日本は倭の別種だった件

日本書紀によれば、初代の神武天皇が即位したのが紀元前660年のこと。

それからずうっと天皇の血脈が続いることになっていて、名目上は2017年時点でなんと2677年もの歴史があることになります。

さすがに日本書紀や古事記の内容がそのまま史実だとは言えませんが、それでも、大和王朝は古代から連綿と続いてきたことになっているのであります。

日本だけが一本線の世界史年表

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日本のルーツはどこか

邪馬台=大和?

大和王朝が古代から連綿と続いてきたとするならば、「邪馬台国」が大和王朝のルーツであるという考えはごく自然です。

そうなると、「邪馬台国」は「やまと国」と読みたくなったりもします。

一時期は、偉大なる大和王朝が中国に朝貢していた事などあってはならないみたいな風潮があって、邪馬台国と大和王朝は別物とされてたこともありました。

でも、今やそうした変なナショナリズムも無くなり、畿内説・九州説問わず、邪馬台国=大和王朝と考える論者はとても多いのです。

しかし残念ながら、日本国内には古代日本の様子をうかがい知る事にできる資料がありません。

最古の歴史書と言えるのは、712年に編纂された「古事記」と、720年の「日本書紀」しか無いのです。

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中国の史書

そこで役に立つのが、お隣中国の歴史書。

中国という国は、殷→周→春秋戦国→秦→前漢→後漢→三国→晋→南北朝→隋→唐→宋→元→…という具合に目まぐるしく王朝が入れ替わってきました。

しかし、中国人は「歴史」という概念をよく理解していたので、これだけコロコロと王朝が変わっても、キチンと歴史書を残してきました。

そして幸運なことに、古代の日本についてもちゃんと記録を取っといてくれたのです。

というわけで、特に「正史」と位置付けられている中国の歴史書のうち、「倭」について記述のあるものをさらっと見て見ましょう。

中国の正史(抜粋)

漢書 「地理志 燕の条」

前漢時代の史書。成立は西暦105年。

ここでは、 倭は燕の属国だったと書かれています。なので、燕のページに倭が登場するわけ。

燕は戦国7雄の一国。右上らへんにあった国ね。

後漢書「東夷伝 倭条」

後漢時代の史書。成立はちょっと遅くて西暦445年。

漢書では燕の項目にちょろっと書かれていただけですが、後漢書では東夷(東の野蛮人)の一つとして、独立した項目を設けてもらっています。

魏書 「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」

みんな大好き三国時代の史書。成立は297年ごろ。

かの有名な「魏志倭人伝」のことですね。

晋書 「四夷伝 倭人条」

魏をクーデターで乗っ取った晋の時代の史書。648年編纂。

宋書 「夷蛮伝 倭国条」

南北朝時代の宋王朝の時の史書。503年編纂。

南斉書「蛮・東南夷伝 倭国条」

南北朝時代の南斉王朝の史書。537年編纂。

南史 「夷貊下 倭国伝」

南北朝時代の南側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

北史 「東夷伝 倭国条」

南北朝時代の北側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

隋書 「東夷伝 倭国条」

三国時代から南北朝時代までずーっと分裂していた中国を久しぶりに統一した、隋の史書。656年編纂。

旧唐書「東夷伝 倭国条」「東夷伝 日本国条」

唐の時代の史書。945年編纂。

新唐書「東夷伝 日本条」

旧唐書はちょっと内容に不足があったようで、もう一回唐の時代を書き直した史書。1060年編纂。

宋書「外国伝 日本条」

宋の時代の史書。1345年編纂

違和感

ここで皆さん、違和感を感じましたでしょうか?

上に列挙した日本について書かれた正史をよく見てみると、なぜか旧唐書だけ「倭」と「日本」の項目を分けているのです。

そして、旧唐書以前は「倭」だけだったものが、旧唐書で「倭」と「日本」が並立して書かれ、それ以後は「日本」だけになります。

「倭」も「日本」も、今の日本列島に存在した国を指しているのは間違いないところ。

なので、通常の解釈では、旧唐書で扱う唐の時代(618〜907年)の頃に、倭が国名を日本に変更したという風になってます。

「倭」という文字は「低い」「曲がっている」みたいな意味だから嫌がったとか何とか。

実際に変更したのは、天武天皇か、その奥さんの持統天皇という説が有力です。

しかし、その説明では、旧唐書で「倭」と「日本」が別建てで書かれている事をうまく説明できません。

国号が変更になっただけならば、新しい「日本」に統一すればいいんじゃないの?

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旧唐書を読んでみる

実際のところ、どの史書にも、実質的に同じ王朝をわざわざ分けて記述する事例なんてありません。

したがって、この旧唐書の「倭」「日本」の併記には違和感を拭えません。

そこで、ややメンドくさいものの、旧唐書を実際に読んでみることにしましょう。

旧唐書 東夷伝倭国条

ではまず、旧唐書の「倭国条」の方から抜粋。大して長くないので、歯を食いしばって読んでください。

倭國者 古倭奴國也
倭国は、昔で言うところの倭奴国である。
去京師一萬四千里 在新羅東南大海中
唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。
依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
其國 居無城郭 以木爲柵 以草爲屋
その国には城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四面小島五十余國 皆附屬焉
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。

其王姓阿每氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之
倭国の王の姓は阿毎(「アマ」or「アメ」)氏で、大将軍に諸国を検察させていて、小島の諸国はこれを畏怖している。

(中略)

貞觀五年 遣使獻方物
西暦631年、倭国は使者を送って来て、地方の産物を献上した。

(中略)

至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
西暦648年、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて、太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

この「倭国条」の内容は、「ああ、倭について書かれているなあ」という感じ(小並感)。

旧唐書 東夷伝日本国条

それでは、続いて「日本国条」の方も読んでみましょう。

日本國者 倭國之別種也
日本国は倭国の別種である。

以其國在日邊 故以日本爲名
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
或曰:倭國自惡其名不雅 改爲日本
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、日本に改めた。」と言ったり、
或云:日本舊小國 併倭國之地
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」と言ったりする。
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

又云:其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海 東界 北界有大山爲限 山外即毛人之國
彼らは「我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安三年 其大臣朝臣真人來貢方物
長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。

(後略)

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日本は倭の別種なり

いかがでしょうか。

何よりもインパクトがあるのは、日本国条の一行目。

日本は倭の別種なり」のところです。

我々が習ってきた歴史観からすると、昔は「倭」という国名で、それが途中で「日本」という国名に変わった。けれども、基本的に日本はずーっと同じクニのはず。

しかし、少なくとも唐の認識は異なっていました。

明らかに、唐は「倭」と「日本」は別の国だと捉えていたのであります。

倭はどこにあったか

まず、倭国の方は日本列島のどこにあったのか。

そのヒントは、「倭国は、昔で言うところの倭奴国である。」の部分。

倭奴国と言って連想するのは、例の金印に書かれた「漢委奴国王」。

金印

福岡県で出土した金印

「委奴国」というのは「倭奴国」のニンベンを省略したものというのが定説。

とすると、金印が出土した場所からしても、倭奴国があったのは北九州(福岡県らへん)だと推定されます。

倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。」という記述から、その国土は島状になっている事が分かり、倭(=倭奴国)が九州にあった王朝である事を裏付けます。

日本はどこにあったか

じゃあ一方の日本国はどこにあったのでしょうか。

該当するのは、
我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。
の部分。

「数千里」は現代の単位に直すとだいたい2〜3000kmくらい。九州にしては大きすぎるかと。

また、日本国の支配が及ぶ範囲は、西と南は海までですが、東と北は大きな山までとの事。

当時はまだ東北地方は毛人(蝦夷)の国だった事を考えると、日本国は本州にあった王朝であるように思えます。

日本と倭の関係

日本国とは何者なのか。

旧唐書によれば、日本からの使者はなんだか言ってることがコロコロ変わっています。

でも一応、使者の主張によれば、日本の正体は2種類の可能性があります。

①倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。
②日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。

①であれば、我々の歴史観に沿うところ。

しかし②であれば、「倭」と「日本」は全くの別王朝で、最終的に「日本」が日本列島の覇者となった事になります。

冒頭の「日本は倭の別種なり」から分かるように、少なくとも唐は②が正しいと認識しています。

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隋書と新唐書

「倭」と「日本」が別の国だなんて信用できない!

という方の為に、「旧唐書」の一つ前に書かれた「隋書」と、一つ後の「新唐書」も確認してみましょう。

隋書 東夷伝倭国条

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。

魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。

夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下
倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。

都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。

漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国
後漢の光武帝の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。安帝の時また遣使して朝貢した。これをこれを倭奴国といった。

桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主
(後漢の)桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。
有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面
卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。弟があり卑弥を助けて国を治めていた。その王には侍女千人がいる。

(中略)

自魏至于齊梁代與中国相通
魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。

(中略)

有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭
阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。

(後略)

「隋書」に書かれた「倭」の様子を抜粋しました。

まず、「魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた」とありますので、「隋書の倭」は「魏志倭人伝の倭」と同一であることが分かります。

さらに、その都が邪馬台であるとも書かれています。卑弥呼についても記述があります。

また、倭王の性が「アマ」とも書かれているので、日本っぽいし、旧唐書の倭国とも整合が取れています。

つまり、隋の人は「旧唐書の倭」と「隋書の倭」は同一であり、さらに「魏志倭人伝の倭」とも同一だと考えていたと言えます。

この「隋書」で特筆すべきは、「阿蘇山」についての記述。

阿蘇山

阿蘇山(熊本県)。

「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。

となると、「倭」は九州にあったと考えるのが自然であります。

新唐書 東夷伝日本条

新唐書では、もう「倭」は登場しません。「日本」だけになっています。

日本古倭奴也
日本は古の倭奴国である。
去京師萬四千里 直新羅東南 在海中 島而居 東西五月行 南北三月行
その地は唐都の長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中の島国である。その国の広さは東西が五ヵ月の行程で、南北は三ヵ月の行程である。

(中略)

其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以「尊」爲號 居築紫城
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城にいた。
彥瀲子神武立 更以「天皇」爲號 徙治大和州
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 …(中略)
神武の次を綏靖と云い、その次は安寧、その次は懿德、その次は孝昭、その次は…(中略)。
亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通
また言うには、用明天皇が多利思北孤の代理として来朝したのは西暦600年にあたり、そのとき初めて中国と国交を通じたのである。

(中略)

咸亨元年 遣使賀平高麗
西暦670年、日本は唐に使者を遣わして、唐が高麗を平定したことを慶賀した。
後稍習夏音 惡倭名 更號日本
その後、日本人は中国の発音に習熟して、倭の呼び名を嫌い、あらためて日本と改号した。
使者自言 國近日所出 以爲名
使者が自ら言うには、「わが国が、太陽の出る所に近いので、それで国名とした」と。
或云日本乃小國 爲倭所并 故冒其號
或いはこうも言っている。「日本国はもと小国だったので、倭国がこれを併合することになった。その結果、倭国はその日本という国号を奪ったのだ」と。
使者不以情 故疑焉
日本の使者は、実情を語らないので、中国は日本の使者の言を疑っている。
又妄誇其國都方數千里 南、西盡海 東、北限大山 其外即毛人云
またその国都は数千里四方もあると、大ぼらを吹いている。そして、南と西は海に達し、東と北は大山で限られており、山の向こうは毛人国などと言っている。

(後略)

基本的に、「新唐書」では、「日本」の主張に従い、日本=倭として記述されています。

しかし、唐は「日本」の使者を全然信用してなくて、「国土は数千里四方ある」と言っても「嘘乙w」として、伝統的な「倭」の国土(東西5ヶ月、南北3ヶ月)を正としています。

この「新唐書」で気になるのは、二つ。

どっちが併合したの?

「旧唐書」では「日本が倭を併合した」となっていたのが、「新唐書」では「倭が日本を併合した」と逆になっています。

唐が聞き間違えたと言ってしまえばそれまでですが、「日本が」意図的に嘘をついたとしたらどうでしょう。

想像し得るメリットとしては、古くから中国と国交をしていた「倭」の歴史を乗っ取れるというところでしょうか。

昔から付き合ってきた国と、ぽっと出の国では、やっぱり扱いも違うでしょうからね。

信用されない「日本」

しかし、唐にそうした嘘は通用しませんでした。

それが、「用明天皇が初めて中国と国交を通じた」という部分。

もし「日本=倭」なら、これはあり得ないこと。用明天皇は585年〜587年の在位なのですが、これより遥かに昔から、倭は中国に朝貢してきました。

この部分は単なる筆者の勘違いとは考えられません。

他の記述部分は明らかに昔の史書を参照しているので、それまでの長きに渡る朝貢関係を見落とすはずがない。

とするとやっぱり、唐は「日本」を新しい国だと認識しているように感じます。

まとめ

ちょっと長くなっちゃったので、まとめてみましょう。

まず、中国の史書によれば、「魏書」から「隋書」まで、ずうっと「倭」と中国は国交していたと書かれています。

そして、その倭の場所は、阿蘇山とか出てくるし、どうも九州っぽい。

ところが、唐の時代に書かれた「旧唐書」にて、突如「日本」という国が登場します。

唐視点では、この「日本」という国は「倭」とは別の国。日本の使者は「国名を変えた」と言ったり「倭を併合した」と言ったりと、どうも怪しい。

ハッキリ言って、唐は「日本」を全然信用していませんでした。

また、「新唐書」では、いちおう「日本=倭」というスタンスで「日本」を扱っていますが、「6世紀後半に初めて国交を通わせた国」と書かれていることから、やっぱり、ずっと付き合ってきた「倭」とは別の国だと捉えていたっぽい。

こうしたことを踏まえると、古代日本には、古くから中国に朝貢してきた「倭」と、その歴史を乗っ取った「日本」という二つの王朝があったのではないかという疑いが持ち上がってくるのです。

邪馬台国は倭か日本か

ここで、もう一度「邪馬台国」の話に戻りましょう。

少なくとも中国の史書を読むと、日本列島には「倭」と「日本」という二つの別王朝が存在していたように見えます。

だとすると、「邪馬台国」は、「倭」と「日本」のどちらか一方のルーツになります。

「隋書」に言わせると、倭の都は邪馬台らしい。とするならば、邪馬台国は九州を本拠地としていたという方がしっくりきます。

前回前々回の記事での結論は、遺跡の発掘状況からして畿内の可能性が圧倒的に濃厚というものでした。

実際、畿内からは纒向遺跡をはじめとする大規模な遺跡が見つかっていますので、かなりの権力を持った勢力が畿内にいた事は間違いありません。

したがって、「日本という国は歴史上ずっと単一王朝である」という前提に立つのであれば、邪馬台国は畿内で間違い無いのでしょう。

しかし、もしそうでは無いならば。

旧唐書にあるように、「倭」と「日本」が別の王朝ならば。

「邪馬台国」は九州に存在した「倭」のルーツであり、畿内で見つかる壮大な遺跡の数々は「日本」のルーツという可能性はありませんかね。

二つの王朝をごっちゃにしているが為に、邪馬台国論争の泥沼が深まっていく一方なのではないでしょうか。

ま、異論反論はたくさんあると思いますが、みなさん詳しくて勉強になるのでよろしくお願いします(´・ω・`)

参考文献、サイト様
・ 倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)
・ 倭国と日本国の関係史
・ 古事記の神々(現代語で)
・ テラさんの万華鏡
・ 古代史レポート
・ ひもろぎ逍遥
・ 鴨着く島 おおすみ

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カテゴリー : 日本史 雑学教養

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コメント (1,953件)

  1. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 19:54:24

    おもしろい

  2. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:05:11

    いつも楽しみに読ませてもらってます。
    個人的には二つの王朝があった説が好きです。
    ロマンがありますね!

  3. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:06:12

    ふむ、ここもようやく日本と倭の違いに踏み込んできましたか

  4. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:10:59

    日本武尊が熊襲からタケルの名を手に入れた話が
    九州を併合し大陸との交易権も手に入れた話に繋がるのかな?

  5. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:12:43

    面白いですね、概ね同意です。

    隋書の時代(日本を現地調査したのは7世紀初め)には冠位十二階なども書かれ、すでに近畿を意味しているのに、その直後に朝貢が途絶えてしまう。
    その後発生するのが、隋による朝鮮半島への侵略と、聖徳太子一族の抹殺と、大化の改新という政変。

    そして国号が日本となり、倭人風習が消える。

  6. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:20:41

    歴史ってこんなにも面白かったのか!

  7. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:31:41

    面白い!
    続き楽しみ

  8. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:34:07

    そもそも単一王朝っていう捉え方が、やや現代の国家観を投影した理解だと思います。
    古代の国が、ある程度各地の土着勢力が連合したような形だったとすれば、
    中国の歴史書に登場する名称が変わることも、内部の勢力関係の変化で説明できないかなと、素人考えには思いました。

  9. ハインフェッツ 2017/06/11(日) 20:40:52

    …これって、白村江の戦いとか大垣遷都とかの少し後あたりの話だよねぇ?

    たしか天知天皇あたりが中心になって百済と政略結婚だの防衛体制を整備だの、あるいは敗戦の原因を指揮命令系統の不統一と考えて国家体制自体を中央集権制へ切り替えていった時代。

    これって唐側の史書だけを根拠に別種だのどっちがどっちを併合しただのという事を断言できる話でもないと思うけどな。
    日本側としては戦争で一時絶たれた中国との国交を新王朝相手に再開しようという時期なのだから、使者が方便で変な事言ってた可能性だってあるし、渡来人が中心になって当時の日本の国家体制を変革していったのを、国を乗っ取られたと考えた日本人がいた為に、そもそも当時の日本の中で考え方が分かれていた可能性だって充分にある。

  10. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 20:45:28

    倭=民族や地域への呼び名
    日本=その倭の地域や民族を統一した国号
    って理解じゃダメですか

  11. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 21:12:36

    管理人は明史・日本伝を読んでくれ
    大陸の史書が必ずしもあてにならないことがよく分かるから
    今回のは「実は~だった!」ってドヤ顔で記事にするようなことではないぞ

  12. 百田 2017/06/11(日) 21:16:23

    日本は、あ天、う生・エネルギー、わ地を重要視していた書物もあったし、古えの教えを守る風潮もあった。中国だって昔から日本と交流があったということは伝わっているだけで、王朝が代われば大事な事じゃない。日本は継続している。インターネットがこれだけ発達しても両国の認識は違う。日本が礼儀としてもてなしたのを、ひれ伏したと勘違いすることもあったとおもうよ。中国の書物を見て判断するんではなく、口伝本や遺跡を含め日本の古伝を先ず検証するべきだ。

  13. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 21:20:09

    日本中央の碑がある場所を日本の中央と考えれば、日本と倭の二つの王朝があったと言うのも頷ける。

  14. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 21:24:53

    そもそも中国が五胡十六国だの南北朝だのでわやくちゃになっていた時代、日本みたいな遠い民族のことなんか構っていられなかったわけじゃん。ただ少なくとも倭の五王は南朝と積極的に交流していたし、その主張するトコロによれば日本列島から朝鮮半島にかけての広い範囲に勢力拡張しようとしている。
    かりに卑弥呼の時代の倭(中国人が認識しているところの倭人系諸王国)が、のちに日本を自称することになる大和政権に征服されたという事実があったとして、その大和朝廷はとっくに中国の南朝と交流を持っていたワケ。それを後からやってきた北朝系の隋や唐が、日本の内情を知らず、埃を被った時代の倭の記述を引っ張ってきてなんかコイツら違うっぽいと思ったとしても、それを正確に記すすべはたぶんなかった。唐は一時期日本と敵対していたわけだし。

    卑弥呼の邪馬台国が大和朝廷とは異なる、九州の地方政権だったという考えは全然あっていいと思うけど、その内情が遥か後代の隋書や旧唐書に読み取れるかってのは厳しいんじゃないかなぁ

  15. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 21:42:31

    旧唐書で日本の使者の言ってることがコロコロ変わってるのって、
    日本出身の使者と倭出身の使者が両方派遣されてて、
    両者の認識が微妙に食い違ってたから…とか?

    もしかして日本は倭を併合して初めてシナ王朝の存在を知ったんじゃ?
    だから日出る国とか尊大な態度とか、シナに侮られないように虚勢を張った。

  16. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 21:59:01

    「日本」て言う呼称が紛らわしいので、近畿王朝とか奈良政権とか、九州の倭みたいな別の言い方ないかなあ
    大和政権とか邪馬台国とか言うからみんなムキになって否定/肯定しなきゃならんわけでさ
    もうちょっと冷静に考える良い機会だと思う

  17. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 22:04:45

    すげー(小並感)
    魏志倭人伝以外にも記述があったのね

  18. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 22:30:11

    『隋書東夷伝』には裴世清の報告がどれくらい反映されてるのだろう
    記述だけだと魏志倭人伝と同じく対馬や筑紫、阿蘇山など九州の地名しか出てこない
    彼は九州から外には出なかったのだろうか
    それから、隋の使節団が「まるで中国のようで何故野蛮人と呼ぶのかわからない」と言っている
    秦王国とはなんだったのだろうか

  19. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 22:39:05

    驚異的に面白い。

    古代の日本の情報が全くなく、
    日本史でも突如奈良時代からになる印象があった。

    全ての本当のことを知っている人間は現代に果たしているのか。

  20. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 22:49:21

    隋の時代について。
    魏志倭人伝で(帯方郡使が)南と考えていた方向が、隋書では東と認識されるようになった。しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている。隋代に至っても、方向認識はいいかげんである。
    瀬戸内海を航海して十余国を通過したあと、大阪湾で行き止まった。それを「海岸に達する」と表現している。筑紫以東は倭に属すと記すが、ツシマ国、イキ国は倭語の地名である。

    筑紫までが倭を名乗る大和で、対馬壱岐半島南部が本来の倭だった可能性も読み取れるね。
    北九州から朝鮮半島にかけて、大和の方針に従わない事が多かったらしい?

  21. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 23:03:43

    明史の日本伝みたいにおそらくまた聞きで書いたものが
    とんでもな内容になるのはわかるんだけど
    隋書の方は実際に日本の政府の使者が中国まで着てて
    聞き取りもしてるっぽいのに内容があやふやなのが異質だな
    「日本側の言うことはよくわからん。信用できん」って
    ストレートに書いてる意味では正直な記述なのでわ

  22. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 23:18:56

    隋書の記述に裴世清の報告が反映されてるとすると
    7世紀初頭の倭国は「男女ともに顔まで全身に入れ墨をして
    魚を獲るのが得意な人々が住む冬でも温暖な国」ということになる

  23. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 23:37:35

    恐らく邪馬台国が朝貢したころは、日本列島及び朝鮮半島南部に我々の先祖の連合国家群が
    少なく見積もって5個程度(祭祀形態から推測)は並立していたのではないかと思う。
    そのひとつが日本の前身であったと考えるのは自然であると思うので、邪馬台国=倭で九州に
    あったとしても、それを認めることは日本の連続性を否定することにはならないと思う。
    九州で邪馬台国と狗奴国が戦ってるのをしり目に、近畿で勢力を順調に伸ばした日本が
    その他を圧倒する展開なら何の矛盾も生じないんじゃないの?

  24. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 23:40:35

    うーんでは
    「日本」って何をその当時意味してたんだろ?
    どうも関東や東北が入っていないことは確実なようなんだけど。

  25. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/11(日) 23:54:49

    倭人は元々中国大陸~朝鮮半島~日本列島かなりの広範囲に分布してた
    海洋民族っぽい感じだよね
    そして特徴は刺青。周の文王の兄・大伯が倭人の国である呉の王に封じられるときに
    民に馴染むため刺青をほどこしたという伝説が残っている
    呉は夫差(臥薪嘗胆の人やね)の時代に滅亡し、呉人は散逸した。
    いくらかは日本に来て皇室の祖となった。皇室の姓は呉王家の姓「姫」であり、
    だから中世の日本は対外的に「姫氏国」と名乗ったんだという与太話もある

    まあどこまで本当かはともかく呉とか越みたいな古代中国の沿海地方の人々は
    相当数日本に流入してるんじゃないかな
    そしてほぼ対岸と言っていい九州に渡り縄文人と同化し国を作った

  26. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 00:05:06

    里を知らず日数で距離を数えるというあたり魏志倭人伝の道程が
    里から日数に代わるあたりはやはり倭人からの伝聞だったということだろうし、
    結局、中国側も倭が日本に変わったあたりのことはよく知らない、
    九州までは昔使者が行ってたからなんとなくは知ってる程度だったって感じ。
    倭から日本への数百年というスパンの中で何があったか、明確な国家の枠組みがあったわけでもないし
    単純にどっちかがどっちかを併合したとか字が嫌で改めたって話だけでもないだろう。

  27. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 00:25:10

    面白く読ませていただきました。

    白村江で日本が唐朝に敗北して国内で防衛体制が取られるのは有名な話ですが、一方で唐朝との朝貢貿易は復帰しています。個人的には朝貢貿易に復帰するために「唐朝と対立した国はもうありません」という体裁を取る必要があると日本側が認識し、新国号を名乗ることにしたのでは?そして慌てていたため情報の統一が遣唐使の構成員に対してさえできず、結果として「倭国」が併合されたのか「日本」が併合されたのか聞く相手によってまちまちだったのではないかと両唐書東夷伝を読んで考えていました。

    『旧唐書』自体が一度散逸して現行のものは改めて再編されたものなので『旧唐書』東夷伝の内で、本当に「倭」の条と「日本」の条を分けていたのかの確認をとる必要があります。何故なら『旧唐書』で「別種」と記しながら「倭」の条の最終年次は貞観22年(648)で「日本」の条の最初年次は長安3年(703)なので「倭」と「日本」を同一の勢力と考えたほうが理解しやすいと思うからです。加えて、二つの国が別種というなら「日本」の条に「倭」と並立した時期の記述はないのは不自然といえましょう。

    また、白村江の戦いが663年で、ちょうど「倭」と「日本」の名称変更の時期に当たるので、私が上記のように白村江の戦いと朝貢貿易への復帰と国号の変更がセットではないかと妄想するんですよねえ。
    長文失礼いたしました。

  28. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 00:35:38

    そもそも昔っから邪馬台国と戦争していた狗奴国が大和朝廷の源流なんじゃないかって説はありますね
    現に邪馬台国はそこに負けたみたいだし

  29. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 01:41:57

    出雲は結局どういう立ち位置なん?

  30. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 02:45:00

    日本の神様にも天津神と国津神があるし、もともとそのへんは複雑だったんじゃないのかね
    やっと大和朝廷が形になってきたところで古事記・日本書紀を編纂して「うちはこういうことにしてやっていくんで」と宣言したんじゃなかろうか

  31. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 03:56:45

    前の記事のコメ欄はカオスだからID導入してくれ

  32. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 05:14:39

    弥生時代中期には既に大量の銅剣、銅鐸を持ち繁栄していた古代出雲の国も忘れないであげて

  33. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 05:57:25

    中国の春秋戦国や三国志みたいに、日本でもこの頃から有力な国の有力な武将が戦ったり同盟結んでたりしてたと思うと興奮するな

  34. 名無し猫 2017/06/12(月) 09:00:10

    「古田武彦」
    九州説の古田は倭人伝を全部信用するところからスタートした その理由は「彼の国では出張の規定が厳格なので方角も里程も正しいはず」だった

    同じ轍を踏むべきではない

  35.   2017/06/12(月) 09:20:06

    多分「倭国」と「日本」との流れを疑ったのは、彼ら自身がこの2つの使節が「他民族」もしくは「別集団」と認識できないぐらいだったってことでしょうね。
    中国の各歴代の王朝も漢人王朝が主流だけどその他の民族王朝もいくつかかるし、特に漢人の王朝が続く場合、前王朝が正しくないことを行ったために現王朝が出来たことを示すために国史を書いたわけだから、そのためにも前王朝の歴史を詳しく書き込まなくてはならなかったってことは考慮しないと。
    漢人の思想からして蛮人・異邦の弱小民族だからって適当なことを書くのではなく、自己正当化のために万全の準備と配慮(戦略)をしてるはず。
    当時の中国王朝が分からしたら、日本(倭国)的な禅譲や合同感は理解しているはずもないですよね。

  36.  ※35 2017/06/12(月) 09:23:37

    当時の中国王朝側からしたら○
    当時の中国王朝が分からした×

  37. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 11:59:32

    面白いなぁ
    もうブログで書くの勿体無いから、本でも出せばいいのに

  38. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 12:19:19

    記述されてる歴史書が少なすぎるからなかな当時の全容を把握するのは難しいですよね
    でも面白い考察でした

  39. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 12:46:49

    当時の集落圏から、九州と近畿に国家圏があったのはよく知られている。
    なら先に中国と朝貢をしていたのは、交易ルートの起点がある九州勢力=倭
    倭を駆逐した日本とは、近畿圏の大和朝廷の事だろうと推測しやすい。

    ところが日本に関しては、関東平野の都市国家の総称と記載している書物もある。
    そして、古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく、そして多い。
    関東は近畿より強大な力を持っていたとされる。

    これからは九州・近畿・関東の三つ巴になるんかね?

  40. かきざき 2017/06/12(月) 12:53:33

    私も最近そういう本を読みました。
    「大宰府は日本の首都だった」(内倉武久著)
    内容に関しては同意します。
    倭の歴史(九州)を大和政権(日本)が自分のものにして
    日本書紀を作ったと考えています。

  41. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 12:55:31

    四国に古墳多かったりなんか別の勢力あったんかね?
    四国は四国で山(天)の民海の民、平?民と勢力があったみたいだけど

  42. かきざき 2017/06/12(月) 13:11:55

    また、日本書紀では現代史たる舒明天皇以降は信じられるが
    それ以前の推古天皇までは信用できないという岡田英弘氏の
    主張も納得です。

  43.   2017/06/12(月) 14:14:56

    少なくとも西暦6~700年代まで大和政権(近畿)は九州地方を手に入れてなかったのが分かるよね
    大和が九州の後継か分派かどうかは別としてその頃までは二つの王朝があってそれぞれ中国と関わっていたと
    それ以前も「日本」の前身のような政権はあったかもしれないが中国が認めてくれない可能性もあるので「倭」と騙った可能性もあるな
    だから中国が「彼らの言うことはバラバラで信用できん」って言うのも意味が分かる

  44. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 14:17:08

    日本の神話に神様が沢山いるのってもしかしてこんな風に沢山の国が集まってた地域だからってのあるかな?
    征服した国で信仰されてた神様やら神官やらを取り込んでったからとか

  45.   2017/06/12(月) 14:44:06

    単に統一王朝が出来ていなかっただけでしょう。
    その証拠になるかは知らんけど、吉備や出雲の存在をどう位置付けるかということです。最終的には大和において統一王朝が出来るという運びになるわけで、それまでは様々な勢力がいたんだがそれが徐々に収れんされていくというだけのことでしょう。
    よく欠史八代ってのが出てくるけど、あれは要するに収れんしていってる過程で、特に戦をおこさなかったがために目立ったことがなかったために、事績が残らなかったんではないかと思う。出雲が出てくるのはこれは血を見ることになったからなのと、最後の大物だったからだろうと考えれば、少なくとも古事記や書記についてはつじつま合わせが出来る。

    それと、一応それしかないとはいえ、シナの史書もどこまで信用していいのかというジレンマが付きまとう。

  46. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 14:45:36

    文献と考古学的証拠を照らし合わせれば王権が存在したのは
    1世紀九州倭奴国→2世紀畿内邪馬台国→(空白)→5世紀大和朝廷(のちに国号を日本とする)
    祭祀から見て九州にあった勢力が1~2世紀に畿内に侵入した可能性が高い
    別種の可能性は低いかもね
    唐書の記述は当時の中国人はそう認識していたという話

  47. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 15:16:57

    100%信じるわけでは無いけれど新しい考え方がすごく面白い!
    良いもの読ませてもらった管理人さんありがとう!

  48. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 16:15:33

    当時の中華思想の中では、朝貢してきた国が、「日出處天子致書日沒處天子無恙」と、対等だと主張してきた国が同一だと認識したくなかった(理解できなかった)んだろう。

  49. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 16:21:10

    ※39
    >古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく、そして多い

    古墳時代にすでに古墳が破壊されていたことが発掘などにより明らかになっている。
    関東は近年まで発展しなかったから古墳が多く残っているんだよ。

  50. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 18:11:23

    >39
    >古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく
    古墳時代の前期なら前期、中期なら中期と、各時期で見ていくと常に最大の墳墓は畿内にあります。
    近畿よりはるかに古墳規模の大きな関東の古墳って、どれのことをおっしゃっているのでしょうか?

  51. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 18:56:01

    倭=邪馬台国=九州
    日本=大和朝廷=奈良
    とても分かりやすい

  52. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 19:16:10

    神武東征は大和朝廷が倭国の歴史を乗っ取り倭国と同一政権だと喧伝する目的で作り上げた歴史だったのか!?
    古代日本の統一政権の移り変わりにはロマンがありますね

  53. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 19:20:53

    面白かったー

  54. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 19:24:28

    正史だと一貫して倭は九州だよね。
    日本になってから畿内のことが描かれるようになる。

  55. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 19:26:09

    日本書紀も皇女や皇后に卑弥呼っぽいエピソード入れたけどそれが嘘で信用ならないとされたのかな?

  56. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 19:42:51

    大陸側が、倭国は在會稽之東(會稽の東に在り=九州からずっと南まで続く)って思ってたのに、そうじゃない(九州から東に大和がある)って言ったから、嘘で信用ならないとされたんじゃないの?

  57. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 20:21:58

    独自の文化を持った巨大勢力だったと考えられる出雲とか
    隋の人が見ても大陸と同水準(というか大陸そのもの?)の文化を誇った秦王国とか
    関東一円を支配してたっぽい毛野一族とか
    なんか謎の勢力の断片みたいなものはいっぱいあるんだよな

  58. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 20:52:14

    倭=民族や地域への呼び名
    日本=その倭の地域や民族を統一した国号


    これだけで終わる話

  59. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 21:11:48

    ※58
    つまり邪馬台国は北部九州である倭の王だから親魏倭王で九州から関東まで統一したヤマト王権が日本なんですね
    納得です

  60. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 21:12:10

    中国の史書をそのまま信じるってスタンスを取るなら
    「邪馬台国は海の中にあった」って記事も書けよ

  61. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 21:13:50

    大王が前方後円墳ブームを作る前は銅矛文化と銅鐸文化があってそれぞれ倭と日本だったのかな

  62. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/12(月) 23:31:07

    おもしろい。
    毎日更新してください。

  63. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 01:56:23

    読み物としては面白いけど無理があるわ
    古代史の通説をそのまま書いても意味がないから奇をてらったストーリーを書いたって感じ
    こういうのは考古資料を無視して文献のみを恣意的解釈しても意味がない
    まず3世紀以降の九州に大きな独立勢力があったことを証明する物証はない
    むしろヤマト王権に組み込まれていったことが古墳や土器などの考古資料から明らか
    日本側の文字資料としては稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀から5世紀後半の雄略天皇の時代には
    少なくとも埼玉から熊本までがヤマト王権の版図になっていることが証明されている
    聖徳太子の時代の遣隋使まで否定してしまうのはやりすぎ

  64. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 05:16:37

    一ついえるとすれば、昔の日本列島には縄文の流れを継いで大小、様々な勢力が存在していたのだろう。
    大きめの勢力がいくつかの小勢力を緩やかな支配下に置くことはあったろうし、
    どこにも属さない孤高の勢力もあったかもしれない。
    そもそも同じ2勢力間でも、時に友好、時に上下、時に上下逆転などはあったろう。
    ただ、交通手段が主に徒歩と船であり、山や川が多く、平野や盆地が細かく点在していることから、
    各地で独自の文化圏を維持しやすかった。戦の際も敵を根絶やしにはしなかったし、敗者に圧政を敷いたりもしなかったのではないか。このため、離合集散が比較的緩やかに行われた。
    日本アルプスや中国山地に阻まれた関東、東北、出雲の地域が分かりやすい。
    その上で、倭と日本の名の関係性だが、ある勢力が戦の勝敗にかかわらず大勢力となった際、倭より日本の名を良しとして選んだ。歴史は、対外的に伝統ある永と伝わるものを維持し、受け継ぎ、誇示した。

  65. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 10:01:59

    面白かった
    個人的には邪馬台国と大和朝廷は無関係と思っているので、すんなり納得できました

  66. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 10:51:41

    日本書紀の記述が色々怪しいことも鑑みて、磐井の乱の位置付けが気になるところ。

  67. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 11:38:14

    ヤマト王朝最初の遷都が九州から畿内への大移動だったんちゃうん
    あるいはそこでクーデターなりあったにせよ

  68. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 12:43:00

    >66
    磐井の乱のずっと前から、古墳時代の最初から九州でも前方後円墳が作られていて、その意味で「前方後円墳を共通に作る範囲」に九州も入っています。そして、その範囲で盟主といえる最大級の古墳は畿内に集中しています。

    この「前方後円墳を共通に作る範囲」が、倭の五王の武の上表文の範囲だと思います。この範囲内で、複数の王権を考えるかどうか、という問題だと思います。普通に考えれば、大王は畿内にいて、各地の豪族はそれぞれの地域の首長だったでよいと思うのですが。

  69. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 15:01:04

    いろいろ書いてるけど、結局のところ邪馬台国=九州説の立場なんだよね。
    その九州説も結局のところ
    >「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。
    この部分しか根拠がない。

    >前回前々回の記事での結論は、遺跡の発掘状況からして畿内の可能性が圧倒的に濃厚
    と書いてあるのに隋書に阿蘇山が記述されているというだけですべてを否定できるのかな。

    中国の歴史書をありがたがっているようだけど、渡邉 義浩『魏志倭人伝の謎を解く – 三国志から見る邪馬台国 』(中公新書) あたりを読むと、無条件で信用できるものではないと思う。

  70. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 15:22:16

    そらぁ中国だって2つ3つの国にずっとなってるし、半島ももともと3つか4つの国だったんだろ。
    うちはずっと1つでしたなんて言うのは不自然だからなぁ。
    そうはいっても日本は少なく見ても大昔は3つの国ではあるけどな。

  71. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 17:50:40

    >69
    そういうことだな
    邪馬台国九州説の立場でさらに九州王朝説まで取り込んだ荒唐無稽なお話に過ぎない

  72. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 18:21:08

    日本内でも倭、大和他いくつかの勢力があったってだけでしょう
    最終的に統一王朝に全てが収斂されただけでは?

  73. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 18:36:26

    直接こちらの都まで行った例が殆どないまま交流してたんだから別におかしくはないでしょうね。

  74. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 18:48:38

    >72
    >最終的に統一王朝に全てが収斂

    この「統一王朝」というのが、何を意味するのか、何をイメージするのか、というあたりで、個人個人の考えること、印象が異なるので話が拡散してしまうんですよね。

    大和朝廷(大和王権)といっても、中央集権的な国家になるのは律令の整備がなる頃でしょう。とはいえ、その前に日本(倭国でもいいですが)という枠組みがなかったかといえば、そうではないと思います。

    広瀬和夫あたりは、前方後円墳で祭祀を統一した範囲を国家として認める立場です。となると、古墳時代に入るところで、統一国家(東国の蝦夷を除く)と見てよいと思います。その一方で、各地で首長墓を作る主体(後の豪族)は自立している訳ですが。

  75. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 19:48:50

    そもそも日本人は古墳時代より前の国々について関心薄いし、ロマンも薄いんだよな
    その頃のは「遺跡www」「土人www」程度の認識しかないし、それぞれの独立勢力が国を作って文明があったという認識があまりない
    文字が残ってなかったってのもあるだろうけど、日本という統一国意識が強すぎるのもあるんだろ

  76. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 19:50:50

    大規模古墳が多いことこそが畿内邪馬台国を否定する最大の根拠
    大規模な古墳を作るのに必要なのは安定した勢力と余剰人員
    邪馬台国の歴史は卑弥呼~トヨの時代は安定してるとも余剰人員が多いとも言えない時代
    倭国大乱、卑弥呼の死後の内紛、数十年単位で争う狗奴国と安定的だとは思えない
    弥生末期~古墳時代前期の邪馬台国ともろかぶりの時代に安定勢力だった畿内は候補地たり得ない
    自分たちの勢力の誇示のための古墳を作るということも古い国家というよりこの時期に勃興した新興勢力だと考えたほうが理に適う

  77. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 20:03:12

    >76
    魏志倭人伝をオレ様解釈して妄想ストーリーを作りこれこそ真実の古代史だと言い張ってるだけ
    問題外

  78. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 21:31:05

    もっとものように見えるが、突っ込みどころが満載の基本的な知識が不足した推理にしかなってません。自説の九州説へ都合のよい部分のみの継ぎ接ぎです。読み物としては面白いんでしょうが…

    >*75
     「そもそも日本人は古墳時代より前の国々について関心薄いし、ロマンも薄いんだよな」
    これは戦後の歴史教育の賜物です。戦後、日本史となってから(戦前は国史)日本の古代については飛鳥時代以降のことしか教科書に載っていません。大半の人は日本の古代というと飛鳥時代を思い浮かべるのではないでしょうか。教科書で習うのは、邪馬台国→古墳→飛鳥時代という流れですね。
    いわゆる古墳時代にあった歴史的事件・事跡は、考古学的に記紀の文に間接的裏付けのとれるものも都合が悪いのか教えません。高校でわずかに出てくるくらいですね

  79. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 21:51:00

    天智朝(近江王朝)=倭
    天武朝(飛鳥王朝)=日本

    これなら短期間ながら倭と日本が並立したことの説明にもなるのでは?

  80. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 22:05:43

    魏志倭人伝の頃から日本列島には沢山のクニがひしめき合っていて、次々に併合していってできた統一政権があり、天智天皇か誰かが「日本」と名付けたのだと思う
    その統一政権が中国に使者を送った際、使者が日本という国の正当性を訴えるために倭国や倭奴国の系譜を引き継いでいることを強調しようとあることないこと喋ったから混乱を招いたのではないか?
    統一政権としては、邪馬台国や倭国、倭奴国を(戦争で?平和的に?)吸収合併していって、それに日本という国名を付けた訳で、これまで中国に使者を送っていたクニを正当に継承しているのだから嘘は言ってない
    しかし、中国にしてみれば、わざわざ「日本」という国名を持ち出したコイツラは、邪馬台国や倭国、倭奴国を征服したぽっと出の新興国家じゃないの?と疑うのは当然だろう

  81. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 22:07:54

    隋書倭国伝、第一回遣隋使を派遣した倭王、多利思比孤の謎もよろ。

  82. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 22:45:49

    >倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している
    「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程で、里数から急に日数に変わってるのに関係があるのかな?
    日数になってから矛盾しだすし。

  83. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/13(火) 23:54:36

    旧唐書読んだことあれば常識だろ。

  84. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 00:41:28

    学問の世界では邪馬台国論争は畿内説が正しいことで決着済み
    よって日本が倭の別種とかいうトンデモ説は否定される
    一般人が乏しい知識と昔の先入観で邪馬台国は九州だと思うのは勝手だが
    ただの空想話に過ぎない

  85. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 01:08:46

    わりと基本的な話なのに全力で否定する人が多いのが困ったものだ

  86. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 02:21:08

    前の畿内説九州説の方で、ごり押し畿内の朝日工作員臭いのが、こっちでも全力否定しにきてんな。

    >76
    これはかなり説得力あった。
    古墳時代が2世紀だの3世紀だの言ってるのは、C14年代詐称の嘘歴史だから放置するとして、
    近畿古墳内の炭化物C14と、各大学研究機関が調べた炭化物年代から推測すれば、今まで通り4世紀辺りで大きな矛盾はないし、日本が4世紀になってようやく落ち着いて、古墳時代入ったと見ればおかしい所はなくなる。

    毛野氏はWiki見た程度だけど、北関東(埼玉群馬栃木)の古めの王国で、南関東は東海から伸びてきた人達の別勢力だから(文化の伝わる時期が違う)、そこまでの巨大国家ってわけじゃないはず。
    狗奴国が毛野国というのは、近畿こじつけ妄想だ。南(魏志)でもないし東に海千里(梁書)でもない、両方の記述無視は邪馬台国の存在そのものを否定するようなもの。
    ただ、大和王朝内で大将軍みたいのやって派遣されてた(金字の鉄剣とか出るし)関係で、北九州や朝鮮半島にも影響力持って(百済との交渉任されたりしてたし)領土以上の存在であったと思う。白村江直前に新羅に行ったのも毛野君だった。

  87. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 03:07:09

    この手の記事は読まれてなんぼだから大衆迎合の内容にしなければならない
    そうすると必然的に邪馬台国九州説を前提にストーリーを組み立てることになる
    また通説通りに倭から日本に国名変更したという話を書いても面白くも何ともない
    読み手の興味をそそるストーリーを作ってこそページビューが稼げる
    そういうストーリーを作るために文献史料の都合のいい部分、あるいは解釈次第で自分のストーリーに合わせらる部分のみを抽出してくる
    もちろん都合の悪い部分は切り捨てる
    考古学的見地からのアプローチは難しいので全部カット
    そうやって作ったストーリーは物証と矛盾してるが読み手のほとんどは考古学の知識がないから矛盾に気付かない
    むしろスムーズで明確なストーリーにこれこそ真実だと思ってしまう人もいるだろう

  88. 名無しさん 2017/06/14(水) 04:01:24

    おもしろい
    でも↓には反対
    >しかし、中国人は「歴史」という概念をよく理解していたので、
    >これだけコロコロと王朝が変わっても、キチンと歴史書を残してきました。
    新政権に都合の悪いことは改ざんされていたと思われるのでその辺は眉に唾を付けるべき

    それはさておき、金印を賜ったのは倭の国で日本ではないという事なのかな
    国号が日本に変わった時、金印は行方不明になってた(つまり戦乱があった)という事?

    琉球は銀印(金メッキ)で朝鮮は銅印とも聞くが、朝鮮は高麗百済新羅のいずれが印を
    賜ったのか?というのも興味深い。(百済は日本の支配下だったようだが)

  89. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 05:05:12

    調べてみたらこんな感じ?
    親魏倭王(金印)>半島国(銅印高句麗)
    倭の5王(将軍)<半島国(高句麗、百済、より上位の将軍)
    遣隋使は天子(天皇)を名乗り、無礼な使者を追い返した(印綬無しの対等?)>半島国
    足利義満(金印)=半島国(高麗金印)
    豊臣秀吉金印拒否で対等?>半島国(李氏朝鮮金印)
    日本国>半島国(石印属国旗)

    小国に金印渡したり、朝貢早い順に良い位をあげたり、遠方の事は手抜きだったから比較はあんまり意味ないらしい。
    豊臣秀吉への和平交渉で朝貢無しの金印とか、逆に北方騎馬民族に朝貢やらされてるのに形式は自分たちが上とか、華夷秩序なんて国内向け自己満足のお遊び。

  90. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 08:01:43

    >81
    >倭王、多利思比孤の謎もよろ
    ブログ記事中の新唐書の訳では、しれっと用明天皇って書いてるよ。
    一つ前の記事でも「ちょっと荷が重い感じ」とか書いてるし、ブログ主はそこまで詳しくないみたいだね。

  91. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 08:10:45

    阿蘇山の記述で「中国にろくな火山ねえのかよwww」とか思って調べたら、本当に大した火山がないんだなあっちは

  92. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 08:54:07

    邪馬台国が倭人(熊襲)の国で、日本は半島から来た天皇家(三韓の辰王)だな

  93. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 11:12:49

    古代史を勉強すると
    スレ主と同じ結論にたどり着く
    古事記や中国の古文書を普通に読むだけ

    邪馬台国と大和朝廷は同祖だけど別の王国
    出身はどっちも九州だから倭
    神武東征(移住)で倭の別種になった

    畿内には大和朝廷以前にニギハヤヒ系を王とする別の王国が有った
    東日本や北日本にも別の王国が有ったようだ

  94. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 11:17:16

    全国に有ったこれら縄文王国を束ねたのが出雲王国
    だから日本中から神(主)が集まったとされる
    半島も支配下

    それが大和朝廷に支配されて消滅した
    出雲は政治には関わらないと約束し
    今も選挙に行かない

  95. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 11:25:19

    ※44
    出雲のオオクニヌシが様々な別名の神と同一視されているのなどはまさにそれだろうね。
    オオクニヌシを奉じている集団が、他の集団を併合し、その過程で「お前たちの神は実はオオクニヌシだったのだ」ということにしていった。
    ギリシアでゼウスがやたらあちこちで子供を作るのも、インドのヴィシュヌが多くの化身を持つのも同じ現象。

  96. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 11:30:56

    ちなみに大和王権は
    自分たちより歴史がある出雲を当初は尊重していた
    ただ中国や仏教に傾倒していく過程で捨てた

  97. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 12:27:07

    日本の神は「お上」でもある
    指導者や王様みたいな人も「かみ」というからね

  98. おむすびころりん 2017/06/14(水) 12:57:27

    倭国は北九州(福岡)の中央政権。卑弥呼の邪馬国も含む。天子を称して隋に対等外交を認めさせた阿毎のタリシヒコはこの政権の皇帝。
    この頃には「周の時代の理想の『天子は九州を治むる』」にあやかって首都(太宰府?)のある島を九つの州クニに区分する(九州の由来)。この皇室の氏は阿毎=天アメor海部アマ。白村江の戦いで敗北(支那の歴史書では皇帝や生き残った皇子・将軍らは捕虜)して衰弱して消滅。

    日本国の始まりは、A.D.150年前後、祭器・神器を剣鉾ホコとする文化圏の倭国の有力豪族が権力闘争で追い込まれて東方(祭器・神器を銅鐸とする文化圏)へ武力植民(神武東征)
    に成功した地方政権。
    この王家=今の天皇家の氏は鵜ウがや(神武天皇の父の氏名が鵜がや不合葺フキアエズの命ミコト)。
    暫シバラくは支配地は奈良盆地(ヤマト)位でヒッソリと暮らしていたが、3世紀の半ば前後以降の十代目の崇神天皇が一気に畿内と周辺に勢力を拡大。この為に屈服した部族・小国から銅鐸を破損廃棄させられ、銅鐸圏は崩壊。
    白村江の戦いで一気に衰弱した北九州の中央政権の倭国の支配地を様子を見ながら奪いと
    って新たな中央政権=大和朝廷を確立。

  99. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 13:40:31

    >93
    × 古代史を勉強すると
    ○ 古代史を中途半端にかじると

    × 古事記や中国の古文書を普通に読むだけ
    ○ 古事記や中国の古文書を検証せずに読むだけ

  100. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 14:46:20

    資料が少な過ぎると言いながら、神代文字を無視してるアカデミズムの問題がある。東大教授でさえもNHKに於いて、古代の日本には文字は無かったなどと発言している愚かさがある。何処まで隠蔽したいんだか…。最早「言戸閉め」は終わりだろうに…。何処まで日本人を閉じ込めたいんだか…。

    秀真伝などの太古の資料と照らし合わせれば、一方向からの視点の問題も、より改善されるであろう。そして秀真伝などの資料は、太古の時代から、日本には文字が存在した事を証明している。もうレッテル貼りと隠蔽の時代ではないと思われるが…。歴史学者の大半は隠蔽するために活動している一派でもある。もう邪魔にすらなって来ている。

  101. 名無し 2017/06/14(水) 14:49:27

    日本には隠された地名がある。沈んでる地域もある。

  102. 開花神道 2017/06/14(水) 14:57:06

    ファンタジーのフィルターを外して日本の神話やお伽話を読めば、そこに建国・征服の真相臭い事が結構書かれてると思うんだけどね。

    倭国・邪馬台国=九州に有った国(中華の属国)
    大和国=畿内に有った日本の前身で連合国
    高天原=中華(唐・武周)
    天照大神=武則天(武照)
    タケミカヅチ=進駐軍司令官(藤原氏の祖•武氏)
    国譲り神話=進駐軍に抵抗した出雲国(モリヤ・ユダヤ系王国で日本の前身の一つ)のお話
    因幡の白兎=半島から逃げて来た有力者(百済・伽耶系)で出雲国王(大国主・ナシー)に助けられた
    浦島太郎=武内宿禰=蘇我氏の祖

  103. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 15:03:54

    なんか一気にトンデモに流れてるな
    何があった?

  104. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 16:25:08

    ※103
    邪馬台国=九州説派が、前スレで論破されまくって、悔し紛れに必死で書き込んでいるだけの事。

  105. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 20:26:11

    邪馬台国は熊本で決まりや

    その証拠に畿内の大和王権は中国への朝貢の作法すら知らず
    皇帝や使者を何度も激怒させてる

    朝貢未経験であることがバレバレ

  106. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 20:43:35

    この時代って、

    大化改新
    白村江
    壬申の乱

    があってその辺りのゴタゴタは非常にロマンがあるけど、
    阿蘇山→九州!
    はちょっと無理があるでしょw
    もうほとんど畿内周辺同士の争いであって九州は関係ないと思うな。

    んで、日出づる所の天子←ここ重要
    とかいい出したから中国人はブチギレたんじゃないの?
    お前調子乗んなよと。もうお前なんか知らんわ破門じゃボケと。

  107. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 20:49:19

    古事記の記述でも征西はあるので、ここでいう「日本(大和朝廷)」と「倭」の二大勢力が関西以西に存在したというのは矛盾は無い、と思う(あくまでも現代語訳された古事記の記述が正しいとすれば)
    要は時系列があやふやなのを、変に権威づけようとしてかよく判らない形にしたのおかしいのかもしれない(特に寿命)
    大まかな流れ的にはあってるんじゃない?

    ただ、邪馬台国は九州の方があってそうになる気がするけど(だからどうした)

  108. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 20:58:05

    >「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。

    いやいや(笑)
    調べてもらえばわかるが畿内周辺に火山は全く無いんだよ。
    本当に綺麗に全然無い。本州の火山もみんなそこそこ遠方になっちゃう。

  109. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:11:18

    史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。(wiki「倭国」)

    倭=日本でいいんじゃないの。

  110. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:24:57

    文体も含め、古事記は国内向け、日本書紀は国外(唐土)向け

    王朝が変わるたびに、新皇帝の正当性(徳)のために改ざんされ続けてきた、自己にしか興味のない人々の伝聞による史書(王朝末期の皇帝は悪く書かれる。)だけを根拠とし、日本人が書いた日本の文書は信用に足らず、唐人が書いた文書は信用できるという根拠がわからない。
    現に、清朝末期の歴史も毛沢東によって思いっきり改ざんされているのは、当時の日本の書籍を丁寧に読むだけでわかるのだが。

  111. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:28:01

    日本と倭が別物であれば、過去の先祖の名前に征伐した「倭」という文字をヤマトと読ませて使うことはあり得ない。
    征伐し統一したことを誇ることはあっても、なかったことにする意味も理由も都合もない。

  112. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:36:37

    >んで、日出づる所の天子←ここ重要
    >とかいい出したから中国人はブチギレたんじゃないの?

    朝貢なのに国書を忘れるって大失態をしたんだがw
    ありえんだろw
    次が日出づる所の天子w
    中華皇帝ブチギレw
    中国の使者が畿内に行っても礼を欠き使者ブチギレw

    朝貢に礼を尽くしていた邪馬台国なら有り得ない失態の数々を大和朝廷はしている

  113. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:45:11

    ※112
    新羅と百済を介して敵対してたし、わざとだろ

  114. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:46:29

    >日本と倭が別物であれば、過去の先祖の名前に征伐した「倭」という文字をヤマトと読ませて使うことはあり得ない。

    成敗しても
    権力が不安定な場合は過去の権力を身にまとうぞ
    つまりクーデターで政権を握っても過去の権力を継承したと主張し
    権力が安定したら新たな国名を名乗るってのが普通だ

    大和王権はクーデター的に日本の実権を握ったので「倭」を名乗ったのだろう
    やがて「大倭」と書いてヤマトと呼ばせるようになり
    さらにヤマトは「大和」と書かせた

    そして最後は「日本」と改名した
    当然過ぎて草w

  115. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:52:53

    >新羅と百済を介して敵対してたし、わざとだろ

    その前の倭の五王は中国から官職をもらってる

    『宋書』夷蛮伝 自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。
    『宋書』文帝紀 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。

  116. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 21:59:54

    ※115
    で?それがどうしたの?

  117. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:00:22

    ※144
    >権力が不安定な場合は過去の権力を身にまとうぞ

    身にまとうことは、非常に合理的なんだけど、隠す必要性はない。

  118. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:07:54

    中華皇帝から「安東大将軍倭国王」の称号を得るような倭王が
    朝貢で国書を忘れるとか
    日出づる所の天子と名乗るとか
    有り得んでしょw

  119. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:17:32

    時期的に魏志倭人伝を把握した上で、ほぼ同時期に天武天皇の指示のもと、日本漢文体の書と漢文体の書で内容も若干違う(語彙の漢字も違う)史を編纂した理由。
    どちらの書も倭を否定し日本を正統とする記述がないことが留意点。

  120. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:20:29

    いずれにしても闇深な話だ。

    争いに次ぐ争いの時代を経て、
    大陸から人材が輸入されだしたあたりから、
    孫子の兵法を修めた大陸人がクーデターという手法を倭に持ち込み、
    我が国の歴史を混沌に導いた。

    個人的にはヤマト(北部九州)の中枢に入り込んでいた大陸系が失脚し
    日向に逃れた後、ヤマトの名を騙りながら東に向かい
    畿内で土着の豪族の協力を得て日本を建国。
    やがて西に向かい、クーデターによって本物のヤマトを打倒し、
    素知らぬ顔で倭のフリをし続けた、のが真相ではないかと思っている。

    現実とはそんなものだ。

  121. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:22:27

    ※118
    字も知らない土人だったときは可愛げがあったけど、
    字を覚えて自我が芽生えたと考えれば不思議では無い

  122. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:26:57

    倭と日本が別だって言ってる人は
    ・倭の範囲はどのあたりで
    ・倭の首都はどこで
    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  123. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:40:02

    毛人の国は東北じゃなくて、群馬栃木じゃないのか?

  124. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 22:41:50

    倭と日本が同じだって言ってる人は
    ・倭と日本の範囲はどのあたりで
    ・倭と日本の首都はどこで
    ・倭と日本が同勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  125. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 23:19:36

    >124
    通説通り
    いちいちそれぞれの個人が答える必要なし

  126. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 23:23:00

    そりゃ唐の時代はまだ日本は倭国と名乗ってて
    7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のまま
    改名するのは大宝律令の後だよ

    日本書紀と古事記の編纂は720年と712年
    対する旧唐書の編纂は945年と200後の資料で
    評判は悪くて、北宋時代に新唐書が再編纂されるといった始末だ
    ただ根拠がないわけではなく、中国側は壬申の乱をもって
    「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したと考えたらしい

  127. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/14(水) 23:42:32

    ※124
    122には答えられんのか…

  128. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 00:01:01

    ※127
    124には答えられんのか…

  129. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 00:03:20

    >125
    124には答えられんのか

  130. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 00:18:54

    124に対しては答えてるだろが
    わからないなら教科書を読め
    以上

  131. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 02:37:30

    これを戦国時代に例えると分かりやすいと思う
    北九州の覇者で自称日本の王の大友氏(邪馬台国)が中国と関係あったので文献に乗りましたよ
    その頃近畿地方では織田氏(大和政権)が順調に力を蓄えてますよ
    色々あって邪馬台国と大和政権が統一されて豊臣氏(日本)になりましたよー
    単純にこんな感じだと思うけど
    対外的に名乗る名前(中国側が認識して呼ぶ名前)は邪馬台国も大和政権も倭国なんじゃないの?
    おそらく大和政権が中国側と交流もってて文献に書かれてたとしても中国側からしたら倭国扱いじゃないかな
    同じ倭国(のちの日本)で大友政権(邪馬台国)と織田政権(大和政権)の大友政権が文献として記録されただけでしょう

  132. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 05:48:03

    銅鏡とかの宝物等が移動できるって事を忘れてる人畿内説に多いよね。
    中国から送られた宝物を、その国を負かした国が略奪等して自分の本拠地に運んだかもしれないのに。

  133. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 07:14:00

    >132
    一つも残さず、一つも現地で副葬される前に略奪できるなんてすごいですね(棒)
    卑弥呼の最初の遣使239年から台与の(と言われている)266年の遣使まで、少なくとも27年間は邪馬台国は滅ぼされてないんだけど、その間の痕跡も拭い去れるとしたら、本当に畿内政権はパない実力でんな。
    それだけの実力差があったら、その前から倭国の中心は畿内って方が自然だろうに。

    3世紀以降の記年銘鏡が国内で13面出土しているけれど、九州からは1枚も出てないよね。

  134. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 07:21:37

    >76,86
    海を越えて、20人の遣使団と生口30人を送り込める邪馬台国が疲弊した国ってのは最初から無理があるだろう?

  135. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 08:56:48

    ※121
    字を知らないと言ってるが
    卑弥呼ですら使者に上表文を詔してる。
    当然漢字を書けたってこと
    中国に行って全く言葉がわからないようでは駄目だから
    当然通訳みたいなのもいたはず
    倭人に漢字を読み書きできる人は少数ながらいたと分かる

    倭人は木に刻みを入れて通信に使っているとも書かれている
    縄文字も使っていた
    中国の常識だと縄文字は最古の文字に分類される
    つまり古代日本は漢字を使ってないだけで文字は有ったとなる

    文字なしというのは漢字を日常的に使っていないという意味でしかない

  136. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 09:06:08

    卑弥呼は倭の数十の国を束ねる女帝
    しかし大和朝廷をどんなに研究しても
    卑弥呼に該当する人物は存在しない
    神功皇后には立派な息子が居るしな

    卑弥呼の邪馬台国と大和朝廷は
    同じ倭種だが別種が正しいだろう

  137. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 09:15:31

    大倭(日本)の自称数千里の領土が誇大妄想と相手にされなかったくらい倭は小さかった、新羅から万四千里の計算なら実際数千里あるのに。
    西と南が海で、北と東が山、その先が毛人という国の範囲は、関東まで抑えてたら、東に山はない。
    日本成立の時点で、あるいは唐書が書かれる遣唐使時代の大倭の範囲が、筑紫~近畿か濃尾までの国だった。そして伊都国などは大倭じゃなかった。
    7世紀の戦いで半島に毛野君送り込んだ事なども考えると、伊都国~半島南端は関東と近かったんだろうか。
    東北蝦夷攻めでも、北東北の勢力に敗退する程度だし、日本というより日本連邦の盟主近畿国が、独自行動してただけなんじゃないか。

    おそらく統一国家という形では、日本は統一されてなかった(六十余州なんて言い方もあるけど、それ以外に地域王や地域階級があった?)。だから戦国時代でも、近畿だか畿内5ヶ国が天下統一だった。

  138. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 09:39:54

    倭の五王時代の六ヶ国将軍だかも、百済と同格以下とか、対馬国壱岐国などをまとめてる六ヶ国目って扱いで、それなら北九州の大きめ勢力で十分間に合ってしまう。
    倭は交渉役って見抜かれていて、実権は連邦盟主大和、豊臣唐入り時の交渉役宗氏みたいな板挟み役として、活動してたんじゃないだろうか、お互いの顔を立ててうまく交流持たせる方便役。
    これなら日本直接交渉になって、尊大になった理由も、交渉下手になった理由も、使者を追い返した理由も、金印無しの対等外交国になった理由も解る気がする。

  139. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 10:09:45

    ※135
    倭人同士の記号なんかどうでもいいわ
    漢字を書いてた証拠は一切なく、ボディランゲージかなんかの簡単な意思疎通ぐらいは一応出来たというぐらいのもんだろ。

  140. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 10:33:24

    137
    天子と名乗りはじめたクソ生意気な日本になった時点で、
    中国的には大国だったら都合悪いってことでしょ。

    九州がどうやって関東人を連れてくるんだよw

    コメも取れない東北を奪うモチベがあんまなかっただけだろ。
    北海道なんて、明治までほぼ放置だったし。

    戦国時代は幕府も天皇も畿内にいたから、そこを抑えれば
    いまいち建前のわからない外国人には全国完全制覇に見えてしまっただけでは。

  141. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 10:44:38

    >140
    朝鮮学校かな?日本の歴史壊すだけなら楽でいいよね。

  142. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 11:05:30

    ×>140
    ○>137

  143. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 11:43:35

    ※98に一票

  144. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 11:52:43

    そうか、
    倭=九州のみ
    だったら毛野を九州に連れてこれないんだよな
    やっぱり倭=日本だわ

  145. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 11:57:09

    あらためて尋ねるが、倭と日本が別だって言ってる人は
    ・倭の範囲はどのあたりで
    ・倭の首都はどこで
    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  146. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 12:45:05

    物的証拠=阿蘇山w!

  147. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 14:11:15

    ※145
    >・倭の範囲はどのあたりで
    倭の範囲は難しい
    なぜなら国にするか人にするかで決まらない
    しかも魏志倭人伝当時の倭は分裂していたのは確実

    倭は島で最北は海と有るので青森まで倭になるが統一されてはいないだろう
    倭種の住む土地は今の日本と更に周辺になる

    ・倭の首都はどこで
    邪馬台国の首都は熊本
    九州には鉄の遺跡や吉野ケ里遺跡とか方保田東原遺跡とか巨大環壕遺跡が多い

    吉野ケ里遺跡は軍事施設なので伊都国に符合する
    当時の有明海は吉野ケ里遺跡のすぐ側が海岸だった
    邪馬台国の勢力範囲は九州北部と半島南部と思われる

    敵対勢力は九州南部と四国だろう
    東日本も倭だが遠すぎてこの戦いには無関係

    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    2〜3世紀の遺跡で鉄や環壕集落が目立つのが九州の遺跡
    しかも4世紀頃から急激に衰退する

    畿内は3世紀頃から発展してるので
    畿内勢力が九州の豪族を滅ぼしたとすると考古学的に符合する
    記紀でも九州を攻め落としたと有るから文献的にも一致する
    東遷はムリ
    記紀に書かれたように九州の豪族(神武天皇)が畿内に移住し
    子孫が九州を攻め落として西日本を統一したと考えられる
    さらに東日本も支配した

  148. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 14:13:20

    歴史好き、(自称)歴史研究家、歴史学者。
    ↑全部違うからね。それぞれ棲み分けしてね。

  149. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 14:18:10

    事実かどうかは別にして固定概念はそれほど無いつもりだったけど倭国と日本が別の国って発想は無かったから面白かった。
    思考に世間の情報からバイアスがかかるのは知ってたけど、もっと頭を柔らかくしないとダメだなw

  150. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 14:34:06

    九州が北と南に分かれて争っているうちに
    東からやってきた大和朝廷に両者とも滅ぼされ統一された
    これが一番考古学的に合致するし記紀とも一致する
    中国の倭人伝とも矛盾しない

    登場人物
    倭の女王(卑弥呼) 九州北部勢力  土蜘蛛(肥の国) 女王系(田油津媛)土蜘蛛=土雲=出雲
    倭の男王      九州南部勢力  熊襲(大分、鹿児島) 男王系
    大和朝廷      畿内の新興勢力 大分出身なので先祖は熊襲(男王)か 倭→大倭→日本(大和)

  151. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 15:13:42

    日本を併合したけど日本という名を引き継いだ的な記述は日本神話でいうオウスノミコトがヤマトタケルと名を改めた付近が該当するんじゃね
    クマソタケルを倒したときに本人から名を受け継いでヤマトタケルを名乗るように勧められる話があるし
    この話に元ネタが無いなら国から討伐を命じられて倒した相手から名前を勝手に貰って帰ってくる王子とか意味が分からないんだが

    使者の言うことが変わるのは…使者の出身地で歴史認識が変わってるとか?

  152. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 15:18:56

    ※97
    “神”の「かみ」と”お上”の「かみ」は現代では同じ表記=同じ発音だけど、
    元々は違う発音=違う意味だから神=お上ではないよ。

  153. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 15:36:03

    >147
    その九州にあった倭国はいつ頃まで存続していた?
    九州邪馬台国とやらが九州北部を版図とする根拠になる物証は何?

    本題から外れるが、糸島や博多はどういう位置付け?
    あれだけの遺跡群を名前もないその他扱いにするのは不自然すぎる

  154. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 16:01:40

    >149
    戦前は皇国史観で統一されてたけど、戦後は自由に色々な説が唱えられ、その中の一つに九州王朝説ってのがある
    それがまさにこの記事と同じ
    もちろん今では考古学も進歩して完全に否定されてるけど

  155. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 16:53:27

    >131
    6〜7世紀においてさえも日本列島が統一されず
    北部九州に大友政権のような独立勢力が存在していた根拠は?

  156. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 17:52:27

    もうめんどいから、この辺読んどいて
    「九州王朝説批判」
    ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

    九州王朝仮説の拠り所の、中国の史書からの分析だから、考古学とは関係ないよ。

  157. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 18:06:19

    大化の改新後の中央集権へ移行していく過程で白村江で大敗
    東国統制に使ってた北陸、東海と信越の兵亡くなり
    支配が中途半端だった東国を早急に取り込むのに
    東国の要となってたどこかの国名を名乗ったんじゃね
    壬申の乱で中央VS地方で天武天皇の後ろ盾になった国の名とか
    また白村江の後の遣唐使から日本名乗ってるから
    唐と国交回復するのに倭から日本に代わった方が印象よかっただろう

  158. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 19:09:28

    卑弥呼の時には九州から近畿を含めた勢力が既に合って対外的には倭国で
    その勢力の代表が九州の邪馬台国で白村江で大敗したのと西側が首都だと大敗してるだけに
    攻められそうだからって理由で大敗の責任取って主権を近畿の大和朝廷が受け継ぐ形になって
    勢力の権力が九州邪馬台国から近畿の大和朝廷に移動して
    歴史ある九州邪馬台国から姫を大和朝廷の王に嫁がせてその王の子供の次期王は邪馬台国と大和朝廷の血を引いてる正当な王族として倭を名乗れるし、それから色々改革が合って倭→大和→日本になったんじゃない?
    九州邪馬台国から近畿大和朝廷へ権力が移る過程で
    邪馬台国から姫が嫁いで融合するってロマンあるんじゃない

  159. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 19:13:13

    「敗戦国の倭国とかいう縁起の悪い名前はポイー」
    これか

  160. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 20:44:02

    旧唐書にせよ新唐書にせよ、白村江の戦いの後だから
    その時の捕虜から、日本側の情報も収集しているだろうし
    遣唐使による子供だましが通用するとは思えないんだが

  161. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 21:14:52

    一般的に畿内説だと邪馬台国の領域はどこからどこまでって考えてるのかな?
    かなり広大な土地を支配してそうな感じに思えるんだけど

  162. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 21:30:38

    中央集権の領域国家と、環濠集落単位の連合を、同列に考えるのは無理があるよ。
    邪馬台国は倭国の中の国で、女王国に属する範囲全部が邪馬台国ではないだろう。
    属しているというのは宗主権を認めているくらいの意味で、支配はしていないと思う。

  163. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 22:07:40

    >161
    ざっくり言うと近畿地方の平野のうちで、その場所を流れている川が最終的に瀬戸内海に流れ込むようになってる平野

  164. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 22:37:22

    倭と日本は別
    邪馬台国が倭でヤマト王権が日本
    遺跡とも文献とも出土品とも整合性があるな

  165. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/15(木) 23:47:33

    >164
    日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」と書かれる人物がいるんだが、少なくとも日本の文献では、日本も倭も「ヤマト」で区別はないようだよ。

    どの辺で「倭と日本は別」というのが文献と整合性があると判断してるんだか、私からすると不思議だな。

  166. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 00:16:31

    少なくとも当事者の日本側は倭ではないと主張してる
    それを中国側も認識している
    まさか日本の子孫が日本と倭は同じと主張するとは思わなかっただろうな
    それとも同じだと主張するのは日本が気に入らない当時支配されていた半島の子孫かな?

  167. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 03:40:00

    ※166
    そりゃ意味合いがまるで違うべw 当時人が否定したのは
    「ワイらに負けて喰われたザッコ如きと同じにすんなやw」
    って意味であって、現在の人間が倭と日本(?)を同一視してるのは
    「倭は日本(?)に負けて取り込まれたんやしどっちも先祖って言や先祖やな、どっちも現国土内やし」
    って意味だぞ? 倭と日本(?)が違っていても現在日本にとっちゃ等しく父祖の地(国)よ

    「倭と日本(?)は違いまーす」なんてのはただの言葉遊びにすぎん
    それとも「日本(?)は父祖として認めるけど倭とか言うザッコは認めへん!」ってか?

  168. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 03:45:23

    日本側にしたら惨めに朝貢しとったクソ雑魚と同じ扱いは受け入れられんやろ
    そら否定もしますわw 向こうに取ったらどっちも日本列島側やし混乱するわな

    でも今の日本人にとったら北海道から沖縄まで全部日本やからな
    沖縄かて編入は最近やけど一緒くたにされとるやんけ
    まして九州ならわざわざ切って分ける意味もないわな

  169. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 04:37:26

    沖縄は1200年前から日本だったよね。変なのが変な歴史吹聴してて怖いわ。

    国書が無い=朝貢する気がない対等な挨拶
    天子を自称=朝貢する気がない対等な挨拶
    あっちからの使者追い返す=朝貢扱いの使者に切れて放置→隋だか唐の方が使者が悪かったからって別の使者送ってきた(朝貢したって報告にしたけど日本は対等挨拶)
    断絶かどうかは知らないけど、遣隋使の時点で朝貢卒業してたと思う。
    倭の5王の扱いの低さ考えても、継体天皇~遣隋使開始までで交渉担当変わってると思うな。

    足利義満も、貿易するためとはいえ、朝貢の作法は誤魔化して拒否したらしいし、支那の自己満足記述相手にしてたらいかんのでしょ。

  170. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 05:50:02

    日本が倭の別種とか本気で信じてる人は教科書が間違ってると思ってるわけだよな
    もう勝手にしろとしか言いようがない

  171. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 07:01:10

    単純に中国大陸に近かった九州(ある意味島国)で幾多の部族の勃興と没落と併合があって
    早い段階から中国と歴代王朝と交流があった。
    当然、中国三千年の歴史には適うはずもなく大国で文化も進んでいた中国王朝に取り入り、九州内で他部族に認められるためも含め九州の各部族王は出来る限り接触していた。
    そういった経緯で倭(九州)を大雑把に属国としていた。
    年月を経て九州(島国)でやっとこさ邪馬台国という統一国が制定した。
    本当に侍女1000人もいたなら、邪馬台国ってのは相当デカイ国だったんだろう。
    けどまあ初代王(卑弥呼)なき後、なんだかんだでバラバラになり散り散りになり滅亡していった。
    この辺はエジプト然り、世界各地の文明と一緒だろう。
    特に文明初期の頃は年中温暖な地域のほうが発展しやすい。
    冬という生命に過酷な時期が少ない(或いはない)ほうが活動を継続するには必須だった。

    九州(島国)の一大国家がほぼ雲散霧消して形をなくした後に、幾内で現在も続く天皇家の元が明確に形を持って内外にもわかる規模で勃興した。
    時系列から言って、九州の民が少なからず流れ込んで(若しくは)基礎になった可能性も高い。
    または元からそれなりの文化水準を持っていた可能性もある。

    言い方が凄く悪く日本が倭を乗っ取ったってのは頂けない。
    戦国時代を考えてみればいい。
    明確に天下統一をすることは難しく、各国(領土)の大名は各々がその王であっただけ。
    そこに朝廷(天皇)というお墨付きを貰うためにも四苦八苦していたと。

    中国の歴書から分かるのは、先んじて積極的に外交をしていたのは九州にあった倭
    その後に大きな国(幾内)として外交をし始めたのが日本
    これだけの話
    倭を別種だ日本とは違うだなんて言うのは北海道の過去と歴史を日本とは違うと言うようなもの

  172. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 07:29:10

    時と共にコロコロ変わる教科書を金科玉条のごとく崇拝する方がどうかしてる。

  173. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 08:21:28

    ※165
    「倭」も「ヤマト」もクーデターで乗っ取った側にしてみれば
    錦の御旗。
    もともと正攻法で討ち滅ぼす力がなかったからクーデターという手法を使ったわけで
    そんな新政権が前政権の遺産を活用して統治しようとするのはごく自然なこと。
    むしろ内政・外交とも以前と何も変わらないふりをして前政権の残した果実を承継した。
    私たちは倭ですよ、ヤマトですよ、と。

  174. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 08:31:38

    ※171
    だから北海道を独立させよというバカがいたら
    とても同意する気にはなれないが、
    アイヌは日本とは別の文化を持つ民族であったことは認めなければならない。
    そこから逃げていたら真実なんて見えてこない。

  175. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 08:47:17

    「倭」なんていうのがそもそも曖昧な概念で
    チャイナが自分たちの分類上使った言葉に過ぎないのではないか。
    日本列島内で違う民族が争っていようがいまいが、きゃつらは倭なのである。
    それをありがたく押し頂いていたのがかつての「倭」であり
    彼らには国家意識などなかった。
    のちに国家意識に目覚めた政権(国?)が日本を名乗った。
    それが「倭」内の一国だったのか、倭のとなりの別の国だったのか
    それは当時のチャイナ人のさじ加減に過ぎない。

    「別種」という言葉が適当かどうかわからない。
    だが、そう思ってみたほうが当時のダイナミックな政治情勢に肉薄できる気はする。

  176. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 10:01:16

    ※76
    銅鐸と前方後円墳は別個の勢力の産物だと思われるので
    その分布と入れ替わる時期を調べれば見えてくるだろうね

    古墳で面白いのは畿内や出雲に多いのは分かるとして
    北九州と並んで房総半島にも集中している事

  177. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 10:03:10

    ※174
    アイヌは現在ですら明確に「異種」扱いされるほどに違いあるけど
    九州勢と本州勢切り分けるのは流石に無理あるぞ
    今の感覚からしたらどっちも日本としか言えんわ

  178. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 10:04:41

    天武天皇がマジで怪しい国体代わってるよ

  179. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 11:05:07

    ※147
    >邪馬台国の首都は熊本
    前スレで九州説は否定されたでしょ。

    >しかも4世紀頃から急激に衰退する
    それだと倭と日本が並立してた(仮)という7世紀と一致しないけど。

  180. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 11:15:07

    ※172
    理由も根拠もなく変わる訳じゃないから
    変えたければそれなりに根拠を示せよ

    中国の史書をそのまま鵜呑みにするだけなら
    邪馬台国は沖縄の海の底だ

  181. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 11:17:51

    174
    道民が独立したいと思うならさせてやればいいんじゃない
    フリーチベット、フリードサンコだ

  182. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 11:55:35

    ※169
    最初は対等を目指したが
    すぐに屈服して朝貢の儀礼を受け入れている

    対等の関係や用明天皇が「初めて」中国に使者を出したという事は
    大和朝廷がそれ以前に全く朝貢してない事を意味している
    邪馬台国とは別の王朝なんだよ

    しかし日本の新たな支配者なので倭王を名乗る必要が有ったため
    改めてまた朝貢した
    しかし態度が悪いので中国側は不信感を持った
    大和朝廷も嫌々だった

  183. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:00:24

    王朝交代説は戦後に流行ったけど、もうオワコンでしょ
    誰でも知ってる唐書を今更持ち出されたって何にもならないよ
    珍説発表会はもういいって

  184. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:17:07

    古墳 はそもそもが墓ではなく、灌漑事業の残土処理の盛土だったんだよね?
    だから用水路というか河川整備が終わったら、今度は埋め立て用に残土を使用するから、後の時代になる程、古墳が小さくなっていく。
    古墳の大小や数って、開拓する平野の広さに比例するんじゃなかったっけ。

  185. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:20:01

    ※179
    古田説を否定したからと行って
    九州に邪馬台国が有ったという説の否定に繋がらないよ
    古田説は違っているしw

    倭と日本が並立していたのは大和朝廷の内部
    西日本を統一し倭王を継承した大和朝廷が安定し
    国号を倭から日本に改名し天皇と名乗った

    だから倭の別種だが倭を継承していると言った
    もとは小国だったも言った

  186. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:36:56

    みなさん、すごく詳しいですね。勉強になります。
    私は『大分県宇佐市の宇佐神宮の本山 御許山』が卑弥呼の墓説が好きです。
    あの九州の隅の方の超ド田舎(すみません)に、あの規模の神社があるのが昔から不思議なんですよね。昔は今の規模よりさらに大きかったと聞きますし。本山と別に今でも女人禁制のストーンヘンジみたいな場所も近くにあるらしく気になっています。
    邪馬台国=九州説、頑張ってほしいです。

  187. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:44:10

    >185
    九州説そのものが間違ってるんだよwww
    古田説はその一派ってだけ

  188. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:44:34

    結局倭=日本だよな
    珍説乙

  189. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:47:32

    >186
    神功皇后はオキナガタラシヒメなのですが、各地の伝承を見るとオキナガヒメの地域と、オオタラシヒメの地域に分かれるのだそうです。宇佐がオオタラシヒメ伝承の中心地らしいです。面白いですよね。

  190. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 13:57:52

    ※185
    別に古田説なんて誰も言ってないぞ。最初からそんなもん眼中にない。
    九州説を検証した結果否定されたというだけの話。(経過については前スレ参照)

  191. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 14:08:01

    倭人連合から中央集権国家日本に変わっただけだろ

  192. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 14:09:43

    やっぱり「あった」という根拠を示せないと、
    一般的にはそれは「ない」ってことだからね。

    「ない」という根拠を示すことは悪魔の証明だから、
    信じるのは個人の自由だし、いつかそれを証明すれば逆転は可能だけど。(例:難波宮発見)

  193. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 14:11:25

    >185
    >倭と日本が並立していたのは大和朝廷の内部
    並立も何も天武持統朝に至るまで、大和朝廷内部に「日本」という言葉も実体もないと思うんだが
    あるのはただ「ヤマト」のみだよ
    それが漢字表記で、倭、大倭、大和、と書き分けられているだけで
    そこに「邪馬臺」も入るってだけの話だろ

  194. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 15:01:53

    倭と大和と書くべきなのに意図的に「日本」としてるのがいらやしいわな
    よーするに日本を貶めるための工作の一環ってワケだ
    お里が知れるとはこのことだな

  195. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 17:25:34

    >194
    意味不明
    何が言いたいのか分からん

    倭も大和も、国内では昔から「ヤマト」と読まれている
    古事記で倭建命がヤマトタケルのミコトと読まれているのは知ってるよな?

    そして天武持統朝の頃に、ひのもとにある国だからと日本という国号を作ったんだろう
    日出処天子を名乗ったのと同じ発想

    日本という国号が「日本を貶めるための工作」になるというのが本当に意味不明

  196. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 17:31:04

    隋の時代まで畿内の描写ないもんな

  197. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 17:37:49

    ※174
    アイヌの先祖も縄文文化の担い手だったんだぜ
    因みに関東の縄文人の先祖の一派の方がアイヌ民族より先に北海道を通ってるんだぜ

  198. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 18:13:29

    邪馬台(ヤバタイ)=八幡(ヤハタ)
    だったりしないかな

  199. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 18:37:35

    ※195
    古事記は倭と書いて「やまと」?
    日本書紀は日本と書いて「やまと」
    古事記では日本という文字は全く出てこないから
    日本書紀で「倭」の文字をあえて「日本」に書き直したことにになる
    大和朝廷内で倭と日本が並立してるw

    倭人伝では邪馬台国は倭国の中の一つの国
    決して「邪馬台国=倭国」ではない
    それが大和朝廷で「やまと=倭=日本」になったとすれば日本国内に大きな変化が有ったってことになる

    あと日本書紀の神功皇后には昔の魏史を引用し「倭女王、倭王」という記述が有る
    さすがにこれは「やまと女王、やまと王」とは読まんでしょw
    古くは「倭=わ」だよ

  200. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 18:51:21

    倭人伝では卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたとある
    これを「親魏やまと王」とは読まんでしょw

    久しぶりに日本から朝貢に来て「やまと王」を名のったら
    中国人は不審に思うだろうな
    日本側は「倭国を継承して…」とか言い訳するだろう
    倭国(日本)伝そのまんまw

  201. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 19:03:35

    中国は祭ってたとか言ってるけど、ヤマト王権の阿蘇山に対する扱いはくっそ軽いんだよな

  202. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 19:06:09

    阿蘇山ありと明記されているところは、日本の古代史学会はスルー決め込んでいるよねえ。

  203. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 19:12:46

    ブログ主さん、下記のサイトも結構おもいしろいよ。

    古代史ロマンで結構楽しめると思うから、よかったら読んでみてちょw

    ↓  ↓  ↓

    日本建国史(目次)
    〇ttp://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

  204. ※203 2017/06/16(金) 19:14:08

    〇の所をhに変換ということで

  205. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 19:27:48

    邪馬壱国 → 南に狗奴国、南九州と争い
    邪馬台国 → 東に狗奴国、出雲と争い
    日出所  → 東と北に毛人、北陸関東と友邦盟主として有利にお付き合い
    源氏幕府 → ようやく全国に指示が行く、沖縄も自称源氏の子孫、江戸入る頃には北海道も全域交易対称に。
    明治政府 → 全国に近代国家としての統合を強制、それまでの地元を基にしたゆるやかな日本人連邦から、日本民族としての同化混雑政策を進める。

    こんな印象だなぁ。結局ご当地連邦 U.S.Yamato に戻した方が良いってなってきてるけどね。

  206. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 19:45:25

    人種については、既存の人種の分け方なんて科学的にお話にならない。
    遺伝子基にしたら、コーカソイドがどうこうなんて全く出鱈目、21世紀にもなってそんな分類使うやつは知恵遅れ。
    結局、(伝統)文化言語で決まる、国家民族こそが重要なのだろう。

    遺伝子で考えると、日本にはほぼ日本独自の系統が居て、支那の方まで日本原住民の土地だった可能性が高い。
    そこに大陸規模での民族移動(侵略)がおこって、日本独自のも倭人もほとんどが押し出されて日本に生き残った。
    日本独自のに近い支那人(チベットや羌族にそこそこ居る)や、倭人に近い支那人(香港など支那海沿岸)、など、国家国籍で分けられるような単純なものではない。
    関東に多い謎の古代人遺伝子が気になる所、40000年前にエルサレムから日本にやってきた人達かもしれない。

  207. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 20:36:52

    電波すぎる
    文献だけを中途半端につまみ食いしてオレ様ストーリー作って悦に入るなら教科書を読み直せと言いたい

  208. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:03:07

    ※206
    >謎の古代人遺伝子

    なんのこと?
    47000年前から分岐し、
    わずかながら親戚筋の遺伝子がヨーロッパにあるというC1a1なら
    沖縄、四国、近畿、東北に多いらしいけど

  209. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:06:55

    ≫207
    教科書さんこんにちは!
    戦前の教科書と今の教科書はだいぶ違いますが、教科書さんとしてはどの出版社が出したどの教科書が正しいのですか?
    貴方の祖国のように国定教科書があればよかったですね!

  210. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:09:48

    >199,200
    山脈と書いて「やま脈」とは読まないだろ?
    倭国っていうのは大陸側の言葉だよ
    大和言葉では倭国と書いて「やまとのくに」って読む
    日本はそういう漢字の受容の仕方で、漢字を取り入れた
    漢字には音読みと訓読みがあるのは小学校で習ったよな?

    >大和朝廷内で倭と日本が並立してるw
    天武持統朝が「日本」という国号を作ったんだから、その公式の国史である日本書紀に「日本」という表記を使うのは当たり前だろう
    そして日本武尊と書いて「やまとたけるのみこと」と読むんだよ
    まさか「にほんたける」と読むとか言わないよな?
    それにこのブログの記事の趣旨や185の言ってる「日本と倭が並立」は、「文字」の上のことじゃないよな
    話をすり替えないように

  211. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:12:02

    ※207

    7世紀くらいに日本と倭が並立してたかもしれない←わかる
    倭が九州で邪馬台国←は?

    ちょっと電波すぎるよな

  212. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:19:27

    教科書さんへ
    現代の歴史教科書には
    「邪馬台国は畿内説と九州説が有る」と明確に書いてあるぞwww
    おそらく全ての教科書が両論併記してる

  213. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:26:37

    現代と言うより
    最近(この頃)の歴史教科書だな

    学会等の発言力は畿内説のほうが有るので
    九州説が草の根的に伸びてることになる
    おれも昔は畿内説だった…
    今は転んだがw

  214. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:27:14

    ※212
    邪馬台国の位置はまだギリギリわからないけど、
    王朝交代説は終わってるだろ

  215. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 21:28:37

    ※213
    草の根w
    ただの無知な素人だろ

  216. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 22:51:57

    ※215
    教科書が無知だと言い切ったな
    (最新の)教科書を読めよw

  217. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 22:56:41

    ※210
    では
    卑弥呼はなんと読むの?
    邪馬台国はなんて読むの?

    これも日本読みは全く別ってことかえ?
    中国語は表音文字だよ
    倭人が「ヤマト国」と言ったら倭国と書くことは無い

  218. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/16(金) 23:29:31

    ヤマト国の使い(遣使)が行く前に、倭奴国が朝貢してるから、倭国ってなってたんだろ?

    で、ヤマト国の使いが来て、倭国の中に邪馬臺國があるって音訳で表記しただけじゃん?

    中国語が表音文字とか、あんまり無能の恥をさらさない方がいいよ
    カーペンターズが中国語でなんて書かれてるか知ってるか?
    外国語を入れるときに音訳で当て字することはあっても、漢字は表意文字だぞ

  219. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 00:06:49

    和人=わじん
    アイヌに対して本州系が自称した名称

    ちなみに「わ」は
    日本語の一人称でも二人称でも使われている
    「わ」という呼称が無かったという説は皆無だと思う

  220. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 00:12:42

    ※218
    カーペンターズ=卡彭特乐队

    かぺとバンド?

  221. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 00:19:11

    中国語は基本的に
    漢字一文字に対して読みは一つだと思ったが
    倭をヤマトと読むことなど有り得るのか?
    日本語だと漢字の読みは自由自在だけどなw

  222. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 00:35:52

    >220
    木匠兄妹樂團

  223. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 00:46:00

    >221
    倭國は大陸が付けた「向こうの言葉の国名」
    もとの語源(?)は219の説が俺も好き
    我々の国という意味で、「わ」の国と答えたのを卑字で倭の字を当てられたってのはありそう
    で、その漢字が日本に伝わったときに、漢字の「山」に大和言葉の「やま」を対応させたように、ヤマトという大和言葉を対応させ、「日本語ではやまとのくに」と読んだ
    まあ、どの時点からそう読んでいたかは分からないが、古事記では倭にヤマトの読みを付けているのは確か

  224. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 01:35:22

    13才が最高指揮官の邪馬台国vs連合国家邪馬台国と長年争えた大国家狗奴国
    どっちが勝ったなんて考えなくてもわかる構図
    3世紀後半から栄え続けてきたはずで勢力交代なんてありえない畿内では無理のある話

    それとも大和王朝の始祖は狗奴国とでも?

  225. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 01:39:55

    現代日本だってジャパンと呼ばれてるし呼び名はあてになるのか

  226. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 01:45:48

    224
    そういう根拠のない妄想に意味はない

  227. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 02:49:36

    いやよくまとまってて面白かったよ管理人さん
    確かにコメント欄の人たちは頭良さそうだけどヒートアップしすぎでついていけないからな

    そんでこっちでも皆さんはまたおっぱじめるんだなw

  228. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 02:49:55

    ※216
    誰も教科書が無知とは言ってないぞ
    無知な素人って書いてるのが見えないの?
    素人は教科書書けないだろw

    日本語も正しく読めないの?

  229. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 03:35:33

    日本列島に倭という勢力と日本という勢力の2つがあったと書かれてる日本史の教科書があるのかよw
    電波は教科書を読み直せ

  230. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 05:01:04

    濊族、一人称がワイの穢らわしい国、なぜか納得。

  231. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 05:45:43

    >227
    頭良さそうな人たちだけならヒートアップもしないんだけどねぇ

  232. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 06:10:52

    白村江の戦いの敗戦でショックを受け、天智天皇と天武天皇が我が国を強くしようとした。
    壬申の乱にもそういった側面はあったはず。
    中央政権化を進めて天皇号を名乗り、我が国が唐の影響に抗って、あくまで我が国は独立国であって唐とは対等であると強硬姿勢をとれば、態度が傲慢になるのも当然と言える。
    その時に心機一転とかを理由にヤマトから日本に国号を変えたとも考えられる。
    もっと詳しく言うと、中央政権化を進めるときの障害である地方の権力者に対する牽制とか。
    国号を変えて周知するにはそれなりの影響力が必要だろうから、それを行うと中央政権天皇の力を再確認でき、
    さらに中央第一で地方の序列は二の次三の次と示すことができる。
    それと旧唐書が書かれたのは後世過ぎるから、著者の独自解釈が入った恐れもある。

    あとは国名や地名などについて推測とか
    倭国→≒地域=日本列島(ほぼ西日本)、由来は一人称の「吾」「我」や共同体を意味する「輪」「環」など
    邪馬台国→倭国内に存在した多数ある国々のうちの一つ、ヤマト国
    日本国→邪馬台国の新しい国号
    「倭国」の単語は元々「地域」を指していたが、やがて「国」という意味が込められるようになった。
    邪馬台国が倭国にある多数の国を従えて倭国の盟主となった。
    倭国=邪馬台国勢力下、故に人々はこう思うようになる。倭国=邪馬台国。
    これは現在の日本列島=日本国の感覚に似ている。
    倭国=邪馬台国なので、のちに「倭」が「ヤマト」と呼ばれるようになり、
    やがて雅な字があてられ「和」さらに偉大という意味を付け足して「大和」と変化した。
    ちなみに「日本」も「ヤマト」と訓むことができる、日本書紀にもそう書かれている。
    ここまで書いたけど書いてる途中でよくわからなくなったから読まなくていいよ

  233. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 07:18:33

    >232
    壬申の乱のところを除けば同意
    あと一点
    >雅な字があてられ「和」さらに偉大という意味を付け足して「大和」と変化した。
    ここは順序が逆かも。大倭と書いてオオヤマトと読む例が結構あるから。

  234. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 07:31:19

    「やまと」自体も「みなと」みたいにある種の地形を表す一般名詞が地名になった説があるよな
    だったら「やまと」名乗りが複数あった可能性もあってややこしいわ

  235. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 09:16:00

    ※223
    >卑字で倭の字

    これも完全な間違いだよね
    魏の倭国への待遇は最高待遇

    人委 委鬼

    卑字はどれなの?
    まさか矮と倭が似てるからとか言わないよなw

  236. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 09:36:43

    「やまと」という地名は九州に多い
    日本書紀では(福岡県)山門県で土蜘蛛を討ったともある
    熊本にも菊池郡山門郷が有った

    邪馬台国がヤマトと読めたとしても
    それが畿内のヤマトかどうかは全く不明だぞ
    隋書だと九州から「東」に向かっているので完全に畿内のヤマト
    魏史だと「南」に向かっているので熊本のヤマト
    これで問題ない

    熊本には四重の環壕が取り囲む巨大遺跡が有るらしいがほぼ未発掘らしい

  237. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 10:27:05

    「ヤマト」の語源に関しては、様々な説がある。筑後の山門(福岡県柳川市・みやま市)や肥後の山門(熊本県菊池市)や豊前の山戸(大分県中津市・宇佐市)といった九州に散在する「やまと」の地名から来たという説もあるが、「門」や「戸」の「ト」は甲類なので、邪馬台には直接つながらない。甲類の「ト」には、「外」もある。「門」や「戸」は家の外に向けて置かれるのだから、二つの甲類の「ト」は意味内容上の連関がある。これらは、「山の外に存在する、山への入り口」という意味で付けられた地名と考えられ、魏書東夷伝倭人条が謂う所の「女王の都する所」の名称としてふさわしくない。

    ———
    ほぉー

  238. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 10:29:52

    237だけじゃなんのことかわからんな
    ———–
    ヤマトは、『古事記』では「夜麻登」、『日本書紀』では、「揶莽等」、「野麼等」、「野麻登」、「夜摩苔」、「夜莽苔」と万葉仮名で表記されている。万葉仮名文献には、上代特殊仮名遣と呼ばれる、現在使われている音韻である甲類とは別に、乙類と呼ばれる古典期以降使われなくなった仮名があったことが知られている。ヤマトを表す万葉仮名の三番目はどれも乙類の「ト」を音写する漢字である。

  239. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 10:37:11

    >236
    >魏史だと「南」に向かっているので熊本のヤマト
    >これで問題ない
    勝手にそう思ってればいいよ
    日本という国は思想信条の自由が保障されてるから

    >隋書だと九州から「東」に向かっているので完全に畿内のヤマト
    その隋書に都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也ってばっちり書いてあるんだけど

  240. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 11:13:13

    「ヤマト」がもともと地名ではなく地位を表す名称だとすれば、
    ヤマトの地名が各地に転々と存在するのも
    ヤマトを乗っ取った新政権が自らの本拠地をヤマトと称したのも
    無理なく説明できる。
    理解のための補助線としては「都」という言葉を思い浮かべれば良い。

    魏志には、邪馬台国の女王卑弥呼の死後、男王が立てられたがまとまらず・・・
    というくだりがある。
    「ヤマ(神の住むところ)の入口」というのは、
    つまり神の言葉を伝える徳をもった支配者のいる国という意味で、
    そういう国が宗主国として倭のリーダー格(代表)とみなされていたのではないか。
    九州各所のヤマトは、ある一時期倭の宗主国が存在した場所なのかもしれない。

  241. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 11:44:54

    ※240に続いて
    魏志が伝える邪馬台国の場所が意味不明な点も、
    ヤマト(邪馬台)が必ずしも一定の場所ではなかったことや
    神のいる場所を口にすることへの躊躇いなどから
    倭の使者があやふやなごまかしの答えしかしなかったのが原因と
    考えることもできるのではないだろうか。

  242. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 11:49:24

    ※240
    238、237を読んでね。

    九州各地のヤマトは大和ではない
    山下とか山裾とかと同じでしかない

  243. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 12:13:23

    >241
    >ヤマト(邪馬台)が必ずしも一定の場所ではなかったことや
    中略
    >考えることもできるのではないだろうか

    考えることはできると思うよ
    妄想も人の心の中で思ったことではあるのだし

    大陸側の認識では、隋書の時点で都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也と書かれているし、一貫してヤマト=邪馬臺に都があったってことになってるけどね。

  244. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 12:29:50

    唐の役人はなぜ日本を倭とは別種だと考えたのだろうか。

    「倭が日本を併合し、その国号を奪った」という話に説得力がなかったから?
    それとも実情を語らなかったから?
    国土の自己申告が大げさで信憑性がなかったから?

