ようやくライフルの話まで辿り着きました。
その前にいちおうおさらいですが、マスケット銃の定義というのは、
- 弾や火薬を前から詰める
- 銃身の内部がツルツル
です。
この2つは、マスケット銃の定義であり、マスケット銃の命中率を絶望的なものにしている原因でもありました。
命中率を上げる
「命中率を上げる」というのは、要は「狙った所にまっすぐ弾を飛ばす」という事であります。
マスケット銃は弾にランダムな回転がかかるため、撃つたびにあちこちに飛んで行ってしまうのです。
回転
ならばどうするか。
答えは簡単。弾丸に対して進行方向を軸とした回転を与えれば良いのです。
回転している物体は、その回転軸が安定するという性質を持っています。
いわゆる「ジャイロ効果」。コマを回転させると軸が安定して自立するのと同じ現象です。
なお、「回転させると弾道が安定する」という事実は、銃の登場以前から、弓射手の間では経験的に知られていました。
例えばクロスボウの矢なんかは、矢羽を少しずらしたりして、意図的に回転させるように工夫されていたのです。
そうした知識がベースとなって、15世紀の終わりの時点ですでに、ドイツの鍛冶職人が「銃身内部に螺旋状の溝を刻む」というアイデアを実現しています。
しかし、結局のところ、溝を切るのは手作業なので、量産は無理。
こういうフックのついた道具でガリガリ削る
さらに、溝に弾丸を食い込ませないと回転しませんので、弾と口径は最低でもピッタリじゃないといけません。本当は弾が少し大きいくらいがベスト。
前込め式の銃しかない時代は、相当苦労して弾を無理やり前から押し込んでいました。
ただでさえ連射のきかないマスケット銃。
高い命中率と引き換えに装填に時間をかけるくらいなら、数を揃えて一斉射撃の方が断然マシでした。
そのため軍用銃としては不適格と見なされ、15〜16世紀のヨーロッパでは、ライフル銃のメインユーザーは猟師くらいのもんだったのであります。
猟兵
17世紀に入っても、相変わらずライフル銃は量産できませんでした。
ライフリングを手作業で刻むのはとても難しい技術で、誰でもできるような技術ではございません。
しかし、ライフル銃の高い命中率と長い射程距離は、少しずつ見直されるようになっていきます。
ドイツはライフリング技術を継承していた数少ない地域の一つで、ドイツ人傭兵は各国でレアな「狙撃兵(猟兵)」として活躍するようになっていきます。
イェーガー(Jäger)
狙撃兵は、数はあまり揃えられなくても、遠くから敵の司令官や砲兵を狙撃できます。うまく使用すれば敵陣の指揮系統を壊滅させることができ、非常に有効な兵科でありました。
アメリカ独立戦争
このドイツのライフリング技術は、ドイツ系移民によって、新大陸アメリカへも伝わっていきます。
そんな中、イギリスとアメリカ現地住民の間で勃発したのか、アメリカ独立戦争(1775)。
ブリカスが自国の財政難を解消するために、新大陸に重税をかけようとしたことをきっかけに、事態は植民地の独立戦争へと発展してしまったのです。
この時、イギリスはきちんと組織された軍隊を持っていましたが、アメリカ側は民兵(地元のおっさん)の寄せ集め。
数の上ではアメリカが勝っていましたが、その練度や規律はイギリス軍の足元にも及ばないものでした。
しかし、この独立戦争の結果は、アメリカ軍の勝利に終わっています。
その勝因の一つに挙げられるのが、「民兵がライフル銃を装備していたこと」。他にも、補給線の問題とか、士気の問題とか、フランスからの支援とか、色々ありますが。
イギリス軍の基本装備は、旧態依然のマスケット銃。
一方、アメリカのおっさん達は、ライフル銃を装備していたのであります。
ケンタッキー・ライフル
このライフルを持ったおじさんたちは、ライフル銃を片手に1分で戦闘準備ができたため、ミニットマンと呼ばれるようになります。
