あらゆる時代、地域に奴隷は存在しており、人類の歴史と奴隷は、切っても切れない関係と言えます。
いわゆる「人権」的なものを認められず、モノとして扱われたのが奴隷です。一番多いパターンは、戦争に負けて奴隷になるというもの。
古代ギリシャ・ローマの奴隷制は有名ですが、イスラム世界や中国、そして日本にも奴隷は存在しており、彼らは農業や鉱山などの労働力、召使い、生贄など、様々な用途に使用されていました。
ただ、悲惨なイメージの強い奴隷ですが、時代や地域によって、その悲惨の度合いはマチマチです。
古代ギリシャ・ローマ時代の奴隷の中には、高い教養を持って教師や秘書として活躍した者もいました。カエサルの先生も、奴隷でした。
また、イスラム世界では、奴隷はあくまで身分の一つであり、能力次第では奴隷からクラスチェンジする事も可能でしたら。君主や宗教指導者にまで上り詰めた者もいたようです。
今日の我々が奴隷というものに対して抱くイメージは、その多くが奴隷貿易で連れてこられたアフリカ黒人奴隷の境遇によるものなのです。
強烈な鞭打ちの痕…
アフリカ黒人奴隷…
アフリカの黒人を奴隷としてヨーロッパに連れて来るという行為は、15世紀の中頃から始まりました。
そのきっかけは、時のローマ教皇がポルトガル人に、「異教徒を永遠の奴隷にする許可」を与えた事。非キリスト教圏への侵略に、大義名分が与えられたのです。
この頃のヨーロッパは、ちょうど大航海時代に突入するタイミングでした。多くの商人、冒険家、航海者が、一攫千金を夢見て大海原へと飛び出して行きました。
一方のアフリカでは、黒人の王国が相互に部族闘争を繰り返し、消耗していました。その為、ヨーロッパからの航海者が持ってくる魅力的な品々は欲しいけど、金がないわけです。
そこで、彼らは戦争で捕まえてきた他部族の黒人を売却するようになります。
当時、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸に植民地を持っていましたが、虐殺や伝染病により、原住民が激減し、労働力が常に不足していました。そこで注目されたのが、この屈強な黒人奴隷でした。
こうして、ヨーロッパ-西アフリカ-カリブ海を結ぶトライアングルが形成されます。
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アフリカの黒人奴隷をアメリカへ(黒い積荷)
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アメリカの綿・砂糖・コーヒー豆をヨーロッパへ(白い積荷)
これを、大西洋三角貿易と言います。三角形を時計回りにぐるっと一周するわけです。
初期の奴隷貿易は、あくまでも商人や航海者の私的な金儲け。その規模もさほど大きくはありませんでした。
しかし、三角貿易の旨味が認識されるにつれ、その規模はどんどん大きくなり、やり方も狡猾になっていきました。
三角貿易のキモは黒人奴隷をいかにして確保するか。かといってヨーロッパの商人が自ら奴隷を狩りに行くなんていう野蛮で面倒な事はしたくありません。
そこで、ヨーロッパの商人は、アフリカの対立する部族へそれぞれ武器を売るようになります。部族間の闘争を煽って、戦争捕虜(=奴隷)がたくさん発生するよう仕向けます。
黒人を奴隷として捕まえて売りさばくのは、あくまでも、現地の黒人なわけです。
この三角貿易は、ヨーロッパも儲かりましたが、アフリカの黒人王国もかなり儲かり、大いに栄えました。
あまりにも良い値段で奴隷が売れるものだから、たまに奴隷狩りに遠征に行ったりもしていました。
こうして、ヨーロッパ諸国とアフリカの諸王国は、win-winの関係を構築していきました。
最初のうちは、ポルトガルとスペインが奴隷市場を独占的に仕切っていましたが、やがてイギリスが主導権を握るようになっていきます。
奴隷のお値段
悲しい事ですが、この当時、奴隷は「モノ」でした。命は地球より重いなどという発想はありません。従って、その値段は完全に需要と供給のバランスによって決まります。
出典:『コインの散歩道』
徐々に値段が上がっているのが分かりますね。1680年代に5ポンドに満たない仕入値が、1780年には20ポンド近くまで高騰しています。
当時の1ポンドはだいたい10万円くらいの価値ですので、仕入値で50万円だったのが200万円にまで高騰していったのです。
これは、西アフリカの沿岸周辺から奴隷を調達しにくくなってきた事をを示します。要は、乱獲で誰もいなくなってしまったわけです。
当然、末端価格(アメリカでの奴隷の値段)も、20ポンドが45ポンドまで上がっています。
上のグラフによると、奴隷貿易初期の1680年は5ポンドの奴隷が20ポンドで売れたわけですが、まさにぼろ儲けです。粗利75%。1000万円分の奴隷をアメリカに連れて行くと、4000万円分の砂糖と綿になったのです。
実際には、奴隷貿易は三角貿易ですので、船はおおよそ2~3ヶ月をかけてヨーロッパ→アフリカ→アメリカを一周します。黒人奴隷以外の取引の粗利率を30%と仮定すると、
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アフリカで1400万円で売り、その分の奴隷を買う
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アメリカで5600万円で売り、その分の砂糖と綿を買う
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本国で8000万円で売る
という事です。8倍だぞ、8倍!
