2014年10月、あるアメリカの女性に全世界の注目が集まりました。
彼女はタレントではありません。
そして、新細胞を発見するような、何かの偉業を成し遂げたわけでもありません。
彼女は、「外に出ただけ」で世界中から賞賛と批判を浴びせられました。
なぜでしょうか?
それは、彼女が「エボラ出血熱に感染した疑いがあり、自宅に隔離されていた」からです。
彼女の名は、ケーシー・ヒコックス。
エボラ出血熱で苦しむ患者を救済するために、彼女は「国境なき医師団」のメンバーとして、シエラレオネに赴きました。
そして、そこでこの世の地獄と対峙しながら、看護師として献身的に働き、2014年10月24日にアメリカに帰国。
しかし、帰国した彼女を待っていたのは、凱旋パーティーではなく、白い防護服に身を固めた男たちによる「尋問」でした。
彼女はそこで3時間もの間、なにもわからないまま「まるで犯罪者のように扱われた」のです。
実はこの日、ニュージャージー州(彼女が帰国した空港のある州)とニューヨーク州では、
「西アフリカから帰国したエボラ患者と接触した可能性がある医療従事者の隔離」
を実施したのです。
彼女はその隔離第一号でした。
暴力的とも言える措置に彼女は精神的にダメージを受けた上、大学病院の中に設けられた「隔離テント」に3日間隔離されました。
結局、検査でエボラウイルスに感染してないと判明したため退院したのですが、自宅のあるメーン州知事はエボラウイルスの潜伏期間である21日間、自宅待機を命令。
先に述べた外出はその命令を破ってのものでした。
この行動にあたり、彼女は
「科学的な根拠もないのに、自分の市民権が侵されるのを傍観しているわけにはいかない」
というコメントを出しています。
(なお、この命令は法律に基づくものではないため、外出したから罰則を与える、と言うことはできません)
これに対し、アメリカ国内では、「身勝手」「もし感染していたらどうするんだ!?」という彼女を批判する意見が、当然ながら続出しました。
また、この隔離政策は政治問題にもなり、オバマ大統領は、
「われわれは、猛威をふるっている地域でこの病気に対応しようとして海外に行く医療従事者を支援しなければならない」
と述べ、一部の州で行われている強制隔離を批判。同時に、政府としてのガイドラインを公表しました。
それに対し、強制隔離を決めた州知事からは、
「オバマ政権が出したガイドラインは分かりにくく、有効ではない」
「隔離はエボラ出血熱の感染を防ぐための有効な方法である」
と述べ、対立の姿勢を取りました。
この対立は、中間選挙があったり、感染の拡大が収まったりで、なんとなくうやむやになりましたが、「隔離政策」の難しさを改めて浮かび上がらせる結果となりました。
ペストの大流行
さて、アメリカを一瞬揺るがした、流行病に対する「隔離」。これは、14世紀のペスト大流行に端を発しています。
1346年から1370年頃、ヨーロッパで空前絶後の猛威をふるったペスト。その有様は、悲惨の一言に尽きました。
14世紀のペスト大流行での死者は詳しく分かっていませんが、2000~3000万人(ヨーロッパ人口の1/3~2/3!)と推定されています。
まさに、死に神の鎌がヨーロッパを覆い尽くし、もはや死体を埋める人すらいない状況。当時の人類は、なすすべ無く神に祈るしかありませんでした。
14世紀の医学とペスト
こんな時、本来ならお医者さんが活躍してくれるものですが、当時の西洋医学は、ヒポクラテス(参考記事)の時代からほとんど進歩していませんでした。当然、病原菌の存在など知る由もなく、ペストが大流行した原因についても自由奔放な推論がなされています。
例えば、1348年にパリ大学は、ペスト流行の原因を「火星と木星と土星が一列に並んだせい」と公式に表明しています。
他にも、「地震が起きて、地下の瘴気が漏れたからだ」なんて説もありました。
いずれにせよ、病気が伝染するなどということは、「医学的」には考えられなかったのです。
また、ペスト医師と呼ばれるペスト治療専門の医師もいましたが、14世紀の大流行時に目立った成果を挙げた記録はありません。
ちなみにこのかっこいいペストマスクは、17世紀に発明されたもの。
この頃にはまだありません。
伝染する事の発見