40秒60秒で支度する男たち
1777年の「サラトガの戦い」では、猟師上がりのミニットマンが273mの距離からイギリス軍司令官を狙撃するなど、イギリス軍に多大な被害を与えています。
銃もようやく飛び道具っぽくなってきました。
ライフルを持っていたわけ
なお、アメリカの民兵たちはライフル銃は、軍用銃として用意されたものではなく、狩猟用・護身用として普及していたものです。
当時のアメリカはまだまだ開拓が進んでおらず、食力は狩猟によって得る必要がありました。また、突然バッファローの群れとかに出くわすことも多く、アメリカ人男性は皆ライフル銃の扱いに長けていました。
そうした事情が幸いして、独立戦争でライフル銃兵として大いに活躍できたわけです。
そして、この経験は、アメリカ人の銃に対する意識に今でも大きな影響を与えています。
彼らが銃社会を脱却するつもりがない事の背景には、こうした歴史もあるのかもしれません。
ライフルの進化
ライフリングを刻む
19世紀に入ると、産業革命を契機として、様々な工作機械が発明されるようになります。
そんな中、より簡単に、一定の品質でライフリングを刻む方法が考案されました。
その一つがこちら。
これは、外側の木枠に溝を切って往復運動に回転を与え、一定の螺旋を刻むアイデアです。
その後も工作機械は進化が進み、様々なライフリングの方法が考案されます。
・「ブローチ」と呼ばれる刃を、鉄パイプに突っ込んで溝を削る方法。
ブローチ。左から右へ、少しずつ刃が大きくなっていきます。
・完成型より少し口径の小さい鉄パイプに「ボタン」と呼ばれる工具を突っ込んで、溝を無理矢理押し広げる方法。
ボタン。
こうして、マスケット銃は、ライフル銃となり、少しずつそのシェアを伸ばしていきます。
ミニエー弾の発明
ライフル銃の欠点の一つ、ライフリングの「めんどくささ」については、こうして技術の進歩が解決しました。
それでは、もう一つのライフル銃の欠点、「装填しにくい」については、どうだったのでしょうか。
ライフル銃は、前(銃口側)からライフリングに食い込むほどの大きさの弾を装填しなくてはなりませんが、単純に力で押し込むほかありません。
これが、致命的な装填しにくさを引き起こしており、軍用銃としての普及を妨げていました。
この問題を一挙に解決したのが、フランス陸軍のミニエー大尉が1849年に発明した「ミニエー弾」でした。
このドングリ型のミニエー弾自体は、銃口より少し小さく、マスケット銃と変わらない労力で装填が可能でした。
銃口より小さいと、ライフリングに噛み合わず、うまく回転しませんよね。
しかし、このミニエー弾は、底がくぼんでおり、そこに陶器製の円盤が仕込まれています。
いざ発射されると、その円盤が弾底のくぼみを押し広げて、ガッチリとライフリングと噛み合います。
これが、弾に正確な回転を与え、命中精度は飛躍的に向上しました。
また、弾の形状も現在のものに近い円錐形になっており、球型よりも長く、重い。
さらに、ふくれたくぼみが火薬の燃焼ガス漏れを防いだため、破壊力もそれまでとは段違いの凶悪兵器となりました。
ミニエー弾で撃たれた兵士。痛そう。
ミニエー弾で撃たれた頭蓋骨。即死である。
これは、たちまち欧米各国でコピーされ、「エンフィールド銃」や「スプリングフィールド銃」という有名な銃の開発へと繋がっていきました。
エンフィールド銃
スプリングフィールド銃
雷管の発明
着火方式にも進化が訪れます。
それまで主流であったフリントロック式の欠点は、雨の日には火花が出ずに使えないこと。
そして、引き金を引いた瞬間、火打石が擦れた衝撃で手元が大きくブレること。
この二つを克服したのが、現代の銃弾には欠かせない「雷管」という装置です。発明者は1807年に特許を取得しています。
