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そんなことより古い年号の話しようぜ!

今年4月に予定されている、天皇陛下の譲位。

それに関連して新元号が色々と予想されているようです。

この時からもう31年も経過しているという事実…

とはいえ新しい元号の公表は4月1日なので、それまで答え合わせはお預け。

そこで今回は、逆に昔の元号について振り返ってみたいと思います。

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最初の元号

645年〜650年

日本書紀によると、645年の皇極天皇の時代に初めて大化という元号が制定されました。

あの大化の改新の大化ね。

これが、公式には最初の元号ということになっています。

650年〜654年

その5年後の650年。今の山口の国司から白いキジが献上され、「こりゃめでたい」というわけで白雉という元号に改元されました。

しかし、654年に皇極天皇が崩御し、そこからしばらくは元号が制定されずにいました。

686年〜686年

686年8月。天武天皇の治世15年目にして、なぜか突然朱鳥という元号が制定されますが、そのわずか1月半後に天武天皇が崩御。

結果、この朱鳥も忘れ去られ、またしばらく元号無しの状態が続きます。

なお、ここまでの3つは実際に使用されたか微妙という学説もあり、やや疑わしい元号なのです。

701年〜現代

平成まで切れ目なく続く元号の最初は、701年の文武天皇時代に制定された大宝であります。

文武天皇

この年、対馬で初めて金が採掘され、その金塊が朝廷に献上されました。

それまで日本国内で金が採掘されたことはなかったため、「こりゃめでたい」というわけで大宝が制定されたのです。

なお、このときの様子が続日本紀に記されています。

以下意訳。

701年3月21日
対馬が金を献上してきた。そこで新しく元号をたてて,大宝元年とした。

701年8月7日
以前から、忍海郡の人である三田首五瀬を、対馬に派遣して黄金を精錬させていた。
そこで詔を発して、五瀬に正六位上の位を授け、封50戸と田10町、そして絹・綿・麻布・鍬を与え、雑戸の名を免除し良民とした。

注:年代暦によると「後になって錬金のことは、五瀬の詐欺であることが発覚した」

騙されててワロタw

この金塊詐欺事件の詳細はどこにも書かれておらずよくわかりませんが、現代まで続く元号が制定されたきっかけと思えば、ほのぼのニュース感がありますね。

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中国の元号

というわけで、実質的に日本における最初の正式な元号は701年に制定された大宝です。

一方、広く目を東アジア全体に向けてみれば、最初の元号はやはり中国。

紀元前115年頃、前漢の武帝によって建てられた建元という元号であります。

武帝

中国皇帝はそもそも広大な空間を支配しているわけですが、元号によって時間をも支配しちゃおうと考えたのが始まりだと言われています。

そうした発想から、中国と君臣関係であったは、中国の元号を使用するというルールが出来ます。

逆に言うと、東アジア諸国において独自の元号を使用するのは、中国の冊封体制からの脱却を宣言するのに等しいわけです。

ベトナムの場合

その脱却宣言をした数少ない国の一つが、ベトナム北部にあった丁朝

ベトナムは長らく中国の支配下にありましたが、907年の唐滅亡あたりから徐々に中国支配から脱却し始めました。

966年に成立した丁朝において、ようやく独自の元号太平の制定までこぎつけます。

その後、幾度かの王朝交代を経つつも中国の支配を退け続け、結局1945年のベトナム民主共和国成立まで、独自元号を使用していました。

朝鮮半島の場合

朝鮮半島の諸国もまた、独自元号を使用していました。

記録で確認できる最古の元号は、高句麗永楽という元号。

高句麗の第19代の王広開土王によって、391年頃に制定されたものです。

広開土王碑に刻まれた碑文で確認できます。

発見当初の広開土王碑

高句麗といえば、中国と地続きというハードモードな立地でありながら、およそ700年もの長きに渡って中国の支配をはね除け続けた武闘派。

朝鮮半島に侵攻した倭国軍ともバチバチにやり合って撃退。

魏の侵攻に敗北して国土を大きく失うも、やがて中国の混乱に乗じて国土を回復。

隋の侵攻も3度退け、4度目でようやく和睦(でも朝貢はしない)。

また、唐の侵攻も2度まで撃退(3度目で敗北、滅亡)。

こうした独自元号を使用したのも当然のことなのであります。

遅すぎる元号制定

ところで、高句麗の事例を見て、違和感がありませんか?

