というわけで前回のつづきです。
パチンコに対するスタンスは、
「普通に楽しんでるよ」
「違法賭博はぶっ潰せ!」(違法じゃないけど)
「朝鮮玉入れwww」
などなど、人それぞれだとは思います。
ただ、あまりにも日本に深く根付いているのも事実であり、好きでも嫌でも目につくものでしょう。
日本人として、そんなパチンコの歴史を知っておくのも悪くはないと思います。
パチンコのルーツ
球遊び
パチンコに限らず、「球を転がして遊ぶゲーム」は、紀元前から存在していました。
古代エジプトにはすでに石を転がすボーリングのような遊びがありましたし、古代ローマには大理石の球でオハジキ的な遊びがありました。
地域ごとに様々な変種があり、木杭で障害物を作ったり、スティックで球を転がしたり、
このうち、屋外での遊びとしては、ゴルフやクロッケー(ゲートボールみたいなの)へと洗練されていきました。
屋内球遊び
これらの遊びは屋内でも卓上で楽しまれるようになり、やがてはビリヤードのようなものへと発展していきました。
初期はこのような単純な感じ。
このビリヤードの変種の一つが、ルイ16世時代(1700年頃)にフランスで考案された「バガテル」という遊び。
盤の片方から球を突き、穴に入れば点数を獲得するというルール。穴はそれぞれスコアが違っていて、点数を競えるようになっています。
1864年の風刺画。プレイヤーはリンカーン。
パチンコの原型
この「バガテル」からは、さらに亜種が生まれています。
盤面に木杭を刺して障害物を作り、その木杭にはね返らせながら穴を狙うという感じ。
そして、1750年には、この木杭が鉄釘に変わり、バネ仕掛けのキューが発明されました。
1750年のBilliard Japonaise
このゲームの名称がなんと、「Billiard Japonaise」。
考案されたのはヨーロッパですが、何故か「ビリヤード・ジャポネーゼ(日本のビリヤード)」と名付けられました。
その頃の日本ってまだ徳川吉宗とかその辺の時代。「Billiard Japonaise」と名付けられた理由は残念ながら分かりません。非常に不思議であります。もしかするとこれはオーパーツなのかもしれません。
ほとんどパチンコみたい。
これがそのまま水平型に進化していったのが、「ピンボール」であり、日本に渡って「スマートボール」となりました。
この「Billiard Japonaise」は、欧米で広く人気を博し、カフェやバーに設置されていきますが、結構なスペースを取るので、やがて省スペースな垂直型のものが考案されました。
この垂直型のものが、1895年に登場した「ウォールマシン」と呼ばれる遊技機。
これこそが、パチンコの直接の起源なのであります。
ウォールマシン、来日
ウォールマシン
ウォールマシンが、1895年にイギリスで誕生すると、瞬く間にヨーロッパ全土にブームを巻き起こしました。
ドイツやフランスでも製造され、様々なアイディアが織り込また個性的な台が、多く登場したのです。
‘TIVOLI – TEST YOUR SKILL’
‘CIGARETTE’ タバコが当たるタイプ
A RARE CLOWN BALANCER
AN ALLWIN DE LUXE WITH ELECTRIC SHOCK
当たるとピリッと電気が流れる仕様
多くは投入した小銭を球代わりに飛ばし、入賞すれば小銭が出てくるという仕組み。
球を飛ばすタイプや、お金ではなくタバコが当たるタイプもありました。今のパチンコと比べると、まぁ他愛のない大人の遊びでした。
とはいえ、ギャンブルはギャンブル。
フランスでは1935年頃には法律で禁止。
発祥の地であるイギリスでは、1960年頃にようやく合法化しましたが、当たりに上限が設けられて射幸性が薄れ、一気に廃れてしまいました。
現在ヨーロッパに存在するウォールマシンは、ごく僅か。コレクター達の倉庫にあるのみです。
来日
このウォールマシンブームのピークは、1920年代~1940年代で、この時期に世界各国へと輸出されており、日本にも上陸しました。