雷管というのは、中に雷酸塩という、僅かな衝撃で爆発する超危険な薬品が少量詰められた代物。
この雷管を叩いたり針で刺したりして衝撃を与えることで、雷酸塩が爆発、火薬に着火させるというものです。
1807年に紙製の雷管が発明されましたが、危ないのでちょっと実用化はできませんでした。
しかし、1822年には銅製のリチウム電池みたいな容器が発明され、「パーカッションロック式」という着火方式が成立しました。
それまでのフリントロック式で火花を起こしていた部分にこの雷管を仕込めばOK。ちょっとした改造で済むというのも嬉しい点でした。
火種が全く必要ないため、雨天でも普通に使用でき、発射しても閃光とか出ないという、夢のような起爆装置だったのであります。
薬莢
銃を撃つためには、「弾」と「火薬」と「火薬に火をつけるもの」の三つが必要です。
で、マッチロックもフリントロックもパーカッションロックも、これらが全部バラバラでした。そのため、相変わらず装填には手間がかかっていたわけです。
時代が進むにつれて、「弾」と「火薬」はセットになっていきましたが、なかなか着火装置まで一つにはできなかったのですね。
しかし、雷管の発明により、それがようやく実現できる下地が整いました。
雷管いろいろ
後ろから入れる
それまでのすべての銃は、装填方法が前からの時点で原理的に連射できません。
その解決策として「だったら後ろから入れればいいじゃない」というアイデアは、15世紀にはもう存在していました。昔の人はえらい。
最初の後装式は、大砲に採用されています。
大友宗麟が輸入した「国崩し」。1576年くらい。名前がかっこいい。
また、銃に関しても18世紀初頭にはもうスペインやイギリスで実用化されていました。
スペインの後装式マスケット銃。1715年くらい
ファーガソンライフル。1770年くらい。
ファーガソンライフルの取説。
このファーガソンライフルなんか、1分間に5〜6発も打てるという優れもの。例のアメリカ独立戦争でもイギリス軍が少し採用しています。
が、導入された数が少な過ぎて、全く目立ちませんでした。
それもそのはず。
産業革命のおかげで金属加工技術は飛躍的に進歩したものの、それでもまだこの後装式の機構は複雑すぎたのです。
当時はまだ大手銃器メーカーとか無いので、あちこちの零細メーカーや小さな鍛冶屋とかに分散して発注していた状況。彼らがこれを製造するには、ちょっと荷が重すぎました。
また、この複雑な機構は、ガスが漏れ放題で威力はイマイチ、事故も起きやすく、そして壊れやすい。
というわけで、残念ながら軍用銃にはあんまり向いていませんでした。
ドイツの科学力は世界一ィィィッ
1841年、こうしたライフル関連の進歩はようやく一つの形になります。
その偉業を達成したのは、プロイセン(ドイツ)で開発された「ドライゼ銃」という銃。
開発者は、プロイセン(ドイツ)の銃工ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼ。
実に12年間にも渡る無数の試行錯誤の末に完成したものであります。
この銃の素晴らしい点は二つ。
一つは、銃身後部の薬室につけられたハンドル。
これを下げると薬室が開放され、そこに専用の紙製薬莢を入れ、ハンドルを押し薬室を閉鎖するだけで装填を完了することができる革新的なシステムでした。
装填のイメージ。簡単そう
もう一つは、紙製薬莢の中に雷管が仕込まれていたこと。
引き金を引くとバネの力で長いハリが雷管を貫き、それが爆発することで発砲します。(この長いハリゆえに「ニードルガン」と言われました)
爆発に晒される針の寿命は200発程度
装填に関して言えば、前込め式と比べて軽く5倍以上。毎分10〜12発という驚異的な連射性能を誇りました。
