独裁者の末路wwwwwwwww
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。
『平家物語』より
歴史上、数多の独裁者が登場しましたが、彼らの最期とはどのようなものだったのでしょうか。
アドルフ・ヒトラー
ドイツ、1889年-1945年
言わずと知れた、世界一有名な独裁者です。
若い頃は、売れない画家としてつつましい暮らしを送っていましたが、軍属を経て政治家となり、ナチスをドイツの第一党へと導きました。そして1934年には国民投票で89.93%という圧倒的支持の元、ドイツの指導者となりました。
ここまで行くと、もう誰にも止められません。
グイグイと領土拡大を図り、1938年ついにポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発しました。
当初は優勢だった戦局も、連合軍の物量の前に徐々に押されるようになります。
ドイツへの空爆が増えるにつれ、ヒトラーは不眠症が悪化していき、同じ話を何度も部下に話すなど、精神的に不安定になっていきました。
戦争末期には、官邸の地下に完全に引きこもるようになり体力も衰え、支えなしで歩くことも難しくなっていました。
ヒトラーは身内には情の厚い面があり、母親が亡くなった際は深い悲しみに暮れました。
かかりつけ医の回想録には、
「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」
とまで記されています。また、溺愛していた姪が自殺した際も政界引退を仄めかす程のショックを受け、以降「肉はたべん!」と宣言しベジタリアンとなりました。
しかし晩年は、周囲の誰も信用出来ず、「全員が私をあざむいた。誰も私に真実を話さなかった」と言うさみしい言葉を残しています。
1945年、側近のヒムラーが、ヒトラーの許可なしに英米に降伏を申し入れました。これを受けてヒトラーは終わりを悟り、口述で遺書を残しました。
そして、長年の愛人であったエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げ、そのまま地下室で新妻と共に自殺しました。享年56歳。
悲惨度★★
短命度★★
悪人度★★★
総合☆☆
ヨシフ・スターリン
ソビエト連邦、1878年-1953年
ヨシフ・スターリン(本姓:ジュガヴィリ)は、ソビエト連邦の第2代最高指導者。
広く知られているスターリンという姓はペンネームであり、「鉄の人」という意味。
1922年から1953年に死去するまで、共産党書記長としてソ連に君臨し、数々の伝説を残しました。
自身の思想と相容れない政治家と関係者、一般党員、民衆、軍人に至るまでを粛清し続け、100万人以上を有罪、半数を銃殺した。地区委員会や共和国委員会が丸ごと消滅。
特定の民族や、政治思想で対立した者、抵抗する農民などに「極北の土地をくれてやった」。
第一次五ヵ年計画で集団農場を作り、反発した農民を処刑。その後労働意欲の低下と徴発によって食糧不足が発生、ウクライナで数百万人が餓死。
ポーランド・ソビエト戦争で自分の面子を潰されたことに対する雪辱として、2万人以上のポーランド人を逮捕して銃殺(カティンの森事件)。
退却禁止命令を発動して味方の背後に機関銃を設置、勝手に動いた者や敵前逃亡する者を銃殺する命令を出す。
長男が独ソ戦で捕虜になった時、ドイツの捕虜交換申し出を「中尉と元帥を交換するバカがどこにいる」と拒否。
長女の一人目の交際相手をイギリスのスパイと考えてシベリア送り。
さあ、これが君のシベリア転属許可証だ。木の本数を数えてきてくれたまえ。
その他多数
スターリンは、無慈悲、冷酷、粛清というイメージの付きまとう人物ですが、実際には穏やかな性格で、多弁で社交的、歌が上手、本を大量に読み、文学に理解を示し、歴史や神話に豊富な知識を持っていたと言われています。
しかし父親からの虐待、母親からの厳しい教育、愛した妻の死などにより、次第に性格は複雑になり、表面上の穏やかさとは真逆の残虐性や冷徹さを兼ね備えた人物になっていきました。
革命家仲間たちや、その子供たちと別荘で遊んでいる際、ウクライナでは大飢饉で何百万もの人々が餓死していたり、愛する妻へのラブラブな手紙を書いた直後に、各地での粛清ノルマを決めた指令書を書いていたりするのは、まさにスターリンを象徴しています。
「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」
「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」
「投票する者に決める力などない、投票を集計する者に全てを決める力がある」