    それもあるだろうが、それだけでは「別種なり」と正史に記すまでには至らないはずだ。
    おそらく使者の話す言葉なり服装なり体現する文化が
    倭とは大きく異なっていたことが重要な要素として認識されたのではないだろうか。

    当時、倭も朝鮮半島に進出していたが、
    それならば当然、朝鮮半島から日本列島へのルートも存在したはずである。
    古代から朝鮮半島はツングース系、韓族、倭などの入り乱れる人種のるつぼであった。
    倭の支配する玄界灘を避け、日本海を横切って
    特にツングース系が日本列島に進出した可能性は否定できない。
    倭の南方系を思わせる習俗とは異なる習俗を持つツングース系の移民が建てた国が
    列島各地に存在していた可能性は十分にある。

    また、捕虜や人質として韓族も列島に渡ってきていただろう。
    彼らは彼らで政権内部から権力に食い込み、新たな勢力となっていったに違いない。

    倭が何事もなく日本にスライドしそのまま現在に至るなんて楽観主義にもほどがるのだ。

  245. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 12:47:30

    遠い国で最初は情報が少ないわけだから、
    新しい方が事実に近いんでないの?

    で、最後は

    >日本は古の倭奴国である。

    ということで倭=日本を認めるじゃん。
    それが答えでよくね?ロマンがなくて申し訳ないけどw

  246. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 13:12:18

    チャイナの正史(という名の大本営発表)を鵜呑みにするのは
    みんなもう飽き飽きしていると思うよ。

    今は「なぜそう書いたか」「あちら様にどういう都合があったのか」を
    忖度する流れになっている。

    「それが事実だったから」とうそぶく思考停止くんはこんなエンタメサイトに来ずに
    教科書とにらめっこしていてくれたまえ。
    教科書やチャイナの大本営発表への信仰が篤いのはよく理解するが、
    過去の学問的成果を批判的に土台としながら
    想像や可能性を自由に羽ばたかせられるところが古代史のロマンなのだ。
    (ちなみに一部の文献のみを過大評価する歴史観をトンデモという)
    どこかに書いてあることをオウム返しに繰り返すだけのガリ勉くんの書き込みを読んだって
    ちっとも面白くないのだよ。

    まずサイトの趣旨を理解しろ。

  247. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 13:49:20

    >246
    古代史のロマンとトンデモの線引きはどこ?
    今回のブログ記事はかなりトンデモ寄りだと思うぞ

    今どき九州王朝仮説の亜流なんてw

  248. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 14:03:49

    畿内説が有力だが九州説を完全否定出来るほど材料は無いわけで
    そもそも魏志倭人伝の内容がどこまで正しいか
    別視点から見た書物が残ってないから不明
    九州北部の地名や描写は細かいのに邪馬台国になると
    途端にあやふやだし

  249. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 14:28:59

    244と246は同じ人かな?
    で、244の
    >唐の役人はなぜ日本を倭とは別種だと考えたのだろうか。
    ていうのが、246でいう
    >忖度する流れ
    ってことなのかな?

    こういうのは「ロマンとトンデモの線引き」の向こう側だと思うなぁ

  250. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 14:42:38

    248
    そう、だから九州北部はありえない
    九州南部はワンチャンあるけど狗奴国考えると難しい
    よって畿内でほぼ決まり

  251. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 15:19:35

    つまり大日本帝国と日本は別の国って事ですね。わかります。

  252. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 15:22:23

    ※235
    これは完全な詭弁。

    倭と魏で「委」が共通しているようだが、
    両者には偏と旁の違いがある。
    漢字の意味を考える上で、偏は分類を表すのみで
    価値を表すような細かい意味は旁のほうにある。

    肝心の意味はというと
    「魏」は「高く大きい」さまを表し、「巍々堂々として尊高なり」の
    「巍」と同じ意味の字である。
    一方、「倭」は「曲がりくねって遠いさま」を表し、「奴」という字とよほど相性がいいらしく
    チャイナの正史には「倭奴国」と、奴の字とセットでよく記される。

    なおチャイナの正史には
    「チャイナの発音に習熟して倭の名を嫌い、改めて日本と号した」と書かれているようだ。
    もし本当に「倭」に悪い意味がなかったとしたら、果たしてそういうふうに書くだろうか?

    「漢字も知らない野蛮人だから適当におかしな字を当ててやったが、
    やっと漢字を勉強して意味がわかったようだからやつらが希望する字で書いてやることにするか」
    そんなニュアンスがにじみ出ている。

  253. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 15:26:02

    ※250
    いや記述通り行ったら
    アトランティス大陸に行っちゃう訳で
    そこから読み取ろうとすると
    どうしても予想や想像が出て来る
    朝貢国を実際より大きく描く事で
    魏の力を大きく見せたみたいな
    妄想の類も否定できない状況
    今の資料からじゃ有力な説を出すのが整然
    俺も畿内だと思うけど

  254. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 15:36:56

    ※247
    >トンデモの線引き

    書いてあるだろw明確に
    字も読めないのか?
    チャイナが相手だったら卑しい名前をつけられるところだな。

  255. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:11:04

    >254
    じゃあ、246で言う「ちなみに一部の文献のみを過大評価する歴史観」がトンデモってことだね?

    つまり「短里で魏志倭人伝のとおりに読めば九州に決まってる」と「魏志倭人伝という一部の文献を過大評価する歴史観」はトンデモってことでOKだなww

  256. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:13:01

    墳丘墓や古墳の副葬品を見れば倭の範囲と日本の範囲は別だからおかしくはない
    祭器も違うからその範囲ごとに国があってもおかしくない

  257. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:14:39

    ※255
    君の父祖の地の朝鮮半島の教科書ではどう書いてあるのかな?
    加羅や任那すらちゃんと教えてないんでしょ?

  258. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:15:03

    >253
    250は、248の
    >九州北部の地名や描写は細かいのに邪馬台国になると途端にあやふやだし
    を受けて、九州北部のことは詳しいのに「その詳しい範囲に邪馬台国があると書いてない」以上は、「九州北部はありえない」って言ってるんだよ

    詳しく書かれていないところに邪馬台国はあるはずだから、九州南部にはワンチャンあるけどってこと

  259. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:17:29

    254と257は同じ人?
    すぐに人を誰かれ構わず半島の人にしたがるけど、内容で議論できなくなるとそっちに話をそらすのはみっともないし、声闘っぽいからやめたら?

  260. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:21:47

    >256
    >倭の範囲と日本の範囲は別だから
    倭の範囲と日本の範囲をどのように考えてる?

    日本という国号を使い出したのは、天武持統朝の頃だから、その当時の大和朝廷の範囲でいいと思う
    そして、倭の範囲も倭王武=雄略天皇の時点で、九州から埼玉まで届いているんだから、事実上重なると思うんだけどな

    256の考えはどうなってる?

  261. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:27:52

    ※258
    細かな描写がある最後は奴国なんで今の博多周辺までなんでその考え方だとかなり範囲が広いぞ
    使節は奴国辺りまで行って後は現地の人に聞き取りして帰ったんじゃないかと思いたくなるぐらい
    他に当時の資料があったら魏志倭人伝の記述は捨て置かれてたろうな

  262. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 16:55:40

    ※255
    カワイソウナヤツダナオマエ。

    魏志倭人伝の記述がその他の文献と大きく矛盾しているのに
    魏志倭人伝の記述に固執し、しかも都合のよい解釈で塗り固めていたら、
    そいつの唱える説はトンデモだろう。

    改めていうのも馬鹿らしいが、
    短里説論者は一部の特殊な文献に固執しているわけではない。
    多数の文献の中から特に記述の多い魏志倭人伝に焦点を当て
    矛盾点の解釈の仕方を提示しているだけだ。
    もしそれがトンデモだとしたら、世のあらゆる学説がトンデモということになる。

    もちろんそんなことがわかってないはずはないだろうが
    そんな重箱の隅をつつくような詭弁しか出てこないようなら
    尻尾を巻いて教科書の世界にでも帰れ。

  263. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:05:48

    短里君こっちにも湧いてきたのか

  264. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:09:52

    >261
    前記事のコメント欄で「太守弓遵遣建忠校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國『拜假倭王』」「政等以檄『告喩壹與』」とあるから、梯儁や張政は倭王=卑弥呼や壹與に直接会っているって書かれてたよ

    >使節は奴国辺りまで行って後は現地の人に聞き取りして帰ったんじゃないか思いたくなるぐらい
    思いたくなっても、とりあえず魏志倭人伝には使節の梯儁も張政も倭王の都まで行ってると書かれていることになる

  265. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:11:26

    短里じゃないと畿内にならないもんな

  266. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:13:35

    247はマジで半島人かよ
    確かに倭も日本もお前の先祖を支配していたが、倭も日本もお前の歴史じゃないぞ

  267. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:15:24

    ※265
    滑ってるぞ

  268. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:16:52

    >262
    >魏志倭人伝の記述がその他の文献と大きく矛盾している
    中略
    >矛盾点の解釈の仕方を提示しているだけだ。

    前段から、魏志倭人伝がその他の文献と大きく矛盾しているのを認めるなら、「魏志倭人伝の記述」の方が間違っていると判断するのが合理的では?

    それなのに、魏志倭人伝を「解釈する仕方」を考えるのは、多くの文献の中では一部である魏志倭人伝を過大評価していることにはならないのか?

    これは、詭弁でも何でもなく262等の書き込みに沿って論を進めているだけだが?

    そもそも論立てが間違っているって言われているのは、理解できますか?

  269. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 17:30:10

    ※260
    倭王武=雄略天皇というのは通説ではない。
    未解決の様々な矛盾を抱えた一説に過ぎない。
    そして倭王武の上表文は、とても額面通りには受け取れないいわば自己申告というべきもの。

    さらにいえば倭人が
    ここからここまでが俺たちの領土、みたいな考え方をしたかどうかも不明。

  270. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 19:35:12

    日本は今まで朝貢していないし、記紀にも朝貢がない
    そもそも邪馬台国をはじめ倭について記紀には書いていない
    記紀を作ったヤマト王権は倭と日本を別にしている

  271. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 20:15:07

    ※252
    「委」には遠い曲がりくねったという意味が有る
    古代の「鬼」には畏怖を伴う意味が有った
    よって魏は偉大という意味になり
    巍巍は高くそびえるという意味となる

    「倭」には日本以外の意味がない
    蔑称を付けるなら矮人とか穢人で十分だったはず
    あえて専用の漢字1文字を作ったという事はそうとうな待遇だ
    遠い国という意味になるあろう

    また当時の中国には日本を小国という認識もなくチビという認識もない
    むしろ蓬莱と勘違いされていた
    倭に小さいという意味をもたせるのは後世の悪意の結果に過ぎない

  272. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 20:22:51

    ※264
    引用されたコメントで挙げられている漢文のうち
    前者の焦点「拜假倭王」については、「拜假」の意味を取り違えている。
    「拜假」とは、「皇帝に成り代わって官位などを授与する」という意味で、
    そこに直接会うなどという意味はない。
    拝謁とか拝見とかと間違えているのではないか。
    なお、その文の直後に「倭王因使上表 答謝詔恩」とあるから
    なおさら魏の使者は倭王に会えていない可能性が高い。
    個人的には朝鮮半島の倭国領で使者をもてなした可能性が一番高いと思っている。

    後者の「政等以檄『告喩壹與』」については、
    檄の意味がわかっていない。
    檄とは、木や竹の札に書かれた感情的な文章のことで、
    檄を以て告諭したというのは、対面して喝を入れたのとはわけが違うのである。
    つまり文章で激励しただけであって、
    これもやはり朝鮮半島の倭国領までしか行ってないのではないかと思う。

    つまりあなたが引用した人のコメントは間違っているのである。

    一応、※261の人に謝っておいたほうがいいんじゃないか?

  273. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 20:42:06

    ※271
    「倭奴国」の意味プリーズw

    わざわざ新たに字を作るくらいなら
    なぜ国がまえに委としない?
    いや、なぜ国がまえに和としない?
    いや、もっと尊敬のこもったいい漢字、いくらでも作れるだろう。
    そもそも倭よりもっと遠いところにある国など文字通り掃いて捨てるほどあるだろうに
    なぜ大陸沿岸にも姿を現していた倭に「遠い」などという名前をつける?
    牽強付会にもほどがあろう。
    嘘をつくのも大概にせよ。

  274. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 20:59:13

    いやはや本当に素敵なブログだ、もっと早くに知りたかったことこの上ない。
    ちょうど倭国小国家分布を研究しててね、古墳と地層の研究なんですが、まぁ教授が古墳で僕は地層なんですが、教授と僕らでこういうのを「少年時代から疑問を持ち、考える教科書」にするべきって何時も言ってるんですよ。何が良いって読みやすいね。浅い深いは
    無意味ですね、非常に的確かつ簡素でまとめる力に優れていると感じる。
    ほかの聖書イスラエルエジプトの記事も僕はさっぱり門外だけど、すごくおもしろかったなぁ。
    わかりやすいもの、批判容認多いのもうなずけます。
    サイト主さんはまだ引き出しを持っているんでしょうか?楽しみです。
    大袈裟じゃなく、ウチの教授の論文より全然いいよっ!

  275. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 21:43:08

    朝昼やってる工作員がこっちにも出てきたね。
    目的は日本人議論の妨害だろう、妨害してめちゃくちゃにした所で、自分たちの主張だけごり押し。
    前の方で畿内説崩壊して黙ったと思ったら、こっちで同じ工作連呼し始めたか。

    >208
    うろ覚えで勘違いしてた、↓のC2Cと何故か混同。
    ttp://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E6%AF%94%E7%8E%87%2528%E6%9D%B1%E4%BA%AC%29
    日本人の遺伝子は9割近くが縄文由来で、1割程度弥生以降のが入ってるって、ここ数年の最新科学調査で判明してるけど、西日本に出る数%のO系下位分岐とか、関東には蝦夷っぽいD1aとか、今でもしっかり証拠が残ってそうだ。
    日本人の遺伝子は多種多様に保存されてて、見てて楽しいし、よっぽど仲良くしてきたんだなぁ。

    案外昔の事も、しっかり調査すれば判明してくるかもね、日本だし。

  276. 通りすがり 2017/06/17(土) 22:19:48

     琉球、アイヌ、意外にも国はあったさ。現在みたいに全部合わせて“日本”の感覚なんて昔の人には無かっただろうから。出雲だって、播磨だって、蝦夷だって、その他だって、自分のところを國と思ってたさ。国名が変わったって、先祖は先祖。人種の話とはまた別物。

  277. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 22:45:33

    >272
    大変お詳しいようなので教えてほしいのですが、「皇帝に成り代わって官位などを授与する」ために太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬「詣倭國」拜假倭王と、倭國までわざわざ来て、それで国境を越えた辺りで王都まで行かずに、誰かに倭王に届けるように託すっていうのはどういうことでしょう。答礼(冊封)使としての役目ってそれでいいんですか?
    そして「その文の直後に「倭王因使上表 答謝詔恩」とあるから」とありますが、倭王が魏皇帝の詔勅を受け取ってそれに対する謝意を使いの梯儁に上表した訳ですが、272の言うとおり「朝鮮半島の倭国領」までしか行っていないのなら、奴国辺りから投馬国経由で邪馬台国まで詔勅を届けて上表(文?)が帰ってくるまで、片道2ヶ月(水行20日+10日陸行1月)往復で4ヶ月+アルファの時間、その半島の倭国領でずっと待ってたんですか? さらに対馬海峡を渡るための潮待ちや天気待ち、海が荒れない季節を選ぶことを考えたら下手すると1年以上かかりますよ?

    それを「詣倭國」表現しますか? それが自然な解釈なんですか?

  278. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 22:50:28

    >269
    >倭王武=雄略天皇というのは通説ではない。
    >未解決の様々な矛盾を抱えた一説に過ぎない。
    ああ、ここからですか
    では倭王武はどこの人物ですか? 九州王朝の人なんでしょうか?

  279. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 23:14:13

    富士山じゃなくて阿蘇山が記述されてるんだよなあ

  280. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 23:45:23

    邪馬台国近畿説なら出雲とか吉備国はどういう扱いになるの?
    魏志倭人伝には詳しい描写は無しでスルーなの?

  281. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/17(土) 23:52:37

    >275
    >日本人の遺伝子は9割近くが縄文由来で、1割程度弥生以降のが入ってるって、ここ数年の最新科学調査で判明してる

    言ってることとグラフが全然違うんだが
    日本人の9割が縄文系とかトンデモ説じゃないのか?
    ソースは?

  282. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 00:11:59

    ※277
    教えて欲しいのですがと言いながら詰問口調になってる。
    教えて欲しいと言いながら、明らかに反論しようとしているのが見え見えだ。
    姑息な人間だな。
    この調子ではきっと自分の間違いも認めず、謝りもしないだろう。

    >・・・役目ってそれでいいんですか?
    そんなのはタイムマシンでも発明して魏の皇帝曹叡に言ってくれよw
    チャイナの正史によれば、倭は魏に朝貢し、魏はそれに対して
    「よしよし」と頭ナデナデしている関係だから
    そういうことは十分あり得るに決まっているだろう。

    >謝意を使いの梯儁に上表した訳ですが
    「倭王因使上表(倭王使いによりて上表し)」だから
    倭王が、後日こちらがわの使いの者を改めて派遣し、上表して礼を述べたと解釈するのが適当。
    親分である魏の皇帝の使いに対してそんなに待たせられるわけがない。
    魏の使者だって海を隔てた玄関先への訪問で済ませているわけだから、
    そのへんは心得ているに決まっている。
    「倭王は出てこないのか」「返事はまだか」などと無茶を言うはずがないだろう。
    (電話も飛行機もない時代の外交のテンポや感覚、想像できてる?)

    ちなみに「詣でる」という言葉を使っている理由は、
    「使者」が「皇帝に認められた王」に訪問するから
    (皇帝への)礼儀上、貴人を訪ねるときの表現になっているだけであって
    魏が倭を敬っているとか、対等な間柄であるわけではない。

    そもそも、わざわざ海をわたって
    丸腰でものを届けに行くほど魏も東夷の野蛮人に心を許したりしないのである。

  283. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 00:56:26

    邪馬台国と大和朝廷が同一なら親魏倭王の印綬はどこに行ったのか?
    ずっと続いてきた権力で親魏倭王の印綬も記録もない理由をおかしいと考えられないのか
    別種だと判断した中国のほうが合理的な答えを出してると思う
    7世紀でも邪馬台国と大和朝廷は同一だと判断する材料がなかったと考えるほうが妥当

  284. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 03:40:32

    >277
    気持ち悪い丁寧語の朝○さん
    到伊都國 ~ 郡使往來常所駐
    自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
    この辺りどーなってんの?、妄想言いがかりしかできませんか?

    収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
    ここも気になる。
    大倭って女王国範囲じゃないし、一体何の事なんだろう。
    近畿国名で、あいつらにやらせてる上なのはこっちって報告してたんだろうか。

  285. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 04:47:49

    正史の内容がどこまで本当かは、確かに疑わしいですけどね
    しかし、今まで付き合いのあった倭人と比較して違和感を感じたのは事実でしょうね
    本当に倭国の進化系が日本国なのかと。

    それなりに認知してた倭人が、急に尊大で不誠実になり、しかも国号を変えたと主張してるけど
    性格まで変えたのか?と怪しんだのでしょう。

  286. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 08:11:29

    277
    C14で分からないんですかぁ?

  287. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 08:51:05

    「倭と日本が別モノ」ってのは、邪馬台国論争の穏便な着地点なんだよ
    いわゆる邪馬台国は、どう考えても九州なんだけど、近畿説の人は纏向遺跡にしがみついてる
    だから 「邪馬台国は九州。だけどそれは途絶えちゃってて、纏向王国こそが後の大和政権なんだよー」って言う両者痛み分けの構図
    これによって近畿説は否定されるが、九州説でも神武東遷説は否定される
    この辺で両者手打ちにしとくのが大人というものだよ

  288. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 09:16:58

    邪馬台国が近畿にあったとしたら
    じゃあ九州には何で触れないの?
    当時からそれなりにデカい規模のクニはあったんだろ?
    それとも邪馬台国が近畿から九州まで広く支配して九州も邪馬台国の一部だったの?

  289. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 09:23:46

    纏向遺跡は神武天皇の居住だと思う
    それが古代奈良湖の干拓に成功して一気に勢力を伸ばした
    そう思っている

    日本書紀は神功皇后を卑弥呼にするため初期の天皇の在位年数を改竄してるようだ
    神武東征が紀元前660年は有り得ない
    古事記や考古学的だと2世紀初〜中頃とみなされる

    倭国大乱の時期に九州の豪族(神武)が畿内に移住したとしても不自然はない
    古事記の神武天皇以降は全て史実であろう
    大和朝廷は九州の女王国と男王国を征服しているし

    日本書紀で中国への朝貢の話が出てくるのは7世紀初
    それ以前は全く朝貢の話が出てこないのは不自然と言われてきたが
    大和朝廷がこの時ほんとうに初めてだったとすれば問題ない
    倭と日本は倭の別種だが同じ倭種

  290. 名無しさん 2017/06/18(日) 09:32:32

    筑紫の国造磐井が倭国王だったのかな?

  291. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 09:38:30

    大和朝廷の朝貢失態

    1国書を忘れる
    2天子を名乗り皇帝を激怒させる
    3中国から使者が来たのに礼を欠き使者が怒って帰った

    こんだけミスを重ねるのは朝貢経験がある国では有り得ない
    朝貢にまったく無知だった事が証明されている

  292. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 09:56:42

    >291
    その朝貢経験は何百年前?

  293. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:01:18

    >288
    伊都国と奴国が288のいうそれなりにデカい規模の国でしょう
    それらが邪馬台国とは別に書かれている以上、北部九州に邪馬台国の入る余地がすでに乏しいんですよ

  294. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:15:24

    ※293
    まさか地図で広さも分からない人がいるとはね
    朝鮮半島だけでなく日本地図もみてくださいな

  295. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:18:45

    >289
    >古事記や考古学的だと2世紀初〜中頃とみなされる
    具体的な年代を想定するのは難しいと思います
    古系図の在野の研究者は、神武から崇神まで5世代と想定しているそうです

    >古代奈良湖の干拓
    これに関してはもっとずっと古いと思いますよ
    奈良盆地の中央から弥生時代のそれなりに古い遺跡が出ていますから

    >古事記の神武天皇以降は全て史実であろう
    私も神武天皇の実在説を支持しますが、神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦天皇)という名前からして纒向ではなく磐余の王だと思います

  296. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:28:39

    奴国比定地から前に九州説の人が行っていた筑後平野の有明海沿岸まで、松浦から奴国までとそんなに距離は変わらないだろう?
    それで、奴国までの詳しい記述が、そこから邪馬台国までのざっくり記述に変わる理由が乏しいって話
    前に記事のコメント欄での「3世紀」で「伊都国と奴国以外」の大陸との交渉つながりを示すものはどこにある?には答えられてないだろう?
    オレの知識はたぶん日本地理にしても日本の歴史にしても世界史にしても、あなたよりずっと多いから心配しなくて大丈夫だよ
    九州説の根拠だって邪馬台国の会のHPも一通り読んでるし、古田武彦の本も有名どころは何冊か読んでるよ
    その上で畿内で問題ないと判断してる

  297. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:32:21

    >287
    まあ大人の事情(町おこしその他)は分かりますが、手打ちする必要はないでしょう
    吉野ヶ里遺跡も邪馬台国じゃないことははっきりしていますが、観光地として楽しいところですし

  298. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 10:50:42

    >282
    >「倭王は出てこないのか」「返事はまだか」などと無茶を言うはずがないだろう
    というより、詣倭國といって狗邪韓國まで出てきてそこで1年も待つ必要があるのかってこと

    それだけ時間があったら帯方郡の役所まで帰れるよね? そこで待てばいいと思わないか?
    そしてそれでいいなら、最初から帯方郡で倭國の使いに魏皇帝の詔勅を託せばいいことにならないか?

    オレの言いたいことは分かった? 皇帝の詔勅を夷人に託すというのが答礼(冊封?)使としてあり得るのかってこと

    のちの裴世清も邪靡堆の都まで訪れてるよ。「拜假」の意味一つでずいぶん頑張ったけど、直接という意味が厳密にはなくても、それが直接「会わなかったことを意味する」ものではないだろ

  299. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 11:36:59

    古事記と日本書紀に倭の出来事がない以上倭と日本は別と考えるべき
    遺構からも別なことが明らか

  300. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 11:38:56

    隋書の裴世清の見分と思われる部分からすると
    7世紀初頭の倭人は男女ともまだ顔まで全身に刺青をいれているんだよな
    この風習が無くなったのはいつだったんだろう

  301. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 11:55:33

    300
    ヤマト王権が支配してからじゃない?
    畿内だと3〜4世紀にはすでに刺青ないし

  302. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 13:48:28

    ※292
    伊都国は1000余戸だから国としては小さい
    ただ重要な拠点だったようだ
    唐津に上陸したとすると距離も方向も一致する所に吉野ヶ里遺跡がある

    当時の有明海は海岸線がかなり内部まで来ている
    吉野ヶ里遺跡まで海が迫っていた
    奴国はその南東なんで八女あたりか

    伊都国から有明海を「南」に水行で邪馬台国
    熊本平野なら奈良盆地より遥かに広く巨大な国が成立可能
    阿蘇山も有るし

    九州で意外と収まる
    だいたい伊都国は末盧国から「南東」と書いてある
    もし東を南に間違えたとすると末盧国から北東に歩いたということになり
    末盧国に上陸してすぐ北東に
    つまり海上を五百里も歩いたことになるw

  303. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 13:54:36

    ちなみに「短里」は「高句麗伝」でも使われている
    「高句麗は遼東の東千里に在り……方形は二千里」
    これはどう見ても短里(76m)でしか理解できない

    他にも有るので倭人伝を含む東夷伝全体で短里が使われているようだ

  304. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 14:37:15

    はいはい

  305. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 15:10:13

    >302
    書き方変えたね、朝ひってる頭の中が一緒だからばればれ。
    吉野ヶ里まで海とか、縄文海進時代ですら怪しいわ。
    しかもそれから海面が下がって、弥生時代に海近くは水田作りに向いた土地が広がってたし。
    そこで稲作取り入れて、戸数一挙に増やして強国になっていったのが、海沿いの国家群だろう。
    奈良や関東の内陸は、古来からの強国で復権運動。
    この辺りが倭と日本の境目にあるんじゃないの。

  306. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 15:54:35

    ≫293の人はもしかして奴国と伊都国を九州北部、つまり佐賀県と長崎県と福岡県と大分県と熊本県の全域だと思ってるのかな?
    この人はどこを九州の北部だと考えているんだろう?
    北九州市と間違えてるのかな?

  307. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 17:45:32

    まあ筑後川のすぐそばは大雨で氾濫するから稲作には不向き
    遺跡も筑後川から数キロ離れたところにあるのは事実

  308. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 19:14:15

    素直に「面白かった」と言いたいわ

  309. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 19:15:42

    >283
    >邪馬台国と大和朝廷が同一なら親魏倭王の印綬はどこに行ったのか?

    大王の代替わりごとに新しい宮を置いていたのに、文書保存の習慣もなく法律もない大王ごとにほぼ自由に振舞ってた時代に、3世紀に貰った印綬が初めての公式国書を書いた7世紀まで残っていると期待するのはそもそも難しいと思うが。

    権力の象徴として伝世するってのも考えられるけど、266年の遣使のあと倭の五王まで朝貢の歴史も途絶えるし、倭の五王のあともまた途絶えるし、朝貢が途絶えている間も後生大事に抱えてたと考えるのもむしろ難しいと思う。

  310. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 20:00:12

    同一なら物はなくともそのもののあった記録はある
    朝貢した記録すらないのだから倭と日本は別とみて間違いあるまい

  311. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 20:40:32

    >310
    その理屈だと倭の五王もヤマト王権でないということになるが
    倭の五王はどこの誰と考えているんだ?
    その時代は考古学的観点からはヤマト王権による全国統一がとっくに終わってるし
    日本に残る最古の文字資料である稲荷山鉄剣などからも埼玉から熊本までは版図になってることが明らか
    倭の五王はいったいどこにいたんだ?

  312. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 21:13:17

    >309
    その場合ネックになるのは三種の神器
    剣、鏡、勾玉であるから時期的には弥生時代~となる
    金印は紛失したが同時代またはそれより古い可能性の高い三種の神器は残ったは
    都合よく解釈しすぎではないか

  313. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 21:31:39

    >312
    横レスだが基本的な事実認識に間違いがある
    三種の神器の起源がいつなのかは明らかになっていない
    実際、初期の大王クラスの古墳には勾玉は副葬されていない

  314. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 21:54:29

    鏡  権威 西の九州
    剣  武力 東の毛人
    勾玉 富  北の日本海側
    3つ統べる大王を中央に置いた。
    九州から四国紀伊東海、南関東にかけての、太平洋側の勢力が母体だろう。という妄想。

  315. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 21:57:00

    >313
    横レスだが勾玉自体は縄文時代からある
    武寧王陵など韓国内の王墓からも発掘されており、これらは日本から伝来したものである

  316. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 21:59:42

    勾玉
    日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。

  317. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 22:31:02

    >>311
    考古学的見地って・・・非科学的な妄想だろうよ、いつの時代の考え方だよ。
    先に進め、シンギュラリティもう目の前だ、古代史なんて統計でしか答えだせないぜ。
    そして統計なら近畿に邪馬台国なんてありえない。
    奈良盆地に大きい国が存在したかもしれないが、それが邪馬台国だなんて中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてないんだよ。
    本当に大人が妄想を膨らますととんでもないことになるな。

  318. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 22:40:55

    >315
    だから何?
    初期のヤマト王権で勾玉が三種の神器になっていたというソース出してくれ

  319. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 23:15:33

    古田武彦著が、「九州説」とかよく読んでからコメントしてほしいですね。
    そもそも邪馬台国なる国自体が「存在しない」ということからスタートしてる
    という点ですね。

    邪馬台国は、中国の魏志倭人伝には「邪馬壹(ヤマイ)国」としっかりと明記
    されている。にもかかわらず、そのまま邪馬台国のままつっぱしっている。
    こっちの方が日本の歴史家の惨い改竄と言わずしてどうするのだ?

    「邪馬壹(ヤマイ)国」なる国が九州にあったとかどうかは問題ではない。
    「邪馬台国」なる国は存在しない。はいおしまい!

  320. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 23:30:24

    邪馬壱国は北九州
    邪馬台国は概ね近畿
    邪馬台国は勘違いが基(時代で発音表記が変わってた+多分同じだろうという推定の産物)なので、五王がどちらかははっきりしない。
    自称大国の支配者だが扱いが軽すぎるため、実態が無い事が見抜かれていたのか、ひょっとしたら足利義満のように二重権力で、日本からしても将軍だったのかもしれない。
    遣隋使まで行くと、日本の歴史が書かれてたり、はっきり解るようになるんだけどね。

  321. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 23:34:43

    ※318
    勾玉を朝鮮半島由来にしたい朝鮮人発見!

  322. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/18(日) 23:42:01

    神武東征は亡命みたいなものだったんでは?

    倭で権力闘争にあるいは熊襲等の他勢力に敗れて九州を追われたイワレヒコらが
    新天地を求めて東進し、近畿地方に至って将軍ナガスネヒコらと接触。
    ナガスネヒコは軍司令官として、彼らを外敵として排除しようと考えたが、
    最高権力者のニギハヤヒにその情報が届き、よくよく話を聞いてみると
    古くから大陸と交流を持っていた勢力だという
    いろいろ考えたニギハヤヒはイワレヒコを仲間に引き込むことにして
    戦闘を通して彼らとの関係が最悪になっていたナガスネヒコの首を飛ばした

    実際はニギハヤヒがイワレビコの亡命を受け入れたものだが、
    後年、記紀編纂にあたっては倭からの連続性を強調するために
    ニギハヤヒがイワレビコの軍門に下ったということにした
    欠史八代は実はイワレビコではなくニギハヤヒの子孫で
    そこら辺を有耶無耶にするために詳しく書かれなかった

    そんで本当のニギハヤヒの子孫である大王は
    イワレビコの子孫を自称することになったんで
    空きになっていた「ニギハヤヒの子孫」は
    後に勢力を強めた物部氏が名乗ることになった

    とか・・・
    うーん、妄想が捗りますな

  323. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 00:07:36

    >317
    考古学無知がトンチンカンなイチャモンつけてるだけだな
    つまらん

  324. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 00:09:23

    弥生時代から剣、鏡、勾玉は権力者の象徴だった
    これは遺跡の発掘からわかっていること
    当然邪馬台国はどこにあったにしても剣、鏡、勾玉は持っていただろう
    ゆえに剣、鏡、勾玉と金印は同時代にあった可能性は十分に高い
    剣、鏡、勾玉の伝承があり金印の記録がないのはやはり不自然
    このことから古くから勢力を保ち、歴史があれど金印の記録が一切ない出雲、畿内は
    邪馬台国の比定地から除外される

  325. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 00:21:20

    >>327
    いまだに邪馬壹国の場所さえ比定できない考古学なんぞつまらんし役に立たんだろう。

  326. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 00:24:40

    >323
    まったくだよ
    考古学的観点からすれば九州の倭と畿内の日本は明らかに別
    考古学的見地の分からない人が多すぎるよな

  327. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 09:28:22

    >317
    >奈良盆地に大きい国が存在したかもしれないが、それが邪馬台国だなんて中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてないんだよ。
    本当に大人が妄想を膨らますととんでもないことになるな。

    北部九州に邪馬台国があったなんて「中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてない」ですよね?

  328. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 09:45:30

    >319
    「邪馬台国」はなかった、も読んでるよ。
    でも、古田史学は魏志倭人伝の言う女王国は北部九州にあったという九州説だろう? 
    というか、九州説の一方の親玉じゃないか

    >中国の魏志倭人伝には「邪馬壹(ヤマイ)国」としっかりと明記
    魏志倭人伝には「對海國」としっかり明記してあるが、これを対馬ではないという人はいないよな?
    のちの大陸の史書が軒並み邪馬臺國になっているし、現存の魏志倭人伝も写本なんだから、そこにこだわるのもあまり意味はないと思うぞ

  329. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 09:48:44

    >326
    >考古学的観点からすれば九州の倭と畿内の日本は明らかに別

    それはどんな考古学的資料から分かることなのでしょう?
    考古学的資料に「倭はここまで」とか書いてあるものはないですよね?

  330. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 09:53:34

    >310
    >同一なら物はなくともそのもののあった記録はある
    >朝貢した記録すらないのだから倭と日本は別とみて間違いあるまい

    北部九州に親魏倭王の金印の実物があったり、その金印はなくとも「その金印があったという記録」があったという話は勉強不足で知らないんですが教えてくれますか?
    私の記憶では、北部九州が大陸の王朝に朝貢した倭国側の記録すらないのだから、北部九州は倭と別と見て間違いないですよね?

    九州説はダブスタばかり

  331. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 12:28:52

    ※330
    こいつもしかして日本の文字の歴史知らないんじゃね?

  332. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 13:02:57

    ※330
    「金印」でぐぐれカス

  333. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 15:29:44

    この流れで坂東以北の謎めいた歴史もやってくれないかな

  334. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 17:41:29

    >332
    これが九州説のレベルか
    笑ったわ

  335. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 17:48:46

    ※330
    朝鮮人には難しい内容だったようだな

  336. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 17:55:35

    >330
    この方の解説により倭と日本が別であることに確信が持てました
    九州にあった倭は文字で記録する前(日本列島に文字が伝わる前)にヤマト勢力に滅ぼされたのですね
    邪馬台国の金印が話すらもヤマト王権に伝わらなかったのも倭を滅ぼした側だったと考えれば納得です

  337. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 18:36:18

    畿内説を唱えたり九州説の論理の稚拙さを指摘すると、議論と関係のない罵詈雑言に走る人がいますねぇ
    論理に論理で返せないのは自分でも自分の主張に理がないことを自覚しているからでしょうねぇ
    だからといってまともな言葉遣いすらできないのは嘆かわしいことです

    漢委奴國王の金印は、親魏倭王の金印とは別物ですよ?
    それが九州で見つかったり、それが九州にあったことを伝える日本側の文献ってありましたっけ?

  338. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 18:37:52

    >336
    あなたが何を信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  339. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 18:56:15

    >330
    >338
    あなたが何を信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  340. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 18:58:38

    ≫337
    奴国の金印にこだわりがあるようだけど、何か意味があるの?
    それがどう倭と日本に繋がるの?
    中国の文献が正しかったって意味?

  341. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 19:02:48

    >337
    語尾に小文字のあ行をつけることをまともな言葉遣いだと信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  342. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 19:10:33

    記紀に邪馬台国についても朝貢についても金印についても記述がないから倭と日本を同一視することには無理がある

  343. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 19:20:38

    朝昼工作まだやってんのか、畿内説は前の話題で完全敗北してるのに、同じ書き込みをすれ違いでも延々と。ほんと気持ち悪い人種だね。

    遣隋使が倭と日本の境目だろうか。
    聖徳太子が天子を名乗ったり、あちらからの使者を無礼だと追い返し使者出し直しになったり、対等な付き合いを始めようとした。
    ここが日本側の境目。
    次からの使者は近畿に行けず、倭と同様に朝鮮半島かせいぜい北九州までで事物のやりとり(臣下の礼を取らない)ということなのだろう。
    その後高句麗が隋の侵攻を受けると、日本では聖徳太子一族が抹殺され蘇我氏が権力を握り、蘇我氏も討たれ大化の改新が進むと遣使自体が止まって、唐と戦争し、国号が日本に変わって倭人風習が消える。
    こちらが大陸歴史書での境目。

    蘇我氏は日本を朝貢国にしようとした勢力だったのだろうか。
    皇族聖徳太子の存在を抹消し、天皇に討たれたはずの蘇我氏を英雄視する近年のマスコミ煽動(NHK等)は、どういう目的があるのだろうか。

    聖武天皇辺りまでは、日本文化も大切にしていたようだけど、その後の近畿は、渡来文化渡来勢力に押されていってる気がする。源氏物語なんかもそうだけど、渡来系の特徴を賛美し在来特徴を醜い犯罪者とするプロパガンダが出回る平安暗黒時代。
    遣唐使を廃止した菅原道真が流されたように、都合の悪い人物は実力があっても近畿から追放される。
    後に武家の台頭が日本人に求められたというのも、当時の状況を見ていけばわかる気がする。

    日本史は視点を変えていけばまだまだ奥が深そうだ。

  344. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 19:30:58

    >343
    イミフ
    こいつ勝手に勝利宣言したり朝鮮がどうのとか訳の分からん陰謀論力説したりとか
    明らかに頭のネジがはずれてるわ

  345. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 19:51:13

    ※293
    伊都国は今の糸島辺り
    奴国は今の那珂川辺り
    2国合わせても福岡県の3分の1ぐらいのサイズしかない
    面白いのは2国とも地名に名残がある

  346. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 21:24:13

    ここは記事の面白さもさることながら
    日本史に自信ニキのコメントの熱量がすごいな

  347. 縄文人 2017/06/19(月) 21:52:13

    古代日本には三種族の大きな勢力があって、それぞれの象徴が剣と鏡と勾玉。
    なので、倭と日本が別だったという説は支持する。
    それで今は日本国を名乗り、日の丸を国旗としている。
    日の丸は太陽を意味しているが、赤く塗りつぶされている。
    これは実は古代日本が銅鏡で太陽を白い布に反射させて国勢を占っていたことに由来すると思う。
    その様をそのまま国旗にしたので太陽は赤いのだ。
    今でもしばしば日本は鏡の国だと言われる。
    三種の神器がそれぞれの種族の象徴でその中の鏡の国が今の日本国を統一したのだ。

  348. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 22:58:39

    >347
    そういうくだらない妄想はチラシの裏にでも書いとけ
    いちいち他人に語る必要なし

  349. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 23:02:29

    “倭”とは、中国側から日本列島の地方を定義した名。
     倭の地域の中にある邪馬台国。
     倭の地域の中にある日本国という意味。

    これに対して、“日本”は日本列島に建国した国が、自ら号した国号。

    倭と日本は別物説の根拠は、無いに等しいよね。
    用途がそもそも違う訳だし。

  350. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/19(月) 23:33:32

    何度か登場する、征服された敗者の国号(日本)を、勝者の側(倭)が自分の国号に取り入れる・・・。
    “倭”国号説で使っている人の意見にあるけど、この説も厳密に考えたら下記の様になるんだよね。

    これは征服された(とされる)日本の方が権威があり、本来国家を統べる正当性を持って君臨していた事を意味しており、
    その名(日本)を奉戴する事でしか、下剋上をした側(倭)は政治権力を正当性を持って安定維持できない事を意味している。

    確かに天皇家の支配の下、幕府を開く形態なので、日本人的にはありそうではあるね。

    しかし、この説は日本という国号の国が、倭地域を支配する代表国であるという記載がはるか昔から載ってないと成り立たないんだよね。

  351. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 00:15:32

    >349
    >“倭”とは、中国側から日本列島の地方を定義した名。
    日本列島の地方?定義?
    謎理論すぎる

    >倭の地域の中にある邪馬台国。
    >倭の地域の中にある日本国という意味。
    記紀にも正史にも倭の地域の中にある日本国なんて書いてない

    せっかくヤマト王権が倭を征服して日本に国号を定めたのに一部の子孫に倭と日本は同じでなおかつ倭の中の一地方政権にされるとは思わなかっただろうな
    当時の世界情勢の中で強大な中国に朝貢せず独立を保った先人の努力が日本という倭とは別の国号にあらわれている

  352. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 00:31:17

    >347
    朝夕の太陽は赤いですよ。それ以上に、縄文の頃から朱漆など、赤に特別な思い入れのある国ですよ。
    弥生時代も朱は特別な色で、化粧のベンガラ以外に埋葬のために朱を使ってたようです。
    >349
    倭は国名としても使われてますよ。倭の1文字ではっきり1国と数えられてます。地域名だと言い出したら、高麗百済のような他の国も地域名になってしまいます。
    唐書では、倭国の他に日本国があったという事になってます。
    倭種としてなら、日本国は倭国の別種と言った場合、別の地域別の国を指すようです。

    倭は筑紫にあって天皇が大和(おそらく日本側の主張から)という事も書いてあります。
    倭は東西南北を海に囲まれた島(東に倭種=別の国)、より大きくなった日本は東と北が山で、その先は毛人です。
    倭は地域としては九州、国家としては筑紫から始まり、近畿を含みながら日本へ変わっていく(連続してる割に言ってる事が怪しくなる)、そんな風に書いてありますね。

  353. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 00:33:46

    古代天皇も朝廷も幕府も戦国自体もずっと同じ一つの国家と言えるのか?
    GHQに占領されてる時もか?

  354. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 00:51:55

    ※349
    どうしても天皇家が朝貢したことにしたいんやな
    小日本とか日本鬼子とか倭とかチョッパリとか呼びたいんやろ
    残念やが隋や唐は倭と日本を区別したんやで
    歴史は改竄できひんのや
    正史を残した中国人は偉大やな

  355. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 01:56:14

    ※352
    倭国とは、倭という地域内の都市国家連邦と解釈していましたが、中央集権し自ら国号を”倭”と定めた国があったと言う事かな?
    倭の邪馬台国とか、倭の五王などは、倭の中で、その時々に強力になった都市国家の代表とその王だと思っていました。
    2回の倭国大乱などもあり、とても倭国が中央集権した統一集権国家であるとは思えません。

    大和朝廷が自ら宣言した日本国号とは違い、“倭”という表記はあくまでも中国側の表記にすぎません。
    倭という地域からきた使者とひとくくり扱いされていただけでは?

    ※354
    朝貢などどこにも書いてないですが?
    あなたの意見と違う意見の持ち主=全て半島の人にカテゴライズする。
    というあなたの定義を声高に提唱するのはおやめになった方が良いかと。
    この宣言によって、違う意見の人を叩く大義名分を得、好き勝手強い言葉を使って叩ける利便性があるのはよく承知しております。
    しかし、貴方と違う意見=半島人という定義は、しょせん貴方の願望にしか過ぎないのですよ。

  356. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 02:19:15

    ※353
    同じ国と言える
    13世紀までは大和朝廷が支配し天皇が直接統治していた
    武士の幕府は天皇が征夷大将軍を任命し権力を与えた形になってる
    江戸幕府は将軍の世襲も天皇が認めたものだ
    江戸時代の天皇はかなり没落したが権威と任命権は残っていた

    明治維新後は天皇は政治の表舞台に復活したが
    基本が議会制で天皇の政治的発言は自制されていた
    WW2敗戦後も天皇制は維持された
    つまり日本は1300年前から国名が同じで天皇も維持された
    世界でも極めて特殊で最も長い歴史が有る国

    倭も日本の歴史に入れると周代に朝貢したとあるので縄文時代まで遡る
    おれは縄文時代に出雲のような古代王朝が有ったと思ってる
    出雲から王朝を譲ってもらったと国史の記紀に書いてあるしな

  357. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 02:31:11

    ※355
    出雲にも王朝が有ったと思われる
    大和朝廷以前の畿内はニギハヤヒが統治しいたと日本書紀に書いてある
    大和朝廷が最初の王朝というのを天皇が否定している

    畿内や九州だけでなく東日本にも王朝は有っただろう
    縄文の常識が変わったように
    古代王朝の常識も変わるんでないかな

  358. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 04:31:06

    根拠のない、証拠もない、珍説奇説の発表会になってるな
    最低限、考古資料と矛盾しない仮説にしてくれ

  359. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 05:51:44

    >355
    屁理屈?そういう話なら、明らかに倭と日本の定義は別物ですね。
    倭国と倭種と倭地とあり、時代と共に表す範囲(知り得た範囲?)も変わっています。
    倭が表している範囲があやふやで、根拠となる風習が消えて、唐の人も怪しんでいるのに、別物では無いと言う理由こそ必要ではないかと。

    >357
    古地震地図を見ると、地震の被害が少ない所を中心に、古王国があったように見えますね。岡山群馬山形などなど。

  360. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 07:13:08

    ※355
    朝貢がないなら別種が結論やな

  361. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 07:47:04

    >359
    >倭が表している範囲があやふやで、根拠となる風習が消えて
    倭が表している範囲は半島の南東海上の島全部ですよ
    大陸の歴代の史書、すべてがその立場で一貫しています
    倭は「その範囲」を指す地域の名前です
    其北岸狗邪韓國の狗邪韓国が倭に入るかどうかは議論がありますが
    その地にいる倭王に属する範囲が倭國で、倭國の範囲は時代により変わります
    倭=倭國ではありません
    倭國の方は曖昧さが残ります

    そして、根拠となる風習ですが、間に100年単位の時間が流れていることを忘れないでください
    我々から見れば全て古代ですが、古墳時代の倭の五王と飛鳥朝以降の時代で風習が変わらない方が不思議です
    飛鳥文化と平安文化だって違います
    そうした文化の変遷は、別の国かどうかとは関係ないですよね?

    逆に、無理に理由(九州王朝があったとか)を作らなければ、別物だと考える理由はないと思いますよ

  362. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 07:53:14

    そもそも日本側の記録は、中国の記録に朝貢した卑弥呼がいたって引用はあっても、卑弥呼が「○○」って断定できるような事言ってないしな
    神功皇后だとだいぶ変な事になるし
    直系ならもっとはっきりしとけば論争にもならなかった

  363. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 07:57:45

    それと日本の範囲がー、と言っている人がいますが、「日本」は天武持統朝がこの国を表す国号として新しく作ったもので、その前に「小さな日本」があったなんてことはないんですよ。

    日本はできたときから、九州から関東(白河の関?)までの飛鳥浄御原朝の統治範囲全域です。倭の五王の武の上表文の範囲(=倭国)とほぼ変わらないですよ。

  364. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 08:13:36

    推古天皇の時代の遣隋使で自ら日出処天子と名乗り、大陸皇帝の冊封体制からの離脱をしたという体を取っており、天武持統朝で「日本」という国号と「天皇」という称号を作っているので、その天武天皇の命で編纂された日本書紀では大陸への朝貢を書かない方針だったと推測する人もいます

  365. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 10:00:47

    >340
    逆だよ
    日本のどこからも卑弥呼の遣使のときに下賜された「親魏倭王」の金印は出ていないのに、畿内で出ないから畿内は邪馬台国ではないっていう九州説の人がいるから、九州からも出ていないよね?だから九州も違うんだよね?と訊いたら、「金印」でぐぐれカス、とか的外れなことを言うんで、それは別の金印で「親魏倭王」の金印は出ていないよね?って確認しただけ

    前記事のコメント欄でも、「ない」ことを根拠にした立論は意味がないってさんざん言ったんだけどね

    自分だけが正しいと、世間一般が認めていることまで全否定だから話にならない九州説の人がいるんだよ

  366. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 11:04:31

    ああやっぱり
    「日本」「倭」「別種」とかで言葉遊び、定義論争をおっぱじめちゃってる人が多数

  367. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 12:37:05

    日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記しているのに何故同じだと拘るのか分からん

  368. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 14:31:52

    >367
    >日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記している
    これがそもそも何を言ってるのか分からん
    中国の文献はまあ、舊唐書、新唐書のことを言いたいのだろうことは分かる
    これに関しては解釈の余地はまだある

    日本の文献で、日本と倭は別って書いてあるのはどれ?

  369. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 15:08:31

    >361
    また朝昼テョンかよ。
    高麗も百済も扶余の別種、しかし高麗は高麗、百済は百済。
    倭もこれと同じ、倭地の東に海越えて倭の別種と表記されている以上、倭以外の国や地域が存在している。
    日本側の記録からも考古学からも判明している。
    日本の歴史を荒す目的で出鱈目ばらまく、こういう奴らは許せん。

  370. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 15:19:25

    邪馬台国とその他7国で15万9000戸(魏志倭人伝)
    1戸につき家族5人と計算して795,000人

    三国志の時代の蜀の人口は、94万人とある。(晋書)
    九州説を取ると考えると九州だけですごい勢力だったんだなぁという感想。

  371. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 15:25:55

    仮に別であれば、記紀に日本が倭を討伐して自分が正統であるという誇示がなされているでしょうなあ。
    記紀を編纂する際の関係者が魏志倭人伝やその他の史書を知らないとはとても考えにくい。

  372. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 15:58:36

    >369
    >日本側の記録からも考古学からも判明している。

    こいつまた嘘デタラメ吐いてやがる
    言い張るだけでなくきちんとソース出せや
    まあ無知の初心者が吠えてるだけだろうが

  373. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 16:09:49

    別に倭が日本でもそうでなくとも別にどっちでも良いけど・・
    中国から見て倭のが小さい国か大和のが小さい国かは分からんし歴史が古いか浅いかは分からんよね。

    とりあえず日本と名乗ってからは交易(利益重視)より面子重視(自国の安定重視)してるとは分かるよな。

  374. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 16:11:35

    ※371
    もし「のちに日本という国号を名乗ることになる新政権」が
    倭を「討伐」という軍事力で圧倒するやり方で政権奪取したのなら
    はじめから記紀など存在しなかっただろう。
    そんなもの膨大な金と時間と労力を割いて作る必要がないからだ。
    記紀は間違いなくチャイナの正史に習って作られたものだろうが、
    正史というものはそもそも、現政権を正当化するために
    前政権を貶め、現政権の功績を過大に粉飾して記録するものだからだ。
    もしどこかに後ろめたい部分(出自の怪しさとか、手段の卑劣さとか)がなかったら
    そんなものは必要ないはずだ。

    しかもそれだけの圧倒的な軍事力の差があった
    もしくは長期に渡る国同士の大戦争があったのなら
    考古学から直ぐにそのような結論が出てくるはずだし、
    国土も相当荒廃してチャイナに使節を送る余裕はおろか
    正史を編纂する余裕すらなかっただろう。

    新政権はほぼ間違いなく出自の怪しい人物を立て
    チャイナ譲りの卑劣な手段で政権を奪ったと見てよいだろう。
    だからこそ自らを正当化するために正史を編纂(これもチャイナ譲りの行為)する必要があったのだ。

    倭と日本が別種というよりも
    クーデターによって非倭人政権(もしくは傀儡政権)が誕生し、それがのちに国号を日本とした。
    というのが正しいのではないか。

  375. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 16:18:34

    ※374
    薩摩が琉球貿易で荒稼ぎしてた例があるからな・・
    倭の名前借りてシナと交易する事は大いにありうるかと。

    この辺は面子の問題になるので、交易する価値が無くなってからは正式名称で名乗ったとか大いに有りうるかと。(シナとの貿易はシナとその属国としかほぼ無いのでシナと貿易したければ頭を下げないと基本行けない時期が多い)

  376. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 16:23:43

    まぁ、要は境目が分からない程度に同化してしまったってのがそもそもこの問題の根幹なんじゃね?
    ・・。良い事だけどね。

  377. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 16:27:59

    間に半島国入れてって何度も出てくるからな。
    隋の無礼な使者を追い返した後も、新羅を間に置いてお互いの顔を立てて交流した。
    倭人の価値、を知っていたら倭人のふりくらいはするだろうな。

  378. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 17:02:06

    >371
    古事記はともかく日本書紀には神功皇后のところに魏志の引用がありますから、当然というより読んだ上で日本書 紀を編纂しています

  379. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 17:09:00

    >374
    >もし「のちに日本という国号を名乗ることになる新政権」
    この新政権の成立をいつ頃だと考えてる?
    倭の五王より前? それとも後ろ?

    >もしどこかに後ろめたい部分(出自の怪しさとか、手段の卑劣さとか)がなかったら
    >そんなものは必要ない「はず」だ。
    「 」は引用者
    はず、というが、では日本書紀に続く六国史(日本書紀を入れて六だけど)の編纂時に、政権の簒奪や後ろめたい部分なんかないだろ?
    律令国家としての体裁を整える一環で、正史を編纂したというのが普通の見方だぞ

  380. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 17:14:04

    >369
    あなたからすると私は敵にしか見えないのかもしれませんね。
    論破されまくりですから。

    >日本側の記録からも考古学からも判明している。
    その「日本側の記録」って具体的にどれですか?
    「考古学のどの資料」から判明するのですか?
    まだ答えてもらってませんよ?

    あなたは汚い言葉遣いで、思い付きをソースも根拠もなしで喚き散らすのみで、少しも建設的ではありません。

  381. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 17:31:23

    古墳時代になると「日本中(南西諸島や東北を除く)で共通の形式の古墳を作る」ようになることを軽視しすぎだと思う
    この時点で古墳を作る範囲(古墳時代に入った範囲)がほぼイコールで当時の倭国の範囲だろうし、それがのちに日本を名乗る範囲だろう
    舊唐書、新唐書で、倭国と日本に混乱があるのは、天武持統朝で「日本という国号」と「天皇という称号」を作ったことに対しての反応で、7世紀時点のこと
    さらに舊唐書の成立は10世紀半ば、新唐書は11世紀半ば過ぎ
    纏向に都が置かれた3世紀のことを700年後に書いたっていうのは、おかしな話だと思わないか?

  382. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 18:23:04

    倭の指し示す範囲は時代によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったとする学者が多い。
    倭がのちの日本と同じ範囲であるならば説明のつかぬことは日中の文献により明らかである。
    倭、倭国、倭人、日本はそれぞれ別のものを指し示しており使い分けがされていたことはほとんどの学者の指摘するところである。

  383. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 18:25:27

    ※380
    側から見ていると全く論破してない

  384. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 18:43:27

    ※383
    「日本側の記録」「考古学のどの資料」も出せない妄想なのに?

  385. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 18:55:54

    >259の声闘を調べたら朝鮮語だった
    つまり259と361は同一人物だから380は朝鮮語が母国語の人間

  386. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:02:40

    お前はなにを言っているんだ

  387. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:07:11

    ≫380
    論破なんて日本語使ってたら≫337に言葉遣いを窘められるぞ

  388. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:09:35

    「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

  389. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:15:33

    要するに倭と日本が同じとの日本側の記録と考古学の資料はないんやな
    そんで中国側の記録には倭と日本は別だと書かれてるわけなんやね
    ほんま分かりやすいわ

  390. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:38:50

    今世紀でもしてる
    NipponとJapanの使い分けと同じで
    言い方が対外向きで変えてたと思うけどね。

  391. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 19:48:39

    ※389
    何を要約したのか分からないけど
    倭と日本が別だとする「日本側の記録」「考古学の資料」は?

  392. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 20:20:15

    奴国も大したドラマもなくいつの間にか大和朝廷支配下になってるという謎
    衰えたとしても、まあまあ大国のはずだっただろうに

  393. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 20:59:40

    ※379
    最初のクーデターはおそらく乙巳の変。
    百済の傀儡政権である天智朝は倭を名乗り続けたものと思われる。
    二度目のクーデターは壬申の乱。
    日本の国号が天武朝において初めて対外的に用いられたのだとすれば、
    その「新政権」の成立は壬申の乱後ということになる。

    >・・・普通の見方だぞ
    普通の見方ほどつまらないものはない。
    そしてそれは往々にして勝者の論理で捻じ曲げられている。
    ましてこのブログは普通の見方を確認し合う趣旨のものではないであろう。

    続日本紀以降の史書には日本書紀ほどの大きな歴史改竄動機はなかったかもしれない。
    しかし、常に政治には勝者敗者が存在するもの。
    勝者がおのが正当化を果たす安定の最終手段が正史なのだ。
    律令国家の体裁を整えるというのは建前であろう。建前としては正しいに違いない。
    しかし裏の事情を看破できなければ歴史の真実など知りようもない。
    教科書との整合性が何より一番大事で、その埒外にはみ出すことが悪だと思うなら
    こんなところへは来ないほうがいいだろう。ガリ勉くん。

  394. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 21:42:28

    2国だけじゃなくもっと大国小国が取ったり取られたり分裂したり連合してたんだと思う
    日本の有力候補は奴国でしょ
    名前が雅でないし邪馬台国と敵対してた記録もある

  395. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 22:02:50

    ※380
    記録  日本の記紀、中国の歴史よ、半島の三国志など
    考古学 半島南部の前方後円墳

    横から失礼w
    でも異論有る?

  396. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 22:08:35

    同一時代かはわからないけど
    少なくとも九州、出雲、京都、金沢、琵琶湖南あたりは古代から栄えてたんだよな
    第一次戦国時代みたいな感じか
    記録があれば面白かっただろうなあ

    神話や伝説あたりから読み解けないかね

  397. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 22:32:52

    >男女ともに顔まで全身に入れ墨をして魚を獲るのが得意な人々が住む冬でも温暖な国
    顔まで入れ墨ってーとアイヌだな

  398. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 22:47:51

    >393
    これこそオレ様だけが知っている真実の古代史だと自分に酔ってる電波野郎
    長々と書いているが根拠が一つもないただの妄想ストーリー
    基本的な考古学知識さえもゼロ
    問題外

  399. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:17:46

    ※398
    申し訳ないが、
    ブログ記事に触発されてみんなが自由に仮説・持論を展開していく場に闖入し、
    教科書を盾に妄想だの無知だの罵倒を繰り返す礼儀知らずのほうが
    よほど自分に酔ってるといえるだろうな。

    二言目には妄想妄想と口癖のように繰り返しているようだが、
    仮に根拠が一つもないとして、考古学知識がないとして、
    ここのコメ欄において、一体なんの不都合があろう?
    少なくとも、教科書という時と共に書き換えられる頼りないものを金科玉条のごとく信奉し
    そのかりそめの権威を笠に着て自由な他人のコメントに難癖をつけて回る
    心根の卑しいガリ勉くんよりは――
    遥かにマシだよ。

  400. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:22:54

    ここって根拠のない妄想を披露する場だったの?

  401. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:29:06

    ※400
    教科書の何ページから何ページまでからしか出ませんとは書いてないな

  402. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:34:25

    ※401
    なぜ根拠のない妄想と教科書そのままの二択なのか・・・

  403. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:43:32

    ※402
    教科書信者のガリ勉くんにいわせると教科書に書いてあること以外は妄想になるらしいw

  404. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:52:39

    ※403
    そんな人どこにいるの?

  405. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/20(火) 23:56:28

    ※404
    コメ欄を上から順番に読んでいけば見つかる

  406. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:00:49

    ※405
    最初から読んでるけど分からないから具体的に示して

  407. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:03:51

    以上、ガリ勉発京の巻~完~

  408. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:06:06

    そういうのいいから

  409. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:17:23

    富本銭だって昔は教科書に載ってなかったけど発掘されて今では載ってるじゃん
    文献に記述があったから富本銭があることはわかってたけど実物が発掘されたことで文献の正しさも証明されたし
    殷墟もトロイも同じじゃん
    正史に倭と日本が別と記述があるなら今以上にそれを裏付ける発見があるんじゃね

  410. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:19:02

    ※400
    教科書君は受験勉強に集中した方がいいよ

  411. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:28:06

    ※410
    ??????

  412. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:48:34

    ≫408
    ガリ勉は悪いことではありません
    ともに言葉遣いを正していきましょう

  413. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:51:33

    今の教科書には九州説も書いてあるよ

  414. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:53:13

    ※412
    ??????

  415. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 00:59:05

    大王家も三国志を読んでビビったことだろう
    なんせ卑弥呼なんて知らないシャーマンが倭国の女王だったのだから
    しかも中国に挨拶に行ったら格下扱いで冊封体制に組み込まれそうになるし
    三韓を征伐し朝貢させてたのにまるで逆の立場にさせられる
    倭とは別の国だと主張するため日本と名乗るのも自然な流れだな
    古代の外交センスが垣間見えるとともに政治は今と変わらないレベルだったことが伺える
    人間の面子に関する考えは変わらないのかもな

  416. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 01:17:12

    結局、倭国(北九州に在った女王以来の国)とその東の元は小国で後に倭国を合わせた日本(神武東征で奈良に建国)は別物で両国の粗筋の一部は ※98 に既出だな。
    そうすると、倭の五王は北九州(福岡市近辺?)の倭人を代表する政権と認められた大王か。そして、磐井の君はその何代か後の大王で、その主力軍が朝鮮に派遣された直後当たりの軍事的空白を利用し、倭国応援軍のフリをして倭国中心部までマンマと侵入してから裏切って騙し討ちで殺して北九州一体を荒らした訳か。道理で豊後国風土記では青年壮年なしで闘って少年中年の数多くの犠牲者がでた訳だ。
    そして、隋との対等外交も倭国の皇帝(シナは中華思想から歴史書では格下の大王と表記)がした事で、近畿の日本国の王ですら無い聖徳太子ごときのした事では無いんだ。確かに阿毎アメの苗字は大和の日本国天皇家の物とは違うし、筑紫の倭国皇帝家の苗字なんだ。

  417. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 01:25:36

    結局とは一体

  418. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 04:48:15

    >395
    それのどこをどう解釈すれば日本は倭の別種になるんだ?

  419. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 05:32:25

    日本書紀によれば
    ヤマトタケルが西と東を平定せよと命令され
    イズモタケルとクマソタケルを倒した

    つまりヤマトタケル以前は
    タケルと称されるヤマトと同程度の勢力が出雲と九州に有ったともとれる
    どちらも
    けっこう卑怯な手で勝ってるから
    ヤマトは小国だったのに大国だった出雲と熊襲を飲み込んだのだろう

  420. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 05:41:17

    倭の五王はクマソタケルの可能性が有る
    少なくとも熊襲と出雲を平定する前に
    畿内のヤマトが中国に釣行できた可能性は極めて低い
    なぜなら
    畿内から九州と中国地方を通らずに朝貢は不可能だ
    途中で阻止されるだろう

  421. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 11:04:46

    最初はまた在日パヨクの日本貶めかと思ったが普通にユニークな論文だった
    面白く読ませて貰った

  422. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 13:45:41

    >420
    >畿内から九州と中国地方を通らずに朝貢は不可能だ
    丹波の竹野川流域は、古事記で垂仁天皇の后妃日葉酢媛命を出している丹波道主命の領国と見られている地域だから、畿内扱いでいいよな?
    丹波道主命は崇神天皇の甥で四道将軍の一人だし、日葉酢媛命の妹に竹野姫というこの地名を名に持つ姫もいるし
    そして、この竹野川流域の大田南古墳群からは画文帯環状乳神獣鏡という二世紀後半の後漢鏡(漢鏡7期)も出ているし、もうちょっと丹波を広く取れば、丹後一宮・籠神社に前漢鏡(漢鏡4期)の内行花文昭明鏡が伝世されているし、大陸との交渉は物証で示されているよ
    不可能じゃないよね?

  423. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 13:58:38

    >401,403,407,410,412
    連投すごいな はっちゃけてるなww

    日本には国定教科書はないけれど、教科書検定ってのがあって、教科書の執筆、出版は民間に任されていて自由に書いてよいけれど、学習指導要領に外れる内容や「明らかに間違っている部分」には修正が入るんだよ

    教科書に書いてあることには、現時点で一定の正しさがあると認められる内容になっている
    もちろん、出雲での銅剣、銅鐸の大量出土のようなことが起きれば、教科書の内容というかそのベースとなる定説が変更されることはあるけれど、教科書レベルのことすら「俺の考えと合わないから認めない」というなら議論にならないんだよ
    そして、教科書にも載らないようなことを根拠に自説を振り回されても、失笑しか出てこない
    教科書には九州「説」も載ってるってうれしそうに書いてるけど、邪馬台国が「九州にあったと考えている人もいる」って意味だからな まあ、説があることは間違ってないし、教科書検定はこの点でも正しい訳だ

    事実と違うところ、根拠を示せないところを、できるだけ示してあげようとは思ってるけど、あまり意味がないっぽいなとも思う

  424. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 14:01:46

    >395
    >記録  日本の記紀、中国の歴史よ、半島の三国志など

    380その他(私だけではないけれど)で訊いてるのは
    倭と日本が別だとする「日本側の記録」「考古学の資料」だよ

    日本側の記録として「日本の記紀」って書いてくれたけど
    古事記には「倭」と書いてヤマトと読むものしかないし、日本書紀には「日本」と書いてヤマトと読むものしかない
    これを「倭と日本が別だ」とする例としてあげるってことは、要するに「そんなものはない」ってことをわざわざ示してくれたんだよな 親切にありがとう

    >横から失礼w
    こういうのバレバレだから止めたら

  425. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 14:42:08

    >416
    タラシヒコ(多利思北孤)って誰?

  426. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 14:54:45

    424
    失笑

  427. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:01:22

    ※424
    古事記に朝貢の記録あるの?

  428. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:05:16

    >424
    >380その他(私だけではないけれど)で〜

    こういうのが姑息やな

  429. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:23:45

    ≫424
    漢字表記の問題じゃないやん

  430. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:24:57

    こうして比較すると面白いですね。勉強になりました。

    日本は「魏志倭人伝病」だとも思いました。

  431. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:29:33

    ※423
    「教科書にも載らないようなことを根拠に自説を振り回されても、失笑しか出てこない」

    九州説は教科書に載ってるよ。

  432. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:49:01

    424
    古事記で倭にしたら正史の朝貢していた倭と誤解されるから日本書紀では日本にしたということですね
    とても丁寧な解説でなおかつ納得ができます
    日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことが書いてないことの説明にもなりますね
    素晴らしいです
    要するに日本としては倭なんて
    「そんなものはない」ってことをわざわざ示してくれたんだよな 親切にありがとう
    と言ったところでしょうか
    日本書紀を編纂した我らの先人達の思いがあざやかに蘇ってきますね

  433. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:57:23

    >393
    根本的なところで分かってないような気がするので少し

    >最初のクーデターはおそらく乙巳の変。
    >百済の傀儡政権である天智朝は倭を名乗り続けたものと思われる。
    >二度目のクーデターは壬申の乱。

    革命とクーデターの区別、ついてないだろう?

    革命は憲法制定権力の変更を伴うので、ある意味別の国になる
    それに対し、クーデターは同一体制内での非合法の政権簒奪なので、国としては存続している

    結局、この393の書き込みは「クーデター説(仮)」が正しかったとしても、倭の五王から天智天皇まで倭国だったことを認めているし、それが天武天皇によって国号が日本に変わっただけと言っているのだから、倭国と日本が同一の国であると言っているだけだぞ? 自分の書いていることを理解してるか?

    >裏の事情を看破できなければ歴史の真実など知りようもない
    裏の事情も何も「根拠のない憶測」で、歴史の真実と関係のない「僕の考えたかっこいい日本の歴史」を書いてるだけだろ?

  434. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 15:59:56

    ※431
    その下の行

  435. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 16:27:29

    ※423
    教科書に載っていないから九州説批判してたんよな
    九州説載ってるやん

  436. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 16:35:08

    ※424
    >考古学 半島南部の前方後円墳
    これを無視するのはとある地域出身者の特徴や
    相変わらず滲み出てんで
    せこいやっちゃな

  437. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 16:58:38

    そんな昔から「日本」の名があったとは驚きでした。
    倭国と邪馬台国と大和朝廷がそれぞれ別の政権っぽいなーという印象はあったので、一番驚いたのが主題じゃなくてそっちでした。もちろん面白かったです。

  438. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 17:18:05

    >436
    それが日本が倭の別種とどう関係するんだ?

  439. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 18:29:19

    >437
    ないよww
    7世紀になって「創った」国号を昔からあったと言って、邪馬台国と大和朝廷を別って言いたい人ががんばってるだけ

  440. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 18:31:40

    >432
    結局「倭国と日本は別」って書いてある「日本側の記録」はないんだな?

    無理な切り貼りはいい加減に止めたらいいのに

  441. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 18:51:25

    >432
    >古事記で倭にしたら正史の朝貢していた倭と誤解されるから日本書紀では日本にしたということですね

    本当に事実が分からない人なんだな(呆)
    現代では事実とはみなされていないけれども「正史として編纂された日本書紀」で神功皇后紀で「魏志倭人伝を引用」して「神功皇后を卑弥呼」に充ててるよ
    魏志の引用としてだが朝獻という言葉も使っている

    それから、日本書紀でも倭は普通に使われていて、たとえば成務天皇の陵墓は倭國狹城盾列陵と書いてある
    今でも奈良県に狭城盾列陵はあるし、日本書紀でも倭国は奈良県=大和のことだよ

  442. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 19:17:20

    関西弁のネトウヨのやつやたら吠えてるが知識はかなり乏しいな

  443. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 19:19:05

    >436
    なんか前の記事のコメント欄で、「畿内説は纏向の大和朝廷を半島の傀儡にしたいんだろう」って延々と言ってた人がいるんだけど、436は同じ人?

    魏志倭人伝の頃で、馬韓弁韓辰韓はあわせて76カ国の小国分立状態
    漢代に倭国が百餘國の分立状態だったのと同じで、国家形成という点では100年くらい遅れている
    とても倭国に影響を与えられるような情況じゃないだろう

    >半島南部の前方後円墳
    これって、任那日本府があったとされる弁韓と、のちの百済になる馬韓の境目の辺りで、継体天皇の時の大伴金村の任那4県割譲の地域なんだよね
    361にも「其北岸狗邪韓國の狗邪韓国が倭に入るかどうかは議論がありますが」って書いてあるけど、これが倭に入るかどうかは微妙
    魏志東夷伝韓では「東西以海爲限 南與倭接」と書いてあって、韓の地の東西は海までだけど、南は海までじゃなくて倭に接する、と書いてあるから、半島南岸は素直に読めば倭に入ると思う

  444. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 19:19:57

    卑弥呼を神功皇后にしたら三韓征伐合わないよ

  445. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 20:07:24

    曹魏(220年 – 265年)
    北魏(386年 – 534年)
    卑弥呼(生年不明 – 247年あるいは248年頃)
    三韓征伐(4世紀後半-5世紀はじめ)
    神功皇后(実在不明)

    三国時代の魏と北朝の魏を一緒にした説が濃厚
    当たり前だけど国号は両方とも単に魏
    戦国時代の魏と三国志の魏と五胡十六国の魏と
    漢(西漢、前漢)と漢(東漢、後漢)と漢(前趙)は間違えやすいから受験生は注意だぜ

  446. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 21:30:28

    そもそも卑弥呼と神功皇后は設定が違いすぎるのに、過去に同一視しようとしてたのも謎

  447. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 21:41:23

    ※443
    いいたいことはよくわからないが、前スレまで持ち出してよほど悔しかったことはよく分かった
    ゆっくり休んでくださいね

    朝鮮半島南部が日本の勢力下に入る前に倭の領土なら倭と日本は別勢力なんでしょうね

  448. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 21:56:02

    >447
    その頃には日本なんて影も形もないし、倭と日本が別という日本の記録がないというのは、確認できた?

  449. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 22:21:07

    結局、古墳を学術的に調査できない。
    ここにこそ真実と証拠が詰まっているのにな。

    結局、中国の王朝が記載した内容+記紀の内容のみから推測するか、
    それに追加して古代の神社の祭神=祖霊=古代の有力者を示しているから、古代神社の祭神の分布から有力者の支配時期・範囲を推測し、それを記紀に当てはめて謎解きをする程度になっている。

    しかし、正史とはそれを編纂した時代の支配者が、自分達に都合よく編集し遺した書物で、自らの支配の正当性を天下に示す為に書かれた存在。
    つまり、正史=客観的な事実を書き記した書ではない。

    さらに他国の正史なんて、周辺国についての記載は自分達に朝貢する東夷・西戎・南蛮・北秋として記したものでしかない。
    あくまで、自国ヨイショ書にすぎない。

    古墳の調査が解禁されてこそ、真の古代史が始まる気がするね。

  450. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 22:21:44

    448
    魏志倭人伝の時代に日本が影も形もないなら日本と倭は別ということですね

  451. 名無しさん 2017/06/21(水) 22:35:01

    そもそも、倭と日本が別物だったのか、あるいは倭と言う大集団の中で頭角を現したのが日本なのか、あるいは日本の一部あるいは全体をシナが倭と呼んでいたのか全く不明なのが肝。
    そこが判らないと、この件は仮説にすらならない。
    仮に倭の中で最終的に天下取ったのが「日本」だったとして、そもそも倭の中でも有力な勢力だったのか、あるいはまったくの新興勢力なのかすらわからんからな。
    だいたい、魏志倭人伝だって、「倭人は魚介類を採って食う」とくどくど復唱してる。
    そいつはおそらく間違いないだろう。日本の環境に生息している人間が、魚介類を採って食わないわけがない。というか、めっちゃ大好物で喜んで食うという状況に否定的になる方がおかしいと思う。
    但し、同時に倭は米作文化である。一年に一回しか穫れない米にこだわり、それに文字通り命かけてきた民族である。
    シナの文献に、何で「倭人は米を食う」と書いてない?
    ・農耕は「文明人として」当たり前のたしなみなので、あえて書き残すという意識がなかった。
    ・シナ文明と交流のあった地域は極めて限定的で、そこでは農耕はほとんど不可能だったので、魚介類食に食の大半を費やしていた。
    ・伝聞だけで文章がでっちあげられているので、めちゃくちゃ。ほぼガセ。
    恐らく仮説仮説仮説の屋上屋で、真実どころか定説に至る説もあるまいと思う。

  452. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 22:39:26

    卑弥呼は無夫婿と記されている
    神功皇后の夫は仲哀天皇、子は応神天皇
    もうちょっと寄せる工夫をして欲しい

  453. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 22:56:26

    ※448
    邪馬台国に文字の記録があれば歴史的大発見

  454. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 23:03:06

    ≫448
    中国で書かれた倭じゃないだけで、纒向遺跡が日本の前身だから影や形はあるんじゃない?

  455. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 23:40:58

    >454
    441でも書いたけど、日本書紀で纒向に宮都を置いたとされる、崇神、垂仁、景行の次の成務天皇の陵墓が、書紀では倭國狹城盾列陵と書いてある。
    纒向が大和朝廷の都だと認めるなら、成務も大和朝廷=纒向の勢力の後継者だが、その陵墓がなんの注釈もなく倭國と書いてある。そして狭城盾列古墳群は今も奈良盆地北部にある。
    あの辺が(も)倭國なんだよ。纒向が建設された頃に日本と呼ばれた場所も、日本を名乗った集団も、どこにもない。「倭國と日本が別」とか、「日本の前身」とか、勝手な想定の中にしか存在しないんだから。

  456. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 23:49:57

    >450
    倭国の大王が、自ら天皇を名乗り国名を日本に変えたんですよ。
    新唐書の本文に書いてあるとおりです。
    室町時代の日本と平成の日本が、国民が全て入れ替わっているから別の国、というのと同じ程度の意味でなら、450のいうことも通るんじゃないでしょうかね。

  457. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/21(水) 23:59:39

    まとめると中国が倭とした国と日本書紀の日本(古事記の倭)は別

  458. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 00:21:23

    >453
    448でいう「日本の記録がない」というのは、「倭と日本は別」という記録であって3世紀の記録とは言ってませんよ。
    367で「日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記しているのに」の日本の文献はないってことでいいですね?
    367以来100近くコメントが進みましたが、具体的な文献はあがりませんでしたし。

  459. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 00:27:17

    >457
    その「中国が倭とした国」というのが「倭にある国」「倭人の国」くらいの意味なんですよ。
    魏志「倭人」伝であって倭国伝ではないんです。
    魏志倭人伝の冒頭が「倭人」在帶方東南大海之中であることを確認してみてください。

  460. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 00:29:54

    邪馬台国がヤマト王権とは別という記事じゃないの?
    何と闘ってるの?
    ちょっと怖い。

  461. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 00:36:43

    王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 
    其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 

  462. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 00:50:11

    三国志で日本のことを倭国、日本人を倭人としてると知った万葉仮名遣いのエリートの皆さん
    「やまとの当て字は倭に決定」
    勿論古事記の作者もやまとを倭と記す
    後日、倭が邪馬台国や朝鮮半島南部から大乱があり朝貢して冊封体制に組み込まれていた地域を表すと知った日本書紀の編纂メンバー一同
    「国号は日本、読み方はやまとに決定」
    「卑弥呼は神功皇后にエピソードを追加」

  463. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 01:01:21

    四道将軍の制圧範囲外が出雲、四国、九州、中部、東北、北海道で思いっきり別の国なのがいいね
    ヤマト王権の範囲がこれで特定されたとか鉄剣が出土したとか北陸道を平定した大彦命と東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされているとか古い読み方とか伝説がかっこいい

  464. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 01:36:45

    普通に出雲王朝から国譲りで受け継いでいるってなってるので
    複数の王朝が統廃合して日本になったって最初から分かっている。

    いまさら新発見のように語られてもなあ……

  465. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 01:39:56

    『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条
    通称 魏志倭人伝
    倭國表記もちゃんとある

  466. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 01:43:59

    ※464
    >458みたいな子もいる
    彼にとっては新発見なんですよ

  467. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 02:05:08

    神功皇后の無理矢理感は日本書紀の中でも際立ってる

  468. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 04:15:06

    ※464
    それは神話ということで史実ではないと見なされていた
    今も有ったかも?って程度
    だから大和朝廷以前の王朝説には反射的に反論が出る

    ※444
    古事記には卑弥呼も朝貢も全く出てこない
    日本書紀だと神功皇后が卑弥呼かも?と匂わせているけど
    神功皇后は若くして結婚して息子を生み
    跡を継いだのはこの立派な息子(応神天皇)だから卑弥呼とは全く違う

    邪馬台国と大和朝廷が同じなら卑弥呼がいないということは有り得ないが
    どんなに研究しても大和朝廷には卑弥呼と台与に該当する人物がいない
    神功皇后はどうみても違うし時代も2〜3世紀にはならない

    つまり日本書紀はあえて嘘を書いた事になる
    その理由は
    ヤマト(日本)が倭(邪馬台国)と同じであると中国に思わせたかったからだろう

  469. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 04:15:24

    倭と日本は別だという「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

  470. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 04:34:27

    まとめると、旧唐書には2つの説が書かれている
    ①倭から日本に国名変更した
    ②日本が倭を併合した

    ①の根拠は様々な考古学的事実、宋書や隋書などの一般的解釈、通説となってる邪馬台国畿内説、記紀の記述など
    ②の根拠は隋書の曲芸読み、学問的には否定されている邪馬台国九州説、考古学を完全無視したトンデモ仮説

  471. 名無しさん 2017/06/22(木) 06:26:41

    ※453
    そもそも記紀・万葉集だって、独自の文字や表記方法がなかったがために漢字を無理矢理表音文字として使っていたわけで、邪馬台国というか記紀以前の文字記録があれば、それだけで古代史がひっくり返る可能性があるわな

  472. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 09:50:39

    >399
    亀レスですが
    >仮に根拠が一つもないとして、考古学知識がないとして、
    >ここのコメ欄において、一体なんの不都合があろう?

    書き込むのに不都合はないけれど、根拠がないことを指摘されたり、それが通らないことを考古学的知見を添えて教えてもらったら「ああ、そうなんだ、教えてくれてありがとう」って、普通の日本の価値観のもとに教育された人なら、なると思うんですけどね。

    それを、たとえ教科書に書いてあることでも、教科書なんて当てになるかー!、俺は信じないぞー!、オレが正しいんだ=!とかやってるから、まともに相手にされないんですよ。

  473. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 10:23:17

    >463、464
    弥生末期には、それまでの家族墓としての「複数埋葬の方形周溝墓」から、巨大で多量の威信財を副葬した「ただ一人のための王墓級弥生墳丘墓」が作られるようになります。そうした王墓級弥生墳丘墓が作られた地域には、「王権」と呼ぶべきかは議論がありますが、一定以上の動員力のある有力な首長がいたと認められます。そして、それらの王墓級弥生墳丘墓は、出雲では四隅突出墓で葺き石を伴う、吉備では段築成で円筒埴輪で段を囲うなど、地域ごとに特徴があります。ただ、そうした王墓級弥生墳丘墓の時代はそれほど長くは続かず、1世代か2世代程度です。

    それが、古墳時代に入ると、地域ごとの特徴のある墓制が、いっせいに定形化された前方後円墳または前方後方墳に統一されます。円墳、方墳もありますが、地域の盟主墳は前方後円墳か前方後方墳です。
    この定形化は、吉備の段築成+円筒埴輪、出雲の墳丘の葺き石、大和の前方後円形の墳形、北部九州の剣・鏡・玉の副葬品、という、各地の墓制を統合したものと見ることができます。

    463
    >四道将軍の制圧範囲外が出雲、四国、九州、中部、東北、北海道で思いっきり別の国なのがいいね
    東北、北海道はともかく、出雲、四国、九州、中部、の四道将軍の制圧範囲外も、古墳時代に入ると同時に、前方後円墳を作るようになります(出雲や東海は初期は前方後方墳が多い)。
    この辺で、倭国としてのまとまりができたと考えてよいと思います。
    464
    >複数の王朝が統廃合して日本になった
    統合したのだと思います。在地の首長は、そのまま豪族として、その地域の盟主墳を作り続けますから、廃された王権という訳ではないと思います。

    この古墳時代に、東北・北海道、南西諸島を除く地域が、一つのまとまりとなった(≠中央集権国家として一人の王に服属する)と考えてよい、というのが、広瀬和夫の「前方後円墳国家」という考え方です。この時点で、このまとまりが倭国であり、そこに「日本」はありません。

    そして、纏向遺跡が古墳時代の始まった場所で大和王権の原点、というのは九州説の人も認めていて、纏向が巨大になるのが土器形式で布留式に入ってからというのも、大体の人が認めています。
    土器編年は、まだ確定的とはいえませんが、
    180年-210年 纒向1式 弥生V様式末
    210年-250年 纒向2式 庄内I式(庄内古式)
    250年-270年 纒向3式 庄内II式(庄内新式)
    270年-290年 纒向4式 庄内III式(庄内新新式),(布留0式)
    290年-350年 纒向5式 布留Ⅰ式
    ここからそれほど大きくは、ずれません。

  474. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 10:39:48

    >469
    しつこすぎ
    >468で答え出てるじゃん。大陸記録と無理矢理関連づけて矛盾起こしてるのが証拠。
    考古学て、古墳時代も知らない日本人成り済ましじゃ相手にされないよ。おもいきり明確に考古学での変化が起きてる。

    大和が倭を間に置いて交易やってたけど、随の時代に直接使者迎えたら無礼だったので、新羅経由での交流にした。
    これは、磐井の乱で北九州新羅勢力を倒してしまって、止まっていた大陸との交易を自分でやろうとした大和が失敗し、結局復た、間に両方に頭を下げ顔を立てる役を入れる事になった。
    と言うことではないか。

  475. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 11:38:44

    ※468
    とりあえず卑弥呼or台与のことは書いてあるってことだよね
    つまり日本=倭だね
    はい終了

  476. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 11:41:46

    ※435
    >教科書に載っていないから九州説批判してたんよな

    は?教科書に載ってないのは倭≠日本だぞ

  477. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 12:07:52

    >89 無礼な使者を追い返した
    >138 使者を追い返した
    >343 あちらからの使者を無礼だと追い返し
    >377 隋の無礼な使者を追い返した
    >474 随の時代に直接使者迎えたら無礼だった

    これどこに書いてある?

  478. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 12:40:28

    475
    こう思わせるために神功皇后を作ったんだなというのがよく分かる

  479. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 12:43:42

    ※475
    張政どこいった?

  480. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 12:58:20

    >倭と日本は別だという「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

    日本側の記録
    大和朝廷の正史である日本書紀に卑弥呼が存在しない
    神功皇后は明らかに別人

    考古学の資料
    卑弥呼が朝貢した時期の畿内の王権は
    まだ弱小であり九州まで支配していないというのが考古学的定説

  481. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 13:04:18

    ※474※480
    別だという証明になってない

  482. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 13:13:12

    神武が宮崎県から東征を初めたのにその子孫が熊襲を倒すって面白いよね

  483. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 13:14:05

    ※475←コイツは千ョンコークオリティーだな。
        背乗り成りすましか名ばかり帰化かは解らんが、それらの子孫!

  484. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 13:15:23

    あれもチョンこれもチョン

  485. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 13:24:11

    ※483
    チョンはおまえだろw

  486. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 14:03:52

    終戦後に左翼が流行らせた王朝交代説を推してる奴はチョン

  487. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 14:05:41

    チョンと部落民は同盟関係

  488. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 14:06:35

    どちらも大和民族に討伐された恨みを抱いて生きている

  489. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 16:54:38

    天皇家もチョン 
    熊襲や蝦夷が倭人

  490. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 17:12:23

    >480
    日本史の通説とかけ離れたことを書いてるが
    記紀が3世紀のことを漏れなく記述してるという根拠は?
    畿内ヤマトが3世紀の時点で弱小であるというのが考古学の定説と書いているが
    日本の考古学者の通説とは正反対になってる
    どこの誰の間で弱小というのが定説になっているんだ?

  491. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 17:27:32

    489
    朝鮮人と同じこと言ってるなおまえ

  492. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 17:28:27

    部落民は北海道で凍死しとけアホ

  493. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 17:37:34

    ※489
    ラモスや白鵬ですら立派な日本人。
    今上陛下の先祖がどこから来ていようと、そんなこととは一切関係なく
    陛下は日本の象徴であり誇りだ。

    こういう馬鹿なことを言う脳みそトロリンのせいで
    歴史が歪められ真実が見えなくなるとしたら日本の恥。
    逆にいうと、世にこういう馬鹿が存在するからこそ発掘調査が制限される。

  494. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 17:54:00

    纒向遺跡の土器編年によれば3世紀は庄内式土器で纒向遺跡のその範囲が狭いことは考古学者なら常識
    弱小とまで言えないが、河内の方が強大だったことは皆の認めるところ

  495. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:00:06

    >475
    本当は倭と日本は別なのに当時の日本もこうやって彼のような朝鮮半島人に記紀を使って説明したんですよ
    分かりますか?
    朝鮮半島人にはこのような説明がとても有効なんですよ
    記紀と正史を比較して読めないですからね
    確認できましたでしょうか

  496. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:18:40

    ※495
    何言ってるのかわからん
    記紀に卑弥呼のことが書いてないというから、書いてるぞと言われたら、今度はそれはウソニダとか都合良すぎ。
    というか、倭と日本が別とか言ってる奴が日本を分断しようとしてる朝鮮半島人だろwバレバレ

  497. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:21:43

    494
    河内と大和はほぼ一体と考えればどっちでもいい話

  498. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:23:28

    >495
    >本当は倭と日本は別なのに
    これって、468の言う
    >ヤマト(日本)が倭(邪馬台国)と同じであると中国に思わせたかった
    これを前提にしているんだろうけど、「ヤマト(日本)」がそもそも間違い

    推古天皇のときもずっと大和朝廷が倭国の代表だし、古事記にも日本書紀にもそう書いてある
    日本は、大和朝廷(律令国家としての全国政権)が名乗った新しい国号で、どこかの地域王権の後継国家の名乗りではない

    そして「倭(邪馬台国)」がそもそも、=ヤマト
    倭と日本を別にしたいのは、九州説をこじらせた人だけだっていい加減に認めなよ

  499. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:41:39

    魏志倭人伝なんて邪馬台国の位置が全然違うんだから
    他にも嘘があるかもしれないしそれを証明する手段がない
    鼻息荒くして議論する価値ないと思うが

  500. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:42:41

    >480
    >九州まで支配していない
    古代の国は、中央集権の領域国家ではないことを忘れないでください
    各地で独立した様式を持つ王墓級弥生墳丘墓の時代を経て、定型化した前方後円(方)墳を作るようになった時点で、支配はしていなくとも一つの共同体となっています

    その時点の中心を、倭国の中心と見るのに不合理は何もないと思いますが?

  501. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:43:35

    邪馬台国とは別に纒向遺跡周辺に王朝があってそれがヤマト王権の祖なんだ
    さらに四道将軍が勢力を広げて吉備と丹波と東海と日本海が一緒になって出雲に国を譲られて神功皇后が熊襲と三韓を征伐したんだね

  502. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:44:10

    >499
    そうだよ、そのとおり
    だけど、魏志倭人伝とか旧唐書の記述くらいしかすがるものがない九州説の人ががんばってるだな、これが

  503. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:46:22

    >501
    × 邪馬台国とは別に纒向遺跡周辺に王朝があってそれがヤマト王権の祖なんだ
    ○ 大陸側の史書に音訳で邪馬台国と記された王朝が纒向遺跡周辺にあってそれがヤマト王権の祖なんだ

  504. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 18:49:03

    前方後方墳を中心に考えるなら、奴国や邪馬台国の倭(朝貢あ
    り)と後の日本である大王家の倭(朝貢なし)は別だな

  505. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:01:07

    卑弥呼が天皇家の先祖ではないため日本書紀の時点で伝説の人物扱い
    そのため神功皇后にくっつけたが魏を勘違いしたため不都合が生じた
    卑弥呼を神武天皇の姉にして神武天皇を魏志倭人伝で補佐していた人物にすれば、神武天皇の娘を台与にしてもっとスムーズな展開になったのに
    そうすれば共立された王権として正統性が上がったはず
    日本列島支配のために畿内に東遷するのも、神武天皇が受けたお告げを卑弥呼から受けたことにすればよかったのに
    日本書紀の編集者には反省してもらいたい

  506. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:05:04

    ※500
    共同体のメンバーに従わないなら武力で平定せよと四道将軍を差し向ける〇〇マジ鬼畜

  507. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:07:21

    ※504
    神功皇后の時代に朝貢してるって書いてるから同一だな

  508. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:08:30

    畿内説の最大の問題は九州をいつ、どのようにして制圧したかがわからないこと
    邪馬台国が畿内だとしても九州の方が先進的(中国文化、鉄など)な地域であることをなぜか認めない

  509. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:11:23

    ※505
    仲哀天皇ならともかく、なんで神武?
    邪馬台国九州説にとって不都合なことしか書いてなくて残念だったねw御愁傷様

  510. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:17:51

    ※508
    石鏃で殺された人骨が卑弥呼時代より前に九州から出土するので、先進的であっても数の力で制圧された。
    記紀でもヤマトタケルは神功皇后より前だと書かれてる。

    戦国時代にキリスト教や鉄砲や大砲が真っ先に来た先進地域だったけど、本州に制圧されたでしょ。あれと一緒。

  511. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:24:45

    ※489
    じゃあおまえもチョン

  512. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:28:59

    畿内から出雲と吉備を制圧せずに九州を支配するためには四国の太平洋側を回る必要がある
    奇しくもそのルートは水行と日数が合う
    すなわち邪馬台国とは半島南部を起点に九州北部から日向、土佐を経由し畿内に至る巨大王国なのである
    卑弥呼亡き後、それぞれの地域に分裂し、神功皇后の時代に再び統一されたのである
    だからこそ卑弥呼と神功皇后が同一視されるのである

  513. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:35:19

    古事記は呉音の万葉仮名
    神獣鏡は南朝の特徴
    畿内に倭人支配下の半島南部の鉄がない
    副葬品の貝殻
    つまりヤマト王権は貝の道を通じて南朝と交易をしていた
    北朝の記録になくて当たり前

  514. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:45:02

    なるほど、文献的にも考古学的にも倭と日本は別と言えるが、東アジアの冊封体制の為には倭と日本は同一とした方がいいとの考えが根深いということか

  515. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:48:02

    >514
    倭と日本が別だという考古学的根拠は何?

  516. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 19:59:50

    考古学的根拠 倭=日本
    日本の文献 倭=日本

    倭≠日本と書いてるのは旧唐書のみ
    冊封体制的に、倭王が唐の時代に天皇と名乗り始めたということは
    歴代王朝に比べて唐の威徳が低いということになって都合が悪いから。

  517. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:01:02

    この514のように、何の根拠もなくただ同じことを書き続けるのって、どういう情熱なんだろう?
    どこかから、そうした方がいいって言われてるの?

  518. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:03:43

    >512
    >畿内から出雲と吉備を制圧せず
    箸墓をはじめとする定型化した前方後円墳は、出雲の四隅突出墓と吉備の盾築墳丘墓の特徴を受け継いでいて、仲間であることをはっきり主張してると思うのですが、そういう考古学的事実は全無視ですか?

  519. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:10:32

    >508
    >畿内説の最大の問題は九州をいつ、どのようにして制圧したかがわからないこと

    392に書いてあるように
    >奴国も大したドラマもなくいつの間にか大和朝廷支配下になってるという謎
    奴国はごく平和的に、前方後円墳を作るようになって、畿内式の土器が出るようになってる
    制圧はしてないんだと思うよ

    >九州の方が先進的(中国文化、鉄など)な地域であること
    これは認めてるよ
    ただ、先進的だったのが漢鏡4期か5期の頃までで、それ以降の邪馬台国の時代には既に優位性がなくなってる

  520. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:15:29

    >518
    1つ気になるのだが箸墓古墳は邪馬台国と年代が違うから定型化した前方後方墳と邪馬台国に関係はないのでは?