高句麗は独自元号=中国支配からの自立という感覚を持っていて、391年時点で独自の元号を制定している。

だとするならば、当時朝鮮半島に攻め込むほど影響力を持っていた日本にだって、その常識を持っていてしかるべきでしょう。

しかし、645年の「大化」制定以前に日本に元号は無かったことになっています。

ということは、少なくとも645年以前の日本は中国の忠実な臣下であったということになります。

いやいや、そんなはずはありません。

日本書紀によれば、607年に推古天皇と聖徳太子が遣隋使を派遣して、次のような国書を送っています。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。

これ、今風に言うならば「お日様が昇る国の天子から、お日様が沈む国の天子に手紙を送るよ。元気?」みたいな感じ。

推古天皇(と聖徳太子)は、明らかに中国に対して対等な関係を主張しているのです。

事実、これを読んだ隋の楊帝は「無礼な蛮族の手紙なんぞ、二度と朕に見せるな!」と激怒しています。

ではなぜこの時の日本は、中国に喧嘩を売ると同時に独自の元号を制定しなかったのでしょうか?

繰り返しになりますが、高句麗はこれより200年以上も前に独自元号を制定していますし、新羅だって70年も前に独自元号を制定しています。

なんで日本はこんな遅いの?

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大化以前の年号

日本書紀は日本の正史なので表向きには絶対に言えないことですが、日本書紀に書かれていない元号が使用されていた可能性があります。

二中歴の年号

例えば、鎌倉時代初期の1220年頃に編纂された二中歴という百科事典的な書物。

二中歴 年代記

その中に「大化」以前の年号についての記載があるのです。

二中歴によれば、最初の年号は継体

継体二十五 (応神五世の孫。この時に年号が始まる)
二中歴 人代歴より 

この継体以降、次のように列挙されています。

身近な果物
九州元号 西暦 天皇 公式元号
継体 517〜521 継体天皇11年〜継体天皇15年 なし
善記 522〜525 継体天皇16年〜継体天皇18年 なし
正和 526〜530 継体天皇19年〜継体天皇23年 なし
教倒 531〜535 継体天皇24年〜宣化天皇1年 なし
僧聴 536〜540 宣化天皇2年〜欽明天皇1年 なし
明要 541〜551 欽明天皇2年〜欽明天皇12年 なし
貴楽 552〜553 欽明天皇13年〜欽明天皇14年 なし
法清 554〜557 欽明天皇15年〜欽明天皇18年 なし
兄弟 558〜558 欽明天皇19年〜欽明天皇19年 なし
蔵和 559〜563 欽明天皇20年〜欽明天皇24年 なし
師安 564〜564 欽明天皇25年〜欽明天皇25年 なし
和僧 565〜569 欽明天皇26年〜欽明天皇30年 なし
金光 570〜575 欽明天皇31年〜敏逹天皇4年 なし
賢接 576〜580 敏逹天皇5年〜敏逹天皇9年 なし
鏡當 581〜584 敏逹天皇10年〜敏逹天皇13年 なし
勝照 585〜588 敏逹天皇14年〜崇峻天皇1年 なし
端改 589〜593 崇峻天皇2年〜推古天皇1年 なし
告貴 594〜600 推古天皇2年〜推古天皇8年 なし
願転 601〜604 推古天皇9年〜推古天皇12年 なし
光元 605〜610 推古天皇13年〜推古天皇18年 なし
定居 611〜617 推古天皇19年〜推古天皇25年 なし
倭京 618〜622 推古天皇26年〜推古天皇30年 なし
仁王 623〜634 推古天皇31年〜舒明天皇6年 なし
僧要 635〜639 舒明天皇7年〜舒明天皇11年 なし
命長 640〜646 舒明天皇12年〜孝徳天皇2年 なし〜大化2年
常色 647〜651 幸徳天皇3年〜孝徳天皇7年 大化3年〜白雉2年
白雉 652〜660 幸徳天皇8年〜斉明天皇6年 白雉3年〜なし
白鳳 661〜683 斉明天皇7年〜天武天皇11年 なし
朱雀 684〜685 斉明天皇12年〜天武天皇13年 なし
朱鳥 686〜694 天武天皇14年〜持統天皇8年 朱鳥1年〜なし
大化 695〜700 持統天皇9年〜文武天皇4年 なし

