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会社をつくるということ。

さて、前回見たとおり、大航海時代の初期において、東アジアにおける覇者はポルトガル

そして、新大陸における覇者は、スペインでした。

→前回記事:香辛料美味すぎワロタwww

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ポルトガルの没落とスペインの繁栄

この2国が他のヨーロッパ諸国に先駆けて大航海時代へ突入できた理由は、14世紀後半という早い段階で、「中央集権化」に成功したからと言われています。

それまでのヨーロッパは、国内にたくさんの有力者がいて、権力が分散している状態でした。それが、一人の王様のところに集中する社会になったのです。

中央集権化」によって何が起きるかというと、

王様という強いリーダーシップの下、巨額の資本を投入できる

ようになるのです。

インド航路を自力で開拓するような「探検事業」は、莫大な資金が必要でありながら、成功する保証はありません。絶対権力者の主導が絶対に必要となります。

ポルトガルは、1415年~1503年のわずか90年弱で、インド航路を開拓したわけですが、この偉業は、当時のポルトガル王室の聡明な決断力(と領土拡大欲)のおかげと言えます。

香辛料貿易においては、見事に他のヨーロッパ諸国を排除して独占。
その利益率は数百%にも上ったと言われています。原価10円のものを60円とかで売るイメージ。笑いが止まらなかったことでしょう。

しかし、ポルトガルはそこからがうまくありませんでした。

そもそもポルトガルという国は、人口100万人くらいの小国です。現代の日本でいうと、千葉市くらいの人口ですね。

そんな小国が、全盛期には世界中に植民地を領有していたのです。

ポルトガル海上帝国の最大領土

これらをすべて平定し、支配を維持するためにかかるコストは膨大なもの。

想像してみください。千葉市が世界中に植民地を作り、それを統治し続けることを。

かなり厳しいですよね。荷が重すぎる。

こうして、貿易や植民地経営に富や人手が割かれ、ポルトガルは本国の維持すらおろそかになってしまいました。

こうして衰退していく中、ポルトガルにトドメを刺したのは、王家の断絶でした。

1580年、時のポルトガル王が、跡取りを残す前に逝ってしまったのです。
その結果、スペイン王フェリペ2世がポルトガル王を兼任することになり、ポルトガルは実質スペインの支配下に置かれることとなってしまいます。

この瞬間、ポルトガルが大航海時代の競争から脱落したと同時に、スペインは史上最も繁栄した時代に入ります。

フェリペ2世。スペインを絶頂期に押し上げた君主。

もともと、西インド(新大陸)方面に広大な植民地を保有していた所に、ポルトガルが持っていた東インド方面の植民地が加わったのです。

赤がスペインの植民地。青がポルトガルの植民地。

スペインは文字通り「太陽の沈まぬ帝国」、つまり、24時間365日、領土のどこかで必ず太陽が昇っている、巨大な帝国となったのです。

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イギリスの苦労

このように、17世紀にはいる頃までは他国を大幅にリードし、世界最強の帝国となったスペインでしたが、大航海時代の覇者となることはできませんでした。

すこし時代を遡って、1485年のこと。

スペイン・ポルトガルに100年もの遅れをとっていましたが、ようやくイギリスも中央集権化を成し遂げます。
そうして、ようやくヨーロッパの外へと目を向けられるようになったのですが、現実は厳しいものでした。

東回りインド航路はポルトガルの縄張り
西回りインド航路はスペインの縄張り
例のローマ教皇のお墨付き、「教皇子午線」によって、後発の国は排除されていました。

トルデシリャス条約。世界をポルトガルとスペインで半分こ

ローマ教皇が「白い」と言えば、カラスも白くなるのがこの時代。もともとカトリックを国教としていたイギリスにとって、教皇子午線を簡単に無視することはできません。

教皇子午線自体は、1506年には代替わりした教皇により「やっぱ廃止するわ」と宣言され、いちおうオープンにはなります。

が、そもそもインドへと至る航路はポルトガル自身が開拓したもの。その主要な港や拠点を他国にやすやすと使わせるはずがありません。

そこで、イギリスは「南へ進むのがダメなら北へ」と考え、1553年から北東航路を探索します。ロシアの方から北極海を通って最短距離でアジアへと至る夢のルートです。

北東航路

→海が凍って進めず、断念。この航路でアジアへたどり着くのは19世紀後半のこと

次に、「北東がダメなら北西へ!」ということで、今度は北西航路を探索します。北米の北から北極海を通って最短距離でアジアへと至る夢のルートです。

北西航路

→地形が入り組んでいてみんな迷子になり、断念。

これらの経験から、どうも北から回るのが無理そうだと分かります。

結局、イギリスはスペインが支配するインド航路へ殴り込みをかけるしかありませんでした。

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イギリス「スペイン船から略奪するンゴwww」

イギリスは、とりあえずスペインへの嫌がらせから始めます。

1553年に即位したエリザベス1世は、こっそりと海賊に出資して、スペイン・ポルトガルの貿易船を略奪させたのです。

処女王

エリザベス1世。
なお、愛人はたくさんいたもよう

この「海賊への出資」に対する利回りは4,000%にも上ったと言われ、イギリスの国庫に多大な貢献をすると共に、スペインの力を着実に削ぎました。

さすがブリカス。畜生行為ではありますが、一石二鳥の戦略とも言えます。


フランシス・ドレーク(1543-1596)。
この時代を代表する、海賊。懸賞金2億2千万ベリー。
のちに、世界一周したり、スペインの無敵艦隊を撃破したり、いろいろすごい人。



