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コーヒーとかいう魔性の飲み物

よいコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い

タレーラン(仏)

多くの人にとってなくてはならない飲み物となっているコーヒー。

世界の歴史には色々なコーヒーストーリーがあります。

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イギリスのコーヒーは秘密の味

歴史的に人類がいつからコーヒーを飲み始めたのかは諸説ありますが、既にアラブ世界で流行していたコーヒーがヨーロッパ世界にも渡ったのは、16世紀以降の地中海貿易の中でした。

保守的な人の中には「コーヒーは異教徒の飲み物だから禁止すべきでは?」との声もありましたが、1602年教皇クレメンス8世はわざわざコーヒーを洗礼してキリスト教公認飲料にしてしまいます。

どんだけ好きだったんだって気もしますが、それにしてもコーヒーには宗教の壁を軽々と超えてしまうだけの魅力があったんですね。

コーヒーおかわりクレメンス8世

1650年には、イギリス最初のコーヒーハウスができます。

まだコーヒーに馴染みのなかった近所の住民が「悪魔の匂いがする」と訴えるなどもありましたが、コーヒーハウスは順調に数を増やし、女人禁制の紳士の社交場となっていきます(当時、女性はコーヒーを飲むべきでないとされていました) 。

男たちはよほどコーヒーハウスに入り浸ったのでしょうか、1674年には家庭の主婦による抗議文まで出ます。その理由はなんと、「コーヒーは性的不能の原因になる」というものでした。
俺たちには関係ないけど。

むしろ抗議されてみたい

そんなコーヒーは、長い間オスマン帝国を中心としたアラブ世界だけの秘密でした。

豆が発芽しない様に、わざわざ一度煮沸してからヨーロッパに輸出するという念の入れようでした。

その徹底した秘密主義が神秘性を高め、益々コーヒーの価値を高めました。

ヨーロッパの人々は、何とか自分たちで栽培できないかと思い悩み、決死の潜入を試みた産業スパイも多かったと思います。

苦労の末に、1696年オランダのヘンリックス・ツヴァールデクローンによって苗木がジャワ島に運び出されます。

栽培に成功し、売り手側にまわることが出来たオランダ。ライバルのイギリスは、相変わらず買う一方で、面白くありません。

その頃のイギリス宮廷では、キャサリン妃など女性も巻き込んだ東洋趣味が多いに流行っており、貴族のみの高級品とはいえ、この頃からコーヒーではなくお茶を飲む習慣がイギリスへゆっくりと根付いていきます。

一般庶民の習慣となっていくのは意外に遅く19世紀に入ってインドを植民地化してからとなりますが、イギリスの紅茶でイメージするどことなく女性的で上品なイメージはこうした歴史に由来するのかも知れません。

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ドイツのコーヒーは平和の味

先述の様に、ヨーロッパで大ブームとなるコーヒー。

そんなビッグウェーブに完全に乗り遅れたのがドイツ(プロイセン王国)でした。

当時のドイツは七年戦争などで疲弊しており、ただでさえお金がないところに、遅ればせながらコーヒーが流行しだしたもんだから、庶民のお金はどんどんコーヒー輸出国へ垂れ流し。

ドイツは貿易赤字がガンガン膨らみます。

1777年。こうした財政を少しでも建てなおそうと、時のフリードリヒ2世はコーヒーに高い関税をかけて庶民が飲めない様な政策を打ち出しました。

フリードリヒ2世

コーヒーって飲みたいのに飲めない状況が一番苦しいですもんね。

飲みたい。飲めない。飲みたい。飲めない・・・。

ドイツのコーヒー党は散々もだえ苦しんだ挙句に「コーヒーが買えないなら作ればいいじゃない」という発想に至りました。

ないなら作ればいいお!

