明けましておめでとうございます(遅い)。
今年もこれまで通り脈絡なくいろんなテーマを扱っていきたいと思いますので、引き続きお付き合い頂ければ嬉しいです。
で、今回のテーマは日本最強の怨霊としてよく知られている崇徳天皇についてです。
怨霊とはなんぞや
怨霊というのは、生前の怨みを力に変えて、人に災いを与えてくる恐ろしい思念体であります。
そう言った思念体だと、四谷怪談のお岩さんなんかが有名ですね。
しかしお岩さんは、厳密には幽霊。しかもその祟りのスケールは、せいぜいが人間を呪い殺したり怪我させる程度のもの。とても天変地異を起こすほどのパワーはありません。
本格的な、大物の怨霊になってくると、それはもう物凄いパワーを持っていて、人を呪い殺すのは当たり前で、大火事を起こしたり、雷を落としたり、飢饉や疫病を引き起こすことだってできちゃうのです。
怨霊になるコツ
怨霊になるためにはいくつか条件がありますが、まず大前提となるのが、無実の罪を着せられて憤死すること。
いくら強い怨みを持って死んでも、無実じゃなければ怨霊にはなれないのですね。
怨霊というのは迷信であるからして、無実の罪を着せた側に罪悪感があって初めて、「この災害の原因って、あいつの怨霊じゃない…?」となるわけです。
歴史に残るほどの怨霊となると数える程しかいませんが、その中でも特に高名なのが次の3人。
この3人は、日本三大怨霊なんて括られ方をされるくらい、別格にパワーのある怨霊とされています。
そして、その中でも最強と位置付けられているのが崇徳天皇なのであります。
可哀想な崇徳院
最恐の怨霊とされる崇徳天皇は、はたしてどのような人生を送ったのでしょうか。
院政
時は12世紀の初頭。
時代でいうと平安時代の後期にあたり、この頃はいわゆる院政の全盛期でした。
天皇は早めに引退して自分の子や孫を天皇に据え、自分は上皇(太上天皇の略。引退した天皇のこと)や法皇(出家した上皇)という立場で実権を握るという仕組み。
この院政システムにおいて、天皇は文字通り傀儡でした。
時の天皇であった第74代の鳥羽天皇も例外ではありません。
父である堀河天皇が若くして崩御したため、1107年にわずか5歳で天皇に即位。
幼児に政治は無理なので、祖父にあたる白河法皇(先々代の天皇)の権力はより一層強まっていきました。
崇徳天皇誕生
1119年5月28日、鳥羽天皇に第一子が生まれました。それが崇徳天皇。
その4年後の1123年、白河法皇は鳥羽天皇にこう提案します。
鳥羽「引退!?なんで俺が引退なんですか!!」
白河「だから、カタチだけだからよ。しばらくしたらお前が上皇で仕切ればいいんだからよ。な。」
鳥羽「…。」
白河「それから、跡目はお前の息子の崇徳な。」
鳥羽「崇徳…っすか…。」
こうして白河法皇は鳥羽天皇をやや強引に引退させ、その跡目にはわずか3歳の崇徳が据えられました。
黒い噂
跡目が崇徳というのは、鳥羽天皇にとっては非常に屈辱的な人事でした。
というのも、崇徳天皇には本当の父親は白河法皇であるという疑いあったのです。
鳥羽天皇の妻であり崇徳天皇の母である藤原璋子(たまこ)は、幼女の頃から白河法皇のオキニで溺愛され続けた美女。
彼女は7歳で父を亡くし、白河法皇に養女として引き取られましたが、2人が男女関係にあったのは朝廷内では公然の秘密でした。
たまちゃん
2人の関係は、璋子が鳥羽天皇へ嫁いだ後も続いており、崇徳天皇の父が白河法皇だという噂が流れるのももっともな話だったのです。
その真偽はもう分かりませんが、少なくとも鳥羽上皇は崇徳が自分の子でないことを確信しています。
彼から見ると崇徳天皇は叔父にあたるので、事あるごとに「あいつは叔父子だろ、気持ち悪い」と言って遠ざけていたと言われています。
崇徳も引退
そんなわけで、崇徳天皇は鳥羽上皇からたいへん嫌われていたのであります。
そして崇徳が即位して20年後の1143年。
