「スナイパー」と言えば?
人それぞれ、色々な人物やキャラクターを連想するでしょう。
実在の人物でいえば、シモ・ヘイヘが非常に有名です。
2chではコピペ化もされており、その凄まじい経歴の一端を垣間見ることが出来ます。
・わずか32人のフィンランド兵なら大丈夫だろうと4000人のソ連軍を突撃させたら撃退された
・シモヘイヘがいるという林の中に足を踏み入れた1時間後に小隊が全滅した
・攻撃させたのにやけに静かだと探索してみたら赤軍兵の遺体が散らばっていた
・気をつけろと叫んだ兵士が、次の瞬間こめかみに命中して倒れていた
・スコープもない旧式モシンナガン小銃で攻撃、というか距離300m以内なら確実にヘッドショットされる
・いとも簡単に1分間に150mの距離から16発の射的に成功した
・野営中の真夜中にトイレからテントまでの10mの間にヘッドショットされ即死
・戦車と合流すれば安全だろうと駆け寄ったら、戦車長がシモヘイヘから狙撃済みだった
・赤軍の3/100がシモヘイヘに狙撃された経験者、しかも白い死神という伝説から「積雪期や夜間ほど危ない」
・「そんな奴いるわけがない」といって攻撃しに行った25名の小隊が1日で全員死体になって発見された
・「サブマシンガンなら狙撃されないから安全」と雪原に突撃した兵士が穴だらけの原型を止めない状態で発見された
・5階級特進で少尉となったシモヘイヘに狙撃の秘訣を尋ねると、ただ一言「練習だ」
・コラー河付近はシモヘイヘに殺される確率が150%。 一度狙撃されて負傷すると確実に凍死する確率が50%の意味
・シモヘイヘが狙撃で殺害した数は505人、他にサブマシンガンで倒した数は正式なものだけで200名以上
また、ゴルゴ13を筆頭に、フィクションの世界でもスナイパーは人気があります。
スナイパー色々
孤高のスナイパー
スナイパーの一般的なイメージとしては、
「孤高」
「エリート」
「強い」
そんな感じではないでしょうか。事実、戦場や凶悪犯との銃撃戦の現場では、スナイパーの有用性がますます上がっています。
精密な誘導爆弾みたいな兵器の開発も進んではいますが、スナイパーがいなくなることはありません。むしろ、狙撃能力は、ますます貴重なスキルになっているのです。
現代の米軍特殊部隊のスナイパーはただ狙って撃つだけではありません。偵察を行い、ターゲットを追跡した上で、狙撃する。そんな過酷かつ高度な任務を課されています。
「何百万ドルのミサイルを撃ち込んでも倒せなかった敵を、たった数ドルの弾丸で倒すスナイパー素敵!」などと評されますが、実際、戦力や物量に大きな差のある非対称戦争では、たった一発の弾丸が高額なミサイルより効果を上げる場合もあるのです。
その流れを受け、自衛隊でも2002年から狙撃銃を購入し、専門的な狙撃手を養成しています。時折、日米合同訓練で米軍のスナイパーから指導を受けたりしています。
ワンショット・ワンキル!
さて、スナイパーに関する言葉で最も有名なのは「ワンショット・ワンキル(一撃必殺)」ではないでしょうか。
この言葉を発したのは、現代スナイパーの開祖たる「カルロス・ハスコック」です。
Carlos Norman Hathcock II
「誰そいつ?」と反応する方も少なくないかもしれませんが、軍事好きなら彼を知らない人はいません。
彼はシモ・ヘイヘと並び称される、凄腕スナイパーで、彼がいなければスナイパーという職業がここまで知れ渡ったかも怪しいレベルです。
というか、ゴルゴ13も、カルロス・ハスコックの影響を受けて作られたキャラクターという説もあります。そのくらい、すごい人物です。
「チキン」
カルロス・ハスコックを一言で評するなら、「後の世界中の狙撃手に影響を与えたベトナム戦争の英雄」。
300人以上の敵を狙撃したと言われています(公式カウントで93人)。
彼は「ホワイト・フェザー」という異名を持っていますが、これは帽子に白い羽を飾っていた事から来ています。
white feather
隠密性を最優先しなければならないスナイパーとしては、ありえない行動と言えます。
実は、当時のスナイパーは、陰からこそこそ攻撃してくる「チキン」(臆病者)と蔑まれていました。この白い羽毛は、そういった評判に対する意趣返しでした。
また同時に、「スナイパーとはチキン(臆病者)のように慎重でなければならない」という意味も込めていたそうです。
いずれにせよ、その白い羽毛は北ベトナム軍・ベトコンの恐怖と憎しみの象徴となり、彼の首には3万ドルもの賞金がかかっていました
はじめてのそげき
ハスコックは、1942年にアメリカはアーカンソー州に生まれ、貧しい家族の生計を助けるために幼い頃から狩猟を覚えました。
著名なスナイパーの多くは幼少時から狩猟が得意であったと言われていますが、彼もまた狩猟で狙撃術を自然に学んでいました。そして、その経験がベトナム戦争で大きく花開いたのです。
