サグラダ・ファミリアの工事がなぜ終わらないのか。
この原因は、金がなかったから。
これに尽きます。
お金さえあれば、建設会社はどんな建物でも作れます。そして、工事にかかる費用も期間もバチっと約束できます。
というのも、1人の職人が1日に作業できる量というのは、だいたい決まっています。
なので、「1日何人が働いて」、「全体でどれくらいの量を仕上げるか」。それを工程ごとに計算していけば、延べ何日かかるよ、というのはある程度分かるわけですね。
あとは、人間と材料を投入していくだけです。
逆説的になりますが、サグラダ・ファミリアの建設工事がダラダラといつ終わるか分かんなくなっちゃったのは、金をうまく調達できなかったという事に他なりません。
サグラダ・ファミリアの建設費www
お金は大事。当たり前ですね。
資材の調達、職人の賃金などなど、何は無くともまずはお金がないと始まりません。
建設当初から現在に至るまで、サグラダ・ファミリアの建設費は寄付と観光収入だけで賄われてきました。
サグラダ・ファミリアは「贖罪教会」であります。
贖罪協会というのは、人間の背負った現在を浄化するために建設されるもの。
したがって、浄財(=寄付)のみによって支払われなければ、そもそも贖罪にならない。建てる意味がないのです。
そういった事情から、チンタラ工事をしているというより、お金が許す範囲でしか工事を進められなかったといったほうが正確ですね。
じゃあ、完成までいくら必要なのかというと、公表されていないのでわかりません。
2009年の建設予算が23億円くらいのようです。ただ、観光客がたくさん訪れるようになって、資金が潤沢になったのは1990年代以降の話。
その辺から、だいたいなんとなくで適当に計算すると、総工費1500億円※くらいな気がします。
※
1982年~1989年:信者60万人が毎年1,000円ずつ寄付して6億円×107年分
1990年~2026年:23億円×36年分
→642億+828億=1470億円というガバガバ計算。
でも、大林組によればピラミッドが5年1250億らしいので、だいたいそんなもんやろ。
設計開始
では、建設過程について、年表式に見ていきましょう。
とりあえず、アントニ・ガウディが、サグラダ・ファミリアの設計士に就任するまでは前回の通り。
ガウディが就任した時点では、既に工事がスタートしていました。
着工当初のようす
1883年~
この年、正式に設計士に就任したガウディは、前任者の設計を破棄し、一から設計を始めました。
これを
↓
このように
青が元々の設計部分。赤がガウディが追加・変更した部分。
元々の設計と比べると、かなり複雑化・巨大化しているのが分かります。
この「最初」の全体計画は、ガウディ設計着手から2年後の1885年頃に一旦まとめられたものです。
余談ですが、この頃、ガウディは小学校教師の女性に恋をします。
しかし、職人気質で口下手、背も低く決してハンサムとは言えないガウディは、まったく相手にされず、恋ははかなく散りました。
1886年~
こうした設計の練り直しと並行して、地下の工事は粛々と進められていきます。
工事中の地下聖堂
着工してから6年で、地下聖堂が無事完成。
かなり順調に工事が進んでおり、この時点では、関係者たちは自分が生きているうちに完成しないなんて、夢にも思っていなかったはずです。
ガウディ自身、
「大丈夫大丈夫。年間3万ペセタあれば、あと10年で完成するよ!!」
などと呑気な事を言っていました。
当時、4ペセタが1円くらいの価値でした。さらに当時の1円が今の8000円くらい。
3万ペセタ10年分を今の価値に直すと、だいたい6億円くらい。たぶん。
なお、ガウディはこの時点までに使ったお金は70万ペセタ。この金銭感覚の無さと見通しの甘さ…。
なお、余談ですが、この頃、ガウディは2度目の恋に落ちます。
お相手は、教会にお祈りに来ていた女性。一目惚れでした。
思い切って告白したものの、相手は尼僧になることを決めており、結婚は出来ないとフラれてしまいました。
1890年~
ガウディの方は、地下聖堂を終わらせ、「アプス」と呼ばれる部分の外壁の設計をまとめ上げ、工事に移っていきます。
ここがアプス(後陣)という部分
アプスの工事風景
しかし、繰り返しになりますが、建築主である聖ヨセフ帰依者協会は、基本的にお金がありませんので、のんびり工事を進めていくしかありません。
しかし、そんなある日の昼下がり。
イサベルと名乗る匿名の女性から、なんと577,000ペセタという巨額の寄付の申し入れがありました。
「イザベル」の正体は、ガウディのパトロンであるグエイ伯の奥様でした。
ガウディはこの報せに狂喜乱舞し、張り切って全体計画の練り直しに入ります。これはすなわち、設計がますます壮大・複雑になっていくということです。
余談ですが、この頃、ガウディは3回目の恋に落ちます。
相手は人妻で、この恋もまた実ることはありませんでした。
この3回の失恋により、ガウディは女性恐怖症となり、生涯を独身で通すこととなります。
グッと親近感が湧きます。
1892年
サグラダ・ファミリアの建築主である聖ヨセフ帰依者協会の会長ボカベッラが他界。享年77歳。
これを受け、建設計画は実質的にガウディがリーダーとなって進められていくことになります。
