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日本は倭の別種だった件

日本書紀によれば、初代の神武天皇が即位したのが紀元前660年のこと。

それからずうっと天皇の血脈が続いることになっていて、名目上は2017年時点でなんと2677年もの歴史があることになります。

さすがに日本書紀や古事記の内容がそのまま史実だとは言えませんが、それでも、大和王朝は古代から連綿と続いてきたことになっているのであります。

日本だけが一本線の世界史年表

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日本のルーツはどこか

邪馬台=大和?

大和王朝が古代から連綿と続いてきたとするならば、「邪馬台国」が大和王朝のルーツであるという考えはごく自然です。

そうなると、「邪馬台国」は「やまと国」と読みたくなったりもします。

一時期は、偉大なる大和王朝が中国に朝貢していた事などあってはならないみたいな風潮があって、邪馬台国と大和王朝は別物とされてたこともありました。

でも、今やそうした変なナショナリズムも無くなり、畿内説・九州説問わず、邪馬台国=大和王朝と考える論者はとても多いのです。

しかし残念ながら、日本国内には古代日本の様子をうかがい知る事にできる資料がありません。

最古の歴史書と言えるのは、712年に編纂された「古事記」と、720年の「日本書紀」しか無いのです。

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中国の史書

そこで役に立つのが、お隣中国の歴史書。

中国という国は、殷→周→春秋戦国→秦→前漢→後漢→三国→晋→南北朝→隋→唐→宋→元→…という具合に目まぐるしく王朝が入れ替わってきました。

しかし、中国人は「歴史」という概念をよく理解していたので、これだけコロコロと王朝が変わっても、キチンと歴史書を残してきました。

そして幸運なことに、古代の日本についてもちゃんと記録を取っといてくれたのです。

というわけで、特に「正史」と位置付けられている中国の歴史書のうち、「倭」について記述のあるものをさらっと見て見ましょう。

中国の正史(抜粋)

漢書 「地理志 燕の条」

前漢時代の史書。成立は西暦105年。

ここでは、 倭は燕の属国だったと書かれています。なので、燕のページに倭が登場するわけ。

燕は戦国7雄の一国。右上らへんにあった国ね。

後漢書「東夷伝 倭条」

後漢時代の史書。成立はちょっと遅くて西暦445年。

漢書では燕の項目にちょろっと書かれていただけですが、後漢書では東夷(東の野蛮人)の一つとして、独立した項目を設けてもらっています。

魏書 「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」

みんな大好き三国時代の史書。成立は297年ごろ。

かの有名な「魏志倭人伝」のことですね。

晋書 「四夷伝 倭人条」

魏をクーデターで乗っ取った晋の時代の史書。648年編纂。

宋書 「夷蛮伝 倭国条」

南北朝時代の宋王朝の時の史書。503年編纂。

南斉書「蛮・東南夷伝 倭国条」

南北朝時代の南斉王朝の史書。537年編纂。

南史 「夷貊下 倭国伝」

南北朝時代の南側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

北史 「東夷伝 倭国条」

南北朝時代の北側についてのまとめ的な史書。659年編纂。

隋書 「東夷伝 倭国条」

三国時代から南北朝時代までずーっと分裂していた中国を久しぶりに統一した、隋の史書。656年編纂。

旧唐書「東夷伝 倭国条」「東夷伝 日本国条」

唐の時代の史書。945年編纂。

新唐書「東夷伝 日本条」

旧唐書はちょっと内容に不足があったようで、もう一回唐の時代を書き直した史書。1060年編纂。

宋書「外国伝 日本条」

宋の時代の史書。1345年編纂

違和感

ここで皆さん、違和感を感じましたでしょうか?

