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むしろ、天然痘の時はどうだったのか。

 注意!
本記事における画像の一部はあまりに刺激が強すぎるので、モザイク処理してます。
どうしても見たいという奇特な方だけクリックすること。

これまでの歴史で最も強烈なパンデミックを起こした伝染病はスペイン風邪ですが、最も長い期間に渡って人類を苦しめたのが天然痘でした。

そして同時に、よく分からんけど収束したスペイン風邪と違って、人類が真っ向から戦い完全勝利した唯一のウイルスでもあります。

天然痘ウイルス

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天然痘の特徴

天然痘は、飛沫感染や接触感染で広がっていきます。

これにかかると40℃前後の高熱が出て、その3〜4日後には一旦熱が下がります。

しかしここからが怖い。

解熱と同時に、顔面を中心にやや白色の豆粒状のブツブツが発生し、全身に広がっていくのです。

つらすぎる。閲覧注意。

そしてブツブツは化膿し、再び40℃以上の高熱が発生。

天然痘によるブツブツは体の表面だけでなく、呼吸器・消化器など体の内側にも発生するので、重篤な呼吸不全等が併発して死に至るのであります。

その致死率は3050に上ります。

運が良ければ2〜3週目には治癒に向かいますが、痘痕(あばた)が消えることはありません。

なお、一度天然痘にかかった人は免疫を獲得し、二度とかかることはありません。

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天然痘の起源

この恐ろしい天然痘ウイルスの起源については、やっぱり諸説あってはっきりしません。

一応の定説は、今からだいたい3500〜4500年くらい昔に、アフリカ大陸の南東部あたりで発生したというもの。

天然痘ウイルスの兄弟分にあたるウイルスはいくつかあって(猿痘、ラクダ痘、牛痘など)、その中でも最も近いDNAを持つのがラクダ痘ウイルスです。

ラクダ痘もヒトに感染して発熱やブツブツを引き起こすケースがありますが、その症状は天然痘より遥かに軽く、死に至るようなことはほとんどありません。

ラクダ痘のラクダ。当然、閲覧注意。

このラクダ痘ウイルスがやがて変異して、ヒトに対して凶悪な殺傷力を持つ天然痘になったというわけ。

で、ラクダと接点の多かった地域という観点から、アフリカ南東部というエリアが発生地として推定されているのです。

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古代の天然痘

最古の天然痘患者

最古の天然痘患者と目される人物は、紀元前12世紀中頃のエジプト王ラムセス5世(在位:BC1145年〜BC1141年)と言われています。

ラムセス5世のミイラのには、あばたが確認できます。やや閲覧注意

ファラオがかかっているということは下々の人間にも蔓延していたであろうという風に想像もできますが、この時代にエジプト天然痘が流行したという記録は残っていません。

そもそも彼のあばたが天然痘によるものかの確証もないので、よく分からんというのが本当のところ。

BC5世紀以降、古代ギリシャやローマでも何度かかなり凶悪な疫病が流行った記録がありますが、どれも天然痘かもくらいの感じで、ハッキリしません。昔の文献のざっくりした記述では、麻疹や水疱瘡とかとの区別がつかないのですね。

アントニヌス帝の疫病

古代ローマ時代に、中近東に遠征した軍隊が持ち帰ってきた疫病。たぶん、天然痘か麻疹のどっちか。大穴でエボラ出血熱。

毎日2000人以上が死亡するレベル。AD165〜AD180年の15年間で累計500万人が死亡。死亡率は25〜33%。この疫病によりローマ軍は壊滅状態となりました。

