旧約聖書の原文にある「msrym」という単語。
これは、一般的には「エジプト」を意味する単語とされていますが、どうも怪しいというのが前回の内容でした。
B.C.3世紀に旧約聖書はヘブライ語からギリシャ語に翻訳されたわけですが、それより古い時代に「エジプトをミツライムと呼んだ事例」は一つも見つかっていません。
この時点で、七十人訳聖書が「msrym」を「エジプト」と翻訳したことに、何の根拠もないことがわかります。
そして、さらに調べてみると、「msrym=エジプト」ではどうも違和感のあることがいくつも見つかるのです。
今回は、その違和感について。
エジプトの象徴
エジプトと言えばピラミッド
高さ147m
アレクサンダー大王やヘロドトス、ナポレオンなど、多くの軍人や歴史家がこれまでエジプトを訪れましたが、彼らはエジプトについて思い起こす時、必ずピラミッドについて触れてきました。
特にギザの大ピラミッドは、B.C.2560年の完成から実に4000年以上もの間、世界で一番高い建造物でした。
このインパクトは強烈で、エジプトと言えばピラミッドというくらいのイメージを、訪れた者の心に焼き付けるものです。
ピラミッドは登場しない
しかし。
「msrym」という単語は、旧約聖書の中になんと600回も登場します。
にも関わらず、その中にピラミッドへの言及は一つもありません。
また、古代エジプト文明に数多く存在する息を飲むような壮大な建造物もまた、どこにも登場しません。
スフィンクス然り、神殿然り、オベリスク然り。
イスラエルの民が400年間もエジプトで暮らしていたとするならば、これはちょっと不自然ではないでしょうか。
ナイル川も登場しない
預言者モーゼが生まれた頃の「msrym」では、イスラエル人の男の幼子は全員殺すよう「pr’h」に命じられていました。
モーゼを守りきれないと悟った両親は、彼をカゴに入れてナイル川に流したとされています。
流域面積2,870,000km2。利根川の170倍!
しかしながら、旧約聖書の原文を見てみると、モーゼが流されたとされる「ナイル川」の箇所は、単に「川」と書かれているだけ。
それを20世紀以降の訳者が「エジプトの川だから、多分ナイル川やろ」という具合に勝手に付け足したものなのであります。
「エジプトはナイルの賜物」という言葉に表されるように、ナイル川はエジプト文明の礎であり、もう一つの象徴とも言えるほどの存在感を持っています。
したがって、「msrym」がエジプトであると信じ込んでいる後世の訳者が、「『msrym』の川」を「ナイル川」と解釈してしまうのも無理のないところ。
逆に、なぜ旧約聖書を編纂した記者たちはモーゼが流された川を「ナイル川」としなかったのか、不思議な感じがします。
こうした疑問を列挙していくと、聖書の作者たちは本当のエジプトを知らなかったのではなかろうか。
そんな疑念が頭をもたげてくるのであります。
奴隷
旧約聖書にはこんな感じのことが記されています。
特に出エジプト直前のイスラエル人の状況は、まるで聖帝十字陵を建設する子供たちのような雰囲気です。
参考
しかし、実際のところ、古代エジプトに奴隷を売買する市場は見つかっていません。
さらに、建設労働者には賃金が支払われている上、食料や薬なんかも支給されていた記録が発掘されています。
聖書の記述と実態とは、大いにかけ離れているわけですね。
もちろん、古代エジプトにも奴隷制はありましたが、戦争で捕まえた捕虜を奴隷にしていたのがほとんど。
奴隷を個人で購入するにも値段が高くて、普通に召使いを雇った方がマシだったと言われています。
また、奴隷の身分も固定されたものではなく、頑張れば自分を買い取って一般人に戻れたりもしました。
こうしたことから、どうもエジプトには聖書で書かれるような悲惨な奴隷はいなかったんじゃないかと考えられます。
このこともまた、「msrym」がエジプトではないということを示唆しています。
古代イスラエルの状況
属国として
旧約聖書によると、B.C.995年頃、イスラエル人たちは苦難の末にイスラエル王国を建国しました。
願望の混じった想像図
その王国は、ダビデ王とソロモン王という優れた王のもと大いに栄えましたが、やがて内輪揉めで分裂。
その後は、
アッシリアの属国(B.C.722)
↓
エジプトの属国(B.C.609)
↓
新バビロニアの属国(B.C.597)
という具合に、いろんな国家の属国として細々と生き延びる日々を送っていました。
新バビロニアの属国時代には反乱を起こして失敗し、かの有名な「バビロン捕囚」、イスラエルからバビロンへの強制移住なんか起こります。