「お前はスターリンなんかじゃない。もちろん私も違う、スターリンとは個人ではない、ソヴィエトの権力そのものなのだ!」
(息子のワーシリー・スターリンに対して)
晩年、元々猜疑心の強かったスターリンはその性格を更に強め、あらゆる場所に敵の姿を見て、スパイを疑い、部下の部屋を盗聴させ、疑った人間はすぐさま粛清しました。
自分の周りの誰もが敵で、自分の命を狙っているのだ、という典型的な「偏執病(パラノイア)」を発症しており、「誰も信用できない、自分でさえも」という言葉が残っています。
1953年3月、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れました。
暗殺を恐れていたスターリンは、鋼鉄の箱のような寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていました。
翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もせずにいたため、発見が遅れ手遅れとなりました。晩年の孤独を象徴する死に方です。享年74歳。
悲惨度★★
短命度★
悪人度★★★
総合☆☆
ニコラエ・チャウシェスク
ルーマニア、1918年-1989年
1932年、チャウシェスクはルーマニア共産党に入党し、何度も逮捕されながらも、精力的に党員として活動してました。
当時の警察の記録では、「危険な共産主義の扇動者」「共産主義の配布者」「反ファシストのプロパガンダ」といった記述があります。
1945年、第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、ソビエト連邦に占領されます。
その中で、チャウシェスクは秘書、農業省、国防省等を勤め上げ、 党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰めました。
党の書記長が死去すると、後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてチャウシェスクに白羽の矢が立ちました。
政権を獲得してからしばらくの間は親西欧路線を取り、西側諸国によるモスクワオリンピックの大規模なボイコットの報復として、東側諸国が軒並みボイコットした1984年のロサンゼルスオリンピックにおいても、ルーマニアは他の東側諸国と足並みをそろえず参加。
こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や東ドイツなどの東側諸国から顰蹙を買いました。
チャウシェスクは、国の人口を増やすため、
・中絶を禁止
・離婚を禁止
という政策を実行しましたが、その結果、育児放棄によって「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれるストリートチルドレンが深刻な社会問題となりました。
チャウシェスクの落とし子
また、チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けましたが、その返済に苦しむようになり、飢餓輸出を実施。
ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていきました。
こうした政権運営に加え、チャウシェスクは「国民の館」と呼ばれる巨大な宮殿を建設したり、党や国家の要職をチャウシェスクの家族・親族30人以上で独占する等、一般庶民の生活を顧みず、その人気も支持も急落します。
東欧で自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになり、東西両陣営から嫌われはじめま。
1989年にポーランドで民主的な政権が成立すると、この流れがルーマニアに波及することを恐れたチャウシェスクは、軍事介入をソ連に要請しました。が、ソ連のゴルバチョフはこの要求を一蹴。チャウシェスクは事実上ソ連にすら見捨てられた形になりました。
ソ連の介入がないことが確定的となったため、軍もチャウシェスク政権に反旗を翻し、チャウシェスクはあっという間に失脚し政権は崩壊しました。
1989年12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命軍の手によって妻エレナとともに公開処刑されました。享年71歳。
悲惨度★★
短命度★
悪人度★★★
総合☆☆
ポル・ポト
カンボジア、1928年-1998年
このお方、個人的には一番の悪かなぁと思います。
その悪行の詳細はこちらの関連記事からどうぞ。
過去に5回もまとめているという…。
最終的にポル・ポトは、クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告されました。