この年、例の577,000ペセタが入金され、ガウディは即座に「生誕のファサード」の建設に取り掛かります。
ここでちょっと、サグラダ・ファミリアの建築概要について。
サグラダ・ファミリアには、3つのファサード(正面部分)があります。下の図の右・下・左の青く囲った部分が、それぞれこの建物の「顔」となっています。
左側は、「受難のファサード」、下は「栄光のファサード」と名付けられています。
サグラダ・ファミリアの一般的なイメージと言えば、やはりこの「生誕のファサード」ではないでしょうか。
生誕のファサード
パっと見はごちゃごちゃした泥の塊のようですが、よく見ると、イエス・キリストの誕生にまつわる色々なシーンが繊細な彫刻で表現されています。
こりゃあ時間かかるわ
なお、「生誕のファサード」の着手を急いだ背景には、本家カトリック司教が、サグラダ・ファミリアの建設資金を私物化していたからと言われています。
事実、前述の巨額の寄付も、本当は800,000ペセタだったものが、どこでどうピンハネされたのか、建設費として残ったのは577,000ペセタでした。
この件に関して、ガウディは次のように述べています。
氏は、バルセロナの新司教カタラー卿が巨額の献金を他の用途に使うのではないかと恐れ、できるだけ早く使うよう私に言った。」
本来、サグラダ・ファミリアは、聖ヨセフ帰依者協会員のための教会であり、協会の資産です。
自分たちのお金で建てているわけですから当たり前。
カトリック教会にその建設資金を勝手に使われる謂れなどありません。
とは言いつつも、聖ヨセフ帰依者協会自体はカトリック系の団体であり、カトリックの司教を蔑ろにするというのも、ちょっと難しいわけです。
そんな微妙な関係性の中、サグラダ・ファミリアを「自分たちの教会」として建設していくためには、カトリックからの資金援助など断じて受けるわけにはいかなかったのです。
1893年~
アプスが無事完成。
生誕のファサードも順調に工事が進んでいます。
1895年
ガウディは、もともと無神論者でした。
神様なんて全然信じていなかったどころか、宗教批判をしてしまうくらいでした。
しかし、サグラア・ファミリアを始めとする教会の建設プロジェクトで聖職者達と触れ合ううちに、本当に自分が正しいのか、無神論者のまま教会の設計に携わってもいいのかと悩み、そして少しずつこれまでの自分の心の持ちようを悔いるようになります。
意を決したガウディは、40日間の断食という、キリスト教における最大級の荒業に挑みました。40日間とは、イエス・キリストが荒野で行った断食の期間。伝統的な苦行です。
案の定ガウディは死にかけたわけですが、その時、当時とても親しくしていた神父から「あなたの天命は、サグラダ・ファミリアを完成させることですよ」と優しく諭され、熱烈なカトリック教徒へと生まれ変わりました。
サグラダ・ファミリアの設計にも、ますます力が入っていきます。
1896年~
万事、順調。
1896年
1897年
1898年
1899年
なんか、あんまり進んでないようにも見えますが、まあ順調です。
1901年
調子に乗って建築資金をかなり使ってしまい、金がない。
工事の進捗が、急激にスローペースとなってしまいました。
1902年~
金がない。
新聞紙上で寄付募ったりして頑張る。
1906年~1909年
ついに建物の全貌のスケッチが完成。※描いたのは弟子。
これを新聞紙上で発表し、募金活動の為の宣伝に活用しました。
1910年
この年、スペインは経済恐慌に陥り、建設業界も大不況となります。
その結果、ガウディは暇になり、サグラダ・ファミリアの仕事に専念できるようになりました。
1911年~
ガウディは、「受難のファサード」のデザインを開始します。
こちらのテーマは、キリストの受難、つまり最後の晩餐から十字架に架けられて昇天するまでの出来事が、彫刻によって描かれています。
1914年
これまで、国からもカトリック教会からも援助を受けず、自力で集めた寄付だけで頑張ってきたサグラダ・ファミリアの建設プロジェクト。
立派です。
しかし、ここでついに恐れていた事態が…。
とうとう建設資金が枯渇してしまったのです。
第一次世界大戦勃発による不況もあったと思われます。
そこでガウディは、故郷の農地や生家を始めとする私財を片っ端から売り払って建設資金に充てるようになります。
午後は街に出かけて、自ら帽子をもって寄付金集めに奔走。
しかし、それでもなおサグラダ・ファミリアの負債は3万ペセタにのぼり、建設委員会の間には、諦めムードが漂うようになりました。
なお、この年以降ガウディは他の仕事をすべて断り、サグラダ・ファミリアに完全に専念するようになります。
1915年
資金難は改善せず、サグラダ・ファミリアの工事は完全にストップ。
ガウディは、既にこの仕事が自分のライフワークであると定めており、自分の友人知人に手当たり次第に寄付をお願いして回るようになります。
なお、ガウディはこの頃にやっっっと、サグラダ・ファミリアの建設が長引くことを認識します。
そして、放った一言がコレ。
神は完成をお急ぎではないからね(震え声)
La obra de la Sagrada Familia va lentamente, porque mi Cliente no tiene prisa.