上に列挙した日本について書かれた正史をよく見てみると、なぜか旧唐書だけ「倭」と「日本」の項目を分けているのです。

そして、旧唐書以前は「倭」だけだったものが、旧唐書で「倭」と「日本」が並立して書かれ、それ以後は「日本」だけになります。

「倭」も「日本」も、今の日本列島に存在した国を指しているのは間違いないところ。

なので、通常の解釈では、旧唐書で扱う唐の時代(618〜907年)の頃に、倭が国名を日本に変更したという風になってます。

「倭」という文字は「低い」「曲がっている」みたいな意味だから嫌がったとか何とか。

実際に変更したのは、天武天皇か、その奥さんの持統天皇という説が有力です。

しかし、その説明では、旧唐書で「倭」と「日本」が別建てで書かれている事をうまく説明できません。

国号が変更になっただけならば、新しい「日本」に統一すればいいんじゃないの?

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旧唐書を読んでみる

実際のところ、どの史書にも、実質的に同じ王朝をわざわざ分けて記述する事例なんてありません。

したがって、この旧唐書の「倭」「日本」の併記には違和感を拭えません。

そこで、ややメンドくさいものの、旧唐書を実際に読んでみることにしましょう。

旧唐書 東夷伝倭国条

ではまず、旧唐書の「倭国条」の方から抜粋。大して長くないので、歯を食いしばって読んでください。

倭國者 古倭奴國也
倭国は、昔で言うところの倭奴国である。
去京師一萬四千里 在新羅東南大海中
唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。
依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。
其國 居無城郭 以木爲柵 以草爲屋
その国には城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四面小島五十余國 皆附屬焉
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。

其王姓阿每氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之
倭国の王の姓は阿毎(「アマ」or「アメ」)氏で、大将軍に諸国を検察させていて、小島の諸国はこれを畏怖している。

(中略)

貞觀五年 遣使獻方物
西暦631年、倭国は使者を送って来て、地方の産物を献上した。

(中略)

至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
西暦648年、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて、太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。

この「倭国条」の内容は、「ああ、倭について書かれているなあ」という感じ(小並感)。

旧唐書 東夷伝日本国条

それでは、続いて「日本国条」の方も読んでみましょう。

日本國者 倭國之別種也
日本国は倭国の別種である。

以其國在日邊 故以日本爲名
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
或曰:倭國自惡其名不雅 改爲日本
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、日本に改めた。」と言ったり、
或云:日本舊小國 併倭國之地
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」と言ったりする。
其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉
その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。

又云:其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海 東界 北界有大山爲限 山外即毛人之國
彼らは「我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安三年 其大臣朝臣真人來貢方物
長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。

(後略)

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日本は倭の別種なり

いかがでしょうか。

何よりもインパクトがあるのは、日本国条の一行目。

日本は倭の別種なり」のところです。

我々が習ってきた歴史観からすると、昔は「倭」という国名で、それが途中で「日本」という国名に変わった。けれども、基本的に日本はずーっと同じクニのはず。

しかし、少なくとも唐の認識は異なっていました。

明らかに、唐は「倭」と「日本」は別の国だと捉えていたのであります。

倭はどこにあったか

まず、倭国の方は日本列島のどこにあったのか。

そのヒントは、「倭国は、昔で言うところの倭奴国である。」の部分。

倭奴国と言って連想するのは、例の金印に書かれた「漢委奴国王」。

福岡県で出土した金印

「委奴国」というのは「倭奴国」のニンベンを省略したものというのが定説。

とすると、金印が出土した場所からしても、倭奴国があったのは北九州(福岡県らへん)だと推定されます。

倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。」という記述から、その国土は島状になっている事が分かり、倭(=倭奴国)が九州にあった王朝である事を裏付けます。

日本はどこにあったか

じゃあ一方の日本国はどこにあったのでしょうか。

該当するのは、
我が国の国境は東西南北それぞれ数千里あって、西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。
の部分。

「数千里」は現代の単位に直すとだいたい2〜3000kmくらい。九州にしては大きすぎるかと。

また、日本国の支配が及ぶ範囲は、西と南は海までですが、東と北は大きな山までとの事。

当時はまだ東北地方は毛人(蝦夷)の国だった事を考えると、日本国は本州にあった王朝であるように思えます。

日本と倭の関係

日本国とは何者なのか。

旧唐書によれば、日本からの使者はなんだか言ってることがコロコロ変わっています。

でも一応、使者の主張によれば、日本の正体は2種類の可能性があります。

①倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。
②日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。

①であれば、我々の歴史観に沿うところ。

しかし②であれば、「倭」と「日本」は全くの別王朝で、最終的に「日本」が日本列島の覇者となった事になります。

冒頭の「日本は倭の別種なり」から分かるように、少なくとも唐は②が正しいと認識しています。

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隋書と新唐書

「倭」と「日本」が別の国だなんて信用できない!