ドアを叩く死の天使

キプロスの疫病

ローマ帝国における二度目の疫災。AD250〜AD266年。「アントニヌス帝の疫病」の再流行と考えられています。

ローマでは、酷い時には一日に5000人が亡くなったとされており、死者は少なくとも100万人に上りました。

これ以降も大半の記録は失われているものの、定期的に大規模な天然痘の流行があった形跡があり、天然痘ウイルスは12世紀ごろにはもう完全にヨーロッパに定着したのです。

ルネサンス期のヨーロッパでは顔にあばたの残っている人ばかりだったので、肖像画にあばたを描かないのは当然のマナーとされていました。

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日本の場合

長屋王の変

7世紀初め。時の権力者は、天武天皇の孫にあたる長屋王という男でした。

しかし、それを快く思わない藤原不比等の息子達(藤原四兄弟)にハメられ、長屋王が自害に追い込まれるという事件が起きました。

これが長屋王の変

無実の罪で非業の死を遂げた長屋王は怨霊となり、日本に天然痘を大流行させたのです。

これが、735〜737年に日本を襲った天平の疫病大流行です。

200万人が命を落としたとされますが、これは当時の日本の人口の1/3にあたる数です。

主犯格の藤原四兄弟も、全員がこの天然痘により病没。

このインパクトはかなり大きく、これ以降の日本では「無実の罪で非業の死を遂げた人は怨霊になる」という信仰が確立されていきました。

ちなみにこの疫災をなんとか収集するべく建立されたのが、奈良の大仏だったりします。

新型コロナでもぜひ頑張ってほしい。

その他いろいろ

日本史において、天然痘はわりと存在感のある疫病。それほど苦しんだ人が多かったということでしょう。

以下、いくつか天然痘がらみの豆知識。

・伊達政宗の片目は、天然痘によって失明した。

これはハッタリ。

・天然痘は疱瘡神によるものと考えられていた。疱瘡神は赤色や犬・猿を嫌うという伝承があるため、赤ベコや猿ボボのような玩具が作られた

・八丈島で天然痘が流行しなかったのは、あの最強武士源為朝がいたから。と信じられている。

疱瘡神を追い払う為朝の図が、魔除で人気だった。

・「令和」で248回目の改元だが、それまでの改元のうち14回は、天然痘の大流行を抑えるために行われた。
天暦(947年)、永久(1113年)、大治(1126年)、応保(1161年)、長寛(1163年)、安元(1175年)、治承(1177年)、建永(1206年)、承元(1207年)、嘉禄(1225年)、嘉禎(1235年)、乾元(1302年)、弘和(1381年)、享徳(1452年)

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天然痘、アメリカへ

もうヨーロッパではすっかり天然痘が定着し、誰かしらが必ず天然痘を発症するようになっていました。

そんな中、牛などの家畜から類似の牛痘ウイルスをもらったりして免疫を獲得する人もチラホラいて、ヨーロッパの人々はなんとなくちょっぴり天然痘への抵抗力が上がっていました。(それでも発症すれば、命に関わるのは変わりませんが。)

で、そうこうしているうちに時代は16世紀、大航海時代へと突入します。

人の移動はウイルスの格好の乗り物になってしまうわけですが、大航海時代により天然痘ウイルスは地球全体へと拡散していきました。

アメリカ大陸に天然痘は無かった

それまで、明らかにアメリカ大陸に天然痘ウイルスはいませんでした。

すなわち、アメリカ大陸先住民は、天然痘に対してまっっっっったく免疫を持っていなかったわけです。もう赤ちゃんみたいなものです。

そこに天然痘ウイルスをたっぷりまとったスペイン人が来たものだから、もう大変。

最初の接触で勝負はついてしまった

1519年、スペイン人エルナン・コルテスは最初にメキシコに上陸しますが、そこで繁栄を極めていたアステカ帝国はコルテスがどうこうの前に天然痘に対してなすすべなく蹂躙され、膨大な死者を出します。

コルテスがたった600人足らずの部下を引き連れて、数百万人の人口を擁するアステカ帝国を征服できたのは、天然痘によるものが大部分と言われています。

パイプで天然痘を治療を試みる健気なアステカ人

その後、1533年には同じくスペイン人のフランシスコ・ピサロがたった168人の兵士のみでインカ帝国を征服していますが、それもやはり天然痘によりインカ帝国の戦闘力が激減したからと考えられます。

