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パレスチナでは何も見つかっていない

最初にちょっとおさらいになりますが、旧約聖書にはだいたい次のような歴史が書かれています。

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超適当な年表

B.C.2100年

メソポタミアの遊牧民アブラハムが、神の指示でパレスチナに移住。

B.C.1700年

アブラハムの孫たちがパレスチナからエジプトに移住するが、やがて奴隷に。

B.C.1280年

モーセに率いられてエジプト脱出。

B.C.1220年

モーセの後継者ヨシュアが、パレスチナに攻め込み、次々に敵を倒す。

B.C.1021年

統一イスラエル王国を建国。

ダビデ王、ソロモン王が優秀で、栄華を極める。

B.C.922年

ソロモンが死に、内紛発生。

イスラエル王国とユダ王国に分裂。

B.C.722年

アッシリアに攻められてイスラエル王国滅亡。

B.C.587年

バビロニアに攻められてユダ王国滅亡。

バビロンに強制移住※バビロン捕囚

B.C.539年

バビロニアがペルシャに滅ぼされ、自由の身になる。

一部のイスラエル人はエルサレムに帰る。

B.C.333年

その後は、マケドニア→プトレマイオス朝エジプト→セレウコス朝シリアに、順番に支配される。
でも頑張ってエルサレムでの自治を勝ち取る。

B.C.143年

一瞬独立する。

B.C.63年

ローマに支配される。

この流れをなんとなく踏まえた上で、まあ読んでみてください。

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証拠

まず大前提として、大昔(だいたいB.C.10〜6世紀らへん)に、中東のどこかに「ユダ王国」と「イスラエル王国」が存在したことは、ほぼ間違いのない事実であります。

残念ながら、その前の「統一イスラエル王国」に関しては、旧約聖書以外のソースがありません。

しかし、「ユダ王国」と「イスラエル王国」に関しては、わりとソースが豊富。

例えば、アッシリアの碑文にはイスラエルの王様が何人も登場し、その内容も旧約聖書の記述に対応しています。

アッシリア王に土下座するイスラエル王

また、エジプトのシシャク王は、B.C.10世紀の終わり頃にユダ王国へ軍事遠征を行い、その戦果を石碑に残しています。こちらも旧約聖書と符合しています。

シシャク王の遠征先リスト

というわけで、「ユダ王国」と「イスラエル王国」は、ほぼ間違いなくあったのであります。

文献的に、ユダ王国とイスラエル王国の存在は確認できる。

そうなると、その実物をなんとしても発掘したくなるのが人情というもの。

じゃあどこを掘るかということになるわけですが、これはもうパレスチナしかあり得ない。

イスラエル王国はパレスチナにあった、そんなの大昔から常識でした。

ここ。紛争が絶えないあの地域。

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哀しい発掘成果

こうして、「統一イスラエル王国の遺跡を発見できるかも(o´艸`)」なんて期待しつつ、19世紀の中頃から発掘調査が盛んに行われるようになりました。

ですが…パレスチナで見つかった遺跡や出土品のうち、「統一イスラエル王国」「ユダ王国」「イスラエル王国」に関係すると断定できるものは、一つも…ありません…

もちろん、それよりさらに前の「族長時代」や「エジプト関連」の痕跡なんて、カケラもありません。

それでは、時系列に沿って、哀しい発掘成果を見ていきましょう!

アブラハムは実在したか

ユダヤ人の祖アブラハム。

ノアの洪水の後、最初に神から啓示を受けた人物です。

息子を生贄にしようとする畜生でもある。

まあ、モデルとなった人物はどこかにいたのかもしれません。でももう昔すぎて痕跡を見つけるのはちょっと無理。

というかそもそも、旧約聖書に書かれたアブラハムの物語は、かなりの部分がフィクションっぽいです。

例えば、アブラハムは175歳まで生きたとされており、さすがにフカし過ぎ。

また、時代錯誤な表現もちらほら。代表的なのは、よく登場する荷物運搬のラクダ。

人類がラクダを家畜化したのはB.C.1000年以降のこと。アブラハムが生きたとされる時代より1000年以上も後のことなのであります。

旧約聖書の編纂が始まったのはB.C.900年以降ですので、まあ言い伝えを当時(旧約聖書が書かれた頃)風に再構築した「物語」なのでしょう。

言い伝えがあるなら、モデルとなった人物はいたのかもしれませんし、複数の族長のエピソードを一人のものとしてまとめたのかもしれません。

ただ、アブラハムに関する考古学的な証拠は見つかっていません(´・ω・`)

イスラエル人はエジプトに行ったか

イスラエルの民がエジプトにいたという痕跡も、一切ありません(´・ω・`)

詳細は↓。

全39巻に及ぶ旧約聖書の2巻目にあたる、「出エジプト記」。 旧約聖書の中でもひときわストーリー性に富んでおり、「モーゼが海を割...
旧約聖書の原文にある「msrym」という単語。 これは、一般的には「エジプト」を意味する単語とされていますが、どうも怪しいというのが前...