崇徳「引退!?なんで俺が引退なんですか!!」
鳥羽「だから、カタチだけだからよ。しばらくしたらお前が上皇で仕切ればいいんだからよ。な。」
崇徳「…。」
鳥羽「跡目は俺の息子の近衛(※3歳)な。お前の息子の重仁はまだガキ(※2歳)だからよ。」
崇徳「近衛…っすか…。」
鳥羽「大丈夫、あいつをお前が養子に取ればいいんだよ。そうすりゃお前が親父として院政やれるだろ。」
こうして崇徳天皇は近衛親王を養子に迎えた上で、引退することになりました。
しかし、この引退の裏には鳥羽上皇の企みがあったのです。
崇徳がそれに気づいたのは、まさに譲位をする儀式の最中のことでした。
そもそも、崇徳天皇は近衛天皇を養子にしているのだから、崇徳は「皇太子に譲る」と書かれているはずでした。
しかし実際に書類に書かれていたのは、「皇太弟に譲る」。
養子に譲るからという条件で引退したのに、弟に譲ったことになってしまったことになってしまったのです。
子が未熟なので父親が仕切るというのが院政のキモあって、弟が未熟だから兄が仕切るというのはあり得ません。
崇徳天皇はものの見事に、鳥羽上皇にハメられてしまったのでした。
崇徳終了
こうして即位した近衛天皇でしたが、体が弱くわずか17歳で崩御。
上皇となった崇徳院に再びチャンスがやってきます。
ここで、もし崇徳院の息子が天皇になれたら、その父として院政を敷くことができます。大逆転です。実際、息子の重仁親王は周囲からの評価も悪くなく、有力な天皇候補でした。
しかし現実は非常である。
鳥羽上皇の崇徳嫌いは徹底しており、周囲の反対を押し切って、人格に難ありと評判だった後白河(崇徳院の弟にあたる)を天皇にします。
ほどなくして、鳥羽上皇は崩御。
鳥羽上皇は死の床でも「崇徳にだけは俺の死に顔を見せたくない」などと周囲に言い含めており、臨終の見舞いに訪れた崇徳上皇は追い返されています。
何れにせよ、後白河天皇の即位により、今後崇徳院が権力を握るチャンスは無くなりました。彼の血筋が皇室に残る可能性もゼロで、余生はもはや消化試合となってしまいました。
鳥羽上皇の執念がそれほどまでに凄まじかったということでしょう。
保元の乱
崇徳院の仲間たち
皇室内だけでもこのように権力争いがあったわけですが、これとほとんど同時平行で、藤原摂関家でも家督争いが勃発していました。
家督争いは藤原忠通(兄) vs 藤原忠実(父)&藤原頼長(弟)という構図で、負けたのが頼長の方でした。
崇徳院と藤原忠実・頼長が、同じ敗北者として親しくなるのは自然なこと。
しかし、勝者側の後白河天皇+藤原忠通サイドとしては、遺恨を残したままでは不安。憂いを残さないよう、敗北者を徹底的に潰す機会を伺っていました。
弾圧
鳥羽上皇の崩御が1156年7月2日。
そのわずか3日後の7月5日、「崇徳院と藤原頼長がクーデターを計画してる」という噂が流れます。というか、後白河天皇がデマを流しました。
さらに3日後には後白河天皇が「忠実・頼長が自分の兵を呼ぶのはNG」というピンポイントな命令を発し、同日には藤原頼長が謀反人とされて屋敷や家財を没収されてしまいます。
このあまりにテキパキとした弾圧の様子を見ていた崇徳院は、身の危険を察知して翌日の7月9日未明に自宅を脱出。妹の住む白河北殿へと逃げ込みます。
翌7月10日に藤原頼長が崇徳院の元を訪れ、この局面を打開するために共に挙兵することを決心します。
というか、2人にはもう挙兵しか選択肢が残っていなかったと言った方が正確かもしれません。
激突
この後白河軍と崇徳軍の衝突が、保元の乱なのですが、直接のきっかけは後白河天皇サイドが流した「崇徳院と藤原頼長がクーデターを計画してる」というデマでしたね。
ということは、デマを流した時点ですでに後白河天皇サイド戦争の準備は万端だったということになります。
一方の崇徳院サイドは、追い詰められてようやく挙兵を決心した段階。心構えからして不十分なわけです。