という具合。

二中歴以外にも、李氏朝鮮で1471年に刊行された海東諸国紀や、九州を中心として日本各地に伝わる風土記や神社の縁起書に、同様の年号が登場しています(多少バージョンの違いはある)

続日本紀の中にも、聖武天皇の言葉として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」という一節があり、公式には存在しないはずの元号が登場しているのが確認できます。

一般的な理解

しかし、こうした謎の古代年号は、現代の学会ではあまり相手にされていません。

仏教的な単語が多いことから、鎌倉時代あたりの坊主による捏造じゃないのという風な結論で終わっています。

その根拠をざっくり説明すると、次のような感じ。

平安時代から鎌倉時代あたりは、仏僧が中国に勉強しに行く事がよくあり、日本の歴史について話す機会も時々あった。その際に、日本の元号の使用が遅すぎて恥ずかしいので、大化以前の元号を創作したというわけ。

僧聴和僧などのように、やけに仏教っぽい元号があるのも、そういう理由からであると。

また、上の聖武天皇の発言に関しては、「白雉→白鳳」「朱鳥→朱雀」と言い換えた(良い表現にした)というやや苦しい説明が成されているのみです。

通説への反論

しかしこの創作説は、次の3点の反論に答える事ができません。

①日本書紀に明記されている大化や白雉、朱鳥と明らかに重複している。


「まともに」創作しようとするなら、↑の「元号なし」のピンクの部分だけを埋めれば良いわけです。簡単ですね。

ところが、二中歴に書かれている古代逸年号では、↓こうなっています。

もうね、めちゃくちゃである。

特に問題なのが、640年から646年に当たる命長

大化という日本初の元号が制定されるきっかけとなった大化の改新という超重要イベントを完全に無視しています。

この程度の基本的な辻褄すら合わせてないのは、いったいどういう了見なのでしょう。

②変に中途半端なところからスタートしている。

古代逸年号のスタートは、継体天皇11年目の継体からです。

いやいや。マジメに創作するならもっとキリの良いところから始めるでしょう。

最低でも継体天皇1年目からにすべきだし、それこそ神武天皇即位年から始めても、大した手間ではなかったはず。

③仏教伝来より前の元号

日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によれば、552年のこと。実際には538年というのが通説。

そこで問題になるのが、536年〜540年に当たる僧聴という元号。

明らかに、日本に仏教が伝来する前なのに、仏教色丸出しの元号が制定されています。

この古代逸年号の創作者は、有名な仏教伝来の時系列すら認識していなかったということでしょうか。

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江戸時代の研究

こうした矛盾点を見て、「日本書紀も知らないアホが創作したんやろ」と結論づけるのは簡単なこと。

しかし、仮にも日本の古の元号を創作しようと思い立った人物が、日本書紀を知らないなどという事があり得るでしょうか。

江戸時代中期の大学者新井白石は、知人の水戸学者に次のような手紙を送っています。

朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。

しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。

この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。

新井白石という近世屈指の学者にとってさえ、この古代逸年号には「単なる出鱈目や創作以上の何かがある」という風に見えたのでしょう。

その一つの可能性として挙げられるのが、九州年号という発想であります。

九州年号とは何なのか

江戸後期の国学者鶴峯戊申は、この古代逸年号に注目した人物の1人。

彼はその著書「襲国偽僣考」において、卑弥呼のいた邪馬台国は後の熊襲国国であり、熊襲国は中央のヤマト王権であると偽って中国に朝貢していた、という論を展開しています。

少なくとも鶴峯は九州の熊襲国は大和王権であると偽れるほどの国力を持っていたと考えました。

そして彼は、各地や諸資料に断片的に伝わる古代逸年号こそが、その熊襲国が使用していた九州年号であると主張したのであります。

鶴峯の説が正しいかどうかは置いておくとして、この九州年号という概念はやがて、ヤマト王権とは全く別の王朝が、かつて九州に存在していたという説へと発展していくのであります。

その説の詳細は、いつかそのうち・・・・。

参考文献、サイト様
日本書紀 5冊 (岩波文庫)
失われた九州王朝:天皇家以前の古代史 (古田武彦・古代史コレクション 2)
倭国と日本古代史の謎 (学研M文庫)
失われた日本古代皇帝の謎 (学研M文庫)
新 もういちど読む 山川日本史
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日本古代史についての考察
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