カステランマレーゼ戦争で、自分のボスを裏切り、抗争を終結へ導いたラッキー・ルチアーノ。
一度人を裏切った奴は、何回でも裏切りよる。
そんな某映画のセリフが思い起こされます。
果たして、マッセリアを裏切ったルチアーノの心中は、どのようなものだったのでしょうか。
裏切りの理由
ラッキー・ルチアーノは、新世代を代表するマフィアでした。
彼の思想の根底にあるのは、「合理性」。
古いしきたりにこだわらず、マフィアの活動を「ビジネス」と捉える先進性を持っていました。
そんな彼からしてみると、旧世代のボスは老害でしかありません。
元々、ルチアーノのボスだったジョー・マッセリアは、恐怖と暴力で相手に言うことを聞かせるタイプのマフィア。
ルチアーノからすると、こんな乱暴なやり方では先は無いと感じるわけです。
一方のサルヴァトーレ・マランツァーノは、シチリア人純血主義でした。
これも、ルチアーノの目には無意味なこだわりと映ります。多民族国家であるアメリカで活動をしていく上で、人種や民族、出自をベースに組織を作るなど、ナンセンスでした。
新世代のルチアーノは、いつからか、これらの非合理な考え方・やり方が、コーサ・ノストラの成長を阻害すると考えるようになっていきました。
そして、1931年に、ルチアーノは「シチリアの晩祷の夜」と呼ばれる大量虐殺を行うこととなります。
シチリアの晩祷の夜
1931年4月、ジョー・マッセリアが暗殺され、カステランマレーゼ戦争が終結。
勝者のマランツァーノは高らかに勝利宣言すると共に、全米に広がるファミリーの整理と、新たなルールの周知を行いました。
まず、入り乱れていた全米のファミリーの縄張りを規定。自分に味方した勢力を中心に、24のファミリーに整理しました。
基本は一都市に一ファミリーですが、ニューヨークだけは市場がデカいので、5つのファミリーで統治することとしました。
ボス:サルヴァトーレ・マランツァーノ
合法的な不動産ビジネスの傍ら、麻薬取引、管理売春を中心に収益を上げていた。
ボスのマランツァーノは、カステランマレーゼ戦争を制した事により、「ボスの中のボス」としてコーサ・ノストラに君臨した(半年間)。
ボス:チャールズ・”ラッキー”・ルチアーノ
マッセリアの地盤を引き継ぎ、5大ファミリーの中でも最大の規模を誇った。
また、組織の統制がよく取れている事でも知られ、現代に至るまで、このファミリーで血の掟を破った者はほとんどいない。
ボス:ヴィンセント・マンガーノ
港湾区域の労働者からのピンハネと積み荷の窃盗が主力。
また、「マーダー・インク後述」の設立・運営にも深く関わっており、ボスのマンガーノのあだ名は処刑人。
ボス:トミー・ガリアーノ
政界や労働組合に強い影響力を持っており、またガソリン、精肉、砂糖関連のビジネスを牛耳っていた。らしい。
非常に慎重な人物で、その実態は殆ど知られていない。
ボス:ジョゼフ・プロファチ
ボスのプロファチ自身は、当時アメリカ最大のイタリア産オリーブオイルの輸入業者で、巨万の富を得ていた。
なお、ドケチな事でも知られており、かなり部下から嫌われていたとか。
また、こうしたファミリーの整理と合わせて、マランツァーノは非シチリア人のコーサ・ノストラ加入を禁止しました。
ルチアーノは、この独裁的・排他的なマランツァーノのやり方に反感を持ちますが、マランツァーノもまたルチアーノの反感を敏感に感じ取っており、互いに暗殺する隙を狙っていました。
そして、1931年9月10日。
マランツァーノはルチアーノを事務所に呼び出しました。狂犬コールという殺し屋を雇い、ルチアーノが現れたところを殺すという算段でした。
しかし、ルチアーノは既にこの暗殺計画の情報を掴んでおり、これを逆手に取って一気にコーサ・ノストラの世代交代を行うことを決意します。
まずは、呼び出されたマランツァーノの事務所へ警官に変装した4人のヒットマンを送り込み、逆にマランツァーノを殺害。
哀れなマランツァーノ。
それと同時に、全米の旧世代のボス達へもヒットマンを送り、殺害(または強制引退)。
この時に殺されたボスは40人に上ったと言われています。
これが「シチリアの晩祷の夜」。
全てがたった48時間のうちに行われた、鮮やかな革命でした。
新生コーサ・ノストラ
こうして、実質的に「ボスの中のボス」の座に就いたラッキー・ルチアーノは、精力的に組織改革を実行していきました。