7月11日未明に後白河軍が崇徳軍が立て籠もっている白河北殿を包囲し、戦闘が始まります。
序盤こそ奮闘した崇徳軍でしたが、白河北殿に火がかけられると総崩れとなり、あっさりと決着。
白河北殿焼き討ち
開戦からわずか4時間の速攻。大塩平八郎の乱よりも短い、あまりにもあっけない決着でした。
崇徳院は白河北殿を脱出し、出家した弟に仲裁を依頼しますが、普通に通報されて捕縛。
藤原頼長は流れ矢を受けながら敗走し、父忠実を頼りますが面談を拒まれて失意の中死亡。
こうして保元の乱は終結を迎えました。
荒ぶる崇徳院
崇徳院崩御
捕縛された崇徳院は、讃岐(香川県)へ島流しの刑となりました。平安時代に死刑はありませんので、流刑は最も重い刑罰でした。
なお、天皇経験者の流刑は400年ぶり2度目のこと。
讃岐は流刑先としては割とメジャーで、そこまで遠方じゃないけどまあまあキツいみたいな位置付け。
平安時代にはまだうどんもありませんので、仏の道に入って修行に勤しむくらいしかやることがなかったと思われます。
崇徳院が特に熱心に取り組んでいたのが、五部大乗経(天台宗において重要とされる『法華経』とかの5経典。)の写本作り。
保元の乱での戦死者の供養、そして反省の証として、指の先の血用いて全190巻!にも及ぶ写本を丹念に丹念に描き続けました。
この写本は3年がかりでようやく仕上がり、崇徳院はこれを朝廷に送り、石清水八幡宮に納めてもらうようお願いしました。
しかし、後白河上皇は「なんか呪いが込められてそうw」として、讃岐を送り返します。
この後白河の冷たい対応に、流石の崇徳も激怒。
崇徳院はその場で舌の先を噛みちぎり、その血でもって写本に「日本国の大魔縁となり、皇を民とし民を皇となさん」と書きつけ、それを海底に沈めたとされています。
また、それ以降崩御するまで爪や髪を伸ばし続け夜叉のような見た目であったとも、また崩御後には蓋を閉めた棺から血が溢れてきたとも伝えられています。
崇徳院は最終的には天狗になってどこかへいってしまったという言い伝えもあります。
変わり果ててしまった崇徳院
天狗になった崇徳院※左上
崇徳院の祟り
崇徳院が崩御したのは1164年。讃岐に写って9年後のことでした。
崇徳院は罪人であるからして、ごく簡単な葬儀があったのみで、皆がその死を無視しました。
しかし、崇徳院の崩御からちょうど干支が一巡した1176年、遂に崇徳院の怨霊が爆発します。
この年、後白河法皇(←出家した)に近しい建春門院(後白河の妃)、高松院( 〃 妹)、六条天皇( 〃 孫)、九条院( 〃 義理の妹)が相次いで死去。
これだけ続くと、どうしても怨霊を意識してしまうのが日本人というもの。
極め付けは、その翌年の1177年に起こった大火事。
太郎焼亡と呼ばれるその大火事は、平安京の東端で起こった火が強風に煽られてどんどん北西へと燃え広がり、遂には大内裏にまで火の手が及びました。
あたかも大内裏を目指して進んでいくような燃え広がり方が、怨霊の仕業っぽい感じを出しています。
太郎焼亡の延焼範囲
しかもその翌年にも大火事次郎焼亡が発生。今度は、太郎焼亡を逃れた南側を焼き尽くしに来ます。
次郎焼亡の延焼範囲
後白河、折れる
五部大乗経を突っ返したり葬儀をやらなかったりと、わりと強気だった後白河法皇でしたが、ここまで不幸や災害が続くと流石に崇徳の怨霊を信じざるを得ません。
後白河法皇は崇徳院の怨霊鎮魂のため、当時「讃岐院」と呼ばれていた崇徳院に正式に「崇徳院」の諡号を与えますが、効果はイマイチ。
その後も元号を変えたり大規模な法会を開いたりしますが、崇徳院の怨霊の勢いが止まることはなく、1179年には平清盛によって京都が占拠されます。
ついに朝廷から政治権力が失われ、その後700年にもわたって武士が権力を握ることになります。
まさに、崇徳院が誓った「民を皇となし〜」の通りになってしまったわけですね。