日本へのルートは、船乗りが持ち込んだとか、先見の明のあった貿易商が輸入したとか、諸説ありますが、遅くとも1923年の時点で兵庫県の「宝塚新温泉パラダイス」の遊戯場に、このウォールマシンが登場しています。
宝塚新温泉パラダイスは、当時日本最大級のレジャー施設。温泉だけではなく、劇場、食堂、遊園地、動植物園などを揃えた物凄いテーマパークでした。あの宝塚歌劇団も、ここから始まりました。
この当時、宝塚新温泉の来場者数は1日2000人を超えていました。そうなると、それだけの数の人がウォールマシンを目にしたわけで、「こんな楽しいゲームをマネしない手はない!」と考えた人物もいたことでしょう。
このウォールマシンをコピーした人物は記録に残っていませんが、1927年頃、主に関西を中心に露天パチンコが散見されています。テキ屋がお祭りで営業していたわけですね。
また、それと前後して、デパートの屋上にも、このウォールマシンから着想を得た「玉遊菓子自動販売機」なるマシーンも登場します。
考案したのは、遠藤嘉一。日本に初めてメリーゴーランドを開発するなど、日本遊技機の祖ともいうべき人物でした。
こうして、露天やデパートの屋上で人気に火がついたこの遊びは、すぐに全国へと広がっていきます。
子供達の間では、球を打ち出す時の音から「パチパチ」と呼ばれ、これに愛称として「~っ子」のコがつき、「パチンコ」という名前になったとされています。
パチンコ店の出現
1927年頃のパチンコは、いわゆる「1銭パチンコ」と呼ばれるもので、1銭銅貨を投入すると球が1発出てきて、入賞すると2~3銭が返ってくるというものでした。
しかし、現金が出てくるのは賭博的であるとして、間も無く禁止されてしまいます。
そこで今度は、1銭銅貨と同じ大きさの真鍮のメダルや、鋼球を使うタイプが出現します。景品として現金は払えないので、お菓子やタバコを出していました。
1930年には、名古屋で日本初のパチンコ店が営業許可を取得し、開業します。
店主は平野はまという女性。店といっても、自分の家の玄関先でのささやかな営業でしたが、地域の人々の好評を博しましまた。
当時のパチンコ店
すぐにパチンコ店は全国で次々に開業されるようになり、一大ブームとなりました。あまりにもヒットし過ぎて、1932年には大阪で、その翌年には福岡で禁止されてしまいます。
そして、第二次世界大戦が始まる頃には、パチンコの製造販売の一切が禁止される事となります。
ま、戦時中にパチンコやってる余裕なんてないので当たり前ですね。
戦後の復興とパチンコ
戦後
1945年、日本が終戦を迎えました。
戦後、最初にパチンコが復活したのは、福岡県久留米市の進駐軍の慰安施設でした。
米兵たちはピンボールやスロットマシンを要望しましたが、当時の日本にそんな洒落たものはありません。そこで、仕方なくパチンコが設置されました。
また、終戦とほぼ同時に、闇市でもパチンコの営業が行われていたようです。ただ、このあたりの記録は皆無。よくわかりません。
闇市のようす
公式にキチンと営業許可を受けた戦後の第1号店は、正村竹一が1946年に名古屋で開業した「浄心遊技場」でした。
正村は戦前からパチンコ店を営んでいた為、戦後も速やかに開業できました。
この正村竹一は、現在のパチンコの基礎である「正村ゲージ」を開発した超重要人物で、今でも業界ではパチンコの父と呼ばれています。
この浄心遊技場を皮切りに、パチンコ店の数は全国で増え続けます。
翌1947年には名古屋市内のパチンコ店舗数は11軒、さらに1948年には104軒と急増しています。
パチンコ人気の背景
なお、風営法が制定されたのも1948年。その条文には「ぱちんこ店」と明記されていました。
これは、パチンコが規制を受けるようになった瞬間であり、正式に法律上その存在を認可された瞬間でもありました。
というかそもそも、風営法制定以前から、基本的にパチンコは現金の提供は禁止されていました。にも関わらず、パチンコのニーズは異常なほど高いものでした。
その最大の要因は、景品のタバコだったと言われています。
当時配給制だったタバコは、なかなか庶民の手に届かない貴重品。米兵の捨てたシケモクをバラして吸っていたような時代でした。