コミッションの設立
「全米に広がるファミリーの活動の監督」
「ファミリー間のイザコザを仲裁する」
この二つを担う機関として、ルチアーノは「コミッション(委員会)」を設立しました。
運営は合議制とし、そのメンバーは、NY5大ファミリーに加え、シカゴ・アウトフィット(アル・カポネのとこ)、バッファロー・ファミリーの、計7ファミリーのボスたちでした。
ルチアーノの影響力は多大なものでしたが、決して「ボスの中のボス」になろうとはせず、公平さを強調しました。
制裁機関の設置
コミッションの言うことを聞かない構成員、また組織に害を与える者への抑止力として、制裁機関通称「マーダー・インク(殺人株式会社)」を設置。
延べ数百人以上を葬ったと言われていますが、一般人は巻き込まない等、一定のルールの元で運営されていたようです。
マーダー・インクのリーダー、ルイス・バカルター。
コーサ・ノストラの大物ボスで唯一死刑になった人物。
最も恐れられた殺し屋、エイブ・レルズ。
アイスピックを耳から脳へ刺して、病死に見せかけるのが特技。
こうした改革を通して、ルチアーノはコーサ・ノストラを近代的なビジネス組織へと変貌させていきました。
ルチアーノ、捕まる
1930年頃より、トーマス・デューイという正義感あふれる検察官が、組織犯罪の撲滅に全力を注ぐようになります。
トーマス・デューイ。野心家。
このデューイにより、多くのコーサ・ノストラのメンバーが起訴、投獄されされました。
一部のメンバーは、このデューイを暗殺するようコミッションに持ちかけましたが、ルチアーノ達は、さらなる取締りの強化の方がリスクが高いと判断し、暗殺計画を却下。
しかし、デューイの勢いは増していく一方。
1936年には、ルチアーノを「公共の敵NO.1」と名指しで批判し、ルチアーノ逮捕に全力を注いできます。
ルチアーノは、一時的にアーカンソー州へと避難しますが、同年4月1日、油断してカジノで遊んでいるところで御用となり、ニューヨークへと連行され、裁判にかけられました。
ルチアーノにかけられた容疑は殺人・恐喝・密造酒関連・管理売春など多数ありました。
通常、ルチアーノレベルのマフィアは、自分が直接犯罪に関わらないよう細心の注意を払います。事実、客観的に見れば、ルチアーノを有罪にする証拠はありませんでした。
しかし、デューイ側もその事は十分承知しており、売春宿をガサ入れし、逮捕しない代わりとして、娼婦たちから証言を引き出していました。
結果として、ルチアーノは禁固30~50年という重い刑罰を宣告されました。
衰えぬ権力
こうしてルチアーノは、ニューヨーク州の端っこにあるダンネモーラ刑務所へと収監されます。
監視が厳しく、ギャング達すら「シベリア」と恐れた。
しかし、ルチアーノがそれまでに得ていた信望は大きいもので、収監後も定期的に面会に来る側近を通して組織の運営を行っていました。
また、刑務所内でもけっこう快適に過ごしており、食事も特別なもの、ラジオや新聞も持ち込んでいました。
ただ、1938年に先の裁判の再審議申請が却下され、刑が確定すると、ルチアーノはボスの座を降りることとなります。
その後、ファミリーでは、下の2人の間で後継者争いが繰り広げられていきますが、それはまた別のお話。
フランク・コステロ。
「暗黒街の首相」の異名を持つ。
ヴィト・ジェノヴェーゼ。
映画「ゴッド・ファーザー」のドン・ビトーのモデルと言われている。
暗黒街作戦
このまま刑務所で朽ちていくかと思われたルチアーノでしたが、第二次世界大戦の勃発をきっかけに、転機が訪れました。
当時、枢軸国の工作員による破壊工作で、ニューヨークを始めとする東海岸一帯の港は多くの被害を受けていました。
アメリカとしては、これに対処すべく港の警戒を強めたいのですが、港湾労働者には前科者なんかが多く、海軍や警察に対して協力的ではありません。
そのため、工作員が紛れていても、どうにも見つけようがありませんでした。
その打開する苦肉の策が、ルチアーノとの連携でした。
ルチアーノが口利きすると、瞬く間に港湾労働者も協力的になり、ようやくスパイの監視が可能となりました。
これに対するルチアーノへの見返りは、ニューヨーク中心部に近い刑務所への移送でした。これにより、待遇が改善され、ファミリーとの連絡も取りやすくなりました。
さらに1943年、海軍はルチアーノへさらなる協力を依頼をします。