若き日のハスコック
1959年、17歳で海兵隊に入隊したハスコックは、狙撃の腕をさらに向上させ、23歳で全米の鉄砲上手が集まった射撃大会で優勝しました。
この大会、約1キロ先の標的へのヒットを競うもの。これだけでも神業レベル。それに参加した3000人の中で優勝したというのかどれだけすごいことか、お分かり頂けると思います。
さて、ベトナムに渡ったハスコックは、何故か最初は憲兵をしていましたが、その後、海兵隊の狙撃部隊に配属。そしてそれ以降、様々な伝説を生み出していくことになります。
最初の任務は、拷問好きの元フランス軍将校の狙撃。初っぱなから、いやに敵のキャラが立っています。
このフランス人、ベトナム兵を組織し、米兵に積極的な狙撃を行っていました。そのため、この男がいた地域では米兵の狙撃被害が急増し、毎日30人もの味方が狙撃されていました。
ハスコックが無事にこの最初の任務を成功させてからは、米兵の狙撃被害は週に1~2件程度まで低下しました。
他にも、ハスコックは、「アパッチ」と呼ばれた女スナイパーよ狙撃しています。
アパッチ(Apache)の後ろ姿
このアパッチという女性、米軍捕虜の尋問に際し、拷問はもちろん、死ぬまで血を抜くという、極上のサディスト。米兵からすこぶる恐れられていました。ハスコックが彼女の首を打ち抜いたことで、米軍の士気は大いに上がったと言われています。
このように、敵のキーマンをピンポイントで排除できるという意味でも、狙撃は実に有効な攻撃手段なのです。
Cat and Mouse
ばったばったと将校や狙撃手を撃ち倒すハスコックは、やがて北ベトナム軍に知らない者のいない恐るべき存在となります。北ベトナム軍は、ハスコックを倒すべく、選りすぐりの狙撃の精鋭12人を集めた特務任務部隊を編成。一人を倒すために精鋭を集結など、もはやマンガやラノベの世界のようです。
その敵精鋭達との戦いの中でも、特に「コブラ」というコードネームのスナイパーとの戦いは、「追うものと追われるもの」が刻一刻と入れ替わる激しいもので、後に「Cat and Mouse」として語り継がれる事となります。
ある日ハスコックは、ベトナム兵捕虜から、北ベトナム軍が凄腕のスナイパーを雇った事を聞かされます。その男は、一日中地面に伏せて身を隠し、虫や蛇を食べ、岩の上で眠り、決してその姿を見つける事は出来ないといいます。
コブラは既にハスコックの首を狙って行動を開始しており、ハスコックの拠点にいた海兵隊が何人も狙撃されていました。仲間の死を目の当たりにしたハスコックは、コブラと決着をつけるべく、彼の残した痕跡を追ってジャングルへと進んでいきました。
しかし、その痕跡は、ハスコックをおびき寄せるための罠でした。突然後方にコブラが現れ、ハスコックを狙撃します。弾丸は運良く外れ、同行していた観測手の水筒に当たります。
狙撃は、仕損じると相手に自分の位置がバレるもの。今度はハスコックがコブラを追う番となりました。
仕損じれば瞬時にカウンタースナイプされるかもしれない。一瞬でも気を抜いたら死ぬ。そんな恐怖と重圧感の中、ハスコックはコブラを追います。
しかし、コブラもやはり超A級のスナイパー。なかなかその姿を掴ませません。
が、ふとハスコックは500ヤード先の茂みの中にキラリと光る何かを見つけます。それが自分を狙っている敵のスコープの反射と気づき、ハスコックは咄嗟に狙撃!その弾は、スコープを貫き、真っ直ぐコブラの目に命中したのです。まさに、生と死が交錯した瞬間でした。
ハスコックは、その死体を確認する観測手に対して、静かにこう述べました。
ほんの僅か一瞬、私が早く撃っただけの話だ。運がよかったよ」
このハスコックvsコブラの戦いは、様々なフィクションのモデルとなりました。特に、スコープごと撃ち殺すというシーンは、プライベート・ライアンでも使われた事で有名です。
このシーンね
伝説いろいろ
・敵を求めて1000m※匍匐前進
厳重な監視の中、敵将軍を狙撃する為、ハスコックは1kmの距離を3日間かけて匍匐前進でジリジリと進みました。
途中、目の前に毒蛇が現れてもジッと息を潜めてやり過ごし、標的まで約600メートルの距離まで接近。見事に一撃で仕留めました。
この3日間、ハスコックが口にしたのは水だけ。糞尿は垂れ流し。さらに、無数の虫刺されと擦過傷に見舞われ、この任務から帰還したハスコックの身体は、赤くただれていたそうです。
・象の谷での激戦
象の谷と呼ばれる地区で200人のベトコンに囲まれた友軍を救出するため、観測手と2人で5日間狙撃し続けました。
将校と通信兵を狙い撃ちし、敵は組織的行動を取ることもできず、ボロボロ。
最後は援軍に来た爆撃機に任せ、ハスコック達は帰途に着きました。
・超長距離狙撃
谷を挟んだ向こう側の敵を攻撃したいけど、弾が届かない!
