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大砲を巨大化させていくと…

中国において、古来より脈々と続けられてきた、不老不死薬の研究。

彼らは、いろんな材料を手当たり次第に混ぜたり熱したり冷やしたりしていたわけですが、その蓄積が「なんかめっちゃ燃える」物質の配合の発見につながり、そして「火薬」へと昇華し、やがては「火薬兵器(火器)」の考案へと至ったのであります。

前回:木炭と硫黄と硝石を混ぜた結果www

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舞台はヨーロッパへ

その「火薬」がようやくヨーロッパに伝わったのは、13世紀のこと。

伝わった時点では「何これ?何に使うの?」という認識だったでしょうか、既にモンゴル帝国やアラビア世界では火薬兵器が実践に投入されており、「筒に入れて炸裂させ、モノを飛ばす」という用途を知るのにそう時間はかからなかったことでしょう。

こうした火薬兵器を大幅に進化させたのは、ドイツのケルンにある甲冑職人たちでした。

以前にも触れましたが、当時の騎士が使用する甲冑の発注先はドイツにある甲冑ギルドがほぼ独占していました。

これは、当時のドイツがヨーロッパで一番良質かつ高性能な鋼鉄や合金を作る技術があったということに他なりません。

そんな有能なドイツの甲冑職人たちは、「突火槍」や「マドファ」の欠点を見抜いていました。

突火槍

マドファ

それは、筒の部分が弱い限り、弾を猛烈な勢いで発射できないということ。

「突火槍」は単なる竹筒、「マドファ」は鉛で作った筒を使用していました。そんな材質では暴発の危険性が高く、少量の火薬しか使用できません。したがって、威力もたかが知れています。

そこで、大量の火薬を詰めて爆発させてもびくともしない「材質」と「構造」。その開発が急ピッチですすめられていったのです。

なお、このあたりから、火薬系飛び道具の進化は明確に二つに分岐していきます。

一つは、人間の手で持てるような大きさの飛び道具。のちに銃へと進化していきます。※このへんは次回ね。

手持ちのボンバード。1390年くらい。

もう一つは、攻城兵器として。とにかく破壊力を向上させていく方向の進化です。

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攻城兵器としての大砲

中世において、「城壁」はほとんど無敵の防御力を誇っていました。

当時存在していた攻城兵器といえば、バリスタ(でっかい弩)やカタパルト、破城槌などですね。

バリスタ

威力は低いけど命中率が高いので、城壁の上にある防御兵器や、城門を壊すのに使われました。

カタパルト


放物線を描いて巨石をぶん投げる兵器。ピンポイントで命中させるのは困難なので、城壁の内側に「重量物」や「動物の死骸」や「燃えやすいもの」を投げ入れる嫌がらせ的用途にもよく利用されました。

破城槌


除夜の鐘を撞くアレみたいなやつ。城壁に近づく必要があり、作業中は無防備です。

というわけで、どれも城壁を突破するのに決定的な兵器ではありません。

そうした状況から、攻城戦というのは基本的に耐久戦になることが多くなります。
・バリスタや破城槌といった攻城兵器を駆使して、防御側の体力と心を削る。
・カタパルトで死体とかを投げ入れて、疫病を流行らせる。
・城壁の地下に穴を掘って崩す。
・こうした攻撃と並行しながら降伏勧告等のネゴ。
・最後の最後は、城壁にはしごをかけて突撃。乱戦に勝った方が勝ち。

守るほうはもちろん、攻めるほうもかなり大変です。

そのため、中世ヨーロッパにおいては、細かい手順をすっ飛ばして城壁をぶっ壊せるような圧倒的破壊力が待ち望まれていたのです。

現在確認されている、ヨーロッパ最古の火器は、1326年にイギリス人学者によって描かれたこのスケッチです。

ポット・ド・フェル(「鉄釜」という意味)

鉄製の花瓶のような形状のこの大砲。くびれた口の部分をでっかい矢で密封し、中で火薬を爆発させてぶっ放すものです。矢を使っている事から、バリスタが発想のベースにあるのかもしれません。

