソス遺跡には、当時の姿がそのままで残っています。
隣との距離感w
古代ローマでは、トイレに限らず上下水道がかなり整備されていました。ローマの下水システムは、クロアカ・マキシマと言われ、ローマの中心部を走っています。
赤い線がクロアカ・マキシマ
一部は今でも使われてるとか
名前からしてかっこいいクロアカ・マキシマですが、人口が増えるにつれ、汚物を処理しきれなくなります。また、さすがに個人の家にまで下水管は通じておらず、人々は一旦溜めた汚水を都市から離れた共同の処理場まで捨てにいかなくてはなりませんでした。
当然、それを面倒くさがって、窓から外に捨てる奴が出てきます。古代ローマでは、幾度も汚物の投げ捨て禁止令が発布されましたが、なかなか投げ捨ては無くなりませんでした。
共同の処理場からは常に悪臭が漂い、これが疫病を招き、ローマ衰退の一因になったという説もあります。
中世ヨーロッパ
中世のヨーロッパにおける公衆衛生の劣悪さは有名です。
ローマ帝国の時代にはある程度整備されていた水洗式のトイレですが、ローマ帝国の滅亡と同時に失われ、衛生概念は驚くほど衰退してしまいます。
トイレがあったのはごく一部の修道院やお城だけ。一般の家庭ではおまる式の便器が使用されていました。
汚物が溜まれば決められた場所に捨てに行かなければならないのですが、ローマ帝国時代の末期から既に行われていたように、窓から投げ捨てる行為がもはや習慣となっていました。法規制も効果が無く、捨てる前には必ず掛け声を掛けて知らせるというルールまで出来たほどでした。
現代に残る絵画などから、優雅で華やかな雰囲気が感じられる中世ヨーロッパの生活ですが、都市はゴミと汚物で溢れ想像を絶するほどの不潔さと悪臭に満ちていたと言われています。
また、こうした状況は貴族や王族といった身分の高い人々でも同じでした。ルイ14世の居城であったヴェルサイユ宮殿には、いす式のトイレが多数設置されていました。
ただし、これも水洗式のトイレなどではなく、高級なおまるのようなもので、便器の下の空間が汚物槽になっていて溜まれば捨てに行かなければなりませんでした。そして、こうした便器がいくらあっても、実際に宮殿で生活する貴族や召使の数に比べれば全く足りていない状況でした。
必然的に、中味を捨てる回数も多くなるワケですが、捨てる場所というのが、なんと宮殿の中庭や建物の陰だったので、都市部と同様にとんでもない悪臭が漂っていました。
ハイヒールやマントや日傘は、この汚物を避けるための装備だったというのはよく知られていますよね。
このような劣悪な環境におかれていたのですから、ペストやコレラが大流行したのも避けられない運命だったと言えます。
日本のトイレ
さて、それでは我らが日本ではどうだったのでしょうか。
縄文時代や弥生時代は、川の上に木を組んで穴が開いているデッキのようなものを作り、そこから直接川に排泄していました。
これを「川屋」(かわや)と言い、後の「厠」の語源となったのは言うまでもない
この川屋は、自然の川の力を利用してはいますが、日本でも古代のトイレはいちおう水洗式だったわけですね。
飛鳥時代までは、集落の周りに堀を築いて川の代わりにしたり、建物の中に川の水を引き込む水路を作るなどして、この「天然式」水洗トイレを利用していました。
ところが、平安時代になると、貴族の間でのトイレの主流は「樋箱」と呼ばれる木製の「おまる」になります。この箱の底には砂が敷かれ、引き出しのような仕組みになっています。
用を足した後、底の部分を引き出して中の排泄物を捨てる。
この「おまる」式は、貴族達にとっては大変優れたトイレでした。
まず、この写真の鳥居みたいになってる部分に着物の裾を掛けられる。
また、使用人が体調管理の為に排泄物を目視できる。
貴族の生活には欠かせないものでした。
なお、都市部の庶民たちは、この時代でも適当にそこらへんで用を足していたようです。
うんちの価値は
江戸時代に入ると、大規模な汚物槽を備え、人が回収する汲み取り式の便所が主流となっていきます。この汲み取り式は、なにげに昭和の初期まで続きます。
現代の感覚だと、こうした汲み取り式、いわゆるボットン便所には抵抗を感じてしまいます。
しかし、江戸時代には、うんちを川に流したり埋めたり捨てたり、処分する訳にはいきませんでした。
なぜなら、当時の日本は農業大国だったから。つまり、肥料としての人糞の需要がたいへん高かったのです。
世界で初めて人糞を肥料として使ったのは、鎌倉時代の日本でした。これは世界的にはかなり異端で、殆どの国ではあり得ない行為でした。
「食べ物を生産する畑に人のうんちをかけるなんてとんでもない!」という感覚ですね。
この人糞はなかなかの値段で売れたようで、長屋の大家さんは共同便所で住人のうんちを一括管理し、「下肥問屋」と呼ばれる人糞専門の問屋へ売却していました。大家さんにしてみると、大切な収入源の一つだったのです。
長屋の共同便所
こういう話、「うんこ製造機」の異名を持つ我々からすると、なんとも羨ましい時代ではあります。
なお、大名屋敷・武家・町屋とで、うんちの価格にも違いがありました。良いものを食べてる人は、良いうんちを出すというわけです。
最高品質を誇る江戸城からのうんちは、葛西村(今の東京都江東区)が独占していたなんて話もあります。
しかし、近代化が進むにつれ、安くて手軽な化学肥料が開発され、人糞の価値も無くなっていきます。
また、町が発展したことで排泄物を溜めておく場所も無くなってきたことから、トイレの主流は再び水洗式へと変わり、現代へと至るのです。
最新のトイレ。かっこE。
こうして比較してみると、日本人の「清潔さ」に対する意識の高さは、かなりの水準だと分かります。
海外から日本に来る観光客に人気の日本のお土産の一つは、「温水洗浄便座」。いわゆるウォシュレット付きの便座です。
そもそも、西洋から入ってきたスタイルの便座ですが、日本独自の進化を遂げ、欧米からも高い評価を受けています。これも、日本人の清潔に対する意識の高さが引き起こした進化と言えますね。
自分・・・ホルホルいいっすか?