そんな時代背景の中、遊んだついでにうまくすればタバコも手に入る。この魅力は如何ともし難く、元々子供の遊びだったパチンコは、大人も魅了する事となります。
ちなみに、当時のタバコの流通量の1/5が、パチンコ店に流れていたとも言われています。
本来は専売品であるはずのタバコですが、パチンコで儲けた資金でタバコ屋から横流ししてもらっていたとしか考えられませんので、まぁそういう適当な時代だったという事です。
正村ゲージの登場
現在のパチンコを語る上で、「正村ゲージ」の存在を欠かす事はできません。
上にも出てきた、正村竹一が考案したパチンコ台です。
それまでのパチンコ台は、基本的に均等な間隔で盤面全体に釘が打たれていました。
小もの
これだと、球の動きもカタカタと落ちるだけの単調なものになる上、一発打っては下に落ちるまでボーッと眺めるという遊び方になり、売り上げにも限界がありました。
そこで、より刺激的でテンポの早い台を、と考案されたのが、「正村ゲージ」です。
正村ゲージ
まず最初に正村が手をつけたのは、たくさんあった入賞口を大幅に減らし、その分1回の入賞で出てくる当たり球の量を増やす事でした。
さらに、「天釘」や「ハカマ釘」などと呼ばれる、打ち手が狙いを定める釘、球の通り道を形成する釘、邪魔する釘などを、緻密な計算と膨大な試行錯誤の上で配置。球が予想外の動きをするよう工夫しました。
また、「風車」と呼ばれるカラカラ回る役物により、球のスピードに緩急をつけました。
こうした、今のパチンコ台では当たり前に見られる構造は、ほとんどがこの正村ゲージに由来します。
もし特許を取っていれば巨万の富を築き上げたであろう正村竹一ですが、特許を取らず、ライバル会社にもこの釘構成の使用を認めました。
という彼の言葉は、今でもパチンコ業界に語り継がれています。
1949年にこの「正村ゲージ」が導入されると、パチンコ人気は飛躍的に向上。1951年には全国1万2000軒にまで増えました。
さらに、「連発式」と呼ばれる球をバシバシ打ち出せる機種の登場により射幸性はさらに上がり、1952年には4万軒と、その数を爆発的に増やし、黄金期を迎えます。
規制と暗黒期と役物と黄金期
とはいえ、射幸性が高まり過ぎると社会問題となり、当然のことながら、お上に目をつけられることになります。
1954年には連発式のパチンコ台は全面禁止となり、比較的マイルドな台しか許可が下りなくなっていきます。
この結果、パチンコ人気は急激に落ち込み、廃業が相次ぐ事となります。1956年時点での店舗数は7000軒を切ってしまいます。
パチンコ業界にとってはまさに暗黒期。
業界の復活は、1959年に西陣というメーカーが開発した「ジンミット」という台の登場を待たねばなりませんでした。
この「ジンミット」という台の特徴は、盤面中央に、球が通るブリッジがかかっている事でした。
このブリッジのような仕掛けはセンター役物といいますが、ここを球が通る時に奥の穴に落ちれば入賞するというもの。
だからどうしたと言われればそれまでですが、これはお客さん的には結構ワクワクするもので、再びパチンコ人気が復活し始めます。
さらに、1960年にはチューリップと呼ばれるパカパカ開く役物が登場し、パチンコ業界は2回目の黄金期に突入します。
三店方式の成立
さて、このようにパチンコ業界は逆境にもへこたれず、たくましく成長を続けていったわけですが、その頃ある問題に頭を悩ませていました。
それは、パチンコの景品であるタバコを客から安く買い取り、それをパチンコ店に売る事で利益を得る、仲介人の存在です。
ヤクザの介入
客目線で見た時、「不必要な景品や余った景品をお金に替えたい」と思うのは至極当然です。
そういった顧客ニーズに対応するように、こういった非公式な仲介人が自然発生的に登場するのは避けられない事だと言えます。
そしてまた、こういったグレーな役割というものは、ヤクザにとっては格好のシノギになりますし、直ちに違法とは言えないものでした。
警察当局は当初、タバコの専売法違反で規制しようとしましたが、買い取る景品が、タバコからチューインガムに代わっただけでした。