  521. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:16:00

    >504
    >前方後方墳を中心に考えるなら、奴国や邪馬台国の倭(朝貢あり)と
    >後の日本である大王家の倭(朝貢なし)は別だな

    前方後方墳が多いのは、出雲や東海地方だぞ
    奴国の辺りや畿内は、地域最大級の盟主墳はともに前方後円墳で共通

    神話的に地祇の系統の地域は前方後方墳、天神系の地域は前方後円墳とも言われているけれど、それほどはっきり分かれたりはしていない

    「倭と日本は別」じゃなくて、「倭と倭が別」っていうのは新しいね
    どこで区別するの?

  522. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:18:20

    3世紀は出雲も吉備も独立してるし前方後方墳なくね?

  523. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:26:04

    520の前方後方墳は前方後円墳の間違いだ
    ごめん

  524. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 20:48:41

    >520さんへ
    空白の4世紀が境だと思う

    ①奴国は金印があるため倭と「よばれた」のは間違いない
    ②奴国を支配していた上に金印のある邪馬台国も倭と「呼ばれた」のは間違いない
    ③新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている
    ④遣隋使は日本を「名乗った」
    ⑤海外国記の逸文で、664年に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたという

    ②と③の間が不明だけど前方後方墳や前方後円墳を見てると違う王朝が互いに影響しながら日本を作ってったのかなぁと思った
    今まで前方後円墳だけが語られるけど前方後方墳も結構広範囲だしでかい
    ①②の倭だった地域はその流れに入ってなくて前方後円墳がいきなりその地域に造られてるように見える
    前方後方墳地域は穏やかに前方後円墳を受け入れてるし前方後円墳地域にぽつんと前方後方墳があったりする
    奴国系の倭はひっそり消えてったんじゃないかな?戦乱とか寒冷化とか渡来系の移民の流入で
    中国から見たら東の果ての野蛮人は全部倭で日本と名乗るから唐の時代にもう日本でいいやってなったんじゃないかなと

    あと、奴国から邪馬台国まではあくまで倭と「呼ばれて」たのに対しヤマト王権は倭でやまとと自分たちで「名乗ってる」この違いも大きいんじゃないかなと思ってる

  525. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 21:35:32

    倭人に関することは全部倭だけど中身は全部違う

  526. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 22:19:23

    ※510
    倭国大乱の初期に北九州VS南九州があり、畿内は出雲や吉備を従えて南九州と手を組んで北九州を制圧
    し倭国大乱後期には畿内VS南九州になったというシナリオかな?

    ※519
    こちらは北九州VS南九州で北九州が疲弊したから畿内が北九州と組んだということかな?
    北九州と畿内が共立して邪馬台国を作った方が納得がいきそう。

  527. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 22:20:04

    >524
    遣隋使が日本を名乗ったというソースは?

  528. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 22:21:39

    肝心の国号を日本とした年代も分からんとは知らなかった
    古代史は謎だな

  529. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 22:43:34

    邪馬台国=大和としている事自体が間違いなんだよね
    邪馬台国の卑弥呼が朝貢した品物の絹は、この時代の本州からは見つかってないのに対し、北部九州では弥生時代の有田遺跡から日本最古の絹が見つかっている
    真珠にしても、現在、見つかっている12のアコヤガイの貝塚の内、九州で見つかった貝塚は長崎が3、鹿児島が7、熊本が1と殆どであるのに対し、本州にはない(九州以外では四国の愛媛県に一つだけ)
    真珠自体は鮑貝からでもとれるけど、アコヤ真珠に比べると量が違い過ぎるので、5千という数はこなすのは難しい(アコヤ真珠なら海人が2千人もいれば一カ月で十分採取可能。2百人でも一年あればこなせる)
    また、ドブガイのような淡水真珠では5千孔と個数で記すような高品質なものには成り難い(当時、中国では真珠は重さで記すものであり、高品質なもののみ数で記す)

  530. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/22(木) 23:13:48

    邪馬台国とヤマト王権は別ということだな

  531. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 00:10:39

    失われた文献多いな

  532. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 00:16:26

    529
    畿内説では九州も植民地の一部なので問題ない。

    丹に関しては九州では見つかってないので九州説は消える。
    (前スレより)
    其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
    『邪馬台国の卑弥呼
     卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
     どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。

    よって畿内で確定。

  533. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 00:48:16

    >89 無礼な使者を追い返した
    >138 使者を追い返した
    >343 あちらからの使者を無礼だと追い返し
    >377 隋の無礼な使者を追い返した
    >474 随の時代に直接使者迎えたら無礼だった

    もう一度聞くけどこれどこに書いてある?

  534. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 00:51:35

     
     
     
    馬~鹿! 丹だけじゃん。畿内説は気痴害だ、丸ッキシ千ョンコー(笑)
     
     
     
     

  535. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:13:12

    532
    四道将軍ですら平定していない九州を纒向遺跡が支配することは難しい

  536. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:15:11

    ※532
    それなら丹産出と書かれる
    有と産出は明確に書き分けられている以上むしろ逆

  537. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:16:59

    ≫532
    植民地の九州が最高級の中国産の丹をふんだんに使い、宗主国の畿内は国産の丹を使ってたのはおかしい

  538. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:18:48

    >532
    卑弥呼は魏から鉛丹を下賜されたが何に使って何処に消えたんだ?
    産出するものを献上した上で下賜されるとはどういうこと?

  539. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:20:14

    ※532
    独立勢力の出雲と吉備を越えていかに支配するというのだ?

  540. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 01:39:38

    日本と倭が別種とするには少なくとも以下の問題点をすべて証明しなければならない
    ・学問的には邪馬台国は畿内ですでに確定しているが、通説をひっくり返し九州説が正しいことを証明する
    ・倭の五王が九州王朝の王だということを証明する
    ・遣隋使を送ったのが大和朝廷ではなく九州王朝だということを証明する
    ・九州王朝の範囲と都がどこにあったかを物証で証明する

    また九州王朝の存在を否定する様々な考古学的事実について合理的な説明が必要
    ・中国鏡が3世紀以降は畿内中心に分布していること
    ・九州最大の国であった奴国でさえも3世紀には畿内ヤマトの傘下に入っていること
    ・畿内発祥の前方後円墳が全国に分布
    ・稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀より埼玉から熊本までワカタケル大王の版図になっていること
    ・大陸から伝来したはずの仏教寺院が畿内を中心に築かれること
    ・冠位十二階の記述が隋書にあること

  541. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:22:16

    >539
    無知すぎる
    吉備はヤマト王権の中核となる勢力だろが
    箸墓にあれだけ吉備の要素が多く含まれてるのだから卑弥呼は吉備出身と考えてる考古学者もいるくらい密接な関係だ

  542. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:23:47

    隋書では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない

  543. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:32:30

    紀元前6世紀から続く天皇家の歴史の中で3世紀だけ中国側の記録と合わない
    5世紀から日本と中国、朝鮮の記録が一致する、そこから天皇家の日本が始まった

  544. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:36:33

    ※540
    東の静岡辺りの遺跡の勢力(日本)が畿内を滅ぼして邪馬台国(大和国)を造ったのでは?
    倭国大乱時なら支配していた九州勢は手一杯だし2世紀の畿内の文化レベルなら倒されても不思議じゃない
    倭国(九州から畿内)が混乱中で東の日本が畿内を手中に治めたら吉備も出雲も日本と共立する可能性が上がる

  545. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:38:30

    ※541
    土器編年と周濠の出土品によれば箸墓古墳は卑弥呼の時代ではない

  546. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:39:39

    >542
    都於邪靡堆

  547. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:50:11

    ヤマト王権て不思議な王権だよな
    自分たちのオリジナルが4世紀に全て消え去った
    後方墳は濃尾平野からだし帆立貝型は日向から
    鏡の副葬品は北部九州から
    石で墳丘墓を葺くのは吉備から
    石棺は熊本の石だし
    銅鐸は捨てるわ、石器は物部氏の鉄器に置き換わるし
    石室の様式まで変わってるし土器も変わってる
    畿内勢力が他を征服したというより初期の神聖ローマ帝国のハプスブルク家みたいな感じ
    後に神輿だったのに実権も手に入れた感じ

  548. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:54:29

    倭の五王の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に一部矛盾が見られる

  549. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 02:57:19

    「讃死弟珍立遣使貢献」
    讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)

    すなわち珍を讃の弟とする記述である。

    『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。

  550. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 03:13:30

    >547
    そう考えた方がまさに共立した感があるね
    でも多くの畿内説者は西暦150年から畿内が軍事、文化力で他を200年までに圧倒したと思ってる

  551. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 07:28:19

    >549
    古事記には没年は書いてないよ
    書いてあるのは没年の干支
    そして、宝算(死亡時年齢)が100歳を超えてたりするから、宝算も干支も当てにならないとするのが通説
    むしろ讃を履中に珍を反正にあてる方が普通だと思ったが?

  552. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 08:29:40

    ※534
    九州説だと畿内は邪馬台国勢力圏外(東方の倭種)だから、九州にないものが一つでも九州の外で見つかればその時点でアウト。
    九州も版図の一つであるとする畿内説との違いだね。

    ※535
    ヤマトタケルがいるので問題ない。

    ※536
    「其山有丹」産出するってことだろ。

    ※537、538
    九州ご自慢の絹も献上して下賜されてる訳だが、それはスルーするくせに丹はなぜダメなのか。

  553. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 08:33:19

    ※547
    織田信長だってオリジナルのものなんて何にもないよ
    六角家や島津家や大友家の共立国家だったことになってしまう。

  554. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 09:28:55

    「学問的には邪馬台国は畿内で確定」と連呼してる人がいるけど、そう言えば「あ、そうなんだ」と勘違いしてくれるお人好しがいると思ってる?

  555. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 09:36:49

    >538
    >卑弥呼は魏から鉛丹を下賜されたが何に使って何処に消えたんだ?
    魏志倭人伝の「真珠鈆丹各五十斤」の、真珠の方が水銀朱と考えられているのは理解してる?
    真珠がパールだとすると、五十斤という単位がおかしいんだって
    鈆丹も赤い顔料だけど、真珠の方が格上
    出先扱いの北部九州で、鉛丹を使ったのかもね

  556. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 09:46:16

    >536
    >有と産出は明確に書き分けられている以上むしろ逆
    この書き分けがあるってこと、きちんと論証した?
    以前から、至と到は区別されてるって話はあったけど、少し広く調べたら特に区別なくごっちゃに使われてることが確認されてるよ
    狭い範囲で調べるだけだと例数が少ないから、たまたまがそう見えるってことはある

    辰砂や丹は鉱物で、鉱脈として山の中にあるんだよ
    掘り出して使ってなかったら、どうして魏の人にあるって分かるんだ?
    通りがかってその上を歩いたって、あるかどうか分からないだろ?
    あんまり無理筋を推しても、無理は無理だぞ
    実際、畿内や四国では水銀朱使ってるし

  557. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 09:47:59

    >553
    スレチだけど、織田信長は、天下布部も、楽市楽座も、天主を持つ城(安土城)も信長のオリジナルだぞ

  558. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 09:56:29

    >524
    >今まで前方後円墳だけが語られるけど前方後方墳も結構広範囲だしでかい
    前方後方墳の範囲、という場合でも、前方後方墳しかないってことはなくて、東海地方や出雲にも前方後円墳はあります。
    他の地域に比べて大型の前方後方墳の割合が高いだけで、逆に畿内にも小さめの前方後方墳はあります。
    前方後方墳も、定型化した古墳の枠組みの中のものであり、倭国の枠組みの中です。
    先に、天神系が前方後円墳、地祇系が前方後方墳と書きましたが、埋葬される人の宗旨によって墳形が異なるという理解でよさそうです。

    >奴国から邪馬台国まではあくまで倭と「呼ばれて」たのに対しヤマト王権は倭でやまとと自分たちで「名乗ってる」
    これは単に、奴国や邪馬台国は「中国の史書の中の存在」で、大和王権は「日本の史書」に書かれているからってだけじゃないですか?

  559. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 11:11:24

    >>555
    >>真珠がパールだとすると、五十斤という単位がおかしいんだって
    横から悪いが、当時、真珠は薬としても使われてたから、重さで記されるのはおかしな話ではないよ(日本でも小粒な奴は薬にされてたし)
    そして、鉛丹も漢方の中にあって、薬として使用されている

    両方とも、薬として使われた可能性があるんだよね

  560. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 11:46:29

    ※557
    天下布武…当時の天下=畿内であることが判明しており、三好氏の手法の踏襲
    楽市楽座…初出は六角氏
    天主…日本最古の天守台は伊丹氏の伊丹城

  561. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 12:01:01

    554
    そう書けば「あ、そうじゃないんだ」と勘違いしてくれるお人好しがいると思ってる?

  562. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 12:14:52

    丹は九州でも産出する
    そろそろ覚えような

  563. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 12:18:56

    ※556
    当時の辰砂は露天掘りじゃないの?

  564. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 12:26:15

    >554
    否定したいならいまだに九州説を唱えてる学者の名前を挙げてみろ
    確かに過去にはいたが現役の学者で誰がいる?

  565. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 12:47:57

    >>556
    産出うんぬんをいいだしたら、青玉はどうなるんだって話だよね
    青玉が翡翠だった場合、これを産出しているのは新潟県、蛇紋岩だった場合、出雲石で有名な島根県
    どちらも九州でも近畿でもないよねw
    まぁ、蛇紋岩は島根県の花仙山のものが高品質な事で有名というだけで、蛇紋岩自体はあっちこっちでとれる岩だから、基準にするには不確かだけど

    あと北部九州でも弥生時代後期頃から、陵墓や棺、遺体の装飾に水銀が使われているし、九州でも水銀の鉱脈があり、佐賀の嬉野、熊本の八代、大分の板ノで水銀の産出はあるから、水銀の産出場所=邪馬台国の場所にはならないよね

  566. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 13:47:31

    >562
    前記事のコメント欄でも話題になっていたが、九州の丹の産地は飛鳥時代になって畿内豪族が見つけてる

    >565
    今のところ弥生時代の九州の水銀朱は、同位体分析(だったかな)で大陸産とする研究報告がある

    あわせて、邪馬台国の時代には九州から丹を出したということにはならないようだよ

  567. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 13:49:22

    >563
    露天掘りだったとして、掘ってるところを見てるんだったら、其山有丹は「あるだけで産出してない」って話にはならないからどっちでもいいよ

    そんなに深い坑道を掘ってたとも思わないけど

  568. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 14:54:38

    最終的に史料残って無さ過ぎて結局わかんねーやってなりそう

  569. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 15:04:26

    ここにいる畿内説のやつって真実の歴史を突き止めたいとか思ってないな。
    その場その場で優越感に浸るため、そして
    対立する側にマウントを取って誹謗中傷の拳をぶつけたいだけの動機で
    古代史の議論をしている。
    そのためには、とても古代史の議論とは思えない
    ガッコーの教科書にすがるなどという恥ずかしい真似も辞さない。
    卑しいの一言に尽きる。

    あるいはこうかもしれぬ。
    アスペなのかもしれないが、忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    認証された文献(あらかじめ決められたテスト範囲)の既存の解釈という固定された狭い盤上で
    まるで詰将棋でもやっているつもりなのかもしれない。
    誰かの(勝者の)思惑で歪められた史料を盲信することによって
    知らないうちに偏った(誤った)結論に誘導されているかもしれないなどとは
    想像だにしていないのだろう。

    そういう人間は、
    限られた材料を推理で補い、そのうえやがて新しい材料が出てきて
    主張を変えなえばならなくなるような古代史には
    向いてないのではないか。
    そして、面白ブログの自由なコメント欄にも向いてないのではないか。

  570. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 15:12:21

    ※566
    九州の紀元前の墓(甕棺など)にも水銀朱は使われているぞ
    九州で算出してないとすると貿易で得たか
    朱の産地を支配していたことになる

  571. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 15:18:24

    ※569
    うわぁ・・・

  572. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 15:37:27

    「倭人」「邪馬台国」「卑弥呼」
    これは全部中国の当て字と考えられる。昔の中国は自分達の領土以外に蔑称をつけて呼ぶのが風習だった。今でも名残りがあるのが「南蛮」南の野蛮な奴らの意。
    倭人は和人、邪馬台国は大和国、卑弥呼は妃巫女 
    つまり和人は大和民族を指し、今でも日本風を和風というのだから日本と倭は同じだろ。

  573. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 16:50:14

    >572
    大体同意だけど、和人和風は順序が逆かも
    向こうがこの国、地域のことを「倭」と呼んでいて、それに大和言葉の「ヤマト」を当てて訓読みして、さらに美称として大をつけて大倭(おおやまと)と読んでいて、倭の字が雅びじゃないと思って(倭國自惡其名不雅 改爲日本)、「大和」に改めたんだと個人的には思ってる

    もともと和人と言ってたのに当て字で倭人と書かれたんじゃなくて、向こうで倭人と言ってたのが定着してたんで、文字だけ変えて和人にしたんじゃないかと

  574. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 16:55:07

    >569
    >ガッコーの教科書にすがるなどという恥ずかしい真似

    まあ、もともと勝ち負けの問題じゃないんだけど、これを言い出したら事実上負けを認めたようなものだろうに

    日本の教科書は、世界各国の教科書と比べても理性的で正確だって言われてるのに
    その教科書を端から否定しないと成り立たないなら、それはもう仮説ですらないぞ

  575. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 17:03:27

    >570
    ちょっとググって来た
    近畿大学の南 武志っていう研究者が、水銀朱(硫化水銀)の硫黄の同位体比で、産地の推定をしてる
    遺跡出土朱の起源 地学雑誌Vol. 117 (2008) No. 5 P 948-952

    まあ、出土したすべての試料を調べているわけでは当然ないけど、九州と山陰は中国の朱、畿内では国内産の朱という判定になってる

    >九州で算出してないとすると貿易で得たか
    九州については、まさに貿易で得たでいいと思う

  576. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 17:04:46

    >569
    >対立する側にマウントを取って誹謗中傷の拳をぶつけたいだけ
    工作員だの、捏造だの、半島の人だの言い出したのは、九州派の人だと思うけど?

  577. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 17:15:09

    >547
    集まった所全部を取り込んだ感はありますね。
    倭の五王に繋げる事を考えると、共立ではなく武力制圧してそれぞれを立てるというか、
    敗者を敬う日本の姿勢が現れてる。とでも見ればいいのかな。

    また荒しが増えてきた。
    邪馬台国の話は前の方でほぼ結論出てるのに、九州畿内とかあっちでやれと。
    他の目的を持つ「工作員」と呼ばれても仕方ない行動ですね。

  578. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 17:15:43

    >559
    なるほど 教えてくれてありがとう
    それ(両方とも薬用)だと、真珠鈆丹各五十斤って並べて書かれてるのも納得だね

    というところで、水銀朱も「朱砂」や「丹砂」という呼び名で漢方薬に使われているのだけれど

  579. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 17:58:32

    実は纒向遺跡が邪馬台国だけどその後張政を呼んだり調子に乗ったから、九州、出雲、吉備、東海の協力してくれた豪族に反旗を翻されて滅ぼされたんだよ、それが3世紀後半
    だから邪馬台国とヤマト王権は別
    争いの跡もないほど反乱は圧倒的だった
    反乱首謀者は物部氏と大王家
    この後九州と出雲と吉備と東海のミックス文化の倭が始まる
    その過程で銅鐸は消え去った
    その後九州の大王家が象徴となって担がれたが次第に増長してトップ面を始めた
    それに従わなかった地域を四道将軍に平定させた
    だから出身の九州と協力してくれた出雲には派遣されていない
    その後狗奴国を継ぐ熊襲を征服し朝鮮半島南部を支配して南朝に朝貢したが隋が統一したため隋に朝貢した
    しかし南朝と勝手はちょっと違った
    卑弥呼が記紀から抹殺されているのは日向の大王家による反乱の事実の抹消
    これなら文献とも考古学的事実とも矛盾しない
    九州は邪馬台国の中で貿易を握り最強勢力だったがあくまで都は水行陸行の先としたのだろう

  580. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:11:36

    >578
    水銀朱は、墓の内装に使われたはず?、薬だったから死体にも使ったと言われたら反論しづらいけど。

    北九州は大陸産。出雲と丹波辺りも大陸産が出るけど国産も出る。
    出雲はほとんどが国産使用の墓、混ぜたんじゃないかって墓もあるんだったかな。
    調査結果の多い出雲で考えると、
    王を朱色で埋葬するために、朱を持つ勢力と付き合いを持つ必要があり、一時期大陸と繋がりのある北九州と結び付いたが、基本は国産朱を産出し続けた徳島県か奈良県辺りの勢力と結び付いていた。

    邪馬壱国の丹有は、後漢書で邪馬台国と丹土有に訂正されてるのと、東に海を渡って千里は倭種だけど属してないって書いてあるから、少なくとも後漢書に書かれた時代では、辰砂産出も手に入れる方法も無かったんじゃないかと思う。

    それと、
    卑弥呼を共立した範囲 → 倭国 (倭国大乱→卑弥呼で乱が収まる)
    卑弥呼に属さない範囲 → 倭種 (扶余国、高麗国扶余種、百済国扶余種のように別の国がある)
    卑弥呼と交流可能範囲 → 倭種と書かれない(毛人蝦夷とか?)
    この3つが倭人条に書かれてるね。
    倭国が別の倭種国に従ったけど、交易は今まで通り倭国として行う。と考えると、継続性のない遣使や初めて遣使も納得が行くかなぁ。

  581. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:14:54

    >579
    >実は纒向遺跡が邪馬台国だけどその後張政を呼んだり
    その時代の纏向はまだ小さいんじゃなかったかな。
    そして何より、滅ぼされたって痕跡はどこから出たの、近畿の石器が大きくなってむしろ石器で九州滅ぼしに行ったと見たけど。

  582. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:27:01

    僕の考えた日本の歴史
    九州に倭国や邪馬台国、他諸々がありました。邪馬台国は女王卑弥呼が統治してました。
    近畿に大和の前進がありました。まだ勢力が弱くおとなしく暮らしていました。
    邪馬台国は女王がカリスマ性ありすぎて、亡くなった後弱体化。倭国へ吸収合併、倭国は強くなって調子に乗り暴れ初め、海外へ勢力拡大しますます増長。半島の一部をガッチリ手に入れやりたい放題。
    が、反抗勢力にしてやられほうほうのていで帰ってきたけど、大和の勢力が倭の長期不在留守をいいことに絶賛勢力拡大中!その上阿蘇山噴火やら地震やら(想像)で集落が壊滅状態で、大和完全勝利。で、鬼退治しちゃった大和は宝の山を全部近畿へぶんどって帰った。大和朝廷の始まりだったとさ。おしまい。

  583. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:31:34

    >581
    >その時代の纏向はまだ小さい
    纏向は小さくても、それを作った母体である「大和(唐子鍵遺跡)河内(亀井遺跡)連合」は既に十分大きかったよ
    その状態から、纏向を新た(縄文からの遺跡はあるけどほぼ廃れてた)に都市を作り始めるのは、卑弥呼の共立がきっかけだったと考えるのが一番考えやすいと思う
    そして、纏向が大きくなり東海地方の土器が多く出るようになるのが、魏志倭人伝に記された狗奴国との調停のあとだと考えると、年代的にもぴたりとはまるように思うんだが

  584. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:35:11

    要するに邪馬台国と大和朝廷は別という結論だ

  585. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:43:12

    583
    土器がまるで別で交流のほとんどない河内が母体だとはとうてい思えない…
    むしろ対立してね?
    遺構から見ると仲悪すぎ…
    大和に滅ぼされかけたとみるべきじゃないの?

  586. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:46:26

    ※579
    >争いの跡もないほど反乱は圧倒的だった
    >考古学的事実とも矛盾しない

    考古学証拠がないものは一般的には「ない」んだよ。
    ゆえに、お前の文は全文ただの妄想。

    東海も吉備も出雲も九州も普通に近畿同様銅鐸文化圏。
    鏡という新製品に取って代わられただけだろう。

  587. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:49:30

    585
    もうちょっと具体的にどうぞ

  588. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:49:51

    >580
    >後漢書で邪馬台国と丹土有に訂正されてる
    この誤解、どこからですか?
    前記事のコメント欄で「九州では丹が出ないから使っていたのはベンガラで、だから後漢書では丹土に訂正されてる =だから邪馬台国は九州」って人と、さんざんやりあったのですが、原文を確認すると

    後漢書
    出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
    魏志倭人伝
    出真珠青玉 其山有丹
    倭地温暖冬夏食生菜
    其地無牛馬虎豹羊鵲

    で「其山有丹」の部分は、まったく同じですね。訂正されていません。

    後漢書の「丹土」部分も確認すると丹土ではなく丹朱で、
    後漢書
    並以丹朱坋身 如中國之用粉也
    魏志倭人伝
    以朱丹塗其身體 如中國用粉也

    魏志倭人伝にも対応箇所があり、丹に関する部分については、後漢書はほぼ魏志倭人伝のコピペであることが分かります。

    つまり、当時の丹が出る範囲「畿内や四国」も倭国の中ってことでいいと思います。要するに、丹が出ない(国産の水銀朱を使っていない)九州だけの範囲で倭国を考える九州説は成り立ちにくい。

    >継続性のない遣使や初めて遣使も納得が行くかなぁ
    この点については、大陸側の内乱が大きいと思いますよ。
    倭国王帥升と卑弥呼の間は、後漢末から三国志の騒乱の時代ですし、266年の遣使(おそらく台与)のあとは、南北朝の騒乱に入っていきます。
    そんな時代に遣使を送るのはそもそも難しいでしょう。

  589. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:53:31

    >582
    倭の五王は高麗倒すために大陸王朝を利用し挟み撃ちにしようとした。
    一方高麗は、倭を倒すために倭の後方大和勢力に王子でも将軍でも送り込み、倭を背後から撃つように支援した。なんてのはどうだろう。
    >583
    河内と纏向には母体と呼べる程の繋がりないって見たけど、すぐ隣なのに出る土器が違うって。
    同じ勢力だから合わせる必要なかったとか言うけどなんだかなぁ。
    ○○説から物を考えてる奴とは、できれば話したくないな。面倒くさい。
    >588
    其山有丹土氣温腝
    其山有丹 土氣温腝 で丹土は存在しませんか。
    土氣温って何ですか?

  590. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:55:57

    583
    東海地方に唐子鍵遺跡と亀井遺跡は支配されて奴隷として纏向を造らせたとも考えられる
    どちらにしても纏向が造られ始めた時期に伊都国(九州と比定)及び奴国を制圧できるのだろうか?
    水行何日~何里~と遠い事実を忘れている。吉備や出雲も従えても補給も難しいのでは?

  591. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:57:03

    547
    銅鐸は西日本を席巻したし、前方後円墳は日本を席巻してる。
    普通に力があったとみた方が自然。
    あとは良いものを柔軟に取り入れてたというだけのこと。

  592. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 18:58:32

    >585
    >土器がまるで別で交流のほとんどない河内

    纏向が作られ始めるもう一段前の時点で、
    畿内「第Ⅴ様式土器」の時代(庄内式の前の時期)に
    「近畿地方の弥生土器は,前期の土器を母とし,器形・口縁部形態・紋様など,それぞれの地域で独自化が進んでいたが,それが後期に「第Ⅴ様式土器」に斉一化する。約500 年を要して変化を遂げてきた日常土器の共通化は,統合を図る力が働かなければ成し遂げられないであろう。「第Ⅴ様式土器」を主体的に生みだしたのは中河内・大和南部であり,この地域の拠点集落が存続することから,中河内・南大和の主導勢力が畿内圏を形成したとみる。」
    ということがあったんですよ。
    以後、大和川で繋がった中河内・大和南部が、畿内圏の中核であり、纏向を作った母体だと考えてよいと思います。

  593. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 19:15:22

    纏向遺跡には環壕がない
    よって邪馬台国の都じゃない

  594. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 19:19:30

    ※753
    流れ的には
    倭 → 大倭 → 大和 → 日本

    倭の当て字として和(わ)を使っていることから
    ワという読みが重要だったと考えられる
    和を「やまと」と読むことはない

    不思議なことに記紀には「大和」とう文字は出てこないこと
    古事記は倭は「やまと」、大倭と書いて「おおやまと」と読ませている
    日本は出てこない
    日本書紀だと倭は「やまと」、大倭も「やまと」
    日本は「やまと」、大日本だと「おおやまと」
    なんでもヤマトと読ませる無理矢理感w

  595. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 19:38:01

    >589
    >其山有丹土氣温腝
    これは私が普段原文を見るのにお世話になっているサイトでこのように分かち書きしてあったので、そのままに読んでました。
    土氣は「風土と気候」と読んでいました。書き下しにするなら「その土地の気候は温暖」くらいで。

    で、本場中国のサイトを見てきたら「其山有丹土。氣溫腝,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲…」と句読点が振ってありました。これは私が間違っていましたね。

    一方で「土氣」という言葉も、普通に漢籍には出てきて、漢書にも「黃帝曰土氣勝」などと使われています。
    漢日翻訳では、「土氣」で田舎っぽい、素朴な、野暮ったい、のような意味になるようです。
    となると、其山有丹土氣温腝は、其山有丹 土氣温腝でも読めて、「その山に丹あり、田舎っぽく温暖」でも間違っていないようです。
    その次の「冬夏生菜茹」が魏志倭人伝では「倭地温暖冬夏食生菜」で、温腝=温暖ですから「倭地」が「気」になるより、「土気」になった方が読みやすいような気もします。もともとの漢文には、句読点などなく、切れ目なく漢字が並んでいますから。

    まあ、中国の人が、其山有丹土。氣溫腝、こう切るというなら、争いません。お騒がせしました。

  596. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 19:46:35

    >593
    >纏向遺跡には環壕がない
    これ、魏志倭人伝にそんなこと書いてありましたっけ?

    環濠というのは防衛施設であって、高地性集落とともに倭国大乱への対応として作られるようになった、というのはいいですよね?

    畿内説の立場で言えば、卑弥呼が共立されて、争いが収まって作られた都だから環濠がない、ということで、非常に整合性があると思うのですが

  597. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 19:47:49

    >592
    いつもの気持ち悪い敬語の人が、今度は土器編年を朝昼のね。
    庄内より前の交流て、庄内時期でまた変わった事を、見事に無視するね。
    都合の悪い事は、隠蔽の自由を行使して、騙されるのが悪いと何時ものマスゴミやり口だな。
    土器編年を100年も押し込む報道を、朝日が飛ばし記事出す辺り、共通した歴史コリエイトの一貫なんだろうな。
    庄内時期を圧縮し、纏向に直通予定。

  598. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 20:01:51

    もっとチョンもっともっとチョン

  599. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 20:15:54

    >597
    庄内式時の時代を、どのような時代だと思っているのですか?

    あなたの考えを書いてくれればいいんですよ?

  600. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 22:04:12

    河内と大和の邪馬台国の時代の土器の違い様々な学者が論文書いてる一大テーマだというのに

  601. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 22:18:02

    さすがC14君は畿内説の大家の寺沢先生に真っ向から挑戦しているだけあって尖ってる

  602. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 22:21:07

    邪馬台国は今の日本の直接の祖ではないから何処にあろうと天皇家の日本とは別だよ

  603. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 22:34:48

    >595
    土氣震發(風水の感覚?)、土氣不養(人の性格表現)など、観念の言葉としての使われ方なので、
    温暖のような直接の説明には繋がらないと思います。
    一方で地気が気候を表すのと同じで、土気で気候という説明もありますね、古い言葉ではないように見えますが。
    ネット辞書程度だと、氣温の由来はここの倭人条みたいな説明がされてて、ほんとに昔から氣温で今の気温って使われ方されてたのか疑問も残ります。
    なので、氣温文章よりも、当時の丹土の使われ方を想定して、顔体に丹装飾をしていたとの記述→豊富に手に入る→丹土表現がより正しいと主張したいですね。

    それから野菜をただ生で食べてたのではなく、茹でてお浸し、見た目が生って事なのかな。
    私は氷点下の冬でも、葱大根辣韮なんかは生で食べてるから、どちらでもいいですけどね。

  604. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/23(金) 22:35:53

    邪馬台国が畿内ならますます倭と日本は違う

  605. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 00:32:20

    纒向遺跡から宮殿は発見されていない
    邪馬台国ではないがヤマト王権と関係はある

  606. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 02:32:00

    >569
    何だこれwwwww
    負け犬の遠吠えやん
    ワロタ

    知識の乏しいオレ様が作った妄想こそ真実だと言いたいんか?
    教科書は間違ってる、考古学なんかどうでもいい、都合の悪い文献史料は全部無視
    自分が正しいとひとりで思ってればいい

  607. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 07:46:15

    九州は奴国から邪馬台国までが1つの流れ
    日本は纒向遺跡から現代までが1つの流れ
    天皇家は日向から現在の象徴までが1つの流れ
    熊本は狗奴国から熊襲までが1つの流れ
    出雲は国譲りまでが1つの流れ
    北海道は縄文文化から明治までが1つの流れ
    沖縄は石器時代から廃藩置県までが1つの流れ
    これらが合流したのが今の日本
    本流は日向の大王家としつつも様々な多民族国家と言えよう

  608. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 07:54:55

    出雲は銅鐸や銅剣が超大量に発見されてるから
    畿内や九州を凌ぐ勢力を持っていた可能性が有る

    しかし記紀にそのことは書いてない
    出雲タケルが負けたと書いてあるだけ

    有名な大国主の国譲りは神武天皇の前のお話なので神話
    大和朝廷とは無関係
    これ重要

  609. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 07:59:51

    日本の古代は
    ヤマト王朝の他に少なくとも出雲王朝と熊襲王朝が有った
    これは否定できない
    これら王朝はヤマトタケルが正面からぶつかったら負ける相手だった
    だから策を弄したのだろう

  610. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 09:55:40

    大和朝廷は中国に昔から朝貢していた倭を騙ってその権威で持って出雲を手に入れた

  611. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 10:49:58

    600-602
    お前はいつも「発狂丸出しの罵声」と「自分の妄想」ばっかりだからダメなんだよ。
    もっと根拠をちゃんと書かないと誰にも支持されないよ。
    まあそんなものがあったら、九州説が学会で主流になってるだろうから土台無理な話だったなwスマンスマン

  612. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 11:02:27

    611
    敬語氏の親衛隊かな?
    彼は原文すら読まずネット知識だけだから注意したほうがいいよ

  613. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 11:17:47

    612
    おまえいつも論破されてるじゃんw

  614. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 11:28:37

    邪馬台国の頃ならいろんな国があって
    まだ緩やかな連合とかぐらいだからこういう話もあり得るけど、
    隋や唐の時代でこういうのはただのトンデモ

  615. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 11:35:44

    倭と日本は別だったとの結論に納得しました

  616. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 12:24:53

    315さん
    邪馬壹(ヤマイ)国

    母音の連続は古日本語としてあり得ない名称ではないですか?

  617. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 15:25:55

    もう569の優勝でいいよ

  618. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 16:37:12

    >607
    >日本は纒向遺跡から現代までが1つの流れ
    日本は、天武持統朝の造語だから、日本が纏向からというのは無理がある
    天武持統朝あるいはその前の天智朝から律令国家を目指していて、明治憲法ができるまで日本は「律令国家」だから、そこは一つの流れでよいけど。

    纏向より前の畿内の動きも確認してほしい。

  619. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 16:39:17

    >315,616
    九州説の人に訊きたいんだけど、邪馬壹国を九州の八女に当てる場合「壹(い)」はどこから来るの?

  620. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 16:48:32

    >609
    >日本の古代は
    >ヤマト王朝の他に少なくとも出雲王朝と熊襲王朝が有った

    出雲は西谷墳墓群など、巨大な権力の存在を確認できる遺跡がありますが、熊襲に関しては記紀のヤマトタケルと景行天皇の征西記事くらいしかありません。
    それと、何をもって「王朝」とするのかは簡単には答えられないものだと思います。吉備や丹波に有力な豪族があったことは、問題なく認められると思いますが、それを「王朝」と呼ぶ人は多くありません。
    初期古墳で、大型古墳を築造できた地域には、一定の勢力があったとみなしてよいと思いますが、吉備や丹波と比べても、熊襲の地域には有力な古墳はありません。

  621. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 17:42:20

    ※59
    環壕集落は村って言うより城に近い
    溝を掘って土を盛り上げ城壁の役割を持たせる
    環壕が無いってことは政治的に安定した証拠
    巻向遺跡は天皇の館だろうが3世紀中頃には周辺を平定していたと考えられる

    倭国大乱で選ばれたのが卑弥呼
    卑弥呼の晩年も戦争状態だった、卑弥呼が死んで更に争った
    よって邪馬台国の都は2世紀中〜3世紀中は戦争真っ最中
    中国に助けを求めるほどだった
    邪馬台国なら環壕を深くすることはあっても
    環壕なしの館を新設とか無理だ

  622. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 17:50:16

    ※620
    日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった
    宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある

    >現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、
    >他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。

  623. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 18:05:30

    >608
    大国主の記事としては、国譲りが有名ですが、奥さんの須世理毘売の嫉妬がきついので、大和に行こうとする場面があります。

    自出雲將上坐倭國
    出雲より将に倭(やまと)の国に上り坐さむとして

    まあ、古事記の上巻は神話ですから、史実ではないのですが、出雲と倭(やまと)がつながりがあるという描写は面白いと思います。
    この古事記でいう倭国=やまとの国、つまり大和朝廷の生まれた場所が日本だというのはあまり意味がないのではないかと。日本の文献で、古事記や日本書紀より古いものはありませんし、そこでは日本と倭が別だ、などということは書かれていません。風土記は、あまり残っているものもありませんが、そこにも日本と倭が別と書いてあるものはありません。

    367で
    >日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記している
    と書いてた人が今もここにいるかどうかは知りませんが、「日本の文献で日本と倭を別と記している」ものなんてありませんよ。

  624. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 23:46:14

    >607
    北海道と沖縄を舐めすぎだ。何一つ調べてないだろ。
    沖縄には日本の影響が古くからあるし、北海道に至ってはアイヌと呼ばれる人達が入ってきたのは日本が成立した後だ。アイヌ伝説にも倭人に近い風習の先住民が居たってのがあるんだよ、そして多分そいつら先住民も、縄文土器作り始めた北海道とは異なってる。

  625. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 23:48:57

    万葉仮名自体が後の日本に連なる勢力だけの表示方法
    奴国や邪馬台国なんかの文字を残す前の勢力の文献が残ってなくて当たり前

    以前の書き込みの人の考えは知らんが、現存している日本の文献は現在の日本である天皇家だけなんだから日本と違う倭の歴史が中国の正史のみで伝わっても不思議じゃない

    古事記や日本書紀に中国側の邪馬台国と同じ描写がないから正史は嘘で倭(奴国と邪馬台国)と日本(天皇家)は一緒とか乱暴過ぎる

    そんな遺跡や遺構や出土品や国外の文献を無視した考えが学会の主流だとしたら何万年経っても日本の学問に発展はない

    奴国や邪馬台国が自分達で記した文献と古事記と日本書紀の記述が一致して初めて「日本と倭は同じと日本の文献に記されている」といえる
    現状は天皇家の神話のみ伝わってるのだから日本側の文献の証拠はないというべき

  626. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/24(土) 23:50:57

    ※621は
    ※596へのレス

    ※623
    大国主は妻が6人、子が180人
    別名を10以上持つ日本神話で最も重要な神
    天皇は大国主から国を譲られたことを王朝の正当性にしている
    出雲の豪族では有り得ない待遇

    卑弥呼の時代の分裂王朝の前に
    超古代統一王朝が存在したと記紀は語っている

  627. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:03:27

    毎度思うのだけど、倭(やまと)って何なの?
    倭(わ)じゃないの?
    遣隋使で大和が「初めて」遣使した。大和が倭であると名乗るも疑われている。大和が倭であると歴史書を編纂したが矛盾が出ていてお粗末、倭の歴史を知らない。
    こんな状況なら、倭(わ)と読めば、自出雲將上坐倭國、←東の狗奴国時代の話かな?とか、読めるんじゃないの?細かい時代とか知らんけど。
    適当言うと、大倭からが大和かもしれないね。

  628. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:04:33

    ※626続き
    つまり縄文の常識が変わる
    縄文時代に日本に統一王朝があった可能性がある
    当時アムール川から沖縄まで交流があった
    つまり貿易していた

    この国名が「わ」かもしれん
    日本で「神無月」が出雲では「神有月」
    大黒様(大国主)信仰は日本中にある
    狩猟民族が国を作れないと言うならモンゴル帝国は有り得ない

    まあ
    これまでの常識はたぶん間違っている

  629. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:29:47

    北海道には弥生文化なかったから天皇家の統治とは関係ないな

  630. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:31:34

    >628
    縄文時代は長いよ。大雑把に数千年で色々変わる。
    石器の形状で日本を分けてみたり、交易品の広がりでもある程度繋がりが見えるけど、少なくとも5つ以上に分かれてる事がほとんどで、文化の広まりなんかも東西で違いがあったりするし、日本海側太平洋側でも違ってるように見える。
    それと、8~7000年前頃に、日本は一旦崩壊してるかもしんない。
    その後倭人などが入り込み、東の生き残りと混ざって日本人って流れじゃないかなー。
    弥生人とか渡来人は、誤解や誇大広告で、縄文のうちに日本人ができてた可能性が高まっている。

  631. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:46:18

    環濠集落を見ると畿内は渡来人に入れ替わってる
    縄文の遺跡が急に途切れて高地性環濠集落ができたと思ったらそれがなくなり低地に新しく集落ができてる
    纒向遺跡は最後の渡来人の襲撃もしくは移住により築かれた
    畿内は2回に分けて渡来系弥生人が来たことが学者の常識となっている
    この渡来人の子孫が記紀を作った日本人である
    すなわち初期の渡来人である倭人や出雲や諏訪湖の縄文系日本人とは別なのである

  632. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 00:54:41

    >631
    という事にして乗っ取るニダー、まで読めた。
    纏向って縄文の頃からあって、一気に大きくなったんだよね。
    他の奈良遺跡も弥生時代から続いてるそうだし。
    食糧増産で増えました、交易都市として増えました、戦乱避けた難民が入りました、この辺りで説明する気はないのかね。

  633. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 02:26:59

    ※574
    アスペなのかもしれないが、忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    認証された文献(あらかじめ決められたテスト範囲)の既存の解釈という固定された狭い盤上で
    まるで詰将棋でもやっているつもりなのかもしれない。
    誰かの(勝者の)思惑で歪められた史料を盲信することによって
    知らないうちに偏った(誤った)結論に誘導されているかもしれないなどとは
    想像だにしていないのだろう。

    勝ち負けとか(かりそめの)正しさの追求をやりたいなら、
    何度も言うけど、ここじゃないだろ。どっか別のところへ行きな。
    このブログのコメント欄に出没したいんだったら
    どうでもいいけど、面白いこと書いてみろよ。目新しいこと書いてみろよ。
    聞いたことない話をしてみろよ。今現在の定説に反していてもいいからさ。
    できないだろ?w
    できないんだったら、お前はここのコメ欄では下なんだからもっと謙虚にしてなきゃだめだろ。

  634. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 03:17:25

    >625
    >そんな遺跡や遺構や出土品や国外の文献を無視した考えが学会の主流だとしたら

    嘘八百デタラメやめろ
    学会の主流である畿内説が考古資料や文献をどう無視してるのか具体的に示せ
    倭と日本が別というのは旧唐書に書かれた2つの説の片方に過ぎない

  635. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 06:07:21

    魏志倭人伝に表記された水行〇日、陸行〇日の移動速度はどれぐらいに考えられてるんだろ?
    時速何キロで1日当たり何キロ、その結果邪馬台国はこの辺りと考える、って具合に教えてくれないかな
    できれば近畿説、九州説の両方に

  636. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 06:18:23

    5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
    6.一見関係ありそうで関係ない話を始める
    9.自分の見解を述べずに人格批判をする
    11.レッテル貼りをする
    12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
    14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる

  637. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 06:53:15

    >635
    隋書にある倭国の地理についての記述で東西五月行、南北三月行が目安
    つまり聖徳太子の時代の倭国の版図は東は関東、西は九州までだから
    2ヶ月の行程は北部九州から奈良までで丁度いい
    もう一つは師行日三十里という中国の文献の記述も参考になる
    だいたい1日で13km
    もちろんこんなのは目安で、魏志倭人伝の行程記事は信憑性が低いことがわかっているのであくまで参考程度
    メインは考古学的アプローチで畿内だと結論付けた
    詳細は複雑すぎるのでここでは省略

  638. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 07:53:26

    邪馬台国がどこにあるかは置いといて、ここまで邪馬台国とヤマト王権が違うなら別種というのがコメ欄読んで分かること

  639. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:02:40

    纒向遺跡が邪馬台国だとする考古学的アプローチは実はその遺跡の広さでしかない
    しかし発掘によって邪馬台国時代の纒向遺跡の範囲はほぼ特定され狭いことが判明した
    纒向遺跡が日本の首都となるは4世紀以降であり、邪馬台国とヤマト王権を結び付けない限り、邪馬台国畿内説は成り立たなくなってしまった
    これが世に言う考古学的アプローチの正体である

  640. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:03:58

    637
    短里説しか根拠ないのがよく分かる

  641. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:05:47

    ※637
    複雑?
    書けないの間違いだろw

  642. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:07:12

    >637
    中国には1舎という1日に進む単位がきちんとある
    もちろん三国志の時代にもある
    魏も使ってる

  643. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:10:06

    ≫637
    貴方様の頭の中の考えと倭と日本が別種との事実とは何か関係があるのでしょうか?
    聖徳太子の時代の日本の版図と魏志倭人伝の倭国の版図にどのような意味があるのでしょうか?

  644. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 08:16:25

    なんでこっちにまで粘着して、邪馬台国は畿内って連呼してるんだろうな。
    某国史観が覆されると困るから、議論妨害してんのかな。

    畿内説九州説の記事では、畿内ではないってほぼ結論出てたように見えるが、あっちだと嘘がばれるから、こっちで連呼してんのかな。
    考古学アプローチを否定されたはずなのにな。

    5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
    6.一見関係ありそうで関係ない話を始める
    12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す

    これって何の注意書きだっけ?

  645. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:01:07

    >639
    畿内説を理解してないならトンチンカンなイチャモンはやめろ
    レスのしようがない

    >643
    隋書に倭人には距離を表す里のような単位がなく日数で表していると書かれている
    関東から九州まで5ヶ月かかるのが倭人の距離感だということ
    もちろんこの距離感は3世紀だろうと7世紀だろうと変わるはずがない
    3世紀の段階ですでに中国人の認識する倭とは西日本全体を含んでいるので
    倭と日本が別勢力ということはない
    倭から日本に国名変更したという通説どおりの見解

  646. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:34:32

    列島の広さは変わらんが王朝は変わるがな

  647. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:41:29

    ※645
    >メインは考古学的アプローチで畿内だと結論付けた
    詳細は複雑すぎるのでここでは省略
    に対する批判に対して
    >トンチンカンなイチャモンはやめろ
    >レスのしようがない
    では君以外の全員が呆れてるよ

  648. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:44:45

    645を要約すると
    聖徳太子は5ヶ月歩いた範囲を支配した
    邪馬台国は3ヶ月の範囲を支配した
    故に倭国=日本

    これで納得する人いるの?

  649. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:49:11

    >637
    >>2ヶ月の行程は北部九州から奈良までで「丁度いい」
    >>魏志倭人伝の行程記事は「信憑性が低い」ことがわかっている
    「」は引用者

    単に畿内と決めつけて都合のいい逆算しただけなのでNG

  650. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:56:45

    632
    弥生人も倭人
    弥生人は朝鮮人ではない
    もちろん縄文人とは違う

  651. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 09:58:06

    魏史高句麗伝でも「短里」が使われている
    東夷伝の距離は全て短里で書かれている

    常人なら東と南を間違えることは有り得ない
    魏志倭人伝は距離も方角も正しい
    これが理解する第一歩

    魏史では九州上陸後「南」に行ってるが
    随書では九州上陸後「東」に行ってる
    これが史実

  652. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 10:05:50

    魏志高句麗伝
    >高句麗は遼東の東千里にある。南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接している。
    >丸都山のふもとに都をおく。広さは二千里四方、戸数は三万。

    中国人が遼東半島の距離を理解してなかったという説はありえる?

  653. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 12:34:31

    ※650
    縄文人と弥生人が違うとされていたのは、旧来やり方である骨格のみでの判断。
    最近のDNAの調査では、縄文人と弥生人、現日本人のDNAの差異はほとんどなく、食生活が変わったため骨格、体つきが変わったのではないかと言われている。

    江戸時代の日本人と平成の日本人を後世、骨だけで見比べると同じ人種だと思えないほど違っているのと同じ。

  654. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:01:45

    歯の遺伝子は違うけど同じなの?

  655. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:03:41

    ていうかさ、初期大和王権を「日本」と呼ぶ理由がないっていう単純なことをどうして分からないかな

    九州説の最後の拠り所、「日本と倭国は別、倭国を邪馬台国に当てればワンチャンいける」だけの理由で、よくもまあ引っ張れるもんだ

    「日本の文献でも別なのは明らか」ってコメ100個分くらいは引っ張ってたけど、やっと625で諦めた

    で、また短里説を持ち出してきている

  656. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:09:11

    >633
    あなたがここで一番迷惑な人ですよ。

    >忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    という言い回しで、根拠もないことを「忖度という高度な作業」のふりをする。
    でも、根拠のないことは相手にされないんですよ。

    >面白いこと書いてみろよ。目新しいこと書いてみろよ。
    >聞いたことない話をしてみろよ。今現在の定説に反していてもいいからさ。
    この部分、、要はご自分の説いている内容が「トンデモ」だって言っているだけですよね?

    >勝ち負けとか(かりそめの)正しさの追求をやりたいなら、
    といいながら、最後は
    >お前はここのコメ欄では下なんだから
    と、ゆがんだ儒教的な上下関係に落とし込んでマウンティングしようとする。
    日本で普通の教育を受けた人の価値観から外れてますよ。

  657. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:15:41

    >627
    >毎度思うのだけど、倭(やまと)って何なの?
    日本の史書、古事記や日本書紀では倭と書いてヤマトと読ませているんですよ。
    古事記では、万葉仮名的な読みの指定がいろんなところにありますから、それでヤマトと読むのは明らかです。
    日本書紀でも大体、倭でヤマトと読ませていますが、天皇名などでは日本と書いてヤマトと読ませています。

    だから、「日本の文献で倭と日本が別なのは明らか」というのは、「明らかな間違い」あるいは分かって書いているなら「明らかなウソ」です。

  658. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:28:59

    >622
    >日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった
    >宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある

    通常、熊襲は「球磨川流域の熊」と「大隅国曽於郡」を合わせた地域とするのが通説で、宮崎に熊襲の本拠地があったとは読めない
    宮崎の西都あたりは、景行天皇の征西記事でも日向高屋宮を置いて、熊襲征伐の拠点にしたところだ
    西都原古墳群は、長く古墳の築造が続く古墳群だが、最大の古墳は古墳時代中期の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳で、古墳時代初期にはそれほど大きな古墳はない

  659. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:32:28

    古事記は国内向け、日本書紀が国外向けに編纂したことは誰もが知っていること
    古事記では倭と記しあたかもずっと続いていると錯覚させ国内での正統性を高め、日本書紀に倭と日本は別と記すことで正史と同じにした
    倭と日本が別だからこそ古事記と日本書紀は別にしなければならなかった

  660. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:47:29

    万葉仮名の倭が何を表すか論争じゃくて魏志倭人伝の倭と旧唐書以降の日本は別じゃないか論争でしょ
    奴国&邪馬台国の倭と大王家支配の日本は別
    記紀は天皇家の神話を万葉仮名で書いた傑作なんだからその文字や歌の美しさはこの論争とは無関係

  661. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:52:36

    記紀を読めば所々天皇家とは別の倭を平定したとか倭とされていた地域を征服したとか出てくるから別なのは分かるよね
    唐の時代まで出雲と熊襲が独立していればもっと古代は分かったのに残念だ

  662. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:53:32

    ※644
    9回2アウトランナーなし10点で畿内説にリードされてる状況で

    「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
    「つまり同点だ」←は?

    これが九州説。

    実際には畿内説で(ほぼ)確定。

  663. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:55:08

    >626
    >出雲の豪族では有り得ない待遇
    これは私の個人的な考えで、通説ではないのですが、出雲の古事記における厚遇は、神武天皇以下の皇統の母系が、出雲だとされているからだと考えています。

    古事記では、
    原初の神が、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ですが、のちの神話では、高御産巣日神が高天原系(天孫系)、神産巣日神が出雲系(地祇系)として描かれます。国産みのイザナギが高天原系、イザナミが出雲系、三貴子の天照大神が高天原系、素戔男尊が出雲系、月夜見尊がおまけ、と常に、天孫系(高天原系)と地祇系(出雲系)がペアで描かれています。
    そして、神武天皇の皇后の富登多多良伊須須岐比売は出雲の神・大物主(大国主と同体の神)の娘で、ここで、天孫系と地祇系の血統が合わさって、皇統が始まることになります。
    もともと、日本では父系・母系がともに重要視されていたのだと思います

    それが、日本書紀になると、男系をより重視するようになる分、出雲の扱いが小さくなっているのだと思います。

  664. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:55:59

    ※659
    記紀の記述の何のこと言ってるの?具体的にどーぞ

  665. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 13:57:57

    倭の初代王 卑弥呼女王 3世紀
    初代天皇 神武天皇 紀元前660年
    明らかに別だろ

  666. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:01:08

    >630
    >8~7000年前頃に、日本は一旦崩壊してるかもしんない
    この頃(7300年前)に、九州南部のカルデラ火山(鬼界海底カルデラ)が、破局噴火してるんですよね
    九州はもとより、西日本くらいの範囲が壊滅したとも言われていますから、それまでの文化的なつながりとかは、完全に崩壊したでしょうね

  667. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:06:57

    ※661
    四道将軍やヤマトタケルの前まではそうだけど、それ以後はもう併合されてる。
    日本が初めて登場した頃には完全に倭しか残ってないんだから倭=日本。
    唯一の根拠は唐書のごく一部だけだけど、その唐書だって最終的には倭=日本と認めてるんだから諦めれアホw

  668. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:11:50

    665
    卑弥呼=14代仲哀天皇妃・神功皇后

    明らかに同じ王朝

  669. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:19:44

    654
    歯の遺伝子って何だよ

    形状である程度傾向があるというだけだし、それは硬いものを食べるか柔らかいものを食べるかで適応して変化しただけの典型的なやつ

  670. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:31:40

    >653
    >最近のDNAの調査では、縄文人と弥生人、現日本人のDNAの差異はほとんどなく

    それソースは?
    まさか長浜とかいうド素人の書いた本ではないだろうな?
    ちゃんとした学者の書いた本や研究結果ではいずれも明確に差があると結論づけているんだが
    長浜いうやつは素人だから自分で調査はしないで基本的に専門書から引用して本を書いている
    その詐欺のやりかたは学者が書いた本を部分引用して結論を逆にするといやり方だ

  671. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:35:58

    >659
    >古事記では倭と記しあたかもずっと続いていると錯覚させ国内での正統性を高め、
    いやずっと、倭が続いてるのが史実なのですが

    >日本書紀に倭と日本は別と記すことで正史と同じにした
    日本書紀、読んでください。同じ場所に倭と日本が同居してますよ。
    今の時代は、日本書紀でも古事記でも、全文検索できますから、日本書紀で日本がどこでどのように使われているかは素人でも簡単に確認できます。
    そして、あなたの言う正史というのは、旧唐書を指すのでしょうが、日本書紀が養老4年(720年)の完成、旧唐書の成立が945年です。
    何にどう合わせようとしたのか意味不明ですよね? 時系列を無視するからこうなるんです。

    >倭と日本が別だからこそ古事記と日本書紀は別にしなければならなかった
    日本書紀を読んでも、日本書紀に書かれている倭と日本は同じ場所ですよ。むしろ倭を狭義の大和国(奈良県)程度に使っていることの方が多いです。

  672. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:36:22

    ※647
    前スレでボコボコにされたのを無かったことにして偉そうな顔してるお前が呆れられてるぞw

  673. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:39:20

    >661
    >記紀を読めば所々天皇家とは別の倭を平定したとか倭とされていた地域を征服したとか出てくるから別なのは分かるよね

    一箇所でよいので、具体的に「天皇家とは別の倭を平定した」ところとか、「倭とされていた地域を征服した」という記事を、古事記なり日本書紀なりで指摘してもらえますか?
    熊襲は熊襲で、倭国とも倭とも書かれてないですよね?

  674. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:52:36

    669により653が適当に書いたガセだと分かる

  675. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 14:55:37

    ※668
    卑弥呼には夫も子供もおらんのじゃ…

  676. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:02:30

    ※76の考え方が一番矛盾がない

  677. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:07:36

    歯の遺伝子で思い出したけど
    弥生人の起源とされるモンゴル人は
    ほとんどが鉗子状かみ合わせだぞ

    なぜかというと
    歯で革とかなめしているし硬い食べ物が多いからwww
    咬み合わせは遺伝より食生活で決まる
    硬いものを食うと顎も広がるしな

  678. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:11:18

    >648>649
    こっちの言うことを歪曲するな
    まず考古学的アプローチで奈良だという結論になった
    次にその奈良は北部九州から2ヶ月の距離で倭人の距離感でちょうどいいということ
    信憑性の低い記述なんだから参考程度だ

  679. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:18:23

    文献と遺跡により邪馬台国とヤマト王権を結ぶものがないと分かりました
    このスレは勉強になりますね

  680. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:27:45

    発掘調査の結果、第1古墳群は3世紀の末から4世紀にかけて1号墳→72号墳→13号墳→35号墳→46号墳の順で前方後円墳が作られたと思われます。
    大正時代に72号墳、13号墳、35号墳の発掘調査が行われ、銅鏡や剣、勾玉などが出土しました。

    天皇家はここの出身だと思う
    前方後円墳も3世紀末からあるし、三種の神器もあるし。
    ここが邪馬台国なら同種だし、ここが邪馬台国でないなら別種だと思う

  681. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 15:52:11

    ※658
    古事記によれば九州には「筑紫国、豊国、肥国、熊襲国」の4つの国があった
    日本書紀にこの記述はない

    現代では熊襲国が消えているが他の3国は残っている
    「筑紫国、豊国、肥国」以外の地域は「宮崎と鹿児島」である

    景行天皇の西征では
    九州に入って大分に陣を敷いた→ 土蜘蛛から攻撃を受けた
    宮崎に入り陣を敷いた→     熊襲を滅ぼした(4〜6年掛かり)
    宮崎を地名を日向と改めた→   宮崎の元々の地名が「?」

    『先代旧事本記』では、九州に「筑紫国、豊国、肥国、日向国」があると書いてある
    熊襲国が日向国に変わったのが明白
    クマソは地名すら消されたんだよ

  682. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 16:04:15

    日向が神武天皇の出身地(兄が筑紫にいるので婿に来たという説もある)
    その日向は元は熊襲国だった
    つまり大和朝廷は本家筋を滅ぼすことで名実ともに日本の支配者となれた

  683. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 17:37:50

    倭と日本は別という資料は揃っているんだなと感じた

  684. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 18:23:41

    >637
    師行日三十里て、行軍速度と、下賜品持った文官が卑弥呼時代の陸路を進む速度が同じわけないだろ。
    そもそも30日は、倭人の自主申告単位ではないのか、里数にできない水行陸行30日なんだから。
    梁書では
    又南黒齒國裸國 去倭四千餘里船行可一年至 又西南萬里有海人~~
    四千里が倭人の船行一年って話になってる、30日で300~400里、30km~160kmくらい。あんまりあてにならない記述ではあるけど。

    気になったんで古事記原文探してたら、
    >『古事記』は、日本最古の本。原本は失われ、最古の写本は、660年後に写されたものです。
    >その写本にもフリガナはつけられていませんでした。
    古事記に読みはなく、書き下し文や読みをつけようとするも、卑弥呼から1000年過ぎた南北朝当時、すでに発音がわからなくなっていた。
    さらに400年後の本居宣長が、無理矢理作った読みが聖典になってるようだけど、国名は全てヤマト読みとか雑すぎだろうと。

    例えば、倭建、これをヤマトタケルと読むより、ワケ?、とそのまま見たら、金字鉄剣の、ヲワケ、の事かな?とか素直に読めないものか。

  685. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 18:24:46

    >680
    >天皇家はここの出身だと思う
    前方後円墳も3世紀末からある

    何を寝ぼけたこと言ってるんだ?
    ヤマト王権は2世紀末あるいは3世紀初頭に纒向で誕生した
    前方後円墳のルーツは大和で纒向型なら3世紀初頭からある

  686. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 18:53:56

    記紀に倭国大乱に当たるような記述はない
    倭と日本は別物
    ちなみに畿内にも倭国大乱の跡はない
    神話だと言われる記紀だがある年代までは畿内だけの物語だと考えられば結構遺跡や遺構の裏付けがある
    無理やり邪馬台国と結びつけなければいいだけ

  687. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 19:15:37

    >681
    書いていることが不正確ですね。
    原文ではこう書いてあります。

    古事記
    次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、
     故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別ー自久至泥、以音、
     熊曾國謂建日別ー曾字以音。

    先代舊事本紀
    次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
     筑紫國謂-白日別,豐國謂-豐日別,肥國謂-速日別,日向國謂-豐久士比泥別.
    次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.

    古事記では肥国に日向が入っています。
    旧事本紀では肥国の名前が間違っていて、肥国の名前に入っていた日向を独立させてそこに肥国の名前を当ててしまっていますが、熊襲国ー健日別はちゃんと書いてあります。日向を独立させてしまった分、熊襲が佐渡のこととか訳の分からないことになっていますが。

    旧事本紀が単に偽書であるとする説には私は与しませんが、かなりの部分が古事記や日本書紀のコピペで、しかも多くの部分が劣化コピーであるのは否めません。

    日本書紀は単純に
    次生筑紫洲
    だけです。

    681はもっともらしいことが書いてあって、原文を知らない人はだまされるかもしれませんが、日向は熊襲国には入っていません。肥国の中です。日向の西都周辺が熊襲の本拠地であるという根拠はありません。

  688. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 19:47:34

    平安時代の女性の名前の読み方ですらわからないんだからしょうがないね

  689. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 19:49:21

    >684
    倭の読みを指定しているところは見つけられませんでしたが、
    日本書紀 の本文の「日本」の初出のところに
    廼生大日本「日本、此云耶麻騰。下皆效此」とあって、
    「日本、これを耶麻騰と云う。以下みなこれにならう」です。明らかにヤマトです。
    そして古事記の倭建命と、日本書紀の日本武尊が同一人物であるのは間違いないです。
    古事記と日本書紀の表記は異なりますが異同を追うことで読みが分かります。
    倭をヤマトと読むのは当たり前すぎて、注を付けるまでもなかったようです。

  690. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 20:23:24

    日本書紀は神功皇后など、天皇の歴史に結びつけた齟齬が起きてる。
    それを問題にしてるのに、こういうことになってるからこうなんですって、相変わらずごり押し左翼学者って感じ。

    >687
    どこに日向なんて書いてあるの?
    直後にも出てくる建日を 建 日向 日 って分解したの? この出鱈目で解釈批判???
    日向はちゃんと何度も出てくるけど、向日は東を見るって意味じゃないの?
    熊襲の建日を東に見る(熊襲の西にある)豊久士比泥別が肥国、私にはこう読めますがね。

  691. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 21:08:35

    速日別の速日がどこから来たかというのが少し気になります。
    古事記・日本書紀の中で速日が出てくるのは、イザナミがカグツチを産んで死んだ後、イザナギがカグツチの首を切ってそこから生まれた甕速日神、熯速日神の名前と、天孫降臨のニニギの父・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、それから神武の前にヤマト入りした天孫系の饒速日、この4件です。
    これがどうして肥国の名前に入ったのかが不思議です。

  692. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 21:37:08

    >690
    建日向日の「向日」が日に向かうで 日向の語源だよ
    旧事本紀の作者がどう読んだかは知らないけど

    旧事本紀では熊襲が国名ごと消されてるっていう間違いの反省はないのかな?
    あんまり適当なことを言わないように

  693. 690 2017/06/25(日) 21:57:23

    向日を東は言い過ぎかな、太陽に向かう方向で、この場合特定の時間、場面を指していないから、
    日の昇る方角から南を通って沈む方角までが熊襲、熊襲の北にあるくらいの意味だろうか。
    肥の国が阿蘇山からの水系で、山都、高千穂辺りまでの範囲と見たら、向日方向に熊襲や日向で、収まりがいいかもしれない。

    >691
    カグツチ → 火国 → 肥国 だったりするのかな。

    >692
    建日は熊襲だと直後に書いてあるのに、建日向日が日向の語源てどういうこと?他にも日向って地名はあるのに。
    日向は沢山出てくるけど、向日は太陽に向かう方向としか使われてないんじゃないの?
    古事記の建日向日が日向なんて解釈するから、その後の説明が崩れたように見えるよ。

  694. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 22:16:57

    この話題は皇国史観とそれに属する人たち、また近畿圏とその圏内の既得権益者が絡むから、たとえ邪馬台国の金印が近畿圏外で出土したとしても絶対に彼らが折れることはないよ。
    個人的には従来は早い段階で駆逐されたと考えられていた旧人が実はその内の複数種が新人と同時代に並存してたように、この時代の日本列島にもかなり多くの地にまとまった勢力を持つ国々の王がいる地域が存在したのだと思う。
    その中には北部九州や紀伊半島の勢力のように大陸側と接触を持たなかったが故に記録に残っていない存在もあったんじゃないかな。

  695. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 22:31:35

    その例えが実現する可能性はどれくらい残ってますかね・・・

  696. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 22:33:50

    >694
    皇国史観の正体も、議論禁止にしたところで、もうばれてるのにね。

    一言で、森友籠池こそが皇国史観の正体。
    教育勅語どうこうで、天皇万歳安倍万歳と言いながら、安倍に賄賂渡したので安倍政権潰そう。
    皇国どうこうで天皇万歳と言いながら、日本を潰して支那朝鮮を解放しよう日本を乗っ取ろう。
    昭和天皇の意向も無視され、日本を潰すためにアカと手を組み全力疾走。

    侍時代が終わった途端に、日本の方向性がおかしくなったのも、全部20世紀初頭のこの入れ替えがあったせいだろう。あいつらは孫文の亡霊みたいなもんだと思ってるよ。
    明治維新の革命政府は確かに屑だったが、だからと言って外国引き込み競争=売国競争やった所で、ますます一般人は苦労するだけなのに、100年たっても売国競争で、ついに乗っ取られ。
    まさに先祖が歎いてるだろうな。

  697. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 22:52:24

    別種と考えられる文献の方が多いようだな

  698. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 23:01:18

    ※687
    それは「日向」と「日別」の違いだぞ

    筑紫國 謂 白日別
    豐國  謂 豐日別
    肥國  謂 建日向日豐久士比泥別
    熊曾國 謂 建日別

    まあ熊本が日向だと主張したいのなら止めないがw

  699. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 23:06:05

    古事記は大和朝廷に不都合なことも書いてあるから
    好き
    まあボツになって書き直しになるよなw

  700. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 23:08:08

    古事記によれば
    九州で最も重要なのが火の国
    火の国の巫女はヒミコ

  701. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 23:30:15

    ※693
    肥国の肥は明らかに蔑称
    肥の国は火の国で日の国であると思わる

    >肥國 謂 建日向日豐久士比泥別

    肥の国は「建日向」だ
    つまり日の本であり日本の古代の謎を解く鍵

    ちなみに熊本県は予算がなくて発掘ができませんwwww
    吉野ケ里を凌ぐ遺跡がいくつかあるのに放置です
    考古学の欠点は発掘しないと無意味なこと

  702. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/25(日) 23:49:34

    >699
    それが残ってる所に、良心というか、本来残したかった歴史みたいなものを感じるね。

    五柱神とか、複数の王朝が集まってできたっぽいからなぁ。
    外国向けにわかりやすく凄い統一王朝があるぞって書き直したら、それを理由に千年以上たってから皇国史観で抑圧されるとか、なんだかなぁ。差別する奴嫌い。
    筑紫城のイザナミ?女王国を、南の火の国カグツチ?クコチ?が倒してしまって、逆に東からイザナギ?討伐されてしまうとか、そんな歴史なんだろうか。

  703. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 07:10:31

    >最古の歴史書と言えるのは、712年に編纂された「古事記」と、720年の「日本書紀」しか無いのです。

    ねぇ、風土記は?

  704. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 07:19:42

    関係ないが、金田一家の三代目が、擬音・外来語を除き、本来の日本語には「ひゅ」の音
    を持つ言葉はなく、唯一の例外が「日向」だとか。

  705. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 07:25:24

    古田武彦の九州王朝説(多元国家観)の焼き直しか?

  706. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 10:04:15

    日本が倭の別種ということは九州王朝が奈良時代直前まで存在してたということ
    邪馬台国の時代に九州王朝が存在 → 九州説を唱える人が多いからまだ理解できる
    倭の五王の時代に九州王朝が存在 → かなり電波
    聖徳太子の時代に九州王朝が存在 → 会話が成り立たないレベル

  707. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 12:07:16

    倭の朝貢は何度も途絶えている
    なぜか?
    その理由はただひとつ
    朝貢できないほど国内が混乱していた

    親魏委奴国
     ↓ 内戦と王権交代(奴国→邪馬台国へ 国名が違うから自明)
    邪馬台国
     ↓ 内戦と王権交代(女王国→男王国へ トヨが負けたのだろう)
    倭の5王
     ↓ 内戦と王権交代(男王国→朝貢未体験国へ 朝貢は義務、忘れるとか有り得ない)
    大和朝廷
     無作法の限りを尽くし、やがて朝貢をやめ中国と縁を切る

  708. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 18:14:17

    >707
    >倭の朝貢は何度も途絶えている
    >なぜか?
    これはむしろ大陸側が混乱してたからじゃないかね?

    夏 商(殷) 周 春秋戦国 秦 前漢(新)後漢 魏晋南北朝 隋 唐 唐末五代十国 宋で
    後漢から三国志の頃、西晋が滅んで南北朝の間、五代十国の頃 がそれぞれ遣使が途絶えているところだよ

  709. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 19:08:34

    >690,693、698、701
    簡単なところから
    >まあ熊本が日向だと主張したいのなら止めないがw
    そうではなくて、肥国に日向も入っていて、熊本と宮崎をあわせた範囲が肥国で、そこから切り分けられて日向として独立したと考えています

    それから
    >肥國  謂 建日向日豐久士比泥別 
    の建日向日の部分ですが、692は私も考えが足りませんでした

    垂仁天皇紀の狹穗彦の乱のところに上毛野君の祖、八綱田が出てきますが、この将軍はここでの軍功により「倭日向武日向彦」八綱田 という名を賜ります
    これは日本書紀なので、この表記になっていますが、日本書紀での「武タケ」は古事記では「建タケ」となり、書紀の「彦」は記では「日子」となるものが多いので、古事記の表記に合わせると
    「倭日向建日向日子」八綱田 となるはずです 
    古事記には八綱田が出てこないのでこの表記は確認できませんが、建日で切るのではなく、建は武人を表す接頭辞的な尊称で、建日向でまとまりと見たほうがよいのかもしれません
    古事記の読みも「自久至泥、以音」と「久士比泥」別が語としての塊であることを示していますし
    ただ「日豊」がうまく読めないのが、どうしようもないところですが

    あと、余談ですが国産みの少し先のところで、吉備兒嶋に建日方別という名前が付けられています
    これが熊曾國の建日別と関係があるのかないのかは分かりません

    もともと、この話は681が
    >『先代旧事本記』では、九州に「筑紫国、豊国、肥国、日向国」があると書いてある
    >熊襲国が日向国に変わったのが明白
    >クマソは地名すら消されたんだよ
    と言っていたのが大間違いで、先代舊事本紀にも
    次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
     筑紫國謂-白日別,豐國謂-豐日別,肥國謂-速日別,日向國謂-豐久士比泥別.
    次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.
    と書かれていることを確認してもらえれば、それで結構です
    場所が間違っているだけで、熊襲国は消されていません
    また、先代舊事本紀を根拠にするなら、熊襲は佐渡になります

    熊襲は、普通は熊本から鹿児島の範囲で、日向の西都辺りに本拠地はないというのがもともと話題でした

  710. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 21:15:15

    ※708
    倭の5王が朝貢したのは中国が分裂していた南北朝時代
    奴国からの朝貢は後漢が健在なのに途絶えている
    卑弥呼の朝貢は短期間だけ
    晋が健在なのに倭の女王から朝貢が途絶えた

    夏    BC1900-BC1600
    殷    BC1600-BC1046
    周    BC1046-BC256 周代に朝貢の記録あり
    春秋戦国 
    秦    BC778-BC206
    前漢(新)BC206-AC8
    後漢   AC25-220   57年 倭奴国朝貢(後漢滅亡まで160年の空白)
    魏    220-265   238年 卑弥呼朝貢
    西晋   265-316   266年 倭の女王朝貢(トヨ?)で途絶える
    東晋   317-420
    南北朝  439-589   413-502年 倭の5王朝貢
    隋    581-618   600年タリシヒコ朝貢
    唐    618-907   ご存知遣唐使

    これらから中国の情勢は関係ないように見える

  711. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/26(月) 22:05:22

    ※709
    すまん
    情報源が不確かだった

    古事記の「筑紫・豊・肥・熊襲」と
    現代の「筑紫・豊・肥・日向」に改めさせてもらいたい

  712. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 00:20:23

    寺沢氏は、定型的な前方後円墳への過程により初期ヤマト王権の権力母体は、弥生時代の大和・畿内の勢力を基盤にしたものではなく、したがって、いわゆる「邪馬台国」でもないと説明している。
    従来のような大和中心主義からではなく、むしろ鍵を握ったのは「キビ国連合とその息のかかった中・東部の瀬戸内地域」であったとして弥生時代終末期から古墳時代初期の研究に新視点を提供したのである。

    有名な先生も別種説だね

  713. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 00:54:34

    楯築遺跡の墳丘墓が纒向遺跡の古墳の源流とされている
    2世紀後半から3世紀前半に造られた
    次が石塚古墳で3世紀初頭から中頃
    続いてホケノ山古墳、3世紀中頃から後半、前方後円墳とされる

    邪馬台国を日本の源流、あるいはヤマト王権の始まりと見る人は多いが実は倭国大乱の前から吉備には日本の源流があり、正史には書かれていない畿内の連合政権がありそれが日本の源流である

    魏志倭人伝に書かれているのはあくまで北部九州だけであり奴国も伊都国も邪馬台国も日本列島の一部地域に過ぎない

    古代日本は倭だけではなく出雲を始め日本海側、吉備から大和の瀬戸内連合、伊勢東海勢力、謎の北関東王国、今も縄文の祭事が残る諏訪湖地域、長く蝦夷と呼ばれた東北地方、アイヌモシリ、琉球と様々な地域があり、最終的に天皇家が統べることとなった

  714. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 05:20:24

    >712
    寺沢氏が言ってるのは畿内に国がつくられる過程の話だろがよ
    歪曲するな

  715. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 05:27:28

    寺沢氏の見解は前方後円墳のルーツとされる円形周溝墓が奈良で見つかる前のものだから
    あの発見で見解がどう変わったかを聞いてみたいな

  716. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 09:29:32

    >711
    >現代の「筑紫・豊・肥・日向」
    現代なら「福岡、大分、佐賀、長崎、熊本、宮崎、鹿児島」ですね
    旧国名なら「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅」です
    なぜ「鹿児島」「薩摩、大隅」を省く必要があるのですか?

    普通は、肥国の「球磨」と大隅の「曽於」を合わせて、熊襲と呼ぶとするのが通説です
    また、熊は勇猛なという美称で、曽於郡のある大隅半島の辺りが狭義の熊襲国だとする人もいます

    620の「日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった 宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある」が見当違いだというのはよろしいでしょうか
    日本書紀にはそんなことは書いてありません

  717. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 12:05:09

    >710
    >後漢   AC25-220   57年 倭奴国朝貢(後漢滅亡まで160年の空白)
    AD107年の倭国王帥升の朝貢も忘れないであげて

    そして、後漢が最終的に晋の文帝に禅譲するのが220年だけど、いわゆる桓霊の間の騒乱開始が146年桓帝即位の2世紀半ばだから、帥升の朝貢から言うほど離れてない
    もともと、57年の倭奴国朝貢から107年の帥升の朝貢までだって50年空いてるんだし、そんなに一生懸命朝貢してたわけでもないんだなとも思う
    この間は、倭国大乱の前だよな

    景初2年だか3年だかの卑弥呼の遣使は、遼東の公孫氏が滅んですぐだし、倭の五王の宋への朝貢も、421年の遣使は宋の建国(420)直後なんだよね 
    案外、倭国側も大陸の情勢には疎くない感じがする

  718. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 13:01:02

    ※694
    皇国史観が無くなった隙に、パヨクが頑張って王朝交代説とか多元王朝説とかぶち上げたけど結局証拠もなく、むしろ畿内の強さを証明する物証が次々出てきてもうオワコンになっただけ。

  719. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 13:15:35

    ※675
    台与にはいた可能性がある

  720. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 13:26:19

    713
    楯築遺跡の墳丘墓は双方中円墳だから、纒向の前方後円墳とは関係無いんじゃないの

    前方後円墳の源流とされているのは、奈良の瀬田遺跡の円形周溝墓(二世紀後半)。

  721. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 20:31:24

    取りあえず真実は分からないけど、ここのコメント欄勉強になるなあ
    今日邪馬台国テレビでやるな楽しみ^^

  722. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 21:43:09

    パヨク(笑)

  723. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 21:54:25

    ※716
    >なぜ「鹿児島」「薩摩、大隅」を省く必要があるのですか?

    それは薩摩国が日向国から分離してできた国だから
    つまり当初の日向国は「宮崎県+鹿児島県」だった

    日向国の前身は熊襲国
    宮崎県+鹿児島県であれば巨大勢力
    大和朝廷が「勝てないも・・」と熊襲にビビったのも納得だ

  724. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 22:04:42

    ※717
    >AD107年の倭国王帥升の朝貢も忘れないであげて
    ごめん抜けてたw

    でも倭の5王の時代って
    思いっきり中国の激動の時代なんだよ
    宋(そう、420年 – 479年)
    倭の5王朝貢 413 – 502年

    宋の建国前に朝貢し、宋に朝貢し、宋が滅亡後も朝貢している
    朝貢が途絶えるのは倭の情勢だと思う

  725. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 22:16:20

    記紀に奴国と伊都国の記述がないから邪馬台国とヤマト王権は別でしょう

  726. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/27(火) 22:25:36

    725
    はあ?

  727. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 00:40:52

    725は記紀が500年前のことも正確に記述してるという根拠のない思い込みをしてるんでしょ

  728. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 01:10:38

    >723
    まああなたがそれで納得するのは自由だけどさ
    日本書紀にも古事記にもそんなことは書いてないけどな

    少なくとも宮崎県の西都原古墳群では、古墳時代に入ると同時に大和の纒向で始まった前方後円墳を作り始まるし、しかも初期古墳のサイズは大きくても数十メートル規模で畿内の大古墳には遠く及ばない

    そこまで大きな勢力とは思わないよ

  729. 開花神道 2017/06/28(水) 06:57:43

    邪馬台国→倭国→日本
    ってのは誤りで

    (九州)邪馬台国→倭(白村江で致命傷を負い衰退)
    (畿内)大和朝廷→日本
    ってのが正解だと思うけどね。

    明治維新で権力を握ったのが九州の人達だったから、明治期以降は九州人のルーツである「倭」が権威付けがなされ続けて来た訳だけど、実際の所は大和・日本と邪馬台国・倭国はまるっきり別物だわな。

    「邪馬」や「倭」って文字自体が良い意味を持たない訳だし、それを我が民族のルーツであるって誇る事自体が、何処か歪んでいるとは思わないかい?

  730. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 08:42:25

    >729
    そう思うのなら九州王朝が存在した証拠をせめて1つは示したらどうだ?
    何も証拠がなく言い張ってるのはただの妄想ストーリーだ

  731. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 09:26:32

    邪馬台国は卑弥呼の為に用意された都で台与の後は放棄された
    ずっと続いていた纒向遺跡とは別であり倭と日本は別物

  732. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 09:55:40

    >729
    >「邪馬」や「倭」って文字自体が良い意味を持たない訳だし
    だから、雅ならざるを厭うて、国号を日本にしたんじゃないの?(倭國自惡其名不雅 改爲日本)
    読みのヤマトはもともと大和言葉だし、大倭も大和に直したし

    民族のルーツはそのままに誇って、卑字が使われているのは中華思想ってのはしょうがねえなって思ってればいいだろ?

  733. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 10:35:07

    ※731
    そんなこと何処に書かれてるの?
    隋の時代にまで
    都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
    って書かれてるんだから諦めろw

  734. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 10:42:27

    畿内に倭国大乱の跡はないんだよな
    中国側が倭と認識してたのは畿内ではない

  735. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 10:58:25

    ※734
    テンプレ4
    九州説「大乱のあとがある!つまり九州」
    畿内説「邪馬台国大乱ではなく倭国大乱。邪馬台国のそばで起こってる必要はない」
    九州説「ぐぬぬ」

  736. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 11:05:09

    奴国に始まった倭からの朝貢がヤマト王権にはないことが倭と日本が違う王朝だという証

  737. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 11:15:28

    ※736
    『日本書紀』巻九
    神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」

  738. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 11:16:06

    ※735
    それだと
    大乱有り=倭国&邪馬台国
    大乱無し=大和朝廷(紀元前660年〜)
    故に
    倭国=邪馬台国≠大和朝廷
    だよね…。

  739. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 11:18:39

    729
    白村江を起こしたのは大和朝廷の天智天皇

    九州の地方領主が大和を飛び越えてどうやって、関東の毛野君を半島に派遣できるんだよw

  740. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 11:22:47

    ※738
    四道将軍やヤマトタケルが大乱起こしてる大和朝廷=倭国=邪馬台国

  741. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:00:25

    740
    それだとその後卑弥呼が共立されることになる
    新説だな

  742. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:11:07

    ※740
    四道将軍はヤマト王権が派遣したんだよ
    その時点でヤマト王権があるから違う

  743. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:12:10

    ※737
    三韓征伐時の朝貢の記録は中国側だとどれになるの?

  744. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:20:31

    >724
    >倭の5王朝貢 413 – 502年
    >宋の建国前に朝貢し、宋に朝貢し、宋が滅亡後も朝貢している

    たぶんここ、思い違いしてると思うよ
    中国の史書の倭の五王の遣使記事は、478年までは宋書で、
    479 南斉高帝 建元元年 武進号鎮東大将軍(南斉書)
    502 梁武帝 天監元年 武進号征東(大)将軍(梁書)
    の最後の2件は、南斉書と梁書でしかも斉と梁の初代皇帝の元年の「進号」記事
    つまり、この最後の2件は新しい王朝が、前王朝の冊封国をそのまま認めて、新王朝のご祝儀で位を上げたという記事だ
    この2件は、大陸側がある意味勝手に除正しただけで、倭からの遣使はないとするのが通説だよ

    ちなみに、倭王武は大和朝廷の雄略天皇を当てるのが通説 
    稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣の金石文から九州から関東までが、その勢力圏(支配下とはあえて言わないが)に入っていたのも確実視されてる
    当然大和朝廷が倭国の代表であり、日本ではないのも当たり前

    九州派だと、ここから否定しないといけないから大変だなと思う

  745. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:37:05

    どの正史も倭奴国だけやたら正確

  746. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 12:43:10

    「尊」爲號 居築紫城
    更以「天皇」爲號 徙治大和州

    奴国を支配した邪馬台国は九州にあり、東征して日本になったことになる
    これなら倭と日本は同じかな

  747. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:04:00

    私の勝手年代感だと倭国大乱の頃は欠史八代の頃なので、記紀ともに記録がないのは特に不審はないよ
    倭国大乱も含め、系譜以外の全ての記事がないんだからしょうがない
    卑弥呼の死後前後の死者1000人超の乱(更相誅殺當時殺千餘人)は、崇神紀の武埴安彦命の乱か、垂仁紀の狭穂彦王の乱でいいと思う
    この辺り(崇神、垂仁)は纏向に宮都を置いてるし、大王位継承の争いだし時代的にもぴったりだろう
    上で話題に出ていた四道将軍の派遣のうちの東海道の武渟川別命の仕事が、狗奴国との争いでいいんじゃないかな
    四道将軍の話は軍事的な征伐の話じゃなくて、新しく始まった前方後円墳祭祀の紹介だったんじゃないかという気もする 実際、四道将軍の派遣地から前方後円墳(前方後方墳)が広がっているし
    一方で、武渟川別命を狗奴国との争いにあてるのは、四道将軍の中でただ一人「武」の字を付されているから 書紀の「武」古事記の「建」は武人として功績のあった者への接頭辞だから

    卑弥呼に倭迹迹日百襲媛をあてれば、記紀と魏志倭人伝の解釈はそれほど齟齬なく対応付けられるよ

  748. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:10:09

    >746
    >奴国を支配した邪馬台国は九州にあり、東征して日本になったことになる
    苦労してるみたいだけど

    奴国を(畿内から)支配した邪馬台国は(×九州)ヤマトの国にあり、東征は邪馬台国の時点で過去の話で、その後ずっと倭(ヤマト)国として存続し、7世紀になって国号を日本に改めた

    これが一番素直な解釈だよ

    邪馬台国が九州で奴国の近くにあったなら、一大率なんか置かずに直接支配した方が早いだろう
    その辺も、九州説の合理的じゃないところだよな

  749. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:20:14

    朝貢は始めてと書かれている
    日本側も中国側もそこは間違いなく一致している

  750. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:21:10

    日本が倭を征服しましたと自己申告してるから俺は天皇家の記録を信じる

  751. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:30:12

    九州派の人が盛んに、記紀に邪馬台国がない、倭国大乱がない、卑弥呼がないって言うけど、まともに記載されているのは崇神天皇の頃からで、それがちょうど纏向遺跡が作られる頃で古墳時代が始まる頃

    その前は欠史八代で、系譜記事以外は載ってない
    実際、記録もあまり残っていなかったのだと思う
    だから邪馬台国も倭国大乱も卑弥呼も載っていないのもある意味当然だと思う

    欠史八代の頃の記録は「大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也」式の、なになにのミコト、どこどこの宮に坐し、天の下しらしめし時、なになにがあった的なざっくりした記録(記憶)しかなかったのだたろう

    卑弥呼に擬されることの多い倭迹迹日百襲媛も欠史八代の6人目、考霊天皇の皇女で崇神天皇紀以外の記録がほぼ残っていない 
    それでいて、一皇女でありながら陵墓造営記事がある辺り、彼女が特別な人物だったことを示しているともいえる

  752. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 13:59:21

    >746
    >「尊」爲號 居築紫城
    >更以「天皇」爲號 徙治大和州

    もうちょっときちんと引用しようや
    初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二丗、皆以尊爲號、居筑紫城。彦瀲子神武立。更以天皇爲號。徙治大和州
    アメノミナカヌシから始まって、ヒコナギサが日向三代のウガヤフキアエズで神武の父、そして神武が東征してヤマトに王朝を開いたっていう、記紀の神代の抜書きだよ
    大和朝廷の歴史を裏書してるというか、そのまま認めてるだけ

  753. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:00:29

    九州と畿内だけで何時も争うけど、その時代には明らかに巨大な国家である「出雲」「吉備」がある。
    これらはむしろ意図的に消されている気がするので消されていると言う事は前代の覇者である可能性がある。

    例えば吉備に関して言えば大和朝廷から姫が嫁ぎ明らかに吉備国に対し機嫌を取っている。畿内で当時最大規模の古墳が作られてるのと同時期にほぼ同規模の古墳も作られてるし。楯築遺跡(古墳)、造山古墳、作山古墳をどう解釈するかが問題。楯築~造山の時代はその時の最大規模である。最終的に古代吉備は国内の内乱によって大和に制圧されたとしても東征とはいったいどの程度を表しているのか。九州から畿内の場合は出雲と吉備は破れてはいない。逆にしても吉備があるうちは九州へはいけない。まあ孝霊天皇(128年も生きましたw)が平定とはあるがその場合造山の規模が年代的にうーんってなる。吉備なんてその場合神武東征と孝霊天皇に2度も平定されてるのに馬鹿でかい遺跡や古墳作れちゃってる訳で。

    神武東征の話も時期がおかしくなるしこの場合そもそも神武東征なんてなかった事になる。もしくは高島宮なんてただ滞在しただけ。戦闘なんてしていないはず。
    120年以上生きてる天皇多すぎだし日本書紀なんて途中まで70歳とかでも怪しいわ。途中から急に50も生きれずまともっぽい死に方になってるし。別の政権の王の伝説とかを後から全部名前変えて記してるだけな気がする。

  754. 752 2017/06/28(水) 14:25:53

    ちなみに吉備津神社には大吉備津彦命(孝霊天皇の子)は281歳で亡くなったとある。作られた時点から絶対的にありえない歴史が正史として書かれている訳だ。
    では同じく孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命はどうだろうか。実際には卑弥呼とは時代が事なると俺は思っているがこれも卑弥呼として成り代わった歴史に書き換えられていると考えるのが普通ではないのだろうか。ここまで神社建立などから歴史が書き換えられているのは何故なんだろうね?

    8世紀の資料によれば出雲国や近江国や紀伊国や大和国にも吉備部など「吉備」を冠する地名が西日本の広範囲に存在するのは何を意味しているのだろうかね。

  755. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:28:48

    崇神天皇の称号である『御肇國天皇』は「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これは「初めて国を治めた天皇」であり、崇神天皇が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武天皇とそれに続く八代の系譜が付け加えられた

  756. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:32:01

    埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。

  757. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:34:32

    陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、古墳時代前~中期頃に築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない

  758. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:36:54

    ※751
    違うだろ
    卑弥呼の墓を箸墓にしたり纏向遺跡を邪馬台国にするのならそれらの記述がないということがおかしいのであって
    箸墓を3世紀中ごろにもってきたいなら纏向遺跡、箸墓古墳、崇神天皇が同時代の人になるのに
    詳しい事象が記述されている崇神天皇記に一書に曰くの1つも書かれていない

  759. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:37:43

    初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城の地に比定する説が現在の主流となっている。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国であり、それが畿内に東遷したとする説である。

  760. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:39:53

    プレ大和王権説
    古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。

  761. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:40:31

    >749
    >朝貢は始めてと書かれている

    卑弥呼の遣使も梁書では
    至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼「始」遣使朝貢魏、以爲親魏王。(梁書 倭条)
    って書かれてるよ
    西暦57年の倭奴国王や、107年の帥升の朝貢が前にあるのに

  762. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:41:33

    ※751
    なおさら記述がないとおかしいだろ

  763. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:43:46

    761
    奴国とは別の国が来たって思ったんじゃない?

  764. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:44:01

    ※757
    崇神天皇なんて119年生きちゃってるし存在している訳がない。
    考古学の年代観にさほど矛盾してなく大規模な古墳があるとして、仁徳天皇なんて143歳も生きちゃってる訳です。

    古墳はある。実際に誰か物凄い権勢を誇った人物がいて眠っているのだろう。でもそれは本当に仁徳天皇なんだろうか?この時代に人が140年以上も生きれたならどんな医学なのだろう?

    仁徳天皇に代わる誰かはいたかもしれない。でもそれは天皇家ではなく別の政権の可能性がある。
    ↑これがタブーだからまともに検証できないのでは?

  765. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:55:59

    崇神天皇は常陸風土記にも初國所知美麻貴天皇とある
    四道将軍を派遣して東北以外の本州を平定した初の天皇なのではないだろうか

  766. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 14:59:17

    『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これにより318年(または258年)没と推測できる
    258年ならば邪馬台国の時代であり神功皇后が卑弥呼である可能性はなくなる

  767. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:08:40

    箸墓古墳は日本書紀、古事記』およびその原史料の帝紀、旧辞の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとされる、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来する。

  768. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:09:21

    >758
    >纏向遺跡を邪馬台国にするのならそれらの記述がないということがおかしい
    おかしいと思うのは758であって、記紀の編者は纏向がヤマト国(邪馬台国)であるのを分かっているから、殊更に書かないだけ

    卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命でいいんじゃない? 
    彼女は神婚で、人間の夫婿なく子供もいないよ
    弟が大王(考元天皇)で政治を執っている
    そして記述上はただの皇女なのに、その「陵墓」の造営記事がある
    陵は、大王の墓を意味するからね(天武即位前紀に「箸陵」とある)

    欠史八代の頃+記紀の編集方針で朝貢の記述がないだけ
    倭王武が雄略天皇のことだというのは、九州説の人以外はほぼ疑わないけど、雄略の宋への朝貢記事も記紀にないだろ?

    邪馬台国の記述って、何があれば満足するの?

  769. 開花神道 2017/06/28(水) 15:12:06

    最初は小さかった国が、後に強大化して、弱体化したかつての宗主国を飲み込むなんてのはよくある話だわな。

    >744
    否定も何も、大陸や半島に近い九州倭国が、倭の五王の時代には広大な勢力を誇っていたと言う程度の事でしょ。

    >739
    白村江の戦いを仕掛けたのは
    大和朝廷「の」天智天皇ではなくて、九州倭国の天子薩夜麻だわな。

    そもそも、高句麗や百済さえ葬り去った巨大帝国唐が、大戦の元凶とも言える様な存在をケジメもつけずに野放しにしとくなんて、普通に考えてあり得んだろ。

    それに、天智天皇の 「天智」は、殷最後の紂王が愛した「天智玉」に由来するのだろうし、天武天皇の「天武」は、「天は武王を立てて悪しき紂王を滅ぼした」に由来するものだよね。

    「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものであろうし、畿内大和朝廷・天皇天武(真人ってのも中華と言うか唐臭い)の背後には、唐の関係者(藤原氏等)が大勢居たのはほぼ間違い無いだろうね。

    唐は、大枚叩いて日本を征服支配する道よりも、倭人や日本人の自尊心を傷つける事なく政治・宗教・経済の頂点だけを抑える事で日本を裏側から支配する体制を構築したんだわな。

    ちなみに、「白紙に戻そう遣唐使」で894年の出来事が重大事とされてるのも、それだけ日本国にとって、唐を切り捨てるのが一大転機だったのだろう。

    菅原道真が最終的に藤原氏に陥れられたのも、当てつけのように太宰府に左遷させられたのも、道真自身が左遷を死ぬまでクヨクヨと嘆き続けたのも、唐と倭の歴史的な経緯があったからだよね^_^

  770. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:19:17

    768
    つまり記紀には嘘や誇張だけ書いて真実は皆が知っているからあえて書かないということか
    神武天皇も東征も四道将軍もなかったのかね?
    それとも邪馬台国だけ皆が知っているとしてピンポイントで書かないのかね?
    それでも神功皇后に少し混ぜたのかね?
    適当すぎないか?

