「人を撃つ」という行為に強い抵抗感を持つ人間。
「同種同士で殺し合うのは人間だけ!」という話は、よく耳にします。
しかし、実際に人を撃てない兵士の事を想うと、なんだかんだいっても人間はけっこう優しい生き物なんだと分かりますね。
ただ、この事実は第二次世界大戦が終わるまで各国軍にきちんと認識されることはありませんでした。
ライフルを撃っても撃っても、なぜか敵が死なない。
これは、銃の性能が低いせいだと思われ続け、銃の性能の向上はますますエスカレートしていきました。
そしてついに、「機関銃」という最凶の飛び道具が登場することとなります。
機関銃とはなんぞや
機関銃というのは、要するに、「引き金を引き続ければ」「自動的に弾丸を連射」できる火器であります。
当たり前ですが、普通の銃というのは、装填→発射→装填→発射→装填→…というサイクルで運用されます。
素早く連射をするには、この「装填」という工程をいかにスピーディーに行えるかにかかっております。
そのために考えられたのが「後装式」という仕組み。
前込め式のマスケットと比較して、飛躍的に射撃間隔は短くなったのであります。
しかし、いかに熟練兵であろうとも、手作業で装填する限り、数秒はかかってしまいます。
この「手作業の限界」を超えるには、発射と発射の間に必ず発生する「装填」を省くという発想の転換が必要でした。
あらかじめ装填しとく。
もっとも素朴な発想としては、あらかじめ何発も装填しておくというもの。
この発想は、16世紀とかの結構早い段階で実現されています。
10連ハンドキャノン
レオナルド・ダ・ヴィンチのアイデア
超リボルバー
どれも、全部装填しておくのは手間ですが、一度装填してしまえば全弾撃ち尽くすまで連射可能です。
これらの兵器がイマイチ主流になれなかったのは、工業技術が未熟でカラクリの信頼性や耐久性が低かったため。
そして、結局撃ち尽くした後は、たっぷり時間をかけて装填しなくてはならないため。
「だったら戦列歩兵を並べたほうがいいや」という当然の結論に至ってしまったのであります。
そんなわけで、実用的な機関銃が完成を見るのは、19世紀半ば。後装式の普及と金属薬莢の実用化まで待つことになります。
ガトリングガン
初期の機関銃として最も成功を収めたのは、かの有名な「ガトリングガン」。
武田観柳が愛用するなど、日本でも非常に高い知名度を誇る機関銃であります。
このガトリングガンを開発したのは、アメリカ人発明家のリチャード・ガトリングさん。
心優しき発明家
後部のクランクを回すと、円形に配置された薬室・装填機構・銃身が一体となって回転。
そうして、次々に装填→発射→排莢→…を行うという仕組み。
「装填」という工程を機械化することに成功したのであります。
弾を撃ち尽くしても、すぐに次の弾倉を継ぎ足せば、また連射できる優れものでした。
毎分200発という桁外れの連射能力を持っていました。
ガトリングさんが機関銃を開発したきっかけは、南北戦争での死亡者の大半が病死だと知ったため。
こうした不毛な死を少しでも減らすため、彼は機関銃の実現に没頭するようになり、1862年にガトリングガンを完成させました。
この銃があれば大部隊を編成する必要はなくなり、その結果、戦闘や疾病にさらされる兵士は大幅に減るだろう。
やさC。なお
ガトリングガンの「性能」
当時のライフルは、1分間に5〜6発撃てればいい方。
100人分というのは大袈裟にしても、40人分くらいの活躍はしてくれるものと思われました。
しかし、その活躍は、ライフル兵40人分どころではなく、1000人分以上。ガトリングガンを握った途端、兵士はガンガン敵兵をぶっ殺すようになったのです。
というのも、ガトリングガンは重くて持ち運びも大変、さらに射撃中も弾薬の補給が必要になるので、基本的に3人以上で運用されるものです。
3人以上で運用するということは、射撃手は仲間から常に「監視」される状態なのであります。
そうなると、「理想的な」「勇猛な」兵士であろうとするのが人間の心理。敵を撃たないとかいう選択肢はあり得ません。
また、細かく照準を合わせず、敵のいる方向に向かって撃ちまくる兵器なので、わざと照準を外すということもできません。
その結果、ガトリングガンは、無慈悲に機械的に敵を射殺する兵器となったのです。
敵が散らばる野戦ではイマイチ使いにくい兵器でしたが、敵が固まって突撃してくるような防衛戦や敵の動きが制限される海戦では、無敵の強さを誇りました。
このことは、発明者であるガトリングさんすら予想しなかった「性能」でした。
初期の機関銃あれこれ
ところで、この時期には様々な機関銃がカンブリア紀の大爆発のごとく開発されていました。
その中で特に有名なのがフランスの「モンティニー機関銃」と、アメリカの「コーヒー・ミル」です。
モンティニー機関銃別名:ミトライユーズ
