日本は倭の別種だった件

日本書紀によれば、初代の神武天皇が即位したのが紀元前660年のこと。

それからずうっと天皇の血脈が続いることになっていて、名目上は2017年時点でなんと2677年もの歴史があることになります。

さすがに日本書紀や古事記の内容がそのまま史実だとは言えませんが、それでも、大和王朝は古代から連綿と続いてきたことになっているのであります。

日本だけが一本線の世界史年表

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日本のルーツはどこか

邪馬台=大和?

大和王朝が古代から連綿と続いてきたとするならば、「邪馬台国」が大和王朝のルーツであるという考えはごく自然です。

そうなると、「邪馬台国」は「やまと国」と読みたくなったりもします。

一時期は、偉大なる大和王朝が中国に朝貢していた事などあってはならないみたいな風潮があって、邪馬台国と大和王朝は別物とされてたこともありました。

でも、今やそうした変なナショナリズムも無くなり、畿内説・九州説問わず、邪馬台国=大和王朝と考える論者はとても多いのです。

しかし残念ながら、日本国内には古代日本の様子をうかがい知る事にできる資料がありません。

最古の歴史書と言えるのは、712年に編纂された「古事記」と、720年の「日本書紀」しか無いのです。

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中国の史書

そこで役に立つのが、お隣中国の歴史書。

中国という国は、殷→周→春秋戦国→秦→前漢→後漢→三国→晋→南北朝→隋→唐→宋→元→…という具合に目まぐるしく王朝が入れ替わってきました。

しかし、中国人は「歴史」という概念をよく理解していたので、これだけコロコロと王朝が変わっても、キチンと歴史書を残してきました。

そして幸運なことに、古代の日本についてもちゃんと記録を取っといてくれたのです。

というわけで、特に「正史」と位置付けられている中国の歴史書のうち、「倭」について記述のあるものをさらっと見て見ましょう。

中国の正史(抜粋)

漢書 「地理志 燕の条」

前漢時代の史書。成立は西暦105年。

ここでは、 倭は燕の属国だったと書かれています。なので、燕のページに倭が登場するわけ。

燕は戦国7雄の一国。右上らへんにあった国ね。

後漢書「東夷伝 倭条」

後漢時代の史書。成立はちょっと遅くて西暦445年。

漢書では燕の項目にちょろっと書かれていただけですが、後漢書では東夷(東の野蛮人)の一つとして、独立した項目を設けてもらっています。

魏書 「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」

みんな大好き三国時代の史書。成立は297年ごろ。

かの有名な「魏志倭人伝」のことですね。

晋書 「四夷伝 倭人条」

魏をクーデターで乗っ取った晋の時代の史書。648年編纂。

宋書 「夷蛮伝 倭国条」

南北朝時代の宋王朝の時の史書。503年編纂。

南斉書「蛮・東南夷伝 倭国条」

南北朝時代の南斉王朝の史書。537年編纂。

南史 「夷貊下 倭国伝」

南北朝時代の南側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

北史 「東夷伝 倭国条」

南北朝時代の北側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

隋書 「東夷伝 倭国条」

三国時代から南北朝時代までずーっと分裂していた中国を久しぶりに統一した、隋の史書。656年編纂。

旧唐書「東夷伝 倭国条」「東夷伝 日本国条」

唐の時代の史書。945年編纂。

新唐書「東夷伝 日本条」

旧唐書はちょっと内容に不足があったようで、もう一回唐の時代を書き直した史書。1060年編纂。

宋書「外国伝 日本条」

宋の時代の史書。1345年編纂

違和感

ここで皆さん、違和感を感じましたでしょうか?

上に列挙した日本について書かれた正史をよく見てみると、なぜか旧唐書だけ「倭」と「日本」の項目を分けているのです。

そして、旧唐書以前は「倭」だけだったものが、旧唐書で「倭」と「日本」が並立して書かれ、それ以後は「日本」だけになります。

「倭」も「日本」も、今の日本列島に存在した国を指しているのは間違いないところ。

なので、通常の解釈では、旧唐書で扱う唐の時代(618〜907年)の頃に、倭が国名を日本に変更したという風になってます。

「倭」という文字は「低い」「曲がっている」みたいな意味だから嫌がったとか何とか。

実際に変更したのは、天武天皇か、その奥さんの持統天皇という説が有力です。

しかし、その説明では、旧唐書で「倭」と「日本」が別建てで書かれている事をうまく説明できません。

国号が変更になっただけならば、新しい「日本」に統一すればいいんじゃないの?

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旧唐書を読んでみる

実際のところ、どの史書にも、実質的に同じ王朝をわざわざ分けて記述する事例なんてありません。

したがって、この旧唐書の「倭」「日本」の併記には違和感を拭えません。

そこで、ややメンドくさいものの、旧唐書を実際に読んでみることにしましょう。

旧唐書 東夷伝倭国条

ではまず、旧唐書の「倭国条」の方から抜粋。大して長くないので、歯を食いしばって読んでください。

倭國者 古倭奴國也
倭国は、昔で言うところの倭奴国である。
去京師一萬四千里 在新羅東南大海中
唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。
依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
其國 居無城郭 以木爲柵 以草爲屋
その国には城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四面小島五十余國 皆附屬焉
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。

其王姓阿每氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之
倭国の王の姓は阿毎(「アマ」or「アメ」)氏で、大将軍に諸国を検察させていて、小島の諸国はこれを畏怖している。

(中略)

貞觀五年 遣使獻方物
西暦631年、倭国は使者を送って来て、地方の産物を献上した。

(中略)

至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
西暦648年、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて、太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

この「倭国条」の内容は、「ああ、倭について書かれているなあ」という感じ(小並感)。

旧唐書 東夷伝日本国条

それでは、続いて「日本国条」の方も読んでみましょう。

日本國者 倭國之別種也
日本国は倭国の別種である。

以其國在日邊 故以日本爲名
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
或曰:倭國自惡其名不雅 改爲日本
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、日本に改めた。」と言ったり、
或云:日本舊小國 併倭國之地
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」と言ったりする。
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

又云:其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海 東界 北界有大山爲限 山外即毛人之國
彼らは「我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安三年 其大臣朝臣真人來貢方物
長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。

(後略)

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日本は倭の別種なり

いかがでしょうか。

何よりもインパクトがあるのは、日本国条の一行目。

日本は倭の別種なり」のところです。

我々が習ってきた歴史観からすると、昔は「倭」という国名で、それが途中で「日本」という国名に変わった。けれども、基本的に日本はずーっと同じクニのはず。

しかし、少なくとも唐の認識は異なっていました。

明らかに、唐は「倭」と「日本」は別の国だと捉えていたのであります。

倭はどこにあったか

まず、倭国の方は日本列島のどこにあったのか。

そのヒントは、「倭国は、昔で言うところの倭奴国である。」の部分。

倭奴国と言って連想するのは、例の金印に書かれた「漢委奴国王」。

金印

福岡県で出土した金印

「委奴国」というのは「倭奴国」のニンベンを省略したものというのが定説。

とすると、金印が出土した場所からしても、倭奴国があったのは北九州(福岡県らへん)だと推定されます。

倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。」という記述から、その国土は島状になっている事が分かり、倭(=倭奴国)が九州にあった王朝である事を裏付けます。

日本はどこにあったか

じゃあ一方の日本国はどこにあったのでしょうか。

該当するのは、
我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。
の部分。

「数千里」は現代の単位に直すとだいたい2〜3000kmくらい。九州にしては大きすぎるかと。

また、日本国の支配が及ぶ範囲は、西と南は海までですが、東と北は大きな山までとの事。

当時はまだ東北地方は毛人(蝦夷)の国だった事を考えると、日本国は本州にあった王朝であるように思えます。

日本と倭の関係

日本国とは何者なのか。

旧唐書によれば、日本からの使者はなんだか言ってることがコロコロ変わっています。

でも一応、使者の主張によれば、日本の正体は2種類の可能性があります。

①倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。
②日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。

①であれば、我々の歴史観に沿うところ。

しかし②であれば、「倭」と「日本」は全くの別王朝で、最終的に「日本」が日本列島の覇者となった事になります。

冒頭の「日本は倭の別種なり」から分かるように、少なくとも唐は②が正しいと認識しています。

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隋書と新唐書

「倭」と「日本」が別の国だなんて信用できない!

という方の為に、「旧唐書」の一つ前に書かれた「隋書」と、一つ後の「新唐書」も確認してみましょう。

隋書 東夷伝倭国条

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。

魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。

夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下
倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。

都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。

漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国
後漢の光武帝の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。安帝の時また遣使して朝貢した。これをこれを倭奴国といった。

桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主
(後漢の)桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。
有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面
卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。弟があり卑弥を助けて国を治めていた。その王には侍女千人がいる。

(中略)

自魏至于齊梁代與中国相通
魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。

(中略)

有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭
阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。

(後略)

「隋書」に書かれた「倭」の様子を抜粋しました。

まず、「魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた」とありますので、「隋書の倭」は「魏志倭人伝の倭」と同一であることが分かります。

さらに、その都が邪馬台であるとも書かれています。卑弥呼についても記述があります。

また、倭王の性が「アマ」とも書かれているので、日本っぽいし、旧唐書の倭国とも整合が取れています。

つまり、隋の人は「旧唐書の倭」と「隋書の倭」は同一であり、さらに「魏志倭人伝の倭」とも同一だと考えていたと言えます。

この「隋書」で特筆すべきは、「阿蘇山」についての記述。

阿蘇山

阿蘇山(熊本県)。

「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。

となると、「倭」は九州にあったと考えるのが自然であります。

新唐書 東夷伝日本条

新唐書では、もう「倭」は登場しません。「日本」だけになっています。

日本古倭奴也
日本は古の倭奴国である。
去京師萬四千里 直新羅東南 在海中 島而居 東西五月行 南北三月行
その地は唐都の長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中の島国である。その国の広さは東西が五ヵ月の行程で、南北は三ヵ月の行程である。

(中略)

其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以「尊」爲號 居築紫城
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城にいた。
彥瀲子神武立 更以「天皇」爲號 徙治大和州
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 …(中略)
神武の次を綏靖と云い、その次は安寧、その次は懿德、その次は孝昭、その次は…(中略)。
亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通
また言うには、用明天皇が多利思北孤の代理として来朝したのは西暦600年にあたり、そのとき初めて中国と国交を通じたのである。

(中略)

咸亨元年 遣使賀平高麗
西暦670年、日本は唐に使者を遣わして、唐が高麗を平定したことを慶賀した。
後稍習夏音 惡倭名 更號日本
その後、日本人は中国の発音に習熟して、倭の呼び名を嫌い、あらためて日本と改号した。
使者自言 國近日所出 以爲名
使者が自ら言うには、「わが国が、太陽の出る所に近いので、それで国名とした」と。
或云日本乃小國 爲倭所并 故冒其號
或いはこうも言っている。「日本国はもと小国だったので、倭国がこれを併合することになった。その結果、倭国はその日本という国号を奪ったのだ」と。
使者不以情 故疑焉
日本の使者は、実情を語らないので、中国は日本の使者の言を疑っている。
又妄誇其國都方數千里 南、西盡海 東、北限大山 其外即毛人云
またその国都は数千里四方もあると、大ぼらを吹いている。そして、南と西は海に達し、東と北は大山で限られており、山の向こうは毛人国などと言っている。

(後略)

基本的に、「新唐書」では、「日本」の主張に従い、日本=倭として記述されています。

しかし、唐は「日本」の使者を全然信用してなくて、「国土は数千里四方ある」と言っても「嘘乙w」として、伝統的な「倭」の国土(東西5ヶ月、南北3ヶ月)を正としています。

この「新唐書」で気になるのは、二つ。

どっちが併合したの?

「旧唐書」では「日本が倭を併合した」となっていたのが、「新唐書」では「倭が日本を併合した」と逆になっています。

唐が聞き間違えたと言ってしまえばそれまでですが、「日本が」意図的に嘘をついたとしたらどうでしょう。

想像し得るメリットとしては、古くから中国と国交をしていた「倭」の歴史を乗っ取れるというところでしょうか。

昔から付き合ってきた国と、ぽっと出の国では、やっぱり扱いも違うでしょうからね。

信用されない「日本」

しかし、唐にそうした嘘は通用しませんでした。

それが、「用明天皇が初めて中国と国交を通じた」という部分。

もし「日本=倭」なら、これはあり得ないこと。用明天皇は585年〜587年の在位なのですが、これより遥かに昔から、倭は中国に朝貢してきました。

この部分は単なる筆者の勘違いとは考えられません。

他の記述部分は明らかに昔の史書を参照しているので、それまでの長きに渡る朝貢関係を見落とすはずがない。

とするとやっぱり、唐は「日本」を新しい国だと認識しているように感じます。

まとめ

ちょっと長くなっちゃったので、まとめてみましょう。

まず、中国の史書によれば、「魏書」から「隋書」まで、ずうっと「倭」と中国は国交していたと書かれています。

そして、その倭の場所は、阿蘇山とか出てくるし、どうも九州っぽい。

ところが、唐の時代に書かれた「旧唐書」にて、突如「日本」という国が登場します。

唐視点では、この「日本」という国は「倭」とは別の国。日本の使者は「国名を変えた」と言ったり「倭を併合した」と言ったりと、どうも怪しい。

ハッキリ言って、唐は「日本」を全然信用していませんでした。

また、「新唐書」では、いちおう「日本=倭」というスタンスで「日本」を扱っていますが、「6世紀後半に初めて国交を通わせた国」と書かれていることから、やっぱり、ずっと付き合ってきた「倭」とは別の国だと捉えていたっぽい。

こうしたことを踏まえると、古代日本には、古くから中国に朝貢してきた「倭」と、その歴史を乗っ取った「日本」という二つの王朝があったのではないかという疑いが持ち上がってくるのです。

邪馬台国は倭か日本か

ここで、もう一度「邪馬台国」の話に戻りましょう。

少なくとも中国の史書を読むと、日本列島には「倭」と「日本」という二つの別王朝が存在していたように見えます。

だとすると、「邪馬台国」は、「倭」と「日本」のどちらか一方のルーツになります。

「隋書」に言わせると、倭の都は邪馬台らしい。とするならば、邪馬台国は九州を本拠地としていたという方がしっくりきます。

前回前々回の記事での結論は、遺跡の発掘状況からして畿内の可能性が圧倒的に濃厚というものでした。

実際、畿内からは纒向遺跡をはじめとする大規模な遺跡が見つかっていますので、かなりの権力を持った勢力が畿内にいた事は間違いありません。

したがって、「日本という国は歴史上ずっと単一王朝である」という前提に立つのであれば、邪馬台国は畿内で間違い無いのでしょう。

しかし、もしそうでは無いならば。

旧唐書にあるように、「倭」と「日本」が別の王朝ならば。

「邪馬台国」は九州に存在した「倭」のルーツであり、畿内で見つかる壮大な遺跡の数々は「日本」のルーツという可能性はありませんかね。

二つの王朝をごっちゃにしているが為に、邪馬台国論争の泥沼が深まっていく一方なのではないでしょうか。

ま、異論反論はたくさんあると思いますが、みなさん詳しくて勉強になるのでよろしくお願いします(´・ω・`)

参考文献、サイト様
・ 倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)
・ 倭国と日本国の関係史
・ 古事記の神々(現代語で)
・ テラさんの万華鏡
・ 古代史レポート
・ ひもろぎ逍遥
・ 鴨着く島 おおすみ

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カテゴリー : 歴史 雑学教養

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コメント (1,698件)

  1. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 19:54:24

    おもしろい

  2. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:05:11

    いつも楽しみに読ませてもらってます。
    個人的には二つの王朝があった説が好きです。
    ロマンがありますね!

  3. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:06:12

    ふむ、ここもようやく日本と倭の違いに踏み込んできましたか

  4. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:10:59

    日本武尊が熊襲からタケルの名を手に入れた話が
    九州を併合し大陸との交易権も手に入れた話に繋がるのかな?

  5. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:12:43

    面白いですね、概ね同意です。

    隋書の時代(日本を現地調査したのは7世紀初め)には冠位十二階なども書かれ、すでに近畿を意味しているのに、その直後に朝貢が途絶えてしまう。
    その後発生するのが、隋による朝鮮半島への侵略と、聖徳太子一族の抹殺と、大化の改新という政変。

    そして国号が日本となり、倭人風習が消える。

  6. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:20:41

    歴史ってこんなにも面白かったのか!

  7. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:31:41

    面白い!
    続き楽しみ

  8. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:34:07

    そもそも単一王朝っていう捉え方が、やや現代の国家観を投影した理解だと思います。
    古代の国が、ある程度各地の土着勢力が連合したような形だったとすれば、
    中国の歴史書に登場する名称が変わることも、内部の勢力関係の変化で説明できないかなと、素人考えには思いました。

  9. 名前:ハインフェッツ 投稿日:2017/06/11(日) 20:40:52

    …これって、白村江の戦いとか大垣遷都とかの少し後あたりの話だよねぇ?

    たしか天知天皇あたりが中心になって百済と政略結婚だの防衛体制を整備だの、あるいは敗戦の原因を指揮命令系統の不統一と考えて国家体制自体を中央集権制へ切り替えていった時代。

    これって唐側の史書だけを根拠に別種だのどっちがどっちを併合しただのという事を断言できる話でもないと思うけどな。
    日本側としては戦争で一時絶たれた中国との国交を新王朝相手に再開しようという時期なのだから、使者が方便で変な事言ってた可能性だってあるし、渡来人が中心になって当時の日本の国家体制を変革していったのを、国を乗っ取られたと考えた日本人がいた為に、そもそも当時の日本の中で考え方が分かれていた可能性だって充分にある。

  10. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 20:45:28

    倭=民族や地域への呼び名
    日本=その倭の地域や民族を統一した国号
    って理解じゃダメですか

  11. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 21:12:36

    管理人は明史・日本伝を読んでくれ
    大陸の史書が必ずしもあてにならないことがよく分かるから
    今回のは「実は~だった!」ってドヤ顔で記事にするようなことではないぞ

  12. 名前:百田 投稿日:2017/06/11(日) 21:16:23

    日本は、あ天、う生・エネルギー、わ地を重要視していた書物もあったし、古えの教えを守る風潮もあった。中国だって昔から日本と交流があったということは伝わっているだけで、王朝が代われば大事な事じゃない。日本は継続している。インターネットがこれだけ発達しても両国の認識は違う。日本が礼儀としてもてなしたのを、ひれ伏したと勘違いすることもあったとおもうよ。中国の書物を見て判断するんではなく、口伝本や遺跡を含め日本の古伝を先ず検証するべきだ。

  13. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 21:20:09

    日本中央の碑がある場所を日本の中央と考えれば、日本と倭の二つの王朝があったと言うのも頷ける。

  14. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 21:24:53

    そもそも中国が五胡十六国だの南北朝だのでわやくちゃになっていた時代、日本みたいな遠い民族のことなんか構っていられなかったわけじゃん。ただ少なくとも倭の五王は南朝と積極的に交流していたし、その主張するトコロによれば日本列島から朝鮮半島にかけての広い範囲に勢力拡張しようとしている。
    かりに卑弥呼の時代の倭(中国人が認識しているところの倭人系諸王国)が、のちに日本を自称することになる大和政権に征服されたという事実があったとして、その大和朝廷はとっくに中国の南朝と交流を持っていたワケ。それを後からやってきた北朝系の隋や唐が、日本の内情を知らず、埃を被った時代の倭の記述を引っ張ってきてなんかコイツら違うっぽいと思ったとしても、それを正確に記すすべはたぶんなかった。唐は一時期日本と敵対していたわけだし。

    卑弥呼の邪馬台国が大和朝廷とは異なる、九州の地方政権だったという考えは全然あっていいと思うけど、その内情が遥か後代の隋書や旧唐書に読み取れるかってのは厳しいんじゃないかなぁ

  15. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 21:42:31

    旧唐書で日本の使者の言ってることがコロコロ変わってるのって、
    日本出身の使者と倭出身の使者が両方派遣されてて、
    両者の認識が微妙に食い違ってたから…とか?

    もしかして日本は倭を併合して初めてシナ王朝の存在を知ったんじゃ?
    だから日出る国とか尊大な態度とか、シナに侮られないように虚勢を張った。

  16. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 21:59:01

    「日本」て言う呼称が紛らわしいので、近畿王朝とか奈良政権とか、九州の倭みたいな別の言い方ないかなあ
    大和政権とか邪馬台国とか言うからみんなムキになって否定/肯定しなきゃならんわけでさ
    もうちょっと冷静に考える良い機会だと思う

  17. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 22:04:45

    すげー(小並感)
    魏志倭人伝以外にも記述があったのね

  18. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 22:30:11

    『隋書東夷伝』には裴世清の報告がどれくらい反映されてるのだろう
    記述だけだと魏志倭人伝と同じく対馬や筑紫、阿蘇山など九州の地名しか出てこない
    彼は九州から外には出なかったのだろうか
    それから、隋の使節団が「まるで中国のようで何故野蛮人と呼ぶのかわからない」と言っている
    秦王国とはなんだったのだろうか

  19. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 22:39:05

    驚異的に面白い。

    古代の日本の情報が全くなく、
    日本史でも突如奈良時代からになる印象があった。

    全ての本当のことを知っている人間は現代に果たしているのか。

  20. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 22:49:21

    隋の時代について。
    魏志倭人伝で(帯方郡使が)南と考えていた方向が、隋書では東と認識されるようになった。しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている。隋代に至っても、方向認識はいいかげんである。
    瀬戸内海を航海して十余国を通過したあと、大阪湾で行き止まった。それを「海岸に達する」と表現している。筑紫以東は倭に属すと記すが、ツシマ国、イキ国は倭語の地名である。

    筑紫までが倭を名乗る大和で、対馬壱岐半島南部が本来の倭だった可能性も読み取れるね。
    北九州から朝鮮半島にかけて、大和の方針に従わない事が多かったらしい?

  21. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 23:03:43

    明史の日本伝みたいにおそらくまた聞きで書いたものが
    とんでもな内容になるのはわかるんだけど
    隋書の方は実際に日本の政府の使者が中国まで着てて
    聞き取りもしてるっぽいのに内容があやふやなのが異質だな
    「日本側の言うことはよくわからん。信用できん」って
    ストレートに書いてる意味では正直な記述なのでわ

  22. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 23:18:56

    隋書の記述に裴世清の報告が反映されてるとすると
    7世紀初頭の倭国は「男女ともに顔まで全身に入れ墨をして
    魚を獲るのが得意な人々が住む冬でも温暖な国」ということになる

  23. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 23:37:35

    恐らく邪馬台国が朝貢したころは、日本列島及び朝鮮半島南部に我々の先祖の連合国家群が
    少なく見積もって5個程度(祭祀形態から推測)は並立していたのではないかと思う。
    そのひとつが日本の前身であったと考えるのは自然であると思うので、邪馬台国=倭で九州に
    あったとしても、それを認めることは日本の連続性を否定することにはならないと思う。
    九州で邪馬台国と狗奴国が戦ってるのをしり目に、近畿で勢力を順調に伸ばした日本が
    その他を圧倒する展開なら何の矛盾も生じないんじゃないの?

  24. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 23:40:35

    うーんでは
    「日本」って何をその当時意味してたんだろ?
    どうも関東や東北が入っていないことは確実なようなんだけど。

  25. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/11(日) 23:54:49

    倭人は元々中国大陸~朝鮮半島~日本列島かなりの広範囲に分布してた
    海洋民族っぽい感じだよね
    そして特徴は刺青。周の文王の兄・大伯が倭人の国である呉の王に封じられるときに
    民に馴染むため刺青をほどこしたという伝説が残っている
    呉は夫差(臥薪嘗胆の人やね)の時代に滅亡し、呉人は散逸した。
    いくらかは日本に来て皇室の祖となった。皇室の姓は呉王家の姓「姫」であり、
    だから中世の日本は対外的に「姫氏国」と名乗ったんだという与太話もある

    まあどこまで本当かはともかく呉とか越みたいな古代中国の沿海地方の人々は
    相当数日本に流入してるんじゃないかな
    そしてほぼ対岸と言っていい九州に渡り縄文人と同化し国を作った

  26. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 00:05:06

    里を知らず日数で距離を数えるというあたり魏志倭人伝の道程が
    里から日数に代わるあたりはやはり倭人からの伝聞だったということだろうし、
    結局、中国側も倭が日本に変わったあたりのことはよく知らない、
    九州までは昔使者が行ってたからなんとなくは知ってる程度だったって感じ。
    倭から日本への数百年というスパンの中で何があったか、明確な国家の枠組みがあったわけでもないし
    単純にどっちかがどっちかを併合したとか字が嫌で改めたって話だけでもないだろう。

  27. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 00:25:10

    面白く読ませていただきました。

    白村江で日本が唐朝に敗北して国内で防衛体制が取られるのは有名な話ですが、一方で唐朝との朝貢貿易は復帰しています。個人的には朝貢貿易に復帰するために「唐朝と対立した国はもうありません」という体裁を取る必要があると日本側が認識し、新国号を名乗ることにしたのでは?そして慌てていたため情報の統一が遣唐使の構成員に対してさえできず、結果として「倭国」が併合されたのか「日本」が併合されたのか聞く相手によってまちまちだったのではないかと両唐書東夷伝を読んで考えていました。

    『旧唐書』自体が一度散逸して現行のものは改めて再編されたものなので『旧唐書』東夷伝の内で、本当に「倭」の条と「日本」の条を分けていたのかの確認をとる必要があります。何故なら『旧唐書』で「別種」と記しながら「倭」の条の最終年次は貞観22年(648)で「日本」の条の最初年次は長安3年(703)なので「倭」と「日本」を同一の勢力と考えたほうが理解しやすいと思うからです。加えて、二つの国が別種というなら「日本」の条に「倭」と並立した時期の記述はないのは不自然といえましょう。

    また、白村江の戦いが663年で、ちょうど「倭」と「日本」の名称変更の時期に当たるので、私が上記のように白村江の戦いと朝貢貿易への復帰と国号の変更がセットではないかと妄想するんですよねえ。
    長文失礼いたしました。

  28. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 00:35:38

    そもそも昔っから邪馬台国と戦争していた狗奴国が大和朝廷の源流なんじゃないかって説はありますね
    現に邪馬台国はそこに負けたみたいだし

  29. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 01:41:57

    出雲は結局どういう立ち位置なん?

  30. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 02:45:00

    日本の神様にも天津神と国津神があるし、もともとそのへんは複雑だったんじゃないのかね
    やっと大和朝廷が形になってきたところで古事記・日本書紀を編纂して「うちはこういうことにしてやっていくんで」と宣言したんじゃなかろうか

  31. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 03:56:45

    前の記事のコメ欄はカオスだからID導入してくれ

  32. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 05:14:39

    弥生時代中期には既に大量の銅剣、銅鐸を持ち繁栄していた古代出雲の国も忘れないであげて

  33. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 05:57:25

    中国の春秋戦国や三国志みたいに、日本でもこの頃から有力な国の有力な武将が戦ったり同盟結んでたりしてたと思うと興奮するな

  34. 名前:名無し猫 投稿日:2017/06/12(月) 09:00:10

    「古田武彦」
    九州説の古田は倭人伝を全部信用するところからスタートした その理由は「彼の国では出張の規定が厳格なので方角も里程も正しいはず」だった

    同じ轍を踏むべきではない

  35. 名前:  投稿日:2017/06/12(月) 09:20:06

    多分「倭国」と「日本」との流れを疑ったのは、彼ら自身がこの2つの使節が「他民族」もしくは「別集団」と認識できないぐらいだったってことでしょうね。
    中国の各歴代の王朝も漢人王朝が主流だけどその他の民族王朝もいくつかかるし、特に漢人の王朝が続く場合、前王朝が正しくないことを行ったために現王朝が出来たことを示すために国史を書いたわけだから、そのためにも前王朝の歴史を詳しく書き込まなくてはならなかったってことは考慮しないと。
    漢人の思想からして蛮人・異邦の弱小民族だからって適当なことを書くのではなく、自己正当化のために万全の準備と配慮(戦略)をしてるはず。
    当時の中国王朝が分からしたら、日本(倭国)的な禅譲や合同感は理解しているはずもないですよね。

  36. 名前: ※35 投稿日:2017/06/12(月) 09:23:37

    当時の中国王朝側からしたら○
    当時の中国王朝が分からした×

  37. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 11:59:32

    面白いなぁ
    もうブログで書くの勿体無いから、本でも出せばいいのに

  38. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 12:19:19

    記述されてる歴史書が少なすぎるからなかな当時の全容を把握するのは難しいですよね
    でも面白い考察でした

  39. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 12:46:49

    当時の集落圏から、九州と近畿に国家圏があったのはよく知られている。
    なら先に中国と朝貢をしていたのは、交易ルートの起点がある九州勢力=倭
    倭を駆逐した日本とは、近畿圏の大和朝廷の事だろうと推測しやすい。

    ところが日本に関しては、関東平野の都市国家の総称と記載している書物もある。
    そして、古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく、そして多い。
    関東は近畿より強大な力を持っていたとされる。

    これからは九州・近畿・関東の三つ巴になるんかね?

  40. 名前:かきざき 投稿日:2017/06/12(月) 12:53:33

    私も最近そういう本を読みました。
    「大宰府は日本の首都だった」(内倉武久著)
    内容に関しては同意します。
    倭の歴史(九州)を大和政権(日本)が自分のものにして
    日本書紀を作ったと考えています。

  41. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 12:55:31

    四国に古墳多かったりなんか別の勢力あったんかね?
    四国は四国で山(天)の民海の民、平?民と勢力があったみたいだけど

  42. 名前:かきざき 投稿日:2017/06/12(月) 13:11:55

    また、日本書紀では現代史たる舒明天皇以降は信じられるが
    それ以前の推古天皇までは信用できないという岡田英弘氏の
    主張も納得です。

  43. 名前:  投稿日:2017/06/12(月) 14:14:56

    少なくとも西暦6~700年代まで大和政権(近畿)は九州地方を手に入れてなかったのが分かるよね
    大和が九州の後継か分派かどうかは別としてその頃までは二つの王朝があってそれぞれ中国と関わっていたと
    それ以前も「日本」の前身のような政権はあったかもしれないが中国が認めてくれない可能性もあるので「倭」と騙った可能性もあるな
    だから中国が「彼らの言うことはバラバラで信用できん」って言うのも意味が分かる

  44. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 14:17:08

    日本の神話に神様が沢山いるのってもしかしてこんな風に沢山の国が集まってた地域だからってのあるかな?
    征服した国で信仰されてた神様やら神官やらを取り込んでったからとか

  45. 名前:  投稿日:2017/06/12(月) 14:44:06

    単に統一王朝が出来ていなかっただけでしょう。
    その証拠になるかは知らんけど、吉備や出雲の存在をどう位置付けるかということです。最終的には大和において統一王朝が出来るという運びになるわけで、それまでは様々な勢力がいたんだがそれが徐々に収れんされていくというだけのことでしょう。
    よく欠史八代ってのが出てくるけど、あれは要するに収れんしていってる過程で、特に戦をおこさなかったがために目立ったことがなかったために、事績が残らなかったんではないかと思う。出雲が出てくるのはこれは血を見ることになったからなのと、最後の大物だったからだろうと考えれば、少なくとも古事記や書記についてはつじつま合わせが出来る。

    それと、一応それしかないとはいえ、シナの史書もどこまで信用していいのかというジレンマが付きまとう。

  46. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 14:45:36

    文献と考古学的証拠を照らし合わせれば王権が存在したのは
    1世紀九州倭奴国→2世紀畿内邪馬台国→(空白)→5世紀大和朝廷(のちに国号を日本とする)
    祭祀から見て九州にあった勢力が1~2世紀に畿内に侵入した可能性が高い
    別種の可能性は低いかもね
    唐書の記述は当時の中国人はそう認識していたという話

  47. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 15:16:57

    100%信じるわけでは無いけれど新しい考え方がすごく面白い!
    良いもの読ませてもらった管理人さんありがとう!

  48. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 16:15:33

    当時の中華思想の中では、朝貢してきた国が、「日出處天子致書日沒處天子無恙」と、対等だと主張してきた国が同一だと認識したくなかった(理解できなかった)んだろう。

  49. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 16:21:10

    ※39
    >古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく、そして多い

    古墳時代にすでに古墳が破壊されていたことが発掘などにより明らかになっている。
    関東は近年まで発展しなかったから古墳が多く残っているんだよ。

  50. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 18:11:23

    >39
    >古墳規模は関東の方が、近畿よりはるかに大きく
    古墳時代の前期なら前期、中期なら中期と、各時期で見ていくと常に最大の墳墓は畿内にあります。
    近畿よりはるかに古墳規模の大きな関東の古墳って、どれのことをおっしゃっているのでしょうか?

  51. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 18:56:01

    倭=邪馬台国=九州
    日本=大和朝廷=奈良
    とても分かりやすい

  52. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 19:16:10

    神武東征は大和朝廷が倭国の歴史を乗っ取り倭国と同一政権だと喧伝する目的で作り上げた歴史だったのか!?
    古代日本の統一政権の移り変わりにはロマンがありますね

  53. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 19:20:53

    面白かったー

  54. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 19:24:28

    正史だと一貫して倭は九州だよね。
    日本になってから畿内のことが描かれるようになる。

  55. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 19:26:09

    日本書紀も皇女や皇后に卑弥呼っぽいエピソード入れたけどそれが嘘で信用ならないとされたのかな?

  56. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 19:42:51

    大陸側が、倭国は在會稽之東(會稽の東に在り=九州からずっと南まで続く)って思ってたのに、そうじゃない(九州から東に大和がある)って言ったから、嘘で信用ならないとされたんじゃないの?

  57. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 20:21:58

    独自の文化を持った巨大勢力だったと考えられる出雲とか
    隋の人が見ても大陸と同水準(というか大陸そのもの?)の文化を誇った秦王国とか
    関東一円を支配してたっぽい毛野一族とか
    なんか謎の勢力の断片みたいなものはいっぱいあるんだよな

  58. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 20:52:14

    倭=民族や地域への呼び名
    日本=その倭の地域や民族を統一した国号


    これだけで終わる話

  59. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 21:11:48

    ※58
    つまり邪馬台国は北部九州である倭の王だから親魏倭王で九州から関東まで統一したヤマト王権が日本なんですね
    納得です

  60. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 21:12:10

    中国の史書をそのまま信じるってスタンスを取るなら
    「邪馬台国は海の中にあった」って記事も書けよ

  61. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 21:13:50

    大王が前方後円墳ブームを作る前は銅矛文化と銅鐸文化があってそれぞれ倭と日本だったのかな

  62. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/12(月) 23:31:07

    おもしろい。
    毎日更新してください。

  63. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 01:56:23

    読み物としては面白いけど無理があるわ
    古代史の通説をそのまま書いても意味がないから奇をてらったストーリーを書いたって感じ
    こういうのは考古資料を無視して文献のみを恣意的解釈しても意味がない
    まず3世紀以降の九州に大きな独立勢力があったことを証明する物証はない
    むしろヤマト王権に組み込まれていったことが古墳や土器などの考古資料から明らか
    日本側の文字資料としては稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀から5世紀後半の雄略天皇の時代には
    少なくとも埼玉から熊本までがヤマト王権の版図になっていることが証明されている
    聖徳太子の時代の遣隋使まで否定してしまうのはやりすぎ

  64. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 05:16:37

    一ついえるとすれば、昔の日本列島には縄文の流れを継いで大小、様々な勢力が存在していたのだろう。
    大きめの勢力がいくつかの小勢力を緩やかな支配下に置くことはあったろうし、
    どこにも属さない孤高の勢力もあったかもしれない。
    そもそも同じ2勢力間でも、時に友好、時に上下、時に上下逆転などはあったろう。
    ただ、交通手段が主に徒歩と船であり、山や川が多く、平野や盆地が細かく点在していることから、
    各地で独自の文化圏を維持しやすかった。戦の際も敵を根絶やしにはしなかったし、敗者に圧政を敷いたりもしなかったのではないか。このため、離合集散が比較的緩やかに行われた。
    日本アルプスや中国山地に阻まれた関東、東北、出雲の地域が分かりやすい。
    その上で、倭と日本の名の関係性だが、ある勢力が戦の勝敗にかかわらず大勢力となった際、倭より日本の名を良しとして選んだ。歴史は、対外的に伝統ある永と伝わるものを維持し、受け継ぎ、誇示した。

  65. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 10:01:59

    面白かった
    個人的には邪馬台国と大和朝廷は無関係と思っているので、すんなり納得できました

  66. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 10:51:41

    日本書紀の記述が色々怪しいことも鑑みて、磐井の乱の位置付けが気になるところ。

  67. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 11:38:14

    ヤマト王朝最初の遷都が九州から畿内への大移動だったんちゃうん
    あるいはそこでクーデターなりあったにせよ

  68. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 12:43:00

    >66
    磐井の乱のずっと前から、古墳時代の最初から九州でも前方後円墳が作られていて、その意味で「前方後円墳を共通に作る範囲」に九州も入っています。そして、その範囲で盟主といえる最大級の古墳は畿内に集中しています。

    この「前方後円墳を共通に作る範囲」が、倭の五王の武の上表文の範囲だと思います。この範囲内で、複数の王権を考えるかどうか、という問題だと思います。普通に考えれば、大王は畿内にいて、各地の豪族はそれぞれの地域の首長だったでよいと思うのですが。

  69. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 15:01:04

    いろいろ書いてるけど、結局のところ邪馬台国=九州説の立場なんだよね。
    その九州説も結局のところ
    >「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。
    この部分しか根拠がない。

    >前回前々回の記事での結論は、遺跡の発掘状況からして畿内の可能性が圧倒的に濃厚
    と書いてあるのに隋書に阿蘇山が記述されているというだけですべてを否定できるのかな。

    中国の歴史書をありがたがっているようだけど、渡邉 義浩『魏志倭人伝の謎を解く – 三国志から見る邪馬台国 』(中公新書) あたりを読むと、無条件で信用できるものではないと思う。

  70. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 15:22:16

    そらぁ中国だって2つ3つの国にずっとなってるし、半島ももともと3つか4つの国だったんだろ。
    うちはずっと1つでしたなんて言うのは不自然だからなぁ。
    そうはいっても日本は少なく見ても大昔は3つの国ではあるけどな。

  71. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 17:50:40

    >69
    そういうことだな
    邪馬台国九州説の立場でさらに九州王朝説まで取り込んだ荒唐無稽なお話に過ぎない

  72. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 18:21:08

    日本内でも倭、大和他いくつかの勢力があったってだけでしょう
    最終的に統一王朝に全てが収斂されただけでは?

  73. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 18:36:26

    直接こちらの都まで行った例が殆どないまま交流してたんだから別におかしくはないでしょうね。

  74. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 18:48:38

    >72
    >最終的に統一王朝に全てが収斂

    この「統一王朝」というのが、何を意味するのか、何をイメージするのか、というあたりで、個人個人の考えること、印象が異なるので話が拡散してしまうんですよね。

    大和朝廷(大和王権)といっても、中央集権的な国家になるのは律令の整備がなる頃でしょう。とはいえ、その前に日本(倭国でもいいですが)という枠組みがなかったかといえば、そうではないと思います。

    広瀬和夫あたりは、前方後円墳で祭祀を統一した範囲を国家として認める立場です。となると、古墳時代に入るところで、統一国家(東国の蝦夷を除く)と見てよいと思います。その一方で、各地で首長墓を作る主体(後の豪族)は自立している訳ですが。

  75. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 19:48:50

    そもそも日本人は古墳時代より前の国々について関心薄いし、ロマンも薄いんだよな
    その頃のは「遺跡www」「土人www」程度の認識しかないし、それぞれの独立勢力が国を作って文明があったという認識があまりない
    文字が残ってなかったってのもあるだろうけど、日本という統一国意識が強すぎるのもあるんだろ

  76. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 19:50:50

    大規模古墳が多いことこそが畿内邪馬台国を否定する最大の根拠
    大規模な古墳を作るのに必要なのは安定した勢力と余剰人員
    邪馬台国の歴史は卑弥呼~トヨの時代は安定してるとも余剰人員が多いとも言えない時代
    倭国大乱、卑弥呼の死後の内紛、数十年単位で争う狗奴国と安定的だとは思えない
    弥生末期~古墳時代前期の邪馬台国ともろかぶりの時代に安定勢力だった畿内は候補地たり得ない
    自分たちの勢力の誇示のための古墳を作るということも古い国家というよりこの時期に勃興した新興勢力だと考えたほうが理に適う

  77. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 20:03:12

    >76
    魏志倭人伝をオレ様解釈して妄想ストーリーを作りこれこそ真実の古代史だと言い張ってるだけ
    問題外

  78. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 21:31:05

    もっとものように見えるが、突っ込みどころが満載の基本的な知識が不足した推理にしかなってません。自説の九州説へ都合のよい部分のみの継ぎ接ぎです。読み物としては面白いんでしょうが…

    >*75
     「そもそも日本人は古墳時代より前の国々について関心薄いし、ロマンも薄いんだよな」
    これは戦後の歴史教育の賜物です。戦後、日本史となってから(戦前は国史)日本の古代については飛鳥時代以降のことしか教科書に載っていません。大半の人は日本の古代というと飛鳥時代を思い浮かべるのではないでしょうか。教科書で習うのは、邪馬台国→古墳→飛鳥時代という流れですね。
    いわゆる古墳時代にあった歴史的事件・事跡は、考古学的に記紀の文に間接的裏付けのとれるものも都合が悪いのか教えません。高校でわずかに出てくるくらいですね

  79. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 21:51:00

    天智朝(近江王朝)=倭
    天武朝(飛鳥王朝)=日本

    これなら短期間ながら倭と日本が並立したことの説明にもなるのでは?

  80. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 22:05:43

    魏志倭人伝の頃から日本列島には沢山のクニがひしめき合っていて、次々に併合していってできた統一政権があり、天智天皇か誰かが「日本」と名付けたのだと思う
    その統一政権が中国に使者を送った際、使者が日本という国の正当性を訴えるために倭国や倭奴国の系譜を引き継いでいることを強調しようとあることないこと喋ったから混乱を招いたのではないか?
    統一政権としては、邪馬台国や倭国、倭奴国を(戦争で?平和的に?)吸収合併していって、それに日本という国名を付けた訳で、これまで中国に使者を送っていたクニを正当に継承しているのだから嘘は言ってない
    しかし、中国にしてみれば、わざわざ「日本」という国名を持ち出したコイツラは、邪馬台国や倭国、倭奴国を征服したぽっと出の新興国家じゃないの?と疑うのは当然だろう

  81. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 22:07:54

    隋書倭国伝、第一回遣隋使を派遣した倭王、多利思比孤の謎もよろ。

  82. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 22:45:49

    >倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している
    「魏志倭人伝」の邪馬台国への行程で、里数から急に日数に変わってるのに関係があるのかな?
    日数になってから矛盾しだすし。

  83. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/13(火) 23:54:36

    旧唐書読んだことあれば常識だろ。

  84. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 00:41:28

    学問の世界では邪馬台国論争は畿内説が正しいことで決着済み
    よって日本が倭の別種とかいうトンデモ説は否定される
    一般人が乏しい知識と昔の先入観で邪馬台国は九州だと思うのは勝手だが
    ただの空想話に過ぎない

  85. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 01:08:46

    わりと基本的な話なのに全力で否定する人が多いのが困ったものだ

  86. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 02:21:08

    前の畿内説九州説の方で、ごり押し畿内の朝日工作員臭いのが、こっちでも全力否定しにきてんな。

    >76
    これはかなり説得力あった。
    古墳時代が2世紀だの3世紀だの言ってるのは、C14年代詐称の嘘歴史だから放置するとして、
    近畿古墳内の炭化物C14と、各大学研究機関が調べた炭化物年代から推測すれば、今まで通り4世紀辺りで大きな矛盾はないし、日本が4世紀になってようやく落ち着いて、古墳時代入ったと見ればおかしい所はなくなる。

    毛野氏はWiki見た程度だけど、北関東(埼玉群馬栃木)の古めの王国で、南関東は東海から伸びてきた人達の別勢力だから(文化の伝わる時期が違う)、そこまでの巨大国家ってわけじゃないはず。
    狗奴国が毛野国というのは、近畿こじつけ妄想だ。南(魏志)でもないし東に海千里(梁書)でもない、両方の記述無視は邪馬台国の存在そのものを否定するようなもの。
    ただ、大和王朝内で大将軍みたいのやって派遣されてた(金字の鉄剣とか出るし)関係で、北九州や朝鮮半島にも影響力持って(百済との交渉任されたりしてたし)領土以上の存在であったと思う。白村江直前に新羅に行ったのも毛野君だった。

  87. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 03:07:09

    この手の記事は読まれてなんぼだから大衆迎合の内容にしなければならない
    そうすると必然的に邪馬台国九州説を前提にストーリーを組み立てることになる
    また通説通りに倭から日本に国名変更したという話を書いても面白くも何ともない
    読み手の興味をそそるストーリーを作ってこそページビューが稼げる
    そういうストーリーを作るために文献史料の都合のいい部分、あるいは解釈次第で自分のストーリーに合わせらる部分のみを抽出してくる
    もちろん都合の悪い部分は切り捨てる
    考古学的見地からのアプローチは難しいので全部カット
    そうやって作ったストーリーは物証と矛盾してるが読み手のほとんどは考古学の知識がないから矛盾に気付かない
    むしろスムーズで明確なストーリーにこれこそ真実だと思ってしまう人もいるだろう

  88. 名前:名無しさん 投稿日:2017/06/14(水) 04:01:24

    おもしろい
    でも↓には反対
    >しかし、中国人は「歴史」という概念をよく理解していたので、
    >これだけコロコロと王朝が変わっても、キチンと歴史書を残してきました。
    新政権に都合の悪いことは改ざんされていたと思われるのでその辺は眉に唾を付けるべき

    それはさておき、金印を賜ったのは倭の国で日本ではないという事なのかな
    国号が日本に変わった時、金印は行方不明になってた(つまり戦乱があった)という事?

    琉球は銀印(金メッキ)で朝鮮は銅印とも聞くが、朝鮮は高麗百済新羅のいずれが印を
    賜ったのか?というのも興味深い。(百済は日本の支配下だったようだが)

  89. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 05:05:12

    調べてみたらこんな感じ?
    親魏倭王(金印)>半島国(銅印高句麗)
    倭の5王(将軍)<半島国(高句麗、百済、より上位の将軍)
    遣隋使は天子(天皇)を名乗り、無礼な使者を追い返した(印綬無しの対等?)>半島国
    足利義満(金印)=半島国(高麗金印)
    豊臣秀吉金印拒否で対等?>半島国(李氏朝鮮金印)
    日本国>半島国(石印属国旗)

    小国に金印渡したり、朝貢早い順に良い位をあげたり、遠方の事は手抜きだったから比較はあんまり意味ないらしい。
    豊臣秀吉への和平交渉で朝貢無しの金印とか、逆に北方騎馬民族に朝貢やらされてるのに形式は自分たちが上とか、華夷秩序なんて国内向け自己満足のお遊び。

  90. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 08:01:43

    >81
    >倭王、多利思比孤の謎もよろ
    ブログ記事中の新唐書の訳では、しれっと用明天皇って書いてるよ。
    一つ前の記事でも「ちょっと荷が重い感じ」とか書いてるし、ブログ主はそこまで詳しくないみたいだね。

  91. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 08:10:45

    阿蘇山の記述で「中国にろくな火山ねえのかよwww」とか思って調べたら、本当に大した火山がないんだなあっちは

  92. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 08:54:07

    邪馬台国が倭人(熊襲)の国で、日本は半島から来た天皇家(三韓の辰王)だな

  93. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 11:12:49

    古代史を勉強すると
    スレ主と同じ結論にたどり着く
    古事記や中国の古文書を普通に読むだけ

    邪馬台国と大和朝廷は同祖だけど別の王国
    出身はどっちも九州だから倭
    神武東征(移住)で倭の別種になった

    畿内には大和朝廷以前にニギハヤヒ系を王とする別の王国が有った
    東日本や北日本にも別の王国が有ったようだ

  94. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 11:17:16

    全国に有ったこれら縄文王国を束ねたのが出雲王国
    だから日本中から神(主)が集まったとされる
    半島も支配下

    それが大和朝廷に支配されて消滅した
    出雲は政治には関わらないと約束し
    今も選挙に行かない

  95. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 11:25:19

    ※44
    出雲のオオクニヌシが様々な別名の神と同一視されているのなどはまさにそれだろうね。
    オオクニヌシを奉じている集団が、他の集団を併合し、その過程で「お前たちの神は実はオオクニヌシだったのだ」ということにしていった。
    ギリシアでゼウスがやたらあちこちで子供を作るのも、インドのヴィシュヌが多くの化身を持つのも同じ現象。

  96. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 11:30:56

    ちなみに大和王権は
    自分たちより歴史がある出雲を当初は尊重していた
    ただ中国や仏教に傾倒していく過程で捨てた

  97. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 12:27:07

    日本の神は「お上」でもある
    指導者や王様みたいな人も「かみ」というからね

  98. 名前:おむすびころりん 投稿日:2017/06/14(水) 12:57:27

    倭国は北九州(福岡)の中央政権。卑弥呼の邪馬国も含む。天子を称して隋に対等外交を認めさせた阿毎のタリシヒコはこの政権の皇帝。
    この頃には「周の時代の理想の『天子は九州を治むる』」にあやかって首都(太宰府?)のある島を九つの州クニに区分する(九州の由来)。この皇室の氏は阿毎=天アメor海部アマ。白村江の戦いで敗北(支那の歴史書では皇帝や生き残った皇子・将軍らは捕虜)して衰弱して消滅。

    日本国の始まりは、A.D.150年前後、祭器・神器を剣鉾ホコとする文化圏の倭国の有力豪族が権力闘争で追い込まれて東方(祭器・神器を銅鐸とする文化圏)へ武力植民(神武東征)
    に成功した地方政権。
    この王家=今の天皇家の氏は鵜ウがや(神武天皇の父の氏名が鵜がや不合葺フキアエズの命ミコト)。
    暫シバラくは支配地は奈良盆地(ヤマト)位でヒッソリと暮らしていたが、3世紀の半ば前後以降の十代目の崇神天皇が一気に畿内と周辺に勢力を拡大。この為に屈服した部族・小国から銅鐸を破損廃棄させられ、銅鐸圏は崩壊。
    白村江の戦いで一気に衰弱した北九州の中央政権の倭国の支配地を様子を見ながら奪いと
    って新たな中央政権=大和朝廷を確立。

  99. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 13:40:31

    >93
    × 古代史を勉強すると
    ○ 古代史を中途半端にかじると

    × 古事記や中国の古文書を普通に読むだけ
    ○ 古事記や中国の古文書を検証せずに読むだけ

  100. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 14:46:20

    資料が少な過ぎると言いながら、神代文字を無視してるアカデミズムの問題がある。東大教授でさえもNHKに於いて、古代の日本には文字は無かったなどと発言している愚かさがある。何処まで隠蔽したいんだか…。最早「言戸閉め」は終わりだろうに…。何処まで日本人を閉じ込めたいんだか…。

    秀真伝などの太古の資料と照らし合わせれば、一方向からの視点の問題も、より改善されるであろう。そして秀真伝などの資料は、太古の時代から、日本には文字が存在した事を証明している。もうレッテル貼りと隠蔽の時代ではないと思われるが…。歴史学者の大半は隠蔽するために活動している一派でもある。もう邪魔にすらなって来ている。

  101. 名前:名無し 投稿日:2017/06/14(水) 14:49:27

    日本には隠された地名がある。沈んでる地域もある。

  102. 名前:開花神道 投稿日:2017/06/14(水) 14:57:06

    ファンタジーのフィルターを外して日本の神話やお伽話を読めば、そこに建国・征服の真相臭い事が結構書かれてると思うんだけどね。

    倭国・邪馬台国=九州に有った国(中華の属国)
    大和国=畿内に有った日本の前身で連合国
    高天原=中華(唐・武周)
    天照大神=武則天(武照)
    タケミカヅチ=進駐軍司令官(藤原氏の祖•武氏)
    国譲り神話=進駐軍に抵抗した出雲国(モリヤ・ユダヤ系王国で日本の前身の一つ)のお話
    因幡の白兎=半島から逃げて来た有力者(百済・伽耶系)で出雲国王(大国主・ナシー)に助けられた
    浦島太郎=武内宿禰=蘇我氏の祖

  103. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 15:03:54

    なんか一気にトンデモに流れてるな
    何があった?

  104. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 16:25:08

    ※103
    邪馬台国=九州説派が、前スレで論破されまくって、悔し紛れに必死で書き込んでいるだけの事。

  105. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 20:26:11

    邪馬台国は熊本で決まりや

    その証拠に畿内の大和王権は中国への朝貢の作法すら知らず
    皇帝や使者を何度も激怒させてる

    朝貢未経験であることがバレバレ

  106. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 20:43:35

    この時代って、

    大化改新
    白村江
    壬申の乱

    があってその辺りのゴタゴタは非常にロマンがあるけど、
    阿蘇山→九州!
    はちょっと無理があるでしょw
    もうほとんど畿内周辺同士の争いであって九州は関係ないと思うな。

    んで、日出づる所の天子←ここ重要
    とかいい出したから中国人はブチギレたんじゃないの?
    お前調子乗んなよと。もうお前なんか知らんわ破門じゃボケと。

  107. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 20:49:19

    古事記の記述でも征西はあるので、ここでいう「日本(大和朝廷)」と「倭」の二大勢力が関西以西に存在したというのは矛盾は無い、と思う(あくまでも現代語訳された古事記の記述が正しいとすれば)
    要は時系列があやふやなのを、変に権威づけようとしてかよく判らない形にしたのおかしいのかもしれない(特に寿命)
    大まかな流れ的にはあってるんじゃない?