カナンに侵攻したか

「カナン」というのは、パレスチナ一帯の昔の地名。

神がアブラハムに「与える」と約束した土地のことであります。

B.C.13世紀。

モーセはイスラエル人とともにエジプトを脱出した後、約束の地カナンを目指して長い旅をしました。

しかし、いろいろあってモーセはカナンを目前にして死去。ヨシュアという人物がその後を継ぎました。

モーセに指導者として任命されるヨシュア

ヨシュアは軍事の大天才で、指導者になるやいなや、カナンにあった諸都市を次々に征服していきました。

ということで、パレスチナで戦争の痕跡がある古代都市が発掘されれば、カナン侵攻がグッと真実味を帯びるわけです。

で、考古学者が最初に目をつけたのは、パレスチナ北部のエリコという都市でした。

旧約聖書によれば、ヨシュアが最初に攻めたのは、堅牢な城壁に囲まれた「yrhw」という街。

司祭達が角笛を吹いて城壁を崩したらしいです。

実際、エリコ近郊の遺跡には立派な城壁が存在しており、その上「yrhw」も「エリコ」と読めなくはない。

エリコの城壁???

そんなわけで、「エリコ」=「yrhw」であると断定されました。めでたしめでたし。

しかし。

よくよく調べてみると、エリコ遺跡の城壁は、B.C.20世紀という超古い時期のものだという事が判明。どう頑張っても旧約聖書との辻褄が合わない…(´・ω・`)

さらに注意深く調べてみると、ヨシュアが侵攻したとされるB.C.13世紀の地層からは、人が住んでいた形跡が全くありませんでした。

つまり、ヨシュアがエリコを攻めた頃、エリコという都市は存在しなかったという訳のわからない話になってしまいます(´・ω・`)

他にもパレスチナにはいくつか古代都市の遺跡がありますが、どれも一緒。

B.C.13世紀に人が住んでいなかったとか、存在したけど破壊の跡がないとか、破壊の跡があるけど時代が違うとか。

ヨシュアが侵攻した都市だと断定できる遺跡は一つもありません(´・ω・`)

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イスラエル王国とかいうフィクション

ここまで、旧約聖書に書かれたエピソードが史実であったという証拠はナッシング

しかし、慌ててはいけません。

一番大事なのは、イスラエルの民の絶頂期である統一イスラエル王国時代であります。

ダビデ王とソロモン王という2人の偉大な王が築いた黄金時代。

極端な話、この時代の痕跡さえ見つかれば他はまあいいや、くらいの重要性なのです。

統一イスラエル王国のスケール

旧約聖書によれば、ダビデ王はエルサレムを首都と定め、パレスチナの地の大部分を占める強大な国を確立したとされます。

イスラエル帝国の最大版図。

また、次の王ソロモンはもう偉大すぎて、世界中の王様が金銀財宝を貢ぎに来るレベル。金がもう余っちゃって、銀なんかゴミ同然でした。

さらに羨ましいことに、ソロモンには正妻が700人、妾が300人もいたとされています。許せません。

ハーレム。

このように、統一イスラエル王国というのは、文字通り黄金時代であり、ユダヤ人にとっての誇りなのであります。

ダビデとソロモンは実在したか

まず、ダビデ王についていうと、正直かなり怪しい。

強大な王国の王であったはずなのに、他国からもパレスチナのどこからも、その存在を裏付けるものは見つかっていません。

ただいちおう、たった一つだけ、薄〜い証拠があります。

それは、イスラエル北部のテル・ダンという地域で見つかった石碑。

通称『テル・ダン碑文』。B.C.9〜8世紀くらいのもの。

そこには、「bytdwd」という文字列が書かれていました。上の画像の白いとこね。

「byt」は「〜の家」を意味する語。

「dwd」という文字列は「ダビデ」のこと。

であるからして、「bytdwd」は「ダビデの家」であると解釈できるわけです。読み方が違うという説もあります。

「ダビデの家」という表現があるということは、かつてダビデ王が実在した証拠だ!という話になっていきます。

ただまあ実際には、これ単品ではダビデ実在の証明にはなりません。あくまで、「ダビデの末裔を称する者がいたかも」という間接的な証拠でしかありません。

日本に置き換えてみれば、天皇家があるからといって、それが神武天皇の実在を証明するわけではないですよね。

結局のところ、ダビデ本人について直接言及するような古い碑文が出てこない限り、ダビデの実在は証明できないわけです(´・ω・`)

