日本が世界に誇る、世界最古の木造建築物、法隆寺。
前回の九州年号の話に続いて、今回は法隆寺に隠された九州王朝の痕跡らしきものに迫ってみます。
法隆寺の基礎知識
年代
日本書紀によると、法隆寺が創建されたのはいつか分かりませんw
だって書かれてないんだもん。
一応、日本書紀によれば次の通り。
・601年、厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(法隆寺のあるとこ)に新居を建設し始める。
・605年、新居が完成。引っ越す。
このあたりで、法隆寺も一緒に建立したのではなかろうかと考えられていますが、確証はありません。
焼失
さらに、この7世紀初頭に建てられた法隆寺は、現存する法隆寺とは別物です。
なぜなら、日本書紀に670年4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。と書かれているから。
「一舎も残らず」の所から、随分と大きな火事だったこと、そして現存する法隆寺が670年より後に再建されたものであることが分かります。
法隆寺に伝わる『資財帳』によると、711年ごろには既に再建が完了していたことが読み取れます。
再建
一時期は、現存する法隆寺が再建されたものかどうか、激しい論争がありました。
なぜならば、建築様式から見ると、現存する法隆寺は明らかに7世紀初頭の特徴を有している。
例えば、組み木の細工であったり、五重塔の下層と上層の屋根の比率であったり。
年代が古いほど上下段の屋根の面積差が大きく△に近い型になる。らしい。
もし火事のあと8世紀初頭に再建されたのなら、時代と様式が合わないじゃないか!!というわけです。
結局、現法隆寺の南東すぐ近くに若草伽藍跡という寺の焼け跡が発掘されたため、日本書紀の記述は正しい=法隆寺は再建されたということで、とりあえずは決着がつきました。
位置関係
問題点
しかし、ちょっと冷静に考えてみてほしい。
確かに、書紀を裏付けるように寺の焼け跡はあった。つまり、法隆寺は一度全焼した。
ここまでは良いとしても、それでもやっぱり建築様式と再建年代が合っていないという問題は残ったままです。
さらに調べていくと、法隆寺には奇妙な点がいくつもあるのです。
柱の伐採年代
まず最初は、五重塔の心柱として使われている材木の伐採年代。
真ん中に通っているのが心柱
奈良国立文化財研究所が心柱の年輪を元に伐採年代を算出した結果、なんと594年頃のものと判明しました。
ただ単に「火事で全焼したので一から新しく建て直しました」というだけでは、全く辻褄の合わない話なのです。
なぜ、594年の時点で既にもう伐採されていたのか。
木造建築というのは精緻なパズルであり、計画を立てて初めて必要な部材を確保し加工できるわけです。
最初の法隆寺すら影も形も無い594年の時点で、心柱用の部材を伐採しておけるはずも、理由もないのです。
間違えた基礎
五重塔の心柱の基礎となる礎石は、地中2.7mの位置にあります。
しかし、心柱そのものはなぜかその礎石の上に乗っていません。というか長さが全然足りてなくて、地上部分に後から設置された礎石の上に乗っているのです。
そして、地中の礎石と地上の礎石の間は空洞になっているという不思議。
図にするとこんな感じ
技術的な観点から言うと、7世紀の大和地方では、心柱の基礎は地下3mくらいのところにあるのが普通です。
時代が進んで8世紀頃になると、地下にあった礎石の位置が上昇して地表面くらいの高さになります。これは、木を地中に埋めると湿気で腐食しやすいため、改善されていった結果と思われます。
法隆寺の建屋を作った職人は礎石が地上にあるつもりで心柱を作っています。
つまり、基礎工事を行なった職人よりずっとに進んだ技術を持っていた、ということになります。
しかし、一つの建物の基礎と建屋で、採用された技術レベルが異なるなんて、おかしくないですか? ていうか、失敗してるし。
向きを間違えてるっぽい
まず、法隆寺の伽藍配置はこのようになっています。
で、横並びになっている五重塔と金堂を正面(南側)からみてみると。
お分かり頂けただろうか…。
金堂の方は、本来正面から見えないようにするべき「小口(東西面の石組の端っこ)」が正面に見えてしまっています。
模式図でいうと、こうなっとるわけです↓
