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愛すべきアメリカ皇帝の生涯

1859年9月17日。

アメリカ独立宣言より120年近くたったこの日、サンフランシスコのとある新聞にこんな記事が掲載されました。

大多数の合衆国市民の懇請により、喜望峰なるアルゴア湾より来たりて過去九年と十ヶ月の間サンフランシスコに在りし余、ジョシュア・ノートンはこの合衆国の皇帝たることを自ら宣言し布告す。―――合衆国皇帝ノートン1世

掲載された即位宣言。

ナイスジョーク。

帝都サンフランシスコの市民は大ウケし、皇帝を迎えました。ノートン1世の誕生です。

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陛下は親政を行う

「合衆国議会には嘘と腐敗が横行し、民衆は正しい保護を受けていない」とした彼は、即位最初の勅令にて、アメリカ合衆国議会の解散を命じます。

しかし、陛下の威光にひれ伏さない不忠者の議員達はこれを無視しました。

事態を重く見たノートン1世は、「帝国陸軍」に議会の制圧を命じましたが、南北戦争前夜でなにかと忙しい合衆国陸軍は、こんなオッサンのたわごとに構うほどヒマではありませんでした。

後に共和党と民主党に解散を命じたりもしました。

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陛下は平和を愛する

お手紙好きの陛下

アメリカ南北戦争が始まると、これを憂慮したノートン1世は各陣営の代表であるエイブラハム・リンカーンとジェファーソン・デービスに「余のもとに来て話し合い、余の裁断を受ける様に」と書簡を送りました。

すると、リンカーンからは「皇帝陛下、私はデービスに会いたくありません」とすげなく断られ、デービスからは「陛下の御前に着ていく服がありません」と丁重に断られました。

ちゃんと返事がくるところに草不可避ですが、ノートン1世はもちろんいたって大真面目です。

彼は他にもスペイン女王やメキシコ大統領、ブラジル皇帝、ロシア皇帝たちと書簡のやりとりをし、カトリック・プロテスタント間の争いを止める様に仰せられたり、国際連盟の設立を命じたりしました。
(尚、国際連盟が設立されるのはこれより60年も後のことです。)

また、メキシコの民の貧窮を憂い、後述する「手作り紙幣」によって巨額の援助を申し出ましたが、丁重にお断りされています。

陛下が徳の塊である事を示すエピソードをもう一つ。

当時のサンフランシスコでは低賃金で働く中国系移民の増加が社会問題となっていました。

ある日、陛下は、そんな中国系移民をリンチしようと息をまく暴徒に遭遇します。

常人ならば近くに寄ることさえ躊躇する状況ですが、彼は何を命じるでもなく両者の間へ入り、頭を垂れて、繰り返し「主の祈り」を口ずさみました。

それを見た暴徒たちははじめあっけに取られ、次第に落ち着きを取り戻し、自らを恥じたのか解散してしまったそうです。

(即位直後に議会を軍で制圧しようとしたのはともかく、)争いを嫌い、平和を愛する陛下の御心は激動の時代の中でどれだけ人々の心を潤したでしょう。

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陛下はサンフランシスコを愛する

自転車に乗って視察にお出かけする陛下

狭く古びたワンルームの「宮殿」から外出し、市内を視察するのが陛下の日課。

献上された金モール付の軍服にビーバーの毛皮の帽子といったオシャレな出で立ちで、時にはステッキや傘を携えることもありました。

視察時には特に歩道やケーブルカーの状態チェック、公共施設の修理状況や警官の身だしなみなどに気を配りました。

ステッキや傘を携える陛下

また、市の利便性向上のため、サンフランシスコとオークランドをつなぐ橋の建設も勅令として命じました。

結局この勅令は実行されることなく、陛下もこのことに相当いらだちを覚えたようですが、彼の死後55年経ってからノートン1世の構想にほぼ近い形で実際にこの橋は建設されました。

こうした先見の明は、陛下の素晴らしい才能のひとつです。

サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ

たまに無理難題を言うものの、基本的に毎日真面目に公務に励む皇帝の姿を見て、始めは笑っているだけだった市民も徐々に陛下の期待に応えようとします。

・道には街頭をつけるように

・クリスマスには皆で協力して、街を装飾するように

・サンフランシスコを‟フリスコ”と短縮して呼んではいけない。下品な呼び方だからだ。この語を使用した現場を取り押さえられた場合、国庫に25ドルを納付しなければならない。

