ジンバブエは、アフリカ南部に位置する国家です。
ハイパーインフレで一躍ネタ国家として有名になってしまいましたが、実はジンバブエって歴史ある由緒正しい国なのです。
その事を是非皆さんに知ってもらいたくて、この記事を書きました。
ジンバブエの起源と発展
ジンバブエの辺りには、少なくとも紀元前2500年頃から、人が住んでいました。
少しずつ集落が形成される中、575年頃には有力な支配者が現れ、南方に人口12000~15000人規模の「マプングウエ国」という小王国ができました。
王が住んでいた『マプングウエの丘』。文化遺産。
一方、北部でも650年頃から人々は「石造りの家」を作り始めます。
この石造りの家を、現地の言葉で「ジンバブエ」と言い、この国家を、「グレート・ジンバブエ」と言います。
南部のマプングウエ国は、金の中継貿易でけっこう栄えていましたが、9世紀頃に川が旱魃にみまわれた事を契機に交易ルートが変わってしまい、マプングウエ国は急速に衰退してしまいます。
新しいルート上にあるグレート・ジンバブエは、これを契機にもの凄い勢いで発展することになります。
グレートエンクロージャーをはじめとする大多数の建造物はこの時期に建てられたと考えられており、この頃の人口は35000人に達したと推定されており、同時代のヨーロッパの主要都市と比べても遜色ない規模でした。
京都はこの頃既に10万人くらいいたらしいですが。
グレート・エンクロージャー
グレート・ジンバブエの王は、遠隔地交易と金属加工業に力を入れていました。
遺跡からは、
・日用的な道具の鋤やスプーン
・多量の鉄くず
・儀礼用槍先などの銅製品
・綿布生産用の石製紡錘車
・金細工
・ガラスビーズ
・中国の元、明代の陶磁器
等の出土品が発見されています。
しかし、発展に伴う人口集中には弊害もあります。
初めに起こったのは、木材の枯渇でした。
燃料や建材の為に森林を大量伐採し、都市部周辺では木材を調達出来なくなります。
また、栽培と移牧の繰り返しにより土壌が疲弊し、木材に続いて農地も都市からどんどん遠ざかることになります。
さらに、15世紀後半、追い打ちをかけるように気候変化による旱魃、飢饉がおき、グレート・ジンバブエは放棄され、廃墟となったと考えられています。
その後、新たにモノモタパ王国、トルワ王国という二つの王国が興り、ジンバブエ周辺の覇権を握りましたが、やがては新たな勢力に打倒され、多くの勢力が乱立。なんだかゴチャゴチャな地域になってしまいました。
ヨーロッパとの出会い
16世紀に入り、初めてジンバブエに入ったヨーロッパ人は、ポルトガル人でした。
時は大航海時代。南米大陸で鬼畜行為を行っていたポルトガルは、同じく現地ジンバブエ人と衝突します。
しかし、この群雄割拠の時代のジンバブエ人はかなり強かったようで、なんとポルトガル人を撃退。ジンバブエから全てのポルトガル人を駆逐します。
こうして暫くは見事にヨーロッパの侵略を抑えたジンバブエでしたが、ついに1888年に、イギリス南アフリカ会社に侵略・統一され、「ローデシア植民地」として、植民地の道を歩み始めます。
イギリス南アフリカ会社を設立したセシル・ローズ。
「ローデシア」は彼の名前にちなんでつけられた。
独立運動
第二次世界大戦後、脱植民地の気風が高まると、ローデシアでも黒人の独立運動が激しくなります。
イギリスも他国の目がある為、植民地を開放しようとしますが、これに現地の白人政府が反抗。
勝手に独立して、『ローデシア共和国』を建国してしまいます。
白人政府の黒人差別は相当なもので、厳しい弾圧が続いていました。黒人側もゲリラ戦で対抗しましたが、民族解放への道のりは険しいものでした。
この一連の独立運動を、「ローデシア紛争」といいます。
さてさて、この結果はどうなるのでしょうか。
次回はついに、あの英雄が登場します!