1998年4月、新政府軍の攻撃から逃れる形で密林地帯に連れて行かれ、心臓発作で死んだとされています(一説には毒殺ど)。
遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、埋められました。
火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。その場所には、粗末な墓所が建てられています。享年69歳。
悲惨度★★★
短命度★★
悪人度★★★
総合☆☆☆
カダフィ大佐
リビア、1942年-2011年
リビアにおける革命指導者。
名目上はリビアには国家元首は存在しないため、自身ではリビアの元首であることを否定していましたが、事実上の国家元首であると見なされていました。
軍人として順調に出世する中、1969年大尉であった頃にクーデターを起こしてリビア王国を打倒、現在のリビアを建設しました。
リビアはカダフィ大佐の独裁である一方、国民への富の配分は比較的うまくいっており、カダフィ大佐は国民に大変な人気があった。
2011年2月、通称「ジャスミン革命」のあおりを受けて、やはりリビア東部から反政府勢力がカダフィ政権に対して蜂起。これに対して武力で一時は鎮圧するも、アメリカを中心とする反リビアグループが、再三再四反政府勢力を支援。かなり強引にカダフィ政権を打倒しました。
カダフィ大佐本人は2011年10月20日に潜伏先を襲われ、リンチの末に死亡しました。
享年69歳。
悲惨度★★★
短命度★
悪人度★★
総合☆☆
イディ・アミン
ウガンダ、1925年頃-2003年
1970年、ウガンダで鮮やかなクーデターを決行して権力を掌握。
前政権が左派的政権であったため、当初はイギリスやアメリカと友好的な関係でした。
しかし、やがて、前政権の支持者を弾圧するようになり、自国民30万人を虐殺し、「黒いヒトラー」、「人食い大統領(実際はベジタリアン)」等と呼ばれることとなります。
1979年に、反体制派の攻撃を受け失脚。カダフィ大佐のつてで、サウジアラビアに亡命しました。
ちなみに、アミン大統領は身長193cmの巨漢で、アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンでもありました。
アントニオ猪木との異種格闘技戦が実現間近でしたが、この反体制派のゴタゴタにより幻のカードとなりました。残念。
他にも、
や、
(厳密には、さだまさしが自分の曲に出てくる喫茶店を、アミン大統領にちなんで喫茶店「安眠(あみん)」と命名し、「あみん」はそれにちなんだ)
など、日本に微妙に関わりがあります。
失脚以降は歴史の表舞台に出ることもなく、病院で多臓器不全による合併症で死亡。ウガンダへ戻ることはありませんでした。享年78歳くらい。
悲惨度★
短命度★
悪人度★★★
総合☆☆
金日成
北朝鮮、1912年-1994年
元々は抗日パルチザンに参加した革命家。
日本が金日成を標的にして「討伐」のための宣伝を行い多額の懸賞金をかけるなどしたことが、金日成を有名にしたともいわれる。
その後、日本軍は抗日パルチザンへの大規模な討伐作戦を開始し、金日成は十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領へ逃げることとなりました。
1945年、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した事を契機に、金日成は北朝鮮へ帰国しました。
帰国後は、ソ連当局の支援を受けて統治機構の幹部となっていき、朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、その最高指導者の地位を得ることとなりました。
カーター元米大統領は、金日成を「大変聡明で鋭利な人物であった」と評しています。
また、脱北したジャーナリストも、「金日成は自分の経歴を美化するなど俗物的な所はあったが、抗日パルチザン闘争などで苦労した経験があり人民の痛みもある程度わかっていた。ともかくも国民を飢え死にはさせなかった。現在の非民主主義的な体制を造り上げたのは金日成ではなく金正日である。」と証言しています。
後継者は、ご存知の通り金正日を指名していますが、その理由は血筋ではなく、あくまで「国内で、最も優秀で最も忠誠心に厚い」からであるとしていました。
実際の能力はともあれ、この事は、金日成が、世襲制では周囲が納得しないだろうというバランス感覚を持っていた事を示しています。
また、金日成が1948年に初代北朝鮮最高指導者に就任してから66年が経過しており、ここまで長期の独裁政権を樹立したという意味では、優秀な実物であった事は間違いありません。
