サイトアイコン 腹筋崩壊ニュース

独裁者の末路wwwwwwwwwその2

前回、あの独裁者はどーしたんだよ、という指摘をいくつか頂きましたので、第2回をやります。

前回の記事はこちら↓
https://fknews-2ch.net/archives/38034895.html

スポンサードリンク

毛沢東

中華人民共和国、1893年-1976年

世界3大独裁者といったら、この人は外せないでしょう。
なんで前回取り上げなかったんだろw

毛沢東は、湖南省の裕福な農家の三男として生まれました。

当時の中国は、辛亥革命により清朝が倒れ、中華民国が樹立されていましたが、革命に参加した各勢力が利害を巡って対立しており、国内は混乱を極めていました。

そういった状況の中、毛沢東は中国共産党軍を率い、ゲリラ的に日本軍や国民党軍との戦いを続けました。
共産党軍は、ソ連の後押しもあり戦況を有利に進め、1949年には国民党軍に見事勝利。

物資面で圧倒的に有利だった国民党を破った事から、戦略家としては超一流だった事が伺えます。

かくして、毛沢東は中華人民共和国を建国しました。

建国後は、小作人への農地分配や戸籍制度を整えるなど、内政の整理と改革に取り組むと共に、経済政策ではスターリンを手本にし、重工業の生産に力を入れました。

そのとき毛沢東が打ち出したものが、悪名高い大躍進政策です。

これは、農作物や鋼鉄などを人海戦術で大量生産させるという根性論的増産計画でしたが、原始的な施設で先進国並の生産ノルマを与えられ、現場は生産量を水増しして報告するという有様でした。

結果、経済の混乱と資源の浪費を招き、3635万人の餓死者を出す結果となってしまいました。

この結果を受け、毛沢東は後の実権を劉少奇に託して政権から身を引きました。

劉少奇政権では、ゆるやかな市場経済を導入し、国内が以前と比べ安定しました。

が、面白くないのは毛沢東
権力を取り戻すべく、劉少奇政権への批判キャンペーンを各地で工作します。

毛沢東は民衆からの支持はとても高く、毛沢東を支持する学生を中心に、「紅衛兵」なる組織も結成されます。

近衛兵

これをうまい具合に利用しようと企んだ毛沢東は、紅衛兵に劉少奇派への攻撃命令を下しました。

これを機に、あの文化大革命は始まりました。要は、共産党内での権力争いです。

しかしながら、この文化大革命は、毛沢東による次の名言で、一般人にも飛び火していきます。

革命は、客を招いてごちそうすることでもなければ、文章を練ったり、絵を描いたり、刺繍をしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかで、おとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえ目のものではない。
革命は暴動であり、一つの階級が他の階級を打ち倒す激烈な行動である。

これをスローガンとして、中国には粛清の嵐が吹き荒れました。

文化大革命がここまでの規模になった原因の一つに は、このスローガンの出来の良さがあります。

毛沢東の言葉のセンスは非常に高く、例えば『反面教師』という言葉は毛沢東造った言葉です。

また、

戦争は流血を伴う外交である、外交は流血を伴わない戦争である。
政権は銃口から生まれる。

といった名言も残しています。

文化大革命での最終的な死者は数百万~1000万人と言われています。

この文化大革命による経済の停滞、文化の破壊で、中国の成長は激しく阻害されたと言われています。

なお、当の本人は、体調が北京の中南海にある自宅で普通に病死。享年82歳。

今でも天安門広場には、毛沢東の肖像画が飾ってあります。

悲惨度★
短命度★
悪人度★★★
総合☆☆

スポンサードリンク

エンゲルベルト・ドルフス


オーストリア、1892年-1934年

ドルフースは、オーストリア=ハンガリー帝国で生まれました。

幼年期は神学校で学び、当時は司祭になる事を目指していました。

第一次世界大戦が勃発した際、彼は志願兵として試験を受けましたが、身長が153cmしか無かったため、不合格。

結局、1918年には徴兵され、アルプスに送られました。ドルフースはそこで果敢に戦い、8つもの勲章を受けるほどでしたが、最後はイタリア軍の捕虜となりました。

戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、議会制民主主義国家であるドイツ・オーストリア国となります。

ドイツ・オーストリア国の議会では、キリスト教社会党とオーストリア社会民主党の2大政党が拮抗しており、政治的にはなかなか安定していませんでした。

そういった中、ドルフースはキリスト教社会党の優秀な政治家として頭角を現し、1932年5月に連立政権の首相に就任することとなります。

ただし、この時点ではあくまで連立政権であり、ドルフースは多数派ではありませんでした。

ドルフースは常にナチスドイツを警戒していました。

具体的には、オーストリアがドイツに併合される事を大変危惧しており、民主体制を持続すると、将来オーストリアでもナチスの台頭を招き、国家としての存続が危ういと考えていました。

そこで、ドルフースが取った行動は、

・議長の辞任により議会が機能しなくなった機に、議会を停止(1933年3月)
・オーストリア・ナチスの活動を禁止(1933年6月)
・対抗勢力であるオーストリア社会民主党を武力で制圧(1934年2月)