モンティニー機関銃は、ガトリングガン登場の10年前にフランスで発明された最初期の機関銃です。
1つの筒に多数の銃身が組み込まれており、後部のハンドルを回すと弾を発射できる仕組みになっています。
その連射性能は毎分100発、さらに、装填も金属薬莢を並べた給弾板を交換するだけのお手軽さ。
さらに、火薬量が多い実包を使うことにより、射的距離は1.8キロにも及びました。
性能面では文句のない兵器でしたが、超極秘兵器として開発されていたため、この機関銃が兵士に渡されたのは戦争開始直前。
で、いざ実戦では故障が続出した上、渡された部隊も「どうやって使えばいいの?」と戸惑い、全くの役立たずとしてお蔵入りしました。
コーヒー・ミル
「コーヒー・ミル」ことエイガー機銃は、ガトリングガンより2年早い1860年に開発された手回し式機関銃です。
こちらは南北戦争中にリンカーン大統領の前でデモストレーションをしたところ、即座に64丁購入され、実戦投入もされました。
しかし、こちらも故障が多い上、兵站部門が「弾を使いすぎてムダ」と難色を示したり、やはり前線の兵士は使い方がイマイチ分からず、重要拠点においといただけで、目立った活躍はしていません。
この時代の機関銃は、「故障が多く、使いどころが分からない」、もてあまし気味な兵器でした。
機関銃の完成
というわけで、ガトリングガンを除いて、あんまり華々しくないデビューを果たした機関銃。
しかし、ついに1884年、現在の機関銃の元祖ともいえる「マキシム機関銃」がイギリスで開発されました。
ガトリングガンなどこれまでの機関銃は、手回しやモーターなど「外部動力」がないと動かないものでした。
一方、このマキシム機関銃は、弾が発射される時に発生する反動力とスプリングを利用することで、自動連射を実現しています。
驚きの毎分600発!
こうして、射撃における「装填」という工程は完全に無くなり、「トリガーを引けば弾が切れるまで連射しまくる」銃が歴史上はじめて登場したのです。
このマキシム機関銃は、当時欧州で活況を呈していたアフリカ植民地化競争に初めて投入され、破壊的な戦果を挙げました。
機関銃vs「土人」
1886年、鬼畜イギリスがスーダンを領有するために侵攻した際は、イギリス軍部隊500人とスーダン軍14000人が衝突。
しかし、たった6挺のマキシム機関銃により、無謀にも突撃してきたスーダン軍のうち11000人を軽くミンチにしました。もちろんイギリス側は死傷者0。
また、1893年にローデシア(今のジンバブエ)で起きた反乱でも、50人のイギリス軍部隊(機関銃4挺)が5000人のマタベレ族戦士を粉砕しました。
この圧倒的な武力。
ガトリングさんが夢見た「機関銃によって、大規模な軍隊を組織する必要をなくしたい」という夢は、こうして現実のものとなりました。
ただし、それはあくまで機関銃を一方のみが所有した場合のこと。
日露戦争の場合
両軍が共に機関銃を装備していた場合はどうなるのでしょうか。
大規模な戦争において、初めて機関銃が運用されたのは、1904年の「日露戦争」でした。
旅順攻囲戦
日露戦争における最大の激戦といえば「旅順攻囲戦」。
日本軍が、ロシアの重要拠点である旅順港を攻め、見事に陥落させた戦いであります。
この戦いでは、日本軍は保式機関砲48丁、ロシア軍はマキシム機関銃43丁をそれぞれ保有していました。
日本軍死にすぎワロタ…
この時代の機関銃の最大の欠点は、重くて動かせないこと。
つまり、防御側は自軍要塞に機関銃を据えて迎え撃てばOKですが、攻撃側は機関銃を運用できず、小銃を抱えて突撃するしかありませんでした。
防御側のロシア軍は、深い壕や各種障害物、更に電流が流れる鉄条網などを設置し、日本軍の侵攻スピードを鈍らせるよう最大限の工夫を凝らしていました。
そんな要塞に対して行われた総攻撃など、失敗するに決まっているのであります。
もちろん、日本軍は機関銃の配備された要塞の危険性は察知しており、総攻撃に先立って火砲380門で11万3000発というかつてない規模で猛爆していました。
これは日清戦争で使われた全砲弾量をも上回る規模でしたが、期待ほどのダメージを与えることはできず、突撃を仕掛けた日本軍兵士は次々に機関銃の餌食となっていきました。
この戦闘をロシア側から見た外国人武官は、本国へ次のように報告しています。
第一回総攻撃で、日本軍は15,860名もの死傷者を出しました。
日清戦争の全死傷者を1日で上回る犠牲者が発生したことを知った大本営は、「桁を間違ってるんじゃないの!?」と確認したと言われています。
しかし、機関銃の恐ろしさは、なにも日本軍だけが味わったわけではありません。
ロシア軍死に過ぎワロタ…
日本軍は、第一回総攻撃でなんとか占領した拠点にさっそく機関銃を運び込みます。
これに対し、ロシア軍は拠点を取り返そうと突撃。見事に返り討ちに遭いました。
つまり、ロシア軍も機関銃に対する対処を知らなかったのです。
機関銃への対策
それ以降の攻撃では、日本軍は単純な突撃は避け、ジグザグな塹壕を掘り、ギリギリまで近寄った距離から突撃する方針に変更します。
機関銃の射程内での移動を極力避けたのです。
また、歩兵突撃にあわせてロシア軍の銃眼を機関銃で狙い、援護射撃を行う戦術なんかも採用されました。
そうして、日本は大出血を強いられながらも旅順攻略に成功しました。
この戦いにおける死者は、両軍とも1万5000人を超えたと伝えられています。
日露戦争の教訓
同じく日露戦争の黒溝台会戦では、日本軍54,000人に対して、10万人近いロシア軍が奇襲をかけました。
この猛攻の矢面にたったのは秋山好古少将率いる秋山支隊8000人。
ロシア軍の襲撃を察していた秋山少将はかき集められるだけの機関銃を集め、−20度の氷土に気合いで塹壕を掘り、防衛線を構築していました。
冬季戦を得意とするコサック騎兵でしたが、機関銃の弾幕を突破することはできず、撤退。
こうした苦しい戦いを経て、日露戦争は「機関銃で防衛された拠点は、どれほどの兵力をもってしても突破できない」という教訓を残しました。
実際、日露戦争を観戦していた武官は、機関銃を軍隊にもっと導入するように求めています。
10年後…
では、この約10年後に勃発した第一次世界大戦ではどうだったのでしょうか。
結論から言うと、日露戦争から欧州は何も学んでいませんでした。
当時のヨーロッパ各国の将官たちは、
「植民地や極東の土人どもとは違い、勇猛な精神を持った我々の兵は一度突撃すれば機関銃など恐れるに足らず」
と本気で考えていました。
この考えは、第一次世界大戦が始まってすぐに叩きのめされます。
ドイツvsフランスの場合
第一次世界大戦で、ドイツはまずベルギー方面からフランスに侵攻してパリを占領、返す刀でロシアを倒すという壮大な「シェリーフェン・プラン」を策定していました。
その一方、フランスもドイツが攻めてきたらドイツ南方のアルザス=ロレーヌ地方を占領する「プラン・17」を計画しており、ドイツのベルギー侵攻とともに予定通り進軍します。
当時のフランス軍の戦術は「突撃!突撃!突撃!」。エラン・ヴィタール(攻撃精神)があれば敗北しない!という信念でした。
とにかく、がむしゃらにドイツに向かって突撃します。
一方、ドイツは機関銃を使った。
イギリスやロシアが必死にドイツ軍を食い止める中、フランス軍は勝手に突撃して損害を増やしていましたとさ。
フランス陥落間近と思われましたが、フランス軍はタクシーを総動員して援軍を送りまくるという奇策に出ます。
援軍には攻撃精神が叩きこまれてない新兵が多かったためか、なんとかドイツ軍撃退に成功します。
その後は両軍は手詰まりとなり、仕方なく地面を掘り始め、数ヶ月でベルギーの海岸からスイス国境まで塹壕が張り巡らされました。
通称「西部戦線」
膠着
繰り返しになりますが、塹壕戦では圧倒的に防御側が有利になります。
第一次世界大戦序盤の激戦により、この事実はようやく世界に認識されました。
騎士道精神を打ち砕かれたフランス・イギリス軍指導部も、しぶしぶながら機関銃を導入。ドイツ軍も、さらに多くの機関銃を求めたのです。
しかし、双方が塹壕にこもる戦いは、膠着を生み出します。
塹壕の中の敵を効率的に攻撃する方法は存在せず、両軍ともできうる限り塹壕を掘って相手の塹壕に近づき、突撃をもって相手の塹壕を占領するしかありませんでした。
そんな膠着状態を解決すべく、各国は試行錯誤を繰り返しました。
懐かしのクロスボウを使用して敵の塹壕に爆弾を投げ込む
↓
命中率低杉
敵の塹壕までトンネルを掘る
↓
時間かかり杉
大砲を撃ちまくる
↓
砲撃準備の時点で敵にバレて避難される
…。
というわけで、膠着状態の打開に向け、各国は新たな技術・兵器を追い求めるようになりました。
現代兵器の母
その過程で生まれたのが、毒ガスであり、戦車であり、飛行機です。
つまり、機関銃は第2次世界大戦で大々的に使われた兵器の母と言っても過言ではありません。
また、機関銃自身も、歩兵と一緒に突撃ができるように、軽量小型化していきます。
その結果、現在に繋がるアサルトライフルが開発されました。
サブマシンガンは拳銃弾をつかう機関銃で、警察特殊部隊などでよく使われています。
これもまた、塹壕戦で取り回しやすく、火力を高めるために開発されたものでした。
機関銃の登場が、この先すべての戦争を変えたと行っても過言ではありません。
この先、どのような銃が開発されていくかはわかりませんが、当面は機関銃の息子たちが戦場を支配していくのでしょう。
というところで、長らく続いた飛び道具シリーズを終わります。
次からはまた小ネタ系で頑張ります。