まるで建物の配置を90°間違えてしまっているかのように見えます。
実際、今現在の法隆寺では、この小口は正面から見えないように「補修」されています。
その他あれこれ
・建物の部材には、どこに使うものか分かるように「記号」が書かれているが、法隆寺には存在しない位置を示す記号がある。
・建物内部なのに、十数年間というレベルで風雨に晒された痕跡がある。
・後から交換できないような位置に、他とは木質の異なる部材が使用されている。
というように、法隆寺にはいくつもの不可解な事実が指摘されています。
結論
こうした不可解な事実に説明をつけるとするならば、法隆寺の再建は、一から新築したのではなくどこかにあったお寺を移築したと考えるしかありません。
もともと斑鳩の地ではないどこかに建っていた寺を分解して、丸ごと持ってきちゃったというわけ。
移築で全て説明がつく
①建築年代と建築様式が合わない
もともと既に建てられていたものを持ってきたのだから、むしろ辻褄が合います。
②心柱の伐採年が早すぎる
移築前の寺が、594年らへんに建てられたということになります。
③基礎を間違えてる
移築前の寺は、地上部に礎石を置くような、進んだ技術でもって建てられたことになります。
斑鳩にはそこまで進んだ技術はなく、いつも通り地下に礎石を置いて工事を進めていったら、心柱の長さが足りなかった。
それで慌てて地上部に礎石を差し込んだと考えられます。
④向きを間違えてる
元の寺から少し配置を変えて見たけど、小口にまで気が回らなかった(ノ≧ڡ≦)
⑤法隆寺には存在しない位置の記号
元の寺から向きを変えた結果、存在しない位置が発生してしまったことになります。
⑥建物内部なのに、風雨にさらされた痕跡
一度バラされた部材が、長期間屋外に置いとかれた。
これ以外に、建物内部に風蝕の痕跡が残る理由はないでしょう。
⑦後から交換できないような位置に、他と木質の異なる部材
膨大な部材の山から、目的の部材を探し出せなかった。部材の搬送中に紛失した可能性もあるかもしれません。
いずれにせよ、不足の部材はその場で作るしかありませんので、結果として木質の異なる部材が混入してしまったのです。
どこから来たの?
あんな立派な寺院を丸ごとバラしてもう一度組み立てる工程を想像すると、発狂しそうなほど面倒くさそうです。
しかしこれは、完成したプラモデルをバラしてもう一度組み立てるのと、パーツを削り出すところから始めるのと、どっちが良いかという話です。
そう考えれば、移築の方が楽だし、仕上がりも良さそう。
残る問題は、移築したその寺はもともとどこにあった何という寺なのかであります。
そのヒントとなるのは、前述した柱基礎の技術。
既に地上に礎石を据えていたのは
6世紀末〜7世紀初頭にかけて、礎石を地上部に据える技術は、当時の近畿地方にはありません。
7世紀までに建てられた近畿地方の古い寺院は、例外なく全て地中に礎石を埋めていました。
その時代に、既に地上部に礎石を置く建築技術を持っていたのは、九州だけでした。
例えば、福岡県太宰府市にある観世音寺という古い寺。
これは建立の経緯や年代がはっきりしていませんが、遅くとも7世紀にはもう着工しています。
そして、その心柱を支える基礎は、しっかり地上に据えられています。
この礎石は設置以来一度も動かされていないのが確認されています
この観世音寺が法隆寺の移築元である証拠はありませんが、それでもこの太宰府のあった九州の筑紫地域以外に、7世紀時点で礎石を地上に据える技術を持っている地域は無かったのであります。
したがって、法隆寺は筑紫地方にあった寺院を丸ごと移築したものである可能性が高いのです。
前回ご紹介した九州年号といい、この法隆寺といい。
やはり九州には畿内とは異なる文化があったのではないかと思わされます。
いずれ、この九州王朝説については詳しく扱ってみたいと思います。ちょっと今の管理人では荷が重いので、いずれ。
参考文献、サイト様
法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ
法隆寺のものさし―隠された王朝交代の謎 (シリーズ・古代史の探求)
法隆寺の中の九州王朝 (朝日文庫―古代は輝いていた)
法隆寺
うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
古田史学とMe