こうして、ムッソリーニの活躍により1920年代後半にはほぼ壊滅状態となったマフィア。
同じ頃、イタリアでの苦難とは正反対に、アメリカではマフィアが栄華を誇っていました。
今回は、アメリカにマフィアが登場するところから始めます。
アメリカに渡った人々
19世紀は、蒸気機関車の発明に象徴される交通網の圧倒的発展と、産業の機械化が激しく進んだ時代でした。
人々の暮らしはますます便利になり、人口も大きく増加しました。
しかしその一方で、それまでの流通機構や生産体制、作業効率が根底から覆り、経済の仕組みが大きく変わっていきました。
結果、貧富の差がそれまで以上に広がり、変化に対応できなかった人々は貧困化し、新天地に活路を見出すしかありません。
その最大の移民受け入れ先こそが、アメリカでした。
1821年から1920年までの100年間にアメリカに渡った移民の数は、およそ3300万人と言われ、ヨーロッパからの移民がかなりの割合を占めていました。
その前半は、工業化が早く進んだイギリス、アイルランド、ドイツからの移民が大半。
イタリア(特に南部)は工業化が遅れたこともあり、アメリカへの移住が始まったのは、1880年代に入ってからのことでした。
イタリア系アメリカ人
アメリカに渡ったイタリア人の多くは、南イタリアやシチリア島出身。当時の社会・政治不安による不景気で失業した労働者でした。
そんな彼らの価値観の一つに、
「学校で学ぶ事より、社会で学ぶ事の方が大事」
みたいな感じのものがあります。
別に、これ自体に良い悪いはありませんが、結果としてイタリア系移民は教育水準が低く、英語も満足に話せなかったため、就ける職業もかなり限定されてしまいました。
その多くが鉱山や鉄道、道路、橋の建設といった肉体労働に従事し、収入も低かったといわれています。
また、彼らは「渡り鳥」。
出稼ぎとして来ただけで、別にアメリカ社会に馴染むつもりもなく、一稼ぎしたらイタリアへ帰るつもりでした。
そのため、英語も覚えずイタリア人だけで固まって住むようになり、アメリカ各地にリトル・イタリーと呼ばれるイタリア人街を形成。
一部のリトル・イタリーは、イタリアの陽気で芸術的な文化に支えられ、けっこう栄えました。
1905年頃のLittle Italy
今のLittle Italy
初期のアメリカン・マフィア
19世紀後半のアメリカでは、様々な犯罪集団が活動していました。ドイツ系やアイルランド系など民族ごとに集まり、お互いにしのぎを削る状況。
こうした中、マフィアの本場イタリア系移民の中からも、不良化する者が現れてきます。
その代表的な組織犯罪が「マーノ・ネーラ(黒い手)」でした。
その手口は次のようなもの。
手紙には指定された金額を指定された場所に届けるようにと書かれていた。
また、手紙には脅迫状のシンボルマークとして、煙を出している銃あるいは縛り首に使われた縄の輪そして黒インクで手形のマークが押されていた。
目をつけた相手が金の支払いに応じない場合は更なる脅しをおこなった。
ニューヨーク・リトル・イタリーのシチリア人ギャング、サイエッタは、イースト・ハーレム近くにあった「殺人厩舎」と呼ばれていた場所で、要求に応じない人を絞め殺した上、遺体を焼いて処分していたことで悪名を馳せ、少なくとも60人以上を殺害した。
Wikipedia『マーノ・ネーラ』より
要は、いきなり「金を払わないとブッ殺すぞ!」という手紙を送りつけるという単なる恐喝。
こんな犯罪が成立すること自体驚きですが、当時のイタリア系アメリカ人の90%が、この黒い手に脅かされていました。
マフィアとの出会い
1901年、シチリアン・マフィアの大ボス、ヴィート・カッショ・フェッロが、縄張りを広げるためにアメリカを訪れました。
Vito Cascio Ferro。ボスの中のボスと呼ばれた超大物。
ドン・ヴィートはイタリア系アメリカ人にもよく知られた超有名マフィアでした。
マーノ・ネーラに手を染めていたイタリア系ギャング団も、彼の訪問を歓迎しました。
ドン・ヴィートは、アメリカに3年ほど滞在。マーノ・ネーラのような幼稚な犯罪ではなく、本当のマフィアの仕事というものを彼らに教え込みました。