その上、手元のハンドル操作だけで装填できるため、身を伏せたまま作業が完結するという圧倒的なアドバンテージを持っていました。
しかし、開発当初、このアドバンテージは誰にも理解されず、またドライゼ銃は前込め式と比べて薬室の密閉性が低いため、どうしても飛距離に劣っていました。
こうしたことから、採用したプロイセンにおいても冷遇され、欧州各国はほとんどドライゼ銃に興味を持ちませんでした。
しかし、プロイセンが1860年代に各地の戦争で勝利を積み重ねるうちに、ドライゼ銃の実力が証明されていきます。
プロイセンの強さを目の当たりにしたフランスは、大慌てでドライゼ銃をコピーした「シャスポー銃」を開発し、大量配備に成功します。
シャスポー銃は、ドライゼ銃より射程距離が倍近くもあるという優れもの。
なお、ドライゼは、ドライゼ銃を開発した功績で爵位を叙されています。
戦列歩兵の終焉
こうして、銃は加速度的に進化のスピードを上げましたが、いくら優れた兵器といえども、実戦での試行錯誤なしには最適な戦術は生まれません。
その悲しい例が、アメリカにおける南北戦争(1861)であります。
南北戦争
南北戦争は、ご存知の通り、「奴隷制の是非」に端を発するアメリカでの内戦。細かいことは置いときますが、この内戦は、アメリカ史上最も大量の死傷者が出た戦争でもありました。
その大量の損害の原因は、戦列歩兵作戦から脱却できなかったことであります。
思い出してください。
戦列歩兵という戦術の大前提は、マスケット銃の命中率がクソだということでした。
敵の弾はあんまり当たらないから、みんなで前進できる。そして、こちらの弾もあんまり当たらないので、少しでも近づいてから撃たなくてはならない。
ところが、南北戦争の時点では敵の銃は普通に命中しますし、こちらの銃も普通に命中します。
だってお互いにライフルなんだもの。
敵に近寄ると狙い撃ちになるため、攻撃側のリスクは激増。
防御側が「塹壕」にこもって敵を迎え撃つという戦術も、南北戦争から使われ始めたものでした。
南北戦争での将軍たちは、こうした状況の変化によく対応していました。それでもやっぱり攻撃する際には「隊列を組んで前進する」という発想から抜け出すことはできませんでした。
北軍南軍どちらも、このパターンでこっ酷くやられていますが、その代表的な例が、1863年のゲティスバーグの戦いにおける、「ピケットの突撃Picket’s Charge」でありました。
Picket’s Charge
この戦いは、3日間にわたって繰り広げられたものですが、1〜2日目は、名将リー将軍率いる南軍がまあまあ優勢に進めていましたが、北軍もかなり頑張り陣地を守り抜きます。
そして3日目。
北軍にどんどん援軍が集まり始めたことに焦ったリー将軍は、ピケット将軍たちに敵陣中央への歩兵突撃を命じます。
突撃の効果に疑問を持つ部下もいむしたが、ピケット将軍は「いっちょやりますか!」とノリノリで、総勢12500人もの横隊を組みました。
ピケット将軍。
その長さは、横1.6kmにもなったと言われています。
敵陣までの距離は、およそ1.2km。この距離を、ピケット達は粛々と歩み始めました。
レミングスの完成形。
集中砲火を浴び、次々に倒れる南軍兵士たち。
この突撃はもはや屠殺でしかなく、たった1時間後には死傷者は50%にも上りました。
もちろん、ほとんど何の戦果も上げることなく撃退されたわけですが、奇跡的にピケット自身は無傷で生還しています。自陣に戻った際のヘコみようは尋常ではなかったと伝えられています。
なお、南軍はこの大敗以後勢い取り戻すことはなく、1865年に南北戦争は終結を迎えます。
この戦争により、戦列歩兵という兵科は完全に終焉を迎えました。
これ以降は、兵をなるべく密集させない散兵戦術、そして塹壕に篭って敵と睨み合う塹壕戦が主流となっていきます。