金日成は、1994年7月8日午前2時に死去しました。死因は執務中の過労による心筋梗塞と発表されています。享年82歳。
悲惨度★
短命度★
悪人度★★
総合☆
ベニート・ムッソリーニ
イタリア、1883年-1945年
青年時代は小学校の教師を務めていました。
その後、レーニンとの親交を結ぶうちに政治活動にのめり込み、イタリア社会党に入党。党機関紙の編集長となり発行部数を2万部から10万部へと伸ばす等、たいへん優秀な人物と評されていました。
第一次世界大戦では、主戦論を主張しイタリア社会党を除名させられました。
そして、ムッソリーニは右翼的・左翼的思想の両方の影響を受けたファシズム思想を提唱して「イタリア戦闘者ファッシ」を組織しクーデターを実行、1943年まで約20年に亘り続くファシスト政権が誕生しました。
第二次世界大戦では、序盤は中立的な態度を取り続け日和見していましたが、1940年になりドイツの西方電撃戦により開戦から1月足らずやでフランスの敗北が決定的になった状況を見て腰を上げ、日独伊三国同盟を結び、枢軸国として大戦に参加する事となりました。
しかし戦争実行の為の物資備蓄など準備不足の中大戦への参加を決断した為、継戦能力に乏しく劣勢を余儀なくされ(降伏直前のフランス軍にも反撃され、フランスの降伏が遅ければ逆にイタリアに侵攻されていたとも)、1943年には燃料不足で大型艦船の行動が不可能になるなど、贔屓目に見てもナチスドイツの足を引っ張ってるようにしか見えませんでしたw
ただ、ムッソリーニは決して無能な訳ではなく、
・ナチスドイツの人種政策を批判した
・「バチカン市国」を国家として認めた。
・「保育は天業」「保育の営みがある限り、人間社会は有機的に発展する」という観点から、独身税・子無税構想を掲げた
・雇用政策を積極的に行い、失業者を大幅に減らした
といった政策から、今でも一定の評価をされており、ムッソリーニの記念碑には今でも献花が絶えないそうです。
1943年、連合国によるシチリア上陸作戦により、ついにムッソリーニは失脚・逮捕されるが、ナチスによって救出され、事実上ドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国の首班となりました。
1945年4月、レジスタンスのパルチザンに捕縛、略式裁判後に銃殺され、遺体は愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒されました。
享年61歳。
悲惨度★★★
短命度★★
悪人度★
総合☆☆
ヨシップ・ブロズ・チトー
ユーゴスラビア、1892年-1980年
チトーは、今のクロアチアで生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国内の各地を転々としながら労働者として暮らしていました。
その後、第一次世界大戦で従軍しましたが、所属部隊がまるごとロシア軍に捕まり、捕虜として労働収容所送りとなってしまいました。
しかし、チトーはそこで捕虜たちのデモを組織して逮捕されましたが、脱走。そしてまた捕まり、再度脱走。
その後帰国し、ユーゴスラビア共産党に参加するようになりました。
第二次世界大戦ではユーゴスラビアはナチスドイツに占領されましたが、チトーは抵抗勢力「パルチザン」のリーダーとしてカリスマを発揮。
戦後すぐ、ユーゴスラビア連邦人民共和国を成立させ、その初代首相、国防相に就任しました。さらに1963年には終身大統領として、独裁政権を確固たるものにしました。
ユーゴスラビア連邦人民共和国は、チトーのずば抜けたカリスマ性により、国家は安定していました。
チトーの特徴的な思想は民族主義の徹底的な排除と言われています。
ある程度言論の自由を許す(チトーや政府への批判もOK!)一方で、民族主義的な言論は秘密警察により徹底的に弾圧されました。
そういった点で、チトーの内政に悪い評価は少ないです。悪く言うのは民族主義者くらいです。
因みに、「チトー」は偽名で、『お前(Ti)あれ(to)しろ』という横柄な言い方から取られたもので、よく冗談に使われていました。
また、ユーゴスラビアは、東欧の社会主義国の中で、唯一ソ連からの影響を排除し、独立した国家としての道を歩んでいました。
面白くないスターリンは、暗殺者を送ったりクーデターを扇動する等チトー失脚を図りましたが、チトーの優秀な秘密警察の前にことごとく失敗。
逆にチトーから「こっちも刺客送っちゃうよ」と脅され、スターリンはユーゴスラビアの支配を諦めました。
チトーはこうして冷戦中も第三世界のリーダーとしての地位を固めていきましたが、1980年に病院で死去。その葬儀には世界中から多くの参列者が来ました。享年87歳。
なお、カリスマを失ったユーゴスラビアは、民族紛争が頻発するようになり、2003年には完全に地図から消えました。
悲惨度★