そんな局面で、ハスコックはMⅡ重機関銃にスコープを着けて狙撃する事を思いつきます。重機関銃は、通常の狙撃銃よりも射程距離が遥かに長く、命中精度も高かったのです。
そして、見事2250mの超長距離狙撃に成功。
この記録は、2002年まで破られる事はありませんでした。
MⅡ重機関銃の本来の使い方
なお、重機関銃にスコープを着けるというアイデアは、ハスコックが最初ではなく、第二次世界大戦や朝鮮戦争などでも現場の兵士により行われていました。
そして、彼らの戦果が、後の対物ライフル※超長距離用の大口径の狙撃銃の開発へと繋がっていったのです。
英雄たる代価
そんな数々の伝説を持つハスコックでしたが、1969年、搭乗していた装甲車が地雷を踏み炎上。彼自身も重症を負いながら、燃え盛る装甲車から同僚を助け出し、そのまま意識喪失。
本土に運ばれた彼は何とか命は助かりましたが、重度のヤケドなどの後遺症が残り、第一線に出ることは適わなくなりました。
その後は狙撃の教官として、体得した狙撃技術を体系化し、数々の名狙撃手を育成したのです。
多発性硬化症という病気で1979年に退役した後も、病気の身体を引きずり、海兵隊のみならず様々な軍隊や警察機関に狙撃を教え、1999年に56歳でこの世を去りました。
「殺しを楽しんだことはない」
スナイパーは、心理的負担が非常に大きい職種と言われています。
それは、冷静に、明確な殺意をもって引き金を絞り、対象が死んだ事を確認しなければならないからです。ハスコックが狙撃した300人の中には、武器を自転車で運ぶ12歳の少年もいました。
一般の兵士が、戦闘というある種の興奮状態の中で銃を撃つのとは、かなり異なる立場に置かれます。
肉体的のみならず、このような圧倒的な心理的負担に耐え、ベトナム戦争を闘いぬいたハスコック。
彼は、著書の中で、このように述べています。
それは私の仕事だった。
もし私が敵を仕留めなければ、彼らは私の後ろにいる──我々が海兵隊の格好をさせていた──沢山の子供たちを殺していただろう。
私に選択の余地は無かった」
人を殺すという事への「罪悪感」について、ハスコックが内面でどのような葛藤を持っていたのか。
どのように折り合いをつけ、心の平静を保っていたのか。
「任務」、「使命感」、「愛国心」、「愛郷心」、「仲間の仇」。
これらのいずれか。あるいはこれら全て。はたまた、どれでもないのか。
現代の平和の中で生きる我々には、軽々しく推し量ることは出来ません。
ただ、少なくとも表面上は、ハスコックは狙撃をあくまでも「任務」としてストイックに遂行してきました。そのことが、彼を英雄として際立たせる一因となっています。
彼が体系化した狙撃技術は彼の教え子に伝わり、その教え子が更に若い兵士に伝え、今に至っています。
それが彼にとってどのような意味を持つかは、今はもう知りようがありません。
ただ、彼の言葉は、永遠に色あせることなく伝わっていくでしょう。世界から戦争が無くなるまで。
「One Shot One kill!」