人類は、古来より貿易に精を出してきました。
貿易というのは、異国との商取引。
見たこともない珍しい食べ物、貴重な資源、美しい工芸品、新しい知識・技術などなど、魅力あふれる品々。
貿易を通してそれらをお互いに交換することで、これまで文明が発展してきたと言っても過言ではありません。
貿易では、ありとあらゆるモノが商品として扱われました。人間(奴隷)だって商品です。こうした人の移動は、文化交流という点でも、世界に大きな影響を与えてきました。
また、貿易には国を豊かにするみたいなメリットもあります。
例えば、自国で生産するのが難しい商品は輸入して済まし、余った労働力を得意分野の生産に注入する。
そうすることで、生産の効率化を図ることができ、国全体としては豊かになるという理屈。
こうした貿易のメリットが理論化されたのは近年のことですが、人類は経験値としてそのメリットを知っており、多くの交易ルートが構築されていきました。
香辛料の魅力
そんな貿易において、かつて一世を風靡した超人気商品の一つが、香辛料でした。
そもそも、あの刺激的な味が病みつきになる上、防腐作用なんかも強いと考えられていましたし(実際はそうでもない)、その強い香りは病魔を追い払うと信じられてきました。
そんな香辛料のメッカといえば、インド。
インド人は、紀元前からコショウを嗜んでいたと言われる筋金入りの香辛料大好き民族です。そのためか、東アジアで生産された香辛料は、自然とインドへと集まってくるようになりました。
ヨーロッパにおいても、古代ギリシャ・ローマ時代から香辛料は知られており、料理やお香などに利用されていました。
ローマの一般的な食事風景
現代でこそ、場末のラーメン屋にすらコショウが常備されており、香辛料なんて何のありがたみもありませんが、当時の農業技術では、ヨーロッパで香辛料を生産することはできませんでした。
そのため、ギリシャ・ローマはインドとのアラブを経由する交易ルートをわざわざ開拓し、香辛料貿易を盛んに行うようになりました。
ローマとインドを結ぶ交易ルート
香辛料依存症
ヨーロッパ人の香辛料需要は日増しに増え続け供給が追いつかず、同じ重さの金と等価で取引されるという、恐るべき末端価格を叩き出すようになります。
もはや、富の象徴という趣すらありました。
やがてはローマも衰退してしまいますが、香辛料の需要が減ることはなく、アラブ商人が香辛料をインドから地中海へと運ぶ役割を担い、それをヴェネチア共和国がヨーロッパ全土へ流通させていました。
相変わらず超高級品であり続けた香辛料ですが、それでもヨーロッパ人にとって、香辛料は必需品。
ヨーロッパの冬は厳しいもので、作物も育たず、家畜も処分するしかありません。その期間はどうしても腐りかけの塩漬け肉を食べるしかないのです。香辛料がなくてはやってられません。やや高値だと分かってはいても、買うしかありませんでした。
それに、中世に入る頃には、もうインドへの行き方なんて忘れちゃっています。一つ目の人間がいるとか信じられたりしており、もはや空想上の存在と言っても過言ではないほど遠い存在となっていました。
さらに、15世紀に入ると、強大なオスマン朝トルコが地中海まで勢力を伸ばし、インドとの交易ルートを完全に遮断します。
トルコに囲まれてしまった地中海。
その上、領土内の貿易にエゲツない率の関税が掛けられ、香辛料の価格は暴騰し、流通量は激減してしまいます。
ここにきて、深刻な香辛料ジャンキーとなっていたヨーロッパの国々は、早急にトルコの領土を通過しない香辛料の交易ルートを開拓する必要に迫られることとなったのです。
全ては香辛料のために
しかし、この当時、航海技術・知識はまだまだ未熟。船乗りの生還率は一説には20%に満たなかったとか。
それでも、新たな交易ルートを発見できた者には巨万の富と名誉が約束されていたため、貴賎の別無く、多くの冒険家が外洋へ船を出していきました。
その他、レコンキスタ(熱狂的再征服)とか技術の進歩とか、なんやかんや色々あって、ついに1415年、大航海時代が幕を開けました。
(てきとう。この辺はまた別の機会に)
なお、15世紀のヨーロッパ人の知識は、だいたい次の通り。
この状態からスタートして、なんとか香辛料が手に入る国へ行く航路を見つける必要がありました。
選択肢は二つ。
②地球は丸いのだから、まっすぐ西に向かえばインドに到達するはず。
①を選んだのは、ポルトガル。
バルトロメウ・ディアスやヴァスコ・ダ・ガマといった有能船長に恵まれたこともあり、1498年にインドへ一番乗りを果たします。
ヴァスコ・ダ・ガマ。有能。
ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路(黒線)
こうして、大航海時代の幕開けからわずか100年足らずで、ポルトガルはインド航路を開拓。
さっそく植民地なんかも作っちゃったりして、ポルトガルは豊かで華やかな時代を迎えました。
香辛料の禁断症状が引き起こした偉業と言えましょう。
なお、ライバルのスペインは、コロンブスの口車に乗ってしまい、うっかり遠回りな②を選んでしまいました。
ですが、運良く新大陸(アメリカ)を発見して豊富な金銀を手に入れたので結果オーライ。
この新大陸は、ヨーロッパから見て「西側のインド」ということで、西インドと呼ばれるようになります。
カリブ海に浮かぶ群島が、「西インド諸島」と名付けられたのはこのためです。
逆に、いわゆる東アジア全域は、ヨーロッパから見て「東側のインド」ということで、東インドと呼ばれるようになりました。
こうして、アジア方面はポルトガル、アメリカ方面はスペインがそれぞれ優先権を持つという流れが出来上がっていきました。
世界を半分こ
海外進出に成功したポルトガルとスペインは、時のローマ教皇に教皇子午線というお互いの優先権の「分割線」を設定してもらい、お互いの権利を確固たるものにしていきました。
青は1494年に設定された分割線(トルデシリャス条約)。
青線の右側はポルトガル、左側はスペインが、それぞれ優先権を持って搾取できるというわけ。
なお、緑の線は、「そういえば地球って丸いよね」と気付き、1529年に慌てて設定されたもう一本の分割線(サラゴサ条約)。
最初はただ香辛料が欲しかっただけだったはずなのに、どんどん話のスケールが大きくなっていきます。
というか、勝手に世界を半分こするとか、中々ふざけた話ですが、当時のローマ教皇の権威は相当なものだったので、キリスト教圏の国々がこれに異議を唱えることは不可能となっています。
イメージ画像
こうしたポルトガル、スペインの大成功を目の当たりにしたヨーロッパ諸国も、16世紀に入る頃にようやく、大航海時代に突入していきます。
しかし例の「教皇子午線」が邪魔をして、なかなかうまくアジアやアメリカに進出していくことはできませんでした。なので、16世紀くらいまでは、日本に来れたのは、ポルトガル人とスペイン人だけだったというわけですね。
はたして、この状況からヨーロッパ諸国はどのように巻き返しを図っていくのでしょうか。