さて、引き続きユダヤ人がアメリカ政治に食い込んでいく様子を見ていきます。
トルーマンの場合
副大統領とかいうおまけ
アメリカでは、大統領が任期中に死んだり辞任したりすると、新たに選挙とかではなく、副大統領がそのまま昇格する事になってます。
しかし、任期中に繰り上がりになるなんてことはそうそうあることではなく、実態としては「お飾り」でしかありません。
初代アメリカ合衆国副大統領のジョン・アダムス後に第2代大統領に就任は、この副大統領という役職について、
と断じております。
そんな副大統領から棚ぼたで昇格した大統領というのは、どうしても舐められがちになってしまいます。
過酷な悪口選手権(※米大統領選)を経ずして、真の大統領にはなり得ないのあります。
棚ぼた
絶大な人気を誇り、空前の4期連続当選を果たしたフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で急逝したのが、1945年4月のこと。
繰り上がりで大統領となったのは、副大統領だったハリー・S・トルーマンでした。
原爆を投下した畜生
トルーマンは、議員として多くの実績があり、政治家としてはとても優秀。
しかしその一方で、どうもパッとしないというか、華がないというか、なんか魅力に欠ける人物でもあり、国民からの人気はイマイチでした。
そんなトルーマンが再選を果たすために頼ったのが、ユダヤ人でした。
そもそも、彼は、政治家になる前にはユダヤ人と共同で洋品店を経営していたり、元からユダヤ人に対する差別感情は少ない人物。
ルーズベルトと同じく、親ユダヤ路線を続けることと引き換えに、強力なバックアップを得ることに成功します。
実際、トルーマンの2期目の大統領選は、対立する共和党のデューイ候補がかなりの強敵で、トルーマンは敗北を予想していました。
トルーマンは、ユダヤマネーをバックにした半ば強引なキャンペーンによって、薄氷の勝利を掴み取ったのでした。
トルーマンの敗北を確信して、「デューイ、トルーマンを破る」の誤報を流しちゃった新聞。
ちなみにこのデューイは、かつてイタリアマフィアの大ボス「ラッキー・ルチアーノ」を有罪に追い込んだ元有能検察官です。
支援の代償
1948年、ユダヤ人たちは、かねてより計画していた、イスラエルの建国を実行に移します。
しかし、アラブ諸国の力もまだまだ強く、イスラエルを建国して維持するには連合国の中心であるアメリカの協力が、絶対に必要不可欠でした。
ユダヤ人にとって幸運だったのは、かつて洋品店を共同経営していたユダヤ人ジェイコブソンが、トルーマンとの親交を続けていたこと。
ユダヤロビーは、ジェイコブソンを探し出してトルーマンの元へと送り込みます。
既に実現間近となっていた「イスラエル建国」に協力すること、そして建国が実現したらすぐにそれを承認すること。それを説得させたのです。
ジェイコブソンとトルーマン
1948年5月14日にイスラエル独立宣言が読み上げられた時、その数分後にトルーマンは「イスラエルを国家として承認する」との声明を出しました。
これが、トルーマンが大統領選での支援と引き換えに支払ったものだったのです。
圧倒的冷遇
しかし、トルーマンは最後まで米国民からの人気はパッとせず、1度はユダヤロビーの強力な後押しで再選したものの、3期目は出馬せず1952年に引退となりました。
アイゼンハワーの場合
続いて大統領となったのは、共和党のドワイト・D・アイゼンハワー。
アイゼンハワー第34代大統領
それまで民主党と密接な関係を築いてきたユダヤロビーは、この瞬間に、一切の影響力を失いました。
そもそも、アイゼンハワーは軍人として最高司令官まで上り詰めた人物であり、それまでの人生でユダヤ人から恩恵を受けたことなど、全然ありませんでした。
リアルでの繋がりがないということ。それはつまり、ユダヤ人に対しての情などないということに他なりません。
また、アイゼンハワーの支援者層はWASPを中心にシッカリと組織されていて、ユダヤマネーも別に不要。ユダヤ・ロビーに頼ることは一つもありませんでした。
冷遇の内容
そんな人物が大統領に就任した結果。
まず、トルーマンが始めた6000万ドルを超えるイスラエルへの経済援助は、2400万ドルにまで大幅に削減されました。
また、1956年に起こった第二中東戦争(イスラエルvsエジプト)では、アメリカはイスラエルを非難し、優勢だったイスラエル軍は半ば強制的に撤退させられました。