続いて甲冑職人たちが製造したのが、「ボンバード(射石砲)」という兵器。

1400年代初頭のボンバード。けっこうでかい。

このボンバードは、射石砲という名のとおり、「石を飛ばすだけ」の単純な筒ですが、非常に頑丈に作られています。

作り方は、鉄の棒を筒状に並べて、鉄のリングで巻き、焼き鍛えて一体化させるというもの。鉄製の桶って感じのイメージです。

これは、ちょっとやそっとの爆発ではビクともしません。大量の火薬を詰めて爆発させれば、これまででは考えられないほどの威力を発揮することができました。

しかしながら、ボンバードは、非常に重く運ぶのにも一苦労。そのくせ命中率が極端に低い。

その上、発射するのは石なので、「発射した石が壁にあたっても、石が砕けて城壁にダメージを与えられないwww」という、派手な割にけっこう微妙な兵器なのでありました。

しかし、各国はこのボンバードのポテンシャルをきちんと見抜いてたようで、「より大型」のボンバードを次々開発していくことになります。

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究極の大砲

このボンバード大型化の行き着いた先の一つが、1453年のコンスタンティノープル攻城戦のために開発された「ウルバン砲」です。

でか杉。

ハンガリーの鋳鉄職人ウルバンさんが考案したこの巨砲。

最初、ウルバンさんは、これを内乱で疲弊し、オスマン帝国に削られ、もう虫の息であった、東ローマ帝国へと売り込みにいきます。しかし、東ローマ帝国は虫の息なので、満足な報酬も払えず、そもそも製造するための鉄さえ足りないという有様。

東ローマ帝国の領土の変遷。1400年の領土の小ささ…。

東ローマ帝国に見切りをつけたウルバンさんは、そのまま、敵対するオスマン帝国へと売り込みにいきます。

東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルには、過去1000年にわたって外敵を斥け続けたテオドシウスの城壁があり、さすがのオスマン帝国も攻略に頭を悩ませていたところでした。

テオドシウスの城壁

その断面図

都市をぐるりと囲んでいます。全長26km。

そこへ、
この大砲さえあれば、あの頑丈な城兵だって粉砕できまっせ!
と売り込んだウルバンさん。

ウルバン砲は即採用され、早速製造スタートとなりました。ウルバンさん自身も望外な報酬を得る事ができました。

しかしこの大砲、長さ8m重さ16.8㌧という化け物兵器。でか過ぎるので、ネジで分割できるようになっており、70頭もの牛でえっちらおっちら運ばれていきました。

ネジ

その分、威力は凄まじく、544kgの巨石1.6km先まで飛ばすという、恐ろしいほどの威力を持っていました。

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決戦、コンスタンティノープル

そして、1453年4月2日。

いよいよオスマン帝国の大群がコンスタンティノープルへと押し寄せてきました。その数10万。もちろん、例のウルバン砲も、12門ほど携えて来ています。

これを迎え撃つ東ローマ帝国は、援軍と傭兵を合わせてようやく7千。
兵力の差は実に14倍でしたが、東ローマ帝国には無敵のテオドシウスの城壁があるので、「なんとかなるべ」などと楽観論を唱える者もいたとか。

なお、開戦に先立ち、オスマン帝国と東ローマ帝国の間で和平交渉がいちおう行われています。

オスマン帝国皇帝メフメト2世から、コンスタンティノープルを明け渡せば、「皇帝の安全」「財産の保証」「モレアス(ギリシャの端っこ)の領有権」を約束すると提案されましたが、東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス11世は、これをきっぱりと拒絶。命ある限り戦う事を伝えました。

コンスタティノス11世。男前な皇帝でした。

まあ、これはセレモニー的なやりとりで、メフメト2世も交渉がまとまるわけない事は重々承知していました。

オスマン帝国は、さっそくウルバン砲を設置し、城壁に向かって砲撃を開始。轟音とともに直径60cmもの石球が城壁へ向かっていきます。

ここで、ウルバン砲の致命的な欠陥がいくつも明らかになったのです。

命中しない

この大砲、弾がどこへ飛ぶかまったくわかりません。
「コンスタンティノープルのどこか」に当たればめっけものというレベルでありました。

連射できない

使用される弾は、いちおうは磨かれた石球…ではありますが、ツルツルというわけでありません。そのため、一発発射するたびに、砲身と弾の摩擦でものすごい熱を持ってしまいます。

無理に連射すれば壊れてしまうので、3時間ほど冷やさなくてはなりませんでした。

弾が無い

だいたい、直径60cmもの石球を大量に調達するのは大変です。

石場を見つけて削り出して磨いて運んで来なくてはなりませんので、弾不足になるのは目に見えていました。最初から分かりそうなものですが。

壊れやすい

砲撃の威力に耐えられず、一発撃つたびに、小修理が必要なこの大砲。

6週間目には、ついに砲身が破裂するという事態に。

製作者のウルバンさんは、この暴発の責任を問われ、処刑されたとも言われています。

…。

というわけで、ウルバン砲は鳴り物入りで投入された割に、微妙な戦果なのでした。

しかし、その音と衝撃は、東ローマ帝国側に相当の恐怖心を与えたことは間違いありませんし、何回かは城壁に直撃して甚大な被害を与えることに成功しています。

イスタンブールには、いまもウルバン砲で打ち込まれた砲弾があちこちに残っています。

城壁が崩れたところからオスマン兵が突撃していくわけですが、東ローマ帝国側も必死です。キリスト世界をイスラムの魔の手から守るという意識もあり、その士気は相当高いものでした。