造られた怨霊
四谷怪談とかいうフィクション
冒頭でチラッと触れた、お岩さん。
彼女は自分に毒を盛った旦那の伊右衛門を幽霊になって呪い殺したわけですが、現代においても彼女の呪いは健在であるとされています。
「四谷怪談」を題材とした映画や舞台をいきなり制作するとスタッフや役者に不幸が起こる恐れがあるので、今でもわざわざ制作前に四谷の於岩稲荷に参拝に行くというのは有名な話。
ところが。
実在した本物のお岩さんは、四谷怪談のお岩さんとは似ても似つかぬ素敵な女性なのです。
これは江戸初期の実話。
伊右衛門とお岩さんは、世間でも評判のオシドリ夫婦でした。
しかし、伊右衛門の給料が安くて家計はいつも火の車。
そこで、お岩さんはお金持ちの家に奉公に出て、一生懸命働きます。
お岩さんの働きを認めたお金持ちは、夫の伊右衛門の出世を取り計らってくれ、夫婦は幸せに暮らしましたとさ。
お岩さんはいつも自宅の庭にあるお稲荷さんに参拝していたことから、金運のご利益があると評判になり、多くの人々が四谷の稲荷を参拝するようになったのです。
で、その200年後の江戸後期。
歌舞伎脚本家の鶴屋南北が、自分の書いた怪談のキャラクター名を、当時から有名だった「お岩さん」と「伊右衛門」から拝借したのです。ご利益を期待したのかもしれませんね。
何れにせよ、今となっては実話の方は忘れられ、怪談の方だけが有名になってしまっています。
では、制作スタッフたちは四谷於岩稲荷で誰に参拝しているのでしょうか?
実在していた賢妻のお岩さん?それとも架空のお岩さん?
崇徳院は魔王になったか
崇徳院の怨霊も、これに近い感じがあります。
崇徳院が讃岐に流されてからの生活は、実際には寂しいながらも穏やかなものだったのが、いくつもの和歌や史料から読み取ることができます。
また、そもそも例の血で書いた写本も実物を見たという人は誰もおらず、崩御から19年も経った1183年にようやく一度だけ「吉記」という史料に登場するのみです。
現代においても19年といったら結構昔のこと。ネオむぎ茶の事件とか、2000円札発行とか、もうあんまりよく覚えてないでしょう?
そんな長い時間が経ったのちに、ポッとこんな強烈なエピソードが出てくるものでしょうか?
また、もし崇徳院が本当に「魔王になる!」なんて叫んで恨みなが死んでいったのならば、いちばん怨まれていたはずの後白河天皇の耳に入らないはずがありません。
しかし当の後白河天皇は、12年後に近しい人の死や大火事が起きてからようやく慌てている始末。
当時の日本には既に怨霊信仰は十分浸透しており、平将門や菅原道真を始め、数多くの怨霊化の前例があります。
にも関わらず、崇徳院の崩御をさっぱりと無視するなど、かなりのん気な対応です。
こうした点を踏まえると、どうも崇徳院の血書経や魔王宣言は、不幸や災害社が続き社会情勢が不安定になった後に、崇徳院という怨霊を作り出すために考案された後付けエピソードである可能性が少なくありません。
だとすれば、崇徳院は相次ぐ不幸や災害の原因として後白河に利用されたのであり、後世にいくら鎮魂をしようが祭り上げようが、それは崇徳院の無念を晴らすことにはなりません。
崇徳院の生涯が不遇であったことを考えればなおさら、死してなおスケープゴートとして利用されていることに釈然としない思いを持ってしまいます。
果たして崇徳院は、本当に怨霊になったのか。
それは、生きている我々が次第なのではないでしょうか( ・`ω・´)キリッ
参考文献・サイト様
怨霊になった天皇 (小学館文庫)
怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)
崇徳院を追いかけて (創元推理文庫)
平家物語・義経伝説の史跡を巡る
四谷 再発見 ー 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)