  771. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:23:30

    大王家も卑弥呼の血族が偉大なるご先祖様ならちゃんと記述しとけよ
    せめてどこからどこまで支配しましたくらいは書けるだろう

  772. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:25:51

    卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命ならきっちり卑弥呼であったと書くと思うけどね。大陸まで響き渡る程の名前であるのに。
    少なくても6世紀以前の話は物語。例え他の風土記に2世紀とかの記述があろうがそれが既に編纂された時代が7世紀とかなわけで記述自体を疑うべきだろう。
    別の王朝がその時に書いた(中国など)ものはその時の政権が朝貢してきた人物に聞いて書いてるからある程度正しいだろう。卑弥呼や邪馬台国は日本にまともな記述がない時点で大和朝廷によって消されてると考えるべきだと思うんだがね。欠史十代までですら怪しいわ。

  773. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:26:42

    記紀の編纂者が曹魏と北魏を勘違いから神功皇后を卑弥呼にした

  774. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:33:43

    ※768
    要するに畿内だけの小さな勢力が倭の本拠地九州から来ましたという物語を作ったのが記紀の発端だというのが貴方の主張なのですね、よく分かりました

  775. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:36:08

    >768
    肝心の争いを収めて王に共立されたエピソードを省く意味はあるのですか

  776. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:38:53

    ※741
    その後神功皇后が即位する
    完全に一致してる

    ※742
    何言ってるのかよくわからん
    大和朝廷=ヤマト王権

  777. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:40:09

    倭と日本が並列されてる時期があっても不思議は無いだろ?
    一時的に半島に任倭とかがあった時代もあるんだから

  778. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:47:03

    >776
    年代間違えてるだけのようだな

  779. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:48:11

    ※743
    魏志倭人伝

    「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」

  780. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:49:03

    777
    証拠がない

  781. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:50:17

    四道将軍は大乱を起こしていない

  782. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 15:52:45

    神功皇后が卑弥呼なら卑弥呼が三韓征伐したことになる
    墓の中から朝鮮半島南部を攻撃できるとは流石天皇家一族

  783. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:03:49

    百済や新羅には何度も倭人が攻めて来て倭に朝貢した話が載ってる
    神功皇后の三韓征伐は七支刀を見ても史実として良い
    何でわざわざ時代の違う神功皇后を卑弥呼にしたんだろう
    他に適当な人物を創れば良かったのに

  784. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:04:19

    >764、766
    >崇神天皇なんて119年生きちゃってるし存在している訳がない
    >『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載している

    二個一の返事で申し訳ないが、要するに宝算(寿命)生没年の干支関係は信頼できないってことだよ

    日本書紀の暦法が、雄略から元嘉暦で書かれていてその頃から暦のついた記録が残っていたと考えられている。そして持統紀の途中から新たに伝わった新しい暦法である儀鳳暦で書かれている。ここまでは分かりやすい
    それなのに、雄略より前が新しい暦法である儀鳳暦で書かれていることが確認されている(正確には允恭・安康の頃は、二つの暦が一致するのでどちらとも言えない)
    つまり、雄略より前の暦は「儀鳳暦が伝わった持統朝以降に新たに作られた(計算された)」ものであることが確実
    となると、崇神天皇の宝算とか没年干支とかは、記紀の編者の想定で作られたものということになる
    そして神武の即位年代を古くしようとした&即位年を革命の年・辛酉に合わせたかったのは、多くの人が認めるところ
    欠史八代は神武の即位年代を古くするための架空の存在とする見解が多いが、その一方で、ただ神武の即位年代を古くするだけなら架空の天皇を量産すれば事足りるのに、そうしていないのは、各天皇(大王)の存在に関しては記紀の編者が信じるに足る伝承があったと考える者も多い(通説とはいわないが)

    ということも踏まえて、歴代の天皇の宝算・没年干支は参考程度であり、それだけで各天皇の存在は否定できないし、没年干支もそのままでは使えないというのが、大方の見方
    例えば、実在をほぼ誰も疑わない雄略天皇の宝算が、古事記では124歳になるし、古事記と日本書紀では同じ出来事の干支が一致しない。雄略天皇の没年干支が、古事記では「己巳」日本書紀では「己未」

    これを踏まえて、日本書紀の紀年を解読し、復元しようという試みを多くの人が行っていて、倉西裕子さんとか、高城修三さんとかの試算は読んでいて面白いと思う

  785. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:06:44

    邪馬台国とヤマト王権が別なことは明らか
    問題はその後邪馬台国がどうなったのか
    そもそも単独の国だったのか?
    それとも単なる都の場所の名前が邪馬台だったのか?

  786. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:10:27

    782
    神功皇后=卑弥呼+台与+α

    文字も知らなかった土人が、文字を覚えて、歴史を書き記す必要性の自覚に芽生えて、何百年前のことをボケかけたオジイやオバアに聞いて書いただけなんだから大目に見ろよ。
    どこだって最初はそんなもんだべ。

  787. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:11:57

    ※785
    別だという根拠は?

  788. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:26:02

    邪馬台国がヤマト王権であり、卑弥呼を神功皇后にした場合の問題は年代のずれではなく神功皇后が初代天皇、つまりヤマト王権の初代王になってしまう
    神武天皇も崇神天皇も神話上の人物になる
    これは記紀と矛盾する
    邪馬台国とヤマト王権が別勢力なら記紀と正史は矛盾しない

  789. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:29:02

    >神功皇后が初代天皇、つまりヤマト王権の初代王になってしまう

    why?
    論理的飛躍が凄すぎて全然ついていけない

  790. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:39:05

    >774
    >要するに畿内だけの小さな勢力が倭の本拠地九州から来ましたという物語を作ったのが記紀の発端だ
    >というのが貴方の主張なのですね

    その理解で合ってるよ
    神武の頃は畿内の一部だけの小さな勢力だった
    神武の名前はイワレビコで、磐余の王であると明記されている

    それが、760のいう「プレ大和王権説」の時代に成長して、その頃かその後に吉備(墳丘の段築成、特殊器台→円筒埴輪)や出雲(墳丘への葺き石)と協力・共立して卑弥呼を王とし、纏向遺跡を作る

    この時代が邪馬台国の頃から古墳時代に入る頃で、各地の墓制を統合した形で前方後円墳を作り、それを広める形で四道将軍が派遣され、倭国としての統合が成ることになる
    そして、纏向が成長する頃にここに宮都を置いたのが崇神天皇の時代で、ここから日本の歴史時代が始まる
    だから、その前の時代はある意味「先史時代」で、神話的なエピソード以外は残っていない

    四道将軍は、日本書紀では崇神天皇紀にまとめられているけれど、系譜的には四世代に渡っていて、古事記ではそれぞれの別々の記事になっている
    世代順に並べると
    吉備津彦-西道(吉備)
    大彦  -北陸(越)
    武渟川別-東海(狗奴国?)
    丹波道主-丹波
    開化天皇からの続柄で言うと
    吉備津彦 伯父
    大彦   兄弟
    武渟川別 甥
    丹波道主 孫 
    であり、武渟川別が崇神と同世代でいとこに当たる

    大彦と武渟川別は親子だが、記紀のとおり同時派遣でいいと思う
    そしてこの武渟川別の前方後円墳祭祀の布教に、東海が抵抗したのが狗奴国との争いであり、その後の武埴安彦の乱が卑弥呼死後の乱で問題ないと思う

  791. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 16:56:38

    ※784
    雄略天皇はほぼ疑われないと言うけれど26代からっていう人たちは疑っているはずでは?
    暦法が雄略天皇の時から変わっているからとか万葉集にも出てくるからとかでの考察ならそもそも万葉集自体が8世紀前後の書物。

    >架空の天皇を
    量産してないのはいなかったと出来るけど、雄略天皇自体が架空かもしれない。勿論それに代わる人物はいたかもしれない(まったく別の血筋で)天智、天武以前は怪しすぎる。
    古事記や日本書紀の生没年が少なくても明らかに間違えている状態で100歳以上の天皇となれば実際にはそこには3世代程度いてもおかしくない。となると実際には何十代も他の天皇がいたはずだがこれ自体は正史とされる日本書紀に書かれていないなら古事記・日本書紀自体が制作年に近いものだけ少しだけ真実を混ぜた小説である可能性が否定できない。
    即位年代を古くしようとしたとしても「いたはず」の他の天皇は脈々と受け継がれたはずの時の最高権力者なのに何十人も消されてる事になる。となれば存在自体が架空とする方がしっくり来ませんか?

    邪馬台国(邪馬壱)の話もそうだけど、これ言っちゃうとあれだけど・・・、
    事実あるもの(古墳、遺跡)の中から発見された書物ならともかく、7~8世紀に書かれた書物を真実として討論した所で答えは出ないと思うんだがね。神社などでさえ建立年を考えればその建立した時の政権が作ったストーリーの歴史を元に資料がある。何百歳生きたとか普通に書いてるのだから。
    むしろ有力な九州や畿内以外を疑うべきではないかと思う。九州や畿内ならとっくに卑弥呼の墓とか邪馬台国とかいう記載が古墳にあると思うんだけどね。権勢を誇る為に作る古墳で(灌漑ともいわれるが)はっきり明記しないとか不思議でしょうがない。良くわからない古墳や遺跡こそアタリではないかと思う。

  792. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:03:51

    つまりヤマト王権と倭は別なのですね、理解しました

  793. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:08:07

    >790
    河内・大和連合(笑)で邪馬台国というよりよっぽど説得力があるね
    倭国大乱を治めるための共立なら奴国(時代の盟主)、伊都国(国際都市)、後漢が共立を打診した方が可能性が高いのでは?
    伊都国をどこに比定しているかわからないけれど奴国や後漢に配慮もなく武力で出雲、吉備、畿内連合が治めたとは考えにくい

  794. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:25:20

    別だという根拠はいつまでたっても出てこない

  795. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:27:23

    戦国時代とかでも源氏の子孫だとか謳って違うのとかも多いし別の英雄を何百年後に実は子孫だわとか謳っている勢力が政権をとれば事実として真実を知らない人は歌に書くこともあるだろう。

    しかし吉備は神武天皇に神武東征され、崇神天皇に平定され、雄略天皇にも吉備の乱で平定され常に何故か大和に匹敵する地方有力国家政権があるね。
    実際に平定できたのは何時なのだろうか。7世紀末に備前・備中・備後、8世紀に美作と4つに分割されてるから実際にはここなのかね。

  796. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:30:15

    >793
    倭国大乱のイメージが違うんだと思う
    倭国大乱といっても、九州と畿内が大戦争をするっていうのは兵站、補給を考えたら無理だよ

    「遠交近攻」「隣国というものは一番仲が悪いのが当然」という言葉もあるように、倭国大乱は基本的に地域紛争がいろんなところで起きている、というのが正しいのだと思う
    まあ、九州で石の鏃で殺されている人がいるし、畿内から人が行っていないとは言えないけれど、九州で石の鏃が使われていないというのも証明不能だし、分からないといえば分からないけれど

    で、河内・大和連合というのは、倭国の大乱を収めたのではなく、畿内の地域紛争を収めた権力だよ
    そこに、吉備と出雲が乗れば広域連合の共立はできる

    そして、この共立の核が河内・大和連合で、邪馬台国で問題ないだろう?
    そこに無理に北部九州とか、後漢とか絡める必要はないし
    特に後漢は107年の帥升の朝貢のあと、ずっと疎遠なんだし

  797. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:31:58

    邪馬台国の時代には奴国なんてもう盟主でもなんでもないでしょ

    邪馬台国 7万戸
    投馬国 5万戸
    奴国 2万戸
    末盧国 4千戸
    一大国 1千戸
    伊都国 1千戸

  798. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 17:54:55

    ※791
    >事実あるもの(古墳、遺跡)の中から発見された書物ならともかく、7~8世紀に書かれた書物を真実として討論した所で答えは出ないと思うんだがね。神社などでさえ建立年を考えればその建立した時の政権が作ったストーリーの歴史を元に資料がある。何百歳生きたとか普通に書いてるのだから。

    >むしろ有力な九州や畿内以外を疑うべきではないかと思う。九州や畿内ならとっくに卑弥呼の墓とか邪馬台国とかいう記載が古墳にあると思うんだけどね。権勢を誇る為に作る古墳で(灌漑ともいわれるが)はっきり明記しないとか不思議でしょうがない。

    矛盾してない?
    7世紀に書かれた書物なんて真実かどうかわからない
    ↑↓
    はっきり記載されてるはずだ

  799. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 18:00:10

    テンプレ7
    九州説「邪馬台国が畿内にあれば大和朝廷がその歴史をちゃんと書いてたはずだ!だから九州」
    畿内説「文字を知らなかった連中が、なぜ口伝で何百年もの歴史を完璧に伝えることが出来てたはずだと思えるの?」
    九州説「ぐぬぬ」

  800. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 18:02:37

    >791
    >雄略天皇はほぼ疑われないと言うけれど26代からっていう人たちは疑っているはずでは?
    >天智、天武以前は怪しすぎる

    これを疑うのは、九州説の人だけだよ
    そして、九州説で倭と日本は別って言い出すと、結局倭の五王は九州王朝って話になってしまう
    769の「九州倭国の天子薩夜麻」とかね

    畿内、飛鳥の発掘から飛鳥時代の日本書紀の記述は正しいことが、明らかになってきている
    吉備池廃寺が舒明天皇の百済大寺の跡であることは確実視されているし、皇極・斉明の宮跡も確認されている
    天智・天武の前代を疑う理由は「九州説を信じる」以外にはもう無い状態だよ

  801. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 18:12:16

    >791
    >古事記や日本書紀の生没年が少なくても明らかに間違えている状態で100歳以上の天皇となれば実際にはそこには3世代程度いてもおかしくない。

    いや、普通は神武の即位・紀元前660年の方をおかしいとして、間に3世代の記録に残らない天皇を考えるんじゃなくて、神武の即位をもっと遅くするんだよ
    あと、欠史八代の父子相続も疑う人が多い 兄弟相続を考えると神武の即位はさらに遅くなる

  802. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 18:41:49

    古代は末子相続もあるから父子相続はおかしいことではない
    しかし神武天皇を昔にするために間に何人か天皇を挟んだ説は説得力がある

  803. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 19:19:28

    >802
    間に挟むんだったら、100歳超にするより人数増やしたほうが楽でしょって話

    先代舊事本紀等の古系譜の研究者は、皇統と他の豪族との世代対応がきっちり取れているため、欠史八代の実在を認め、神武から崇神まで5世代と考えるのが適当としているそうな
    崇神天皇で第10代だから途中4回の兄弟相続があったことになる
    まあ、信憑性が高い話ではないけれど、そういう研究をしている人もいるってことで

  804. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 20:14:55

    ※800
    自分は九州説ではないけれど普通に雄略天皇疑っているんだが?
    飛鳥時代が正しいというけれど勿論新しくなるにつれて真実は多くなるだろう。
    ようはこの辺りから、もっと言えば推古天皇と聖徳太子の時代から大きく歴史が書き換えられてる可能性がある。多くが6世紀より前は疑わしいというのはそう言う事。
    有名な神社の書物に統治者が300年近く生きたなんて書かれてたりする。そういった多くが飛鳥以降に建立されているというのは事実を塗り替えてるからともとれる。
    普通は神武の即位をもっと後にするというけれど、長い歴史がある(神である)としたいから古くして結果矛盾がでる。
    吉備池廃寺にしても6世紀中期、名前の由来自体がそこの地名に由来してたはずで「吉備」百済大寺跡にした所で温羅は百済の皇子と言われてたりする。天皇が発願したのが確かとしても何らかの勢力の影響下にあったのかもしれない。ずっと大和が支配してましたとするから何百歳も生きた天皇が出てきたりするんでないのかな。
    6世紀、7世紀、8世紀に書かれてるもので特に何百年も古い3,4世紀の書かれてる事なんて推古天皇の話は確かだからこれも正しいなんてのは暴論。
    四道将軍にしても実際はそんなものは存在せず、4人の王がいただけかもしれない。それぞれ有力政権がそこにあり実際は倒せてないが数百年後政権をとってから実は平定してましたーとね。
    だからこそそういった将軍もなぜか100年以上生きてたりするわけで。天皇の生没がおかしいだけでなくそれらの子孫も(天皇になってない)テロメア(細胞)の科学的観点から行ってもあり得ない。

  805. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 20:29:43

    >804
    791と同じ人? 別の人? どっちでもいいけど

    >推古天皇の話は確かだからこれも正しいなんてのは暴論。
    この話は791の「天智、天武以前は怪しすぎる」に対して「その前代(親世代)の舒明、皇極(斉明)の頃は、日本書紀に十分な信憑性」があって、別の人(九州王朝の人)を仮定するのは無理すぎるって話だよ

  806. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 20:35:03

    >804
    >事実を塗り替えてるからともとれる
    無理してそんなとり方しなくても、ああ神様だし話を盛ってるんだな、で済む話だろ

    まあ、雄略天皇の宝算が、古事記124歳、書紀62歳で、ちょうど倍違うから、古代の暦は春秋暦って話が出てくるんだけどな
    100歳超でも記紀の人物で2で割って長すぎる寿命の人は実はいない
    長寿にするなら無限に長くしてもよさそうなのに、そうはなっていない

    吉備の神社の祭神の話は、元ネタを知らないからコメントしないけど、まあ、持ってるだけだろうなとは思う 正史じゃないし

  807. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 21:28:25

    崇神天皇まで怪しくなるとますます邪馬台国とヤマト王権が離れていってしまう
    神武天皇は東征自体を1人の人物に託し、崇神天皇が纒向遺跡を都にした説を推したい
    そして四道将軍が平定したところが空白の4世紀のヤマト王権支配地域とする説を唱える
    さらに仲哀天皇と神功皇后が九州と朝鮮半島南部を支配しのちの飛鳥時代へと繋がると考える
    その後は聖徳太子の時代に遣隋使を行なったのではないか

  808. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 21:57:58

    天皇家がずっと支配してたかどうかはわからないにしても、
    畿内内部の争いでしょ。考古学的な証拠から考えると。

  809. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 22:09:35

    コメントで倭でタケルだから熊襲も日本とか書いてあったけど
    古事記だと梟師だな
    また騙されるところだった

  810. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 22:22:07

    ※768
    異聞伝聞が一書に曰くと何度も何度も書かれている日本書紀に一書に曰くの1つも書かれていないからな
    「魏志に曰く古の女王卑弥呼なり」とか書かれているのが普通

    邪馬台国が畿内の崇神期の王朝だとわかってるなら書けばいいだけ、むしろ書かない意味がわからない
    あれだけ一書に曰く一書に曰く書いてる日本書紀なのに

  811. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 23:07:46

    畿内説の人に聞きたいのだが
    57年の漢委奴国王と
    107年の倭国王の帥升等も畿内の大和朝廷と考えてるのだろうか?

    だとすれば考古学的に問題があるし
    そうでないとすれば九州王朝が邪馬台国前に実在したことになる

  812. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 23:08:21

    新説
    倭の五王は朝鮮の騙りだった
    倭に朝貢していた朝鮮諸国は倭の威を借りて中国に朝貢していた
    だから記紀には倭の五王の記述がない
    中国風の名前も朝鮮が騙ったからに他ならない

  813. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 23:27:06

    パヨクって左派の
    バカ翼ってこと?

  814. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/28(水) 23:39:13

    ※810
    日本書紀は単純に魏史を引用した形式
    「倭女王」が朝貢したと書いてあると出てくるだけ
    卑弥呼は出てこないし神功皇后とも書いてない
    古事記では魏すら出てこない

    応神天皇の時代には王仁が来て漢字を教えているので
    神功皇后が卑弥呼なら文字による記録がその時から残っていて当然
    倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    ところが600年の朝貢には国書を忘れるという大失態
    まさにド素人www
    朝貢の記憶が全く無いのが明白

  815. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 01:18:45

    >811
    57年の漢委奴国王 → 普通に奴国の王様
    107年の倭国王の帥升等 → 奴国あるいは伊都国の王様

    >そうでないとすれば九州王朝が邪馬台国前に実在したことになる
    複数のローカル勢力が邪馬台国前にあっただけ
    地の利を活かして奴国あるいは伊都国が朝貢した

  816. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 10:39:53

    ※814
    >神功皇后が卑弥呼なら文字による記録がその時から残っていて当然
    >倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    実際どこにも残ってないんだから仕方ないね。
    全部の記録を抹消することは不可能だろう。

    >ところが600年の朝貢には国書を忘れるという大失態
    >まさにド素人www
    >朝貢の記憶が全く無いのが明白

    ちょっと強めに出てみるトライ&エラーをしただけだろう。
    想定内だったから軽い処罰だけですぐ許された。外交に熟達してるともいえる。

  817. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 10:41:01

    ※810
    テンプレ7
    九州説「邪馬台国が畿内にあれば大和朝廷がその歴史をちゃんと書いてたはずだ!だから九州」
    畿内説「文字を知らなかった連中が、なぜ口伝で何百年もの歴史を完璧に伝えることが出来てたはずだと思えるの?」
    九州説「ぐぬぬ」

  818. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 10:46:02

    考古学的証拠>>リアルタイムでの中国の史書>>数百年後の日本のポエム

    九州説はポエムに頼りすぎ

  819. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 10:51:42

    811
    1世紀ごろはまだ全国規模のヤマト王権が出来てないんだから当然各地にローカル勢力があった。

    多元王朝説は、それが5世紀とか7世紀まであったとかいうトンデモ論。

  820. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 10:59:27

    ※817
    頭悪すぎて趣旨が理解できてないのかな?

    文字は魏志やらなんやらという形で残ってるがな
    しかも日本書紀には魏志を引用した箇所もある
    ちなみに残ってるかどうかは別として57年の時点で書を交わしてるんだから文字は使用していた

  821. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 11:29:45

    ※820
    頭悪いのはお前だろ

    >文字は魏志やらなんやらという形で残ってるがな
    誰が中国に文字が残ってないって言ってんだよw

    >しかも日本書紀には魏志を引用した箇所もある
    数百年後の話は誰もしてないそんなもんどうでもいいわボケ

    >ちなみに残ってるかどうかは別として57年の時点で書を交わしてるんだから文字は使用していた
    残ってないのになんで使用したと言えるの?

  822. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 13:04:19

    >810
    >あれだけ一書に曰く一書に曰く書いてる日本書紀なのに

    もう少し丁寧に日本書紀を読まれたほうがよろしいかと
    日本書紀で「あるふみに曰く」が多く出てくるのは、神代紀の範囲です
    神代の神話では、いろいろな口伝があり当然異同も多いですから、それを「一書曰」として記録している訳です
    ちなみに、古事記の編纂は日本書紀には書かれていませんが、日本書紀と異なるイザナギ・イザナミの国産みの説話などでは、古事記とほぼ同内容が一書曰の形で挿入されています

    日本書紀で、全文検索をかけてみたところ、47件の「一書」がヒットしましたが、神代紀上巻に47件、神代紀下巻で16件、88%は神代です
    そして、それ以後の一書は系譜記事の后妃や皇子女の異同のみで、説話に関するものは一件もありません
    第3巻の神武天皇紀以降では、内容に関する一書は一つもありません

    要するに、官製の公式の歴史は神武天皇以降は異説なしのただ一つにまとめられている、ということです
    そして、飛鳥朝以降、日出処の天子として、大陸の冊封体制から離脱した対等王朝としての日本書紀の編集方針から、倭の五王も含め遣使は描いても朝貢は書かないという立場を貫いているということでよいのだと思います

  823. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 13:18:24

    つまり
    漢委奴国王と帥升等の倭と 日本は別種

  824. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 13:38:00

    251,360,450,457,504,514,530,584,602,615,638,683,697,725,731,792
    NEW >823

    こういう情熱はどこから来るんだろう?

  825. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 13:44:52

    ※822
    大和朝廷は過去の朝貢の歴史を消したという説だけど
    ではなぜ日本書紀では「神功皇后が朝貢した」と取れる書き方をしたのか
    これでは否定になっていない
    過去に朝貢したことを肯定しており矛盾がある

  826. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 13:47:39

    ※824
    オマエモナー
    という訳で自分の胸に手を当てようw

  827. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 14:17:31

    東に毛人の國あり、というのは関東地方北部(ケの国・上野/下野)以北/以東のことだろうから
    隋書の時代では倭=九州地方から半島南部、日本=近畿地方だと位置関係はすとんと収まる

    魏志の倭人条の記録はあくまで「魏」という短命の王朝がその成立していた時期に外交的接触を持っていた国に対するものであり、元々百余国あるけれども接触を持てているのがその1/4程度ということも明記されている
    数百年の間にいろんな変動があって魏が接触を持てなかった国がイニシアティブを握ったとしても何のおかしさもない
    邪馬台国論議する人たちはその点をあからさまに無視することが多いけれども、日本がずっと畿内あるいは南九州にあって、三世紀時点では魏と接触を持たなかった可能性はむしろ大きいのではないか

  828. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:08:36

    823
    新唐書で
    倭=日本って書いてるからそれはない

  829. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:11:33

    827
    おかしさは無いけど、証拠が無い以上とりあえず「無い」でおk

    三世紀に日本が存在した記録は一切ない

  830. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:27:34

    いやだからさ、何度も何度も言ってるけど、日本は律令国家になる頃に作った名称なんだってばさ
    それが、3世紀の畿内の小国家っていう意味がどこにあるのかと

    まあ、そうしないと九州説が死んじゃうからなのは分かってるけどw

  831. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:33:55

    >825
    だから、神功皇后は卑弥呼だ、とは書いてないんだよ
    大陸の史書には倭国の女王の朝貢が書いてあって、そのときこっちには神功皇后がいたよね、までしか書いてない
    神功皇后が朝貢したとも、もちろん書いてないし

  832. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:35:16

    まあ、日本書紀の編者は意図的に年代を古い方に引き延ばししてるから、神功皇后では時代が合わないのを百も承知で書いてるんだろうなとは思う

  833. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 15:59:38

    ※824
    歴史コンプレックスってのは思った以上に人を狂わせるものなんだよ
    立派な歴史のある地域や国の人にはわからないのさ

  834. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 16:19:27

    アメリカとか200年ちょっとぐらいの歴史だけど

  835. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 16:21:40

    日本書紀の雄略紀に
    八年春二月、遣身狹村主靑・檜隈民使博德、使於吳國
    十年秋九月乙酉朔戊子、身狹村主靑等、將吳所獻二鵝、到於筑紫

    十二年夏四月丙子朔己卯、身狹村主靑與檜隈民使博德、出使于吳
    十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使、將吳所獻手末才伎・漢織・吳織及衣縫兄媛・弟媛等、泊於住吉津
    と、身狹村主靑と檜隈民使博德が、呉に使いに出され二往復している
    十四年の帰国時は呉国の使いとともに戻ってきている

    この「呉」というのが、呉の地=南朝のことと見れば、宋書の遣使記事と対応がとれ
    それぞれ宋順帝大明四年477年と、昇明二年478年の貢献記事に当たると考えられる

    宋(呉)との往復が記されており、雄略14年の呉国の使いは、有名な「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」の冊封使だと考えられる

    朝貢したとは書いてないが、宋(呉)との通交は日本書紀にも記されている訳だ
    ただ、朝貢と書いていないから、一回目は二羽の鵝鳥を連れ帰っていて、二回目は技術者や機織の姉妹を連れ帰っていたりする

    これでも「雄略の実在は疑わしい、倭王武は九州王朝の人」というなら、対話や討論はできないなと思う

  836. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 17:02:52

    ※834
    超大国なのに、フランスやイギリスには小馬鹿にされ、英連邦のカナダには一緒にするなと言われるアメリカさん

  837. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 18:03:31

    ※821
    何でわからないの?

    >誰が中国に文字が残ってないって言ってんだよw
    文字がないから伝わってないと言うが、中国の史書が残っていてそれを引用してる箇所もある

    >数百年後の話は誰もしてないそんなもんどうでもいいわボケ
    どうでもいいなら邪馬台国論争に口を挟まないことだ

    >残ってないのになんで使用したと言えるの?
    やりとりした「書」自体は残ってないが、「文書」「詔書」「声書」を交わしたという記録は残ってるから

  838. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 18:20:06

    >837
    隋書には「無文字」唯刻木結繩と書かれているのですが、それは?

  839. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 18:22:13

    >796
    >そして、この共立の核が河内・大和連合で、邪馬台国で問題ないだろう?
    2世紀後半に纏向がつくられ始めるから邪馬台国の核は河内・大和で間違いないと思う

    >そこに無理に北部九州とか、後漢とか絡める必要はないし
    >特に後漢は107年の帥升の朝貢のあと、ずっと疎遠なんだし
    伊都国(北九州)に一大卒を置かないといけないし、107年以降も貿易は行っており魏や後漢の役人はいる
    畿内は北九州を掌握していないと大陸までいけないが軍事力で制圧した考古学的資料がない
    大陸に朝貢するという発想自体も畿内のみの勢力が思いつく理由もない
    今の資料のみで妄想すると共立邪馬台国に北九州勢が加わった方が妄想が少なくて済む

    高地性集落から見てAD50年から北九州勢が徐々に東に進出しているということの方が好きだけど現在は全く主張する人がいなくなったのが残念

  840. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 18:50:31

    >839
    >大陸に朝貢するという発想自体も畿内のみの勢力が思いつく理由もない
    >共立邪馬台国に北九州勢が加わった方が妄想が少なくて済む

    この共立が「いつ」かというのが、案外肝だと思っている
    通説だと、倭国大乱を2世紀後半において3世紀頭辺りに卑弥呼共立とするが、そこから景初3年(2年?)の遣使まで40年近くある
    九州派の人が一生懸命、庄内式土器の時代の纏向からは九州の土器は出ないって言ってるし、共立初期は吉備・出雲以東~畿内の連合で、のちに九州も参加でもよい気がする
    北部九州が参加することが遣使の契機と考えてもよいし ただ、景初3年はおそらく遼東の公孫氏の滅亡がきっかけなんだろうけど

    庄内期の纏向は小さいって九州派の人が連呼してるけど、それでもそこらの環濠集落遺跡よりよほど広いんだけどね

    >現在は全く主張する人がいなくなったのが残念
    いなくなった「理由」ってのが分かってたら教えて

  841. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:22:42

    ※838
    倭人は独自の字を持たないから一般層はそうしていたという意味
    だから漢字でやりとりしていた

    また隋書出してるけど、当時日本が送った国書の内容もしっかり残ってるがな
    「日出ずる処の天子~」
    これでもまだ漢字は使用してないというのか?

    だいたい文書やりとりしてるのに文字を使用した痕跡はないって、
    その文書は字ではなく絵でも描いてたのか?

  842. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:23:52

    ※837
    「数百年後」に書かれた日本書紀で引用したというのが、
    なぜ「邪馬台国当時」文字を使えたことになるわけ?
    頭おかしいのかお前

    >やりとりした「書」自体は残ってないが、「文書」「詔書」「声書」を交わしたという記録は残ってるから

    どれ?

  843. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:28:36

    考古学的アプローチにより邪馬台国の倭とヤマト王権の倭は別物

  844. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:32:35

    卑弥呼は揚子江流域から来た倭人集団の一員
    文字が書けても不思議ではない

  845. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:34:45

    畿内は邪馬台国の3世紀の間中も前方後円墳を造っていたなら魏志倭人伝の倭とは別の何物かでいいんじゃない?

  846. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:36:40

    ここのまでを要約すると奴国系統が倭であり、ヤマト王権は奴国の流れを継いでいないため倭と日本は別

  847. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:43:27

    ※843、※846
    また根拠出せなかったかw

    ※844
    不思議は無いが、証拠も無いので書けなかったということでオッケー

    ※845
    なんの関係があるのかわからない

  848. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:44:49

    卑弥呼が行なった占いが卜占なら文字を扱えた可能性は否定できないのではないでしょうか?

  849. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:49:36

    甲骨には朱が塗り込められ、神と交信する地位としての王の神聖性などを示す意味があったともいう

    朱は万能

    墓にも占いにも使える

    九州も中国と交易しないで同じ倭の畿内の朱を使えば良かったのに
    間に出雲と吉備と土佐があって交易できなかったのかな?
    纒向遺跡からは九州のものは土器すら出土しないから交流はなかったのかな?

  850. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:52:25

    ※848
    無いことを証明はできない
    あるというなら証拠を一つ出せばいい
    出せないなら現時点では無いということ

  851. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:53:52

    熊襲のタケルは倭とは書かれない
    きちんと区別している
    狗奴国が熊襲だとしたらずっと独立を保っていたとはすごい

  852. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 19:59:47

    ※850
    そもそも邪馬台国が見つかってないのだからその論法だと卑弥呼はいなかったになるぞ

  853. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 20:13:02

    850
    倭の五王が天皇だとの証拠もなくない?

  854. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 20:21:10

    >841
    >また隋書出してるけど、当時日本が送った国書の内容もしっかり残ってるがな

    ごめんなぁ、当然知ってるものだと思って、隋書の引用、後半部分はしょってた
    無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    隋書では、百済から仏教の経典が来るまで文字がなかったって言ってるんだよ
    そして遣隋使はその後だから、文字があるのは当然だよな

    ちなみに旧唐書になると 頗有文字 俗敬佛法 と仏法とあわせてすこぶる文字有とされてる

    ちなみに日本書紀では、応神天皇の頃に王仁が千字文と論語を伝え、それから漢字が使えたことになってる
    だから、雄略天皇の上表文は漢字で書かれているし、稲荷山鉄剣にも漢字の象嵌が刻まれている
    逆に言うと、日本書紀でも王仁の前には文字をつかってないことになってるんだよな

    そろそろ無理な想定は止めたら?

  855. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 20:24:35

    >851
    >熊襲のタケルは倭とは書かれない

    何か誤解してない?
    倭の読みはヤマト
    タケルと読むのは日本書紀では「武」古事記では「建」

  856. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 20:27:21

    >853
    >倭の五王が天皇だとの証拠もなくない?

    835に雄略天皇紀の遣呉使記事についてまとめてあるから読んでみて
    これだけ対応が取れてたら、違うと思う必要はないと思うよ

  857. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 21:07:35

    ※852
    候補地が複数あって絞れてないだけ
    無いとか見つかってないというのとは違う

  858. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 21:55:46

    ※842※854
    全く勉強してないのな
    魏志倭人伝ぐらいちゃんと覚えとけよ

    送「文書」賜遺之物詣女王不得差錯
    其年十二月「詔書」報倭女王曰
    倭王因使「上表」答謝詔恩
    太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉「詔書」印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使「上表」答謝詔恩

    少なくとも支配者層は漢文を使用していた
    文書を読んで品の相違がないか検める、詔書をもらう、上表文を出す
    これらは文字を知らなければ不可能

  859. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:09:14

    朝貢したことないから中国とのやりとりを単なる貿易と勘違いした日本側の記述がよく分かりますね

  860. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:13:18

    858
    文字を知らなくても、
    知ってる奴から「文書」に書いてる意味を教えてもらって倭王に伝えたり、
    倭王から言付けられたことを知ってる奴に伝えて「上表」を代書してもらったりすることはできるだろう
    はい論破

  861. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:13:48

    ※859
    なんのこと?

  862. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:23:47

    教授や古代史権威の通説だって科学的に検証された物証がなければただの一説位の価値しかない
    さらに言わせてもらえば、通説の邪馬台国の証拠の一つだって古代中国の歴史書から引用されてる時点でスレ主と教授の通説の差なんて無いに等しい、差が有るとすれば権威の肩書きだけ
    はっき言ってこのスレにもよく「通説」や「常識」なんか言ってる輩がいるが、思い出して欲しいのは20年前には縄文王国なんて存在すらしなかったって事実をさ。

  863. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:26:59

    未来永劫証拠が見つからないとは言ってないぞ。
    でも見つかるまでは「無い」のが通説。
    見つかってないのにあるというのはただの願望か妄想。

  864. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:28:01

    伊都国は下賜品をチェックして女王に送っている
    数の間違いが許されないなら目録読めたとも考えられる
    古代は面白いね

  865. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 22:54:38

    読めるやつは伊都国に居ただろう
    それがどうした

  866. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 23:05:23

    ※860
    何の根拠もなく妄想が根拠で論破とは
    つまり文字を使用してたことを認めたということだな?
    まあお前が認めようが認めまいが使用していた事実は変わらないが

  867. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 23:22:39

    其死有棺無槨 封土作冢
    やはり別だな

  868. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 23:28:40

    4世紀に日本で作られた三角縁神獣鏡に漢文で祈念文が刻まれている
    文字を書ける人間がいたことは間違いない

  869. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 23:42:50

    殷墟もトロイアも富本銭も以前は文献だけの伝説だったけど今では発掘の結果実在したと証明された
    文献に矛盾がなければいずれ証明されるだろう

  870. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/29(木) 23:47:15

    ヤマト王権はインカ帝国によく似てる

  871. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 00:49:31

    東征と邪馬台国は結びつかないと思ってたけど大和朝廷とは別なら何の不思議もない

  872. 真実を語れば 2017/06/30(金) 02:39:04

    邪馬台国は沖縄です

  873.   2017/06/30(金) 02:46:41

    倭人と日本人の関係はテュルク系諸民族におけるトルコ人というイメージだと思ってるけど違うの?
    倭人は刺青や短髪などとある風習や文化を共有するエスニックグループを超えた人達で広範囲に拡散していた
    その一派が日本人として名乗り出た説

  874. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 04:01:18

    >862
    無知を晒して何をトンチンカンなことを言ってるんだ
    現在の通説は物証でガチガチに固まってる
    862はそういう知識もなしに、偉い学者が権威を傘に文献解釈だけで通説を主張してるのだと勝手に思い込んでる
    862がやってることは事実を歪曲して自分の認識不足をもとに学者を誹謗中傷しているだけだ

  875. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 04:20:10

    米92

    辰国とか資料が少なすぎる上、国名誤植説が未だに反論も論破もできずに有力説
    になってるようなもん議論に出しちゃダメだろ。

  876. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 07:04:50

    ※866
    根拠は、当時の文字が残ってないという圧倒的事実。

    文書や上表は文字が使えないとできないという
    お前の妄想理論に対して反例を挙げただけだぞ。

  877. 開花神道 2017/06/30(金) 07:25:20

    >874
    横槍させて貰います。

    通説は物証でガチガチ?

    現在通説とされてる説にも、正直結構な大穴が空いてたりするよね。

    現在権威と言われている学者本人に直接尋ねたら、「物証でガチガチに固まってます」なんて事は絶対に言わないと思うぞ。

    「物証でガチガチ」なんて、それこそ学ぶ心や探究心を持たない「無知な人」しか使わないんじゃないの。

  878. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 08:03:30

    ※876
    文書が文字なしで成立するならその文字なしで成立した文書を見せてくれよ

    というかレベルが低すぎてびっくりしたわ

  879. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 08:28:36

    景初四年鏡の1つとっても文字がない時代に日本で作られた文字入りの資料ということが証明できるのではないか?
    金印や漢式鏡も同様、倭国が文字を刻まれた印鑑や鏡を権威付けに使用していた

  880. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 09:56:09

    文字を知らなくても(使えなくても)図像として模写はできるんですよ
    そして三角縁神獣鏡の日本産説の根拠が、漢文としておかしいことにあるのはご存知ですよね?
    858ほかの言うことには、やはり無理がありますよ

    九州説のバイアスは強いですね

  881. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 10:26:21

    ※880
    魏は日本側に考慮して下賜品の文書を絵で書いたというのか?
    こんな面白い論ははじめて見たわ
    歴史上絵で書いた目録の例が中国にあるのかと
    鏡100枚の絵とかかいたの?
    五十斤とか単位が書いてるけどこれ文字なくして絵でどうやって表現するの?

    文書や詔書が実在してないから文字はなかたっとか言ってる奴もいるけど
    詔書の内容がそっくりそのまま残ってるからな

    「制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」

    九州説とか関係なく文書、詔書を交わした記録がありその記録も残ってるのに、文字は使用していないとかどうしようもない

    三角縁神獣鏡の話でいうと文字を知らなければ韻を踏むとか踏まないとか以前に漢字を書くことすらできない
    しかも韻を踏んでいないだけで別に漢文としてはおかしくないしな(おかしいものもあるけど)

    「景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人之 位至三公 母人之 保子宜孫 寿如金石兮」

    これなども文章としては稚拙かもしれないが意味は通っている

  882. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 11:33:56

    >877
    しょうもない揚げ足とりにレスするのもバカらしいが
    まず「物証でガチガチ」という言い方は人によって受け取り方が違う
    862は物証ゼロで学者が権威だけで通説にしてるというトンチンカンなカキコミだ
    そういう物証ゼロを前提にした誤った認識に対して、明確な物証の裏付けがあることを「物証でガチガチ」と表現して何の問題があるんだ
    くだらない揚げ足とりにこれ以上やり合うつもりはないからレスも不要

  883. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 11:38:28

    やっぱ書物読めるって大切だな

  884. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 13:15:42

    ※878
    「文字を使えなくても、文字を使える人間と意思疎通できれば文書を作れる」

    って言ってるだけなのに
    いつの間に

    「文字なしで文書が書ける」

    という話になってんだ??
    頭悪すぎない?日本語読めない土人は小学校からやり直せよw

    当時倭人が文字を使ってた文書を出せずにごちゃごちゃ言ってんのはお前の方。
    立場をわきまえろやボケ

  885. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 13:28:06

    ※881
    図像っていうのは神獣鏡の字面のことだろ。
    誰も証書を絵で書いたとは言ってない。
    さっきから、都合よく言ってないことを暴走して妄想すんなよ。病気かお前w

    例えば全くロシア文字やハングル文字がわからない使えない日本人でも
    翻訳アプリみたいなものを使えば簡単な文なら書いたり理解したりできる。
    そういうことだろ。

  886. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 13:36:16

    >881
    だんだん頭に血が上ってきてるねぇ 落ち着きなよ

    880は879への返事
    鏡の銘文は字が読めなくても(使えなくても)書ける
    最初の頃は、粘土かなにかで鋳型を取って同笵鏡たようだし

    一生懸命写してくれたのは、「魏」が作った文章! 
    魏が漢文が書けなくてどうする?
    そして、魏の皇帝の詔勅だから、魏の起居注に残され、魏志に残されてる訳だ
    それを、伊都国にいる使譯が漢文の分からない人(卑弥呼含む)に向けて、通訳してくれるんだろう
    まあ、邪馬台国にも使譯がいるのかもしれんが
    そして、倭王からの上表の内容は書いてないよな詔に感謝したというだけで
    倭王因使上表荅謝詔恩
    この上表がきちんと漢文で書いてあったとは読み取れないぞ

    >歴史上絵で書いた目録の例が中国にあるのかと
    こういうのをトンチンカンって言うんだろうね
    865の「読めるやつは伊都国に居ただろう それがどうした」は読んだよね?
    そのための「郡使往來常所駐」だろ

  887. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 14:00:52

    倭国 円墳 前方後円墳(3世紀中頃から7世紀初頭)

    日本 巨大伽藍の仏教建築物 701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められた

    国号が日本に代わる100年前に巨大な前方後円墳が造られなくなったのも面白い。

  888. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 14:33:00

    ※884
    これは恥ずかしいな
    論破されて反論できずに発狂か

    「文字を使えなくても、文字を使える人間と意思疎通できれば文書を作れる」
    これなどは正に倭の支配者層が文字を利用していた例であって
    文字を解する文官を雇ってたという事実に他ならない
    伊都国の検閲の例なども文字を使用していなかったら不可能

    文書を交わした記録があるのにその原本が発見されてないからそんな事実はなかったというのは、金印が見つかってないから金印を渡した事実はないというのと同じような暴論である

  889. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 14:48:37

    ※885
    神獣鏡において、漢文の知識なくしてどうやって下手くそなりに意味が通る文章を作ったのか?

    ※886
    文字を解する文官を常に女王の近くや伊都国に置いていた
    倭の支配者層が文字を使用していた何よりの証拠

    「読めるやつは伊都国に居ただろう それがどうした」
    となぜか流してるが、つまり倭が文字を利用していたということを認めてるわけだ

  890. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 14:50:04

    倭 倭国 和国 大倭国 大和国 邪馬台 全てヤマトという読み。

  891. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 14:55:05

    ※888
    日本語理解できないのを指摘されて恥かいたおっさん乙

    >文字を解する文官を雇ってたという事実に他ならない

    「他」の反例…文字を使えない土人と意思疎通できる文官が魏側にいた
    はい論破

    >文書を交わした記録があるのにその原本が発見されてないからそんな事実はなかった

    事実かどうかの争点は、原本があるかどうかじゃないんだよ
    魏皇帝サイドが文字を書いたり読んだりするのはわかってるんだから
    彼が読んだり書いたりした文書(の原本)があるのは問題ない。
    直接魏皇帝と倭人が対面してボディーランゲージして意思疎通してたわけないんだしw

    問題は、倭人が文字を使ってたかどうか。

  892. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 15:00:44

    ※889
    ハングル文字を使えない日本人が、
    ハングル翻訳アプリ(韓国製)をスマホに入れてたからって
    ハングル文字を使ってたと言えるのか?

  893. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 15:08:39

    ※889
    文字の知識なんかなくても
    見たものの形を書き写すことはできるだろ

  894. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 16:59:49

    ※891
    上表の意味知ってるか?
    文書を奉ることであって、上表文が現在残ってなかろうが上表したことは明白
    上表するには文書を書く文官が倭側にいたということ

    ※892
    その例は適切ではないとは思うが
    詔書を読むことができて、上表文を書くことができて、下賜品やらを女王に送る際に文書目録を読んで間違いが絶対に起こらないぐらい正確に運用してるなら文字を使用していたと言えるだろう

    ※893
    じゃあハングルのいくつかの文章を継ぎはぎして意味が通る文章に変えてみろ
    神獣鏡はへたくそな漢文で韻を理解してないながらも意味がわかるものが多い
    また中国では全く見られない母親へのご利益があるようなメッセージも書かれてるからな
    これなども例文が無いと思われる中で倭人が自分達で考えて記入したであろう例だ

  895. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 18:30:23

    日本にフランス語の通訳のできる人はそれなりに多くいるけど、日本ではフランス語を使ってるとは言わないよな?

    そりゃあ使譯所通三十國っていうんだから、大陸と意思疎通ができる人はいるだろうさ
    でもそれで、文字がある、記録も文字で残した「はず」ってのは飛躍だろ

    821辺りまで話を戻せば、
    3世紀に文字があった「はず」なのに、それで記録されたものがないから記紀に書かれていない、だから邪馬台国と記紀を書いた大和王朝は別
    って話が無理ってのは動かないよ

    今の日本の常識で考えると、文字があれば記録を残すのは簡単と思うかもしれないが、紙だって貴重品だし、奈良時代だって木簡・竹簡の方が普通

    なら木簡に書けばいいじゃないかとなるだろうけど、そうなると情報量が少なくなるし、それこそ751に書いたような「大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也」みたいな断片的な記録しか残せないだろう
    そしてまさに記紀の最初の方はそんな程度の記録だ

    894その他の人(同じ人だと思うけど)は、何人くらい漢字を使えたら、日本に文字があったって言うつもりなんだろう?

  896. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 18:41:54

    >814
    >倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    残ってたから835にまとめたように、雄略天皇が「呉」(大陸の南朝)と交流があったと書ける訳だ
    ただ、記紀の編集方針として「朝貢」とは書かない

    そして、倭国に漢字がもたらされてきちんと使えるようになるのが、応神、仁徳朝以降
    神功皇后はその前だから、卑弥呼だとしても文字記録はないことになる
    記紀の中ではきちんと整合性が取れてるよ

    日本書紀は、当時の一番のエリートが国家権力を使って、古今の記録・文書・口伝を集めて、解釈してまとめたものだから、今の俺たちよりは物の分かった人が書いてる
    全てが正しいとは言わないけどな

  897. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 18:48:53

    ※895
    >3世紀に文字があった「はず」なのに、それで記録されたものがないから記紀に書かれていない、だから邪馬台国と記紀を書いた大和王朝は別って話が無理ってのは動かないよ

    そんな主張は誰もしていない
    3世紀の倭人の記録が残っていたという主張などしたことはなく、魏志倭人伝という実在している記録を無視してる以上、崇神天皇周辺の時代に邪馬台国を当てるのは無理があるという主張である

    古代倭人が文字を使用していた云々は売り言葉に買い言葉であり
    ※820で「ちなみに云々」と別案件であることを示しここからは上記とは別個の話になったと俺は思っている

    >何人くらい漢字を使えたら、日本に文字があったって言うつもりなんだろう?

    何人もくそもない
    倭の支配者層が文字を使用していたというのがこちらの主張であり
    別に1人だろうが10人だろうが、その文字を使用して外交や貿易その他を滞りなく行っていたのならそれは文字を使用していたと言える

  898. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 19:06:08

    大国主の国譲りとは、単なる無血開城ではなくて、日本という国名や歴史も全部倭国に譲りますということだったのかな。
    だとしたら重過ぎるわ。。

  899. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 19:38:33

    ※894
    >上表するには文書を書く文官が倭側にいたということ

    倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人がいれば事足りるのでは?

    >詔書を読むことができて、上表文を書くことができて、下賜品やらを女王に送る際に文書目録を読んで間違いが絶対に起こらないぐらい正確に運用してるなら文字を使用していたと言えるだろう

    ハングル文字を使ってなくても、超優秀な翻訳アプリを入れてればハングル文字を使ってたことになるのかw

    >じゃあハングルのいくつかの文章を継ぎはぎして意味が通る文章に変えてみろ

    당신은 바보있을 수 없다

    >神獣鏡はへたくそな漢文で韻を理解してないながらも意味がわかるものが多い

    機械翻訳みたいだなw
    やっぱ使ってたとは言えないな

  900. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 21:01:04

    隋に対して天子(皇帝)を名乗った国書を送ったのは聖徳太子なんかでは無く、阿毎アメのタリシヒコ。
    この君主国は有名な女王以来の国で、阿蘇火山があって敬ってるとの事だそうだ。

    この九州倭(和)国皇帝家の苗字はアメ(天or海?)で近畿天皇家の苗字は鵜ウガヤだぞ。
    それは初代天皇とされる神武の父の氏名が鵜ウガヤ不合葺フキアエズの命ミコトと記録されているからだ。

    因チナみに、この鵜ウガヤと言う九州剣鉾ホコ文化圏の大?豪族一族が東方に植民した神武東征は、1世紀半ば前後辺りと推測されていた(30年以上前の安本美典説)。それは、奈良盆地で、征服された側の銅鐸が廃棄され始めた時期に概オオムね適合するらしい。

    そうなると、3世紀半ば以降の奈良のマキムク遺跡の拡大期は、丁度急速に勢力拡大した10代目崇神天皇の時期に当たるだろう。
    そして、この時期の前から大型化していた銅鐸が先ずは近畿中心部から、次に近畿周縁部で短期間に相次いで廃棄されていった状況ともあまり矛盾は無い。
    これは剣を神器とする近畿日本天皇家が近畿一帯を征服支配し、銅鐸文化圏が崩壊していったと理解できる。

  901. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 21:50:52

    ないことを証拠にしてはいけないと叫びながら記紀にない朝貢はあったという方が素晴らしい

  902. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 22:20:56

    シナを語るときに言語と文字は別個に考えないといけない。
    漢字圏(漢人)には、意思疎通が可能な統一された漢字という文字はあっても、漢字に適応した統一された言語というものは、今の今までない。(現代の普通話でも普及率58%)

  903. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 22:38:06

    >900
    なんだか書いてあることがつぎはぎだらけで、筋が通っていないんだが

    倭王の姓が阿毎と書いてあるのが旧唐書、そしてそれは日本の記紀に原初の神が天御中主と書いてあって、その子孫が天皇だということになっているから

    近畿天皇家の苗字が鵜がやだなんてどこからだよ? 彦波瀲武盧茲草葺不合尊から採るならむしろヒコナギサだろう。ウガヤフキアエズが産屋が完成する前という誕生説話から来ているのは、日本人なら分かるよな? 何をどうしたってそれが苗字にはならないし、系譜上は彦火火出見尊(山幸彦)の唯一子だから、本家の跡継ぎなのになぜそこで苗字が変わるんだ? そもそも姓と苗字の区別付いてないだろう?

    まあ上記(うえつふみ)とか竹内文書とかの古史古伝や神代文字を信じる立場なんだろうな

  904. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/06/30(金) 23:15:15

    朝貢は恥だから書かなかったとの主張が見受けられるが、当時の国際感覚だとむしろ逆ではないか
    ヤマト王権だけ中国に対する考え方が違う
    奴国や邪馬台国は朝貢に積極的だがヤマト王権は消極的
    鏡も中国産を有難がらず、研磨も適当な国産鏡を大事にしている
    中国の威を背景に力のあった倭に対し大王家と物部氏と大伴氏が対抗した結果である

  905. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 00:00:49

    明治維新の後開国してお雇い外国人を招いたりしたわけだけど、
    数十年したら今度は英語は敵性語だとかいって排除したりした
    あれと同じようなもんやろ

  906. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 00:15:23

    九州派ってSTAP細胞とか信じてそう

  907. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 00:23:36

    理解度は低くても漢字を使用して意思疎通してるんだから、文を使用しているというんじゃないの?
    言語っていうのは、もともとどんなにうまく使えたとしても、完ぺきには理解できないもんだしね。

  908. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 00:56:13

    Google翻訳の力を借りれば俺だって

    당신은 바보있을 수 없다

    ぐらいは書けるけど、それはハングルを使えてるとは言えないだろ。

  909. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 01:00:48

    倭が大陸の威を借りて日本を統一しようとして
    逆に大和に返り討ちにあったんじゃね?(適当鼻ホジ)

  910. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 01:30:53

    ※899
    >倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人がいれば事足りるのでは?

    別に渡来人の文官だろうがなんだろうが倭の支配者層が文字を利用していた事実には変わりない
    事実上表文も失礼がないものが作成されたようであり、伊都国の官の検閲は間違いがないという完璧ぶり
    もしや、伊都国の検閲官も上表文を書いた人間も全部倭じは全く属さない魏の人間がやったと思ってるのか?

    >ハングル文字を使ってなくても、超優秀な翻訳アプリを入れてればハングル文字を使ってたことになるのかw

    翻訳アプリの例は全くもって例として不適切だと思うのでなんとも言えない
    但し、そのアプリ使って完璧に外交も貿易もできてるならハングル文字を使用しているとして対外的には認められていることになるわな

    >機械翻訳みたいだなw
    >やっぱ使ってたとは言えないな

    倭人が漢字使えないならどうやって中国側に例がない文章を拙いなりにも書くことができたのか
    答えて示すべき

  911. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 01:54:09

    ※903
    頓珍勘助(笑)  丸ッキシ的外れで反論になってネーわな
    鵜萱屋ウガヤは遠い昔に鵜の羽根で屋根を葺フいていた職業集団一族の表れ。

    しかし、伸し上がって豪族化してきたから昔の先祖とは違い、屋根を葺くのには似合わない程に大物に成れor成るという意味で付けられたと解せよ

    ※900 の続きを少し→白村江の戦いで負けたのは九州倭(和)国だ。そして、その皇帝薩夜麻サチヤマと生き残った皇子や将軍らは唐の捕虜になったとシナの歴史に記されてる。近畿日本天皇家では無い。
    だからこそ、戦後処理に来た唐の裴セイセイの一軍は倭(和)国の首都のある竹斯チクシ=筑紫に進駐したんだぞ。
    その後、すっかり衰えた倭(和)国を呑み込んだのが元は小国だった日本国だ。だからこそ、倭(和)国の九州統一その他の歴史を剽ヒョウ窃し、それを無理して日本国の歴史として纏マトめた国家全体の歴史書が日本書紀だ。
    それに対して古事記はそんな無理をあまりせず、代々口伝されてきた近畿天皇家の歴史を文字化したのが基本的性質だ。

  912. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 02:48:49

    そもそも「倭」って自ら名乗ったのか
    意味知ってたのか、知った上だったのか、途中で気付いたのか
    そも歴史書とはいえ、それらはそれらを記した国々の意志の元で描かれている。
    一点の歪みも曇りもない目で、学術的に見ていただろうか?
    そして列島側も何もかも明け透けには話してはおらず、嘘も混じっている様子である。

    はっきりとした決着を着けたいなら、矢張り物的証拠が欲しいトコロ。

    あちらの国々の史書だけで判断する事もまた危険な行為だ。

  913. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 03:53:13

    >911
    裴世清が白村江の戦後処理に来たってなんだそりゃwwwwww
    これだけ間違った知識だらけなら妄想話しか書けんわな

  914. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 08:26:47

    大陸と半島の文献と九州の出土品は一致している
    出雲と吉備と埼玉の出土品と記紀の内容は一致している
    記紀と大陸と半島の文献は一致しない
    それぞれ別であれば矛盾しない

  915. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 08:39:21

    ※910
    韓国人と話す時だけ翻訳アプリ使って意思疎通しても、
    普段ハングル文字を使ってることにはならんよ

    倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人に頼んで
    その文字を模写すれば余裕だろ
    グーグル翻訳に日本語入れて出てきたハングルコピペした俺と一緒だw

  916. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:03:23

    魏志倭人伝に日本語の読みが漢字で書いてある
    上奏も倭の使者が述べていることを考えると中国語も話せた
    海南島と変わらないと書かれているが、邪馬台国首脳陣は長江下流域の中国語を操る倭人説に説得力がある
    昔のイギリスやロシアのように支配層は外国語で被支配層は地元の言葉だった可能性がある

  917. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:07:09

    ※914
    大陸と半島の文献と畿内と四国の産出品は一致している
    同じじゃないと矛盾する

  918. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:14:47

    >901
    >記紀にない朝貢はあったという
    倭の五王の朝貢は宋書にあるし、ないと言っている畿内説の人はいない

    記紀にないと言っているのは九州説の人

    そこからこじらせて、3世紀に文字があった、記録はあったはず、でも記紀にないから倭の五王は大和朝廷じゃない、だから邪馬台国も倭の五王も九州っていってるんだよな?

    それに対して、朝貢とは書いてないけど、朝貢に対応することがを朝貢じゃない体で、きちんと記紀に書いてあって記録もあることが確認できるから、上の九州説の論は破綻してるよなって行ってるんだが

    無理な切り取りはやめたら?

  919. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:51:29

    ※918
    どんな立場でも構わないのだが記紀にないものはないと認めてから書き込んではいかがかな?

  920. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:53:53

    >917
    丹を辰砂だと仮定した上でさらにそれ1つだけやん…。

  921. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 09:58:53

    ≫918
    >それに対して、朝貢とは書いてないけど、朝貢に対応すること「がを」朝貢じゃない体で、きちんと記紀に書いてあって記録もあることが確認できるから、上の九州説の論は破綻してるよなって「行」ってるんだが

    「」は引用者

    魏志倭人伝や記紀もこんな感じで現代に伝わっている写本は誤字脱字だらけなのかな

    何百年何千年後、「がを」論争とか行は言の異体字とか何か意思を持って書かれたとか議論されると思うと胸が熱くなる

  922. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:04:05

    >911
    九州説の大変なところは「人材難」だよな
    日本書紀に2回だけちらっと名前が出てきただけの筑紫君薩夜麻あたりを皇帝としないといけないんだから
    倭の五王は九州説だと、当てるべき人物がそもそもいないんだよね
    記紀の物語が九州の倭王家の歴史を盗んだものだって九州説の人は言うけど、だったら倭の五王の墓はどれ?
    磐井の乱の、磐井の墓とされる岩戸山古墳より大きな墓はないよね?

    >しかし、伸し上がって豪族化してきたから昔の先祖とは違い、屋根を葺くのには似合わない程に大物に成れor成るという意味で付けられたと解せよ

    解せよって何だよww
    日本の歴史秩序の根本が血統主義で、そう簡単に改姓したりしないって理解してるか?

  923. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:08:07

    >919
    いや遣呉使は書いてあるし、呉の使い(答礼使)も来日してるって書いてあるじゃん

    なぜ書いてあるものを「記紀にないもの」って言い張るの?

  924. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:11:42

    ※922
    姓は変わるよ、変わらないのは氏
    日本で重視されたのは家、養子が多いのが特徴
    天皇家は血統主義で他の氏族と違う
    天皇家以外天皇にしないことで余計な争いを避けた結果と言われる

  925. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:16:37

    文脈上当然とみられるこの雄略六年が、壬寅年(三六二)であるという点については、実は重大な疑義がある。
     理由そのものは単純である。ひとつに雄略記は確かに木梨紀でできているが、実雄略紀そのものも木梨紀であるかどうかという検証が済んでいない。
     書紀にはこうしたケースがいくつもあった。すなわちこの六年は、木梨紀でなく実安康紀の六年である。書紀の大王の事績についての記述は、すべからくその父兄の係年に拠っている。この視点に準拠すると。実雄略紀もまた一部はかならず安康紀によるところがあって当然である。
     雄略紀六年の「泊瀬小野」の記事が、木梨紀でなく安康紀に準拠する。実安康六年すなわち甲辰(三六四年)である。雄略はこの年一一月に践祚・立宮し、翌乙巳年(三六五)を即位元年としたことになる。
     ところで雄略紀が実安康紀に拠るとすれば、一連の葛城山や三輪山、吉野山にかかわる記事も、また移動するのである。この区分は、それぞれの事件につき雄略が関与する度合で決まってくる。
     呉使関係記事、とくに派遣でなく「呉使来」という六年条の記事と、半島関係の記事は、基本的に実木梨紀による。
     逆に、明らかに雄略の時代とみられる身狭・桧隈の呉への派遣記事は、おそらく実雄略紀のものである。
     係年表は修正されなければならない。この時先の雄略元年と後の雄略元年に四年に差異がある。

  926. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:20:56

    記紀編纂は、ほぼ同時期。
    わざわざ書き方や人名(神名)の漢字を変えて2つも編纂を指示した理由。
    このあたりは、物証主義のみでは論理的に解決できない。
    時期的に魏志倭人伝やその他の史書を日本側が読んでいないとは考えにくいことも留意すべきでしょうね。

  927. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:21:30

     新羅にかかわる記事は、主に雄略八年の「任那膳臣与高麗戦実雄略紀八年の記事は特殊である。
     この記事は新羅がこの時期高句麗と結好していたとするが、新羅人が高句麗の将兵を殺す。高句麗王は怒って兵を出すが、新羅は任那の王膳臣に援軍を頼み、辛うじて高句麗兵を押し返したという。
     三国史記は麗紀の長寿王二八年条(四四〇年)に、「羅人襲殺辺将、王欲往伐、羅謝罪乃止」とある。しかし羅紀にはその年にそれに類する記事はなく、かえって訥祇三四年条(四五〇年)に「殺麗将、麗王怒侵辺、王謝之乃止」という近似の記事を記録する。訥祇までの羅紀は未斯欣や朴好などの記事にみられるように、意図的な係年の再編があるから、これは同一記事でかつ麗紀が正確である。
     書紀の雄略紀八年に記録する「膳臣与高麗戦」という一連の記事が、麗紀の四四〇年条に該当する。するとこの「八年」というになる書紀の係年は、むろん雄略の時代ではない。安康・木梨でも允恭でもない。西紀四四〇年を治世八年とすべき大王は、四三三年を即位元年とする仁徳なのである。
     特殊というより異常というほかはないが、羅紀が麗紀と異なる年代に当てはめたのと同一の理由による

  928. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:23:17

     倭王世子興・倭王武以外に除授のあったのは、四二一年の倭国王讃、四三八年の安東将軍倭国王珍、四四三年の安東将軍倭国王済の三人である。さらに四五一年には、安東将軍倭国王済に「六国諸軍事」を加えることがあったが、若干主旨が異なっても、これも正式な除授の一つである。
     対するに書紀の伝える「呉使」は、雄略の一回(雄略十四年)、安康の一回(雄略六年)のほかには、仁徳の五十八年条の一回だけである。「冬一〇月、呉国・高麗国並びに朝貢」と書かれている。
     仁徳五八年は事実上倭建五八年で、西紀四三九年にあたる。仁徳没年の翌年である。
     ちなみにこれはすべて「呉使」と記録された。冊使とは言わない。

  929. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:25:22

     倭から派遣する「遣呉使(遣宋使)」については、雄略の身狭村主青・檜隈民使博徳(雄略八年・一二年)と、応神の阿知使主・都加使主(応神三七年)だけが記録される。雄略の遣呉使の目的はあきらかだが、書紀はそうはいわない。雄略一〇年の帰還の時、「呉の献る鵞(鳥)」といって、珍物を求めるためという理屈がついる。応神の遣呉使の目的も、「縫工女を求む」ためと言っている。
     ちなみにそれぞれの帰朝も記録されるが、呉使(宋冊使)をともなっての帰還が明示されているは、雄略一四年条だけである。これはむろん雄略一二年に派遣した使者の帰朝ということになる。
     宋書をみると、五世紀のこの時期の倭の朝貢はのべ九回であった。書紀が記録するのはのべ三回だけである。

  930. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:33:58

    九州説をとると、対馬、壱岐を除き九州だけで諸国合わせて15万戸あまり
    1戸を少なめに5名として計算して75万人
    戦乱続きで人口が著しく減っていたといえ、蜀が94万人(西暦263年)と考えるとちょっと当時の農業生産能力を考えても九州だけで多すぎないでしょうかね?

  931. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:51:53

    魏志倭人伝を信用できないと言ったり七万戸が事実と言ったり忙しい人がいますね
    真実はC14と年輪年代法のみとまだわからないのですか?

  932. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 10:54:00

    ※930
    7万戸が正しいなら邪馬台国は一万二千里のところにあるで決着する

  933. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 11:20:28

    ※932
    私が求めているのは、距離じゃなくて人口の話。
    答えになってないよ。

    それぞれの出発地と到着地の実距離に応じた1里の長さもまちまちなので魏側の資料だけを根拠に里だけで判断するのは早計。

    多方面からみて判断すべきであるが、現時点ではシナ王朝側と日本側、出土品の情報量が少なすぎるので判断するにはまだ早い。

  934. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 11:44:20

    熊本平野は奈良盆地の2倍の広さがあるで

  935. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 11:46:20

    畿内説にも卑弥呼はいないし台与もいない
    つまり女王国があった形跡が無い
    九州には女王らしき古墳が多くある

    あと倭には独自の文字があった
    隋書>無文字唯刻木結繩
    無文字というのは漢字を使っていないという意味
    現在は縄文字は文字として扱われている
    木に刻みを入れるのも明らかに文字

    この隋書に書かれた文字が肥人文字と考えられる
    肥人文字が有ったことは日本の歴史書にも書かれている

  936. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 11:54:20

    奴国の場所と2万戸は異論ないのだろ。
    その3倍ほどでいいなら、九州どころか北部九州だけでいける。
    海没して人が居なくなった難波(浪速)が、元は都がおけるほど繁栄していたことを考えても、当時の海沿いは食糧生産に適した水田地域が今よりも大きく広がっていた。
    そして北部九州は稲作先進地域(開始から千年)だし、金属加工技術も優れていた。
    戦乱を止めた後にすることは、戦のかわりの公共事業=水田が50年でさらに広がった。
    海の幸山の幸も、そこらの外国よりはるかに豊富。
    水田というのは、面積あたりの収穫量が小麦などよりはるかに多いし、日本になってからの動員兵力を見ても、歴史学者の推測よりはるかに多い人口が存在したとみるべき。
    ついでに、山の中など水田以外の人々も結構な数居たと思う。見つかった都市痕跡だけで人口はこの程度というのは常々疑問だ。

  937. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 11:59:52

    鬼頭宏氏(1996年)が出挙稲数、郷数、田積数、石高などによる国別「推定」人口を見ると西暦200年ごろ北九州40,500、南九州64,600となり、九州全体(西海道)で70万を超えるのは奈良時代以降。

  938. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:00:51

    ※920
    それは戸籍に載ってるだけの人口だろ
    実際はその数倍

    九州なら二期作も可能
    熊本平野だけで奈良の4倍の人口を養える
    7万戸なんて余裕だろ
    あと「會稽之東與儋耳相近」とまで言われてるんだし蜀と比べても駄目かと

  939. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:20:22

    >795
    >しかし吉備は神武天皇に神武東征され、崇神天皇に平定され、雄略天皇にも吉備の乱で平定され常に何故か大和に匹敵する地方有力国家政権があるね。実際に平定できたのは何時なのだろうか。7世紀末に備前・備中・備後、8世紀に美作と4つに分割されてるから実際にはここなのかね。

    この時期に、豪族を分割して力を削いでいるように見えますね。中央集権で大国を分解し抵抗できないようにしたのかも。前後や上中下など分割された国名がいっぱい残ってる。

    >804推古天皇と聖徳太子の時代から大きく歴史が書き換えられてる可能性がある。
    あちこちの国から、功績あった人物が奈良で天下(近畿)とってた(共立されてた)のかもしれないですね。それを全部、国家関係=兄弟親子として一つの血筋にしてしまって、後は自分の血筋で固定するために反乱防止の分割。

    >827
    >元々百余国あるけれども接触を持てているのがその1/4程度ということも明記されている。

    これも交流あった国であって、蝦夷がずっと後に連れて行かれたりしてるのを考えると、西日本だけで100国でも不思議はないのだよね。対馬国一大国伊都国などでも1国なんだから。
    日本が畿内にあったというよりは、大国共立で奈良に作ったと考えたい。

  940. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:26:10

    >926
    古事記は皇統の私文書って位置づけなんだろうと思う
    各豪族に族譜を出させているのに対応してるんじゃないかな

    前にも書いたけど、古事記とほぼ同じ内容の神話が一書の形で入れられてたりするし、古事記の編者の太安麻呂が日本書紀の編纂にも参加していたとされている
    そういう形で古事記に情報も含めて、日本書紀が編まれたということだと思う

    その意味で、朝廷の公式見解はあくまで日本書紀であり、古事記の編纂自体が日本書紀には記されていない

  941. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:30:46

    普通に奴国から邪馬台国が倭で本拠地は北部九州にあったけど、日向出身で畿内に遷都した大王家が邪馬台国以後の北部九州を征服したじゃ駄目なの?

  942. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:34:12

    >937
    500年の間に人口7倍(戸籍人口だから実際は10倍以上)って、一体何を根拠にしてるんだ?
    そこまでの技術革新があったとは思えないのだけど。
    難波が海に沈んで稲作できなくなっただの、海進海退の視点も提示してるのに、20年も前の、発掘進んでない時代の記録持ってきて何が言いたいの、そもそも一番都合の良い場所は今普通に都市部や水田になってるんだから、発掘で出るわけないし。
    自分では文章読んで思考もできない無能ですって言いたいの?

  943. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:35:20

    >924
    >姓は変わるよ、変わらないのは氏
    オレは分かってるよ 分かってないのは鵜がや王朝とか言ってる九州説の人
    もし万一仮に苗字が鵜がやだったとしても、本姓が阿毎であることは変わらないという基本も分かってない

    まあ、皇室の姓云々を言ってるのは大陸の史書であって、日本の家の姓は天皇から下賜されるものであり、天皇・皇族には姓はそもそもないんだがな

  944. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:37:40

    ※938
    2倍と仮定すると1600年時点の九州の推定人口を超えちゃうわけで。
    九州王朝にしても遷移にしても、わざわざ肥えていない土地に行く理由もなくなりますなあ。

    ※940
    情報が足りなさすぎるので、結論は出せないのですが、書き方と内容を鑑みるに、古事記は国内向け、日本書紀は、海外(唐)向けだったのではないかと思ったりします。

  945. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:49:25

    ※942
    自分が研究調査し発表したわけではないので、断定はできませんけども、残っている文献をもとに算出しているようです。あくまでも推定なので誤差はあるだろうと思いますが。
    否定する根拠を出して別の数字を出すことができれば、学会での見解が変わりますよ。

  946. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:50:48

    >941
    7世紀に日本を名乗り始めるまで、ずっと倭國なんだよ
    邪馬台国までが倭、ってことはない

    そして魏志倭人伝の頃はもう北部九州に優位はなくなっているから、その時点で邪馬台国を九州に想定すべき積極的な理由がなく、あってもおかしくない、あったらいいなレベルの話しかない

    今、九州説の人がやっている、筑後平野がー、熊本平野なら人口がー、の話がその典型
    大きな遺跡があるかもしれない、いやあるのは分かってるけど発掘されてない、って話にどれだけ信憑性があるのかと

    邪馬台国の時代から古墳時代まで、九州説の人の言い分でも数十年しかないのに、倭国王を名乗る王がいた7万戸の国が、箸墓の半分程度の古墳すら作れていない時点でおかしいと思わないのが九州説だよ

    九州も古墳時代に入ると同時に古墳を作っているのにね

  947. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:58:52

    ※937
    それは遺跡を元に算出してるから信頼性が低い
    あちこちで疑問が出ている

    魏志倭人伝で
    対馬国 1000余戸
    一大国 3000許家
    3世紀の壱岐島は1.5万人ぐらいいたようだ
    壱岐島は現代でも人口3万弱
    古代を低く見すぎている

  948. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 12:59:35

    >925,927~929
    おもしろそう紀だね
    私も読んだよ おもしろいよね
    ただ、電子書籍でも売っているものだから、あまり長文の無断引用はいかがなものかと思う

    これをきっかけに読みに行って、購入する人がいたら、ステマだけどw

  949. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:03:47

    地名って結構長きにわたって変わらずに残っているってのは、国内外の数々の文献でわかると思います。
    あてた漢字が違えどもある程度現在の地名に当てはめることができるんですが、「やまたいこく」と呼称する場合、当てはまる箇所がない。
    「やまいこく」と呼称する場合はya・ma・iとなり母音が連続しまず日本語としてありえない。

  950. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:09:16

    そもそも纒向遺跡には邪馬台国時代の住居跡はない
    七万戸どころか零戸

  951. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:10:40

    943
    姓は天皇が与えるものだから天皇にはない

  952. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:14:41

    邪馬台国とヤマト王権は別

  953. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:15:37

    纒向遺跡は崇神天皇の宮
    女王国の都ではない

  954. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:18:30

    初期かつ最大級の帆立貝型古墳が宮崎にある
    年代はともかく記紀の内容は事実を含んでいるのでは

  955. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:19:55

    歴代支那王朝には、統治する皇帝はいても祭祀を司るものはいなかった。政体(統治)と国体(祭祀)の区別をする概念がない人々に日本の仕組みが伝聞のみでわかるであろうはずもない。

  956. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:21:50

    ※955
    皇帝は天子で、神の地上の代理人だけど

  957. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:23:38

    955
    夏王朝から周王朝まで祭祀も司っている
    だからこそ卑弥呼の統治を昔の中国と同じと感じたのかもしれない

  958. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:26:53

    同時代の径百余歩に準ずる古墳を九州の推定箇所を一生懸命探していると思われますが、現在でも出てこない。

  959. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:27:27

    ≫955
    曹操の法治主義を継ぐ魏の知識層の邪馬台国の感想
    「倭人は未だにシャーマンがトップか…。」

  960. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:27:46

    >945
    残っている文献である魏志倭人伝で見ると、倭は戸数ばかり(家ばかり)建ってて5軒に1人しか住んでないという主張になりますが、倭の平民は1家族で何十軒も家持ってたんですかね。
    947の人が言ってる通りですよ。
    発掘されてない遺跡なぞいくらでもあるし、最も人口が集中していた場所は、今も日本人が住んでます。隠し田もあれば、田んぼ以外で生計立てて米と交換していた人達もいる。
    何より、米は年貢用で、米以外に雑穀作ってたなんて当たり前の話なのに、米の石高でとか、歴史を知らない歴史学者なんじゃないの。
    それと、鬼頭宏の名前を検索したら、2105年に日本の人口は4500万って話を出すような人が、日本の人口語ってるのかと。お偉いさんらしいけど、日本人居なくなれの人かもしれないね。

  961. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:30:27

    ※958
    纒向型若しくは前方後円墳とされている古墳ならあるよ
    円墳ではないけど

  962. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:31:47

    ※960
    出生率下がってるから

  963. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:33:55

    当時の王朝が祭祀を行っていた夏や周ならば、理解可能だと思いますが、のちの皇帝は統治の正当性のために※955が言うように神の地上の代理人と名乗ったが、祭祀をしていたわけではない。
    また、殷以降、王朝が変わっても漢字という文字や儒教は継承されているが、民族、風習、言葉が継承されているかというと、それには疑問が生じる。

  964. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:40:02

    ※960
    九州説をとればという前提の話です。日本全体でみると魏志と推定人口の誤差はほとんどありません。10万程度。
    ちなみに鬼頭氏以外にも何名か推定人口を出している人、研究所はありますが、多少誤差はあれ2倍、3倍といった違いは出ておりません。
    正しいかどうかは、後世になって変わるものですから、断定はできません。(いつも後に定説が覆されることがありますので。)
    その人をトンデモと断じ、誤りと感じるならば、まともな数字を出せば学会の見解が変わりますよ。

  965. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:53:01

    963
    後漢王朝の皇帝達は祭祀もしていたけどな
    祈りと徳が足らないから天変地異が起こると批判されまくり
    どう見ても洪水や飛蝗や日蝕は皇帝のせいじゃないのにね
    当時の世界観が分かるよね

  966. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 13:58:39

    >954
    >初期かつ最大級の帆立貝型古墳が
    西都原の男狭穂塚古墳のことかな
    記紀の内容に沿って考えるなら、仁徳天皇の皇妃に日向の髪長姫が入っていて、その縁で畿内の力で大古墳を築いたと考えられている
    仁徳天皇の頃は畿内ではさらに大きな誉田山古墳、大仙古墳が作られた頃だから、九州が畿内を凌駕したとかの話にはならない
    その頃、応神・仁徳朝の頃でも記紀はその程度には信頼できるという話でいいと思う

  967. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 14:22:28

    九州福岡筑紫の倭(和)国の五王なのに、ヒシコイテ無理矢理近畿奈良ヤマトの日本の首長にコジツケようと、何回も何回も飽くこと無く繰り返す偏執キョウがキモい!

    阿呆がいたぜ。隋に対して天子=皇帝を名乗ったんだから、それ以後は皇帝だろがよ、白村江の戦いの薩夜麻までは。シナは夜郎自大で覇権主義である悪の中華思想に染まってるから認め無いだけで。自明の理すら解らんのだな。

    記紀の古い時代の天皇の年齢は2倍年暦だぞ! 三国志魏書東夷伝倭人条にそう書いたるぜ。だから九州説の安本美典は30年以上前に、神武即位をA.D.150年頃の前後だと推計した。
    そして、九州の剣鉾ホコ文化圏の神武の支配下に落ちた奈良盆地では銅鐸を破棄させられた。この時期も2世紀半ば頃で安本の推測と大きなズレは無い。つまり、近畿奈良ヤマトの日本国天皇家の先祖は女王卑弥呼以前に九州を出てる。

    結局、女王以来の国で阿蘇火山を敬ってる倭(和)国と近畿天皇家の日本国は別物で、神武即位当時は奈良盆地だけの小国だった日本国は、3世紀半ば頃以降のマキムク遺跡の拡大期に概オオムね相当する10代目崇神天皇の時に、近畿一帯に一気に支配下に置いた。

    だから、この時期に支配下に置かれたその近畿一帯で大型化した銅鐸が破棄された。なんせ支配者の天皇家は九州から渡来・侵略した剣を神器とする豪族だったからさ。そして、白村江の戦いの完敗ですっかり衰えた九州倭(和)国を、7世紀の後期末期に吸収して念願の倭(和)人の大半を支配した。
    ここで大和と書いてヤマトと呼ばせる事が可能になったが、それ以前は大和をチクシと読んでたかも知れんぞ。

    ちなみに、対馬には小さな阿麻低留アマテル神社があるとのこと。そう天照神社になる。
    ここが高天原なんだろうな。記紀ではそこから出かけて行く先は筑紫・出雲・新羅辺りだから、対馬は位置からいったら出発地として自然だよな。

    ここを中心とする海上交易勢力=海人アマ族が弁韓地方から入手した材料で多くの鉄器を揃えて福岡市(韓国に真っ直ぐ向き合い、朝照る夕照る日向ヒナタ峠があり、ここから御笠ミカサ
    の浜を見下ろせる)に天孫降臨した訳だ。
    この人達の主流の子孫が九州倭(和)国の皇帝家で、傍流が近畿天皇家になったという説も否定出来んわな。

  968. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 14:25:57

    >960
    細かいところだけど気になるので

    >米は年貢用

    武士だけでは年貢米は食べきれない
    農民も基本コメを食べてた 雑穀を作ってないとも食べてないとも言わないけど、飢饉の年でもなければ、コメを食べていたよ
    そもそも武士の起源からして、平安朝が国軍を廃止して治安維持を放棄したから、農民が自衛のために武装したものだし、武士も農民ももともと食べるものは同じだよ
    大名まで同じ物を食べていたとは言わないが、武士の足軽と農民はそんなに違うものを食べていたわけじゃない

  969. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 14:53:04

    >968
    はい、書きすぎましたね。

    人口については算出方法見てきたけど、有史以前はその当時までに見つかった遺跡の数で決めるとか、相当酷い事やってるようですね。
    一番良い土地は遺跡にならずに人が住み続けるわけだし、遺跡1つ辺りこれくらいの人数だから遺跡の数かけ算してとか、よくこんなものを出せたものだなと。

    ついでに平均寿命なども、通説では縄文人は大人になれても平均30歳程度で死ぬと、どの学者も同じような数字を出していたのに、近年骨の調査をやったら平均45歳と出ましたとか。
    現実を見ずに、こうなるはずだと机上の空論いじくったものは、論文出そうが通説決めつけしようが、全くもって信用ならない。
    逆に、土器や石器の形状分類とか、実物に基づいた議論は、時代が変わっても揺らがない事が多い気がします。

  970. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 16:37:20

    日本の場合
    人口は水田面積に比例する
    壱岐島の水田面積を調べると
    邪馬台国当時ですでに現在の1/2〜1/3ぐらいの水田面積だったようだ(昔は5俵/反で計算)
    かなり水田開発が進んでいたと言える

    北部九州で弥生時代の開始が紀元前10世紀頃なのでこれぐらい可能か
    他の国もこんな感じで水田開発が進んでいたとすれば2万戸や7万戸が多すぎるということはない
    従来の研究が弥生時代を低く見すぎていると感じる

  971. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 17:10:36

    >970
    無知
    壱岐は食料が足りず本土から調達してたと倭人伝に書いてあるだろが
    壱岐は貿易港だったから人が集まってきただけだ

  972. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 17:36:27

    ※949
    ya ma yiの可能性はあるとだけ言っておく

  973. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 17:37:40

    乳幼児の死亡率が高いから平均すると寿命は下がる
    一律に35歳前後で亡くなっていたわけじゃないよ

  974. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 17:45:27

    世代を経ると母音は少なくなる傾向がある
    ハ行の発音は今と違うし、現代でも椅子のすと西瓜のすの音は違う
    カ゜だってあるし
    オとヲ、イとゐ、エとゑも違う音
    3世紀の発音を奈良時代の発音を元に復元するのは無理がある

  975. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 17:47:38

    ヤマタイと読まないとよく聞くが、邪馬台国がヤマト王権と別で言語も少し違っていたら読んだかもね

  976. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 18:38:30

    >972
    >ya ma yiの可能性はある
    九州説では邪馬壹國をよくヤメイ国と読んで、八女に当てたりするのですが、その場合「壹」はどこから来るのでしょう?
    中国語の漢字って基本一字で一音節ですよね?
    九州では八女のことをヤメィ的に少し伸ばして読んだりしますか?
    現代の九州弁(筑後弁?)でよいので、分かる人に教えてもらいたいです

  977. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 18:46:16

    >973
    >乳幼児の死亡率が高いから平均すると寿命は下がる
    弥生人ではなく、縄文人について出土人骨で平均寿命を算出したデータがあるのですが、その際子供の人骨が少ないので、15歳以上と推定される者のみについて計算したところ、15歳時点での平均余命が16年程度、それに単純に15歳を足すと31歳くらいになるそうです

    つまり15歳まで育った人の平均寿命は31歳程度

    そして、15歳以下の分を、産業革命期のイギリスのデータを仮に使うと、0歳児の平均余命=平均寿命は15歳以下になるそうです
    縄文時代の乳幼児死亡率が産業革命期のイギリスよりも低いとは考えにくいので、おそらくさらに平均寿命は短くなります

    弥生人の平均寿命もこのデータを使って、30歳程度としているものが多いようです

  978. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 18:51:10

    >967
    たぶん触ってはいけない人なのだろうけれど

    倭の五王の墓は、九州倭国説ではどれに比定するの?
    大陸に朝貢した倭国の代表の墓が、岩戸山古墳より小さいってことはないと思うのだが?

  979. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:12:34

    978
    同年代なの?

  980. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:13:03

    近江毛野の伝承に関しては、磐井の乱における毛野の動向が記されないことから、磐井の乱と近江毛野の任那派遣とは元々別伝承であったと見られている

  981. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:14:14

    史書では子の筑紫君葛子の後も7世紀末まで筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ、その活躍が認められている

  982. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:19:12

    ※978
    岩戸山古墳は墳丘長135メートルの前方後円墳で、北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の古墳

    つまり、古墳の大きさのみで権力を決める978式思考法だと天皇は当時最大の古墳を作った竺紫君石井だと言うことになる
    978の考えがおかしいと言わざるを得ない

  983. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:24:08

    讃と珍については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがある。
    説として、讃が仁徳天皇で珍を反正天皇とする説や、讃は応神天皇で珍を仁徳天皇とする説などがある。武は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であるとする説から、他の王もそうであるとして、讃を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、珍を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、済を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネ5の「ツ」から、興を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不明である。

  984. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:27:39

    倭の五王の遣使の記録が古事記、日本書紀に見られないことや、ヤマト王権の大王が、倭の五王のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないこと、古事記に掲載された干支と倭の五王の年代に矛盾が見られることなどから倭の五王は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代から存在した。特に倭の五王が九州王朝の王者であるとする説は根強く、古くは本居宣長が熊襲による倭王の僭称をする説を唱えていおり、戦後も学術誌に掲載されている。

  985. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:29:44

    筑紫君を討ったのが継体天皇で、配下が物部氏と大伴氏と言うのが歴史の面白味だよね

  986. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 19:34:13

    記紀には倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない
    継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある

  987. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 20:29:09

    倭の五王が天皇だとする理由は単にその時代に天皇だったからなんだ
    なんかがっかり

  988. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 21:31:52

    >982
    >当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の古墳
    まさに磐井と戦った当事者の継体天皇の陵墓は、被葬者が分かっている数少ない古墳である今城塚古墳で、墳丘長は190メートル、大王陵であることを示す2重の周濠まで入れると350メートル。
    筑紫君磐井の墓であることがほぼ認められている岩戸山古墳は墳丘長135メートル。
    まあ100メートルを大きく超えているから大古墳とは言えるけど、古墳時代の全期間を通じて各時期の最大古墳は畿内に造営されている。

    畿内大王陵に匹敵するっていうのは巧い切り取りだよね、ミスリードするには。
    正しい数値を示す人がいなければ騙せたかもね。

    継体天皇より前の倭の五王の時代は最も大きな古墳が作られた古墳時代中期で、その頃には、今城塚古墳より遙かに大きな誉田山古墳や大仙古墳が畿内では作られている。
    九州倭国王が倭の五王という説では、倭の五王の墓はどの古墳に比定するの?
    九州でも古墳時代には古墳を作っているわけだから、王の墓が古墳じゃないってことはないよね?

  989. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 21:46:20

    >986
    >記紀には倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない
    明確に対応する記事はないってことにしたいんだろうけど、835に書いたように雄略紀にはかなりはっきりと読める対応関係が示されている。
    あと929あたりに「おもしろそう紀」の引用があるが、宋書で冊封使を送ったと見られる3回分、呉の使いの来朝が日本書紀に記されていて、それ以外の遣使の帰国については天皇の淡路巡狩記事が対応していると考えられる。

    「明確」には対応しないけど、朝貢と書かずに呉(南朝:宋)とのやりとりは記録されてる。

  990. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/01(土) 22:57:45

    倭人の窓口としての代表政権である筑紫の倭(和)国は、九州と海北(任那)を含む周辺(中国四国の各西半)を直接支配したと思われる。そして、朝鮮半島南部の勢力争いに国力の多くを投入せざるを得ないので、大古墳を作る余裕はあまり無かった。

    一方、吉備や近畿の地方政権はお付き合い出兵の義理?義務?は有ってもそれほどの負担を背負うまでの謂イわれは無かったようだ。
    だから、吉備や近畿などは大古墳どころか巨大古墳を作る余裕があった。

  991. 3254 2017/07/02(日) 06:52:45

    >990
    概ね納得です。
    日本には3つの中心があったように思いますね。
    北九州と奈良と北関東、この3カ所を中心に、仏教や漢字などの文化を広めていったようです。
    北九州は倭の代表として、大陸との外交交渉、文化の輸入などを担当し続けた。
    北関東は武力によって大和連合の拡大維持に務めた。稲荷山古墳の金字が正しければ、4~5世紀は北関東勢力が大和拡大のために戦い続けたという事になる。
    また、6~7世紀の混乱は、大和に権力集中するまでのごたごたと考えると、遷都の数なども理解できるように思います。
    それらの事が書かれたのが古事記で、全て天皇の血筋がやった事に改変したのが日本書紀なのではないでしょうか。詳しく読んだわけではないですが。。

  992. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 07:05:36

    ※991
    概ね同意だけど
    東北と沖縄も忘れないでねw
    中央集権化には取り残されたけど倭種だぞ

  993. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 07:10:29

    ※971
    >壱岐は貿易港だったから人が集まってきただけだ

    当時貿易港として発展できるほど交易が有ったんですかね?
    食料さえ輸入する地が貿易で発展など有り得ないんですがw

    仮に貿易港だとしたら壱岐では貿易船に何を提供していたのかな

  994. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 07:19:20

    >993
    >仮に貿易港だとしたら壱岐では貿易船に何を提供していたのかな
    貿易港というより中継地だけどな
    そして中継地は、避難所であり安全を提供しているわけだ
    命より貴重なものはないんだから、半島と倭國の間にあるという地の利から、そこに寄って陸に上がって休めるというのは、何物にも変えがたい価値だというのは分かるよな

  995. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 07:53:58

    逆に考えると、
    輸入できるほど米産出して余らせてた地域が近くにあったわけで、当時の生産力もそれを運んで売買(交換?)する技術力も侮れない。
    少なくとも原始人やのどかな村落程度の弥生時代ではない。大陸からも国として認められるような機能をもった集団が沢山居た。

  996. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 08:22:58

    >991
    >詳しく読んだわけではないですが。
    詳しく読んでみてください
    古事記と日本書紀の間にそれほどの差はないですよ
    毛野の臣が皇別氏族であることなど、系譜に関する部分はほぼ共通です

  997. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 08:31:52

    >990
    >朝鮮半島南部の勢力争いに国力の多くを投入せざるを得ないので、大古墳を作る余裕はあまり無かった

    磐井の岩戸山古墳は結構な大古墳だと思うんですが、どうして作れたんでしょうね?
    西都原の男狭穂塚・女狭穂塚は、倭の五王の勢力圏ではなかったのでしょうか?
    それほどの大古墳でなくてもいいんで、倭の五王の古墳の候補を上げてもらいませんかね?

  998. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:05:43

    倭の五王が天皇以外でさらにその古墳もあったら新聞の一面だな

  999. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:08:35

    史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、「上毛野」や「下毛野」の名称が見られ、これらは毛野が分かれた後のものといわれる。律令制施行後は、上毛野は上野国に、下毛野は那須を加えて下野国と定められた。この過程で「毛」の表記は省略されたが、「け」の読みは残されている。

  1000. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:12:21

    古事記、日本書紀には地域名称として「毛野」の記載はなく、当初より「上毛野」「下毛野」として記載されている。そのため同書からは、毛野の実態ひいては毛野とヤマト王権の関係は明らかではない。

  1001. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:16:02

    古事記、日本書紀には分割されたケースとして「筑紫」「吉備」の名があるのに「毛野」の名がないことなどから、その想定を否定する意見が一般的である。
    「毛野」は単に「未開の沃野」という程度の一般名称であり、「筑紫」「吉備」のような特別な名称ではない。

  1002. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:21:01

    考古資料では、古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見られる。
    この毛野政権とは別に畿内・吉備・日向政権などから構成された連合政権がヤマト王権であり、他に出雲政権、筑紫政権、濃尾政権の王権があった実態が近年明らかになっている。

  1003. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:25:08

    四道将軍は、崇神天皇10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣された。4人のうち大彦命は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は会津で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野はヤマト王権にとって未開の地すなわち別の王権であったと考えられている。

  1004. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 09:33:31

    ttps://www.youtube.com/watch?v=1AtMji1VLQg

    これとか誰でも分かるように解説されてるから、
    歴史詳しくないのに議論してる兄貴たちは
    見て、どうぞ

  1005. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 10:59:50

    ※997
    なんかいろんな人に同じ事を絡んでるな、お前。
    なんでそんなに知りたいの? 自分で調べたらどうだよ。

  1006. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 11:39:52

    >999~1003
    遣隋使だか遣唐使の時代に、北と東は毛人の国で倭じゃないって自己申告してるんじゃなかったかな。
    毛人は支配下ではなく連合に参加する同盟勢力だった。
    その毛人を便利に使って西日本から南朝鮮までを征服するも、恩賞として与えた毛人の支配地域が増えてしまった(○○毛野など)。
    西への拡大が終了し逆に西から圧迫されるようになると、東の毛人が邪魔になり、毛野氏は滅ぼされ血筋や功績を抹消された。その後も蝦夷として毛人を駆除し続け東北まで征服した。
    こんな感じでどうだろう。

  1007. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 12:07:29

    先代旧事本紀「国造本紀」には「毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれた」との記述があり、これをもって「毛野国」という同盟大国を想定し、それが強大なため分割されたという議論がなされていた。しかしながら「毛野国」の記述は史書の中でこの記載のみであること、『先代旧事本紀』自体が後世の潤色が多いことから本来独立王権である毛野地域をヤマト王権支配下と僭称したことが明らかである。

  1008. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 12:08:55

    毛野分割を示唆する伝承として日光山縁起の「神戦譚」が知られる。これは日光男体山・赤城山に関する伝説で、戦場ヶ原において男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという。以上から、毛野が分割されるにあたって激しい領地争いがあったとする説のほか、日光山側の助けについた鹿島の神は畿内政権を象徴するとし、畿内から何らかの影響が及ぼされたとする説がある。

  1009. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 12:12:23

    崇神天皇の時代まで毛野地域は独立王国だった
    仁徳天皇の時代には征服され分割されている
    毛野地域の記録と畿内の記録では朝鮮への出兵の記録が違う

  1010. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 12:28:54

    >1005
    997が質問に見えるとかおもしろい切り返しだな
    答えられないのが分かってて訊いてるんだろ
    九州に倭の五王なんていないんだからその古墳なんてある訳ないんだよ

  1011. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 12:32:30

    >1008
    下毛野氏がもし宇都宮氏の事だとするなら(日光治めてたし多分そうなんだろうけど)、色々見えてきますね。
    宇都宮氏は、男系重視の毛人世界で、近畿の男系血筋を受け入れた。
    その宇都宮氏に加えて鹿島の紹介で毛野氏の親戚も味方に付け、毛野氏宗家である上毛野を討たせた。
    宗家が絶えた毛野氏は、強大な勢力としてまとまる事ができなくなり、それぞれ日本の州として組み込まれていった。
    こんな感じでどうだろう。
    >1009
    仁徳天皇は7世紀の人物だった?!
    まぁ、全部天皇が偉いって作り話でしょうね。
    毛野氏の功績を、天皇の血筋がやったことに書き直すため、毛野氏滅亡を古くする必要があったということでしょうか。

  1012. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 13:53:19

    上野名跡志では、和名抄に見える「下野国」河内郡の「衣川郷」が元々は「毛野郷」であったとして、「毛野」の地名起源を下野国とする説が最有力である。

  1013. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 13:56:25

    先代旧事本紀「国造本紀」には、景行天皇の時期に那須国造が設けられたと記されている。これは仁徳天皇の時期に設けられたとも記す下毛野国造に先行することから、那須国造の領域は毛野に含まれなかったと解されている。そしてのちの令制国設置にあたり、下毛野と那須は新しい「下毛野国」としてまとめられたとされる。ただし、那須国造の存在を疑い、那須地域も含めて下毛野であったとする考えが主流である。

  1014. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:04:18

    古くは魏志倭人伝に見える「狗奴国」を「毛野国」にあてる説もあった。しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明した。そのため、近年では狗奴と毛野は全く別のものと考えられている。

  1015. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:04:38

    毛人(えみし)と毛野(けの)がごっちゃになってるが
    上野国(かみつけの国)は上毛野(かみつけの)氏が支配していた
    毛野は天皇が与えた姓で崇神天皇の子孫とされる
    毛野は天皇御三家の一角みたいな感じでね?