という訳で、大麦、小麦、ドングリ、大根、サトウキビ、イチジク、タンポポの根、南京豆、海藻と周囲にあるものを手あたり次第に焦がして煮汁を飲む彼ら。まるで思春期の男の子です。

さすがに海藻は無理がありすぎたお

平和が訪れ、再び庶民がコーヒーを飲める様になった時の喜びはいかばかりでしょう。

‟音楽の父”ことバッハの「コーヒーカンタータ」にはコーヒー好きの娘さんが歌うこんな一節があります。

だいぶ浮かれてますね。

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アメリカのコーヒーは自由の味

18世紀。北アメリカは、イギリスとフランスによる激しい領土争いの舞台でした。

最終的にイギリスが勝利するものの、多額の戦費に疲弊したイギリスはアメリカ植民地への課税を厳しくしていきます。

元々、税だけ取って英国議会への代議士選出が認められない状況(「代表なくして課税なし」)に不満を抱いていた急進派の市民たちは、これに黙っていませんでした。

1773年、50人ほどの一団はボストン港に停泊中の船舶を急襲し、積荷の茶葉342箱を海に投げ捨てました。これが世界史の授業で無駄に覚えてしまう単語「ボストン茶会事件」です。

ヒャッハー

その後の独立運動への端緒となるこの事件。イギリス文化の代表である紅茶を捨てるという行為が反体制の象徴になるにつれ、コーヒーの需要が拡大していきました。

現在まで続くアメリカのコーヒー好きはここに転換点があります。

きっと紅茶を飲む人は「ブリカスかぶれのオカマ野郎」とか何とか言われて肩身の狭い思いをしたことでしょう。

アメリカ人のコーヒーになんとなく上品なイメージがないのもこの辺に理由があるのかなと考えたりします。

南北戦争時には一時的にコーヒーが入りにくくなります。その時の名言がこちら。

ほかの理由はともかく、砂糖やクリームのはいった本当のコーヒーが飲めなくなったことだけでも、彼女は北軍を憎んだ。

マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』 より

また、開拓時代のアメリカでは労働者の水分補給としても飲まれたことから、薄めの「アメリカンコーヒー」が生まれたそうです。

食べ物のサイズがデカいのもそのせいでしょうか

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日本のコーヒーは・・・

さて最後に日本です。

コーヒー体験が日本の文献に最初に登場するのは1804年。
大田蜀山人という人の記録に、

毛紅船にて『カウヒイ』というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げ臭くして味ふるに堪えず

とあります。

どう考えても当時の日本人の味覚に合いそうにないですもんね。一口飲んでなんとも言えない表情になった大田さんが目に浮かびます。

蜀山人「いやーまじやばかったっす」

明治に入り鎖国政策が解かれると、日本にもコーヒー文化が徐々に根付いていきました。
明治10年には18トンだった豆の輸入量も、昭和12年には8571トンと拡大します。

日本もその後の戦争の中でコーヒーは「敵国飲料」というレッテルを貼られ庶民の口に入らなくなります。いつぞやのドイツと同じ道を通る訳です。

タンポポの根、ゴボウ、ジャガイモ、サツマイモ、百合根、サクラの根、カボチャの種、ブドウの種、ピーナッツ、大豆、ドングリ、アーモンド、オオムギ、トウモロコシ、チコリ、玄米、根セロリ、パンの耳、綿の種子、オクラの種子

・・・魔改造民族ならではの努力で代用コーヒーを探しますが、結局本物以上のものを作りだすことは出来ませんでした。

パンの耳は普通に食べた方がよかったお

昭和35年頃にはようやく戦前の水準まで輸入量も戻り、以後拡大の一途で今日まで続いているのです。

歴史を見ていくと、最初は「不味い」と感じるこの液体に、なぜここまで人々は魅了されていくのか不思議に感じてきます。

でも確かに、自分が生きている間にコーヒーが飲めなくなるのは非常に困ります。

普段飲まれない方も、たまには平和と自由へ感謝を捧げ、コーヒーを飲んでみてはいかがでしょうか。(ステマ)

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