人は いつ死ぬと思う・・・?心臓をピストルで撃ち抜かれた時・・・・・・
違う
不治の病に冒された時・・・・・
違う
猛毒キノコのスープを飲んだ時・・・・・
違う!!!
・・・人に 忘れられた時さ・・・!!!
例えば、幕末の偉人、勝海舟の末期の言葉は「コレデオシマイ」という、とてもアッサリしたものでしたが、私のような凡人は、なかなかそうはいきません。
とにかく死にたくない、なんとか生きながらえたい、という人のために、公式には命が終わっても、なお生きながらえる方法をいくつかご紹介します。
怨霊となって生き返る
日本では、古くから怨みを持って死ぬと怨霊になって祟りを起こすと信じられています。その為、怨みをなるべく残させないよう、話し合いが重視されてきたとも言われています。
聖徳太子が発令した「十七条の憲法」でも、第一条は「和を以て貴しとなす。」です。天皇より仏教より大事な事と思われていたわけですね。(参考:井沢元彦『逆説の日本史』シリーズ)
日本史上の怨霊トップ3は、菅原道真、崇徳上皇、平将門です。
菅原道真
845年-903年
この人は代々学者の血筋の人が、異例の大抜擢を受けて政治の中枢に躍り出た、かと思ったら、「謀反の疑いあり」という中傷によって左遷させられる、という、運命の荒波にもみくちゃにされた、たいへん気の毒な人です。
道真が太宰府の地で失意のうちに死を遂げた後、道真失脚の陰謀に荷担した貴族たちはつぎつぎに不慮の死を遂げます。
さらに、疫病、干ばつ、と変異は続き、あまつさえ干ばつ対策の会議が行われていた清涼殿に落雷まで落ちるに及んで、都の人々の恐怖はピークに達します。
やがて、怖い人は祀ってしまえ、神様にして拝んでしまえば災いも起こるまい、というすばらしい解決法によって、道真は学問の神様へと昇格しました。
平将門
不詳-940年
平安中期、下総で勢力をふるっていた平将門は、「新皇」と称し、朝廷と対立したため、討ち取られてしまいます。
首をはねられ、都へ運ばれてさらし首になったのですが、その首がいつまでたっても腐らない。三日目の晩、その首は胴体を探して空を飛び、数ヶ所に落ちたといわれています。
首が落ちたところは、いずれも首塚となったのですが、中でも東京都千代田区の首塚は、江戸時代に入ると、庶民の信仰の対象となっていました。
丸の内のど真ん中に今でもあります。
関東大震災後と戦後まもなく、首塚を撤去しようとするたびに、死亡事故や関係者の不慮の死が起こるようになったのです。
将門の死後1000年あまりが経っても、周囲のオフィスビルでは首塚にお尻を向けないように机をレイアウトしているという噂は絶えません。未だにその力、健在ということでしょうか。
崇徳上皇
1119年-1164年
崇徳上皇は、保元の乱で後白河天皇と争い、敗れて讃岐に流さた人物。
都に戻ることを祈りながら、自分の過去を悔い、写経の日々を過ごすこと3年。ところがその経文を奉納しようとしたところ、後白河天皇は「呪いがかけられているかもしれないから気持ち悪い」と受け取ることを拒みます。
怒りと悔しさの頂点に達した崇徳上皇は、自分の指をかみちぎり、血で「自分は大魔王となってみせよう」と経文に書き記し、そのまま天狗の姿になってしまった、と伝えられています。
都では、後白河天皇に近しい人物が相次いで亡くなり、崇徳上皇の怨みを恐れました。
ただし、怨霊で復活型は、自他共に認める超不遇の死に方が必要です。素人にはお薦めできませんが、うまくいけば天変地異を起こせるくらいのパワーが手に入ります。
その2.こっそり逃亡する
源為朝
1139年-1170年
保元の乱で敗れ、伊豆大島に流された後に自害したとされる豪傑、源為朝ですが、実は追討を逃れて琉球にわたり、その子が琉球王家の始祖舜天となりました(という説があります)。
