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旧約聖書を書いたのは誰??

長い間、旧約聖書という書物は「神から預言者へ直接伝えられた啓示」をそのまま書き留めたものという位置付けでした。

であるからして、そこに書かれた内容に間違いなどないはず。

となると自動的に、旧約聖書に描かれたイスラエルの民の壮大な歴史もまた「真実であるはず」でした。

しかし。

前回までに見てきたとおり、旧約聖書はどうもコピペという線が濃厚です。

そこで今回は、旧約聖書が成立するまでの過程について眺めて見たいと思います。

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旧約聖書とモーセ

旧約聖書は、39の文書の集まりでしたね。

このうち、最初の5つ(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、預言者モーセが直々に書いたものと言い伝えられ、特別に「モーセ五書」と呼ばれます。

モーセはB.C.紀元前13世紀頃の人物とされていますので、「モーセ五書」もまた、その頃に書かれた書物ということになります。

預言者モーセ。B.C.1391〜B.C.1271。長生き過ぎ。

その内容は、天地創造からモーセの死までの歴史。そして、いくつもの教義や規定集。

内容的にも著者的にも、「モーセ五書」はユダヤ教の中心であり、他とは段違いに重要な聖典なのであります。

本当の著者は?

「モーセ五書」はモーセが書いた。

これは、少なくとも中世までは「疑いようのない常識」でした。疑ったら教会にぶっ殺されるという意味で。

しかし、よく読み込んでみると、わりとすぐにおかしな記述に気づきます。

最初の違和感

「モーセ五書」の5番目の書物『申命記』には、モーセの死の様子が書かれています。

該当部分を軽く引用してみます。

申命記 34章5節
こうして主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。

申命記 34章6節
主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、誰も彼が葬られた場所を知らない

(中略)

申命記 34章10節
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。

だが待ってほしい。いくら偉大な預言者だからって、さすがに「自分が死んだこと」まで自分で書くのは無理ではないだろうか。

さらに、「今日に至るまで」や「再びモーセのような預言者は現れなかった」の部分なんて、まるで遥か未来から自分が死んだ時のことを振り返ったかのような表現です。

時代錯誤

同じような時系列の矛盾は、他にもあります。

例えば、『創世記』の次のような記述。

創世記 36章31節
イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、エドム地方を治めていた王たちは次のとおりである。

「王がまだいなかった時代」という表現の裏には、「今は王がいる」という前提が隠れています。

しかし、「イスラエルの人々を治める王」が初めて登場したとされるのは、B.C.1050年くらいのこと。

モーセが死んでから200年以上も後のことであり、モーセがこの文章を書けるはずがありません。

こうしたテキスト上の時代錯誤が示唆しているのは、「モーセ五書」の著者はモーセではないという可能性なのであります。

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文書仮説

実際、この「モーセとモーセ五書って関係なくね?」という疑問は、ローマ時代くらいからコソコソと指摘はされてきました。

おおっぴらに指摘すると牢屋にぶち込まれるので、あくまでコソコソとね。

しかし、時代が進んで近世に突入すると、わりと自由に聖書を研究できる雰囲気が広がっていきました。

そうすると、それまでくすぶっていた疑問点に、どうにか合理的な説明をつけようという機運が高まるわけです。

二人の神様

旧約聖書の中身についての疑問は山ほどありました。

著者の問題だけでなく、話の辻褄が合わなかったり、2重記述や3重記述がある部分などなど。

何故、ひと続きの文書のはずなのに、こうした矛盾や重複表現があるのか、多くの神学者や研究者が頭を悩ませますが、なかなかうまい説明がつかない。

そんな中で提唱された画期的な仮説が、文書仮説だったのであります。

その骨子は、「旧約聖書は幾つかの元ネタを切り貼りして構築されている」というもの。

この仮説に至った最初の手がかりは、旧約聖書において神が2種類の呼ばれ方をしている点でした。

旧約聖書のある箇所では「ヤハウェ」、また別の箇所では「エロヒム」という風に、神の呼称にはブレがあるのです。

従来は、ヤハウェは固有名詞、エロヒムは「神」を表す普通名詞、という風に解釈されてきました。

しかし、試しに旧約聖書のテキストを「ヤハウェ部分」と「エロヒム部分」に分けてみたところ、ディテールの異なる2つの物語が姿を現したのです。

単に二つの物語になったというだけではなく、ヤハウェとエロヒムは明らかにそのキャラクター設定も異なっており、もともと別々の神話だったという線が濃厚になったのです。

ヤハウィスト

例えばヤハウェの方は、

・肉体を持っていて、散歩とか肉弾戦とかする。
・自ら奇跡を起こす。
・感情豊か(怒りっぽい、嫉妬深い)

といった特徴があります。

また、こちらの物語では、登場する地名の多くがユダ王国※イスラエル分裂後の片方に属するものでした。

従って、ヤハウェ系の物語はユダ王国で成立したものである可能性が非常に高い。

そこで研究者たちは、ヤハウェ系の物語を書いた人々を「ヤハウィストJahwist」、その文書を「J資料」と名付けました。

エロヒスト

一方のエロヒムは、

・肉体なし。
・奇跡は預言者に指示して起こさせる。
・感情は表に出さない。

みたいな感じ。

また、まるでJ資料と対比するように、こちらの物語には北イスラエル王国※イスラエル分裂後のもう片方に属する地名が多く登場し、扱うエピソードも北イスラエル王国のものばっかり。