バビロン捕囚。自業自得。
薄れる民族意識
なお、移住先のバビロンは、圧倒的な大都会で、かなり居心地がよかったみたい。
400年も「エジプト」で過ごしたにも関わらず、イスラエルの民は、ヘブライ語を保持し、エジプトの多神教に染まらず、その文化的影響を一切受けませんでした。
そんな彼らがバビロンで過ごした期間は、せいぜい60年程度。
しかし、この短い期間のうちに、普通にバビロニア風の名前をつけたり、言葉もアラム語(※当時のオリエントの共通語)しか話せなくなったりして、もう「イスラエル人」というアイデンティティは風前の灯火となっていったのです。
このエジプト在住時とバビロン在住時の、異文化に対する抵抗力の違い。
イスラエル人はエジプトにいなかったとすれば、この違いもすんなり説明できるのですが。
神話をまとめる
ちなみに、この事態に焦ったイスラエル人指導者たちは、イスラエル人というアイデンティティの再構築に取り掛かります。
それまで言い伝えられてきた伝説、教訓、そして歴史。これらを1冊の本にまとめ、共通の価値観を共有させようと試みたのです。
その本こそが、人類最大のベストセラー、「旧約聖書」というわけです。
この試みがけっこううまくいき、現在まで続くユダヤ教がほぼほぼ完成。現在で言うところの「ユダヤ人(=ユダヤ教徒)」が成立したのであります。
離散するユダヤ人
離散の民
新バビロニアは、B.C.537年にアケメネル朝ペルシャに滅ぼされました。
それに伴いイスラエル人(=ユダヤ人)の強制移住は終焉を迎え、好きなとこに引っ越せるようになりました。
それでも、大半のユダヤ人は居心地の良いバビロンに残留しました。
さらに時代が降って、B.C.330年。
今度はペルシャがマケドニアのアレクサンダー大王に滅ぼされると、西はギリシャ、東はパキスタンまでが一つの巨大な国家として統一されました。
黄色い部分がマケドニアの最大版図。
ひとたび領土が統一されれば、その中を縦横に商業網が広がっていきます。
ユダヤ人の多くは商人として生計を立てておりましたので、この広大なマケドニア王国全域に広がった商業網に乗って、それぞれが各地へと移住していきました。
こうして各地へ散ったイスラエル人を「ディアスポラ」、別名「離散の民」と呼びます。
なんか「離散の民」というと悲劇的な雰囲気がありますが、全然そんなことはなくて、単に行商とかしていく中で自然にあちこちに散っていっただけです。
ユダヤ人の移住先
ところで、こうして各地に散っていったユダヤ人ですが、その中で一番人気のあった都市はどこでしょうか。
答えはイスラエル王国があったとされるエルサレム・・・ではなくて、なんとエジプトのアレクサンドリアでした。
「世界の結び目」と称された大都市
旧約聖書によれば、イスラエル人の偉大な祖先たちは、「エジプト」に相当煮え湯を飲まされたことになっています。
奴隷にされ、幼子をことごとく殺され、自分達の神を侮辱され、やっとこさ逃げ出したところで今度は300年も荒野をさまよう羽目になるという感じ。
そんな憎いエジプトに、なぜユダヤ人は大量に移住してるのでしょうか。
大量のディアスポラが起こったB.C.4世紀の時点では、「msrym」は「エジプト」ではなかった。
だから、ユダヤ人は抵抗なくエジプトへ移住できたとは考えられないでしょうか。
うっかり?わざと?
こうした疑問点を列挙していくと、やっぱり「msrym」=「エジプト」というのは誤訳という線が濃厚になってきます。
この誤訳の根源は、前回も触れたとおり、B.C.3世紀ごろにヘブライ語からギリシャ語に翻訳された、七十人訳聖書です。
では、72人の翻訳者たちは、うっかり間違えちゃったのでしょうか。
そうかもしれません。
しかし、そうではなかったとしたら。
もし彼らがなんらかの明確な意図を持って、あえて誤訳したとするならば。
その企みを明らかにするためには、「msrym」が本当は何を指しているのか、そしてエジプト以外の地域が誤訳されていないかどうか。
それを検証してみなくてはなりません。
つづく。
参考文献、サイト様
聖書アラビア起源説
ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか
Egypt knew no Pharaohs nor Israelites (English Edition)
Homeland of Abraham and the Israeli prophets
オルタナティブを考えるブログ