短命度★
悪人度★
総合☆
サダム・フセイン
イラク、1937年-2006年
1957年にバアス党というアラブ民族主義的政党に入党します。
この頃のフセインは、バグダードのストリートギャングを率いていたといわれています。
1959年、バアス党は首相暗殺未遂を起こしました。実行犯として関与したフセインは、護衛から銃弾を受けて足を負傷しましたが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、チグリス川を気合で泳ぎ、エジプトに亡命。
亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学びました。
カイロでのフセインは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったようです。
1963年にクーデターによりバアス党政権が発足すると、フセインは帰国してバアス党の幹部となり徐々に出世していき、1979年にはイラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任しました。
就任後すぐに粛清を実施、党内の反フセイン派を一掃しました。
しかし、2001年9月11日の同時多発テロを契機に、アメリカからアルカイダ支援の疑いをかけられ、9ヶ月の逃亡の後逮捕されます。
拘束中のフセインは、比較的穏やかに過ごしており、いくつかのエピソードは、胸にこみ上げるものがあります。
「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」
またピロは、「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している。
カーピンスキーによると、サッダームは
『お前は本当に司令官なのか?』
とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、
『新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する』
と語ったという。
エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていたが、ある時フセインが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。
自分が農民の子で、その出自を一度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。
また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、米兵に敵対的な態度は見せなかった。
ある時、フセインが食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。
ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。
『アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る』
『私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた』
と、米兵との交流の様子を明かしている。
そして、3年間にわたる尋問、裁判の後、絞首刑により処刑されました。享年69歳。
悲惨度★★
短命度★★
悪人度★★
総合☆☆
独裁者の人生は、成り上がりから失脚まで、実にドラマティックなものですね。
コメント (84件)
お、管理人生きてたw
やさしい最期を迎えたサラザール博士、王政復古を成し遂げたフランコが無いだと...
久しぶりのポトさんのトピックに感銘。
こんどは共産主義でもなく独裁者が指揮したわけでもないのに、ジェノサイドをなしとげたルワンダの有能ぶりを解説して、どうぞ。
フセインいい奴じゃん(適当)
おっまだお迎え来てなかったかw
まとまっててわかりやすい。114514点
悪人かどうかなんて外からみてるだけじゃ分からないね
安倍の最期はどんなものだろうか
独裁者=悪ではないからね
欧米が勝手に決めたことだ
フセインはなぁ…
奴を処刑しちまったのはアメさんの失策だと思う
※9
大量破壊兵器持ってるから悪!戦争だ!→持ってませんでした!
正義とは勝者だよね・・・
まぁ日本も普通に支持してたけど
独裁はかりそめ(のことが多い)とはいえ民衆の支持を得てる
民衆の支持がないのは専制だ
しかし、どちらか区別しかねる人も多いよね
チョーセンのライン引きやけざわあたりで第2弾待ってます
意外と内政が良好な独裁者もいるのに驚いた
毛おじさんは独裁者リストに入らないのかしらん?
