前回の記事:ジンバブエの歴史を学ぼう!
さて、前回、ローデシア紛争が起こった所まで、さらっと見てきました。
ざっくりおさらいすると、
①第二次世界大戦後、世界は脱植民地の風潮。
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②ローデシア(当時のジンバブエの名称)でも黒人が独立を求めゲリラ戦を始める。
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③ローデシア白人政府はこれを徹底的に弾圧。
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④イギリス本国は、周りの目を気にして独立を認めようとした。
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⑤現地白人政府はこれに反抗し、一方的にイギリスに対し独立宣言。
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⑥黒人は猛反発し、ゲリラ戦が激化。←いまここ
ローデシア紛争は、14年にも渡る厳しい戦いでしたが、有能な指導者であるロバート・ムガベの元、黒人勢力は戦いを続け、ついには独立を勝ち取ります。
以後、現在に至るまでジンバブエ独立の英雄としてジンバブエの頂点にに君臨し続けています。
若き日のムガベ様。けっこう凛々しいw
英雄ムガベの生い立ち
1924年2月21日、ローデシアに生まれたムガベはカトリック教徒として育てられ、イエズス会の学校で教育を受けました。
その後、南アフリカのフォート・ヘア大学で英語と歴史学を、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済学を学びます。この立派な学歴を見ると、なかなか裕福な家庭で育ったようですね。
ちなみに最初の奥さんとは、この頃結婚しています。
うーむ、いい男
1960年、ローデシアに帰国したムガベは、マルクス主義に傾倒するようになり、ZAPUという独立運動組織に参加します。
1963年、活動方針の違いからZAPUを離党、ZANUに参加し党書記長を任命されました。
1964年、ムガベは独立運動弾圧の流れの中で逮捕それ、10年間拘留されました。しかし、釈放の日に備え、獄中でひたすらに法律の勉強をして過ごしました。
1974年、釈放されたムガベは、中国の支援を受けてZANUの軍事部門から独立したZANLA(ジンバブエ・アフリカ民族解放軍)というゲリラ組織の指導者となり、ローデシア政府軍と本格的な武装闘争に突入しました。
ローデシア紛争の経過
ローデシア紛争において、国内で最も血を流し厳しい戦いを続けていたのは、ムガベ率いるZANLAでした。
もう一つソ連・東欧の支援を受けていたZIPRAというゲリラ組織がありましたが、内戦中期にローデシア政府軍にこっぴどくやられ、隣国の訓練キャンプに篭って極力直接戦闘を避け、ローデシア政府軍とZANLAの消耗を待つ、漁夫の利作戦に切り替えていました。
英国式の装備と十分な訓練を施されたローデシア軍と、所詮は一般人に毛の生えた程度のZANLAでは、戦術・訓練・装備面全てで大きく差があり、戦局は黒人側が圧倒的に不利でした。
更に、ローデシア政府軍は、お隣の南アフリカ(アパルトヘイトで有名ですね)からも部隊を借りるなど多大な支援を受けており、戦力の差は歴然でした。
事実、ローデシア政府軍の特殊部隊は、黒人側の35倍から50倍、軍全体平均でも8倍の殺傷率を誇っていました。
ムガベからしてみたら、1人殺してる間に8人殺されるという恐怖。
さらに、他の黒人組織との主導権争いもあり、ZANLAの限界は近かったと思われますが、ムガベは決して諦めず、抵抗を続けます。
「一切の戦略が立たずとも、まずは叩け」
マホメット・アライの名言が思い起こされます。
戦局が大きく動いたのは、1976年の事でした。
まず1974年、隣国のモザンビークがポルトガルから独立し、ZANLAに大規模な訓練キャンプを提供しました。ここでZANLAは、人員増強と練度の飛躍的向上に成功します。
さらに、1975年には南アフリカが西側諸国の圧力に屈してローデシア政府軍への支援をやめてしまいます。
ヘリコプターも装甲車両も引き上げられてしまい、ローデシア政府軍は一気に弱体化してしまいます。
この結果、1976年以降、戦局は大逆転。ローデシア政府軍は劣勢に次ぐ劣勢となってしまいます。
追い詰められたローデシア政府軍は、なんと生物兵器の使用にまで踏み切ります。
1979年から1980年の2年間、ローデシア国内では炭疽菌が大流行し、10,738人の患者が報告され、少なくとも182名が死亡しています。
この狙いはZANLA等のゲリラ組織が炭疽菌を持ち込んだと人々に思わせるためだったと言われています。
ちなみに、炭疽菌の件は、停戦協定後の事っぽいです。さすが白人!きたない!
独立!
少数派である白人が、圧倒的多数派の黒人を支配する。
この仕組みが限界に来たことを受け入れざるを得ない程、ローデシア政府は追い詰められており、ついに1978年、停戦協定に調印しました。
この頃のムガベ。理想に燃える人物であった。
1980年2月には、イギリスの調停の元で総選挙が行われました。
ジンバブエの国民は、独立紛争で劣勢の中果敢に戦い続けた義の人物、ロバート・ムガベを見ていました。
選挙の結果は、ムガベ率いるZANUの圧倒的勝利、ムガベはジンバブエ初代首相となりました。
初代首相になったムガベ
ムガベの治世(前半)
というわけで、見事ジンバブエを独立に導いたムガベは、白人旧政権指導者に対し努めて寛容な態度で臨みました。
例えば、当初は7年後に白人が所有する土地を強制的に接収し、農地改革すると言っていましたが、実際には2000年まで実行されませんでした。
また、白人の協力も得て順調に経済運営を行い、教育や医療に資金を充てたことで、低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、「ジンバブエの奇跡」として絶賛されました。
ムガベは白人社会と黒人社会がうまく融和できるよう心がけ、「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛されました。
そして、1987年には、圧倒的支持率により大統領に就任しました。
この順風満帆なジンバブエが何故…。