ちなみにソロモン王の方はどうかというと、こちらはシンプルに存在しなかったと言えます。

世界中の王が貢ぎ物を持ってきたにも関わらず、1000人もの女性を囲っていたにも関わらず、ソロモンに言及する碑文はどこからも見つかっていません。ゼロ。皆無。

そんなわけで、ソロモンの実在については、聖書考古学者は諦めムードなのであります(´・ω・`)

統一王国という幻想

では肝心の統一イスラエル王国はどうだったのでしょうか。

旧約聖書を読む限り、統一イスラエル王国はとても豊かな国家でした。

ダビデ王は周辺民族を悉く撃破し、広大な領土を手中に収めました。

ソロモン王は数多くの建設プロジェクトを手がけ、首都エルサレムには豪華絢爛な宮殿や神殿が建てられました。

エルサレム神殿の想像図(※願望)

しかし。

エルサレムでの熱意溢れる発掘調査の結果、B.C.10世紀の地層からは、建物の遺跡はおろか、土器のかけらすら見つかりませんでした。

この事実が示す結論は、ただ一つ。

統一イスラエル王国があったとされる時代、その首都エルサレムのあたりには、誰も住んでいなかったか、非常に小規模な村落しかなかったのであります(´・ω・`)

可能性は0ではない

いちおう補足。

もしかすると、今現在も聖地である「神殿の丘」の下には、遺跡があるかもしれません。

伝承を信じるならば、この神殿の丘はもともとソロモンがエルサレム神殿を建設した場所。

その神殿はB.C.587年にバビロニアに徹底的に破壊されましたが、イスラエル人がバビロンから帰還した後、ここに第二神殿を建設したとされています。

さらにB.C.20世紀には、ユダヤの王ヘロデが大幅に第二神殿を改築し、ヘロデ神殿を築きました。

有名な「嘆きの壁」は、ヘロデ神殿の壁。つまりB.C.20年のものに過ぎません。

しかし、さすがに聖地をぶっ壊して発掘調査するなんて非現実的なので、真偽はこれからもずうっと謎のままです。

ただ、もし神殿の丘を発掘して何も発見できなかった場合を想像すると、謎のままにしておいた方がいいのかもしれません。

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分裂後のイスラエル

統一イスラエル王国は、ソロモンの死後まとまりがなくなり、B.C.922年に北の「イスラエル王国」と南の「ユダ王国」に分裂したとされています。

存在すれども証拠なし

この「イスラエル王国」と「ユダ王国」については、冒頭にも書いたように、その「存在」はほぼ決定的です。

なぜなら、アッシリアやエジプトの碑文にハッキリと登場しているから。

そしてパレスチナ各地には、この時代のものと思われる都市の遺跡がいくつかあります。

有名なのは、テル・メギドという遺跡。

メガテンをやっていれば、「メギド」というワードにも馴染みがあるはず

メギドからは、B.C.9世紀中頃の建物が多く出土しています。ただ、誰がそれを建てたのかは不明。その用途も不明。

他にもいくつかの遺跡がパレスチナにはありますが、どれ一つとして旧約聖書との関連性を認められた遺跡はありません(´・ω・`)

遺跡はあっても、それがイスラエル人のものだという証拠が出てこないというもどかしさ。「パレスチナの遺跡なんだから、多分イスラエル関連やろ」と推測はするものの、これは願望でしかないのですね。

バビロン捕囚以降

分裂後の2王国も、最終的には滅亡します。

イスラエル王国はB.C.722年にアッシリアに攻められ滅亡。

ユダ王国はB.C.586年にバビロニアに攻められ滅亡。この時、多くのユダ王国の民がバビロニアの王都バビロンへと強制移住させられました(バビロン捕囚)

移住先のバビロンでは、ユダ王国の王様の名前が載った食料配布リストが出土していますので、その規模はともかく、バビロン捕囚自体は多分あったっぽい。


楔形文字で書かれた配給リスト。

B.C.539年にバビロニアが滅亡すると、イスラエル人は解放され、各地へと離散。彼らの一部はイスラエルに戻り、定着していったみたい。

この後しばらくパレスチナの覇者がペルシャやマケドニアとかに代わっていき、その都度属国状態になります。

ちなみに、このあたりの時代の遺跡にも、やっぱりイスラエル人の痕跡はありません(´・ω・`)