  1016. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:11:45

    古事記、日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。常陸国風土記には、足柄峠以東は「我姫」とみなされたこと、その分割が孝徳天皇の時代に行われたことが記載されている。この認識は日本書紀、大化2年の東国国司に対する詔の内容や、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現にも見られる。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたことが分かる。
    また古事記では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持つ半ば独立した地域であった。

  1017. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:17:04

    崇神天皇48年、崇神天皇皇子の豊城入彦命が東国経営を命じられたという。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており、その後も子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていない。
    景行天皇の時代には、武内宿禰が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還した。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている。
    景行天皇55年に彦狭島王が東山道十五国都督に任じられたが、途中で没したため御諸別王が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという。これをもって、御諸別王が実質的な毛野経営の祖と考えられる。

  1018. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:19:04

    御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった上毛野氏各人物の活躍が記述される。大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と呼ばれる上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

  1019. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:30:33

    邪馬台国ヤマト王権同一派の方が毛野君を重視したのが不思議だった
    源氏みたいに皇族の一派だね
    5世紀後半から6世紀前半に現地勢力を滅ぼして成り代わって現地人を従えたようだ
    同一派さんは毛野君=現地豪族=3世紀からの同盟国として畿内のヤマト王権は列島全ての勢力と同盟であり支配していたから邪馬台国からずっと列島全域がヤマト王権だったとしたかったのかな?
    普通に独立勢力を滅ぼして統一しただけだね。

  1020. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 14:45:17

    >1009
    >崇神天皇の時代まで毛野地域は独立王国だった
    >仁徳天皇の時代には征服され分割されている
    >1016
    >古事記、日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。常陸国風土記には、足柄峠以東は「我姫」とみなされたこと、その分割が孝徳天皇の時代に行われたことが記載されている。この認識は日本書紀、大化2年の東国国司に対する詔の内容や、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現にも見られる。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたことが分かる。

    三十六代孝徳天皇時代645~654の関東分割が、十六代仁徳天皇にされている。明らかに矛盾してますね。

    >また古事記では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持つ半ば独立した地域であった。

    源頼朝が東夷を名乗っていたから、東夷で毛人を表すのだと思ってましたが、
    東・夷、あずまとえびす連合が、天から領地を取り戻した戦いだったのですね。

  1021. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 15:04:28

    下毛野国造は下野国を支配した国造。
    もと毛野国造で、仁徳天皇朝に上毛野国造と分裂した。

  1022. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 15:06:46

    考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の埼玉古墳群(武蔵国造の本拠地)が成長するという傾向が見られる。

  1023. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 15:08:35

    東夷は東の野蛮人ではなく東国と蝦夷の意味なのかもな

  1024. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 15:29:59

    >1017
    景行天皇
    諸国平定を行い、子のヤマトタケルも諸国へ派遣した。80人子供がいたが、3人を除き、地方に送られ在地豪族となったという。

    うーん、これは無理矢理感が出てる。連合国を皆親戚として扱ってるのでは。

    >景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている。
    倭建、当て字で使ってた時代の文字をヤマトタケルと読ませるより、倭建=獲居ワケで毛野氏や関東勢力使ったのでは。
    坂上田村麻呂辺りも、この古事に倣ったんじゃないかなぁ。

  1025. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 15:48:51

    日本書紀では主に「日本武尊」、古事記では主に「倭建命」と表記される

    景行天皇皇子で、仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

    本の名:小碓命
    亦の名:倭男具那命、倭男具那王
    のちの名:倭建命、倭建御子

    日本武尊の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、日本書紀での表記は同書上でそのように位置づけられたことによる

    なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」が正しい。「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではない。

  1026. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 16:15:29

    >1025
    >「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではない。
    こんな事も知らないやつが、日本武尊をヤマトタケルと読ませてたんかーい。
    と思ったけど、知ってて読ませてたとしたら、
    倭健、日本武尊は、野蛮人の功績を指していたとしたら・・・。
    疑いだしたらきりがないなー。

  1027. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 16:20:28

    よく考えてみたら、日ノ本は東国だよねぇ。
    関東分割から数十年後に上毛野氏を討ったとして、倭が日本号を・・・。
    きりがないな。

  1028. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 16:29:34

    >1024
    景行天皇から応神天皇までの系譜は、一番複雑で無理があるところ

    >80人子供がいたが、3人を除き
    この3人が曲者で、3人とも太子(ひつぎのみこ)とされている
    一人は稚足彦尊で、成務天皇になってるから太子で問題ない
    一人が日本武尊で、仲哀天皇の父であり後の皇統はすべて日本武尊の子孫だから、太子とされるのも問題ない
    最後の一人が五百城入彦皇子で、さしたる事績もなくなぜ太子とされているのか不詳
    一応理由付けとしては、応神の后妃が五百城入彦皇子の孫(3人)で、そこから仁徳や、後の継体に続く皇子が生まれているからとは言える

  1029. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 17:05:44

    ※1026
    熊襲梟師「女装して我を倒したお主にタケルの称号を授けよう」
    倭男具那命「これからはヤマトタケルと名乗るべし」
    景行天皇「おい、野蛮人皇子。ちょっと東を征伐してこいや」
    倭建「おかのした」

  1030. 名無し猫 2017/07/02(日) 17:11:44

    「蝦夷」 ツッコミ禁止
    蝦夷族は狩猟、焼畑を生業とし土地に執着せず住居も簡素だったが、甲斐駿河(華奴蘇奴)、遠江(対蘇)、信濃(姐奴)、北陸(躬臣)は早くから大和に帰順し稲作を始めていた。

    最大勢力の狗奴は前橋を本拠地にして東北の一部まで支配していた。狗奴の王子弓呼(ココ)は霊力があったので卑弥呼から卑弥弓呼(ヒミココ)の名をもらったが 天地の神々は蝦夷地にも存在するとして 大和とは一線を画していた

    その後 狗奴と華奴蘇奴の争いが起こり、大和にも波及した。ミマキ彦は属国に出兵を要請し一万数千の軍勢を北上させ弓呼を討ち取った

    弓呼の亡き骸を見た卑弥呼は 自分の霊力の限界を悟り自殺した 西暦248年 89才だった

  1031. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 17:41:32

    東国を狗奴国に比定するには無理があるんだな
    四道将軍は簡単に東国を征討した
    会津で合流したとすればかなりあっさり進軍している

    どうも東国はヤマト王権にかなり協力的だったと感じる
    宿敵という感じはしない
    東国の神の鹿島様が春日大社にいるし神武東征には鹿島神が手を貸したとある
    むしろ古代から天皇を応援する側にいた気がする

  1032. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 18:42:58

    毛野地域は東海地方からの植民
    邪馬台国時代は大規模な遺跡はない
    武蔵国の支配の強まりと共に下毛野地域はヤマト王権に取り込まれるが上毛野地域は独立している
    御諸別王の時代には上毛野地域も取り込まれる。

  1033. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 18:43:18

    ※938
    二期作は、文献での初出は江戸中期の1761年。
    苦しかった農民の試作にすぎず、失敗している。
    二毛作については、鎌倉時代。
    もし行われていたのであれば、国策として稲作を挙げている以上、ほぼ確実に記紀に記載されるだろう。

    九州王朝だけで、三国志時代の蜀はおろか呉と同等レベルっていうのは、もうすこし文献なり、遺跡規模なりの物証がないと、ちょっと厳しい。

  1034. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 19:04:27

    毛野はヤマト王権の侵略から逃れた濃尾、東海地方の王族かもな

  1035. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 23:05:45

    >1033
    呉の滅亡直後くらいに、鏡製作技術を学んでいるけど、稲作2回に増やす技術のが簡単だと思う。
    呉の影響は早い時代からあった、というか、呉越地域から海越えて稲作が伝わったのだから、近い技術があることに不思議はない。
    後は2000年前の稲で、呉よりはだいぶ北の九州二期作が可能かどうかじゃないかな。

  1036. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 23:34:49

    ※1033
    二期作だと1年が2倍になる
    倍年説の完成やでw
    だから邪馬台国に100歳以上が普通だった
    神武天皇の没年137歳も68歳でフツー

    間違ってるのは歴史書ではない
    現在の常識だ

  1037. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 23:40:54

    倍年説の根拠は日付にもある
    不思議なことに初期の天皇の死亡日は15日までしかない
    確率的に有り得ないレベルで16-31日が出てこない

    たぶん月を陽と陰で分け
    古代は一月が1-15日までしかなかったと思われる
    で中国に怒られて改めたようだ

  1038. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/02(日) 23:56:29

    稲は草で極端に言えば雑草と同じ
    稲刈りしてほっておくと勝手に伸びて穂をつける
    温暖地なら収量は低いがそれだけで二期作が可能

    現代の「耕耘→代かき→田植え」は収量を極限まで上げるための手段
    江戸時代だって全国でしていたわけじゃない

  1039. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 02:00:40

    太陽神が居る高天原って、関東(日ノ本)の事なんじゃね?

  1040. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 04:30:59

    人口問題は九州説にとっては致命的
    根拠もなく二毛作だの鉄器による高い生産性だの強弁してるだけで何の証明もできていない
    面積が狭いんだからどうにもならん

  1041. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 05:25:41

    ※1010
    横からだったが、バカだね。
    記紀によれば、剣鉾を祭器とする九州勢力の支配層の一員の豪族だったが、神武の長兄の五ケ瀬セノ命が族長の時に権力闘争に負けた?のか行き詰まってきて、福岡の岡田宮(九州勢力の支配体制の中心地の一つか?)に集まって相談し、東方の良き地の芦原中ナカツ国へ植民=移民しようと決めたとあるぞ。

    つまり、九州勢力の主体はそのまま残り、そこから弾ハジかれた一部の勢力が手を切って山陽地方を何年もかけて何ヵ所かを経由(そこでは戦って征服した訳で無く、伝ツテを頼って居候して勢力を保持)して東方へ進み、遂に大阪湾上陸戦を迎えたんだよ。

    ソコには銅鐸を祭器とする文化圏(矢尻は石器)の中心地の大阪・奈良の諸豪族を束ねる長スネ彦(王?大将軍?)が待ち構えていて敗北し、族長で長兄の五ケ瀬命まで戦タヒして追い払われた。 
    しかし、矢尻まで鉄製にするほどに武器の威力で勝マサる九州圏の勢力なのに負けたのは無能だからでは無く、九州勢力の支配体制の主力では無いどころか、ソコから弾かれた一部で大差のつくほどの少数勢力だっただけだ。
    後は知っての通り、後を継いで族長になった末弟(後の神武)が南(熊野or吉野)に迂回し、敵の非力少数の留守部隊しか居ない隙を突いてとりあえず奈良盆地を制圧できた。
    これで、剣を祭器=神器とする九州系の新たな支配者によって銅鐸は、まず、中心地だった奈良盆地で廃棄され始めた。
    これは考古学ではその時期は2世紀半ば頃とされている。つまり、神武東征は卑弥呼の1世紀くらい前に行われた訳!

    そして、シナの歴史書では、倭国は女王以来の国で阿蘇火山があって敬ってるとなってる。 悔しくても仕様が無いな。倭の五王は近畿天皇家でなく九州倭(和)国皇帝家なんだよw

    後は言わなくても、質問の答は常識的に解ってるじゃネーか!  と言うか、答えても倭(和)国と日本国は別物との結論は変わらんぞ。 なのにイジイジジトジト絡むからバカにされてんだよ。  まぁ答えても良いけど、まず別物論を認めた上で二度とこの話題も、この関連スレッドには書き込まないと信用出来る約束をすればだな(笑)

  1042. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 05:36:07

    単純に連合王国の主導権争いがあってどこの勢力が主かって話だけでしょ。
    神武東征の話もあるし、磐井の乱を鎮圧した話もある。つまり九州勢力が畿内勢力を従えることも逆もあったということ。で、その中で九州勢力が委奴=倭=和=ヤマタイで、それより東にある日いづる新興畿内勢力の自称が日本で何の不思議もない。で、完全に統合したのが大和政権。主体がどっちかは今となっては不明だけど、神武東征が最初にもってこられ、国内自称が大いなる和(大和)、首都のあるところが大和(奈良県)ってことは、九州勢力が畿内勢力の中心地に居座る形での統一だった可能性が強いじゃないかねぇ? 明治維新もそんな感じでしょ? 対外的には畿内勢力の面子を立てる&中国式には良い意味になる『日本』を採用ってあたりじゃないかと。ただし、この辺の本当のことは考古学が進んでもたぶんもはや判らない。

    中国から見たら族長の主導権交代なんてよくわからんわけだし、大きな興味もないでしょ。中国に派遣された使者にも九州閥と畿内閥がいて両者で言うことが微妙に変わって『信用できねー!!』って感じかと。

  1043. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 06:58:00

    九州がそれほど巨大な勢力なら、魏からわざわざ王に封じられる必要もないかと。

  1044. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 07:36:00

    日本は東の古称。

    大化の改新を進めてようやく東の分割に成功し、国造である上毛野君、下毛野君などができた。
    1020に書いたとおり、仁徳天皇時に関東分割というのは、記紀の他の記述にも風土記にも考古学にも矛盾する記述であり、仁徳天皇の功績が詐称されている事は明らかである。

    隋書には、使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
    天を兄とし日を弟と為す、弟に政務を委ねる、隋皇帝はそれを改めさせた。
    (引用:開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたる。この年に遣隋使の記録はないが、中国側の記録の正確さや、ウソをつく理由がないことなどを考慮して、隋書を信じるべきであろう。逆に言えば、日本書紀はウソを書く理由があると言うことである。)

    これは、毛野氏を中心とした縄文混じりの独自文化、鈴祭祀などが、ちょうどこの時期に消えるという考古学とも一致する。弟とされた日とは東の事である。
    また、古事記から、天、日(東)、?(夷)と考えた時に、これはあまてらす、すさのお、つくよみ、の3つを示すのではないか。暴れるすさのおにあまてらすが困らされ政務放棄する話や、すさのお-おおくにぬしの国譲り、つくよみの記述が少ない事もこれで説明がつく。

    旧唐書に 至二十二年又附新羅奉表以通起居 とあるように、
    二十二年=648年の新羅を通した遣使までが倭であり、大化の改新が進み、東(日本)を勢力圏に入れた後はその国号を使った。
    日本を名乗り始めた国は、東出身の中臣氏が補佐し、後に藤原氏として皇室と密接に繋がったため、日本(東)が倭を侵したのか倭が日本を合わせたのか判らない、という記述もよく理解できる。
    国譲りが天と日の兄弟国の話だとしたら、この神話は藤原氏などの東視点で書かれた物であろう。

  1045. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 07:40:03

    >1041
    遠吠え乙
    自信があるなら倭の五王の古墳プリーズ!

    倭の五王が九州王朝なら、日本史がひっくり返るね!
    早く新聞でも学会でも発表すればいいのに!

    >二度とこの話題も、この関連スレッドには書き込まないと信用出来る約束をすれば
    自分の気に入らない意見は封殺しないと不安?
    まともに説得力を持って答えられない人は大変だね!

  1046. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 08:10:02

    1044
    物部氏の行動も素戔嗚尊と一致する部分が多く、香取神宮繋がりで鹿島の神と行動を共にし、東勢力に混ぜられていたのかもしれない。
    というか、謎の出自って、消された東(日本)がほとんどなんじゃ・・・。

  1047. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 09:16:44

    九州説の人は記紀は九州倭王家の歴史を盗んで九州の歴史が消されたといい、今度は東が消された、か

    消されたことにしておけば、ないところにはどんなことでも言えるから、便利は便利だけど

  1048. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 09:58:17

    >1016
    >「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており

    これ何のことかと思ったら、雄略記のこの歌(部分引用)のことだね
    本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 
    本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 
    那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 
    斯豆延能 延能宇良婆波  阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾

    読み下しというか、万葉仮名を現代語に直すと
    上枝は 天を覆へり 中枝は 東を覆へり  下枝は 鄙を覆へり 
    上枝の 枝の末葉は 中枝に 落ち触らばへ 
    中枝の 枝の末葉は 下枝に 落ち触らばへ 
    下枝の 枝の末葉は あり衣の 「三重の子」が 捧がせる 瑞玉盞に

    これ、雄略天皇の宴会で木の葉が大杯に入っていたのを咎められて打ち首に成りそうになった「三重の采女」が、言い訳のために詠んだ歌で、だから自分の出身の「三重」と掛詞になるように歌ったものだよね

    これをもって、倭国が3層構造を持つという観念があったとするのは、難しいのでは?

    それに「天語歌」は、この後の大后と雄略天皇の御製と合わせて3歌で天語歌というのだし、大后と雄略天皇の歌には3層構造のことは一切出てこない
    これは三重の采女の機転を誉める(と同時にそれを許す雄略天皇の度量)を示すのが目的ということでよいと思う

  1049. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 10:51:09

    ※1020
    >源頼朝が東夷を名乗っていた

    そうなの?「征夷」大将軍なのに?
    へりくだって「田舎者」であることを強調したこともあるというだけでは?

    >天から領地を取り戻した戦いだったのですね

    清和「天」皇の子孫なのに?(平将門含め坂東武者も、桓武「天」皇の子孫だし)

  1050. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 11:07:32

    ※1044
    四道将軍やヤマトタケルの頃に東国は平定済み。
    日本を名乗り始めたのは、普通に中華を中心とする東アジア世界のなかで自らの立ち位置(東の果ての島国)と倭という名前が示す蔑称を理解認識しただけでしょう。

  1051. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 12:34:27

    四道将軍は栃木と群馬は平定していないよ

  1052. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 12:45:48

    ※1045
    妄想マミレの遠吠えはオメーじゃん、ナメクジくんw
    学者もそうだか新聞がなんだって、頓珍勘!

    良いから反論しろよ(笑)

    現代史では、WW2の勝者に都合良く勝手に歴史が語られ、日本は侵略者として断罪されているが、これがポリティカルコレクトネス(勝者の政治に都合の良いものを正しいとする事)で逆らえずに押さえ込まれて反論を許されず、それに乗っかる形でシナチスや千ョンコーが日本叩きに嬉々として熱中している。

    勿論、歴史学は事実に基づいて真実を追求するアカデミックなもので、勝者に都合の良いポリティカルコレクトネスと戦って引っくり返す責務を持つ。つまり、歴史修正主義こそが正しく、且つアカデミーの使命だ。

    翻ヒルガエって日本古代史を見てみると、全く同じ構図だw
    古代に於ける倭(和)人の最終統一支配者という勝者の近畿天皇家に都合の良い勝手な歴史(代表は日本書紀)がポリティカルコレクトネスとして君臨し、九州倭(和)国の歴史を消去して日本国の歴史として横取りしている。

    つまり、倭(和)国・日本国別物論を叩いて貶オトシめてる同一論の近畿派のクソ共は、日本悪玉論に乗っかって嬉々として日本を断罪して叩きまくるシナカスや千ョンコーと同じくポリティカルコレクトネス(東京裁判史観と皇国史観)を信じてor利用し、同じ行動を取っているんだpgr

    当然、アカデミックな立場に立つ者は日本悪玉論とも日倭(和)同一論とも戦う歴史修正主義者でなければ、真理の探究者足り得ないんだ プークスクス

    そして、反日醜ブ左翼千ョンコーらは皇国史観を目を吊り上げて弾劾するくせに、東京裁判史観は金科玉条にして嬉々として日本断罪に走るという、不誠実で卑劣な矛盾を平然と犯していた。昔は儂も左翼にカブレてたが、45年前の高校時代に違和感を感じ始め、その10年後くらいからその矛盾もあって意識して次第に離れ始めた。

    もし、現代世界史の東京裁判史観というポリティカルコレクトネスがオカシイと思ってるなら、それは無意識でもアカデミズムに立っているからだし、それなら日本古代史でも一貫し、近畿派の日倭(和)同一論という皇国史観とも対峙せよ! 卑劣で不誠実なご都合主義に嵌まるな!

    と言っても、反日醜ブ左翼千ョンコーら同様の精神構造だから無理だよな、近畿派は(笑)

  1053. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 12:52:26

    天語歌についての論文読んだら海人部や天語連とか纒向の日代宮、泊瀬朝倉宮なんかが出てきて深かった
    色んな学者が中央である天と地方との関係をこの歌に見出してる
    3層構造説はそれなりに支持されているようだね

    論文と参考文献多すぎ!

  1054. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 13:17:05

    ※1052
    反日醜ブ左翼千ョンコー=アンチ皇国史観=アンチ近畿天皇史観=おまえ

    ってことだよね?

    反日醜ブ左翼千ョンコーとおまえの精神構造が全く同じなんだよ

  1055. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 13:22:44

    ※1051
    そこは豊城入彦命かな

  1056. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 13:31:46

    記紀って、別に近畿天皇に都合の悪いことなんて隠蔽してないよね。
    ヤマトタケルは汚い手を使ったとか書いてるし、アテルイもいい感じに書いてあげてるし、九州から東遷したとかも書いてる。昔から征伐したところの民族に「気を使ってあげる」優しく徳が高い文化性があったんだろうね近畿大和天皇家は。

    そんなに気を使ってもらってるのに、近畿大和天皇に征伐された恨みを忘れられずにどうしても近畿天皇=悪としたいのかなー蝦夷や熊襲の人たちは。それって丸っきり朝鮮半島の人たちと同じだよね。

  1057. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 14:03:33

    正しいと言われる口伝を集めて編纂した記紀が九州を隠す理由がよくわからない。(事実なら真偽問わず、正史たり得なかった古文献にも痕跡あってもおかしくないと思う。)
    むしろ他の豪族などのように倒して統一したと公言したほうがいいと思うがね。

  1058. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 14:13:40

    朝昼工作部隊が今日も湧くw
    九州説って、5月の話題をまだ引きずってるのか。
    >1056
    くっさいなー。

  1059. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 14:16:02

    >1052
    学者も新聞も関係なく、
    「倭の五王の古墳」と考えられるものの候補を挙げてくれればいいんだが?
    学者も新聞も関係なく1052の私的な研究の結果の考えで十分だから、とにかく候補を挙げてみてくれ

    1041で「後は言わなくても、質問の答は常識的に解ってるじゃネーか!」というくらいだから、誰もが納得のいく候補を挙げてくれると期待してる

    まさか、九州倭王の古墳が畿内にあるとかはいわないよな?

  1060. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 14:28:41

    ※1058
    図星突かれて痛いんですねwわかります

  1061. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 14:34:58

    多元王朝説は、アンチ皇国史観の左翼が流行らせたもの。

    しかしどうしてもその証拠が出ないのでもうオワコン。
    ウヨっぽいことを口走ってるのはただのカモフラージュで
    やってることは左翼丸出し九州王朝東北王朝説。

  1062. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 15:52:11

    1052とかで「翻ヒルガエって」みたいな半角カタカナの読みが付くのはどうして?
    日本人ならそんな書き方しなくても読めるよ
    識字率99%超の国は伊達じゃないんだから
    逆に普通の日本人ならこんな入力、面倒くさくてやってられないだろうに

  1063. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:06:42

    ※1054
    よっぽど悔しいんだ! 
    いつものすり替え捏造歪曲しかできてネーじゃん、クソ虫さんよぉ(笑)(笑)(笑)
    良いから中身で反論してみろよ、空っぽ千ョンコー!!!

    反日醜ブ左翼千ョンコーら!      日本を愛する保守
      ∥                  ∥
    東京裁判史観の日本悪玉論       日本の自存自衛戦争論←←儂!
      ∥                  ∥
    ポリティカルコレクトネス       アカデミックな
    (勝者に都合の良い歴史)         歴史修正主義
      ∥                  ∥
    皇国史観の近畿派・同一論       九州派・倭(国)日本別物論←儂!
      ∥
    テメーらクソ虫

    とにかくこれで良いから中身で反論してみろよw

  1064. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:12:58

    記紀は勝者近畿天皇に都合の悪いストーリーも書いてるから、(勝者に都合の良い歴史)ではない。

    日本の中心近畿天皇に従わないおまえは、日本を愛する保守どころか反日醜ブ左翼千ョンコーである。

    はい論破

  1065. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:19:20

    ※1063
    勝者日帝を叩くニダ!
    我々を討伐した歴史に向き合わない日帝を許すなニダ!
    日帝に謝罪と賠償を要求するニダ!

    こうですか?w

  1066. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:20:26

    ※1059
    やっぱり、身勝手なことを言ってるぜ、反日醜ブ左翼千ョンコーらと同じなのか!

    ※1041, の下2行の条件を呑んで従えよ! 虫のいい卑怯モンじゃ無いならな。

  1067. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:20:59

    やっぱり歴史コンプレックスって人を狂わせるんだなあ…

  1068. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:49:04

    本当だよな、別にヤマト王権が邪馬台国時代は畿内だけしか支配してなくても、朝貢は別勢力が行なっていて朝貢したことがなくても歴史は歴史でいいじゃんね

  1069. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 17:55:21

    磐井の乱の毛野は近江毛野だな
    武内宿禰の後裔で近畿の皇族系豪族だから毛野君関係ないね

  1070. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 18:04:57

    筑紫君磐井は姓が君だから元地方王族のヤマト王権家臣だね
    いつ頃支配下に入ったかはわからないけど允恭天皇以降だろうね

  1071. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 18:11:10

    ヤマトタケルは、数名の実在した人物をモデルに作り出されている。
    「古事記」と「日本書紀」の違いは数名の人物を統合して作られた人物であることに由来する。
    ヤマトタケルの父の第12代景行天皇、ヤマトタケルの息子とされている第14代仲哀天皇。また13代の成務天皇は創作の人物である。
    これは、第12代~14代までの天皇は「タラシヒコ」という異名・御名を持っているが、この名は第34代舒明天皇・35代皇極天皇と共通していることから、7世紀前半ごろに創作されたことは学会での常識である。

  1072. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 18:49:03

    ※1061
    バカか? すでに書いたぞ。
    反日醜ブ左翼千ョンコーらは、日本古代史の勝者に都合の良いポリティカルコレクトネスの皇国史観をアカデミックな歴史修正主義に立って批判しながら、
    現代世界史では逆に、ポリティカルコレクトネスの東京裁判史観=日本悪玉論に立ってアカデミックな歴史修正主義の日本自存自衛戦争論を叩くという、
    不誠実で卑劣な矛盾を犯した。
    それは、とにかく日本を叩けるならなんでも良いという本音を優先してるからだ。

    俺は、勝者が好き勝手に歴史を作って良いというポリティカルコレクトネスが真実を探究する近代科学に反するから、歴史修正主義の立場に立ってそれと闘う点で一貫してる。
    だから、勝者による日本悪玉論も皇国史観も共に排したので、結果として、日本自存自衛戦争論と九州派の別物論に辿タドり着いた。

    さて、近畿派・同一論の諸君に問う。古代史ではポリティカルコレクトネスの皇国史観に立つなら、現代史では同じポリティカルコレクトネスの日本悪玉論に立って日本を断罪叩くんだな。それなら不誠実で卑劣だという矛盾はない。
    最も、正しい訳ではないぞ! 何せ、どちらもポリティカルコレクトネスで真実を否定して勝者の身勝手な政治的都合を優先し、100%アカデミズムに反してるからだ。

    実は近畿派の同一論者の多くは、古代史ではポリティカルコレクトネスの皇国史観に立ちながら、現代史では日本自存自衛戦争論に立って擁護したいんだと予想してるが、もし、そうなら首尾一貫できずに論理的に矛盾破綻して身勝手な自分の都合を優先してる醜さから逃れられずに、アカデミックで無い上に人として許されないほどの卑怯卑劣さで、人間的にはもろ千ョンコーやんけw

    ついでに、簡単に表した ※1063 も見てくれ。 なお、儂は乱視と老眼だが、一部の漢字には半角カタカナの読みをつけてる。確かに、面倒くさいがお節介な親切心としてスルーしてくれ。
    なお、ケーブルテレビに入ってネットをやってるが、腰が悪いからソファーに横になってリモコン入力してる。そのせいで入力に10倍近い時間がかかるし非道ヒドく疲れるから、一部にしか答えられんわい。

    さて、そろそろ夜の街へ出かけてくる、あばよ!

  1073. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:06:14

    出かける前に
    ※1064
    ネジまげスリ変えデッチ上げがお得意の千ョンコーやんけw ※1072 を読め。
    どうせ低能、否イナ、脳無しで心まで千ョンコー並みに腐ったオメーの言い訳はイランイラン!

  1074. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:06:37

    九州全域を大和朝廷が支配していたが、倭国系統の九州勢力が勝手に朝貢していたとの主張が見られるが記紀にはない上にもし本当なら大問題。

  1075. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:08:08

    1064
    古事記の都合悪いところを日本書紀で直したのはいいの?

  1076. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:19:22

    >1075
    そもそも、
    神武天皇が東征してきた征服王朝であるとか、
    その前にニギハヤヒの先行王朝があったとか、
    天孫降臨の前に国譲りが必要でその前の葦原の中つ国の王が大国主であるとかは、
    本来的に国の正統王権であるという主張を弱めるもので、大和王権の大王の系統=皇統にとっては都合の悪いところなんですよ

    それに、安康天皇が眉輪王に殺されるとか、雄略天皇が多くの皇子を殺すとか、こういったことも都合の悪いところですが、すべて日本書紀にも書かれています

    古事記の都合の悪いところは、日本書紀でも直っていませんよ

  1077. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:25:42

    目弱王は普通に焼き殺されてる

  1078. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:38:44

    雄略紀7年是歳条
    天皇は、吉備の臣田狭を任那国司に任命し、田狭が留守の間に彼の妻をお召し上げになった。田狭は恨んで新羅に通じた。その頃、新羅と日本は不和であった。天皇は新羅討伐に田狭の子を差し向けられた。

  1079. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:46:45

    日本書紀は不比等が鎌足及び中臣氏の正統性を求めて編纂した。日本書紀には中臣氏の先祖として、中臣烏賊津なる人物が登場するが、この人物は、不比等の創作であり、さらに、中臣氏のさらなる祖先は天孫降臨を行なった邇邇芸命とともに日本に降り立った神である天児屋命とした、つまり、この構図は、天皇家と藤原氏は一体であると強調したかったためである。
    よく日本書紀は天皇にも都合の悪いことが記されていると言われるが、実態は藤原氏に都合の悪いことが書かれていないため、天皇家中心ではないことが近年の研究により明らかとなっている。

  1080. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:49:35

    >1066
    >※1041, の下2行の条件を呑んで従えよ! 虫のいい卑怯モンじゃ無いならな。

    なぜあなたの勝手な考えを開陳するのに条件が付けられると思うのか、チャンチャラおかしい

    ご自分の考えに自信があるなら、条件など付けずに大々的に発表して相手を屈服させればよいのに

    で、倭の五王は九州説だと誰? 
    人物の具体名が挙げられないなら、被葬者不明の古墳でもいいって言ってるんだけど?
    まともな古墳すら作れない弱小地方豪族を倭の五王だとか言わないよな?

  1081. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 19:56:35

    >1079
    >実態は藤原氏に都合の悪いことが書かれていないため
    それはあるかもしれない
    そういう視点だと、藤原氏(不比等の子孫)が世に出る前で終わっている古事記が、日本書紀から完全に黙殺されているのも、それが理由かもしれない

    日本の歴史では、「母系」と「父系」の両方が貴種であることが皇統を継ぐことに重要なようで、古くは磯城の県主、途中からは葛城氏、その後一時期蘇我氏を母に持つ皇子が皇位を継いでおり、そうでないときは皇女を母に持つものが天皇になっている
    天武系の天皇と呼ばれる奈良時代の天皇は、父系が天武、母系が天智の皇女となっており、この組合せが正系とされていたように見える
    それを母系を藤原氏にしていくのが、不比等の思惑のように見える

  1082. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 20:15:11

    宮内庁が掘らせてくれない古墳の石室が九州式だったりして…。

  1083. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 20:20:30

    鎌足から不比等の中臣氏、藤原氏が本当に百済系なら邪馬台国や倭の歴史なんてどうでもよかったんじゃないかな

  1084. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 20:55:03

    古事記も日本書紀も編纂を始めた時期は、ほぼ同時期。完成は結構間が空いているが。
    藤原不比等(本名:史)がどちらの編纂にも携わった説があるくらいなので、悪くはかかれないでしょうね。

  1085. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 22:25:43

    藤原氏の元の中臣氏は
    日本書紀では神武天皇に付き従ったと書いてあるが
    古事記では中臣の遠祖はアマノコヤネと書いてあるだけ
    神武東征の従者に中臣は無い

    古事記と日本書紀を読むと
    古事記がボツなった理由がよく分かるw

  1086. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 22:48:09

    恐ろしいことに古事記では
    中臣も藤原もおまけで1〜2回でるだけw
    ボツ確定

  1087. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 22:57:04

    ※1084
    古事記では悪く書かれてないけどモブ
    日本書紀では英雄w

    ※1083
    藤原←中臣←鹿島←天児屋命
    古代の拠点は完全に東国
    藤原氏の先祖はエミシ

  1088. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:00:09

    つまり大和朝廷は
    東国から無限の支援を得られたから
    吉備や九州の巨大勢力に勝てたと考えられる

    これは鎌倉幕府や江戸幕府でも同じ
    東国を支配下に収めると結果的に西日本に勝利できるという構図がみえる

  1089. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:07:20

    ちなみに
    大和朝廷が総力挙げても
    東北全土は落とせなかった
    その時の苦戦が元になり
    武士の騎馬戦術も日本刀もエミシから影響されたと考えられている

  1090. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:21:02

    仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后と武内宿禰と中臣烏賊津三人が久山の斎宮で神の神託を聞く祭祀を執り行った。一人が神主、一人が琴を弾く、一人が審神者。日本書紀によると、この時は神功皇后が神主、琴奏者が武内宿禰、中臣烏賊津が審神者となっている。審神者とは、神が馮り移った神主が発する言葉の意を解釈し伝える役。武内が静かに琴を弾く中、天照大神が神功皇后に馮り移り皇后の口を借りてお告げを言う。「朝鮮半島諸国と国交を開くように、また皇后のお腹には男の子が宿されており、後にこの国を治めるであろう」。神の言葉は直接に解釈出来ない。その言葉の意味を中臣烏賊津が訳した。
    朝鮮半島進出の時。各地から出航した船が対馬を出発しようとすると、嵐が起きる。神功皇后と中臣烏賊津は3枚の苫に祈りこめて海に投げる。嵐を鎮めるお祈りをしたのは、祭祀担当の中臣烏賊津。嵐は治まり、3枚の苫は新宮湊の近くに流れ着きます。この地を三苫と呼び、のちに神社が建てられる。三苫の綿津見神社である。古代は香椎宮の末社であり、神官は中臣烏賊津の子孫である三苫氏が務めていた。このように神功皇后の両脇をナンバー2の武内宿禰、ナンバー3の中臣烏賊津が固めていた。

  1091. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:32:05

    武内宿禰の後裔の蘇我馬子は武力対決で物部守屋を倒す。中臣氏は朝廷の神職を司る氏族として、物部氏を応援してきたが武力闘争には加わっていない。しかし蘇我氏に対しては強い怒りを覚えた。勝者の蘇我氏は次の世代に移り、蝦夷・入鹿の時代には、並ぶ者なき強大は権力を手にする。
    中臣鎌足は「俺は代々神に仕える神官ごときで終らない」と決心、中大兄皇子と手を組みクーデターを計る。クーデターは成功し、蘇我氏は滅びる。二人は国家の改革、大化の改新を行う。
    鎌足は天智天皇より藤原の姓を賜わり、藤原氏が政治を、中臣氏が神職を受け継ぐように分けた。鎌足の弟の中臣垂目が中臣氏を継ぎ、その子孫は日本の神様を祀る総元締めへ登りつめる。伊勢神宮、鹿島神宮などの全国の神祗官トップは中臣氏の子孫が関係している。三苫の綿津見神社を守る神官であった三苫氏は分かれた中臣氏の子孫である。また「香椎四党」の一家でもある。

  1092. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:41:18

    552年に仏教が日本に入って来た。蘇我氏と物部氏の対立である。最初、物部尾興と共に仏教に反対した人に中臣連鎌子と言う人物が出てくる。欽明天皇の時代である。この宗教論争は排仏派の勝利で尾興と鎌子は寺を焼き仏像を難波の堀江に流した。この時に流された仏像が後に拾われ善光寺にむかうのである。その後、敏達天皇の時に宗教論争は再燃して物部守屋と中臣勝海は塔を倒して仏像や仏殿を焼いたという。
    この中臣勝海は父が中臣鎌子、中臣磐余、中臣真人の諸説が在りよくわかっていない。しかも、崇仏主義の蘇我氏と排仏主義の物部氏の戦いの時、勝海は排仏主義の物部側にあったはずが反乱計画の不成功を知って敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子に寝返り裏切る。この裏切りを物部側の舎人、迹見赤檮に殺されている。
    中臣連大鹿嶋、中臣烏賊津連、中臣連鎌子、中臣勝海これら人物のうち「古事記」には誰ひとりとして登場せず、中臣烏賊津連以外は中臣氏系譜にも登場しない。

  1093. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/03(月) 23:46:54

    鎌足の鎌(カマ)も足(タリ)も朝鮮語

  1094. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 00:21:07

    >1081
    蘇我氏の先祖は皇族だから天皇の母になる資格は十分
    藤原氏の先祖に皇族はいないから本来天皇の母にはなれない

  1095. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 00:23:05

    豪族の血が入るとその流れは途絶える天皇家の不思議
    皇族同士で子孫を作らないといけない呪いでもあるの?

  1096. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 00:42:18

    ※1080
    バ~カ、お前らは教えて欲しいんだから礼を尽くし、前に書いたように非礼を詫ワびて土下座から条件を満たすのが当然で、人の道を守れよ!

    そう言えば千ョンコーらも、日本に金を借りにくる時に偉そうにふんぞり反カエって、日本を断罪して悪口言って、おまけに借りてやるから有り難く思えなんていう厚かましくも無礼な態度を取るのが常だったと、中道左派の痔民党の或アる国会議員からかなり以前に聞いたよ。

    お前らも千ョンコーらにソックリやんけpgr

  1097. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 05:23:14

    ただの歴史好きな通りすがりです

    all japan : よし統一したで!大陸行くけどそういや倭の字よくないならこれから日本で行こうやよろしく

    中華 : 倭の人ようこそ久しぶり
    日本 : 日本です
    中華 : えっ、どう見ても倭なんですがそれはどゆこと?
    日本 : 色々大変なことがかくかくしかじか倭だけど日本みたいな〜(あーめんどくせー困った…)
    中華 : ほーん、じゃそれでいいや(なんか怪しい…)

    それだけのことなんじゃないだろうか

  1098. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 06:40:34

    >1097
    よし統一したで!

    この一言についてあーだこーだ語ってるんやで。

  1099. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 07:30:53

    >1098
    1097が言っているのは、推古朝以降のことだから国内(東北を除く)の統一はとっくに済ませた跡だよ

  1100. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 09:16:39

    >1096
    VANKとかテョンとか知ってる?
    別に1096の「教え」を乞おうなんて思ってないよ
    答えたら「あーあ、バカなこと考えてるんだなぁ」って思うだけだし
    答えられなかったら「まあ、その程度だよな」と思うだけだし
    どうせまともな答えなんかないんだろ? 無理するなよ!

    今どき、古史古伝ベースのウガヤ王朝だの、倭皇帝薩夜麻だの、どうやったらまともな顔で教えてやるとか言えるのか、不思議というよりむしろ不憫だな

  1101. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 10:08:15

    >1079>1081
    藤原氏は奈良の勢力だと思ってたのに、奥州藤原氏がいきなり大繁栄してるのがずっと疑問だったんです。奈良からの植民支配ではなく、藤原氏はもともと東夷に勢力を持っていて、その出自を日本書紀で改竄し奈良で繁栄した。
    謎が解けちゃった気がして鳥肌が立つ。

  1102. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 10:09:10

    >1090~1092
    物部守屋は物部氏の宗家ではなく、物部はしっかり朝廷の中枢にいて石上氏と名を変えて石上麻呂は持統朝で正二位の左大臣まで上っている。
    そして、蘇我馬子の妻の一人は物部の娘で蘇我蝦夷の息子の一人は物部大臣と呼ばれている。蘇我と物部は本来的に仲が悪いわけではない。物部大臣は名が皇極紀に出ているだけで、どのような人物か不詳で、一説には蘇我入鹿の別名ともいう。蘇我本宗家滅亡後は、その蘇我の財産血筋は物部氏が引き継いだという説もある。一方で不比等の妻(最初の正妻とも)は、蘇我倉麻呂の孫、馬子の曾孫であり、藤原氏も蘇我氏と繋がる。
    そして、藤原不比等が、持統朝以降頭角を現してくるのは、石上麻呂に引き立てられたからとも言われている。藤原不比等の三男宇合の妻は石上麻呂の娘で、子供同士を結婚(政略結婚?)させる関係で、石上麻呂が皇親政治の中で非皇族で最高位の臣として昇っていくとき、その麻呂の昇進後の空いたポストに不比等が就くことで、不比等も官職を上っていっている。
    こうして見て来ると、古代の雄族、葛城氏→蘇我氏、物部氏の系譜、財産が、すべて藤原氏に繋がっていると見ることができる。

  1103. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 10:19:46

    >1101
    申し訳ないが、奥州藤原氏の繁栄は、陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏が、ともに前九年後三年の役でつぶれ、清原氏の後妻の連れ子の立場にいた藤原清衡がその全てを掌握したのがきっかけであって、「藤原氏はもともと東夷に勢力を持っていて」というのは、確認されていない。
    まあ、その清衡の祖父の藤原頼遠が、平忠常の乱に連座したという説もあるから、その頃には関東に藤原氏の流れがいたのは確かだけれど、この乱は11世紀のものだし古代の話とは残念ながら繋がらない。

  1104. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 10:38:44

    >1063
    >日本を愛する保守
    まともな日本人は、保守・革新を問わず、根拠もなく他人を貶める発言はしません
    あなたがまともな「日本を愛する保守」とは、とてもじゃないが認められません

    >日本の自存自衛戦争論←←儂!
    古代史と、20世紀の戦争の間には基本的に関係ないですよね

    >アカデミックな歴史修正主義
    アカデミックじゃないから、相手にされてないんですよ
    まったく科学的な根拠を挙げてないじゃないですか
    あなたが「アカデミックだと誤認」しているところがどこなのかすら分かりません

    >九州派・倭(国)日本別物論←儂!
    これが一番、頭が悪く見えるところですよ
    結局、大陸の史書の中の一書に過ぎない旧唐書の編者の主張(地の文)ですらない、引用の一説として書かれているだけの俗説が頼りの根拠のきわめて薄いことを信じているのが、どこがアカデミックなのですか?
    そして、旧唐書自体、正史としては出来が悪いとして新唐書が新たに編まれている訳で、その新唐書の中では倭国日本別国論は既にありません

    内容について反論してみましたが、まあ無意味ですよね
    聞く耳持たないでしょうから

  1105. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 11:11:37

    >1103
    茨城から南東北辺りまで影響持ってたんじゃないかと思ったけど、たまたま藤原名乗ってた人が継いだだけなのか。
    たけみかづちの親戚(香取?) → 宇佐(石器攻めの時現地入り?) → 入り婿で伊賀 → 
    東に戻って鹿島中臣氏 → 全国展開の祭祀担当 → 一部が藤原氏に
    東勢力が暴れてただけなのかな。

  1106. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 11:24:43

    ※1103
    秋田には「鹿島様」って守り神がいるぞ
    ぐぐってみるといいよビックリするからw

    秋田の鹿島様はどうみても戦いの神でムラの守り神とされる
    中臣遠祖が大鹿島だから関連は否定できない

  1107. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 12:38:09

    今まで天皇について、日本書紀が正しい正しくないで議論されてたけど、藤原氏の視点に立ってみるとどちらでもないね。
    千年以上、不比等にしてやられてるのかも。
    もしかしたら近衛家とか冷泉家には不比等が葬った歴史が残っているかも。

  1108. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 14:26:20

    藤原氏には藤原氏の歴史書、藤氏家伝というものがあってだな

  1109. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 14:58:53

    >1108
    藤原ちゃんは天才で優しくて勇気もあってめっちゃ尊敬されてた。くらいしか書いてなくないか?
    仮に祖先の系譜が書いてあったとしても、そういうのがあてにならないからって、皆で古事記編纂したわけだからなぁ。
    とりあえず蘇我氏討った時は雨ざーざーだったのはわかった。

  1110. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 16:27:33

    ※1100
    おい、千ョンコー! テメーが繰り返し教えて欲しいと言ったんだぞ、すり替え歪曲捏造で言い逃れは通らんぜ!

    逃げるなら出てくるな、と言うか、出てきて言い逃れして悪態吐ツいて虚勢を張る方が無ブ様だな。  それにも気づかんほどの哀れ過ぎる千ョンコーww

    出てきたんならまずは土下座からだぞ、早くやれよ!!!

  1111. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 16:56:42

    まともな議論に誹謗中傷が入る余地はないはずなんだが、どうしてこうなってんのよ。
    自説を持って他人を感化する気があっての発言ならもっとも愚策。
    例え論がまともであっても、信用に値しないと看做される。
    ただ自分の主張を垂れ流せば満足で、異なる意見を排除するために誹謗中傷するのならチラシの裏にでも書いててくれ。

  1112. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 17:17:04

    >1106
    鹿島様、ググって見てきた 面白いね
    もともと道祖神は大国主とスセリ姫の双体道祖神も多くて、地祇系の信仰のものだけど、この鹿島様も本来はその文脈なんだろうね
    その一方で、記紀的には鹿島神宮の武甕槌は、イザナギイザナミ由来の天神系
    ただ、由緒を見るとやっぱり藤原氏が伸してくる天武・持統朝の頃から朝廷や藤原氏との関係が強くなるのも分かる
    この辺りは地の信仰を、中央の神話に取り込んだ感じなんだろうか
    東北に鹿島香取の信仰が広がるのは、その朝廷からの勅旨が来るようになってからみたいだから、余計に訳が分からなくなっているけれど

  1113. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 17:24:09

    ※1104
    お前もコジツケすり替えしかしてないぜ。 そのクオリティは千ョンコーソノモノだぞ。

    肝心なのは、近畿派・同一論は倭人の大多数を支配した勝者の歴史に立つ皇国史観と言うポリティカルコレクトネスだ。この事自体がアカデミズムの歴史修正主義と相反してて、言い逃れ出来ネーなw

    もう一は、不都合だから関係無いと言って隠して逃げた件だ。現代史では都合良くアカデミズムの歴史修正主義に立って日本を擁護をして、戦勝国のポリティカルコレクトネスの日本悪玉論を叩いてるよな。ホント虫が良すぎる身勝手で不誠実過ぎる深刻な絶対矛盾! 

    こちらこそ前者の相反より、人間的には致命的な絶対矛盾! だからこそ、隠すのは解らんでもないが、それも含めて、「こりゃぁ千ョンコーにも劣るぜ、糞クソ虫未満なんて有り得んぞ!!!」

    何せ、反日醜ブ左翼千ョンコー達ですら、この絶対矛盾は避けて共にポリティカルコレクトネスの立場に立ち、論理的整合性だけは保って筋だけは通してる。この筋すら通さんなら出てきても無意味!

    結論:近畿派・同一論は古代史では勝者のポリティカルコレクトネスに立ってアカデミズムの歴史修正
       主義と相反する愚を犯しながら、現代史ではアカデミズムの歴史修正主義に立って日本を擁護す
       る絶対矛盾を犯して、論理的整合性すら保て無い(その主張は議論に値アタイせず)。
       これだけでも、糞クソ虫たる反日醜ブ左翼千ョンコー達に生き物として劣るのに、否イヤ、だからこ
       そ、さらに隠しだてして卑怯卑劣の上塗りをする。もう相手出来んだろう、、、

  1114. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 17:30:47

    むしろ誹謗中傷がしたいだけではなかろうか

  1115. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 17:46:43

    >1110
    上から全部読んできてるけど、そもそも最初の978の「倭の五王の墓は、九州倭国説ではどれに比定するの?」は、967の「九州福岡筑紫の倭(和)国の五王なのに」に対する問いだろう?

    967と1110は文体からして同じ人だと思うが、自分の考えに対しての確認をされただけなのに、それをなぜ「下からのお願い」だと受け取るんだ?

    ネット環境に十分に接している人からすれば
    土下座要求=マウンティング志向(謝らせれば勝ち)=対等な関係は持てず上下関係に落とし込もうとする=腐れ儒教の影響の強い「かの国」しか連想しない

    自分の考えに自信があるなら、条件など付けずに主張すればいいのに、それができないなら話もできないな

  1116. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 17:59:36

    伝説的な神功皇后に自らの先祖を付き添わせる不比等のファインプレー。
    なお、後世、神功皇后自体が疑われる原因に。

  1117. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 18:44:34

    >1092
    烏賊津の読みがイカだったら、伊香津=伊賀って事でいいのかな。
    古事記にないなら大鹿嶋も烏賊津も勝海も存在しないとして、中臣系図で鎌足の曾祖父に書いてある常磐大連というのはどうだろう。さいたまの鹿島台にある常盤町という場所は、公式町名がつく前から、通称常盤町だったらしいし、後付けじゃなければ関係を示す場所ではないだろうか。それともこういう誤認を狙ったものなのだろうか。
    >1112
    鹿島中臣氏が藤原氏を出して、そこから広めて行ったんじゃないかな。

  1118. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 19:17:57

    >1117
    俺の知ってる範囲というか、調べた範囲では、鹿島中臣氏は天児屋根命を祖としていて藤原に繋がる中臣と同祖をうたっているが、系図的なつながりはなさそう
    藤原氏自体は中臣鎌足が始祖だけれど、鎌足の出身地は大和の藤原の地で間違いなさそう
    鹿島中臣氏が、藤原氏を出したとは言えないようだよ

  1119. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 19:26:03

    >1110
    >繰り返し教えて欲しいと言ったんだぞ
    答えられるもんなら答えてみろ、にしか見えないんだが

    たぶん、1110がばかにされてる

  1120. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 19:47:58

    ※1117,1118
    明治になるまでは神宮と呼ばれたのは伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の3つだけだった
    大社と呼ばれのは杵築大社(出雲大社)のみ
    (今は多くの神社がカッコ付けのため神宮や大社に改名した)

    鹿島・香取神は中臣・藤原氏の氏神で春日大社の御祭神になってる
    この春日大社も昔は春日神社
    つまり昔は
    春日大社より鹿島・香取神宮のほうが格上だった!

    出身母体は東国の常磐(茨木)で間違いないと思う
    生まれは不明確だが常磐で生まれて才能をみ込まれ都に行ったというのが一番ありそう

  1121. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 21:55:55

    NHKで邪馬台国ミステリーもうすぐだな

  1122. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 22:13:15

    不比等は奴国や邪馬台国の倭系統の歴史を全く知らなかった可能性がある。
    無視しすぎだよね。
    少なくとも2〜4世紀に大王家の中枢にいたとは思えない。
    中臣はヤマトタケルの平定時に従った地方豪族だと思うことにした。

  1123. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 22:40:17

    ていうか、7世紀から見た400 年前って文書記録がなかったら、そうそう分かるもんじゃないと思うんだが。
    どうして分かる前提なのかが、かえって不思議。

  1124. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 23:20:25

    NHKの番組見たがまあ面白かった
    多重王朝説に言及したのは良い

    しかし狗奴国を東としたのは許せない!
    魏志倭人伝「其の南には狗奴国がある。」
    倭人伝で東と言ったのはあるが
    「狗奴国は『海を』渡って東」と書かれている

    そしてとどめ
    よく日本列島が南向きの地図が出てくるが
    それは明代の地図
    明より前の隋書では「九州から東に向かった」と明記
    あの地図は完全論破されており存在価値無し

  1125. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/04(火) 23:43:49

    ちょっと前までは
    大和朝廷の前に王国は無し
    日本全土がウホウホ猿の原始人w
    これが「アカデミックな常識」だったww

    しかし今は変化しつつある
    出雲は無視できないし他の王朝も否定できない
    縄文文明すら否定できない

    東国には「鹿島様」を崇める巨大王朝が有った可能性がある
    ニギハヤヒはニニギより先に降臨していたという伝説もある
    ただ鹿島様とニギハヤヒは神武天皇に協力したようだ

    沖縄にも天孫降臨伝説があるし古代はおもしろい

  1126. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 00:23:10

    1123
    文字を持たないからこその口伝がある
    アイヌもアメリカ大陸先住民もそうだよ
    毎晩語ることでずっと同じ物語が伝承される

  1127. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 06:15:46

    北九州の伊都国、吉備、出雲、奈良の卑弥呼が居る神殿(邪馬台国)この近畿~西日本が魏と交流合った倭なんじゃないかな
    北陸は一応交流あり程度、名古屋の狗奴国は交流ありだったり戦闘ありだったり、狗奴国は後に関東などを制覇か影響力を関東まで拡大、又は関東と優位的な同盟結ぶ
    基本的に各勢力に男王が居て象徴天皇みたいな形で巫女である卑弥呼が代表で奈良に神殿がある形
    卑弥呼の後に乱がおきたってのは各勢力の男王が後継者争いしたけど象徴天皇置く形が一番荒れないので壱与になったと。
    その後何回か戦ってきた狗奴国が力を付けて関東東海中部制覇で邪馬台国を代表とする倭に攻めこんで大和朝廷になった、狗奴国と吉備が同盟を結び出雲と奈良を倒してその後北九州まで攻め込む形
    狗奴国と吉備を母体とする大和朝廷の出来上がり
    旧倭国の主要国の吉備が狗奴国の正当性を主張する事により大和朝廷(狗奴国)の王族の正当性を確保
    倭国に通じる日本の代表として大和と名乗れるようになる
    倭(邪馬台国は代表)=大和=日本でスレタイの別種と言うよりは国の中心の政権が
    近畿~西日本連合の邪馬台国から狗奴国吉備連合の大和朝廷に変わっただけ

  1128. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 06:44:05

    たぶんこんな感じの認識だからややこしくなるんだろうなあ
    倭=邪馬台国=九州
    日本=大和朝廷=奈良

    倭=北九州、吉備、出雲の西日本連合(奈良周辺の邪馬台国は書いてある通り代表で象徴的で国力より権威)実質的には北九州、吉備、出雲の西日本連合

    日本=大和朝廷=奈良+吉備+尾張の狗奴国(西日本連合から尾張の狗奴国母体の奈良と吉備連合)

    倭=西日本連合
    大和朝廷=中部近畿連合

  1129. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 07:26:15

    口伝の歴史はすごいぞ、近年の科学調査で、アボリジニなど最大で約2万年前まで事実を伝えていた事が判明している。
    一番有名なのは、世界中に残る洪水伝説、ノアの箱船や日本では国生み神話。
    1万年程前に海水面が最大120mほど上昇し、現在でも当時から+100m以上という事が判明した。
    瀬戸内海の水深は40mほどしかない、つまり、関東にも勝る瀬戸内大平野が、縄文時代の洪水によって飲み込まれた事は明らかであり、瀬戸内大平野の洪水から山が島として生まれていった事が国生み神話に表されているのだろう。
    また、西日本の縄文遺跡が少なすぎる事も、これで十分説明できる、瀬戸内に沈んでいるのだ。
    アフリカなどに行って調査したら、氷河期などもっと古い事まで口伝されている可能性もある。

  1130. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 07:41:17

    旧約の民・・・倭・・・国津系
    新約の民・・・日本・・天孫系
    なんじゃねwww

  1131. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 07:45:33

    八咫烏秘史読めば解る?

  1132. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 09:03:38

    「日本人」が編纂した記紀はほとんどウソだから信じないってスタンスなんだな。

  1133. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 09:53:20

    まあ、何でもウソだから信じないって言ってしまえば、自由に創作できるから

  1134. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:04:10

    ※1132
    豊璋「日本人として認めてくれてありがとさん。嫁の一族の太安万侶も子孫の不比等も喜んでるやで。これからも百済をよろしくニキ。」

  1135. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:16:48

    >1129
    ノアの洪水は黒海の部分が(海面下の)陸だったところへ、海面の上昇でボスフォラス海峡を越えて地中海の水が流れ込んで水没したって話の方が好き
    そっちの方が、破局的でしょ?

    120メートルの上昇っていうとすごく劇的に見えるけど、年に何ミリも行かないペースだから、箱舟の洪水の話とかとは繋がらないと思う

    ジブラルタルの門の向こうの広大な陸地とかいうアトランティスは、この大陸棚の水没でいいかなと思うがな

    >1万年程前に海水面が最大120mほど上昇し
    これ、正確じゃないよ
    1万8千年前の最終氷期最盛期から6千年前までの間の1万2千年かけて、少しずつ海水準が上昇して累計で120m以上上昇した、だからね

  1136. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:18:34

    >1128
    >倭=西日本連合
    >大和朝廷=中部近畿連合
    それってさ、一昔前の銅矛文化圏と銅鐸文化圏なんじゃないの?
    邪馬台国はそれより後の時代だと思うな

  1137. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:21:59

    >1126
    口伝が驚くほど長く記憶を伝えるのは分かってるけど
    それでも長年の間に語り手の趣味が入り込むし、昔のことは昔としか伝えられない

    それと、ひと頃本当に怖いグリム童話とかあったけれど、聞き手の興味を引く方向に潤色されがちっていうのもある

    で、結局口伝として伝わっていたのは、古事記に記されているレベルってことなんじゃないの?

  1138. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:30:33

    ※1134
    帰化人だろうと何だろうと、朝廷の指示により編纂され、公式に認められているという点から問題は何もないと思うがね。
    元は雑多な口伝を集めて、正しい物だけを選択してまとめたって書いてあるでしょう。

  1139. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 10:37:53

    ※1137
    口伝は、長きにわたって徐々に変質することはもちろんあります。基本は同族によって伝えられるので利害を含め、大筋は変わりづらい。
    文献にしても、作者・時の権力者の意向が働き、正しいとも限りませんし、書写において誤字脱字、悪意・善意による改ざんの可能性ということも出てくる。

    現に皆さんがあがめたたえている、シナの文献、司馬遷の史記には、同時代の四川省の有力な文化・文明が無視されていたりするので、口伝だけがということにはならないでしょう。

  1140. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 12:34:42

    ※1139
    >現に皆さんがあがめたたえている、シナの文献、司馬遷の史記には

    歴史を大事にしない半島系の人の文章って特徴あるね

  1141. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 12:49:31

    >1138
    >元は雑多な口伝を集めて、正しい物だけを選択してまとめた
    この「正しいものだけ」ってところ、昔は朝廷(天皇)に都合のいいものが正しいって恣意的に決めたんだろうなと思ってたんだけど、結構まじめにいろいろ比較して整合性が取れるように頭を悩ませながら何が正しいか判断していったんだろうなと最近は思うようになった
    日本人、昔からまじめすぎだし凝り性だし(笑)

  1142. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 12:50:10

    倭の別種とあるけど
    倭の一種という意味だよね

  1143. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 12:54:00

    >1129
    >瀬戸内大平野の洪水から山が島として生まれていった事が国生み神話に表されているのだろう。
    最近見たトンデモ系の本の広告で、国産みの最初の島、淤能碁呂島は河内湖の沼沢地にあった島で、今は陸化しているから(島ではないから)見つからないって書いてあって、なるほどなと思った
    縄文海進から水が引いていく過程で、泥の中から陸が生まれるというのはありだなと思った

  1144. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 13:05:24

    >1141
    物部氏が大王家より畿内で古いことは編纂当時でも常識だったのではないか
    古事記が河内や熊野、葛城や紀伊の歴史と違ったらそれこそ当時から批判されていただろう

  1145. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 14:16:14

    九州派だが記紀について申す。
    これに限らず、口伝や伝説や神話に限らず、また日本に限らず、遥か彼方の大昔に実際にあった出来事を当時の人の受け止め方や何らかの都合で脚色した物という、当たり前の常識が近畿派には欠けてる物が少なく無いようだ。

    つまり、近畿派は記紀をほとんど正しい物と受け止めている為なのか、「九州派は記紀をほとんど嘘と見なしている」と非常識に決めつけている。こうした近畿派の偏狭さは、アカデミズムの歴史修正主義とは相反する皇国史観というポリティカルコレクトネスに立っている為のようだ。

    古事記は近畿天皇家に関わる口伝を文字化しただけで、勝者に都合の良いポリティカル(政治的)コレクトネスをあまり基本とはしてないようだから、上下でたった2巻で終わっている。勿論、目立たない嘘が巧妙に紛れ込ませてある可能性は否定出来ないので、そこは要注意だ。

    しかし、日本書紀は大量の異説を記載する良さもあるが、倭(和)人の始元の時から全体の正統支配者として唯一君臨していたというポリティカルコレクトネスに全面的に依拠してるので、九州と中国・四国の各西部と任那・弁韓を支配してた倭(和)国の事蹟や歴史までも近畿日本国の歴史として横領した事も有って、全30巻という量に膨れ上がっている。

    まあ、自分に不利な事を記載してる部分はわりと本当だという、世界一般の特徴は、大体当てはまる。ついでに欠史八代は実在した首長・天皇だといえる。嘘を吐くならその業績も適切に持ち上げて書けば良いだけだ。
    また、剣が神器の天皇家は元は剣鉾の九州の豪族で、苦境に陥オチイって東方への植民=移民活動を開始して大阪湾上陸戦で敗北した後に南から迂回し、長脛彦らの戦力が大阪に張り付いて軍事的に空白になった奈良盆地侵入し、支配権を打ち立てた神武東征は史実だ。

    銅鐸を神器とする近畿の中心の奈良盆地でその神器がいち早く廃棄させられた訳だが、考古学的には2世紀半ば前後で、これが神武東征の年代だ。これは欠史八代を実在として解析した安本美典の推計ともほぼ一致する。
    つまり、卑弥呼以前に神武東征が行なわれた。そして、代々の支那の歴史書では倭(和)国は女王以来の国とされ、中にはそこには阿蘇火山が有って敬っているとも記載してる物もある。

    天皇家は元は九州の豪族でその勢力のままで近畿に武力移民したが、九州の支配層全体は九州に残ってるんだぞ。
    たったこれだけでも結論は出てる。アッ、レスはイラン。なぜなら、管理人さんに解ってもらうだけで良いから。  

  1146. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 14:26:01

    ※1145
    管理人さんにだけ申し伝えたいなら、見ていない可能性があるここに書かずに、上にあるお問い合わせフォームから送った方がいいよ。

  1147. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 15:26:30

    ポリティカルコレクトネスという言葉が好きなことは分かった。
    そして皇国史観がポリティカルコレクトネスと言っている時点で言葉の意味をよく把握していないことも分かった。

    あと面白いのが「全30巻という量に膨れ上がっている」という部分
    日本書紀は天皇一代に一巻を割り当てるというのが原則(治世が短い天皇は数代で1巻にまとめられている部分もある)になっているので巻数は多いが、一つ一つの巻はそんなに長くもないし膨れ上がっているという表現はふさわしくない。第13巻允恭天皇、安康天皇は標準的な巻だと思うが、全体で5000文字くらい。ワード文書にすると6ページくらいだな。ちなみに魏志倭人伝が2000文字弱。
    1145が主張する「倭(和)国の事蹟や歴史までも近畿日本国の歴史として横領した」に当たる神代紀の記述は、古事記と比べて特に多くなっているわけではないし、出雲の神話はざっくり削られている。長くなっているのは欠史十代以降の部分だな。

  1148. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 17:55:35

    ※1120
    神宮と付くのは日本書紀では伊勢神宮と石上神宮の2社のみ。
    平安時代の延喜式には伊勢神宮と香取神宮、鹿島神宮の3社のみが神宮とされているが、
    平安時代以降に重要視されたのは神宮ではなく、十六社および二十二社と呼ばれる畿内の神社。
    台頭してきた(関東にも利権を得た)藤原氏に配慮して、香取と鹿島は名誉的に神宮としたもの。

    広辞苑第六版より引用
    【十六社】
    平安時代、奉幣のために定められた畿内の名社、すなわち伊勢・石清水・賀茂・松尾まつのお・平野・稲荷・春日・大原野・大神おおみわ・石上いそのかみ・大和おおやまと・広瀬・竜田・住吉・丹生にう・貴船(貴布祢)をいう。のち吉田・北野・広田の3社を加えて19社に拡大。
    【二十二社】
    大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。1039年(長暦3)後朱雀天皇のときに固定化。伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神おおみわ・石上いそのかみ・大和おおやまと・広瀬・竜田・住吉・日吉ひえ・梅宮・吉田・広田・祇園・北野・丹生・貴船の各社。

  1149. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 18:24:32

    >1145
    あと、1145に言いたいことじゃないけど、1145の間違っているところの訂正を一つ

    >古事記は(中略)上下でたった2巻で終わっている。

    これが間違い。
    古事記は「神代記~海幸山幸」までが上巻、「神武天皇~応神天皇」までが中巻、「仁徳天皇~推古天皇」までが下巻の、「三巻」構成になってる。
    まあざっくりで「神話の上巻」「伝説の天皇の中巻」「今(古事記作成時)に繋がる天皇の下巻」という構成で、応神天皇と仁徳天皇の間で中巻と下巻が分かれているのも、注意すべきなのかも
    倭王讃を仁徳だとするなら、意味のある区切りなのかもしれない

  1150. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 18:38:05

    ※1145
    >つまり、近畿派は記紀をほとんど正しい物と受け止めている為なのか、「九州派は記紀をほとんど嘘と見なしている」と非常識に決めつけている。

    違う違う。
    近畿派は、記紀を参考程度に緩く斜め読みしてはいるけど、基本的にはほとんど信用してない。最も信用してるのは考古学的事実。
    九州派のことは、都合のいいところだけ記紀を金科玉条のごとく扱うくせに、都合の悪いところはポリティカルなんちゃらとか言って無視するゴミカスだと思ってる。

  1151. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 18:50:16

    ※1068
    近畿以外に歴史のある別勢力があってほしいという歪んだ願望が、ゴッドハンドみたいな恥ずかしい行為を産んだんだろうな

  1152. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:21:47

    >1150
    オレは考古学的な出土物を見ていくと、案外記紀もしっかり書いてあるなと見直したりしてるけどな
    極楽寺ヒビキ遺跡とか

  1153. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:33:22

    ※1152
    考古学にプライオリティを置いて→結果的に記紀のここは正しいんだね
    となるのはいいと思うよ

    九州説は
    自分の願望にプライオリティを置いて→都合の良いところだけ正しいんだね
    となるからゴミカス

  1154. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:34:54

    >1153
    確かにww

  1155. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:36:21

    1089
    あんな米も取れないところ本気で攻めなかっただけだろ
    源頼朝が本気出したら瞬殺だったじゃん

  1156. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:41:07

    ※1150
    俺から見ると畿内説は考古学も記紀も倭人伝も無視か歪曲してるとしか思えないが
    金印が九州から発見されているから
    考古学的にヤマト以外の「倭王」が九州にいたのはほぼ確実だよね
    考古学的を重視するなら出雲にも巨大勢力が有った可能性は否定できない

    卑弥呼が共立されたのは2世紀後半だから
    畿内説なら2世紀に畿内は九州まで支配していたことになる
    考古学的に無理w

  1157. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:51:53

    >1156
    >金印が九州から発見されているから
    >考古学的にヤマト以外の「倭王」が九州にいたのはほぼ確実だよね
    それを否定してる畿内説の人、いないよね?
    ただ「漢委奴國王」は卑弥呼の邪馬台国より、160年くらい前で卑弥呼が朝貢した頃にはもう奴国の優位はないよねっていってるだけで

    >卑弥呼が共立されたのは2世紀後半だから
    >畿内説なら2世紀に畿内は九州まで支配していたことになる
    共立だから、支配はしてないって何度か書いたつもりだけどな
    そして、共立と想定されている2世紀後半から、魏に朝貢して大陸と交渉を持つまでに40年かかってる
    この間に、権威が上昇したと考えればちょうど纏向遺跡が拡大する時期とも重なってくる
    卑弥呼の共立が2世紀後半というのも、卑弥呼の寿命から考えて早すぎじゃないかと個人的には思ってるがね

  1158. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 19:57:07

    ※1148
    記紀には鹿島神宮も香取神宮も出てこないから
    それだけで神宮が2つだけと断定できないよ

    あと十六社は畿内の人がお参りする神社。東国は載ってなくて当然
    >【十六社】
    >平安時代、奉幣のために定められた『畿内』の名社、

  1159. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 21:37:16

    ※1145
    三種の神器の剣って、出雲の蛇を倒した時にゲットしたやつだろ
    あれあれー?「剣の国(?)」が討伐されたってことなんじゃないの?
    あっそろそろ都合が悪くなってきたからポリティカルなんちゃらの出番ですなw

  1160. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 21:50:56

    >1159
    剣で討伐してるんですけど…

  1161. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 22:00:43

    ※1160
    武器ぐらい持ってるだろそりゃ

  1162. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 22:32:10

    ※1159
    爾速須佐之男命拔其所御佩之十拳劒
    切散其蛇者肥河變血而流
    故切其中尾時御刀之刄毀
    爾思怪以御刀之前刺割而見者在都牟刈之大刀
    故取此大刀思異物而白上於天照大御神也
    是者草那藝之大刀也
    那藝二字以音

  1163. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 22:35:14

    ヤマタノオロチを殺して欠けた十拳剣は、大蛇之麁正、もしくは天羽々斬之剣/天蠅斫剣として石上神宮(石上布都魂神社)に祭られた。 書紀では、「蛇韓鋤の剣」として吉備の神部に祀られた。 鹿島神宮ではスサノオの十握剣と伝承される長刀を展示しており、国宝に指定され一般公開されている

  1164. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 22:44:00

    草薙剣は天智天皇の時代、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天皇が病に倒れると、占いにより草薙剣の祟りと判明。神剣は再び熱田神宮へ戻された。だが天武天皇は回復せず崩御した。
    これらの話は豊璋の子の不比等により付け加えられたのもであり、天武天皇に対する呪いとしている。

  1165. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:05:27

    >1159
    スサノオが討伐してアマテラスに捧げられてニニギが降臨したからまさに剣の国の象徴

  1166. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:10:20

    正史に出雲と吉備は出てこない
    つまり倭国に出雲と吉備は入らない
    すなわち出雲と吉備を支配していた畿内は3世紀の倭国ではない

  1167. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:15:47

    ※1166
    投馬国

  1168. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:37:09

    >1164
    なんなんだこの気持ち悪いの、ネットでも検索1位で出てくるし、
    ○○は朝鮮人で、藤姓は朝鮮人、日本人は朝鮮人ニダーってか。
    百済王ってそのまんまの姓で普通に残ってんのに。

  1169. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:56:27

    中臣氏の祖先とされる、宇賀(大鹿島の親)に注目してみた。
    宇や賀はあちこちに見られる地名で、まずは賀について調べてみた。
    賀○という地名が北九州や備中風土記に見られ、それ以外の場所では○賀が多いことから、
    賀○が関東あづまに入植し、○賀となって全国展開、あづまの○賀近くには河内も併設され、瀬戸内あるいは大和連合そのものが、あづま植民した痕跡ではないかと見た。
    特に吉備国の賀美が、茨城県稲敷の羽賀美浦で隣に河内があり、同様に栃木県宇都宮の河内が隣にある芳賀に賀夜が入り、それら入植者によって宇賀が生まれた・・・と妄想してたら・・・。

    よりにもよって、鹿島のすぐ隣に、「賀」って地名を見つけてしまった。賀って・・・一文字って・・・なんなのさもう。
    どなたか「賀」の由来、古事記や風土記で知りませんか、このままだと逆に関東から瀬戸内や北九州に植民って話になってしまいそうなんです。
    2日もかけて調べてたのに、賀って、もう無理、まじぬるぽ。

  1170. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/05(水) 23:59:20

    1169
    ガッ

  1171. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 00:05:46

    ※1168
    豊璋が朝鮮半島に行っている間は鎌足は宮中に出仕していない。
    不比等以外の流れは中臣に戻されている。
    日本書紀の執拗な百済上げ新羅下げ。
    日本書紀と古事記の中臣の扱いの差。

  1172. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 00:16:44

    俗説だが藤原氏の近衛首相は天皇に会う時には足を組んでいた

  1173. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 00:18:28

    ≫1168
    現在の朝鮮人と百済人は違うぞ
    そんなことも分からんのか
    歴史を学ぶことの大切さを実感する

  1174. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 00:19:37

    >1168
    百済王は弟の子孫じゃん

  1175. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:02:53

    百済王を普通に名乗れる環境で隠す意味もなく、藤原家の家伝にも残って無くて、捕らえられて高句麗、さらに捕らえられて唐に連行されたと記録があるのに、朝鮮人ニダー以外の理由でそんな話がもてはやされる理由がわからん。

  1176. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:04:16

    ×捕らえられて高句麗
    ○逃げ出して高句麗

  1177. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:05:00

    雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させた(雄略天皇20年を機械的に西暦に換算すると476年となるが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。
    呉国(宋)から手工業者・漢織・呉織らを招き、また、分散していた秦民の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
    雄略22年1月1日、白髪皇子を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御した。雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となる。しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。この解釈としては、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解が現在の主流である。
    雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女が仁賢天皇の皇后となり、その娘の手白香皇女が継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。

  1178. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:07:27

    1175
    豊璋が生きていたら唐から引き渡し要求がくるか攻められると判断されるかしてもおかしくないでしょうに

  1179. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:10:02

    NHKでやってた芸能人のご先祖番組で、九州の武家本家から出ていると放送されたが、実際にはそこで働いていた使用人の朝鮮人が、苗字を名乗っていただけだった。
    放送後、本物の武家の本家に対し、自分が本家ということにしておいてくれと注文があったそうだ。
    厚かましいなどという言葉では収まらない話。

    藤原派生の名を持つものは朝鮮人の子分だから、日本を裏切って朝鮮の為に働くべきだ。
    こう大騒ぎで言い続けられたら千人に一人くらいは騙されるだろう。それは数千数万の工作員となって日本を食いつぶす。

  1180. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:12:48

    ※1150
    >違う違う。
    近畿派は、記紀を参考程度に緩く「斜め読み」してはいるけど、基本的にはほとんど「信用してない。」

    「」は引用者

    古事記と日本書紀の都合のいいところしか読まない宣言?

  1181. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:13:11

    証拠はないけど朝鮮人。これは日本を食いつぶすための工作手順である。

  1182. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 01:51:37

    朝鮮国の分家が日本国(兄と弟)であり、日本国は朝鮮人天皇藤原が支配する国であり、藤原及び藤原の分家筋は朝鮮のために働くべきだ。
    証拠がないどころか、日本から朝鮮に人が渡っていった事が、歴史書でも考古学でも明らか。

    つまりこれは、捏造慰安婦と全く同じ構図。
    言われ続けたら騙される日本人が出て、日本人全体が苦しむことになる。

  1183. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 03:22:33

    ※1179
    それってあの鳥越?  中身スッスカなくせに厚かましくも後出しで都知事選に横入りして凶惨のクソ仲間を押し出したよな。  垢同士の揉め事なんかどうでもいいか。

  1184. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 04:37:08

    >1145
    判明したこと
    1. あんたに考古学知識がないこと
    2. あんたが畿内説を全く理解しおらず正反対のアプローチだと誤解していること
    レッテル貼りをするなら相手の説を少しでも理解してからにしろや
    今の畿内説は考古学的アプローチが中心だ

  1185. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 05:39:14

    >1184
    全く興味はないが一応言っておくと、歴博などの歪曲考古学アプローチはもう沢山。

  1186. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 06:00:55

    藤原は朝鮮人ということにしておいてくれ。
    日本人は朝鮮人に支配されたということにしておいてくれ。
    日本人は朝鮮人の使用人になってくれ。
    な、俺たち兄弟だろ?

    表現する言葉も見つからず、吐き気しかしない。

  1187. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 06:35:18

    ※1180
    ×都合のいい
    ○考古学的事実に合う

    都合のいいところだけしか読まないのは九州派

  1188. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 06:48:39

    日本においては歴史は学問。決して政治ではない。

    近畿派を藁人形理論(ストローマン)使って、貶めようとするのはやめようね。

  1189. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 07:28:47

    >1177
    >雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となる。しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。この解釈としては、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解が現在の主流である。

    梁の武帝って梁の初代皇帝で、倭武王の他にもたくさん進号記事がある。新しい王朝を立てて、前王朝の冊封国を認めてご祝儀で進号したと考えられている。この時、倭からの遣使はなかったとする方が多数説だよ。

    倭王武が雄略天皇じゃないっていうのが主流って、どこの話?
    そう言っている現役の論者は誰? 1177以外でってことだけど。

  1190. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 07:37:21

    >1169
    >中臣氏の祖先とされる、宇賀(大鹿島の親)に注目してみた。
    漢字表記は基本的に当て字だから、字を追うより読みから考えた方がいいんじゃないかな
    オレは「うか」って聞くと、宇迦之御魂神が浮かぶけど

  1191. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 07:51:07

    百済の人は大勢亡命してきてるけど、王クラスでも中級貴族がせいぜいだし、吸収され消滅した国ってだけでしょ。
    そもそも百済は倭国の属国にすぎなかったのだし、百済史は日本史の一部とみればそれで十分だ。

    豊璋うんぬんは、たとえ皇子であっても名前だけで事跡も記されていない者が大勢いることが分かっていない人が騒いでるだけ。鎌足クラスは活躍していないときは歴史の舞台から見えなくなるのが当然。

  1192. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 08:40:18

    >1190
    大鹿島もそうだけど、当て字の時代に中臣祖先の話なんてなかったんじゃないの?
    ちゃんと意味のある漢字だと思うけど。そしてだからこそ、あてにならない系図と言われる。

  1193. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 09:34:36

    ※1087
    天児屋命=河内枚岡
    武甕槌=常陸鹿島
    中臣=山城山科

    エミシ(諏訪)を倒した側じゃないの?

  1194. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 10:17:11

    結局、根本は誰も反論できてネーぞ。上っ面の揚げ足取りコジツケ摩スり替えに終始してるだけwww  

    近畿派の同一論は、古代において最終的に支配者に納まった近畿天皇家が作った歴史=皇国史観というポリティカルコレクトネスに合わせるべく考古学的遺物を解釈し、この事自体がアカデミズムに立つ歴史修正主義とは本質的相半をきたす。

    そして、本音では古代史ではポリティカルコレクトネスに立ちながら、現代史ではアカデミズムの歴史修正主義によって、日本擁護論や日本の自存自衛論を主張して、ポリティカルコレクトネスの東京裁判史観という日本悪玉論を忌避したいと言う絶対的自己矛盾を犯してる。

    詰んでるな、チ~ン!

    【九州支配層の一角に過ぎなかった鵜萱屋家が神武東征を行なったのは2世紀半ば前後】
    【銅鐸文化圏の中心たる奈良盆地から銅鐸が廃棄され始め、その時期は2世紀半ば前後】
    【九州支配層は東征せずにそのまま残る】
    【近畿天皇家の祖先の神武東征は卑弥呼以前の出来事】
    【なのに、支那カスの複数の歴史書では、倭(和)国は女王以来の国とされている】
    【しかも、支那カスの一部の歴史書では、倭(和)国のある島には阿蘇火山がある】

    倭(和)国と近畿天皇家は別物!

  1195. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 10:25:13

    ※1193
    大和朝廷初期は東国(主に関東)がエミシと呼ばれていた
    もっと前だと畿内勢力もエミシと呼んだ
    日本書紀 神武東征
    「えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった」

    一部伝承にはニギハヤヒは東国全域(東北も含む)を支配していたが
    神武天皇に譲ったというのもある
    エミシ=ニギハヤヒ勢というのもアリかも

  1196. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:00:37

    ※1194
    記紀は勝者近畿天皇に都合の悪いストーリーも書いてるから、(勝者に都合の良い歴史)ではない。

    日本の中心近畿天皇に従わないおまえは、日本を愛する保守どころか反日醜ブ左翼千ョンコーである。

    はい論破

    反論まだ〜?

  1197. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:01:12

    >1194
    ごまかしきれてないぞww
    倭国九州王朝説は、九州も古墳時代にあったことを、無理して見ないようにしている

    畿内の方が古墳が大きいのに、と言われた時に990で
    >朝鮮半島南部の勢力争いに国力の多くを投入せざるを得ないので、大古墳を作る余裕はあまり無かった
    とごまかしを書いたけど、直後に九州でも岩戸山古墳は大きいし西都原には巨大古墳があると言われて、以後ごまかし続けてるよな? 
    土下座しろとか虚勢を張りながらごまかしを続けるって、惨めだよな

    倭の五王が通説どおり畿内の大和王権なら、記紀に日向から髪長姫が仁徳天皇の后妃に入った記録があるから、畿内の助力で日向の西都原に巨大古墳が作れたと考えられるが、九州倭王は大古墳を作る余裕がなかったなら、九州倭王を名乗りながら巨大古墳を作れる日向を支配することすらできなかったことになる

    岩戸山古墳は筑紫君磐井の墓でほぼ確実とされていて、九州倭王家に当てられることの多い筑紫君の墓だが、磐井の時期に大古墳が作れて、倭の五王の時代に大古墳が作れない理由が、どこにもない
    もし、九州の筑紫君の家系が倭王ならね
    前に、倭皇帝薩夜麻って書いてたけど、日本書紀では筑紫君薩夜麻だから、磐井の筑紫君の家系でいいんだよな?

    巨大古墳のような、分かりやすい考古学遺物からだけでも、簡単に否定されてしまうのが九州王朝仮説だよ

  1198. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:07:56

    ※1197
    卑弥呼の墓は円墳だぞ
    しかも人垣を立てたと書かれている
    墓穴でね?

  1199. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:13:55

    ※1195
    畿内(+中国)にしろ、東国にしろ、エミシと天孫が並列してたんじゃないかな

  1200. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:19:19

    ※1198
    前方後円墳の元は円墳+陸橋だから
    初期前方後円墳は円墳部分しか墓として認識されてないと思う

  1201. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:27:40

    ※1200
    箸墓古墳からは埴輪が大量に発見されている
    埴輪は人垣をやめてから広まった習慣
    よって箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと断定できる

    畿内に巨大勢力が有ったことを比定するわけじゃない
    ただし九州のほうが鉄器や環壕集落の立ち上がりが早い
    円墳や女性の古墳も九州のほうが多い

    邪馬台国が畿内に東征した可能性は消えているが
    九州の王朝が朝貢を継続していた可能性は高まってる

  1202. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:45:27

    >1198,1201
    >埴輪は人垣をやめてから広まった習慣
    そのように記紀には書いてあるけれど、そもそも大量殉葬が確認された墳墓はないんだ
    というか、確実に殉葬だと考えられている墓坑は一つもないはず
    方形周溝墓の時代は、家族墓で一つの墓に複数の埋葬主体があるのを誤認したのかもしれない

    ということで、殉層がないことをもって箸墓が卑弥呼の墓ではないとする論立てはたぶん意味がない

    人垣をやめる前の墳墓の例を一つでもいいので挙げてみてほしい

    おそらく今後も100体もの殉葬が確認される墓は見つからないと思う

  1203. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:48:59

    >1198
    1197で言っているのは「倭の五王の古墳」だぞ
    時代的には古墳時代中期で、畿内には400メートル超の古墳が作られているときに、
    九州王朝説では倭の五王がいたはずの九州に対して大きな古墳がないのはどうしてか? 
    ⇒ 倭の五王は九州の倭王じゃないから
    こういう話
    卑弥呼の墓の話はしていない

  1204. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 11:54:11

    それから「大作冢 徑百餘歩」の径は、円の直径とは限らないそうだ
    だから卑弥呼の墓が円墳とは限らない

    現代語でも、楕円の長径、短径という言い方があるように、径というのは「差しわたしで」くらいの意味に取ればよい場合もあるということ

    だとしたら、前方後円墳あるいは前方後方墳や方墳であっても、その墳長が徑百餘歩であれば、卑弥呼の墓の候補になりうる

  1205. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 12:06:15

    邪馬台国は熊襲(倭人)の国
    朝鮮から来た扶余系の天皇家が侵略して日本になった

  1206. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 12:19:24

    >1195
    えみしは東の敵、くらいの意味じゃないのかな。
    その時のエミシ=ニギハヤヒ勢は、多分出雲~日本海側勢力だと思う。
    出雲の銅鐸が伸張して、近畿北側から入り込んで大部分広まって圧迫された事に対抗して、
    瀬戸内周辺+太平洋側東海地方までが組んで、まずは西から決戦を挑んだ。
    それでだめだったので、禁断の東勢力まで呼び込んで、伊賀や宇陀辺りから攻めたんじゃないか。

  1207. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 12:34:02

    ※1205
    来たのは呉越地方つまり太平洋側、南側からだろう。
    むしろ朝鮮というか日本海側、北側は蝦夷サイドの版図。

  1208. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 12:48:11

    九州では殉葬が見つかっているが、畿内にはない
    記紀に埴輪は殉葬の代わりとなっているから大王家は九州から来たのでは?

  1209. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 13:21:51

    ※1158
    ほんとうにバカだな。

    延喜式神名帳には、官幣大社は畿内に集中。官幣小社は全て畿内。
    国幣大社と国幣小社は全て畿外にある。
    十六社の広辞苑の記述では、重要社が全て畿内にあるから「奉幣のために定められた畿内の名社」との説明がある。十六社に該当する畿内以外の社はないんだよ。

    天変地異などがあった場合、まず二十二社に奉幣使を立て、それでも収まらない場合は畿内の各神社へ、続いて各地の大社へ幣帛を捧げるという順番。この順番が重要度を表している。

    官幣大社>>>国幣大社

    広辞苑第六版より引用
    かんぺい‐しゃ【官幣社】
    旧社格の一つ。古くは神祇官から幣帛を捧げた神社であったが、明治以後は宮内省から幣帛を供進した神社をいう。大社・中社・小社・別格官幣社の別があった。主として皇室尊崇の神社および天皇・皇親・功臣を祀る神社。第二次大戦後、この制度は廃止。

    こくへい‐しゃ【国幣社】
    旧社格の一つで、官幣社に次ぐもの。もと国司から幣帛を奉った神社で、明治以後は国庫から奉った。大社・中社・小社の3等があり、主に国土経営に功績のあった神を祭る。第二次大戦後廃止。国社。

    神格では、春日大社も鹿島・香取神宮も正一位勲一等で同じだが、二十二社に選ばれている春日大社の方が重要。
    ちなみに神宮というのは元々は伊勢神宮の事をいい、大社というのは出雲大社の事を指していたが、
    後に他の神社にも○○神宮、○○大社と名付けられるようになったとされている。

  1210. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 13:40:06

    >1208
    >九州では殉葬が見つかっているが
    どれのこと?
    できれば平原1号墓とか言って欲しくないけど

  1211. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 13:48:35

    かとり‐じんぐう【香取神宮】
    千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神ふつぬしのかみ(斎主命)。古来、鹿島神宮と共に軍神として尊崇された。下総国一の宮。

    かしま‐じんぐう【鹿島神宮】
    茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社。祭神は武甕槌神たけみかずちのかみ。経津主神ふつぬしのかみ・天児屋根命を配祀。古来軍神として武人の尊信が厚い。常陸国一の宮。
    広辞苑第六版より引用

  1212. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 13:50:19

    かすが‐じんじゃ【春日神社】
    奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命たけみかずちのみこと・斎主命いわいぬしのみこと(経津主命)・天児屋根命あまのこやねのみこと・比売神ひめがみ。平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。二十二社の一つ。三社の一つとも称す。今は春日大社と称。

    さん‐しゃ【三社】
    三つの神社。特に、伊勢神宮・石清水八幡宮および賀茂神社(または春日神社)の称。

    さんしゃ‐ほうへい【三社奉幣】
    伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂神社に奉幣すること。国家有事の時、特に奉幣使が遣わされた。
    広辞苑第六版より引用

  1213. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 14:53:25

    朝廷に従わない、まつろわぬ(末盧倭奴)もの。

  1214. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 14:56:33

    ※1209
    お前おもしろいなw
    延喜式神名帳なら神宮は

    大神宮(伊勢神宮)
    鹿島神宮
    香取神宮

    この3つだけ
    何を反論してるの?
    祈祷のたびに鹿島まで行ってたら宮中行事が止まってしまうぞw

    古来から神宮は別格とされてる
    だからどこでも神宮を名乗り始めたのにな

  1215. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 15:39:41

    ※1214
    お前、全く理解できていないんだな。
    神宮というのは本来伊勢神宮の事で、藤原氏の台頭によって鹿島と香取が名目上の神宮と地位をもらっただけで、実質的に二十二社の方が重要視されたと説明してやっているんだよ。
    つまり春日大社の方が実質的に格が上っていう事だよ。
    無知すぎると理解できないんだろうけど。

  1216. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 15:52:23

    神宮というのは、基本的に皇室に関係する神を祀った社号。
    大社は古く社格を大・中・小に分けた第1位の神社であって、神宮と大社の別は社格ではない。

  1217. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 16:18:27

    1214
    延喜式より日本書紀の方が古いのはわかるよね
    日本書紀では鹿島と香取は入ってない

  1218. 勝木勇人 2017/07/06(木) 17:25:44

    倭と日本のふたつの王朝が並立していた時期がある・・という説は面白いですねえ。
    ちなみに、地名を比較しますと、九州と近畿にはまったく同じ地名が多数見受けられますよね。こういうことは、イギリス人がアメリカに移り住んだ際にも見受けられます。移住した先に故郷の地名をどんどんつけるわけです。わたしは九州にあった王朝がなんらかの理由で分裂して、勢力争いに負けた側が近畿に移り住んで新しい王朝を興したのではないかと考えています。この分家の王朝は最初は弱々しいものだったでしょうが、本州の多数の勢力をうまくまとめあげて中央集権体制をつくり、これによって九州の王朝よりも強力な勢力となったのではないか・・・というようなことを考えてました。

  1219. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 17:36:46

    近畿から九州に行った可能性もある、
    と言うかそっちの方が高いんじゃないの?

  1220. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 18:26:12

    1219
    記紀を全否定ですかな?

  1221. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 18:27:40

    >1218
    北海道にも移り住んだ人達が元の自分たちの地名をつけてるよ

  1222. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 18:34:32

    そもそも倭国の現地の言葉であるヤマトを天皇家が畿内に東征した際に持って来たからややこしい
    畿内に移った際にカルタゴ(Kart Hadasht=「新しい町」)やカルト・ハダシュト、カルタゴ・ノウァ(新しいカルタゴ)のように新ヤマトにしてくれればよかったのに

  1223. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 18:46:44

    1220
    東征したのは宮崎県のひと
    奈良と地名が一致するのは福岡県の地名

  1224. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 18:47:46

    >1218
    大和には「出雲」という地名も「吉備」池なんていうのもある
    要は、いろんな地域の人たちの交流の中心ってことで、まさに倭国の中心、王都にふさわしいってことだよな
    邪馬台国は女王之所都って言うんだから、そのものってことでいいんじゃない

  1225. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:07:38

    >1223
    >東征したのは宮崎県のひと
    >奈良と地名が一致するのは福岡県の地名

    それに関しては、天孫降臨の「日向」が宮崎県の「日向ひゅうが」じゃなくて、伊都国辺りの「日向ひむか」だって言っている人がいる。神武東征の時に岡水門に一度寄っているのも、宮崎出発だとだいぶ遠回りだけど、ひむか出発なら通り道になる。この考え方なら、神武東征で出身地の地名も持って行ったで問題ない。

    ただ一方で、それだと今度は宇佐に寄るのと順番がどうなのかって問題が出てくるし、宮崎の日向に神武天皇関係の説話がかなり残されてるんだよな。まあ、天孫降臨ひむか説は九州王朝仮説系の人が言っている仮説レベルだけどね。

  1226. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:22:18

    宮崎から北に向かった勢力と畿内に向かった勢力とに分かれた説もある
    直接畿内に向かったけど手強かったから北の勢力と合流して畿内の南から攻めた説もある
    その際に北の勢力が豪族として出身地の地名をつけたとも考えられてはいる

  1227. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:27:28

    >1226
    それだと、どうして宮崎の地名はつけなかったのか?とか、主体性はどちらにあったのか?とか、問題山積みにならないか?

  1228. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:34:28

    天孫降臨は朝鮮の建国神話、とくに加耶の始祖首露王が亀旨峰に天降る話と似ていることが、神話学者らによって明らかになっている。
    多くの学者が瓊々杵尊の言葉から、本来は九州北部が伝説の地であったが、政策上の都合で九州南部に移動したとしている。また、谷はソホリに「大きい」の意のクがついたものがクシフルである可能性とカシハラとの類似性も指摘されている。

  1229. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:40:07

    大王家だけやたら好戦的なのはなぜだ?
    とにかく戦の連続だし、征服も平定も武力ありき。
    周りの豪族も困っただろうな。

  1230. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:47:41

    1225
    それ言い出すと
    「日向」って結構色んなところにあるからな

    俺が気に入ってるのは徳島阿南市日向
    なんか九州から来たってのがどうも嘘くさくて気に入らないんだよなあ
    四国ぐらいならわかる

  1231. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 19:51:14

    日向 (熊谷市)(ひなた) – 埼玉県熊谷市の地名
    那賀川町日向(ひなた) – 徳島県阿南市の地名

  1232. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 20:07:08

    >1230,1231
    古事記だと「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と竺紫の日向ってばっちり書いてあるんだよな
    まあ、この筑紫を、筑紫島=九州と読めば、日向(宮崎)でもいいんだが、「此地者向韓國眞來通」この地は韓國に向かい、とも書いてあるし、この辺りを読むと伊都国辺りの日向ひむかの方がそれっぽいのは確か

  1233. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 20:11:49

    記紀をそのまま読むと狗邪韓国から九州に来たぜ!
    猿田彦の手引きマジ感謝!
    になるから却下

  1234. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 20:14:24

    うん、まあ彼らが当時どうしても九州から来たと言いたかったのはわかるし証拠もなく否定してはいけないんだけど、九州からワープしようとするのかねっていう疑念がどうしてもね…

  1235. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 21:04:21

    神武東征の出発地の日向と天孫降臨した日向は同一では無い。
    東征出発地の日向については宮崎県の日向ヒュウガを否定する有力な材料は無いし、とりあえず保留(通説が正しいかも知れんが、決定する材料が乏しいので解らん)。

    しかし、天孫降臨の日向は宮崎の高千穂では可笑しい。まず、韓国カラクニとは向き合っていない。そして、ここから鹿児島の笠沙?の浜は全く見えない所か遠すぎる。大体、UFOから山頂付近に降下した訳じゃ無いし、何処かの浜辺に上陸してからその近くの目立つ山か峠にに登って周りを見下ろしたor見回したと考える方が妥当。だから、宮崎は大間違い!

    その点は福岡市の方がまだダイブorかなりマシ。旧福岡市とその西の旧平原町を南北に区切る高祖タカス山の連山がある。その途中に日向ヒナタ峠がある。ソコからは上陸地点の旧福岡市(韓国カラクニに向き合ってる!)の御笠の浜はほど近くに見えるし、何より東西共に見渡せる。つまりココは「朝照る夕照る」場所に適合してる。

    さて、そうなると高千穂の峰とは? 結論を言えば、高千穂とは固有名詞じゃ無く、「高い」とか「目立つ」と言う形容詞に千穂=連峰or連山と言う一般名詞が連結した合成語と予想出来た人も居るんジャネ? その通り、先ほど述べた旧福岡市と旧平原町を南北に区切る高祖山連峰・連山を指している合成語でした。

    最高地点は確か500mに満たないが、海上からは目立つので壱岐から少し南の海上から福岡市を目指す時の目安の山として昔は使われてたと言う。

    さらに、さかのぼると、出発地の高天原はどこ?  それは対馬かなぁ。天下る先が新羅や出雲や福岡なら、それらの出発地は対馬あたり?  なんとここには素朴なお社がある。 名前は阿麻て留神社! アマテル神社って、マジかよ、、、

  1236. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 21:28:51

    アマテラスから九州北部の制圧を命令された孫のニニギ
    最初の本拠地は福岡県の日向
    曽孫の神武天皇の時代までには宮崎まで到達
    都を宮崎に移し今までの名前と同じ日向とする
    これならおかしくないかも

  1237. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 21:32:29

    「ひみこ」ではなく「ひむか(日向)」

  1238. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 21:40:06

    つうか、九州王朝説的には日向三代は伊都国ら辺から動いてないって言うんだよね
    天孫降臨の地が筑紫の日向なら、宮崎の日向に行く理由がないんだよな

  1239. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 21:43:19

    少し上で鹿島神宮絡みで式内社の話が出てたけど、対馬と壱岐は島(国)の大きさのわりに式内社が多いんだよね

  1240. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:05:20

    ※1215
    理解できてないのはお前www
    二十二社は奉幣のための神社で社格とは別
    たとえば北野天満宮はいつ出来て祭神はだれかな?
    延喜式にも出てこない神社だぞ

    ※1217
    そもそも古事記は鹿島と香取という文字が出てこない
    神社という文字も1回しか出てこない
    無い証明にはまったく使えない
    あと日本書紀だと「出雲大神宮」が載ってる

    まあ伊勢神宮は天皇の氏神
    鹿島神宮は藤原氏始祖の氏神
    つまり昔の「神宮」は日本を支配した「天皇と武士」を象徴する神社

  1241. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:13:39

    藤原氏を武士と言われるとそれはさすがに抵抗があるな
    「天皇と外戚」でいいんじゃない?

  1242. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:14:33

    1232
    韓国岳じゃないの?