※7
かなりのセレブ一族出身だから、極左が革命を起こして熱狂に流されて粛清路線でも無い限り
いくら恥を重ねようとも、天寿を全うできるタイプだよ
フセインはドラ息子に足引っ張られて評価だだ下がりな印象
ルーズベルト
アメリカは、クメール・ルージュを支援していました。
フセインはアメリカに騙されました。
フセインもカダフィも、石油取引の決済をドルから変えようとした途端にアメリカから侵攻を受けました。
人食い大統領(実際はベジタリアン)に草不可避
そりゃ、ドルこそが今のユダヤ人の力の源だもん。ドルを発行してるのは、米国ではなくFRBというユダヤ人組織だからね。
内乱要因なんかで死亡してない独裁者って普通に立派な政治家だろ。
ただしスターリンは除く。
チャウシェスクは夕飯時に死体がテレビで放送されてたなぁ
独裁者の行う安定した治世を偽りの民主主義が破壊するって
もうなにがなんだかわかんねーや
ヒトラーの悪人度高すぎでは?
ただの愛国者かとドイツの経済復活させた上にヴェルサイユ条約放棄などドイツ国民を結果的に助けていますし
後ヒトラーが星三つならばルーズベルトは星十個ですね偽りの平和主義者
奴の残した言葉の一つで
私は戦線はしない戦争を作るのだとありますしね最低の人種差別主義者ですよ
ナチスのアンシュルツに抵抗して暗殺された
オーストリアの独裁者ドルフス
ナチスのアンシュルスに抵抗して暗殺された
オーストリアの独裁者ドルフス兄貴のことも書いてくれよな~頼むよ~
大体の地域、後何故か出てこない黒人差別大統領とか皮肉が効いてて面白い。
独裁者なんてレッテル貼りに近い。英雄と人殺しの差異程もない
毛沢東ハヨ!
「最も成功した独裁者」であるトルコのケマル・アタチュルクには触れなかったか。
結局、大量破壊兵器はアメリカが持ってましたってオチだろ
フセイン、怖いけど気のいいおっさんって感じじゃん
ブッシュのセガレのほうがよっぽど悪人だよ
キムジョンウンが住民たちにリンチで殺されるところ早く見たいw
カラパイアをパクる路線に変えたの?
お前ら馬鹿だなあ・・
ユダヤに踊らされてるって気づけよ
※32
普通に記事をまとめたら「カラパイアのパクリ」になるのか。
どうしようもないクズカスだな。
金日成はソ連から戻ったときにすり替わっていた説を聞いたことがある
しかし閲覧注意な写真はリンクで見れるようにして欲しい
心臓に悪い
独裁者が死んだら国が崩壊したってのに草生えた(ww
蒋介石がないぞー
パキスタンのムシャラフ氏は?
経歴と統治を見るし明らかに独裁者なのに最後は辞職で終わっているのは珍しい
退任後NHKのインタビューに出て穏健というか妙に弱気なこと言ってて
ああ、この性格で独裁者になりきれなかったんだなと思った
ヒトラーは独裁者じゃねーだろ
ムッソリーニはそこそこちゃんとやってたし、「あーあ、俺潮時だな…」ってずいぶん前から感じていた部分もあったんでまだ同情できる。チトーはあんまり独裁者って感じがしないが
アメリカだとかよそにとって都合が悪いから悪人に仕立て上げられて
殺されて国が亡びるって、理不尽極まりないよなあ
粛正されてしかるべき独裁者も多いんだけどさ
>チトーって独裁者ってイメージ無いんだよな…、まぁ、コイツらも初めは国を思って行動を起こしたのだろう、がいつしか利己的な欲求にとりつかれ自分を滅ぼしたってところか?
チトーは別に何も滅ぼしてないだろう。ちゃんと読んだか?