    ただ、邪馬台国は九州の方があってそうになる気がするけど(だからどうした)

  108. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 20:58:05

    >「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。

    いやいや(笑)
    調べてもらえばわかるが畿内周辺に火山は全く無いんだよ。
    本当に綺麗に全然無い。本州の火山もみんなそこそこ遠方になっちゃう。

  109. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:11:18

    史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。(wiki「倭国」)

    倭=日本でいいんじゃないの。

  110. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:24:57

    文体も含め、古事記は国内向け、日本書紀は国外(唐土)向け

    王朝が変わるたびに、新皇帝の正当性(徳)のために改ざんされ続けてきた、自己にしか興味のない人々の伝聞による史書(王朝末期の皇帝は悪く書かれる。)だけを根拠とし、日本人が書いた日本の文書は信用に足らず、唐人が書いた文書は信用できるという根拠がわからない。
    現に、清朝末期の歴史も毛沢東によって思いっきり改ざんされているのは、当時の日本の書籍を丁寧に読むだけでわかるのだが。

  111. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:28:01

    日本と倭が別物であれば、過去の先祖の名前に征伐した「倭」という文字をヤマトと読ませて使うことはあり得ない。
    征伐し統一したことを誇ることはあっても、なかったことにする意味も理由も都合もない。

  112. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:36:37

    >んで、日出づる所の天子←ここ重要
    >とかいい出したから中国人はブチギレたんじゃないの?

    朝貢なのに国書を忘れるって大失態をしたんだがw
    ありえんだろw
    次が日出づる所の天子w
    中華皇帝ブチギレw
    中国の使者が畿内に行っても礼を欠き使者ブチギレw

    朝貢に礼を尽くしていた邪馬台国なら有り得ない失態の数々を大和朝廷はしている

  113. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:45:11

    ※112
    新羅と百済を介して敵対してたし、わざとだろ

  114. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:46:29

    >日本と倭が別物であれば、過去の先祖の名前に征伐した「倭」という文字をヤマトと読ませて使うことはあり得ない。

    成敗しても
    権力が不安定な場合は過去の権力を身にまとうぞ
    つまりクーデターで政権を握っても過去の権力を継承したと主張し
    権力が安定したら新たな国名を名乗るってのが普通だ

    大和王権はクーデター的に日本の実権を握ったので「倭」を名乗ったのだろう
    やがて「大倭」と書いてヤマトと呼ばせるようになり
    さらにヤマトは「大和」と書かせた

    そして最後は「日本」と改名した
    当然過ぎて草w

  115. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:52:53

    >新羅と百済を介して敵対してたし、わざとだろ

    その前の倭の五王は中国から官職をもらってる

    『宋書』夷蛮伝 自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。
    『宋書』文帝紀 宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。

  116. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 21:59:54

    ※115
    で?それがどうしたの?

  117. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:00:22

    ※144
    >権力が不安定な場合は過去の権力を身にまとうぞ

    身にまとうことは、非常に合理的なんだけど、隠す必要性はない。

  118. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:07:54

    中華皇帝から「安東大将軍倭国王」の称号を得るような倭王が
    朝貢で国書を忘れるとか
    日出づる所の天子と名乗るとか
    有り得んでしょw

  119. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:17:32

    時期的に魏志倭人伝を把握した上で、ほぼ同時期に天武天皇の指示のもと、日本漢文体の書と漢文体の書で内容も若干違う(語彙の漢字も違う)史を編纂した理由。
    どちらの書も倭を否定し日本を正統とする記述がないことが留意点。

  120. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:20:29

    いずれにしても闇深な話だ。

    争いに次ぐ争いの時代を経て、
    大陸から人材が輸入されだしたあたりから、
    孫子の兵法を修めた大陸人がクーデターという手法を倭に持ち込み、
    我が国の歴史を混沌に導いた。

    個人的にはヤマト(北部九州)の中枢に入り込んでいた大陸系が失脚し
    日向に逃れた後、ヤマトの名を騙りながら東に向かい
    畿内で土着の豪族の協力を得て日本を建国。
    やがて西に向かい、クーデターによって本物のヤマトを打倒し、
    素知らぬ顔で倭のフリをし続けた、のが真相ではないかと思っている。

    現実とはそんなものだ。

  121. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:22:27

    ※118
    字も知らない土人だったときは可愛げがあったけど、
    字を覚えて自我が芽生えたと考えれば不思議では無い

  122. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:26:57

    倭と日本が別だって言ってる人は
    ・倭の範囲はどのあたりで
    ・倭の首都はどこで
    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  123. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:40:02

    毛人の国は東北じゃなくて、群馬栃木じゃないのか?

  124. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 22:41:50

    倭と日本が同じだって言ってる人は
    ・倭と日本の範囲はどのあたりで
    ・倭と日本の首都はどこで
    ・倭と日本が同勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  125. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 23:19:36

    >124
    通説通り
    いちいちそれぞれの個人が答える必要なし

  126. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 23:23:00

    そりゃ唐の時代はまだ日本は倭国と名乗ってて
    7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のまま
    改名するのは大宝律令の後だよ

    日本書紀と古事記の編纂は720年と712年
    対する旧唐書の編纂は945年と200後の資料で
    評判は悪くて、北宋時代に新唐書が再編纂されるといった始末だ
    ただ根拠がないわけではなく、中国側は壬申の乱をもって
    「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したと考えたらしい

  127. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/14(水) 23:42:32

    ※124
    122には答えられんのか…

  128. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 00:01:01

    ※127
    124には答えられんのか…

  129. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 00:03:20

    >125
    124には答えられんのか

  130. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 00:18:54

    124に対しては答えてるだろが
    わからないなら教科書を読め
    以上

  131. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 02:37:30

    これを戦国時代に例えると分かりやすいと思う
    北九州の覇者で自称日本の王の大友氏(邪馬台国)が中国と関係あったので文献に乗りましたよ
    その頃近畿地方では織田氏(大和政権)が順調に力を蓄えてますよ
    色々あって邪馬台国と大和政権が統一されて豊臣氏(日本)になりましたよー
    単純にこんな感じだと思うけど
    対外的に名乗る名前(中国側が認識して呼ぶ名前)は邪馬台国も大和政権も倭国なんじゃないの?
    おそらく大和政権が中国側と交流もってて文献に書かれてたとしても中国側からしたら倭国扱いじゃないかな
    同じ倭国(のちの日本)で大友政権(邪馬台国)と織田政権(大和政権)の大友政権が文献として記録されただけでしょう

  132. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 05:48:03

    銅鏡とかの宝物等が移動できるって事を忘れてる人畿内説に多いよね。
    中国から送られた宝物を、その国を負かした国が略奪等して自分の本拠地に運んだかもしれないのに。

  133. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 07:14:00

    >132
    一つも残さず、一つも現地で副葬される前に略奪できるなんてすごいですね(棒)
    卑弥呼の最初の遣使239年から台与の(と言われている)266年の遣使まで、少なくとも27年間は邪馬台国は滅ぼされてないんだけど、その間の痕跡も拭い去れるとしたら、本当に畿内政権はパない実力でんな。
    それだけの実力差があったら、その前から倭国の中心は畿内って方が自然だろうに。

    3世紀以降の記年銘鏡が国内で13面出土しているけれど、九州からは1枚も出てないよね。

  134. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 07:21:37

    >76,86
    海を越えて、20人の遣使団と生口30人を送り込める邪馬台国が疲弊した国ってのは最初から無理があるだろう?

  135. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 08:56:48

    ※121
    字を知らないと言ってるが
    卑弥呼ですら使者に上表文を詔してる。
    当然漢字を書けたってこと
    中国に行って全く言葉がわからないようでは駄目だから
    当然通訳みたいなのもいたはず
    倭人に漢字を読み書きできる人は少数ながらいたと分かる

    倭人は木に刻みを入れて通信に使っているとも書かれている
    縄文字も使っていた
    中国の常識だと縄文字は最古の文字に分類される
    つまり古代日本は漢字を使ってないだけで文字は有ったとなる

    文字なしというのは漢字を日常的に使っていないという意味でしかない

  136. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 09:06:08

    卑弥呼は倭の数十の国を束ねる女帝
    しかし大和朝廷をどんなに研究しても
    卑弥呼に該当する人物は存在しない
    神功皇后には立派な息子が居るしな

    卑弥呼の邪馬台国と大和朝廷は
    同じ倭種だが別種が正しいだろう

  137. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 09:15:31

    大倭(日本)の自称数千里の領土が誇大妄想と相手にされなかったくらい倭は小さかった、新羅から万四千里の計算なら実際数千里あるのに。
    西と南が海で、北と東が山、その先が毛人という国の範囲は、関東まで抑えてたら、東に山はない。
    日本成立の時点で、あるいは唐書が書かれる遣唐使時代の大倭の範囲が、筑紫~近畿か濃尾までの国だった。そして伊都国などは大倭じゃなかった。
    7世紀の戦いで半島に毛野君送り込んだ事なども考えると、伊都国~半島南端は関東と近かったんだろうか。
    東北蝦夷攻めでも、北東北の勢力に敗退する程度だし、日本というより日本連邦の盟主近畿国が、独自行動してただけなんじゃないか。

    おそらく統一国家という形では、日本は統一されてなかった(六十余州なんて言い方もあるけど、それ以外に地域王や地域階級があった?)。だから戦国時代でも、近畿だか畿内5ヶ国が天下統一だった。

  138. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 09:39:54

    倭の五王時代の六ヶ国将軍だかも、百済と同格以下とか、対馬国壱岐国などをまとめてる六ヶ国目って扱いで、それなら北九州の大きめ勢力で十分間に合ってしまう。
    倭は交渉役って見抜かれていて、実権は連邦盟主大和、豊臣唐入り時の交渉役宗氏みたいな板挟み役として、活動してたんじゃないだろうか、お互いの顔を立ててうまく交流持たせる方便役。
    これなら日本直接交渉になって、尊大になった理由も、交渉下手になった理由も、使者を追い返した理由も、金印無しの対等外交国になった理由も解る気がする。

  139. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 10:09:45

    ※135
    倭人同士の記号なんかどうでもいいわ
    漢字を書いてた証拠は一切なく、ボディランゲージかなんかの簡単な意思疎通ぐらいは一応出来たというぐらいのもんだろ。

  140. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 10:33:24

    137
    天子と名乗りはじめたクソ生意気な日本になった時点で、
    中国的には大国だったら都合悪いってことでしょ。

    九州がどうやって関東人を連れてくるんだよw

    コメも取れない東北を奪うモチベがあんまなかっただけだろ。
    北海道なんて、明治までほぼ放置だったし。

    戦国時代は幕府も天皇も畿内にいたから、そこを抑えれば
    いまいち建前のわからない外国人には全国完全制覇に見えてしまっただけでは。

  141. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 10:44:38

    >140
    朝鮮学校かな?日本の歴史壊すだけなら楽でいいよね。

  142. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 11:05:30

    ×>140
    ○>137

  143. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 11:43:35

    ※98に一票

  144. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 11:52:43

    そうか、
    倭=九州のみ
    だったら毛野を九州に連れてこれないんだよな
    やっぱり倭=日本だわ

  145. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 11:57:09

    あらためて尋ねるが、倭と日本が別だって言ってる人は
    ・倭の範囲はどのあたりで
    ・倭の首都はどこで
    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    と考えてるんだ?

  146. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 12:45:05

    物的証拠=阿蘇山w!

  147. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 14:11:15

    ※145
    >・倭の範囲はどのあたりで
    倭の範囲は難しい
    なぜなら国にするか人にするかで決まらない
    しかも魏志倭人伝当時の倭は分裂していたのは確実

    倭は島で最北は海と有るので青森まで倭になるが統一されてはいないだろう
    倭種の住む土地は今の日本と更に周辺になる

    ・倭の首都はどこで
    邪馬台国の首都は熊本
    九州には鉄の遺跡や吉野ケ里遺跡とか方保田東原遺跡とか巨大環壕遺跡が多い

    吉野ケ里遺跡は軍事施設なので伊都国に符合する
    当時の有明海は吉野ケ里遺跡のすぐ側が海岸だった
    邪馬台国の勢力範囲は九州北部と半島南部と思われる

    敵対勢力は九州南部と四国だろう
    東日本も倭だが遠すぎてこの戦いには無関係

    ・倭が別勢力とする考古学的観点からの物的証拠は何がある
    2〜3世紀の遺跡で鉄や環壕集落が目立つのが九州の遺跡
    しかも4世紀頃から急激に衰退する

    畿内は3世紀頃から発展してるので
    畿内勢力が九州の豪族を滅ぼしたとすると考古学的に符合する
    記紀でも九州を攻め落としたと有るから文献的にも一致する
    東遷はムリ
    記紀に書かれたように九州の豪族(神武天皇)が畿内に移住し
    子孫が九州を攻め落として西日本を統一したと考えられる
    さらに東日本も支配した

  148. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 14:13:20

    歴史好き、(自称)歴史研究家、歴史学者。
    ↑全部違うからね。それぞれ棲み分けしてね。

  149. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 14:18:10

    事実かどうかは別にして固定概念はそれほど無いつもりだったけど倭国と日本が別の国って発想は無かったから面白かった。
    思考に世間の情報からバイアスがかかるのは知ってたけど、もっと頭を柔らかくしないとダメだなw

  150. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 14:34:06

    九州が北と南に分かれて争っているうちに
    東からやってきた大和朝廷に両者とも滅ぼされ統一された
    これが一番考古学的に合致するし記紀とも一致する
    中国の倭人伝とも矛盾しない

    登場人物
    倭の女王(卑弥呼) 九州北部勢力  土蜘蛛(肥の国) 女王系(田油津媛)土蜘蛛=土雲=出雲
    倭の男王      九州南部勢力  熊襲(大分、鹿児島) 男王系
    大和朝廷      畿内の新興勢力 大分出身なので先祖は熊襲(男王)か 倭→大倭→日本(大和)

  151. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 15:13:42

    日本を併合したけど日本という名を引き継いだ的な記述は日本神話でいうオウスノミコトがヤマトタケルと名を改めた付近が該当するんじゃね
    クマソタケルを倒したときに本人から名を受け継いでヤマトタケルを名乗るように勧められる話があるし
    この話に元ネタが無いなら国から討伐を命じられて倒した相手から名前を勝手に貰って帰ってくる王子とか意味が分からないんだが

    使者の言うことが変わるのは…使者の出身地で歴史認識が変わってるとか?

  152. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 15:18:56

    ※97
    “神”の「かみ」と”お上”の「かみ」は現代では同じ表記=同じ発音だけど、
    元々は違う発音=違う意味だから神=お上ではないよ。

  153. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 15:36:03

    >147
    その九州にあった倭国はいつ頃まで存続していた?
    九州邪馬台国とやらが九州北部を版図とする根拠になる物証は何?

    本題から外れるが、糸島や博多はどういう位置付け?
    あれだけの遺跡群を名前もないその他扱いにするのは不自然すぎる

  154. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 16:01:40

    >149
    戦前は皇国史観で統一されてたけど、戦後は自由に色々な説が唱えられ、その中の一つに九州王朝説ってのがある
    それがまさにこの記事と同じ
    もちろん今では考古学も進歩して完全に否定されてるけど

  155. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 16:53:27

    >131
    6〜7世紀においてさえも日本列島が統一されず
    北部九州に大友政権のような独立勢力が存在していた根拠は?

  156. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 17:52:27

    もうめんどいから、この辺読んどいて
    「九州王朝説批判」
    ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm

    九州王朝仮説の拠り所の、中国の史書からの分析だから、考古学とは関係ないよ。

  157. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 18:06:19

    大化の改新後の中央集権へ移行していく過程で白村江で大敗
    東国統制に使ってた北陸、東海と信越の兵亡くなり
    支配が中途半端だった東国を早急に取り込むのに
    東国の要となってたどこかの国名を名乗ったんじゃね
    壬申の乱で中央VS地方で天武天皇の後ろ盾になった国の名とか
    また白村江の後の遣唐使から日本名乗ってるから
    唐と国交回復するのに倭から日本に代わった方が印象よかっただろう

  158. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 19:09:28

    卑弥呼の時には九州から近畿を含めた勢力が既に合って対外的には倭国で
    その勢力の代表が九州の邪馬台国で白村江で大敗したのと西側が首都だと大敗してるだけに
    攻められそうだからって理由で大敗の責任取って主権を近畿の大和朝廷が受け継ぐ形になって
    勢力の権力が九州邪馬台国から近畿の大和朝廷に移動して
    歴史ある九州邪馬台国から姫を大和朝廷の王に嫁がせてその王の子供の次期王は邪馬台国と大和朝廷の血を引いてる正当な王族として倭を名乗れるし、それから色々改革が合って倭→大和→日本になったんじゃない?
    九州邪馬台国から近畿大和朝廷へ権力が移る過程で
    邪馬台国から姫が嫁いで融合するってロマンあるんじゃない

  159. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 19:13:13

    「敗戦国の倭国とかいう縁起の悪い名前はポイー」
    これか

  160. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 20:44:02

    旧唐書にせよ新唐書にせよ、白村江の戦いの後だから
    その時の捕虜から、日本側の情報も収集しているだろうし
    遣唐使による子供だましが通用するとは思えないんだが

  161. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 21:14:52

    一般的に畿内説だと邪馬台国の領域はどこからどこまでって考えてるのかな?
    かなり広大な土地を支配してそうな感じに思えるんだけど

  162. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 21:30:38

    中央集権の領域国家と、環濠集落単位の連合を、同列に考えるのは無理があるよ。
    邪馬台国は倭国の中の国で、女王国に属する範囲全部が邪馬台国ではないだろう。
    属しているというのは宗主権を認めているくらいの意味で、支配はしていないと思う。

  163. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 22:07:40

    >161
    ざっくり言うと近畿地方の平野のうちで、その場所を流れている川が最終的に瀬戸内海に流れ込むようになってる平野

  164. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 22:37:22

    倭と日本は別
    邪馬台国が倭でヤマト王権が日本
    遺跡とも文献とも出土品とも整合性があるな

  165. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/15(木) 23:47:33

    >164
    日本書紀では「日本武尊」、古事記では「倭建命」と書かれる人物がいるんだが、少なくとも日本の文献では、日本も倭も「ヤマト」で区別はないようだよ。

    どの辺で「倭と日本は別」というのが文献と整合性があると判断してるんだか、私からすると不思議だな。

  166. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 00:16:31

    少なくとも当事者の日本側は倭ではないと主張してる
    それを中国側も認識している
    まさか日本の子孫が日本と倭は同じと主張するとは思わなかっただろうな
    それとも同じだと主張するのは日本が気に入らない当時支配されていた半島の子孫かな?

  167. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 03:40:00

    ※166
    そりゃ意味合いがまるで違うべw 当時人が否定したのは
    「ワイらに負けて喰われたザッコ如きと同じにすんなやw」
    って意味であって、現在の人間が倭と日本(?)を同一視してるのは
    「倭は日本(?)に負けて取り込まれたんやしどっちも先祖って言や先祖やな、どっちも現国土内やし」
    って意味だぞ? 倭と日本(?)が違っていても現在日本にとっちゃ等しく父祖の地(国)よ

    「倭と日本(?)は違いまーす」なんてのはただの言葉遊びにすぎん
    それとも「日本(?)は父祖として認めるけど倭とか言うザッコは認めへん!」ってか?

  168. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 03:45:23

    日本側にしたら惨めに朝貢しとったクソ雑魚と同じ扱いは受け入れられんやろ
    そら否定もしますわw 向こうに取ったらどっちも日本列島側やし混乱するわな

    でも今の日本人にとったら北海道から沖縄まで全部日本やからな
    沖縄かて編入は最近やけど一緒くたにされとるやんけ
    まして九州ならわざわざ切って分ける意味もないわな

  169. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 04:37:26

    沖縄は1200年前から日本だったよね。変なのが変な歴史吹聴してて怖いわ。

    国書が無い=朝貢する気がない対等な挨拶
    天子を自称=朝貢する気がない対等な挨拶
    あっちからの使者追い返す=朝貢扱いの使者に切れて放置→隋だか唐の方が使者が悪かったからって別の使者送ってきた(朝貢したって報告にしたけど日本は対等挨拶)
    断絶かどうかは知らないけど、遣隋使の時点で朝貢卒業してたと思う。
    倭の5王の扱いの低さ考えても、継体天皇~遣隋使開始までで交渉担当変わってると思うな。

    足利義満も、貿易するためとはいえ、朝貢の作法は誤魔化して拒否したらしいし、支那の自己満足記述相手にしてたらいかんのでしょ。

  170. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 05:50:02

    日本が倭の別種とか本気で信じてる人は教科書が間違ってると思ってるわけだよな
    もう勝手にしろとしか言いようがない

  171. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 07:01:10

    単純に中国大陸に近かった九州(ある意味島国)で幾多の部族の勃興と没落と併合があって
    早い段階から中国と歴代王朝と交流があった。
    当然、中国三千年の歴史には適うはずもなく大国で文化も進んでいた中国王朝に取り入り、九州内で他部族に認められるためも含め九州の各部族王は出来る限り接触していた。
    そういった経緯で倭(九州)を大雑把に属国としていた。
    年月を経て九州(島国)でやっとこさ邪馬台国という統一国が制定した。
    本当に侍女1000人もいたなら、邪馬台国ってのは相当デカイ国だったんだろう。
    けどまあ初代王(卑弥呼)なき後、なんだかんだでバラバラになり散り散りになり滅亡していった。
    この辺はエジプト然り、世界各地の文明と一緒だろう。
    特に文明初期の頃は年中温暖な地域のほうが発展しやすい。
    冬という生命に過酷な時期が少ない(或いはない)ほうが活動を継続するには必須だった。

    九州(島国)の一大国家がほぼ雲散霧消して形をなくした後に、幾内で現在も続く天皇家の元が明確に形を持って内外にもわかる規模で勃興した。
    時系列から言って、九州の民が少なからず流れ込んで(若しくは)基礎になった可能性も高い。
    または元からそれなりの文化水準を持っていた可能性もある。

    言い方が凄く悪く日本が倭を乗っ取ったってのは頂けない。
    戦国時代を考えてみればいい。
    明確に天下統一をすることは難しく、各国(領土)の大名は各々がその王であっただけ。
    そこに朝廷(天皇)というお墨付きを貰うためにも四苦八苦していたと。

    中国の歴書から分かるのは、先んじて積極的に外交をしていたのは九州にあった倭
    その後に大きな国(幾内)として外交をし始めたのが日本
    これだけの話
    倭を別種だ日本とは違うだなんて言うのは北海道の過去と歴史を日本とは違うと言うようなもの

  172. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 07:29:10

    時と共にコロコロ変わる教科書を金科玉条のごとく崇拝する方がどうかしてる。

  173. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 08:21:28

    ※165
    「倭」も「ヤマト」もクーデターで乗っ取った側にしてみれば
    錦の御旗。
    もともと正攻法で討ち滅ぼす力がなかったからクーデターという手法を使ったわけで
    そんな新政権が前政権の遺産を活用して統治しようとするのはごく自然なこと。
    むしろ内政・外交とも以前と何も変わらないふりをして前政権の残した果実を承継した。
    私たちは倭ですよ、ヤマトですよ、と。

  174. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 08:31:38

    ※171
    だから北海道を独立させよというバカがいたら
    とても同意する気にはなれないが、
    アイヌは日本とは別の文化を持つ民族であったことは認めなければならない。
    そこから逃げていたら真実なんて見えてこない。

  175. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 08:47:17

    「倭」なんていうのがそもそも曖昧な概念で
    チャイナが自分たちの分類上使った言葉に過ぎないのではないか。
    日本列島内で違う民族が争っていようがいまいが、きゃつらは倭なのである。
    それをありがたく押し頂いていたのがかつての「倭」であり
    彼らには国家意識などなかった。
    のちに国家意識に目覚めた政権(国?)が日本を名乗った。
    それが「倭」内の一国だったのか、倭のとなりの別の国だったのか
    それは当時のチャイナ人のさじ加減に過ぎない。

    「別種」という言葉が適当かどうかわからない。
    だが、そう思ってみたほうが当時のダイナミックな政治情勢に肉薄できる気はする。

  176. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 10:01:16

    ※76
    銅鐸と前方後円墳は別個の勢力の産物だと思われるので
    その分布と入れ替わる時期を調べれば見えてくるだろうね

    古墳で面白いのは畿内や出雲に多いのは分かるとして
    北九州と並んで房総半島にも集中している事

  177. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 10:03:10

    ※174
    アイヌは現在ですら明確に「異種」扱いされるほどに違いあるけど
    九州勢と本州勢切り分けるのは流石に無理あるぞ
    今の感覚からしたらどっちも日本としか言えんわ

  178. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 10:04:41

    天武天皇がマジで怪しい国体代わってるよ

  179. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 11:05:07

    ※147
    >邪馬台国の首都は熊本
    前スレで九州説は否定されたでしょ。

    >しかも4世紀頃から急激に衰退する
    それだと倭と日本が並立してた(仮)という7世紀と一致しないけど。

  180. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 11:15:07

    ※172
    理由も根拠もなく変わる訳じゃないから
    変えたければそれなりに根拠を示せよ

    中国の史書をそのまま鵜呑みにするだけなら
    邪馬台国は沖縄の海の底だ

  181. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 11:17:51

    174
    道民が独立したいと思うならさせてやればいいんじゃない
    フリーチベット、フリードサンコだ

  182. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 11:55:35

    ※169
    最初は対等を目指したが
    すぐに屈服して朝貢の儀礼を受け入れている

    対等の関係や用明天皇が「初めて」中国に使者を出したという事は
    大和朝廷がそれ以前に全く朝貢してない事を意味している
    邪馬台国とは別の王朝なんだよ

    しかし日本の新たな支配者なので倭王を名乗る必要が有ったため
    改めてまた朝貢した
    しかし態度が悪いので中国側は不信感を持った
    大和朝廷も嫌々だった

  183. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:00:24

    王朝交代説は戦後に流行ったけど、もうオワコンでしょ
    誰でも知ってる唐書を今更持ち出されたって何にもならないよ
    珍説発表会はもういいって

  184. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:17:07

    古墳 はそもそもが墓ではなく、灌漑事業の残土処理の盛土だったんだよね?
    だから用水路というか河川整備が終わったら、今度は埋め立て用に残土を使用するから、後の時代になる程、古墳が小さくなっていく。
    古墳の大小や数って、開拓する平野の広さに比例するんじゃなかったっけ。

  185. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:20:01

    ※179
    古田説を否定したからと行って
    九州に邪馬台国が有ったという説の否定に繋がらないよ
    古田説は違っているしw

    倭と日本が並立していたのは大和朝廷の内部
    西日本を統一し倭王を継承した大和朝廷が安定し
    国号を倭から日本に改名し天皇と名乗った

    だから倭の別種だが倭を継承していると言った
    もとは小国だったも言った

  186. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:36:56

    みなさん、すごく詳しいですね。勉強になります。
    私は『大分県宇佐市の宇佐神宮の本山 御許山』が卑弥呼の墓説が好きです。
    あの九州の隅の方の超ド田舎(すみません)に、あの規模の神社があるのが昔から不思議なんですよね。昔は今の規模よりさらに大きかったと聞きますし。本山と別に今でも女人禁制のストーンヘンジみたいな場所も近くにあるらしく気になっています。
    邪馬台国=九州説、頑張ってほしいです。

  187. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:44:10

    >185
    九州説そのものが間違ってるんだよwww
    古田説はその一派ってだけ

  188. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:44:34

    結局倭=日本だよな
    珍説乙

  189. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:47:32

    >186
    神功皇后はオキナガタラシヒメなのですが、各地の伝承を見るとオキナガヒメの地域と、オオタラシヒメの地域に分かれるのだそうです。宇佐がオオタラシヒメ伝承の中心地らしいです。面白いですよね。

  190. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 13:57:52

    ※185
    別に古田説なんて誰も言ってないぞ。最初からそんなもん眼中にない。
    九州説を検証した結果否定されたというだけの話。(経過については前スレ参照)

  191. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 14:08:01

    倭人連合から中央集権国家日本に変わっただけだろ

  192. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 14:09:43

    やっぱり「あった」という根拠を示せないと、
    一般的にはそれは「ない」ってことだからね。

    「ない」という根拠を示すことは悪魔の証明だから、
    信じるのは個人の自由だし、いつかそれを証明すれば逆転は可能だけど。(例:難波宮発見)

  193. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 14:11:25

    >185
    >倭と日本が並立していたのは大和朝廷の内部
    並立も何も天武持統朝に至るまで、大和朝廷内部に「日本」という言葉も実体もないと思うんだが
    あるのはただ「ヤマト」のみだよ
    それが漢字表記で、倭、大倭、大和、と書き分けられているだけで
    そこに「邪馬臺」も入るってだけの話だろ

  194. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 15:01:53

    倭と大和と書くべきなのに意図的に「日本」としてるのがいらやしいわな
    よーするに日本を貶めるための工作の一環ってワケだ
    お里が知れるとはこのことだな

  195. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 17:25:34

    >194
    意味不明
    何が言いたいのか分からん

    倭も大和も、国内では昔から「ヤマト」と読まれている
    古事記で倭建命がヤマトタケルのミコトと読まれているのは知ってるよな?

    そして天武持統朝の頃に、ひのもとにある国だからと日本という国号を作ったんだろう
    日出処天子を名乗ったのと同じ発想

    日本という国号が「日本を貶めるための工作」になるというのが本当に意味不明

  196. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 17:31:04

    隋の時代まで畿内の描写ないもんな

  197. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 17:37:49

    ※174
    アイヌの先祖も縄文文化の担い手だったんだぜ
    因みに関東の縄文人の先祖の一派の方がアイヌ民族より先に北海道を通ってるんだぜ

  198. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 18:13:29

    邪馬台(ヤバタイ)=八幡(ヤハタ)
    だったりしないかな

  199. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 18:37:35

    ※195
    古事記は倭と書いて「やまと」?
    日本書紀は日本と書いて「やまと」
    古事記では日本という文字は全く出てこないから
    日本書紀で「倭」の文字をあえて「日本」に書き直したことにになる
    大和朝廷内で倭と日本が並立してるw

    倭人伝では邪馬台国は倭国の中の一つの国
    決して「邪馬台国=倭国」ではない
    それが大和朝廷で「やまと=倭=日本」になったとすれば日本国内に大きな変化が有ったってことになる

    あと日本書紀の神功皇后には昔の魏史を引用し「倭女王、倭王」という記述が有る
    さすがにこれは「やまと女王、やまと王」とは読まんでしょw
    古くは「倭=わ」だよ

  200. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 18:51:21

    倭人伝では卑弥呼に「親魏倭王」の称号を与えたとある
    これを「親魏やまと王」とは読まんでしょw

    久しぶりに日本から朝貢に来て「やまと王」を名のったら
    中国人は不審に思うだろうな
    日本側は「倭国を継承して…」とか言い訳するだろう
    倭国(日本)伝そのまんまw

  201. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 19:03:35

    中国は祭ってたとか言ってるけど、ヤマト王権の阿蘇山に対する扱いはくっそ軽いんだよな

  202. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 19:06:09

    阿蘇山ありと明記されているところは、日本の古代史学会はスルー決め込んでいるよねえ。

  203. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 19:12:46

    ブログ主さん、下記のサイトも結構おもいしろいよ。

    古代史ロマンで結構楽しめると思うから、よかったら読んでみてちょw

    ↓  ↓  ↓

    日本建国史(目次)
    〇ttp://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

  204. 名前:※203 投稿日:2017/06/16(金) 19:14:08

    〇の所をhに変換ということで

  205. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 19:27:48

    邪馬壱国 → 南に狗奴国、南九州と争い
    邪馬台国 → 東に狗奴国、出雲と争い
    日出所  → 東と北に毛人、北陸関東と友邦盟主として有利にお付き合い
    源氏幕府 → ようやく全国に指示が行く、沖縄も自称源氏の子孫、江戸入る頃には北海道も全域交易対称に。
    明治政府 → 全国に近代国家としての統合を強制、それまでの地元を基にしたゆるやかな日本人連邦から、日本民族としての同化混雑政策を進める。

    こんな印象だなぁ。結局ご当地連邦 U.S.Yamato に戻した方が良いってなってきてるけどね。

  206. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 19:45:25

    人種については、既存の人種の分け方なんて科学的にお話にならない。
    遺伝子基にしたら、コーカソイドがどうこうなんて全く出鱈目、21世紀にもなってそんな分類使うやつは知恵遅れ。
    結局、(伝統)文化言語で決まる、国家民族こそが重要なのだろう。

    遺伝子で考えると、日本にはほぼ日本独自の系統が居て、支那の方まで日本原住民の土地だった可能性が高い。
    そこに大陸規模での民族移動(侵略)がおこって、日本独自のも倭人もほとんどが押し出されて日本に生き残った。
    日本独自のに近い支那人(チベットや羌族にそこそこ居る)や、倭人に近い支那人(香港など支那海沿岸)、など、国家国籍で分けられるような単純なものではない。
    関東に多い謎の古代人遺伝子が気になる所、40000年前にエルサレムから日本にやってきた人達かもしれない。

  207. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 20:36:52

    電波すぎる
    文献だけを中途半端につまみ食いしてオレ様ストーリー作って悦に入るなら教科書を読み直せと言いたい

  208. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:03:07

    ※206
    >謎の古代人遺伝子

    なんのこと?
    47000年前から分岐し、
    わずかながら親戚筋の遺伝子がヨーロッパにあるというC1a1なら
    沖縄、四国、近畿、東北に多いらしいけど

  209. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:06:55

    ≫207
    教科書さんこんにちは!
    戦前の教科書と今の教科書はだいぶ違いますが、教科書さんとしてはどの出版社が出したどの教科書が正しいのですか?
    貴方の祖国のように国定教科書があればよかったですね!

  210. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:09:48

    >199,200
    山脈と書いて「やま脈」とは読まないだろ?
    倭国っていうのは大陸側の言葉だよ
    大和言葉では倭国と書いて「やまとのくに」って読む
    日本はそういう漢字の受容の仕方で、漢字を取り入れた
    漢字には音読みと訓読みがあるのは小学校で習ったよな?

    >大和朝廷内で倭と日本が並立してるw
    天武持統朝が「日本」という国号を作ったんだから、その公式の国史である日本書紀に「日本」という表記を使うのは当たり前だろう
    そして日本武尊と書いて「やまとたけるのみこと」と読むんだよ
    まさか「にほんたける」と読むとか言わないよな?
    それにこのブログの記事の趣旨や185の言ってる「日本と倭が並立」は、「文字」の上のことじゃないよな
    話をすり替えないように

  211. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:12:02

    ※207

    7世紀くらいに日本と倭が並立してたかもしれない←わかる
    倭が九州で邪馬台国←は?

    ちょっと電波すぎるよな

  212. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:19:27

    教科書さんへ
    現代の歴史教科書には
    「邪馬台国は畿内説と九州説が有る」と明確に書いてあるぞwww
    おそらく全ての教科書が両論併記してる

  213. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:26:37

    現代と言うより
    最近(この頃)の歴史教科書だな

    学会等の発言力は畿内説のほうが有るので
    九州説が草の根的に伸びてることになる
    おれも昔は畿内説だった…
    今は転んだがw

  214. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:27:14

    ※212
    邪馬台国の位置はまだギリギリわからないけど、
    王朝交代説は終わってるだろ

  215. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 21:28:37

    ※213
    草の根w
    ただの無知な素人だろ

  216. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 22:51:57

    ※215
    教科書が無知だと言い切ったな
    (最新の)教科書を読めよw

  217. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 22:56:41

    ※210
    では
    卑弥呼はなんと読むの?
    邪馬台国はなんて読むの?

    これも日本読みは全く別ってことかえ?
    中国語は表音文字だよ
    倭人が「ヤマト国」と言ったら倭国と書くことは無い

  218. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/16(金) 23:29:31

    ヤマト国の使い(遣使)が行く前に、倭奴国が朝貢してるから、倭国ってなってたんだろ?

    で、ヤマト国の使いが来て、倭国の中に邪馬臺國があるって音訳で表記しただけじゃん?

    中国語が表音文字とか、あんまり無能の恥をさらさない方がいいよ
    カーペンターズが中国語でなんて書かれてるか知ってるか?
    外国語を入れるときに音訳で当て字することはあっても、漢字は表意文字だぞ

  219. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 00:06:49

    和人=わじん
    アイヌに対して本州系が自称した名称

    ちなみに「わ」は
    日本語の一人称でも二人称でも使われている
    「わ」という呼称が無かったという説は皆無だと思う

  220. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 00:12:42

    ※218
    カーペンターズ=卡彭特乐队

    かぺとバンド?

  221. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 00:19:11

    中国語は基本的に
    漢字一文字に対して読みは一つだと思ったが
    倭をヤマトと読むことなど有り得るのか?
    日本語だと漢字の読みは自由自在だけどなw

  222. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 00:35:52

    >220
    木匠兄妹樂團

  223. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 00:46:00

    >221
    倭國は大陸が付けた「向こうの言葉の国名」
    もとの語源(?)は219の説が俺も好き
    我々の国という意味で、「わ」の国と答えたのを卑字で倭の字を当てられたってのはありそう
    で、その漢字が日本に伝わったときに、漢字の「山」に大和言葉の「やま」を対応させたように、ヤマトという大和言葉を対応させ、「日本語ではやまとのくに」と読んだ
    まあ、どの時点からそう読んでいたかは分からないが、古事記では倭にヤマトの読みを付けているのは確か

  224. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 01:35:22

    13才が最高指揮官の邪馬台国vs連合国家邪馬台国と長年争えた大国家狗奴国
    どっちが勝ったなんて考えなくてもわかる構図
    3世紀後半から栄え続けてきたはずで勢力交代なんてありえない畿内では無理のある話

    それとも大和王朝の始祖は狗奴国とでも?

  225. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 01:39:55

    現代日本だってジャパンと呼ばれてるし呼び名はあてになるのか

  226. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 01:45:48

    224
    そういう根拠のない妄想に意味はない

  227. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 02:49:36

    いやよくまとまってて面白かったよ管理人さん
    確かにコメント欄の人たちは頭良さそうだけどヒートアップしすぎでついていけないからな

    そんでこっちでも皆さんはまたおっぱじめるんだなw

  228. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 02:49:55

    ※216
    誰も教科書が無知とは言ってないぞ
    無知な素人って書いてるのが見えないの?
    素人は教科書書けないだろw

    日本語も正しく読めないの?

  229. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 03:35:33

    日本列島に倭という勢力と日本という勢力の2つがあったと書かれてる日本史の教科書があるのかよw
    電波は教科書を読み直せ

  230. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 05:01:04

    濊族、一人称がワイの穢らわしい国、なぜか納得。

  231. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 05:45:43

    >227
    頭良さそうな人たちだけならヒートアップもしないんだけどねぇ

  232. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 06:10:52

    白村江の戦いの敗戦でショックを受け、天智天皇と天武天皇が我が国を強くしようとした。
    壬申の乱にもそういった側面はあったはず。
    中央政権化を進めて天皇号を名乗り、我が国が唐の影響に抗って、あくまで我が国は独立国であって唐とは対等であると強硬姿勢をとれば、態度が傲慢になるのも当然と言える。
    その時に心機一転とかを理由にヤマトから日本に国号を変えたとも考えられる。
    もっと詳しく言うと、中央政権化を進めるときの障害である地方の権力者に対する牽制とか。
    国号を変えて周知するにはそれなりの影響力が必要だろうから、それを行うと中央政権天皇の力を再確認でき、
    さらに中央第一で地方の序列は二の次三の次と示すことができる。
    それと旧唐書が書かれたのは後世過ぎるから、著者の独自解釈が入った恐れもある。

    あとは国名や地名などについて推測とか
    倭国→≒地域=日本列島(ほぼ西日本)、由来は一人称の「吾」「我」や共同体を意味する「輪」「環」など
    邪馬台国→倭国内に存在した多数ある国々のうちの一つ、ヤマト国
    日本国→邪馬台国の新しい国号
    「倭国」の単語は元々「地域」を指していたが、やがて「国」という意味が込められるようになった。
    邪馬台国が倭国にある多数の国を従えて倭国の盟主となった。
    倭国=邪馬台国勢力下、故に人々はこう思うようになる。倭国=邪馬台国。
    これは現在の日本列島=日本国の感覚に似ている。
    倭国=邪馬台国なので、のちに「倭」が「ヤマト」と呼ばれるようになり、
    やがて雅な字があてられ「和」さらに偉大という意味を付け足して「大和」と変化した。
    ちなみに「日本」も「ヤマト」と訓むことができる、日本書紀にもそう書かれている。
    ここまで書いたけど書いてる途中でよくわからなくなったから読まなくていいよ

  233. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 07:18:33

    >232
    壬申の乱のところを除けば同意
    あと一点
    >雅な字があてられ「和」さらに偉大という意味を付け足して「大和」と変化した。
    ここは順序が逆かも。大倭と書いてオオヤマトと読む例が結構あるから。

  234. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 07:31:19

    「やまと」自体も「みなと」みたいにある種の地形を表す一般名詞が地名になった説があるよな
    だったら「やまと」名乗りが複数あった可能性もあってややこしいわ

  235. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 09:16:00

    ※223
    >卑字で倭の字

    これも完全な間違いだよね
    魏の倭国への待遇は最高待遇

    人委 委鬼

    卑字はどれなの?
    まさか矮と倭が似てるからとか言わないよなw

  236. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 09:36:43

    「やまと」という地名は九州に多い
    日本書紀では(福岡県)山門県で土蜘蛛を討ったともある
    熊本にも菊池郡山門郷が有った

    邪馬台国がヤマトと読めたとしても
    それが畿内のヤマトかどうかは全く不明だぞ
    隋書だと九州から「東」に向かっているので完全に畿内のヤマト
    魏史だと「南」に向かっているので熊本のヤマト
    これで問題ない

    熊本には四重の環壕が取り囲む巨大遺跡が有るらしいがほぼ未発掘らしい

  237. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 10:27:05

    「ヤマト」の語源に関しては、様々な説がある。筑後の山門(福岡県柳川市・みやま市)や肥後の山門(熊本県菊池市)や豊前の山戸(大分県中津市・宇佐市)といった九州に散在する「やまと」の地名から来たという説もあるが、「門」や「戸」の「ト」は甲類なので、邪馬台には直接つながらない。甲類の「ト」には、「外」もある。「門」や「戸」は家の外に向けて置かれるのだから、二つの甲類の「ト」は意味内容上の連関がある。これらは、「山の外に存在する、山への入り口」という意味で付けられた地名と考えられ、魏書東夷伝倭人条が謂う所の「女王の都する所」の名称としてふさわしくない。

    ———
    ほぉー

  238. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 10:29:52

    237だけじゃなんのことかわからんな
    ———–
    ヤマトは、『古事記』では「夜麻登」、『日本書紀』では、「揶莽等」、「野麼等」、「野麻登」、「夜摩苔」、「夜莽苔」と万葉仮名で表記されている。万葉仮名文献には、上代特殊仮名遣と呼ばれる、現在使われている音韻である甲類とは別に、乙類と呼ばれる古典期以降使われなくなった仮名があったことが知られている。ヤマトを表す万葉仮名の三番目はどれも乙類の「ト」を音写する漢字である。

  239. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 10:37:11

    >236
    >魏史だと「南」に向かっているので熊本のヤマト
    >これで問題ない
    勝手にそう思ってればいいよ
    日本という国は思想信条の自由が保障されてるから

    >隋書だと九州から「東」に向かっているので完全に畿内のヤマト
    その隋書に都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也ってばっちり書いてあるんだけど

  240. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 11:13:13

    「ヤマト」がもともと地名ではなく地位を表す名称だとすれば、
    ヤマトの地名が各地に転々と存在するのも
    ヤマトを乗っ取った新政権が自らの本拠地をヤマトと称したのも
    無理なく説明できる。
    理解のための補助線としては「都」という言葉を思い浮かべれば良い。

    魏志には、邪馬台国の女王卑弥呼の死後、男王が立てられたがまとまらず・・・
    というくだりがある。
    「ヤマ(神の住むところ)の入口」というのは、
    つまり神の言葉を伝える徳をもった支配者のいる国という意味で、
    そういう国が宗主国として倭のリーダー格(代表)とみなされていたのではないか。
    九州各所のヤマトは、ある一時期倭の宗主国が存在した場所なのかもしれない。

  241. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 11:44:54

    ※240に続いて
    魏志が伝える邪馬台国の場所が意味不明な点も、
    ヤマト(邪馬台)が必ずしも一定の場所ではなかったことや
    神のいる場所を口にすることへの躊躇いなどから
    倭の使者があやふやなごまかしの答えしかしなかったのが原因と
    考えることもできるのではないだろうか。

  242. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 11:49:24

    ※240
    238、237を読んでね。

    九州各地のヤマトは大和ではない
    山下とか山裾とかと同じでしかない

  243. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 12:13:23

    >241
    >ヤマト(邪馬台)が必ずしも一定の場所ではなかったことや
    中略
    >考えることもできるのではないだろうか

    考えることはできると思うよ
    妄想も人の心の中で思ったことではあるのだし

    大陸側の認識では、隋書の時点で都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也と書かれているし、一貫してヤマト=邪馬臺に都があったってことになってるけどね。

  244. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 12:29:50

    唐の役人はなぜ日本を倭とは別種だと考えたのだろうか。

    「倭が日本を併合し、その国号を奪った」という話に説得力がなかったから?
    それとも実情を語らなかったから?
    国土の自己申告が大げさで信憑性がなかったから?

    それもあるだろうが、それだけでは「別種なり」と正史に記すまでには至らないはずだ。
    おそらく使者の話す言葉なり服装なり体現する文化が
    倭とは大きく異なっていたことが重要な要素として認識されたのではないだろうか。

    当時、倭も朝鮮半島に進出していたが、
    それならば当然、朝鮮半島から日本列島へのルートも存在したはずである。
    古代から朝鮮半島はツングース系、韓族、倭などの入り乱れる人種のるつぼであった。
    倭の支配する玄界灘を避け、日本海を横切って
    特にツングース系が日本列島に進出した可能性は否定できない。
    倭の南方系を思わせる習俗とは異なる習俗を持つツングース系の移民が建てた国が
    列島各地に存在していた可能性は十分にある。

    また、捕虜や人質として韓族も列島に渡ってきていただろう。
    彼らは彼らで政権内部から権力に食い込み、新たな勢力となっていったに違いない。

    倭が何事もなく日本にスライドしそのまま現在に至るなんて楽観主義にもほどがるのだ。

  245. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 12:47:30

    遠い国で最初は情報が少ないわけだから、
    新しい方が事実に近いんでないの?

    で、最後は

    >日本は古の倭奴国である。

    ということで倭=日本を認めるじゃん。
    それが答えでよくね?ロマンがなくて申し訳ないけどw

  246. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 13:12:18

    チャイナの正史(という名の大本営発表)を鵜呑みにするのは
    みんなもう飽き飽きしていると思うよ。

    今は「なぜそう書いたか」「あちら様にどういう都合があったのか」を
    忖度する流れになっている。

    「それが事実だったから」とうそぶく思考停止くんはこんなエンタメサイトに来ずに
    教科書とにらめっこしていてくれたまえ。
    教科書やチャイナの大本営発表への信仰が篤いのはよく理解するが、
    過去の学問的成果を批判的に土台としながら
    想像や可能性を自由に羽ばたかせられるところが古代史のロマンなのだ。
    (ちなみに一部の文献のみを過大評価する歴史観をトンデモという)
    どこかに書いてあることをオウム返しに繰り返すだけのガリ勉くんの書き込みを読んだって
    ちっとも面白くないのだよ。

    まずサイトの趣旨を理解しろ。

  247. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 13:49:20

    >246
    古代史のロマンとトンデモの線引きはどこ?
    今回のブログ記事はかなりトンデモ寄りだと思うぞ

    今どき九州王朝仮説の亜流なんてw

  248. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 14:03:49

    畿内説が有力だが九州説を完全否定出来るほど材料は無いわけで
    そもそも魏志倭人伝の内容がどこまで正しいか
    別視点から見た書物が残ってないから不明
    九州北部の地名や描写は細かいのに邪馬台国になると
    途端にあやふやだし

  249. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 14:28:59

    244と246は同じ人かな?
    で、244の
    >唐の役人はなぜ日本を倭とは別種だと考えたのだろうか。
    ていうのが、246でいう
    >忖度する流れ
    ってことなのかな?

    こういうのは「ロマンとトンデモの線引き」の向こう側だと思うなぁ

  250. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 14:42:38

    248
    そう、だから九州北部はありえない
    九州南部はワンチャンあるけど狗奴国考えると難しい
    よって畿内でほぼ決まり

  251. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 15:19:35

    つまり大日本帝国と日本は別の国って事ですね。わかります。

  252. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 15:22:23

    ※235
    これは完全な詭弁。

    倭と魏で「委」が共通しているようだが、
    両者には偏と旁の違いがある。
    漢字の意味を考える上で、偏は分類を表すのみで
    価値を表すような細かい意味は旁のほうにある。

    肝心の意味はというと
    「魏」は「高く大きい」さまを表し、「巍々堂々として尊高なり」の
    「巍」と同じ意味の字である。
    一方、「倭」は「曲がりくねって遠いさま」を表し、「奴」という字とよほど相性がいいらしく
    チャイナの正史には「倭奴国」と、奴の字とセットでよく記される。

    なおチャイナの正史には
    「チャイナの発音に習熟して倭の名を嫌い、改めて日本と号した」と書かれているようだ。
    もし本当に「倭」に悪い意味がなかったとしたら、果たしてそういうふうに書くだろうか?

    「漢字も知らない野蛮人だから適当におかしな字を当ててやったが、
    やっと漢字を勉強して意味がわかったようだからやつらが希望する字で書いてやることにするか」
    そんなニュアンスがにじみ出ている。

  253. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 15:26:02

    ※250
    いや記述通り行ったら
    アトランティス大陸に行っちゃう訳で
    そこから読み取ろうとすると
    どうしても予想や想像が出て来る
    朝貢国を実際より大きく描く事で
    魏の力を大きく見せたみたいな
    妄想の類も否定できない状況
    今の資料からじゃ有力な説を出すのが整然
    俺も畿内だと思うけど

  254. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 15:36:56

    ※247
    >トンデモの線引き

    書いてあるだろw明確に
    字も読めないのか?
    チャイナが相手だったら卑しい名前をつけられるところだな。

  255. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:11:04

    >254
    じゃあ、246で言う「ちなみに一部の文献のみを過大評価する歴史観」がトンデモってことだね?

    つまり「短里で魏志倭人伝のとおりに読めば九州に決まってる」と「魏志倭人伝という一部の文献を過大評価する歴史観」はトンデモってことでOKだなww

  256. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:13:01

    墳丘墓や古墳の副葬品を見れば倭の範囲と日本の範囲は別だからおかしくはない
    祭器も違うからその範囲ごとに国があってもおかしくない

  257. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:14:39

    ※255
    君の父祖の地の朝鮮半島の教科書ではどう書いてあるのかな?
    加羅や任那すらちゃんと教えてないんでしょ?

  258. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:15:03

    >253
    250は、248の
    >九州北部の地名や描写は細かいのに邪馬台国になると途端にあやふやだし
    を受けて、九州北部のことは詳しいのに「その詳しい範囲に邪馬台国があると書いてない」以上は、「九州北部はありえない」って言ってるんだよ

    詳しく書かれていないところに邪馬台国はあるはずだから、九州南部にはワンチャンあるけどってこと

  259. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:17:29

    254と257は同じ人?
    すぐに人を誰かれ構わず半島の人にしたがるけど、内容で議論できなくなるとそっちに話をそらすのはみっともないし、声闘っぽいからやめたら?

  260. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:21:47

    >256
    >倭の範囲と日本の範囲は別だから
    倭の範囲と日本の範囲をどのように考えてる?

    日本という国号を使い出したのは、天武持統朝の頃だから、その当時の大和朝廷の範囲でいいと思う
    そして、倭の範囲も倭王武=雄略天皇の時点で、九州から埼玉まで届いているんだから、事実上重なると思うんだけどな

    256の考えはどうなってる?

  261. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:27:52

    ※258
    細かな描写がある最後は奴国なんで今の博多周辺までなんでその考え方だとかなり範囲が広いぞ
    使節は奴国辺りまで行って後は現地の人に聞き取りして帰ったんじゃないかと思いたくなるぐらい
    他に当時の資料があったら魏志倭人伝の記述は捨て置かれてたろうな

  262. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 16:55:40

    ※255
    カワイソウナヤツダナオマエ。

    魏志倭人伝の記述がその他の文献と大きく矛盾しているのに
    魏志倭人伝の記述に固執し、しかも都合のよい解釈で塗り固めていたら、
    そいつの唱える説はトンデモだろう。

    改めていうのも馬鹿らしいが、
    短里説論者は一部の特殊な文献に固執しているわけではない。
    多数の文献の中から特に記述の多い魏志倭人伝に焦点を当て
    矛盾点の解釈の仕方を提示しているだけだ。
    もしそれがトンデモだとしたら、世のあらゆる学説がトンデモということになる。

    もちろんそんなことがわかってないはずはないだろうが
    そんな重箱の隅をつつくような詭弁しか出てこないようなら
    尻尾を巻いて教科書の世界にでも帰れ。

  263. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:05:48

    短里君こっちにも湧いてきたのか

  264. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:09:52

    >261
    前記事のコメント欄で「太守弓遵遣建忠校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國『拜假倭王』」「政等以檄『告喩壹與』」とあるから、梯儁や張政は倭王=卑弥呼や壹與に直接会っているって書かれてたよ

    >使節は奴国辺りまで行って後は現地の人に聞き取りして帰ったんじゃないか思いたくなるぐらい
    思いたくなっても、とりあえず魏志倭人伝には使節の梯儁も張政も倭王の都まで行ってると書かれていることになる

  265. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:11:26

    短里じゃないと畿内にならないもんな

  266. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:13:35

    247はマジで半島人かよ
    確かに倭も日本もお前の先祖を支配していたが、倭も日本もお前の歴史じゃないぞ

  267. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:15:24

    ※265
    滑ってるぞ

  268. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:16:52

    >262
    >魏志倭人伝の記述がその他の文献と大きく矛盾している
    中略
    >矛盾点の解釈の仕方を提示しているだけだ。

    前段から、魏志倭人伝がその他の文献と大きく矛盾しているのを認めるなら、「魏志倭人伝の記述」の方が間違っていると判断するのが合理的では?

    それなのに、魏志倭人伝を「解釈する仕方」を考えるのは、多くの文献の中では一部である魏志倭人伝を過大評価していることにはならないのか?

    これは、詭弁でも何でもなく262等の書き込みに沿って論を進めているだけだが?

    そもそも論立てが間違っているって言われているのは、理解できますか?

  269. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 17:30:10

    ※260
    倭王武=雄略天皇というのは通説ではない。
    未解決の様々な矛盾を抱えた一説に過ぎない。
    そして倭王武の上表文は、とても額面通りには受け取れないいわば自己申告というべきもの。

    さらにいえば倭人が
    ここからここまでが俺たちの領土、みたいな考え方をしたかどうかも不明。

  270. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 19:35:12

    日本は今まで朝貢していないし、記紀にも朝貢がない
    そもそも邪馬台国をはじめ倭について記紀には書いていない
    記紀を作ったヤマト王権は倭と日本を別にしている

  271. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 20:15:07

    ※252
    「委」には遠い曲がりくねったという意味が有る
    古代の「鬼」には畏怖を伴う意味が有った
    よって魏は偉大という意味になり
    巍巍は高くそびえるという意味となる

    「倭」には日本以外の意味がない
    蔑称を付けるなら矮人とか穢人で十分だったはず
    あえて専用の漢字1文字を作ったという事はそうとうな待遇だ
    遠い国という意味になるあろう

    また当時の中国には日本を小国という認識もなくチビという認識もない
    むしろ蓬莱と勘違いされていた
    倭に小さいという意味をもたせるのは後世の悪意の結果に過ぎない

  272. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 20:22:51

    ※264
    引用されたコメントで挙げられている漢文のうち
    前者の焦点「拜假倭王」については、「拜假」の意味を取り違えている。
    「拜假」とは、「皇帝に成り代わって官位などを授与する」という意味で、
    そこに直接会うなどという意味はない。
    拝謁とか拝見とかと間違えているのではないか。
    なお、その文の直後に「倭王因使上表 答謝詔恩」とあるから
    なおさら魏の使者は倭王に会えていない可能性が高い。
    個人的には朝鮮半島の倭国領で使者をもてなした可能性が一番高いと思っている。

    後者の「政等以檄『告喩壹與』」については、
    檄の意味がわかっていない。
    檄とは、木や竹の札に書かれた感情的な文章のことで、
    檄を以て告諭したというのは、対面して喝を入れたのとはわけが違うのである。
    つまり文章で激励しただけであって、
    これもやはり朝鮮半島の倭国領までしか行ってないのではないかと思う。

    つまりあなたが引用した人のコメントは間違っているのである。

    一応、※261の人に謝っておいたほうがいいんじゃないか?

  273. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 20:42:06

    ※271
    「倭奴国」の意味プリーズw

    わざわざ新たに字を作るくらいなら
    なぜ国がまえに委としない?
    いや、なぜ国がまえに和としない?
    いや、もっと尊敬のこもったいい漢字、いくらでも作れるだろう。
    そもそも倭よりもっと遠いところにある国など文字通り掃いて捨てるほどあるだろうに
    なぜ大陸沿岸にも姿を現していた倭に「遠い」などという名前をつける?
    牽強付会にもほどがあろう。
    嘘をつくのも大概にせよ。

  274. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 20:59:13

    いやはや本当に素敵なブログだ、もっと早くに知りたかったことこの上ない。
    ちょうど倭国小国家分布を研究しててね、古墳と地層の研究なんですが、まぁ教授が古墳で僕は地層なんですが、教授と僕らでこういうのを「少年時代から疑問を持ち、考える教科書」にするべきって何時も言ってるんですよ。何が良いって読みやすいね。浅い深いは
    無意味ですね、非常に的確かつ簡素でまとめる力に優れていると感じる。
    ほかの聖書イスラエルエジプトの記事も僕はさっぱり門外だけど、すごくおもしろかったなぁ。
    わかりやすいもの、批判容認多いのもうなずけます。
    サイト主さんはまだ引き出しを持っているんでしょうか?楽しみです。
    大袈裟じゃなく、ウチの教授の論文より全然いいよっ!

  275. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 21:43:08

    朝昼やってる工作員がこっちにも出てきたね。
    目的は日本人議論の妨害だろう、妨害してめちゃくちゃにした所で、自分たちの主張だけごり押し。
    前の方で畿内説崩壊して黙ったと思ったら、こっちで同じ工作連呼し始めたか。

    >208
    うろ覚えで勘違いしてた、↓のC2Cと何故か混同。
    ttp://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E6%AF%94%E7%8E%87%2528%E6%9D%B1%E4%BA%AC%29
    日本人の遺伝子は9割近くが縄文由来で、1割程度弥生以降のが入ってるって、ここ数年の最新科学調査で判明してるけど、西日本に出る数%のO系下位分岐とか、関東には蝦夷っぽいD1aとか、今でもしっかり証拠が残ってそうだ。
    日本人の遺伝子は多種多様に保存されてて、見てて楽しいし、よっぽど仲良くしてきたんだなぁ。

    案外昔の事も、しっかり調査すれば判明してくるかもね、日本だし。

  276. 名前:通りすがり 投稿日:2017/06/17(土) 22:19:48

     琉球、アイヌ、意外にも国はあったさ。現在みたいに全部合わせて“日本”の感覚なんて昔の人には無かっただろうから。出雲だって、播磨だって、蝦夷だって、その他だって、自分のところを國と思ってたさ。国名が変わったって、先祖は先祖。人種の話とはまた別物。

  277. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 22:45:33

    >272
    大変お詳しいようなので教えてほしいのですが、「皇帝に成り代わって官位などを授与する」ために太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬「詣倭國」拜假倭王と、倭國までわざわざ来て、それで国境を越えた辺りで王都まで行かずに、誰かに倭王に届けるように託すっていうのはどういうことでしょう。答礼(冊封)使としての役目ってそれでいいんですか?
    そして「その文の直後に「倭王因使上表 答謝詔恩」とあるから」とありますが、倭王が魏皇帝の詔勅を受け取ってそれに対する謝意を使いの梯儁に上表した訳ですが、272の言うとおり「朝鮮半島の倭国領」までしか行っていないのなら、奴国辺りから投馬国経由で邪馬台国まで詔勅を届けて上表(文?)が帰ってくるまで、片道2ヶ月(水行20日+10日陸行1月)往復で4ヶ月+アルファの時間、その半島の倭国領でずっと待ってたんですか? さらに対馬海峡を渡るための潮待ちや天気待ち、海が荒れない季節を選ぶことを考えたら下手すると1年以上かかりますよ?

    それを「詣倭國」表現しますか? それが自然な解釈なんですか?

  278. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 22:50:28

    >269
    >倭王武=雄略天皇というのは通説ではない。
    >未解決の様々な矛盾を抱えた一説に過ぎない。
    ああ、ここからですか
    では倭王武はどこの人物ですか? 九州王朝の人なんでしょうか?

  279. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 23:14:13

    富士山じゃなくて阿蘇山が記述されてるんだよなあ

  280. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 23:45:23

    邪馬台国近畿説なら出雲とか吉備国はどういう扱いになるの?
    魏志倭人伝には詳しい描写は無しでスルーなの?

  281. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/17(土) 23:52:37

    >275
    >日本人の遺伝子は9割近くが縄文由来で、1割程度弥生以降のが入ってるって、ここ数年の最新科学調査で判明してる

    言ってることとグラフが全然違うんだが
    日本人の9割が縄文系とかトンデモ説じゃないのか?
    ソースは?

  282. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 00:11:59

    ※277
    教えて欲しいのですがと言いながら詰問口調になってる。
    教えて欲しいと言いながら、明らかに反論しようとしているのが見え見えだ。
    姑息な人間だな。
    この調子ではきっと自分の間違いも認めず、謝りもしないだろう。

    >・・・役目ってそれでいいんですか?
    そんなのはタイムマシンでも発明して魏の皇帝曹叡に言ってくれよw
    チャイナの正史によれば、倭は魏に朝貢し、魏はそれに対して
    「よしよし」と頭ナデナデしている関係だから
    そういうことは十分あり得るに決まっているだろう。

    >謝意を使いの梯儁に上表した訳ですが
    「倭王因使上表(倭王使いによりて上表し)」だから
    倭王が、後日こちらがわの使いの者を改めて派遣し、上表して礼を述べたと解釈するのが適当。
    親分である魏の皇帝の使いに対してそんなに待たせられるわけがない。
    魏の使者だって海を隔てた玄関先への訪問で済ませているわけだから、
    そのへんは心得ているに決まっている。
    「倭王は出てこないのか」「返事はまだか」などと無茶を言うはずがないだろう。
    (電話も飛行機もない時代の外交のテンポや感覚、想像できてる?)

    ちなみに「詣でる」という言葉を使っている理由は、
    「使者」が「皇帝に認められた王」に訪問するから
    (皇帝への)礼儀上、貴人を訪ねるときの表現になっているだけであって
    魏が倭を敬っているとか、対等な間柄であるわけではない。

    そもそも、わざわざ海をわたって
    丸腰でものを届けに行くほど魏も東夷の野蛮人に心を許したりしないのである。

  283. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 00:56:26

    邪馬台国と大和朝廷が同一なら親魏倭王の印綬はどこに行ったのか?
    ずっと続いてきた権力で親魏倭王の印綬も記録もない理由をおかしいと考えられないのか
    別種だと判断した中国のほうが合理的な答えを出してると思う
    7世紀でも邪馬台国と大和朝廷は同一だと判断する材料がなかったと考えるほうが妥当

  284. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 03:40:32

    >277
    気持ち悪い丁寧語の朝○さん
    到伊都國 ~ 郡使往來常所駐
    自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
    この辺りどーなってんの?、妄想言いがかりしかできませんか?

    収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
    ここも気になる。
    大倭って女王国範囲じゃないし、一体何の事なんだろう。
    近畿国名で、あいつらにやらせてる上なのはこっちって報告してたんだろうか。

  285. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 04:47:49

    正史の内容がどこまで本当かは、確かに疑わしいですけどね
    しかし、今まで付き合いのあった倭人と比較して違和感を感じたのは事実でしょうね
    本当に倭国の進化系が日本国なのかと。

    それなりに認知してた倭人が、急に尊大で不誠実になり、しかも国号を変えたと主張してるけど
    性格まで変えたのか?と怪しんだのでしょう。

  286. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 08:11:29

    277
    C14で分からないんですかぁ?

  287. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 08:51:05

    「倭と日本が別モノ」ってのは、邪馬台国論争の穏便な着地点なんだよ
    いわゆる邪馬台国は、どう考えても九州なんだけど、近畿説の人は纏向遺跡にしがみついてる
    だから 「邪馬台国は九州。だけどそれは途絶えちゃってて、纏向王国こそが後の大和政権なんだよー」って言う両者痛み分けの構図
    これによって近畿説は否定されるが、九州説でも神武東遷説は否定される
    この辺で両者手打ちにしとくのが大人というものだよ

  288. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 09:16:58

    邪馬台国が近畿にあったとしたら
    じゃあ九州には何で触れないの?
    当時からそれなりにデカい規模のクニはあったんだろ?
    それとも邪馬台国が近畿から九州まで広く支配して九州も邪馬台国の一部だったの?

  289. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 09:23:46

    纏向遺跡は神武天皇の居住だと思う
    それが古代奈良湖の干拓に成功して一気に勢力を伸ばした
    そう思っている

    日本書紀は神功皇后を卑弥呼にするため初期の天皇の在位年数を改竄してるようだ
    神武東征が紀元前660年は有り得ない
    古事記や考古学的だと2世紀初〜中頃とみなされる

    倭国大乱の時期に九州の豪族(神武)が畿内に移住したとしても不自然はない
    古事記の神武天皇以降は全て史実であろう
    大和朝廷は九州の女王国と男王国を征服しているし

    日本書紀で中国への朝貢の話が出てくるのは7世紀初
    それ以前は全く朝貢の話が出てこないのは不自然と言われてきたが
    大和朝廷がこの時ほんとうに初めてだったとすれば問題ない
    倭と日本は倭の別種だが同じ倭種

  290. 名前:名無しさん 投稿日:2017/06/18(日) 09:32:32

    筑紫の国造磐井が倭国王だったのかな?

  291. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 09:38:30

    大和朝廷の朝貢失態

    1国書を忘れる
    2天子を名乗り皇帝を激怒させる
    3中国から使者が来たのに礼を欠き使者が怒って帰った

    こんだけミスを重ねるのは朝貢経験がある国では有り得ない
    朝貢にまったく無知だった事が証明されている

  292. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 09:56:42

    >291
    その朝貢経験は何百年前?

  293. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:01:18

    >288
    伊都国と奴国が288のいうそれなりにデカい規模の国でしょう
    それらが邪馬台国とは別に書かれている以上、北部九州に邪馬台国の入る余地がすでに乏しいんですよ

  294. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:15:24

    ※293
    まさか地図で広さも分からない人がいるとはね
    朝鮮半島だけでなく日本地図もみてくださいな

  295. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:18:45

    >289
    >古事記や考古学的だと2世紀初〜中頃とみなされる
    具体的な年代を想定するのは難しいと思います
    古系図の在野の研究者は、神武から崇神まで5世代と想定しているそうです

    >古代奈良湖の干拓
    これに関してはもっとずっと古いと思いますよ
    奈良盆地の中央から弥生時代のそれなりに古い遺跡が出ていますから

    >古事記の神武天皇以降は全て史実であろう
    私も神武天皇の実在説を支持しますが、神倭伊波礼毘古命(神日本磐余彦天皇)という名前からして纒向ではなく磐余の王だと思います

  296. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:28:39

    奴国比定地から前に九州説の人が行っていた筑後平野の有明海沿岸まで、松浦から奴国までとそんなに距離は変わらないだろう?
    それで、奴国までの詳しい記述が、そこから邪馬台国までのざっくり記述に変わる理由が乏しいって話
    前に記事のコメント欄での「3世紀」で「伊都国と奴国以外」の大陸との交渉つながりを示すものはどこにある?には答えられてないだろう?
    オレの知識はたぶん日本地理にしても日本の歴史にしても世界史にしても、あなたよりずっと多いから心配しなくて大丈夫だよ
    九州説の根拠だって邪馬台国の会のHPも一通り読んでるし、古田武彦の本も有名どころは何冊か読んでるよ
    その上で畿内で問題ないと判断してる

  297. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:32:21

    >287
    まあ大人の事情(町おこしその他)は分かりますが、手打ちする必要はないでしょう
    吉野ヶ里遺跡も邪馬台国じゃないことははっきりしていますが、観光地として楽しいところですし

  298. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 10:50:42

    >282
    >「倭王は出てこないのか」「返事はまだか」などと無茶を言うはずがないだろう
    というより、詣倭國といって狗邪韓國まで出てきてそこで1年も待つ必要があるのかってこと

    それだけ時間があったら帯方郡の役所まで帰れるよね? そこで待てばいいと思わないか?
    そしてそれでいいなら、最初から帯方郡で倭國の使いに魏皇帝の詔勅を託せばいいことにならないか?

    オレの言いたいことは分かった? 皇帝の詔勅を夷人に託すというのが答礼(冊封?)使としてあり得るのかってこと

    のちの裴世清も邪靡堆の都まで訪れてるよ。「拜假」の意味一つでずいぶん頑張ったけど、直接という意味が厳密にはなくても、それが直接「会わなかったことを意味する」ものではないだろ

  299. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 11:36:59

    古事記と日本書紀に倭の出来事がない以上倭と日本は別と考えるべき
    遺構からも別なことが明らか

  300. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 11:38:56

    隋書の裴世清の見分と思われる部分からすると
    7世紀初頭の倭人は男女ともまだ顔まで全身に刺青をいれているんだよな
    この風習が無くなったのはいつだったんだろう

  301. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 11:55:33

    300
    ヤマト王権が支配してからじゃない?
    畿内だと3〜4世紀にはすでに刺青ないし

  302. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 13:48:28

    ※292
    伊都国は1000余戸だから国としては小さい
    ただ重要な拠点だったようだ
    唐津に上陸したとすると距離も方向も一致する所に吉野ヶ里遺跡がある

    当時の有明海は海岸線がかなり内部まで来ている
    吉野ヶ里遺跡まで海が迫っていた
    奴国はその南東なんで八女あたりか

    伊都国から有明海を「南」に水行で邪馬台国
    熊本平野なら奈良盆地より遥かに広く巨大な国が成立可能
    阿蘇山も有るし

    九州で意外と収まる
    だいたい伊都国は末盧国から「南東」と書いてある
    もし東を南に間違えたとすると末盧国から北東に歩いたということになり
    末盧国に上陸してすぐ北東に
    つまり海上を五百里も歩いたことになるw

  303. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 13:54:36

    ちなみに「短里」は「高句麗伝」でも使われている
    「高句麗は遼東の東千里に在り……方形は二千里」
    これはどう見ても短里(76m)でしか理解できない

    他にも有るので倭人伝を含む東夷伝全体で短里が使われているようだ

  304. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 14:37:15

    はいはい

  305. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 15:10:13

    >302
    書き方変えたね、朝ひってる頭の中が一緒だからばればれ。
    吉野ヶ里まで海とか、縄文海進時代ですら怪しいわ。
    しかもそれから海面が下がって、弥生時代に海近くは水田作りに向いた土地が広がってたし。
    そこで稲作取り入れて、戸数一挙に増やして強国になっていったのが、海沿いの国家群だろう。
    奈良や関東の内陸は、古来からの強国で復権運動。
    この辺りが倭と日本の境目にあるんじゃないの。

  306. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 15:54:35

    ≫293の人はもしかして奴国と伊都国を九州北部、つまり佐賀県と長崎県と福岡県と大分県と熊本県の全域だと思ってるのかな?
    この人はどこを九州の北部だと考えているんだろう?
    北九州市と間違えてるのかな?

  307. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 17:45:32

    まあ筑後川のすぐそばは大雨で氾濫するから稲作には不向き
    遺跡も筑後川から数キロ離れたところにあるのは事実

  308. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 19:14:15

    素直に「面白かった」と言いたいわ

  309. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 19:15:42

    >283
    >邪馬台国と大和朝廷が同一なら親魏倭王の印綬はどこに行ったのか?

    大王の代替わりごとに新しい宮を置いていたのに、文書保存の習慣もなく法律もない大王ごとにほぼ自由に振舞ってた時代に、3世紀に貰った印綬が初めての公式国書を書いた7世紀まで残っていると期待するのはそもそも難しいと思うが。

    権力の象徴として伝世するってのも考えられるけど、266年の遣使のあと倭の五王まで朝貢の歴史も途絶えるし、倭の五王のあともまた途絶えるし、朝貢が途絶えている間も後生大事に抱えてたと考えるのもむしろ難しいと思う。

  310. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 20:00:12

    同一なら物はなくともそのもののあった記録はある
    朝貢した記録すらないのだから倭と日本は別とみて間違いあるまい

  311. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 20:40:32

    >310
    その理屈だと倭の五王もヤマト王権でないということになるが
    倭の五王はどこの誰と考えているんだ?
    その時代は考古学的観点からはヤマト王権による全国統一がとっくに終わってるし
    日本に残る最古の文字資料である稲荷山鉄剣などからも埼玉から熊本までは版図になってることが明らか
    倭の五王はいったいどこにいたんだ?

  312. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 21:13:17

    >309
    その場合ネックになるのは三種の神器
    剣、鏡、勾玉であるから時期的には弥生時代~となる
    金印は紛失したが同時代またはそれより古い可能性の高い三種の神器は残ったは
    都合よく解釈しすぎではないか

  313. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 21:31:39

    >312
    横レスだが基本的な事実認識に間違いがある
    三種の神器の起源がいつなのかは明らかになっていない
    実際、初期の大王クラスの古墳には勾玉は副葬されていない

  314. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 21:54:29

    鏡  権威 西の九州
    剣  武力 東の毛人
    勾玉 富  北の日本海側
    3つ統べる大王を中央に置いた。
    九州から四国紀伊東海、南関東にかけての、太平洋側の勢力が母体だろう。という妄想。

  315. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 21:57:00

    >313
    横レスだが勾玉自体は縄文時代からある
    武寧王陵など韓国内の王墓からも発掘されており、これらは日本から伝来したものである

  316. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 21:59:42

    勾玉
    日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。

  317. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 22:31:02

    >>311
    考古学的見地って・・・非科学的な妄想だろうよ、いつの時代の考え方だよ。
    先に進め、シンギュラリティもう目の前だ、古代史なんて統計でしか答えだせないぜ。
    そして統計なら近畿に邪馬台国なんてありえない。
    奈良盆地に大きい国が存在したかもしれないが、それが邪馬台国だなんて中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてないんだよ。
    本当に大人が妄想を膨らますととんでもないことになるな。

  318. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 22:40:55

    >315
    だから何?
    初期のヤマト王権で勾玉が三種の神器になっていたというソース出してくれ

  319. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 23:15:33

    古田武彦著が、「九州説」とかよく読んでからコメントしてほしいですね。
    そもそも邪馬台国なる国自体が「存在しない」ということからスタートしてる
    という点ですね。

    邪馬台国は、中国の魏志倭人伝には「邪馬壹(ヤマイ)国」としっかりと明記
    されている。にもかかわらず、そのまま邪馬台国のままつっぱしっている。
    こっちの方が日本の歴史家の惨い改竄と言わずしてどうするのだ?

    「邪馬壹(ヤマイ)国」なる国が九州にあったとかどうかは問題ではない。
    「邪馬台国」なる国は存在しない。はいおしまい!

  320. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 23:30:24

    邪馬壱国は北九州
    邪馬台国は概ね近畿
    邪馬台国は勘違いが基(時代で発音表記が変わってた+多分同じだろうという推定の産物)なので、五王がどちらかははっきりしない。
    自称大国の支配者だが扱いが軽すぎるため、実態が無い事が見抜かれていたのか、ひょっとしたら足利義満のように二重権力で、日本からしても将軍だったのかもしれない。
    遣隋使まで行くと、日本の歴史が書かれてたり、はっきり解るようになるんだけどね。

  321. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 23:34:43

    ※318
    勾玉を朝鮮半島由来にしたい朝鮮人発見!

  322. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/18(日) 23:42:01

    神武東征は亡命みたいなものだったんでは?

    倭で権力闘争にあるいは熊襲等の他勢力に敗れて九州を追われたイワレヒコらが
    新天地を求めて東進し、近畿地方に至って将軍ナガスネヒコらと接触。
    ナガスネヒコは軍司令官として、彼らを外敵として排除しようと考えたが、
    最高権力者のニギハヤヒにその情報が届き、よくよく話を聞いてみると
    古くから大陸と交流を持っていた勢力だという
    いろいろ考えたニギハヤヒはイワレヒコを仲間に引き込むことにして
    戦闘を通して彼らとの関係が最悪になっていたナガスネヒコの首を飛ばした

    実際はニギハヤヒがイワレビコの亡命を受け入れたものだが、
    後年、記紀編纂にあたっては倭からの連続性を強調するために
    ニギハヤヒがイワレビコの軍門に下ったということにした
    欠史八代は実はイワレビコではなくニギハヤヒの子孫で
    そこら辺を有耶無耶にするために詳しく書かれなかった

    そんで本当のニギハヤヒの子孫である大王は
    イワレビコの子孫を自称することになったんで
    空きになっていた「ニギハヤヒの子孫」は
    後に勢力を強めた物部氏が名乗ることになった

    とか・・・
    うーん、妄想が捗りますな

  323. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 00:07:36

    >317
    考古学無知がトンチンカンなイチャモンつけてるだけだな
    つまらん

  324. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 00:09:23

    弥生時代から剣、鏡、勾玉は権力者の象徴だった
    これは遺跡の発掘からわかっていること
    当然邪馬台国はどこにあったにしても剣、鏡、勾玉は持っていただろう
    ゆえに剣、鏡、勾玉と金印は同時代にあった可能性は十分に高い
    剣、鏡、勾玉の伝承があり金印の記録がないのはやはり不自然
    このことから古くから勢力を保ち、歴史があれど金印の記録が一切ない出雲、畿内は
    邪馬台国の比定地から除外される

  325. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 00:21:20

    >>327
    いまだに邪馬壹国の場所さえ比定できない考古学なんぞつまらんし役に立たんだろう。

  326. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 00:24:40

    >323
    まったくだよ
    考古学的観点からすれば九州の倭と畿内の日本は明らかに別
    考古学的見地の分からない人が多すぎるよな

  327. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 09:28:22

    >317
    >奈良盆地に大きい国が存在したかもしれないが、それが邪馬台国だなんて中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてないんだよ。
    本当に大人が妄想を膨らますととんでもないことになるな。

    北部九州に邪馬台国があったなんて「中国の歴史書でも古事記日本書紀にも風土記にも書いてない」ですよね?

  328. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 09:45:30

    >319
    「邪馬台国」はなかった、も読んでるよ。
    でも、古田史学は魏志倭人伝の言う女王国は北部九州にあったという九州説だろう? 
    というか、九州説の一方の親玉じゃないか

    >中国の魏志倭人伝には「邪馬壹(ヤマイ)国」としっかりと明記
    魏志倭人伝には「對海國」としっかり明記してあるが、これを対馬ではないという人はいないよな?
    のちの大陸の史書が軒並み邪馬臺國になっているし、現存の魏志倭人伝も写本なんだから、そこにこだわるのもあまり意味はないと思うぞ

  329. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 09:48:44

    >326
    >考古学的観点からすれば九州の倭と畿内の日本は明らかに別

    それはどんな考古学的資料から分かることなのでしょう?
    考古学的資料に「倭はここまで」とか書いてあるものはないですよね?

  330. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 09:53:34

    >310
    >同一なら物はなくともそのもののあった記録はある
    >朝貢した記録すらないのだから倭と日本は別とみて間違いあるまい

    北部九州に親魏倭王の金印の実物があったり、その金印はなくとも「その金印があったという記録」があったという話は勉強不足で知らないんですが教えてくれますか?
    私の記憶では、北部九州が大陸の王朝に朝貢した倭国側の記録すらないのだから、北部九州は倭と別と見て間違いないですよね?

    九州説はダブスタばかり

  331. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 12:28:52

    ※330
    こいつもしかして日本の文字の歴史知らないんじゃね?

  332. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 13:02:57

    ※330
    「金印」でぐぐれカス

  333. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 15:29:44

    この流れで坂東以北の謎めいた歴史もやってくれないかな

  334. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 17:41:29

    >332
    これが九州説のレベルか
    笑ったわ

  335. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 17:48:46

    ※330
    朝鮮人には難しい内容だったようだな

  336. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 17:55:35

    >330
    この方の解説により倭と日本が別であることに確信が持てました
    九州にあった倭は文字で記録する前(日本列島に文字が伝わる前)にヤマト勢力に滅ぼされたのですね
    邪馬台国の金印が話すらもヤマト王権に伝わらなかったのも倭を滅ぼした側だったと考えれば納得です

  337. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 18:36:18

    畿内説を唱えたり九州説の論理の稚拙さを指摘すると、議論と関係のない罵詈雑言に走る人がいますねぇ
    論理に論理で返せないのは自分でも自分の主張に理がないことを自覚しているからでしょうねぇ
    だからといってまともな言葉遣いすらできないのは嘆かわしいことです

    漢委奴國王の金印は、親魏倭王の金印とは別物ですよ?
    それが九州で見つかったり、それが九州にあったことを伝える日本側の文献ってありましたっけ?

  338. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 18:37:52

    >336
    あなたが何を信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  339. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 18:56:15

    >330
    >338
    あなたが何を信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  340. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 18:58:38

    ≫337
    奴国の金印にこだわりがあるようだけど、何か意味があるの?
    それがどう倭と日本に繋がるの?
    中国の文献が正しかったって意味?

  341. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 19:02:48

    >337
    語尾に小文字のあ行をつけることをまともな言葉遣いだと信じても自由ですが、それを人前で話すとたぶん、ものの分かった人からは勉強不足の人を見る生温かい目で見られると思いますよ

    お気をつけて

  342. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 19:10:33

    記紀に邪馬台国についても朝貢についても金印についても記述がないから倭と日本を同一視することには無理がある

  343. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 19:20:38

    朝昼工作まだやってんのか、畿内説は前の話題で完全敗北してるのに、同じ書き込みをすれ違いでも延々と。ほんと気持ち悪い人種だね。

    遣隋使が倭と日本の境目だろうか。
    聖徳太子が天子を名乗ったり、あちらからの使者を無礼だと追い返し使者出し直しになったり、対等な付き合いを始めようとした。
    ここが日本側の境目。
    次からの使者は近畿に行けず、倭と同様に朝鮮半島かせいぜい北九州までで事物のやりとり(臣下の礼を取らない)ということなのだろう。
    その後高句麗が隋の侵攻を受けると、日本では聖徳太子一族が抹殺され蘇我氏が権力を握り、蘇我氏も討たれ大化の改新が進むと遣使自体が止まって、唐と戦争し、国号が日本に変わって倭人風習が消える。
    こちらが大陸歴史書での境目。

    蘇我氏は日本を朝貢国にしようとした勢力だったのだろうか。
    皇族聖徳太子の存在を抹消し、天皇に討たれたはずの蘇我氏を英雄視する近年のマスコミ煽動(NHK等)は、どういう目的があるのだろうか。

    聖武天皇辺りまでは、日本文化も大切にしていたようだけど、その後の近畿は、渡来文化渡来勢力に押されていってる気がする。源氏物語なんかもそうだけど、渡来系の特徴を賛美し在来特徴を醜い犯罪者とするプロパガンダが出回る平安暗黒時代。
    遣唐使を廃止した菅原道真が流されたように、都合の悪い人物は実力があっても近畿から追放される。
    後に武家の台頭が日本人に求められたというのも、当時の状況を見ていけばわかる気がする。

    日本史は視点を変えていけばまだまだ奥が深そうだ。

  344. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 19:30:58

    >343
    イミフ
    こいつ勝手に勝利宣言したり朝鮮がどうのとか訳の分からん陰謀論力説したりとか
    明らかに頭のネジがはずれてるわ

  345. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 19:51:13

    ※293
    伊都国は今の糸島辺り
    奴国は今の那珂川辺り
    2国合わせても福岡県の3分の1ぐらいのサイズしかない
    面白いのは2国とも地名に名残がある

  346. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 21:24:13

    ここは記事の面白さもさることながら
    日本史に自信ニキのコメントの熱量がすごいな

  347. 名前:縄文人 投稿日:2017/06/19(月) 21:52:13

    古代日本には三種族の大きな勢力があって、それぞれの象徴が剣と鏡と勾玉。
    なので、倭と日本が別だったという説は支持する。
    それで今は日本国を名乗り、日の丸を国旗としている。
    日の丸は太陽を意味しているが、赤く塗りつぶされている。
    これは実は古代日本が銅鏡で太陽を白い布に反射させて国勢を占っていたことに由来すると思う。
    その様をそのまま国旗にしたので太陽は赤いのだ。
    今でもしばしば日本は鏡の国だと言われる。
    三種の神器がそれぞれの種族の象徴でその中の鏡の国が今の日本国を統一したのだ。

  348. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 22:58:39

    >347
    そういうくだらない妄想はチラシの裏にでも書いとけ
    いちいち他人に語る必要なし

  349. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 23:02:29

    “倭”とは、中国側から日本列島の地方を定義した名。
     倭の地域の中にある邪馬台国。
     倭の地域の中にある日本国という意味。

    これに対して、“日本”は日本列島に建国した国が、自ら号した国号。

    倭と日本は別物説の根拠は、無いに等しいよね。
    用途がそもそも違う訳だし。

  350. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/19(月) 23:33:32

    何度か登場する、征服された敗者の国号(日本)を、勝者の側(倭)が自分の国号に取り入れる・・・。
    “倭”国号説で使っている人の意見にあるけど、この説も厳密に考えたら下記の様になるんだよね。

    これは征服された(とされる)日本の方が権威があり、本来国家を統べる正当性を持って君臨していた事を意味しており、
    その名(日本)を奉戴する事でしか、下剋上をした側(倭)は政治権力を正当性を持って安定維持できない事を意味している。

    確かに天皇家の支配の下、幕府を開く形態なので、日本人的にはありそうではあるね。

    しかし、この説は日本という国号の国が、倭地域を支配する代表国であるという記載がはるか昔から載ってないと成り立たないんだよね。

  351. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 00:15:32

    >349
    >“倭”とは、中国側から日本列島の地方を定義した名。
    日本列島の地方?定義?
    謎理論すぎる

    >倭の地域の中にある邪馬台国。
    >倭の地域の中にある日本国という意味。
    記紀にも正史にも倭の地域の中にある日本国なんて書いてない

    せっかくヤマト王権が倭を征服して日本に国号を定めたのに一部の子孫に倭と日本は同じでなおかつ倭の中の一地方政権にされるとは思わなかっただろうな
    当時の世界情勢の中で強大な中国に朝貢せず独立を保った先人の努力が日本という倭とは別の国号にあらわれている

  352. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 00:31:17

    >347
    朝夕の太陽は赤いですよ。それ以上に、縄文の頃から朱漆など、赤に特別な思い入れのある国ですよ。
    弥生時代も朱は特別な色で、化粧のベンガラ以外に埋葬のために朱を使ってたようです。
    >349
    倭は国名としても使われてますよ。倭の1文字ではっきり1国と数えられてます。地域名だと言い出したら、高麗百済のような他の国も地域名になってしまいます。
    唐書では、倭国の他に日本国があったという事になってます。
    倭種としてなら、日本国は倭国の別種と言った場合、別の地域別の国を指すようです。

    倭は筑紫にあって天皇が大和(おそらく日本側の主張から)という事も書いてあります。
    倭は東西南北を海に囲まれた島(東に倭種=別の国)、より大きくなった日本は東と北が山で、その先は毛人です。
    倭は地域としては九州、国家としては筑紫から始まり、近畿を含みながら日本へ変わっていく(連続してる割に言ってる事が怪しくなる)、そんな風に書いてありますね。

  353. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 00:33:46

    古代天皇も朝廷も幕府も戦国自体もずっと同じ一つの国家と言えるのか?
    GHQに占領されてる時もか?

  354. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 00:51:55

    ※349
    どうしても天皇家が朝貢したことにしたいんやな
    小日本とか日本鬼子とか倭とかチョッパリとか呼びたいんやろ
    残念やが隋や唐は倭と日本を区別したんやで
    歴史は改竄できひんのや
    正史を残した中国人は偉大やな

  355. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 01:56:14

    ※352
    倭国とは、倭という地域内の都市国家連邦と解釈していましたが、中央集権し自ら国号を”倭”と定めた国があったと言う事かな?
    倭の邪馬台国とか、倭の五王などは、倭の中で、その時々に強力になった都市国家の代表とその王だと思っていました。
    2回の倭国大乱などもあり、とても倭国が中央集権した統一集権国家であるとは思えません。

    大和朝廷が自ら宣言した日本国号とは違い、“倭”という表記はあくまでも中国側の表記にすぎません。
    倭という地域からきた使者とひとくくり扱いされていただけでは?

    ※354
    朝貢などどこにも書いてないですが?
    あなたの意見と違う意見の持ち主=全て半島の人にカテゴライズする。
    というあなたの定義を声高に提唱するのはおやめになった方が良いかと。
    この宣言によって、違う意見の人を叩く大義名分を得、好き勝手強い言葉を使って叩ける利便性があるのはよく承知しております。
    しかし、貴方と違う意見=半島人という定義は、しょせん貴方の願望にしか過ぎないのですよ。

  356. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 02:19:15

    ※353
    同じ国と言える
    13世紀までは大和朝廷が支配し天皇が直接統治していた
    武士の幕府は天皇が征夷大将軍を任命し権力を与えた形になってる
    江戸幕府は将軍の世襲も天皇が認めたものだ
    江戸時代の天皇はかなり没落したが権威と任命権は残っていた

    明治維新後は天皇は政治の表舞台に復活したが
    基本が議会制で天皇の政治的発言は自制されていた
    WW2敗戦後も天皇制は維持された
    つまり日本は1300年前から国名が同じで天皇も維持された
    世界でも極めて特殊で最も長い歴史が有る国

    倭も日本の歴史に入れると周代に朝貢したとあるので縄文時代まで遡る
    おれは縄文時代に出雲のような古代王朝が有ったと思ってる
    出雲から王朝を譲ってもらったと国史の記紀に書いてあるしな

  357. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 02:31:11

    ※355
    出雲にも王朝が有ったと思われる
    大和朝廷以前の畿内はニギハヤヒが統治しいたと日本書紀に書いてある
    大和朝廷が最初の王朝というのを天皇が否定している

    畿内や九州だけでなく東日本にも王朝は有っただろう
    縄文の常識が変わったように
    古代王朝の常識も変わるんでないかな

  358. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 04:31:06

    根拠のない、証拠もない、珍説奇説の発表会になってるな
    最低限、考古資料と矛盾しない仮説にしてくれ

  359. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 05:51:44

    >355
    屁理屈?そういう話なら、明らかに倭と日本の定義は別物ですね。
    倭国と倭種と倭地とあり、時代と共に表す範囲(知り得た範囲?)も変わっています。
    倭が表している範囲があやふやで、根拠となる風習が消えて、唐の人も怪しんでいるのに、別物では無いと言う理由こそ必要ではないかと。

    >357
    古地震地図を見ると、地震の被害が少ない所を中心に、古王国があったように見えますね。岡山群馬山形などなど。

  360. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 07:13:08

    ※355
    朝貢がないなら別種が結論やな

  361. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 07:47:04

    >359
    >倭が表している範囲があやふやで、根拠となる風習が消えて
    倭が表している範囲は半島の南東海上の島全部ですよ
    大陸の歴代の史書、すべてがその立場で一貫しています
    倭は「その範囲」を指す地域の名前です
    其北岸狗邪韓國の狗邪韓国が倭に入るかどうかは議論がありますが
    その地にいる倭王に属する範囲が倭國で、倭國の範囲は時代により変わります
    倭=倭國ではありません
    倭國の方は曖昧さが残ります

    そして、根拠となる風習ですが、間に100年単位の時間が流れていることを忘れないでください
    我々から見れば全て古代ですが、古墳時代の倭の五王と飛鳥朝以降の時代で風習が変わらない方が不思議です
    飛鳥文化と平安文化だって違います
    そうした文化の変遷は、別の国かどうかとは関係ないですよね?

    逆に、無理に理由(九州王朝があったとか)を作らなければ、別物だと考える理由はないと思いますよ

  362. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 07:53:14

    そもそも日本側の記録は、中国の記録に朝貢した卑弥呼がいたって引用はあっても、卑弥呼が「○○」って断定できるような事言ってないしな
    神功皇后だとだいぶ変な事になるし
    直系ならもっとはっきりしとけば論争にもならなかった

  363. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 07:57:45

    それと日本の範囲がー、と言っている人がいますが、「日本」は天武持統朝がこの国を表す国号として新しく作ったもので、その前に「小さな日本」があったなんてことはないんですよ。

    日本はできたときから、九州から関東(白河の関?)までの飛鳥浄御原朝の統治範囲全域です。倭の五王の武の上表文の範囲(=倭国)とほぼ変わらないですよ。

  364. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 08:13:36

    推古天皇の時代の遣隋使で自ら日出処天子と名乗り、大陸皇帝の冊封体制からの離脱をしたという体を取っており、天武持統朝で「日本」という国号と「天皇」という称号を作っているので、その天武天皇の命で編纂された日本書紀では大陸への朝貢を書かない方針だったと推測する人もいます

  365. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 10:00:47

    >340
    逆だよ
    日本のどこからも卑弥呼の遣使のときに下賜された「親魏倭王」の金印は出ていないのに、畿内で出ないから畿内は邪馬台国ではないっていう九州説の人がいるから、九州からも出ていないよね?だから九州も違うんだよね?と訊いたら、「金印」でぐぐれカス、とか的外れなことを言うんで、それは別の金印で「親魏倭王」の金印は出ていないよね?って確認しただけ

    前記事のコメント欄でも、「ない」ことを根拠にした立論は意味がないってさんざん言ったんだけどね

    自分だけが正しいと、世間一般が認めていることまで全否定だから話にならない九州説の人がいるんだよ

  366. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 11:04:31

    ああやっぱり
    「日本」「倭」「別種」とかで言葉遊び、定義論争をおっぱじめちゃってる人が多数

  367. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 12:37:05

    日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記しているのに何故同じだと拘るのか分からん

  368. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 14:31:52

    >367
    >日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記している
    これがそもそも何を言ってるのか分からん
    中国の文献はまあ、舊唐書、新唐書のことを言いたいのだろうことは分かる
    これに関しては解釈の余地はまだある

    日本の文献で、日本と倭は別って書いてあるのはどれ?

  369. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 15:08:31

    >361
    また朝昼テョンかよ。
    高麗も百済も扶余の別種、しかし高麗は高麗、百済は百済。
    倭もこれと同じ、倭地の東に海越えて倭の別種と表記されている以上、倭以外の国や地域が存在している。
    日本側の記録からも考古学からも判明している。
    日本の歴史を荒す目的で出鱈目ばらまく、こういう奴らは許せん。

  370. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 15:19:25

    邪馬台国とその他7国で15万9000戸(魏志倭人伝)
    1戸につき家族5人と計算して795,000人

    三国志の時代の蜀の人口は、94万人とある。(晋書)
    九州説を取ると考えると九州だけですごい勢力だったんだなぁという感想。

  371. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 15:25:55

    仮に別であれば、記紀に日本が倭を討伐して自分が正統であるという誇示がなされているでしょうなあ。
    記紀を編纂する際の関係者が魏志倭人伝やその他の史書を知らないとはとても考えにくい。

  372. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 15:58:36

    >369
    >日本側の記録からも考古学からも判明している。

    こいつまた嘘デタラメ吐いてやがる
    言い張るだけでなくきちんとソース出せや
    まあ無知の初心者が吠えてるだけだろうが

  373. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 16:09:49

    別に倭が日本でもそうでなくとも別にどっちでも良いけど・・
    中国から見て倭のが小さい国か大和のが小さい国かは分からんし歴史が古いか浅いかは分からんよね。

    とりあえず日本と名乗ってからは交易(利益重視)より面子重視(自国の安定重視)してるとは分かるよな。

  374. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 16:11:35

    ※371
    もし「のちに日本という国号を名乗ることになる新政権」が
    倭を「討伐」という軍事力で圧倒するやり方で政権奪取したのなら
    はじめから記紀など存在しなかっただろう。
    そんなもの膨大な金と時間と労力を割いて作る必要がないからだ。
    記紀は間違いなくチャイナの正史に習って作られたものだろうが、
    正史というものはそもそも、現政権を正当化するために
    前政権を貶め、現政権の功績を過大に粉飾して記録するものだからだ。
    もしどこかに後ろめたい部分(出自の怪しさとか、手段の卑劣さとか)がなかったら
    そんなものは必要ないはずだ。

    しかもそれだけの圧倒的な軍事力の差があった
    もしくは長期に渡る国同士の大戦争があったのなら
    考古学から直ぐにそのような結論が出てくるはずだし、
    国土も相当荒廃してチャイナに使節を送る余裕はおろか
    正史を編纂する余裕すらなかっただろう。

    新政権はほぼ間違いなく出自の怪しい人物を立て
    チャイナ譲りの卑劣な手段で政権を奪ったと見てよいだろう。
    だからこそ自らを正当化するために正史を編纂(これもチャイナ譲りの行為)する必要があったのだ。

    倭と日本が別種というよりも
    クーデターによって非倭人政権(もしくは傀儡政権)が誕生し、それがのちに国号を日本とした。
    というのが正しいのではないか。

  375. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 16:18:34

    ※374
    薩摩が琉球貿易で荒稼ぎしてた例があるからな・・
    倭の名前借りてシナと交易する事は大いにありうるかと。

    この辺は面子の問題になるので、交易する価値が無くなってからは正式名称で名乗ったとか大いに有りうるかと。(シナとの貿易はシナとその属国としかほぼ無いのでシナと貿易したければ頭を下げないと基本行けない時期が多い)

  376. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 16:23:43

    まぁ、要は境目が分からない程度に同化してしまったってのがそもそもこの問題の根幹なんじゃね?
    ・・。良い事だけどね。

  377. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 16:27:59

    間に半島国入れてって何度も出てくるからな。
    隋の無礼な使者を追い返した後も、新羅を間に置いてお互いの顔を立てて交流した。
    倭人の価値、を知っていたら倭人のふりくらいはするだろうな。

  378. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 17:02:06

    >371
    古事記はともかく日本書紀には神功皇后のところに魏志の引用がありますから、当然というより読んだ上で日本書 紀を編纂しています

  379. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 17:09:00

    >374
    >もし「のちに日本という国号を名乗ることになる新政権」
    この新政権の成立をいつ頃だと考えてる?
    倭の五王より前? それとも後ろ?

    >もしどこかに後ろめたい部分(出自の怪しさとか、手段の卑劣さとか)がなかったら
    >そんなものは必要ない「はず」だ。
    「 」は引用者
    はず、というが、では日本書紀に続く六国史(日本書紀を入れて六だけど)の編纂時に、政権の簒奪や後ろめたい部分なんかないだろ?
    律令国家としての体裁を整える一環で、正史を編纂したというのが普通の見方だぞ

  380. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 17:14:04

    >369
    あなたからすると私は敵にしか見えないのかもしれませんね。
    論破されまくりですから。

    >日本側の記録からも考古学からも判明している。
    その「日本側の記録」って具体的にどれですか?
    「考古学のどの資料」から判明するのですか?
    まだ答えてもらってませんよ?

    あなたは汚い言葉遣いで、思い付きをソースも根拠もなしで喚き散らすのみで、少しも建設的ではありません。

  381. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 17:31:23

    古墳時代になると「日本中(南西諸島や東北を除く)で共通の形式の古墳を作る」ようになることを軽視しすぎだと思う
    この時点で古墳を作る範囲(古墳時代に入った範囲)がほぼイコールで当時の倭国の範囲だろうし、それがのちに日本を名乗る範囲だろう
    舊唐書、新唐書で、倭国と日本に混乱があるのは、天武持統朝で「日本という国号」と「天皇という称号」を作ったことに対しての反応で、7世紀時点のこと
    さらに舊唐書の成立は10世紀半ば、新唐書は11世紀半ば過ぎ
    纏向に都が置かれた3世紀のことを700年後に書いたっていうのは、おかしな話だと思わないか?

  382. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 18:23:04

    倭の指し示す範囲は時代によって変遷する。史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったとする学者が多い。
    倭がのちの日本と同じ範囲であるならば説明のつかぬことは日中の文献により明らかである。
    倭、倭国、倭人、日本はそれぞれ別のものを指し示しており使い分けがされていたことはほとんどの学者の指摘するところである。

  383. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 18:25:27

    ※380
    側から見ていると全く論破してない

  384. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 18:43:27

    ※383
    「日本側の記録」「考古学のどの資料」も出せない妄想なのに?

  385. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 18:55:54

    >259の声闘を調べたら朝鮮語だった
    つまり259と361は同一人物だから380は朝鮮語が母国語の人間

  386. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:02:40

    お前はなにを言っているんだ

  387. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:07:11

    ≫380
    論破なんて日本語使ってたら≫337に言葉遣いを窘められるぞ

  388. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:09:35

    「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

  389. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:15:33

    要するに倭と日本が同じとの日本側の記録と考古学の資料はないんやな
    そんで中国側の記録には倭と日本は別だと書かれてるわけなんやね
    ほんま分かりやすいわ

  390. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:38:50

    今世紀でもしてる
    NipponとJapanの使い分けと同じで
    言い方が対外向きで変えてたと思うけどね。

  391. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 19:48:39

    ※389
    何を要約したのか分からないけど
    倭と日本が別だとする「日本側の記録」「考古学の資料」は?

  392. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 20:20:15

    奴国も大したドラマもなくいつの間にか大和朝廷支配下になってるという謎
    衰えたとしても、まあまあ大国のはずだっただろうに

  393. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 20:59:40

    ※379
    最初のクーデターはおそらく乙巳の変。
    百済の傀儡政権である天智朝は倭を名乗り続けたものと思われる。
    二度目のクーデターは壬申の乱。
    日本の国号が天武朝において初めて対外的に用いられたのだとすれば、
    その「新政権」の成立は壬申の乱後ということになる。

    >・・・普通の見方だぞ
    普通の見方ほどつまらないものはない。
    そしてそれは往々にして勝者の論理で捻じ曲げられている。
    ましてこのブログは普通の見方を確認し合う趣旨のものではないであろう。

    続日本紀以降の史書には日本書紀ほどの大きな歴史改竄動機はなかったかもしれない。
    しかし、常に政治には勝者敗者が存在するもの。
    勝者がおのが正当化を果たす安定の最終手段が正史なのだ。
    律令国家の体裁を整えるというのは建前であろう。建前としては正しいに違いない。
    しかし裏の事情を看破できなければ歴史の真実など知りようもない。
    教科書との整合性が何より一番大事で、その埒外にはみ出すことが悪だと思うなら
    こんなところへは来ないほうがいいだろう。ガリ勉くん。

  394. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 21:42:28

    2国だけじゃなくもっと大国小国が取ったり取られたり分裂したり連合してたんだと思う
    日本の有力候補は奴国でしょ
    名前が雅でないし邪馬台国と敵対してた記録もある

  395. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 22:02:50

    ※380
    記録  日本の記紀、中国の歴史よ、半島の三国志など
    考古学 半島南部の前方後円墳

    横から失礼w
    でも異論有る?

  396. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 22:08:35

    同一時代かはわからないけど
    少なくとも九州、出雲、京都、金沢、琵琶湖南あたりは古代から栄えてたんだよな
    第一次戦国時代みたいな感じか
    記録があれば面白かっただろうなあ

    神話や伝説あたりから読み解けないかね

  397. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 22:32:52

    >男女ともに顔まで全身に入れ墨をして魚を獲るのが得意な人々が住む冬でも温暖な国
    顔まで入れ墨ってーとアイヌだな

  398. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 22:47:51

    >393
    これこそオレ様だけが知っている真実の古代史だと自分に酔ってる電波野郎
    長々と書いているが根拠が一つもないただの妄想ストーリー
    基本的な考古学知識さえもゼロ
    問題外

  399. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:17:46

    ※398
    申し訳ないが、
    ブログ記事に触発されてみんなが自由に仮説・持論を展開していく場に闖入し、
    教科書を盾に妄想だの無知だの罵倒を繰り返す礼儀知らずのほうが
    よほど自分に酔ってるといえるだろうな。

    二言目には妄想妄想と口癖のように繰り返しているようだが、
    仮に根拠が一つもないとして、考古学知識がないとして、
    ここのコメ欄において、一体なんの不都合があろう?
    少なくとも、教科書という時と共に書き換えられる頼りないものを金科玉条のごとく信奉し
    そのかりそめの権威を笠に着て自由な他人のコメントに難癖をつけて回る
    心根の卑しいガリ勉くんよりは――
    遥かにマシだよ。

  400. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:22:54

    ここって根拠のない妄想を披露する場だったの?

  401. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:29:06

    ※400
    教科書の何ページから何ページまでからしか出ませんとは書いてないな

  402. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:34:25

    ※401
    なぜ根拠のない妄想と教科書そのままの二択なのか・・・

  403. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:43:32

    ※402
    教科書信者のガリ勉くんにいわせると教科書に書いてあること以外は妄想になるらしいw

  404. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:52:39

    ※403
    そんな人どこにいるの?

  405. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/20(火) 23:56:28

    ※404
    コメ欄を上から順番に読んでいけば見つかる

  406. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:00:49

    ※405
    最初から読んでるけど分からないから具体的に示して

  407. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:03:51

    以上、ガリ勉発京の巻~完~

  408. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:06:06

    そういうのいいから

  409. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:17:23

    富本銭だって昔は教科書に載ってなかったけど発掘されて今では載ってるじゃん
    文献に記述があったから富本銭があることはわかってたけど実物が発掘されたことで文献の正しさも証明されたし
    殷墟もトロイも同じじゃん
    正史に倭と日本が別と記述があるなら今以上にそれを裏付ける発見があるんじゃね

  410. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:19:02

    ※400
    教科書君は受験勉強に集中した方がいいよ

  411. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:28:06

    ※410
    ??????

  412. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:48:34

    ≫408
    ガリ勉は悪いことではありません
    ともに言葉遣いを正していきましょう

  413. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:51:33

    今の教科書には九州説も書いてあるよ

  414. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:53:13

    ※412
    ??????

  415. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 00:59:05

    大王家も三国志を読んでビビったことだろう
    なんせ卑弥呼なんて知らないシャーマンが倭国の女王だったのだから
    しかも中国に挨拶に行ったら格下扱いで冊封体制に組み込まれそうになるし
    三韓を征伐し朝貢させてたのにまるで逆の立場にさせられる
    倭とは別の国だと主張するため日本と名乗るのも自然な流れだな
    古代の外交センスが垣間見えるとともに政治は今と変わらないレベルだったことが伺える
    人間の面子に関する考えは変わらないのかもな

  416. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 01:17:12

    結局、倭国(北九州に在った女王以来の国)とその東の元は小国で後に倭国を合わせた日本(神武東征で奈良に建国)は別物で両国の粗筋の一部は ※98 に既出だな。
    そうすると、倭の五王は北九州(福岡市近辺?)の倭人を代表する政権と認められた大王か。そして、磐井の君はその何代か後の大王で、その主力軍が朝鮮に派遣された直後当たりの軍事的空白を利用し、倭国応援軍のフリをして倭国中心部までマンマと侵入してから裏切って騙し討ちで殺して北九州一体を荒らした訳か。道理で豊後国風土記では青年壮年なしで闘って少年中年の数多くの犠牲者がでた訳だ。
    そして、隋との対等外交も倭国の皇帝(シナは中華思想から歴史書では格下の大王と表記)がした事で、近畿の日本国の王ですら無い聖徳太子ごときのした事では無いんだ。確かに阿毎アメの苗字は大和の日本国天皇家の物とは違うし、筑紫の倭国皇帝家の苗字なんだ。

  417. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 01:25:36

    結局とは一体

  418. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 04:48:15

    >395
    それのどこをどう解釈すれば日本は倭の別種になるんだ?

  419. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 05:32:25

    日本書紀によれば
    ヤマトタケルが西と東を平定せよと命令され
    イズモタケルとクマソタケルを倒した

    つまりヤマトタケル以前は
    タケルと称されるヤマトと同程度の勢力が出雲と九州に有ったともとれる
    どちらも
    けっこう卑怯な手で勝ってるから
    ヤマトは小国だったのに大国だった出雲と熊襲を飲み込んだのだろう

  420. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 05:41:17

    倭の五王はクマソタケルの可能性が有る
    少なくとも熊襲と出雲を平定する前に
    畿内のヤマトが中国に釣行できた可能性は極めて低い
    なぜなら
    畿内から九州と中国地方を通らずに朝貢は不可能だ
    途中で阻止されるだろう

  421. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 11:04:46

    最初はまた在日パヨクの日本貶めかと思ったが普通にユニークな論文だった
    面白く読ませて貰った

  422. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 13:45:41

    >420
    >畿内から九州と中国地方を通らずに朝貢は不可能だ
    丹波の竹野川流域は、古事記で垂仁天皇の后妃日葉酢媛命を出している丹波道主命の領国と見られている地域だから、畿内扱いでいいよな?
    丹波道主命は崇神天皇の甥で四道将軍の一人だし、日葉酢媛命の妹に竹野姫というこの地名を名に持つ姫もいるし
    そして、この竹野川流域の大田南古墳群からは画文帯環状乳神獣鏡という二世紀後半の後漢鏡(漢鏡7期)も出ているし、もうちょっと丹波を広く取れば、丹後一宮・籠神社に前漢鏡(漢鏡4期)の内行花文昭明鏡が伝世されているし、大陸との交渉は物証で示されているよ
    不可能じゃないよね?

  423. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 13:58:38

    >401,403,407,410,412
    連投すごいな はっちゃけてるなww

    日本には国定教科書はないけれど、教科書検定ってのがあって、教科書の執筆、出版は民間に任されていて自由に書いてよいけれど、学習指導要領に外れる内容や「明らかに間違っている部分」には修正が入るんだよ

    教科書に書いてあることには、現時点で一定の正しさがあると認められる内容になっている
    もちろん、出雲での銅剣、銅鐸の大量出土のようなことが起きれば、教科書の内容というかそのベースとなる定説が変更されることはあるけれど、教科書レベルのことすら「俺の考えと合わないから認めない」というなら議論にならないんだよ
    そして、教科書にも載らないようなことを根拠に自説を振り回されても、失笑しか出てこない
    教科書には九州「説」も載ってるってうれしそうに書いてるけど、邪馬台国が「九州にあったと考えている人もいる」って意味だからな まあ、説があることは間違ってないし、教科書検定はこの点でも正しい訳だ

    事実と違うところ、根拠を示せないところを、できるだけ示してあげようとは思ってるけど、あまり意味がないっぽいなとも思う

  424. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 14:01:46

    >395
    >記録  日本の記紀、中国の歴史よ、半島の三国志など

    380その他(私だけではないけれど)で訊いてるのは
    倭と日本が別だとする「日本側の記録」「考古学の資料」だよ

    日本側の記録として「日本の記紀」って書いてくれたけど
    古事記には「倭」と書いてヤマトと読むものしかないし、日本書紀には「日本」と書いてヤマトと読むものしかない
    これを「倭と日本が別だ」とする例としてあげるってことは、要するに「そんなものはない」ってことをわざわざ示してくれたんだよな 親切にありがとう

    >横から失礼w
    こういうのバレバレだから止めたら

  425. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 14:42:08

    >416
    タラシヒコ(多利思北孤)って誰?

  426. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 14:54:45

    424
    失笑

  427. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:01:22

    ※424
    古事記に朝貢の記録あるの?

  428. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:05:16

    >424
    >380その他(私だけではないけれど)で〜

    こういうのが姑息やな

  429. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:23:45

    ≫424
    漢字表記の問題じゃないやん

  430. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:24:57

    こうして比較すると面白いですね。勉強になりました。

    日本は「魏志倭人伝病」だとも思いました。

  431. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:29:33

    ※423
    「教科書にも載らないようなことを根拠に自説を振り回されても、失笑しか出てこない」

    九州説は教科書に載ってるよ。

  432. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:49:01

    424
    古事記で倭にしたら正史の朝貢していた倭と誤解されるから日本書紀では日本にしたということですね
    とても丁寧な解説でなおかつ納得ができます
    日本書紀に邪馬台国や卑弥呼のことが書いてないことの説明にもなりますね
    素晴らしいです
    要するに日本としては倭なんて
    「そんなものはない」ってことをわざわざ示してくれたんだよな 親切にありがとう
    と言ったところでしょうか
    日本書紀を編纂した我らの先人達の思いがあざやかに蘇ってきますね

  433. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:57:23

    >393
    根本的なところで分かってないような気がするので少し

    >最初のクーデターはおそらく乙巳の変。
    >百済の傀儡政権である天智朝は倭を名乗り続けたものと思われる。
    >二度目のクーデターは壬申の乱。

    革命とクーデターの区別、ついてないだろう?

    革命は憲法制定権力の変更を伴うので、ある意味別の国になる
    それに対し、クーデターは同一体制内での非合法の政権簒奪なので、国としては存続している

    結局、この393の書き込みは「クーデター説(仮)」が正しかったとしても、倭の五王から天智天皇まで倭国だったことを認めているし、それが天武天皇によって国号が日本に変わっただけと言っているのだから、倭国と日本が同一の国であると言っているだけだぞ? 自分の書いていることを理解してるか?

    >裏の事情を看破できなければ歴史の真実など知りようもない
    裏の事情も何も「根拠のない憶測」で、歴史の真実と関係のない「僕の考えたかっこいい日本の歴史」を書いてるだけだろ?

  434. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 15:59:56

    ※431
    その下の行

  435. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 16:27:29

    ※423
    教科書に載っていないから九州説批判してたんよな
    九州説載ってるやん

  436. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 16:35:08

    ※424
    >考古学 半島南部の前方後円墳
    これを無視するのはとある地域出身者の特徴や
    相変わらず滲み出てんで
    せこいやっちゃな

  437. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 16:58:38

    そんな昔から「日本」の名があったとは驚きでした。
    倭国と邪馬台国と大和朝廷がそれぞれ別の政権っぽいなーという印象はあったので、一番驚いたのが主題じゃなくてそっちでした。もちろん面白かったです。

  438. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 17:18:05

    >436
    それが日本が倭の別種とどう関係するんだ?

  439. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 18:29:19

    >437
    ないよww
    7世紀になって「創った」国号を昔からあったと言って、邪馬台国と大和朝廷を別って言いたい人ががんばってるだけ

  440. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 18:31:40

    >432
    結局「倭国と日本は別」って書いてある「日本側の記録」はないんだな?

    無理な切り貼りはいい加減に止めたらいいのに

  441. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 18:51:25

    >432
    >古事記で倭にしたら正史の朝貢していた倭と誤解されるから日本書紀では日本にしたということですね

    本当に事実が分からない人なんだな(呆)
    現代では事実とはみなされていないけれども「正史として編纂された日本書紀」で神功皇后紀で「魏志倭人伝を引用」して「神功皇后を卑弥呼」に充ててるよ
    魏志の引用としてだが朝獻という言葉も使っている

    それから、日本書紀でも倭は普通に使われていて、たとえば成務天皇の陵墓は倭國狹城盾列陵と書いてある
    今でも奈良県に狭城盾列陵はあるし、日本書紀でも倭国は奈良県=大和のことだよ

  442. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 19:17:20

    関西弁のネトウヨのやつやたら吠えてるが知識はかなり乏しいな

  443. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 19:19:05

    >436
    なんか前の記事のコメント欄で、「畿内説は纏向の大和朝廷を半島の傀儡にしたいんだろう」って延々と言ってた人がいるんだけど、436は同じ人?

    魏志倭人伝の頃で、馬韓弁韓辰韓はあわせて76カ国の小国分立状態
    漢代に倭国が百餘國の分立状態だったのと同じで、国家形成という点では100年くらい遅れている
    とても倭国に影響を与えられるような情況じゃないだろう

    >半島南部の前方後円墳
    これって、任那日本府があったとされる弁韓と、のちの百済になる馬韓の境目の辺りで、継体天皇の時の大伴金村の任那4県割譲の地域なんだよね
    361にも「其北岸狗邪韓國の狗邪韓国が倭に入るかどうかは議論がありますが」って書いてあるけど、これが倭に入るかどうかは微妙
    魏志東夷伝韓では「東西以海爲限 南與倭接」と書いてあって、韓の地の東西は海までだけど、南は海までじゃなくて倭に接する、と書いてあるから、半島南岸は素直に読めば倭に入ると思う

  444. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 19:19:57

    卑弥呼を神功皇后にしたら三韓征伐合わないよ

  445. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 20:07:24

    曹魏(220年 – 265年)
    北魏(386年 – 534年)
    卑弥呼(生年不明 – 247年あるいは248年頃)
    三韓征伐(4世紀後半-5世紀はじめ)
    神功皇后(実在不明)

    三国時代の魏と北朝の魏を一緒にした説が濃厚
    当たり前だけど国号は両方とも単に魏
    戦国時代の魏と三国志の魏と五胡十六国の魏と
    漢(西漢、前漢)と漢(東漢、後漢)と漢(前趙)は間違えやすいから受験生は注意だぜ

  446. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 21:30:28

    そもそも卑弥呼と神功皇后は設定が違いすぎるのに、過去に同一視しようとしてたのも謎

  447. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 21:41:23

    ※443
    いいたいことはよくわからないが、前スレまで持ち出してよほど悔しかったことはよく分かった
    ゆっくり休んでくださいね

    朝鮮半島南部が日本の勢力下に入る前に倭の領土なら倭と日本は別勢力なんでしょうね

  448. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 21:56:02

    >447
    その頃には日本なんて影も形もないし、倭と日本が別という日本の記録がないというのは、確認できた?

  449. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 22:21:07

    結局、古墳を学術的に調査できない。
    ここにこそ真実と証拠が詰まっているのにな。

    結局、中国の王朝が記載した内容+記紀の内容のみから推測するか、
    それに追加して古代の神社の祭神=祖霊=古代の有力者を示しているから、古代神社の祭神の分布から有力者の支配時期・範囲を推測し、それを記紀に当てはめて謎解きをする程度になっている。

    しかし、正史とはそれを編纂した時代の支配者が、自分達に都合よく編集し遺した書物で、自らの支配の正当性を天下に示す為に書かれた存在。
    つまり、正史=客観的な事実を書き記した書ではない。

    さらに他国の正史なんて、周辺国についての記載は自分達に朝貢する東夷・西戎・南蛮・北秋として記したものでしかない。
    あくまで、自国ヨイショ書にすぎない。

    古墳の調査が解禁されてこそ、真の古代史が始まる気がするね。

  450. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 22:21:44

    448
    魏志倭人伝の時代に日本が影も形もないなら日本と倭は別ということですね

  451. 名前:名無しさん 投稿日:2017/06/21(水) 22:35:01

    そもそも、倭と日本が別物だったのか、あるいは倭と言う大集団の中で頭角を現したのが日本なのか、あるいは日本の一部あるいは全体をシナが倭と呼んでいたのか全く不明なのが肝。
    そこが判らないと、この件は仮説にすらならない。
    仮に倭の中で最終的に天下取ったのが「日本」だったとして、そもそも倭の中でも有力な勢力だったのか、あるいはまったくの新興勢力なのかすらわからんからな。
    だいたい、魏志倭人伝だって、「倭人は魚介類を採って食う」とくどくど復唱してる。
    そいつはおそらく間違いないだろう。日本の環境に生息している人間が、魚介類を採って食わないわけがない。というか、めっちゃ大好物で喜んで食うという状況に否定的になる方がおかしいと思う。
    但し、同時に倭は米作文化である。一年に一回しか穫れない米にこだわり、それに文字通り命かけてきた民族である。
    シナの文献に、何で「倭人は米を食う」と書いてない?
    ・農耕は「文明人として」当たり前のたしなみなので、あえて書き残すという意識がなかった。
    ・シナ文明と交流のあった地域は極めて限定的で、そこでは農耕はほとんど不可能だったので、魚介類食に食の大半を費やしていた。
    ・伝聞だけで文章がでっちあげられているので、めちゃくちゃ。ほぼガセ。
    恐らく仮説仮説仮説の屋上屋で、真実どころか定説に至る説もあるまいと思う。

  452. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 22:39:26

    卑弥呼は無夫婿と記されている
    神功皇后の夫は仲哀天皇、子は応神天皇
    もうちょっと寄せる工夫をして欲しい

  453. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 22:56:26

    ※448
    邪馬台国に文字の記録があれば歴史的大発見

  454. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 23:03:06

    ≫448
    中国で書かれた倭じゃないだけで、纒向遺跡が日本の前身だから影や形はあるんじゃない?

  455. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 23:40:58

    >454
    441でも書いたけど、日本書紀で纒向に宮都を置いたとされる、崇神、垂仁、景行の次の成務天皇の陵墓が、書紀では倭國狹城盾列陵と書いてある。
    纒向が大和朝廷の都だと認めるなら、成務も大和朝廷=纒向の勢力の後継者だが、その陵墓がなんの注釈もなく倭國と書いてある。そして狭城盾列古墳群は今も奈良盆地北部にある。
    あの辺が(も)倭國なんだよ。纒向が建設された頃に日本と呼ばれた場所も、日本を名乗った集団も、どこにもない。「倭國と日本が別」とか、「日本の前身」とか、勝手な想定の中にしか存在しないんだから。

  456. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 23:49:57

    >450
    倭国の大王が、自ら天皇を名乗り国名を日本に変えたんですよ。
    新唐書の本文に書いてあるとおりです。
    室町時代の日本と平成の日本が、国民が全て入れ替わっているから別の国、というのと同じ程度の意味でなら、450のいうことも通るんじゃないでしょうかね。

  457. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/21(水) 23:59:39

    まとめると中国が倭とした国と日本書紀の日本(古事記の倭)は別

  458. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 00:21:23

    >453
    448でいう「日本の記録がない」というのは、「倭と日本は別」という記録であって3世紀の記録とは言ってませんよ。
    367で「日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記しているのに」の日本の文献はないってことでいいですね?
    367以来100近くコメントが進みましたが、具体的な文献はあがりませんでしたし。

  459. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 00:27:17

    >457
    その「中国が倭とした国」というのが「倭にある国」「倭人の国」くらいの意味なんですよ。
    魏志「倭人」伝であって倭国伝ではないんです。
    魏志倭人伝の冒頭が「倭人」在帶方東南大海之中であることを確認してみてください。

  460. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 00:29:54

    邪馬台国がヤマト王権とは別という記事じゃないの?
    何と闘ってるの?
    ちょっと怖い。

  461. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 00:36:43

    王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 
    其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 

  462. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 00:50:11

    三国志で日本のことを倭国、日本人を倭人としてると知った万葉仮名遣いのエリートの皆さん
    「やまとの当て字は倭に決定」
    勿論古事記の作者もやまとを倭と記す
    後日、倭が邪馬台国や朝鮮半島南部から大乱があり朝貢して冊封体制に組み込まれていた地域を表すと知った日本書紀の編纂メンバー一同
    「国号は日本、読み方はやまとに決定」
    「卑弥呼は神功皇后にエピソードを追加」

  463. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 01:01:21

    四道将軍の制圧範囲外が出雲、四国、九州、中部、東北、北海道で思いっきり別の国なのがいいね
    ヤマト王権の範囲がこれで特定されたとか鉄剣が出土したとか北陸道を平定した大彦命と東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされているとか古い読み方とか伝説がかっこいい

  464. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 01:36:45

    普通に出雲王朝から国譲りで受け継いでいるってなってるので
    複数の王朝が統廃合して日本になったって最初から分かっている。

    いまさら新発見のように語られてもなあ……

  465. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 01:39:56

    『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条
    通称 魏志倭人伝
    倭國表記もちゃんとある

  466. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 01:43:59

    ※464
    >458みたいな子もいる
    彼にとっては新発見なんですよ

  467. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 02:05:08

    神功皇后の無理矢理感は日本書紀の中でも際立ってる

  468. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 04:15:06

    ※464
    それは神話ということで史実ではないと見なされていた
    今も有ったかも?って程度
    だから大和朝廷以前の王朝説には反射的に反論が出る

    ※444
    古事記には卑弥呼も朝貢も全く出てこない
    日本書紀だと神功皇后が卑弥呼かも?と匂わせているけど
    神功皇后は若くして結婚して息子を生み
    跡を継いだのはこの立派な息子(応神天皇)だから卑弥呼とは全く違う

    邪馬台国と大和朝廷が同じなら卑弥呼がいないということは有り得ないが
    どんなに研究しても大和朝廷には卑弥呼と台与に該当する人物がいない
    神功皇后はどうみても違うし時代も2〜3世紀にはならない

    つまり日本書紀はあえて嘘を書いた事になる
    その理由は
    ヤマト(日本)が倭(邪馬台国)と同じであると中国に思わせたかったからだろう

  469. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 04:15:24

    倭と日本は別だという「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

  470. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 04:34:27

    まとめると、旧唐書には2つの説が書かれている
    ①倭から日本に国名変更した
    ②日本が倭を併合した

    ①の根拠は様々な考古学的事実、宋書や隋書などの一般的解釈、通説となってる邪馬台国畿内説、記紀の記述など
    ②の根拠は隋書の曲芸読み、学問的には否定されている邪馬台国九州説、考古学を完全無視したトンデモ仮説

  471. 名前:名無しさん 投稿日:2017/06/22(木) 06:26:41

    ※453
    そもそも記紀・万葉集だって、独自の文字や表記方法がなかったがために漢字を無理矢理表音文字として使っていたわけで、邪馬台国というか記紀以前の文字記録があれば、それだけで古代史がひっくり返る可能性があるわな

  472. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 09:50:39

    >399
    亀レスですが
    >仮に根拠が一つもないとして、考古学知識がないとして、
    >ここのコメ欄において、一体なんの不都合があろう?

    書き込むのに不都合はないけれど、根拠がないことを指摘されたり、それが通らないことを考古学的知見を添えて教えてもらったら「ああ、そうなんだ、教えてくれてありがとう」って、普通の日本の価値観のもとに教育された人なら、なると思うんですけどね。

    それを、たとえ教科書に書いてあることでも、教科書なんて当てになるかー!、俺は信じないぞー!、オレが正しいんだ=!とかやってるから、まともに相手にされないんですよ。

  473. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 10:23:17

    >463、464
    弥生末期には、それまでの家族墓としての「複数埋葬の方形周溝墓」から、巨大で多量の威信財を副葬した「ただ一人のための王墓級弥生墳丘墓」が作られるようになります。そうした王墓級弥生墳丘墓が作られた地域には、「王権」と呼ぶべきかは議論がありますが、一定以上の動員力のある有力な首長がいたと認められます。そして、それらの王墓級弥生墳丘墓は、出雲では四隅突出墓で葺き石を伴う、吉備では段築成で円筒埴輪で段を囲うなど、地域ごとに特徴があります。ただ、そうした王墓級弥生墳丘墓の時代はそれほど長くは続かず、1世代か2世代程度です。

    それが、古墳時代に入ると、地域ごとの特徴のある墓制が、いっせいに定形化された前方後円墳または前方後方墳に統一されます。円墳、方墳もありますが、地域の盟主墳は前方後円墳か前方後方墳です。
    この定形化は、吉備の段築成+円筒埴輪、出雲の墳丘の葺き石、大和の前方後円形の墳形、北部九州の剣・鏡・玉の副葬品、という、各地の墓制を統合したものと見ることができます。

    463
    >四道将軍の制圧範囲外が出雲、四国、九州、中部、東北、北海道で思いっきり別の国なのがいいね
    東北、北海道はともかく、出雲、四国、九州、中部、の四道将軍の制圧範囲外も、古墳時代に入ると同時に、前方後円墳を作るようになります(出雲や東海は初期は前方後方墳が多い)。
    この辺で、倭国としてのまとまりができたと考えてよいと思います。
    464
    >複数の王朝が統廃合して日本になった
    統合したのだと思います。在地の首長は、そのまま豪族として、その地域の盟主墳を作り続けますから、廃された王権という訳ではないと思います。

    この古墳時代に、東北・北海道、南西諸島を除く地域が、一つのまとまりとなった(≠中央集権国家として一人の王に服属する)と考えてよい、というのが、広瀬和夫の「前方後円墳国家」という考え方です。この時点で、このまとまりが倭国であり、そこに「日本」はありません。

    そして、纏向遺跡が古墳時代の始まった場所で大和王権の原点、というのは九州説の人も認めていて、纏向が巨大になるのが土器形式で布留式に入ってからというのも、大体の人が認めています。
    土器編年は、まだ確定的とはいえませんが、
    180年-210年 纒向1式 弥生V様式末
    210年-250年 纒向2式 庄内I式(庄内古式)
    250年-270年 纒向3式 庄内II式(庄内新式)
    270年-290年 纒向4式 庄内III式(庄内新新式),(布留0式)
    290年-350年 纒向5式 布留Ⅰ式
    ここからそれほど大きくは、ずれません。

  474. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 10:39:48

    >469
    しつこすぎ
    >468で答え出てるじゃん。大陸記録と無理矢理関連づけて矛盾起こしてるのが証拠。
    考古学て、古墳時代も知らない日本人成り済ましじゃ相手にされないよ。おもいきり明確に考古学での変化が起きてる。

    大和が倭を間に置いて交易やってたけど、随の時代に直接使者迎えたら無礼だったので、新羅経由での交流にした。
    これは、磐井の乱で北九州新羅勢力を倒してしまって、止まっていた大陸との交易を自分でやろうとした大和が失敗し、結局復た、間に両方に頭を下げ顔を立てる役を入れる事になった。
    と言うことではないか。

  475. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 11:38:44

    ※468
    とりあえず卑弥呼or台与のことは書いてあるってことだよね
    つまり日本=倭だね
    はい終了

  476. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 11:41:46

    ※435
    >教科書に載っていないから九州説批判してたんよな

    は?教科書に載ってないのは倭≠日本だぞ

  477. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 12:07:52

    >89 無礼な使者を追い返した
    >138 使者を追い返した
    >343 あちらからの使者を無礼だと追い返し
    >377 隋の無礼な使者を追い返した
    >474 随の時代に直接使者迎えたら無礼だった

    これどこに書いてある?

  478. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 12:40:28

    475
    こう思わせるために神功皇后を作ったんだなというのがよく分かる

  479. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 12:43:42

    ※475
    張政どこいった?

  480. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 12:58:20

    >倭と日本は別だという「日本側の記録」「考古学の資料」はよ

    日本側の記録
    大和朝廷の正史である日本書紀に卑弥呼が存在しない
    神功皇后は明らかに別人

    考古学の資料
    卑弥呼が朝貢した時期の畿内の王権は
    まだ弱小であり九州まで支配していないというのが考古学的定説

  481. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 13:04:18

    ※474※480
    別だという証明になってない

  482. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 13:13:12

    神武が宮崎県から東征を初めたのにその子孫が熊襲を倒すって面白いよね

  483. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 13:14:05

    ※475←コイツは千ョンコークオリティーだな。
        背乗り成りすましか名ばかり帰化かは解らんが、それらの子孫!

  484. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 13:15:23

    あれもチョンこれもチョン

  485. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 13:24:11

    ※483
    チョンはおまえだろw

  486. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 14:03:52

    終戦後に左翼が流行らせた王朝交代説を推してる奴はチョン

  487. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 14:05:41

    チョンと部落民は同盟関係

  488. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 14:06:35

    どちらも大和民族に討伐された恨みを抱いて生きている

  489. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 16:54:38

    天皇家もチョン 
    熊襲や蝦夷が倭人

  490. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 17:12:23

    >480
    日本史の通説とかけ離れたことを書いてるが
    記紀が3世紀のことを漏れなく記述してるという根拠は?
    畿内ヤマトが3世紀の時点で弱小であるというのが考古学の定説と書いているが
    日本の考古学者の通説とは正反対になってる
    どこの誰の間で弱小というのが定説になっているんだ?

  491. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 17:27:32

    489
    朝鮮人と同じこと言ってるなおまえ

  492. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 17:28:27

    部落民は北海道で凍死しとけアホ

  493. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 17:37:34

    ※489
    ラモスや白鵬ですら立派な日本人。
    今上陛下の先祖がどこから来ていようと、そんなこととは一切関係なく
    陛下は日本の象徴であり誇りだ。

    こういう馬鹿なことを言う脳みそトロリンのせいで
    歴史が歪められ真実が見えなくなるとしたら日本の恥。
    逆にいうと、世にこういう馬鹿が存在するからこそ発掘調査が制限される。

  494. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 17:54:00

    纒向遺跡の土器編年によれば3世紀は庄内式土器で纒向遺跡のその範囲が狭いことは考古学者なら常識
    弱小とまで言えないが、河内の方が強大だったことは皆の認めるところ

  495. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:00:06

    >475
    本当は倭と日本は別なのに当時の日本もこうやって彼のような朝鮮半島人に記紀を使って説明したんですよ
    分かりますか?
    朝鮮半島人にはこのような説明がとても有効なんですよ
    記紀と正史を比較して読めないですからね
    確認できましたでしょうか

  496. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:18:40

    ※495
    何言ってるのかわからん
    記紀に卑弥呼のことが書いてないというから、書いてるぞと言われたら、今度はそれはウソニダとか都合良すぎ。
    というか、倭と日本が別とか言ってる奴が日本を分断しようとしてる朝鮮半島人だろwバレバレ

  497. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:21:43

    494
    河内と大和はほぼ一体と考えればどっちでもいい話

  498. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:23:28

    >495
    >本当は倭と日本は別なのに
    これって、468の言う
    >ヤマト(日本)が倭(邪馬台国)と同じであると中国に思わせたかった
    これを前提にしているんだろうけど、「ヤマト(日本)」がそもそも間違い

    推古天皇のときもずっと大和朝廷が倭国の代表だし、古事記にも日本書紀にもそう書いてある
    日本は、大和朝廷(律令国家としての全国政権)が名乗った新しい国号で、どこかの地域王権の後継国家の名乗りではない

    そして「倭(邪馬台国)」がそもそも、=ヤマト
    倭と日本を別にしたいのは、九州説をこじらせた人だけだっていい加減に認めなよ

  499. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:41:39

    魏志倭人伝なんて邪馬台国の位置が全然違うんだから
    他にも嘘があるかもしれないしそれを証明する手段がない
    鼻息荒くして議論する価値ないと思うが

  500. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:42:41

    >480
    >九州まで支配していない
    古代の国は、中央集権の領域国家ではないことを忘れないでください
    各地で独立した様式を持つ王墓級弥生墳丘墓の時代を経て、定型化した前方後円(方)墳を作るようになった時点で、支配はしていなくとも一つの共同体となっています

    その時点の中心を、倭国の中心と見るのに不合理は何もないと思いますが?

  501. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:43:35

    邪馬台国とは別に纒向遺跡周辺に王朝があってそれがヤマト王権の祖なんだ
    さらに四道将軍が勢力を広げて吉備と丹波と東海と日本海が一緒になって出雲に国を譲られて神功皇后が熊襲と三韓を征伐したんだね

  502. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:44:10

    >499
    そうだよ、そのとおり
    だけど、魏志倭人伝とか旧唐書の記述くらいしかすがるものがない九州説の人ががんばってるだな、これが

  503. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:46:22

    >501
    × 邪馬台国とは別に纒向遺跡周辺に王朝があってそれがヤマト王権の祖なんだ
    ○ 大陸側の史書に音訳で邪馬台国と記された王朝が纒向遺跡周辺にあってそれがヤマト王権の祖なんだ

  504. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 18:49:03

    前方後方墳を中心に考えるなら、奴国や邪馬台国の倭(朝貢あ
    り)と後の日本である大王家の倭(朝貢なし)は別だな

  505. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:01:07

    卑弥呼が天皇家の先祖ではないため日本書紀の時点で伝説の人物扱い
    そのため神功皇后にくっつけたが魏を勘違いしたため不都合が生じた
    卑弥呼を神武天皇の姉にして神武天皇を魏志倭人伝で補佐していた人物にすれば、神武天皇の娘を台与にしてもっとスムーズな展開になったのに
    そうすれば共立された王権として正統性が上がったはず
    日本列島支配のために畿内に東遷するのも、神武天皇が受けたお告げを卑弥呼から受けたことにすればよかったのに
    日本書紀の編集者には反省してもらいたい

  506. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:05:04

    ※500
    共同体のメンバーに従わないなら武力で平定せよと四道将軍を差し向ける〇〇マジ鬼畜

  507. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:07:21

    ※504
    神功皇后の時代に朝貢してるって書いてるから同一だな

  508. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:08:30

    畿内説の最大の問題は九州をいつ、どのようにして制圧したかがわからないこと
    邪馬台国が畿内だとしても九州の方が先進的(中国文化、鉄など)な地域であることをなぜか認めない

  509. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:11:23

    ※505
    仲哀天皇ならともかく、なんで神武?
    邪馬台国九州説にとって不都合なことしか書いてなくて残念だったねw御愁傷様

  510. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:17:51

    ※508
    石鏃で殺された人骨が卑弥呼時代より前に九州から出土するので、先進的であっても数の力で制圧された。
    記紀でもヤマトタケルは神功皇后より前だと書かれてる。

    戦国時代にキリスト教や鉄砲や大砲が真っ先に来た先進地域だったけど、本州に制圧されたでしょ。あれと一緒。

  511. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:24:45

    ※489
    じゃあおまえもチョン

  512. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:28:59

    畿内から出雲と吉備を制圧せずに九州を支配するためには四国の太平洋側を回る必要がある
    奇しくもそのルートは水行と日数が合う
    すなわち邪馬台国とは半島南部を起点に九州北部から日向、土佐を経由し畿内に至る巨大王国なのである
    卑弥呼亡き後、それぞれの地域に分裂し、神功皇后の時代に再び統一されたのである
    だからこそ卑弥呼と神功皇后が同一視されるのである

  513. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:35:19

    古事記は呉音の万葉仮名
    神獣鏡は南朝の特徴
    畿内に倭人支配下の半島南部の鉄がない
    副葬品の貝殻
    つまりヤマト王権は貝の道を通じて南朝と交易をしていた
    北朝の記録になくて当たり前

  514. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:45:02

    なるほど、文献的にも考古学的にも倭と日本は別と言えるが、東アジアの冊封体制の為には倭と日本は同一とした方がいいとの考えが根深いということか

  515. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:48:02

    >514
    倭と日本が別だという考古学的根拠は何?

  516. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 19:59:50

    考古学的根拠 倭=日本
    日本の文献 倭=日本

    倭≠日本と書いてるのは旧唐書のみ
    冊封体制的に、倭王が唐の時代に天皇と名乗り始めたということは
    歴代王朝に比べて唐の威徳が低いということになって都合が悪いから。

  517. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:01:02

    この514のように、何の根拠もなくただ同じことを書き続けるのって、どういう情熱なんだろう?
    どこかから、そうした方がいいって言われてるの?

  518. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:03:43

    >512
    >畿内から出雲と吉備を制圧せず
    箸墓をはじめとする定型化した前方後円墳は、出雲の四隅突出墓と吉備の盾築墳丘墓の特徴を受け継いでいて、仲間であることをはっきり主張してると思うのですが、そういう考古学的事実は全無視ですか?

  519. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:10:32

    >508
    >畿内説の最大の問題は九州をいつ、どのようにして制圧したかがわからないこと

    392に書いてあるように
    >奴国も大したドラマもなくいつの間にか大和朝廷支配下になってるという謎
    奴国はごく平和的に、前方後円墳を作るようになって、畿内式の土器が出るようになってる
    制圧はしてないんだと思うよ

    >九州の方が先進的(中国文化、鉄など)な地域であること
    これは認めてるよ
    ただ、先進的だったのが漢鏡4期か5期の頃までで、それ以降の邪馬台国の時代には既に優位性がなくなってる

  520. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:15:29

    >518
    1つ気になるのだが箸墓古墳は邪馬台国と年代が違うから定型化した前方後方墳と邪馬台国に関係はないのでは?

  521. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:16:00

    >504
    >前方後方墳を中心に考えるなら、奴国や邪馬台国の倭(朝貢あり)と
    >後の日本である大王家の倭(朝貢なし)は別だな

    前方後方墳が多いのは、出雲や東海地方だぞ
    奴国の辺りや畿内は、地域最大級の盟主墳はともに前方後円墳で共通

    神話的に地祇の系統の地域は前方後方墳、天神系の地域は前方後円墳とも言われているけれど、それほどはっきり分かれたりはしていない

    「倭と日本は別」じゃなくて、「倭と倭が別」っていうのは新しいね
    どこで区別するの?

  522. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:18:20

    3世紀は出雲も吉備も独立してるし前方後方墳なくね?

  523. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:26:04

    520の前方後方墳は前方後円墳の間違いだ
    ごめん

  524. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 20:48:41

    >520さんへ
    空白の4世紀が境だと思う

    ①奴国は金印があるため倭と「よばれた」のは間違いない
    ②奴国を支配していた上に金印のある邪馬台国も倭と「呼ばれた」のは間違いない
    ③新羅本紀では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている
    ④遣隋使は日本を「名乗った」
    ⑤海外国記の逸文で、664年に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたという

    ②と③の間が不明だけど前方後方墳や前方後円墳を見てると違う王朝が互いに影響しながら日本を作ってったのかなぁと思った
    今まで前方後円墳だけが語られるけど前方後方墳も結構広範囲だしでかい
    ①②の倭だった地域はその流れに入ってなくて前方後円墳がいきなりその地域に造られてるように見える
    前方後方墳地域は穏やかに前方後円墳を受け入れてるし前方後円墳地域にぽつんと前方後方墳があったりする
    奴国系の倭はひっそり消えてったんじゃないかな?戦乱とか寒冷化とか渡来系の移民の流入で
    中国から見たら東の果ての野蛮人は全部倭で日本と名乗るから唐の時代にもう日本でいいやってなったんじゃないかなと

    あと、奴国から邪馬台国まではあくまで倭と「呼ばれて」たのに対しヤマト王権は倭でやまとと自分たちで「名乗ってる」この違いも大きいんじゃないかなと思ってる

  525. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 21:35:32

    倭人に関することは全部倭だけど中身は全部違う

  526. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 22:19:23

    ※510
    倭国大乱の初期に北九州VS南九州があり、畿内は出雲や吉備を従えて南九州と手を組んで北九州を制圧
    し倭国大乱後期には畿内VS南九州になったというシナリオかな?

    ※519
    こちらは北九州VS南九州で北九州が疲弊したから畿内が北九州と組んだということかな?
    北九州と畿内が共立して邪馬台国を作った方が納得がいきそう。

  527. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 22:20:04

    >524
    遣隋使が日本を名乗ったというソースは?

  528. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 22:21:39

    肝心の国号を日本とした年代も分からんとは知らなかった
    古代史は謎だな

  529. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 22:43:34

    邪馬台国=大和としている事自体が間違いなんだよね
    邪馬台国の卑弥呼が朝貢した品物の絹は、この時代の本州からは見つかってないのに対し、北部九州では弥生時代の有田遺跡から日本最古の絹が見つかっている
    真珠にしても、現在、見つかっている12のアコヤガイの貝塚の内、九州で見つかった貝塚は長崎が3、鹿児島が7、熊本が1と殆どであるのに対し、本州にはない(九州以外では四国の愛媛県に一つだけ)
    真珠自体は鮑貝からでもとれるけど、アコヤ真珠に比べると量が違い過ぎるので、5千という数はこなすのは難しい(アコヤ真珠なら海人が2千人もいれば一カ月で十分採取可能。2百人でも一年あればこなせる)
    また、ドブガイのような淡水真珠では5千孔と個数で記すような高品質なものには成り難い(当時、中国では真珠は重さで記すものであり、高品質なもののみ数で記す)

  530. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/22(木) 23:13:48

    邪馬台国とヤマト王権は別ということだな

  531. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 00:10:39

    失われた文献多いな

  532. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 00:16:26

    529
    畿内説では九州も植民地の一部なので問題ない。

    丹に関しては九州では見つかってないので九州説は消える。
    (前スレより)
    其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
    『邪馬台国の卑弥呼
     卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
     どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。

    よって畿内で確定。

  533. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 00:48:16

    >89 無礼な使者を追い返した
    >138 使者を追い返した
    >343 あちらからの使者を無礼だと追い返し
    >377 隋の無礼な使者を追い返した
    >474 随の時代に直接使者迎えたら無礼だった

    もう一度聞くけどこれどこに書いてある?

  534. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 00:51:35

     
     
     
    馬~鹿! 丹だけじゃん。畿内説は気痴害だ、丸ッキシ千ョンコー(笑)
     
     
     
     

  535. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:13:12

    532
    四道将軍ですら平定していない九州を纒向遺跡が支配することは難しい

  536. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:15:11

    ※532
    それなら丹産出と書かれる
    有と産出は明確に書き分けられている以上むしろ逆

  537. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:16:59

    ≫532
    植民地の九州が最高級の中国産の丹をふんだんに使い、宗主国の畿内は国産の丹を使ってたのはおかしい

  538. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:18:48

    >532
    卑弥呼は魏から鉛丹を下賜されたが何に使って何処に消えたんだ?
    産出するものを献上した上で下賜されるとはどういうこと?

  539. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:20:14

    ※532
    独立勢力の出雲と吉備を越えていかに支配するというのだ?

  540. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 01:39:38

    日本と倭が別種とするには少なくとも以下の問題点をすべて証明しなければならない
    ・学問的には邪馬台国は畿内ですでに確定しているが、通説をひっくり返し九州説が正しいことを証明する
    ・倭の五王が九州王朝の王だということを証明する
    ・遣隋使を送ったのが大和朝廷ではなく九州王朝だということを証明する
    ・九州王朝の範囲と都がどこにあったかを物証で証明する

    また九州王朝の存在を否定する様々な考古学的事実について合理的な説明が必要
    ・中国鏡が3世紀以降は畿内中心に分布していること
    ・九州最大の国であった奴国でさえも3世紀には畿内ヤマトの傘下に入っていること
    ・畿内発祥の前方後円墳が全国に分布
    ・稲荷山鉄剣と江田船山鉄刀より埼玉から熊本までワカタケル大王の版図になっていること
    ・大陸から伝来したはずの仏教寺院が畿内を中心に築かれること
    ・冠位十二階の記述が隋書にあること

  541. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:22:16

    >539
    無知すぎる
    吉備はヤマト王権の中核となる勢力だろが
    箸墓にあれだけ吉備の要素が多く含まれてるのだから卑弥呼は吉備出身と考えてる考古学者もいるくらい密接な関係だ

  542. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:23:47

    隋書では竹斯國と秦王國の国名が出てくるが大和の国に当たる国名は記されていない

  543. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:32:30

    紀元前6世紀から続く天皇家の歴史の中で3世紀だけ中国側の記録と合わない
    5世紀から日本と中国、朝鮮の記録が一致する、そこから天皇家の日本が始まった

  544. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:36:33

    ※540
    東の静岡辺りの遺跡の勢力(日本)が畿内を滅ぼして邪馬台国(大和国)を造ったのでは?
    倭国大乱時なら支配していた九州勢は手一杯だし2世紀の畿内の文化レベルなら倒されても不思議じゃない
    倭国(九州から畿内)が混乱中で東の日本が畿内を手中に治めたら吉備も出雲も日本と共立する可能性が上がる

  545. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:38:30

    ※541
    土器編年と周濠の出土品によれば箸墓古墳は卑弥呼の時代ではない

  546. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:39:39

    >542
    都於邪靡堆

  547. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:50:11

    ヤマト王権て不思議な王権だよな
    自分たちのオリジナルが4世紀に全て消え去った
    後方墳は濃尾平野からだし帆立貝型は日向から
    鏡の副葬品は北部九州から
    石で墳丘墓を葺くのは吉備から
    石棺は熊本の石だし
    銅鐸は捨てるわ、石器は物部氏の鉄器に置き換わるし
    石室の様式まで変わってるし土器も変わってる
    畿内勢力が他を征服したというより初期の神聖ローマ帝国のハプスブルク家みたいな感じ
    後に神輿だったのに実権も手に入れた感じ

  548. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:54:29

    倭の五王の遣使の記録が『古事記』『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないこと、『古事記』に掲載された干支と倭の五王の年代に一部矛盾が見られる

  549. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 02:57:19

    「讃死弟珍立遣使貢献」
    讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(『宋書』倭国伝)

    すなわち珍を讃の弟とする記述である。

    『古事記』が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。讃を仁徳、珍を反正とすると、『宋書』倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。反正は履中の弟である。

  550. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 03:13:30

    >547
    そう考えた方がまさに共立した感があるね
    でも多くの畿内説者は西暦150年から畿内が軍事、文化力で他を200年までに圧倒したと思ってる

  551. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 07:28:19

    >549
    古事記には没年は書いてないよ
    書いてあるのは没年の干支
    そして、宝算(死亡時年齢)が100歳を超えてたりするから、宝算も干支も当てにならないとするのが通説
    むしろ讃を履中に珍を反正にあてる方が普通だと思ったが?

  552. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 08:29:40

    ※534
    九州説だと畿内は邪馬台国勢力圏外(東方の倭種)だから、九州にないものが一つでも九州の外で見つかればその時点でアウト。
    九州も版図の一つであるとする畿内説との違いだね。

    ※535
    ヤマトタケルがいるので問題ない。

    ※536
    「其山有丹」産出するってことだろ。

    ※537、538
    九州ご自慢の絹も献上して下賜されてる訳だが、それはスルーするくせに丹はなぜダメなのか。

  553. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 08:33:19

    ※547
    織田信長だってオリジナルのものなんて何にもないよ
    六角家や島津家や大友家の共立国家だったことになってしまう。

  554. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 09:28:55

    「学問的には邪馬台国は畿内で確定」と連呼してる人がいるけど、そう言えば「あ、そうなんだ」と勘違いしてくれるお人好しがいると思ってる?

  555. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 09:36:49

    >538
    >卑弥呼は魏から鉛丹を下賜されたが何に使って何処に消えたんだ?
    魏志倭人伝の「真珠鈆丹各五十斤」の、真珠の方が水銀朱と考えられているのは理解してる?
    真珠がパールだとすると、五十斤という単位がおかしいんだって
    鈆丹も赤い顔料だけど、真珠の方が格上
    出先扱いの北部九州で、鉛丹を使ったのかもね

  556. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 09:46:16

    >536
    >有と産出は明確に書き分けられている以上むしろ逆
    この書き分けがあるってこと、きちんと論証した?
    以前から、至と到は区別されてるって話はあったけど、少し広く調べたら特に区別なくごっちゃに使われてることが確認されてるよ
    狭い範囲で調べるだけだと例数が少ないから、たまたまがそう見えるってことはある

    辰砂や丹は鉱物で、鉱脈として山の中にあるんだよ
    掘り出して使ってなかったら、どうして魏の人にあるって分かるんだ?
    通りがかってその上を歩いたって、あるかどうか分からないだろ?
    あんまり無理筋を推しても、無理は無理だぞ
    実際、畿内や四国では水銀朱使ってるし

  557. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 09:47:59

    >553
    スレチだけど、織田信長は、天下布部も、楽市楽座も、天主を持つ城(安土城)も信長のオリジナルだぞ

  558. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 09:56:29

    >524
    >今まで前方後円墳だけが語られるけど前方後方墳も結構広範囲だしでかい
    前方後方墳の範囲、という場合でも、前方後方墳しかないってことはなくて、東海地方や出雲にも前方後円墳はあります。
    他の地域に比べて大型の前方後方墳の割合が高いだけで、逆に畿内にも小さめの前方後方墳はあります。
    前方後方墳も、定型化した古墳の枠組みの中のものであり、倭国の枠組みの中です。
    先に、天神系が前方後円墳、地祇系が前方後方墳と書きましたが、埋葬される人の宗旨によって墳形が異なるという理解でよさそうです。

    >奴国から邪馬台国まではあくまで倭と「呼ばれて」たのに対しヤマト王権は倭でやまとと自分たちで「名乗ってる」
    これは単に、奴国や邪馬台国は「中国の史書の中の存在」で、大和王権は「日本の史書」に書かれているからってだけじゃないですか?

  559. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 11:11:24

    >>555
    >>真珠がパールだとすると、五十斤という単位がおかしいんだって
    横から悪いが、当時、真珠は薬としても使われてたから、重さで記されるのはおかしな話ではないよ(日本でも小粒な奴は薬にされてたし)
    そして、鉛丹も漢方の中にあって、薬として使用されている

    両方とも、薬として使われた可能性があるんだよね

  560. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 11:46:29

    ※557
    天下布武…当時の天下=畿内であることが判明しており、三好氏の手法の踏襲
    楽市楽座…初出は六角氏
    天主…日本最古の天守台は伊丹氏の伊丹城

  561. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 12:01:01

    554
    そう書けば「あ、そうじゃないんだ」と勘違いしてくれるお人好しがいると思ってる?

  562. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 12:14:52

    丹は九州でも産出する
    そろそろ覚えような

  563. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 12:18:56

    ※556
    当時の辰砂は露天掘りじゃないの?

  564. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 12:26:15

    >554
    否定したいならいまだに九州説を唱えてる学者の名前を挙げてみろ
    確かに過去にはいたが現役の学者で誰がいる?

  565. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 12:47:57

    >>556
    産出うんぬんをいいだしたら、青玉はどうなるんだって話だよね
    青玉が翡翠だった場合、これを産出しているのは新潟県、蛇紋岩だった場合、出雲石で有名な島根県
    どちらも九州でも近畿でもないよねw
    まぁ、蛇紋岩は島根県の花仙山のものが高品質な事で有名というだけで、蛇紋岩自体はあっちこっちでとれる岩だから、基準にするには不確かだけど

    あと北部九州でも弥生時代後期頃から、陵墓や棺、遺体の装飾に水銀が使われているし、九州でも水銀の鉱脈があり、佐賀の嬉野、熊本の八代、大分の板ノで水銀の産出はあるから、水銀の産出場所=邪馬台国の場所にはならないよね

  566. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 13:47:31

    >562
    前記事のコメント欄でも話題になっていたが、九州の丹の産地は飛鳥時代になって畿内豪族が見つけてる

    >565
    今のところ弥生時代の九州の水銀朱は、同位体分析(だったかな)で大陸産とする研究報告がある

    あわせて、邪馬台国の時代には九州から丹を出したということにはならないようだよ

  567. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 13:49:22

    >563
    露天掘りだったとして、掘ってるところを見てるんだったら、其山有丹は「あるだけで産出してない」って話にはならないからどっちでもいいよ

    そんなに深い坑道を掘ってたとも思わないけど

  568. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 14:54:38

    最終的に史料残って無さ過ぎて結局わかんねーやってなりそう

  569. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 15:04:26

    ここにいる畿内説のやつって真実の歴史を突き止めたいとか思ってないな。
    その場その場で優越感に浸るため、そして
    対立する側にマウントを取って誹謗中傷の拳をぶつけたいだけの動機で
    古代史の議論をしている。
    そのためには、とても古代史の議論とは思えない
    ガッコーの教科書にすがるなどという恥ずかしい真似も辞さない。
    卑しいの一言に尽きる。

    あるいはこうかもしれぬ。
    アスペなのかもしれないが、忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    認証された文献(あらかじめ決められたテスト範囲)の既存の解釈という固定された狭い盤上で
    まるで詰将棋でもやっているつもりなのかもしれない。
    誰かの(勝者の)思惑で歪められた史料を盲信することによって
    知らないうちに偏った(誤った)結論に誘導されているかもしれないなどとは
    想像だにしていないのだろう。

    そういう人間は、
    限られた材料を推理で補い、そのうえやがて新しい材料が出てきて
    主張を変えなえばならなくなるような古代史には
    向いてないのではないか。
    そして、面白ブログの自由なコメント欄にも向いてないのではないか。

  570. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 15:12:21

    ※566
    九州の紀元前の墓(甕棺など)にも水銀朱は使われているぞ
    九州で算出してないとすると貿易で得たか
    朱の産地を支配していたことになる

  571. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 15:18:24

    ※569
    うわぁ・・・

  572. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 15:37:27

    「倭人」「邪馬台国」「卑弥呼」
    これは全部中国の当て字と考えられる。昔の中国は自分達の領土以外に蔑称をつけて呼ぶのが風習だった。今でも名残りがあるのが「南蛮」南の野蛮な奴らの意。
    倭人は和人、邪馬台国は大和国、卑弥呼は妃巫女 
    つまり和人は大和民族を指し、今でも日本風を和風というのだから日本と倭は同じだろ。

  573. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 16:50:14

    >572
    大体同意だけど、和人和風は順序が逆かも
    向こうがこの国、地域のことを「倭」と呼んでいて、それに大和言葉の「ヤマト」を当てて訓読みして、さらに美称として大をつけて大倭(おおやまと)と読んでいて、倭の字が雅びじゃないと思って(倭國自惡其名不雅 改爲日本)、「大和」に改めたんだと個人的には思ってる

    もともと和人と言ってたのに当て字で倭人と書かれたんじゃなくて、向こうで倭人と言ってたのが定着してたんで、文字だけ変えて和人にしたんじゃないかと

  574. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 16:55:07

    >569
    >ガッコーの教科書にすがるなどという恥ずかしい真似

    まあ、もともと勝ち負けの問題じゃないんだけど、これを言い出したら事実上負けを認めたようなものだろうに

    日本の教科書は、世界各国の教科書と比べても理性的で正確だって言われてるのに
    その教科書を端から否定しないと成り立たないなら、それはもう仮説ですらないぞ

  575. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 17:03:27

    >570
    ちょっとググって来た
    近畿大学の南 武志っていう研究者が、水銀朱(硫化水銀)の硫黄の同位体比で、産地の推定をしてる
    遺跡出土朱の起源 地学雑誌Vol. 117 (2008) No. 5 P 948-952

    まあ、出土したすべての試料を調べているわけでは当然ないけど、九州と山陰は中国の朱、畿内では国内産の朱という判定になってる

    >九州で算出してないとすると貿易で得たか
    九州については、まさに貿易で得たでいいと思う

  576. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 17:04:46

    >569
    >対立する側にマウントを取って誹謗中傷の拳をぶつけたいだけ
    工作員だの、捏造だの、半島の人だの言い出したのは、九州派の人だと思うけど?

  577. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 17:15:09

    >547
    集まった所全部を取り込んだ感はありますね。
    倭の五王に繋げる事を考えると、共立ではなく武力制圧してそれぞれを立てるというか、
    敗者を敬う日本の姿勢が現れてる。とでも見ればいいのかな。

    また荒しが増えてきた。
    邪馬台国の話は前の方でほぼ結論出てるのに、九州畿内とかあっちでやれと。
    他の目的を持つ「工作員」と呼ばれても仕方ない行動ですね。

  578. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 17:15:43

    >559
    なるほど 教えてくれてありがとう
    それ(両方とも薬用)だと、真珠鈆丹各五十斤って並べて書かれてるのも納得だね

    というところで、水銀朱も「朱砂」や「丹砂」という呼び名で漢方薬に使われているのだけれど

  579. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 17:58:32

    実は纒向遺跡が邪馬台国だけどその後張政を呼んだり調子に乗ったから、九州、出雲、吉備、東海の協力してくれた豪族に反旗を翻されて滅ぼされたんだよ、それが3世紀後半
    だから邪馬台国とヤマト王権は別
    争いの跡もないほど反乱は圧倒的だった
    反乱首謀者は物部氏と大王家
    この後九州と出雲と吉備と東海のミックス文化の倭が始まる
    その過程で銅鐸は消え去った
    その後九州の大王家が象徴となって担がれたが次第に増長してトップ面を始めた
    それに従わなかった地域を四道将軍に平定させた
    だから出身の九州と協力してくれた出雲には派遣されていない
    その後狗奴国を継ぐ熊襲を征服し朝鮮半島南部を支配して南朝に朝貢したが隋が統一したため隋に朝貢した
    しかし南朝と勝手はちょっと違った
    卑弥呼が記紀から抹殺されているのは日向の大王家による反乱の事実の抹消
    これなら文献とも考古学的事実とも矛盾しない
    九州は邪馬台国の中で貿易を握り最強勢力だったがあくまで都は水行陸行の先としたのだろう

  580. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:11:36

    >578
    水銀朱は、墓の内装に使われたはず?、薬だったから死体にも使ったと言われたら反論しづらいけど。

    北九州は大陸産。出雲と丹波辺りも大陸産が出るけど国産も出る。
    出雲はほとんどが国産使用の墓、混ぜたんじゃないかって墓もあるんだったかな。
    調査結果の多い出雲で考えると、
    王を朱色で埋葬するために、朱を持つ勢力と付き合いを持つ必要があり、一時期大陸と繋がりのある北九州と結び付いたが、基本は国産朱を産出し続けた徳島県か奈良県辺りの勢力と結び付いていた。

    邪馬壱国の丹有は、後漢書で邪馬台国と丹土有に訂正されてるのと、東に海を渡って千里は倭種だけど属してないって書いてあるから、少なくとも後漢書に書かれた時代では、辰砂産出も手に入れる方法も無かったんじゃないかと思う。

    それと、
    卑弥呼を共立した範囲 → 倭国 (倭国大乱→卑弥呼で乱が収まる)
    卑弥呼に属さない範囲 → 倭種 (扶余国、高麗国扶余種、百済国扶余種のように別の国がある)
    卑弥呼と交流可能範囲 → 倭種と書かれない(毛人蝦夷とか?)
    この3つが倭人条に書かれてるね。
    倭国が別の倭種国に従ったけど、交易は今まで通り倭国として行う。と考えると、継続性のない遣使や初めて遣使も納得が行くかなぁ。

  581. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:14:54

    >579
    >実は纒向遺跡が邪馬台国だけどその後張政を呼んだり
    その時代の纏向はまだ小さいんじゃなかったかな。
    そして何より、滅ぼされたって痕跡はどこから出たの、近畿の石器が大きくなってむしろ石器で九州滅ぼしに行ったと見たけど。

  582. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:27:01

    僕の考えた日本の歴史
    九州に倭国や邪馬台国、他諸々がありました。邪馬台国は女王卑弥呼が統治してました。
    近畿に大和の前進がありました。まだ勢力が弱くおとなしく暮らしていました。
    邪馬台国は女王がカリスマ性ありすぎて、亡くなった後弱体化。倭国へ吸収合併、倭国は強くなって調子に乗り暴れ初め、海外へ勢力拡大しますます増長。半島の一部をガッチリ手に入れやりたい放題。
    が、反抗勢力にしてやられほうほうのていで帰ってきたけど、大和の勢力が倭の長期不在留守をいいことに絶賛勢力拡大中!その上阿蘇山噴火やら地震やら(想像)で集落が壊滅状態で、大和完全勝利。で、鬼退治しちゃった大和は宝の山を全部近畿へぶんどって帰った。大和朝廷の始まりだったとさ。おしまい。

  583. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:31:34

    >581
    >その時代の纏向はまだ小さい
    纏向は小さくても、それを作った母体である「大和(唐子鍵遺跡)河内(亀井遺跡)連合」は既に十分大きかったよ
    その状態から、纏向を新た(縄文からの遺跡はあるけどほぼ廃れてた)に都市を作り始めるのは、卑弥呼の共立がきっかけだったと考えるのが一番考えやすいと思う
    そして、纏向が大きくなり東海地方の土器が多く出るようになるのが、魏志倭人伝に記された狗奴国との調停のあとだと考えると、年代的にもぴたりとはまるように思うんだが

  584. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:35:11

    要するに邪馬台国と大和朝廷は別という結論だ

  585. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:43:12

    583
    土器がまるで別で交流のほとんどない河内が母体だとはとうてい思えない…
    むしろ対立してね?
    遺構から見ると仲悪すぎ…
    大和に滅ぼされかけたとみるべきじゃないの?

  586. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:46:26

    ※579
    >争いの跡もないほど反乱は圧倒的だった
    >考古学的事実とも矛盾しない

    考古学証拠がないものは一般的には「ない」んだよ。
    ゆえに、お前の文は全文ただの妄想。

    東海も吉備も出雲も九州も普通に近畿同様銅鐸文化圏。
    鏡という新製品に取って代わられただけだろう。

  587. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:49:30

    585
    もうちょっと具体的にどうぞ

  588. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:49:51

    >580
    >後漢書で邪馬台国と丹土有に訂正されてる
    この誤解、どこからですか?
    前記事のコメント欄で「九州では丹が出ないから使っていたのはベンガラで、だから後漢書では丹土に訂正されてる =だから邪馬台国は九州」って人と、さんざんやりあったのですが、原文を確認すると

    後漢書
    出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
    魏志倭人伝
    出真珠青玉 其山有丹
    倭地温暖冬夏食生菜
    其地無牛馬虎豹羊鵲

    で「其山有丹」の部分は、まったく同じですね。訂正されていません。

    後漢書の「丹土」部分も確認すると丹土ではなく丹朱で、
    後漢書
    並以丹朱坋身 如中國之用粉也
    魏志倭人伝
    以朱丹塗其身體 如中國用粉也

    魏志倭人伝にも対応箇所があり、丹に関する部分については、後漢書はほぼ魏志倭人伝のコピペであることが分かります。

    つまり、当時の丹が出る範囲「畿内や四国」も倭国の中ってことでいいと思います。要するに、丹が出ない(国産の水銀朱を使っていない)九州だけの範囲で倭国を考える九州説は成り立ちにくい。

    >継続性のない遣使や初めて遣使も納得が行くかなぁ
    この点については、大陸側の内乱が大きいと思いますよ。
    倭国王帥升と卑弥呼の間は、後漢末から三国志の騒乱の時代ですし、266年の遣使(おそらく台与)のあとは、南北朝の騒乱に入っていきます。
    そんな時代に遣使を送るのはそもそも難しいでしょう。

  589. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:53:31

    >582
    倭の五王は高麗倒すために大陸王朝を利用し挟み撃ちにしようとした。
    一方高麗は、倭を倒すために倭の後方大和勢力に王子でも将軍でも送り込み、倭を背後から撃つように支援した。なんてのはどうだろう。
    >583
    河内と纏向には母体と呼べる程の繋がりないって見たけど、すぐ隣なのに出る土器が違うって。
    同じ勢力だから合わせる必要なかったとか言うけどなんだかなぁ。
    ○○説から物を考えてる奴とは、できれば話したくないな。面倒くさい。
    >588
    其山有丹土氣温腝
    其山有丹 土氣温腝 で丹土は存在しませんか。
    土氣温って何ですか?

  590. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:55:57

    583
    東海地方に唐子鍵遺跡と亀井遺跡は支配されて奴隷として纏向を造らせたとも考えられる
    どちらにしても纏向が造られ始めた時期に伊都国(九州と比定)及び奴国を制圧できるのだろうか?
    水行何日~何里~と遠い事実を忘れている。吉備や出雲も従えても補給も難しいのでは?

  591. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:57:03

    547
    銅鐸は西日本を席巻したし、前方後円墳は日本を席巻してる。
    普通に力があったとみた方が自然。
    あとは良いものを柔軟に取り入れてたというだけのこと。

  592. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 18:58:32

    >585
    >土器がまるで別で交流のほとんどない河内

    纏向が作られ始めるもう一段前の時点で、
    畿内「第Ⅴ様式土器」の時代(庄内式の前の時期)に
    「近畿地方の弥生土器は,前期の土器を母とし,器形・口縁部形態・紋様など,それぞれの地域で独自化が進んでいたが,それが後期に「第Ⅴ様式土器」に斉一化する。約500 年を要して変化を遂げてきた日常土器の共通化は,統合を図る力が働かなければ成し遂げられないであろう。「第Ⅴ様式土器」を主体的に生みだしたのは中河内・大和南部であり,この地域の拠点集落が存続することから,中河内・南大和の主導勢力が畿内圏を形成したとみる。」
    ということがあったんですよ。
    以後、大和川で繋がった中河内・大和南部が、畿内圏の中核であり、纏向を作った母体だと考えてよいと思います。

  593. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 19:15:22

    纏向遺跡には環壕がない
    よって邪馬台国の都じゃない

  594. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 19:19:30

    ※753
    流れ的には
    倭 → 大倭 → 大和 → 日本

    倭の当て字として和(わ)を使っていることから
    ワという読みが重要だったと考えられる
    和を「やまと」と読むことはない

    不思議なことに記紀には「大和」とう文字は出てこないこと
    古事記は倭は「やまと」、大倭と書いて「おおやまと」と読ませている
    日本は出てこない
    日本書紀だと倭は「やまと」、大倭も「やまと」
    日本は「やまと」、大日本だと「おおやまと」
    なんでもヤマトと読ませる無理矢理感w

  595. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 19:38:01

    >589
    >其山有丹土氣温腝
    これは私が普段原文を見るのにお世話になっているサイトでこのように分かち書きしてあったので、そのままに読んでました。
    土氣は「風土と気候」と読んでいました。書き下しにするなら「その土地の気候は温暖」くらいで。

    で、本場中国のサイトを見てきたら「其山有丹土。氣溫腝,冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲…」と句読点が振ってありました。これは私が間違っていましたね。

    一方で「土氣」という言葉も、普通に漢籍には出てきて、漢書にも「黃帝曰土氣勝」などと使われています。
    漢日翻訳では、「土氣」で田舎っぽい、素朴な、野暮ったい、のような意味になるようです。
    となると、其山有丹土氣温腝は、其山有丹 土氣温腝でも読めて、「その山に丹あり、田舎っぽく温暖」でも間違っていないようです。
    その次の「冬夏生菜茹」が魏志倭人伝では「倭地温暖冬夏食生菜」で、温腝=温暖ですから「倭地」が「気」になるより、「土気」になった方が読みやすいような気もします。もともとの漢文には、句読点などなく、切れ目なく漢字が並んでいますから。

    まあ、中国の人が、其山有丹土。氣溫腝、こう切るというなら、争いません。お騒がせしました。

  596. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 19:46:35

    >593
    >纏向遺跡には環壕がない
    これ、魏志倭人伝にそんなこと書いてありましたっけ?

    環濠というのは防衛施設であって、高地性集落とともに倭国大乱への対応として作られるようになった、というのはいいですよね?

    畿内説の立場で言えば、卑弥呼が共立されて、争いが収まって作られた都だから環濠がない、ということで、非常に整合性があると思うのですが

  597. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 19:47:49

    >592
    いつもの気持ち悪い敬語の人が、今度は土器編年を朝昼のね。
    庄内より前の交流て、庄内時期でまた変わった事を、見事に無視するね。
    都合の悪い事は、隠蔽の自由を行使して、騙されるのが悪いと何時ものマスゴミやり口だな。
    土器編年を100年も押し込む報道を、朝日が飛ばし記事出す辺り、共通した歴史コリエイトの一貫なんだろうな。
    庄内時期を圧縮し、纏向に直通予定。

  598. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 20:01:51

    もっとチョンもっともっとチョン

  599. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 20:15:54

    >597
    庄内式時の時代を、どのような時代だと思っているのですか?

    あなたの考えを書いてくれればいいんですよ?

  600. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 22:04:12

    河内と大和の邪馬台国の時代の土器の違い様々な学者が論文書いてる一大テーマだというのに

  601. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 22:18:02

    さすがC14君は畿内説の大家の寺沢先生に真っ向から挑戦しているだけあって尖ってる

  602. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 22:21:07

    邪馬台国は今の日本の直接の祖ではないから何処にあろうと天皇家の日本とは別だよ

  603. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 22:34:48

    >595
    土氣震發(風水の感覚?)、土氣不養(人の性格表現)など、観念の言葉としての使われ方なので、
    温暖のような直接の説明には繋がらないと思います。
    一方で地気が気候を表すのと同じで、土気で気候という説明もありますね、古い言葉ではないように見えますが。
    ネット辞書程度だと、氣温の由来はここの倭人条みたいな説明がされてて、ほんとに昔から氣温で今の気温って使われ方されてたのか疑問も残ります。
    なので、氣温文章よりも、当時の丹土の使われ方を想定して、顔体に丹装飾をしていたとの記述→豊富に手に入る→丹土表現がより正しいと主張したいですね。

    それから野菜をただ生で食べてたのではなく、茹でてお浸し、見た目が生って事なのかな。
    私は氷点下の冬でも、葱大根辣韮なんかは生で食べてるから、どちらでもいいですけどね。

  604. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/23(金) 22:35:53

    邪馬台国が畿内ならますます倭と日本は違う

  605. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 00:32:20

    纒向遺跡から宮殿は発見されていない
    邪馬台国ではないがヤマト王権と関係はある

  606. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 02:32:00

    >569
    何だこれwwwww
    負け犬の遠吠えやん
    ワロタ

    知識の乏しいオレ様が作った妄想こそ真実だと言いたいんか?
    教科書は間違ってる、考古学なんかどうでもいい、都合の悪い文献史料は全部無視
    自分が正しいとひとりで思ってればいい

  607. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 07:46:15

    九州は奴国から邪馬台国までが1つの流れ
    日本は纒向遺跡から現代までが1つの流れ
    天皇家は日向から現在の象徴までが1つの流れ
    熊本は狗奴国から熊襲までが1つの流れ
    出雲は国譲りまでが1つの流れ
    北海道は縄文文化から明治までが1つの流れ
    沖縄は石器時代から廃藩置県までが1つの流れ
    これらが合流したのが今の日本
    本流は日向の大王家としつつも様々な多民族国家と言えよう

  608. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 07:54:55

    出雲は銅鐸や銅剣が超大量に発見されてるから
    畿内や九州を凌ぐ勢力を持っていた可能性が有る

    しかし記紀にそのことは書いてない
    出雲タケルが負けたと書いてあるだけ

    有名な大国主の国譲りは神武天皇の前のお話なので神話
    大和朝廷とは無関係
    これ重要

  609. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 07:59:51

    日本の古代は
    ヤマト王朝の他に少なくとも出雲王朝と熊襲王朝が有った
    これは否定できない
    これら王朝はヤマトタケルが正面からぶつかったら負ける相手だった
    だから策を弄したのだろう

  610. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 09:55:40

    大和朝廷は中国に昔から朝貢していた倭を騙ってその権威で持って出雲を手に入れた

  611. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 10:49:58

    600-602
    お前はいつも「発狂丸出しの罵声」と「自分の妄想」ばっかりだからダメなんだよ。
    もっと根拠をちゃんと書かないと誰にも支持されないよ。
    まあそんなものがあったら、九州説が学会で主流になってるだろうから土台無理な話だったなwスマンスマン

  612. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 11:02:27

    611
    敬語氏の親衛隊かな?
    彼は原文すら読まずネット知識だけだから注意したほうがいいよ

  613. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 11:17:47

    612
    おまえいつも論破されてるじゃんw

  614. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 11:28:37

    邪馬台国の頃ならいろんな国があって
    まだ緩やかな連合とかぐらいだからこういう話もあり得るけど、
    隋や唐の時代でこういうのはただのトンデモ

  615. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 11:35:44

    倭と日本は別だったとの結論に納得しました

  616. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 12:24:53

    315さん
    邪馬壹(ヤマイ)国

    母音の連続は古日本語としてあり得ない名称ではないですか?

  617. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 15:25:55

    もう569の優勝でいいよ

  618. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 16:37:12

    >607
    >日本は纒向遺跡から現代までが1つの流れ
    日本は、天武持統朝の造語だから、日本が纏向からというのは無理がある
    天武持統朝あるいはその前の天智朝から律令国家を目指していて、明治憲法ができるまで日本は「律令国家」だから、そこは一つの流れでよいけど。

    纏向より前の畿内の動きも確認してほしい。

  619. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 16:39:17

    >315,616
    九州説の人に訊きたいんだけど、邪馬壹国を九州の八女に当てる場合「壹(い)」はどこから来るの?

  620. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 16:48:32

    >609
    >日本の古代は
    >ヤマト王朝の他に少なくとも出雲王朝と熊襲王朝が有った

    出雲は西谷墳墓群など、巨大な権力の存在を確認できる遺跡がありますが、熊襲に関しては記紀のヤマトタケルと景行天皇の征西記事くらいしかありません。
    それと、何をもって「王朝」とするのかは簡単には答えられないものだと思います。吉備や丹波に有力な豪族があったことは、問題なく認められると思いますが、それを「王朝」と呼ぶ人は多くありません。
    初期古墳で、大型古墳を築造できた地域には、一定の勢力があったとみなしてよいと思いますが、吉備や丹波と比べても、熊襲の地域には有力な古墳はありません。

  621. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 17:42:20

    ※59
    環壕集落は村って言うより城に近い
    溝を掘って土を盛り上げ城壁の役割を持たせる
    環壕が無いってことは政治的に安定した証拠
    巻向遺跡は天皇の館だろうが3世紀中頃には周辺を平定していたと考えられる

    倭国大乱で選ばれたのが卑弥呼
    卑弥呼の晩年も戦争状態だった、卑弥呼が死んで更に争った
    よって邪馬台国の都は2世紀中〜3世紀中は戦争真っ最中
    中国に助けを求めるほどだった
    邪馬台国なら環壕を深くすることはあっても
    環壕なしの館を新設とか無理だ

  622. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 17:50:16

    ※620
    日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった
    宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある

    >現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、
    >他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。

  623. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 18:05:30

    >608
    大国主の記事としては、国譲りが有名ですが、奥さんの須世理毘売の嫉妬がきついので、大和に行こうとする場面があります。

    自出雲將上坐倭國
    出雲より将に倭(やまと)の国に上り坐さむとして

    まあ、古事記の上巻は神話ですから、史実ではないのですが、出雲と倭(やまと)がつながりがあるという描写は面白いと思います。
    この古事記でいう倭国=やまとの国、つまり大和朝廷の生まれた場所が日本だというのはあまり意味がないのではないかと。日本の文献で、古事記や日本書紀より古いものはありませんし、そこでは日本と倭が別だ、などということは書かれていません。風土記は、あまり残っているものもありませんが、そこにも日本と倭が別と書いてあるものはありません。

    367で
    >日本の文献も中国の文献も日本と倭は別と記している
    と書いてた人が今もここにいるかどうかは知りませんが、「日本の文献で日本と倭を別と記している」ものなんてありませんよ。

  624. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 23:46:14

    >607
    北海道と沖縄を舐めすぎだ。何一つ調べてないだろ。
    沖縄には日本の影響が古くからあるし、北海道に至ってはアイヌと呼ばれる人達が入ってきたのは日本が成立した後だ。アイヌ伝説にも倭人に近い風習の先住民が居たってのがあるんだよ、そして多分そいつら先住民も、縄文土器作り始めた北海道とは異なってる。

  625. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 23:48:57

    万葉仮名自体が後の日本に連なる勢力だけの表示方法
    奴国や邪馬台国なんかの文字を残す前の勢力の文献が残ってなくて当たり前

    以前の書き込みの人の考えは知らんが、現存している日本の文献は現在の日本である天皇家だけなんだから日本と違う倭の歴史が中国の正史のみで伝わっても不思議じゃない

    古事記や日本書紀に中国側の邪馬台国と同じ描写がないから正史は嘘で倭(奴国と邪馬台国)と日本(天皇家)は一緒とか乱暴過ぎる

    そんな遺跡や遺構や出土品や国外の文献を無視した考えが学会の主流だとしたら何万年経っても日本の学問に発展はない

    奴国や邪馬台国が自分達で記した文献と古事記と日本書紀の記述が一致して初めて「日本と倭は同じと日本の文献に記されている」といえる
    現状は天皇家の神話のみ伝わってるのだから日本側の文献の証拠はないというべき

  626. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/24(土) 23:50:57

    ※621は
    ※596へのレス

    ※623
    大国主は妻が6人、子が180人
    別名を10以上持つ日本神話で最も重要な神
    天皇は大国主から国を譲られたことを王朝の正当性にしている
    出雲の豪族では有り得ない待遇

    卑弥呼の時代の分裂王朝の前に
    超古代統一王朝が存在したと記紀は語っている

  627. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:03:27

    毎度思うのだけど、倭(やまと)って何なの?
    倭(わ)じゃないの?
    遣隋使で大和が「初めて」遣使した。大和が倭であると名乗るも疑われている。大和が倭であると歴史書を編纂したが矛盾が出ていてお粗末、倭の歴史を知らない。
    こんな状況なら、倭(わ)と読めば、自出雲將上坐倭國、←東の狗奴国時代の話かな?とか、読めるんじゃないの?細かい時代とか知らんけど。
    適当言うと、大倭からが大和かもしれないね。

  628. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:04:33

    ※626続き
    つまり縄文の常識が変わる
    縄文時代に日本に統一王朝があった可能性がある
    当時アムール川から沖縄まで交流があった
    つまり貿易していた

    この国名が「わ」かもしれん
    日本で「神無月」が出雲では「神有月」
    大黒様(大国主)信仰は日本中にある
    狩猟民族が国を作れないと言うならモンゴル帝国は有り得ない

    まあ
    これまでの常識はたぶん間違っている

  629. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:29:47

    北海道には弥生文化なかったから天皇家の統治とは関係ないな

  630. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:31:34

    >628
    縄文時代は長いよ。大雑把に数千年で色々変わる。
    石器の形状で日本を分けてみたり、交易品の広がりでもある程度繋がりが見えるけど、少なくとも5つ以上に分かれてる事がほとんどで、文化の広まりなんかも東西で違いがあったりするし、日本海側太平洋側でも違ってるように見える。
    それと、8~7000年前頃に、日本は一旦崩壊してるかもしんない。
    その後倭人などが入り込み、東の生き残りと混ざって日本人って流れじゃないかなー。
    弥生人とか渡来人は、誤解や誇大広告で、縄文のうちに日本人ができてた可能性が高まっている。

  631. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:46:18

    環濠集落を見ると畿内は渡来人に入れ替わってる
    縄文の遺跡が急に途切れて高地性環濠集落ができたと思ったらそれがなくなり低地に新しく集落ができてる
    纒向遺跡は最後の渡来人の襲撃もしくは移住により築かれた
    畿内は2回に分けて渡来系弥生人が来たことが学者の常識となっている
    この渡来人の子孫が記紀を作った日本人である
    すなわち初期の渡来人である倭人や出雲や諏訪湖の縄文系日本人とは別なのである

  632. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 00:54:41

    >631
    という事にして乗っ取るニダー、まで読めた。
    纏向って縄文の頃からあって、一気に大きくなったんだよね。
    他の奈良遺跡も弥生時代から続いてるそうだし。
    食糧増産で増えました、交易都市として増えました、戦乱避けた難民が入りました、この辺りで説明する気はないのかね。

  633. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 02:26:59

    ※574
    アスペなのかもしれないが、忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    認証された文献(あらかじめ決められたテスト範囲)の既存の解釈という固定された狭い盤上で
    まるで詰将棋でもやっているつもりなのかもしれない。
    誰かの(勝者の)思惑で歪められた史料を盲信することによって
    知らないうちに偏った(誤った)結論に誘導されているかもしれないなどとは
    想像だにしていないのだろう。

    勝ち負けとか(かりそめの)正しさの追求をやりたいなら、
    何度も言うけど、ここじゃないだろ。どっか別のところへ行きな。
    このブログのコメント欄に出没したいんだったら
    どうでもいいけど、面白いこと書いてみろよ。目新しいこと書いてみろよ。
    聞いたことない話をしてみろよ。今現在の定説に反していてもいいからさ。
    できないだろ?w
    できないんだったら、お前はここのコメ欄では下なんだからもっと謙虚にしてなきゃだめだろ。

  634. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 03:17:25

    >625
    >そんな遺跡や遺構や出土品や国外の文献を無視した考えが学会の主流だとしたら

    嘘八百デタラメやめろ
    学会の主流である畿内説が考古資料や文献をどう無視してるのか具体的に示せ
    倭と日本が別というのは旧唐書に書かれた2つの説の片方に過ぎない

  635. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 06:07:21

    魏志倭人伝に表記された水行〇日、陸行〇日の移動速度はどれぐらいに考えられてるんだろ?
    時速何キロで1日当たり何キロ、その結果邪馬台国はこの辺りと考える、って具合に教えてくれないかな
    できれば近畿説、九州説の両方に

  636. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 06:18:23

    5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
    6.一見関係ありそうで関係ない話を始める
    9.自分の見解を述べずに人格批判をする
    11.レッテル貼りをする
    12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
    14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる

  637. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 06:53:15

    >635
    隋書にある倭国の地理についての記述で東西五月行、南北三月行が目安
    つまり聖徳太子の時代の倭国の版図は東は関東、西は九州までだから
    2ヶ月の行程は北部九州から奈良までで丁度いい
    もう一つは師行日三十里という中国の文献の記述も参考になる
    だいたい1日で13km
    もちろんこんなのは目安で、魏志倭人伝の行程記事は信憑性が低いことがわかっているのであくまで参考程度
    メインは考古学的アプローチで畿内だと結論付けた
    詳細は複雑すぎるのでここでは省略

  638. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 07:53:26

    邪馬台国がどこにあるかは置いといて、ここまで邪馬台国とヤマト王権が違うなら別種というのがコメ欄読んで分かること

  639. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:02:40

    纒向遺跡が邪馬台国だとする考古学的アプローチは実はその遺跡の広さでしかない
    しかし発掘によって邪馬台国時代の纒向遺跡の範囲はほぼ特定され狭いことが判明した
    纒向遺跡が日本の首都となるは4世紀以降であり、邪馬台国とヤマト王権を結び付けない限り、邪馬台国畿内説は成り立たなくなってしまった
    これが世に言う考古学的アプローチの正体である

  640. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:03:58

    637
    短里説しか根拠ないのがよく分かる

  641. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:05:47

    ※637
    複雑?
    書けないの間違いだろw

  642. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:07:12

    >637
    中国には1舎という1日に進む単位がきちんとある
    もちろん三国志の時代にもある
    魏も使ってる

  643. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:10:06

    ≫637
    貴方様の頭の中の考えと倭と日本が別種との事実とは何か関係があるのでしょうか?
    聖徳太子の時代の日本の版図と魏志倭人伝の倭国の版図にどのような意味があるのでしょうか?

  644. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 08:16:25

    なんでこっちにまで粘着して、邪馬台国は畿内って連呼してるんだろうな。
    某国史観が覆されると困るから、議論妨害してんのかな。

    畿内説九州説の記事では、畿内ではないってほぼ結論出てたように見えるが、あっちだと嘘がばれるから、こっちで連呼してんのかな。
    考古学アプローチを否定されたはずなのにな。

    5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
    6.一見関係ありそうで関係ない話を始める
    12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す

    これって何の注意書きだっけ?

  645. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:01:07

    >639
    畿内説を理解してないならトンチンカンなイチャモンはやめろ
    レスのしようがない

    >643
    隋書に倭人には距離を表す里のような単位がなく日数で表していると書かれている
    関東から九州まで5ヶ月かかるのが倭人の距離感だということ
    もちろんこの距離感は3世紀だろうと7世紀だろうと変わるはずがない
    3世紀の段階ですでに中国人の認識する倭とは西日本全体を含んでいるので
    倭と日本が別勢力ということはない
    倭から日本に国名変更したという通説どおりの見解

  646. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:34:32

    列島の広さは変わらんが王朝は変わるがな

  647. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:41:29

    ※645
    >メインは考古学的アプローチで畿内だと結論付けた
    詳細は複雑すぎるのでここでは省略
    に対する批判に対して
    >トンチンカンなイチャモンはやめろ
    >レスのしようがない
    では君以外の全員が呆れてるよ

  648. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:44:45

    645を要約すると
    聖徳太子は5ヶ月歩いた範囲を支配した
    邪馬台国は3ヶ月の範囲を支配した
    故に倭国=日本

    これで納得する人いるの?

  649. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:49:11

    >637
    >>2ヶ月の行程は北部九州から奈良までで「丁度いい」
    >>魏志倭人伝の行程記事は「信憑性が低い」ことがわかっている
    「」は引用者

    単に畿内と決めつけて都合のいい逆算しただけなのでNG

  650. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:56:45

    632
    弥生人も倭人
    弥生人は朝鮮人ではない
    もちろん縄文人とは違う

  651. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 09:58:06

    魏史高句麗伝でも「短里」が使われている
    東夷伝の距離は全て短里で書かれている

    常人なら東と南を間違えることは有り得ない
    魏志倭人伝は距離も方角も正しい
    これが理解する第一歩

    魏史では九州上陸後「南」に行ってるが
    随書では九州上陸後「東」に行ってる
    これが史実

  652. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 10:05:50

    魏志高句麗伝
    >高句麗は遼東の東千里にある。南は朝鮮、濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と接している。
    >丸都山のふもとに都をおく。広さは二千里四方、戸数は三万。

    中国人が遼東半島の距離を理解してなかったという説はありえる?

  653. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 12:34:31

    ※650
    縄文人と弥生人が違うとされていたのは、旧来やり方である骨格のみでの判断。
    最近のDNAの調査では、縄文人と弥生人、現日本人のDNAの差異はほとんどなく、食生活が変わったため骨格、体つきが変わったのではないかと言われている。

    江戸時代の日本人と平成の日本人を後世、骨だけで見比べると同じ人種だと思えないほど違っているのと同じ。

  654. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:01:45

    歯の遺伝子は違うけど同じなの?

  655. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:03:41

    ていうかさ、初期大和王権を「日本」と呼ぶ理由がないっていう単純なことをどうして分からないかな

    九州説の最後の拠り所、「日本と倭国は別、倭国を邪馬台国に当てればワンチャンいける」だけの理由で、よくもまあ引っ張れるもんだ

    「日本の文献でも別なのは明らか」ってコメ100個分くらいは引っ張ってたけど、やっと625で諦めた

    で、また短里説を持ち出してきている

  656. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:09:11

    >633
    あなたがここで一番迷惑な人ですよ。

    >忖度とか推理などという人間的な(高度な)作業はできず、
    という言い回しで、根拠もないことを「忖度という高度な作業」のふりをする。
    でも、根拠のないことは相手にされないんですよ。

    >面白いこと書いてみろよ。目新しいこと書いてみろよ。
    >聞いたことない話をしてみろよ。今現在の定説に反していてもいいからさ。
    この部分、、要はご自分の説いている内容が「トンデモ」だって言っているだけですよね?

    >勝ち負けとか(かりそめの)正しさの追求をやりたいなら、
    といいながら、最後は
    >お前はここのコメ欄では下なんだから
    と、ゆがんだ儒教的な上下関係に落とし込んでマウンティングしようとする。
    日本で普通の教育を受けた人の価値観から外れてますよ。

  657. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:15:41

    >627
    >毎度思うのだけど、倭(やまと)って何なの?
    日本の史書、古事記や日本書紀では倭と書いてヤマトと読ませているんですよ。
    古事記では、万葉仮名的な読みの指定がいろんなところにありますから、それでヤマトと読むのは明らかです。
    日本書紀でも大体、倭でヤマトと読ませていますが、天皇名などでは日本と書いてヤマトと読ませています。

    だから、「日本の文献で倭と日本が別なのは明らか」というのは、「明らかな間違い」あるいは分かって書いているなら「明らかなウソ」です。

  658. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:28:59

    >622
    >日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった
    >宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある

    通常、熊襲は「球磨川流域の熊」と「大隅国曽於郡」を合わせた地域とするのが通説で、宮崎に熊襲の本拠地があったとは読めない
    宮崎の西都あたりは、景行天皇の征西記事でも日向高屋宮を置いて、熊襲征伐の拠点にしたところだ
    西都原古墳群は、長く古墳の築造が続く古墳群だが、最大の古墳は古墳時代中期の男狭穂塚古墳、女狭穂塚古墳で、古墳時代初期にはそれほど大きな古墳はない

  659. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:32:28

    古事記は国内向け、日本書紀が国外向けに編纂したことは誰もが知っていること
    古事記では倭と記しあたかもずっと続いていると錯覚させ国内での正統性を高め、日本書紀に倭と日本は別と記すことで正史と同じにした
    倭と日本が別だからこそ古事記と日本書紀は別にしなければならなかった

  660. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:47:29

    万葉仮名の倭が何を表すか論争じゃくて魏志倭人伝の倭と旧唐書以降の日本は別じゃないか論争でしょ
    奴国&邪馬台国の倭と大王家支配の日本は別
    記紀は天皇家の神話を万葉仮名で書いた傑作なんだからその文字や歌の美しさはこの論争とは無関係

  661. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:52:36

    記紀を読めば所々天皇家とは別の倭を平定したとか倭とされていた地域を征服したとか出てくるから別なのは分かるよね
    唐の時代まで出雲と熊襲が独立していればもっと古代は分かったのに残念だ

  662. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:53:32

    ※644
    9回2アウトランナーなし10点で畿内説にリードされてる状況で

    「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
    「つまり同点だ」←は?

    これが九州説。

    実際には畿内説で(ほぼ)確定。

  663. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:55:08

    >626
    >出雲の豪族では有り得ない待遇
    これは私の個人的な考えで、通説ではないのですが、出雲の古事記における厚遇は、神武天皇以下の皇統の母系が、出雲だとされているからだと考えています。

    古事記では、
    原初の神が、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神ですが、のちの神話では、高御産巣日神が高天原系(天孫系)、神産巣日神が出雲系(地祇系)として描かれます。国産みのイザナギが高天原系、イザナミが出雲系、三貴子の天照大神が高天原系、素戔男尊が出雲系、月夜見尊がおまけ、と常に、天孫系(高天原系)と地祇系(出雲系)がペアで描かれています。
    そして、神武天皇の皇后の富登多多良伊須須岐比売は出雲の神・大物主(大国主と同体の神)の娘で、ここで、天孫系と地祇系の血統が合わさって、皇統が始まることになります。
    もともと、日本では父系・母系がともに重要視されていたのだと思います

    それが、日本書紀になると、男系をより重視するようになる分、出雲の扱いが小さくなっているのだと思います。

  664. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:55:59

    ※659
    記紀の記述の何のこと言ってるの?具体的にどーぞ

  665. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 13:57:57

    倭の初代王 卑弥呼女王 3世紀
    初代天皇 神武天皇 紀元前660年
    明らかに別だろ

  666. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:01:08

    >630
    >8~7000年前頃に、日本は一旦崩壊してるかもしんない
    この頃(7300年前)に、九州南部のカルデラ火山(鬼界海底カルデラ)が、破局噴火してるんですよね
    九州はもとより、西日本くらいの範囲が壊滅したとも言われていますから、それまでの文化的なつながりとかは、完全に崩壊したでしょうね

  667. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:06:57

    ※661
    四道将軍やヤマトタケルの前まではそうだけど、それ以後はもう併合されてる。
    日本が初めて登場した頃には完全に倭しか残ってないんだから倭=日本。
    唯一の根拠は唐書のごく一部だけだけど、その唐書だって最終的には倭=日本と認めてるんだから諦めれアホw

  668. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:11:50

    665
    卑弥呼=14代仲哀天皇妃・神功皇后

    明らかに同じ王朝

  669. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:19:44

    654
    歯の遺伝子って何だよ

    形状である程度傾向があるというだけだし、それは硬いものを食べるか柔らかいものを食べるかで適応して変化しただけの典型的なやつ

  670. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:31:40

    >653
    >最近のDNAの調査では、縄文人と弥生人、現日本人のDNAの差異はほとんどなく

    それソースは?
    まさか長浜とかいうド素人の書いた本ではないだろうな?
    ちゃんとした学者の書いた本や研究結果ではいずれも明確に差があると結論づけているんだが
    長浜いうやつは素人だから自分で調査はしないで基本的に専門書から引用して本を書いている
    その詐欺のやりかたは学者が書いた本を部分引用して結論を逆にするといやり方だ

  671. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:35:58

    >659
    >古事記では倭と記しあたかもずっと続いていると錯覚させ国内での正統性を高め、
    いやずっと、倭が続いてるのが史実なのですが

    >日本書紀に倭と日本は別と記すことで正史と同じにした
    日本書紀、読んでください。同じ場所に倭と日本が同居してますよ。
    今の時代は、日本書紀でも古事記でも、全文検索できますから、日本書紀で日本がどこでどのように使われているかは素人でも簡単に確認できます。
    そして、あなたの言う正史というのは、旧唐書を指すのでしょうが、日本書紀が養老4年(720年)の完成、旧唐書の成立が945年です。
    何にどう合わせようとしたのか意味不明ですよね? 時系列を無視するからこうなるんです。

    >倭と日本が別だからこそ古事記と日本書紀は別にしなければならなかった
    日本書紀を読んでも、日本書紀に書かれている倭と日本は同じ場所ですよ。むしろ倭を狭義の大和国(奈良県)程度に使っていることの方が多いです。

  672. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:36:22

    ※647
    前スレでボコボコにされたのを無かったことにして偉そうな顔してるお前が呆れられてるぞw

  673. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:39:20

    >661
    >記紀を読めば所々天皇家とは別の倭を平定したとか倭とされていた地域を征服したとか出てくるから別なのは分かるよね

    一箇所でよいので、具体的に「天皇家とは別の倭を平定した」ところとか、「倭とされていた地域を征服した」という記事を、古事記なり日本書紀なりで指摘してもらえますか?
    熊襲は熊襲で、倭国とも倭とも書かれてないですよね?

  674. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:52:36

    669により653が適当に書いたガセだと分かる

  675. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 14:55:37

    ※668
    卑弥呼には夫も子供もおらんのじゃ…

  676. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:02:30

    ※76の考え方が一番矛盾がない

  677. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:07:36

    歯の遺伝子で思い出したけど
    弥生人の起源とされるモンゴル人は
    ほとんどが鉗子状かみ合わせだぞ

    なぜかというと
    歯で革とかなめしているし硬い食べ物が多いからwww
    咬み合わせは遺伝より食生活で決まる
    硬いものを食うと顎も広がるしな

  678. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:11:18

    >648>649
    こっちの言うことを歪曲するな
    まず考古学的アプローチで奈良だという結論になった
    次にその奈良は北部九州から2ヶ月の距離で倭人の距離感でちょうどいいということ
    信憑性の低い記述なんだから参考程度だ

  679. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:18:23

    文献と遺跡により邪馬台国とヤマト王権を結ぶものがないと分かりました
    このスレは勉強になりますね

  680. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:27:45

    発掘調査の結果、第1古墳群は3世紀の末から4世紀にかけて1号墳→72号墳→13号墳→35号墳→46号墳の順で前方後円墳が作られたと思われます。
    大正時代に72号墳、13号墳、35号墳の発掘調査が行われ、銅鏡や剣、勾玉などが出土しました。

    天皇家はここの出身だと思う
    前方後円墳も3世紀末からあるし、三種の神器もあるし。
    ここが邪馬台国なら同種だし、ここが邪馬台国でないなら別種だと思う

  681. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 15:52:11

    ※658
    古事記によれば九州には「筑紫国、豊国、肥国、熊襲国」の4つの国があった
    日本書紀にこの記述はない

    現代では熊襲国が消えているが他の3国は残っている
    「筑紫国、豊国、肥国」以外の地域は「宮崎と鹿児島」である

    景行天皇の西征では
    九州に入って大分に陣を敷いた→ 土蜘蛛から攻撃を受けた
    宮崎に入り陣を敷いた→     熊襲を滅ぼした(4〜6年掛かり)
    宮崎を地名を日向と改めた→   宮崎の元々の地名が「?」

    『先代旧事本記』では、九州に「筑紫国、豊国、肥国、日向国」があると書いてある
    熊襲国が日向国に変わったのが明白
    クマソは地名すら消されたんだよ

  682. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 16:04:15

    日向が神武天皇の出身地(兄が筑紫にいるので婿に来たという説もある)
    その日向は元は熊襲国だった
    つまり大和朝廷は本家筋を滅ぼすことで名実ともに日本の支配者となれた

  683. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 17:37:50

    倭と日本は別という資料は揃っているんだなと感じた

  684. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 18:23:41

    >637
    師行日三十里て、行軍速度と、下賜品持った文官が卑弥呼時代の陸路を進む速度が同じわけないだろ。
    そもそも30日は、倭人の自主申告単位ではないのか、里数にできない水行陸行30日なんだから。
    梁書では
    又南黒齒國裸國 去倭四千餘里船行可一年至 又西南萬里有海人~~
    四千里が倭人の船行一年って話になってる、30日で300~400里、30km~160kmくらい。あんまりあてにならない記述ではあるけど。

    気になったんで古事記原文探してたら、
    >『古事記』は、日本最古の本。原本は失われ、最古の写本は、660年後に写されたものです。
    >その写本にもフリガナはつけられていませんでした。
    古事記に読みはなく、書き下し文や読みをつけようとするも、卑弥呼から1000年過ぎた南北朝当時、すでに発音がわからなくなっていた。
    さらに400年後の本居宣長が、無理矢理作った読みが聖典になってるようだけど、国名は全てヤマト読みとか雑すぎだろうと。

    例えば、倭建、これをヤマトタケルと読むより、ワケ?、とそのまま見たら、金字鉄剣の、ヲワケ、の事かな?とか素直に読めないものか。

  685. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 18:24:46

    >680
    >天皇家はここの出身だと思う
    前方後円墳も3世紀末からある

    何を寝ぼけたこと言ってるんだ?
    ヤマト王権は2世紀末あるいは3世紀初頭に纒向で誕生した
    前方後円墳のルーツは大和で纒向型なら3世紀初頭からある

  686. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 18:53:56

    記紀に倭国大乱に当たるような記述はない
    倭と日本は別物
    ちなみに畿内にも倭国大乱の跡はない
    神話だと言われる記紀だがある年代までは畿内だけの物語だと考えられば結構遺跡や遺構の裏付けがある
    無理やり邪馬台国と結びつけなければいいだけ

  687. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 19:15:37

    >681
    書いていることが不正確ですね。
    原文ではこう書いてあります。

    古事記
    次生筑紫嶋、此嶋亦、身一而有面四、毎面有名、
     故、筑紫國謂白日別、豐國謂豐日別、肥國謂建日向日豐久士比泥別ー自久至泥、以音、
     熊曾國謂建日別ー曾字以音。

    先代舊事本紀
    次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
     筑紫國謂-白日別,豐國謂-豐日別,肥國謂-速日別,日向國謂-豐久士比泥別.
    次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.

    古事記では肥国に日向が入っています。
    旧事本紀では肥国の名前が間違っていて、肥国の名前に入っていた日向を独立させてそこに肥国の名前を当ててしまっていますが、熊襲国ー健日別はちゃんと書いてあります。日向を独立させてしまった分、熊襲が佐渡のこととか訳の分からないことになっていますが。

    旧事本紀が単に偽書であるとする説には私は与しませんが、かなりの部分が古事記や日本書紀のコピペで、しかも多くの部分が劣化コピーであるのは否めません。

    日本書紀は単純に
    次生筑紫洲
    だけです。

    681はもっともらしいことが書いてあって、原文を知らない人はだまされるかもしれませんが、日向は熊襲国には入っていません。肥国の中です。日向の西都周辺が熊襲の本拠地であるという根拠はありません。

  688. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 19:47:34

    平安時代の女性の名前の読み方ですらわからないんだからしょうがないね

  689. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 19:49:21

    >684
    倭の読みを指定しているところは見つけられませんでしたが、
    日本書紀 の本文の「日本」の初出のところに
    廼生大日本「日本、此云耶麻騰。下皆效此」とあって、
    「日本、これを耶麻騰と云う。以下みなこれにならう」です。明らかにヤマトです。
    そして古事記の倭建命と、日本書紀の日本武尊が同一人物であるのは間違いないです。
    古事記と日本書紀の表記は異なりますが異同を追うことで読みが分かります。
    倭をヤマトと読むのは当たり前すぎて、注を付けるまでもなかったようです。

  690. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 20:23:24

    日本書紀は神功皇后など、天皇の歴史に結びつけた齟齬が起きてる。
    それを問題にしてるのに、こういうことになってるからこうなんですって、相変わらずごり押し左翼学者って感じ。

    >687
    どこに日向なんて書いてあるの?
    直後にも出てくる建日を 建 日向 日 って分解したの? この出鱈目で解釈批判???
    日向はちゃんと何度も出てくるけど、向日は東を見るって意味じゃないの?
    熊襲の建日を東に見る(熊襲の西にある)豊久士比泥別が肥国、私にはこう読めますがね。

  691. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 21:08:35

    速日別の速日がどこから来たかというのが少し気になります。
    古事記・日本書紀の中で速日が出てくるのは、イザナミがカグツチを産んで死んだ後、イザナギがカグツチの首を切ってそこから生まれた甕速日神、熯速日神の名前と、天孫降臨のニニギの父・正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、それから神武の前にヤマト入りした天孫系の饒速日、この4件です。
    これがどうして肥国の名前に入ったのかが不思議です。

  692. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 21:37:08

    >690
    建日向日の「向日」が日に向かうで 日向の語源だよ
    旧事本紀の作者がどう読んだかは知らないけど

    旧事本紀では熊襲が国名ごと消されてるっていう間違いの反省はないのかな?
    あんまり適当なことを言わないように

  693. 名前:690 投稿日:2017/06/25(日) 21:57:23

    向日を東は言い過ぎかな、太陽に向かう方向で、この場合特定の時間、場面を指していないから、
    日の昇る方角から南を通って沈む方角までが熊襲、熊襲の北にあるくらいの意味だろうか。
    肥の国が阿蘇山からの水系で、山都、高千穂辺りまでの範囲と見たら、向日方向に熊襲や日向で、収まりがいいかもしれない。

    >691
    カグツチ → 火国 → 肥国 だったりするのかな。

    >692
    建日は熊襲だと直後に書いてあるのに、建日向日が日向の語源てどういうこと?他にも日向って地名はあるのに。
    日向は沢山出てくるけど、向日は太陽に向かう方向としか使われてないんじゃないの?
    古事記の建日向日が日向なんて解釈するから、その後の説明が崩れたように見えるよ。

  694. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 22:16:57

    この話題は皇国史観とそれに属する人たち、また近畿圏とその圏内の既得権益者が絡むから、たとえ邪馬台国の金印が近畿圏外で出土したとしても絶対に彼らが折れることはないよ。
    個人的には従来は早い段階で駆逐されたと考えられていた旧人が実はその内の複数種が新人と同時代に並存してたように、この時代の日本列島にもかなり多くの地にまとまった勢力を持つ国々の王がいる地域が存在したのだと思う。
    その中には北部九州や紀伊半島の勢力のように大陸側と接触を持たなかったが故に記録に残っていない存在もあったんじゃないかな。

  695. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 22:31:35

    その例えが実現する可能性はどれくらい残ってますかね・・・

  696. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 22:33:50

    >694
    皇国史観の正体も、議論禁止にしたところで、もうばれてるのにね。

    一言で、森友籠池こそが皇国史観の正体。
    教育勅語どうこうで、天皇万歳安倍万歳と言いながら、安倍に賄賂渡したので安倍政権潰そう。
    皇国どうこうで天皇万歳と言いながら、日本を潰して支那朝鮮を解放しよう日本を乗っ取ろう。
    昭和天皇の意向も無視され、日本を潰すためにアカと手を組み全力疾走。

    侍時代が終わった途端に、日本の方向性がおかしくなったのも、全部20世紀初頭のこの入れ替えがあったせいだろう。あいつらは孫文の亡霊みたいなもんだと思ってるよ。
    明治維新の革命政府は確かに屑だったが、だからと言って外国引き込み競争=売国競争やった所で、ますます一般人は苦労するだけなのに、100年たっても売国競争で、ついに乗っ取られ。
    まさに先祖が歎いてるだろうな。

  697. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 22:52:24

    別種と考えられる文献の方が多いようだな

  698. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 23:01:18

    ※687
    それは「日向」と「日別」の違いだぞ

    筑紫國 謂 白日別
    豐國  謂 豐日別
    肥國  謂 建日向日豐久士比泥別
    熊曾國 謂 建日別

    まあ熊本が日向だと主張したいのなら止めないがw

  699. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 23:06:05

    古事記は大和朝廷に不都合なことも書いてあるから
    好き
    まあボツになって書き直しになるよなw

  700. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 23:08:08

    古事記によれば
    九州で最も重要なのが火の国
    火の国の巫女はヒミコ

  701. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 23:30:15

    ※693
    肥国の肥は明らかに蔑称
    肥の国は火の国で日の国であると思わる

    >肥國 謂 建日向日豐久士比泥別

    肥の国は「建日向」だ
    つまり日の本であり日本の古代の謎を解く鍵

    ちなみに熊本県は予算がなくて発掘ができませんwwww
    吉野ケ里を凌ぐ遺跡がいくつかあるのに放置です
    考古学の欠点は発掘しないと無意味なこと

  702. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/25(日) 23:49:34

    >699
    それが残ってる所に、良心というか、本来残したかった歴史みたいなものを感じるね。

    五柱神とか、複数の王朝が集まってできたっぽいからなぁ。
    外国向けにわかりやすく凄い統一王朝があるぞって書き直したら、それを理由に千年以上たってから皇国史観で抑圧されるとか、なんだかなぁ。差別する奴嫌い。
    筑紫城のイザナミ?女王国を、南の火の国カグツチ?クコチ?が倒してしまって、逆に東からイザナギ?討伐されてしまうとか、そんな歴史なんだろうか。

  703. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 07:10:31

    >最古の歴史書と言えるのは、712年に編纂された「古事記」と、720年の「日本書紀」しか無いのです。

    ねぇ、風土記は?

  704. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 07:19:42

    関係ないが、金田一家の三代目が、擬音・外来語を除き、本来の日本語には「ひゅ」の音
    を持つ言葉はなく、唯一の例外が「日向」だとか。

  705. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 07:25:24

    古田武彦の九州王朝説(多元国家観)の焼き直しか?

  706. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 10:04:15

    日本が倭の別種ということは九州王朝が奈良時代直前まで存在してたということ
    邪馬台国の時代に九州王朝が存在 → 九州説を唱える人が多いからまだ理解できる
    倭の五王の時代に九州王朝が存在 → かなり電波
    聖徳太子の時代に九州王朝が存在 → 会話が成り立たないレベル

  707. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 12:07:16

    倭の朝貢は何度も途絶えている
    なぜか?
    その理由はただひとつ
    朝貢できないほど国内が混乱していた

    親魏委奴国
     ↓ 内戦と王権交代(奴国→邪馬台国へ 国名が違うから自明)
    邪馬台国
     ↓ 内戦と王権交代(女王国→男王国へ トヨが負けたのだろう)
    倭の5王
     ↓ 内戦と王権交代(男王国→朝貢未体験国へ 朝貢は義務、忘れるとか有り得ない)
    大和朝廷
     無作法の限りを尽くし、やがて朝貢をやめ中国と縁を切る

  708. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 18:14:17

    >707
    >倭の朝貢は何度も途絶えている
    >なぜか?
    これはむしろ大陸側が混乱してたからじゃないかね?

    夏 商(殷) 周 春秋戦国 秦 前漢(新)後漢 魏晋南北朝 隋 唐 唐末五代十国 宋で
    後漢から三国志の頃、西晋が滅んで南北朝の間、五代十国の頃 がそれぞれ遣使が途絶えているところだよ

  709. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 19:08:34

    >690,693、698、701
    簡単なところから
    >まあ熊本が日向だと主張したいのなら止めないがw
    そうではなくて、肥国に日向も入っていて、熊本と宮崎をあわせた範囲が肥国で、そこから切り分けられて日向として独立したと考えています

    それから
    >肥國  謂 建日向日豐久士比泥別 
    の建日向日の部分ですが、692は私も考えが足りませんでした

    垂仁天皇紀の狹穗彦の乱のところに上毛野君の祖、八綱田が出てきますが、この将軍はここでの軍功により「倭日向武日向彦」八綱田 という名を賜ります
    これは日本書紀なので、この表記になっていますが、日本書紀での「武タケ」は古事記では「建タケ」となり、書紀の「彦」は記では「日子」となるものが多いので、古事記の表記に合わせると
    「倭日向建日向日子」八綱田 となるはずです 
    古事記には八綱田が出てこないのでこの表記は確認できませんが、建日で切るのではなく、建は武人を表す接頭辞的な尊称で、建日向でまとまりと見たほうがよいのかもしれません
    古事記の読みも「自久至泥、以音」と「久士比泥」別が語としての塊であることを示していますし
    ただ「日豊」がうまく読めないのが、どうしようもないところですが

    あと、余談ですが国産みの少し先のところで、吉備兒嶋に建日方別という名前が付けられています
    これが熊曾國の建日別と関係があるのかないのかは分かりません

    もともと、この話は681が
    >『先代旧事本記』では、九州に「筑紫国、豊国、肥国、日向国」があると書いてある
    >熊襲国が日向国に変わったのが明白
    >クマソは地名すら消されたんだよ
    と言っていたのが大間違いで、先代舊事本紀にも
    次,筑紫島謂.身一而有面四,每面有名.
     筑紫國謂-白日別,豐國謂-豐日別,肥國謂-速日別,日向國謂-豐久士比泥別.
    次,熊襲國,謂-建日別.一云,佐度島.
    と書かれていることを確認してもらえれば、それで結構です
    場所が間違っているだけで、熊襲国は消されていません
    また、先代舊事本紀を根拠にするなら、熊襲は佐渡になります

    熊襲は、普通は熊本から鹿児島の範囲で、日向の西都辺りに本拠地はないというのがもともと話題でした

  710. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 21:15:15

    ※708
    倭の5王が朝貢したのは中国が分裂していた南北朝時代
    奴国からの朝貢は後漢が健在なのに途絶えている
    卑弥呼の朝貢は短期間だけ
    晋が健在なのに倭の女王から朝貢が途絶えた

    夏    BC1900-BC1600
    殷    BC1600-BC1046
    周    BC1046-BC256 周代に朝貢の記録あり
    春秋戦国 
    秦    BC778-BC206
    前漢(新)BC206-AC8
    後漢   AC25-220   57年 倭奴国朝貢(後漢滅亡まで160年の空白)
    魏    220-265   238年 卑弥呼朝貢
    西晋   265-316   266年 倭の女王朝貢(トヨ?)で途絶える
    東晋   317-420
    南北朝  439-589   413-502年 倭の5王朝貢
    隋    581-618   600年タリシヒコ朝貢
    唐    618-907   ご存知遣唐使

    これらから中国の情勢は関係ないように見える

  711. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/26(月) 22:05:22

    ※709
    すまん
    情報源が不確かだった

    古事記の「筑紫・豊・肥・熊襲」と
    現代の「筑紫・豊・肥・日向」に改めさせてもらいたい

  712. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 00:20:23

    寺沢氏は、定型的な前方後円墳への過程により初期ヤマト王権の権力母体は、弥生時代の大和・畿内の勢力を基盤にしたものではなく、したがって、いわゆる「邪馬台国」でもないと説明している。
    従来のような大和中心主義からではなく、むしろ鍵を握ったのは「キビ国連合とその息のかかった中・東部の瀬戸内地域」であったとして弥生時代終末期から古墳時代初期の研究に新視点を提供したのである。

    有名な先生も別種説だね

  713. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 00:54:34

    楯築遺跡の墳丘墓が纒向遺跡の古墳の源流とされている
    2世紀後半から3世紀前半に造られた
    次が石塚古墳で3世紀初頭から中頃
    続いてホケノ山古墳、3世紀中頃から後半、前方後円墳とされる

    邪馬台国を日本の源流、あるいはヤマト王権の始まりと見る人は多いが実は倭国大乱の前から吉備には日本の源流があり、正史には書かれていない畿内の連合政権がありそれが日本の源流である

    魏志倭人伝に書かれているのはあくまで北部九州だけであり奴国も伊都国も邪馬台国も日本列島の一部地域に過ぎない

    古代日本は倭だけではなく出雲を始め日本海側、吉備から大和の瀬戸内連合、伊勢東海勢力、謎の北関東王国、今も縄文の祭事が残る諏訪湖地域、長く蝦夷と呼ばれた東北地方、アイヌモシリ、琉球と様々な地域があり、最終的に天皇家が統べることとなった

  714. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 05:20:24

    >712
    寺沢氏が言ってるのは畿内に国がつくられる過程の話だろがよ
    歪曲するな

  715. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 05:27:28

    寺沢氏の見解は前方後円墳のルーツとされる円形周溝墓が奈良で見つかる前のものだから
    あの発見で見解がどう変わったかを聞いてみたいな

  716. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 09:29:32

    >711
    >現代の「筑紫・豊・肥・日向」
    現代なら「福岡、大分、佐賀、長崎、熊本、宮崎、鹿児島」ですね
    旧国名なら「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅」です
    なぜ「鹿児島」「薩摩、大隅」を省く必要があるのですか?