という方の為に、「旧唐書」の一つ前に書かれた「隋書」と、一つ後の「新唐書」も確認してみましょう。

隋書 東夷伝倭国条

俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居
倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。

魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 
魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。

夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下
倭人は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。

都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽の東にあり、儋耳に近いと言われていた。

漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国
後漢の光武帝の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。安帝の時また遣使して朝貢した。これをこれを倭奴国といった。

桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主
(後漢の)桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。
有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面
卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。弟があり卑弥を助けて国を治めていた。その王には侍女千人がいる。

(中略)

自魏至于齊梁代與中国相通
魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。

(中略)

有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭
阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。

(後略)

「隋書」に書かれた「倭」の様子を抜粋しました。

まず、「魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた」とありますので、「隋書の倭」は「魏志倭人伝の倭」と同一であることが分かります。

さらに、その都が邪馬台であるとも書かれています。卑弥呼についても記述があります。

また、倭王の性が「アマ」とも書かれているので、日本っぽいし、旧唐書の倭国とも整合が取れています。

つまり、隋の人は「旧唐書の倭」と「隋書の倭」は同一であり、さらに「魏志倭人伝の倭」とも同一だと考えていたと言えます。

この「隋書」で特筆すべきは、「阿蘇山」についての記述。

阿蘇山(熊本県)。

「倭」の本拠地が本州(畿内)ならば、わざわざ遠方にある火山について書くはずがありません。

となると、「倭」は九州にあったと考えるのが自然であります。

新唐書 東夷伝日本条

新唐書では、もう「倭」は登場しません。「日本」だけになっています。

日本古倭奴也
日本は古の倭奴国である。
去京師萬四千里 直新羅東南 在海中 島而居 東西五月行 南北三月行
その地は唐都の長安から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中の島国である。その国の広さは東西が五ヵ月の行程で、南北は三ヵ月の行程である。

(中略)

其王姓阿每氏 自言初主號天御中主 至彥瀲 凡三十二世 皆以「尊」爲號 居築紫城
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城にいた。
彥瀲子神武立 更以「天皇」爲號 徙治大和州
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
次曰綏靖 次安寧 次懿德 次孝昭 …(中略)
神武の次を綏靖と云い、その次は安寧、その次は懿德、その次は孝昭、その次は…(中略)。
亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通
また言うには、用明天皇が多利思北孤の代理として来朝したのは西暦600年にあたり、そのとき初めて中国と国交を通じたのである。

(中略)

咸亨元年 遣使賀平高麗
西暦670年、日本は唐に使者を遣わして、唐が高麗を平定したことを慶賀した。
後稍習夏音 惡倭名 更號日本
その後、日本人は中国の発音に習熟して、倭の呼び名を嫌い、あらためて日本と改号した。
使者自言 國近日所出 以爲名
使者が自ら言うには、「わが国が、太陽の出る所に近いので、それで国名とした」と。
或云日本乃小國 爲倭所并 故冒其號
或いはこうも言っている。「日本国はもと小国だったので、倭国がこれを併合することになった。その結果、倭国はその日本という国号を奪ったのだ」と。
使者不以情 故疑焉
日本の使者は、実情を語らないので、中国は日本の使者の言を疑っている。
又妄誇其國都方數千里 南、西盡海 東、北限大山 其外即毛人云
またその国都は数千里四方もあると、大ぼらを吹いている。そして、南と西は海に達し、東と北は大山で限られており、山の向こうは毛人国などと言っている。

(後略)

基本的に、「新唐書」では、「日本」の主張に従い、日本=倭として記述されています。

しかし、唐は「日本」の使者を全然信用してなくて、「国土は数千里四方ある」と言っても「嘘乙w」として、伝統的な「倭」の国土(東西5ヶ月、南北3ヶ月)を正としています。

この「新唐書」で気になるのは、二つ。

どっちが併合したの?