となると、こちらは北イスラエル王国で成立したものである可能性が高くなります。

このエロヒム系の物語の作者を「エロヒストElohist」、その文書を「E資料」と呼びます。

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祭司資料

旧約聖書を用語や文体を元に、もっともっと分類していくと、どうも元ネタは2つだけじゃなさそうだと分かってきます。

その一つが、「祭司資料」と呼ばれる部分。

これに分類される部分では、祭壇の寸法や材料を細かく指定したり、日付にこだわったりと、とにかく祭儀のルールに深い関心を持って書かれています。

また、「イスラエルの民の統一には祭司が欠かせないよ」というメッセージが繰り返し登場するのも特徴です。

祭儀のルールに強い関心があり、祭司の重要性を主張するのは誰か。聖職者に決まっていますね。

なので、この部分を「祭司資料」と呼ぶわけです。

これは、祭司(Priesterschrift)の頭文字をとって「P資料」と言います。

P資料の成立

P資料が編集されたのは、B.C.576年のバビロン捕囚以後のこと。

アッシリアによって、故郷イスラエルから無理やりバビロンに移住させられたイスラエル人達。

彼らは、大都会バビロンにもうすっかり染まってしまい、イスラエル人としてのアイデンティティーは風前の灯火。

そんな彼らをもう一度ユダヤ人としてまとめ上げたのが、この祭司たちでした。

彼らは、ユダヤ教の教義やしきたりを整理し直し、さらに既にあったJ資料とE資料を切り貼りし、一つの壮大な聖典と歴史書を作り上げたのです。

創世記から民数記までを元ネタで色分けした図

祭司たちは、100年以上もかけて編集を続け、B.C.450年くらいになってようやく、現在に伝わる旧約聖書の原型に近いものが出来上がったのであります。

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申命記資料

4つ目の元ネタは、「申命記資料」というもの。

その名の通り、『申命記』のことです。

もう少し具体的に言うと、『申命記』はモーセが語るという体で、数々の掟が書かれています。

曰く、「ヤハウェ以外の崇拝はNG」「エルサレム以外での礼拝はNG」などなど。

で、実はこれと全く同じ内容で、ヨシヤという王様がB.C.622年に異教徒弾圧宗教改革を行っています。

ヨシヤ王。

したがって、『申命記』は、実際にはこのヨシヤ王による宗教改革のためのプロパガンダ文書であると見なされています。

この部分は申命記(Deuteronomist)の頭文字をとって「D資料」と言います。

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いつ書かれたか

というわけで、旧約聖書には大まかにはJ・E・P・Dの4種類の元ネタがあることが明らかとなりました。

で問題は、「いつ書かれたか」であります。

基準

D資料で語られる「エルサレム以外での礼拝はNG」という掟。

この掟は、J資料とE資料には全く登場しません。逆に、P資料では当たり前のこととして捉えられています。

となると、D資料を基準として、J資料とE資料はそれより古く、P資料は新しいということになります。

年表

ここまでをまとめると、次のような流れになります。

B.C.922

イスラエル王国が南北に分裂。
南のユダ王国でJ資料が成立。

B.C.850

北イスラエル王国でE資料が成立。

B.C.722

北イスラエル王国滅亡。

B.C.700頃

北王国から逃げてきた人々により、JEが統合されてJE資料になる

B.C.622

ヨシヤ王の改革が行われる。
この時にマニュアルが作成される。これがD資料

B.C.586以降

バビロン捕囚で心が折れたイスラエル人を、祭司たちが宗教でまとめる。
その時にP資料も作る。

JEPが統合される。

B.C.400頃

JEPDも合体して、全体をもう一度編集。

旧約聖書が完成!

本当の歴史なのか

いちおう、上の年表を図にしてみたのでこちらもどうぞ。

この図から分かることは、「モーセ五書をモーセが書いたというのは全くの嘘」ということだけではありません。

イスラエルの壮大な歴史におけるターニングポイントは幾つもあります。

B.C.2000年頃

父祖アブラハムが神の啓示を受けてパレスチナへ移住。

B.C.1700年頃

アブラハムの子孫ヤコブ一族がエジプトに移住、奴隷化。

B.C.1290〜1250年頃

・イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトから脱出。
・エジプト脱出後、40年間荒野をさまよった。
・モーセ死亡。

B.C.1250〜1200年頃

モーセの後継者ヨシュアがパレスチナを征服。

B.C.1020年

サウル王が統一イスラエル王国を建国。

文書仮説に則るのならば、これらの出来事は、旧約聖書はおろか、その元ネタの成立よりも遥かに昔のことになってしまいます。

なんだかんだ言って、旧約聖書に書かれた歴史はまあまあ本当だろう、と多くの人は考えています。

元になる出来事は実際に起きたもので、多少の誇張や歪曲はありつつも、ユダヤ人なりの解釈で記録をしたものであると。

しかし、実際のところ、古代世界に生きる人々が、何百年も昔のことをどこまで正確に記録できるのでしょうか。

しかも、旧約聖書の元ネタのうちP資料とD資料は純粋な記録ではなく、プロパガンダ文書であるという現実。下手すると大半がフィクションなんじゃないかという疑いすら浮上してきます。

聖書考古学

そこで、「本当の歴史」を知るために役立つのが、考古学であります。

考古学は、文献だけの一方的な歴史解釈とは違って、第三者が見ても納得出来る「証拠」を提示することができます。

したがって、旧約聖書のテキストとパレスチナ近郊の発掘状況を照らし合わせてみれば、イスラエルの民の歴史はかなり正確に確認ができるはずなのです。

というわけで次回、「パレスチナでは何も発見されていない」に続きます。

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