    普通は、肥国の「球磨」と大隅の「曽於」を合わせて、熊襲と呼ぶとするのが通説です
    また、熊は勇猛なという美称で、曽於郡のある大隅半島の辺りが狭義の熊襲国だとする人もいます

    620の「日本書紀によれば熊襲の本拠地は現在の宮崎県にあった 宮崎には日本最大級の西都原古墳群がある」が見当違いだというのはよろしいでしょうか
    日本書紀にはそんなことは書いてありません

  717. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 12:05:09

    >710
    >後漢   AC25-220   57年 倭奴国朝貢(後漢滅亡まで160年の空白)
    AD107年の倭国王帥升の朝貢も忘れないであげて

    そして、後漢が最終的に晋の文帝に禅譲するのが220年だけど、いわゆる桓霊の間の騒乱開始が146年桓帝即位の2世紀半ばだから、帥升の朝貢から言うほど離れてない
    もともと、57年の倭奴国朝貢から107年の帥升の朝貢までだって50年空いてるんだし、そんなに一生懸命朝貢してたわけでもないんだなとも思う
    この間は、倭国大乱の前だよな

    景初2年だか3年だかの卑弥呼の遣使は、遼東の公孫氏が滅んですぐだし、倭の五王の宋への朝貢も、421年の遣使は宋の建国(420)直後なんだよね 
    案外、倭国側も大陸の情勢には疎くない感じがする

  718. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 13:01:02

    ※694
    皇国史観が無くなった隙に、パヨクが頑張って王朝交代説とか多元王朝説とかぶち上げたけど結局証拠もなく、むしろ畿内の強さを証明する物証が次々出てきてもうオワコンになっただけ。

  719. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 13:15:35

    ※675
    台与にはいた可能性がある

  720. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 13:26:19

    713
    楯築遺跡の墳丘墓は双方中円墳だから、纒向の前方後円墳とは関係無いんじゃないの

    前方後円墳の源流とされているのは、奈良の瀬田遺跡の円形周溝墓(二世紀後半)。

  721. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 20:31:24

    取りあえず真実は分からないけど、ここのコメント欄勉強になるなあ
    今日邪馬台国テレビでやるな楽しみ^^

  722. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 21:43:09

    パヨク(笑)

  723. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 21:54:25

    ※716
    >なぜ「鹿児島」「薩摩、大隅」を省く必要があるのですか?

    それは薩摩国が日向国から分離してできた国だから
    つまり当初の日向国は「宮崎県+鹿児島県」だった

    日向国の前身は熊襲国
    宮崎県+鹿児島県であれば巨大勢力
    大和朝廷が「勝てないも・・」と熊襲にビビったのも納得だ

  724. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 22:04:42

    ※717
    >AD107年の倭国王帥升の朝貢も忘れないであげて
    ごめん抜けてたw

    でも倭の5王の時代って
    思いっきり中国の激動の時代なんだよ
    宋(そう、420年 – 479年)
    倭の5王朝貢 413 – 502年

    宋の建国前に朝貢し、宋に朝貢し、宋が滅亡後も朝貢している
    朝貢が途絶えるのは倭の情勢だと思う

  725. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 22:16:20

    記紀に奴国と伊都国の記述がないから邪馬台国とヤマト王権は別でしょう

  726. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/27(火) 22:25:36

    725
    はあ?

  727. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 00:40:52

    725は記紀が500年前のことも正確に記述してるという根拠のない思い込みをしてるんでしょ

  728. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 01:10:38

    >723
    まああなたがそれで納得するのは自由だけどさ
    日本書紀にも古事記にもそんなことは書いてないけどな

    少なくとも宮崎県の西都原古墳群では、古墳時代に入ると同時に大和の纒向で始まった前方後円墳を作り始まるし、しかも初期古墳のサイズは大きくても数十メートル規模で畿内の大古墳には遠く及ばない

    そこまで大きな勢力とは思わないよ

  729. 名前:開花神道 投稿日:2017/06/28(水) 06:57:43

    邪馬台国→倭国→日本
    ってのは誤りで

    (九州)邪馬台国→倭(白村江で致命傷を負い衰退)
    (畿内)大和朝廷→日本
    ってのが正解だと思うけどね。

    明治維新で権力を握ったのが九州の人達だったから、明治期以降は九州人のルーツである「倭」が権威付けがなされ続けて来た訳だけど、実際の所は大和・日本と邪馬台国・倭国はまるっきり別物だわな。

    「邪馬」や「倭」って文字自体が良い意味を持たない訳だし、それを我が民族のルーツであるって誇る事自体が、何処か歪んでいるとは思わないかい?

  730. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 08:42:25

    >729
    そう思うのなら九州王朝が存在した証拠をせめて1つは示したらどうだ?
    何も証拠がなく言い張ってるのはただの妄想ストーリーだ

  731. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 09:26:32

    邪馬台国は卑弥呼の為に用意された都で台与の後は放棄された
    ずっと続いていた纒向遺跡とは別であり倭と日本は別物

  732. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 09:55:40

    >729
    >「邪馬」や「倭」って文字自体が良い意味を持たない訳だし
    だから、雅ならざるを厭うて、国号を日本にしたんじゃないの?(倭國自惡其名不雅 改爲日本)
    読みのヤマトはもともと大和言葉だし、大倭も大和に直したし

    民族のルーツはそのままに誇って、卑字が使われているのは中華思想ってのはしょうがねえなって思ってればいいだろ?

  733. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 10:35:07

    ※731
    そんなこと何処に書かれてるの?
    隋の時代にまで
    都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
    って書かれてるんだから諦めろw

  734. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 10:42:27

    畿内に倭国大乱の跡はないんだよな
    中国側が倭と認識してたのは畿内ではない

  735. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 10:58:25

    ※734
    テンプレ4
    九州説「大乱のあとがある!つまり九州」
    畿内説「邪馬台国大乱ではなく倭国大乱。邪馬台国のそばで起こってる必要はない」
    九州説「ぐぬぬ」

  736. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 11:05:09

    奴国に始まった倭からの朝貢がヤマト王権にはないことが倭と日本が違う王朝だという証

  737. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 11:15:28

    ※736
    『日本書紀』巻九
    神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」

  738. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 11:16:06

    ※735
    それだと
    大乱有り=倭国&邪馬台国
    大乱無し=大和朝廷(紀元前660年〜)
    故に
    倭国=邪馬台国≠大和朝廷
    だよね…。

  739. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 11:18:39

    729
    白村江を起こしたのは大和朝廷の天智天皇

    九州の地方領主が大和を飛び越えてどうやって、関東の毛野君を半島に派遣できるんだよw

  740. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 11:22:47

    ※738
    四道将軍やヤマトタケルが大乱起こしてる大和朝廷=倭国=邪馬台国

  741. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:00:25

    740
    それだとその後卑弥呼が共立されることになる
    新説だな

  742. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:11:07

    ※740
    四道将軍はヤマト王権が派遣したんだよ
    その時点でヤマト王権があるから違う

  743. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:12:10

    ※737
    三韓征伐時の朝貢の記録は中国側だとどれになるの?

  744. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:20:31

    >724
    >倭の5王朝貢 413 – 502年
    >宋の建国前に朝貢し、宋に朝貢し、宋が滅亡後も朝貢している

    たぶんここ、思い違いしてると思うよ
    中国の史書の倭の五王の遣使記事は、478年までは宋書で、
    479 南斉高帝 建元元年 武進号鎮東大将軍(南斉書)
    502 梁武帝 天監元年 武進号征東(大)将軍(梁書)
    の最後の2件は、南斉書と梁書でしかも斉と梁の初代皇帝の元年の「進号」記事
    つまり、この最後の2件は新しい王朝が、前王朝の冊封国をそのまま認めて、新王朝のご祝儀で位を上げたという記事だ
    この2件は、大陸側がある意味勝手に除正しただけで、倭からの遣使はないとするのが通説だよ

    ちなみに、倭王武は大和朝廷の雄略天皇を当てるのが通説 
    稲荷山古墳の鉄剣、江田船山古墳の鉄剣の金石文から九州から関東までが、その勢力圏(支配下とはあえて言わないが)に入っていたのも確実視されてる
    当然大和朝廷が倭国の代表であり、日本ではないのも当たり前

    九州派だと、ここから否定しないといけないから大変だなと思う

  745. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:37:05

    どの正史も倭奴国だけやたら正確

  746. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 12:43:10

    「尊」爲號 居築紫城
    更以「天皇」爲號 徙治大和州

    奴国を支配した邪馬台国は九州にあり、東征して日本になったことになる
    これなら倭と日本は同じかな

  747. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:04:00

    私の勝手年代感だと倭国大乱の頃は欠史八代の頃なので、記紀ともに記録がないのは特に不審はないよ
    倭国大乱も含め、系譜以外の全ての記事がないんだからしょうがない
    卑弥呼の死後前後の死者1000人超の乱(更相誅殺當時殺千餘人)は、崇神紀の武埴安彦命の乱か、垂仁紀の狭穂彦王の乱でいいと思う
    この辺り(崇神、垂仁)は纏向に宮都を置いてるし、大王位継承の争いだし時代的にもぴったりだろう
    上で話題に出ていた四道将軍の派遣のうちの東海道の武渟川別命の仕事が、狗奴国との争いでいいんじゃないかな
    四道将軍の話は軍事的な征伐の話じゃなくて、新しく始まった前方後円墳祭祀の紹介だったんじゃないかという気もする 実際、四道将軍の派遣地から前方後円墳(前方後方墳)が広がっているし
    一方で、武渟川別命を狗奴国との争いにあてるのは、四道将軍の中でただ一人「武」の字を付されているから 書紀の「武」古事記の「建」は武人として功績のあった者への接頭辞だから

    卑弥呼に倭迹迹日百襲媛をあてれば、記紀と魏志倭人伝の解釈はそれほど齟齬なく対応付けられるよ

  748. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:10:09

    >746
    >奴国を支配した邪馬台国は九州にあり、東征して日本になったことになる
    苦労してるみたいだけど

    奴国を(畿内から)支配した邪馬台国は(×九州)ヤマトの国にあり、東征は邪馬台国の時点で過去の話で、その後ずっと倭(ヤマト)国として存続し、7世紀になって国号を日本に改めた

    これが一番素直な解釈だよ

    邪馬台国が九州で奴国の近くにあったなら、一大率なんか置かずに直接支配した方が早いだろう
    その辺も、九州説の合理的じゃないところだよな

  749. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:20:14

    朝貢は始めてと書かれている
    日本側も中国側もそこは間違いなく一致している

  750. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:21:10

    日本が倭を征服しましたと自己申告してるから俺は天皇家の記録を信じる

  751. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:30:12

    九州派の人が盛んに、記紀に邪馬台国がない、倭国大乱がない、卑弥呼がないって言うけど、まともに記載されているのは崇神天皇の頃からで、それがちょうど纏向遺跡が作られる頃で古墳時代が始まる頃

    その前は欠史八代で、系譜記事以外は載ってない
    実際、記録もあまり残っていなかったのだと思う
    だから邪馬台国も倭国大乱も卑弥呼も載っていないのもある意味当然だと思う

    欠史八代の頃の記録は「大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也」式の、なになにのミコト、どこどこの宮に坐し、天の下しらしめし時、なになにがあった的なざっくりした記録(記憶)しかなかったのだたろう

    卑弥呼に擬されることの多い倭迹迹日百襲媛も欠史八代の6人目、考霊天皇の皇女で崇神天皇紀以外の記録がほぼ残っていない 
    それでいて、一皇女でありながら陵墓造営記事がある辺り、彼女が特別な人物だったことを示しているともいえる

  752. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 13:59:21

    >746
    >「尊」爲號 居築紫城
    >更以「天皇」爲號 徙治大和州

    もうちょっときちんと引用しようや
    初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二丗、皆以尊爲號、居筑紫城。彦瀲子神武立。更以天皇爲號。徙治大和州
    アメノミナカヌシから始まって、ヒコナギサが日向三代のウガヤフキアエズで神武の父、そして神武が東征してヤマトに王朝を開いたっていう、記紀の神代の抜書きだよ
    大和朝廷の歴史を裏書してるというか、そのまま認めてるだけ

  753. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:00:29

    九州と畿内だけで何時も争うけど、その時代には明らかに巨大な国家である「出雲」「吉備」がある。
    これらはむしろ意図的に消されている気がするので消されていると言う事は前代の覇者である可能性がある。

    例えば吉備に関して言えば大和朝廷から姫が嫁ぎ明らかに吉備国に対し機嫌を取っている。畿内で当時最大規模の古墳が作られてるのと同時期にほぼ同規模の古墳も作られてるし。楯築遺跡(古墳)、造山古墳、作山古墳をどう解釈するかが問題。楯築~造山の時代はその時の最大規模である。最終的に古代吉備は国内の内乱によって大和に制圧されたとしても東征とはいったいどの程度を表しているのか。九州から畿内の場合は出雲と吉備は破れてはいない。逆にしても吉備があるうちは九州へはいけない。まあ孝霊天皇(128年も生きましたw)が平定とはあるがその場合造山の規模が年代的にうーんってなる。吉備なんてその場合神武東征と孝霊天皇に2度も平定されてるのに馬鹿でかい遺跡や古墳作れちゃってる訳で。

    神武東征の話も時期がおかしくなるしこの場合そもそも神武東征なんてなかった事になる。もしくは高島宮なんてただ滞在しただけ。戦闘なんてしていないはず。
    120年以上生きてる天皇多すぎだし日本書紀なんて途中まで70歳とかでも怪しいわ。途中から急に50も生きれずまともっぽい死に方になってるし。別の政権の王の伝説とかを後から全部名前変えて記してるだけな気がする。

  754. 名前:752 投稿日:2017/06/28(水) 14:25:53

    ちなみに吉備津神社には大吉備津彦命(孝霊天皇の子)は281歳で亡くなったとある。作られた時点から絶対的にありえない歴史が正史として書かれている訳だ。
    では同じく孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命はどうだろうか。実際には卑弥呼とは時代が事なると俺は思っているがこれも卑弥呼として成り代わった歴史に書き換えられていると考えるのが普通ではないのだろうか。ここまで神社建立などから歴史が書き換えられているのは何故なんだろうね?

    8世紀の資料によれば出雲国や近江国や紀伊国や大和国にも吉備部など「吉備」を冠する地名が西日本の広範囲に存在するのは何を意味しているのだろうかね。

  755. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:28:48

    崇神天皇の称号である『御肇國天皇』は「ハツクニシラススメラミコト」と読める。これは「初めて国を治めた天皇」であり、崇神天皇が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武天皇とそれに続く八代の系譜が付け加えられた

  756. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:32:01

    埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人・大彦命と考えられる。大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、鉄剣製作時(471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。

  757. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:34:32

    陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。だが第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。その上、古墳時代前~中期頃に築造された可能性のある古墳もなければ、弥生時代の墳丘墓と見られるものもない

  758. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:36:54

    ※751
    違うだろ
    卑弥呼の墓を箸墓にしたり纏向遺跡を邪馬台国にするのならそれらの記述がないということがおかしいのであって
    箸墓を3世紀中ごろにもってきたいなら纏向遺跡、箸墓古墳、崇神天皇が同時代の人になるのに
    詳しい事象が記述されている崇神天皇記に一書に曰くの1つも書かれていない

  759. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:37:43

    初代神武天皇から欠史八代までの系譜を10代の崇神天皇の一族とは別の王朝のものと考え、その王朝の所在地を葛城の地に比定する説が現在の主流となっている。この葛城王朝は奈良盆地周辺に起源を有し、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族である崇神天皇に併合されたと考える。この葛城王朝説は邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国であり、それが畿内に東遷したとする説である。

  760. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:39:53

    プレ大和王権説
    古くは賀茂真淵の説にまで遡り、崇神天皇が四道将軍の派遣等遠国への支配を固めていったのに対しそれ以前の天皇は畿内周辺のみが王権の届く範囲であったとする説。欠史八代の多くの大王は近隣の磯城県主と婚姻を結んでおり、后妃の数も孝安天皇以前は異伝があるにせよ基本的に一名であるあることなど、畿内の一族長に過ぎなかったとも考えられる。また、四道将軍は吉備津彦命が孝霊天皇の後裔、大彦命と建沼河別命が孝元天皇の後裔、彦坐王が開化天皇の後裔であるため欠史八代と崇神天皇に断絶を考えない説もある。

  761. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:40:31

    >749
    >朝貢は始めてと書かれている

    卑弥呼の遣使も梁書では
    至魏景初三年、公孫淵誅後、卑彌呼「始」遣使朝貢魏、以爲親魏王。(梁書 倭条)
    って書かれてるよ
    西暦57年の倭奴国王や、107年の帥升の朝貢が前にあるのに

  762. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:41:33

    ※751
    なおさら記述がないとおかしいだろ

  763. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:43:46

    761
    奴国とは別の国が来たって思ったんじゃない?

  764. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:44:01

    ※757
    崇神天皇なんて119年生きちゃってるし存在している訳がない。
    考古学の年代観にさほど矛盾してなく大規模な古墳があるとして、仁徳天皇なんて143歳も生きちゃってる訳です。

    古墳はある。実際に誰か物凄い権勢を誇った人物がいて眠っているのだろう。でもそれは本当に仁徳天皇なんだろうか?この時代に人が140年以上も生きれたならどんな医学なのだろう?

    仁徳天皇に代わる誰かはいたかもしれない。でもそれは天皇家ではなく別の政権の可能性がある。
    ↑これがタブーだからまともに検証できないのでは?

  765. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:55:59

    崇神天皇は常陸風土記にも初國所知美麻貴天皇とある
    四道将軍を派遣して東北以外の本州を平定した初の天皇なのではないだろうか

  766. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 14:59:17

    『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これにより318年(または258年)没と推測できる
    258年ならば邪馬台国の時代であり神功皇后が卑弥呼である可能性はなくなる

  767. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:08:40

    箸墓古墳は日本書紀、古事記』およびその原史料の帝紀、旧辞の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとされる、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来する。

  768. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:09:21

    >758
    >纏向遺跡を邪馬台国にするのならそれらの記述がないということがおかしい
    おかしいと思うのは758であって、記紀の編者は纏向がヤマト国(邪馬台国)であるのを分かっているから、殊更に書かないだけ

    卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命でいいんじゃない? 
    彼女は神婚で、人間の夫婿なく子供もいないよ
    弟が大王(考元天皇)で政治を執っている
    そして記述上はただの皇女なのに、その「陵墓」の造営記事がある
    陵は、大王の墓を意味するからね(天武即位前紀に「箸陵」とある)

    欠史八代の頃+記紀の編集方針で朝貢の記述がないだけ
    倭王武が雄略天皇のことだというのは、九州説の人以外はほぼ疑わないけど、雄略の宋への朝貢記事も記紀にないだろ?

    邪馬台国の記述って、何があれば満足するの?

  769. 名前:開花神道 投稿日:2017/06/28(水) 15:12:06

    最初は小さかった国が、後に強大化して、弱体化したかつての宗主国を飲み込むなんてのはよくある話だわな。

    >744
    否定も何も、大陸や半島に近い九州倭国が、倭の五王の時代には広大な勢力を誇っていたと言う程度の事でしょ。

    >739
    白村江の戦いを仕掛けたのは
    大和朝廷「の」天智天皇ではなくて、九州倭国の天子薩夜麻だわな。

    そもそも、高句麗や百済さえ葬り去った巨大帝国唐が、大戦の元凶とも言える様な存在をケジメもつけずに野放しにしとくなんて、普通に考えてあり得んだろ。

    それに、天智天皇の 「天智」は、殷最後の紂王が愛した「天智玉」に由来するのだろうし、天武天皇の「天武」は、「天は武王を立てて悪しき紂王を滅ぼした」に由来するものだよね。

    「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものであろうし、畿内大和朝廷・天皇天武(真人ってのも中華と言うか唐臭い)の背後には、唐の関係者(藤原氏等)が大勢居たのはほぼ間違い無いだろうね。

    唐は、大枚叩いて日本を征服支配する道よりも、倭人や日本人の自尊心を傷つける事なく政治・宗教・経済の頂点だけを抑える事で日本を裏側から支配する体制を構築したんだわな。

    ちなみに、「白紙に戻そう遣唐使」で894年の出来事が重大事とされてるのも、それだけ日本国にとって、唐を切り捨てるのが一大転機だったのだろう。

    菅原道真が最終的に藤原氏に陥れられたのも、当てつけのように太宰府に左遷させられたのも、道真自身が左遷を死ぬまでクヨクヨと嘆き続けたのも、唐と倭の歴史的な経緯があったからだよね^_^

  770. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:19:17

    768
    つまり記紀には嘘や誇張だけ書いて真実は皆が知っているからあえて書かないということか
    神武天皇も東征も四道将軍もなかったのかね?
    それとも邪馬台国だけ皆が知っているとしてピンポイントで書かないのかね?
    それでも神功皇后に少し混ぜたのかね?
    適当すぎないか?

  771. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:23:30

    大王家も卑弥呼の血族が偉大なるご先祖様ならちゃんと記述しとけよ
    せめてどこからどこまで支配しましたくらいは書けるだろう

  772. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:25:51

    卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命ならきっちり卑弥呼であったと書くと思うけどね。大陸まで響き渡る程の名前であるのに。
    少なくても6世紀以前の話は物語。例え他の風土記に2世紀とかの記述があろうがそれが既に編纂された時代が7世紀とかなわけで記述自体を疑うべきだろう。
    別の王朝がその時に書いた(中国など)ものはその時の政権が朝貢してきた人物に聞いて書いてるからある程度正しいだろう。卑弥呼や邪馬台国は日本にまともな記述がない時点で大和朝廷によって消されてると考えるべきだと思うんだがね。欠史十代までですら怪しいわ。

  773. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:26:42

    記紀の編纂者が曹魏と北魏を勘違いから神功皇后を卑弥呼にした

  774. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:33:43

    ※768
    要するに畿内だけの小さな勢力が倭の本拠地九州から来ましたという物語を作ったのが記紀の発端だというのが貴方の主張なのですね、よく分かりました

  775. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:36:08

    >768
    肝心の争いを収めて王に共立されたエピソードを省く意味はあるのですか

  776. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:38:53

    ※741
    その後神功皇后が即位する
    完全に一致してる

    ※742
    何言ってるのかよくわからん
    大和朝廷=ヤマト王権

  777. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:40:09

    倭と日本が並列されてる時期があっても不思議は無いだろ?
    一時的に半島に任倭とかがあった時代もあるんだから

  778. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:47:03

    >776
    年代間違えてるだけのようだな

  779. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:48:11

    ※743
    魏志倭人伝

    「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹」

  780. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:49:03

    777
    証拠がない

  781. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:50:17

    四道将軍は大乱を起こしていない

  782. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 15:52:45

    神功皇后が卑弥呼なら卑弥呼が三韓征伐したことになる
    墓の中から朝鮮半島南部を攻撃できるとは流石天皇家一族

  783. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:03:49

    百済や新羅には何度も倭人が攻めて来て倭に朝貢した話が載ってる
    神功皇后の三韓征伐は七支刀を見ても史実として良い
    何でわざわざ時代の違う神功皇后を卑弥呼にしたんだろう
    他に適当な人物を創れば良かったのに

  784. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:04:19

    >764、766
    >崇神天皇なんて119年生きちゃってるし存在している訳がない
    >『古事記』は崇神の没年を干支により戊寅年と記載している

    二個一の返事で申し訳ないが、要するに宝算(寿命)生没年の干支関係は信頼できないってことだよ

    日本書紀の暦法が、雄略から元嘉暦で書かれていてその頃から暦のついた記録が残っていたと考えられている。そして持統紀の途中から新たに伝わった新しい暦法である儀鳳暦で書かれている。ここまでは分かりやすい
    それなのに、雄略より前が新しい暦法である儀鳳暦で書かれていることが確認されている(正確には允恭・安康の頃は、二つの暦が一致するのでどちらとも言えない)
    つまり、雄略より前の暦は「儀鳳暦が伝わった持統朝以降に新たに作られた(計算された)」ものであることが確実
    となると、崇神天皇の宝算とか没年干支とかは、記紀の編者の想定で作られたものということになる
    そして神武の即位年代を古くしようとした&即位年を革命の年・辛酉に合わせたかったのは、多くの人が認めるところ
    欠史八代は神武の即位年代を古くするための架空の存在とする見解が多いが、その一方で、ただ神武の即位年代を古くするだけなら架空の天皇を量産すれば事足りるのに、そうしていないのは、各天皇(大王)の存在に関しては記紀の編者が信じるに足る伝承があったと考える者も多い(通説とはいわないが)

    ということも踏まえて、歴代の天皇の宝算・没年干支は参考程度であり、それだけで各天皇の存在は否定できないし、没年干支もそのままでは使えないというのが、大方の見方
    例えば、実在をほぼ誰も疑わない雄略天皇の宝算が、古事記では124歳になるし、古事記と日本書紀では同じ出来事の干支が一致しない。雄略天皇の没年干支が、古事記では「己巳」日本書紀では「己未」

    これを踏まえて、日本書紀の紀年を解読し、復元しようという試みを多くの人が行っていて、倉西裕子さんとか、高城修三さんとかの試算は読んでいて面白いと思う

  785. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:06:44

    邪馬台国とヤマト王権が別なことは明らか
    問題はその後邪馬台国がどうなったのか
    そもそも単独の国だったのか?
    それとも単なる都の場所の名前が邪馬台だったのか?

  786. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:10:27

    782
    神功皇后=卑弥呼+台与+α

    文字も知らなかった土人が、文字を覚えて、歴史を書き記す必要性の自覚に芽生えて、何百年前のことをボケかけたオジイやオバアに聞いて書いただけなんだから大目に見ろよ。
    どこだって最初はそんなもんだべ。

  787. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:11:57

    ※785
    別だという根拠は?

  788. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:26:02

    邪馬台国がヤマト王権であり、卑弥呼を神功皇后にした場合の問題は年代のずれではなく神功皇后が初代天皇、つまりヤマト王権の初代王になってしまう
    神武天皇も崇神天皇も神話上の人物になる
    これは記紀と矛盾する
    邪馬台国とヤマト王権が別勢力なら記紀と正史は矛盾しない

  789. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:29:02

    >神功皇后が初代天皇、つまりヤマト王権の初代王になってしまう

    why?
    論理的飛躍が凄すぎて全然ついていけない

  790. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:39:05

    >774
    >要するに畿内だけの小さな勢力が倭の本拠地九州から来ましたという物語を作ったのが記紀の発端だ
    >というのが貴方の主張なのですね

    その理解で合ってるよ
    神武の頃は畿内の一部だけの小さな勢力だった
    神武の名前はイワレビコで、磐余の王であると明記されている

    それが、760のいう「プレ大和王権説」の時代に成長して、その頃かその後に吉備(墳丘の段築成、特殊器台→円筒埴輪)や出雲(墳丘への葺き石)と協力・共立して卑弥呼を王とし、纏向遺跡を作る

    この時代が邪馬台国の頃から古墳時代に入る頃で、各地の墓制を統合した形で前方後円墳を作り、それを広める形で四道将軍が派遣され、倭国としての統合が成ることになる
    そして、纏向が成長する頃にここに宮都を置いたのが崇神天皇の時代で、ここから日本の歴史時代が始まる
    だから、その前の時代はある意味「先史時代」で、神話的なエピソード以外は残っていない

    四道将軍は、日本書紀では崇神天皇紀にまとめられているけれど、系譜的には四世代に渡っていて、古事記ではそれぞれの別々の記事になっている
    世代順に並べると
    吉備津彦-西道(吉備)
    大彦  -北陸(越)
    武渟川別-東海(狗奴国?)
    丹波道主-丹波
    開化天皇からの続柄で言うと
    吉備津彦 伯父
    大彦   兄弟
    武渟川別 甥
    丹波道主 孫 
    であり、武渟川別が崇神と同世代でいとこに当たる

    大彦と武渟川別は親子だが、記紀のとおり同時派遣でいいと思う
    そしてこの武渟川別の前方後円墳祭祀の布教に、東海が抵抗したのが狗奴国との争いであり、その後の武埴安彦の乱が卑弥呼死後の乱で問題ないと思う

  791. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 16:56:38

    ※784
    雄略天皇はほぼ疑われないと言うけれど26代からっていう人たちは疑っているはずでは?
    暦法が雄略天皇の時から変わっているからとか万葉集にも出てくるからとかでの考察ならそもそも万葉集自体が8世紀前後の書物。

    >架空の天皇を
    量産してないのはいなかったと出来るけど、雄略天皇自体が架空かもしれない。勿論それに代わる人物はいたかもしれない(まったく別の血筋で)天智、天武以前は怪しすぎる。
    古事記や日本書紀の生没年が少なくても明らかに間違えている状態で100歳以上の天皇となれば実際にはそこには3世代程度いてもおかしくない。となると実際には何十代も他の天皇がいたはずだがこれ自体は正史とされる日本書紀に書かれていないなら古事記・日本書紀自体が制作年に近いものだけ少しだけ真実を混ぜた小説である可能性が否定できない。
    即位年代を古くしようとしたとしても「いたはず」の他の天皇は脈々と受け継がれたはずの時の最高権力者なのに何十人も消されてる事になる。となれば存在自体が架空とする方がしっくり来ませんか?

    邪馬台国(邪馬壱)の話もそうだけど、これ言っちゃうとあれだけど・・・、
    事実あるもの(古墳、遺跡)の中から発見された書物ならともかく、7~8世紀に書かれた書物を真実として討論した所で答えは出ないと思うんだがね。神社などでさえ建立年を考えればその建立した時の政権が作ったストーリーの歴史を元に資料がある。何百歳生きたとか普通に書いてるのだから。
    むしろ有力な九州や畿内以外を疑うべきではないかと思う。九州や畿内ならとっくに卑弥呼の墓とか邪馬台国とかいう記載が古墳にあると思うんだけどね。権勢を誇る為に作る古墳で(灌漑ともいわれるが)はっきり明記しないとか不思議でしょうがない。良くわからない古墳や遺跡こそアタリではないかと思う。

  792. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:03:51

    つまりヤマト王権と倭は別なのですね、理解しました

  793. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:08:07

    >790
    河内・大和連合(笑)で邪馬台国というよりよっぽど説得力があるね
    倭国大乱を治めるための共立なら奴国(時代の盟主)、伊都国(国際都市)、後漢が共立を打診した方が可能性が高いのでは?
    伊都国をどこに比定しているかわからないけれど奴国や後漢に配慮もなく武力で出雲、吉備、畿内連合が治めたとは考えにくい

  794. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:25:20

    別だという根拠はいつまでたっても出てこない

  795. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:27:23

    戦国時代とかでも源氏の子孫だとか謳って違うのとかも多いし別の英雄を何百年後に実は子孫だわとか謳っている勢力が政権をとれば事実として真実を知らない人は歌に書くこともあるだろう。

    しかし吉備は神武天皇に神武東征され、崇神天皇に平定され、雄略天皇にも吉備の乱で平定され常に何故か大和に匹敵する地方有力国家政権があるね。
    実際に平定できたのは何時なのだろうか。7世紀末に備前・備中・備後、8世紀に美作と4つに分割されてるから実際にはここなのかね。

  796. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:30:15

    >793
    倭国大乱のイメージが違うんだと思う
    倭国大乱といっても、九州と畿内が大戦争をするっていうのは兵站、補給を考えたら無理だよ

    「遠交近攻」「隣国というものは一番仲が悪いのが当然」という言葉もあるように、倭国大乱は基本的に地域紛争がいろんなところで起きている、というのが正しいのだと思う
    まあ、九州で石の鏃で殺されている人がいるし、畿内から人が行っていないとは言えないけれど、九州で石の鏃が使われていないというのも証明不能だし、分からないといえば分からないけれど

    で、河内・大和連合というのは、倭国の大乱を収めたのではなく、畿内の地域紛争を収めた権力だよ
    そこに、吉備と出雲が乗れば広域連合の共立はできる

    そして、この共立の核が河内・大和連合で、邪馬台国で問題ないだろう?
    そこに無理に北部九州とか、後漢とか絡める必要はないし
    特に後漢は107年の帥升の朝貢のあと、ずっと疎遠なんだし

  797. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:31:58

    邪馬台国の時代には奴国なんてもう盟主でもなんでもないでしょ

    邪馬台国 7万戸
    投馬国 5万戸
    奴国 2万戸
    末盧国 4千戸
    一大国 1千戸
    伊都国 1千戸

  798. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 17:54:55

    ※791
    >事実あるもの(古墳、遺跡)の中から発見された書物ならともかく、7~8世紀に書かれた書物を真実として討論した所で答えは出ないと思うんだがね。神社などでさえ建立年を考えればその建立した時の政権が作ったストーリーの歴史を元に資料がある。何百歳生きたとか普通に書いてるのだから。

    >むしろ有力な九州や畿内以外を疑うべきではないかと思う。九州や畿内ならとっくに卑弥呼の墓とか邪馬台国とかいう記載が古墳にあると思うんだけどね。権勢を誇る為に作る古墳で(灌漑ともいわれるが)はっきり明記しないとか不思議でしょうがない。

    矛盾してない?
    7世紀に書かれた書物なんて真実かどうかわからない
    ↑↓
    はっきり記載されてるはずだ

  799. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 18:00:10

    テンプレ7
    九州説「邪馬台国が畿内にあれば大和朝廷がその歴史をちゃんと書いてたはずだ!だから九州」
    畿内説「文字を知らなかった連中が、なぜ口伝で何百年もの歴史を完璧に伝えることが出来てたはずだと思えるの?」
    九州説「ぐぬぬ」

  800. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 18:02:37

    >791
    >雄略天皇はほぼ疑われないと言うけれど26代からっていう人たちは疑っているはずでは?
    >天智、天武以前は怪しすぎる

    これを疑うのは、九州説の人だけだよ
    そして、九州説で倭と日本は別って言い出すと、結局倭の五王は九州王朝って話になってしまう
    769の「九州倭国の天子薩夜麻」とかね

    畿内、飛鳥の発掘から飛鳥時代の日本書紀の記述は正しいことが、明らかになってきている
    吉備池廃寺が舒明天皇の百済大寺の跡であることは確実視されているし、皇極・斉明の宮跡も確認されている
    天智・天武の前代を疑う理由は「九州説を信じる」以外にはもう無い状態だよ

  801. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 18:12:16

    >791
    >古事記や日本書紀の生没年が少なくても明らかに間違えている状態で100歳以上の天皇となれば実際にはそこには3世代程度いてもおかしくない。

    いや、普通は神武の即位・紀元前660年の方をおかしいとして、間に3世代の記録に残らない天皇を考えるんじゃなくて、神武の即位をもっと遅くするんだよ
    あと、欠史八代の父子相続も疑う人が多い 兄弟相続を考えると神武の即位はさらに遅くなる

  802. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 18:41:49

    古代は末子相続もあるから父子相続はおかしいことではない
    しかし神武天皇を昔にするために間に何人か天皇を挟んだ説は説得力がある

  803. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 19:19:28

    >802
    間に挟むんだったら、100歳超にするより人数増やしたほうが楽でしょって話

    先代舊事本紀等の古系譜の研究者は、皇統と他の豪族との世代対応がきっちり取れているため、欠史八代の実在を認め、神武から崇神まで5世代と考えるのが適当としているそうな
    崇神天皇で第10代だから途中4回の兄弟相続があったことになる
    まあ、信憑性が高い話ではないけれど、そういう研究をしている人もいるってことで

  804. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 20:14:55

    ※800
    自分は九州説ではないけれど普通に雄略天皇疑っているんだが?
    飛鳥時代が正しいというけれど勿論新しくなるにつれて真実は多くなるだろう。
    ようはこの辺りから、もっと言えば推古天皇と聖徳太子の時代から大きく歴史が書き換えられてる可能性がある。多くが6世紀より前は疑わしいというのはそう言う事。
    有名な神社の書物に統治者が300年近く生きたなんて書かれてたりする。そういった多くが飛鳥以降に建立されているというのは事実を塗り替えてるからともとれる。
    普通は神武の即位をもっと後にするというけれど、長い歴史がある(神である)としたいから古くして結果矛盾がでる。
    吉備池廃寺にしても6世紀中期、名前の由来自体がそこの地名に由来してたはずで「吉備」百済大寺跡にした所で温羅は百済の皇子と言われてたりする。天皇が発願したのが確かとしても何らかの勢力の影響下にあったのかもしれない。ずっと大和が支配してましたとするから何百歳も生きた天皇が出てきたりするんでないのかな。
    6世紀、7世紀、8世紀に書かれてるもので特に何百年も古い3,4世紀の書かれてる事なんて推古天皇の話は確かだからこれも正しいなんてのは暴論。
    四道将軍にしても実際はそんなものは存在せず、4人の王がいただけかもしれない。それぞれ有力政権がそこにあり実際は倒せてないが数百年後政権をとってから実は平定してましたーとね。
    だからこそそういった将軍もなぜか100年以上生きてたりするわけで。天皇の生没がおかしいだけでなくそれらの子孫も(天皇になってない)テロメア(細胞)の科学的観点から行ってもあり得ない。

  805. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 20:29:43

    >804
    791と同じ人? 別の人? どっちでもいいけど

    >推古天皇の話は確かだからこれも正しいなんてのは暴論。
    この話は791の「天智、天武以前は怪しすぎる」に対して「その前代(親世代)の舒明、皇極(斉明)の頃は、日本書紀に十分な信憑性」があって、別の人(九州王朝の人)を仮定するのは無理すぎるって話だよ

  806. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 20:35:03

    >804
    >事実を塗り替えてるからともとれる
    無理してそんなとり方しなくても、ああ神様だし話を盛ってるんだな、で済む話だろ

    まあ、雄略天皇の宝算が、古事記124歳、書紀62歳で、ちょうど倍違うから、古代の暦は春秋暦って話が出てくるんだけどな
    100歳超でも記紀の人物で2で割って長すぎる寿命の人は実はいない
    長寿にするなら無限に長くしてもよさそうなのに、そうはなっていない

    吉備の神社の祭神の話は、元ネタを知らないからコメントしないけど、まあ、持ってるだけだろうなとは思う 正史じゃないし

  807. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 21:28:25

    崇神天皇まで怪しくなるとますます邪馬台国とヤマト王権が離れていってしまう
    神武天皇は東征自体を1人の人物に託し、崇神天皇が纒向遺跡を都にした説を推したい
    そして四道将軍が平定したところが空白の4世紀のヤマト王権支配地域とする説を唱える
    さらに仲哀天皇と神功皇后が九州と朝鮮半島南部を支配しのちの飛鳥時代へと繋がると考える
    その後は聖徳太子の時代に遣隋使を行なったのではないか

  808. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 21:57:58

    天皇家がずっと支配してたかどうかはわからないにしても、
    畿内内部の争いでしょ。考古学的な証拠から考えると。

  809. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 22:09:35

    コメントで倭でタケルだから熊襲も日本とか書いてあったけど
    古事記だと梟師だな
    また騙されるところだった

  810. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 22:22:07

    ※768
    異聞伝聞が一書に曰くと何度も何度も書かれている日本書紀に一書に曰くの1つも書かれていないからな
    「魏志に曰く古の女王卑弥呼なり」とか書かれているのが普通

    邪馬台国が畿内の崇神期の王朝だとわかってるなら書けばいいだけ、むしろ書かない意味がわからない
    あれだけ一書に曰く一書に曰く書いてる日本書紀なのに

  811. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 23:07:46

    畿内説の人に聞きたいのだが
    57年の漢委奴国王と
    107年の倭国王の帥升等も畿内の大和朝廷と考えてるのだろうか?

    だとすれば考古学的に問題があるし
    そうでないとすれば九州王朝が邪馬台国前に実在したことになる

  812. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 23:08:21

    新説
    倭の五王は朝鮮の騙りだった
    倭に朝貢していた朝鮮諸国は倭の威を借りて中国に朝貢していた
    だから記紀には倭の五王の記述がない
    中国風の名前も朝鮮が騙ったからに他ならない

  813. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 23:27:06

    パヨクって左派の
    バカ翼ってこと?

  814. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/28(水) 23:39:13

    ※810
    日本書紀は単純に魏史を引用した形式
    「倭女王」が朝貢したと書いてあると出てくるだけ
    卑弥呼は出てこないし神功皇后とも書いてない
    古事記では魏すら出てこない

    応神天皇の時代には王仁が来て漢字を教えているので
    神功皇后が卑弥呼なら文字による記録がその時から残っていて当然
    倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    ところが600年の朝貢には国書を忘れるという大失態
    まさにド素人www
    朝貢の記憶が全く無いのが明白

  815. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 01:18:45

    >811
    57年の漢委奴国王 → 普通に奴国の王様
    107年の倭国王の帥升等 → 奴国あるいは伊都国の王様

    >そうでないとすれば九州王朝が邪馬台国前に実在したことになる
    複数のローカル勢力が邪馬台国前にあっただけ
    地の利を活かして奴国あるいは伊都国が朝貢した

  816. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 10:39:53

    ※814
    >神功皇后が卑弥呼なら文字による記録がその時から残っていて当然
    >倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    実際どこにも残ってないんだから仕方ないね。
    全部の記録を抹消することは不可能だろう。

    >ところが600年の朝貢には国書を忘れるという大失態
    >まさにド素人www
    >朝貢の記憶が全く無いのが明白

    ちょっと強めに出てみるトライ&エラーをしただけだろう。
    想定内だったから軽い処罰だけですぐ許された。外交に熟達してるともいえる。

  817. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 10:41:01

    ※810
    テンプレ7
    九州説「邪馬台国が畿内にあれば大和朝廷がその歴史をちゃんと書いてたはずだ!だから九州」
    畿内説「文字を知らなかった連中が、なぜ口伝で何百年もの歴史を完璧に伝えることが出来てたはずだと思えるの?」
    九州説「ぐぬぬ」

  818. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 10:46:02

    考古学的証拠>>リアルタイムでの中国の史書>>数百年後の日本のポエム

    九州説はポエムに頼りすぎ

  819. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 10:51:42

    811
    1世紀ごろはまだ全国規模のヤマト王権が出来てないんだから当然各地にローカル勢力があった。

    多元王朝説は、それが5世紀とか7世紀まであったとかいうトンデモ論。

  820. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 10:59:27

    ※817
    頭悪すぎて趣旨が理解できてないのかな?

    文字は魏志やらなんやらという形で残ってるがな
    しかも日本書紀には魏志を引用した箇所もある
    ちなみに残ってるかどうかは別として57年の時点で書を交わしてるんだから文字は使用していた

  821. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 11:29:45

    ※820
    頭悪いのはお前だろ

    >文字は魏志やらなんやらという形で残ってるがな
    誰が中国に文字が残ってないって言ってんだよw

    >しかも日本書紀には魏志を引用した箇所もある
    数百年後の話は誰もしてないそんなもんどうでもいいわボケ

    >ちなみに残ってるかどうかは別として57年の時点で書を交わしてるんだから文字は使用していた
    残ってないのになんで使用したと言えるの?

  822. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 13:04:19

    >810
    >あれだけ一書に曰く一書に曰く書いてる日本書紀なのに

    もう少し丁寧に日本書紀を読まれたほうがよろしいかと
    日本書紀で「あるふみに曰く」が多く出てくるのは、神代紀の範囲です
    神代の神話では、いろいろな口伝があり当然異同も多いですから、それを「一書曰」として記録している訳です
    ちなみに、古事記の編纂は日本書紀には書かれていませんが、日本書紀と異なるイザナギ・イザナミの国産みの説話などでは、古事記とほぼ同内容が一書曰の形で挿入されています

    日本書紀で、全文検索をかけてみたところ、47件の「一書」がヒットしましたが、神代紀上巻に47件、神代紀下巻で16件、88%は神代です
    そして、それ以後の一書は系譜記事の后妃や皇子女の異同のみで、説話に関するものは一件もありません
    第3巻の神武天皇紀以降では、内容に関する一書は一つもありません

    要するに、官製の公式の歴史は神武天皇以降は異説なしのただ一つにまとめられている、ということです
    そして、飛鳥朝以降、日出処の天子として、大陸の冊封体制から離脱した対等王朝としての日本書紀の編集方針から、倭の五王も含め遣使は描いても朝貢は書かないという立場を貫いているということでよいのだと思います

  823. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 13:18:24

    つまり
    漢委奴国王と帥升等の倭と 日本は別種

  824. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 13:38:00

    251,360,450,457,504,514,530,584,602,615,638,683,697,725,731,792
    NEW >823

    こういう情熱はどこから来るんだろう?

  825. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 13:44:52

    ※822
    大和朝廷は過去の朝貢の歴史を消したという説だけど
    ではなぜ日本書紀では「神功皇后が朝貢した」と取れる書き方をしたのか
    これでは否定になっていない
    過去に朝貢したことを肯定しており矛盾がある

  826. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 13:47:39

    ※824
    オマエモナー
    という訳で自分の胸に手を当てようw

  827. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 14:17:31

    東に毛人の國あり、というのは関東地方北部(ケの国・上野/下野)以北/以東のことだろうから
    隋書の時代では倭=九州地方から半島南部、日本=近畿地方だと位置関係はすとんと収まる

    魏志の倭人条の記録はあくまで「魏」という短命の王朝がその成立していた時期に外交的接触を持っていた国に対するものであり、元々百余国あるけれども接触を持てているのがその1/4程度ということも明記されている
    数百年の間にいろんな変動があって魏が接触を持てなかった国がイニシアティブを握ったとしても何のおかしさもない
    邪馬台国論議する人たちはその点をあからさまに無視することが多いけれども、日本がずっと畿内あるいは南九州にあって、三世紀時点では魏と接触を持たなかった可能性はむしろ大きいのではないか

  828. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:08:36

    823
    新唐書で
    倭=日本って書いてるからそれはない

  829. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:11:33

    827
    おかしさは無いけど、証拠が無い以上とりあえず「無い」でおk

    三世紀に日本が存在した記録は一切ない

  830. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:27:34

    いやだからさ、何度も何度も言ってるけど、日本は律令国家になる頃に作った名称なんだってばさ
    それが、3世紀の畿内の小国家っていう意味がどこにあるのかと

    まあ、そうしないと九州説が死んじゃうからなのは分かってるけどw

  831. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:33:55

    >825
    だから、神功皇后は卑弥呼だ、とは書いてないんだよ
    大陸の史書には倭国の女王の朝貢が書いてあって、そのときこっちには神功皇后がいたよね、までしか書いてない
    神功皇后が朝貢したとも、もちろん書いてないし

  832. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:35:16

    まあ、日本書紀の編者は意図的に年代を古い方に引き延ばししてるから、神功皇后では時代が合わないのを百も承知で書いてるんだろうなとは思う

  833. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 15:59:38

    ※824
    歴史コンプレックスってのは思った以上に人を狂わせるものなんだよ
    立派な歴史のある地域や国の人にはわからないのさ

  834. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 16:19:27

    アメリカとか200年ちょっとぐらいの歴史だけど

  835. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 16:21:40

    日本書紀の雄略紀に
    八年春二月、遣身狹村主靑・檜隈民使博德、使於吳國
    十年秋九月乙酉朔戊子、身狹村主靑等、將吳所獻二鵝、到於筑紫

    十二年夏四月丙子朔己卯、身狹村主靑與檜隈民使博德、出使于吳
    十四年春正月丙寅朔戊寅、身狹村主靑等、共吳國使、將吳所獻手末才伎・漢織・吳織及衣縫兄媛・弟媛等、泊於住吉津
    と、身狹村主靑と檜隈民使博德が、呉に使いに出され二往復している
    十四年の帰国時は呉国の使いとともに戻ってきている

    この「呉」というのが、呉の地=南朝のことと見れば、宋書の遣使記事と対応がとれ
    それぞれ宋順帝大明四年477年と、昇明二年478年の貢献記事に当たると考えられる

    宋(呉)との往復が記されており、雄略14年の呉国の使いは、有名な「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」の冊封使だと考えられる

    朝貢したとは書いてないが、宋(呉)との通交は日本書紀にも記されている訳だ
    ただ、朝貢と書いていないから、一回目は二羽の鵝鳥を連れ帰っていて、二回目は技術者や機織の姉妹を連れ帰っていたりする

    これでも「雄略の実在は疑わしい、倭王武は九州王朝の人」というなら、対話や討論はできないなと思う

  836. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 17:02:52

    ※834
    超大国なのに、フランスやイギリスには小馬鹿にされ、英連邦のカナダには一緒にするなと言われるアメリカさん

  837. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 18:03:31

    ※821
    何でわからないの?

    >誰が中国に文字が残ってないって言ってんだよw
    文字がないから伝わってないと言うが、中国の史書が残っていてそれを引用してる箇所もある

    >数百年後の話は誰もしてないそんなもんどうでもいいわボケ
    どうでもいいなら邪馬台国論争に口を挟まないことだ

    >残ってないのになんで使用したと言えるの?
    やりとりした「書」自体は残ってないが、「文書」「詔書」「声書」を交わしたという記録は残ってるから

  838. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 18:20:06

    >837
    隋書には「無文字」唯刻木結繩と書かれているのですが、それは?

  839. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 18:22:13

    >796
    >そして、この共立の核が河内・大和連合で、邪馬台国で問題ないだろう?
    2世紀後半に纏向がつくられ始めるから邪馬台国の核は河内・大和で間違いないと思う

    >そこに無理に北部九州とか、後漢とか絡める必要はないし
    >特に後漢は107年の帥升の朝貢のあと、ずっと疎遠なんだし
    伊都国(北九州)に一大卒を置かないといけないし、107年以降も貿易は行っており魏や後漢の役人はいる
    畿内は北九州を掌握していないと大陸までいけないが軍事力で制圧した考古学的資料がない
    大陸に朝貢するという発想自体も畿内のみの勢力が思いつく理由もない
    今の資料のみで妄想すると共立邪馬台国に北九州勢が加わった方が妄想が少なくて済む

    高地性集落から見てAD50年から北九州勢が徐々に東に進出しているということの方が好きだけど現在は全く主張する人がいなくなったのが残念

  840. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 18:50:31

    >839
    >大陸に朝貢するという発想自体も畿内のみの勢力が思いつく理由もない
    >共立邪馬台国に北九州勢が加わった方が妄想が少なくて済む

    この共立が「いつ」かというのが、案外肝だと思っている
    通説だと、倭国大乱を2世紀後半において3世紀頭辺りに卑弥呼共立とするが、そこから景初3年(2年?)の遣使まで40年近くある
    九州派の人が一生懸命、庄内式土器の時代の纏向からは九州の土器は出ないって言ってるし、共立初期は吉備・出雲以東~畿内の連合で、のちに九州も参加でもよい気がする
    北部九州が参加することが遣使の契機と考えてもよいし ただ、景初3年はおそらく遼東の公孫氏の滅亡がきっかけなんだろうけど

    庄内期の纏向は小さいって九州派の人が連呼してるけど、それでもそこらの環濠集落遺跡よりよほど広いんだけどね

    >現在は全く主張する人がいなくなったのが残念
    いなくなった「理由」ってのが分かってたら教えて

  841. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:22:42

    ※838
    倭人は独自の字を持たないから一般層はそうしていたという意味
    だから漢字でやりとりしていた

    また隋書出してるけど、当時日本が送った国書の内容もしっかり残ってるがな
    「日出ずる処の天子~」
    これでもまだ漢字は使用してないというのか?

    だいたい文書やりとりしてるのに文字を使用した痕跡はないって、
    その文書は字ではなく絵でも描いてたのか?

  842. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:23:52

    ※837
    「数百年後」に書かれた日本書紀で引用したというのが、
    なぜ「邪馬台国当時」文字を使えたことになるわけ?
    頭おかしいのかお前

    >やりとりした「書」自体は残ってないが、「文書」「詔書」「声書」を交わしたという記録は残ってるから

    どれ?

  843. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:28:36

    考古学的アプローチにより邪馬台国の倭とヤマト王権の倭は別物

  844. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:32:35

    卑弥呼は揚子江流域から来た倭人集団の一員
    文字が書けても不思議ではない

  845. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:34:45

    畿内は邪馬台国の3世紀の間中も前方後円墳を造っていたなら魏志倭人伝の倭とは別の何物かでいいんじゃない?

  846. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:36:40

    ここのまでを要約すると奴国系統が倭であり、ヤマト王権は奴国の流れを継いでいないため倭と日本は別

  847. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:43:27

    ※843、※846
    また根拠出せなかったかw

    ※844
    不思議は無いが、証拠も無いので書けなかったということでオッケー

    ※845
    なんの関係があるのかわからない

  848. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:44:49

    卑弥呼が行なった占いが卜占なら文字を扱えた可能性は否定できないのではないでしょうか?

  849. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:49:36

    甲骨には朱が塗り込められ、神と交信する地位としての王の神聖性などを示す意味があったともいう

    朱は万能

    墓にも占いにも使える

    九州も中国と交易しないで同じ倭の畿内の朱を使えば良かったのに
    間に出雲と吉備と土佐があって交易できなかったのかな?
    纒向遺跡からは九州のものは土器すら出土しないから交流はなかったのかな?

  850. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:52:25

    ※848
    無いことを証明はできない
    あるというなら証拠を一つ出せばいい
    出せないなら現時点では無いということ

  851. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:53:52

    熊襲のタケルは倭とは書かれない
    きちんと区別している
    狗奴国が熊襲だとしたらずっと独立を保っていたとはすごい

  852. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 19:59:47

    ※850
    そもそも邪馬台国が見つかってないのだからその論法だと卑弥呼はいなかったになるぞ

  853. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 20:13:02

    850
    倭の五王が天皇だとの証拠もなくない?

  854. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 20:21:10

    >841
    >また隋書出してるけど、当時日本が送った国書の内容もしっかり残ってるがな

    ごめんなぁ、当然知ってるものだと思って、隋書の引用、後半部分はしょってた
    無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字

    隋書では、百済から仏教の経典が来るまで文字がなかったって言ってるんだよ
    そして遣隋使はその後だから、文字があるのは当然だよな

    ちなみに旧唐書になると 頗有文字 俗敬佛法 と仏法とあわせてすこぶる文字有とされてる

    ちなみに日本書紀では、応神天皇の頃に王仁が千字文と論語を伝え、それから漢字が使えたことになってる
    だから、雄略天皇の上表文は漢字で書かれているし、稲荷山鉄剣にも漢字の象嵌が刻まれている
    逆に言うと、日本書紀でも王仁の前には文字をつかってないことになってるんだよな

    そろそろ無理な想定は止めたら?

  855. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 20:24:35

    >851
    >熊襲のタケルは倭とは書かれない

    何か誤解してない?
    倭の読みはヤマト
    タケルと読むのは日本書紀では「武」古事記では「建」

  856. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 20:27:21

    >853
    >倭の五王が天皇だとの証拠もなくない?