それは、シチリア島への上陸作戦、通称「ハスキー作戦(Operation Huskey)」への協力でした。
第二次世界大戦中の1942年中盤まで、ヨーロッパの大半はナチス・ドイツに占領されている状態。
大西洋側もドイツの潜水艦が圧倒的優位を保っていました。
ナチス・ドイツの最大領土(1942年)
連合国軍としては、早期にヨーロッパへ上陸し、直接枢軸国を叩く必要がありました。その第一歩として考案されたのが、シチリア島への上陸作戦でした。
ヨーロッパへの足がかりとしてシチリア島が選ばれた理由は、その立地条件。
ご存知の通り、シチリア島は地中海のど真ん中に位置しており、連合国が支配しているアフリカ大陸側からも近づきやすく、航空支援も受けやすかったのです。
相変わらず、歴史に翻弄されるシチリア島…
これに対し、防御側の枢軸国も、ドイツ軍6万、イタリア軍19.5万が集結。激しい戦闘になることが予想されました。アメリカはそこで、マフィアに目をつけたのです。
ルチアーノがアメリカへ渡ってきたのは9歳の頃。彼自身にシチリア本土のマフィアとのコネクションはほぼありませんでした。
しかし、他のファミリーのボス達の協力を得て、シチリアの大ボスから連合国への協力を取り付けることに成功します。
そもそも、シチリアン・マフィアも、ムッソリーニにはこっぴどくやられていた為、綺麗に利害が一致したわけですね。
なお、この頃、刑務所にいるはずのルチアーノの姿が、シチリア島で目撃されています。地元マフィアとの調整の為と考えられていますが、超法規的措置を取るほどルチアーノの働きは重要視されていた事が分かります。
マフィアの働きにより、枢軸国側の動きは連合国へ筒抜けとなり、シチリア島上陸作戦は大成功。ムッソリーニも失脚。
連合国は、見事に民衆を「悪い」ファシスト政権から解放することが出来ました。
そして、連合国はシチリアの新たな町長や村長に、多くのマフィア構成員を任命しましたw
おかげで、ムッソリーニにより虫の息となったマフィアは、無事に息を吹き返したという…。
なお、1945年にドイツが降伏すると、第二次世界大戦の大勢も決してきました。
そこで、ルチアーノは自分を刑務所に叩き込んだトーマス・デューイNY州知事(検察官から出世した)へ恩赦を求める嘆願書を提出。併せて多額の政治献金も送りました。
これを受け、政府は「イタリアへ強制送還」という条件付きで、ルチアーノを釈放しました。
1946年2月、ルチアーノはニューヨーク港を船で出発。船内では盛大な送別パーティーが行われました。
晩年
ルチアーノは結局、生きてアメリカの土を踏むことはなく、イタリアで愛人とともに暮らしました。
お金は死ぬほどありましたので、毎日高級レストランで食事をするなど、たいへん優雅な生活でした。
愛人のイゲア・リッソーニとともに
愛犬の”バンビ”
もちろん、ルチアーノは引退したわけではありません。
コーサ・ノストラとのコネクションを活かして麻薬の密輸ルートを構築するなど、1960年代の麻薬王として、相変わらずシチリアの暗黒街に君臨し続けました。
この麻薬密輸ルートは、シチリア・マフィアのさらなる飛躍に繋がりましたし、中継地がパレスチナだった事から、パレスチナゲリラへ資金作りのノウハウを教えたという面もあったりします。
ルチアーノの死
1962年1月16日。
ルチアーノは、突如心臓発作を起こし、亡くなりました。
確証はありませんが、ルチアーノの死は、コーサ・ノストラによる暗殺ではないかと言われています。
というのも、ちょうどその頃、ルチアーノは自伝映画の企画を持ち込まれ、これを承諾していました。
これを知ったコーサ・ノストラの幹部達は猛反対。かつての右腕や盟友も怒り狂ったと伝えられています。
確かに血の掟を破るも同然なので、当たり前ではありますが。
そういった中、プロデューサーとの打合せの直後、ルチアーノは心臓発作を起こして死んでしまったわけです。タイミング的にはもろ暗殺ですが、まあ証拠はないのでその辺は有耶無耶になってしまいました。
ルチアーノの葬儀はナポリで行われ、300人が会葬に訪れました。
葬儀の様子
その後、遺体はニューヨークへ移送され、セント・ジョーンズ墓地に埋葬されました。
生涯を通じて闇社会に大きな影響を与え続けたラッキー・ルチアーノ。20世紀最大の犯罪者として、今もその名は色褪せません。