でした。

さらに、1934年4月には新憲法を公布。瞬く間に、独裁軍事政権を構築することに成功します。

しかし、その3ヶ月後。

地下活動をしていたオーストリア・ナチス党員8名が首相官邸に突入。哀れドルフースは、あっという間に暗殺されてしまいました。享年41歳。

ドルフース死後も、軍事政権自体は続きましたが、1938年にオーストリアはナチスドイツに併合され、オーストリアは一時的に地図から消滅しました。

オーストリア併合時に行われた国民投票用紙。
真ん中がYESで右がNO。YESでか過ぎやろw

悲惨度★★
短命度★★★
悪人度★
総合☆☆

スポンサードリンク

朴正煕

大韓民国、1917年-1973年

現韓国大統領、朴槿恵のパパです。

1917年、朴正煕は日本統治下で、貧農の家に生まれました。
父親は科挙に合格するほどの天才でしたが、没落し墓守をの仕事についており、非常に貧しい生活を送っていました。
朴は小学校に通っていた頃、弁当を持っていけない程でした。

家が貧乏で、朴自身も病弱でしたが、成績が大変優秀だったため、日本の陸軍士官学校に留学する事が出来ました。
ちなみに日本では「高木 正雄」と名乗っていました。

1961年、当時陸軍少将だった朴は同僚や後輩らと手を組み、腐敗の一掃、親米・反共を目的として少人数で軍事クーデターを起こしました。
見事な手際で金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散、政治活動を禁止、前政権の閣僚を逮捕し、朴正煕は軍事政権のトップに立ちました。

政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米、その帰りに日本に立ち寄り、池田勇人首相と会談、早急なる国交正常化で合意しました。

1965年には「日韓基本条約」を結び、日本との国交を正式に回復。
この条約は「日韓の国家間における賠償・歴史問題を全て帳消しにする」内容ですが、現在の韓国政府は、この条約を無視しているのが実情です。

朴正煕は、政治的な面では実質的に独裁者でしたが、経済的な面では「漢江の奇跡」と呼ばれるほど、韓国を裕福な国に成長させました。

製鉄所の建設・石油化学工業の推進・高速道路の建設等々、日本をモデルとした経済基盤を確立し、韓国民1人あたりの所得は一月あたりわずか80ドル(1961年)から、1620ドル(1979年)にまで跳ね上がりました。

また、朴正煕は、今の韓国からは想像できない程の親日家でもありました。

「日本の朝鮮統治はそう悪かったとは思わない。自分は成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。
さらに陸軍士官学校では、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。
日本のやった政治も感情的に非難するつもりはない。むしろ評価している。」
竹島をめぐる領有権問題について
「両国友好のため、竹島なんか沈めてしまえ」

などと発言。
経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本をモデルにしていました。

また、人物としても清廉潔白と言われ、目的の為には不当な手段も厭わない政治スタイルとは対照的なものでした。

しかし、こうした朴の一連の親日的行動に不満を持っていた事もあるのでしょうか。1979年、人前で叱責され火病を起こした側近によって射殺されました。享年61。

悲惨度★★
短命度★★
悪人度★
総合☆☆

スポンサードリンク

アントニオ・サラザール

ポルトガル、1889年-1970年

サラザールは、生涯熱心なカトリック教徒であり、11歳から25歳まで神学校で学び、当初は聖職者を目指していました。
しかし、当時のリスボンでは僧侶が多すぎたので、還俗しコインブラ大学で法学を学びました。

そのまま、同大学で教授に就任し、人気教授として活躍しました。

1928年、当時の大統領の要請に応じて、財務大臣に就任し、緊縮財政、デフレ政策を断行して危機的財政の建て直しを行いました。

この時の手腕が評価され、サラザールは世界恐慌の危機の下で1932年に首相に昇格。権力を掌握する事になります。

このスムーズな権力掌握は、財政を立て直したという確かな実績があったからと言われています。

独裁体制は右派の連合体で構成されましたが、サラザールは穏健派を登用し、過激派勢力に対しては検閲や抑圧政策を取りました。

抑圧された右派過激派は、いくつかのクーデター未遂を起こしましたが、その度に容易に鎮圧されています。
サラザールは地主層や商工業者の支持を得て、また亡命中の王族を含む王党派の支持も取り付けており、確かな支持基盤があったのです。

こうして、社会改革者として一部左派にまで支持層を広げる一方で、敵対勢力は秘密警察を利用して排除し、長期にわたるファシズム独裁体制『エスタド・ノヴォ』を確固たるものにしました。

サラザールの政権の基礎は、社会の安定でした。
社会の安定が財政の安定、そして成長をもたらすとしたのです。
この頃サラザールへの支持率は最高潮に達しました。

初等教育は全ての国民に与えられており、教育インフラにはしっかりと投資が行われ、多くの学校がつくられました。体制下でのポルトガルの識字率は西欧最高レベルとなっています。

こうしてエスタド・ノヴォ体制は第二次世界大戦後も長期に渡って継続しました。

1968年8月3日、リスボン郊外で静養中だったサラザールは、ハンモックでの昼寝中に誤って転落、頭部を強打して2年に渡り意識不明となり、目を覚ました時には、政権は後継者の手に移っていました。

側近や身の周りの人間たちは、サラザールにショックを与えないため、その執務室を2年前と同じ状態に保全し、さらには当時のポルトガルの動乱のことなどは一切記載されない偽の新聞を読ませ、サラザールが権力を喪失した落胆に見舞われないよう、優しい世界を用意しました。

サラザールは、この執務室で効力のない命令書を書き、偽の新聞を読んで晩年を過ごしました。
1970年7月27日、ポルトガルの混乱を知らないまま安らかに死去。享年81歳。

悲惨度★
短命度★
悪人度★
総合☆

スポンサードリンク

今後の掲載予定

ロバート・ムガベ
ジンバブエ、1924年-


ジンバブエドル崩壊の立役者にして現役の独裁者です。御年90歳!

今は、41歳年下の奥様とラブラブとか…。

この人は面白いエピソードが山ほどあるのですが、存命中なので、もうちっとお待ちください。

モバイルバージョンを終了