「旧唐書」では「日本が倭を併合した」となっていたのが、「新唐書」では「倭が日本を併合した」と逆になっています。

唐が聞き間違えたと言ってしまえばそれまでですが、「日本が」意図的に嘘をついたとしたらどうでしょう。

想像し得るメリットとしては、古くから中国と国交をしていた「倭」の歴史を乗っ取れるというところでしょうか。

昔から付き合ってきた国と、ぽっと出の国では、やっぱり扱いも違うでしょうからね。

信用されない「日本」

しかし、唐にそうした嘘は通用しませんでした。

それが、「用明天皇が初めて中国と国交を通じた」という部分。

もし「日本=倭」なら、これはあり得ないこと。用明天皇は585年〜587年の在位なのですが、これより遥かに昔から、倭は中国に朝貢してきました。

この部分は単なる筆者の勘違いとは考えられません。

他の記述部分は明らかに昔の史書を参照しているので、それまでの長きに渡る朝貢関係を見落とすはずがない。

とするとやっぱり、唐は「日本」を新しい国だと認識しているように感じます。

まとめ

ちょっと長くなっちゃったので、まとめてみましょう。

まず、中国の史書によれば、「魏書」から「隋書」まで、ずうっと「倭」と中国は国交していたと書かれています。

そして、その倭の場所は、阿蘇山とか出てくるし、どうも九州っぽい。

ところが、唐の時代に書かれた「旧唐書」にて、突如「日本」という国が登場します。

唐視点では、この「日本」という国は「倭」とは別の国。日本の使者は「国名を変えた」と言ったり「倭を併合した」と言ったりと、どうも怪しい。

ハッキリ言って、唐は「日本」を全然信用していませんでした。

また、「新唐書」では、いちおう「日本=倭」というスタンスで「日本」を扱っていますが、「6世紀後半に初めて国交を通わせた国」と書かれていることから、やっぱり、ずっと付き合ってきた「倭」とは別の国だと捉えていたっぽい。

こうしたことを踏まえると、古代日本には、古くから中国に朝貢してきた「倭」と、その歴史を乗っ取った「日本」という二つの王朝があったのではないかという疑いが持ち上がってくるのです。

邪馬台国は倭か日本か

ここで、もう一度「邪馬台国」の話に戻りましょう。

少なくとも中国の史書を読むと、日本列島には「倭」と「日本」という二つの別王朝が存在していたように見えます。

だとすると、「邪馬台国」は、「倭」と「日本」のどちらか一方のルーツになります。

「隋書」に言わせると、倭の都は邪馬台らしい。とするならば、邪馬台国は九州を本拠地としていたという方がしっくりきます。

前回前々回の記事での結論は、遺跡の発掘状況からして畿内の可能性が圧倒的に濃厚というものでした。

実際、畿内からは纒向遺跡をはじめとする大規模な遺跡が見つかっていますので、かなりの権力を持った勢力が畿内にいた事は間違いありません。

したがって、「日本という国は歴史上ずっと単一王朝である」という前提に立つのであれば、邪馬台国は畿内で間違い無いのでしょう。

しかし、もしそうでは無いならば。

旧唐書にあるように、「倭」と「日本」が別の王朝ならば。

「邪馬台国」は九州に存在した「倭」のルーツであり、畿内で見つかる壮大な遺跡の数々は「日本」のルーツという可能性はありませんかね。

二つの王朝をごっちゃにしているが為に、邪馬台国論争の泥沼が深まっていく一方なのではないでしょうか。

ま、異論反論はたくさんあると思いますが、みなさん詳しくて勉強になるのでよろしくお願いします(´・ω・`)

参考文献、サイト様
・ 倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本 (講談社学術文庫)
・ 倭国と日本国の関係史
・ 古事記の神々(現代語で)
・ テラさんの万華鏡
・ 古代史レポート
・ ひもろぎ逍遥
・ 鴨着く島 おおすみ

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