このように、お医者さんが全然頼りにならない状況の為、ヨーロッパの指導者層は、ペストの治療には一切期待しないようになります。彼らの目標は、「ペストの蔓延を防ぐにはどうすればいいか」という点にシフトしていきます。
その手法が「隔離」だったというわけですね。
スペインのある港都市にイスラム教徒が隔離されたゲットーがあったのですが、その港町をペストが襲った時、隔離されていたことが逆に功を奏してイスラム教徒は誰一人ペストに罹患しませんでした。(※イスラム教徒は「アッラーのおかげ」と解釈していますが。)
ある賢明な大富豪は、屋敷に覆いを作り、食糧や日用品をしこたま買い込み、家族と使用人と共に外との接触を断ったところ、その街でペストが流行しても感染しなかった、という話も伝わっています。
こういった経験・実績の積み重ねから、
↓
「ペスト流行地域を隔離すべし!」
という考え方が生まれてきたと考えられています。
歴史に残る限り、最初の法的な隔離政策は、ペスト大流行が終息しつつあった1374年1月にレッジョ公国(イタリア北部の都市国家)が公布したもので、その内容は極めて苛烈なものでした。
・ペスト患者を原野に連れて行ったものは10日間街に帰ってきてはならない
・司祭と医師はペスト患者を発見したらすぐに衛生委員会に届けねばならない
・許可無くペスト患者に近づいてはならない
・上記に違反したら、財産没収の上、火あぶりの刑
しかし、この鬼畜っぷりから、当時のヨーロッパにおいてペストがどれほどの恐怖であったか伺えます。
こうした流れの中で、世界初の検疫が、1377年にヴェニスで始まります。
ヴェニスでは、オリエント方面から来た船がペストを持ってきていると睨んでいました。そこで、「ペスト感染が疑われる国や地域から来た船舶は40日間、入港を認めない」という厳しい法律を定めたのです。
停泊させられている貿易船
余談ですが、「40」というイタリア語(Quaranta)が英語の「Quarantine(検疫)」の語源になったというのは有名な話ですが、これは、この40日間の事を指すのです。
実際のところ、ペストの潜伏期間は長くて1週間程度なので、40日間はややオーバースペック。これは聖書に基づいて設定された期間という説が有力です。
・モーセが民を率いて40年間荒野を彷徨った
・ノアの洪水は40日続いた
・キリストも、モーセに倣って40日間断食した
このように、「40」という数字は特に旧約聖書に頻出する数字。要は縁起を担いで決めた期間なわけですね。
公衆衛生と利益の対立
こういった隔離政策や検疫は、実際に有効だったため、イタリア諸国は次々と「衛生委員会」なるものを立ち上げ、その指揮のもとで隔離政策をより一層精力的に行っていきます。
しかし、時代を経るにつれ、この衛生委員会の権限は徐々に拡大し、「拷問を含む」逮捕権を持たせちゃう国もありました。
強制力を持たせなければ、ペストの拡大を防げないと委員会は考えたのですね。
しかし、この隔離政策は、市民(特に商人)とは全く相容れないものでした。
また、感染した地域から流通が途絶えるとことは、その地域から商品を仕入れている商人からすれば、悪夢以外の何物でもありません。商品を焼却されたり、燻されたり、放置されたり、と商品価値が大きく損なわれる措置が取られたからです。
商人に対する保障など何もなかった当時、これは即破産を意味します。
また、「衛生通行証」という「ペストに感染した地域から来ていません」という証明書を持ち歩かなければならないなど、とかく煩わしい事が増えました。
また、一般市民もこの「検疫」や「隔離政策」について両手を揚げて歓迎したかというと、決してそんなことはありません。
ペストが発生すると、その地域は隔離されます。隔離されている間、ろくな食料や医療の提供はなく、ただ事態が収まるのを待つだけ。しかも、その地域から逃げ出せば死刑を含む罰則がありました。
そのため、当時の人は「衛生官に見つかったら、ペストで死ぬが先か、餓死で死ぬが先か」と、衛生官を激しく恐れ憎みました。
しかし、衛生委員会には、ペストの予防という大義名分があり、その権力をどんどん増大させていきました。
ヴェネチアの衛生局の場合で言うと、食糧全般、下水道などの衛生インフラ、病院、薬、乞食、売春婦・・・と、人間の生活に関わるほとんどをその管理・監督下においていました。自由を愛する市民からしてみれば、やってられねえわけです。
ましてや、ペストの疑いがあるものを逮捕したり、ペスト患者をかくまってる疑いがあるものを拷問したり、商品を強制的に焼却処分したり、という諸々の権限が与えられていったのですから、市民の衛生局に対する恐怖と憎しみは高まる一方です。
衛生官が暴行されたりすることも度々あり、当局は「衛生官に対する暴言や暴力を禁止する」という命令を出すところもあるくらいでした。
公衆衛生の向上
ですが、長い目で見れば、この衛生委員会の介入は、公衆衛生の向上につながっていきます。
当時、ペストの原因はわかっていなかったけれども、「不衛生なところでは空気が腐敗し、その腐敗した空気が蔓延することでペストが発生する」という直感的な洞察がされていました。
この「空気が腐敗する」というのは現代の医学的知見からすれば間違っているけども、「不衛生なところでは病気が流行りやすい」というのは、正鵠を得ていました。
「大昔のトイレがけっこうスゴい件」でも触れましたが、中世ヨーロッパにおいては、糞尿が市街地に垂れ流しという状態がデフォルト。
汚物が撒かれ、悪臭に満ち溢れた街
これに対し、ミラノ当局が1590年に公布した法令には、
・タンクは当局が認めた技師が設計したものでなければならない
と非常に先駆的なことが記載されています。
また、貧困街においても、
・ベットを3人以上で使いまわしてはいけない
と規定されています。これもペストがノミから感染することを考えると、理にかなった命令です。
しかし、これらの法令は、市民生活を圧迫するものでもありました。おまるの代金は家計を苦しめますし、貧民街で安宿貸しを営んでる業者からすれば、ベット数の規制は回転率を下げる営業妨害にほかなりません。
当時の市民の教育基準は驚くほど低く、「なぜ衛生状態を改善しなければならないのか」を理解させることは困難でした。また、人間とは喉元をすぎれば熱さを忘れるもので、目先の手間や利益の方が大事になってしまうのです。
それに対して、「ペストの再流行の恐怖」がヒステリーの域まで高まっていた衛生当局は次々に厳しい政策を打ちたて、両者の対立は、かたちを変えながらも、現代に至るまで続きます。
冒頭のヒコックスさんの事例も同じようなものですよね。「利益」が「人権」という言葉に変わってはいますが。
ペストの流行がもたらしたもの
ペストという疫病に対しては、衛生局が勝利したと歴史は教えてくれます。なぜなら、小流行は何度かありつつも、再び数千万規模の死者を出すペストはそれ以降訪れていないからです。
ただ、ペスト予防に対する取締りは商業的に不利益をもたらし、ひいては国力を大きく損なう結果になることは、当時の当局も認識していました。
そうなると、流通や貿易に大きな影響を与える「ペストの発生」は、他の国家の当局に知られたくないものとなります。こうして、衛生局の重要な仕事に「地域内のペストの流行を他の国に流さない」ことも付け加えられました。
とはいえ、他の国家の正確な情報は知りたいもの。各国にペストの発生状況を探らせるスパイを派遣したりもしていました。
こうして、情報管理・情報収集の分野が発展してきました。
また、ペストの発生に伴い、労働者も次々に失業していきました。例えば、織物職人は羊毛が焼き払われてしまえば、織物を作れず失業してしまいます。当時の労働者には貯金も社会保障もありませんので、失業=餓死でした。
そこで、失業者に対して、資金の貸付や公共事業の斡旋などを行うようになります。この効果がどの程度だったかは諸説ありますが、少なくとも近代社会における「社会保障」の芽生えであったのではないか、と考えられます。
まあ、長々と色々書いてきましたが、これらはペストが社会を動かした、ほんの一例にしか過ぎません。
ペスト菌、それは目に見えないほど小さな微生物です。しかし、その微生物が人間の社会に大きな変革を促してきたことは、まぎれもない事実です。
人類はこれからも、ペストやコレラやエイズやエボラの時と同じように、新たな疫病に立ち向かっていくことになるでしょう。それが新たな進歩のきっかけになれば嬉しいですね。