こうして、景品交換はヤクザの資金源として利権化すると共に、抗争の火種となったりもしました。ヤクザの力が強くなるのは警察としても歓迎できません。
また、パチンコ店側からしても、一般のお客さんを増やしたいところにヤクザのイメージが強くなってしまっては損ばかりです。
ここで、警察当局とパチンコ業界の双方の利害が一致します。
ヤクザの締め出し方
パチンコ店が景品として出したチューインガムを買い取る行為。
そのチューインガムをパチンコ店に卸売りする行為。
これ自体はどちらも違法ではありませんよね。しかし、そこにヤクザが入り込んで困っているわけです。
そこで、換金の仲介を規制出来ないのなら、その利権自体をヤクザから奪っちゃおうという発想が生まれました。
しかし、問題もあります。
そもそもパチンコ店は、お金や有価証券を景品にしてはいけないし、景品を自分で買い取ってもいけません。なので、ヤクザを排除してもパチンコ店自身が代わりを務める事は出来ないのです。
そういった縛りの中で、警察OBである水島年得が1961年に考案したのが、あの「三店方式」なのであります。
その骨子は次の通り。
・特殊景品は、それ自体が一定の市場流通性(価値)を持っている
・交換所で買い取られた景品が、そのままパチンコ店に戻らない
この3点が守られていれば換金は問題なかろうという事が、パチンコ店と警察の間で合意されたのです。
交換所の利権を、大阪身障者未亡人福祉事業協会に委託したのも、社会貢献という意味でポイントが高かったようです。
こういった歴史を踏まえると、警察が三店方式に対して暗に理解を示している現在の状況にも合点がいきます。
要は、ヤクザ排除の為に、自分達も三店方式の成立に積極的に関与した為、今更違法だとは言えないわけですね。
そういった意味で、「パチンコ業界が換金を合法化する為に、警察と癒着して三店方式という仕組みを作った」みたいな指摘は全く正しくありません。(結果的には実質的ギャンブルとなったとはいえ)
パチンコの進化
インベーダー襲来
1960年のチューリップ機の登場により、第2期黄金時代を迎えたパチンコ業界は順調にその規模を拡大させていきますが、1978年に超強敵が出現します。
その強敵とは、テレビゲーム「スペースインベーダー」です。このインベーダーブームは空前の社会現象となり、激しいパチンコ離れを引き起こしました。
しかし、ただ黙っていないのがパチンコ業界。インベーダーブームの影で、次なるヒットを模索していました。
フィーバーのヒント
そんな中、台メーカーの三共の社員が、パチンコファンから次のような話を聞きます。
この言葉に着想を得て、三共は故障した時のように球が一度に大量に出るパチンコ台を開発し、これを「フィーバー機」と名付けました。
それまでの台は、様々な仕掛けはあれど、基本的には入賞口に球が入るとそれに応じた賞球が出てくるというもの。球の増え方はジワジワ増える感じです。
ところが、このフィーバー機は違います。入賞口に球が入ると中央のドラムが回転。図柄が揃えば打ち止めになるまで出っ放しという、射幸性の塊のような台でした。
三共フィーバー
現在のパチンコ台も、画面が液晶になってはいますが、中央で図柄が揃えば大当たり。この仕組みは、このフィーバー機から派生したものです。
そして、このフィーバー機の射幸性の高さを危惧した当局とパチンコ業界は、規制規制&たまに緩和を繰り返していく事となります。
そして現在は、大当り確率1/400以上、最大16ラウンド、アタッカー開放時間15秒以内といった感じの規制内容に収まっています。(他にも細かい決まりがたくさんあります。)
次回につづく
ここまで、パチンコの誕生から現在までを駆け足で見てきました。
こういった内容を踏まえて、次回、いよいよ在日とパチンコ業界について触れる事になります。
なお、この記事で名前が出たパチンコの歴史におけるキーマン達は、みな日本人です。日本初のパチンコ店を開いた平野はまも、パチンコの父正村竹一も、三店方式を考案した水島年得も。
だとすると、いつ頃どのような経緯で今のような状態になったのか、不思議な感じがしますね。
参考文献
池田笑子著:天の釘―現代パチンコをつくった男正村竹一
↑大変参考にさせて頂きました。