    835に雄略天皇紀の遣呉使記事についてまとめてあるから読んでみて
    これだけ対応が取れてたら、違うと思う必要はないと思うよ

  857. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 21:07:35

    ※852
    候補地が複数あって絞れてないだけ
    無いとか見つかってないというのとは違う

  858. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 21:55:46

    ※842※854
    全く勉強してないのな
    魏志倭人伝ぐらいちゃんと覚えとけよ

    送「文書」賜遺之物詣女王不得差錯
    其年十二月「詔書」報倭女王曰
    倭王因使「上表」答謝詔恩
    太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉「詔書」印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使「上表」答謝詔恩

    少なくとも支配者層は漢文を使用していた
    文書を読んで品の相違がないか検める、詔書をもらう、上表文を出す
    これらは文字を知らなければ不可能

  859. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:09:14

    朝貢したことないから中国とのやりとりを単なる貿易と勘違いした日本側の記述がよく分かりますね

  860. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:13:18

    858
    文字を知らなくても、
    知ってる奴から「文書」に書いてる意味を教えてもらって倭王に伝えたり、
    倭王から言付けられたことを知ってる奴に伝えて「上表」を代書してもらったりすることはできるだろう
    はい論破

  861. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:13:48

    ※859
    なんのこと?

  862. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:23:47

    教授や古代史権威の通説だって科学的に検証された物証がなければただの一説位の価値しかない
    さらに言わせてもらえば、通説の邪馬台国の証拠の一つだって古代中国の歴史書から引用されてる時点でスレ主と教授の通説の差なんて無いに等しい、差が有るとすれば権威の肩書きだけ
    はっき言ってこのスレにもよく「通説」や「常識」なんか言ってる輩がいるが、思い出して欲しいのは20年前には縄文王国なんて存在すらしなかったって事実をさ。

  863. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:26:59

    未来永劫証拠が見つからないとは言ってないぞ。
    でも見つかるまでは「無い」のが通説。
    見つかってないのにあるというのはただの願望か妄想。

  864. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:28:01

    伊都国は下賜品をチェックして女王に送っている
    数の間違いが許されないなら目録読めたとも考えられる
    古代は面白いね

  865. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 22:54:38

    読めるやつは伊都国に居ただろう
    それがどうした

  866. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 23:05:23

    ※860
    何の根拠もなく妄想が根拠で論破とは
    つまり文字を使用してたことを認めたということだな?
    まあお前が認めようが認めまいが使用していた事実は変わらないが

  867. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 23:22:39

    其死有棺無槨 封土作冢
    やはり別だな

  868. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 23:28:40

    4世紀に日本で作られた三角縁神獣鏡に漢文で祈念文が刻まれている
    文字を書ける人間がいたことは間違いない

  869. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 23:42:50

    殷墟もトロイアも富本銭も以前は文献だけの伝説だったけど今では発掘の結果実在したと証明された
    文献に矛盾がなければいずれ証明されるだろう

  870. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/29(木) 23:47:15

    ヤマト王権はインカ帝国によく似てる

  871. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 00:49:31

    東征と邪馬台国は結びつかないと思ってたけど大和朝廷とは別なら何の不思議もない

  872. 名前:真実を語れば 投稿日:2017/06/30(金) 02:39:04

    邪馬台国は沖縄です

  873. 名前:  投稿日:2017/06/30(金) 02:46:41

    倭人と日本人の関係はテュルク系諸民族におけるトルコ人というイメージだと思ってるけど違うの?
    倭人は刺青や短髪などとある風習や文化を共有するエスニックグループを超えた人達で広範囲に拡散していた
    その一派が日本人として名乗り出た説

  874. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 04:01:18

    >862
    無知を晒して何をトンチンカンなことを言ってるんだ
    現在の通説は物証でガチガチに固まってる
    862はそういう知識もなしに、偉い学者が権威を傘に文献解釈だけで通説を主張してるのだと勝手に思い込んでる
    862がやってることは事実を歪曲して自分の認識不足をもとに学者を誹謗中傷しているだけだ

  875. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 04:20:10

    米92

    辰国とか資料が少なすぎる上、国名誤植説が未だに反論も論破もできずに有力説
    になってるようなもん議論に出しちゃダメだろ。

  876. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 07:04:50

    ※866
    根拠は、当時の文字が残ってないという圧倒的事実。

    文書や上表は文字が使えないとできないという
    お前の妄想理論に対して反例を挙げただけだぞ。

  877. 名前:開花神道 投稿日:2017/06/30(金) 07:25:20

    >874
    横槍させて貰います。

    通説は物証でガチガチ?

    現在通説とされてる説にも、正直結構な大穴が空いてたりするよね。

    現在権威と言われている学者本人に直接尋ねたら、「物証でガチガチに固まってます」なんて事は絶対に言わないと思うぞ。

    「物証でガチガチ」なんて、それこそ学ぶ心や探究心を持たない「無知な人」しか使わないんじゃないの。

  878. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 08:03:30

    ※876
    文書が文字なしで成立するならその文字なしで成立した文書を見せてくれよ

    というかレベルが低すぎてびっくりしたわ

  879. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 08:28:36

    景初四年鏡の1つとっても文字がない時代に日本で作られた文字入りの資料ということが証明できるのではないか?
    金印や漢式鏡も同様、倭国が文字を刻まれた印鑑や鏡を権威付けに使用していた

  880. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 09:56:09

    文字を知らなくても(使えなくても)図像として模写はできるんですよ
    そして三角縁神獣鏡の日本産説の根拠が、漢文としておかしいことにあるのはご存知ですよね?
    858ほかの言うことには、やはり無理がありますよ

    九州説のバイアスは強いですね

  881. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 10:26:21

    ※880
    魏は日本側に考慮して下賜品の文書を絵で書いたというのか?
    こんな面白い論ははじめて見たわ
    歴史上絵で書いた目録の例が中国にあるのかと
    鏡100枚の絵とかかいたの?
    五十斤とか単位が書いてるけどこれ文字なくして絵でどうやって表現するの?

    文書や詔書が実在してないから文字はなかたっとか言ってる奴もいるけど
    詔書の内容がそっくりそのまま残ってるからな

    「制詔 親魏倭王卑弥呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順 汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也」

    九州説とか関係なく文書、詔書を交わした記録がありその記録も残ってるのに、文字は使用していないとかどうしようもない

    三角縁神獣鏡の話でいうと文字を知らなければ韻を踏むとか踏まないとか以前に漢字を書くことすらできない
    しかも韻を踏んでいないだけで別に漢文としてはおかしくないしな(おかしいものもあるけど)

    「景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人之 位至三公 母人之 保子宜孫 寿如金石兮」

    これなども文章としては稚拙かもしれないが意味は通っている

  882. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 11:33:56

    >877
    しょうもない揚げ足とりにレスするのもバカらしいが
    まず「物証でガチガチ」という言い方は人によって受け取り方が違う
    862は物証ゼロで学者が権威だけで通説にしてるというトンチンカンなカキコミだ
    そういう物証ゼロを前提にした誤った認識に対して、明確な物証の裏付けがあることを「物証でガチガチ」と表現して何の問題があるんだ
    くだらない揚げ足とりにこれ以上やり合うつもりはないからレスも不要

  883. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 11:38:28

    やっぱ書物読めるって大切だな

  884. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 13:15:42

    ※878
    「文字を使えなくても、文字を使える人間と意思疎通できれば文書を作れる」

    って言ってるだけなのに
    いつの間に

    「文字なしで文書が書ける」

    という話になってんだ??
    頭悪すぎない?日本語読めない土人は小学校からやり直せよw

    当時倭人が文字を使ってた文書を出せずにごちゃごちゃ言ってんのはお前の方。
    立場をわきまえろやボケ

  885. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 13:28:06

    ※881
    図像っていうのは神獣鏡の字面のことだろ。
    誰も証書を絵で書いたとは言ってない。
    さっきから、都合よく言ってないことを暴走して妄想すんなよ。病気かお前w

    例えば全くロシア文字やハングル文字がわからない使えない日本人でも
    翻訳アプリみたいなものを使えば簡単な文なら書いたり理解したりできる。
    そういうことだろ。

  886. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 13:36:16

    >881
    だんだん頭に血が上ってきてるねぇ 落ち着きなよ

    880は879への返事
    鏡の銘文は字が読めなくても(使えなくても)書ける
    最初の頃は、粘土かなにかで鋳型を取って同笵鏡たようだし

    一生懸命写してくれたのは、「魏」が作った文章! 
    魏が漢文が書けなくてどうする?
    そして、魏の皇帝の詔勅だから、魏の起居注に残され、魏志に残されてる訳だ
    それを、伊都国にいる使譯が漢文の分からない人(卑弥呼含む)に向けて、通訳してくれるんだろう
    まあ、邪馬台国にも使譯がいるのかもしれんが
    そして、倭王からの上表の内容は書いてないよな詔に感謝したというだけで
    倭王因使上表荅謝詔恩
    この上表がきちんと漢文で書いてあったとは読み取れないぞ

    >歴史上絵で書いた目録の例が中国にあるのかと
    こういうのをトンチンカンって言うんだろうね
    865の「読めるやつは伊都国に居ただろう それがどうした」は読んだよね?
    そのための「郡使往來常所駐」だろ

  887. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 14:00:52

    倭国 円墳 前方後円墳(3世紀中頃から7世紀初頭)

    日本 巨大伽藍の仏教建築物 701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められた

    国号が日本に代わる100年前に巨大な前方後円墳が造られなくなったのも面白い。

  888. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 14:33:00

    ※884
    これは恥ずかしいな
    論破されて反論できずに発狂か

    「文字を使えなくても、文字を使える人間と意思疎通できれば文書を作れる」
    これなどは正に倭の支配者層が文字を利用していた例であって
    文字を解する文官を雇ってたという事実に他ならない
    伊都国の検閲の例なども文字を使用していなかったら不可能

    文書を交わした記録があるのにその原本が発見されてないからそんな事実はなかったというのは、金印が見つかってないから金印を渡した事実はないというのと同じような暴論である

  889. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 14:48:37

    ※885
    神獣鏡において、漢文の知識なくしてどうやって下手くそなりに意味が通る文章を作ったのか?

    ※886
    文字を解する文官を常に女王の近くや伊都国に置いていた
    倭の支配者層が文字を使用していた何よりの証拠

    「読めるやつは伊都国に居ただろう それがどうした」
    となぜか流してるが、つまり倭が文字を利用していたということを認めてるわけだ

  890. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 14:50:04

    倭 倭国 和国 大倭国 大和国 邪馬台 全てヤマトという読み。

  891. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 14:55:05

    ※888
    日本語理解できないのを指摘されて恥かいたおっさん乙

    >文字を解する文官を雇ってたという事実に他ならない

    「他」の反例…文字を使えない土人と意思疎通できる文官が魏側にいた
    はい論破

    >文書を交わした記録があるのにその原本が発見されてないからそんな事実はなかった

    事実かどうかの争点は、原本があるかどうかじゃないんだよ
    魏皇帝サイドが文字を書いたり読んだりするのはわかってるんだから
    彼が読んだり書いたりした文書(の原本)があるのは問題ない。
    直接魏皇帝と倭人が対面してボディーランゲージして意思疎通してたわけないんだしw

    問題は、倭人が文字を使ってたかどうか。

  892. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 15:00:44

    ※889
    ハングル文字を使えない日本人が、
    ハングル翻訳アプリ(韓国製)をスマホに入れてたからって
    ハングル文字を使ってたと言えるのか?

  893. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 15:08:39

    ※889
    文字の知識なんかなくても
    見たものの形を書き写すことはできるだろ

  894. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 16:59:49

    ※891
    上表の意味知ってるか?
    文書を奉ることであって、上表文が現在残ってなかろうが上表したことは明白
    上表するには文書を書く文官が倭側にいたということ

    ※892
    その例は適切ではないとは思うが
    詔書を読むことができて、上表文を書くことができて、下賜品やらを女王に送る際に文書目録を読んで間違いが絶対に起こらないぐらい正確に運用してるなら文字を使用していたと言えるだろう

    ※893
    じゃあハングルのいくつかの文章を継ぎはぎして意味が通る文章に変えてみろ
    神獣鏡はへたくそな漢文で韻を理解してないながらも意味がわかるものが多い
    また中国では全く見られない母親へのご利益があるようなメッセージも書かれてるからな
    これなども例文が無いと思われる中で倭人が自分達で考えて記入したであろう例だ

  895. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 18:30:23

    日本にフランス語の通訳のできる人はそれなりに多くいるけど、日本ではフランス語を使ってるとは言わないよな?

    そりゃあ使譯所通三十國っていうんだから、大陸と意思疎通ができる人はいるだろうさ
    でもそれで、文字がある、記録も文字で残した「はず」ってのは飛躍だろ

    821辺りまで話を戻せば、
    3世紀に文字があった「はず」なのに、それで記録されたものがないから記紀に書かれていない、だから邪馬台国と記紀を書いた大和王朝は別
    って話が無理ってのは動かないよ

    今の日本の常識で考えると、文字があれば記録を残すのは簡単と思うかもしれないが、紙だって貴重品だし、奈良時代だって木簡・竹簡の方が普通

    なら木簡に書けばいいじゃないかとなるだろうけど、そうなると情報量が少なくなるし、それこそ751に書いたような「大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也」みたいな断片的な記録しか残せないだろう
    そしてまさに記紀の最初の方はそんな程度の記録だ

    894その他の人(同じ人だと思うけど)は、何人くらい漢字を使えたら、日本に文字があったって言うつもりなんだろう?

  896. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 18:41:54

    >814
    >倭の5王の朝貢は100%記録が残されていたはず

    残ってたから835にまとめたように、雄略天皇が「呉」(大陸の南朝)と交流があったと書ける訳だ
    ただ、記紀の編集方針として「朝貢」とは書かない

    そして、倭国に漢字がもたらされてきちんと使えるようになるのが、応神、仁徳朝以降
    神功皇后はその前だから、卑弥呼だとしても文字記録はないことになる
    記紀の中ではきちんと整合性が取れてるよ

    日本書紀は、当時の一番のエリートが国家権力を使って、古今の記録・文書・口伝を集めて、解釈してまとめたものだから、今の俺たちよりは物の分かった人が書いてる
    全てが正しいとは言わないけどな

  897. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 18:48:53

    ※895
    >3世紀に文字があった「はず」なのに、それで記録されたものがないから記紀に書かれていない、だから邪馬台国と記紀を書いた大和王朝は別って話が無理ってのは動かないよ

    そんな主張は誰もしていない
    3世紀の倭人の記録が残っていたという主張などしたことはなく、魏志倭人伝という実在している記録を無視してる以上、崇神天皇周辺の時代に邪馬台国を当てるのは無理があるという主張である

    古代倭人が文字を使用していた云々は売り言葉に買い言葉であり
    ※820で「ちなみに云々」と別案件であることを示しここからは上記とは別個の話になったと俺は思っている

    >何人くらい漢字を使えたら、日本に文字があったって言うつもりなんだろう?

    何人もくそもない
    倭の支配者層が文字を使用していたというのがこちらの主張であり
    別に1人だろうが10人だろうが、その文字を使用して外交や貿易その他を滞りなく行っていたのならそれは文字を使用していたと言える

  898. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 19:06:08

    大国主の国譲りとは、単なる無血開城ではなくて、日本という国名や歴史も全部倭国に譲りますということだったのかな。
    だとしたら重過ぎるわ。。

  899. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 19:38:33

    ※894
    >上表するには文書を書く文官が倭側にいたということ

    倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人がいれば事足りるのでは?

    >詔書を読むことができて、上表文を書くことができて、下賜品やらを女王に送る際に文書目録を読んで間違いが絶対に起こらないぐらい正確に運用してるなら文字を使用していたと言えるだろう

    ハングル文字を使ってなくても、超優秀な翻訳アプリを入れてればハングル文字を使ってたことになるのかw

    >じゃあハングルのいくつかの文章を継ぎはぎして意味が通る文章に変えてみろ

    당신은 바보있을 수 없다

    >神獣鏡はへたくそな漢文で韻を理解してないながらも意味がわかるものが多い

    機械翻訳みたいだなw
    やっぱ使ってたとは言えないな

  900. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 21:01:04

    隋に対して天子(皇帝)を名乗った国書を送ったのは聖徳太子なんかでは無く、阿毎アメのタリシヒコ。
    この君主国は有名な女王以来の国で、阿蘇火山があって敬ってるとの事だそうだ。

    この九州倭(和)国皇帝家の苗字はアメ(天or海?)で近畿天皇家の苗字は鵜ウガヤだぞ。
    それは初代天皇とされる神武の父の氏名が鵜ウガヤ不合葺フキアエズの命ミコトと記録されているからだ。

    因チナみに、この鵜ウガヤと言う九州剣鉾ホコ文化圏の大?豪族一族が東方に植民した神武東征は、1世紀半ば前後辺りと推測されていた(30年以上前の安本美典説)。それは、奈良盆地で、征服された側の銅鐸が廃棄され始めた時期に概オオムね適合するらしい。

    そうなると、3世紀半ば以降の奈良のマキムク遺跡の拡大期は、丁度急速に勢力拡大した10代目崇神天皇の時期に当たるだろう。
    そして、この時期の前から大型化していた銅鐸が先ずは近畿中心部から、次に近畿周縁部で短期間に相次いで廃棄されていった状況ともあまり矛盾は無い。
    これは剣を神器とする近畿日本天皇家が近畿一帯を征服支配し、銅鐸文化圏が崩壊していったと理解できる。

  901. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 21:50:52

    ないことを証拠にしてはいけないと叫びながら記紀にない朝貢はあったという方が素晴らしい

  902. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 22:20:56

    シナを語るときに言語と文字は別個に考えないといけない。
    漢字圏(漢人)には、意思疎通が可能な統一された漢字という文字はあっても、漢字に適応した統一された言語というものは、今の今までない。(現代の普通話でも普及率58%)

  903. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 22:38:06

    >900
    なんだか書いてあることがつぎはぎだらけで、筋が通っていないんだが

    倭王の姓が阿毎と書いてあるのが旧唐書、そしてそれは日本の記紀に原初の神が天御中主と書いてあって、その子孫が天皇だということになっているから

    近畿天皇家の苗字が鵜がやだなんてどこからだよ? 彦波瀲武盧茲草葺不合尊から採るならむしろヒコナギサだろう。ウガヤフキアエズが産屋が完成する前という誕生説話から来ているのは、日本人なら分かるよな? 何をどうしたってそれが苗字にはならないし、系譜上は彦火火出見尊(山幸彦)の唯一子だから、本家の跡継ぎなのになぜそこで苗字が変わるんだ? そもそも姓と苗字の区別付いてないだろう?

    まあ上記(うえつふみ)とか竹内文書とかの古史古伝や神代文字を信じる立場なんだろうな

  904. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/06/30(金) 23:15:15

    朝貢は恥だから書かなかったとの主張が見受けられるが、当時の国際感覚だとむしろ逆ではないか
    ヤマト王権だけ中国に対する考え方が違う
    奴国や邪馬台国は朝貢に積極的だがヤマト王権は消極的
    鏡も中国産を有難がらず、研磨も適当な国産鏡を大事にしている
    中国の威を背景に力のあった倭に対し大王家と物部氏と大伴氏が対抗した結果である

  905. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 00:00:49

    明治維新の後開国してお雇い外国人を招いたりしたわけだけど、
    数十年したら今度は英語は敵性語だとかいって排除したりした
    あれと同じようなもんやろ

  906. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 00:15:23

    九州派ってSTAP細胞とか信じてそう

  907. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 00:23:36

    理解度は低くても漢字を使用して意思疎通してるんだから、文を使用しているというんじゃないの?
    言語っていうのは、もともとどんなにうまく使えたとしても、完ぺきには理解できないもんだしね。

  908. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 00:56:13

    Google翻訳の力を借りれば俺だって

    당신은 바보있을 수 없다

    ぐらいは書けるけど、それはハングルを使えてるとは言えないだろ。

  909. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 01:00:48

    倭が大陸の威を借りて日本を統一しようとして
    逆に大和に返り討ちにあったんじゃね?(適当鼻ホジ)

  910. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 01:30:53

    ※899
    >倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人がいれば事足りるのでは?

    別に渡来人の文官だろうがなんだろうが倭の支配者層が文字を利用していた事実には変わりない
    事実上表文も失礼がないものが作成されたようであり、伊都国の官の検閲は間違いがないという完璧ぶり
    もしや、伊都国の検閲官も上表文を書いた人間も全部倭じは全く属さない魏の人間がやったと思ってるのか?

    >ハングル文字を使ってなくても、超優秀な翻訳アプリを入れてればハングル文字を使ってたことになるのかw

    翻訳アプリの例は全くもって例として不適切だと思うのでなんとも言えない
    但し、そのアプリ使って完璧に外交も貿易もできてるならハングル文字を使用しているとして対外的には認められていることになるわな

    >機械翻訳みたいだなw
    >やっぱ使ってたとは言えないな

    倭人が漢字使えないならどうやって中国側に例がない文章を拙いなりにも書くことができたのか
    答えて示すべき

  911. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 01:54:09

    ※903
    頓珍勘助(笑)  丸ッキシ的外れで反論になってネーわな
    鵜萱屋ウガヤは遠い昔に鵜の羽根で屋根を葺フいていた職業集団一族の表れ。

    しかし、伸し上がって豪族化してきたから昔の先祖とは違い、屋根を葺くのには似合わない程に大物に成れor成るという意味で付けられたと解せよ

    ※900 の続きを少し→白村江の戦いで負けたのは九州倭(和)国だ。そして、その皇帝薩夜麻サチヤマと生き残った皇子や将軍らは唐の捕虜になったとシナの歴史に記されてる。近畿日本天皇家では無い。
    だからこそ、戦後処理に来た唐の裴セイセイの一軍は倭(和)国の首都のある竹斯チクシ=筑紫に進駐したんだぞ。
    その後、すっかり衰えた倭(和)国を呑み込んだのが元は小国だった日本国だ。だからこそ、倭(和)国の九州統一その他の歴史を剽ヒョウ窃し、それを無理して日本国の歴史として纏マトめた国家全体の歴史書が日本書紀だ。
    それに対して古事記はそんな無理をあまりせず、代々口伝されてきた近畿天皇家の歴史を文字化したのが基本的性質だ。

  912. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 02:48:49

    そもそも「倭」って自ら名乗ったのか
    意味知ってたのか、知った上だったのか、途中で気付いたのか
    そも歴史書とはいえ、それらはそれらを記した国々の意志の元で描かれている。
    一点の歪みも曇りもない目で、学術的に見ていただろうか?
    そして列島側も何もかも明け透けには話してはおらず、嘘も混じっている様子である。

    はっきりとした決着を着けたいなら、矢張り物的証拠が欲しいトコロ。

    あちらの国々の史書だけで判断する事もまた危険な行為だ。

  913. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 03:53:13

    >911
    裴世清が白村江の戦後処理に来たってなんだそりゃwwwwww
    これだけ間違った知識だらけなら妄想話しか書けんわな

  914. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 08:26:47

    大陸と半島の文献と九州の出土品は一致している
    出雲と吉備と埼玉の出土品と記紀の内容は一致している
    記紀と大陸と半島の文献は一致しない
    それぞれ別であれば矛盾しない

  915. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 08:39:21

    ※910
    韓国人と話す時だけ翻訳アプリ使って意思疎通しても、
    普段ハングル文字を使ってることにはならんよ

    倭人の言いたいことを理解して文字に書ける中国人に頼んで
    その文字を模写すれば余裕だろ
    グーグル翻訳に日本語入れて出てきたハングルコピペした俺と一緒だw

  916. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:03:23

    魏志倭人伝に日本語の読みが漢字で書いてある
    上奏も倭の使者が述べていることを考えると中国語も話せた
    海南島と変わらないと書かれているが、邪馬台国首脳陣は長江下流域の中国語を操る倭人説に説得力がある
    昔のイギリスやロシアのように支配層は外国語で被支配層は地元の言葉だった可能性がある

  917. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:07:09

    ※914
    大陸と半島の文献と畿内と四国の産出品は一致している
    同じじゃないと矛盾する

  918. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:14:47

    >901
    >記紀にない朝貢はあったという
    倭の五王の朝貢は宋書にあるし、ないと言っている畿内説の人はいない

    記紀にないと言っているのは九州説の人

    そこからこじらせて、3世紀に文字があった、記録はあったはず、でも記紀にないから倭の五王は大和朝廷じゃない、だから邪馬台国も倭の五王も九州っていってるんだよな?

    それに対して、朝貢とは書いてないけど、朝貢に対応することがを朝貢じゃない体で、きちんと記紀に書いてあって記録もあることが確認できるから、上の九州説の論は破綻してるよなって行ってるんだが

    無理な切り取りはやめたら?

  919. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:51:29

    ※918
    どんな立場でも構わないのだが記紀にないものはないと認めてから書き込んではいかがかな?

  920. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:53:53

    >917
    丹を辰砂だと仮定した上でさらにそれ1つだけやん…。

  921. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 09:58:53

    ≫918
    >それに対して、朝貢とは書いてないけど、朝貢に対応すること「がを」朝貢じゃない体で、きちんと記紀に書いてあって記録もあることが確認できるから、上の九州説の論は破綻してるよなって「行」ってるんだが

    「」は引用者

    魏志倭人伝や記紀もこんな感じで現代に伝わっている写本は誤字脱字だらけなのかな

    何百年何千年後、「がを」論争とか行は言の異体字とか何か意思を持って書かれたとか議論されると思うと胸が熱くなる

  922. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:04:05

    >911
    九州説の大変なところは「人材難」だよな
    日本書紀に2回だけちらっと名前が出てきただけの筑紫君薩夜麻あたりを皇帝としないといけないんだから
    倭の五王は九州説だと、当てるべき人物がそもそもいないんだよね
    記紀の物語が九州の倭王家の歴史を盗んだものだって九州説の人は言うけど、だったら倭の五王の墓はどれ?
    磐井の乱の、磐井の墓とされる岩戸山古墳より大きな墓はないよね?

    >しかし、伸し上がって豪族化してきたから昔の先祖とは違い、屋根を葺くのには似合わない程に大物に成れor成るという意味で付けられたと解せよ

    解せよって何だよww
    日本の歴史秩序の根本が血統主義で、そう簡単に改姓したりしないって理解してるか?

  923. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:08:07

    >919
    いや遣呉使は書いてあるし、呉の使い(答礼使)も来日してるって書いてあるじゃん

    なぜ書いてあるものを「記紀にないもの」って言い張るの?

  924. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:11:42

    ※922
    姓は変わるよ、変わらないのは氏
    日本で重視されたのは家、養子が多いのが特徴
    天皇家は血統主義で他の氏族と違う
    天皇家以外天皇にしないことで余計な争いを避けた結果と言われる

  925. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:16:37

    文脈上当然とみられるこの雄略六年が、壬寅年(三六二)であるという点については、実は重大な疑義がある。
     理由そのものは単純である。ひとつに雄略記は確かに木梨紀でできているが、実雄略紀そのものも木梨紀であるかどうかという検証が済んでいない。
     書紀にはこうしたケースがいくつもあった。すなわちこの六年は、木梨紀でなく実安康紀の六年である。書紀の大王の事績についての記述は、すべからくその父兄の係年に拠っている。この視点に準拠すると。実雄略紀もまた一部はかならず安康紀によるところがあって当然である。
     雄略紀六年の「泊瀬小野」の記事が、木梨紀でなく安康紀に準拠する。実安康六年すなわち甲辰(三六四年)である。雄略はこの年一一月に践祚・立宮し、翌乙巳年(三六五)を即位元年としたことになる。
     ところで雄略紀が実安康紀に拠るとすれば、一連の葛城山や三輪山、吉野山にかかわる記事も、また移動するのである。この区分は、それぞれの事件につき雄略が関与する度合で決まってくる。
     呉使関係記事、とくに派遣でなく「呉使来」という六年条の記事と、半島関係の記事は、基本的に実木梨紀による。
     逆に、明らかに雄略の時代とみられる身狭・桧隈の呉への派遣記事は、おそらく実雄略紀のものである。
     係年表は修正されなければならない。この時先の雄略元年と後の雄略元年に四年に差異がある。

  926. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:20:56

    記紀編纂は、ほぼ同時期。
    わざわざ書き方や人名(神名)の漢字を変えて2つも編纂を指示した理由。
    このあたりは、物証主義のみでは論理的に解決できない。
    時期的に魏志倭人伝やその他の史書を日本側が読んでいないとは考えにくいことも留意すべきでしょうね。

  927. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:21:30

     新羅にかかわる記事は、主に雄略八年の「任那膳臣与高麗戦実雄略紀八年の記事は特殊である。
     この記事は新羅がこの時期高句麗と結好していたとするが、新羅人が高句麗の将兵を殺す。高句麗王は怒って兵を出すが、新羅は任那の王膳臣に援軍を頼み、辛うじて高句麗兵を押し返したという。
     三国史記は麗紀の長寿王二八年条(四四〇年)に、「羅人襲殺辺将、王欲往伐、羅謝罪乃止」とある。しかし羅紀にはその年にそれに類する記事はなく、かえって訥祇三四年条(四五〇年)に「殺麗将、麗王怒侵辺、王謝之乃止」という近似の記事を記録する。訥祇までの羅紀は未斯欣や朴好などの記事にみられるように、意図的な係年の再編があるから、これは同一記事でかつ麗紀が正確である。
     書紀の雄略紀八年に記録する「膳臣与高麗戦」という一連の記事が、麗紀の四四〇年条に該当する。するとこの「八年」というになる書紀の係年は、むろん雄略の時代ではない。安康・木梨でも允恭でもない。西紀四四〇年を治世八年とすべき大王は、四三三年を即位元年とする仁徳なのである。
     特殊というより異常というほかはないが、羅紀が麗紀と異なる年代に当てはめたのと同一の理由による

  928. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:23:17

     倭王世子興・倭王武以外に除授のあったのは、四二一年の倭国王讃、四三八年の安東将軍倭国王珍、四四三年の安東将軍倭国王済の三人である。さらに四五一年には、安東将軍倭国王済に「六国諸軍事」を加えることがあったが、若干主旨が異なっても、これも正式な除授の一つである。
     対するに書紀の伝える「呉使」は、雄略の一回(雄略十四年)、安康の一回(雄略六年)のほかには、仁徳の五十八年条の一回だけである。「冬一〇月、呉国・高麗国並びに朝貢」と書かれている。
     仁徳五八年は事実上倭建五八年で、西紀四三九年にあたる。仁徳没年の翌年である。
     ちなみにこれはすべて「呉使」と記録された。冊使とは言わない。

  929. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:25:22

     倭から派遣する「遣呉使(遣宋使)」については、雄略の身狭村主青・檜隈民使博徳(雄略八年・一二年)と、応神の阿知使主・都加使主(応神三七年)だけが記録される。雄略の遣呉使の目的はあきらかだが、書紀はそうはいわない。雄略一〇年の帰還の時、「呉の献る鵞(鳥)」といって、珍物を求めるためという理屈がついる。応神の遣呉使の目的も、「縫工女を求む」ためと言っている。
     ちなみにそれぞれの帰朝も記録されるが、呉使(宋冊使)をともなっての帰還が明示されているは、雄略一四年条だけである。これはむろん雄略一二年に派遣した使者の帰朝ということになる。
     宋書をみると、五世紀のこの時期の倭の朝貢はのべ九回であった。書紀が記録するのはのべ三回だけである。

  930. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:33:58

    九州説をとると、対馬、壱岐を除き九州だけで諸国合わせて15万戸あまり
    1戸を少なめに5名として計算して75万人
    戦乱続きで人口が著しく減っていたといえ、蜀が94万人(西暦263年)と考えるとちょっと当時の農業生産能力を考えても九州だけで多すぎないでしょうかね?

  931. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:51:53

    魏志倭人伝を信用できないと言ったり七万戸が事実と言ったり忙しい人がいますね
    真実はC14と年輪年代法のみとまだわからないのですか?

  932. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 10:54:00

    ※930
    7万戸が正しいなら邪馬台国は一万二千里のところにあるで決着する

  933. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 11:20:28

    ※932
    私が求めているのは、距離じゃなくて人口の話。
    答えになってないよ。

    それぞれの出発地と到着地の実距離に応じた1里の長さもまちまちなので魏側の資料だけを根拠に里だけで判断するのは早計。

    多方面からみて判断すべきであるが、現時点ではシナ王朝側と日本側、出土品の情報量が少なすぎるので判断するにはまだ早い。

  934. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 11:44:20

    熊本平野は奈良盆地の2倍の広さがあるで

  935. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 11:46:20

    畿内説にも卑弥呼はいないし台与もいない
    つまり女王国があった形跡が無い
    九州には女王らしき古墳が多くある

    あと倭には独自の文字があった
    隋書>無文字唯刻木結繩
    無文字というのは漢字を使っていないという意味
    現在は縄文字は文字として扱われている
    木に刻みを入れるのも明らかに文字

    この隋書に書かれた文字が肥人文字と考えられる
    肥人文字が有ったことは日本の歴史書にも書かれている

  936. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 11:54:20

    奴国の場所と2万戸は異論ないのだろ。
    その3倍ほどでいいなら、九州どころか北部九州だけでいける。
    海没して人が居なくなった難波(浪速)が、元は都がおけるほど繁栄していたことを考えても、当時の海沿いは食糧生産に適した水田地域が今よりも大きく広がっていた。
    そして北部九州は稲作先進地域(開始から千年)だし、金属加工技術も優れていた。
    戦乱を止めた後にすることは、戦のかわりの公共事業=水田が50年でさらに広がった。
    海の幸山の幸も、そこらの外国よりはるかに豊富。
    水田というのは、面積あたりの収穫量が小麦などよりはるかに多いし、日本になってからの動員兵力を見ても、歴史学者の推測よりはるかに多い人口が存在したとみるべき。
    ついでに、山の中など水田以外の人々も結構な数居たと思う。見つかった都市痕跡だけで人口はこの程度というのは常々疑問だ。

  937. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 11:59:52

    鬼頭宏氏(1996年)が出挙稲数、郷数、田積数、石高などによる国別「推定」人口を見ると西暦200年ごろ北九州40,500、南九州64,600となり、九州全体(西海道)で70万を超えるのは奈良時代以降。

  938. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:00:51

    ※920
    それは戸籍に載ってるだけの人口だろ
    実際はその数倍

    九州なら二期作も可能
    熊本平野だけで奈良の4倍の人口を養える
    7万戸なんて余裕だろ
    あと「會稽之東與儋耳相近」とまで言われてるんだし蜀と比べても駄目かと

  939. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:20:22

    >795
    >しかし吉備は神武天皇に神武東征され、崇神天皇に平定され、雄略天皇にも吉備の乱で平定され常に何故か大和に匹敵する地方有力国家政権があるね。実際に平定できたのは何時なのだろうか。7世紀末に備前・備中・備後、8世紀に美作と4つに分割されてるから実際にはここなのかね。

    この時期に、豪族を分割して力を削いでいるように見えますね。中央集権で大国を分解し抵抗できないようにしたのかも。前後や上中下など分割された国名がいっぱい残ってる。

    >804推古天皇と聖徳太子の時代から大きく歴史が書き換えられてる可能性がある。
    あちこちの国から、功績あった人物が奈良で天下(近畿)とってた(共立されてた)のかもしれないですね。それを全部、国家関係=兄弟親子として一つの血筋にしてしまって、後は自分の血筋で固定するために反乱防止の分割。

    >827
    >元々百余国あるけれども接触を持てているのがその1/4程度ということも明記されている。

    これも交流あった国であって、蝦夷がずっと後に連れて行かれたりしてるのを考えると、西日本だけで100国でも不思議はないのだよね。対馬国一大国伊都国などでも1国なんだから。
    日本が畿内にあったというよりは、大国共立で奈良に作ったと考えたい。

  940. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:26:10

    >926
    古事記は皇統の私文書って位置づけなんだろうと思う
    各豪族に族譜を出させているのに対応してるんじゃないかな

    前にも書いたけど、古事記とほぼ同じ内容の神話が一書の形で入れられてたりするし、古事記の編者の太安麻呂が日本書紀の編纂にも参加していたとされている
    そういう形で古事記に情報も含めて、日本書紀が編まれたということだと思う

    その意味で、朝廷の公式見解はあくまで日本書紀であり、古事記の編纂自体が日本書紀には記されていない

  941. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:30:46

    普通に奴国から邪馬台国が倭で本拠地は北部九州にあったけど、日向出身で畿内に遷都した大王家が邪馬台国以後の北部九州を征服したじゃ駄目なの?

  942. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:34:12

    >937
    500年の間に人口7倍(戸籍人口だから実際は10倍以上)って、一体何を根拠にしてるんだ?
    そこまでの技術革新があったとは思えないのだけど。
    難波が海に沈んで稲作できなくなっただの、海進海退の視点も提示してるのに、20年も前の、発掘進んでない時代の記録持ってきて何が言いたいの、そもそも一番都合の良い場所は今普通に都市部や水田になってるんだから、発掘で出るわけないし。
    自分では文章読んで思考もできない無能ですって言いたいの?

  943. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:35:20

    >924
    >姓は変わるよ、変わらないのは氏
    オレは分かってるよ 分かってないのは鵜がや王朝とか言ってる九州説の人
    もし万一仮に苗字が鵜がやだったとしても、本姓が阿毎であることは変わらないという基本も分かってない

    まあ、皇室の姓云々を言ってるのは大陸の史書であって、日本の家の姓は天皇から下賜されるものであり、天皇・皇族には姓はそもそもないんだがな

  944. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:37:40

    ※938
    2倍と仮定すると1600年時点の九州の推定人口を超えちゃうわけで。
    九州王朝にしても遷移にしても、わざわざ肥えていない土地に行く理由もなくなりますなあ。

    ※940
    情報が足りなさすぎるので、結論は出せないのですが、書き方と内容を鑑みるに、古事記は国内向け、日本書紀は、海外(唐)向けだったのではないかと思ったりします。

  945. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:49:25

    ※942
    自分が研究調査し発表したわけではないので、断定はできませんけども、残っている文献をもとに算出しているようです。あくまでも推定なので誤差はあるだろうと思いますが。
    否定する根拠を出して別の数字を出すことができれば、学会での見解が変わりますよ。

  946. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:50:48

    >941
    7世紀に日本を名乗り始めるまで、ずっと倭國なんだよ
    邪馬台国までが倭、ってことはない

    そして魏志倭人伝の頃はもう北部九州に優位はなくなっているから、その時点で邪馬台国を九州に想定すべき積極的な理由がなく、あってもおかしくない、あったらいいなレベルの話しかない

    今、九州説の人がやっている、筑後平野がー、熊本平野なら人口がー、の話がその典型
    大きな遺跡があるかもしれない、いやあるのは分かってるけど発掘されてない、って話にどれだけ信憑性があるのかと

    邪馬台国の時代から古墳時代まで、九州説の人の言い分でも数十年しかないのに、倭国王を名乗る王がいた7万戸の国が、箸墓の半分程度の古墳すら作れていない時点でおかしいと思わないのが九州説だよ

    九州も古墳時代に入ると同時に古墳を作っているのにね

  947. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:58:52

    ※937
    それは遺跡を元に算出してるから信頼性が低い
    あちこちで疑問が出ている

    魏志倭人伝で
    対馬国 1000余戸
    一大国 3000許家
    3世紀の壱岐島は1.5万人ぐらいいたようだ
    壱岐島は現代でも人口3万弱
    古代を低く見すぎている

  948. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 12:59:35

    >925,927~929
    おもしろそう紀だね
    私も読んだよ おもしろいよね
    ただ、電子書籍でも売っているものだから、あまり長文の無断引用はいかがなものかと思う

    これをきっかけに読みに行って、購入する人がいたら、ステマだけどw

  949. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:03:47

    地名って結構長きにわたって変わらずに残っているってのは、国内外の数々の文献でわかると思います。
    あてた漢字が違えどもある程度現在の地名に当てはめることができるんですが、「やまたいこく」と呼称する場合、当てはまる箇所がない。
    「やまいこく」と呼称する場合はya・ma・iとなり母音が連続しまず日本語としてありえない。

  950. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:09:16

    そもそも纒向遺跡には邪馬台国時代の住居跡はない
    七万戸どころか零戸

  951. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:10:40

    943
    姓は天皇が与えるものだから天皇にはない

  952. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:14:41

    邪馬台国とヤマト王権は別

  953. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:15:37

    纒向遺跡は崇神天皇の宮
    女王国の都ではない

  954. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:18:30

    初期かつ最大級の帆立貝型古墳が宮崎にある
    年代はともかく記紀の内容は事実を含んでいるのでは

  955. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:19:55

    歴代支那王朝には、統治する皇帝はいても祭祀を司るものはいなかった。政体(統治)と国体(祭祀)の区別をする概念がない人々に日本の仕組みが伝聞のみでわかるであろうはずもない。

  956. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:21:50

    ※955
    皇帝は天子で、神の地上の代理人だけど

  957. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:23:38

    955
    夏王朝から周王朝まで祭祀も司っている
    だからこそ卑弥呼の統治を昔の中国と同じと感じたのかもしれない

  958. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:26:53

    同時代の径百余歩に準ずる古墳を九州の推定箇所を一生懸命探していると思われますが、現在でも出てこない。

  959. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:27:27

    ≫955
    曹操の法治主義を継ぐ魏の知識層の邪馬台国の感想
    「倭人は未だにシャーマンがトップか…。」

  960. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:27:46

    >945
    残っている文献である魏志倭人伝で見ると、倭は戸数ばかり(家ばかり)建ってて5軒に1人しか住んでないという主張になりますが、倭の平民は1家族で何十軒も家持ってたんですかね。
    947の人が言ってる通りですよ。
    発掘されてない遺跡なぞいくらでもあるし、最も人口が集中していた場所は、今も日本人が住んでます。隠し田もあれば、田んぼ以外で生計立てて米と交換していた人達もいる。
    何より、米は年貢用で、米以外に雑穀作ってたなんて当たり前の話なのに、米の石高でとか、歴史を知らない歴史学者なんじゃないの。
    それと、鬼頭宏の名前を検索したら、2105年に日本の人口は4500万って話を出すような人が、日本の人口語ってるのかと。お偉いさんらしいけど、日本人居なくなれの人かもしれないね。

  961. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:30:27

    ※958
    纒向型若しくは前方後円墳とされている古墳ならあるよ
    円墳ではないけど

  962. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:31:47

    ※960
    出生率下がってるから

  963. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:33:55

    当時の王朝が祭祀を行っていた夏や周ならば、理解可能だと思いますが、のちの皇帝は統治の正当性のために※955が言うように神の地上の代理人と名乗ったが、祭祀をしていたわけではない。
    また、殷以降、王朝が変わっても漢字という文字や儒教は継承されているが、民族、風習、言葉が継承されているかというと、それには疑問が生じる。

  964. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:40:02

    ※960
    九州説をとればという前提の話です。日本全体でみると魏志と推定人口の誤差はほとんどありません。10万程度。
    ちなみに鬼頭氏以外にも何名か推定人口を出している人、研究所はありますが、多少誤差はあれ2倍、3倍といった違いは出ておりません。
    正しいかどうかは、後世になって変わるものですから、断定はできません。(いつも後に定説が覆されることがありますので。)
    その人をトンデモと断じ、誤りと感じるならば、まともな数字を出せば学会の見解が変わりますよ。

  965. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:53:01

    963
    後漢王朝の皇帝達は祭祀もしていたけどな
    祈りと徳が足らないから天変地異が起こると批判されまくり
    どう見ても洪水や飛蝗や日蝕は皇帝のせいじゃないのにね
    当時の世界観が分かるよね

  966. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 13:58:39

    >954
    >初期かつ最大級の帆立貝型古墳が
    西都原の男狭穂塚古墳のことかな
    記紀の内容に沿って考えるなら、仁徳天皇の皇妃に日向の髪長姫が入っていて、その縁で畿内の力で大古墳を築いたと考えられている
    仁徳天皇の頃は畿内ではさらに大きな誉田山古墳、大仙古墳が作られた頃だから、九州が畿内を凌駕したとかの話にはならない
    その頃、応神・仁徳朝の頃でも記紀はその程度には信頼できるという話でいいと思う

  967. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 14:22:28

    九州福岡筑紫の倭(和)国の五王なのに、ヒシコイテ無理矢理近畿奈良ヤマトの日本の首長にコジツケようと、何回も何回も飽くこと無く繰り返す偏執キョウがキモい!

    阿呆がいたぜ。隋に対して天子=皇帝を名乗ったんだから、それ以後は皇帝だろがよ、白村江の戦いの薩夜麻までは。シナは夜郎自大で覇権主義である悪の中華思想に染まってるから認め無いだけで。自明の理すら解らんのだな。

    記紀の古い時代の天皇の年齢は2倍年暦だぞ! 三国志魏書東夷伝倭人条にそう書いたるぜ。だから九州説の安本美典は30年以上前に、神武即位をA.D.150年頃の前後だと推計した。
    そして、九州の剣鉾ホコ文化圏の神武の支配下に落ちた奈良盆地では銅鐸を破棄させられた。この時期も2世紀半ば頃で安本の推測と大きなズレは無い。つまり、近畿奈良ヤマトの日本国天皇家の先祖は女王卑弥呼以前に九州を出てる。

    結局、女王以来の国で阿蘇火山を敬ってる倭(和)国と近畿天皇家の日本国は別物で、神武即位当時は奈良盆地だけの小国だった日本国は、3世紀半ば頃以降のマキムク遺跡の拡大期に概オオムね相当する10代目崇神天皇の時に、近畿一帯に一気に支配下に置いた。

    だから、この時期に支配下に置かれたその近畿一帯で大型化した銅鐸が破棄された。なんせ支配者の天皇家は九州から渡来・侵略した剣を神器とする豪族だったからさ。そして、白村江の戦いの完敗ですっかり衰えた九州倭(和)国を、7世紀の後期末期に吸収して念願の倭(和)人の大半を支配した。
    ここで大和と書いてヤマトと呼ばせる事が可能になったが、それ以前は大和をチクシと読んでたかも知れんぞ。

    ちなみに、対馬には小さな阿麻低留アマテル神社があるとのこと。そう天照神社になる。
    ここが高天原なんだろうな。記紀ではそこから出かけて行く先は筑紫・出雲・新羅辺りだから、対馬は位置からいったら出発地として自然だよな。

    ここを中心とする海上交易勢力=海人アマ族が弁韓地方から入手した材料で多くの鉄器を揃えて福岡市(韓国に真っ直ぐ向き合い、朝照る夕照る日向ヒナタ峠があり、ここから御笠ミカサ
    の浜を見下ろせる)に天孫降臨した訳だ。
    この人達の主流の子孫が九州倭(和)国の皇帝家で、傍流が近畿天皇家になったという説も否定出来んわな。

  968. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 14:25:57

    >960
    細かいところだけど気になるので

    >米は年貢用

    武士だけでは年貢米は食べきれない
    農民も基本コメを食べてた 雑穀を作ってないとも食べてないとも言わないけど、飢饉の年でもなければ、コメを食べていたよ
    そもそも武士の起源からして、平安朝が国軍を廃止して治安維持を放棄したから、農民が自衛のために武装したものだし、武士も農民ももともと食べるものは同じだよ
    大名まで同じ物を食べていたとは言わないが、武士の足軽と農民はそんなに違うものを食べていたわけじゃない

  969. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 14:53:04

    >968
    はい、書きすぎましたね。

    人口については算出方法見てきたけど、有史以前はその当時までに見つかった遺跡の数で決めるとか、相当酷い事やってるようですね。
    一番良い土地は遺跡にならずに人が住み続けるわけだし、遺跡1つ辺りこれくらいの人数だから遺跡の数かけ算してとか、よくこんなものを出せたものだなと。

    ついでに平均寿命なども、通説では縄文人は大人になれても平均30歳程度で死ぬと、どの学者も同じような数字を出していたのに、近年骨の調査をやったら平均45歳と出ましたとか。
    現実を見ずに、こうなるはずだと机上の空論いじくったものは、論文出そうが通説決めつけしようが、全くもって信用ならない。
    逆に、土器や石器の形状分類とか、実物に基づいた議論は、時代が変わっても揺らがない事が多い気がします。

  970. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 16:37:20

    日本の場合
    人口は水田面積に比例する
    壱岐島の水田面積を調べると
    邪馬台国当時ですでに現在の1/2〜1/3ぐらいの水田面積だったようだ(昔は5俵/反で計算)
    かなり水田開発が進んでいたと言える

    北部九州で弥生時代の開始が紀元前10世紀頃なのでこれぐらい可能か
    他の国もこんな感じで水田開発が進んでいたとすれば2万戸や7万戸が多すぎるということはない
    従来の研究が弥生時代を低く見すぎていると感じる

  971. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 17:10:36

    >970
    無知
    壱岐は食料が足りず本土から調達してたと倭人伝に書いてあるだろが
    壱岐は貿易港だったから人が集まってきただけだ

  972. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 17:36:27

    ※949
    ya ma yiの可能性はあるとだけ言っておく

  973. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 17:37:40

    乳幼児の死亡率が高いから平均すると寿命は下がる
    一律に35歳前後で亡くなっていたわけじゃないよ

  974. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 17:45:27

    世代を経ると母音は少なくなる傾向がある
    ハ行の発音は今と違うし、現代でも椅子のすと西瓜のすの音は違う
    カ゜だってあるし
    オとヲ、イとゐ、エとゑも違う音
    3世紀の発音を奈良時代の発音を元に復元するのは無理がある

  975. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 17:47:38

    ヤマタイと読まないとよく聞くが、邪馬台国がヤマト王権と別で言語も少し違っていたら読んだかもね

  976. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 18:38:30

    >972
    >ya ma yiの可能性はある
    九州説では邪馬壹國をよくヤメイ国と読んで、八女に当てたりするのですが、その場合「壹」はどこから来るのでしょう?
    中国語の漢字って基本一字で一音節ですよね?
    九州では八女のことをヤメィ的に少し伸ばして読んだりしますか?
    現代の九州弁(筑後弁?)でよいので、分かる人に教えてもらいたいです

  977. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 18:46:16

    >973
    >乳幼児の死亡率が高いから平均すると寿命は下がる
    弥生人ではなく、縄文人について出土人骨で平均寿命を算出したデータがあるのですが、その際子供の人骨が少ないので、15歳以上と推定される者のみについて計算したところ、15歳時点での平均余命が16年程度、それに単純に15歳を足すと31歳くらいになるそうです

    つまり15歳まで育った人の平均寿命は31歳程度

    そして、15歳以下の分を、産業革命期のイギリスのデータを仮に使うと、0歳児の平均余命=平均寿命は15歳以下になるそうです
    縄文時代の乳幼児死亡率が産業革命期のイギリスよりも低いとは考えにくいので、おそらくさらに平均寿命は短くなります

    弥生人の平均寿命もこのデータを使って、30歳程度としているものが多いようです

  978. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 18:51:10

    >967
    たぶん触ってはいけない人なのだろうけれど

    倭の五王の墓は、九州倭国説ではどれに比定するの?
    大陸に朝貢した倭国の代表の墓が、岩戸山古墳より小さいってことはないと思うのだが?

  979. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:12:34

    978
    同年代なの?

  980. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:13:03

    近江毛野の伝承に関しては、磐井の乱における毛野の動向が記されないことから、磐井の乱と近江毛野の任那派遣とは元々別伝承であったと見られている

  981. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:14:14

    史書では子の筑紫君葛子の後も7世紀末まで筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ、その活躍が認められている

  982. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:19:12

    ※978
    岩戸山古墳は墳丘長135メートルの前方後円墳で、北部九州では最大、かつ当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の古墳

    つまり、古墳の大きさのみで権力を決める978式思考法だと天皇は当時最大の古墳を作った竺紫君石井だと言うことになる
    978の考えがおかしいと言わざるを得ない

  983. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:24:08

    讃と珍については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがある。
    説として、讃が仁徳天皇で珍を反正天皇とする説や、讃は応神天皇で珍を仁徳天皇とする説などがある。武は、鉄剣・鉄刀銘文(稲荷山古墳鉄剣銘文 獲加多支鹵大王と江田船山古墳の鉄剣の銘文獲□□□鹵大王)の王名が雄略天皇に比定され、和風諡号(『日本書紀』大泊瀬幼武命、『古事記』大長谷若建命・大長谷王)とも共通する実名の一部「タケル」に当てた漢字であるとする説から、他の王もそうであるとして、讃を応神天皇の実名ホムタワケの「ホム」から、珍を反正天皇の実名ミヅハワケの「ミヅ」から、済を允恭天皇の実名ヲアサヅマワクゴノスクネ5の「ツ」から、興を安康天皇の実名アナホの「アナ」を感嘆の意味にとらえたものから来ている、という説もある。しかしながらいずれも決め手となるようなものはなく、倭の五王の正体については今のところ不明である。

  984. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:27:39

    倭の五王の遣使の記録が古事記、日本書紀に見られないことや、ヤマト王権の大王が、倭の五王のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないこと、古事記に掲載された干支と倭の五王の年代に矛盾が見られることなどから倭の五王は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代から存在した。特に倭の五王が九州王朝の王者であるとする説は根強く、古くは本居宣長が熊襲による倭王の僭称をする説を唱えていおり、戦後も学術誌に掲載されている。

  985. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:29:44

    筑紫君を討ったのが継体天皇で、配下が物部氏と大伴氏と言うのが歴史の面白味だよね

  986. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 19:34:13

    記紀には倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない
    継体天皇以前の編年は到底正しいとは言えず、記紀に伝えられた干支や系譜を元に倭の五王を推定するという試み自体をあまり意味がないとする意見もある

  987. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 20:29:09

    倭の五王が天皇だとする理由は単にその時代に天皇だったからなんだ
    なんかがっかり

  988. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 21:31:52

    >982
    >当時の畿内大王墓にも匹敵する規模の古墳
    まさに磐井と戦った当事者の継体天皇の陵墓は、被葬者が分かっている数少ない古墳である今城塚古墳で、墳丘長は190メートル、大王陵であることを示す2重の周濠まで入れると350メートル。
    筑紫君磐井の墓であることがほぼ認められている岩戸山古墳は墳丘長135メートル。
    まあ100メートルを大きく超えているから大古墳とは言えるけど、古墳時代の全期間を通じて各時期の最大古墳は畿内に造営されている。

    畿内大王陵に匹敵するっていうのは巧い切り取りだよね、ミスリードするには。
    正しい数値を示す人がいなければ騙せたかもね。

    継体天皇より前の倭の五王の時代は最も大きな古墳が作られた古墳時代中期で、その頃には、今城塚古墳より遙かに大きな誉田山古墳や大仙古墳が畿内では作られている。
    九州倭国王が倭の五王という説では、倭の五王の墓はどの古墳に比定するの?
    九州でも古墳時代には古墳を作っているわけだから、王の墓が古墳じゃないってことはないよね?