我々のような俗人が施主ならぶっ飛ばされそうな一言ですが、実は宗教建築において100年200年の工事期間というのは、珍しくないものです。
同じバルセロナ市内にあるサンタ・エウラリア大聖堂も、完成まで150年かかっています。
La Catedral de la Santa Creu i Santa Eulalia
このほか、大聖堂の中には600年かかっているものなんかもありますので、セーフ。
ただ、ガウディは、自分の死後、この仕事を引き継いでいく者たちのために、全体の設計をまとめていく作業に入っていきます。
ガウディの仕事場
1917年~
ガウディの熱意、そして建築の素晴らしさ、それらが少しずつ世間に認められていき、資金難も徐々に解消され、工事も進められていきます。
また、3つ目のファサードである、「栄光のファサード」のデザイン検討が行われ、最終型が固まります。
栄光のファサード
このファサードは、3つのファサードの中でも最も重要と位置付けられているらしく、イエスの教えがメインテーマとなっています。
ファサードに付けられる7枚の青銅の扉には、世界50カ国の言語で聖書の言葉が刻まれています。
日本語もあるよ!
この栄光のファサードは、現在も工事中なので、残念ながら未だその実物を見ることはできません。
1919年
これでサグラダ・ファミリアの建設に集中することができる
この年、ガウディが語った言葉。さみC。
1920年~
生誕のファサードにつく4本の鐘塔がかなり出来上がってきました。
1924年
ガウディも、既に73歳。しかし、その気力はいささかも衰えることなく、以前にも増してサグラダ
ファミリアの設計に没頭していくようになります。
しかし、身なりに気を使う事もなくなり、その風貌は世捨て人の如し。というか、浮浪者。
ガウディが外をあるいても、彼が天才建築家と気づく人はいません。
1925年
ガウディ、とうとうサグラダ・ファミリアの中に住みつく。
1926年
4本の鐘塔のうち1本が、先っぽまで完成
こうして、なんとか「生誕のファサード」までは生きているうちに完成の見込みが出てきた矢先、訃報が。
6月7日午後5時48分、ガウディが路面電車に轢かれてしまいます。みすぼらしい身なりが災いし、手当も遅れたため、そのまま3日後に帰らぬ人となりました。
葬儀にて
彼の遺体は、生前、最も多くの時間を過ごしたサグラダ・ファミリアの地下に埋葬されています。
サグラダ・ファミリアの魅力
ガウディの死後、そのまま建設を続けるかどうか議論がありました。
それほどまでに、ガウディはサグラダ・ファミリアに深く関わってきたのです。
悲しいことに、ガウディが生前に残した設計図や模型はスペイン内乱によりほとんどが焼失してしまいました。3代目以降の設計者は、その復元から行う必要があり、大変な作業となっています。
しかし、ガウディの強烈な個性はしっかりと受け継がれており、未完ながらも訪れる人々に感動を与え続けています。
現地に行くのが一番ですが、そう簡単に行ける場所でもありませんので、内部の美しい写真をちょっぴりご紹介します。
ステンドグラス
林の中をイメージした柱
ステンドグラスで様々な色に
聖堂の天井
鐘塔の内側
現在の状態
いかがでしょう。
外見とはまた違った趣がありますよね。
サグラダ・ファミリアに対する皆さんのイメージが、少しでも変われば嬉しいです。
完成をさらに加速させたい方は、寄付も受け付けています。
こちらからどうぞ!→公式サイト左下の”Donations”から
超参考サイト様
アントニ・ガウディ
ガウディの生涯と建築作品
アントニ・ガウディと建築群
Wikipedia「アントニ・ガウディ」