ウォルター・ローリー(1552-1618)。
貴族にして冒険者にして詩人にして海賊にしてエリザベス女王の愛人。
ちょくちょく新大陸へ赴き、イギリスにとって初めての、「新大陸における植民地」を築いたイケメン。

この海賊たちは、航海者としても優れた実績を残した人物も多く、イギリスの大航海時代に、海賊行為の枠を超えて、大きく貢献をしています。

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会社の素晴らしさ

ところで、この頃から、航海に出る方法がちょっと変わってきます。

それまでポルトガルやスペインが行ってきた大規模な探検・航海というのは、基本的に国家事業。

ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓や、コロンブスの新大陸発見も、王室が主導で行った、「新たな交易ルートの開拓」事業でした。

それが、徐々に民間の商人たちによって行われるようになったのです。

先に書いた北東航路の探索なんかも、「モスクワ会社」という会社による探索事業でした。

ただ、この当時の船乗りの生還率20%が物語るように、航海を伴う事業というのは超ハイリスクハイリターン

遠くまで航海をするには、何隻もの帆船を手に入れ、向こうで売る商品を購入して、命知らずな船員を集めて、航海に必要な物資を調達して…
というように、はじめに莫大な資金が必要となりますが、成功する保証はありません。

その上、「沈没」や「難破」はもちろん、「海賊」「乗組員の逃亡や持ち逃げ」等々、高額の投資がパァになるリスクを山ほど抱えていました。

ですが、成功すれば巨万の富が得られるわけですから、チャレンジする価値はあります。そうして、多くの商人が成功を収め、そして多くの商人が散りました。

やがて、商人たちは、なんとかして航海のリスクを軽減しようと知恵を絞るようになります。そうして生まれた仕組みの一つが、「会社」なのです。

感覚的な話ですが、

①1億円投資して5000万円儲かる

②100万円投資して50万円儲かる

※但し、どちらも20%の確率でパァになる。

どちらも期待値は同じなわけですが、皆さんならどっちを選びますか?

もし方々から借金して①を選んで失敗したら中央線に飛び込むしかありません。
一方、②なら失敗してもまだチャレンジできる可能性は残りますよね。

つまり、「100人で力を合わせて①にチャレンジ」=「一人一人は②になる」。
回数を重ねれば重ねるほど間違いが起こる可能性はドンドン少なくなっていき、期待値通りの結果が得られるというわけです。

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勅許会社

それともう一つの重要な要素が、「勅許会社」という仕組み。

民間の活動が活発になると、王様は「危ない橋は民間人に渡ってもらって、上前だけハネるほうが賢いよね」なんて考えるようになります。

そこで、王室は会社に対して「勅許」を出して、王様の名前で「会社設立の許可」と「一定の権利」を与えるようになります。

一定の権利というのは、例えば次のようなもの。

・新たに発見した地域での貿易を独占する権利・軍隊を持つ権利

・現地で独自の警察機構を持つ権利

・他国と交戦する権利

・銀行を設立する権利

・現地の王様と交渉する権利

etc…

東インド会社とか、なんで単なる「会社」ごときが現地であんなにデカイ面してたのか不思議だったのですが、王様からそういう権利を与えてもらっていたわけですね。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

この会社という制度は、特にプロテスタント国家において、大いに盛んになっていきます。

超ザックリ言うと、

・カトリック
利益を追求するような行為は卑しい。財産を溜め込んだりしてると最後の審判で救済してもらえないぞ。

・プロテスタント
神様が救済してくれるかどうかは、あらかじめ決まっていて人間には覆せないよ。
なら、禁欲節制して神様が与えてくれた自分の仕事(天職)に精を出そう。

プロテスタントの方の理屈は、本来は禁欲的に生きるための教えでした。
しかし、やがてこの教えが広まっていくうちに、「商売で得た利益は、天職を頑張った証である」と考えられるようになりました。

つまり、「利潤を得ることが正当化」されたのです。

そのため、プロテスタント国家における商人のモチベーションはメチャメチャ高いものでした。

なお、イギリスは、もともと敬虔なカトリック国でしたが、1538年にカトリックと袂を分かち、プロテスタントとなります。

そのきっかけは、時のイギリス王ヘンリー8世による次のような事件。

以下コピペ。

43: 風吹けば名無し 2013/11/28 10:14:52 ID:kbIUYkEKヘンリ8世「ババアと離婚して若いメイドと結婚するンゴ」
国民「なんやこいつ・・・」
教皇「それはアカンで」
ヘンリ8世「教皇うるさいンゴ・・・そうや!不倫OKの新しい宗派作ってワイが教皇になればええんや!」→英国教会設立

ヘンリ8世(1491-1547)。好色、利己的、無慈悲。

一方のスペインやポルトガルは、コテコテのカトリック。
この点からも、いずれは衰える運命であったと言えます。


そんなこんなで、王と商人たちの間にwin-winの関係が出来上がります。

王様は、商人たちの頑張りで「交易ルートの構築」や「植民地の取得」などを得る。
商人たちは、国のトップから絶対的な「お墨付き」を得て、事業が成功すれば儲けが確約される。

商人たちのモチベーションはイヤでも上がり、利益の追求に邁進するようになります。そして、彼らの活躍こそが、スペインのアジア独占を突き崩していくことになるのです。

次で完結します。

たぶん。

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