オスマン軍の侵入を気合いで撃退し、そうこうしている間にウルバン砲にやられた城壁も修復し、戦局は膠着状態となっていきます。

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陥落

そんな膠着状態が続いた5月26日の夜。

オスマン軍は、礼拝と休息のため、27日、28日は攻撃を停止し、29日に総攻撃をするという最後通牒を、東ローマ帝国側へ突きつけます、

これを受け、コンスタンティノス11世は、いよいよ最期が近い事を悟りました。

総攻撃の前夜、皇帝は臣下一人一人の手を取り、自信の不徳を詫び、許しを請いました。その場にいた人々は皆落涙し、最期まで戦い抜くことを改めて決意したのでした。

そして、29日の午前1時30分。オスマン帝国軍の攻撃が始まりました。

東ローマ帝国軍は懸命に戦い、第1波、第2波と続く、城壁の裂け目から押し寄せてくるオスマン兵を、よく撃退しました。

そんな折、おっちょこちょいな見張り番が、小さな裏門の鍵をかけ忘れて、そのままどっかへ行ってしまうという痛恨のミス。
(๑´ڡ`๑)てへぺろ
※このうっかりのタイミングの良さは異常。見張り番が買収されたという説もあります。

これを目ざとく発見したオスマン兵は、ここから一気に城内へなだれ込み、見張り塔の一つにオスマン帝国の旗を立てることに成功します。

これを見た東ローマ帝国兵たちは、ついに陥落したと勘違いして大混乱に陥り、もはや大勢は決しました。

コンスタンティノス11世は、この大混乱に気づくと、すぐさま皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てて、大剣を抜き、こう叫びました。

神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。

逃れんとするものを助け給え。

死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!

そして、そのままオスマン兵の渦巻く市街へと突撃していきました。

戦後、コンスタンティヌス11世の遺体は数日ほど晒されましたが、民衆の反感を買う事を嫌がったメフメト2世により、改めて丁重に埋葬されたと言われています。

大砲の進化

というわけで、なんか飛び道具の話がけっこう脱線していまいましたので、少し戻します。

このウルバン砲が製造されたのは1453年ですが、飛距離と破壊力の追求は最終的にドイツが完成させることとなります。

飛距離

人類が、大砲(筒に入れた球を火薬の爆発力で押し出す)という方法で最大の飛距離を叩き出したのが、1913年のこと。

その名も「パリ砲」。第一次世界大戦において、ドイツが開発し、実戦投入した巨大列車砲であります。

砲身28m、口径21cmという大型サイズで、94kgの砲弾を発射します。

このパリ砲は、「とにかく遠くに飛ばそう」という思想により開発されたもの。サイズの割に砲弾が小さいのも、飛距離重視のためなのです。

パリ砲が発射されると、砲弾は上空40kmにまで達します。上空は空気が薄いので、必然的に空気抵抗も受けません。※パリ砲の砲弾は、初めて成層圏に到達した人工物とも言われています。

その結果が、飛距離なんと130kmという驚異的な数字でした。

もちろん、ピンポイントで狙いをつけるのはほぼ不可能でしたが、ドイツからパリに向けて300発以上が発射され、250名の死者を出しました。

直接的な被害は大したことないですが、当時のパリ市民は恐怖のどん底に叩き落とされ、たいへんな心理的ダメージを受けたと言われています。

破壊力

もう一つ、人類史上最強の大砲が、「グスタフ砲」です。


こちらも、ドイツが1940年に製造した列車砲で、第二次世界大戦で使用されました。

このグスタフ砲、飛距離は最大48kmとややもの足りませんが、その分威力に重点が置かれています。

まず、砲身の長さは32.8m、口径80cm。使われる砲弾は、重さ7トンという強烈なもの。

砲弾のこのデカさw

その威力は、厚さ7mの鉄筋コンクリートをも貫通し、着弾した場所には直径30mのクレーターができるという代物。当たればうんこッカスも残りません。

ただ、砲撃の際には5000人以上の技術者と兵員が必要な上、そもそも砲撃の準備に1ヶ月以上(整地して、線路を作って、運んで、組み立てて、撃つ!)かかるという使いにくさ。

そんなわけで、パリ砲もグスタフ砲も、ロマンとインパクトはありますが、兵器としての効率という面では、なんかイマイチなものでした。

こうして、巨大化させる方向の進化は終焉を迎えましたとさ。


今回は、途中を激しくすっ飛ばしつつ、とりあえず攻城兵器としての大砲について見てみました。

次回、ようやく「銃」の話に入っていきますね。

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