インカ帝国では恐ろしいことに最初の感染から50年のうちに、人口の94%が亡くなっています。2000万人の民が100万人にまで激減したのです。

インディアンも勝てない

北米も同様。

イギリス人が北米へ入植し始めたのは17世紀に入ってからですが、北米の先住民族もやはり天然痘への耐性はゼロ。

その致死率は80~90%にも上ったと言われており、部族が丸ごと全滅するケースもありました。

18世紀から本格的に白人とインディアンの戦争が始まりますが、その際には天然痘患者が使用した毛布をインディアンに差し入れるなどという畜生行為も行われました。

さすがブリカスと言えよう

ワクチンという発想

最初の方でも書きましたが、天然痘は致死率の高い伝染病ですが、一度かかって生き延びられれば二度とかかることはありません。

実は、このことは古くから経験的に知られていて、古代インドや10世紀頃の中国などでは、軽症の患者の膿を乾燥させて健康な人に接種させるという予防行為が行われていました。

18世紀に入ってからこのテクニックはようやくヨーロッパやアメリカに伝わり、一定の効果を上げています。

ただ、乾燥させてウイルスを弱らせるといっても、天然痘は危険な疫病。この接種でも2%くらいの人は命を落としました。

エドワード・ジェンナー

イギリスの片田舎で開業医を営んでいたジェンナーは、牛の乳搾りなどをして牛と接することによって自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えに着目しました。

天然痘と違い、牛痘は命の危険の無い安全な病気。

ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えるかもと考え、1778年から18年にわたって研究を続けました。

牛痘を研究するジェンナー

そして1796年5月14日、ジェンナーは自分の使用人の子に牛痘を接種しました。その子は若干の発熱と不快感を訴えましたが、深刻な症状には至りませんでした。

6週間後、今後はその少年に天然痘を接種したが、少年は既に免疫を獲得しており、天然痘を発症することはありませんでした。

こうしてついに、人類は天然痘を防ぐワクチン、種痘を手に入れたのであります。

根絶の成功

実は、天然痘は恐ろしい疫病ではあるものの、根絶しやすい特徴があります。

まず、患者が見た目で分かるので隔離しやすい

そして、人から人へしか感染しない。動物は天然痘を媒介しないので、感染経路を遮断しやすいのです。

さらに、完全に予防できるワクチンがある

この3拍子を根拠に勝算ありと踏んだWHOは、1958年、ついに天然痘根絶計画へと乗り出したのです。

作戦1:全人類への種痘

WHOの最初の目論見は、地球上の全人類に種痘を行わせちゃおうというもの。

啓蒙ポスター

しかしこの作戦はすぐに躓きます。

行政や医療機関の体制が整っていない発展途上国や、インドみたいに人が密集しまくってる国ではどうしても漏れが出てしまうのです。

根絶計画がスタートしてから9年経過してもなお、南米や南アジア、アフリカなどで天然痘の流行は続いていました。

作戦2:懸賞金

このままではラチが開かないと判断したWHOは、1967年に方針を転換します。

人類全員に種痘をする前に、何はともあれまず天然痘患者を発見することに全力を注ぐことにしたのです。

そのために取った策が、天然痘患者を発見した者に賞金を与えるというキャンペーン。

これによりWHOは天然痘患者を次々に特定し、その発病1か月前から患者に接触した人々全てを対象として集中的に種痘を行ったのです。

アフリカでの種痘のようす

この作戦は目覚ましい効果を上げ、世界各国の天然痘患者はものすごい勢いで激減していきました。

方針転換した1967年の時点で、世界には天然痘の患者が1000〜1500万人いると推定されていましたが、この封じ込め作戦開始からわずか3年で西アフリカ全域、翌年には中央アフリカと南米でも根絶に成功したのであります。

当時のWHOの行動力の凄さよ。

そして根絶へ

その後も根絶計画は順調に推移し、1975年にはアジアでも根絶に成功。残る感染地域はエチオピアとソマリアを残すのみとなりました。

アジアにおける最後の自然感染患者。バングラデシュの3歳の女の子。閲覧注意。

1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されなくなり、それから3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発したのであります。

人類最後の自然感染患者。治癒後、ワクチン接種の普及に尽力した。

以上をもって天然痘ウイルスは完全に根絶され、現在ではもう自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないレベルになったのであります。

こうした経緯を見ると、伝染病との戦いには、明確な作戦目的にまっすぐ向かう行動力が大事と思い知らされます。

この頃のWHOはもう無いのでしょうか…( ´Д`)

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