有能な独裁者の行う統治は最高、無能な独裁者の統治は最悪
民主主義はこの中間ぐらい
賢明な民だけ厳選して投票権を与えることができたらいいのだけど、そんなことは現実的に不可能だよね
シリアのバッシャール・アル=アサドやジンバブエのロバート・ムガベもクーデターで失脚してたりして・・・。
※23
ヒトラーが有能な為政者だったのはひいき目に見ても1938年まででそれ以降はただの暴走老害よ
戦争仕掛けて負けて国は滅ぼされ都市は廃墟にされ国土は3分割
ドイツ含む諸国民に戦災を撒き散らした悪人の評価は妥当
ムッソリーニなんか戦争には関らんで内政だけやってれば逆さ釣りになんかならんで済んだんちゃうか?
軍の指揮権握ると使ってみたくなるんかな。
なんかアミンの項だけ他とは趣が違うなw
ウガンダさんはたけし軍団じゃない。
※23
そんなもんはじめから偏ってるでしょ。管理人の独断と偏見で決められてるのだから。
※7
あれで独裁者なら世界中の宰相は全て独裁者だな…。まぁその認識もある意味では間違ってはいないが…。結局レッテルに過ぎないところもあるし。
なおある意味で一番の独裁者は日本の『天皇』な模様
天皇に独裁権力なんかあるわけねえだろアホ
>略式裁判後に銃殺され、遺体は愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒されました。
死体写真
とかみると、勝者が正当化するけど、
どっちもキチガイなんやなあと思える
実際優秀な独裁者が支配するのが国をよくするのはいいよね
現実としてアホな政策をした時に抑止力がないからやばいが
カダフィとフセインは白人の利益の為に悪役に「させられた」からなぁ……
現地情報で調べると、攻撃側がマッチポンプやスパイ、印象操作しまくってるのが
わかる。まぁ、独裁国以外の政治でもそうだけど、世界政治はシナリオありき。
スターリンの本名はジュガヴィリじゃなくてジュガシヴィリだろ。
「自称」支持率50%
孤独な独裁者、アへ
この人たちと安倍を同列に見るのは失礼だよ。
この人たちは「血まみれの英雄」だけど、安倍はクソを垂らした小物。
スターリンの本姓は
ジュガシヴィリじゃありませんでしたか?
独裁「政治体制」がどのように築かれたのかをそれぞれ分析すると
さらに面白いと思う。
ちなみに民主主義政治体制下で
既得権益に群がって甘い汁を吸いたい寄生虫たちは
その構造を壊そうとする政治家を「独裁者」と罵る。
スペインのフランコは第二次大戦は不参加で上手くやったなあ
没後に王政が復興して今に至る
59
奴はアメリカの威を借りただけの負け犬だからな
61
それ金正恩の国で言ってみなよ
歴史修正主義者のネトウヨはポルポトやスターリンと同じ冷酷な犬だ
コリアの李スンマンを独裁者の罵る人は寄生虫か?マルコスやスハルトは?
皆さん こういう負け犬の親衛隊に扇動されないように気をつけましょう
こいつらは日本国民の血税で食いながら売国自民党を支持する工作員です
こういう奴らに限って小沢に対して異常なまでの敵意と過剰反応するんだよな
そういう俺も嫌いだけどさ 最近は台湾以外の東アジアって糞ばっかだよな
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言い忘れたけど民主国家とか独裁国家の定義はないから
何処の国にも選挙制度はある あの将軍様の国でさえもあるんだよ
問題は国民的な主観で動いているか 権力者が暴走してないか
民主的とか独裁的というのは力の持った正義が線引きをすることだし
直接民主制にでもしない限り民主主義ってのは有り得ない
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ベネズエラの今はめちゃくちゃだもんな
フルシチョフ後のブレジネフとか鄧小平後の江沢民とか悪しき前例は多々ある
どいつも碌な死に方してねぇな~♪それが独裁者ならではの死に方なのか・・・!?
米44
現在多くの国がその方式取ってるよ、わが国日本も。
国民皆選挙にすると人気のある人、立候補した芸能人が総理になってしまう可能性があるので
われわれが選べるのは自分の選挙区の立候補した人だけ。
簡単に言うと、アホから順に投票に行かないので、投票率なんか上がらなくてもいいと思ってる。
独裁政治の最大のアキレス腱は「人間は不死身じゃない」って事だよな。
いかに優秀で、権力をその維持と自己の保身じゃなく国のために活用することを考え、
大局的に見ると国と国民にとって利益になる支配をし続けていたとしても、
結局死んだらカオスだしな。チトーを見るとつくづくそう思う。
毛沢東が入ってない。やり直し。
安倍はどこ?金正日や正恩は?バチスタやマルコスハルトは?