  1243. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:20:30

    ※1238
    俺は九州説で別王朝説で熊本説
    伊都国が吉野ヶ里遺跡で
    そこから有明海を南に水行10日(川遡上も含む)で阿蘇山麓に来て
    邪馬台国もそのあたりじゃないかなと思ってる

  1244. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:28:05

    まず考古学的事実という言葉は存在しない。あるのは学説であって、考古学者はその存在意義を常に新しい学説によって見出さざるを得ない、難しい立場にあります。考古学会がこれが事実だったと断定することは自己否定につながる(大雑把に言うとその役割を終える)ため絶対にありえません。

  1245. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:37:18

    >1238
    それ前にも似たようなことを書いてた人がいるけど(同じ人?)、日本の川で水行ってのは無理だと思う
    吉野ヶ里が伊都国ってのも難しい
    通説の伊都国は怡土って地名が今も残っているし、次の儺県・奴国への経路としても無理がない
    吉野ヶ里のあたりに「イト」って地名ある? その説では奴国はどこなの?

  1246. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:38:30

    ごめん>1238じゃなくて>1243だ

  1247. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:40:49

    >1245
    でも、北部九州に大型古墳が岩戸山古墳以前にはないって言うのは、「事実」だよな?

  1248. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:42:07

    ごめん>1245じゃなくて>1244だ
    疲れてるからもう寝る

  1249. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 22:49:36

    >>1247
    そんなのが「事実」であるわけがないですよ。
    あなたは北部九州において、まだ未発見の古墳の存在を100%否定する科学的根拠のある説明をできますか?
    できないでしょう?だからどうあがいても「有力な説」どまりです。

  1250. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 23:05:35

    科学的事実は100%じゃないぞ

  1251. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 23:17:54

    いつかは見つかる「かもしれなく」ても、見つかるまでは「ない」のが「事実」なんだからそれを前提に「説」を立てる必要がある。

    きっとあるはずだ、が前提なら、その「はず」によほどの蓋然性がない限り、それは説ではなく妄想。そこのところでかみ合わないことが多いんだよ。

    そして、古墳は本来的に人里に造営されるものだから、200メートルクラスの巨大古墳であれば見つからない方が難しいし、積極的に破壊されない限り、自然に消滅するのも考えなくていい。畿内大王墓級の大古墳は、北部九州にはないよ。未来に見つかるかもしれないと考えるのは自由だけど、2017年現在ではないのが「事実」だし、それを認めずに立てた論はよくいって詭弁に過ぎない。

  1252. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/06(木) 23:55:43

    >>1251
    その通りだと思います。見つかってないのは事実ですし、それを前提に説を立てるのはまっとうな手順だと思います。北部九州において今後、畿内最大規模に匹敵する古墳が発見されることはまずないでしょう。
    しかしながら、見つかってないから、見つかる可能性が低いからといって、北部九州に大型古墳が岩戸山古墳以前にはない、というのが「事実」だとするのは横暴だと思います。あくまで推定の域をでないのが考古学の醍醐味じゃないでしょうか。

  1253. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 00:04:07

    1251
    人里に作られるのは箸墓古墳から
    大市という人里に古墳を造る狂気の沙汰で歴史を変えた
    それまでとはまるで違う鐙を持つ集団に畿内は征服されたとみられている

  1254. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 00:11:12

    ※1251
    大王級の古墳は北部九州と東北、北海道、沖縄を除き発見されている
    つまりこの地域は天皇家のワケがいない、即ち初期のヤマト王権の及ばない地域とされる

  1255. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 00:14:36

    ≫1251
    畿内大王墓級の古墳はほぼ例外なく石棺は九州様式
    記紀の東征と合わせ考古学的には1つの結論が出ている

  1256. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 01:41:11

    >1254
    >即ち初期のヤマト王権の及ばない地域とされる

    はあ?北部九州には小さい前方後円墳がいくらでもあるだろが
    北部九州はかなり早い段階からヤマト王権の傘下に入ってる証拠だ

  1257. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 02:26:33

    考古学は正しい
    倭人伝は正しい
    記紀も正しい

    この結果で導かれる答えが真実だろう
    発掘調査は倭人伝と記紀を裏付けてるように見える

    ※1256
    朝鮮半島も大和朝廷の傘下でいいかな

  1258. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 02:53:52

    日本の古代は恐ろしいほど歴史が深いようだ
    たしかに中国や朝鮮軽油で文化は来た

    ところが中国には「家紋」が無い
    風水の「鬼門」も無い
    神社がそもそも中国に無い

    つまり日本文化の原点は中国や朝鮮ではない
    縄文時代まで遡ると思われるが
    縄文王朝の実態は見えない

  1259. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 03:08:49

    縄文日本に統一王朝があった可能性は否定できない
    記紀には大和朝廷以前に大国主やニギハヤヒがいたと書いてある

    狩猟採取民の縄文人は国を作れないと言うのなら
    狩猟民族のモンゴル人は国を作れない事になる
    ところがモンゴル人は農耕民族を支配しヨーロッパまで攻め込み
    歴史上最大規模の帝国を作った

  1260. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 03:16:27

    アイヌとか見てるとどう見てもそんな文化程度高くなさそうだからしょうがない
    まあ琉球王朝があったところに希望が見出せなくもないけど…

  1261. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 03:23:29

    1256
    もしかして前方後円墳に対する認識間違ってない?

  1262. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 07:11:37

    ※1252
    横から失礼。
    言いたいことはわかるんですが、考古学的な考え方だと見つかるまでは、それが「事実」。
    あるかもしれないと考えてしまうと、永遠に結論が出せず、論文を書くことすらできない。

  1263. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 07:38:18

    ナポナサル紀元
    紀元前748年一年360日を365日に変えた世紀
    それまで中東でも古代インドでもペルシヤも古代バビロンでもマヤのトゥン歴も
    全て一年は360日でした
    それと同じ暦をつたえているのが竹内文書
    日本で唯一古代世界の暦を残している
    もちろんアカデミズムは偽書としている

  1264. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 08:54:45

    >1252
    >北部九州において今後、畿内最大規模に匹敵する古墳が発見されることはまずないでしょう。
    これを認めていながら

    >しかしながら、見つかってないから、見つかる可能性が低いからといって、
    >北部九州に大型古墳が岩戸山古墳以前にはない、というのが「事実」だとするのは
    >横暴だと思います。
    横暴というのは訳が分からない
    間違いなく現時点での「事実」だし、「今後も見つからない」蓋然性が高いのを認めているのに

    これを前提に論立てするのは当然だし、これを前提にするなら倭の五王の時点で九州に十分な勢威を持った勢力がいないとするのもこれまた当然

  1265. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 08:56:55

    >1263
    日本も普通に360日だったのを、安倍晴明辺りが調節してたんじゃなかったっけ?
    月で日を数えたらどこでもそうなるでしょ。

  1266. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 09:00:38

    >1254
    >大王級の古墳は北部九州と東北、北海道、沖縄を除き発見されている
    これは、
    毛野の太田天神山古墳、吉備の造山古墳、作山古墳、日向の男狭穂塚・女狭穂塚古墳のことってことでいい?
    少しおまけして丹後の網野銚子山古墳も入れていいかな?

    北部九州、東北、北海道、沖縄のほかにも、北陸、山陰、四国、中部地方にも、巨大古墳と言えるのはないと思うよ

  1267. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 09:04:38

    >1253
    >それまでとはまるで違う鐙を持つ集団に畿内は征服されたとみられている

    今どき騎馬民族征服王朝もないだろう
    古墳の遺物で見ると、武具や馬具が副葬品として見られるのは古墳時代中期になってから
    編年がどうであろうと、古墳時代の開始の箸墓から古墳時代中期までは100年単位の時間がかかっている

    古墳時代中期は最大の古墳が作られる時期だし、その前後で古墳の様式の断絶はない
    新規征服集団を想定する余地はほぼないよ

  1268. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 09:11:20

    >1265
    太陰暦は閏月を入れて調節するんだよ
    だから1年が12ヶ月の年と13ヶ月の年があって、365日とか言うのとは無縁
    その入れ方が、元嘉暦と儀鳳暦で異なるから、日本書紀の区分論というのが出てくる
    日本は明治5年まで太陰暦(天保暦)だよ

    竹内文書が偽書ではないと言い張る人を、オレは信頼できない人に入れてる

  1269. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 09:14:36

    >1258,1259
    >縄文王朝の実態は見えない
    >縄文日本に統一王朝があった可能性は否定できない

    縄文時代に、列島全域(を超えて)で人や物の交流があったのは認められますが、王朝というと訳が分からなくなります
    王朝って何を意味するのか、というところから論じないと意味がなくなります
    縄文時代にも、文化圏、程度のものは列島上にいくつも確認できますが、それを王朝というのは言いすぎだと思います

  1270. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 09:46:57

    >1255
    >畿内大王墓級の古墳はほぼ例外なく石棺は九州様式
    畿内大王墓級古墳は軒並み「天皇陵指定」されていて、まともに発掘調査されたものはあまりないんだ
    現時点で「ほぼ例外なく石棺は九州様式」というのはいかがなものか
    それと、九州様式ってのは何を意味しているつもり?
    古墳時代に入る前は、九州は甕棺墓だし、何を持って「九州様式の石棺」というのかが見えてこないというか意味不明なんだが

  1271. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 10:48:00

    ※1269
    でも記紀には大国主が書いてある
    神武天皇以前の大王だ

    実は縄文建築のほうが弥生建築よりも巨大だし高い
    土器は造形が複雑で国宝が多い
    亀ケ岡土器は後の須恵器に匹敵する品質まで到達していた
    弥生土器と文化は明らかに劣化している

  1272. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 11:06:24

    神武天皇を認めると大国主も認めざるを得ない
    これは縄文の大王を認めることになり常識に反する
    だから神武天皇も否定するってのが誇り高い学会アカデミック

    けどいろんな発掘で記紀がかなり正しいことが分かってきた
    でも思考停止しているのが学会
    庶民は無責任に縄文王朝あるよねwwとか言ってるだけ

  1273. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 11:25:26

    大国主の存在を認めることと、大国主が縄文の大王であることを認めることは別問題なのでは?

  1274. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 12:39:21

    ※1240 本当に無知なんだな。
    >たとえば北野天満宮はいつ出来て祭神はだれかな?延喜式にも出てこない神社だぞ
    >そもそも古事記は鹿島と香取という文字が出てこない 神社という文字も1回しか出てこない
    無い証明にはまったく使えない

    まず「文献(延喜式)に出てこない神社」なので格下と言いたいような主張しておきながら「文献(古事記)に出てこないので証明には使えない」という矛盾に気付け。

    えんぎ‐しき【延喜式】
    弘仁式・貞観式の後をうけて編修された律令の施行細則。平安初期の禁中の年中儀式や制度などを漢文で記す。50巻。905年(延喜5)藤原時平・紀長谷雄・三善清行らが勅を受け、時平の没後、忠平が業を継ぎ、927年(延長5)撰進。967年(康保4)施行。
    広辞苑第六版より引用

    十六社から十九社に増えて、さらに北野天満宮などが加えられたて二十二社になったのは1039年。
    延喜式の後に加えられた神社だからだよ。
    北野天満宮というのは元々、天神(天津神)と雷神を祀っており、また流刑にあって没した貴族の
    怨霊を祀る御霊信仰があった神社。
    930年の清涼殿落雷事件や、936年の藤原保忠の死などがあり、託宣を受け、947年に菅原道真の
    怨霊を抑える目的で天皇の詔勅を得て北野神社にあった天神祠の傍らに霊廟を建て、天満
    大自在天などとしてその霊を慰めた。
    それがいつしか、天神・雷神=菅原道真となり主祭神として道真が祀られるようになった。
    天皇の勅を受けた事と藤原氏も道真の怨霊を恐れた事で、後に天満宮信仰が重要視されるようにり
    二十二社に加えられるようになったんだよ。

    平安時代の武士というのは、末期に平氏が台頭するまでは貴族より下の存在。
    香取・鹿島神宮は軍神として崇められたが、藤原氏は武士ではないので、武士の象徴ではない。
    藤原家は天皇家と深い関わりがあったので、神宮と称される事が許された。飛鳥・奈良時代の
    石上神宮(物部氏)も同様と考えるべきなんだよ。

    ここまで教えてやったんだから、お前のような無知でも理解できるよな?

  1275. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 13:06:05

    ※1240
    >日本書紀だと「出雲大神宮」が載ってる

    出雲大神宮の国史の初見は818年の「日本紀略」にあると色んなサイトなどに書かれてあるが、
    それが載っている日本書紀の原文を書いてくれよ。

  1276. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 13:31:15

    天孫降臨は ※1235 だったか、なんか勘違いしたな。

  1277. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 14:44:37

    >1271,1272
    オレは大国主に当たる出雲の王がいてもいいと思っているが、縄文時代ではなく弥生時代だと思うぞ
    大国主の説話には田んぼや案山子が出てくるし

  1278. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 15:42:22

    筑紫神話より出雲神話の方が古いと言われてるのは良く知られてると思う。これはある時期から(少なくとも西日本の)倭人の中核が出雲から筑紫に移ったからだと言われてる。

    筑紫神話には金属器が良く出てくると聞いているが、(灌漑農耕と交易による経済発展に裏付けられた)その軍事力を背景に国譲りを強要して成功したと考えるのが妥当で、その時期はやはり弥生時代と言わざるを得ない。

  1279. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 15:59:59

    >1271
    亀ヶ岡文化すごいね。
    青森文明が皇室より1000年も早く、北海道から沖縄まで文化で完全に繋いでいた。
    その次が出雲銅鐸で近畿進出なんじゃないかな。
    ただ、縄文土器と弥生土器の比べ方には異義がある。
    稲作始まって木が減った事と、食糧が増え人口が増えたこと、この二つを考えると、
    厚手でしっかり焼かなきゃいけない縄文土器よりも、薄手に焼き上げる技術を磨き、より多くの人口を賄えるようにした弥生土器の方が、実用で勝っているのではないかと。
    1人当りの生活の質は下がって、華美な装飾する余裕もなくなったのかもしれないね。

  1280. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 16:24:02

    >1279
    文化人類学的な試算なんだけど、縄文的な採集狩猟文化だと日々の糧を得るための必要的な労働時間は平均すると1日2,3時間程度、弥生的な農耕文化だと1日辺り4~6時間になるそうな

    弥生化して必要な労働時間が増えたことで、土器の装飾等の余裕がなくなっていったのかも、と考えると少し切ない

    そして、現代社会は8時間労働が基本で、さらにサビ残が、、、

  1281. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 16:45:56

    計画的に食糧を得られず飢えて死ぬしかない方が切ないだろ

  1282. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 18:10:29

    魏の遣いが卑弥呼に与えた親魏倭王の金印は卑弥呼の死後
    台与に譲り魏の滅亡後物部一族が代々保管し八咫烏が預かりし宝物
    この金印は関西のとある所に隠されている

  1283. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 18:22:18

    大陸から朝鮮半島を経て日本に渡来した秦氏は秦始皇帝の秦から来たと称し
    伊勢神宮を筆頭に賀茂神社 稲荷神社 松尾神社 八幡神社 日吉神社 金刀比羅神社などを創建した
    この秦氏より前に渡来した物部氏は徐福集団の末裔であり
    大神神社 石上神社 石切神社を創建した
    両者は秦ゆかりの言わば同族

  1284. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 18:49:37

    >1281
    それがな、採集狩猟生活には飢えがないんだって
    年毎に気候が違えば、採れる食物も変わるけれど、ある食物が不作の気候でたくさん採れる別の食物もあるので、採集狩猟生活は支えられる人口は多くないが、飢えもほぼ経験しない
    1日の平均労働時間2,3時間で必要量の食物は手に入るってのはそういうことだそうだ

    一方で、農耕でイネ単作に頼るようになると、天候の順調な年は多くの人口を支えられるだけのコメが取れるが、天候不順の年に不作になると一気に飢餓が生じる
    意外なことに飢餓や飢饉は、農耕を始めたがゆえに生じた現象なんだそうだ

    その、飢饉のときというのが、戦争の契機であり、王権発達の基礎になるわけだがな

  1285. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 18:51:17

    >1282
    >この金印は関西のとある所に隠されている
    夢があっていいね!

  1286. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 19:13:59

    最後の天皇陛下は契約の聖櫃ア-クに三種の神器を入れ
    選ばれた神職とともに祖先の地イスラエルのカナンに向かう
    この者はア-クと三種の神器をカナンの地に運んだモ-ゼの再来にして
    かつ同族の祭司であるレビ族でなければなりません

  1287. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 19:25:37

    邪馬台国の予言者は将来の裏天皇家で八咫烏となる物部氏の血を引く
    卑弥呼でなければならず
    天照大神の子孫とは天孫族の天皇家を含むヘブライのこと

  1288. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 19:41:29

    支那朝鮮史観が完全崩壊してるんで、慌てて嘘情報をばらまいてもみ消そうとしてるな。
    そして連呼で支那朝鮮史観復活、ってそんなわけあるかいなw

  1289. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 19:52:40

    >1288
    きっと1288はとても頭がよくて、他人が知らない情報をたくさん知っていて、判断力があって何が正しくて何が陰謀なのか、ひと目ですぐに分かるすごい人なんでしょうね!

  1290. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 20:21:19

    ※1284
    支えられる人口は多くない、つまり定期的に飢えて死ぬんだろ

  1291.   2017/07/07(金) 20:27:47

    九州の筑後地方と近畿の西部、九州の日向と近畿の熊野地方に、非常に似通った、一部は全く同じ地名が、ほぼ同じ配置で存在している、ってのもあるんだよねぇ。

    子供のころから地図を見ては、「なんで同じやねん、親戚でも住んでるんか」と不思議だったけど。

  1292. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 21:14:36

    >1290
    >支えられる人口は多くない、つまり定期的に飢えて死ぬんだろ
    違うよ
    育たない子がいるだけで、飢え死にはしない
    一度自分で調べてみては?

  1293. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 21:28:00

    育たない=飢え死にだろ

  1294. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 21:38:45

    狩猟採集生活は乳幼児の死亡率の高さと平均余命の短かさが全てを物語っている
    人間なんて大自然の前には虫ケラだと感じさせてくれる
    稲作の偉大さが分かる
    ただし寒冷期には稲作でも死亡する

  1295. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 22:26:35

    纒向遺跡が大王家の遺跡なら鉄が九州に伝播する前に畿内に移ったんじゃないかな?

  1296. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 22:47:57

    ポイントのずれたことを言ってるなぁ
    採集狩猟生活では、年ごとの食料の量の増減があまりない
    農耕が始まると、年ごとの食料の変動が大きくなる
    そこで飢餓が初めて発生するって話なんだが
    一人の子供が死ぬのを飢餓とは言わない
    集落の何割っていう人数が飢え死にするようなのが、農耕社会の飢餓だよ

  1297. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/07(金) 23:09:55

    慢性飢餓なだけだろそれ

  1298. K 2017/07/08(土) 03:24:41

    熊も栗が豊作だと増えて、その次の年が普通または不作だと餓死が増えたり人里に降りてきたりする。
    稲作だと安定してる期間が長い分、不作になったとき増えた人口が一気に餓死者になるわけか

  1299. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 04:44:21

    超古代日本→古代エジプト→日本帰還
    もちろん日本に残り続けた人々もいた

  1300. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 06:06:48

    2月くらいの餌が無い時期に野鳥に餌やったら、翌年の子供の数が倍くらいに増えてたわ。
    雌が痩せれば産む子が減り、育つ子供も減る、それでうまく行ってる。

    稲作で何倍にも増えまくると、死ぬときも大量に死に、ある程度の血族にまとまり殺し合いを始める。
    生き残る権利を持った一部の血族と、その他となったり、氏族によって生き残りの序列ができたりするんだろうな。

  1301. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 07:34:56

    >1297
    思い込みで持論にこだわってないで、少し自分で調べてみたら?
    お腹がすいたら、その分追加で食料を取ってくれば済む状態で、飢餓にはならないんだよ
    過剰な剰余は出ないから、富の蓄積はないけど

  1302. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 07:51:07

    管理人さんよぉ、もういい加減飽き飽きしてんだけど!

    1ヶ月したら次のスレッドにしようよ。

    1ヶ月したら次のスレッドにしようよ。

    1ヶ月したら次のスレッドにしようよ。

    1ヶ月したら次のスレッドにしようよ。

    1ヶ月したら次のスレッドにしようよ。

  1303. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 09:40:37

    けどさここのコメント欄の方が有意義でレベル高くて自分的には勉強になります
    次スレにも期待してるけど1つの説でしかないからねー
    コメント欄は色んな人の意見が見れて面白いし
    このスレでのメインは実質コメント欄でしょ

  1304. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 11:04:56

    邪馬台国とヤマト王権が同一ではないことと日本書紀は藤原不比等が藤原氏のために編纂したことは分かった

  1305. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 11:30:09

    ※1274
    >出雲大神宮の国史の初見は818年の「日本紀略」にあると色んなサイトなどに書かれてあるが、
    >それが載っている日本書紀の原文を書いてくれよ。

    日本書紀巻第五  崇神天皇
    六十年秋七月丙申朔己酉、詔群臣曰「武日照命一云武夷鳥、又云天夷鳥從天將來神寶、藏于出雲大神宮。是欲見焉。」・・・

  1306. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 11:45:12

    ※1274
    藤原鎌足は武士じゃない
    だから武士だから格下って意味にはならない

    藤原氏は貴族であり格で言えば天皇に次いで2番め
    格1番目 天皇家 伊勢神宮
    格2番目 藤原氏 鹿島神宮、香取神宮

    こういう認識が有ったで問題ないと思うが
    あと面倒なんでもうコメントしない

  1307. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 11:52:36

    >1293
    古代や発展途上国の乳幼児死亡率の高さは、出産~乳児期の死亡率の高さと、幼児期の下痢による脱水が主で、飢え死にってのはそうそうないんだよ
    支えられる人口は多くないっていうのは、一人分の食料を得るのに必要な面積が大きいという意味で、その面積を確保できていれば、飢えることはないのが採集狩猟生活だよ

  1308. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 11:55:34

    >1305
    出雲大神宮は、通常は「出雲大神」の宮、と読まれていて、出雲「大神宮」とは読まないと思う

  1309. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 12:32:51

    ※1305
    「出雲大神(イズモノオオカミ)の宮」って読むのが普通なんだよ。

    何度も言うようだが、平安時代に朝廷が最重要視したのは二十二社であり、その筆頭は神宮(伊勢)。
    藤原氏の氏社 春日大社(一位勲一等&二十二社、三社にも数えられた事がある)> 香取・鹿島(一位勲一等のみ)。
    「神宮」は格ではなく、天皇家と特別な姻戚関係があった豪族(貴族)の氏社に与えられる称号。
    延喜式での格分類は、春日大社と同様の官幣大社。

    二十二社は大小神社の首班に列し、国家の重大事、天変地異に奉幣使を立てた神社。
    国家重大事の時に真っ先に、天皇の勅使がお願いにいく神社こそが最重要視されている事はバカ
    でも理解できる事だよ。

    元々軍神として祀られていたのは石上神宮のほう、藤原氏が台頭した結果、香取・鹿島に変えられた
    だけの事。
    以上が神社に詳しい人の普通の認識。

  1310. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 12:37:59

    ※1305
    お前が、※1240で >つまり昔の「神宮」は日本を支配した「天皇と武士」を象徴する神社
    って言っていたんだろうに(笑)
    聞きかじりの知識で思い込むバカなんだから、もっと歴史を勉強しろ!!

  1311. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 12:40:49

    >1304さん、お久しぶりです
    846以来ですか?
    途中見落としていたらごめんなさい

  1312. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 13:24:20

    中臣氏というのは、神祇伯(神祇官の長官)で従四位下という高くない官位の家柄。
    645年の乙巳の変(大化の改新)で、鎌足が内臣(のちの内大臣)職を与えられて出世した。
    648年に天武天皇が整理再編した八色の姓の時に壬申の乱(672年)での功労者とともに、
    藤原氏を含む52氏が、第二位(臣下では第一)の朝臣という姓を与えられた。
    鎌足の子の不比等は正二位の右大臣どまり。上には名誉職の太政大臣と実質トップの左大臣職がある。
    日本書紀の編纂に深く関わっていたとされる藤原不比等であるが、香取・鹿島神宮が日本書紀に
    ないのは、両社が神宮という称号をまだ与えられていなかったからと推測するのが妥当なんだよ。

  1313. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 13:29:22

    香島から鹿島に8世紀初頭には改称されたのも興味深い

  1314. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 13:49:01

    8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説もあるが、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説が定説である

  1315. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 14:39:02

    中臣(藤原)氏が、鹿島香取を異常に重要視したって事は確定でいいのかな。

  1316. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 17:42:56

    物忌は本殿内陣奉仕役。
    古くは神職の未婚の娘から卜定され、中世末からは当禰宜(千富禰宜・物忌代とも)の女が選ばれた。当禰宜(物忌の父)は本来中臣氏であったが、中世末に千葉氏流の東氏が継ぎ、物忌の後見役として重きをなした。
    物忌は人目に触れるべきでない存在で、数ある神宮の祭事の中でも、本宮祭、奥宮祭、流鏑馬祭、大宮祭、将軍祭、大生宮祭の年6回しか出輿しなかったという。初代物忌は神功皇后の娘の普雷女であると伝えられ、終身職であったため、明治の廃絶までで総勢27人を数えるのみであったという。かつて物忌が住した物忌館は、跡宮の傍とされる。

  1317. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/08(土) 23:41:01

    ※1309
    伊勢神宮も大神宮で大神の宮と読める
    鹿島神宮も鹿島神の宮と読める
    神宮=神の宮という意味だぞ!

    なんの反論になってませんけどwww

  1318. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 02:32:42

    結局は、高千穂王朝と出雲王朝と大和王朝だろ。

  1319. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 06:39:36

    太古の昔 大地は単で人は始祖を除き兄弟姉妹が睦んで五色の人種が誕生した
    二人の始祖は単一大陸の東端に住みそこを安宿(アスカ)と定め以後は世界をアスカと称した
    また寧楽(ナラ)とも称した
    神から全権を担った天王族は天磐船をつくり天元根国の人々を指導した
    しかし地玉中に悪事が増したとき天王族とその民は日玉へと昇っていった
    そのころ地の底から内地玉が姿をあらわした内地玉は巨大人や悪人を焼き尽くしたが地玉の生物と巨大人の一部 五色人の一部とともに姿を隠した やがて闇が世界を覆い世界は地獄のありさまとなった 最後の天王は選別された動植物を乗せる海磐船をアスカで造り王と一族が乗って大いなる水難から逃れた 世界は浄化の大洪水に沈んだ 
    その後の新しい世界は日玉のように輝き生き物は何も食べずに生きていけた 天空は雲ではなく光の渦が覆っていた その後その渦も消えもとの有様となった
    大地は日夜鳴動し世界は大河にそって四つに分かれる
    海磐船から降りた天王族は代を重ねるたびに寿命が短くなり人生を終えるようになった

  1320. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 08:26:03

    >1318
    その王朝が何を意味するか、が問題なんだ
    江戸時代の長州の毛利家を長州王朝とは言わないだろう
    地方政権は普通は王朝とは言わない
    そして徳川家の幕府は全国政権だけれど、これも普通は王朝とは言わない
    大和王朝以前であっても、邪馬台国以降じゃないと王朝(王権)とは言わないと思う

    そして高千穂の家系は大和王朝に繋がる訳だから、別立てにする必要はないし、大和王朝が日本だったなんてこともないよ

  1321. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 10:44:59

    新唐書では
    >王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、
    >およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。

    神武天皇の以前に32代が筑紫城(九州)に居住したとある
    尊を号として何百年も続くってことは王という文化が有ったのは確実
    (一代20年としても640年!)

    この筑紫城は神武天皇が畿内に来ても継続していたと考えられる
    神武天皇が畿内で暮らすと日向の息子が来た
    これは神武天皇の実家が東征後も存続していたからだろう

  1322. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 12:24:39

    ※1317
    お前は本当にバカだな。
    「神の宮(かみのみや、かむのみや)」と読む場合の意味は、「神様が祀られている宮」という意味で使われる時。
    「じんぐう」と読む場合の意味は「じんぐう」という称号を示す時。
    日本語の意味の読み分け、使い分けも出来ないとはバカすぎるな(笑)

    で、>あと面倒なんでもうコメントしない 
    とか、嘘ばかりだな、お前(笑笑)

  1323. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 12:45:51

    「日本國者 倭國之別種也」ねえ。
    これちょうど天智政権が天武政権に代わった時のことでしょ。
    白村江の戦に負けて、天智の倭国が倒れて、天武の日本が成立したってことです。
    倒産会社の債務は新会社には無関係です、知りませんって話。それだけ。
    ただこれも唐使の前でやったパフォーマンス臭いんだけどね。
    その証拠に、「其人入朝者多自矜大大不以実封、故中國疑焉(使節はホラばかり吹いて本当のことを言わないので、中国は疑っている)」ってある。

  1324. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 13:21:51

    天之御中主神 三つの中の主の神(みむすびの神の一柱)
    高御産巣日神 三つの中の神  (みむすびの神の一柱)
    神産日神   三つの中の神  (みむすびの神の一柱)

    カッパ-ラの基本は生命の樹で象徴され三本の柱(神)で表される
    中央の柱は均衡の柱 天の御父
    右側の柱は慈悲の柱 イエス・キリスト
    左側の柱は峻厳の柱 御霊

    三位三体で一つの神界を造る

  1325. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 13:28:52

    ※1315
    中級程度の格の中臣氏が乙巳の変で頭角を現したが、鎌足が藤原の姓をもらって、子の不比等の代に
    なっても右大臣とまり。
    文武天皇に娘の宮子を嫁がせ、その子である聖武天皇に光明子(同じく不比等の娘)を嫁がせてから
    不比等の4人の息子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が出世する。

    朝廷から見た奈良・平安時代初期の東国はまだ手つかずの未開の土地で、茨城~東北にかけての
    支配権を重視したと思われる。宇合が常陸守になった事で東国支配権の拠点と権利を主張する為に
    鹿島・香取を利用したと考えられる。
    南極大陸の利権を主張する為に、各国が基地に旗をたてるようなもの。

    ふじわら‐の‐むちまろ【藤原武智麻呂】
    奈良時代の貴族。左大臣。正一位。不比等の長子。南家の祖。仲麻呂(恵美押勝)はその子。(680~737)
    ふじわら‐の‐ふささき【藤原房前】
    奈良時代の貴族。不比等の次子。北家の祖。聖武天皇に仕え内臣うちつおみ、また参議として信頼が厚かった。(681~737)
    ふじわら‐の‐うまかい【藤原宇合】
    奈良時代の貴族。不比等の第3子。式家の祖。遣唐副使・常陸守・西海道節度使より参議・式部卿兼大宰帥に至る。万葉集・懐風藻等に作品がある。常陸風土記完成に関係したか。(694~737)
    ふじわら‐の‐まろ【藤原麻呂】
    奈良時代の貴族。不比等の第4子。参議。京家の祖。持節大使として陸奥の蝦夷征討に尽力したが、疫病で没。(695~737)
    ふじわら‐の‐ひろつぐ【藤原広嗣】
    奈良時代の貴族。大宰少弐。宇合うまかいの子。不比等の4子の没後、吉備真備・僧玄げんぼうを除き藤原氏の勢力を挽回しようとして、大宰府で挙兵したが敗れ、肥前で斬。(~740)
    広辞苑第六版より引用

  1326. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 13:34:43

    鹿島や香取は、不比等が編纂した日本書紀には記述がない。
    (上の※の広辞苑の解説)不比等の息子の宇合が編纂に関わったと思われる常陸風土記に
    鹿島の記述が「天の大神の社、坂戸(サカト)の社、沼尾(ヌマオ)の社、三処を合わせて、総べて香島の天の大神という」ある。
    「香島神宮」「鹿島神宮」という文字は見当たらない。

  1327. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 15:59:19

    近畿辺りでどうも頭のおかしいのがわくね。どうせ寄生民族だろうけど。
    自分らの所がすべての発祥で、それ以前の日本には何も無かったニダって言い出すからわかりやすい。
    紀の伊勢神宮と石上神宮て、石上神宮の主祭神は香取神宮から借りた神様じゃんか。
    近畿ごり押し捏造やってるやつって、発言から臭みを感じるんよね。

  1328. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 16:11:34

    >1321
    >尊を号として何百年も続くってことは王という文化が有ったのは確実

    何百年後かに、尊って呼び方でまとめたってだけでしょ
    そもそも三十二世って、天御中主尊以降の神様を数えただけで、代数じゃないし

    >この筑紫城は神武天皇が畿内に来ても継続していたと考えられる

    その筑紫城ってどこだろうね

  1329. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:00:59

    ※1327
    正しい知識を知らないお前が半島なんだろうな。
    関東は新座郡と高麗郡が置かれて、日本各地の朝鮮人を集め、長らく朝鮮系部落で続いてきた土地だからな。
    お前が言いたいのは石上神宮では春日大社の事だろうけど(笑)

    いそのかみ‐じんぐう【石上神宮】
    奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神ふつのみたまのおおかみ。二十二社の一つ。布留社ふるのやしろ。所蔵の七支刀が著名。

    かとり‐じんぐう【香取神宮】
    千葉県香取市にある元官幣大社。祭神は経津主神ふつぬしのかみ(斎主命)。古来、鹿島神宮と共に軍神として尊崇された。下総国一の宮。

    かしま‐じんぐう【鹿島神宮】
    茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社。祭神は武甕槌神たけみかずちのかみ。経津主神ふつぬしのかみ・天児屋根命を配祀。古来軍神として武人の尊信が厚い。常陸国一の宮

    かすが‐じんじゃ【春日神社】
    奈良市春日野町にある元官幣大社。祭神は武甕槌命たけみかずちのみこと・斎主命いわいぬしのみこと(経津主命)・天児屋根命あまのこやねのみこと・比売神ひめがみ。平城遷都後まもなく藤原氏により現在の地に創建され、以後ながくその氏神として尊崇された。二十二社の一つ。三社の一つとも称す。今は春日大社と称。

  1330. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:11:48

    >1329
    好意的に読んであげれば、石上神宮の主祭神の布都御魂大神ふつのみたまのおおかみが、武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣だから、武甕槌=鹿島神宮、経津主=香取神宮から借りた神様って言ってるのかもしれない

    とはいえ、石上神宮は物部氏の神社だし、鹿島・香取よりずっと古いのは確定だけどさ
    伊勢神宮についてはまったく意味不明だけど

  1331. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:13:18

    ふつ‐の‐みたま【韴霊・布都御魂】
    (フツは断ち切るさまをいう)日本神話で、天照大神(および高木神)の神慮により、神武天皇が熊野の人高倉下たかくらじから受け、国土を平定したという霊剣。石上いそのかみ神宮の祭神。

    布都御魂剣に関してはウィキペディアによると
    建御雷神(たけみかずちのかみ)はこれを用い、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した。神武東征の折り、ナガスネヒコ誅伐に失敗し、熊野山中で危機に陥った時、高倉下が神武天皇の下に持参した剣が布都御魂で、その剣の霊力は軍勢を毒気から覚醒させ、活力を得てのちの戦争に勝利し、大和の征服に大いに役立ったとされる。荒ぶる神を退けるちからを持つ。
    神武の治世にあっては、物部氏、穂積氏らの祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が宮中で祭ったが、崇神天皇の代に至り、同じく物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の手によって石上神宮に移され、御神体となる。同社の祭神である布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は、布都御魂の霊とされる。

    石上神宮
    布都御魂はやがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、御神体として祭られている。その際、刀鍛冶師の月山貞一(初代)が作刀した布都御魂剣の複製2振が本殿中陣に奉安された。
    鹿島神宮
    鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。

    つまり、鹿島神宮にあるのは複製品。

  1332. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:15:11

    ※1330
    >伊勢神宮についてはまったく意味不明だけど

    何が言いたいのか、意味が分からんな。

  1333. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:19:34

    鹿島と香取については、藤原氏が関東から東北の利権を確定する為に、後に氏神社とした可能性が高いんだよ。
    上にも書いたが、昔から藤原氏の氏社であれば、藤原宇合が編纂に関わったと思われる常陸風土記に、その記述が書かれてあると考えるのが普通だが。

  1334. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 17:36:33

    ※1327
    伊勢神宮について何が言いたいのか、はっきりしろよ。半島民くん。

  1335. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 18:15:21

    Wikiからだけど
    社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)[原 8]にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる[8]。
       蝦夷関連で後になって建てられたというのは間違い。

    フツヌシ(経津主)
    「フツ」とは刀剣の鋭い様を表した言葉といわれ、刀剣を表す神名とされる[2]。関連して記紀には「フツノミタマ(布都御魂、韴霊)」という神剣が見え、フツノミタマはタケミカヅチから高倉下に下され、のち物部氏氏神の石上神宮(奈良県天理市)に祀られたという。
    フツヌシやワカフツヌシの神名は『出雲国風土記』にも多く登場し、諸国にも多く分布するといわれる[58]。これは物部氏が神剣フツノミタマを奉じて各地を征討した結果、各地でフツノミタマを神格化したフツヌシが祀られたためとされる[58]。そしてこれらの伝承を基にして、フツヌシが国譲り神話に登場すると説明される[58]。一方、フツヌシは『古事記』には見えないため、『古事記』に見えるタケミカヅチの別名「建布都/豊布都」からの造作と見る説もある[59]。

    祭祀氏族としては、古くは経津主神の神裔を称する香取氏(かとりうじ)であったことが知られているが、その香取氏の本質は物部氏であると指摘する説がある[55]。その中で、フツノミタマとフツヌシの関連性、史書に見える周辺の物部氏族の存在から、フツヌシが物部氏の氏神として祀られたと推測がなされている[55][60]。一方、香取神宮が下海上国造の氏神であったとし、その国造を担った他田日奉部氏(おさだのひまつりべうじ)を原始氏族に推測する説もある[7]。他田日奉部氏は宗教的部民で、直(あたい)という従属性の強いカバネを有しており、「イハヒヌシ」という奉仕する神の性格とも合致すると指摘される[7]。一方、香取氏はこの下海上一族の支配下にあったと見る説もある[15]。

  1336. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 18:34:23

    平安時代以前、「神宮」の呼称使用の他例には『古事記』『日本書紀』で「石上神宮」があるが、『延喜式』神名帳では「石上坐布留御魂神社」と記される

    これの理由を考えたら、布都御魂の基となった経津主香取に神宮が移動したと考える方が自然じゃないか。

  1337. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 18:43:55

    ※1335
    >蝦夷関連で後になって建てられたというのは間違い

    創建について、そんな事をいった覚えはないぞ。上で常陸風土記に出ていると書いてあるだろ。
    藤原氏が氏社とした理由として東北の支配権を確定する為ではないかと言っているだけ。

    ひたち‐ふどき【常陸風土記】
    古風土記の一つ。1巻。常陸国11郡のうち、河内(逸文あり)・白壁(のちの真壁)の2郡を欠く9郡の地誌。713年(和銅6)の詔に基づいて養老(717~724)年間に撰進。文体は漢文による修飾が著しい。常陸国風土記。

    752年に東大寺の大仏開眼供養が行われるが、鋳造は749年に完成しており、メッキを施すための金を大量に必要とした。大半は輸入に頼っていたが、宮城県涌谷町で日本初の金が産出されて奈良の大仏に約440㎏の金が使用された。当時の金産出は東北に限られた。後の平泉文化にも繋がる。
    聖武天皇~称徳天皇の時代、藤原氏は橘氏+吉備真備などや道鏡らに押されており、勢力復興する為に東北での権益を重要視したと思われる。
    東北には阿部氏や大伴氏、大野東人などが按察使(国司兼務)任命され、藤原氏だけの独占的な権益があったわけではない。

    おおの‐の‐あずまひと【大野東人】
    奈良時代の武人。陸奥鎮守府将軍・按察使となり、蝦夷を討ち、多賀城を築く。740年(天平12)藤原広嗣を討伐。(~742)

  1338. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 18:53:40

    >1329
    >関東は新座郡と高麗郡が置かれて、日本各地の朝鮮人を集め、長らく朝鮮系部落で続いてきた土地だからな。

    数人~数十人って毎回数も書いてあるし、賄いきれなくなったから他にも移したという話なのに、こんな事書いて対立煽りとは、お里が知れますなぁ。

  1339. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 18:57:53

    古事記の神武のとこだけみると
    卽賜名號槁根津日子。「此者倭國造等之祖」。故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津

    倭国≠天、大和  途中の吉備や宇佐には倭と書かれていない
    倭は大阪から飛び地で筑紫の勢力だった?

  1340. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:00:09

    ↑しかもその直後に戦闘になってるから、神武は大阪の倭勢力と戦ったみたいだね。

  1341. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:03:20

    ↑切れ切れで悪いが、此者倭國造等之祖って事は、その後も倭として続いたって事だから、
    神武時代の大阪=倭人→追い出されて北九州で倭国建国って事でいいのかな。

  1342. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:07:26

    ※1336
    石上神社は存続しているから、神宮が移動したというのは適切ではない。
    藤原京 (694~710)

    いそのかみ‐の‐まろ【石上麻呂】
    物部氏の嫡系の貴族。元明・元正天皇の頃、正二位左大臣。(640~717)

    一旦衰退した物部氏だが、上の時代には石上氏が復権していた事が分かるが、不比等との政争に敗れ
    平城京(710~784)遷都の際に藤原京近くに残され、平城京では政権の中枢にはいなかった。
    面白いのが、藤原京の近くに30近くの春日神社があるが、これを建てたのは石上麻呂とも言われている。
    年代別に見ていくと、藤原氏が物部(石上)氏にとって代り側近になり、後に藤原家が隆盛した
    平安時代になって、石上神宮を格下げし色々な物を奪うような形で、香取・鹿島神宮へ移行させた
    と推測できるはず。

  1343. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:11:56

    ※1338
    >数人~数十人って毎回数も書いてあるし、賄いきれなくなったから他にも移したという話なのに、こんな事書いて対立煽りとは、お里が知れますなぁ。

    賄いきれなくなるほど多くいたんだろ、自爆するなよ(笑)
    で、先に言い出したのは※1327の関東人だろうに。ちゃんと読んでから書けよ。

  1344. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:16:24

    石上神宮(いそのかみじんぐう)
    歴史
    神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。
    社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが
    Wiki抜粋
    社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、
    Wiki抜粋

    否定していた奴はやっぱり寄生民族だったか。捏造歴史を連呼するためには、日本の歴史破壊する必要があるもんな。

  1345. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:18:34

    >1343
    寄生民族とは会話しても無駄だからなぁ。嘘出鱈目しか出てこないんだもの。

  1346. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:19:20

    ※1327、1338
    今日は外出するのでここまで。書きたい事があったら、まとめて簡潔に書いておいてくれ。
    ただ、このスレは旧唐書の話であって、藤原氏関連を語る場ではないから、上で書いてあるのと同じ事を繰り返すような事は書くなよ。無知がバレるぞ(笑)

  1347. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:23:07

    >1346
    うわぁ・・・

  1348. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:28:50

    ※1345、1347
    香取・鹿島に武甕槌・経津主が祀られたのは日本書紀などが書かれた後の時代~延喜式が
    書かれた頃の間と思っている。

    お前は風土記や日本書紀が書かれた頃からだと思っているなら、
    明日まで時間があるから、香取・鹿島に武甕槌・経津主がいつから祀られているか
    はっきりと記述がある文献を提示しておいてくれ。

  1349. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:30:13

    >1348
    うわぁ・・・

  1350. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 19:40:40

    >1348
    捏造慰安婦はあったと思っている。
    はっきりと無かったという証拠を提示するニダ。

    お里が知れますなぁ。

  1351. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 20:45:34

    >1342
    藤原不比等を引き立てたのが石上麻呂だよ
    そして常陸風土記に関わり、鹿島神宮を藤原の神社に位置づけていった藤原宇合は、石上麻呂の娘婿

    布都御魂大神を祀る石上神宮が、物部=石上氏の氏社であることから、石上麻呂後ろ盾とする宇合がその縁で、もともと地祇系の土着信仰の鹿島の神に、布都御魂大神の持ち主の高天原系の武甕槌が上書きされた、なんてこともあるのかもしれない

  1352. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 21:02:58

    >1339
    >倭国≠天、大和  途中の吉備や宇佐には倭と書かれていない
    >倭は大阪から飛び地で筑紫の勢力だった?

    そうじゃなくて、大和国が倭国で邪馬台国なんだよ
    槁根津日子に出会った場所がどうこうじゃなくて、後に此者の子孫が倭國造等になったからその祖って書かれているわけだ
    古事記にも日本書紀にも、筑紫が倭国だなんてどこにも書いてない

  1353. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 21:41:53

    >1352
    >槁根津日子に出会った場所がどうこうじゃなくて、後に此者の子孫が倭國造等になったからその祖って書かれているわけだ
    これはわかる
    >大和国が倭国で邪馬台国なんだよ
    ??? 1348の捏造民族かな、道案内しただけで神武乗っ取りとは(笑)
    あぁ、ロシアのスパイが金将軍の手柄を横取りして王朝始めたんだっけ、自己紹介だな。

  1354. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 22:32:23

    >1353
    すぐ捏造だのなんだの言い出すから話にならないんだよ
    意見が違うなら、どこがどう違って、自分が何を根拠に違う意見を推すのかを書けばいい

    日本書紀も古事記も倭国と言えば、広義ではこの国全体、狭義では大和国(奈良)を指していて、倭の五王もこの記紀のいう倭国

    そして、記紀には筑紫を指すのに、倭国あるいは倭という用法はない

    だから、「記紀に倭と日本が別だと書いてある」って言う人は、根本から分かっていないって言うんだ

  1355. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 22:45:03

    1354
    古事記と日本書紀をまとめて記紀として煙にまく書き込みは流石ですね

  1356. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 22:52:09

    ※1354
    古事記の原文 倭:64件 日本:0件
    推古天皇までだから当然日本なんて文字は出てこない
    古事記や日本書紀から名称としての倭と日本がどうのってのは意味ない
    ましてや一緒なんて有り得ない
    君は半島に帰ってもいいと思うぞ

  1357. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 22:55:47

    >1354
    正史では倭は九州を表している
    日本では倭は大和地方を表し、後に日本と表された
    つまり正史の倭と記紀の倭(日本)は別
    日本人ならすぐに理解できることだが日本人以外には中々理解できないことですよね

  1358. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/09(日) 23:34:05

    国籍透視すげー

  1359. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 03:51:14

    百済の沸流(ふる)=三韓の辰王(振る)=布留、布都、経津

  1360. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 04:17:31

    日本人は天皇家と一緒に半島に帰るべき

  1361. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 06:09:00

    >1359
    >1360
    きんもー☆

  1362. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 06:19:30

    大和や日本国の本ができあがる話で、それとは別に倭の先祖が出てくるってことは、倭は別天とか少なくとも別の国認識(構成国の一つ)されてたって事だよね。
    此者倭國造等之祖   等之祖って事は、他にも国を造ったという事で、倭の東千里倭種の国とか大きな勢力になったのかもしれないね。あるいは各地の海岸で漁師やってた勢力か。

    >1342
    ちょうど古事記編纂中のできごとだね。710年に決着がつき、石上物部の意見が入った古事記を黙殺し、藤原主導で日本書紀。
    春日大社には4神祀ったものより古い部分が出てきて、最初はたけみかづち一つでもっと早く創建されてたって話もあるし、
    >1351の、自分(物部)と自分ちの娘(3番目と4番目)のおかげって事も忘れるなよと、藤原京の周りに30も建てたと考えたら面白いかもしれない。
    中臣はたけみかづち関連の出自で、後に物部と一緒に経津主も手に入れ、さらに後に藤原隆盛により、伊勢鹿島香取の3つ、つまり自分とこだけ特別扱いした。

    なんだかどうも、祖先の神様話って並立してる事多いような気がするんだよね。
    つまり大阪→東→奈良ではなく、大阪(物部)→ 奈良 ← 東(中臣)

  1363. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 06:51:08

    記紀の海幸彦山幸彦の話は、朝鮮の沸流温祚の話とそっくり
    鎌足と中大兄の蹴鞠の話は、金ユ信と金春秋の話とそっくり

  1364. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 07:36:54

    >1356
    どうせならこっちの情報も載せた上で論じようや
    日本書紀の原文 倭:192件 日本:255件(内30は各巻の表題)
    日本書紀でも倭の表記はてんこ盛りだよ
    そして
    >推古天皇までだから当然日本なんて文字は出てこない
    が分かってるなら、「3世紀の大和朝廷が日本だ」というのが無意味だって分かってるよな

    シイネツヒコのくだりは日本書紀にもあって
    爲椎根津彦(椎、此云辭毗)、此卽倭直部始祖也
    この倭直部とか、倭国造とかは、後の大和朝廷での役職(あまり正確な言い方ではないが)だから、国を造ったって意味じゃないよ>1362 よく勉強して

    >1355
    実際、古事記でも日本書紀でも、倭国と言えば、大和国あるいはこの国全体なんだから、一緒に論じることになんの不自由がある? そして、筑紫を倭とする表記はどちらにもない。ごまかしでも何でもなく事実だぞ。それをごまかしだというのがフェイクだよな

    >1357
    >正史では倭は九州を表している
    日本で正史と言えば、日本書紀からの六国紀を指すんだが、1357の言う正史は「大陸の正史」のことか? 大陸の史書が九州としてるのは、倭奴国あたりのことで、邪馬台国からはヤマト国だぞ
    大陸の史書を単に正史というのは、日本史を論じる場合には混乱するから日本人なら止めようや

  1365. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 08:16:15

    >1364
    >「3世紀の大和朝廷が日本だ」というのが無意味
    大和朝廷と日本の連続性を否定する人は珍しい、百済人が造った日本でないと困る人?

    >大陸の史書が九州としてるのは、倭奴国あたりのこと
    何これ、畿内説は無根拠って散々言われ続けてるのに、わかっちゃいたけどいつもの朝昼人ね。

    >倭直部とか、倭国造とかは、後の大和朝廷での役職
    珍彦(うづひこ)(宇豆毘古)。後の槁根津彦(古事記)、椎根津彦(日本書紀)。イワレビコ(神武天皇)が吉備国の高嶋宮を出発した後、吉備国の速吸門で出会い、水先案内や献策などを行った。神武東征の功により、神武天皇2年に初めて倭国造に任じられたという。
    大阪じゃなくて吉備の人が倭人で、奈良に入り、神武の親にもなり、大和を造っていったのか、勉強になった。聖徳太子時代の瀬戸内ずっと倭人勢力って倭人伝の内容と一致するし。

    九州倭→五王倭(弟の日に奪われ?)→大阪接待の倭(聖徳太子時代)→無礼な倭(東勢力?)→倭か日本(藤原にだいぶ乗っ取られてどっちがどっちを飲み込んだのやら)→日本(藤原の世になってるし日本だわこれ)
    こんな認識になってきたな。

  1366. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 09:30:59

    >1365
    >>「3世紀の大和朝廷が日本だ」というのが無意味
    >大和朝廷と日本の連続性を否定する人は珍しい、百済人が造った日本でないと困る人?
    そういう意味じゃないだろう。倭と日本が3世紀に並立して、のちに日本が倭を併合したとかいう俗説・珍説が間違っているという話
    3世紀の大和朝廷(の前身)が、倭を名乗って魏に使いを送った主体で、そのままずーっと倭国を名乗り倭の五王の宋への遣使も大和朝廷、それが天武・持統超に至って、日本という国号と天皇という称号を創って以後それを名乗ったって言い続けているんだが

    3世紀の大和朝廷の前身は、倭国の代表であって、日本という名乗りなどはない、という話だ

    >大阪じゃなくて吉備の人が倭人で、奈良に入り、神武の親にもなり、大和を造っていったのか
    日本書紀と古事記では、シイネツヒコと出会った場所が違うぞ
    もともとの伝承は「速吸之門(日本書紀)」「速吸門(古事記)」とだけあったんだろう。これが、古事記では吉備之高嶋宮を出てからで明石海峡辺りかとされていて、日本書紀だと日向を出て宇佐(筑紫國菟狹)に着く前だから豊後水道ってことになってる

    それから、1364でも書いたが、国造は「国を造っていない」
    国造の読みは「くにのみやつこ」 基本的な日本の教育を受けていたら、国造が国を造ったとか間抜けなことは言わないはずだが、よほどの勉強不足か違うカリキュラムで教育を受けたか、だな

    >何これ、畿内説は無根拠って散々言われ続けてるのに、
    この、畿内説は無根拠って言うのが、1365の頭の悪いところ
    何を持って無根拠というのか、レッテル貼りばかりに忙しくしてないで、「根拠をもって」主張しなよ
    できなければそれまでだがな
    ちゃんと根拠を書けよ

    それとも「大陸の史書」こそが、断りなしで「正史」だと言える国の人なのか?

  1367. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 12:12:59

    ※1352
    横から一言。
    大和が倭国で邪馬台国って捏造する糞は千ョンコークオリティーやんけ!

  1368. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 12:21:57

    ※1344
    主張をまとめて書くこともできんのか? 常陸風土記も読んでないのか?

    布都御魂は武甕槌命の剣であるが、神武天皇が東征した際に武甕槌命が高倉下に授け、神武天皇が使用した剣である。
    旧事紀によると高倉下は饒速日命の子とされているので、物部(石上)氏の祖先とい事になる。
    中臣(藤原)氏の祖先は天児屋命であるから、布都御魂は藤原氏の物でではない。

    たけみかずち‐の‐みこと【武甕槌命・建御雷命】
    日本神話で、天尾羽張命あめのおはばりのみこと の子。経津主命ふつぬしのみことと共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。

    あまのこやね‐の‐みこと【天児屋命・天児屋根命】
    日本神話で、興台産霊こごとむすひの子。天岩屋戸の前で、祝詞を奏して天照大神あまてらすおおみかみの出現を祈り、のち、天孫に従ってくだった五部神いつとものおのかみの一人で、その子孫は代々大和朝廷の祭祀をつかさどったという。中臣・藤原氏の祖神とする。

    ふつぬし‐の‐かみ 【経津主神】
    日本神話で、磐筒男神いわつつのおのかみ・磐筒女神の子。天孫降臨に先だち、武甕槌神たけみかずちのかみと共に葦原の中つ国を平定し、大己貴命おおなむちのみことを説得してその国を皇孫瓊瓊杵尊ににぎのみことに譲らせた。刀剣の神。香取神宮に祀る。

    にぎはやひ‐の‐みこと【饒速日命】
    記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦ながすねびこ の妹三炊屋姫みかしきやひめを妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。

    常陸風土記には「高天原より降り来し大神のみ名を香島の天の大神と称ふ」とあり、香島(鹿島神宮)の元の祭神は香島大神であって武甕槌神でも経津主神でもない。のちに藤原氏が代位したと考えられる。
    石上神宮は布都御魂を主祭神として創建されたものであるから、鹿島が武甕槌神を祀るより早い。

    布都御魂が石上神宮に祀られる以前から物部氏が武甕槌命に授かったものであり、中臣氏は何ら関係がない。
    先祖でもない武甕槌命を祀っただけの事である。その前から所有権が物部氏ある事はあきらか。

    鹿島の布都御魂は奈良時代末期~平安時代に造られた物だとされている。
    これらから、藤原氏が石上神宮から布都御魂を奪い鹿島に移そうとしたのを、石上神宮側が拝殿の裏手の禁足地に埋めて阻止した。藤原氏は仕方なくレプリカを造り鹿島に奉納した。と推測できる。

    後から祀っておいて、ウリが祀っている神の所有物だったから、剣はウリの物ニダ!!
    というお前※1327の主張も半島民そのものだな。
    ※1350、お前は知れる以前に、半島系DNAを持っている事が確実だけどな(笑)

  1369. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 12:23:13

    ※1364
    横から一言。
    この自己絶対視ぶりは千ョンコークオリティーやんけ! 
    近畿派ってクルッテル。 

  1370. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 12:31:03

    あっ千ョンコ千ョンコ千ョンコ!
    妄想近畿派は千ョンコークオリティーやんけ!

  1371. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 12:55:52

    北朝鮮から見たら韓国は南朝鮮
    韓国から見たら北朝鮮は北韓
    日本からみたら両方朝鮮半島

    千年後の人は混乱するでしょうね
    お互い朝鮮半島は全て自国の領土としていて、相手を不法占拠している武装勢力扱いしている
    統一したら自国の正統性を声高に叫ぶことでしょう
    もし片方が統一して相手の文書を燃やしたら、日本に残る資料などでしか消えた方は分からないでしょう

    倭を滅ぼした日本が倭の歴史を消したのも当然と言えるでしょう
    消されたからこそ中国に残る倭の歴史が後の日本と別であることが分かる

  1372. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 13:36:01

    >1363
    >記紀の海幸彦山幸彦の話は、朝鮮の沸流温祚の話とそっくり
    >鎌足と中大兄の蹴鞠の話は、金ユ信と金春秋の話とそっくり

    そのそっくりな話が出てくるのは、どこに出てくるんだ? 三国史記とかか?

    三国史記の成立年代と、古事記、日本書紀の成立年代を比べてみたら、どっちが元ネタか判断できるんじゃないかな?

  1373. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 13:57:28

    >1371
    >倭を滅ぼした日本が倭の歴史を消したのも当然と言えるでしょう

    そもそも「滅ぼした」というのが、論証が必要なところ

    古墳時代に入る前から、大きな弥生墳丘墓を作っていたところは、古墳時代に入っても大きな古墳を作り続けていて、そこに目に見えるような断絶はないよ
    文書なら消せるかもしれないけれど、大古墳のようなものは消し難いし、実際消されずに残っているよね?
    滅ぼされた倭って言うのはどこにあるんだ?
    北部九州も、畿内に比べたら数分の一程度の大きさに過ぎないけれど、古墳時代に入っても数十メートルクラスの前方後円墳は作り続けているよ

    で、どの辺りに滅ぼされた倭を比定するのかな?

  1374. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 14:04:52

    天孫降臨は天から降りてきた神の子孫という伝説であって、大陸からの渡来を意味するとは限らない
    ヤマトという名前、神が降りてくる常世の入り口という山への信仰を考えると阿蘇の話は興味深い
    狩猟時代は支配層・被支配層という概念は希薄だったのだろうけど
    俺は九州に阿蘇の怒りを鎮める儀式担当の一族が居て、それが皇族の祖先(山人or山門or山登)だったと妄想していた

    農耕化が進むと人口が増え、不作時にはその増えた人口が短期間にそのまま大飢饉を招く原因になるし、狩猟時代に比べて社会の階級化や闘争が起きる
    弥生化が北部から九州全体に広がっていく過程で、九州中南部の縄文社会において阿蘇への恐怖と結び付けて代々畏れられてきた皇族が、九州人統合のシンボルに祀り上げられたのではないかと
    東征が先住民系多数派社会に対する弥生人の王による侵略ではない可能性を考えたいという心理に基づいているのは否めないが

  1375. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 14:46:18

    ※1373
     ↑
    倭人の代表政権と認められ無い悔しさで、古墳の巨大さで自己の偉大さを誇るしかなかった、哀れで惨めで愚かな地方政権(笑)

    なのに、巨大さごときでホルホルするって、近畿派は千ョンコーやんけ!ww

  1376. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 15:55:59

    日本の天孫降臨神話は加羅の建国神話のパクリ

  1377. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 17:31:09

    >1375
    大きな古墳が作れる=大人数を動員できるってことで「権力の大きさを見るのに適切な指標」なんだよ
    古墳でなくても大土木工事でもいいんだけど、古墳時代でもあるし、古墳の大きさというのは非常に分かりやすい
    そして、九州全域も含めて邪馬台国の時代のすぐ後に古墳時代に入っていて、古墳の大きさ、群集墳としての古墳の数、陪塚の充実度によって、その古墳群を作った主体の実力が見て取れる

    そして畿内の超巨大古墳を頂点とする、ヒエラルキーが見て取れるんだよ

    九州でも、宮崎の西都原古墳群では男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の巨大古墳が作られている
    これまでにも何度も書いているけれども、これは記紀では日向の髪長姫が仁徳天皇の后妃に入っている記事があるので、畿内政権=大和朝廷の支援による髪長姫の実家筋の古墳だろうと言われている
    その髪長姫の入妃に伴うものだから、巨大古墳が作られたのは1代限りということで分かりやすい

    九州に倭王がいたとして、倭の五王の時代はちょうどこの髪長姫の入内の頃だが、九州説でも宮崎の西都原周辺に倭王の根拠地を置く説はあまり見ないし、これまでここのコメント欄でも、北部九州か熊本という意見しかない
    その北部九州や熊本には、畿内の超巨大古墳はおろか、西都原の男狭穂塚と女狭穂塚古墳より大きな古墳が、倭の五王の時代にはひとつもない

    その九州倭王政権は、宮崎西都原周辺すらその版図に収めていない地方政権なんですか?

    反論があるなら根拠を付けて書いてくれ、と何度言っても、頭に血の上った罵倒しか書けないようでは議論にならないな

  1378. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 17:33:17

    >1376
    >日本の天孫降臨神話は加羅の建国神話のパクリ
    その、加羅の建国神話の記録で、記紀よりも古いものはあるのか?
    あるなら教えてくれ
    なければ、後出しの方が、古い記録を真似てると考える方が合理的

  1379. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:01:16

    奴国→邪馬台国が倭の歴史
    日向出身で畿内に移り住んだ天皇家が日本の歴史

  1380. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:08:51

    日本書紀では、神武紀から20代安康天皇までが「儀鳳暦」で、雄略紀から41代持統天皇までが「元嘉暦」によって組まれている。中国では元嘉暦の方が成立が古く(445 – 509年)、儀鳳暦が後となる(665 – 728年)。中国南朝や百済は元嘉暦を使用し、5世紀の倭が暦法を用いたのであれば、元嘉暦に拠ったとみられる。儀鳳暦が日本に伝わったのは唐の儀鳳年間(7世紀末)と考えられ、新羅使などを介してもたらされたともされる。日本書紀では持統天皇4年(690年)に、両暦を併用した記述があり、これが文武天皇即位697年に儀鳳暦一本に置き換わった。これらのことから神武紀の紀年自体は7世紀末以降に成立した。
    神武天皇即位が辛酉の年の春正月庚辰朔とするのは、古代中国思想で辛酉年が大変革が起きるとされたためで、このため推古天皇9年(601年)の辛酉から1260年さかのぼった紀元前660年と設定されたと考えられる。これが天皇(欠史八代)の在位年数と年齢が異様なまでに長い理由とされ、伝わっていた代数には手は加えられなかったために治世・寿命の方を水増しせざるを得なかったとされる。

  1381. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:14:28

    広開土王碑には古代朝鮮の建国神話が記され、碑は好太王の業績を称えるために子の長寿王が建てたもので、碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとあることから少なくとも5世紀には朝鮮半島の建国神話はあったとみなされている。

  1382. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:17:34

    日本書紀には、『百済記』や『百済新撰』など早くから散逸した百済の史書からの引用がある。百済からの文化財には、軍事的援助の謝礼として、中国より伝来したという石上神宮に伝わる七支刀がある。また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還された。

  1383. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:30:00

    >1381
    >広開土王碑には古代朝鮮の建国神話
    ここに書かれているのは、高句麗の建国神話だよな

    加羅の建国神話で古い記録はあるんだろうか

  1384. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:34:01

    加羅地域はヤマト王権に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していた。倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国とある。
    邪馬台国が滅んだあと、畿内のヤマト王権が北部九州を平定し、朝鮮半島南部もその勢力圏としたことが遺跡から明らかとなっている。
    高句麗の広開土王碑によりヤマト王権が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことが確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいたヤマト王権軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
    任那地域については、日本が大陸での影響力を失い任那加羅が百済新羅両国により占領された後も、新羅と百済は日本に対して任那地域の調を収めていた記録が残っている。

  1385. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:41:57

    375年の出来事として「百済開国已来、未有以文字記事、至是博士高興、始有書記」との記載は、この頃の中華秩序に倣った歴史書に準ずるなんらかの記録が百済にあったことを伝えている。
    日本書紀で引用されている百済の歴史書がこの時の書であれば、加羅、百済、任那の神話が記された時代は間違いなく日本書紀編纂以前となるだろう。

  1386. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:46:00

    1383
    高句麗と加羅地域の建国神話は一部テイストが一緒(王の民族が一緒の説があるから当たり前かもしれない、民衆は違う血族のようだが)なので、同じ時期に近い話はあったとみられているようだよ。

  1387. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:50:52

    日本書紀で明示的に引用されている個所は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。
    しかし、継体天皇の崩年(崩御の年、527年?)については逆に、『百済本記』の記録を採用しているがために日本書紀の体裁がおかしくなっており、三書全部が日本書紀編者によって都合よく作り出されのでもない。こういったことを考慮して、三書はその編成目的に日本関係を主眼とするなどの偏向があったとしても、それぞれ編纂者を異にした百済の史書とすべきとされている。
    紀年については、三書を引用した日本書紀(応神紀)と三国史記とが、干支で記述された年月と事績との対比から、記述された実年代とは干支の2周分(2運)、即ち120年ずれて一致することが指摘されている。その理由について、藤原不比等が古事記に崩年注記のない神功皇后を中国史に現れる卑弥呼に比定するためであったことが知られている。

  1388. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:52:31

    漢字や神話はウチ奈良起源なノダ
    ウチ奈良が半島を支配していたノダ

  1389. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 18:54:17

    日本列島での事例が大半である墓制の前方後円墳が朝鮮半島でも幾つか発見されている。
    これは外見だけが同じであり、中の石室は現地式もしくは北部九州式である。
    朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう。そのほか、新羅・百済・任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られることや、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明したことなど、日本との交易、半島における日本の活動などが研究されている。

  1390. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 19:02:14

    まぁ~みんな詳しい事詳しい事マジで尊敬するわ
    ただ一つ言えるのは阿蘇山周辺に何や解らん国があったって事は事実なんやろな

  1391. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 19:11:51

    >1384
    >邪馬台国が滅んだあと、畿内のヤマト王権が北部九州を平定し、朝鮮半島南部もその勢力圏としたことが遺跡から明らかとなっている

    その「邪馬台国が滅んだ」ことを明らかにしてくれる遺跡を教えてくれるか?
    そういうのがないから、定説のない状態が続いてるんだと思うんだが

  1392. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 19:21:14

    >1390
    魏志倭人伝に阿蘇山の蘇がつく国名が出てくるからその国々が阿蘇山の周りじゃないかとは言われているよね

  1393. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 19:58:23

    ※1377
    反論になってネーぞ、田舎政権(笑)
    それでホルホルしてっから千ョンコー扱いされてんだろがよ!

  1394. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:02:51

    >1392
    ただなあ、音訳で小野妹子が蘇因高になる国だから、なんとも言えないな
    (魏と隋で、感じの読みが違うだろうことは分かってる)

  1395. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:08:14

    >1394
    せっかく当時の人がそのままの読みで書いてくれても再現不可能だもんね。
    後漢の後だから漢音なのかなとは思うけど、もはや分からないよね。

  1396. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:21:16

    1377と1393を読む比べれば、どちらのレベルが低いかは、日本人なら分かるからww

    根拠を一切示せない方が、こういう論争では劣位なんだよ
    つまり、1393は1377より下に見られる訳だ

    上下関係が何より大事という価値観だと、耐えられないだろうな
    まあ、がんばれ 根拠が書けるといいね

    大きい古墳を作れる地域は、それだけの動因ができる実力、権力がある、を超える根拠が出せるといいね

  1397. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:26:16

    >1396
    名前に1377と入れといて下さい

  1398. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:29:56

    1377は古墳時代の説明をしているだけで何も反論してないやんけ
    1396は1377がどう見えるんや?

  1399. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:33:06

    ※1396
    古墳が大きいと奴国の倭とヤマト朝廷の日本は同一になるのか?
    わけわからん

  1400. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:38:32

    ※1396
    そうだね、口先優しいのは詐欺師の常踏手段ですね、ウンウン。
    で、反論になってない件はどうすんの?
    早く答えなよ、田舎政権クソ!
    スリカエとコジツケしか出来ないウンコリアンww

    一番巨大な古墳群を作った偉大な功績のお蔭で支那様に倭人の代表政権に認められたと言う証拠を出しなよ(笑)
    そんな記録が支那の歴史書に有ったっけ? プークスクス

  1401. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:42:16

    今から出かけっから相手は出来ないけどな ま、ゆっくり考えな、田舎政権クソ(笑)

  1402. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:42:47

    ≫1396
    反論が一切書いていないということは相手の主張を認めたということですね。
    相手の主張を認めるなんて流石畿内の日本男児ですね。素晴らしいです。

  1403. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 20:45:18

    ※1396
    根拠がないのは1377だよな
    どっちの味方なんだい?
    それとも同一人物かい?
    日本の使節も信用されていなかったようだから根拠に乏しかったんだと思われないかい?

  1404. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 21:37:52

    根拠を持って否定すれば、説得力もあるものの、誹謗中傷しながら火病ばかり。
    自ら胡散臭いですよと自己紹介しているようなもの。
    批判なら根拠を出すべきであって、相手を誹謗する必要も意味もない。
    論を主張することよりも、自慰行為をしたいだけならブログにでも書いてくれ。
    典型的なプロパガンダ手法ばかり。鏡を見たほうがいいような自己紹介が多い。

  1405. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:00:26

    日本書紀によれば七枝刀は4世紀頃倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものとされる。
    日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。この年は372年にあたり、年代的に日本書紀と七支刀の対応および合致が認められている。
    裏面には百済王が東晋皇帝を奉じている銘文があることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったとされる。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があった。

  1406. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:03:48

    なお、この時七支刀と同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡である。
    この銅鏡は1875年大雨で崩れた大仙陵古墳から出土したものと伝えられ、ボストン美術館には銅鏡、環頭大刀など5点が収蔵されている。これらの品は、1908年には既に博物館に所蔵されていた。

  1407. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:29:46

    ※1404
    誰に向けて言ってるのか誤魔化して発言して満足なの?
    それじゃオメーが一番オ.ナニ.ー好きの自己中だな、しかも露出凶! 
    うっわぁ、キンモォー!

  1408. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:31:16

    又、出かけっから。

  1409. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:43:41

    >1398
    だから倭の五王が九州王朝の倭で大和朝廷とは別だってのは、古墳の大きさだけで否定できるって話なんだから、古墳時代の説明をするに決まってるだろう

    それとも倭の五王の時代は古墳時代ではなかったと主張する気か?
    他人が納得する根拠があるなら主張してみればいい

    古墳時代は北部九州も熊本も、もれなく古墳時代だからな

    そして、魏志倭人伝の時代の邪馬台国が九州っていうと、結局倭の五王も九州ってことにしないと筋が通らなくなるんだよな

    まあがんばれ 根拠付きで書き込めるならな

  1410. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:47:38

    百済から逃れてきた王族が「天孫降臨」し「神武東征」し倭を破って打ち立てたのが日本か・・・
    確かに
    文化がガラっと半島風になり、畿内人の顔立ちは塩顔といわれる朝鮮系だが・・・

  1411. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:47:57

    頭のおかしい自演だらけの人の相手は面倒なんだけど、面倒だからと放置した結果が慰安婦問題他なのを知ってるから、おかしい書き込みはおかしいってがんばって書いてるんだがな

  1412. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 22:51:03

    >1410
    >「神武東征」し倭を破って打ち立てたのが日本か・・・
    それだと倭奴国が畿内になるから却下
    神武東征の頃、百済はまだないから二重に却下だよ

  1413. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 23:01:07

    1412
    倭は途上で踏み潰したんだろう
    まあ九州の蛮族も畿内の蛮族も百済からすれば同じレベルだったということで
    あと百済は国というより民族系統だな
    今でも韓国の全羅道と慶尚道は水と油だが
    これは民族系統がもともと違ったからだろう(言語は新羅系が統一した)(現日本語は百済語)(倭はアイヌ語)
    つまり東アジアには漢民族と韓民族と百済族とアイヌ族の4系統がいて玉突き事故を起こした

  1414. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/10(月) 23:12:37

    倭は文字を持たなかった・・・
    これが全てを表してる気がする
    そういえばアイヌって?近代まで?

  1415. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 00:09:32

    ※1409
    嘘偽りだらけの妄想かよ。こんな所にぶち撒けるなよ。
    おまエラのやるべきことは、 ※1400, への中身のある反論だろ。特に下2行に対して!
    なんにも出来ても無いのに、厚かましくも身勝手な妄想話にスリカエすんなよ!
    それじゃ千ョンコーじゃん! そりゃ痛烈に罵倒する方が正しいわ。

  1416. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 00:14:26

    >1409
    根拠を持って否定すれば、説得力もあるものの、誹謗中傷しながら火病ばかり。
    自ら胡散臭いですよと自己紹介しているようなもの。
    批判なら根拠を出すべきであって、相手を誹謗する必要も意味もない。
    論を主張することよりも、自慰行為をしたいだけならブログにでも書いてくれ。
    典型的なプロパガンダ手法ばかり。鏡を見たほうがいいような自己紹介が多い。

    1404様の有り難いお言葉をお聞きなさい。
    ブログ開設したらアドレス教えて下さいませ。

  1417. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 00:20:00

    ※1413
    隠すなよ、新羅は穢便器だ。
    オマケにクダラは倭国の属国! 
    クダラネー事言ってんじゃ無いぞ、このクソ喰らいがぁ!

  1418. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 02:29:00

    千ョンコ千ョンコと連呼しまくってる子は何かの病気なのか?

  1419. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 05:43:28

    典型的馬鹿ネトウヨ

  1420. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 06:33:04

    ※1407
    雉も鳴かずば撃たれまいに。
    自覚はあったんだね。

  1421. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 08:57:11

    ※1420
    キンモォー! 誰に宛てたかもよく解らん自己満足に浸った文をわざわざ露出しにくる変態と同好の志だとさ、おぇぇぇ。

    雉も鳴かずば撃たれまいに、阿呆じゃのぉ(笑)

  1422. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 09:01:22

    ※1418
    そりゃ千ョンコーのお前にゃ気に障るだろうなぁw

  1423. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 09:07:15

    ※1419
    えっ? 近畿派が何だって? 物事をキチンと言えないんだ!
    可哀想そうなボクチンでちゅかぁ~(笑)

  1424. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 09:09:45

    邪馬台国=大和王朝はかなり可能性が低いと思う
    邪馬台国は沢山あった国の中の一つにすぎないだろう

    あと中国の歴史書は盲信してはいけない
    王朝が変わると前代の歴史を塗り替える癖がある
    ましてや遠く離れた日本のことなんてかなり適当だろう

    元々倭は矮小などの悪い意味はなく従順という意味だったし実際そんな態度だったんだろう
    しかし倭から日本に変わったころから差はもうなくなったと感じ中国を対等に思うようになり下手に出なくなった
    聖徳太子が隋に日出ずる国の天子、書を日没する国の天子に致す。といった頃からな

    つまり中国サイドにしてみればこの頃くらいから態度が露骨に変わったので不届き者の別人に見えたのだろう
    日本側も莫大な渡航費と危険な航海をやってまで中国から得るものが段々となくなっていったので遣唐使を廃止した

  1425. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 09:53:38

    >1415
    ごめんごめん、1400はただ頭に血がのぼってるだけで、返答を求められてるなんて思いもしなかったよ

    >そうだね、口先優しいのは詐欺師の常踏手段ですね、ウンウン。
    >で、反論になってない件はどうすんの?
    >早く答えなよ、田舎政権クソ!
    >スリカエとコジツケしか出来ないウンコリアンww

    これに根拠をもって答えるのは難しいな 
    まあ、汚い言葉で「反論までオウム返し」は、創造性に乏しいある集団に特徴的に見られる返し方だってのだけ指摘しておくよ
    1420に対する1421とか

    で、ご所望のようだから最後2行に根拠てんこ盛りで返答しようかね
    >一番巨大な古墳群を作った偉大な功績のお蔭で支那様に倭人の代表政権に認められたと言う証拠を出しなよ(笑)
    >そんな記録が支那の歴史書に有ったっけ? プークスクス

    まず、宋書(南北朝時代の南朝の宋)に「倭の五王の遣使記事」があるな
    これが、倭人の代表政権に認められた証拠だな

    こっちはそもそも「一番巨大な古墳群を作った偉大な功績のおかげ」で認められたとは一言も書いてない
    この「 」は1415の「議論のすり替え」←これ、反論だよ 分かるかな?

    こちらの主張は「大きな古墳を作れる集団は、それだけの労働力を動員できる実力があることが分かる」ということで、当時の古墳の大きさの序列からして、古墳を作るという共通の文化を持つ範囲(東北を除くほぼ列島全域、もちろん九州を含む)の中で畿内の勢力が最大の実力を持つことが分かる

    次に、宋書に載っている倭王武の上表文の「東征毛人五十五國『西服衆夷六十六國』渡平海北九十五國」の部分、畿内政権からだと東西に統治領域が広がっているから妥当な文だが、九州王朝だとすると『西服衆夷六十六國』の部分が筋が通らなくなる。九州王権があったとしてもその西側に66カ国を入れる隙間はないよな

    そして、倭の五王の記紀に記載された天皇への比定は議論が残るが、倭王武を雄略に当てるのはほぼ鉄板の定説。江田船山古墳と稲荷山古墳出土の銘の入った鉄剣の「獲加多支鹵」から雄略の実在は確実視されるし、先の「東征毛人五十五國西服衆夷六十六國」も確認できる

    さらに、日本書紀には遣宋使の記事はないが、遣呉使の記事はあり、冊封使と見られる呉からの使いの来日記事もある。冊封使が来なかった時の遣呉使の帰還記事も淡路巡狩記事の形で残されていて、宋書の倭からの遣使記事との対応もとれる

    ということで、倭の五王(古墳時代)については、
    古墳という「考古学遺物」から判断される列島の勢力分布 ⇒ 畿内勢力が最大
    宋書という「大陸の史書」にある倭からの遣使記事    ⇒ 上表文から倭王武は列島中央
    金象嵌銘鉄剣という「考古学遺物」の獲加多支鹵     ⇒ 雄略の実在と上表文の正しさ
    日本書紀という「日本の史書」の遣呉使記事       ⇒ 宋書との対応もばっちり
    ということで、判断に使えるすべての資料が整合的に畿内政権(大和王朝)であることを示している

    これでも何か言いたいなら、好きに書けばいいけど、ちゃんと「根拠」をつけて論じるんだぞ

    「証拠よりも自分の正しさが大事」っていう価値観で、大声でわめき散らしてとにかく相手を黙らせれば勝ちで、とにかく上下関係が大事であり「上の人間は下の人間に何をしてもいい」という徳治主義的腐れ儒教の考え方をお持ちなのかもしれんが、ここは日本だからな

  1426. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 10:07:34

    >1424
    >邪馬台国=大和王朝はかなり可能性が低いと思う
    >邪馬台国は沢山あった国の中の一つにすぎないだろう

    言うほど低くないんだよ
    邪馬台国は弥生時代で、大和王朝は古墳時代っていう思い込みがあるけど、この間そんなに時間差はないんだ
    266年に晋に対する倭からの遣使記事が晋書にあって、これは台与の遣使だと言われている
    邪馬台国っていうと卑弥呼のイメージが強いけど、この266年時点でも邪馬台国は存続していたと見るのが普通
    そして、箸墓が築造されて古墳時代が始まるのが、編年によりいろんな意見があるけれども大体280年頃と見るのがほぼ通説になっている。九州説の人は、この280年だと卑弥呼の墓ではあり得ないって喜んで言うんだけれど、266年から280年までの15年弱で、列島の政治的な中心が動いたと見られるような形跡は見られない。
    纏向遺跡は、箸墓築造の前後も混乱なくそのまま存続発展している。つまり、邪馬台国が滅びるような動乱も、一部の人が言うような邪馬台国の東遷の形跡も見られないまま、古墳時代に入り、纏向が大和朝廷の中心になっている

    だったら、纏向遺跡の場所に邪馬台国があって、そのまま古墳時代に入ったと見る方が自然

  1427. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 11:41:55

    何も解って無いね。
    1.神武東征とは、剣鉾を祭器=神器とする九州支配層の一角の豪族が苦境に陥り、東方への植民=移民を図ったもの。大阪湾上陸戦では撃退されるも、迂回して奈良盆地(銅鐸を神器とする中央)への侵入に成功して支配権を打ち立てる。九州支配層は移動せずにそのまま残っている。

    2.欠史八代を実在とする安本美典の解析では神武東征は2世紀半ば前後と推計された。これとは別に、銅鐸圏の中央の奈良盆地から銅鐸の廃棄が始まり、その時期は奇しくも2世紀半ば前後らしい。

    3.つまり、神武東征は卑弥呼以前の出来事。

    4.ついでに、安本説では10代目崇神は神武より約1世紀後との事で3世紀半ば頃以降の統治らしい。崇神は周辺に勢力拡大した王とされるが、丁度この時期は銅鐸が近畿一帯で廃棄され、銅鐸圏が崩壊していく。また、纏向遺跡の拡大?発展?時期におおよそ合致する。

    5.卑弥呼や台与の時期・社会情勢と崇神の時期・社会情勢からも邪馬台国は近畿ではない。

    6.支那カスの代々の歴史書では、倭国は女王以来の国とされ、中にはその島には阿蘇火山が有って崇拝されているとある。

    7.つまり、ほぼ全部が残った九州支配層が倭国で近畿の元は小国が日本。

    8.倭の五王は近畿天皇家の日本国ではなくて、九州皇帝(=天子)家の倭(和)国。

    9.オマケ。倭王武の言う衆夷とは自分達九州の征服諸国。その東が自分達より格下と見なした毛人のうちで直接支配下に入る地域(中国四国のそれぞれの約西半分くらいか?)の征服諸国。

  1428. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 12:32:53

    >1427
    根拠を書いているように見えるけど結局は「安本美典の解析」の受売りが書いてあるだけで、その「安本美典の解析」が正しいかどうかの判断や、その判断をするための根拠が完全に欠落している

    特に、今中心の話題になっている「倭の五王は畿内の大和朝廷の天皇」の部分に関しては
    >8.倭の五王は近畿天皇家の日本国ではなくて、九州皇帝(=天子)家の倭(和)国。
    >9.オマケ。倭王武の言う衆夷とは自分達九州の征服諸国。その東が自分達より格下と見なした毛人のうちで直接支配下に入る地域(中国四国のそれぞれの約西半分くらいか?)の征服諸国。
    と、ただ「自分の考えたかっこいい歴史」が書いてあるだけで、何も根拠が書いていない

    何度も書くが、九州も古墳時代には古墳を作っているのは認めるよな?
    そして、その古墳時代の秩序が、畿内を中心としたヒエラルキーを作っているのは分かるな?

    その上で、九州皇帝が存在したというなら、その根拠を書いてくれ
    そして、九州皇帝が存在し、それでいて九州に皇帝にふさわしい古墳が一つもない理由も根拠を付けて説明してくれ

    できるものならな

  1429. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 12:43:45

    >1427
    1~3はそう考えたというだけで、安本氏の説にけちをつけてもしょうがないから放置
    4、は状況的にそう見えるし、編年的にも大きな問題はないだろう。ただ、銅鐸の廃棄に関しては、そういう考えもある、程度でこれが正しいと思うのは勝手、というレベル

    >5.卑弥呼や台与の時期・社会情勢と崇神の時期・社会情勢からも邪馬台国は近畿ではない。
    これが、どの社会情勢から近畿ではないと判断するのか、ここのところの根拠を書いてくれと言っている
    自信があるなら書けるよな?

    >6.支那カスの代々の歴史書では、倭国は女王以来の国とされ、
    倭国が女王以来の国で、女王国(邪馬台国)=ヤマト国なら何も問題はないだろう

    >中にはその島には阿蘇火山が有って崇拝されているとある。
    その島、という時に大陸の人間が、九州と本州を区別しているとは思わないぞ
    九州にあっても、倭国を構成する島の中というだけだから、その中央政府が畿内に合ってもこの記述は問題ない
    そして、大王墓級古墳が発掘されていないから、はっきりしたことは言えないが、畿内の古墳の石棺に阿蘇のピンク石と呼ばれる石材がわざわざ九州から運ばれている。この辺りが阿蘇を崇拝という記述に繋がっているのかもしれない。ただし、阿蘇のピンク石の産地は阿蘇山そのものではないがな

    >7.つまり、ほぼ全部が残った九州支配層が倭国で近畿の元は小国が日本。
    この「つまり」が全然根拠がない
    奴国辺りで、畿内式の土器が出るのは無視か?
    九州でも畿内の箸墓が発祥の前方後円墳を作り始めるのは無視か?
    九州支配層がほぼ全部残ったという根拠を挙げてくれと言っている

    8.9に関しては1428に書いた

    さあ、根拠を書いてくれ! がんばれ!

  1430. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 12:51:34

    天皇家と倭の五王が同系統だということと倭の五王が邪馬台国と別系統であることは矛盾しない

  1431. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 14:13:31

    ※1418
    歴史コンプレックスは思って以上に人を病ませるからな
    ゴッドハンドした東北人とか

  1432. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 15:12:40

    かつては遺跡が発掘されること自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。そしてこの偏りが絶対であったうちは中京以西の列島を二分する「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」の存在によるものであると捉えられ、仮定としてではなく真剣に論じられていた時代があった。(さらに中国地方を「銅剣文化圏」としてこれを加え、三つの文化圏が対立しあっていたとする説もあった。)

    しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと(特に有名な例が佐賀県の吉野ヶ里遺跡での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられることは少なくなった。

    ーwikipedia 「銅鐸」

    反日パヨクがいつまでもしがみつくオワコン理論…銅鐸文化圏vs銅剣文化圏、多元王朝説

  1433. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 15:41:52

    ※1424
    不届き者になったやつのことは別人にしておかないとヤバイんだよ。
    前の王朝に比べて、徳や威厳がないことになってしまう。

  1434. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 16:16:27

    頓珍勘助! 何一つ否定にも反論になってないぞ。お前の講釈こそがただの感想か妄想話。お前の頭はどこにある? あっても空っぽだったっけ プークスクス

    大体、巨大古墳群が支那の歴史書の倭国に繋がる記述が一切無い。どこにそんな記述がある?
    それを出せと言われても一度も出せず。だから、何を鼻を膨らませてホルホルと妄想に浸って垂れ流してんだよ、まさに、キンモォー!って言われるわい。

    お前のは脈絡なく好きな古墳話を吐き散らして悦に入ってるだけ。マトモな人は中は碌には読まん。自己満足のオ.ナニ.ューは人前でやるな、この露出凶!

    大体、先人の価値ある研究を取り入れるのは当たり前で、それを否定する事こそ独善的な妄想体質の現れだぜ、情けない。

  1435. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 16:51:04

    ※1301
    飢餓だから人口が増えないんだろ

    ※1307
    出産~乳児期の死亡率の高いのは飢餓が原因なんだろ

    面積が増えない限り、飢餓になるって事だろ
    諦めろって

  1436. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 16:58:11

    >巨大古墳群が支那の歴史書の倭国に繋がる記述

    親魏倭王卑弥呼
    卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩

    九州に近畿発祥の前方後円墳ができていく
    つまり、古墳時代の終わりまでに九州は近畿の勢力下に収まった
    よって、九州王朝説は無事死亡

  1437. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 17:00:23

    1434
    近畿天皇に服属しないお前みたいな反日エタチョンは日本から出て行け
    さもなくば共謀罪で刑務所にぶち込むぞゴルァ

  1438. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 17:21:55

    >1430
    >倭の五王が邪馬台国と別系統であることは矛盾しない
    まあそうなんだけど、○○コー連呼の人は、倭の五王も九州王朝の皇帝だというご意見なので、まずはそこからじっくりつぶしていこうかと

    まあ、私は畿内説を支持していて、倭の五王も邪馬台国の流れというか同じ血統=皇統だと考えているけれど

  1439. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 17:45:00

    >1434
    >お前の講釈こそがただの感想か妄想話
    そう言いたいのなら、私の書き込みのどこが「感想」の部分で、どこが「妄想話」の部分なのかを切り分けて指摘して、どこがどう事実と乖離しているのか、根拠とともに示してくださいな
    こっちは、そっちの書き込みのどこに対して論評してるか、いちいち引用して指摘してるだろ
    逃げずにごまかさずに、議論する気があるなら基本的なフォーマットに乗せて、議論してくれ
    まあ、議論は勝ち目がないからする気も、する実力もなくて、ただ勝ち宣言がしたいだけなんだろうけど

    >巨大古墳群が支那の歴史書の倭国に繋がる記述が一切無い
    基本的に大陸の史書は、遣使が大陸の王朝に訪ねて来て、それにどう対応したかを書くものだから、大陸の王朝側のことがメインで、朝貢国側の事情はあまり書かれないんだよ
    魏志倭人伝はその意味で異色であり、それに続く史書も基本的に倭国情報は魏志倭人伝のコピペがメインになっている

    そして、1436が書いてくれたように、魏志倭人伝の時点で(女)王が死んだ時には大いに塚を作る文化が記されていて、それを引き継いで古墳時代に入るんだから、巨大古墳群こそ倭の王権の所在を示すってことでQEDでいいだろ

    で、倭の五王時代は九州も古墳時代なのに、九州王朝の倭皇帝の古墳らしきものが何一つないことをどう考えるのか、根拠とともに説明できるのなら説明してくれ

    できないなら仕方ないけどな 
    こっちは土下座を求めたりしないし、黙って逃げてごまかしたいならお好きにどうぞ
    このままこの件から逃げ続けるなら、「九州王朝仮説は論証不可能なトンデモ説」ってことで

    >大体、先人の価値ある研究を取り入れるのは当たり前
    私は安本美典氏の数理統計学を考古学に導入した功績は高く評価しているので、既に否定されている部分も含めて、敬意を表して論評しなかったんだがな

    そして「倭王武は雄略天皇に比定するのが妥当」という「先人の価値ある研究」を無視して踏みにじろうとしているのが1434(98からがんばってるのは分かるが、とりあえず直近の書き込み番号で)の方だろ?
    自分の書いていること、理解できているか?
    日本語のかな変換もあやしい人に、多くを要求してはいけないのかもしれないけどな

  1440. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 17:49:22

    >1435
    何度も言っているけれど、文化人類学の採集狩猟生活のところとか、飢餓の発生について一度自分で知らベて見て
    ここのコメント欄ではさすがに縄文時代のことまで論じてたら話が発散するから、こちらはもう触れないけれど、採集狩猟生活は栄養状態・余暇ともに農耕生活より余裕があるっているのは、ほぼ定説だよ

  1441. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:16:29

    前方後円墳がヤマト王権の支配地域を表すなら、九州北部に前方後円墳が造られる4世紀まで、ヤマト王権の支配力は及んでないから、卑弥呼の邪馬台国と天皇家の日本は別だね

  1442. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:17:56

    狩猟採集生活は不安定で貧しいってのが定説

  1443. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:25:36

    倭の五王曰く「百済も俺たちの支配下!」
    南朝の皇帝曰く「百済を支配していない嘘つきは百済の下な。」

    倭の五王の扱いが軽過ぎて原文読むと泣けてくる

  1444. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:26:44

    >1441
    >九州北部に前方後円墳が造られる4世紀
    ここで4世紀って数字が世間では流布してるけど、結局「古墳時代に入ると同時」に九州北部にも前方後円墳が作られるようになるんだよ
    そして、作られるようになる前後で、混乱の様子はない
    攻め滅ぼされてるわけでもないどころか、定式化した前方後円墳の初期の副葬品は、北部九州甕棺墓の副葬品の伝統に沿ったものになっている
    無関係どころか、北部九州も古墳時代の始まりにガッツリ噛んでるよ

  1445. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:27:26

    河内大和の庄内式土器が、北部九州から出土するので
    すでに近畿の支配力は及んでいる

  1446. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:36:30

    1445
    胎土研究の結果を読んだが別らしいよ

  1447. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:49:28

    ※1445
    西新式土器があるが?

  1448. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 18:56:12

    >1443
    それで外交努力して、倭の五王の3人目の濟の時点で
    宋文帝 元嘉二八年(451年)
    二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故
    と、結局、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事まで認めさせてるんだからいいんじゃないの?

    任那と加羅を二重に数えてることや、この時点で秦韓も慕韓もないことは秘密ww
    東夷に対する中原の王朝の興味なんてこんなものだってことでしょ

  1449. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 19:01:58

    1447
    一大率に監視されてるけどまだ完全に吸収併合されたわけじゃないみたいな感じだから(そもそも卑弥呼も共立という形だし)イメージ的にはあってる

  1450. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 19:24:17

    >1446
    >胎土研究の結果
    土器ってかさばるしぶつけたら壊れるから、長距離運ぶものではない気がする

    畿内の庄内式土器を作る人が、人事交流(?)で九州に来て土器を作れば、九州の土で(胎土では九州と判定)土器形式で判別すれば畿内庄内式の土器ができるんじゃないかな

    支配云々は別にしても、畿内と九州で人の交流があったと認めれば、そんなに矛盾した結果でもないと思う

  1451. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:20:20

    倭国と日本が別なら天皇はどうなる?
    元々九州から日本列島に来て国を作ったとあるが
    元からあるならただの乗っ取りだしどのみちよそ者なのは変わりない
    縄文時代や弥生時代の石器や住居が出土しているからその頃から人が住んでたのは確実だが、
    日本を名乗ったのは4,5世紀だろうし、神社も実際それ以降だろう
    まぁ4,5世紀に日本名乗ってその後に神話や紀元前の話が国の見栄で作られたのが濃厚だろう

  1452. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:26:50

    お前もよそ者だから日本から出て行け

  1453. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:29:23

    >>1452
    お前みたいなチョンと違って武家だからなwww

  1454. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:30:38

    >>1452
    よう貧民www

  1455. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:32:25

    武家とか関係ある?

  1456. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 20:33:32

    自分の先祖も分からないなんてチョンかよwww

  1457. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 21:32:02

    1453「天皇はウリたちと同じ朝鮮人ニダww」

    共謀罪で刑務所にぶち込めよこのエベンキ

  1458. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 21:33:21

    雑兵はエタかもしれんけど
    ちゃんとした武家はだいたい皇族か名のある古代豪族ですよ

  1459. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 21:53:14

    エタは蝦夷地で固まって凍死しとけボケ

  1460. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 21:58:07

    >1451
    >日本を名乗ったのは4,5世紀だろうし、神社も実際それ以降だろう
    何度も何度も言うが、日本という言葉が「創られた」のが天武・持統朝の7世紀で、その前には日本という国も言葉もないんだって!
    4,5世紀にあるのは倭国だけ!

    なんか年代間違えてないか?

    神社という言葉はともかく、大神神社や杵築大社は大和朝廷より古そうだし、いろいろおかしなこと言ってるぞ

  1461. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 22:02:46

    1448
    最後まで百済支配を認められてない…
    最重要課題を達成できなかった使節は帰ったら怒られただろうな…

  1462. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 22:07:02

    ※1450
    九州の方が古いから大陸か半島から土器職人が列島に移り住んだんじゃないかな?
    そんで西から各地に最先端土器を伝えて廻った、稲作のように
    その後、それぞれの倭人がそれを基にその場所ごとに土器を作ってたんじゃない?