  989. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 21:46:20

    >986
    >記紀には倭の五王の遣使に明確に対応する記事はない
    明確に対応する記事はないってことにしたいんだろうけど、835に書いたように雄略紀にはかなりはっきりと読める対応関係が示されている。
    あと929あたりに「おもしろそう紀」の引用があるが、宋書で冊封使を送ったと見られる3回分、呉の使いの来朝が日本書紀に記されていて、それ以外の遣使の帰国については天皇の淡路巡狩記事が対応していると考えられる。

    「明確」には対応しないけど、朝貢と書かずに呉(南朝:宋)とのやりとりは記録されてる。

  990. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/01(土) 22:57:45

    倭人の窓口としての代表政権である筑紫の倭(和)国は、九州と海北(任那)を含む周辺(中国四国の各西半)を直接支配したと思われる。そして、朝鮮半島南部の勢力争いに国力の多くを投入せざるを得ないので、大古墳を作る余裕はあまり無かった。

    一方、吉備や近畿の地方政権はお付き合い出兵の義理?義務?は有ってもそれほどの負担を背負うまでの謂イわれは無かったようだ。
    だから、吉備や近畿などは大古墳どころか巨大古墳を作る余裕があった。

  991. 名前:3254 投稿日:2017/07/02(日) 06:52:45

    >990
    概ね納得です。
    日本には3つの中心があったように思いますね。
    北九州と奈良と北関東、この3カ所を中心に、仏教や漢字などの文化を広めていったようです。
    北九州は倭の代表として、大陸との外交交渉、文化の輸入などを担当し続けた。
    北関東は武力によって大和連合の拡大維持に務めた。稲荷山古墳の金字が正しければ、4~5世紀は北関東勢力が大和拡大のために戦い続けたという事になる。
    また、6~7世紀の混乱は、大和に権力集中するまでのごたごたと考えると、遷都の数なども理解できるように思います。
    それらの事が書かれたのが古事記で、全て天皇の血筋がやった事に改変したのが日本書紀なのではないでしょうか。詳しく読んだわけではないですが。。

  992. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 07:05:36

    ※991
    概ね同意だけど
    東北と沖縄も忘れないでねw
    中央集権化には取り残されたけど倭種だぞ

  993. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 07:10:29

    ※971
    >壱岐は貿易港だったから人が集まってきただけだ

    当時貿易港として発展できるほど交易が有ったんですかね?
    食料さえ輸入する地が貿易で発展など有り得ないんですがw

    仮に貿易港だとしたら壱岐では貿易船に何を提供していたのかな

  994. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 07:19:20

    >993
    >仮に貿易港だとしたら壱岐では貿易船に何を提供していたのかな
    貿易港というより中継地だけどな
    そして中継地は、避難所であり安全を提供しているわけだ
    命より貴重なものはないんだから、半島と倭國の間にあるという地の利から、そこに寄って陸に上がって休めるというのは、何物にも変えがたい価値だというのは分かるよな

  995. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 07:53:58

    逆に考えると、
    輸入できるほど米産出して余らせてた地域が近くにあったわけで、当時の生産力もそれを運んで売買(交換?)する技術力も侮れない。
    少なくとも原始人やのどかな村落程度の弥生時代ではない。大陸からも国として認められるような機能をもった集団が沢山居た。

  996. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 08:22:58

    >991
    >詳しく読んだわけではないですが。
    詳しく読んでみてください
    古事記と日本書紀の間にそれほどの差はないですよ
    毛野の臣が皇別氏族であることなど、系譜に関する部分はほぼ共通です

  997. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 08:31:52

    >990
    >朝鮮半島南部の勢力争いに国力の多くを投入せざるを得ないので、大古墳を作る余裕はあまり無かった

    磐井の岩戸山古墳は結構な大古墳だと思うんですが、どうして作れたんでしょうね?
    西都原の男狭穂塚・女狭穂塚は、倭の五王の勢力圏ではなかったのでしょうか?
    それほどの大古墳でなくてもいいんで、倭の五王の古墳の候補を上げてもらいませんかね?

  998. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:05:43

    倭の五王が天皇以外でさらにその古墳もあったら新聞の一面だな

  999. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:08:35

    史書には「毛野」の名称自体は使われていないが、「上毛野」や「下毛野」の名称が見られ、これらは毛野が分かれた後のものといわれる。律令制施行後は、上毛野は上野国に、下毛野は那須を加えて下野国と定められた。この過程で「毛」の表記は省略されたが、「け」の読みは残されている。

  1000. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:12:21

    古事記、日本書紀には地域名称として「毛野」の記載はなく、当初より「上毛野」「下毛野」として記載されている。そのため同書からは、毛野の実態ひいては毛野とヤマト王権の関係は明らかではない。

  1001. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:16:02

    古事記、日本書紀には分割されたケースとして「筑紫」「吉備」の名があるのに「毛野」の名がないことなどから、その想定を否定する意見が一般的である。
    「毛野」は単に「未開の沃野」という程度の一般名称であり、「筑紫」「吉備」のような特別な名称ではない。

  1002. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:21:01

    考古資料では、古墳時代前期には東海地方由来の前方後方墳が多く築かれたほか、同地方由来の「S字甕」と呼ばれる土器も多く出土しており、畿内に対する独自性が見られる。
    この毛野政権とは別に畿内・吉備・日向政権などから構成された連合政権がヤマト王権であり、他に出雲政権、筑紫政権、濃尾政権の王権があった実態が近年明らかになっている。

  1003. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:25:08

    四道将軍は、崇神天皇10年に北陸・東海・西道・丹波の4方面に4人の将軍が派遣された。4人のうち大彦命は北陸道方面、武渟川別命は東海道方面に派遣され、2人は会津で合流したという。この過程において、毛野地域を含む東山道方面については記載がなく空白となっている。考古資料と照らし合わせると、この時点では毛野はヤマト王権にとって未開の地すなわち別の王権であったと考えられている。

  1004. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 09:33:31

    ttps://www.youtube.com/watch?v=1AtMji1VLQg

    これとか誰でも分かるように解説されてるから、
    歴史詳しくないのに議論してる兄貴たちは
    見て、どうぞ

  1005. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 10:59:50

    ※997
    なんかいろんな人に同じ事を絡んでるな、お前。
    なんでそんなに知りたいの? 自分で調べたらどうだよ。

  1006. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 11:39:52

    >999~1003
    遣隋使だか遣唐使の時代に、北と東は毛人の国で倭じゃないって自己申告してるんじゃなかったかな。
    毛人は支配下ではなく連合に参加する同盟勢力だった。
    その毛人を便利に使って西日本から南朝鮮までを征服するも、恩賞として与えた毛人の支配地域が増えてしまった(○○毛野など)。
    西への拡大が終了し逆に西から圧迫されるようになると、東の毛人が邪魔になり、毛野氏は滅ぼされ血筋や功績を抹消された。その後も蝦夷として毛人を駆除し続け東北まで征服した。
    こんな感じでどうだろう。

  1007. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 12:07:29

    先代旧事本紀「国造本紀」には「毛野国が上毛野国と下毛野国に分かれた」との記述があり、これをもって「毛野国」という同盟大国を想定し、それが強大なため分割されたという議論がなされていた。しかしながら「毛野国」の記述は史書の中でこの記載のみであること、『先代旧事本紀』自体が後世の潤色が多いことから本来独立王権である毛野地域をヤマト王権支配下と僭称したことが明らかである。

  1008. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 12:08:55

    毛野分割を示唆する伝承として日光山縁起の「神戦譚」が知られる。これは日光男体山・赤城山に関する伝説で、戦場ヶ原において男体山の神と赤城山の神がそれぞれ大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめたという。以上から、毛野が分割されるにあたって激しい領地争いがあったとする説のほか、日光山側の助けについた鹿島の神は畿内政権を象徴するとし、畿内から何らかの影響が及ぼされたとする説がある。

  1009. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 12:12:23

    崇神天皇の時代まで毛野地域は独立王国だった
    仁徳天皇の時代には征服され分割されている
    毛野地域の記録と畿内の記録では朝鮮への出兵の記録が違う

  1010. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 12:28:54

    >1005
    997が質問に見えるとかおもしろい切り返しだな
    答えられないのが分かってて訊いてるんだろ
    九州に倭の五王なんていないんだからその古墳なんてある訳ないんだよ

  1011. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 12:32:30

    >1008
    下毛野氏がもし宇都宮氏の事だとするなら(日光治めてたし多分そうなんだろうけど)、色々見えてきますね。
    宇都宮氏は、男系重視の毛人世界で、近畿の男系血筋を受け入れた。
    その宇都宮氏に加えて鹿島の紹介で毛野氏の親戚も味方に付け、毛野氏宗家である上毛野を討たせた。
    宗家が絶えた毛野氏は、強大な勢力としてまとまる事ができなくなり、それぞれ日本の州として組み込まれていった。
    こんな感じでどうだろう。
    >1009
    仁徳天皇は7世紀の人物だった?!
    まぁ、全部天皇が偉いって作り話でしょうね。
    毛野氏の功績を、天皇の血筋がやったことに書き直すため、毛野氏滅亡を古くする必要があったということでしょうか。

  1012. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 13:53:19

    上野名跡志では、和名抄に見える「下野国」河内郡の「衣川郷」が元々は「毛野郷」であったとして、「毛野」の地名起源を下野国とする説が最有力である。

  1013. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 13:56:25

    先代旧事本紀「国造本紀」には、景行天皇の時期に那須国造が設けられたと記されている。これは仁徳天皇の時期に設けられたとも記す下毛野国造に先行することから、那須国造の領域は毛野に含まれなかったと解されている。そしてのちの令制国設置にあたり、下毛野と那須は新しい「下毛野国」としてまとめられたとされる。ただし、那須国造の存在を疑い、那須地域も含めて下毛野であったとする考えが主流である。

  1014. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:04:18

    古くは魏志倭人伝に見える「狗奴国」を「毛野国」にあてる説もあった。しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明した。そのため、近年では狗奴と毛野は全く別のものと考えられている。

  1015. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:04:38

    毛人(えみし)と毛野(けの)がごっちゃになってるが
    上野国(かみつけの国)は上毛野(かみつけの)氏が支配していた
    毛野は天皇が与えた姓で崇神天皇の子孫とされる
    毛野は天皇御三家の一角みたいな感じでね?

  1016. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:11:45

    古事記、日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。常陸国風土記には、足柄峠以東は「我姫」とみなされたこと、その分割が孝徳天皇の時代に行われたことが記載されている。この認識は日本書紀、大化2年の東国国司に対する詔の内容や、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現にも見られる。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたことが分かる。
    また古事記では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持つ半ば独立した地域であった。

  1017. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:17:04

    崇神天皇48年、崇神天皇皇子の豊城入彦命が東国経営を命じられたという。豊城入彦命の付記として「上毛野君・下毛野君の祖」と記しており、その後も子孫が毛野に深く関係している。このことから、ヤマト王権が四道将軍の時には未開の地であった毛野の経営に着手したと解釈される。ただし、豊城入彦命とその孫・彦狭島王の時点までは、毛野の地に入っていない。
    景行天皇の時代には、武内宿禰が北陸・東国に派遣されて地形・民情を調査し、翌々年に帰還した。そして景行天皇40年に東国が不穏となり蝦夷が反乱を起こすにあたって、景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている。
    景行天皇55年に彦狭島王が東山道十五国都督に任じられたが、途中で没したため御諸別王が東国に赴いて善政をしき、蝦夷を討ったという。これをもって、御諸別王が実質的な毛野経営の祖と考えられる。

  1018. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:19:04

    御諸別王の後は、対朝鮮・対蝦夷の軍事・外交に携わった上毛野氏各人物の活躍が記述される。大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と呼ばれる上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。

  1019. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:30:33

    邪馬台国ヤマト王権同一派の方が毛野君を重視したのが不思議だった
    源氏みたいに皇族の一派だね
    5世紀後半から6世紀前半に現地勢力を滅ぼして成り代わって現地人を従えたようだ
    同一派さんは毛野君=現地豪族=3世紀からの同盟国として畿内のヤマト王権は列島全ての勢力と同盟であり支配していたから邪馬台国からずっと列島全域がヤマト王権だったとしたかったのかな?
    普通に独立勢力を滅ぼして統一しただけだね。

  1020. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 14:45:17

    >1009
    >崇神天皇の時代まで毛野地域は独立王国だった
    >仁徳天皇の時代には征服され分割されている
    >1016
    >古事記、日本書紀』には「毛野」の名称自体の記載はない。代わりに毛野含め関東諸地域は「東国」の名で記載される。常陸国風土記には、足柄峠以東は「我姫」とみなされたこと、その分割が孝徳天皇の時代に行われたことが記載されている。この認識は日本書紀、大化2年の東国国司に対する詔の内容や、毛野出身諸氏族に対する「東国六腹朝臣」の表現にも見られる。これらをもって、関東地方は古くは「東国」として1つのまとまりを持っており、律令国家形成の過程で8つに分割されたことが分かる。

    三十六代孝徳天皇時代645~654の関東分割が、十六代仁徳天皇にされている。明らかに矛盾してますね。

    >また古事記では、「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており、東国は王権(天)とも化外(夷)とも異なる性格を持つ半ば独立した地域であった。

    源頼朝が東夷を名乗っていたから、東夷で毛人を表すのだと思ってましたが、
    東・夷、あずまとえびす連合が、天から領地を取り戻した戦いだったのですね。

  1021. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 15:04:28

    下毛野国造は下野国を支配した国造。
    もと毛野国造で、仁徳天皇朝に上毛野国造と分裂した。

  1022. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 15:06:46

    考古資料においては、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方、武蔵の埼玉古墳群(武蔵国造の本拠地)が成長するという傾向が見られる。

  1023. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 15:08:35

    東夷は東の野蛮人ではなく東国と蝦夷の意味なのかもな

  1024. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 15:29:59

    >1017
    景行天皇
    諸国平定を行い、子のヤマトタケルも諸国へ派遣した。80人子供がいたが、3人を除き、地方に送られ在地豪族となったという。

    うーん、これは無理矢理感が出てる。連合国を皆親戚として扱ってるのでは。

    >景行天皇皇子のヤマトタケルが東国討伐に派遣された。その東征ルートでは、依然毛野地域は外されている。
    倭建、当て字で使ってた時代の文字をヤマトタケルと読ませるより、倭建=獲居ワケで毛野氏や関東勢力使ったのでは。
    坂上田村麻呂辺りも、この古事に倣ったんじゃないかなぁ。

  1025. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 15:48:51

    日本書紀では主に「日本武尊」、古事記では主に「倭建命」と表記される

    景行天皇皇子で、仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

    本の名:小碓命
    亦の名:倭男具那命、倭男具那王
    のちの名:倭建命、倭建御子

    日本武尊の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、日本書紀での表記は同書上でそのように位置づけられたことによる

    なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」が正しい。「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではない。

  1026. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 16:15:29

    >1025
    >「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではない。
    こんな事も知らないやつが、日本武尊をヤマトタケルと読ませてたんかーい。
    と思ったけど、知ってて読ませてたとしたら、
    倭健、日本武尊は、野蛮人の功績を指していたとしたら・・・。
    疑いだしたらきりがないなー。

  1027. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 16:20:28

    よく考えてみたら、日ノ本は東国だよねぇ。
    関東分割から数十年後に上毛野氏を討ったとして、倭が日本号を・・・。
    きりがないな。

  1028. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 16:29:34

    >1024
    景行天皇から応神天皇までの系譜は、一番複雑で無理があるところ

    >80人子供がいたが、3人を除き
    この3人が曲者で、3人とも太子(ひつぎのみこ)とされている
    一人は稚足彦尊で、成務天皇になってるから太子で問題ない
    一人が日本武尊で、仲哀天皇の父であり後の皇統はすべて日本武尊の子孫だから、太子とされるのも問題ない
    最後の一人が五百城入彦皇子で、さしたる事績もなくなぜ太子とされているのか不詳
    一応理由付けとしては、応神の后妃が五百城入彦皇子の孫(3人)で、そこから仁徳や、後の継体に続く皇子が生まれているからとは言える

  1029. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 17:05:44

    ※1026
    熊襲梟師「女装して我を倒したお主にタケルの称号を授けよう」
    倭男具那命「これからはヤマトタケルと名乗るべし」
    景行天皇「おい、野蛮人皇子。ちょっと東を征伐してこいや」
    倭建「おかのした」

  1030. 名前:名無し猫 投稿日:2017/07/02(日) 17:11:44

    「蝦夷」 ツッコミ禁止
    蝦夷族は狩猟、焼畑を生業とし土地に執着せず住居も簡素だったが、甲斐駿河(華奴蘇奴)、遠江(対蘇)、信濃(姐奴)、北陸(躬臣)は早くから大和に帰順し稲作を始めていた。

    最大勢力の狗奴は前橋を本拠地にして東北の一部まで支配していた。狗奴の王子弓呼(ココ)は霊力があったので卑弥呼から卑弥弓呼(ヒミココ)の名をもらったが 天地の神々は蝦夷地にも存在するとして 大和とは一線を画していた

    その後 狗奴と華奴蘇奴の争いが起こり、大和にも波及した。ミマキ彦は属国に出兵を要請し一万数千の軍勢を北上させ弓呼を討ち取った

    弓呼の亡き骸を見た卑弥呼は 自分の霊力の限界を悟り自殺した 西暦248年 89才だった

  1031. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 17:41:32

    東国を狗奴国に比定するには無理があるんだな
    四道将軍は簡単に東国を征討した
    会津で合流したとすればかなりあっさり進軍している

    どうも東国はヤマト王権にかなり協力的だったと感じる
    宿敵という感じはしない
    東国の神の鹿島様が春日大社にいるし神武東征には鹿島神が手を貸したとある
    むしろ古代から天皇を応援する側にいた気がする

  1032. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 18:42:58

    毛野地域は東海地方からの植民
    邪馬台国時代は大規模な遺跡はない
    武蔵国の支配の強まりと共に下毛野地域はヤマト王権に取り込まれるが上毛野地域は独立している
    御諸別王の時代には上毛野地域も取り込まれる。

  1033. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 18:43:18

    ※938
    二期作は、文献での初出は江戸中期の1761年。
    苦しかった農民の試作にすぎず、失敗している。
    二毛作については、鎌倉時代。
    もし行われていたのであれば、国策として稲作を挙げている以上、ほぼ確実に記紀に記載されるだろう。

    九州王朝だけで、三国志時代の蜀はおろか呉と同等レベルっていうのは、もうすこし文献なり、遺跡規模なりの物証がないと、ちょっと厳しい。

  1034. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 19:04:27

    毛野はヤマト王権の侵略から逃れた濃尾、東海地方の王族かもな

  1035. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 23:05:45

    >1033
    呉の滅亡直後くらいに、鏡製作技術を学んでいるけど、稲作2回に増やす技術のが簡単だと思う。
    呉の影響は早い時代からあった、というか、呉越地域から海越えて稲作が伝わったのだから、近い技術があることに不思議はない。
    後は2000年前の稲で、呉よりはだいぶ北の九州二期作が可能かどうかじゃないかな。

  1036. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 23:34:49

    ※1033
    二期作だと1年が2倍になる
    倍年説の完成やでw
    だから邪馬台国に100歳以上が普通だった
    神武天皇の没年137歳も68歳でフツー

    間違ってるのは歴史書ではない
    現在の常識だ

  1037. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 23:40:54

    倍年説の根拠は日付にもある
    不思議なことに初期の天皇の死亡日は15日までしかない
    確率的に有り得ないレベルで16-31日が出てこない

    たぶん月を陽と陰で分け
    古代は一月が1-15日までしかなかったと思われる
    で中国に怒られて改めたようだ

  1038. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/02(日) 23:56:29

    稲は草で極端に言えば雑草と同じ
    稲刈りしてほっておくと勝手に伸びて穂をつける
    温暖地なら収量は低いがそれだけで二期作が可能

    現代の「耕耘→代かき→田植え」は収量を極限まで上げるための手段
    江戸時代だって全国でしていたわけじゃない

  1039. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 02:00:40

    太陽神が居る高天原って、関東(日ノ本)の事なんじゃね?

  1040. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 04:30:59

    人口問題は九州説にとっては致命的
    根拠もなく二毛作だの鉄器による高い生産性だの強弁してるだけで何の証明もできていない
    面積が狭いんだからどうにもならん

  1041. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 05:25:41

    ※1010
    横からだったが、バカだね。
    記紀によれば、剣鉾を祭器とする九州勢力の支配層の一員の豪族だったが、神武の長兄の五ケ瀬セノ命が族長の時に権力闘争に負けた?のか行き詰まってきて、福岡の岡田宮(九州勢力の支配体制の中心地の一つか?)に集まって相談し、東方の良き地の芦原中ナカツ国へ植民=移民しようと決めたとあるぞ。

    つまり、九州勢力の主体はそのまま残り、そこから弾ハジかれた一部の勢力が手を切って山陽地方を何年もかけて何ヵ所かを経由(そこでは戦って征服した訳で無く、伝ツテを頼って居候して勢力を保持)して東方へ進み、遂に大阪湾上陸戦を迎えたんだよ。

    ソコには銅鐸を祭器とする文化圏(矢尻は石器)の中心地の大阪・奈良の諸豪族を束ねる長スネ彦(王?大将軍?)が待ち構えていて敗北し、族長で長兄の五ケ瀬命まで戦タヒして追い払われた。 
    しかし、矢尻まで鉄製にするほどに武器の威力で勝マサる九州圏の勢力なのに負けたのは無能だからでは無く、九州勢力の支配体制の主力では無いどころか、ソコから弾かれた一部で大差のつくほどの少数勢力だっただけだ。
    後は知っての通り、後を継いで族長になった末弟(後の神武)が南(熊野or吉野)に迂回し、敵の非力少数の留守部隊しか居ない隙を突いてとりあえず奈良盆地を制圧できた。
    これで、剣を祭器=神器とする九州系の新たな支配者によって銅鐸は、まず、中心地だった奈良盆地で廃棄され始めた。
    これは考古学ではその時期は2世紀半ば頃とされている。つまり、神武東征は卑弥呼の1世紀くらい前に行われた訳!

    そして、シナの歴史書では、倭国は女王以来の国で阿蘇火山があって敬ってるとなってる。 悔しくても仕様が無いな。倭の五王は近畿天皇家でなく九州倭(和)国皇帝家なんだよw

    後は言わなくても、質問の答は常識的に解ってるじゃネーか!  と言うか、答えても倭(和)国と日本国は別物との結論は変わらんぞ。 なのにイジイジジトジト絡むからバカにされてんだよ。  まぁ答えても良いけど、まず別物論を認めた上で二度とこの話題も、この関連スレッドには書き込まないと信用出来る約束をすればだな(笑)

  1042. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 05:36:07

    単純に連合王国の主導権争いがあってどこの勢力が主かって話だけでしょ。
    神武東征の話もあるし、磐井の乱を鎮圧した話もある。つまり九州勢力が畿内勢力を従えることも逆もあったということ。で、その中で九州勢力が委奴=倭=和=ヤマタイで、それより東にある日いづる新興畿内勢力の自称が日本で何の不思議もない。で、完全に統合したのが大和政権。主体がどっちかは今となっては不明だけど、神武東征が最初にもってこられ、国内自称が大いなる和(大和)、首都のあるところが大和(奈良県)ってことは、九州勢力が畿内勢力の中心地に居座る形での統一だった可能性が強いじゃないかねぇ? 明治維新もそんな感じでしょ? 対外的には畿内勢力の面子を立てる&中国式には良い意味になる『日本』を採用ってあたりじゃないかと。ただし、この辺の本当のことは考古学が進んでもたぶんもはや判らない。

    中国から見たら族長の主導権交代なんてよくわからんわけだし、大きな興味もないでしょ。中国に派遣された使者にも九州閥と畿内閥がいて両者で言うことが微妙に変わって『信用できねー!!』って感じかと。

  1043. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 06:58:00

    九州がそれほど巨大な勢力なら、魏からわざわざ王に封じられる必要もないかと。

  1044. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 07:36:00

    日本は東の古称。

    大化の改新を進めてようやく東の分割に成功し、国造である上毛野君、下毛野君などができた。
    1020に書いたとおり、仁徳天皇時に関東分割というのは、記紀の他の記述にも風土記にも考古学にも矛盾する記述であり、仁徳天皇の功績が詐称されている事は明らかである。

    隋書には、使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
    天を兄とし日を弟と為す、弟に政務を委ねる、隋皇帝はそれを改めさせた。
    (引用:開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたる。この年に遣隋使の記録はないが、中国側の記録の正確さや、ウソをつく理由がないことなどを考慮して、隋書を信じるべきであろう。逆に言えば、日本書紀はウソを書く理由があると言うことである。)

    これは、毛野氏を中心とした縄文混じりの独自文化、鈴祭祀などが、ちょうどこの時期に消えるという考古学とも一致する。弟とされた日とは東の事である。
    また、古事記から、天、日(東)、?(夷)と考えた時に、これはあまてらす、すさのお、つくよみ、の3つを示すのではないか。暴れるすさのおにあまてらすが困らされ政務放棄する話や、すさのお-おおくにぬしの国譲り、つくよみの記述が少ない事もこれで説明がつく。

    旧唐書に 至二十二年又附新羅奉表以通起居 とあるように、
    二十二年=648年の新羅を通した遣使までが倭であり、大化の改新が進み、東(日本)を勢力圏に入れた後はその国号を使った。
    日本を名乗り始めた国は、東出身の中臣氏が補佐し、後に藤原氏として皇室と密接に繋がったため、日本(東)が倭を侵したのか倭が日本を合わせたのか判らない、という記述もよく理解できる。
    国譲りが天と日の兄弟国の話だとしたら、この神話は藤原氏などの東視点で書かれた物であろう。

  1045. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 07:40:03

    >1041
    遠吠え乙
    自信があるなら倭の五王の古墳プリーズ!

    倭の五王が九州王朝なら、日本史がひっくり返るね!
    早く新聞でも学会でも発表すればいいのに!

    >二度とこの話題も、この関連スレッドには書き込まないと信用出来る約束をすれば
    自分の気に入らない意見は封殺しないと不安?
    まともに説得力を持って答えられない人は大変だね!

  1046. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 08:10:02

    1044
    物部氏の行動も素戔嗚尊と一致する部分が多く、香取神宮繋がりで鹿島の神と行動を共にし、東勢力に混ぜられていたのかもしれない。
    というか、謎の出自って、消された東(日本)がほとんどなんじゃ・・・。

  1047. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 09:16:44

    九州説の人は記紀は九州倭王家の歴史を盗んで九州の歴史が消されたといい、今度は東が消された、か

    消されたことにしておけば、ないところにはどんなことでも言えるから、便利は便利だけど

  1048. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 09:58:17

    >1016
    >「天語歌」の中で倭国を「天・東・夷」の3層構造と表現しており

    これ何のことかと思ったら、雄略記のこの歌(部分引用)のことだね
    本都延波 阿米袁淤幣理 那加都延波 阿豆麻袁淤幣理 志豆延波 比那袁淤幣理 
    本都延能 延能宇良婆波 那加都延爾 淤知布良婆閇 
    那加都延能 延能宇良婆波 斯毛都延爾 淤知布良婆閇 
    斯豆延能 延能宇良婆波  阿理岐奴能 美幣能古賀 佐佐賀世流 美豆多麻宇岐爾

    読み下しというか、万葉仮名を現代語に直すと
    上枝は 天を覆へり 中枝は 東を覆へり  下枝は 鄙を覆へり 
    上枝の 枝の末葉は 中枝に 落ち触らばへ 
    中枝の 枝の末葉は 下枝に 落ち触らばへ 
    下枝の 枝の末葉は あり衣の 「三重の子」が 捧がせる 瑞玉盞に

    これ、雄略天皇の宴会で木の葉が大杯に入っていたのを咎められて打ち首に成りそうになった「三重の采女」が、言い訳のために詠んだ歌で、だから自分の出身の「三重」と掛詞になるように歌ったものだよね

    これをもって、倭国が3層構造を持つという観念があったとするのは、難しいのでは?

    それに「天語歌」は、この後の大后と雄略天皇の御製と合わせて3歌で天語歌というのだし、大后と雄略天皇の歌には3層構造のことは一切出てこない
    これは三重の采女の機転を誉める(と同時にそれを許す雄略天皇の度量)を示すのが目的ということでよいと思う

  1049. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 10:51:09

    ※1020
    >源頼朝が東夷を名乗っていた

    そうなの?「征夷」大将軍なのに?
    へりくだって「田舎者」であることを強調したこともあるというだけでは?

    >天から領地を取り戻した戦いだったのですね

    清和「天」皇の子孫なのに?(平将門含め坂東武者も、桓武「天」皇の子孫だし)

  1050. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 11:07:32

    ※1044
    四道将軍やヤマトタケルの頃に東国は平定済み。
    日本を名乗り始めたのは、普通に中華を中心とする東アジア世界のなかで自らの立ち位置(東の果ての島国)と倭という名前が示す蔑称を理解認識しただけでしょう。

  1051. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 12:34:27

    四道将軍は栃木と群馬は平定していないよ

  1052. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 12:45:48

    ※1045
    妄想マミレの遠吠えはオメーじゃん、ナメクジくんw
    学者もそうだか新聞がなんだって、頓珍勘!

    良いから反論しろよ(笑)

    現代史では、WW2の勝者に都合良く勝手に歴史が語られ、日本は侵略者として断罪されているが、これがポリティカルコレクトネス(勝者の政治に都合の良いものを正しいとする事)で逆らえずに押さえ込まれて反論を許されず、それに乗っかる形でシナチスや千ョンコーが日本叩きに嬉々として熱中している。

    勿論、歴史学は事実に基づいて真実を追求するアカデミックなもので、勝者に都合の良いポリティカルコレクトネスと戦って引っくり返す責務を持つ。つまり、歴史修正主義こそが正しく、且つアカデミーの使命だ。

    翻ヒルガエって日本古代史を見てみると、全く同じ構図だw
    古代に於ける倭(和)人の最終統一支配者という勝者の近畿天皇家に都合の良い勝手な歴史(代表は日本書紀)がポリティカルコレクトネスとして君臨し、九州倭(和)国の歴史を消去して日本国の歴史として横取りしている。

    つまり、倭(和)国・日本国別物論を叩いて貶オトシめてる同一論の近畿派のクソ共は、日本悪玉論に乗っかって嬉々として日本を断罪して叩きまくるシナカスや千ョンコーと同じくポリティカルコレクトネス(東京裁判史観と皇国史観)を信じてor利用し、同じ行動を取っているんだpgr

    当然、アカデミックな立場に立つ者は日本悪玉論とも日倭(和)同一論とも戦う歴史修正主義者でなければ、真理の探究者足り得ないんだ プークスクス

    そして、反日醜ブ左翼千ョンコーらは皇国史観を目を吊り上げて弾劾するくせに、東京裁判史観は金科玉条にして嬉々として日本断罪に走るという、不誠実で卑劣な矛盾を平然と犯していた。昔は儂も左翼にカブレてたが、45年前の高校時代に違和感を感じ始め、その10年後くらいからその矛盾もあって意識して次第に離れ始めた。

    もし、現代世界史の東京裁判史観というポリティカルコレクトネスがオカシイと思ってるなら、それは無意識でもアカデミズムに立っているからだし、それなら日本古代史でも一貫し、近畿派の日倭(和)同一論という皇国史観とも対峙せよ! 卑劣で不誠実なご都合主義に嵌まるな!

    と言っても、反日醜ブ左翼千ョンコーら同様の精神構造だから無理だよな、近畿派は(笑)

  1053. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 12:52:26

    天語歌についての論文読んだら海人部や天語連とか纒向の日代宮、泊瀬朝倉宮なんかが出てきて深かった
    色んな学者が中央である天と地方との関係をこの歌に見出してる
    3層構造説はそれなりに支持されているようだね

    論文と参考文献多すぎ!

  1054. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 13:17:05

    ※1052
    反日醜ブ左翼千ョンコー=アンチ皇国史観=アンチ近畿天皇史観=おまえ

    ってことだよね?

    反日醜ブ左翼千ョンコーとおまえの精神構造が全く同じなんだよ

  1055. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 13:22:44

    ※1051
    そこは豊城入彦命かな

  1056. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 13:31:46

    記紀って、別に近畿天皇に都合の悪いことなんて隠蔽してないよね。
    ヤマトタケルは汚い手を使ったとか書いてるし、アテルイもいい感じに書いてあげてるし、九州から東遷したとかも書いてる。昔から征伐したところの民族に「気を使ってあげる」優しく徳が高い文化性があったんだろうね近畿大和天皇家は。

    そんなに気を使ってもらってるのに、近畿大和天皇に征伐された恨みを忘れられずにどうしても近畿天皇=悪としたいのかなー蝦夷や熊襲の人たちは。それって丸っきり朝鮮半島の人たちと同じだよね。

  1057. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 14:03:33

    正しいと言われる口伝を集めて編纂した記紀が九州を隠す理由がよくわからない。(事実なら真偽問わず、正史たり得なかった古文献にも痕跡あってもおかしくないと思う。)
    むしろ他の豪族などのように倒して統一したと公言したほうがいいと思うがね。

  1058. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 14:13:40

    朝昼工作部隊が今日も湧くw
    九州説って、5月の話題をまだ引きずってるのか。
    >1056
    くっさいなー。

  1059. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 14:16:02

    >1052
    学者も新聞も関係なく、
    「倭の五王の古墳」と考えられるものの候補を挙げてくれればいいんだが?
    学者も新聞も関係なく1052の私的な研究の結果の考えで十分だから、とにかく候補を挙げてみてくれ

    1041で「後は言わなくても、質問の答は常識的に解ってるじゃネーか!」というくらいだから、誰もが納得のいく候補を挙げてくれると期待してる

    まさか、九州倭王の古墳が畿内にあるとかはいわないよな?

  1060. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 14:28:41

    ※1058
    図星突かれて痛いんですねwわかります

  1061. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 14:34:58

    多元王朝説は、アンチ皇国史観の左翼が流行らせたもの。

    しかしどうしてもその証拠が出ないのでもうオワコン。
    ウヨっぽいことを口走ってるのはただのカモフラージュで
    やってることは左翼丸出し九州王朝東北王朝説。

  1062. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 15:52:11

    1052とかで「翻ヒルガエって」みたいな半角カタカナの読みが付くのはどうして?
    日本人ならそんな書き方しなくても読めるよ
    識字率99%超の国は伊達じゃないんだから
    逆に普通の日本人ならこんな入力、面倒くさくてやってられないだろうに

  1063. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:06:42

    ※1054
    よっぽど悔しいんだ! 
    いつものすり替え捏造歪曲しかできてネーじゃん、クソ虫さんよぉ(笑)(笑)(笑)
    良いから中身で反論してみろよ、空っぽ千ョンコー!!!

    反日醜ブ左翼千ョンコーら!      日本を愛する保守
      ∥                  ∥
    東京裁判史観の日本悪玉論       日本の自存自衛戦争論←←儂!
      ∥                  ∥
    ポリティカルコレクトネス       アカデミックな
    (勝者に都合の良い歴史)         歴史修正主義
      ∥                  ∥
    皇国史観の近畿派・同一論       九州派・倭(国)日本別物論←儂!
      ∥
    テメーらクソ虫

    とにかくこれで良いから中身で反論してみろよw

  1064. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:12:58

    記紀は勝者近畿天皇に都合の悪いストーリーも書いてるから、(勝者に都合の良い歴史)ではない。

    日本の中心近畿天皇に従わないおまえは、日本を愛する保守どころか反日醜ブ左翼千ョンコーである。

    はい論破

  1065. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:19:20

    ※1063
    勝者日帝を叩くニダ!
    我々を討伐した歴史に向き合わない日帝を許すなニダ!
    日帝に謝罪と賠償を要求するニダ!

    こうですか?w

  1066. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:20:26

    ※1059
    やっぱり、身勝手なことを言ってるぜ、反日醜ブ左翼千ョンコーらと同じなのか!

    ※1041, の下2行の条件を呑んで従えよ! 虫のいい卑怯モンじゃ無いならな。

  1067. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:20:59

    やっぱり歴史コンプレックスって人を狂わせるんだなあ…

  1068. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:49:04

    本当だよな、別にヤマト王権が邪馬台国時代は畿内だけしか支配してなくても、朝貢は別勢力が行なっていて朝貢したことがなくても歴史は歴史でいいじゃんね

  1069. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 17:55:21

    磐井の乱の毛野は近江毛野だな
    武内宿禰の後裔で近畿の皇族系豪族だから毛野君関係ないね

  1070. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 18:04:57

    筑紫君磐井は姓が君だから元地方王族のヤマト王権家臣だね
    いつ頃支配下に入ったかはわからないけど允恭天皇以降だろうね

  1071. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 18:11:10

    ヤマトタケルは、数名の実在した人物をモデルに作り出されている。
    「古事記」と「日本書紀」の違いは数名の人物を統合して作られた人物であることに由来する。
    ヤマトタケルの父の第12代景行天皇、ヤマトタケルの息子とされている第14代仲哀天皇。また13代の成務天皇は創作の人物である。
    これは、第12代~14代までの天皇は「タラシヒコ」という異名・御名を持っているが、この名は第34代舒明天皇・35代皇極天皇と共通していることから、7世紀前半ごろに創作されたことは学会での常識である。

  1072. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 18:49:03

    ※1061
    バカか? すでに書いたぞ。
    反日醜ブ左翼千ョンコーらは、日本古代史の勝者に都合の良いポリティカルコレクトネスの皇国史観をアカデミックな歴史修正主義に立って批判しながら、
    現代世界史では逆に、ポリティカルコレクトネスの東京裁判史観=日本悪玉論に立ってアカデミックな歴史修正主義の日本自存自衛戦争論を叩くという、
    不誠実で卑劣な矛盾を犯した。
    それは、とにかく日本を叩けるならなんでも良いという本音を優先してるからだ。

    俺は、勝者が好き勝手に歴史を作って良いというポリティカルコレクトネスが真実を探究する近代科学に反するから、歴史修正主義の立場に立ってそれと闘う点で一貫してる。
    だから、勝者による日本悪玉論も皇国史観も共に排したので、結果として、日本自存自衛戦争論と九州派の別物論に辿タドり着いた。

    さて、近畿派・同一論の諸君に問う。古代史ではポリティカルコレクトネスの皇国史観に立つなら、現代史では同じポリティカルコレクトネスの日本悪玉論に立って日本を断罪叩くんだな。それなら不誠実で卑劣だという矛盾はない。
    最も、正しい訳ではないぞ! 何せ、どちらもポリティカルコレクトネスで真実を否定して勝者の身勝手な政治的都合を優先し、100%アカデミズムに反してるからだ。

    実は近畿派の同一論者の多くは、古代史ではポリティカルコレクトネスの皇国史観に立ちながら、現代史では日本自存自衛戦争論に立って擁護したいんだと予想してるが、もし、そうなら首尾一貫できずに論理的に矛盾破綻して身勝手な自分の都合を優先してる醜さから逃れられずに、アカデミックで無い上に人として許されないほどの卑怯卑劣さで、人間的にはもろ千ョンコーやんけw

    ついでに、簡単に表した ※1063 も見てくれ。 なお、儂は乱視と老眼だが、一部の漢字には半角カタカナの読みをつけてる。確かに、面倒くさいがお節介な親切心としてスルーしてくれ。
    なお、ケーブルテレビに入ってネットをやってるが、腰が悪いからソファーに横になってリモコン入力してる。そのせいで入力に10倍近い時間がかかるし非道ヒドく疲れるから、一部にしか答えられんわい。

    さて、そろそろ夜の街へ出かけてくる、あばよ!

  1073. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:06:14

    出かける前に
    ※1064
    ネジまげスリ変えデッチ上げがお得意の千ョンコーやんけw ※1072 を読め。
    どうせ低能、否イナ、脳無しで心まで千ョンコー並みに腐ったオメーの言い訳はイランイラン!

  1074. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:06:37

    九州全域を大和朝廷が支配していたが、倭国系統の九州勢力が勝手に朝貢していたとの主張が見られるが記紀にはない上にもし本当なら大問題。

  1075. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:08:08

    1064
    古事記の都合悪いところを日本書紀で直したのはいいの?

  1076. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:19:22

    >1075
    そもそも、
    神武天皇が東征してきた征服王朝であるとか、
    その前にニギハヤヒの先行王朝があったとか、
    天孫降臨の前に国譲りが必要でその前の葦原の中つ国の王が大国主であるとかは、
    本来的に国の正統王権であるという主張を弱めるもので、大和王権の大王の系統=皇統にとっては都合の悪いところなんですよ

    それに、安康天皇が眉輪王に殺されるとか、雄略天皇が多くの皇子を殺すとか、こういったことも都合の悪いところですが、すべて日本書紀にも書かれています

    古事記の都合の悪いところは、日本書紀でも直っていませんよ

  1077. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:25:42

    目弱王は普通に焼き殺されてる

  1078. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:38:44

    雄略紀7年是歳条
    天皇は、吉備の臣田狭を任那国司に任命し、田狭が留守の間に彼の妻をお召し上げになった。田狭は恨んで新羅に通じた。その頃、新羅と日本は不和であった。天皇は新羅討伐に田狭の子を差し向けられた。

  1079. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:46:45

    日本書紀は不比等が鎌足及び中臣氏の正統性を求めて編纂した。日本書紀には中臣氏の先祖として、中臣烏賊津なる人物が登場するが、この人物は、不比等の創作であり、さらに、中臣氏のさらなる祖先は天孫降臨を行なった邇邇芸命とともに日本に降り立った神である天児屋命とした、つまり、この構図は、天皇家と藤原氏は一体であると強調したかったためである。
    よく日本書紀は天皇にも都合の悪いことが記されていると言われるが、実態は藤原氏に都合の悪いことが書かれていないため、天皇家中心ではないことが近年の研究により明らかとなっている。

  1080. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:49:35

    >1066
    >※1041, の下2行の条件を呑んで従えよ! 虫のいい卑怯モンじゃ無いならな。

    なぜあなたの勝手な考えを開陳するのに条件が付けられると思うのか、チャンチャラおかしい

    ご自分の考えに自信があるなら、条件など付けずに大々的に発表して相手を屈服させればよいのに

    で、倭の五王は九州説だと誰? 
    人物の具体名が挙げられないなら、被葬者不明の古墳でもいいって言ってるんだけど?
    まともな古墳すら作れない弱小地方豪族を倭の五王だとか言わないよな?

  1081. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 19:56:35

    >1079
    >実態は藤原氏に都合の悪いことが書かれていないため
    それはあるかもしれない
    そういう視点だと、藤原氏(不比等の子孫)が世に出る前で終わっている古事記が、日本書紀から完全に黙殺されているのも、それが理由かもしれない

    日本の歴史では、「母系」と「父系」の両方が貴種であることが皇統を継ぐことに重要なようで、古くは磯城の県主、途中からは葛城氏、その後一時期蘇我氏を母に持つ皇子が皇位を継いでおり、そうでないときは皇女を母に持つものが天皇になっている
    天武系の天皇と呼ばれる奈良時代の天皇は、父系が天武、母系が天智の皇女となっており、この組合せが正系とされていたように見える
    それを母系を藤原氏にしていくのが、不比等の思惑のように見える

  1082. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 20:15:11

    宮内庁が掘らせてくれない古墳の石室が九州式だったりして…。

  1083. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 20:20:30

    鎌足から不比等の中臣氏、藤原氏が本当に百済系なら邪馬台国や倭の歴史なんてどうでもよかったんじゃないかな

  1084. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 20:55:03

    古事記も日本書紀も編纂を始めた時期は、ほぼ同時期。完成は結構間が空いているが。
    藤原不比等(本名:史)がどちらの編纂にも携わった説があるくらいなので、悪くはかかれないでしょうね。

  1085. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 22:25:43

    藤原氏の元の中臣氏は
    日本書紀では神武天皇に付き従ったと書いてあるが
    古事記では中臣の遠祖はアマノコヤネと書いてあるだけ
    神武東征の従者に中臣は無い

    古事記と日本書紀を読むと
    古事記がボツなった理由がよく分かるw

  1086. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 22:48:09

    恐ろしいことに古事記では
    中臣も藤原もおまけで1〜2回でるだけw
    ボツ確定

  1087. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 22:57:04

    ※1084
    古事記では悪く書かれてないけどモブ
    日本書紀では英雄w

    ※1083
    藤原←中臣←鹿島←天児屋命
    古代の拠点は完全に東国
    藤原氏の先祖はエミシ

  1088. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:00:09

    つまり大和朝廷は
    東国から無限の支援を得られたから
    吉備や九州の巨大勢力に勝てたと考えられる

    これは鎌倉幕府や江戸幕府でも同じ
    東国を支配下に収めると結果的に西日本に勝利できるという構図がみえる

  1089. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:07:20

    ちなみに
    大和朝廷が総力挙げても
    東北全土は落とせなかった
    その時の苦戦が元になり
    武士の騎馬戦術も日本刀もエミシから影響されたと考えられている

  1090. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:21:02

    仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后と武内宿禰と中臣烏賊津三人が久山の斎宮で神の神託を聞く祭祀を執り行った。一人が神主、一人が琴を弾く、一人が審神者。日本書紀によると、この時は神功皇后が神主、琴奏者が武内宿禰、中臣烏賊津が審神者となっている。審神者とは、神が馮り移った神主が発する言葉の意を解釈し伝える役。武内が静かに琴を弾く中、天照大神が神功皇后に馮り移り皇后の口を借りてお告げを言う。「朝鮮半島諸国と国交を開くように、また皇后のお腹には男の子が宿されており、後にこの国を治めるであろう」。神の言葉は直接に解釈出来ない。その言葉の意味を中臣烏賊津が訳した。
    朝鮮半島進出の時。各地から出航した船が対馬を出発しようとすると、嵐が起きる。神功皇后と中臣烏賊津は3枚の苫に祈りこめて海に投げる。嵐を鎮めるお祈りをしたのは、祭祀担当の中臣烏賊津。嵐は治まり、3枚の苫は新宮湊の近くに流れ着きます。この地を三苫と呼び、のちに神社が建てられる。三苫の綿津見神社である。古代は香椎宮の末社であり、神官は中臣烏賊津の子孫である三苫氏が務めていた。このように神功皇后の両脇をナンバー2の武内宿禰、ナンバー3の中臣烏賊津が固めていた。

  1091. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:32:05

    武内宿禰の後裔の蘇我馬子は武力対決で物部守屋を倒す。中臣氏は朝廷の神職を司る氏族として、物部氏を応援してきたが武力闘争には加わっていない。しかし蘇我氏に対しては強い怒りを覚えた。勝者の蘇我氏は次の世代に移り、蝦夷・入鹿の時代には、並ぶ者なき強大は権力を手にする。
    中臣鎌足は「俺は代々神に仕える神官ごときで終らない」と決心、中大兄皇子と手を組みクーデターを計る。クーデターは成功し、蘇我氏は滅びる。二人は国家の改革、大化の改新を行う。
    鎌足は天智天皇より藤原の姓を賜わり、藤原氏が政治を、中臣氏が神職を受け継ぐように分けた。鎌足の弟の中臣垂目が中臣氏を継ぎ、その子孫は日本の神様を祀る総元締めへ登りつめる。伊勢神宮、鹿島神宮などの全国の神祗官トップは中臣氏の子孫が関係している。三苫の綿津見神社を守る神官であった三苫氏は分かれた中臣氏の子孫である。また「香椎四党」の一家でもある。

  1092. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:41:18

    552年に仏教が日本に入って来た。蘇我氏と物部氏の対立である。最初、物部尾興と共に仏教に反対した人に中臣連鎌子と言う人物が出てくる。欽明天皇の時代である。この宗教論争は排仏派の勝利で尾興と鎌子は寺を焼き仏像を難波の堀江に流した。この時に流された仏像が後に拾われ善光寺にむかうのである。その後、敏達天皇の時に宗教論争は再燃して物部守屋と中臣勝海は塔を倒して仏像や仏殿を焼いたという。
    この中臣勝海は父が中臣鎌子、中臣磐余、中臣真人の諸説が在りよくわかっていない。しかも、崇仏主義の蘇我氏と排仏主義の物部氏の戦いの時、勝海は排仏主義の物部側にあったはずが反乱計画の不成功を知って敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子に寝返り裏切る。この裏切りを物部側の舎人、迹見赤檮に殺されている。
    中臣連大鹿嶋、中臣烏賊津連、中臣連鎌子、中臣勝海これら人物のうち「古事記」には誰ひとりとして登場せず、中臣烏賊津連以外は中臣氏系譜にも登場しない。

  1093. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/03(月) 23:46:54

    鎌足の鎌(カマ)も足(タリ)も朝鮮語

  1094. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 00:21:07

    >1081
    蘇我氏の先祖は皇族だから天皇の母になる資格は十分
    藤原氏の先祖に皇族はいないから本来天皇の母にはなれない

  1095. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 00:23:05

    豪族の血が入るとその流れは途絶える天皇家の不思議
    皇族同士で子孫を作らないといけない呪いでもあるの?

  1096. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 00:42:18

    ※1080
    バ~カ、お前らは教えて欲しいんだから礼を尽くし、前に書いたように非礼を詫ワびて土下座から条件を満たすのが当然で、人の道を守れよ!

    そう言えば千ョンコーらも、日本に金を借りにくる時に偉そうにふんぞり反カエって、日本を断罪して悪口言って、おまけに借りてやるから有り難く思えなんていう厚かましくも無礼な態度を取るのが常だったと、中道左派の痔民党の或アる国会議員からかなり以前に聞いたよ。

    お前らも千ョンコーらにソックリやんけpgr

  1097. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 05:23:14

    ただの歴史好きな通りすがりです

    all japan : よし統一したで!大陸行くけどそういや倭の字よくないならこれから日本で行こうやよろしく

    中華 : 倭の人ようこそ久しぶり
    日本 : 日本です
    中華 : えっ、どう見ても倭なんですがそれはどゆこと?
    日本 : 色々大変なことがかくかくしかじか倭だけど日本みたいな〜(あーめんどくせー困った…)
    中華 : ほーん、じゃそれでいいや(なんか怪しい…)

    それだけのことなんじゃないだろうか

  1098. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 06:40:34

    >1097
    よし統一したで!

    この一言についてあーだこーだ語ってるんやで。

  1099. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 07:30:53

    >1098
    1097が言っているのは、推古朝以降のことだから国内(東北を除く)の統一はとっくに済ませた跡だよ

  1100. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 09:16:39

    >1096
    VANKとかテョンとか知ってる?
    別に1096の「教え」を乞おうなんて思ってないよ
    答えたら「あーあ、バカなこと考えてるんだなぁ」って思うだけだし
    答えられなかったら「まあ、その程度だよな」と思うだけだし
    どうせまともな答えなんかないんだろ? 無理するなよ!

    今どき、古史古伝ベースのウガヤ王朝だの、倭皇帝薩夜麻だの、どうやったらまともな顔で教えてやるとか言えるのか、不思議というよりむしろ不憫だな

  1101. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 10:08:15

    >1079>1081
    藤原氏は奈良の勢力だと思ってたのに、奥州藤原氏がいきなり大繁栄してるのがずっと疑問だったんです。奈良からの植民支配ではなく、藤原氏はもともと東夷に勢力を持っていて、その出自を日本書紀で改竄し奈良で繁栄した。
    謎が解けちゃった気がして鳥肌が立つ。

  1102. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 10:09:10

    >1090~1092
    物部守屋は物部氏の宗家ではなく、物部はしっかり朝廷の中枢にいて石上氏と名を変えて石上麻呂は持統朝で正二位の左大臣まで上っている。
    そして、蘇我馬子の妻の一人は物部の娘で蘇我蝦夷の息子の一人は物部大臣と呼ばれている。蘇我と物部は本来的に仲が悪いわけではない。物部大臣は名が皇極紀に出ているだけで、どのような人物か不詳で、一説には蘇我入鹿の別名ともいう。蘇我本宗家滅亡後は、その蘇我の財産血筋は物部氏が引き継いだという説もある。一方で不比等の妻(最初の正妻とも)は、蘇我倉麻呂の孫、馬子の曾孫であり、藤原氏も蘇我氏と繋がる。
    そして、藤原不比等が、持統朝以降頭角を現してくるのは、石上麻呂に引き立てられたからとも言われている。藤原不比等の三男宇合の妻は石上麻呂の娘で、子供同士を結婚(政略結婚?)させる関係で、石上麻呂が皇親政治の中で非皇族で最高位の臣として昇っていくとき、その麻呂の昇進後の空いたポストに不比等が就くことで、不比等も官職を上っていっている。
    こうして見て来ると、古代の雄族、葛城氏→蘇我氏、物部氏の系譜、財産が、すべて藤原氏に繋がっていると見ることができる。

  1103. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 10:19:46

    >1101
    申し訳ないが、奥州藤原氏の繁栄は、陸奥国の安倍氏、出羽国の清原氏が、ともに前九年後三年の役でつぶれ、清原氏の後妻の連れ子の立場にいた藤原清衡がその全てを掌握したのがきっかけであって、「藤原氏はもともと東夷に勢力を持っていて」というのは、確認されていない。
    まあ、その清衡の祖父の藤原頼遠が、平忠常の乱に連座したという説もあるから、その頃には関東に藤原氏の流れがいたのは確かだけれど、この乱は11世紀のものだし古代の話とは残念ながら繋がらない。

  1104. 名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/04(火) 10:38:44

    >1063
    >日本を愛する保守
    まともな日本人は、保守・革新を問わず、根拠もなく他人を貶める発言はしません
    あなたがまともな「日本を愛する保守」とは、とてもじゃないが認められません

    >日本の自存自衛戦争論←←儂!
    古代史と、20世紀の戦争の間には基本的に関係ないですよね

    >アカデミックな歴史修正主義
    アカデミックじゃないから、相手にされてないんですよ
    まったく科学的な根拠を挙げてないじゃないですか
    あなたが「アカデミックだと誤認」しているところがどこなのかすら分かりません

    >九州派・倭(国)日本別物論←儂!
    これが一番、頭が悪く見えるところですよ
    結局、大陸の史書の中の一書に過ぎない旧唐書の編者の主張(地の文)ですらない、引用の一説として書かれているだけの俗説が頼りの根拠のきわめて薄いことを信じているのが、どこがアカデミックなのですか?
    そして、旧唐書自体、正史としては出来が悪いとして新唐書が新たに編まれている訳で、その新唐書の中では倭国日本別国論