チトーはいい奴だよ。こいつ入れるなら安倍の一匹でも入れてみなよ。
チトーとカストロとホーチミンは独裁ってよりも人々に支持されたからな。
チトーとかいう1000年に一度名レベルで有能な独裁者。
亡くなってから10年も経つと国が分裂し内戦状態になった模様。
毛沢東がいないぞ。
70
何も知らないガキは黙ってろ
チトーは指導者として最高だと思う
ヒトラーはユダヤ人も糞な所があるし結構有能
フセインはアメリカ野郎に殺された可哀想な人
本当に屑はスターリンとポル・ポトだ
アメリカ野郎とユダヤ人そして並びに共産主義を打破しなくては世界に平和はない!
イラク戦争もアメリカの石油利権のためだしなあ
攻め込むのもあれだが
侵略が済んだら最後まで面倒みろよ
金日成時代の北朝鮮はソ連の援助ありきで、それが減少した80年代からは餓死者もたくさん出てるんですがね
フセイン処刑=中東大混乱
カダフィ処刑=中東パワーバランス致命傷
エジプトクーデター=統治機構混乱
総合結果=中東崩壊、戦争難民激増、テロ激増
やっぱりアメカスバカだわ(確信)
日本潰ししてアカ育てまくって冷戦起こしたことから何も学んでない。
今イラクはISISがのさばってるがフセインがいたときは宗教的にも安定していた国だった
クルド人にも迫害などなかったと記憶している
香川県ルーちゃん餃子のフジフーヅはバイトにパワハラの末指切断の大けがを負わせた犯罪企業
共産主義のアホども除けばほとんどユダヤに逆らった人だね・・・
フセイン何も悪くないんじゃね?
でもフセインが死んだらどっち道終わりか
独裁の欠点やな
お仲間公認の独裁者アヘ下痢三も追加してどうぞ
※23
それはない
ヒトラーとかスラヴ人にユダヤ人、ロマの絶滅目論んだ挙句
戦争に負けそうになったら同じドイツ人すら見捨てようとした巨悪やん
経済復興もメフォ手形とかいう偽装国債頼りのハリボテやんけ
鹿児島県立姶良病院・小桜一家日本刀報復事件
鹿児島県立姶良病院の現院長の山畑良蔵は、副院長時代に、自分が虐めたヤクザの患者の反感を買い、その患者の仲間達の暴力団(小桜一家)がベンツ5台で仲間の報復の為に日本刀を持って病院に押し掛けて来た。そして、外来の玄関前でクラクションを派手に鳴らされ、その仲間達によって、山畑が日本刀を持ったヤクザ達に院内中派手に追い掛け回されて、助けを求めても誰も助けてくれない中、怖くなって必死になって逃げ回った経験がある。そして、命懸けの逃亡も虚しく、ヤクザ達に捕まった途端、ヤクザ達に何度も何度も泣きながら土下座して必死で命乞いをして許して貰ったらしい。この時も、ヤクザの襲撃に怯える職員達に「通報をするな!」と命令して必死で圧力をかけたという。当時は副院長だっただけに自分の出世にも影響を及ぼすと危惧したのだろう。部下や患者の安全よりも、自分の出世が最優先とは、あまりにも自分勝手で、人権派が聞いて呆れる!このように、山畑は、身から出た錆とはいえ、命懸けで今の地位を築き上げた。このような過去からして、山畑はゴキブリ並みに相当権力に執着しているものだと思われる。しぶとい老害だ!人権侵害をやりまくりで多方面から恨みを買いまくりの自称人権派とは、笑わせてくれるよ!