例の、「暴力を背景とした保護」ってやつですね。
こうして、アメリカのギャング団は、荒っぽい無法者集団から、少しずつマフィアへと進化し始め、地下へ潜り秘密結社化していったのです。
なお、繰り返しになりますが、「マフィア」は一つの組織ではなく、いくつもの「ファミリー」の集合体です。
アメリカも同様ですが、マフィアの流れを汲んだ犯罪組織は「コーサ・ノストラ」という名称を使います。
これは、直訳するとイタリア語で「我々のもの」という意味。もともとは、マフィア内で仲間の事をこう呼んでいたようです。
カステランマレーゼ戦争
1920年代、禁酒法の制定により、アメリカの暗黒街は空前の好景気となっていました。
シカゴでアル・カポネが隆盛を極めていた頃です。
景気が良くなると、利権を巡ってファミリー同士が衝突することも増えてきます。
その代表的な例として挙げられるのが、ニューヨークにおけるジョー・マッセリアと、サルヴァトーレ・マランツァーノという2人のボスが起こした激しい抗争です。
1930年から1931年にかけて起こったこの抗争は、「カステランマレーゼ戦争」と呼ばれています。
ジョー・マッセリアが率いるファミリーは、19世紀からアメリカで活動してきた最初期のアメリカン・マフィアの流れを汲む集団。
ジョー・マッセリア
マッセリアは、若い頃はモレロ・ファミリーの殺し屋をやっていて、当時のボスが死亡すると後継者争いに参加し、見事にモレロ・ファミリーのボスの座を勝ち取った人物。下品で荒っぽい武闘派でした。
マッセリアは敵対勢力から襲撃を受けた際、帽子に穴が開いただけで無傷で切り抜けた事があり、暗黒街では「弾丸をかわすことが出来る男」という名声を得ていました。
一方のサルヴァトーレ・マランツァーノは、シチリアのドン・ヴィートから、ニューヨークを縄張りとすべく、1918年に派遣されてきたイタリアン・マフィアでした。
サルヴァトーレ・マランツァーノ
彼は、ラテン語で書物を読む程の教養人。自室にはギッシリと本があったと言われています。
カステランマレーゼ戦争は、そんな大物2人の抗争でしたが、対立軸はそう単純なものではありませんでした。
しきたりに拘る保守的な古いマフィアと合理的な若い世代との対立、イタリア人かそうでないかという対立など。
両勢力とも様々な構成員がいたため、組織間の裏切りが繰り返され、誰が仲間かもよく分からない、泥沼の様相を呈していきました。
そんな中、マッセリア派に、ラッキー・ルチアーノという若く有能なマフィアがいました。
チャールズ・”ラッキー”ルチアーノ
彼は、かつてマランツァーノからの勧誘を断ったため、息のかかった警官からこっぴどく痛めつけられたことがあります。マランツァーノは、それだけルチアーノのことを買っていたのかもしれません。
その時は、顔面を55針も縫う大怪我を負い、そのキズは消えることはありませんでした。また、後遺症で右の瞼は垂れ下がったままとなりました。
抗争が続く中、マッセリア側が劣勢になると、ルチアーノはマッセリアを暗殺することを条件に、マランツァーノへ停戦を持ちかけ、合意を取り付けます。
そして、1931年4月15日。ついに暗殺が実行に移されます。
彼は、いつものようにルチアーノら幹部と共に、高級レストラン「Nulva Villa Tammaro」で食事を取っていました。
食後、皆でトランプゲームに興じている中、ルチアーノがトイレに立つと同時にルチアーノの配下がマッセリアを銃撃。あわれマッセリアは蜂の巣になってしまいました。
マッセリアの死体はスペードのエースを握りしめており、これ以降、マフィアの間でスペードのエースは不吉の象徴とされるようになります。
こうして、カステランマレーゼ戦争はマランツァーノの勝利をもって終結。
この時、マランツァーノが組織名を「コーサ・ノストラ」に決めたと言われています。
なお、この戦争の勝敗を決めたラッキー・ルチアーノは、その後暗黒街を登りつめていくことになります…。
つづく。(というか、全然まとまらない)
↓
https://fknews-2ch.net/archives/42520990.html