といった勅令は、市民たちによって熱心に守られました。

ある日のこと、統治者として通貨を発行しなければならないと考えた陛下は、印刷業者に頼み、”帝国紙幣”を発行します。

それはまるでバザーで使われる様なちゃちなものでしたが、市民は喜んでこれを受け取り、商店のみならず銀行もこれを紙幣として認めるというまさかの状況が生まれました。

だからといって自分の贅沢のために紙幣を乱発せず、あくまで質素すぎるほど質素な陛下のお財布状況。

個人的にはここが普通の人と違う、陛下の凄いところだと思います。

ノートン紙幣。現在ではプレミア価値がついて高額なものになっています。

また別のある日、いつも着ている軍服がボロになってヘコんでいた陛下。すると、わざわざサンフランシスコ市議会から新品が献上されました。
そのお礼に、陛下は議会へ”終身貴族特許状”を発行します。

国税調査でも「職業:皇帝」と記載されるなど、もはや公認の存在となった陛下。

視察中の食事、交通、宿泊なども基本的にタダとされていましたが、遠慮がちな彼がそれらを利用することはほとんどなかったそうです。

また音楽堂や劇場では彼が来ることがわかるとファンファーレを鳴らして市民が拍手で迎え、陛下が着席してからようやく上演が始まるのが当たり前とされていました。

またある時、食堂車で食事をなさった陛下は、支払を請求された事に腹を立て、営業停止命令の勅令をお出しになりました。
普通に考えれば滅茶苦茶な話ですが、サンフランシスコ市民は支払を求めた鉄道会社へ猛抗議を行いました。

あまりの反響に驚いた鉄道会社は、陛下に無礼を謝罪し、金色の終身無料パスを進呈しました。

サンフランシスコはすっかりノートン1世の存在を認め、心から愛していたのです。

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陛下はバマーとラザルスを愛する

いつも一緒のバマー&ラザルス

陛下のお供には、いつもバマーとラザルスという2匹の雑種犬がついていました。

この2匹はネズミ取りの名人だったらしく、市は2匹に「市内を自由に見回る権利」を与えました。

バマーとラザルスはこの特権を利用し、腹が減ると酒場や料理屋へ‟パトロール”を行います。

店員や客の好意に預かり食べ物をもらう2匹。
後からフラリとやってくる陛下に酒を一杯献上する名誉もセットです。

さて、そんなラザルスが公務中に消防車に轢かれて死んでしまうと、市は服喪期間を設け盛大な葬儀を行いました。

祈る陛下、参列するバマー、運ばれる故ラザルス。子供は何やってんだ。

もう一匹のバマーが死んだ時には、『トム・ソーヤの冒険』で知られる人気作家マーク・トウェインから碑文が献上されました。

「年月を重ね、名誉を重ね、病を重ね・・・そしてシラミを重ねた」

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大逆罪

1867年。アーマンド・バービアという若い警官がノートンを捕え、精神病の治療を受けさせようとする事件が起きました。

市民はすぐさまこれに猛抗議し、警察署長自らが公式に謝罪するという事態にまで発展しました。

若さとは時に過ちを犯すもの。陛下は寛大にもこの警官を特赦放免し、以来、街の警官達は彼を見ると敬礼するようになったそうです。

崩御

1880年、ノートン1世は、科学アカデミーでの講演に向かう途中に倒れ、路上にて息を引き取りました。即位宣言より21年、雨の降る夜の出来事でした。

翌日の新聞各紙は悲しみと敬意にあふれ、「神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世」が亡くなったことを報じました。

彼がナポレオン3世の血を引くという噂もあったためか「Le Roi Est Mort(王は逝けり)」とフランス語で見出しをつけた追討記事を掲載する新聞もありました。

死去した際の彼の持ち物は、5~6ドルぽっちの現金と無価値な株券、ステッキのコレクション、ヴィクトリア女王と交わした書簡の他にはほとんどなかったそうです。

身寄りもなくまともな葬儀もできない陛下を憐れんだ市民有志は、この愛すべき皇帝にふさわしい葬儀を行おうと費用を集め、荘厳な葬儀を執り行いました。

葬儀には「資本家から貧民まで、商店主から泥棒まで、身なりのよいご婦人から卑しい出自だと見た目でわかる者たちまで」ありとあらゆる人々が3万人も参列したと言われています。

かのニューヨークタイムズ紙は彼を評してこう述べました。

彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。

彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない。

死後100年を経った今も愛される彼の生き方は、私たちの生き方に足りない何かを教えてくれるような気がしますね。

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