これを3周でもしてご覧なさい。8×8×8=512倍です。当人にしてみたら笑いが止まりませんな。
奴隷貿易の功績
このようにたいへん儲かる奴隷貿易ですが、実際には船の沈没リスクや奴隷の反乱リスクなんかがありましたので、この数字は机上の計算です。
そのリスクをヘッジするために、ヨーロッパでは海上保険が発達しました。世界最大の保険組合「ロイズ保険組合」は、元は「ロイズ・コーヒー・ハウス」というコーヒー屋で船主たちが集まって情報交換していた事に由来しています。
ロイズ・コーヒー・ハウス
やがて、ロイズ・コーヒー・ハウスには、保険の引受人も集まるようになり、船舶保険を扱うようになりました。
当時、ロイズが設定していた保険の利率は24~36%。船の耐用年数や船の規模などいろいろな要素を踏まえた数字でしょうが、おそらくは1割~3割の確率で船が沈むと想定していたのでしょう。船が無事に戻って来れば、積荷の24~36%がロイズのモノになるというわけです。
船主からしてみれば、財産が0になるリスクを抱えるより、断然安心ですよね。こうして、保険というものが発達していきました。
また、そもそも保険の起源となったロイズ・コーヒー・ハウスも、奴隷貿易の賜物です。
元々、コーヒーは希少な貿易品であり、王族や貴族など、限られた人の贅沢品でした。それが、三角貿易により流通量が増え、幅広く人々に愛されるようになったのです。南米が今でも世界最大のコーヒー豆の産地なのも、この奴隷貿易の名残です。
また、同様に、アメリカで生産された大量の綿は、ヨーロッパにもっと重要な影響を与えています。それは、産業革命です。
産業革命は、18世紀のイギリスから始まりました。それまでのイギリスの代表的な工業製品は、毛織物。羊の毛です。
しかし、これを三角貿易で売ろうとしても、アフリカでは不人気でした。というか、暑い国でウールのセーターが売れるはずないですね。
そんな時、木綿を紡いだ綿織物なら、汗をよく吸い涼しいので、アフリカでも売れる事に気付いたのです。
最初、イギリスはインドから綿花を輸入していましたが、やがては自分(の植民地=アメリカ)で作るようになります。これが、アメリカの大規模農業の始まりです。
奴隷を使ってバンバン綿を生産し、それをイギリス本国で綿織物にするわけですが、これまで通りチマチマ作っていては大量の綿は消化できません。そこで、織機を改良し、作業効率を上げるいく必要に迫られます。これが、工場制機械工業の始まりです。
綿織物が大量に生産可能となると、三角貿易はより洗練され、綿織物→奴隷→綿→綿織物→奴隷→綿→綿織物→奴隷→…という無限ループが完成したのです。
超高効率輸送システム
黒人奴隷をモノとして扱うと割り切ることが出来れば、という条件付きですが、この三角貿易の凄さがお分かり頂けたと思います。
この三角貿易において、黒人奴隷は利益に最も影響を与える重要な要素なのです。
そんな黒人奴隷をいかにして効率よくアフリカからアメリカまで運ぶか。これが、当時のヨーロッパ商人達の至上命題でした。
その結論が、この図面です。
これはキツい
朝の埼京線レベルです。この状態がアメリカに着くまでの40~70日間続くわけです。
ただ、こういった可哀想な話には、たいてい尾ひれがつきます。到着までに、奴隷の1/3が死ぬとかそういうやつです。
最近の研究では、死亡率は平均13%とされています。
死亡率が高ければ高いほど儲けが少なくなるわけですから、当たり前ですね。半分も死んでしまったらせっかくの三角貿易の旨味が半減してしまいます。