  1463. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 22:22:56

    1462
    うん、そして畿内の庄内式土器を作る人が九州に派遣された

  1464. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 22:32:51

    >1462
    >そんで西から各地に最先端土器を伝えて廻った、稲作のように
    縄文時代から列島全域が繋がる物資の流通が確認できているし、稲作もあっという間に東北地方まで「畔を作る水田稲作」が伝わっているよ その後いったんまた廃れるけどね

    国内に入ったものはあまりタイムラグなしに、ほぼその時々の辺境近くまで伝わる
    この国はそういう国

    古墳時代に入ったときも九州から会津までほぼ同時に古墳を作り始めてるしね

  1465. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 23:00:44

    前方後円墳の原型が徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴い発掘調査され、その後滅失した3世紀前葉に造られた萩原墳墓群の一号墳にあることは皆が知る常識である。
    畿内最古の前方後円墳はホケノ山古墳が3世紀中頃である。
    箸中山古墳は布留式土器から見て4世紀とするのが定説である。3世紀後半との考えも一部にはある。
    これら前方後円墳からは少なくとも3世紀頃に畿内に前方後円墳文化があり、4世紀以降ヤマト王権の伸長と共に各地にヤマト王権の支配が広がっていったという普通の歴史である。
    崇神天皇から四道将軍、神功皇后に雄略天皇、聖徳太子と古事記に記されている歴史は当たり前過ぎて否定することにより浪漫を持ちたいかもしれないが、ヤマト王権は4世紀まで畿内の地方政権であり、その後隣接する地域を平定し、今の日本を形作ったのである。

  1466. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 23:01:39

    >1461
    まあ、宋からすれば朝貢国が多いほど、徳が高いってことになるから、百済と倭国で二つって数えたいんだろうね
    倭国王が百済まで支配してるとなると、朝貢国が二個一で一つ減っちゃうから

    倭国からすれば、百済は倭国に人質を出している朝貢国で属国だと思ってるから、逆に意外だったかもしれない

  1467. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 23:28:28

    >1465
    古墳時代の開始が箸墓の築造からだとするのは、ここにいる九州派の人も含めて多くの人が認めることだが、箸墓(墳丘長280メートル)は直前の纒向遺跡内の4つの古墳(と呼ばれる弥生墳丘墓)のうち最大の東田大塚古墳(墳丘長120メートル)と比べても、墳丘長で2.3倍、単純に比例形として体積を考えると12倍以上(2.3の3乗)になる

    これはこの時点で畿内だけの動員力では足りず国家事業として、箸墓の築造が行われたのではないかと考えられる

    つまり、箸墓のの築造=古墳時代の開始時点で、大和朝廷は全国政権へと質的な変貌を迎えているように思える

  1468. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/11(火) 23:44:40

    1466
    日本は百済の支配権を中国に認めてもらいたかったから見栄を張ったけど見破られただけやで

  1469. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 04:33:11

    百済は温祚が建国し、日本は兄の沸流が建国した
    だから日本は百済を属国扱いしていた

  1470. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 07:45:12

    日本は王朝と支配者が別の存在だったっていう特殊な実態があっただけだぞ

  1471. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 12:35:38

    ログ流し工作員が増えたなぁ、よほどあちらに都合の悪い事が書かれてるらしい。
    >1426
    通説(笑)って280年は歴博の科学ねじ曲げごり押しだろ。
    340~380くらいのものを、歴博が主張する考古学見解による「科学調査の解釈変更(偏向)」で240~280とか言ってるだけだもんな。
    それが通説(笑)って。

  1472. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 12:54:26

    ねじ曲げニダって言ってるやつの説得力がイマイチだから
    通説として受け入れられてるんじゃないでしょうか…

  1473. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 13:04:25

    >1472
    朝昼かよお前w

  1474. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 13:25:25

    ※1472
    そんなに寺沢氏の土器編年が信じられませんか?
    箸墓古墳の周濠から発掘された土器と鐙がいつの時代のものかぐらいわかるでしょうに

  1475. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 14:40:16

    1473
    反論できないってこと?

  1476. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 15:02:02

    >1426
    >「ほぼ」通説
    「」は引用者

    通説はいくつかの仮説のうちのひとつをさす。
    確定的であるとされる定説とは異なる。
    ほぼ通説ということは通説ではない。
    即ち仮説ですらない状態ということ。

  1477. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 15:16:49

    ※1474
    周濠が機能停止した後に堆積した土層からの出土した土器と古墳が同時期であるという根拠はどこから来るんでしょうか?

  1478. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 16:03:15

    >1472
    >1475
    朝テョン論法ですね。
    1471で根拠が示されているのに、印象操作しかできていない。

  1479. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 16:12:00

    ※1477
    根拠は発掘です。

    ×機能停止した後
    ◯周濠は初めから水が張っていた

    多くの学者の論文をお読みになるのが一番でしょう。
    箸墓古墳の周濠は築造当時から水が湛えられていたことが発掘から明らかとなっております。
    灌漑技術の応用です。
    つまり建造当初から周濠に土器が投げ込まれています。
    以前は空堀で放棄されてから水と落ち葉がたまり、土器も投げ捨てられたと考えられていたようです。
    しかし現在では発掘により建設当初から周濠を水で満たし偉大な古墳として大市の市民に讃えられたとみられています。
    もしかしたらこれからまた新たな発掘があるかもしれませんが、石室が我々の目の前に現れるまでは、4世紀中頃に完成したとみて間違いではないでしょう。

  1480. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 16:37:02

    ※1479
    なるほど。
    返答ありがとうございます。
    そういう説があるんでしょうね。

    それに対する反論もあるようですし、完全に確定したわけでもなさそうなので続報に期待することにします。

  1481. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/12(水) 23:32:47

    定説
    通説
    多数説
    一部説
    少数説
    の順に信頼性が下がる

    定説であっても、新たな発掘で物的証拠が出ればひっくり返ることもあるが、定説はその時点で十分な情報に接することのできる人には納得のいく説明になっていて、それを認めない人の方が「頭おかしい」レベルの話
    倭の五王の最後の武が雄略であることは定説

    通説は全ての資料を整合的に説明できるものではなくとも、資料の信頼性も当然100%ではないので、全体として最も筋が通っていると考えられる説で、まあ大体この線でよかろうと大多数の人が認めるもの 反対する人はいても、通説よりも筋の通った説明がない状態が通説 邪馬台国が畿内っていうのは専門家の間では通説

    多数説は、複数の説がある中で一番支持者が多い説で、多くの人が納得がいくと考えられるだけの説得力のあるもの そもそも考える基礎となる資料が少なく限界がある問題について推測混じりで論じる場合、何が正しいとも判断ができないので多数説という言い方をする

    一部説は、支持する人は少なくとも、それなりに整合的な説明となっているもの
    少数説は、多数説と対になる言葉でそもそも何が正しいとも言い切れない問題についてのものなので、少数説だから間違いとも言えない

    大体、多数説までは人に説明するときの論拠にして問題ない
    通説だから正しいと言えないというのはまあ大体筋が通らない

    通説レベルは反証はあるがそれ以上にそれを支持する資料がある状態なので、反論する人はその反証を挙げるのだけれど、その反証が少ないので延々と同じことを言い募ることになる

    で、少数説より説得力が弱く、推測の比率が高くなってくると、俗説とか珍説とか言われるようになり、根拠がそもそもおかしいとトンデモとか捏造とか言われる

  1482. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 08:05:38

    ネットの匿名意見が最も信頼性が下がる

  1483. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 10:07:52

    で、ネット上で何か言う時には、できるだけそれぞれで調べて信憑性が判断できるように、ソースを付けて、とか、根拠を示してくれ、とか言われる訳だ

    通説に反論する人は、たいてい数少ない通説に対する矛盾点を突いてくる訳だけれども、通説を支持する多くの根拠の方は見ないふりをするので、自分の都合のいいところだけつまみ食いするチェリーピッカーっていう呼び方をされる

  1484. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 11:31:03

    >1476
    >ほぼ通説ということは通説ではない。
    >即ち仮説ですらない状態ということ。

    この「ほぼ」は少し気を使っただけだよ 通説と取ってもらって構わない
    というか、誰かが「これは通説です」って判定するものでもないんだがな

    そして「即ち仮説ですらない」っていうのは思いっきり「うそつき」レベルだからこういう書き込みをしないように、よい子は気をつけましょうね

    イヌはネコである、という言説だって仮説と言い得るんだから、通説じゃなかったら仮説ですらないというのは、ほぼ意味不明だよ

    ちなみに、イヌ(Canis lupus familiaris)もネコ目(Carnivora)に入るので、「イヌはネコである」は正しかったりする

  1485. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 11:32:02

    ※1478
    エタチョン論法さすが頭悪い

  1486. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 12:10:34

    印象操作で通説と言ってるだけで、根拠が一度も示されてないんだけど。

    現状証拠が全くない状態で、>説得力が弱く、推測の比率が高くなってくると、俗説とか珍説とか言われる<程度のものしか無いのに、通説も何もないだろう。
    一部説を、歴博と朝日新聞社などが協力して通説だ通説だと大騒ぎすることで騙し、多数説に見せかけてるようだけど、科学とも考古学ともずれていて論と言えるような物でないのだから、俗説珍説で良いと思うな。

  1487. 1486 2017/07/13(木) 12:17:36

    あぁ、ちゃんと示しておかないと
    このサイトの畿内説と九州説まとめの方に書かれてたコピペ文、()内は書き足し。
    2982
    今回の(歴博の)発表でも、たとえば北海道埋蔵文化財センター、あるいは九州大学の測定値と、国立民俗学博物館の測定値は異なっています。 ~ そのデータの取り扱いや測定方法に対して、これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません。

    ↑が科学とずれている部分、考古学とずれている部分はここに書かれているね。
    それから学者に指示されておらず、通説が嘘という事も、
    2571や2580の書き込みから推測できますね。

  1488. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 12:42:04

    1363辺りの妄想書き込みで気付いた事がある。
    朝鮮人が日本史空白の4世紀に目を付けた。
    4世紀の布留式土器を解釈偏向で3世紀に押し込めば、4世紀の日本には朝鮮土器と七支刀などの朝鮮文化が残る。
    日本に南朝鮮が属国にされたという歴史を、南朝鮮が日本を属国にしたという歴史に「彼我を入れ替える」事ができる。

    議論は答えを求める気がなければ成り立たない。
    歴史を書換え日本を侵略する、という目的があるから、何を言っても絶対に通じない。
    それを理解して、書き込み読んだり研究したりしないと駄目な時代だね。

  1489. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 13:40:46

    九州説を唱える現役の学者ってどれくらいいる?

  1490. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 13:42:46

    エタチョンのお前が、日本の土器や刀のウリジナルを主張してるだけだろw

  1491. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 13:44:09

    太古は半島も倭人だったのにね、いまじゃほとんどエベンキ顔だもん

  1492. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 13:59:56

    亀ケ岡人=バイカル湖人=エベンキ

    倭人も似たようなもんだろ

  1493. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 14:11:57

    >>1492
    いやいや亀ヶ岡まで倭人なら、毛人の国とかどうすんのよ?

  1494. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 17:01:15

    毛人も倭人の一種だろ

  1495. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:10:52

    ※1481
    法学部の学生さんかな?
    勉強頑張ってね
    有力説と判例の違いには気をつけてね

  1496. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:17:48

    縄文時代晩期には、亀ヶ岡出土品に代表される様式の土器が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行する。これを亀ヶ岡文化と言う。

  1497. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:25:03

    >>1496
    意味不明だ。
    コーラやマクドナルドといったファストフードや、ハリウッドの映画に代表されるアメリカ文化は世界中に浸透したが、それが何人とか関係ないだろ?
    出土品の様式が一緒なら、そこに住まう人種も一緒になるのか?ならんよ。

  1498. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:32:58

    亀ヶ岡式土器は、亀ヶ岡遺跡の土器を基準とする東北地方の縄文時代晩期の土器の総称。亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まった。亀ヶ岡式土器の大きな特徴は、様々な器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されている。
    西日本でもみられる土器だが、2017年には亀ヶ岡遺跡から約2000km離れた沖縄県北谷町の平安山原B遺跡から出土した。

  1499. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:34:11

    グローバル化してネットが全世界を覆う時代と、
    ウホウホ言ってる猿とあんまり変わらなかった時代と一緒にするなよ。

  1500. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 18:35:43

    >1497
    土器の交流を根拠とする畿内説の全否定だな

  1501. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 19:09:41

    隼人は古くから畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった。特に山城国南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の京田辺市には「大住」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。
    言語・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)。
    肥前国風土記によると、五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことである。

  1502. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 19:13:35

    南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループが存在する。つまり、人骨形質の観点からも隼人には地域差があった。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、頭蓋変形がほどこされていたと考えられている。

  1503. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 19:15:18

    島内の地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、西都原考古博物館に保管されている93体について、赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた。結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。第32号墓出土の1号人骨については、白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で塗られたと判断している。

  1504. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 19:17:12

    日本書紀に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、「隼人の馬」を指すものである。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭天皇の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものである。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類である。

  1505. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 20:10:13

    >1488
    前から不思議なんだが
    >歴史を書換え日本を侵略する、という目的がある
    こういう考えは、どこから来るの?

    前は朝鮮土器とか謎用語を駆使してたけど、纏向遺跡で韓式土器はかけら6つって言われてから朝鮮土器の話はしなくなったよね?

    なぜ邪馬台国畿内説が、侵略目的になるのか?

  1506. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 20:26:24

    1505
    このレスによって半島人の侵攻が根深いことがよく分かりました

  1507. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 20:27:48

    ※1505
    歴史を知らへんのは罪やわ

  1508. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 21:23:58

    1507
    お前が知ってる歴史って?

  1509. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 21:26:35

    1506
    答えられないんだね

  1510. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 21:46:55

    1509
    マジで分かんねえの?冗談だよな?からかわないでくれよw

  1511. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 21:52:30

    >1510
    侵略とか言ってるの一人だけだろ

  1512. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 22:05:21

    1510
    マジで答えられねえの?冗談(ry

  1513. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 22:21:09

    >1510
    誰かの頭の中にしかない陰謀論なんて他人に分かる訳ないだろうが?
    自身なり確信なりがあるなら説明してみてよ

    クーデターって書き込みはなくなったね

  1514. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 22:26:08

    1512
    故国にかえって頑張って生きろよ

  1515. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/13(木) 22:54:34

    1514
    オマエガナー

  1516. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 00:55:43

    議論で罵り合いはご法度ですそれ以上話が進まないから

    邪馬台国は魏志倭人伝を根拠に存在している国名で距離が合う場所がないなら、方角から推測するしかないわけでそうなると、まず畿内はあり得ないで議論終了

    理解力がない人のために例を挙げると、倭人伝に「福岡市より南に行くと熊本市があるここが倭の首都である」と書かれてあるとする
    で畿内説のひとの説は当時一番栄えていたのは奈良ゆえに日本の首都は奈良だから熊本市は奈良
    なんとなく彼らの説がおかしいことがわかるでしょ

    畿内説の人が唱えるべき主張は魏志倭人伝に書かれていることはすべてデタラメであり考古学的見地からいえば当時栄えていた奈良こそが倭の中心地といえる、ただし日本側に当時文字はなくなんという国名、地名だったかは不明である
    これが「畿内邪馬台国」説あらため「3世紀日本の中心は奈良で邪馬台国なんてないよ」説が唱えるべき説
    倭人伝はデタラメというくせに邪馬台国という名前だけ取ろうとするからおかしなことになる

    魏志倭人伝を根拠にするなら「邪馬台国」は福岡市以南のどこかと考える九州邪馬台国説、魏志倭人伝をデタラメと解釈し
    当時の栄えていた都市の証拠がたっぷりある奈良が倭の首都の可能性が高いとする3世紀日本の中心は奈良だけど記録がないから国名・地名は不明かつ邪馬台国なんてないよ説(元畿内邪馬台国説)

    結論として邪馬台国があるならそれは九州ですQ.E.D

  1517. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 03:40:04

    >1516
    >邪馬台国は魏志倭人伝を根拠に存在している国名で距離が合う場所がないなら、方角から推測するしかないわけでそうなると、まず畿内はあり得ないで議論終了

    こういう屁理屈をゴリ押ししても誰も同意しない
    行程論について小学校でどう習ったかも覚えてないなら小学校からやり直せ

  1518. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 07:17:15

    魏志倭人伝のころ
    九州から奈良に至る西日本は九州をほぼ北に逆立ちした姿をしていた
    プレ-トの押し合いのなかで東まで一気に回転し東日本側と激突し押し戻され
    西をむき現在の形になる(仮説)
    邪馬台国は魏志倭人伝通りに進めば機内になる

  1519. 名無し猫 2017/07/14(金) 08:32:01

    ※1518
    地図が間違っているだけ 15世紀の地図が龍谷大学に現存する
    それとも人を乗せたまま列島が回転したの?

    あははははははは

  1520. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 10:37:06

    方角その他すべて正しいが、月は日と間違えたなんていうのは都合がよすぎるのではないかい?

  1521. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 11:30:29

    ※1516
    >倭人伝に「福岡市より南に行くと熊本市があるここが倭の首都である」と書かれてあるとする

    唐津→福岡の時点でもう90度方角が狂ってるんだけどなw
    九州説の人はなぜかその後の方角はまた正確だということにしてる。畿内説の方角感よりも倍ぐらいデタラメだということになる。

    距離ももちろんデタラメだし、地名もデタラメだし、発掘物(熊本からは中国との交流を示すものは出ない)もデタラメだし、畿内に勝てるところは一つもない。
    ダメ押しは隋書。奈良時代に書かれたものだが、その当時の日本の都つまり奈良がいにしえの邪馬台国だとちゃんと書かれてる。

  1522. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 12:38:16

    >>1521
    魏志倭人伝の方角はあってるよ、あきらかに間違ってるのは隋書だろ。
    東松浦半島から陸路で伊都にいくなら東南にしかいけない、そこからまた陸路で福岡平野へ出るなら日向峠で東南になる。
    でちなみに当時は志摩は本当の意味での島で、唐津湾から博多湾には壱岐水道まで出ずに水路でいけた。
    それをあえて船でいってないんだから、当時は海岸線ルートなんかないし全部峠越えが基本。

  1523. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 12:48:57

    >東松浦半島から陸路で伊都にいくなら東南にしかいけない、そこからまた陸路で福岡平野へ出るなら日向峠で東南になる。

    ちょっと何言ってるのかわからない

  1524. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 13:05:07

    北東の目的地(福岡)に行くには南東へって書いてもいいんだ!

    じゃあ
    東の目的地(奈良)に行くのに南へって書いたのも受け入れろやハゲ

  1525. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 13:59:25

    >1486、1487
    古墳は、円筒埴輪の編年(形式編年)が、一番充実している
    定式化した古墳時代の古墳は、段築成になっていて、その段ごとに円筒埴輪が据えられているので、この円筒埴輪が一番多く手に入る研究材料であるため、これの形式によって前後関係を推定している

    そして、数多くの古墳について、この円筒埴輪とその他の遺物についての対応関係を調べていって、円筒埴輪の編年が作られていて、箸墓古墳が定式化した前方後円墳であることはほぼ動かない これは定説

    そして、誉田山古墳や大仙陵古墳を含む百舌鳥古墳群や古市古墳群が、倭の五王の時代の古墳であることも争いがないのでこれが編年の基準となる

    5世紀半ば(460,462が倭王武の遣使)の雄略が基準で、二世代前が仁徳、三世代前が応神、この辺りまでの誰かが倭の五王。応神の親世代の神宮皇后と仲哀までで四世代だが、この四世代で100年(1世代25年)として4世紀半ば

    箸墓が崇神天皇の頃とすると、崇神、垂仁、景行、ヤマトタケルの4世代を4世紀前半の50年ちょっとに押し込まないと、古墳時代の始まり=箸墓の築造が4世紀にはならないんだよ

    記紀の系譜がそのままに信じられるものではないとしても、箸墓から、西殿塚、行灯山の柳本古墳群、宝来山古墳、五社神古墳の佐紀盾列古墳群、その後、古市・百舌鳥古墳群へと大王陵古墳が移動していく過程を追っていくと、4世紀に入ってから古墳時代に入るのでは、5世紀半ばに雄略までたどり着けないんだよ

    反論があるから通説じゃないっていうのは通らない
    ーーーー
    2982
    今回の(歴博の)発表でも、たとえば北海道埋蔵文化財センター、あるいは九州大学の測定値と、国立民俗学博物館の測定値は異なっています。 ~ そのデータの取り扱いや測定方法に対して、これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません。
    ーーーー
    この部分も、主にC14年代測定法の較正曲線の算出法に関する部分であり、土器編年に対する疑問というのとは違う

    この較正曲線の元となる年輪年代測定法をどこまで信頼するか、というのが問題の根本で、現状年輪年代測定法の基準が一つしかないので、それを信じるか参考程度にとどめるか、というのが専門家の間の相違 北海道や九州の人が、畿内の土器編年に大々的に異を唱えている状況ではなく、1487はある意味ミスリードになっている

    >これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません
    この部分に関しては、歴博側が年輪年代法を一人で作った功労者を守っている雰囲気は私も感じているが、実は畿内の遺跡・遺物の年代観は、C14年代測定法および年輪年代測定法で出てくる数値と一致していない 
    歴博もC14年代測定法および年輪年代測定法のみに頼って編年を作っているわけではなく、1481にあるとおりに「全ての資料を整合的に説明できるものではなくとも、資料の信頼性も当然100%ではないので、全体として最も筋が通っていると考えられる説」として畿内の編年が作られている訳だ

  1526. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 17:33:44

    ※1505
    侵略目的かは分からんが、昔から一番言われているのはヤマト王権が卑弥呼の邪馬台国の後裔だとすると記紀の歴史と矛盾する
    それは日本の歴史の否定だから畿内説は朝鮮人好みと昔から言われている
    他には卑弥呼が初代天皇になるから、その初代天皇が魏に朝貢して冊封体制に組み込まれて初めて倭国の王となったことも問題になっていることは多い
    邪馬台国がヤマト王権と別なら記紀との矛盾もないから問題は解決する

  1527. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:13:11

    ※1525
    倭王武
    478年 宋 昇明2
    武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
    順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と明記したもので初めて)
    479年 南斉 建元1
    武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
    502年 梁 天監1
    武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)

    孝武帝と倭の武を取り違えている。やり直し。

  1528. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:30:31

    >1525
    >そして、誉田山古墳や大仙陵古墳を含む百舌鳥古墳群や古市古墳群が、倭の五王の時代の古墳であることも争いがないのでこれが編年の基準となる

    上記はどこから持ってきた?

    定説はこれだから覚えておいてくれ
    箸墓古墳 4世紀初頭から中頃
    仲哀天皇 第14代
    神功皇后 三韓征伐 380年頃
    誉田山古墳 5世紀初頭
    応神天皇 第15代
    大仙陵古墳 5世紀前期から中期
    仁徳天皇 第16代
    倭の五王 413年から502年
    「讃」→履中天皇 第17代
    「珍」→反正天皇 第18代
    「済」→允恭天皇 第19代
    「興」→安康天皇 第20代
    「武」→雄略天皇 第21代

  1529. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:37:44

    ※1526
    記紀にはちゃんと
    晋に朝貢した倭の女王=神功皇后
    って書いてるから矛盾しない
    むしろ畿内説否定してるやつが記紀の否定であり朝鮮人ということになる

    神功皇后は、14代仲哀天皇妃。仲哀天皇は、九州や出雲や関東を征伐したヤマトタケルの子にあたる。
    また、ヤマトタケルの三世代前は、全国に四道将軍を派遣して大和朝廷を全国政権に押し上げた崇神天皇。
    倭国大乱のあと→(狗奴国以外は)まとまった、という中国の記録とも大まかに一致する。

  1530. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:43:34

    ※1529
    神功皇后を卑弥呼にすると三韓征伐がなくなるんですよ
    北朝鮮と韓国の学会は広開土王碑さえ否定して三韓征伐をなかったことにしているんです
    神功皇后を卑弥呼に見立て、三韓征伐がなくなると嬉しい方達とは?
    朝鮮半島の考えを日本に押し付けるのはやめませんか?

  1531. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:51:27

    ※1530
    神功皇后=卑弥呼+台与
    なので無くなりませんけどw
    過去一千年以上記紀を読んだ日本人はずっとそれで納得して来てるんですけど。
    勝手に他国の歴史を無くさないでくださいね。

  1532. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:52:17

    1529
    神功皇后は新羅王の血を引いている
    神功皇后が卑弥呼なわけがない

  1533. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:54:25

    1532
    記紀を否定するチョンコ発見w

  1534. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:54:46

    >1529
    卑弥呼は独身、子供もいない

  1535. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 18:57:11

    ※1534
    台与にはいたんだろう

  1536. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 19:07:58

    倭民族の中で別王朝がありそれぞれが我こそは倭の代表と主張していたのでは?

  1537. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 19:43:15

    主導権争いは色々書かれてるしあったのはあったと思うが、もう近畿内部の争いだろう。

  1538. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 20:09:36

    入れ墨していた倭人とその後の日本人が同じ民族の訳が無い

  1539. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 21:38:21

    1533
    日本書紀の「天日槍」を知らんのか?

  1540. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 21:41:08

    ※1535
    張政は?

  1541. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 22:18:59

    ※1540
    そんな小役人のこと覚えてないんじゃない

  1542. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 22:21:48

    1538
    三社神社のあいつらは何人なんだよ

  1543. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 22:23:04

    三社祭りだった

  1544. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 22:24:55

    ≫1538
    隼人として京都に連れ去られて踊らされてた説

  1545. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/14(金) 22:25:41

    角額有人(加羅)=神武
    天日槍(新羅)=崇神
    弓月君(百済)=応神

  1546. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 00:16:09

    >1528
    >定説はこれだから覚えておいてくれ

    仲哀天皇 第14代
    神功皇后 三韓征伐 380年頃
    誉田山古墳 5世紀初頭
    応神天皇 第15代
    大仙陵古墳 5世紀前期から中期
    仁徳天皇 第16代
    倭の五王 413年から502年
    「讃」→履中天皇 第17代
    「珍」→反正天皇 第18代
    「済」→允恭天皇 第19代
    「興」→安康天皇 第20代
    「武」→雄略天皇 第21代

    これ「定説」じゃないぞ
    この中で定説と言えるのは「武」→雄略天皇 第21代、くらいで、あとは「済」→允恭天皇 第19代は、大体異論が少ない
    大仙陵古墳 5世紀前期から中期
    仁徳天皇 第16代 については大仙陵より履中陵とされている上石津ミサンザイ古墳の方が古いとか、比定はまだ収まりが悪い

    そして
    箸墓古墳 4世紀初頭から中頃 これに関しては「歴博捏造論者の間の定説」だろ?
    箸墓に関しては周濠の底や外堤から布留0式の土器片が大量に出ていて、それが編年の根拠となっている
    180年-210年 纒向1式 弥生V様式末
    210年-250年 纒向2式 庄内I式(庄内古式)
    250年-270年 纒向3式 庄内II式(庄内新式)
    270年-290年 纒向4式 庄内III式(庄内新新式),(布留0式)
    290年-350年 纒向5式 布留Ⅰ式
    数字を公表しているところは、たいてい3世紀半ばから後半の数値を挙げていて、4世紀とする説もある、というのが大方の扱い

  1547. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 00:47:10

    1546
    残念ながら布留0式は未だ結論出てないぞ
    たいてい布留1式との意見が多い
    さらに土器からは絶対的な年は分からない
    その編年みたいにきっちり使い分けていたわけでもない
    分かるのは前後だけ
    箸墓古墳の周濠から庄内式ではなく布留式と4世紀の使用痕のあるあぶみが出土する以上、4世紀とすべきなのが考古学的考え
    ただし、石室や内部、あるいはこれからの発掘で庄内式土器が出土したら逆に4世紀中頃は考えにくくなる
    皆で宮内庁に署名を出して掘ろうぜ

  1548. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 00:53:41

    ※1546
    倭の五王否定派とはいまどき珍しいやん
    仁徳派?応神派?九州王朝派?朝鮮半島派?捏造派?

    箸中山古墳が三世紀だと完璧邪馬台国はヤマト王権と別になるんやけどそれが主張でええの?

  1549. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 04:18:59

    ホケノ山古墳では小枝の試料が墓室から庄内新式土器と布留0式土器とともに2つ出土した
    この小枝はもちろん古い木を再利用するということは考えられないので古木効果を無視できる
    また、ホケノ山古墳は海洋から離れており、海洋に近い地域の炭化物は実際の年代より古くでるという海岸効果も無視できる
    さらに、土器にも付着しておらず、実際の年代より古い数値が出る土器付着炭化物でもない

    試料1の暦年代範囲は250~400calAD(95.4%)
    試料2の暦年代範囲は320~420calAD(81.5%) 250~300AD(13.9%)

    故にホケノ山古墳の築造年代は非常に高い確率で320年以降を示すものである
    つまり布留0式土器が使用されていた年代は320年より後と考えられ同時代にはまだ庄内新式も併用されていたことになる
    箸墓古墳をホケノ山古墳とほぼ同時期の築造であるとするのなら、これも同様に4世紀の築造となる

    現在の土器編年の絶対年代への変換は土器付着炭化物の炭素14年代測定法による年代に依存しており
    その炭素14年代測定法は上記でも説明した効果や他の効果(緯度効果、海洋リザーバー効果など)により実際の数値より古く出る傾向にある
    古く出た数値を根拠に土器の絶対年代を当てはめたものだから、数字はどんどん古くなる

    幸いホケノ山古墳ではそれら3つの効果が作用している可能性が極めて低い試料と同時に出土したので年代の測定に大いに参考になりそうなものだが、歴博はこれをあえて無視しているように思える

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  1551. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 08:51:06

    >1548
    >倭の五王否定派とはいまどき珍しいやん
    否定してないって
    倭王武は雄略で鉄板って言ってるやん
    濟の允恭天皇もほぼ確か

    ただ世子興は、安康か木梨軽かのどちらかだけどどちらかに断定するに足る根拠はない

    允恭天皇から前は、日本書紀の暦が儀鳳暦になっていて、干支などのそのままで信頼できる年次記録が残されていなかったのだろうと推測されているし、この辺りから前は春秋年で読み解くべきだと考える人もいて、在位年数、在位年代に確定的な推定がないので、当然宋書との対応も「定説と言える」ものはないってこと

  1552. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 09:01:46

    >1549
    >ホケノ山古墳では小枝の試料
    この小枝、なんだと思う?
    埋葬主体にわざわざ入れるようなものではないだろうし

    それとホケノ山古墳の位置付けが今ひとつよく分からない
    それなりに大きな墳丘墓だけれど、纒向石塚古墳や東田大塚古墳なんかが纒向の中心近くに4つ集められているのに対し、ホケノ山古墳は変なところにあるし

  1553. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 09:39:26

    近代史もまともに議論できない国で古代って言われてもね

  1554. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 09:47:44

    ※1551
    儀鳳歴だから定説ではないとの主張は儀鳳歴で記された天皇を否定することになりますよ。

    儀鳳暦は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風が編纂した太陰太陽暦の暦法である。唐でのもともとの名称は麟徳暦であるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて使用された。唐の麟徳暦は、麟徳2年(665年)から開元16年(728年)までの73年間用いられた。
    唐の儀鳳年間(天武天皇5年(676年)-同8年(679年))に日本に伝わり、儀鳳暦と呼ばれた。ただし、唐からの直輸入であれば、唐が採用していた麟徳暦という名称を用いている筈であり、実際にはこの直前の文武王14年(674年)に採用されたとされている新羅を経由して伝来した。
    儀鳳暦は持統天皇4年(690年)から元嘉暦との並用を始めた。

    新しい天皇が古い暦で、古い天皇が新しい暦で記されているんですよ。
    編纂の際に当時の最新の暦法で古代から算出し直したか120年古くするには都合がよかったため、現代だと違和感があるのでしょう。
    ただし、弟だったり息子だったりとその辺は中国と日本の文献で違うようなので、倭の五王の5人をこの5人の天皇とまとめるのが一番無難でしょう。

  1555. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 11:41:07

    >1554
    だから、紀年が信用できないからどの天皇を当てたらいいのか決まらないって話

    天皇の実在にケチを付けようとかそういう話はしていない

    実際、倭王讃には履中、仁徳、応神の3説があり、どれも決め手がない

  1556. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 11:53:57

    1555の補足
    要は倭王讃=履中天皇が「定説」っていうのを否定してるだけ

  1557. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 15:42:07

    ※1552
    >この小枝、なんだと思う?
    >埋葬主体にわざわざ入れるようなものではないだろうし

    その埋葬施設を作っている時か、被葬者を埋葬した葬儀の時に紛れて混入したものだと思われる
    この小枝自体をわざと入れる必要はないような気がする

  1558. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/15(土) 23:47:09

    継体天皇、応神天皇など、明らかに別王朝、別系譜の血統交代が
    あるにも関わらず、万系一世ってことになってるファンタジーやし。

  1559. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 00:12:13

    >1558
    応神天皇の父親は誰だと思う?

  1560. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 00:39:53

    ※1555
    応神天皇はないな

    日本書紀では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済紀には、阿花王が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。また、日本書紀では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年である。

    倭の五王 讃
    『宋書』列伝
    夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、永初2年(421年)に宋の武帝は詔し、倭讃が万里から貢物を修めているとして、除授を賜うよう命じた。
    また元嘉2年(425年)には、讃はまた司馬の曹達を宋に遣わし、文帝に上表文を奉り方物(地方名産物)を献じた。その後、讃が死んだのちに弟の珍が王に立った。

    仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后の出産を遅らせるぐらいだから、応神天皇なら亡くなった後に朝貢することぐらいできるかもしれないけどな

  1561. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 00:55:33

    1558
    応神天皇の孫の忍坂大中姫が允恭天皇の皇后だから継体天皇は巷で言われているほど血統は怪しくないよ
    傍系の皇族系豪族が天皇になったってことだね
    母親も振媛で垂仁天皇の7世の孫だから一応皇族に連なるとして天皇としての資格はあよ

  1562. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 09:33:23

    >1560
    >仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后の出産を遅らせるぐらいだから

    これ、このコメント欄でも時々話題に出ている倍年暦(春秋年)だと何も問題ないんだよ
    ヒトの妊娠期間は285日前後だから、父親の仲哀死後2年して生まれた応神は仲哀の子ではないって言う人もいるんだけど(1558もそうかな)、倍年暦だと6か月が1年だから何も問題なく通常の妊娠期間だと言える
    それを日本書紀では紀年の引き延ばしのために、倍年暦の1年(本当は半年)を太陽年の一年にしているから、おかしく見えるだけだと思う
    オレは逆にここで倍年暦だったことを認めるようになったよ

  1563. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 10:02:07

    1562
    半年一年干支は、海外との交流が盛んになるにつれて、中国干支に合わせないと色々不都合なことが起こるようになり、神功皇后の時代のAD345年半年一年干支と、中国干支が一致する(共に乙巳)年を機会として、半年一年干支を中国干支に切り替えたのである。
    しかしながら、半年一年の数え方はそのまま継続されていた。さらに仁徳天皇が中国暦を嫌ったために再び半年一年暦に戻した。その時の基準をAD421年の辛酉としたために、旧半年一年暦の干支と16年のずれを生じてしまった。その結果、この時代には旧半年一年暦の干支と、新半年一年暦の干支と、中国暦の干支と3つの干支が入り乱れることとなり、日本書紀の年代計算が複雑化することになった。
    仁徳天皇は旧半年一年暦の干支を過去にさかのぼって新半年一年暦の干支に変更させた。その時に、成務天皇の没年と仲哀天皇の即位年との間の空位年を一年つけ忘れたために、成務天皇以前の旧干支と新干支との間に15年のずれが生じることとなった。
    成務天皇以前の日本書紀の記事の中には旧干支と新干支が混在しており、同様の記事が15年ずれて記録されている。仲哀天皇以降は新干支と旧干支のずれは16年である。 
    日本書紀では神功皇后を意図的に卑弥呼の時代に重ねようとした形跡がうかがわれる。そのために、神功皇后の干支を同じ干支で120年遡らせている。この改ざんを実行するには崇神天皇と神功皇后の間に120年追加し、同様に神功皇后以降にも120年追加しなければならなくなる。神功皇后以前の年数追加は干支がずれない工夫をして単純に年数追加をしているが、神功皇后以降は新干支・旧干支・中国暦の干支が混在する中で120年追加しているために、大変複雑な改ざんがなされている。

  1564. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 10:05:55

    1562
    成務天皇没年と仲哀天皇の即位年との間には1年の空位年がある。旧干支はその空位年を記録しているが、仁徳天皇が始めた新干支はこの空位年を見落としてしまった。その関係で、本来なら、旧干支と新干支は16年ずれるものが、成務天皇以前は15年のずれとなっている。
    日本では半年一年暦であったが、中国との交流が活発になるにつれ、日本だけが半年一年暦だと色々と不都合である。AD345年が半年一年暦の干支と、中国暦の干支が一致する年であった。これを機会として日本でも中国暦を採用することとなった。そのため、345年以前は半年一年暦の干支が採用されており、AD345年以降は中国暦の干支で記録されていることになる。しかしながら、中国暦採用後も半年一年暦による干支が生きていたために、日本書紀の年代が複雑化することになった。
    神功皇后の実際の在位年数は57年であるが、これは、345年までの年数の2倍の26年とそれ以降の43年を加えた69年が日本書紀の在位年数である。
    応神天皇の時代は中国暦で計算されているが、日本書紀の即位年の干支は半年一年暦の干支である。応神天皇は神功皇后の死後即位したのではなく、生前の367年に即位している。日本書紀の応神天皇の記事と神功皇后の記事は同じ年の記事がダブって記入されている。応神天皇の時代の記事の中には神功皇后の崩御年を基準とした記事も混じりこんでいるので各記事の判別が必要である。
    応神天皇の即位干支庚寅は旧干支で、AD367年後半である。日本書紀では神功皇后崩御の次の中国暦干支庚寅と間違えて記録したようである。
    都合がよいように感じるが、実際は神功皇后の没年が不詳だったのではあるまいか。そのために、日本書紀の編者は中国暦干支庚寅の前年を神功皇后の没年と決定したと推定する。
    応神天皇の日本書紀の在位年数41年は、実際の在位年数28年を神功皇后の没後の年数とすると、28年後の半年一年暦による旧干支は庚午(417年)である。これを中国暦に読み替えた年(430年)までの年数である。
    神功皇后の没年は日本書紀と120年のずれがある。応神天皇の没年は394年であるが、応神天皇即位を神功皇后没年の次の年にしたことと在位年数を41年としたことにより、真実の応神天皇の没年は日本書紀と85年のずれとなる。
    以降、古事記の崩年干支は中国暦の干支で変更されておらず、そのまま伝わっている。

  1565. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 10:07:55

    倍年暦だと春から秋しかない年と冬しかない年が交互に来るはずなんだが毎年新嘗祭をしているのが違和感ある
    収穫祭である新嘗祭も2年に一度であるべき

  1566. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/16(日) 11:16:32

    >1565
    >収穫祭である新嘗祭も2年に一度であるべき
    日本書紀は編年体のていで書かれているけれども、毎年の記述ではなく、イベントごとに「○○天皇の何年にこれこれがあった」式の記述になっていて、飛び飛びの記述になっている
    そして新嘗祭の記録はそもそもほとんど記録されていない、というか新嘗祭の記録ってどこにある?
    毎年か2年ごとかは読み取れないと思う

  1567. 名無し猫 2017/07/17(月) 09:18:44

    新嘗祭は穀物の神様に感謝する儀式
    収穫の時期にするのが自然だと思う

  1568. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/17(月) 11:15:26

    収穫は2年に1度なのに租税を毎年徴収する鬼畜ヤマト政権
    そりゃあ反乱も絶えませんわ
    半年暦だから租と用役の税があったのか?
    冬は機織して調を納めてたのかも知れない

  1569. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/17(月) 12:08:04

    >1567,1568
    日本書紀、ちゃんと読んでる?
    雄略天皇より前で、毎年税金を集めてるなんていう記述あるか?

    税に関する記述で有名なのは仁徳天皇が即位後かまどの煙が上がっていないのを見て3年税を免除したという記事だが、それくらいしかないと思う

    倍年暦を前提に紀年の解読を試みた高城修三は、この期間を春秋年で6年としているよ

  1570. Dorismep 2017/07/17(月) 16:22:49

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  1571. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/17(月) 19:06:37

    ※1569
    その3年だけ春秋暦ではないことに適当さを感じる
    普通に6年と書けばいいのに

  1572. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/17(月) 20:20:16

    >1571
    >その3年だけ春秋暦ではないことに適当さを感じる
    >普通に6年と書けばいいのに
    6年分として仁徳天皇の在位期間が数えられているという意味で、もとの伝承では税を「3回」免除しただったのかもしれない
    日本書紀原文では「自今以後至于三年、悉除課役」だけど、漢文で話したはずがないし、日本書紀をまとめるときにその辺は修正するでしょ

  1573. Dorothyecory 2017/07/18(火) 04:16:42

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  1574. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/18(火) 14:04:52

    日本書紀について、東出身の藤原氏が、東の功績を皇室のものとして献上する事で、大和連合の皇統に連なる一員として認めさせたのではないか。
    つまり、弟の日と天の歴史の融合。それによって天皇の母となる資格を得た。

    他勢力の歴史も、皇室の歴史として混ざっている可能性もあるが、やはり中臣藤原関連が主要な改竄点だと思う。
    宇佐や伊賀の祖先を言いつつ関東の歴史もそっくり手に入れるとか、神官としては出雲も手に入れたがっていた(手に入れた?)ようだし、なんというか中臣氏に相当やられてる気がするな。

  1575. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/18(火) 16:44:37

    >1574
    >大和連合の皇統に連なる一員
    これ、あまり考えずに書き込んでるんだと思うが、皇統に連なる氏族は「皇別氏族」という言われ方をしていて、神武天皇以降の皇子から由来する氏族を言う
    藤原氏の本である中臣氏は、天孫降臨のときに邇邇藝命に随伴してきた五伴緒の一人、天児屋命を始祖とするので「神別氏族」という扱いになる
    皇統にとって最古参の随臣という位置だが、血統という意味では直接は繋がらない

  1576. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/18(火) 21:52:47

    武甕槌は守護神で、祖神は天児屋命

    河内枚岡の出身だろ

  1577. Dorothyecory 2017/07/19(水) 05:15:35

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  1578. Dorothyecory 2017/07/19(水) 10:44:56

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  1579. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/19(水) 11:58:46

    壬申の乱だろ。謎でもなんでもない

  1580. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/20(木) 15:43:05

    >1579
    天武天皇が正史としての日本書(紀)の編纂を考えたときに、壬申の乱を王朝交代的に捉えたかったのかもしれないと、思わないでもない
    革命により放伐された前王朝の正史を、次の王朝が編むというのが正史の基本だから

  1581. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/21(金) 02:17:41

    天武天皇は年上の弟だからな

  1582. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/21(金) 09:07:35

    >1581
    >天武天皇は年上の弟だからな

    それ、何百年後かにそういう推定をした人が居るってだけだから信憑性ないよ
    中大兄皇子が孝徳天皇を難波宮に置き去りにしたときの、大海人皇子の主体性の無さなどを見るに、かなり年の離れた弟と見る人もいる

  1583. ArleneSep 2017/07/22(土) 09:15:44

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  1584. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 14:10:54

    王書によると、アレクサンドロス大王はダレイオス3世の弟とされています
    もしギリシア人がローマ人に征服されることなく、フン族あたりに灰燼にされて、、、、
    ペルシアでも淘汰がなされ、こちらの伝承しか残っていなかったら、
    アレクサンドロスがダレイオスの弟というのが定説、
    というより自明の史実そのものになってたわけです
    古代史の定説というのはそういう不安定なものです

  1585. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 18:02:35

    日本は三韓と同種也(神皇正統記)

  1586. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 18:32:59

    実際、半島南部も古代は「三韓」や「三国」以外にも沢山国が分立してて、
    そのなかに月支もあった。
    よくその国名を見て欲しい
    日本の対義語になってないか?
    当時は半島南部も倭人の勢力が存在したが、日本の国号は
    この西の月支と対応してつけられたのではないか?

  1587. ArleneSep 2017/07/22(土) 18:37:37

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  1588. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 19:15:31

    邪馬台国、夏王朝、ダビデ王朝とかの話題は、
    「史書はここらに昔王都があったと告げている!
    なにか巨大な遺跡が見つかった
    この遺跡は史書のいう**宮殿に違いない
    なぜならこの時代の大遺跡なんて**以外にありえないからだ
    しかも史書と一致する特徴が”いくつか”あるので、もはや証明されたとと言っていい」
    というレベルのものを、学者がまって早々に定説と決めたのをいいことに
    ナショナリストがヒートアップして、疑念や異議にやたらと攻撃的になる傾向がある
    異論に答えるのではなく「決着はついてる」という言葉を呪文のように繰り返すだけなのと、
    異論者への人格否定がセットになってるから、この手の輩はよくわかるだろう
    古代よりはるかに定説や事実がしっかりしてる中世や近代でも論客にここまでの攻撃性はない
    と言うより、歴史ヲタが嬉々として最新学説を実に簡潔に要約して、トンデモを論破していくのを、
    聖徳太子や蒙古襲来、明治維新の話題などで見たことがあるはずだ
    ところが邪馬台国については決着・定説を連呼して相手を罵倒する連中のほうが多い
    それは決着してないし、実際には定説でもなんでもないからなのだ
    「決着はついてる」と言ってる人は「論争」ではなく「声闘」をしてるんだよ

  1589. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 19:31:52

    >1585、1586
    三韓辺りに影響力持ってたのって、関東の毛野氏っぽいんだよね。
    百済との交渉を毛野氏に任せたり、新羅の押さえを毛野氏に任せたり、そもそも新羅建国した瓢公って毛野氏関連の人間なんじゃないのとか、もう一人は鳥取だか島根辺りの人らしいし。
    日本(東国)と出雲など日本海側勢力辺りが、協力して毛人勢力やってたんじゃないかなぁ。
    とすると、唐に新羅応援を命じられていたのに、百済と一緒に唐と戦って敗北しても、その後おとがめ無しの日本(壬申の乱辺りから名乗り始める)とは、新羅と繋がりの強かった側かも・・・。

  1590. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 21:33:47

    >1586
    百済(月支国)は温祚、日本はその兄の沸流(布留、辰王)が建国したんだよ
    朝鮮渡来の弓月君(百済)と天日槍(新羅)の名前もワンセット

  1591. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 23:07:51

    ※1589
    皇族系の近江毛野と独立豪族系の毛野氏を混同しちゃいかん

  1592. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/22(土) 23:41:28

    >1588
    >異論者への人格否定がセット
    ここのコメント欄でも九州説の方が、個人攻撃とレッテル貼り+某国人との決めつけが多いのは無視かな?

  1593. ArleneSep 2017/07/23(日) 00:00:27

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  1594. ArleneSep 2017/07/23(日) 05:13:33

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  1595. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 16:39:35

    >1590
    朝鮮人の妄想で日本の歴史が穢されるのは辛いわー。

    三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。
    天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」
    朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物

    どうみても日本に対して献上しに来てますね、その後日本に住み着いたただの移民が、朝鮮人の妄想では天皇を乗っ取ったニダになるのですね。今の朝鮮人も一部が日本を乗っ取ったとか同じ事言ってますね気持ち悪い。
    そして、史実だと新羅建国は倭人によるもの。金持ちの移民が来たので定住させてやった、そういう話。

  1596. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 16:52:55

    >1591
    大した違いがないのでは、
    大和に参加していた濃尾平野に在るはずの強国が、近江毛野氏となったのではないか。
    東海勢力が南関東まで伸びた痕跡はあるのに、北関東と争ったという話も聞かない。
    同じ毛人勢力だったのではないか。
    日本が唐に主張したという、西と南が海(大阪和歌山)で、東と北が山でその先が毛人(三重滋賀福井)、という国家感もここから来るとすれば不思議は無い。

    日本書紀に関しては、日が天と融合するときに毛人と皇統を混ぜたとすれば、だいたい解決しそう。

  1597. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 17:33:27

    >1595
    >史実だと新羅建国は倭人によるもの

    何で日本にも朝鮮にも、倭人の入れ墨の風習が残らなかったんでしょうね
    アイヌや沖縄の人たちは、最近まで入れ墨していましたが

  1598. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 17:42:39

    >1597
    何でもなにも、風・俗を改めた話はいくらでもあるだろうに。
    日本攻撃しか頭にないから、歴史が理解できないんだぞ。

    それに、江戸時代にも普通に入れ墨はあった。飛脚の写真とか墨入れまくりだ。
    支那系が日本文化に口出すようになった、ごく最近の話だよ、入れ墨が社会から排除されたのはね。

  1599. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 17:56:33

    >出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために入れ墨するケース(類似に木場の川並が好んで入れていた「深川彫」など)や、首を取られてしまえば身元不明の死体として野晒しになるおそれのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入れ墨したケースなども知られている。

    日本人は入れ墨は身分証であったり、粋な飾りと考えてきた。
    これに対し、入れ墨を犯罪者の証として嫌ってきたのが支那文化だ。
    日本でも犯罪者に墨入れはあったから、全面肯定こそできないが、近年の入れ墨=犯罪者というのは、支那文化を強要されたものだろう。

  1600. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 19:10:57

    隋や唐からは信用されていなかったのか。
    白紙に戻そう遣唐使・・・成程な。

  1601. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 21:10:27

    近江 毛野(おうみ の けぬ)
    継体天皇朝の豪族、将軍。姓は臣。日本書紀では「近江毛野臣」の名で記される。
    出自は近江氏。近江国の豪族で、武内宿禰の後裔で波多氏の支族。

    毛野(けの/けぬ)は、日本の古墳時代の地域・文化圏の1つ。群馬県と栃木県南部を合わせた地域を指す。

    近江毛野氏とはなんぞや?
    近江一族の1人の名前が毛野やで。

    群馬と栃木の毛人とは関係あらへんよ。

  1602. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 21:37:27

    毛野地域(群馬、栃木)の簡単な古代史
    3世紀:遺跡なし
    4世紀:東海地方から入植
    4世紀:関東で唯一、四道将軍に侵略されなかった。独自文化継続中。
    4世紀〜5世紀:豊城入彦命を祖とし毛野国を形成。この時期にヤマト王権の支配下に入る。(下毛野地域のみとの説あり。上毛野は依然として独自文化あり。)
    5世紀末〜6世紀:上毛野国と下毛野国に分割。

  1603. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/23(日) 22:29:55

    >1598
    男は皆鯨面文身していた、というような風習は、よほどの外圧か支配層の交代でもない限り、そう簡単に無くなるようなもんじゃない。
    アイヌや沖縄の人々がやり続けたように。
    歴史を理解していないのはお前の方。

  1604. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 08:23:30

    ※1603
    外圧も支配層の交代がなくとも廃れた風習は、日本だけでもかなりあるよ。

    皆鯨面文身も潜って魚を取る際の大魚水禽から身を守るためとのことだけど、稲作が発展していけば、すべての人々がやる必要がなくなりますね。

  1605. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 10:42:37

    魏志倭人伝の時点ですでに、
    文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾
    呪術としての意味合いが薄れて、飾りで身分を表したりするものに変化していたし、
    それでも倭の時代は、風・俗改めよと言われてもなかなか従わなかったけど、
    日本を名乗って全面的に唐に学ぶようになってからは、中華風を良しとし、入れ墨は刑罰だから公的な人間がやるものではないとした。

    こう変化してきても、民間では入れ墨技術が普通に継承されており、入れ墨の呪術性も残っていたらしい、そして江戸時代にはおそらく世界一の入れ墨技術にまで進歩した。

    明治時代に入ってから、公的に入れ墨禁止令が広まっていき、それに従わない反社会の象徴とされていった。但し入れ墨で国会議員になる人間も居たり、昭和くらいまで入れ墨文化は続いていた。
    ごく最近というのはこういう事だよ。
    沖縄や北海道を別民族に仕立て上げたい奴らが、偽物歴史を並べてるだけで、
    日本人が入れ墨禁止されたのが、明治~大正時代で、昭和まで残ってたって事。

    ちなみに入れ墨文化自体は、世界中にありふれてる文化で、西太平洋の海洋民族にも入れ墨文化はしっかり残ってる。
    さらにその辺りとは、言語、単語が良く似ているとされているし、西太平洋(南方)から入ってきた日本人が入れ墨文化だったのだろうね。

  1606. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 10:57:37

    少なくともわかることは、神武天皇は鯨面文身ではなかったこと。
    また、「刺青」の文化は現在でも残っているが、顔に刺青「皆鯨面文身」を入れる文化、風習は、廃れていったことですね。

  1607. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 12:02:57

    ※1601
    蘇我蝦夷も東北人になるもんなw

  1608. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 12:15:25

    >1601、1602
    近畿寄生民族の歴史かな?
    近江毛野臣の仕事を上毛野君がほぼそのまま引き継いでいるのに、
    毛野と近江毛野は無関係、ハタ氏の支族だから朝鮮人(当時の、であって今の鮮人とはほとんど関係ないが)、日本に支配された歴史なんてないニダってか。
    上毛野君祖→近江毛野臣→上毛野君

    韓国人に拘るのは止めろ。
    この時代の南朝鮮は、秦の遺民や倭人が多く住んでおり、後に北から扶余などの侵入を受けていくという歴史で、さらにその後白頭山噴火、北方民族侵入などが繰り返された今の韓国人とは、概ね無関係だぞ。南端部中心に倭人関連の血が濃い場所もあるだろうが、主要な所は入れ替わってる。

  1609. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 12:48:52

    男系遺伝子でも、日本人の30%ほどが、韓国やインドネシア満州などと近い遺伝子を持っているが、
    シナ海沿岸民の遺伝子(倭人?)であって、朝鮮半島とだけ近い遺伝子ではない。
    その近縁の30%遺伝子でも、日本列島と朝鮮半島では、特定の遺伝子マーカーに注目するとはっきりと違いがあることがわかり、その子孫の中で多少の行き来があったこともわかるが、大部分は日本列島と朝鮮半島として分化している。要は少し混ざった程度で明確に別民族。

    男系は、親子関係に限れば、女系の5000倍の情報量があるからね。調べりゃ怖いくらい色々わかってしまうよ。

    ・O1b2a1a (CTS713) – 日本列島
    ・O1b2a1b (F2868) – 日本列島  
     ・O1b2a1b1 (L682) – 朝鮮半島 (朝鮮半島に渡った日本人(倭人)遺伝子か)
      ・O1b2a1b1a (CTS723) – 朝鮮半島
       ・O1b2a1b1a1 (CTS7620) – 日本列島 (新羅難民などの受け入れ遺伝子か)
    >朝鮮半島南部の古墳は日本に似ていて、時代も新しい、日韓共同で調査したものの遺骨?遺体?が明らかに日本人系、だったのでない事に成っているという話もある。

  1610. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 17:31:12

    ※1608
    >ハタ氏の支族だから朝鮮人

    別に誰もそんなこと言ってないぞ
    近江毛野は武内宿禰の末裔だから皇別氏族だし
    東の毛人とは別人だよと言ってるだけ

  1611. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 19:47:47

    >1610
    >1601出自は近江氏。近江国の豪族で、武内宿禰の後裔で波多氏の支族。

    東の毛野氏も記述上は皇別氏族なのに、皇別だから別人って意味がわからん。
    結論ごり押しする工作だから、矛盾があっても気にしないニダって、思いつきの捏造だな。
    よくわからないから朝鮮起源にしていこうと、出自を混ぜていくわけな。

    >近江毛野は武内宿禰の末裔
    これも捏造か?

  1612. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 20:21:40

    >1611
    >東の毛野氏も記述上は皇別氏族なのに、皇別だから別人って意味がわからん。
    東の毛野氏は、崇神天皇の五世孫の御諸別王が東国に派遣されその末という伝承になっていて、崇神天皇の皇子の豊城入彦命を祖とする
    つまり「崇神天皇の皇別」氏族

    それに対し、近江毛野臣は、近江臣氏の毛野という人物で、近江臣は武内宿禰の子・波多八代宿禰から始まる波多氏の末に数えられる淡海臣のこと
    武内宿禰は考元天皇の孫(古事記)あるいは曾孫(日本書紀)とされる
    つまり「考元天皇の皇別」氏族

    皇別氏族というくくりでも、どの天皇から別れた氏族かで、区別されるんだよ

    1601は捏造じゃなくて、ちゃんと記紀に書いてあることだよ
    日本書紀巻五 崇神天皇
    豐城命令治東國、是「上毛野君・下毛野君」之始祖也

    古事記中巻 大倭根子日子國玖琉命(考元天皇)
    建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、「淡海臣」、長谷部君之祖也

  1613. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 21:38:23

    >1612
    蘇我臣が蝦夷、入鹿、倉麻呂、など複数存在し、蘇我臣では混ざってしまうときに、蘇我蝦夷臣や入鹿臣とされているように見うけられます。
    淡海臣が近江臣で毛野氏とは別だとするのなら、近江臣ではなく、毛野臣としか書かれないのは何故でしょうか。
    全て毛野臣で、近江毛野臣が近江臣とは一度も書かれていません。

    また、近江臣として出てくる箇所では、関東から東北に派兵されているように見えます。
    その時代の近江臣(近江毛野)は北関東に存在したのではないでしょうか。

    毛野が別ものとすると、不自然な点がありますが、毛野氏同一とするなら問題なく読めますね。

  1614. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 21:49:16

    >1596
    >大和に参加していた濃尾平野に在るはずの強国が、近江毛野氏となったのではないか。
    東海勢力が南関東まで伸びた痕跡はあるのに、北関東と争ったという話も聞かない。
    同じ毛人勢力だったのではないか。
    日本が唐に主張したという、西と南が海(大阪和歌山)で、東と北が山でその先が毛人(三重滋賀福井)、という国家感もここから来るとすれば不思議は無い。

    全て天皇がやったという日本書紀よりも、実際は臣下が我が儘しまくっていたという実態を鑑みたら、こちらの方が自然に読めると思う。支那の歴史書とも矛盾が少なくなる。

  1615. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 21:59:57

    ※1611
    波多氏 武内宿禰裔
    氏姓 波多朝臣
    氏祖 波多八代宿禰
    種別 皇別
    本貫 大和国高市郡波多郷
    武内宿禰の長男である波多八代宿禰を祖とする。
    姓は臣のち朝臣、真人。

    八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも表記される。
    大和国高市郡波多郷の地名に由来し、高市郡にあった延喜式内社の波多神社を氏神とした。
    推古天皇の時代に副将軍となった波多一族の一人が羽田と改名した。その後この羽田一族の一人が日本書紀の編者の一人として選ばれて編集した時に古事記の表記波多を日本書紀では羽田と全て書き換えてしまった。どちらも同じ一族で同じ波多郷に居た。

    波多氏(渡来系氏族(百済族))
    氏姓 波多造
    氏祖 不詳
    (佐布利智使主後裔)
    種別 諸蕃
    本貫 百済
    百済人である佐布利智使主の子孫。姓は造。

    外国人である貴方が日本語に不慣れなのは理解できますが、少しお調べになってもよろしいかと存じます。
    貴方の祖である朝鮮半島を誇りに思うのも結構ですが、日本の歴史も学んでは如何でしょうか。

  1616. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 22:05:25

    上毛野の姓は君だから臣とは別では?

  1617. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/24(月) 22:19:47

    >1613
    1616の人も書いてくれていますが、君姓と臣姓ははっきり区別されます

    それと、東の毛野氏は「毛野氏」として描かれることはなく、歴史時代に入ってからは1612にも書いたとおり「上毛野君・下毛野君」として書かれます

    いろいろ考えるのは楽しいですが、日本書紀では近江毛野臣と上毛野君ははっきり別の氏族であり紛れはありません

  1618. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/25(火) 12:49:45

    >1615、1616、1617
    なるほど、文字を変えたり色々複雑なのですね。
    ほとんど出てこない下毛野君が、近江臣と関わりあって下毛野から東山道派兵されたのかとも思いましたが、少なくとも同じものではないのは理解しました。
    ただ、六万どこから調達したのかとか、派兵される場所なども考えると、どうしても東国との繋がりを勘ぐってしまいます。時代が下っても1国では1万前後しか出せていないようですし、そうとう広域の影響力徴兵力、東国との繋がりを強く持った毛野臣だったと推測します。

  1619. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/25(火) 16:01:10

    ※1614
    近江にしろ東国にしろ、
    皇別氏族が派遣されてるわけだから毛人じゃないでしょ

    四道将軍が会津で合流したり、ヤマトタケルが陸奥まで攻め入ったりしてるんでもう平定完了済み。

  1620. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/25(火) 17:26:43

    ※1619
    四道将軍は栃木と群馬を避けて関東を平定している
    毛野地域が平定されるのは四道将軍のあと
    結局平定されて皇族が地域のトップになったことに変わりはないけどね

  1621. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/25(火) 22:07:05

    >1620
    私は四道将軍などの記述をそのままは信用してないけど、
    毛野氏の地域を避けている事とと、古事記では名前しか出てこない上・下毛野君が、日本書紀では上毛野君の仕事が何度も出てくること、
    これらを見ると、日本書紀では上毛野氏への配慮がはっきりされていると思う。
    大和に早くから協力していて、大和側に組み込まれる毛人勢力のまとめ役でもやってたんだろうか。
    武士の時代にも、この辺り出身は血筋が重んじられてたりするんよね。

    後、日本書紀で天皇血統が大活躍してても、はっきり歴史がわかっている天照大神時代ですら、豪族や皇子に好き勝ってされて天皇は引き籠もってしまう状態なんだから、皇族が全部やっつけましたは、歴史を皇統に纏めるために、皇族にやられたことにしてくれたら血縁者の地位をあげるみたいなやり方だったんじゃないかと。
    大和参加豪族 → 皇族に負けた事にして皇統の権威を高める見返りに、架空天皇の子孫としてその高めた権威を皆で享受するみたいなね。

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  1624. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/26(水) 09:34:15

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  1626. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/26(水) 14:03:33

    >1624
    それだと日本が自称したという、東と北の山が境でその先に毛人が居るって話にならない。
    南と西、東と北、で四方の境を表しているから、東北ではなく東と北に山がある。
    関東が領域なら東に山は無いし、その認識があったのは唐と同時期の日本の地名からも明らか。
    とすると、長野か岐阜か滋賀か、どこが東の境だったのかと。

    663年に百済と一緒に唐と戦った倭勢力に対し、662年に蝦夷と一緒に唐に朝貢していた日本勢力が存在した可能性が高いと思う。
    百済、北九州、瀬戸内、近畿南側の倭勢力と、
    新羅、出雲、近畿日本海側、そして東日本の日本勢力があったのではないか。
    軍事力の比から、日本勢力の方が大きく、東の境が滋賀県、北の境が中国山地、そして新羅に繋がる勢力だったのではないか。
    もちろん元から天皇を頂点にはしていたけど、有力豪族の勝手に振り回される状況が度々起こり、
    倭と日本で方針がぶれることがないように、対立し合うことがないように、
    歴史書編纂により倭(天)と日本を皇統に統一したのではないか。

  1627. FlossieGib 2017/07/26(水) 16:29:30

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  1628. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/27(木) 12:12:00

    >1626
    何度も何度も言うけれど、飛鳥時代よりあとに大和王朝以外の大勢力(=日本)が国内にあるという想定は無理

    倭国も日本国も同じ国が名称を変えただけで、今の日本に繋がる国なのは間違いない

  1629. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/27(木) 16:47:31

    ※1626
    >関東が領域なら東に山は無いし

    筑波山でいいんじゃない?

  1630. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/27(木) 22:06:13

    旧唐書
    又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。
    新唐書
    使者自言 ~中略~ 又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。

    これよりも前の倭については、倭が島全体で、その周辺の島にも国家があって国を名乗ってるって所から、
    唐の時代に、東と北が大山でその外に毛人国、と言っている日本の使者ってどこの人なのさと。過去に倭の島となってたのはどこなのさと。

    大和王朝が母体となったのは、当時の豪族も含め皆が認めている事だけど、大和王朝に参加しつつも独自性をもった国家勢力が存在していたのだと思う。
    もっと時代が下ってからも、東夷の鎌倉時代辺りだったか、関東東北が一つの国になってるんだよね。
    しかし、天皇から独裁権を与えられただけで、日本としては問題無く君臣関係が続いている。
    これと同じような状況が過去に存在して、武士政権はそれを復活させたのではないかと。

  1631. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/27(木) 22:58:24

    足利義満も、天皇の臣下である将軍のまま、日本王になったねそういえば。
    何も不思議なことはない。

  1632. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 00:15:56

    >1630
    >日本の使者ってどこの人なのさと。過去に倭の島となってたのはどこなのさと。
    日本の使者は、日本書紀に載ってる大和朝廷の使者だよ どこにどんな疑問があるんだ?
    昔も今も、倭も日本も島国だろうが 何が疑問なんだ?

    隠岐も壱岐も対馬も佐渡も、国だっただろ
    単に、より情報が正確になっただけだよ

    >独自性をもった国家勢力が存在していたのだと思う
    思うのは自由だけど、「倭」の五王も、日本を名乗るようになった天武天皇、持統天皇も、同じ皇統だし連続で、断続してたり別物だったりはしてない

  1633. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 00:44:58

    毛野も将門も頼朝もみんな皇族。諦メロン。

  1634. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 16:25:02

    >1632
    日本書紀にも載ってる大和朝廷の使者が、なぜ東と北は毛人国なんて言うのか。
    島は全部倭の領地じゃなかったのかと。
    倭の島国と日本の島国は、本来別だったんじゃないのかと。どこかで言葉の定義が変わっており、それはどこなのか。
    東に海を渡った先の倭種と南には敵国、周旋5千里の倭、絶海の倭の島、三月五月の倭、そして三月五月だけど東と北が毛人の日本。
    その辺りの謎が気になるのさ。
    >1633
    単に天皇を頂きながらでも、日本代表として大陸と交易できる勢力が存在したって事を言いたかっただけだ。

  1635. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 17:17:30

    日本の記録にも東北にまだ蝦夷が跋扈してるって書かれてるし、それが毛人の国だろ。

    いまいちよくわからない東方の島の情報が、段階を経てわかってきたってだけの話だろ。何にも証拠ないのに願望で無理矢理なんかを作ろうとするなよめんどくさいなあ。

  1636. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 18:13:10

    日本と倭が別立てになっているのは大陸の二十四史と呼ばれる正史のうち、旧唐書のみでしかも出来が悪いと評判で、新唐書が新たに編纂された
    そしてその新唐書では、日本は倭が名前を変えたものと地の文=編者の公式見解として明記されている

    これ以上、どうこう言う必要はどこにもないんだがな

  1637. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/28(金) 22:21:22

    面白いなあ。

  1638. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 00:41:51

    >1635
    東北じゃなくて東と北だと何度言ってもねじ曲げるね。
    東に大山でその先毛人と日本の使者が自称していると、新唐書にも書かれている。
    日本の使者は何故そんなことを言ったのか。
    >1636
    日本と倭が別だったのは唐書の時代だけなんだから、当たり前だろう。根拠にならない事を言うだけ言って否定演出するのは詭弁の類いだぞ。
    或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。  新唐書
    そして新唐書でも、疑ってるとしっかり書かれている。

  1639. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 08:15:55

    >1638
    >日本と倭が別だったのは唐書の時代だけなんだから、
    日本と倭が別だった時代なんてないっていう、たったそれだけのことが分からない人に何言っても無駄だな。
    自分の国の十分に信頼できる記録がある時代のことを、外国に変な記録があるからと、自国の記録の内容が間違っていると考える理由も必要もないだろ?

    まあ、1638は好きに考えてればいいよ。

  1640. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 09:58:20

    >1638
    >或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。  新唐書
    >そして新唐書でも、疑ってるとしっかり書かれている。

    疑ってないからww
    或云は、そういう話もあるからとりあえず書いとくってだけだよ
    こっちが正しいと思うならこっちを地の文(=正史としての判断)に書くから

  1641. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 11:07:53

    ※1638
    >東北じゃなくて東と北だと何度言ってもねじ曲げるね

    お前「関東だったら東に山はない!」
    おれ「筑波山でいいんじゃない?それなら東と北の境=東北との境になるよね」

    って話になったのに何でまた勝手に捻じ曲げて違うものみたいに強弁してんの?」

  1642. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 11:12:06

    1638
    ↑皇室の歴史を否定したい朝鮮ヤクザw

  1643. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 13:41:39

    そもそも日本書紀に「イワレヒコは九州から畿内に来た」って書いてあんだから九州に何らかの勢力があってその分家的なものが畿内に移ったってことくらいわかるじゃん

  1644. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 16:44:53

    >1643
    ただまあ、そのイワレビコの移動から何百年もずっと倭という国号で大陸との付き合いをやってきて、その何百年後かの子孫が日本っていう国号を作って改名したのを、九州とその分家は違う勢力って言われても困るって話

  1645. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 17:13:28

    日本書紀は、大陸歴史書を参考に書いてるもので、改変あるのは確定なんだな。
    もちろん本当の歴史も書かれてるけど、怪しい部分もある。それはどこかって話を延々とやってる。
    筑波山は間抜け過ぎて相手にされない。日本地図も見ずに日本の歴史に口出すのは何者なんだ。

    筑紫城から移動した話も、日本側の記録と合ってないんだよね。
    北九州にあった倭国の歴史と、大和~日本の歴史を、繋いでしまったせいでずれが生じている。
    と考えると、東征と東遷のずれや神功皇后のずれがちょうど説明つくと思う。

  1646. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 17:17:27

    倭と大和~日本が繋がれた歴史なら、
    皇族と豪族の歴史血統も繋がれた、と考えてみると、ずれ、が色々説明できそうなんだよね。

  1647. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 21:44:07

    >1645
    日本側の記録があやしい安康天皇以前のことならいざ知らず、日本の国号を作ったのは日本書紀の編纂を始めた天武・持統朝なんだから、日本と倭が別だとかいう外国の史書のたわごとを真に受けて「怪しい部分もある(ドヤァ)」とか言われもなぁ

  1648. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 22:29:46

    >1647
    その外国の史書のたわごとを真に受けて、日本書紀は書かれているんだぞ。
    歴史を毀損する行為だな。

  1649. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/29(土) 23:04:30

    北九州や近畿よりもさらに広い平野を持つ、濃尾平野の大和時代の勢力って、一体誰なんだろう。
    纏向にも影響大きいようだけど、なんだか名前を聞かないような。

  1650. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 01:05:14

    >1648
    倭と大和を繋ぐとか言ってる時点で、笑止なんだよ
    日本人がやまとことばで「倭と大和」を読めば、「ヤマトとヤマト」になるって分かってて書き込みしてるんだろうな?と
    同じものなんだよ、最初から

  1651. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 01:19:04

    >1649
    弥生時代には朝日遺跡を始め相当な規模の大環濠集落があるんだけど、古墳時代に入るとそこまで大きな古墳は作られないんだよな
    記紀を見ると古墳時代の初期に大古墳を作った地域には個人名の付いた説話があるんだけど、尾張はヤマトタケルとミヤズヒメの結婚話と草薙剣の譲渡(?)による熱田神宮の起源譚くらいしかない
    尾張という地名は、尾張 氏の氏族名から来ていて、尾張氏の氏族名はもともと葛城の高尾張にいたことによるものらしい
    尾張氏が移住する前の尾張の地名は何だったのかは気になる

    尾張からのちの毛野国まで、ずっと一つながりで全体が毛野国(狗奴国)だったならいろいろと分かりやすくなるのだけれど

  1652. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 10:04:00

    1651
    毛野国は移住した皇族の出身地である紀の国に由来するから狗奴国とは違うよ

  1653. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 13:55:22

    >1652
    紀清両党と言って、紀氏族と清原氏族は下野(栃木)南東部で勢力を持っていたが、代々宇都宮と行動を共にする従属勢力なんだな。宇都宮は毛野氏の出とも言われるし、紀氏族より先に毛野勢力があったのは間違いないと思うけど。

  1654. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 17:51:43

    伊支馬 いきま → いくめ 伊久米伊理毘古(垂仁天皇)
    弥馬升 みまし → みまき 御真木入日子(祟神天皇)
    弥馬獲支 みまわき → みまかき (景行天皇?)
    奴佳鞮 なかて → ぬかて?
    台与 とよ → とよすきいりひめ 豊鉏入日売
    難升米 なしめ → やぬしおしおたけおごころのみこと 屋主忍男武雄心命?

  1655. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 19:34:27

    >1654
    壹与(一与)が正解、台与は後の時代に大陸の発音が変わってから書き直されたもの。
    で、その書き直された大陸文書を参考に、それらの天皇が作られたって線が濃厚かな。
    何せその解釈だと、神功皇后の時代が100年以上、ずれる、からね。

  1656. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 20:30:01

    ※1655
    壹与が正解ということは、邪馬壹国(やまいこく)も正しいとみなしています?

  1657. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 20:32:24

    1653
    宇都宮は下野宇都宮氏のことかな?
    藤原宗円を祖とし、中原氏あるいは下毛野氏の流れを汲むといわれていて、下毛野氏のながれなら第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族と藤原北家の流れだね。
    豊城入彦命の流れなら母親が紀の国出身だから、そこから毛野になったとする説があるね。
    清原氏は天武天皇の皇子舎人親王を祖とし、その四世であった小倉王の子・夏野が、小倉王の弟・石浦王の子長谷ともども臣籍降下して清原真人の姓を賜った清原氏かな?下野にも子孫がいるけど平安以降に移り住んだようだね。
    紀氏の流れをくむ末裔として、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)があるけど、毛野の由来の紀の国出身者は後に後裔が下野氏になる豊城入彦命だよ。
    紛らわしいね

  1658. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 22:13:50

    >1656
    邪馬 やま、やめ 一(忠義に厚い第一の臣下みたいな意味だったかな)国
    中華思想(自分たちが世界の中心の最も偉大な国)やってたのに、西域で大国を次々と発見してしまってこれじゃ中心じゃないってへこんでたら、よくわからない東域から中華の徳を慕って自ら挨拶に来た国があったから、すごく喜ばれた。
    しかも圧力かけたわけでもないのに、自ら挨拶を続けるから、忠義に厚いと思われたって、邪馬台国研究の人が書いてたな。

    真偽はさておき、魏志倭人伝ではそういう解釈の方がありだと思う。
    後の歴史書で、例えば随書とか近畿を意味する事が明白なものは大和だろうけど、ただ単に発音で書き直された後漢書辺りはまだ九州だと思ってる。一を取り上げられたのかな。

    >1657
    なるほど、見事に勘違いの地雷を踏みぬいた感じですな。
    それだと北関東は都合良く誰も住んでなくて、近畿からの征討軍が素通りした後住み着いたと、そういう解釈になるのだろうけど、近畿以外は何もなかった説じゃないととても納得できない話。

    関東の弥生時代遺跡は調査が足りていないだけで、梁のある建物に漆喰の壁などが発見されているし、何も無かったとはとても言えないものがある。稲作向きでは無い土地で稲作の普及が進まず(植民も少なかっただろう)、面積当りの人口は多くなかったが、上毛野氏の地域を中心に、堅果類栽培、山地からの採集、山から流れ出る肥沃な土壌での畑作など、続縄文の文化が続いており、母体となる勢力は存在した。
    関東の弥生中期土器には大きく3つの形式(南、北西上毛野地域、北東下毛野茨城地域)があり、栃木県南部に4つめの形式が現れる(豊城入彦命の3代目とおもいきや)が、埼玉や栃木南部の影響を受けた純関東のものであり、それら関東小文化圏を無視して、歴史書に無いから人が住んでいない、簡単に皇族が入植できた、とは暴論としか言いようがない。
    また、奈良の遺跡よりもさらに大きい古墳時代の遺跡群が群馬埼玉地域で見つかっており、鉄や金も扱って、漢字や仏教も毛野氏を通じて近畿とほぼ同時期に入っている。蛮夷のすむ遅れた土地とする見方は誤りと言える。

    ・・・後からそういう事にした、皇統に纏めた、とすると、ぜーんぶうまく行くんだよね。
    皇室は日本侵略の歴史じゃないと困るってのは、一体どこの都合だろうな。

  1659. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 22:20:02

    天皇が侵略してった、全部近畿から、「地方」には何も無かった、そういう事を妄信してる連中って、
    大和とか、和を以て尊しとなすとか、多様な遺伝子が奇跡のように残ってる(大きな争いが少なかった証拠)とか、そういう日本の歴史から大きく外れてるんだよね。
    なーんか気持ち悪いな。

  1660. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 22:34:46

    ※1658
    何にせよ、邪馬壹国「やまい」でも「やめい」でもいいのですが、その呼称に関しては、他の国名と違って、倭(日本側)の呼称ではなく、中国側がつけた名称ってことですね。
    そりゃ見つからないわけだ。

  1661. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 23:24:20

    栃木と群馬には3世紀の大規模な遺跡は見つからないが4世紀に東海地方と同じ文化の大規模な遺跡が見つかる
    この時期入植したとみられている
    その後ヤマト王権の侵略を栃木方面から受け、徐々に圧迫され、最後は豊城入彦の命の子孫が上毛野君、下毛野君として君臨した
    下毛野地域は前方後円墳があるが、上毛野地域には前方後円墳がない時代がある
    土着の勢力が上毛野君になったのではなく、上毛野君は皇族の子孫である

  1662. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 23:31:45

    上毛野氏、下毛野氏は、関東北部の毛野国(現在の群馬県・栃木県)を本拠地とした古代豪族である。10崇神天皇の第1皇子である豊城入彦命を元祖とする皇別氏族とされている。歴史上あまり有名な氏族とは言えないが、古代において日本の一番北に当たる関東北部一帯に大勢力をもった氏族である。これより北は蝦夷地であり、未だ当時の大和王権の勢力圏外であった。毛野国は後に上毛野国(現在の群馬県)と下毛野国(現在の栃木県)に分国された。さらに後年(713年)になって上野国(こうずけのくに)・下野国(しもつけのくに)と呼称が変化した。それぞれの国の国造家が上毛野(かみつけぬ)氏・下毛野(しもつけぬ)氏である。
    共に「豊城入彦」の末裔である。この両氏を中心とした毛野氏一族は全国に分布していくが、東国六腹朝臣(上毛野・下毛野・佐味・池田・車持・大野氏)が中心である。684年に揃って朝臣姓を賜った。地方豪族としては破格の待遇であった。
    JR東日本に「両毛線」というのがある。栃木県小山駅から群馬県新前橋駅(実質的には高崎駅まで)までの過っての上毛野国と下毛野国を結ぶ鉄道である。ここにも「毛」の字が残っているのである。
    上毛野氏は「赤城神社」を奉斎し、下毛野氏は「二荒山神社」(現:宇都宮市)を奉斎してきたとされている。共に祭神は、「豊城入彦命」である。ところがこの2社とも出雲神である「大己貴命」をも祀っているのである。これが古来色々議論されてきたことである。
    下毛野氏の末裔とされる一族が長岡京市に現存する。「調子氏」である。調子氏古文書として多くの貴重な文書が残されている。系図の一部も確認されている。これは両毛野氏を論じる上で非常に興味有る史料である。
    また同じく下毛野氏の名跡を継いだ可能性があるとされる、有名な武家である「宇都宮氏」についても参考事項として、避けて通れない事項である。
    上毛野氏関係は、朝廷で武家としての活躍が僅かに残されているが、それ以外では越後居多神社社家「花ケ前(商長)氏」系図が残されているだけである。

  1663. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/30(日) 23:42:47

    >1660
    >隋書にしたがえば、「魏志には邪馬臺国と書いてあった」ことになります。言葉通り受け取る人もいますが、そう簡単にはいかない。後漢書(百衲本)の、「大倭王は邪馬臺国に居す。」という記述に、「今名を案ずるに、邪摩惟音の訛なり。」という唐の李賢注が続くからです。訛は言葉が誤って変化したことを表す文字です。より古い邪摩惟(ヤバユイ)音の伝承があり、それが変化して今名(唐代)のヤバタイ(邪馬臺、邪靡堆)になったのだとされ、そして、後漢書に百数十年先立つ魏志が邪馬壹国と表記している事実があるわけです。
    >魏志が邪馬臺国と記していたなら、後漢書の邪馬臺国と同じで、注そのものが必要ありません。注を入れた頃の魏志には「邪摩惟音」、つまり、「邪馬壹」が記されていたことになります。
    >後漢書李賢注は、それに異を唱えた。魏志には「壹」という文字が四文字もあるのに、すべてを書き間違えられるのか。おまけに「臺に詣ず。」と臺を書き分けている。転写間違いとするには問題が多すぎると考えたのではないか。様々な可能性を考えた結果、そうではなく、今名のヤバタイ(邪馬臺、邪摩堆)はヤバユイ(邪馬壹)音の変化で、魏志の文字間違いではないと結論したわけです。
    >小知恵の入らない魏志そのものは機械的な転写を続けて邪馬壹を保持したことになります。
    >壹與も、梁書や太平御覧では臺與に修正されてしまいましたが、同じ太平御覧の珍宝部、歴史研究の成果が入らない場所では、単純に魏志倭人伝を引用して壹與と記しています。
    >高堂隆が明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられますから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは、儒教の大義名分からいって、考えられないのです。「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずです。しかも「鬼道に事え、能く衆を惑わす。」と鬼道を嫌い軽蔑しています。
    「考えられない」、「史官の首がいくつ飛んでも足りぬような所業だったと思われます(古田氏の原文)」と言うしかなく、それは推定に過ぎないのですが、根拠のしっかりした、きわめて妥当な推定と考えます。魏志が「邪馬臺」と書く可能性はありません。
    (概ね抜粋)

    という所からの邪馬壹国。
    次有邪馬國
    これが邪馬壹国そのものかどうかはわからないけれど、前に書かれた奴国が餘旁國でも出てくる事から、同名国が書かれる事があるとの事。

  1664. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 00:59:01

    >1661
    弥生時代中期には千葉県辺りまで入ってきてたぞ。
    というか、福島、長野、東海、濃尾、東瀬戸内、全部弥生時代に稲作と共に交流持ってるし、後に北陸にも繋がる。
    影響が見られる、なんてのはずっと前からで、4世紀に突然やってきたわけではない。
    これは後の纏向共立範囲とも重なってるんじゃないか。

    そして弥生時代中期は、銅鐸文化圏の広まりから、近畿の北から出雲式が入り込み、河内や濃尾などの銅鐸が南に追いやられ、東に伸びていった時期。
    その時期に関東を通って福島までの東国交易圏が存在していたということ。
    神武東征の際に、何もしなくても、敵を倒してくれた剣=東からの勢力、が見えてくる気がする。

  1665. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 01:10:43

    >方形周溝墓は,関東では宮ノ台期に先行して導入された墓制であることが近年明らかになってきた。千葉県君津市常代遺跡(甲斐1996)では平沢式に後続する中期2期後半(石川1996)に遡る実例が検出されて,静岡市瀬名遺跡や袋井・掛川市山下遺跡など西駿河・東遠江での出現時期とほぼ横並びとなり,続く3期には神奈川県小田原市中里遺跡(河合1997)のように南関東はもちろん,埼玉県北部の熊谷市池上・小敷田遺跡(吉田1991)にまで採用されている

    入植じゃなくて、もともと同じなんだよ。
    埼玉北部と言ったら毛野氏の範囲じゃないか。もちろん稲作もすでにやってるぞ。

  1666. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 06:49:46

    ※1663
    ありがとうございます。
    李賢注やその他の大陸の人がどう思っていたかはどうであれ、ヤバタイ(邪馬臺、邪摩堆)にしろヤバユイ(邪馬壹)にしろ、当時(奈良時代以前)の日本の語彙としてはありえないわけで、中国側が名付けたものですね。

  1667. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 13:19:19

    >1666、1663、1660、1658、1656、1655
    「臺」
    後漢書東夷伝 432年頃 其大倭王居邪馬臺國
    梁書諸夷伝 636年 至邪馬臺國,、即倭王所居。
    復立卑彌呼宗女臺與爲王
    隋書東夷伝 656年 都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
    北史倭国伝 659年 居於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
    至邪馬臺國。
    復立卑彌呼宗女臺與爲王
    翰苑     660年頃 憑山負海、鎮馬臺以建都。卑彌娥惑翻叶群情、臺與幼齒、方諧衆望、
    復立卑弥呼宗女臺與(『後漢書』曰(誤))
    南至邪馬臺國(『廣志』曰)
    通典 801年 立其宗女臺輿爲王。
    其王理邪馬臺國
    太平御覧 983年 又南水行十日陸行一月至邪馬臺國
    於是復立卑彌呼宗女臺擧
    魏志(版本) 12世紀 因詣臺

    「壹」
    太平御覧 983年 (珍宝部というところに壹與とあるそうです。未確認。)
    魏志(版本) 12世紀 南至邪馬壹國、女王之所都、
    掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。
    復立卑彌呼宗女壹與
    政等以檄告喩壹與、
    壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還

    魏志の古い版本がないからなんとも言えないけど、もともと「壹」だったのなら、他の史書が写本を繰り返す中で「全てが右へ倣えで「壹」を「臺」に書き換えた」ことになる

    そっちの方が考えにくいから、魏志の方が写本の途中で「臺」が「壹」に化けたと考える方が通説になってる

    >ヤバタイ(邪馬臺、邪摩堆)にしろヤバユイ(邪馬壹)にしろ、当時(奈良時代以前)の日本の語彙としてはありえないわけで
    だから「ヤマト」なんじゃないかって言われてるんだろ?

  1668. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 14:03:46

    ※1659
    天皇否定するお前の方が気持ち悪いわ

  1669. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 14:04:47

    ※1667
    丁寧な解説ありがとうございました。
    上古音と中古音の切り替わりの境目で判りづらいということもあるでしょうが、素直にヤマトだろうと思います。

  1670. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 17:27:20

    >明帝を魏臺と表記していて、これはその時代の共通認識と解せられますから、同じ空気を吸った張政が蛮夷の国にこの文字を当てるとは、儒教の大義名分からいって、考えられないのです。

    随の時代に日本に来た使者も、皇帝の字を名前から削って表記されている、随書は次の唐時代に書かれたけど隋皇帝への配慮は当然やっている。
    280年頃はヤマ、ヤメ、一国であったが、(ヤバヰなら発音もあり?)
    432年、倭の五王時代には近畿ヤマト。武時代の東に55国西に66国とも一致する。

    そして武の頃480年周辺に、支配国から大量に人手を集め、日本史上最大の大仙陵古墳がつくられるが、すぐに反乱が起き、継体までの迷走で大きく威を落としてしまう。
    さらにその背景として、大陸交流を伊都国で独占していた時代から、5世紀に朝鮮半島に大きく進出してしまった結果、大陸や朝鮮半島の文物が特に新羅辺りから、直接関東や九州(太平洋側~関東平野)にも入り込むようになった。九州勢力が朝鮮半島から朝貢を受けていた(近畿勢力が討伐した理由、倭を仮冒?)とも書かれている。
    九州・近畿・関東(東日本)で交易権益の奪い合いが起こり、始めは関東九州が近づいていたが、後に九州が6世紀末磐井の乱で討たれ、関東も8世紀のいくつかの乱の後平安京時代に入る。
    この辺りの利権争いは、沖縄がそれぞれの国で交易船を呼び込もうと割拠していたのと似たようなものだろう。

    ちなみに関東の関とは滋賀県にあり、福井岐阜愛知三重も東側の関東だった。平安京の時代に入ると、滋賀県も関東となる。
    そしてその東側を警戒していたことも読み取れる。これが東と北の山を越えたら毛人國、という表現になったのかもしれない。

  1671. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 17:31:56

    >1668
    侵略ではなく共立だ、皇統は日本人から支持されていた。
    とされると都合の悪い方ですか?

  1672. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 17:59:28

    皇統が「強い俺たちは侵略したんだ」って言ってんだからそれを否定するのは不敬

  1673. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 18:19:03

    毛人=蝦夷

    日本書紀に、655年北蝦夷と東蝦夷を饗応したことが記録されてる。
    そしてそれぞれが北越、東陸奥と書かれてるから、
    東と北の毛人の国は完全に新潟とか東北とかその辺りだよ。

    諦メロン。

  1674. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 18:54:14

    >1672
    支那朝鮮史観の、天皇を我が物に利用し日本人を支配する、というやり方のようですね。
    ついでにおこぼれに預かり、日本人を差別して回る気色悪い勢力が見え見えなんですよね。

  1675. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:04:56

    天皇が支那朝鮮の道具だとみなしたいお前の方が気色悪いんじゃアホ

  1676. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:05:41

    蝦夷は日本人じゃないんで

  1677. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:07:16

    >1675
    逮捕されたかごいけ?みたいな顔が浮かんでくるようだわ。きんもー☆

  1678. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:17:46

    朝鮮人はすぐ差別ニダとか言うねえw
    共謀罪で刑務所にぶち込まれればいいのにクソパヨク

  1679. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:19:12

    1677
    B民の糾弾きも

  1680. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 19:45:49

    こんなのが居るから戦争に負けるんだよなぁ。次は気をつけないと。

  1681. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 21:25:59

    ※1670
    壹は、上古音でiet 中古音でiĕt
    「ヰ」(ゐ)=日本上古(wi)の発音にあてはめられることはないかと。
    また、その儒教云々が正しければ、日本の古来の地名ではなく、なぜかそこだけは、中国側が名付けた地名となります。

  1682. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 22:33:38

    >「タイ」にしても「ト」にしても、それを表すには同音のもっとふさわしい文字が見つけられるはずです。

    単に文字選びの話だろ。

  1683. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/07/31(月) 22:47:39

    >1663
    >前に書かれた奴国が餘旁國でも出てくる事から

    この奴国は前に欠字があったんじゃないかという意見も根強いところだよ
    つまり伊都国の隣の奴国とは別の国
    彌奴國 姐奴國 蘇奴國なんてのがぞろぞろあるし

  1684. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/02(水) 15:55:03

    不敬である、で議論終了か、変わらないな。

    >1683
    奴国の分家が多かったんだろうか。子供の中で一部の子につく接頭語や接尾語が日本にはあったようだし。最近の沖縄紹介番組だとかわいがられた子に○○がつくとかだっけかな。
    邪馬については山国と山入国辺りが語源だったりするのかな。

  1685. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/03(木) 09:20:11

    >1684
    当時の日本語の読みをそのまま漢字にしただけだから単に音が一緒なだけだよ
    万葉仮名と同じ発想
    哆啦A梦 duō lā A mèng ドラえもん
    と同じだよ

  1686. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/03(木) 10:28:21

    >1684
    分家とか考えるよりも、大野、佐野、中野みたいに苗字でも二文字目に多用される字もあるし、複合語的な国名なら、そういう共通の名詞というか「音素」を持つ国名が多かった、とかの方が自然な解釈だと思うがね

  1687. ローズ 2017/08/07(月) 23:59:02

    当時の倭人が信じられないのは結構だが、もうちょっとしっかり調べて
    確実な内容を残してほしかったなー古代中国の役人さんたち 厚かましい欲だけどね

    わりと、当時の古音での発音が国名の参考になると思ってる
    唐音ですら、現代の北京語とは全く違うしね 古代史は魅力的ですね

  1688. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/11(金) 15:22:33

    九州南部の奴らが無断で貢いでるのを奈良京都の奴らに見つかってメッされただけでは?

  1689. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/11(金) 17:16:42

    >1688
    魏志倭人伝にも使譯所通三十國って書かれているし、無断でってのは難しいだろう
    九州で畿内の庄内式土器出てるし、人の交流は九州から畿内まで繋がってたわけだから、全体で倭国でいいんじゃないかな

  1690. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/13(日) 20:46:07

    >1689
    土器が統一規格になるのは須恵器から
    庄内式土器はまだ地方ごとだよ

  1691. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/13(日) 21:20:37

    >1690
    >庄内式土器はまだ地方ごとだよ
    だから、九州で西新式と一緒に出土した土器が畿内(河内)型だと判定されてるんだと思うよ

  1692. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/15(火) 00:24:06

    九州の庄内式土器のほうが畿内より古いね

  1693. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/15(火) 04:11:58

    昔の国ってのは村を単位とした連邦のさらに超連邦で少し離れたら方言が通じない
    竹取物語も古事記もシュメール神話も聖書もオリジナルではない
    日本や倭だけだと思うのが間違い

  1694. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/15(火) 08:07:53

    >1692
    どちらが古くても、交流や人の行き来があったのは確認できるよね
    九州説の人は、畿内と九州のつながりや交流を全否定したいらしいけど

  1695. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/15(火) 08:12:54

    >1693
    >日本や倭だけだと思うのが間違い
    ここまでのコメントを読めば分かると思うけど、日本という国号が作られたのは7世紀だから、その頃に言葉が通じないなんてことはないよ

    それよりずっと前の縄文時代から黒曜石や翡翠の広域流通が確認されてるんだから、遠いから意思疎通もままならないなんてことは言えないし

  1696. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/19(土) 12:12:20

    ブログ主さんは、邪馬台国ネタはもう書くのを諦めたみたい、なのかな
    まあ、これだけたちの悪い人にコメント欄でやりたい放題されたら、面倒にもなるわな

  1697. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/19(土) 13:52:53

    天皇家の日本と卑弥呼の邪馬台国は別系統との結論で終わってるのでこれ以上はないんじゃない?

  1698. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/19(土) 15:12:06

    >1697
    >天皇家の日本と卑弥呼の邪馬台国は別系統との結論で終わってる
    これ、現在では俗説に近い扱いなのに、それを結論としてそれっきりっていうのは、やや無責任な気がするけどな

  1699. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/24(木) 13:01:43

    まあ別に最初からちゃんと最新の学説を紹介しようというわけじゃなく
    面白い説をぶち上げてみたってだけの感じなのでこれ以上は何もないんじゃない

  1700. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/24(木) 15:53:55

    最新の学説でなくてもよいとは言っても、いまさら古田武彦や安本美典の焼き直しみたいなことを語られてもなあってのが正直なところ
    旧唐書に「日本は倭の別種なり」って書かれてるのは知ってる人は知ってたことだし、それでいて基本的には無視されてたんだからその程度のこと
    この記事に書いてあるようなことは専門家は百も承知で、その上で3世紀には列島の広域に影響を持つ勢力の中心が奈良盆地にあったとプロが判断してる、ってのが一つ前の記事でも書かれてた訳だし
    まあ、面白いと思う人には面白いのかもなぁって程度だな

  1701. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/30(水) 16:49:18

    朝貢貿易って普通に聖徳太子の頃までやってたやん?

  1702. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/08/30(水) 17:51:19

    >1701
    倭国から大陸への遣使は、大陸の史書に記録されているのが
    57   1後漢    「漢倭奴国王」の金印
     50年 空き
    107    後漢    倭国王・帥升等
     132年 空き
    239~247 魏     卑弥呼の遣使 
    266    晋     台与(?)の遣使
     147年 空き
    413~478 (東晋)宋 倭の五王 
     122年 空き
    600    隋     俀王以天爲兄 以日爲弟
    607    隋     日出處天子致書日沒處天子無恙
    以下略
    と飛び飛びで、ずっと遣使し続けていたわけではない

    聖徳太子の頃の遣隋使は、倭国側が日出處「天子」と名乗っていて大陸王朝の柵封体制からの離脱=対等の王朝であると主張していると考えられている
    飛び飛びだから普通にやってたというのは抵抗があるし、聖徳太子の頃は「朝貢」ではないと意識していたのだと思う。

  1703.   2017/09/12(火) 13:22:44

    魏志倭人伝なんて大陸王朝内の政治的な思惑が全てである与太話であって、
    まともな資料扱いする所から全ての間違いが始まる事を
    ここの管理人は知った方が良いよ

    明史の秀吉についての無茶苦茶な記述を知っているだろう
    魏志倭人伝なんてそれを更に酷くしたものであって、
    真面目なものとして取るから余計に訳が分からなくなる

    キ○ガイが喚いてる事を真面目に哲学的考察をしてる様なもの。何の意味も無い、どころか有害

  1704. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/13(水) 09:53:15

    >1703
    なんだ、こっちにも書いているのか
    しかも全文コピペww

  1705. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/13(水) 12:12:09

    在庫ゴキブリガなんで日本にくちだすんだ?
    起源主張してるだけならまだしも兵役にも帰国しないゴミクズが
    日本人なりすましやめてくれるかな

  1706. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/17(日) 13:55:10

    原日本人である縄文人は渡来人に攻められて東北へ追いやられた
    原日本人の血を引く者だちは東北の一部の人達だけで
    今の日本人のほとんどは渡来人である弥生人の血を引く人たちだよね

  1707. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/17(日) 20:59:10

    >1706
    >渡来人である弥生人の血を
    縄文人と弥生人の骨格の違いは、血統(遺伝子)の違いというより、食事の変化の影響の方が大きいっていうのは、まだ広まっていないんだな

    日本人の戦前と戦後で平均身長も顔立ちも違うけど、進駐軍の遺伝子が混ざったから、なんて思わないだろ? それと同じだよ

    渡来人も完全に混血完了しているから、原日本人云々を言うのはほとんど意味がないと思うよ

  1708. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/17(日) 21:48:25

    1707
    自分で縄文人に渡来人の血が混ざって今の日本人になったって書いてるじゃん…

  1709. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 10:29:45

    >1708
    渡来人の寄与度が1706の想定なんかよりずっと低いってこと
    そして混血完了っていうのは1706のいう東北に追いやられた人たちにも渡来人の遺伝子は混じっているし、逆に1706が渡来人の子孫と思っている人たちも遺伝子の絶対多数は縄文以来の人たちのものだってこと
    渡来人の遺伝子が薄く混ざっているというのと、渡来人の子孫っていうのはだいぶ違うだろ

  1710. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 14:36:32

    >1709
    渡来人の遺伝子が入っていたら渡来人の子孫だろ?

  1711. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 16:46:51

    >1710
    渡来人が主体となった集団は「ない」から、「渡来人によって後の日本人が形成された」式の考え方はおかしいっていう話

    6代前に一人だけスイス人の曽々々々祖父が居た人を、「スイス人の子孫」って言い張っても厳密には間違っていないかもしれないけれど、ほぼ意味がないよな?

    渡来人が一人もいないとは言わないけれど、日本人の遺伝子組成に影響を与えるほどの人数は入っていないし、縄文以来の日本人集団に吸収されて実態のある集団としては存在しないってこと

  1712. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 16:48:59

    そもそも論で言うと1706のいう「渡来人である弥生人」というのが間違いってこと
    縄文人と弥生人の違いは、文化と食事であって、血統の違いじゃないよ

  1713. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 20:24:08

    今のところ稲作して米を食い始めた人たちを弥生人と定義してる

    血統的にいえば、C1a1が日本固有の遺伝子
    多いのは近畿や四国

  1714. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/18(月) 22:54:09

    1713の言うとおり日本固有の遺伝子は東北に追いやられたりしてないよな?
    それだけのことだよ

  1715. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/19(火) 21:29:55

    確定事項として、縄文時代の3200年前にはすでに水稲栽培を行っていたこと。
    縄文時代の6700年前には陸稲栽培を行っていたこと。
    縄文人のDNAを変えるほどの多数の渡来人が来たという痕跡が残っていないこと。DNAがほぼ同じ。
    以前言われていた弥生人渡来人説の根拠が骨格の形のみであったこと。

    その理論で行くと、江戸時代の日本人と現代人は、著しい混血が必要となってしまう。
    やわらかいものばかりを食べていた公家と一般の人は顎の骨の形に大きく差が出ており別の人種扱いとなってしまう。

  1716. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/21(木) 08:27:24

    在庫こじきごきぶりのも嘘だろ
    汚らしい気持ち悪い在庫ゴキブリなんか強制送還しろ

  1717. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/09/22(金) 19:28:55

    エタはタヒね

  1718. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/11(水) 08:16:54

    東北って縄文遺伝子言うほど多くないよな
    その割には酒が強いってことは朝鮮系が多いってことだな
    まあ気候も似てるし日本に来た朝鮮系が北を目指すのも当然か

  1719. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/11(水) 15:53:05

    えーと、酒の強い弱いは、特定の系統とはあまり関係がない
    それから縄文遺伝子って何?
    弥生時代も縄文時代も、日本に住む人間の遺伝的多様性はほぼ変化していないというのが、現在の結論だと思うが

  1720. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/20(金) 21:48:59

    現代の朝鮮系と呼ばれる民族が確立したのは、南下してきた穢やモツキツ、ユウロウ、さらには高麗期におけるモンゴルとの混血が進んでからで、比較的新しい民族であって古代には存在しない。
    大陸系と縄文以降から現代における日本人とは、遺伝子の型が大きくかけ離れており、大陸系が大量に渡来し、混血した形跡も見受けられない。(日本人と一番似ているのがチベット人)

  1721. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/28(土) 01:36:13

    y遺伝子でいうと、日本人も朝鮮民族もモンゴル人チベット人もない。
    ただ、男性に遺伝される各y遺伝子のパーセンテージがどうなってるかだけ。

    日本固有のC1a1や、大陸にはあまりないD系統がある程度含まれることが「集合体としての日本人」の特徴ではあり、そういう意味では「集合体としてのチベット人」に近いのは確かだけど、それは3割か4割程度であり、それ以外の人は大陸系の人と同じ遺伝子。また、地続きで同じ北東アジア大陸から同じような遺伝子比率が多少流入したところで朝鮮民族が全く新しい民族だというのは違う。むしろほぼ全く同じ。

  1722. 1720 2017/10/29(日) 09:38:09

    ※1721
    民族の定義が多分ずれているんだろう。(Raceのつもりで書いていない。)
    私から見れば貴方の言い分と私の言い分、なにも違っていない。
    日本人がチベット人に一番似ている(一番近い)がなぜ否定されるのかわからん。3割、4割程度ってことも否定していない。

  1723. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/29(日) 22:15:44

    1722
    「ずれてる」と認識しておられるように、違ってるところもある、というか見る角度が違うのかなと思います。
    最初に「y遺伝子でいうと」と書いた通りです。

  1724. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/10/29(日) 22:27:33

    追記
    「日本人がチベット人に一番似ている(一番近い)がなぜ否定されるのかわからん。」のことですがそこは否定しておりません。私の角度からでもその通りだと思います。(様々な種の集合体としての日本人という意味で)

  1725. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/11/09(木) 02:20:45

    つまり管理人としては、今の40代以上がクマソと習ったクニが「倭」であると言いたいのですよな。
    まあ、金印の出土時の記録(巨石の下の箱状区画で出土でしょ?)からすると、なんか記念品を大事に祭るというより「奪ったけど壊すには忍びないから封印した」と言えなくもない状況にも見えなくもない気もしますので、本当に九州が倭だったのかは自分にはわかりませんが。

    ところで管理人は数千里ある「日本」を2~3000kmと表しておりますが、一里を2~3kmとお考えでしょうか。
    中国では古来より一里は「人の歩幅300歩分」で、約4~500mではなかったでしたっけ?

  1726. 名無しの権兵衛 2017/11/23(木) 05:45:59

    他に同時代の書がないから根拠にしてるが、中国の書も所詮他国のことだから適当だと思うよ
    当時はそんなに詳しく調査する能力もする意味もなかったことを考えると人から聞いたのをつなぎ合わせただけだろう

  1727. 名無しのAsian 2017/12/03(日) 11:39:33

    一言言うぞ?
    邪馬台国と日本は同源他国。
    邪馬台国は基本的に卑弥呼が治める九州を一つの国としての総称。
    日本は邪馬台国より後発で、九州を含む統一を成し得た時に日ノ国として日本を名乗る事になる。
    だから、九州合併出来てない期間は邪馬台国と日ノ国の二国が存在する様な認識になる。
    年号じゃないんだから、いきなり「じゃ日本名乗ります」ってならんよ。
    日本とは日の御旗の元に力合わせて外国に対抗する力を養うと言う事を根底に日ノ元、改め日本。

  1728. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/05(火) 16:45:29

    ※1727
    邪馬台国の九州説は前のスレで完全に論破されているぞ。

  1729. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/05(火) 19:26:42

    >1727
    >日本は邪馬台国より後発で、九州を含む統一を成し得た時に日ノ国として日本を名乗る事になる。

    そうじゃなくて、古墳時代も飛鳥時代も過ぎて天武・持統朝になって新しく作った国号が「日本」で、それまでは、雄略天皇の国も、仁徳天皇の国も、崇神天皇の国もずっと一貫して「倭国」だよ

    邪馬台国は倭国の中で、卑弥呼の都が置かれた地域の名称
    常識的に考えれば、邪馬台国=ヤマト国で何も問題はない

    卑弥呼の倭国を九州限定で考えると、魏志倭人伝の「其山有丹」だけで九州説は破綻する

  1730. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/09(土) 02:25:53

    日本の地形を考えてみれば、古代日本には複数の王朝が点在していたと見るのが普通
    その内のひとつが邪馬台国であり、またそのひとつがヤマト王権だったのですね
    邪馬台国=ヤマト王権と考えるのは何故ですか?

    名前が似ているだけですか?
    邪馬台国が魏に朝貢していたのに、ヤマト王権は魏に朝貢していた可能性は低いですね

  1731. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/11(月) 12:51:26

    邪馬台国≠ヤマト王権と考える理由が見当たらないから。
    ヤマト王権(初期)が奈良盆地の南部
    邪馬台国(纏向)も奈良盆地の南部
    とくれば普通に考えて同じやつだろ。

  1732. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/17(日) 13:51:55

    倭=倭国+別種
    倭国=女王国+狗奴国=九州
    女王国の都=邪馬台国

  1733. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/20(水) 20:01:19

    九州説のやつでも、九州の山門を比定地に考えたりしてるんだよな
    ならば、邪馬台国はヤマト国と読むのは、問題ないだろう

    で、その次に、各地にある「ヤマト(山門、山戸、大和など)」のうち、3世紀に「女王の都」があったと考えられるような遺跡の出るところを探せばいい

    というところで、畿内ヤマト(奈良盆地南東部)が一番条件に合う

    これだけの簡単な推論で、邪馬台国=大和国と判断できる訳だ

    もちろん確定はしないけれど、魏志倭人伝という文献から判断できるのはこの程度のことだ

  1734. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/23(土) 23:51:01

    これだけコメ伸びてるのに東鯷人の一つも出ないとは、レベル低いな
    遺伝子解析で、少数ながら多種の民族が渡来してきて、百国以上にも分かれた乱世だったのに、統一政権が続いてたわけないだろ常識的に考えて

    これだけ情報化された現代で、今だに倭と日本が同一とか情弱にも程がある

    そもそも、海洋民族の国だった古代日本では大陸のような国境はない
    点と線のポリス的国家だぞ
    収益も国土的に狩猟採集、漁猟や交易の割合が大きかった
    年イチで出雲に各国の王(神)が集まったのも、国境を境にした争いが無かったからだ
    九州が倭で本州が日本とかいう想像自体がナンセンス
    邪馬台国もポリス同士の連合体というのが実情
    考古学的見地からもとっくの昔に分かってることを何をいまさら

  1735. 名無しさん@腹筋崩壊 2017/12/25(月) 21:02:10

    >1734
    >百国以上にも分かれた乱世

    いつの時代の話だ?
    舊百餘國「漢時」有朝見者と魏志倭人伝に書いてあるように、これは漢の時代のことだぞ

    そして、「日本」という国号が作られるのは天武・持統朝の頃、7世紀頃の話だ
    この間の600年の間に、倭国は統一されているんだよ
    少なくとも倭王武、雄略天皇の頃にはね

    舊唐書に書かれている日本と倭は、好意的に見れば近江朝と飛鳥浄御原朝の間の政権交代を言うものだろう

    いずれにしても、日本の直前の倭国は統一王朝だよ

    >これだけコメ伸びてるのに東鯷人の一つも出ないとは、レベル低いな

    東鯷人の話も一つ前の記事の「邪馬台国畿内説と九州説まとめ」のコメント欄ではがっつり出てるよ
    こっちはそれほど盛り上がってない

    >邪馬台国もポリス同士の連合体というのが実情

    これは大筋合意だが、3世紀半ばの邪馬台国の頃には、それなりに広域の「国」段階に成長していたと思う
    でなければ、古墳の造営のような人手のかかるモニュメントは作れなかったはずだ

  1736. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/13(土) 20:50:09

    なんか一つ前の記事のコメント欄、書き込めなくなった?
    データ量的にあふれたかな?

  1737. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/13(土) 21:10:42

    >前記事7409
    ゴメンなぁ 7409に理解できない書き込みしちゃって
    これが違う意味に見えるのが凄えよ
    本当に分かってないんだな、7409は

    まあ、普通の暮らしをしてたらあまり使わない単語だろうけど、意味がよく分かってない単語なら使わないって選択肢もあるんだよ?

    趨勢は、行きつ戻りつしながらも全体の傾向として移動していく様子を指す言葉だ
    ばらつきのあるデータのグラフに傾向を示す線を入れたものが「趨勢曲線」で、年ごとにばらつきがあっても大学進学率が10年単位で見ると上がって行ってる様子などを「時代の趨勢」と言ったりする

    例えば「20代女性の結婚率は趨勢として低下している」みたいな使い方をするのに、これを「趨勢には「勢い」の意味があるんだ-」って言われると、「おいおい、いい加減にしてくれよ」と本当に思うよ

  1738. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/18(木) 23:13:09

    >その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
    それまで倭が従順だったのに急に国名変えて尊大な態度になったから別の勢力に乗っ取られたと疑ってるだけじゃないかなぁ
    当時は相手国の内情なんて正確に知りようがなかったんだから、もし相手国の態度が急に変ったら他勢力に侵略されたと考えても不思議じゃない

  1739. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/21(日) 17:02:41

    「九州王朝説批判」という、ウエブ上で読める論説(未完成)に以下の文章があります

    「則天武后の時代(684~704)に中国に遣使を送ったのは、長安2年(702年。史料によっては701又は703)の粟田真人の朝貢記事だけである。ということは、『唐会要』に記す「其國近日所出、故號日本國。」と自ら言った、というのはこの朝貢、即ち第6次遣唐使の時ではないかと思われる。そこで西暦702年前後の『続日本紀』の記事を調べてみると、慶雲元(704)年の7月条に次の記事がある。

    c  秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人、自唐國至。初至唐時、有人來問曰「何處使人?」答曰「日本國使。」我使反問曰「此是何州界?」答曰「是、大周楚州塩城縣界也。」更問「先是大唐、今稱大周。國號縁何改稱。」答曰「永淳二年、天皇太帝崩。皇太后登位、稱號聖神皇帝。國號大周。」問答畧了。唐人謂我使曰「亟聞海東有大倭國。謂之君子國。人民豐樂、禮義敦行。今看使人、儀容大浄、豈不信乎。」語畢而去。(續日本紀 慶雲元年七月条)
    (和訳) 秋7月1日に、正四位下の粟田朝臣真人が唐から太宰府に帰った。初め唐に着いた時、人がやってきて「どこからの使人か」と尋ねた。そこで「日本国の使者である」と答え、逆に「ここは何州の管内か」と問うと、答えて「ここは大周の楚州塩城県の地である」と答えた。真人が更に尋ねて「以前は唐であったのに、いま大周という国号にどうして変ったのか」というと、答えて「永淳2年に天皇太帝(唐の高宗)が崩御し、皇太后(高宗の后、則天武后)が即位し称号を聖神皇帝といい、国号を大周と改めた」と答えた。問答がほぼ終って、唐人がわが使者に言うには「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭国があり、君子国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今、使者をみると、身じまいも大変清らかである。本当に聞いていた通りである」と。言い終って唐人は去った。(講談社学術文庫『続日本紀』による)
     この冒頭部分で、真人一行は、まさに「日本国の使者だ」と名乗っている。そして問答が終ったあとの唐人の発言からわかることは、真人らが「日本から来た」と言っていながら、中国人は真人らを倭国からの使者だと認識していることである。これは省略された問答の間に真人らが「倭の一名は日本という」という情報も同時に提供したことを意味しているのではないだろうか。これこそ『通典』の“倭一名日夲、自云「國在日邊、故以爲稱」”の情報源に他ならないと言える。そこで改めてaをよく見れば、その情報を得た年次は、この記事の直後に「武太后長安二年」と明記されている。
     つまりaの「倭一名日夲」というのは、大和からの使者である真人らから得た情報の単なる受け売りだったのである。」
    ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

    要するに、旧唐書のタネ本である「通典」では、遣唐使の粟田真人(大和朝廷の人物)の言葉から「倭一名日夲」という情報がもたらされた、と考えてよいということらしい

    ブログ主さんが半端に九州説に寄せた文を書くから、九州説の立場の書き込みも多いけれど、専門家で九州説をとる人は事実上いないし、この畿内説vs九州説の邪馬台国論争は、本当は「畿内説が正解」でもう決着してるんですけどね

  1740. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/28(日) 08:38:21

    邪馬台国は九州で天皇家は畿内で、天皇家が征服して日本列島を統治したということが考古学的にも歴史学的にも分かりやすいですね

  1741. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/01/28(日) 12:33:50

    >1740
    ことだな君こっちに出張してたんかww

    九州だったらいいな説を主張するならこれに答えてね!
    答えられないってことは、九州だったらいいな説は成立の余地すらないってことだからな!
    答えずに逃げまくってるってことは、無理だって自分でも分かってるんだろww

    ・東遷説を採るのか採らないのか?
    ・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
    ・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
    ・九州王朝の存在を主張するのか?
    ・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

  1742. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/02/15(木) 10:29:14

    でも結局人の受け売りだよねw
    これって自分の都合が良い情報だけ切り貼りできるわけでw

  1743. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/02/18(日) 22:45:10

    >1742
    >これって自分の都合が良い情報だけ切り貼りできるわけでw

    「これ」って何を意味しているつもりだ?
    意味不明なこと書いてないで、答えなって
    ・東遷説を採るのか採らないのか?
    ・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
    ・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
    ・九州王朝の存在を主張するのか?
    ・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

  1744. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/05/20(日) 12:21:55

    伊勢神宮の鏡の命名には「咫」の具体的な長さは関係ないって何度も書いてるだろ?
    「八咫」は実際の大きさを示しているのではなく、 単に「大きい(多い)」という意味と捉えるのが通説

    類例
    八百万 八百八町 八百八橋 八尺瓊勾玉 八百屋 八千矛 八尋
    表す八を使った

  1745. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/05/20(日) 12:23:29

    日本書紀 巻第十四
    大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

    別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
    是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

    みたいなのを見ると「八咫鏡」っていうのは、(祭祀用?の)大きな鏡の普通名詞のようだね

    宮中と伊勢神宮に奉祭されている以外の「八咫鏡」は、天照大神とは関係ないし
    卑弥呼とも関係ないな

  1746. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/09/12(水) 13:15:45

    畿内説の人って「考古学アプローチ」って大義名分を全面に押し出してるけど、逆に言えばそこしか頼るところがないのかな?

    巨大宮殿の年代が一致しているから邪馬台国、巨大古墳の年代が一致しているから卑弥呼の墓、だから畿内。ってもう検証を放棄して決めつけてるだけにしか見えない。

    邪馬台国が畿内にない可能性はないにしても、三国志にも記紀にも「邪馬台国があった」なんて記述はどこにも書いてないわけだし、その辺を認めた上で論じたほうが賢いんじゃないだろうか?

    「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」と見立てる向きが幾つか見られるけど、巫覡的要素が一致しているだけで百襲姫が大陸と通じて朝貢したとする記録は日本の文献にはないわけで。さらに言えば邪馬台国と魏が関係した年代ならあって不思議じゃない鏡が副葬品に1つもなく、大陸産のもの自体がないことも「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」ならどう考えてもおかしいし。
    そして魏書の百余歩の記述を見れば、円墳かそれに似た墓であることは明白なのに箸墓古墳は前方後円墳ということも決定的な矛盾がある。

    纏向遺跡が邪馬台国であることも例に挙げられるけど、都市計画遺構があれど実際に住民がいた形跡は全くないし、魏書に見られるような環濠の作りも見られない。そしてこちらも大陸産の遺物が1つもないわけで。

    だからといって他にそれほど大規模な都市遺跡や古墳があるのかといえばないわけだけど、「最大のもの=邪馬台国」と考えるのもおかしくないだろうか?大陸や九州などの倭国が把握していなかっただけで邪馬台国ではない別勢力の可能性は十分あり得るわけで。

    ついでに「倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼」が仮にそうだとしても、もしもそうであったならそれはそれで何故歪曲して記紀に残したのかという謎もある。だとすれば何かの記録を消そうとした意図があるとしか思えない。邪馬台国と大和王権は別である可能性は十分に考えられる。

    そもそも、邪馬台国は未だ「どこにあったか」がわかっていないものなのに畿内説は最初から畿内にある前提で考古学的に見て~確定なのは明らか、と論じている節がある。
    魏書を素直に見れば畿内に邪馬台国がないことは明らかであり、記述に間違いがあったとしても畿内に邪馬台国をもっていくのは証拠が乏しく無理がありすぎる。

    自分は九州説の立場でもないが、畿内説の人は「九州説の奴は願望が前提に来ていて都合のいい部分だけ抜き出している」など侮辱することでマウントを取ろうとしているのは明らかであり、“願望が前提に来ていて都合のいい部分だけ抜き出している”のはご自分も全く同じで完全にブーメランが刺さっている。

  1747. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/10/09(火) 10:55:16

    阿蘇山って、その頃から阿蘇山って名称で呼ばれていたってこと?
    なんか不思議っすw

  1748. 名無しさん@腹筋崩壊 2018/11/16(金) 13:29:48

    今さらコメントするのもあれだけどさ、別物で滅ぼした説は無理があると思うんだが
    完全に別の国家だったらかなり大きな戦争があったはずだよね?大量の骨が出土したりしてもいいはずだし滅ぼしたなら戦争の爪痕くらい残っても良いと思うんだよ

    無知で悪いけどあくまでも連合みたいに関係性はちゃんとある国家で日本がそこを吸収しただけじゃないの?別に天皇の家系の否定にはならないと思うんだけど

  1749. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/05/04(土) 22:00:19

    ・東遷説を採るのか採らないのか?
    ・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
    ・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
    ・九州王朝の存在を主張するのか?
    ・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

  1750. 名無し 2019/06/05(水) 14:10:31

    中国大陸や朝鮮半島が、日本の歴史を語る上で気になる人々が多いが、日本人のDNAや古代遺産、出土品等々を調べてゆくと(古文書も含む)、そんなものはほぼ無関係な事実を目にする所となる。

    古代は中国も朝鮮も日本の王様が統治していた、れっきとした「日本国日本領土」
    もっともっと世界規模で地球を統治していた縄文系日本人たち。
    中国や朝鮮は日本の古代史から見れば「ずっとずっと後の世にできた未開の国」
    邪馬台国はエジプトにあった。この学説を唱える歴史学者の話が一番真実に近い。

  1751. 名無し 2019/06/05(水) 14:23:39

    北海道の地名は、あれはアイヌ語。沖縄の現地語も北海道に近い。
    伊勢神宮に収められている八咫鏡の裏に書いてある文字はヘブライ語「エフェ、アシェル、エフェ」
    意味は、我は有りて在るものなりだそうだ。天照大神はイエスキリストと言う学者もいる。

    日本語にはヘブライ語が多く混ざっている。今も知らずに誰でも使っているよ。
    ミカド・トリイ・ヤーレン・ソーラン・まだ沢山ある。お釈迦様はヨーロッパ系インド人だって知ってた?白人だった仏教の開祖。キリスト教の開祖は古代ユダヤ王族。物事を深く知ると、世界史が全く別物に見える。

  1752. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/06/05(水) 17:36:43

    1750
    和田喜八郎おつ

  1753. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/06/06(木) 12:33:43

    ※1750
    竹内文書とか読んでそう

  1754. 千葉研究松戸市八柱のイケメン神 2019/06/20(木) 10:04:08

    予言。このコメント数は2021年2月までに2,000超える。

  1755. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/03(水) 11:16:33

    >1746
    考古学アプローチが圧倒的に強いのは、文献史学者も認めてるところなんだけどなあ

    >三国志にも記紀にも「邪馬台国があった」なんて記述はどこにも書いてない
    神功皇后=卑弥呼って書いてるけど?

    >あって不思議じゃない鏡が副葬品に1つもなく、
    伝世してると考えればなくても不思議ではない

    >円墳かそれに似た墓であることは明白なのに箸墓古墳は前方後円墳ということも決定的な矛盾がある
    前方後円墳は成り立ちの過程から円墳に陸橋をつけたものということがわかってるので、円墳に似た墓の範疇には十分入る

    >都市計画遺構があれど実際に住民がいた形跡は全くないし、魏書に見られるような環濠の作りも見られない。
    すぐ近くにある唐古・鍵遺跡に住民も環濠もあるよ

    >そしてこちらも大陸産の遺物が1つもないわけで。
    纏向には計画的に一直線上に並べられている大型建物群があって、最新の大陸産技術文化とみられている

    >大陸や九州などの倭国が把握していなかっただけで邪馬台国ではない別勢力の可能性は十分あり得るわけで。
    それは遠い将来宇宙人の存在が確認される可能性もあるというのと同じで、まあそうなったら話聞くよ、でもそれまでは畿内でオッケー

    >魏書を素直に見れば畿内に邪馬台国がないことは明らか
    根拠は?

    >“願望が前提に来ていて都合のいい部分だけ抜き出している”のはご自分も全く同じで完全にブーメランが刺さっている
    抜き出されていない畿内説にとって都合の悪い部分って何?

    古代のことだから不正確だったりわからないことはたくさんある。そこは留保せざるを得ない。だからこそ畿内説もまだ完璧に立証されたかというと違う。でも客観的に出てる材料を見れば相対的に言っていまのところ圧倒的に優勢。九州説論者はそれを否定したり覆すために都合のいい部分だけ抜き出してるからバカにされるの。全然違うよ。

  1756. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/03(水) 21:59:16

    倭と日本が別々の王朝で倭が九州で日本が畿内で畿内の日本が九州の倭を征服したことが中国と日本の歴史書と考古学的アプローチが矛盾せず天皇家の歴史とも矛盾しないという結論がよく分かりました

  1757. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/05(金) 17:02:08

    あガガイのガイ

  1758. 名無し 2019/07/06(土) 14:02:14

    九州邪馬台国から分派したのが畿内日本王朝で、後に日本王朝が統一したのかな。ルーツは同じだと。

  1759. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/07(日) 10:27:03

    ※1755
    >魏書を素直に見れば畿内に邪馬台国がないことは明らか
    根拠は?

    民俗・風俗が海洋民ものである事。(奈良に海は無い)
    民俗・風俗が南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されている

    「魏志倭人伝」の記述は北九州の小国を詳細に紹介する一方、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然

  1760. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/08(月) 12:14:33

    >>1755

    >神功皇后=卑弥呼って書いてるけど?

    神功皇后摂政66年には卑弥呼は死去している。
    神宮皇后が卑弥呼なら臺與は誰なのか?

    >大陸や九州などの倭国が把握していなかっただけで邪馬台国ではない別勢力の可能性は十分あり得る

    後漢書東夷伝倭条によれば、「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種と言えども女王に属さず。」とある

    >魏書を素直に見れば畿内に邪馬台国がないことは明らかの根拠は?

    以下の点で明らかとまでは言わないが不自然な点があるのは確か

    畿内には刺青の風習がない(元々ないor3世紀には廃れていた?)

    北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然

    >1746じゃないけど、反証するならこんな感じですかね

  1761. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/12(金) 12:37:55

    ※1755では無いですが畿内論者として反論させてもらいますね^^

    >神功皇后摂政66年には卑弥呼は死去している。
    神宮皇后が卑弥呼なら臺與は誰なのか?

    これは※1746の『邪馬台国が畿内にない可能性はないにしても、三国志にも記紀にも「邪馬台国があった」なんて記述はどこにも書いてないわけだ』に対する反論ですよ?
    日本書紀神功皇后条にある倭女王による遣使の記述から大和朝廷が神功皇后=邪馬台国の女王と認識しているのは分かると思います
    歴史的な正しさは別として※1746の主張が間違えてるのは分かりますか?あと魏書は三国志に含まれるのでその点も間違えていますね

    >後漢書東夷伝倭条によれば、「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種と言えども女王に属さず。」とある

    つまり本州は東方の倭種にあたると主張したい訳ですか?
    関門海峡から目と鼻の先にある本州を指して渡海千餘里と表現する事は難しいと思いますけど

    >畿内には刺青の風習がない(元々ないor3世紀には廃れていた?)

    その根拠って古事記中巻神武天皇5の「見其大久米命黥利目而 思奇歌曰 阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米」ですよね?
    神武天皇代は邪馬台国時代=崇神天皇代から数代前に当たるので百数十年前の出来事ですよ?勘違いをしていませんか?
    東遷した神武天皇らによって3世紀頃までに黥面の風習が広まったと考えれば問題ないと思います

    >北九州の小国を詳細に紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西に存在したはずの吉備国や出雲国の仔細には全く触れられておらず、近畿圏まで含む道程の記述とみなすのは不自然

    伊都国についての記述で「郡使往来常所駐」とありますね、帯方郡使が往来・常駐している伊都国までの記述が詳しくても当然だと思います
    実際、北部九州に比定されているが伊都国以遠の不弥国の記述は極めて簡素です
    投馬国については水行二十日という道程、地名的、考古学的にも古代出雲が有力だと考えています
    吉備国については日本海航路での移動とすれば出てこなくても問題ないと考えています

  1762. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/13(土) 09:25:04

    ※1760

    >日本書紀神功皇后条にある倭女王による遣使の記述から大和朝廷が神功皇后=邪馬台国の女王と認識している

    それはヤマト王権側の見解であって、魏や晋が神功皇后=卑弥呼と認識している訳ではない

    >関門海峡から目と鼻の先にある本州を指して渡海千餘里と表現する事は難しいと思いますけど

    これは狗奴国の位置を記した文章ですので、九州東岸から瀬戸内海を越え大阪湾辺りを想定すれば500km程度となり、そんなにおかしな記述ではないと思います

    >東遷した神武天皇らによって3世紀頃までに黥面の風習が広まったと考えれば問題ないと思います

    日本書紀には刑罰としての刺青の記述しかないので、魏書の「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」に対しての根拠としてはやや弱いと思いますが?

    >吉備国については日本海航路での移動とすれば出てこなくても問題ないと考えています

    投馬国を出雲と比定した上で日本海航路を進んだとしても、当時畿内と関わりの深い吉備国への記述がないのは不自然ではないだろうか

  1763. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/13(土) 10:47:43

    ※1761
    >それはヤマト王権側の見解であって、魏や晋が神功皇后=卑弥呼と認識している訳ではない

    あなたが「ヤマト王権が神功皇后=邪馬台国の女王と認識していた」と認めてくれればそれで結構です
    ※1746の『邪馬台国が畿内にない可能性はないにしても、三国志にも記紀にも「邪馬台国があった」なんて記述はどこにも書いてないわけだ』がデタラメな発言だと第三者にも判断された訳ですからね

    >これは狗奴国の位置を記した文章ですので、九州東岸から瀬戸内海を越え大阪湾辺りを想定しすれば500km程度となり、そんなにおかしな記述ではないと思います

    瀬戸内航路を採るなら山陽、四国を無視するのおかしいですよね?山陽にはヤマトと繋がりの深い吉備国、四国にも邪馬台国代の丹鉱山である若杉山遺跡があるのに
    それに大阪周辺を狗奴国に想定するなら邪馬台国や投馬国をどこに比定しているのですかご教示下さい

    >日本書紀には刑罰としての刺青の記述しかないので、魏書の「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」に対しての根拠としてはやや弱いと思いますが?

    男子『皆』黥面文身していた倭人側がわざわざ記録に残す方がおかしいですよね?なぜなら彼らにとって黥面文身が日常なんですから
    また「文身以其文左右大小別尊之差」とあるよに同じ刺青でも尊卑があると明記してあるので当然刑罰としての刺青の文様があっても問題ないと思いますよ

    >投馬国を出雲と比定した上で日本海航路を進んだとしても、当時畿内と関わりの深い吉備国への記述がないのは不自然ではないだろうか

    魏志倭人伝において官名、戸数が書いてある国は狗奴国を除き全て邪馬台国までのルート上にあると分かっていますか?繋がりが深さが記載されるか否かとはあまり関係ありません

  1764. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/13(土) 15:09:22

    畿内には刺青が無いのだから魏志倭人伝の倭国の倭人では無いぞ

  1765. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/13(土) 15:42:13

    ※1763
    2〜3世紀の畿内周辺において刺青が『無かった』ことの根拠を提示して下さい

  1766. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/14(日) 10:32:06

    ※1762
    神功皇后=卑弥呼の件はあくまでヤマト側の主張だと認識してもらえればそれでいいです。

    >瀬戸内航路を採るなら山陽、四国を無視するのおかしいですよね?

    あくまで邪馬台国に敵対している狗奴国の記述ですから山陽、四国が出てこなくても不自然ではないと思います。

    >大阪周辺を狗奴国に想定するなら邪馬台国や投馬国をどこに比定しているのですか

    邪馬台国は陳寿の「計其道里当在会稽東治之東」を参考に鹿児島全域~高千穂周辺までと考えます
    そこから水行10日陸行1ケ月の距離に当てはめると熊本平野を想定しています

    >男子『皆』黥面文身していた倭人側がわざわざ記録に残す方がおかしいですよね?

    神武東征の時に刺青をしているのが珍しいと歌にまでしているのに、その後刺青の風習が広まったとは記されていない一方で、蝦夷や刑罰として刺青の記述は出て来るのでやはり一般的だったとは言えないと考えます

  1767. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/07/16(火) 12:25:48

    長文過ぎて投稿出来なかったようなので分割して投稿します

    ※1765
    >神功皇后=卑弥呼の件はあくまでヤマト側の主張だと認識してもらえればそれでいいです。

    私も※1755も最初からずーっとそう言ってます、あなたが勝手に条件を追加し一人で騒いでいただけです
    そしてあなたは『ヤマト王権が皇祖である神功皇后=邪馬台国の女王卑弥呼であると認識していた』と認めた訳ですよね?ならもうこの論争はほぼ結審したと思うですけどまだ抗弁しますか?

    >邪馬台国に敵対している狗奴国の記述ですから山陽、四国が出てこなくても不自然ではないと思います。

    畿内説の「日本海航路での移動だから吉備國が無掲載でも問題無い」という主張に「畿内と繋がりのある吉備國が無いのは不自然だ」と反論したのに、九州説を主張する際は「山陽、四国が出てこなくても不自然ではないと思います」はダブルスタンダードだと思わないのですか?その地域には北部九州と繋がりのある国々が在るんですよ
    特に吉備國は弥生時代から一貫して畿内や出雲そして北部九州と密接に交流しているんですがそれらの国々は当然狗奴国連合に加えて良いんですよね?北部九州なんて最大都市である奴國の中枢部、一大率が置かれ九州諸国を検察していた伊都國、邪馬台国時代に国内最大級の国際貿易港があった西新町遺跡、これらの場所にも多くの畿内人が入り込んでいるのですから
    3世紀頃の畿内勢力を狗奴国に比定するってそう言う事なんですよ、だからここの九州論者達は不弥国以降の比定地については論点そらしてはぐらかしたり無視しているんです

  1768. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/10/05(土) 21:14:57

    刺青をしていなかった畿内人は魏志倭人伝の倭人ではないよ

  1769. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/10/25(金) 10:13:43

    というか機内を主張してる人も九州を主張してる人も教科書レベルの内容にきちんと抑えて発言してる人以外はガバガバすぎて議論になってない。
    これじゃ延々と同じ内容をループするだけだから止めといたほうがいいかと。
    そもそも管理人は専門家じゃないし上記の内容もまともに読めば5chで書かれてるような
    ガバガバ具合だしな。
    ただ、管理人の話はあくまで都市伝説みたいな感じでロマンを楽しむものだから
    ネットで聞きかじったような真実をあーだこーだと素人が言い合うのはどうかと思うな。
    どうしても議論したいならネット引用ではなく
    きちんとした研究者が書いた論文を根拠として主張するか(きちんと引用元も追記して)
    自分の考えを主張したいならまとめサイトで書き連ねるのではなく
    論文をかいてきちんとしたサイトに提出しろよと思う(今はネットでも出せるしな)。

  1770. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/10/25(金) 20:25:13

    前記事

    畿内派「これが畿内根拠の論文です」

    九州派「その論文は信用出来ない、みんなそう言ってる。PNASをチェックしてる人間には常識」

    畿内派「PNASを全文読めるアカウント持ってるから論文タイトル書いて」

    九州派「・・・」

    畿内派「検証したいからソースを教えて?」

    九州派「・・・」

  1771. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/10/26(土) 05:02:51

    畿内に九州の邪馬台国とは別の天皇家の勢力があったことは文献とも出土物とも全く矛盾しないね

  1772. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/10/28(月) 20:19:24

    論文、なし!w

  1773. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/10(火) 23:06:47

    1768
    ガバガバなのは九州だけな
    畿内のどこがガバガバなのか言えよハゲ
    それこそお前が勝手に言ってるだけじゃボケ

  1774. 名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/26(木) 09:48:46

    米欄伸びすぎーーーっ

  1775. 単立中央集権型じゃないと何が都合悪いのだろう 2020/01/29(水) 06:39:16

    このテーマでどっちかに絞ることに固執する人っていますが、
    2国並立、多国並立、もしくは大幅な自治を認めた連邦、って捉え方が非常にしっくりきます。
    なぜ単立中央集権型に拘るのかわからない。
    たけのこ、きのこのような下らないプロレスじゃなくってもっと真面目な「真理」についての話なのだから。どっちかがこじつけてでも無理やりにでも勝たないといけないという朝鮮人のような話じゃないと思う。

  1776. 朝鮮どものこだわり 2020/01/29(水) 06:47:43

    朝鮮の教科書を見ると奴らの理想が書いてあります。詳しい人は、自分のブログなどで紹介していただくと助かる。あの連中は異様にこだわる日本史テーマがあって、農耕・コメ伝来なんかもそうですね。
    生物学で中国南部伝来! ってほぼ確定なのに、半島から伝わった事にしたい。倭人は野蛮人で奴らが指導した、ということにしたいんでしょう。邪馬台国にも何か奴らのツボを刺激する部分があるのかな? 真実ベースじゃなくて全部願望、その割には巧妙な語り口で洗脳を試みてきて、本当に気味が悪い奴ら。

  1777. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/29(水) 10:29:00

    ※1774
    >> 2国並立、多国並立、もしくは大幅な自治を認めた連邦

    ではあなたの考える邪馬台国の候補地を教えて下さい

    >> なぜ単立中央集権型に拘るのかわからない

    一大率や卑奴母離(夷守)の存在から遠方に対する支配体制や防衛体制が確立されていることが分かるからですよ

    ※1775
    その理屈なら朝鮮半島から近い北部九州に邪馬台国があったと主張する九州論者は朝鮮人って事ですか?

  1778. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/30(木) 02:47:33

    ※1776
    朝鮮半島南部は倭人の領域やで

  1779. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/30(木) 20:09:02

    ・九州島の国(港)と本州の国(港)の距離は千里
    ・卑弥呼の時代の倭国人は通訳なしで魏人と話している
    ・古代の日本人は中国語で上奏していた
    ・中国人は琵琶湖を淡水の湖と認識して歴史書に書いている
    ・中村俊夫の論文はPNASの論文で否定されている
    ・九州説での邪馬台国と投馬国の候補地
    ・隋書倭国伝「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈
    ・北史倭国伝「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈

    宿題から逃げるな

  1780. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/31(金) 08:07:21

    前の記事でボコボコに論破されてこっちに逃げて来たかw
    PNASだけでも早く出せよ

  1781. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/31(金) 08:08:41

    九州説「これが証拠のPNAS論文じゃぁ(一年経っても提出しない)」
    九州説「うちにはこんな証拠もあるぞ(捏造した発掘調査報告書)」
    九州説「畿内の比定地には問題点がある(九州の問題点については無視)」

    九州説ってレベル低いなぁw

  1782. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/31(金) 12:42:38

    ※1775
    九州ガイジが時々発症する集中砲火病も、朝鮮民族特有の精神疾患である火病とすれば納得がいくね

  1783. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/01/31(金) 23:52:32

    1778-81
    「朝鮮民族特有の精神疾患である火病とすれば納得がいく」
    見本をありがとうやんな!

  1784. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/02/01(土) 07:49:33

    ※1782
    九州説さん、宿題が溜まってますよ

    >> 2国並立、多国並立

    これらの具体的な候補地の提示と

    >>もしくは大幅な自治を認めた連邦

    「どこの勢力」が「どこの勢力」に対して自治を認めたのかを根拠を付けて提示して下さい

    もちろん1778氏の指摘事項にも回答して下さい

  1785. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/02/01(土) 12:27:29

    九州ガイジ「2国並立、多国並立、もしくは大幅な自治を認めた連邦、って捉え方が非常にしっくりきます。」
     ↓
    具体的な比定地を1つも出せないのにw

    九州ガイジ「真実ベースじゃなくて全部願望、その割には巧妙な語り口で洗脳を試みてきて、本当に気味が悪い奴ら。」
     ↓
    九◯説の都合に良いように論文の捏造や報告書の改竄をする、◯州論者の事ですね!
    最近は日本書紀を盗作扱いしたり、隋書や北史を無視したりとやりたい放題ですもんねw

  1786. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/06/06(土) 11:08:56

    九州説が論破された時に現れる1769とか1775みたいな奴って「畿内説圧倒的有利」の現実を認めたくないから、どっちもどっち論に持ち込んで相対的に畿内説を下げようとしてるだけなんだよね

  1787. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/06(木) 15:47:52

    やたら長いコメントがじゃま

    たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない

  1788. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/06(木) 22:17:42

    >やたら長いコメントがじゃま
    >たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない

    あなたの【読解力の低さ】と【思考の放棄】をわざわざ書き込む理由は何ですか?

  1789. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/10(月) 15:26:40

    ・理化学
    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    ・考古学
    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    ・文部科学省検定済教科書
    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    畿内説の根拠は「たかがコメント欄のご高説」じゃないけどね。九州説と違って

  1790. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/11(火) 11:03:35

    ※1789
    まとめブログのコメント欄すら苦痛の1787様に論文や教科書なんてイジメやぞ

  1791. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/11(火) 22:44:30

    大明混一図1389とか混一疆理歴代国都之図1402とかを見ればわかる
    チャイナ側から見た日本に位置の認識は、今の世界地図とは違う
    当時今の日本列島を時計回りに90度回転している

    これだけでも九州説はありえない

  1792. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/12(水) 18:53:43

    記事内では簡潔に書いていますが新唐書以降は

    「日本=倭(奴)国」の見解で統一されています

    国号を変更した理由も

    「悪しき旧名から、日の出の方向より日本と改名した」と書かれています

    九州説の人は旧唐書にしか記述の無い「日本國者,倭國之別種也」の一文に執着し過ぎな印象を受けます

  1793. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 00:31:48

    おおやまと(のちの日本)は倭国(最後の代表国は邪馬台国)を滅ぼして列島を統一したけど金印を貰えなかったことが全てを物語っている

  1794. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 11:07:01

    ※1793
    中国の史書を確認すると「日本=倭(奴)国」、「悪しき旧名から、日の出の方向より日本と改名した」と書かれています

    ・通典巻百八十五「倭一名日本,自云國在日邊 故以為稱」

    ・舊唐書日本伝「以其國在日邊故以日本爲名,或曰倭國自惡其名不雅改爲日本,或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝「日本,古倭奴也」「惡倭名,更號日本」

    ・宋史日本伝「日本國者,本倭奴國也,自以其國近日所出,故以日本爲名,或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝「日本國在東海之東,古稱倭奴國 或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也」

    ・明史日本伝「日本,古倭奴國,唐咸亨初改日本,以近東海日出而名也」

    倭国を日本国が攻め滅ぼしたのはいつ頃と仮定していますか?

  1795. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 12:43:20

    1793
    ヤマトも邪馬台国も奈良で考古学的には侵略を受けた形跡はなく、
    前方後円墳の広かりから見て順調に全国を統合していった様子しか見えない。

    中国の歴史書にもヤマト朝廷=邪馬台国とある。

  1796. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 13:33:43

    > 全てを物語っている

    最後まで具体的に語って欲しい
    曖昧にして逃げ道作っている様にしか見えない

  1797. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 14:38:32

    1795
    倭国大乱の跡がないなら倭国やないやん

  1798. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 14:41:07

    前方後円墳が大和朝廷の広がりだから4世紀以降に九州北部に広がっているために天皇家と倭国は関係ないんだよなぁ

  1799. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 14:49:16

    倭国の奴国王 金印あり
    倭国の邪馬台国の女王 金印あり
    日本の大和朝廷の天皇 金印なし
    繋がりないやんけ
    なんで領土増えて格下になっとんねん
    朝鮮半島南部と九州北部の連合政権で九州の南部と戦争中で海を渡った先も領土でないのに日本列島を丸ごと支配して三韓も征伐した大和朝廷が倭国の格下扱いやねん
    全然継承してないやん

  1800. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 15:38:19

    ※1797
    「なかった」ことを根拠にするなら、北部九州でも無くなります
    倭国大乱の規模・場所が不詳な以上、論拠とするには限界があります

    ※1798
    奴国の近くにある那珂八幡古墳は3世紀です
    また宋書や梁書の記述から、卑弥呼ー(男王)ー台与ー男王ーの系統が確認できるので、王朝が4世紀以降にも跨がる可能性もありますね

    ※1799
    倭王珍「安東将軍 倭国王」
    倭王済「安東将軍 倭國王」及「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」
    倭王興「安東将軍 倭国王」
    倭王武「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」

    全然格下では無いです
    むしろ格上です

  1801. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 15:51:10

    那珂八幡古墳は面白いね
    邪馬台国は卑弥呼の後は男王、台与で終わっているね
    那珂八幡古墳が作られた時期は台与が死んだ後になるね
    卑弥呼の時代はまだ九州北部には前方後円墳を作る影響力がなかったんだね

  1802. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 15:53:03

    1800
    那珂八幡古墳は仲哀天皇が奴国と伊都国を征服した時やないか?

  1803. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 15:53:56

    ※1800
    そんで金印はどうなったんや?

  1804. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 15:57:38

    天皇の将軍号は高句麗王・百済王と比較して常に格下だった

    朝鮮半島に朝鮮人の国がない時には金印だったのにこの凋落ぶりよ

  1805. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:05:15

    臣下の平西将軍と国王の安東将軍が同じ第三品で、品内でも1階しか違わないってめっちゃ舐められとるやん

  1806. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:15:54

    安東将軍は低い
    後継者なら親魏倭王の金印を持ち出して抗議しなかったのか?
    当時の東アジア世界なら外交的敗北だろ

  1807. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:26:01

    ※1801
    終わってませんよ
    台与の後に男王が立ち、晋、宋、齊、梁の時代にも朝貢を絶やさなかったとあるので、4世紀にも存続していたと考えるべきでしょう

    梁唐「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王。,並受中國爵命。」

    北史「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    北史のこの記述、凄く重要な気がしますね

    ※1802
    前の記事で否定されたのにまだ言うんだ
    奴国(筑紫訶志比宮)も伊都国(筑紫國之伊斗村)も大和朝廷側だ

    ※1803、1804
    金印紫綬については書いて無いな
    でも王号は明らかに親魏倭王より格上だね

    ※1805
    倭国邪馬台国連合は共立によって成立してますね
    絶対的な中央集権体制では無いのでむしろ当然かと

    ※1806
    その自覚があったからこそ「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」なんて大そうな号を欲したのでしょう

  1808. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:34:31

    北史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    九州派はどう解釈します?
    書き下し文にしてみて下さい

  1809. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:43:28

    金印を受け継いでないんだから別勢力やで

  1810. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:44:07

    畿内説は金印からは逃げるしかないからな

  1811. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:48:59

    また思考停止してるよ

  1812. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:50:49

    同じようなコメントを連投する悪癖も相変わらずやね

  1813. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:55:21

    せめて二品を要求すりゃ良いのに

  1814. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:57:08

    1811〜12
    また思考停止してるよ
    同じようなコメントを連投する悪癖も相変わらずやね

  1815. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 16:59:04

    同一政権だとしたら格下げ食らった理由は何?

  1816. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 17:05:12

    邪馬台国は倭国を武力で征服してないけれど大和朝廷は四道将軍やヤマトタケルや仲哀天皇や神功皇后が思いっきり武力征服しているね
    倭国は各地に国王がいるけど大和朝廷は天皇のみで各地に国王はいないね

  1817. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 17:30:33

    ※1809
    その受け継ぐとは「皇帝からの除正」ですか?
    それとも「倭王家内で代々」ですか?

    ※1810
    親魏倭王印の有無で判断するなら九州も畿内も成り立ちませんね
    しかしそれ以外の考古学理化学歴史学から考察する事は可能です

    ※1813
    共立政権内で格差があり過ぎるのは問題だと考えたのでしょう

    ※1814
    今度はオウム返しですか‥

    ※1815
    中国本土と朝鮮半島諸国間の絡みでしょう

    ※1816
    それらイベントを全て邪馬台国時代に押し込めるから混乱するんです

    > 倭国は各地に国王がいるけど大和朝廷は天皇のみで各地に国王はいないね

    伊都国以外にも王がいるのですか?

    あと連投する前に、これを早く書き下してみて下さい

    北史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」
    梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

  1818. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 17:49:09

    記紀に金印は出てこないから天皇家が金印を授かったことはない

  1819. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 17:59:22

    倭国から日本への政権交代が認められずこの後冊封体制から独立したんやな
    金印から第三品かつ朝鮮の下への転落なんて認められんよな
    下賜品にも差が出るし毎回使者が朝鮮の後塵を拝するなんて嫌やろ
    朝貢が途絶えたのは倭の五王への官品の低さが原因やろな

  1820. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:05:54

    いつになったら北史や梁史の記述について回答してくれるのかな‥

    ※1818
    記紀しか見ないからそういった見解に陥るのです

    他の史書や考古学理化学成果も参考にして下さい

    ※1819
    妄想乙としか‥
    現実はこうです

    ・後漢書 「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝  「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝  「居於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・南史倭国伝  「倭國 其先所出及所在 事詳『北史』」

    ・通典巻185  「其王理邪馬臺國 或云邪摩堆」「倭一名日本 自云國在日邊 故以為稱」

    ・舊唐書日本伝 「日本國者倭國之別種也 以其國在日邊故以日本爲名 或曰倭國自惡其名不雅改
    爲日本 或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝 「日本 古倭奴也」

    ・宋史日本伝  「日本國者 本倭奴國也 自以其國近日所出 故以日本爲名 或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝  「日本國在東海之東 古稱倭奴國 或云惡其舊名 故改名日本 以其國近日所出也」

    ・明史日本伝  「日本 古倭奴國 唐咸亨初改日本 以近東海日出而名也」

  1821. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:26:54

    都合の悪い指摘は無視すればいいんだから九州説は楽だよな

  1822. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:37:31

    1821
    倭の五王に金印が授与されなかったことは無視ってこと
    それって倭国と日本の繋がりの否定だよね

  1823. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:41:15

    ※1822
    『金印』だけで判断すればね

  1824. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:42:53

    前例大好きな中華王朝は天皇家が倭国の正統な後継者なら倭の五王にも金印を与えるやで

  1825. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:48:32

    金印紫綬が倭王号除正の絶対条件なんですか??

  1826. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 19:59:24

    其南有侏儒国人長三四尺又南黒齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至又西南萬里有海人身黒眼白裸而醜其肉羙行者或射而食之

    梁書倭伝によれば中国人は南西諸島の人達を食べていたようです。
    肉が美味しいと書かれています。
    この頃には南周りの航路も整備されていたようですね。

  1827. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:07:50

    1824
    それも君の妄想やん

  1828. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:09:00

    卑弥呼と倭の五王が同じ王朝なら倭の五王に金印が出ないのはおかしいねって話

  1829. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:11:44

    畿内説だと倭の五王に金印紫綬がないことの説明がつかんのやな

  1830. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:20:00

    後漢「倭国の奴国王に金印を与える」
    魏「倭国の邪馬台国女王に金印を与える」
    北朝「天皇家に第三品の将軍職を与える」
    隋「日出ずる国だと?」

    それぞれ倭王だけど天皇家だけ扱いが違うよね

  1831. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:21:26

    倭の五王にも金印があったら今とは違った歴史になったかもね

  1832. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:21:56

    ※1828、1829
    北史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」
    梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    君の願望ではなく中華王朝の正史の記述を確認して下さい
    もし漢文が読めないならそう言って下さい

  1833. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:40:07

    高句麗王・百済王・倭王の場合は「征東・鎮東・安東」など中国の視点の将軍号であるが、倭隋の場合は「平西」という倭の視点の将軍号になる点についても注目される、何故なら倭の五王の臣下が九州北部を征服した証拠となるからだ

  1834. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:42:46

    ※1823
    金印の大事さが分かった気がする
    奴国から邪馬台国までの倭国王達が必死に朝貢した理由が理解できた
    ありがとう

  1835. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:46:55

    卑弥呼は共立ゆえに基盤がもろかったから使節を派遣して金印が必要だったんだね
    倭国を武力で制圧して三韓も征伐した天皇家にとって百済の支配さえ認められれば金印なんていらなかったんだね
    結局百済の支配は認められなくて失敗したことが中国から離れるきっかけになったんだね

  1836. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:49:44

    倭国の奴国王と邪馬台国王に金印があるのに倭の五王に金印がないのは何故?

  1837. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 20:56:41

    天皇家は倭国を滅ぼす時に金印を見つけられなかったという説は聞いたことがある
    天皇家が朝貢を求めた時に前王朝の金印を返せなかったことで正当性に疑問を持たれたらしくその後扱いが低かったらしい

  1838. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 21:06:47

    ※1833
    > 何故なら倭の五王の臣下が九州北部を征服した証拠となるからだ

    否定はしませんが、これはあなたの願望ですよね?
    ※1834
    奴国王が倭国王?

    ※1835
    >倭国を武力で制圧

    これは何世紀頃を想定してます?そこが肝心なんです

    ※1836
    分かりません

  1839. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 21:13:17

    まとめてコメントを出して下さい
    反論するのが大変なんですよ

    ※1837
    ソースを出して下さい

    そのままではただの願望妄想の域を出ません

  1840. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 21:27:52

    志賀島の金印も倭国大乱で隠したのがそのまま残ったとされているからな

  1841. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 21:29:13

    畿内説の立場に立った倭の五王が金印を下賜されなかった論文とかないの?

  1842. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/15(土) 22:24:56

    え?畿内説だとしたら都も変わらない、王朝も変わらない、戦乱も無いのに金印だけ行方不明?ヤバない?

  1843. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 09:40:28

    ※1840
    同感ですね
    畿内邪馬台国が筑紫奴国を併合した際に隠したのでしょう

    ※1841
    少なくとも私は知りません
    中華王朝が「卑弥呼と倭の五王は同一王朝」と認識していた事は、梁書や北史から明白なのでわざわざ論文を書かないのでしょう

    ※1842
    > 都も変わらない
    > 戦乱も無い

    遷都も戦乱も何度も起きてますけど‥

    > 金印だけ行方不明

    『そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。
    卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い』 
    (『はんこ(ものと人間の文化史)』 久米雅雄)

    親魏倭王印が無いのはこの辺りの理由かと
    まあ断定はしません

  1844. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 10:40:11

    台与迄が金印のある倭国で倭の五王からが金印のない天皇家の日本との認識だったのですね

  1845. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 10:43:41

    >その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例

    台与が天皇家に連なるなら倭の五王に金印ないのはおかしいんやな

  1846. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 10:53:15

    畿内説は卑弥呼が天皇家でないと成り立たんからな
    本当の天皇家が卑弥呼とその一族で、その後簒奪されたって説もあるんやで

  1847. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 12:30:29

    漢文読めますか?(2回目)

    北史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」
    梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    九州説さんの妄想願望はもう十分ですわ

  1848. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 13:24:11

    倭の五王は金印も無いし高句麗と百済の下なんやね

  1849. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 13:35:39

    畿内説にとって金印は都合が悪いんやから無視に限るで

  1850. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:04:41

    ・千里の距離がある九州島の国(港)と本州の国(港)の候補地
    ・卑弥呼時代の倭国人が通訳なしで魏人と話していた根拠
    ・中国人が琵琶湖を淡水の湖と認識して歴史書に書いた例
    ・中村俊夫の研究成果を否定したPNASの論文
    ・九州説での邪馬台国と投馬国の候補地
    ・隋書倭国伝「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈
    ・北史倭国伝「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈
    ・橿原考古学研究所の九州本

    宿題まだ?

  1851. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:09:09

    >>1849
    実際は反論されまくってるけどアンチ畿内説にとって都合が悪いんやから無視に限るで

  1852. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:15:13

    金印の話は畿内説に不利だから禁止するやで

  1853. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:16:47

    反論できないと分かったら金印から話題を逸らす畿内説渾身のファインプレー

  1854. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:29:31

    >>1851
    記紀に金印が書かれていない理由は?

  1855. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 15:32:37

    日本は倭の別種だったんやから金印要らんやろ

  1856. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 16:40:55

    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    「そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い」(『はんこ ものと人間の文化史』久米雅雄 二〇一六年)

    「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(隋書倭国伝)
    「居於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(北史倭国伝)
    「其王理邪馬臺國 或云邪摩堆」(通典巻一百八十五)

  1857. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 16:42:58

    1852-1855
    たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない(1787)らしいから金印の件が他の根拠を覆すほど致命的だとする論文とか出してくれませんか?

  1858. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 17:18:08

    話題そらしが活発になってきたね

  1859. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 17:20:05

    マジで金印から話題を逸らすやん

  1860. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 17:25:21

    金印があった倭国と金印のない倭の五王という認識でええやろ
    明確に冊封体制下では別勢力との認識やろ

  1861. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 17:31:19

    畿内説では当然卑弥呼の子孫なのに金印が下賜されない倭の五王
    征服地域は増えたのに倭国の後継者扱いされないのは何故

  1862. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 20:54:33

    1858-1861
    たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない(1787)らしいから金印の件が他の根拠を覆すほど致命的だとする論文とか出してくれませんか?

    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    「そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い」(『はんこ ものと人間の文化史』久米雅雄 二〇一六年)

    「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(隋書倭国伝)
    「居於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(北史倭国伝)
    「其王理邪馬臺國 或云邪摩堆」(通典巻一百八十五)

  1863. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 21:15:23

    親魏倭王の金印は九州からも四国からも見つかっていないので
    畿内説と同じ程度には九州説にも四国説にも不利に働きますね

  1864. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 22:52:33

    金印問題は天皇家の倭の五王に金印が下賜されず九州に存在した倭国の正統な後継者と認められなかったのは何故かということ

  1865. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 22:54:21

    記紀に金印の記述がないんやから卑弥呼の邪馬台国は天皇家と関係あらへんよ

  1866. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/16(日) 23:02:34

    「そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い」(『はんこ ものと人間の文化史』久米雅雄 二〇一六年)

    “そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例”

    結局台与は西晋の金印持ってて倭の五王も当然金印がそれぞれの王朝から与えられるよな
    そうじゃないということは倭の五王は台与とは何の繋がりもない政権ということになるよな

  1867. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/17(月) 19:24:08

    ※1864,1865,1866

    漢 文 読 め ま す か ?(3回目)

    北史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」
    梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

  1868. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/17(月) 19:25:44

    「無知でい続けること」「知らないでい続けること」「理解をしようとしないこと」を武器にするのはもうやめにしませんか。

  1869. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/17(月) 23:30:42

    玉印の次の金印の国王
    第三品で朝鮮より下の将軍職
    繋がらないわな

  1870. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/17(月) 23:36:54

    倭の五王の時代の中国は北朝と南朝に分かれて争ってたんやろ
    むしろ金印を与えて前例に従って自分達の正しさをアピールするチャンスやん
    曹魏は後漢の後継アピールと他国への朝貢国の数自慢に倭国を使ったんやからね

  1871. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 00:15:48

    たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない(1787)らしいから金印の件が他の根拠を覆すほど致命的だとする論文とか出してくれませんか?

    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    「そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い」(『はんこ ものと人間の文化史』久米雅雄 二〇一六年)

    「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(隋書倭国伝)
    「居於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(北史倭国伝)
    「其王理邪馬臺國 或云邪摩堆」(通典巻一百八十五)

  1872. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 07:42:34

    九州派さんの儚い願望も、正史の前では妄想でしかないんだよなぁ
     
    『北史/巻九十四/列傳第八十二/四夷/倭』

    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    >正始年間に卑弥呼が死し、新たに男王が立った。

    >これに国中が不服で、誅殺が起きたので、卑弥呼の宗女である台与をまた王として立てた。

    >その後また男王が立ち、(台与と)同じく中国から爵命を受けた。

    >江左(南京)を都とした晉、宋、齊、梁への朝聘を代々絶やさなかった。

    ーーー

    『其後』や『並』の記述から、中国王朝は卑弥呼・台与と後継の男王政権が同一と認識していたのは理解できますか?
    晋、宋、斉、梁へ遣使をしていた事からも、この男王政権が倭の五王である可能性が非常に高いのも理解できますか?

  1873. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 10:42:56

    名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/09(月) 22:36:21
    内容自体は大したことないからすぐに論破されるのでいっぱいスパムのようにレスして多数派偽装工作して黙らせようというクズ東北人

    名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/10(火) 08:09:20
    レスアンカー変えて必死に多数派装ってるけど理解力の無さと性格の悪さで九州ガイジ単独だってバレバレだからなあ

    名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/10(火) 11:07:55
    いっぱい居るなら一人くらい反論に対して反論し返すやつもいるだろうに、全員8686へのレスのみしてる所が本当に頭悪くて寒気がする。絶対こいつ病気だよ。

    名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/10(火) 12:39:21
    病気というか精神障害だな
    この極端な理解力の無さ、異常な執着心、一般常識の欠落、反則行為への抵抗感の無さ…
    発達障害と学習障害の合併症だろうね。日常生活を過ごすにも苦労しているだろう

    名無しさん@腹筋崩壊 2019/12/10(火) 13:36:42
    一つのレスに粘着して集中砲火するこの手法定期的にやってるけど、畿内説のレス全部にやってるわけじゃないし…どこでスイッチ入るんだろうな。マジで気持ち悪い。

  1874. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 10:46:34

    >>1865
    晋に朝貢した女王の記述は載ってる
    はい論破

  1875. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 10:55:19

    見事に倭の五王に金印が与えられなかったことから話題をそらす書き込みばかりじゃん

  1876. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 10:56:58

    九州ガイジ「邪馬台国は金印を貰ったのに、大和朝廷は貰ってないから別王朝!」
    ってこと?

    ・その時々の利害によって同じ王朝でも関係が変化する
    ・そもそも中国自体が別王朝になってる
    ・奴国王と邪馬台国王は別王朝だけど両方とも金印貰ってる
    ・中国の正史が大和=邪馬台と認めてる

    残念やったねw

  1877. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 11:45:58

    面白い
    二つの王朝が一つになってそれぞれの歴史や対外関係を良いとこ取りしたのだとすれば
    神武の東征とかもしっくりくる
    もしくは連合国家のうちの二大勢力だったのかもしれんが
    神の血統である天皇という存在を作り上げることで上手く一つにまとめたのかも
    個人的にはその二大勢力の決着がついたのが壬申の乱だったのではないかと
    どちらが勝っても天皇家の血筋ということにすれば統治に影響は無い
    勝利のあと改めて天武天皇が国史を編纂し直し帳尻を合わせた

  1878. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 12:03:16

    二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王

    宋書倭国伝だと珍と済の血縁関係をいっさい記していない
    済である允恭天皇の本名は雄朝津間稚子宿禰
    宿禰は天皇の臣下である豪族の身分を表す姓の1つ
    王朝交代を認めてもらうための朝貢だったとされる

  1879. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 12:28:27

    1877
    妄想乙、現実はこうだから

    ・後漢書「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・南史倭国伝「倭國,其先所出及所在,事詳『北史』」

    ・通典「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」

    ・舊唐書日本伝「日本國者倭國之別種也,以其國在日邊故以日本爲名,或曰倭國自惡其名不雅改
    爲日本,或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝「日本,古倭奴也」

    ・宋史日本伝「日本國者,本倭奴國也,自以其國近日所出,故以日本爲名,或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝「日本國在東海之東,古稱倭奴國,或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也」

    ・明史日本伝「日本,古倭奴國,唐咸亨初改日本,以近東海日出而名也」

  1880. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 12:37:45

    > 王朝交代を認めてもらうための朝貢だったとされる

    論拠プリーズ

    だいたい彌と済の間で王朝交代があったとてしも、卑弥呼・台与政権との連続性は変わらない

  1881. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 14:35:55

    430年の朝貢も合わせて倭の六王だぞ

  1882. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 14:38:17

    宋書にはわざと言及しなかったのは不利になるとわかってたんやね

  1883. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 14:40:59

    金印貰えたのが九州の倭国
    金印貰えなかったのが畿内の天皇家
    これが事実

  1884. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 14:50:46

    後漢時代の倭国 金印あり 朝鮮半島南部から北部九州
    三国時代の倭国 金印あり 朝鮮半島南部から北部九州
    南北朝時代の日本 金印なし 東征毛人五十五国西服衆夷六十六国渡平海北九十五国

  1885. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 16:03:06

    たかがコメント欄でご高説たれてもぜんぜん説得力ない(1787)らしいから金印の件が他の根拠を覆すほど致命的だとする論文とか出してくれませんか?

    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    「そもそも中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていた。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である泰始2年(266年)に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられる。前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高い」(『はんこ ものと人間の文化史』久米雅雄 二〇一六年)

    「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(隋書倭国伝)
    「居於邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(北史倭国伝)
    「其王理邪馬臺國 或云邪摩堆」(通典巻一百八十五)

  1886. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 16:19:59

    1883
    魏が金印を与えた邪馬台国は畿内の天皇家

    ・隋書倭国伝「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
    ・北史倭国伝「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

  1887. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 16:24:58

    1884
    三国時代の北部九州は、派遣されてきた一大率に統治されてるだけの雑魚なので金印なんか貰えるわけないぞアホ

  1888. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 16:34:34

    2つの対抗理論AとBがあるとする。理論Aは多くの事実を説明し、山ほどの証拠に支持されている。
    理論Bを支持する証拠はなく、またそれを探そうともしない。そして、理論Aが説明できないと主張される小さな事実がひとつ見つかる。
    そのとき、理論Bがそれを説明できるかどうか問うことなく、Bが正しいはずだという、詭弁な結論を導く。
    Review: The Edge Of Evolution – By Richard Dawkins

  1889. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 18:36:28

    倭の五王は九州を征服したことをアピールしまくっとる
    征服したから部下にも将軍職をくれと朝貢しとる
    かつて九州北部の勢力に金印を与えた中国を武力で脅したわけやな

  1890. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 18:55:00

    1889
    平西将軍号でそこまでの想像が出来るなんて素敵です

  1891. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/18(火) 20:05:21

    字義や語音の解釈は恣意的な解釈も可能であり、傍証にはなり得ても決め手になるとはいい難い

  1892. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/19(水) 08:01:16

    「平西」の字義だけで

    >倭の五王は九州を征服したことをアピールしまくっとる
    >征服したから部下にも将軍職をくれと朝貢しとる
    >かつて九州北部の勢力に金印を与えた中国を武力で脅したわけやな

    ここまで恣意的な解釈をする奴もいるからな

  1893. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/19(水) 10:20:44

    やめたれ
    大きな墓も遺跡もない九州説には恣意的な解釈しかないんだから

    東に何里いったのかわからない←せやな
    だから、一律南とした←は?

    砂山に明確な基準はない←せやな
    だから、一粒の砂も砂山だ←は?

    水行と表現する大きさに明確な基準はない←せやな
    だから、途中で切れている2本の細い川でも水行だ←は?

    まだ勝負は決まってない←せやな
    つまり、同点だ←は?

    奈良と大阪の土器はちょっと違う←せやな
    つまり、奈良は名古屋で大阪は九州だ←は?

    「わた」という海を表す古語がある←せやな
    つまり、海は湖ではない←は?

  1894. 8962 2020/08/19(水) 12:41:43

    九州説さんが妄想を垂れ流すので再掲しますね

    『ディベートの基本ルール』

    1、非礼行為は慎まなければならない

    仮に議論が感情的になったとしても、ディベーターは非礼行為を厳に慎まなければなりません。

    2、主張には根拠がなければならない

    ディベーターは、すべての論点において、根拠を伴って主張しなければなりません。

    3、相手の主張には反論しなければならない

    ディベーターは、相手側が述べた主張に対し、何らかの反論しなければなりません。

    4、反論は主張の直後になされなければならない

    ディベーターは、相手の主張に対して、可能な限り早い段階で反論しなければなりません。これは、反論の機会の均等化を図り、公平性を維持するためと、論点をより深くまで議論するためです。

    5、証拠資料は第三者が入手可能なこと

    証拠資料は引用する当事者以外の第三者が入手可能なものでなければなりません。具体的には公刊された出版物です。当事者独自の調査や時間とともに入手できなくなる可能性のあるものは証拠資料としては認められません。

    6、証拠資料は要件を満たすこと

    証拠資料引用の際には、著者名,著者の肩書,文献名,発行年月日を述べ、原文のまま引用しなければなりません。これを満たさない場合は、その証拠資料がそれだけ信憑性の低いものと判断されます。

    7、証拠を捏造してはならない

    ディベーターは証拠の捏造や改変をしてはなりません。証拠は原文のまま引用しなければなりません。

    8、相手の議論を意図的に曲解してはならない

    ディベーターは相手の議論を、自己の有利なように意図的に曲解してはなりません。

    9、反駁で新しい議論を持ち出してはならない

    九州説さんガンバレ!

  1895. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/19(水) 14:10:32

    九州説くん「川の水行なんていくらでもある!」→ない
    九州説くん「記紀に卑弥呼はいない!」→いる
    九州説くん「この論文で伝世否定されてるぞ!」→肯定されてる
    九州説くん「新井氏によると古墳も纏向も4世紀だってさ!」→2世紀と3世紀って書かれてる
    九州説くん「新井氏によると土器付着物は百年古いんだからそれだけ新しくすべき」→土器付着物より歴博は百年新しいと書かれてる
    九州説くん「記紀では饒速日は九州から来たからヤマトは九州発祥」→ヤマトは畿内で生まれたと書かれてる

    九州ガイジが証拠持ってくると大体おもろいことになるから楽しみ

  1896. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/19(水) 15:15:04

               九州 畿内
    萬二千餘里       ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    水行三十日陸行一月   ×  ○  九州では収まらない
    兵用矛~鐡鏃或骨鏃   ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    倭地温暖        ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    有棺無槨        ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    父母兄弟卧息異處    ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    出真珠青玉       ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    其山有丹        ×  ○  邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
    女王國以北特置一大率  ×  ○  伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
    倭國亂相攻伐歴年    ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    其南有狗奴國      ×  ○  九州では存在する土地の余裕がない
    東渡海~復有國皆倭種  ○  ○  女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
    周旋可五千餘里     ○  ○  参問できるところの倭地が周旋五千里
    五尺刀         ×  ◯  東大寺山古墳中平銘大刀
    鉛丹          ×  ×  鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
    銅鏡百枚        ▲  ○  漢鏡7期は畿内優勢
                      神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
    倭錦          ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
    白珠 青大句珠     ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい

    入墨          ー  ー  邪馬台国のことじゃないのでどうでもいいい
    ヤマトという地名     ×  ○  「山門」は上代特殊仮名遣の甲類なのでNG

  1897. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/19(水) 20:13:12

    1895
    面白さで言ったらこれが1番だぞ

    九州説くん「発掘調査報告読んだら纏向遺跡の建物跡は4世紀」→3世紀前半と書いてある

  1898. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/20(木) 00:23:53

    時代も国名も違うのに金印という共通点だけで強引に邪馬台国も九州だということにしようとしてるガガイがいるけど、そんな小さな金印が見つかるのに巨大な墓も遺跡も全く見つからないのが九州説の悲しいところw

  1899. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/26(水) 09:13:47

    けっきょく邪馬台国の位置や日本と倭の関係は史料が少なくてまだまだ妄想の域を出ないけどその時代の日本には各地に有力な権力者がいただろうということでいいの?

  1900. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/26(水) 12:29:16

    > 邪馬台国の位置や日本と倭の関係は史料が少なくてまだまだ妄想の域を出ない

    ・後漢書
    「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝
    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝
    「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    ・梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    ・通典
    「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」
    「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」

    ・舊唐書日本伝
    「日本國者倭國之別種也,以其國在日邊故以日本爲名,或曰倭國自惡其名不雅改爲日本,或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝
    「日本,古倭奴也」

    ・宋史日本伝
    「日本國者,本倭奴國也,自以其國近日所出,故以日本爲名,或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝
    「日本國在東海之東,古稱倭奴國,或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也」

    ・明史日本伝
    「日本,古倭奴國,唐咸亨初改日本,以近東海日出而名也」

  1901. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 00:29:03

    >>1899
    ・理化学
    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    ・考古学
    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    ・文部科学省検定済教科書
    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    「まだまだ妄想の域を出ない」なんてことはないからこそ畿内説は有力な学説として支持されて教科書にも掲載されているわけです

  1902. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 09:55:45

    >>1899
    まだ勝負は決まってない←せやな
    つまり、同点だ←は?

    まだゲームセットではないかもしれないけど、9回表で畿内20点リードなお攻撃中って感じだ。諦めろや。

  1903. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 15:08:24

    > その時代の日本には各地に有力な権力者がいた

    女王国から派遣された一大率の監視下にあった北部九州は該当しませんね

  1904. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 15:18:49

    魏志倭人伝の記述からすると、もう大きな勢力は邪馬台国と狗奴国に収斂されていたはず。北九州しかまともな遺跡がなく、それすら邪馬台国の金魚のフンと呼ばれている九州はどう考えてもあり得ない。

  1905. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 17:17:14

    このブログが公開されたときはまだ13点リードって感じだったけど、

    ————————————
    邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市)で大量に発掘された桃の種について、放射性炭素年代測定をした結果、西暦135~230年のものとみられることが判明した。同市教育委員会の纒向学研究センターが、14日公表の研究紀要で報告した。248年ごろ没したとされる女王卑弥呼が活動した時代と重なり、邪馬台国の位置をめぐる論争にも影響を与えそうだ。 
    (略)
     年代測定は国内の2研究機関が実施。名古屋大の測定で135~230年ごろのものとされ、別の機関もほぼ同年代と測定した。
    (2018/05/14-21:32)
    ————————————

    打者一巡の猛攻で7点入ったって感じやなこれで。
    さらにまだまだ纏向の調査は続くからね。

  1906. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 19:31:06

    九州派って真偽を確かめる基礎的教養すらなくて寒気する。自分に都合よければ無条件に受け入れて、なんでも信じるだろ、これ。

  1907. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/27(木) 21:03:47

    やめたれ
    大きな墓も遺跡もない九州説にはご都合主義しかないんだから

    東に何里いったのかわからない←せやな
    だから、一律南とした←は?

    砂山に明確な基準はない←せやな
    だから、一粒の砂も砂山だ←は?

    水行と表現する大きさに明確な基準はない←せやな
    だから、途中で切れている2本の細い川でも水行だ←は?

    まだ勝負は決まってない←せやな
    つまり、同点だ←は?

    奈良と大阪の土器はちょっと違う←せやな
    つまり、奈良は名古屋で大阪は九州だ←は?

    「わた」という海を表す古語がある←せやな
    つまり、海は湖ではない←は?

    九州の奴国は金印貰った←せやな
    つまり、金印貰った邪馬台国も九州だ←は?

  1908. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/08/28(金) 07:55:27

    『後漢書に「刺史」についての記述がある。「建武十八年、また刺史と為す。十二人は各々一州を主(つかさど)り、其の一州は司隷校尉に属す」
    というもので、十三州のうち十二州は刺史を置いて監察させたが、一州だけは司隷校尉に属させたとされる。その一州は後漢の首都洛陽を含むいわゆる「首都圏」であった。つまり、首都圏には刺史ではなく、より強い権限を持つ別格の司隷校尉が置かれているのである。
     この司隷校尉と刺史の違いは、邪馬台国への使者陳寿らも常識として知っている。だから邪馬台国が九州にあるなら、首都圏である伊都国に治所を置く「大率」(一大率)は、「刺史」ではなく、より権限の強い「司隷校尉」に準えられなくてはならない。
    伊都国に置かれた「大率」(一大率)を「刺史」と表現したのは、伊都国が首都圏に属さないためである。すなわち、邪馬台国が九州にないことが、文献解釈から証明できるのである。』(『魏志倭人伝の謎を解く』渡邊義浩 二○十二年)

    中国古代史の権威である渡邊教授もこう断言している

  1909. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/09/10(木) 11:56:35

    正しい知識が欲しくてこんなとこきてる奴なんてほとんどいないわ

  1910. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/09/11(金) 15:09:39

    盛大な負け惜しみですね

  1911. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/09/11(金) 19:01:06

    九州説を主張するには間違った知識でい続けるしか無いからな

  1912. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/09/15(火) 16:29:25

    >>1909
    それお前だけだろ

  1913. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/18(金) 08:11:20

    中国側のこの手の記録は聞きかじった事をツギハギしてあるだけなので後年になるほど信憑性は薄くなるかと。。。
    歴代記録を見ても、以前の記録に勝手に思いついた事を付け加えてあるパターンが多いみたいだしね。

  1914. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/26(土) 07:57:19

    1913
    だから理科学、考古学的な面からのアプローチが進んでいるんだよ 

    その結果が1901

  1915. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/27(日) 13:38:06

    魏志倭人伝は同時代に編纂されたから他の資料より正確なんだね
    他と違っていることは寧ろ魏志倭人伝の正しさを示しているんだね

  1916. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/27(日) 16:57:43

    1915
    つまり旧唐書の「日本國者,倭國之別種也」も勝手に思いついた事を付け加えてあるパターンって考えてるの?

  1917. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/27(日) 17:26:27

    魏志倭人伝「3世紀の倭には王がいた。北部九州は王が派遣した役人の監視下にあった。王都の位置は北部九州から水陸二ヶ月かかる」

    後漢書、隋書、北史、梁史、通典、旧唐書、新唐書、宋史、元史、明史「邪馬台国=大和國、倭=日本」

    考古学、理科学「3世紀頃の畿内大和には北部九州を含む、西日本一帯の盟主的存在がいた」

    邪馬台国=畿内大和国で問題無いやん

  1918. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/27(日) 17:45:55

    同時代資料の信憑性は高い←せやな

    後世の資料は思い付きを勝手に付け加えているから信憑性が低い←は?

  1919. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 07:39:17

    倭と日本が別である以上、邪馬台国は九州にあるよ

  1920. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 09:53:15

    1919
    「中国側のこの手の記録は聞きかじった事をツギハギしてあるだけなので後年になるほど信憑性は薄くなるかと。。。
    歴代記録を見ても、以前の記録に勝手に思いついた事を付け加えてあるパターンが多いみたいだしね。」

    「魏志倭人伝は同時代に編纂されたから他の資料より正確なんだね
    他と違っていることは寧ろ魏志倭人伝の正しさを示しているんだね」

  1921. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 10:34:47

    魏志倭人伝=三国志を重視する人がいるので、三国志学会事務局長を務める渡邊義浩氏(早稲田大学理事・文学学術院教授)による邪馬台国論を再掲

    ————————————

    『後漢書に「刺史」についての記述がある。「建武十八年、また刺史と為す。十二人は各々一州を主(つかさど)り、其の一州は司隷校尉に属す」
    というもので、十三州のうち十二州は刺史を置いて監察させたが、一州だけは司隷校尉に属させたとされる。その一州は後漢の首都洛陽を含むいわゆる「首都圏」であった。つまり、首都圏には刺史ではなく、より強い権限を持つ別格の司隷校尉が置かれているのである。
     この司隷校尉と刺史の違いは、邪馬台国への使者も陳寿らも常識として知っている。だから邪馬台国が九州にあるなら、首都圏である伊都国に治所を置く「大率」(一大率)は、「刺史」ではなく、より権限の強い「司隷校尉」に準えられなくてはならない。
    伊都国に置かれた「大率」(一大率)を「刺史」と表現したのは、伊都国が首都圏に属さないためである。すなわち、邪馬台国が九州にないことが、文献解釈から証明できるのである。』(『魏志倭人伝の謎を解く』渡邊義浩 二○十二年)

    ————————————

    同時代資料である魏志倭人伝を見ると九州はあり得ない事が分かるね

  1922. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 11:52:54

    ※1919
    945年に成立した旧唐書を持ち出すなら、それ以前に成立していた歴史書を持ち出しても問題無いな!!

    ————————————

    ・後漢書
    「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝
    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝
    「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    ・梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    ・通典
    「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」
    「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」

    ————————————

    1913氏の理論により、これら歴史書と矛盾する旧唐書「日本國者,倭國之別種也」の信憑性は極めて低くなる

    これにて一件落着

  1923. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 12:23:34

    倭が九州で邪馬台国は九州だったんだろ

  1924. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 12:49:39

    1923氏が根拠無き主張をしているので再々掲しますね
    ————————————

    『ディベートの基本ルール』から抜粋

    2、主張には根拠がなければならない
    ディベーターは、すべての論点において、根拠を伴って主張しなければなりません。

    3、相手の主張には反論しなければならない
    ディベーターは、相手側が述べた主張に対し、何らかの反論しなければなりません。

    4、反論は主張の直後になされなければならない
    ディベーターは、相手の主張に対して、可能な限り早い段階で反論しなければなりません。これは、反論の機会の均等化を図り、公平性を維持するためと、論点をより深くまで議論するためです。

    5、証拠資料は第三者が入手可能なこと
    証拠資料は引用する当事者以外の第三者が入手可能なものでなければなりません。具体的には公刊された出版物です。当事者独自の調査や時間とともに入手できなくなる可能性のあるものは証拠資料としては認められません。

    6、証拠資料は要件を満たすこと
    証拠資料引用の際には、著者名,著者の肩書,文献名,発行年月日を述べ、原文のまま引用しなければなりません。これを満たさない場合は、その証拠資料がそれだけ信憑性の低いものと判断されます。

    7、証拠を捏造してはならない
    ディベーターは証拠の捏造や改変をしてはなりません。証拠は原文のまま引用しなければなりません。
    ————————————

  1925. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 14:07:38

    ※1923

    現実を受け止めようね

    ・後漢書
    「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝
    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝
    「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    ・梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    ・通典
    「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」
    「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」

    ・舊唐書日本伝
    「日本國者倭國之別種也,以其國在日邊故以日本爲名,或曰倭國自惡其名不雅改爲日本,或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝
    「日本,古倭奴也」

    ・宋史日本伝
    「日本國者,本倭奴國也,自以其國近日所出,故以日本爲名,或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝
    「日本國在東海之東,古稱倭奴國,或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也」

    ・明史日本伝
    「日本,古倭奴國,唐咸亨初改日本,以近東海日出而名也」

    どう見ても「倭=日本」「邪馬台国=大和国」です。お疲れ様でした

  1926. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 16:17:54

    >>倭と日本が別である

    こいつの出典は旧唐書だよな?
    「後世の資料は信憑性が低い」「以前の記録に勝手に思いついた事を付け加えてある」と言いながら、10世紀の歴史書を根拠にするのは良いのか(笑)

    >>倭が九州
    >>邪馬台国は九州

    旧唐書より早く成立した
    『通典/巻百八十五/東夷上/倭』より
     
    「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」

    >その王(倭王)は邪馬台国を理(おさ)める。
    >ある人はヤマトとも呼ぶ。

    「倭一名日本」

    >倭とは日本の別名である。

    ーーー

    通典がお気に召されないのなら、後漢書とかでも良いけど。。。
    まぁ未だに「九州説での邪馬台国と投馬国の候補地提示」も出来てないし、もう終わりでいんじゃない?

  1927. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/28(月) 20:28:30

    天皇家と卑弥呼が繋がってないから日本と倭である邪馬台国も別になんよ
    倭と日本が別王朝で発掘とも歴史書とも矛盾しない時点で決まりやな

  1928. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 09:17:50

    ※1927

    「無知でい続けること」「知らないでい続けること」「理解をしようとしないこと」 を根拠にするのはいい加減止めろ

    ————————————

    「伊都国に置かれた『大率』(一大率)を『刺史』と表現したのは、伊都国が首都圏に属さないためである。すなわち、邪馬台国が九州にないことが、文献解釈から証明できるのである。」『魏志倭人伝の謎を解く』渡邊義浩 二○十二年)

    「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました。」(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)

    「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう。」(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)

    「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向遺跡の発掘成果や、漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)

    「初期の前方後円墳の一つである箸墓古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう『宮室』にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年)

    •日本書紀神功皇后条
    「卅九年。是年也、太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。」
    「卌年。魏志云、正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」
    「卌三年。魏志云、正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
    「六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

    ・後漢書
    「大倭王居邪馬臺國(案令邪摩惟音之訛也)」

    ・隋書倭国伝
    「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」

    ・北史倭国伝
    「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」
    「正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女台與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。江左曆晉、宋、齊、梁,朝聘不絕。」

    ・梁史倭国伝
    「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖卽位,進武號征東將軍。」

    ・通典
    「其王理邪馬臺國,或云邪摩堆」
    「倭一名日本,自云國在日邊,故以為稱」

    ・舊唐書日本伝
    「日本國者倭國之別種也,以其國在日邊故以日本爲名,或曰倭國自惡其名不雅改爲日本,或云日本舊小國併倭國之地」

    ・新唐書日本伝
    「日本,古倭奴也」

    ・宋史日本伝
    「日本國者,本倭奴國也,自以其國近日所出,故以日本爲名,或云惡其舊名改之也」

    ・元史日本伝
    「日本國在東海之東,古稱倭奴國,或云惡其舊名,故改名日本,以其國近日所出也」

    ・明史日本伝
    「日本,古倭奴國,唐咸亨初改日本,以近東海日出而名也」

    ————————————

    科学調査、発掘調査、歴史書とも矛盾しない畿内大和で時点で決まりやな

  1929. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 09:42:15

    8948.名無しさん@腹筋崩壊 2020/07/06(月) 15:13:21
    九州論者にとって最重要なのは「大和(日本)=邪馬台国(倭)」の連続性を否定すること
    なぜなら『天皇家が朝鮮半島南部を領有していた』事実を、別王朝のイベントに仕立て上げる事が出来るから

    8950. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/07/07(火) 11:37:36
    九州説の目論見は、畿内皇室の正統性を毀損すること
    「当時の皇室は九州の一勢力に過ぎなかった」
    or
    「当時の皇室の版図は九州に及ばず倭王の地位にもなかった」

    という主張

    8953. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/07/09(木) 14:51:23
    追い詰められたエセ九州論者が次に吐くセリフは「邪馬台国は無かった」
    なぜなら彼の最優先事項は「倭国と日本国の分断」であり、九州説はその為の攻撃手段でしか無いから
    その手段が既に通じないならば邪馬台国そのものを否定するしか無い

    ーーー

    あっ・・・(察し)

    倭=日本、邪馬台=大和を意地でも認めないのはそう言う事やったんやね。。。

  1930. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 11:16:03

    天皇家と卑弥呼が繋がってない
     ↓
    日本の正史を否定、天皇家の歴史を矮小化

    倭と日本が別王朝
     ↓
    中国歴代王朝の正史&歴史書を否定、日本の歴史を矮小化、天皇家が朝鮮半島南部を領有していた事実を抹消

    歴史が乏しい地域出身の人間が持つコンプレックスと執念は計り知れないな‥
    他を蔑むより自らに誇りを持つ事をお勧めする

  1931. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 12:43:08

    倭人は朝鮮半島南部にも國を作っていたのに日本の歴史だと神功皇后が征服して初めて朝鮮半島南部を領有している
    倭と日本は別の王朝なんだよ

  1932. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 12:44:25

    天皇家は一度も大陸と朝貢関係にはないんやで

  1933. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 15:15:32

    ※1931
    日本書紀/卷第九/神功皇后条

    「冬十月己亥朔辛丑、從和珥津發之。時飛廉起風、陽侯舉浪、海中大魚、悉浮扶船。則大風順吹、帆舶隨波。不勞㯭楫、便到新羅。時隨船潮浪、遠逮國中。卽知、天神地祇悉助歟。新羅王、於是、戰々慄々厝身無所。則集諸人曰、新羅之建國以來、未嘗聞海水凌國。若天運盡之、國爲海乎。是言未訖間、船師滿海、旌旗耀日。鼓吹起聲、山川悉振。新羅王遙望以爲、非常之兵、將滅己國。讋焉失志。乃今醒之曰、吾聞、東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。必其國之神兵也。豈可舉兵以距乎、卽素旆而自服。素組以面縛。封圖籍、降於王船之前。因以、叩頭之曰、從今以後、長與乾坤、伏爲飼部。其不乾船柂、而春秋獻馬梳及馬鞭。復不煩海遠、以毎年貢男女之調。則重誓之曰、非東日更出西、且除阿利那禮河返以之逆流、及河石昇爲星辰、而殊闕春秋之朝、怠廢梳鞭之貢、天神地祇、共討焉。時或曰、欲誅新羅王。於是、皇后曰、初承神教、將授金銀之國。又號令三軍曰、勿殺自服。今既獲財國。亦人自降服。殺之不祥、乃解其縛爲飼部。遂入其國中、封重寶府庫、收圖籍文書。卽以皇后所杖矛、樹於新羅王門、爲後葉之印。故其矛今猶樹于新羅王之門也。爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾・羅・縑絹、載于八十艘船、令從官軍。是以、新羅王、常以八十船之調貢于日本國、其是之縁也。於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍、降於日本國、密令伺其軍勢。則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰、從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。」

    ————————————

    「神功皇后が征服して初めて朝鮮半島南部を領有」なんてどこにも書いてないだろ?
    せいぜい「初めて日本側文献に領有が明記された」ぐらいだ

    あと神功皇后が征服したのは、新羅•高麗•百濟であり、任那(伽耶)が無いのも読み取れるな
    任那は魏志倭人伝において倭の北岸とされる狗邪韓国にあたる場所にある

    つまり狗邪韓国=任那(伽耶)と考えても何の問題は無く、初めて領有なんてのは1931の一方的な願望

  1934. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 15:22:39

    ※1932

    唐會要を見てたら気になる記述が有ったので幾つか質問させて下さい

    ————————————

    「上奏,入唐大使藤原朝臣常嗣等歸着之由。」(『続日本後紀』巻第八 承和六年)

    「開成四年,又遣使朝貢。」(『旧唐書』日本伝)

    「開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。」(『唐會要』巻九十九 倭国伝)

    ————————————

    承和六年と開成四年は共に西暦839年です

    問1、日本国使者「藤原朝臣常嗣」と倭国使者「薛原朝常嗣」は別人だと思いますか?

  1935. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 16:29:35

    > 「初めて日本側文献に領有が明記された」

    魏志倭人伝で倭国として朝鮮半島南部が出てくるんやで
    日本が倭と同じ王朝なら征服して領有するのは変やろ
    そもそも韓人より先に倭人が朝鮮半島南部に住んでたんや
    征服する必要ないで

  1936. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 17:31:07

    ※1935
    征服したのは任那(伽耶)以外の地域なんだろ
    日本書紀にも「新羅王、高麗王、百済王が降伏した」と書いてある

    > 倭と日本は別の王朝なんだよ

    あとこれの根拠は旧唐書だよな?
    唐代の資料を使うなら、前時代にあたる後漢書、隋書、北史、梁史、通典を素直に受け入れろ

  1937. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 17:51:27

    「上奏,入唐大使藤原朝臣常嗣等歸着之由。」(『続日本後紀』巻第八 承和六年)

    「開成四年,又遣使朝貢。」(『旧唐書』日本伝)

    「開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。」(『唐會要』巻九十九 倭国伝)

    ーーー

    日本側は入唐大使と記述していますが、中華王朝側は明らかに朝貢だと認識してますね。。。

    再度質問しますが、日本の遣使と倭国の遣使の名前がそっくりで派遣も同年です。

    これについてどう思われますか?
    答えて下さい

  1938. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 18:31:28

    不都合な指摘は見えなくなる九州ガイジをまともに相手するだけ時間の無駄や

    適当におちょくって遊ぶのが正解や

  1939. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 18:52:09

    この九州論者と会話してるとポンコツAIを相手にしてるみたいでマジで疲れる、、、

  1940. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/29(火) 21:30:33

    畿内説だとどうしても矛盾が出るから九州説を説得することができないのは仕方がないね

  1941. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/30(水) 09:36:16

    では九州説での邪馬台国、投馬国の候補地とその根拠を教えて下さい。

    なお、引用に際しては以下をお守り下さい。

    ーーー

    5、証拠資料は第三者が入手可能なこと
    証拠資料は引用する当事者以外の第三者が入手可能なものでなければなりません。具体的には公刊された出版物です。当事者独自の調査や時間とともに入手できなくなる可能性のあるものは証拠資料としては認められません。

    6、証拠資料は要件を満たすこと
    証拠資料引用の際には、著者名,著者の肩書,文献名,発行年月日を述べ、原文のまま引用しなければなりません。これを満たさない場合は、その証拠資料がそれだけ信憑性の低いものと判断されます。

    7、証拠を捏造してはならない
    証拠の捏造や改変をしてはなりません。証拠は原文のまま引用しなければなりません。

    ーーー

    以上

  1942. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/30(水) 14:26:08

    矛盾て?

    あと九州説の問題点についてはどうお考えで?

  1943. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/30(水) 17:29:17

    畿内説「九州説の候補地はどこ?」

    九州派「‥」

    畿内説「日本=倭、邪馬台国=大和国って多く史書にあるけど?」

    九州派「‥」

    畿内説「発掘調査の結果、3世紀の畿内には倭王級の実力者が居たみたいだけど?」

    九州派「‥」

    畿内説「年代測定の結果、纒向遺跡は3世紀には存在してたみたいだけど?」

    九州派「‥」

    畿内説「九州説の根拠は何?」

    九州派「‥」

  1944. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/30(水) 19:52:59

    結局、九州って根拠が一切無いってわけね
    大の大人が根拠も無いのに必死になっててマジウケる

  1945. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/31(木) 12:12:41

    倭と日本が別なら畿内説の矛盾の説明いらんしな

  1946. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/31(木) 12:38:29

    ※1945

    1913. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/18(金) 08:11:20
    中国側のこの手の記録は聞きかじった事をツギハギしてあるだけなので後年になるほど信憑性は薄くなるかと。。。
    歴代記録を見ても、以前の記録に勝手に思いついた事を付け加えてあるパターンが多いみたいだしね。

    1915. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/27(日) 13:38:06
    魏志倭人伝は同時代に編纂されたから他の資料より正確なんだね
    他と違っていることは寧ろ魏志倭人伝の正しさを示しているんだね

    w

  1947. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/31(木) 12:52:29

    ※1945

    まともに議論する気はありますか?
    あなたの考えや疑問を【具体的】に聞かせて下さい

    ーーー

    2、主張には根拠がなければならない
    ディベーターは、すべての論点において、根拠を伴って主張しなければなりません。

    3、相手の主張には反論しなければならない
    ディベーターは、相手側が述べた主張に対し、何らかの反論しなければなりません。

    4、反論は主張の直後になされなければならない
    ディベーターは、相手の主張に対して、可能な限り早い段階で反論しなければなりません。これは、反論の機会の均等化を図り、公平性を維持するためと、論点をより深くまで議論するためです。

    ーーー

    以上

  1948. 名無しさん@腹筋崩壊 2020/12/31(木) 14:02:44

    日本は倭の東の別種として歴史に登場するから矛盾はないぞ

  1949. 名無しさん@腹筋崩壊 2021/01/03(日) 20:47:57

    ・千里の距離がある九州島の国(港)と本州の国(港)の候補地
    ・卑弥呼時代の倭国人が通訳なしで魏人と話していた根拠
    ・中国人が琵琶湖を淡水の湖と認識して歴史書に書いた例
    ・中村俊夫の研究成果を否定したPNASの論文
    ・九州説での邪馬台国と投馬国の候補地
    ・隋書倭国伝「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈
    ・北史倭国伝「居於邪摩堆,則魏志所謂邪馬臺者也」の解釈
    ・橿原考古学研究所の九州本

    宿題再掲

  1950. 名無しさん@腹筋崩壊 2021/01/04(月) 18:42:54

    こいつはもう「絶対に畿内説を認めない」という動かせない大前提をもとに認知を形成してる
    事実が先で認知が後じゃなくて、まず願望に基づく認知が先なので、現実がいくら畿内説を支持しようが態度を変えられ無い

    ファンダメンタリストにとって「神が生物をお作りになった」が先で事実が後なので、進化論の研究がどれだけ進もうが認知は変わらないのと一緒

  1951. 名無しさん@腹筋崩壊 2021/01/04(月) 19:58:48

    畿内説である限り矛盾が生じるから無理じゃね?

  1952. 名無しさん@腹筋崩壊 2021/01/04(月) 22:10:58

    確かに100点満点の整合性は無いかもしれない
    よくわからない古代のことだから当然だ
    そんなものあったら苦労しない
    でも相対的に言ってダントツに整合性が高いのは畿内でしょ
    これまで数千コメントで議論してきた通り

    だからとりあえず畿内でいいんだよ
    また他のところで有力な根拠が見つかったらその時話聞いてやるからそれまで黙っとけ

  1953. 名無しさん@腹筋崩壊 2023/08/09(水) 19:42:24

    「古墳が成立する時期を3世紀とする研究が進む中で、「ヤマト」を中心とするヤマト政権に邪馬台国連合が直接つながる可能性が高くなった。邪馬台国の中心部とされる候補地の一つに、纏向遺跡がある。この遺跡は奈良盆地の東南、三輪山のふもとに位置し、大量の土器が出土し、大型建物跡も発見されている。巨大な運河などの土木工事がおこなわれた大規模な集落であり、政治の中心的地域だったと考えられる(『もういちど読みとおす山川新日本史』山川出版社 二〇二二年)

    「史料2に倭の女王(卑弥呼)が魏から銅鏡100枚を授けられたことがみえる。それに該当する可能性があるのが、前期古墳に副葬された三角縁神獣鏡である。また、史料1に、247年ころに卑弥呼が死去し、直径100歩あまりの塚をつくったことがみえる。その有力候補に、奈良県桜井市の三輪山のふもとに立地する箸墓古墳がある」(『高等学校 日本史探究』清水書院 二〇二三年

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