例えば、B.C.443年にギリシャの歴史家ヘロドトスが著した「歴史」。

この本はヘロドトスが実際に諸国を旅して書いたもので、オリエント世界のほとんどの地域を網羅していますが、やっぱりイスラエル人については1㍉も触れられていません。

彼らをパレスチナで考古学的にようやく確認できるようになるのは、B.C.143年に興ったハスモン朝の頃になります。

ハスモン朝というのは一瞬独立したユダヤ人(=イスラエル人)の王朝。当時の支配者であるセレウコス朝シリアに反乱を起こして独立を勝ち取ったとされています。この時代の 銀貨が何枚か発見されているので、その存在は裏付けられています。

ポッと出がいきなり反乱を起こして独立というのは現実的ではないので、まあ多分イスラエル人はバビロン捕囚の後からずっとイスラエルにいたんだろうと想像されているのであります。

パレスチナでは何も見つかっていない

ここまで、なんともスッキリしない調査結果を見て来ました。

最初の年表を見ながら、もう一回整理して見ましょう。

B.C.2100年

メソポタミアの遊牧民アブラハムが、神の指示でパレスチナに移住。
→存在した証拠なし

B.C.1700年

アブラハムの孫たちがパレスチナからエジプトに移住するが、やがて奴隷に。
→エジプトにイスラエル人がいた証拠なし

B.C.1280年

モーセに率いられてエジプト脱出。
→大量のイスラエル人が脱走した証拠なし
→モーセが実在した証拠もなし

B.C.1220年

モーセの後継者ヨシュアが、パレスチナに攻め込み、次々に敵を倒す。
→この頃、パレスチナにはほとんど人が住んでいなかった

B.C.1021年

統一イスラエル王国を建国。
→遺跡は皆無

ダビデ王、ソロモン王が優秀で、栄華を極める。
→実在しないっぽい

B.C.922年

ソロモンが死に、内紛発生。

イスラエル王国とユダ王国に分裂。
→どちらも遺跡確認できず
→他国の文献には登場している

B.C.722年

アッシリアに攻められてイスラエル王国滅亡。
→遺跡確認できず
→アッシリアの文献に記述あり

B.C.587年

バビロニアに攻められてユダ王国滅亡。
→遺跡確認できず

バビロンに強制移住※バビロン捕囚
→バビロンの文献に記述あり

B.C.539年

バビロニアがペルシャに滅ぼされ、自由の身になる。

一部のイスラエル人はエルサレムに帰る。
→史実

B.C.333年

その後は、マケドニア→プトレマイオス朝エジプト→セレウコス朝シリアに、順番に支配される。
でも頑張ってエルサレムでの自治を勝ち取る。
→証拠なし

B.C.143年

一瞬独立する。
→史実

B.C.63年

ローマに支配される。
→史実

結局のところ、考古学的に史実であると断言できるのは、バビロン捕囚より後のことしかないわけです。

こうした調査結果を踏まえ、聖書考古学者の主流な意見は、

アブラハムからカナン侵攻までの記述はほぼフィクションだし、統一イスラエル王国は単なる集落程度の規模。ユダ王国とイスラエル王国は、確定的な証拠はないけど多分存在したと思う。

という感じ。我々の履歴書を彷彿とさせる空白だらけの年表です。

なぜパレスチナなのか

こうした結果を見て、旧約聖書は嘘ばっかりと判断するのは簡単です。

しかし、パレスチナから古代イスラエルに関する有力な証拠を発掘できない理由は、本当に史実がショボかったからなのでしょうか。

多くの研究者の頭には強烈な先入観があります。

それは、パレスチナが旧約聖書の舞台であるという思い込み。

「嘆きの壁」をはじめとするB.C.20年頃の遺跡がエルサレムに存在しており、2000年以上もエルサレムは聖地であり続けました。

その歴史は半端なものではなく、先入観を持つのに十分なものです。

しかしその一方で、その先入観があるために、
「パレスチナから証拠が発掘されない」

「旧約聖書は史実ではない」

という結論を導いてしまうのではないでしょうか。

確かにその結論は有力な可能性の一つですが、他の可能性も考えられないでしょうか?

例えば、場所が違うという可能性。

仮に、旧約聖書の舞台がパレスチナではなかったとするならば、パレスチナから何も見つからないのは当然のことでしょう?

というわけで、もう少しで結論だよ〜。

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