当時の船員の死亡率が25%だったことを考えると、黒人の体力がたいへん優れていたのかもしれません。
ただ、病気で衰弱すれば、容赦なく海に捨てられたりしていましたし、海に飛び込んで自殺してしまう者もいたようなので、過酷で残酷な環境だった事に疑いの余地はありませんが。
基本的に奴隷たちは鎖でお互いに繋がれていたわけですが、それでも反乱はちょくちょく起こりました。1説には15隻に1隻の割合とか。しかし、その成功率は大変低いものでした。
それもそのはず。まず、船員たちは銃を持っていますので、素手の奴隷たちはこの時点でかなり不利。その上、船の操縦方法も分からないので、船員を殺す事は出来ません。
しかし、この飛車角落ちのようなハンデの中、それでも反乱に成功した事例もあります。
奴隷たちの反乱
1797年、トーマス号という商船がリバプールを出港し、ルアンダからカリブ海へ向けて、375人の奴隷を運んでいました。
目的地バルバドスも近づいたある日のこと、船員が朝食を取っている時、突如反乱が起こりました。
反乱を起こしたのは3人の女奴隷(通常、女性は鎖で縛られません。)。
彼女たちは、船員が武器の入った箱を開けっぱなしにしているのを見つけ、コッソリ武器を取り出して男奴隷たちに手渡しました。
武器を手にした男奴隷たちは、いっせいに甲板に出てきて、近くにいた船員をブチ殺しました。
船長たちはキャビンから応戦しましたが、多勢に無勢、ほとんどが殺され、残った船員は、命からがらボートで逃げました。
逃げ遅れた船員は5人。奴隷たちに「アフリカまで引き返せ」と脅され、少ない人数でなんとか船を動かしていました。
アフリカに戻り始めて6週間たったある日、ラム酒を積んだアメリカの商船が、トーマス号の船上に人影がないのに気付いて横付けしてきました。武装した奴隷たちは、食糧を求めてアメリカ船に移り込み、見事乗っ取りに成功します。
そして、奴隷たちは積荷のラム酒を見つけて、酒盛りを始めました。全員が酔いつぶれた頃、5人の船員たちは無事に船を取り戻すことができましたとさ。
めでたしめでたし。
奴隷貿易の終焉
さて、この奴隷貿易も、19世紀に入ると終焉を迎えるようになります。
世界に先駆けて奴隷貿易を禁止したのは、イギリスです。
そして、それまで世界で一番奴隷貿易に精を出していたのも、イギリスです。
この手の平返しが、ブリカスの真骨頂。
イギリスが手の平を返した理由として考えられるものはいくつかありますが、まずは背景として、キリスト教的な良心が広く民衆の間に広がったという社会的な事情があります。「奴隷がかわいそう!」という雰囲気が世の中に漂っていたのです。
しかし、こういう綺麗事は世の中の仕組みを動かす原動力とはなりません。
本当の理由は、奴隷貿易の旨味が無くなったから奴隷貿易を禁止したわけです。
旨味が無くなったというのは、
①奴隷の乱獲で、価格が高騰。
→利益率が下がった。元が取れない。
②奴隷の作業効率が低い。
→賃金労働者の方が真面目に働く
→給料でモノを買ってくれる。
※奴隷は給料とかないので、すぐサボる
③アフリカに新たな植民地を作り始めた。
→貴重な労働力をアメリカに持っていきたくない。
新しい搾取のスキームが出来上がったので、古い仕組みはアッサリ切り捨てる。うーむ、実に現実的な理由ですね。
しかし、こうして奴隷達が解放されたのも事実。産業革命が起こるキッカケになったのも事実。この辺りは、倫理や道徳だけでは割り切れない面もあります。歴史っていろいろ難しいですね。