民主党政権だったなら、アメリカは間違いなくイスラエルを支持していたはず。
この時期、ユダヤロビーは、全くの無力だったのです。
現在のユダヤロビーの中心的役割を担っているAIPACは、この時期になんとか事態を改善させようと設立された団体です。
影響力の復活
ケネディの場合
このアイゼンハワー政権期の冷遇は、ユダヤ人にロビー活動がいかに重要かを再認識させるに十分なものでした。
そして1960年。
アイゼンハワーが2期務め上げて引退となり、再び大統領選の時期となりました。
ユダヤロビーは、政治への影響力を再び手にするため、民主党候補者の吟味に取り掛かります。
そして選ばれたのが、若き大統領候補J・F・ケネディでした。
大統領選の様子
まだ若いケネディにとって、ユダヤからの支援は喉から手がでるほど欲しいもの。
しかし、ユダヤ人側からすると、ケネディが本当に思いやりのある政治スタンスを取ってくれるのか、測りかねる部分もありました。
両者の間で、「支援と見返り」について、かなり慎重なやり取りがあった後、合意が交わされ、ケネディはようやくユダヤ人からの支援を取り付けます。
ケネディの対立候補は、アイゼンハワーの副大統領だったニクソン。大統領選は大接戦となりますが、最後は0.17%という超僅差でケネディが勝利しました。
この大統領選において、ユダヤロビーの貢献度は非常に高かったため、当選後ケネディはすぐにユダヤロビーの指導者をホワイトハウスに招き、組閣人事について相談したと言われています。
ケネディ政権では、2人のユダヤ人が閣僚に登用され、民主党とユダヤ人のつながりはますます強くなっていきます。
ジョンソンの場合
ケネディが暗殺されると、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領へと繰り上がります。
ケネディ暗殺直後、エアフォースワン機内で宣誓するジョンソン
このジョンソンという人物は、ケネディ以上の親ユダヤ派。
ケネディ暗殺によって再び影響力を失うことを恐れたユダヤ人指導者に対して、こう励ましたと言われています。
もちろん、この発言の裏には2期目の選挙での支援を期待する下心があったのは言うまでもありません。
こうして、まるでルーズベルト→トルーマンの流れをなぞるように、民主党の親ユダヤ路線を強化されていったのです。
共和党の攻略
この頃、ようやく共和党もユダヤ票の重要性に気づき始めます。
ニクソンの場合
ジョンソン引退後の1968年大統領選で勝利したのは、共和党のリチャード・ニクソン。
第37代大統領リチャード・ニクソン
しかし、その勝利は、わずか0.7%という僅差。
特に問題だったのが、重要選挙区の一つであるニューヨーク州での敗北。ニューヨークには多くのユダヤ人が住んでおり、ニューヨーク州で勝つにはユダヤ人の支持が必要不可欠でした。
そこで、ニクソンはついにユダヤロビーと接触することを決意します。ユダヤロビー側も、共和党にも影響を与えられるようになるのは大歓迎。
こうして、両者の利害が一致したのです。
「イスラエルの安全保障」と引き換えに、ニクソンは多くのユダヤ人富豪から支援を取り付けることに成功。1972年の大統領選では、ニクソンは2位に大差をつけて、余裕の勝利を飾りました。
このニクソンとユダヤロビーの接近は、それまで民主党一辺倒だったユダヤロビーの影響力が、共和党にも及んだ歴史的瞬間でした。
ただし、本人はその後「ウォーターゲート事件」によって失脚。
繰り上がりで大統領となったフォードは親ユダヤ路線を継承しますが、ニクソンのスキャンダルの影響を払拭できず、2期目の大統領選で敗北してしまいました。
その後
戦後のアメリカ大統領で、2期目の選挙に敗北したのは、たったの3人。
1人は、ニクソンの失脚で繰り上がったフォード大統領。これはまあしゃーない。
残る2人、カーター大統領とブッシュ(父)大統領。
この2人は、実はどちらも反イスラエル的な政策が目立った大統領でした。
カーター大統領は、パレスチナ難民に同情的であり、イスラエルに多くの譲歩を強いました。
ブッシュ(父)大統領は、国連でイスラエル非難決議を起草したり、移民受け入れ資金100億ドルの債務保証の要請を断ったり、とにかくイスラエルに冷たい対応をしてきました。
それがすべての原因とは限りませんが、二人とも2期目の選挙で敗北しているのを見ると、さすがユダヤロビー、きっちり仕事をしているなと感じますね!