平維盛
1158年-1184年
平維盛は清盛の嫡孫で、光源氏の再来とも騒がれた人物です。
「平家物語」では、一ノ谷の合戦で敗れ、熊野に逃れ那智で入水したということになっていますが、伝説では、熊野別当にかくまわれながら山中で生きのび、天寿まっとうした、とも言われています。
大塩平八郎
1793年-1837年
天保の大飢饉に対して無策である幕府に天誅を、と立ち上がり、大塩平八郎の乱を起こし、たったの半日で鎮圧されたのはあまりに有名です。
鎮圧された後も平八郎は息子とともに潜伏、40日ほどして発覚した際には、隠れ家に火を放ち、自爆します。
ところが、実際は船で大坂から肥後まで逃げ、そこから薩摩へ、さらに中国福建省へ渡り、さらにヨーロッパへわたった、という説が、明治26年になって出てきます。
どうせなら、そのあとどうなったのか、まで考察してほしいのですが、知行合一、民衆のために立ち上がった大塩平八郎なら、1848年に起きたフランスの二月革命に参加したのかもしれません。
大塩平八郎は、当時の日本人としては巨体だったから、右端の人はもしかすると?
こっそり逃亡型は、自分を助けてくれる人が不可欠です。人徳があり、何かと助けてもらえる人にはおすすめです。友達がいない人は㍉。
その3.別人となって戻ってくる
一番派手な生き延び方ですが、このパターンでもっとも有名なのは、源義経=チンギス=ハン。
源義経は衣川で死んではおらず、蝦夷に渡ってそこからさらに韃靼にわたって元を建国した、というもの。古くは室町時代から、この義経不死説はくり返し言われ、多くの人びとに愛されてきました。
まとめ
ここまでを簡単にまとめると、死後、生き返るためには、どうやら3つの条件が必要なようです。
1.非業の死を遂げなければならない
怨霊になる為には、非業の死が必須です。さらに、有名人じゃないと個人名まではなかなか残りません。
ただ、非業の死さえ遂げていれば、「平家の落ち武者」、「戦国の落人」的な集合名詞として復活できる可能性はあります。
2.はっきり死体が見つかってはならない(ただし、影武者を用意できれば別)
生前が派手でも、大勢の人にみとられながら畳の上で死んだ人は、やはり死後復活することはむずかしいようです。豊臣秀吉や徳川家康がその好例です。
死体が見つかりさえしなければ、生前、何もやっていなくても、豊臣秀頼のように、薩摩に落ちのびた、という伝説を残してもらえるかも。
3.死を惜しまれる人になる
奥並継という学者が「大塩平八郎欧州に失踪す」を発表したのは、明治26年、大塩平八郎の死後、半世紀が過ぎています。
当時は、まさに自由民権運動が最高潮に達したころ。当時の自由民権家たちが、「自由民権運動の祖」であるとして、大塩平八郎を祭り上げた、という背景があります。
西郷隆盛も生きながらえた、という噂が広く伝えられましたが、これなどは、明治国家の理念と現実がズレを見せていくなかで、人びとが「西郷どんが生きていれば…」という思いがあったと考えられます。
実は、これらの条件を満たしつつ、いまいち伝説が盛り上がらなかった人物がいます。
ご存知、第六天魔王織田信長です。
織田信長は本能寺の変で自害したと言われていますが、遺体は見つかっていません。どうして見つからなかったのかに関しては、さまざまな憶測がなされているのですが、「実は生きていた」系の伝説は、あるにはありますが、意外なほど盛り上がっていません。
信長が走り続けた50年、たくさんの偉業を成し遂げ、最後に「敦盛」で締めくくったという所に日本人の美学があるのでしょうか。詳しい人教えてください
人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか