前回の記事で、魏志倭人伝の記述は、とりあえず九州に上陸するまではそこそこ正確っぽいことが分かりました。
そう、ここまではね。
問題は、そこから先。
普通に行くと海の上になっちゃう。
そこで、魏志倭人伝の記述を読み換える必要が出てきます。
かの有名な「畿内説」と「九州説」は、魏志倭人伝の記述のどこを間違っていると見なすかという点が一つの対立軸なのであります。
畿内か九州か
畿内説
単純に言うと、畿内説は「方角が間違っているよ」というスタンス。
「不弥国から南へ水行20日で投馬国へ至る」の部分を、あえて東に進んでみる。
つまり、瀬戸内海をグイグイ進んで行きます。
畿内説の場合の行程
そうすると、若干距離に誤差はあるものの、見事に畿内へと到達します。
この行程は一つの説で、他に日本海ルートや太平洋ルートもあるので、わりとあやふやです。
九州説
一方の九州説は、「距離が間違っているよ」というスタンスです。
そもそも、魏志倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までトータル12,000里と書かれています。
そして、帯方郡から伊都国までの距離を足して行くと、既に10,500里ほど進んでいます。
帯方郡〜狗邪韓国:7,000里
狗邪韓国〜対馬国:1,000里
対馬国〜一支国:1,000里
一支国〜末盧国:1,000里
末盧国〜伊都国:500里
伊都国は「福岡県糸島市」なので、そこから南方1,500里(=115km)くらいのあたりに邪馬台国があるはずだと考えられます。
九州説の場合
この場合、投馬国までの「水行20日」とか、そこから邪馬台国までの「水行10日陸行1月」というのは、誇張表現だという風に解釈します。
畿内説有利
もちろん、上にあげたそれぞれの説のルートはあくまで一例にすぎません。
他にも無数の解釈があって、プロアマ問わず実に多くの人々が、それぞれの解釈で持って邪馬台国の位置を推定しています。
ただ、逆に言うと、それだけ自由に解釈できる余地があるわけで、魏志倭人伝の記述だけで邪馬台国の位置を確定させることはもう不可能でありましょう。
しかし、考古学的には、今のところ畿内説が圧倒的に有利と言われているみたい。
纒向遺跡
魏志倭人伝では、邪馬台国は7万余もの建物があったと書かれています。
7万余戸というと、人口換算で30万人規模。
そこに当てはまりそうなのが、纒向遺跡(まきむく遺跡)という超巨大遺跡。
これは、奈良県北部にある3〜4世紀頃の遺跡なのですが、その時代としては異例の大きさを誇る遺跡であります。
纒向遺跡はここ
2km×1.5km=3km2の広さに大型の建物がいくつも計画的に配置されていることが分かっていて、なおかつそこにあんまり生活の痕跡が見られないため、超巨大な祭祀空間だったのだと考えられています。
広大すぎて、まだ全体の5%くらいしか発掘調査ができてない
この纒向遺跡は街じゃないことがミソ。
この時代に、祭祀の為に、巨大な祭祀空間を構築できる権力を持った国が畿内にあったという点で、特筆すべき遺跡なのであります。
箸墓古墳
卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。
魏志倭人伝に寄れば、卑弥呼は直径100歩の塚に埋葬されたとされています。
魏の時代の1歩=約1.45mなので、卑弥呼の古墳は直径145mクラスのでっかい古墳だと思われます。
前述の纒向遺跡には、箸墓古墳(はしはか古墳)という前方後円墳があります。
前・方・後・円・墳……見事な……
この箸墓古墳の後円部分の直径は約160m。サイズ的にも割と近い。
で、ここに埋葬されているのは、日本書紀によると「倭迹迹日百襲姫命」という女性です。
読み方は、「やまと とと ひ もも そ ひめ のみこと」。
読みにくい。しかも誰だかよく分からない。
調べてみると、この女性は7代孝霊天皇(←実在するか不明)の娘。8代崇神天皇(←実在したっぽい)の叔母にあたります。
ただの女性ではなく、トランス状態で神様の意向を伝えたり、オオモノヌシという神様のお嫁さんになったり、まるでシャーマン的な行動をしたとされています。
この姫様は、夫のオオモノヌシが蛇だったことに驚いて尻餅をついて、その拍子に箸が陰部に刺さって死ぬという微妙な最期をとげます。(だから箸墓古墳なの。)
彼女のシャーマン的な行動が卑弥呼とダブって見える事などから、現時点での卑弥呼の正体候補No.1とされています。
ただ、女王と皇女ではちょっとランクが違いすぎるし、あんまりメジャーな人物ではないので、その結論では少し寂しい(´・ω・`)
出土品
纒向遺跡からは、九州様式から関東様式まで、幅広い種類の土器が見つかっています。
これはすなわち、この纒向を中心に日本の文化が交流しているような雰囲気が強い。
あくまでも状況証拠でしかありませんが、それでもやはり邪馬台国は畿内にあった可能性が濃厚っぽいという結論になるのであります。
九州説の有利なところ
というわけで、考古学的な部分では圧倒的に不利な九州説。
しかし、それでもなお九州説に根強い論者がいるのは、ストーリー的に九州だとしっくりくるから。
神武の東征
例えば、日本書紀にある「神武の東征」。
初代天皇である神武天皇は、もともと九州の日向(宮崎県)にいました。
しかし、「日本を支配するには畿内の方がよかろう」と判断して東に出発。関西らへんの敵を征服して、正式にヤマト朝廷を開いたとされています。
八咫烏に導かれる神武天皇
この東征が史実かどうかは分かりませんが、少なくとも記紀を編纂した時点でのヤマト朝廷は、自分たちの起源は九州と考えていたはず。
もし邪馬台国がヤマト朝廷の起源なのであれば、これは邪馬台国九州説の強い根拠になりうる神話であります。
九州人っぽい風習
魏志倭人伝によると、当時の日本人はみんな顔や体に入れ墨や顔料を塗っていたようです。
「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。
縄文時代の土偶
確かに、縄文時代の日本には間違いなくこうした風習がありました。
しかし、畿内においては、3世紀の時点でもうこの風習は廃れていたのではないかという主張があります。
一方、九州の南に住んでいた人々は隼人と呼ばれ、全身にガンガン入れ墨をしていたことが分かっています。
入れ墨をする風習が畿内では既に廃れていた事は、古事記に書かれています。
姫はそのオホクメノ命の入れ墨をした鋭い目を見て、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目尻に入れ墨をして、鋭い目をしているのですか」
「古事記中巻−『神武天皇』」より
神武天皇の部下が顔に入れ墨をしているのを、畿内育ちのお姫様が不思議に思う、というエピソード。
畿内の人々が顔に入れ墨をしていないなら、邪馬台国も畿内じゃないのでは?
邪馬台=山門?
邪馬台は、「ヤマト」とも読めます。
そうなると、日本人の多くは、まずは「大和」を連想するわけです。地名は「言葉の化石」的な発想から行くと、畿内説を推したくなりますね。
しかし、冷静に考えてみてください。
そもそも「大和」は完全に当て字で、日本語の読み方ではありません。音読みしても訓読みしても、「大和」を「ヤマト」とは絶対に読めません。
では、なぜこんな当て字を使うようになったのか。一説には、次のような流れだと言われています。
元々中国が使用していた「倭(小さい)」という文字。これを、同じ読みで良い意味の「和」に変えて、そこに「大きい」を加えた。
こうして「大和」という言葉を作ったわけですが、これはあくまで中国語ベースの単語。そのままだと「ダイワ」になっちまう。
日本は自分たちのことを日本語では「ヤマト」と読んでいたわけで、仕方なく変則的に「大和」を「ヤマト」と読むようになったというわけ。
だとすると、元々の「ヤマト」の語源は何か。
そこで出てくるのが、福岡県の「山門」という地名であります。
ヤマト朝廷は、元々は山門朝廷だった。
それが「神武の東征」によって、畿内に移動し、さっきの流れで大和朝廷へと変わっていったという可能性。
証拠はありませんけどね。
邪馬台国は大和なのか
こんな感じで、邪馬台国はどこにあったか論争は、当分決着がつきそうにありません。
ただ、この論争の根底にあるのは「邪馬台国は大和朝廷の起源なのか?」という問いであり、そうであって欲しいという気持ちであります。
みんなが侃侃諤諤の議論を繰り広げているポイントはこの点なのです。
「神武の東征」を信じるなら九州説。フィクションと捉えるなら畿内説。
纒向遺跡を邪馬台国と捉えるなら畿内説。別勢力と捉えるなら九州説。
そもそも邪馬台国と大和朝廷は無関係という可能性も十分にありえます。
というわけで、ちょっと荷が重い感じはありますが、次回は大和朝廷の起源について、もう少し考えてみたいと思いま〜す。
コメント
普通すぎる考察で、ちと残念(´・ω・`)
位置的には九州だろうし、遺跡はこれからも発掘が進むだろうしね。
邪馬台国そのものが本当に存在してたのか
疑問なんだが。
一つ前の記事のコメントめちゃくちゃ伸びてるのに
古田武彦の名前上げている人が一人しかいないって驚きだな
前スレの
「南を東に置き換えても、機内には到達できない」
「当時の航海技術じゃ、瀬戸内海は水行できない」
ってツッコミはどうなったの?(;´・ω・`)
旧唐書に書いてなかったっけ?
あれ面白いよね、中国の方に行った九州から来た邪馬台国の人と近畿から来た邪馬台国の人が目の前でケンカしだして。あー、どこも同じで困ったもんだなあってやつ。
魏の時代に台はタイと発音せずにドと発音されたとか。それなら、ヤマド=大和だな。
又、九州では当時30万人も住む町は存在していない。結論は明らかだ。
卑弥呼も日命か日皇女が正解だろう。天照の末裔だな。
豊丸「イグ~イグ~」
卑弥呼「私もイグッ!!」
魏志倭人伝から都合のいいところだけつまんだ感じだな
距離だったり人口だったり
方角どうするのかとか住居跡が見つかってないとかどうするんだ?
九州説は「水行10日陸行1月」を総日程と見なす立場なんじゃないの?
宮崎県の高天原が神武天皇と関係あるかは怪しいらしいが
九州に拠点をおいてたら、近畿に拠点を移すメリットは無いんじゃないの?
九州は温暖だし、関東東北は寒くて済むには魅力的じゃないから
九州を捨てて、近畿に行くとは考えにくい
中間の中国地方等ももっと発展していって、徐々に近畿に行く感じじゃないの
倭の五王が九州なのにどうするんだ
畿内説は無料筋。各地に大きな街があったとしてだから邪馬台国だ、とはいえない訳で。大体瀬戸内海から畿内まで具体的な記述がないだろう。オカシイ。それに距離表示でなくて何日陸行、水行何日とかかかった日にちがかいてあるなら短距離でもかかった訳で海上に出てしまうとかナイナイ。三角縁神獣鏡を都合よく卑弥呼の鏡とか畿内説は先に結論ありき杉。畿内になくては困るのか?印象操作は止めよう。
崇神は八代目で無くて十代目。
大局的に見て里数から北九州。また、女王国のある島から海を渡った先も倭人が住んでると書かれていて、女王国が近畿なら北海道が倭人の地になってしまうぞ!
まきむく遺跡は、九州に有った倭国の東方に有ったと支那の史書に書かれている、元は小国の日本国。これこそが、2世紀中頃の神武東征で生まれたヤマトの百年後の都。
まさに、この後、近畿各地の銅鐸が破棄されていったが、これこそ剣や鉾ホコを祭器とする九州系のヤマトの崇神天皇が、3世紀後半に奈良盆地から急速に支配地を近畿各地に広げたせいである。
方角は目隠しや船内から出さないなどして(侵略の足がかりを与えないため)誤魔化せるが、日程は誤魔化しようないでしょ。
朝鮮までの旅程の正確さを見るに、日本に着いてからの記述だけが不正確なのは明確におかしいっしょ。日程は正確なんだと思うよ。
とはいえ、金印が出てきたのがなぜ博多? って話だから、物証的には九州説を取ってもいいかな。
行って戻ってしたんでねーの?
平城京の人口が10万人。
現在の奈良市の人口が37万人。
これらの数字から考えて、
邪馬台国30万人はあり得ない数字で、
明らかな嘘ということには何で触れないのー?
魏志倭人伝は問題がある書物だよー。
※16
上国の賓客を軟禁?目隠し?ないない
太陽さえ見れば進んだ方角なんて一目瞭然だし方角なんて偽る意味が薄すぎる
それなら距離や日数の方が使者が苦労を誇張したくて弄った可能性があるレベル
投馬国(中国地方)の5万戸と邪馬台国(近畿)の7万戸は広範囲だったのかも
※16※17
実は、使者は伊都国までの途中までしか行ってないのでは?という説がある。
前回に出ていた伊都国の記述で
「帯方郡の使者が往来する際はいつもここ(伊都国)に駐在する。」
は伊都国から先には行けなかった意味では?と、また魏志倭人伝で伊都国の次の奴国などの記述がアッサリ目なのは、実際にこの目で見たのではなく現地民の伝聞による記録だからでは?と、考える人がいる。
魏志倭人伝のころはまだ関門海峡が開削されておらず
船が通れないんじゃないの
纒向遺跡はあぶみの発見で卑弥呼の宮殿とは違うって説がね
「方角が間違っているよ」
「距離が間違っているよ」
両者ともそれ以外は間違ってない前提なのがおかしい
間違いだらけで正確な箇所のほうが少ない可能性だってあるだろうに
畿内も九州もまず結論ありきの誘導に思えてくる
魯迅の説(ソースは昔の本) 昭和11年頃 魯迅に面会した日本人がいた それによると
魯迅は「海内華夷図」「石刻華夷図」「声教広被図」「混一疆理図」「混一疆理歴代国都之図」を挙げ 中国の地図の間違いを指摘した 測量学が西欧から入ったのは1700年以降だ
九州説が初めて出たのは 新地図が出始めた本居宣長の「馭戎概言」(1777年)からで それ以前の新井白石 北畠親房らは古地図を見ていたので大和を疑わなかった 邪馬台国は機内の大和に間違いない
魏志倭人伝では至ると到るという2つの漢字を使い分けていて、日本での意味は同じだが、中国では明確な違いがあるそうな。
一方は現在地からの距離、もう一方は出発地からの距離だという。
それなら邪馬台国は九州となる。
ってなことを台湾の学者が唱えている。
また、九州には地名の類似も多いそうだ。
ということで、九州説が有利じゃね?
邪馬台国知りたい様なロマン残しで知りたく無い様な。
でも私は楽しく拝読させて頂きました。
邪馬台国旅団説の本を読んだのを思い出した。
邪馬台国は近畿で、のちに大和朝廷の元になる九州の国に征服された。それが神武東征である、で良いんじゃ無いかな。
とりあえず韓国の陰謀で場所がわからなくなったことにすれば丸く収まるよ!
三角縁神獣鏡がいっぱい見つかるから畿内だろ
古伊万里・浮世絵はヨーロッパでいっぱい見つかるけど、
江戸はヨーロッパにあったのかな?
何でそうなる
※31の理論だと
モノは産地以外に存在してはいけないらしい
日本産の物が外国にあればそこは日本というバカ理論
これぞ九州説クオリティ
まず、弥生後期から古墳時代の始まりにかけての年代感を確認してください。
古墳時代の開始は「箸中山古墳の築造」からと、ほぼピンポイントで指定できます。この古墳が最初の200メートル超の超巨大古墳であり、この古墳により「前方後円墳」という規格が定まったという意味で、この古墳を作るイベントが古代史における一つの画期であったことは間違いありません。
そして、箸中山古墳とほぼ同時に最初期の前方後円墳が日本のかなり広い範囲に同時に作られたことから、その時点で日本のかなり広い範囲に「前方後円墳を作る共同体」が成立していたと考えることができます。そして北部九州もその範囲内であり、作られた古墳の大きさは畿内に比べるとかなり小さいものであることを確認してください。
前方後円墳に代表される「古墳」は、いきなり生まれたものではなく、先行する弥生時代後期には各地に「王墓級」とも言うべき副葬品を伴った墳丘を伴う弥生墳墓が作られます。そして、そのうち特に大きなものは、岡山の楯築墳丘墓や、丹後の大風呂南一号墳墓、出雲の西谷墳墓、福岡の須久岡本遺跡など、古墳時代にも一定の勢力=古墳築造能力を有する地域にあり、こうした遺跡を見ていけば、ある程度当時のクニが見えてきます。箸中山古墳に先行する勝山古墳などの巻向墳墓群も、弥生墳墓の範疇だと思います。
こうした巨大な弥生墳丘墓ができる前の弥生時代は、家族墓として複数の遺体が埋葬される墓制がとられており、多くの副葬品を伴う「王墓級」の出現は、社会のあり方が変わってきたとこを示してもいます。
「王墓」とともにクニを見出せる遺跡に環濠集落があり、九州の吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡、大阪平野の池上・曽根遺跡、奈良盆地の唐古・鍵遺跡は、当時のクニがどんなものかを知る手がかりになります。壱岐の原の辻遺跡は、東夷伝倭人条の一支国そのものです。ただ、ここに挙げた遺跡が邪馬台国の時代に合う訳ではありません。
箸中山古墳の築造年代は、精確には分かっていませんが、年輪年代法によりそれなりに信頼できる推定ができるようになって来ました。古墳の年代は、円筒埴輪の形式や出土する土師器や須恵器による編年が作られており、そこに年輪年代法で求められた池上曽根遺跡の柱の年代などを合わせることで推定されています。それによれば、箸中山古墳の築造年代は3世紀後半と考えられ、魏志東夷伝倭人条の卑弥呼の没年247年のすぐ後の時期となります。
ただ、日本の年輪年代法がたった一人の研究者によるものであり、追試ができないため、過度の信頼はできないとする人もいます。一方、この年輪年代法とC14年代法との間に大きな矛盾はなく、大まかな年代推定としては十分だともいえます(本来年輪年代法は、1年単位の正確な絶対年代が出るものですが)。
私の結論としては、魏志東夷伝倭人条が書かれた時代は弥生後期から古墳時代に差し掛かる頃であり、日本の広い範囲(最初期から前方後円墳を作った範囲)で倭国としてのまとまりがあり、その中心的な存在は纏向遺跡の勢力であった、というものです。
箸中山遺跡が卑弥呼の墓であってもなくても、その当時の国の中心が、この纏向の勢力であったことは間違いないでしょう。そして、この纏向の地は、崇神、垂仁、景行という実在とされる最初の三代の天皇の磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮の地であり、当時の倭国の中心勢力が大和朝廷(という呼び名は後付けですが)そのものと考えることに問題はないと思います。
その一方で、東夷伝倭人の条を素直に読めば、北部九州の平塚川添遺跡あたりになります(自郡至女王國萬二千餘里)。おそらく、中国側に「漢の委の奴の国王」が朝貢し金印を授けた頃からの、倭国の中心は北部九州という常識というか思い込みがあり、加えて後漢書等の先行する倭人の条に引きずられて、倭国=北部九州という行程記事になっているのだと思います。
つまり、魏志東夷伝倭人の条に「書かれている邪馬台国」は北部九州(けれど情報が古くていい加減)で、実際の当時の倭国の中心であり「本来の邪馬台国」は大和の纏向遺跡でよいと思います。
邪馬台国ってそもそも当時の日本最大の国って訳じゃなくて
九州地方の最大の国程度だったんでないかな
近畿には後に大和朝廷になる国があって、後々同じ勢力になるとして
邪馬台国=大和朝廷ってのがまず無いと思うんだよなあ
魏志倭人伝当時は九州に邪馬台国があって
近畿にはさらに大きい大和朝廷の基盤となる国があったって感じがする
「まとめ」と題するなら、前スレの※欄の意見をまとめてくれ。
年代的に邪馬台国の(というか魏志に書かれている年代の)頃には、倭国はすでに九州から近畿までを含む領域全体で共同体意識があったと考えられます。それだから、箸中山古墳とほぼ同時に九州にも前方後円墳が作られる。
その一方で、卑弥呼や台与の「共立」というのが、前方後円墳を作る契機だと考えることも可能です。前方後円墳は、吉備の円筒埴輪、出雲の葺き石、北部九州の副葬品、巻向を墳丘墓の墳形を併せ持つ「王の墓」ですから。
九州から追放された男王が畿内に国を建て力をつけて邪馬台国を征服した
とか
更新待ってた!今回も面白かったわ
どっちも説得力を持たせようと思えば持たせられるのね。この曖昧さはなんかエヴァンゲリオンとかみたいな伏線をとりあえず撒けるだけ撒いときました感がある
ところで、前方後円墳って実は地球の鍵穴で地磁気を開けたり閉めたりできるとかなんとかってゆで・・・
3世紀当時の巨大前方後円墳がある
魏の鏡の三角縁神獣鏡が出ている
これが揃っているやまとという地名のある場所は畿内
ちょうど今日のNHKで同じ題材やっててワラタ
番組では日本列島が90度東に傾いた間違った状態で認知されてて、それで南=東になっちゃってるって言ってるね
>34
例えば、ピラミッドは初期(古い)の方が小さいですが、それはどうとらえていますか?
練習を経て、大きなものを作れたという方が不自然でない考えではないでしょうか?
>42
>37でも書きましたが、箸中山古墳が作られ古墳時代に入る直前の弥生最晩期に、様々な特徴を持つ巨大墳丘墓が各地で作られるようになります。
巻向でも勝山古墳(と呼ばれていますが円筒埴輪がないなど定型化する前の墳丘墓と考えた方が分かりやすい)のような、箸中山に先行する墳丘長数十メートルクラスの墳丘墓が作られています。
そうした弥生時代の墳丘墓で「練習」した後で、各地の墓制を統合した形で、以前のものとは隔絶した大きさの箸中山古墳の築造をもって、古墳時代が始まるのだと考えています。
>42
>43の補足
北部九州で前方後円墳が作られるのは、箸中山とほぼ同時で決して先行はしません。また平面図がほぼ箸中山と相似で同じ規格で作られており、かつそれ以前の九州の墳丘墓の墳形と連続性がありません。
北部九州で見られる最初期の前方後円墳が、箸中山に先行する先駆的な練習とみなすべき理由はないと思います。
ヤマト王権まであと100年くらいしかないなかで、
間に吉備や出雲もあるってのにそれ全部さっくり飲み込んで
九州から畿内を平定なんかできるわけないだろ。
弥生人が九州から東遷してきたのは多分確かだけどもっと前の時代だろ
それがあったかどうかはともかく、百年あれば十分な気がするが
日本の歴史は動乱期になると一気に勢力傾いて、塗り替えに百年以上もかからんし
「方角が間違っているよ」
「距離が間違っているよ」
しまいには「国名も間違っていたよ」が追加されたりするかも
間とって四国か岡山とかは?
川が重要なんでしょ?
100年あれば十分過ぎるでしょ。
昔、三好政権つって畿内11カ国を治めた巨大武家政権があったが、
(当時は畿内5カ国を治めた人物を天下人と呼んだ。だから信長は東北と九州が手つかずだったが天下人と呼ばれた)
全盛期から十数年で信長に皆殺しにされ歴史から姿を消した。
今じゃ三好政権なんて誰も知らんだろ。
安土桃山時代でもこれじゃ、生野菜くって裸足で歩いてる集団を潰すなんて、100年もいらんでしょ。
>49
そして、織田政権や豊臣政権も(ry
鎌倉幕府も滅ぶ時はあっけなかったしな
土器の編年も近畿は当てにならぬらしい。
近畿は時代考証に土器くらいしか手掛かりなくて、ひたすら土器編年をいじるのだけれど、大分恣意的で、編年だけで机上で古色を添えている。
要するに偽物づくりの域に達しつつある。
前方後円墳の祖型説もある畿内円形周溝墓も、実は新しいものだ説が根強い。
生活臭のない巨大祭祀都市纏向は、縄文以来の歴史はあるが、中国風土木技術などで整備され、巨大化が進んだのは3世紀末なんだよな。
いきなりのこの畿内の「進化」を説明する必要性があり、3世紀中葉がカギになる。
3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
吉備がなぜ取り込まれたかは、吉備にとって日本海航路→瀬戸内海航路がおいしいからだ。
安芸、讃岐、伊予も含めた瀬戸内連合が畿内入りをサポートする理由はある。
※49
信長が家督を継いだのが1551年
畿内を完全平定したのが本願寺を下した1580年
名古屋から畿内でもこれだけかかる。
明治維新は、薩長同盟から戊辰戦争終結まで3年ぐらい。
時代が下るほどスピードが早くなる。
生野菜食って裸足で歩いてる時代の方が時間かかるだろう。
※51
>3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
神武即位は紀元前660年だよ
まあこんなもんだろうな
弥生文化が徐々に広がっていく様を一代英雄記にした感じ
※51
>3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
神功皇后の熊襲討伐があるじゃん。
畿内説を支持する人に聞きたい。
朝鮮から畿内への道のりを記述するときどうする?
1 釜山から海を渡って対馬、壱岐、そして松浦に上陸するんだよ
#ここはわかる
2 そこから歩いて 糸島・博多・北九州へいくんだ
#まぁこれもわかる
3 そこから海を渡ると畿内(邪馬台国)だよ
#いきなり飛躍しすぎだろ!!!
大体 千里-五百里-百里 と国家間の里数が小さくなっているのに
いきなり数千里分の距離のある箇所へと 飛ばすものだろうか?
そもそも神武が東征した大和の国こそが邪馬台国なわけで
で神武が邪馬台国を乗っ取って出来たのが大和朝廷
※55
まぁこの指摘は妥当性あるわ
陸行に関して、前回記事本文にて道が悪いから距離が稼げなかっただろうと推定しておきながら、水行でしっかり距離を勘定しているあたりにも片手落ち感が否めない
大航海時代と比較するのもアレだけど、欧州へ渡航するのに実際の航海時間以上に「風待ち」のために何か月も、下手したら半年も拘束されてしまい、それで合計すると何年もの時間がかかってしまう。
古代の使節がどんな船を使ったかは謎だが、国家使節がまさか手漕ぎのボートというわけでもないだろうし、ガレー船みたいなものが荒海の日本海でまともに使えたとも思えないから恐らく帆船に乗っていたのだろう。一方で現地の倭人たちはせいぜい釣り船程度の船しか知らなかったのではなかろうかと推測すれば、効率の良い風の稼ぎ方も分かっていない連中が試行錯誤しながらなんとか船を進めていったというのが実際の様子だったんだろうし、そうなると水行一日で平均どれだけ進めたかと言えば大した距離にはならなかった可能性は高い。
そもそも最短コースの瀬戸内海は島と浅瀬と複雑な海流に支配される難所だし、大きめの帆船を安全に航海させるには山陰もしくは南海から回っていくしかなく、畿内説だとやや距離が離れすぎているきらいはある。日向など九州南部であれば距離感が現実味を増してくるようには思えるね
その地に合ったかもしれない邪馬台国と纏向遺跡の巨大政権が同一である必要性は必ずしもないし、指摘さえているように九州の出先機関を邪馬台国本拠地だと中国側が勘違いしていた可能性もある
日数に風待ちや悪天候を避けたと考えれば距離と合わなくなるのか。
考えもしなかったが当時を考えれば自然かも。
魏志倭人伝だけでなく、漢書とか旧唐書とかの倭国についての記述を比較すると、かなりの部分が前例踏襲のコピペだってことが分かります。そういうテキスト比較の研究も進んでいるので調べてみてください。
魏志倭人伝にこう書いてあるから、、、というのは、実はあまり意味のある議論ではありません。中国側からすれば、王朝の徳の高さ(遠くから朝貢に来るほど徳が高い)を示す材料として、以外の点では、特に興味もない夷狄のことなので、もとからいい加減です。
>>59
奴国までは遺跡があるんですけど…
※59
>魏志倭人伝にこう書いてあるから、、、というのは、実はあまり意味のある議論ではありません
実際の発掘と歴史書を同時に研究することに意味があるんですよ。
きっとこれから中学の授業で習うと思うので予習しておいてくださいね。
>>59
「中国側からすれば、王朝の徳の高さ(遠くから朝貢に来るほど徳が高い)を示す材料として、以外の点では、特に興味もない夷狄のことなので、もとからいい加減です。」
お前の考えよりよっぽど当てになるけどな
>51
以前は九州と近畿の土器編年が大きくずれていて、先進的な九州から近畿まで文化が波及するのに時間がかかるというような説明がかつてはされていました。それが年輪年代法の登場で、このずれはほぼ解消されています。九州が先進地域という立場の人からすれば、この古い方へのシフトは恣意的でいい加減なものと感じられるようです。
一方で、縄文時代から神津島の黒曜石が全国流通していたように、古代から地域間の物流を含めた交流が、我々の想定以上に盛んだったことを思えば、九州とほぼタイムラグがなくなった修正された近畿の編年は、妥当なものだと思います。
倭人伝の地名(私見)
・那(ナ福岡博多)・不弥(フミ小倉門司)・投馬(トマ鞆 吉備)・那岐(ナギ美作)・巴利(ハリ播磨)・邪馬台(ヤマト大和)・邪馬(ヤマ山城)・為吾(イガ伊賀)・弥奴(ミヌ美濃)・姐奴(ソヌ信濃)・華奴蘇奴(カヌソヌ甲斐駿河)・狗奴(ケヌ毛野)・己百支(シヒャッキ阿波土佐)・伊邪(イヤ伊予)・郡支(ヌキ讃岐)・対蘇(タイソ遠江)・躬臣(コシ北陸)・烏奴(ウヌ出雲因幡)
*華奴蘇奴 富士山(カヌソヌ カルスル 激しくこするの意 甲斐 駿河となった)
>60,61
>59ですが私も同じ立場ですよ。遺跡など考古学的な裏付けのある部分を押さえながら、検証していくものだと考えています。
前回の記事のコメント欄にも、7万戸の国が云々というコメントがありましたが、当時の倭国にそれだけの国は確認されていません。そういう確認できない部分については、魏志倭人伝のテキストを根拠に議論してもあまり実りはなく、考古学資料の解釈など別のアプローチが必要になるだろう、というのが論旨です。
教育はすでに十分に受けていますのでご心配なく。
>65
上の記事には、まきむく遺跡、3〜4世紀頃の遺跡で7万余戸に当てはまりそうと書かれてるが
これは違うということですか
※55
いきなり飛躍しすぎだろ!→だからなに?
※57
>そもそも最短コースの瀬戸内海は島と浅瀬と複雑な海流に支配される難所だし
そうか?基本的にはめちゃめちゃ穏やかだぞ。
難所と言えなくもないところもあるにして太平洋や日本海とはレベルが違う。
考古学的には畿内完勝だから、九州派は「文書」に頼るしかないw
辺境の夷狄のことを適当に書いた報告書と、後世に作文した神話に。
(文書でも実は畿内の方が若干有利なんだけど)
>66
奈良盆地の最大拠点はもともとは唐古鍵遺跡の環濠集落で、纒向遺跡は住居跡のない人工都市だといわれています。他の方のコメントにもありましたが、7万戸に4人家族だとそれで人口28万人ですから、現代でも地方中核都市レベルで、下手すると当時の日本の全人口を超えます。
まあ 、その頃の倭国で最大の拠点くらいに取ればよいのでしょうが、テキスト通りに読んでどうこういうことにはあまり意味がないと思います。
四国はなんか出ると中央が没収して闇に葬られること多いから四国には何かあると思う
神社とか遺跡が色々あるみたいだし
個人的には古代イスラエル人の系譜が途中で日本に入って来てると思う。ある時急に発展したから。
>>70
もし、カナンの民が極東に流れたなら中東と日本の間にその時代ごとの痕跡があるのでは?
ネットを調べるといろいろな人がいろいろなことを言ってますよね。
卑弥呼の墓は山口だとか沖縄系の血が入ったへブライ人だとか
魏志倭人伝には、邪馬台国のことをヘブライの国という記述があったと思いますが。
自分は、神武天皇が東征によって倭国を作ったということと
ヘブライ人が大和国を作ったことは、あまり関係ないのではと思います。
たぶん時代が500年以上違うので。
コメントの多さに驚きです。
関心が高いのですね。私もか。
※52
>信長が家督を継いだのが1551年
>畿内を完全平定したのが本願寺を下した1580年
それでも29年じゃないですか、その倍でも58年、3倍でも87年で100年には全然及ばない。
100年てのは長いですよ。
だいたい当時の情勢では桶狭間以前の信長なんてカスみたいな存在で、まともな勢力じゃないですが、それでもたった29年ですよ。
桶狭間から起算すればさらに短くて、20年じゃないですか。
――実際には、義昭追放(幕府滅亡)、三好滅亡の1574年あたりで畿内掌握といってもいいんじゃないですかね。これだと14年(一向一揆鎮圧まで入れれば15年)。本願寺もずっと戦っていた訳ではないですし何とか持ち堪えていたというところですし――
>明治維新は、薩長同盟から戊辰戦争終結まで3年ぐらい。
さすがに銃火器使用が常識の時代とは、まったく別物として分けませんか。
その頃には既にガトリング砲とかあったわけで議論の前提が違いすぎます。
安土桃山でも銃はありましたが一般的な武器でなく(特に長篠以前は)、信長の鉄砲隊も手取川の戦いで鉄砲を持たない上杉軍に大敗してます。その程度の代物です。
邪馬台国から大和朝廷まで100年として話が進んでいますが、大和朝廷をどこから(いつから、どの天皇から)と考えているのですか?
天皇の実在をどこからとするのか、については議論がありますが、欠史八代の次の崇神天皇の実在を認めるならば、その宮都は磯城瑞籬宮で纒向ですから、遺跡の年代間から言ってほぼ同時代、あっても数十年くらいの時間差しかありません
8代天皇は崇神ではなく孝元で欠史八代の一人
崇神は10代
>69
その人口数は朝鮮、または中国人を含めての数だと思います
日本人限定で考えたら厳しいが、外来系土器の発掘から朝鮮人が渡来したわけで
三国時代の戦乱、または食糧難で移住してきたとしたら
十分考えられないでしょうか
魏志倭人伝の記述が全て正しいなら、こんな議論にはなっていない。
※74
>桶狭間以前の信長なんてカスみたいな存在
そうでもないよ。父・信秀の頃から大国美濃や名門今川と熱い接戦を繰り広げるぐらいの戦力。
>さすがに銃火器使用が常識の時代とは、まったく別物として分けませんか。
では信長の時代と倭の時代も別物じゃないとおかしいのでは。
記紀に東遷が書いてあるから!って言う割には記紀に書いてある時代設定(東遷は紀元前660年)を無視したり、九州説はいろいろ都合良すぎんだよ。
「東遷は紀元前660年」・・・これは流石に無視させてもらいます。
それ以外にもいろいろ時代設定、在位期間、天皇の実在など、疑わせてもらいます。
でも、素材の中から巨視的に合理的な筋、口伝でも伝わりそうな重大な出来事の痕跡というか、匂いは、他の様々な参照データと一緒に照らして、せめて拾わせてもらいます。
じゃあ東遷()も無視しないとおかしいんですがそれは
神功皇后=倭の女王って書いてるのも無視するのは卑劣極まり無い
今やSNSの時代、WGIPの洗脳によって日本の歴史が歪められ学者連中は学問ではなく政治として歴史をとらえているのが周知の事実。この論争自体がGHQの狙いである、日本の歴史と伝統文化を忘れさせるために。記紀由来の地名は「地名は言葉の化石」として日本中に腐るほどある。いい加減な矛盾だらけの記述の魏志倭人伝は学問としては無価値になったといってよいだろう。
>77
外来系の土器、青銅器の遺物が出ますから、渡来人がいたことは間違いありませんが、その人数となるとそれほど多くなるとは思えません。海を渡るのに持衰(じさい)という、人柱候補を乗せる必要があった時代です。万単位の渡来人は考えにくいです。
以前は、縄文系と弥生系の骨格の違いから、日本人の骨格が変わるほどの大量の渡来人がいたと考えられたりしていますが、考えてみれば昭和の戦前と戦後の体格の違いの方が、縄文と弥生の差よりも大きいんですよね。その間、日本人の遺伝的背景に変化があるほどの外国からの遺伝形質の流入はありません。縄文と弥生の骨格の違いは、弥生文化、稲作による食性の違いと考えた方がよさそうです。その点からいっても、「半島、大陸からの渡来人を入れれば7万戸になるかも」、というのは考えなくてもよいと思います。
今やSNSの時代、皇国史観の洗脳によって日本の歴史が歪められ学者連中は学問ではなく政治として歴史をとらえているのが周知の事実。この論争自体が保守層の狙いである、日本の歴史と伝統文化を忘れさせるために。魏志倭人伝と合致する地名は「地名は言葉の化石」として日本中に腐るほどある。いい加減な矛盾だらけの記紀は学問としては無価値になったといってよいだろう。
※85
皇国史観もGHQのWGIPも嘘ってことで宜しいか?
魏志倭人伝なるものの記述もインチキってことになるが。
方向無茶苦茶、裸足で気候は海南島と同じ、上海の東って、どこだよ?
一年中生野菜食べてて裸足ww日本じゃないわな
支那人や朝鮮人の文献信じるって情弱ってのが世界の常識って時代なんだが…
機内には倭の大乱の時代の遺跡が出てこない。
北九州の弥生時代の遺跡には大乱の跡とその跡平和になった跡がある。
このことから邪馬台国で卑弥呼が推挙される前の倭の大乱は北九州であろうとされている。
>87
何をもって倭国大乱の時代としているのでしょうか?
池上・曽根遺跡、唐古・鍵遺跡は、畿内の環濠集落ですが、環濠集落はそもそも防御目的の戦乱の時代の集落形態です。また、戦時の避難所の性格を持つと考えられている高地性集落は、近畿から中国、四国、九州まで広く分布しています。
倭国大乱は、北部九州に限定する必要はないと思うのですがいかがでしょう?
※81
東遷は巨視的にあった方が説明できる事象が多すぎるので、
神武がいたかどうかは全く無視しても、何か東遷めいた出来事を想定したくなるだけ。
東遷がないと、あんな古臭い祭祀催行盆地に六合の中心は持っていかないし、中国文明のダイレクトな影響は届かない。
神功皇后は作り物感が濃厚ですが、何らかの史実を材料にかなりの加工を経て、あの物語になっていると想像したい。
何かを伝承したくて、口伝があり、口伝そのままでは差し障りがあって改造する。昔から日本は豪族が強い。弥生時代に根を張った「村」社会を無碍にできない。中央集権国家は7世紀でも未熟。
ときには落首のように、一書に曰くの方が本当で、
一書にも成り上がれずに、様々な地域に現在でも残る何か、儀式やら、地名やら、遺物やら、祭りやらに逃げ延びたものに、日本の歴史の分厚い過去の証言が埋もれていると信じたい。
そこには弥生どころか縄文ですら物言わず遺されている。
※86
日本人は近世まで裸足も多かったぞ
>>86
生野菜が食べられるということは農業が盛んだったということと温暖な気候だったということ
>>86
>支那人や朝鮮人の文献信じるって情弱ってのが世界の常識って時代なんだが…
当時東アジアで文字を使い記録していたのは中国だけだぞ、情弱
どうやって文字がない日本が歴史を記すんだよ、朝鮮人じゃないんだから分かるだろうに
お前は漢字を捨ててハングルだけにした隣の国がどうなったか知ってるだろ
かきこめない
琉球
>一年中生野菜食べてて裸足
おそらく撰者が元記事の距離と方角をそのまま読んで倭国の位置を誤認し
琉球と同一と考え、琉球の情報を書いたのだろう
書き込めた
「ふーぞく」はNGワードかな?
88
矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が北九州から出土してる
いずれは纏向遺跡からも出土するといいなぁ…
吉備平定と出雲との戦争、奴国は遺跡があるから確定できるけどそのほかはまだ決定打にかけるよね
早く奈良全域の発掘ができるといいな
町おこしするより、20年ぐらい掛けて一気に掘り起こしたほうがいいと思うんだよね
畿内説だと邪馬台国の先や敵対してた狗奴国の場所がおかしくならない?
未だ九州説、畿内説が居る事に驚き。 もっと勉強しなはれ、情弱過ぎるわw
古墳しか見てないんじゃないのか?w
倭の五王がそれぞれ・讃 → 履中天皇・珍 → 反正天皇・済 → 允恭天皇・興 → 安康天皇・武 → 雄略天皇なら「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」って記述はどうするんだろう
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史
とあり
日本書紀によるとその祖の名は五十跡手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされることから
北九州説が正しい
三国志と日本書紀が同じ場所を示している以上間違いないだろう。
ただし、日本書紀が魏志を参考にして書いただけなら一緒になるのは当然だけど。
※99
お前の妄想より古墳みろよw
それとも今ある古墳はお前が埋めたのか?w
>>99
魏志倭人伝が正しかったら君の好きな朝鮮半島南部が倭人のものになってしまうものな
それは困るよねw
>>99
お前の祖国ではどう教えてるんだ?
>97
戦死者の遺体限定でという話ですね。
集落遺跡に比べて、遺骸は残りにくいですから、もう少し広く考えた方がよいように思います。
北部九州は甕棺墓のおかげで遺体が他の地域よりも多く発掘されているから、そう見えやすいということもあるのかもしれません。纒向では、一般人の墓所は見つかっていないので、戦死者の遺体は出ないように思います。
8世紀に書かれたガラパゴス物語(記紀)と、3世紀に書かれた外国人による客観的なレポート(魏志倭人伝)
どっちを信じるかはあなた次第
>98
古墳時代初期の墳形が、前方後円墳の地域と前方後方墳の地域があり、これが伝承の上での天津神(天孫系)と国津神(土着系)に対応しているのではと、個人的には考えています。
そういう見方をすると、濃尾平野の辺りは前方後方墳の地域であり、前方後円墳地域の畿内との争いというのを想定してもよいのではないかと思います。
※98
畿内ならば倭人伝の方角は90°ずれてるから狗奴国は南ではなく東にあった
日が昇る方角に進んで南と記すかね?
>>105
棺あって槨なしと記述があるから、もし畿内の遺跡が邪馬台国なら北九州と同じような埋葬の仕方なのでは?
何世代にもわたって人が住んでた遺跡の墓の記述が一致しないのはどうなんだろう。
必ずすべて正直に記してあると信じる理由があるかね?
111は109宛て
わざわざそこだけ東を南って書くかなぁ…。
他は合ってるのに
全て反時計回りに90度ずれてるで。
「しまった東を南と書き間違えた!この一文字のために一枚丸々書き直さないといけない…
…もう南ってことでいいや」
太陽で簡単に方角わかるのに間違えようがないじゃないか、近畿はないよ。
所要日数は、当時の移動速度を速く考えすぎなければ九州内で不自然はない。
日が出てから準備して出発して、日没前に夜営準備を完了しなければいけないから
一日当たりの移動時間なんてたかが知れてるし。
水や食料調達しながら旅しないといけないのをみんな忘れてるんじゃないかな?
記紀由来の地名は全国各地に数多くあるが、魏志倭人伝なるものに関する地名は永遠のゼロ。
記紀>>>絶対に越えられない壁>>>魏志倭人伝
8世紀のフィクション小説>>>絶対に越えられない壁>>>3世紀の歴史書
中国の地方志に載る多くの場所を現代地図で確認した経験でいうと、
方角を間違えるわけがないということは全くない
たとえば北西を北といったりなんてのはよくあることだし
方角自体間違っているものも偶にある
距離に関しては当時どうやって測ったか知らないが
道なりより直線の距離のものが多い
二つ地点の距離を計測する技術があったのだろう
倭人伝の方角に関しては間違いではなく意図的な改変が疑われる
「太陽で方位なんて簡単に分かる」とか言う人は一回時計も地図も無しに知らない土地を旅してみればいいんだ
正確な時刻がないと方位は分からない
日出日没の2回だけチャンスはあるがフラクタルな景色の中ジグザグ移動すればすぐに当てがなくなる
羅針盤が三大四大発明に数えられるワケを考えてみればいい
一応3世紀中国には指南魚なる羅針盤の原型があったそうだが精度が低く普及しておらず使節が持っていたとは考えられない
日本列島は実際に南北逆転してたんだろ
測距を目的とした人員なら風待ちで動かなかった日はカウントしないぐらいの事はするだろ、さすがに
3日しか動いてない九州のすぐそこなのに「掛かったのは20日だから20日です」って報告するか?
古代人の知能バカにしすぎ
方角がいい加減なのは技術的限界なのでそういったマヌケ話とは違う
何の知識もない俺の素朴な疑問なんだけど、古墳とかからお偉いさんの骨見つけてDNAとかでこの後の著名人との関連性見つけたりは出来ないの?
昔は陸地だったけど、沈んじゃった、説は無いのかね?
>>117
そうだな、魏志倭人伝が本当なら狗邪韓国と対馬国が倭人の国になっちゃうもんな
君たちにとって都合悪いもんね
帯方郡から奴国(儺県:なのあがた)まではほぼ異論はなくて問題がなく、その後が問題になるわけです。そして、奴国までとそれ以降で、書き方が変わっていることもほぼ合意されていると思います。
ならば奴国到着後の旅程記事は、あまり信頼できないとして、その字義解釈にこだわるのではなく、別のアプローチを考えた方が建設的だと思うのですが。
距離が日程になってるところは倭人からの伝聞との見方が有力。
なぜなら倭人は距離を測るのに日数を用いると記されてるから。
※127
どこになんて?
だ か ら【邪馬台国論争そのものがプロパガンダ】
記紀由来の地名は全国各地に数多くあるが、魏志倭人伝なるものに由来する地名は永遠のゼロ
記紀>>>絶対に越えられない壁>>>魏志倭人伝
※126
ほぼ確定してるのは対馬国、一大国(壱岐)までだろう
その先は平戸か松浦か唐津か糸島かわりと諸説ある(平戸松浦は一大国説もある)
末蘆国を唐津にすれば伊都国は吉野ヶ里に
糸島にすれば大宰府になる
倭人伝の地名が文字の無かった倭人語の地名を外国人である中国人が耳で聞いて漢字を宛てて記したものという基本的なことがわかってないひとがいる
日本の ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国
というのがツベにアップされているから、魏志倭人伝の記述に固執している人は
見てみるといい。興味深い意見が解説されている。
また、Eテレ 先人たちの底力 知恵泉邪馬台国はどこにある?古代ミステリー楽しもう
もアップされている。(こっちは、まだ俺は見ていないけど)
いずれにしても、考古学は最近の10年でガラっと見方が変わっているから、
古い情報(自分とって都合の良い)のままじゃなく、最新バージョンの情報も
得てから、考えを組み直したいいんじゃないか?
>>129
そもそも魏志倭人伝に記されてるのは倭人の読み方に漢字を当てたんだから読み方が先では?
あなたの頭の中は倭人が付けた地名の前に魏志倭人伝があるの?
訂正 考えを組み直した方がいいんじゃないか?
生野菜に関してだが、江戸時代は平均気温が低いとされていた時代ではあるが、
多くのものが生で食べられている事が、料理物語に記されている。
この本の料理は、料理名などから近畿~東海~関東地方の料理が書かれていると
推測できるようだ。
隋書より
夷人不知里數但計以日
と書いてあるから
魏志の時代も同じと考えられる
魏志倭人伝の時代の話で中国人はいませんね。中華人民共和国なる国は建国70年足らず。
増して中華思想という21世紀の時代に野蛮な考えを持ち続けている。邪馬台国論争が
プロパガンダである所以です。
陸を1ヶ月進んでその間に他に国がないのはどうしてなんだろう。
それまで結構な密度で国があるのに。
※136
今に連なる中原の民はいたろ…
※89
>東遷は巨視的にあった方が説明できる事象が多すぎる
↑わかる
>紀元前660年は無視
↑は?
>神功皇后は作り物感が濃厚ですが、何らかの史実を材料にかなりの加工を経て、あの物語になっていると想像したい。
うん。14代仲哀天皇妃である神功皇后がヒミコorトヨ。つまり初代神武の東遷はもっと前の時代のお話。でFA。
>中国文明のダイレクトな影響は届かない。
畿内からは鏡や鉄器も出てるのでこの時代の前にはもう影響が届いていた。
>>136
高校生だとまだ習わないかもしれないけど殷だって昔は伝説上の王朝とされてたんだよ。
殷墟が発掘されて始めて認定されたんだから。
邪馬台国が強大だったのは鉄器のおかげ
つまり鉄が一番手に入る場所が邪馬台国
それを考えると吉野ヶ里遺跡をはじめ北九州が鉄器の一大集積地だったのが分かる
畿内は吉備のせいであまり鉄器が入っていない。だからこそ大和朝廷の吉備征服がある(鬼ヶ島のモデル?)
しかし、投馬国が吉備ならそこを属国として支配していた可能性は残る
弥生時代は北九州、吉備、出雲、畿内、南九州で覇権争いをしていたようだ
畿内説なら畿内勢力が全てを統一した王朝(邪馬台国=大和朝廷、狗奴国は伊勢か濃尾平野か関東?)
九州説ならそれぞれの勢力は別物。(狗奴国は南九州、後の熊襲?)
※135
魏志倭人伝には女王国より向こうの国についての記述があり
女王国から何里か書かれてる
夷人が里を知らず魏人が邪馬台国に直接行ってもいないとすれば
それらについてどうやって測ったというのかな?
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種,又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里,又有裸國,黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。
※135
魏の関係者が行ったんじゃない?
帯方郡から邪馬台国までの距離も里でしょ?
※137
近畿だとすれば鳥取市で上陸して京都に出るまでの長い距離深い山の中を通るから
献上品や下賜品、使節が何度も通ってると考えると街道みたいなのは整備されていてもおかしくないと思うなぁ
いくら案内人がいても道がないと迷うと思う
道があれば東と南を間違ってもたどり着けると思う
知恵泉のやつは、音声だけだった。
※145
侵略されるのを警戒して敢えて険しく難しい道を案内したと思われる
普段は玄関口の伊都国で応対した 使節を都に案内する事は滅多になかったはず
>130
奴国が儺県(なのあがた)であることは、ほぼ鉄板でよいように思います。
なので、そこまでの行程は、奴国に行く経路上で考えればよいので、それほど異同はないと思っています。もちろんいろんなことを言う人はいますけれども、最も妥当な線として前回記事の旅程でよいと思っています。
>>147
わざわざ金印渡すのに侵略するだろうか?
俺は倭への使節団が遠くに行ったという実績作りのために倭人が使う日数を伝聞形式で書いた説をとる
甘英みたいに素直に羅馬に行きませんでしたって言えばよかったのにと思ってる
纏向に後の大和政権に連なる勢力があって、邪馬台国は北九州の地方政権という見方もありますが、下賜された金印は「親魏倭王」とされていて、「漢委奴国王」の「奴」国王のような注釈なしの「倭王」です。
これは魏が「倭国全体の王」であることを認定していることを示しているそうで、だとすると邪馬台国は北九州の地方政権程度で、大和にもっと大きな政権があったとする見方はできなくなります。
狗奴国や倭人伝にでてこない出雲など邪馬台国以外の巨大勢力はあったし、弥生文化の入ってこなかった諏訪湖周辺や東北など中国に朝貢してない国もあったから倭=日本列島全域=邪馬台国ではないのでは?
のちに倭は日本に滅ぼされたって書かれてるから倭=邪馬台国の勢力圏とみていいと思う。
※151
>のちに倭は日本に滅ぼされたって書かれてるから
どの史書に、どういう風に書かれている? 出典は?
結局は纏向遺跡と箸中山古墳の年代観なんですよ。
これらが魏志倭人伝の時代であることを認めれば、ここ以外に倭国の中心を求めることは無理があります。
152だが、
新唐書の「日本は小国で、倭に併合された故に、その號(ごう、よびな)を冒す」の事だろ。
新唐書は1060年に成立したもの。「日本は、古の倭奴なり」という記述もある。
636年成立の隋書には、そういう事は書かれていない。
あるのは「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが) なきや、云云」
945年成立の旧唐書にも書かれていない。
>152
横レスですが
舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
新唐書の原文も書いておく。
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。
明年、使者與蝦蛦 人偕朝。蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十歩、射無不中。天智死、子天武立。死、子總持立。
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。
使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
卑弥呼の墓は円墳のはずなのになんで前方後円墳になってるんだ?
※155
ちょっと勘違いしていた。旧唐書にも確かにあった。で、そこの和訳はこうなるはず、
日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
つまり「或いは」であって、一部の都合の良い部分だけを取り出して、自説を押し通そうとするのは事実をゆがめる手口だよ。
※157
九州には卑弥呼の古墳があるの?
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」て書かれてあるけど、円墳限らないだろ。
ぜんぽう‐こうえん‐ふん【前方後円墳】広辞苑第六版より引用
日本の古墳の一形式。平面が円形と長方形ないし台形とを連結した形の墳丘で、江戸後期の蒲生がもう君平「山陵志」に始まる名称。中心的な埋葬施設は後円部に営まれるが、前方部に埋葬が行われる例も少なくない。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山こんだごびょうやま古墳(応神天皇陵)など日本列島の巨大な古墳はほとんどこの形をとる。朝鮮半島南部にもある。俗称、車塚・ひさご塚・銚子塚・茶臼山など。
円墳に埋葬し、のちに儀式の為に台形の部分をつくった可能性もある。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
この国々が見つかれば解決だよな
卑弥呼のお墓についてはこれかな?
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
大きさは直径でいいのかな?前方部分は?
もし箸墓古墳なら周りから殉葬者の人骨が出るのでは?
そもそも年代あってたっけ?
>>161
確かに卑弥呼かその次ぐらいの王(女王)の墓で最初は円墳で東征した天皇家が前方後円墳に改造してその後に日本書紀を書いたとすれば納得できる
※144
瀬戸内じゃなくて日本海側を通った可能性は高いかも
それなら間に国は出雲以外ないし奈良の北側全てを九州の伊都国の代官が治めてても不思議はない
投馬国が出雲ならつじつまも合う
日本海側と畿内なら正確な距離は分からなくても不思議はないな
鏡ばかり注目されるけど刀はどこいったんだろうな
>160
平原遺跡の平原一号墳っていうのが、伊都国の王墓級弥生墳丘墓で、最大級の銅鏡等副葬品も大量に出ています。また副葬品の種類から被葬者は女性であり、女王だったと推定されています。
イメージ的には卑弥呼の墓を思わせるものがありますが、伊都国で、時代が合わず、方形周溝墓で14×12メートルと、径百歩には合いません。
>>160
卑弥呼の墓と断定されたものはまだないよ
弥生墳丘墓というのがあるよ
鏡なんかの副葬品が出てるよ
>164
纒向には、箸墓より古い黒塚古墳とかあって、その時点で前方後円形をしているので、後から前方部を足したとするのは無理があると思います。
>>169
そうすると卑弥呼の墓じゃないのか、残念
年代も違うもんね
魏略が見つかればもっと詳しく分かるのに
>170
年代的には卑弥呼の死後数十年くらいと推定されているので、死後に作り始めたとすれば、時期的にはむしろちょうどいいくらいだと思います。
※141
今年、淡路島で国内最大級の鉄器工房が見つかったよ。
扇谷遺跡などのある丹後や但馬は砂鉄がよく取れるらしい。
>173
イザナギ、イザナミの国産み神話ももともとは淡路島の神話じゃないかって言われてるよね。だから最初に生まれるのが淡路島なんだとか。
※162
次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(伊吹) 次有伊邪國(伊予) 次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃) 次有好古都國(?) 次有不呼國(?) 次有姐奴國(讃岐) 次有對蘇國(土佐) 次有蘇奴國(信濃) 次有呼邑國(?) 次有華奴蘇奴國(?) 次有鬼國(甲斐) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(?) 次有邪馬國(山城) 次有躬臣國(高志、越) 次有巴利國(尾張) 次有支惟國(紀伊) 次有烏奴國(魚沼) 次有奴國(?)
※149
>わざわざ金印渡すのに侵略するだろうか?
魏がどういうつもりでいるかなんて倭にわかるわけない
大国を相手に用心するのは当たり前
国内を纏める権威が欲しくて魏に従ってるのに
間違った場所なんて教えるはずないと思う
そんなこと国内他勢力にチクられたらどうする。あえてそいつらに切れるカードを渡すようなもんだ
偽装ルートは多少なら
まあそんな小細工リスクは割に合わんと思うが
>>176
周りとの停戦の調停頼んでるのにたどり着けなくしてどうするよ
※175
蘇の文字が着いてる国は阿蘇山の周り
※178
トレッキングコース並みの道じゃたどり着けない
街道のような大きな道じゃないと国の人間も迷うから通るわけない
これがそちらの主張だっけ?
用心深くない国は滅ぶんだよな
古蜀なんて秦から金の糞をする牛を贈るからといわれて迎えるための道を造り
その道によって侵攻を受け滅ぼされた
アユタヤ王朝も象の道でパガン朝に滅ぼされたんだっけ?
>>180
アッピア街道や江戸時代の五街道も今から見るとしょぼいけど当時の人から見たら今の高速道路に見えたんだろうなぁ。
更新を待ち望んでたけど、なんかサラっとしてて当たり障り無い感じだ…
このネタで偏ったコト書くと集中砲火だろうし、客観的検証なんだろうけどね。
>184
ただ、プロの世界ではほぼ決着がついたような状況ですし、ここまでのコメントを見てもそうそう集中砲火にもならないように思いますけど。
年輪年代法は科学的アプローチとしてはとても素晴らしいのであるが、100年遡上問題は解消されたのだろうか?
畿内に3世紀前半の前方後円墳の確証が出たら、女王国は邪馬台国で、畿内が俄然有力になる。
>156に引用されている新唐書の時代でも
天智死 子天武立 死 子總持立
となっていて、天武は天智の子ではないし、總持というのが持統天皇であることを考えると、かなりいい加減であることが分かります。
魏志倭人伝も、これより正確と考える理由はないと思いますよ。
>>187
宋代に盛んとなった中華思想を背景に、復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれているから次の天皇は兄弟ではなく子供にしたんだろうな
兄弟や夫婦で位を継ぐことは儒教では認められないだろう
>>186
前方後円墳ははたして邪馬台国の墓の形式なのか?
そこに葬られてる人物は女性か?
壹與の墓も一緒に見つかるか?
年代だけだと確証は得られないんだよなぁ…。
※185
決着はまだついてない
金印が出るまで続く
※190
金印は移動が簡単だから、埋葬品として古墳や遺跡から出たら別だが、盗掘されて全く違う所から出る可能性もある。
>190
決着がついたと「言わない」のが、大人の判断なのだと思っています。
絶対に確定、というのはほぼ悪魔の証明に近いものがある(他の可能性がないことを示すのは無理)ので、その意味では決着はついていません。
>>192
魏からの下賜品と女性の骨が一緒に出てくる弥生時代の墓が発掘されれば確定だろう
>189
前方後円墳は、古墳時代の倭国の墓の統一形式です。宗派(?)によって初期には、前方後円墳か前方後方墳かという違いはありますが、箸中山が作られて古墳時代に入ってからは、ほぼ倭国の範囲全域で首長墓はこの形式になります。
箸中山の築造年代が卑弥呼の時代と言えるかどうかで、決着がつく状況です。
九州説は地名だけを根拠にしているように思える
似たような地名があるからエルサレムはアラビア半島みたいな
>193
それで行くと平原遺跡1号墳などはかなり条件に合いますが、何をもって魏の下賜品をするかとか、それで確定というのはなかなか難しいと思います。
古い時代のものが残っているかどうかというのはもともと確率が低いものですから、今後そうした確定的な発掘があることはあまり期待していません。
確定的とは言えないまでも、状況証拠と積み上げていくことしかできないのだと思っています。そしてその方向だと、確定は「しない」のだと思います。
>>196
魏で作られた刀が出てくればいいんじゃない?
今の技術なら鉄器の不純物から製作地が分かるんでしょ?
>194
卑弥呼の時代である弥生時代も前方後円墳なのか
いつ円墳に前方がついたのか
それすら分かってないのに倭人=前方後円墳は乱暴じゃね?
>198
言葉足らずですみません。
「古墳時代の倭国」の首長墓は前方後円墳、という意味です。
古墳時代の始まりは箸中山古墳の築造から、というのは認めていただいてよいと思います。
そして、私は箸中山古墳の築造が卑弥呼の死後、それほど時間が経たない頃だと考えています。
>197
鉄器は銅器と比べて、錆びやすく朽ちてしまうので残りにくいので、望み薄です。
また金属器は、融かして作りかえることもできますし、大本の産地が分かっても、最終的に鋳込まれたのが国内かどうかって、意外に決めにくいんですよ。まあ貴重な下賜品であれば、融かして再利用と言うことは少ないでしょうが、今度は稀少な威信材であるが故に伝世品になったりするので、いつ貰った物かが分からなくなったりします。
発掘で決着がつくというのは難しいと思っています。
一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い
卑弥呼は175年 – 247年あるいは248年頃と考えられてる
壹與が死んだ後の空白の4世紀(西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないためそう呼ばれる)
卑弥呼の墓からいきなり前方後円墳になっちゃうし、その後南九州から東北まで前方後円墳が広がることと天皇陵が前方後円墳、さらに朝鮮半島南部もその流れで前方後円墳ができるから邪馬台国=大和朝廷なのかねぇ…
>200
北部九州と出雲、吉備では大量に出土するのに近畿だけ出ないんだよ
しかも畿内以外は鉄器の出土に合わせて石器と青銅器が減るのに畿内は相変わらず石器がでる。
しかも石器を研ぐ砥石がでる
他の地方はリサイクルする必要もないくらい鉄器があった
リサイクルしてたなら炉の跡が出るのでは?
初期の畿内勢力は鉄を持てず、淡路島、吉備、出雲、北部九州、朝鮮半島南部と鉄器生産地を征服していったのではないだろうか?
九州勢力と近畿勢力が別で九州勢力が敵対する近畿勢力に勝つために魏に朝貢していたとすればおかしくないと思う
呉を挟み撃ちしたい思惑の魏が、列島の勢力をろくろく調べもせず、近場ってだけの弱小九州を倭の代表として遇するなんてことはまず有り得ないだろう。
邪馬台国は倭の統一的勢力だったのは記述からも明らか。
やはりタイミング的に大和王権の成立と朝貢開始が一致しているのでは。
大和政権が続いてたなら倭の五王の説明がつかないぞ
飛鳥時代の開始で前方後円墳が作られなくなり、天皇家の大和朝廷が始まったと考えると前方後円墳王朝を大王王朝が滅ぼして日本書紀を作ったのかな
きっと王と7人の幹部を酒宴の席で謀殺したんだな
天照大神の子孫を名乗るのも卑弥呼の子孫ですよアピール?
東征で奈良県で負けた相手が邪馬台国だな
>206
初期の仏教寺院の塔の礎石の下に、宝物が埋納されているのですが直前の古墳の副葬品と同じ物が納められています。王権の権力の誇示が古墳の築造から寺院の築造に変わっただけで、同じ文化風習が続いており、異なる勢力の侵入や征服は考えにくいところです。
>205
倭の五王が応神の系統の誰かで、最後の武は雄略というのはほぼ多数説だと思うのですが、それで説明がつかないことってなんですか?
>211
日本側の記録では朝貢していなかったはず
※209
東征は邪馬台国より大昔だから関係ない
日本側の当時の記録はぜんぶ焚書されて「生まれたときから独立国でした」と改竄された記紀しか残っとらん
>212
在野の方の論考ですが、日本書紀の淡路巡狩記事が倭の五王の遣使の帰還に対応していると考えているものがあり、日本書紀には遣使が明示的には書いてなくても、倭の五王が仁徳から雄略のいずれかとすることにそれほど問題があるようには思いません。
諸説があるので適当に考えてますが・・・
たとえば、福岡の西区の山門もあるし佐賀の吉野ヶ里の西に大和町がある
ここは中心部に尼寺の地名があるように奈良期においては当時としては大きな町であったことが想像される
もちろん吉野ヶ里の遺跡が出てくるぐらいだからそれ以前も大きな町があったかもしれない
ところで、米沢藩の有名なお殿様である上杉鷹山が養子であって元々は宮崎高鍋藩の秋月の生まれであったのですが、この秋月家は元々渡来系の大蔵氏の流れです 間違いなく渡来系であっても地域の支配層にそのような人たちがいたでしょう 福岡筑紫野市の秋月に勢力があったから地名から秋月と名乗ったのですが、その後秀吉によって高鍋に領地を変えた訳です
でも鷹山のおばあちゃんとお母さんが米沢藩からと秋月・黒田藩からお嫁に来たから養子縁組となったわけですが、このことからも遠隔地にあっても血縁ないしその他の理由での!?な関係が出来るのはこの卑弥呼の時代でもあると思います(想像なので適当に) その間に敵対関係の勢力があったとしても
それじゃ、大和朝廷と山門・大和・山都などの地名があるのは縁戚などの関係があったとも言えるかもしれませんか
もし、日向までいくのに南進すると考えれば、糸島なり唐津からは敵などがあり日向や奈良大和まで行きづらいから、使者に対して「こうして行くとたどり着ける」といったガイドがありそれを記載したとすれば腑に落ちる(気がする?)かも?
地名って馬鹿に出来ないですからね
奈良に鉄器が出にくい(出てない)理由はいくつも考えられますが、しかし鉄器が無いと鉄器を持っている地域を占領支配は出来ませんからどのような理由からか出土しないという方が良いかも
※199
年輪年代法でも無理だとは思うが、どれとはいわず前方後円墳が卑弥呼の死より「前」に出現してた証拠が欲しい。そうなれば畿内=女王国(=邪馬台国)説は確定はしないまでも圧倒的。
※169
>箸墓より古い黒塚古墳
まさか・・・
>218
纒向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、矢塚古墳、がひとところに集められていて、これらは箸中山古墳より古い弥生墳丘墓だと考えられています。もう一つホケノ山古墳というのがあって、これが最古の前方後円型墳墓とされています。
黒塚古墳は三角縁神獣鏡がたくさん出た「古墳」ですから、箸墓より古いってことはないですね。
三角縁神獣鏡について、舶載だ、彷製だ、同笵だ、同型を議論し、枚数ガー、デザインガー、大きさガー、華北で出ない、成分が中国と同じ、違う、成分分析は意味なしは論じるけれど、肝心のことを論じることができていない。
なぜ4世紀に、三角縁神獣鏡が好まれて国産され、副葬品になったのか?
「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」「景初三年」銘など、偽造にしては懲りすぎた制作動機は何か?
現時点では奈良、京都、福岡、兵庫、大阪、岡山の順に出土が多いが、すべてを三次元計測して類縁関係を(同笵、同型)構成するようなライブラリープロジェクトは、ネット環境と3Dプリンターがあれば今や大して予算を要するものでもなく、その気になればできるはず。
魏書は西晋の人が書いたんだろ?
司馬懿の王朝が曹操の国について本当のこと書く訳ないじゃん。
※219
ホケノ山・・・円形周溝墓や柄鏡型からの形状発展を想定すると、ホタテガイ型、一見年代が古そうに思えるものの、石室やら横穴やら、出土物からしても6世紀までいじくり倒した感もある。円形周溝墓の瀬田古墳の年代も怪しむ身としては前方後円墳の先駆形態には思えない。どうして名づけたか、「纏向型」は全国区だし、北九州では中部、伊勢地域に多い方形周溝墓は古墳時代以降に増えている。
魏を警戒して本当の場所を示さなかったなら、7万戸も誇張かな?
見栄を張ったのかも
まんがで読んだ「九州から畿内に移った」説を信じてる
畿内説でほぼ決定してる
畿内だとしたら日本書紀と合わない
ここまでコメントが伸びても、一番正しそうな論考は ※15 かよ。
後は無駄とは言わんが疲れたよ
>女王国が近畿なら北海道が倭人の地になってしまうぞ!
佐渡
>228
佐渡は女王国の東かね?
まだそんな事いってんのか
邪馬台国が近畿なら東は北だ
>>227
自郡至女王國 萬二千餘里
って結論書いてあるからしょうがない
※230
邪馬台国が畿内なら風習が違うんだよなぁ…
距離や方角が間違ってるのは用心深いから騙したとしよう
文化や風習まで偽るか?
>230
東が北なら
計其道里 當在會稽東治之東
はどうするんだよ
会稽郡の北になっちゃうぞ!
邪馬台国は山東省か?
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
昔から日本人は日本人だったんだね
本当にスレ読んだのかな?
魏人は都まで行った
方角をずらして書いたのは魏人だ
風習が違うのは撰者の誤認による琉球との混同で
琉球の情報を倭人の情報として伝えた
或いは交流のあった九州の情報を倭全域のものであるかのように伝えた
※233
会稽の東といってるのは後の撰者
この撰者が元記字の距離解釈を誤り方角のズラしにも気付かず
真に受けて会稽の東と推測したのだろう
それで琉球と混同した
現地を知らない人間が方角のズラしに気付くことはあり得ないから誤認するのは当然だけどね
元記事ね
伊勢湾の向こう側を別の島だと見てただけだろ
異邦人が島と半島を混同するのは19世紀になってもたびたび起こってる
木曽三川のつけ根はグチュグチュで陸行できないしな
※239
>>175
※240
それぞれ「この国はどこまで続いているのか?」の答えと「あの海の先はどうなっているのだ?」の回答を別々に載せたと見れば矛盾はないんじゃないか
伊勢湾の先は尾張 伊勢湾は女王国圏内だ
そもそも邪馬台国が近畿なら方角のずれは確定事項だ
ソースが同一と思われる倭に限っては
女王国圏内といいながら国名列挙してるし、「国」の用法が二つ以上混在してるだろ
通訳も極めて曖昧だったろうからそこらへんはソフトに解釈しないと
と考え、
曖昧に読み、ゆるい解釈をして、伊勢湾の向こう側だとかいい加減なことを言ってしまった
ってことだね
そんなレスをぽいと投じるのは、まじめにやってる人達に失礼じゃないか?
原文読むと位置に関する畿内説のこじつけ感半端ない
日本における三国志研究の第一人者は「原文を読む限り九州だけはありえない」って言ってたけどな
ソースはNHK
考古学的にも畿内が圧倒的優性ならこれもう決まりじゃんって空気になるのも分かる
いまだ反対してるのは神話()を重視して歴史クリエイトしてる在野の面白い人たち
別に邪馬台国が九州でも畿内でも琉球、ジャワ島でも構わないのだが自説に合うように方角を読み変えたり素直に読めば無理のある地域に持ってくるため原文にケチ付けたりはおかしいのであって埋まってるものがでたから決まりだ、これで完全に決まったとか某皇国代理店臀痛みたいなプロパカンダは止しましょう。※にもあったけど倭の五王時代でも九州視点←武?の上奏文に北渡海して平定とか云々、なのにほんとドウスルノ?って感じ。畿内説の方々は倭人伝とか切り離して邪馬台国は畿内だ、って主張してもらいたい。
だって結論ありきなんでしょ?歴史←一応記録されたもの、外国側が倭人伝、日本側が紀記、他神話等とすればどう整合性を付けるのか拝見させていただきますわ。
※245
あ?
じゃあまじめにやって侏儒国・裸国・黒歯国はどこになるんだ?
国の位置の話をした後に習俗の段落いれて、そのあと突然東方の話ってこれ情報の種類、毛色が明らかに変わってると察するのが自然じゃないか。
この段は「ところであの海の方どうなってるの?」って聞いた小話を挟んでるようにしか見えん。海中の島々は伊豆小笠原のことだろ。明らかに重要度低い規模の島だが、聞いた小話をとりあえずぶっこんだと見ればおかしくは無い。
>248
その論立てだと武の上表文の
東征毛人五十五國「西服衆夷六十六國」渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿
の西66カ国ってどこって話になりませんか?
九州より西にはそんなにたくさんの国がありそうな土地、ないですよね。
倭の五王を九州王朝とするのは、大和朝廷とするより無理が大きいと思います。
>249
突然とは思わないな
女王国に従っていない狗奴国の話の後だから、女王国以外の倭種の話をしたのでは?
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
と女王国の北(畿内説だと西)は分かるけど女王国の先は情報無いから詳しく分からないって書いてある。
もしかしたら狗奴国の支配地域かもしれないね
>>250
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
とあるから朝鮮半島の国々だろうな。
>252
それは
渡平海北九十五國の方でしょう。
畿内説の否定に朝鮮半島は畿内の北ではないと言いながら、九州の西66カ国ってどこと訊かれて、半島のことだろうというのはおかしな話ですよね。
古墳時代に倭国の代表として大陸と交渉した九州王朝を想定するのは無理があると思います。
よくまとめられていて面白かったです
魏の使者「邪馬台国見にきたで!」
倭 人「遠くて無理やでw」
魏の使者「え?」
倭 人「倭国は広くて国もようけあるからな」
魏の使者「でも任務やし行きたいな」
倭 人「まず、この先の投馬国まで「水行20日」な。
で、そこから邪馬台国まで水行10日陸行1月やで」(適当)
魏の使者「うわ、なら情報だけでええわ」
倭 人(お前らに軍事情報教えるアホはおらんで。まして小さいことばれたらアホみたいやしw)
こんなやり取りを想像してしまいました
>>254
張政「よし、本国から出張費ごまかせたぜ!」
>>255
「出張費マシマシでw」
「倭国大きいし邪馬台国は遠くて無理」(方向も嘘教えたったわw
握手(www
↓
魏志倭人伝
卑弥呼「南の狗奴国との調停お願いします。」
魏「おかのした」
倭人「邪馬台国の場所は投馬国から海を10日陸を1ヶ月(里数とか知らないし)」
魏「東を南と書いて報告します(倭人に騙されました)」
今なら
「金印を授かった奴国(北九州)、石器と青銅器の邪馬台国(畿内)に敗れる」
と大ニュースだろうな
根拠は無いが
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支
これが 生駒彦(イコマヒコ孝元) 坐彦(イマスヒコ開化) 水間城彦(ミマキヒコ崇神)ならば決定かと なお生駒彦の父君 考霊天皇は 和珥埴彦(ワニハニヒコ)と尊称奉りたい
※249
倭国の主要の話の後に倭の邦域の話をして、中国との歴史の話に繋いでる
情報の色が変わったのはその通りだが、女王国の海の向こうの国が女王国でないことぐらい方角に関わらず分かるだろう?
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種,又有侏儒國在其南,人長三四尺
ごめん、これ佐渡じゃないな たぶん隠岐諸島だわ
裸国は伊豆諸島、黒歯国は小笠原諸島だろうな きっと
裸国・黒歯国に関しては方角は歪められていない
しかも周旋五千余里は短里ではない
ここに倭国の方角を歪めた魏の意図が見える
※259
年代違わない?
官位名(役職)じゃないの?
※260
魏の意図は見えないが貴方の妄想は見えます
結局近畿説にしたい人が自説に沿うように方角が不正確だってしたいだけなんだよな。
邪馬台国と言われる国は九州にあった、これは間違いないだろ。
和朝廷や天皇家、または漢委奴国王の金印と関連付けようとするから問題が出るわけで
九州も統一してない程度の連合国家だったとしたら何の問題も無いじゃないか。
仮に同時代により強力な国が近畿にあったところで別に構わないと思うがね。
>263
150にも書いたのですが、親魏倭王の金印である時点で、倭国の最高権威と魏が認定しているので、より強力な近畿の国が、というのは考えにくいんですよ。
結局記紀の矛盾は悪意、魏志倭人伝の矛盾は善意で解釈って、どこまでもダブスタってことのなるが。
※264
奴国の金印も昔その議論があった。
今はその地域の最大勢力でなくても金印を授けたことが分かった。
古代史って発掘によりどんどん変わるから面白いよね。
距離について
魏志東夷伝倭人条では距離が100里の整数倍のみ記述されていると思う。
例えば陸路の場合1日あたりの移動距離を100里として扱う(地図上の距離とは無関係)
出発してから5日目に目的地に着いた場合は500里と記すといった具合
海上は距離を計測する方法が無いため、出発してから目的地に到着するまでの日数×魏での1日当りの船旅距離(=1000里:帆走 歴史読本1998年9月号篠原俊次 『魏志』倭人伝の海上里程と『道蔵』より)
魏志東夷伝倭人条では「いたる」に対し「至る」と「到る」が使い分けられている。
「至る」は移動の通過ポイントを示す。
「到る」は終点を示す。
よって伊都国から先に進めないため、末慮国までは連続読み、末慮国以降邪馬台国までは放射状読みが正しい。
また邪馬台国までは水行10日、陸行1ヶ月とあり、
出発地点から船で行く場合は10日、陸路で行く場合は1ヶ月かかると記述されている。
(距離ではなく日数になっているのは、実際に行ったのではなく人から聞いた話だからだと思う)
従って出発地点・邪馬台国とも比較的海に近い位置にある事と、陸路は大回りになる地形、船の場合はほぼ直線に近い航路となる。
末盧国、邪馬壹國とも海の近くにあり、海路はほぼ直線、陸路は大回りになる地理的条件が課せられる
張明澄氏によると末慮国は現在の佐世保市であり、邪馬台国は現在の阿久根市出水地方だそう
末盧国から邪馬壹國は南の方向にある事。佐世保-阿久根間がその条件を満たす位置関係にある。
対馬-壱岐間1,000余里、約65.5km
壱岐ー佐世保間1,000余里、約78.3km
合計 2,000余里 、約143.8km
佐世保ー阿久根間(海路)約144.2kmから2,000余里。
佐世保ー阿久根間(陸路)約251.7km
計算上到着まで
佐世保ー阿久根の陸路を1日7km(当時の道路事情を考慮した踏査による)進んだ場合、約36日
海路は倭人の手漕ぎの船(時速2~3キロ程度)1日5時間漕いで進んだ場合、9.6日、約10日
かかる。
また帯方郡から邪馬壹國まで1万2千余里、帯方郡から末盧国まで1万里ですので、
佐世保-阿久根間約144.2km:2,000余里は魏志倭人伝と一致。
みんな邪馬台国大好きだなw
私は歴史好き
邪馬台国は浪漫ですよね
畿内説で決定的になっててもうロマンもない
※246
九州説は距離がコジツケ
※226
日本書紀に神功皇后=卑弥呼って書いてる。北部九州はもう奈良の支配下。
※254
倭人「東の方に海でずーっと行ったとこにあるで」
魏の使者「サンキュー倭ニキ」
魏の皇帝「えー東か…呉への牽制に使えるように、南ってことにしといたろ」
>266
150にも書きましたが、地域のトップの場合は漢委「奴」国王のように、地域名が入るんですよ。
金印かどうかとは別の議論です。
女王国の卑弥呼は親魏倭王ですから、倭の中の地域のトップではなく倭国の王であるという認定です。
なので邪馬台国が九州の地方政権で、畿内により大きな国があるなら、倭王の称号は送られません。
九州派が唯一強いのは狗奴国=球磨で確定されてるってとこか。
畿内派の狗奴国候補地おしえてクレメンス
※275
愛知県一宮市の萩原遺跡群。
※275
静岡高尾山古墳
邪馬台国が正確な倭の情報を出さず、自分達が最強と伝えたのかな?
それとも奴国を征服したから倭王になったのかな?
隋書だと南を東と書いてるのか。
隋書は対馬の東に壱岐があると記されてるのね。
畿内説の方角間違えて記した説も信憑性あるかも。
当時の日本列島と大陸が描かれた地図見たいね。
隋書だと九州になるみたいだけど。
※265
日本書紀を素直に読むと邪馬台国は畿内にないから。
畿内説にとって不都合なんだよ。
※280
素直に読めば畿内だろ。
歴史学者も7割が畿内と言ってる。
まあ、9割畿内の考古学者よりはマシかもしれんがw
※280
日本書紀に神功皇后(本拠地奈良)=卑弥呼って書いてる。北部九州はもう奈良の支配下。
>>281
邪馬台国自体出てこなくない?
本当に自分達の祖先なら、なぞらえる必要もなくない?
東征してからずっと畿内にいるにも関わらず、畿内の邪馬台国は何処に?
※282
神功皇后の時代にはすでに卑弥呼女王は亡くなっております。
※283
邪馬台国=大和国でしょ
二行目何言ってるのかよくわからんが
※284
台与で充分説明可能だし、
そもそも後世の作だからちょっとだけずれるのは許容範囲
箸墓古墳から古墳時代の土器が出るのが悪い。
なんで卑弥呼の墓のはずなのに弥生式土器や大陸や半島経由の品が埋まってないんだよ〜。
※285
結局日本書紀だと卑弥呼は誰なの?
※287
神功皇后
九州説は根拠を出せないくせに、畿内説の根拠にイチャモンをつける卑怯者ばかり
大倭から大和でしょ?
大和=奈良=邪馬台国=邪馬壹國って意味じゃないんでしょ?
元々のやまとは山門か山東でしょ?
※288
神功皇后は台与な
※291
神功皇后=卑弥呼+台与
>287
表面的には神功皇后のところに魏志倭人伝の引用があって、神功皇后を卑弥呼だとしたいように書いてる。よく言われるのは、箸墓の被葬者だと記紀に書いてある倭迹迹日百襲姫命。ただ、女王扱いはなくただの皇女として書かれている。
その一方で彼女の母親が意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)と、大王級の名前で何かありそうな感じではある。
※280
後世の作文を盲信しちゃいけないと言うだけのことなんですが
考古学的的知見が九州説にとって都合が悪いから、目をそらそうとしてるだけ
>>285
畿内説に不利だからそういった主観でのずれの許容という怪しい話はやめてくれ。
そもそも邪馬台国と天皇家は連続性がない。
古墳時代に纒向遺跡をはじめとした巨大勢力が畿内にあり、天皇家が後に滅ぼし、日本を打ち立てた。
だから古墳時代が終わり飛鳥時代になったのだよ。
そして邪馬台国の痕跡を消すために、記紀を作ったから、記紀に邪馬台国が載ってちゃいけないんだよ。
※295
2行目以降の根拠ゼロの怪しい妄想に比べれば、全然許容範囲
※295
九州説なんかかすってもいないからw
九州説「神功皇后と卑弥呼はちょっと時期がズレてる!」
九州説「神武天皇が東遷した!時期?知らん?」
クズすぎワロタ
いわゆる魏志倭人伝以外にも結構倭の記述ってあるんだね。
※298
神功皇后は壱与
>274
>倭の中の地域のトップではなく倭国の王であるという認定です。
地域のトップであるかの真偽確認、判定は誰がどのように行うの?
邪馬台国は出雲
大雑把に福岡は奴国、佐賀は邪馬台国、熊本は狗奴国、宮崎、鹿児島は投馬国
帯方郡から南に1万2千里は倭人表記で水行10日陸行1月なのである
末蘆国から伊都国、奴国経由で女王国。さらに末蘆国から百支国の長崎周りの国を次々に
列挙して烏奴国(鳥栖)の次が奴国なのである
卑弥呼がたとえ九州だったとしても、その邪馬台国とやらを遥かに超える大規模な街が当時奈良県には存在してたんだよねって話
つまり、九州<関西は覆されない事実なわけで。
知ってるか?平城京跡のど真ん中に近鉄電車が通ってるんだぜ
奈良県民の遺跡に対するウンザリ感は異常。
地面掘り返したら大体の場所でなんか出てくるから、企業もビルを建てようとしないし、その為の地質調査もしない
一般家庭を建てる時も「あっ・・・」って感じで見なかったことにして上にコンクリ基礎を流し込む
九州に「これだけの大規模集落が発見!!」とか大騒ぎしてるけど、そんな発見なんて日常すぎて地元の土建屋が無かったことにしてるだけ。
まぁ学術的にはもう畿内説でほぼ決まりみたいなもんだから
楽天の梨田監督が家建てようとしたら何か出て来たんだよな
※304
奈良県民最低だな。
※300
神功皇后は卑弥呼+台与
斎藤道三も親子2代の事績が道三1代のものとして最近まで伝わっていた
それと一緒
>>304
不思議なことに鉄器と住居跡と人骨だけ出ないと思ってたんだよ。
土建屋が壊したり、闇に流してたりしてたんだな。
※309
そもそも纒向は2%しか発掘されてないから焦るなよ
※310
早く全貌が知りたいぜ
専門家でない素人にとっては歴史はロマンなので
自分と意見の違う相手をクズとかクソとか言ってる人は消えてほしいです
萎えてしまいます
×意見が違う相手
○ダブルスタンダード
萎えるのはこっちなんですけど
近畿行くならわざわざ九州で上陸して陸行しないんでないの?
船を乗せ換えてるんだよ
北九州で一旦休ませて(という名目で)安全確認したのち、大和の船でご案内。
直行ルートを魏や半島の船員に学習させるわけにはイカンだろ。さすがに
※279 当時の日本列島と大陸が描かれた地図見たいね
「混一疆理歴代国都之図」 龍谷大学に現存する
魯迅の「新地図が出始めてから 邪馬台国論争が起こった」 は一理あるかも
倭人は隋の時代まで里数を計れなかったというから、
水行とか陸行って言い出すところからは
話だけ倭人に聞いて魏の使者は行ってない気がする
で、奴国の隣つまり北九州まで女王国だから
そこまで行けば事は足りた。
九州でも畿内でもどっちでもいーが、畿内説はいちいちもう決まりだ~♪学会が~♪とか、九州説は論拠が~♪言ってるやつクズ杉とか全部自己紹介。
だから結論ありきだろうと言ってる訳。これだけ必死杉なのは…後に都ができたとは言え、墓場←ナラカというあまり威張れない土地に居たのが都合が悪い?太古からず~っと都だったって言い杉る。で、畿内説側?のが…?←ってなる。両論冷静に眺めてる側から見てるとな。こういうと九州説の奴等は~♪って言われそうだけど違うから。畿内説への違和感を指摘してるだけ、悪しからず。
・学会ではもう決定的になってる ←ただの事実
・それに対して論拠をあげて反論できない ←ただの事実
・記紀の中から九州説の都合いいとこだけつまみ喰い ←結論ありき
・九州説の都合悪いとこは無視 ←クズ
九州説への違和感を指摘してるだけ、悪しからず。
神武の故郷は九州だと認めるぐらいの余裕があるでしょ。
でも卑弥呼は物証があるから畿内で決定なのはしょうがない。
畿内は解釈や訂正以外の史書の裏付けが必要。
問題は史書に書かれた国がどこなのかであって、倭で一番大きな国がどこなのかではない。
九州説を推してた東大って、旧石器捏造してたとこでしょ。
近畿が太古から都だという事実を感情的に認めたくないんだよ。
九州は裏付け必要ないんですか?またダブスタっすか?
倭王と認められたってことは一番大きな国なのでは
>318さん
このネタの割にはここまでそんなに荒れずに来たのに「クズ杉」とか汚い言葉を使う人がいるととたんに雰囲気が悪くなるので、注意してほしいです。
自分の考える論拠を述べるのに、感情を交える必要はないでしょう。
年輪年代法の100年遡上問題とか、素人でも考察できるネタもまだまだ残っていますし、罵り合いではなく、議論がしたいです。
畿内説に対する反論がなくなった時が畿内説が定説になる時。
九州説に対する反論がなくなった時が九州説が定説になる時。
箸墓古墳から卑弥呼の骨が出れば確定する。
※323
魏の知る限りで倭人の一番戸数の多い国だったのだろう。
当時、王朝が変わると前王朝の金印を返還し、新たな金印を授けられたことを考慮すると奴国は金印を返還する前に邪馬台国に滅ぼされ、邪馬台国は大和朝廷となり金印は後の天皇が返還したんだろうな。
当時ウホウホ言ってた土人に中国朝鮮から稲作と同時に文明が伝わったのに、近畿なわけないやん
今も昔も福岡は大陸との交流が日本一深い場所で、何も変わっていない。
文明は中東から始まり、
西はヨーロッパそしてアメリカ。
東は中国、朝鮮、日本では九州から奈良、京都。東に東にへと進んで行き着いたのが今の東京。
ただそれだけ。
近畿はその都が移っていく中間点でしかない。
神武が三韓から北九州に降臨して畿内征服したのははるか紀元前の話だから
邪馬台国の時代にはとっくに日本の中心地
じゃなきゃあ関西が弥生チョ○顔のメッカで九州はそれほどでもない事の説明がつかない。九州は短期間でスルーされたと見るべき
あと、稲作と同時に必ず必要なのが製鉄技術。
これも中東から伝わってきたもので、当時は朝鮮に多くの技術者がいた。
日本に伝わってきたルートもいろんな説があるけど、対馬ルートで最も近い九州が有力だと思う。
他には東北にも既に伝わっていたというのも聞いたことがある。
とにかく、九州を飛び越えて、武器開発にも直接つながる製鉄技術(当時は武器は青銅を使い続けていた)がいきなり近畿に到達するのは意味が分からない。
仮に伝わったとしても、技術者の大部分が移動する事も考えにくい。
「文化の深さ」ってのは=その土地の歴史だからな。
畿内日本2000年の歴史に今さらどうゴネたって勝てないアズマが、必死になって関西をただの「通り道」って毀損したがってるだけにしか見えん。どおりで関係ない関東人がなぜか邪馬台論争に首突っ込んでくるわけだ。成金が欲しがるのは歴史。でも歴史は買えないから捏造、か持ってる人のを堕すしかない。日本の中心はどう考え立って畿内だ。文化的に最高級。
畿内は石器の技術が優れてたから。
砥石だって鉄器ではなく石器を磨くためのものが出土してる。
鉄器の生産と輸入が北九州と中国地方で止まっており、それを奪うために畿内から戦争を仕掛けたのが倭国大乱と見るべき。
伊都国と邪馬台国連合軍に滅ぼされたのが奴国と投馬国。
だから伊都国が邪馬台国以北を代官として支配していた。
北九州に残る鉄製鏃の刺さった人骨は奴国対伊都国の戦争の跡。
卑弥呼は闘っていない。だから畿内からは鉄の武器も戦争の跡も大量の戦死者も発掘されない。
どーでもいいけど、「畿内」って使い方間違ってない?
そもそも、明治に日本の土着のアニミズムを無理やり結び付けて、
「すべての神社の祭祀は天皇です。これからは天皇を崇めてください。」って無理がありすぎやろ。
そして、古事記とかを証拠にだして、日本には偉大な神話があります。ってそれ7世紀やからね。
それ以前の弥生時代の話なのにわけわからんやろ。
その当時テンノーとかおらんよ。
多くの日本人と外国人が勘違いしてるけど、日本文化の栄華を極めたのが、奈良・京都であって、決して日本の文明そのものの起源ではない。
>>331
つまりアフリカが一番ということですね。
分かります。
※331
天皇家の出身地である高天原とされてる日向のほうが古くない?
2000年じゃなくて2600年だよね?
邪馬台国は畿内以外関係ない!
邪馬台国は倭で一番大きい!
記紀>魏志倭人伝
神功皇后=卑弥呼
邪馬台国=大和
稲作は縄文時代に日本に伝わっていて、
※338
卑弥呼の時代以前に中国朝鮮と文化交流あったに決まってるやん
最初に書物に記録されたのがたまたま魏志倭人伝
「日本海側」か「太平洋側」か
それだけですべてを物語っている。
※316
この地図は李氏朝鮮で作られたんだ。
他に3枚あって、龍谷大学の地図だけ90°ずれてるんだ。
他は正確な向きなんだね。
確かにこの1枚がなければ90°説はない。
面白い。
ありがとうございました。
稲作は縄文時代には日本に伝わっていて、菜畑遺跡は2700年ほど前とされています。
また、東北地方でも弥生時代でも最初の頃の砂沢遺跡、垂柳遺跡で、水田跡が発掘されています。
縄文時代は列島全体規模の交易が確立されており、しっかりと文明社会です。
大陸に近いから北部九州が文明の先進地という思い込みで語る前に、ファクトを押さえてもらうと話が進みやすいと思います。
諏訪湖周辺は弥生文化拒否ってます。
※328
その中間点である近畿が、日本国の歴史の原点であり、最も長く、現在まで続く日本文化のほとんどが形成されている。
明治に東京が首都とされたが、1970年代までは関西>関東というように差が大きかったんだよ。
少なくとも江戸時代からの正しい近代史を知っておいた方がいい。
テレビなどで流布されている江戸・東京の歴史は、文献の史実とは違う事が非常に多い。
文献などでの都合の良い一部を取り出して歪曲し、全体とは違う歴史観を作り上げようとしている。
これは、邪馬台国の九州説派にも言えるだろう。
魏志倭人伝の記述(三国志が書かれた当時の魏の視点から世界観による解釈が重要)だけでなく、考古学の発掘結果の方も文献より重要なので、これらを総合的に考える必要がある。
自分が思い込みたい結果を導くために、都合の良い部分だけを抜き出して思考するのは、真実を見誤る。
※329
弥生系はテョンではなく、中国系な。
テヨン顔が多いのは、奈良時代以降に半島渡来人の開拓地とされた関東である事ははっきりしている。
>>341
交易をするには交換する品物が必要。
当時の日本にはそんなもの存在しない。
列島全体で大陸と交易が確立されていた=絶対にない。
そもそも、移動手段が徒歩と小さな船のみ。
それでわざわざ遠い地まで足を運んで交換するものがあったのだろうか。
当時は奴隷売買もあったかもしれないから商品といったら奴隷くらいだろう。
じゃあ邪馬台国が大陸と交流があったかといえば、同じくないはず。
当時の製鉄技術も交易でもたらされたものではなくて、戦乱の朝鮮から逃れてきた人が住み着いて技術を伝えただけ。
※343
関西に在日が多いのは戦後住み着いたからだぞ
在日以外の日本人はどこも顔変わらんだろ
※345
>関西に在日が多いのは戦後住み着いたからだぞ
そんな事は知っている。大正時代以前には関東にテヨンが多かった。
顔の調査はないが、いくつかのDNA調査はされているんだよ。
しかし、この話題は本スレとはズレるので、これ以上はしないが、
興味があるなら、「母方のルーツで見た縄文と弥生の割合」で検索。
※343
欧米では奈良時代が最初の日本国とされているけどな。
そして、日本の文明の発祥は九州。
これも欧米だと普通の考え方。
343
東京へは奠都な。
都は御所であって、京都全域ではない。
当たり前だよな?
※346
関東の東夷はどう説明するの?
>343
何千年経ってると思ってるんだよ。
お前に至るまで何人のご先祖様がいるか計算できるか?
そのうちの全員が純血の縄文人か?
>344
日本と大陸と、ではなく、列島内での交易です。
神津島の黒曜石や新潟姫川の翡翠などが全国で出土するのはご存じですよね?
また、関東の貝塚の貝殻の量も、周辺の消費量ではとても説明できる量ではないので、干し貝にして、交易に使われていたと考えられています。おそらく内陸への塩分の輸送という意味もあったのだと思います。米などを炊くときに、干し貝を一緒に煮込めば出汁になりますし、日本人が今でも海産干物好きなのは縄文以来の嗜好なのかもしれません。
神津島の黒曜石は大陸でも出ていますし、環日本海の物流は思ったより盛んだったようです。
遣唐使船が沈んだり、鑑真がなかなか日本に来られなかったりするので、日本海を渡るのは大変という印象がありますが、後の時代の構造船と違って丸木舟は「転覆しても沈まない」ので、波の穏やかな日を選んで渡る分には丸木舟でも十分だったようです。
昔は天皇が即位するたびに都を作ったからずっと同じ都市を使い続けていた纒向は都ではなく祭祀場。
都は纒向の周りに天皇毎に作ったはず。
邪馬台国の都が見つからない理由はそのため。
そんなに純血にこだわるなら、自分のクローンを作ればいい。
※346
今もだよ。
埼玉東京の人間は酒強いからね。
近畿はむしろ弱い方で典型的な日本人。
それでも愛知や三重より強いのは在日の影響か俘囚の影響かというところ。
邪馬台国は弥生系!
大陸から多くなる(関東)ほど朝鮮系!
※354
なんで酒の強さと日本人かどうかが関係あるのかみんなに説明してくれ。
DNAのどの遺伝子がアルコールに反応して、その遺伝子が日本人以外のアジア系で違うのかどうか。
そして日本のそれぞれの県でその遺伝子に違いがあるのか。
説明してくれ。
>>354
???
海外の文献読んでも九州で間違いないよ。
正確にどことは書いてないけど、簡単にまとめると。
1.中国朝鮮から逃れてきた移民が九州に移住
2.現地土人とアンアン → ニュータイプ弥生人誕生
3.倭人の村がいっぱいあってカオス
4.ヒミコが賢い弟の力も借りて統治
5.全国で古墳フィーバー
6.近畿に中国式軍隊を備えためっちゃ強い国が登場
7.周りの土人どもをフルボッコ
8.邪馬台国消滅
ttp://www.shsu.edu/~his_ncp/Japan.html
ttps://heritageofjapan.wordpress.com/
戦後GHQは昭和20年10月30日に教職追放で真っ当な教員を追放し共産主義者が東大京大などの教壇に上がり歴史を改ざんした。12月15日に神道指令で日本の素晴らしい歴史と伝統文化を教えることを禁止した。
日本の家庭に今も息づく記紀の伝承が神棚に残る。邪馬台国や卑弥呼って左翼学者のプロパガンダであり、矛盾だらけの魏志倭人伝って聞き流せばよい程度の法螺はなしですよ。
※354
蝦夷を俘虜として使役してたのは大伴氏とその一族だろ?
うちは神道成立以前の伝統が残ってるから神棚ないよ。
※356
1行目→日本人は世界有数の酒弱国だから。
2行目→ALDH2。日本人に近いのは中国江南地方のみ。
3行目→山陽〜近畿〜東海にかけて、弱い人が多い。
長江の河口付近に住んでたのは倭人集団だぞ
朝鮮半島南部にも倭人は住んでたぞ
今の日本の支配地域と倭人の範囲は一部違うぞ
※359
祭りとか参加したことある?
全国の祭りだとその地方の神社、そこを管理している宮司ですべて完結するよ?
そこに天皇とか一切出てこない。
確かに天照大神を祀っているところもある。
でもそれは神話であって人間とは繋がっていない。
このサイトも聖書に神話は載っているけど、フィクションというスタンスで説明しているし、あなたも読んだはず。
なのに、日本書紀のまとめられた720年以前の内容を現実の内容と捉えてるとか?
あと日本の神社は天皇を祭るためではなく、その地方を納めていた豪族の霊を鎮める為でもある。
だから古墳の上に神社がたてられることが多い。
とりあえず、歴史のある祭りに参加すれば大体わかる。
※362
日本のアルコール消費量=世界55位(酒弱国?逆にアジアの中では強い方だが)
なら近畿に住んでる人間は中国人なんやろ(テキトー)
※365
好きなのと得意なのは別ですから
※366
だから日本はアルコール消費量多いんだよ
酒飲めないのが日本人ならおかしいだろうが
東を間違えて南と書いた証拠が朝鮮半島作成の地図だとは知らなかった
※367
下手の横好きって言葉ご存知ない?
>>362
民族なのか国家なのかはっきりしろ
>352
初期の天皇は都というほどのものは作っていなくて、天皇の居館を宮と呼んでいたのだと思います。
崇神~景行天皇の宮は、ピンポイントでどことは言えませんが、纏向の中だと思います。
>363
中国の史書が何をもって「倭人」としているのかがはっきりしないので、遠く離れた長江下流の倭人と列島の倭人にどれだけのつながりがあるかは分かりません。
逆に、倭人としたために、「長江河口の倭人」の様子が「帶方東南大海之中の倭人」に投影されている可能性もあります。
※370
どっちでもいいわボケ
魏志倭人伝に「人性嗜酒(倭人は酒飲み)」って書かれてるのに日本人が酒弱とか笑止。
少なくとも魏や帯方郡(朝鮮北部)で生活してる人間から見ても日本人は特に酒飲んでるように見えたのだよ。
当時の華北人は今より酒弱だったということかな?
魏志倭人伝は和弓を正確に記してるから間違いなく倭人の風習を記してる
もし想像だったりよその地域を記してたら弓の形が絶対違う
俺が注目するのは
其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
この部分だな
出汁が古事記に出てくることを考えると魏志倭人伝に出てくる倭人は刺青も含めて記紀の文化圏とは違うみたいだな
女王の都は使者の出発点から一万二千里と明確に記載されているみたいだから、
水行十日、陸行一月もその範囲に収まる解釈以外はない。
※344
大陸と往来が全く無いとは言えないだろ。
品物が無いなんてありえない。
日本は古代から海産物や真珠の産地として有名だったんだよ。
複雑で長い海岸線のおかげだな。
あと砂金・水銀ね。
※378
青玉ってなに?
※374
好きと得意は別だって何回言っても理解する気ないんだな
※380
意味分からん
DNAの話だろ
※376
>有獮猴黒雉
たぶん台湾の情報だ
台湾にミカドキジという台湾固有の黒い雉がいる
またタイワンザルもいる
※381
DNA(得意不得意)の話をしてる時に、酒の量(好き嫌い)の話をするやつがいる
>>377
都とは書いてなくね?
女王国の境界までが一万二千里で、都のある邪馬台まではもっとある
動機と位置と態度で判断すれば良い
そもそも『海外の強国に対して「相手の権威と勢力の地理的な延伸による」後ろ盾を求めた』
動機から言えば、その行為と判断の主体は九州であって畿内じゃない、位置的にも勢力的にも
隣国でなければ共通の敵国に対する同盟で良いし、畿内の商業圏勢力にはその力があるだろう※
そもそも外的権威が仮想敵国に向かった時の背後にある状況ではなくむしろ敵国の背後だから
接しても居ない畿内は九州に勝った後で無い限りは大陸勢力を重視したり「従う」必要はない
正面の畿内と後方との二正面作戦になるから少しでも有利な条件で自ら従うしかなかったのだ
畿内ならば地理的な位置関係が違うから、「自ら属国になる」動機も時期も食い違う事になる
※349
東夷の事を知りたかったら、平安時代を勉強したらいい。
あと「新羅郡」「高麗郡」とかも調べておく必要がある。
※364
天神地祇八百万の神のうち、天神が天つ津神で渡来系、地祇が国つ神(土地神)で地方豪族と
捉える事ができる。
ヤマト政権は侵略したというよりも、その土地の豪族たちを従える形をとったから、神として祀られている。もちろん武力や戦争などが背景にあるわけだが。
卑弥呼時代には鏡を与える事で従属の証としたが、ヤマト政権では姓を与える事にした。
この事によって、地方豪族は自分の土地を支配する事を認められた。
※379
代わって答えるが、宝石の青玉(せいぎょく)は「サファイア」の漢名。
しかしウホウホ言ってたとか品物が無かったとか
変わった見方をする人が多いな。
※382
ミカドキジ黒っちゅーか青いな。
>>385
>正面の畿内と後方との二正面作戦になるから少しでも有利な条件で自ら従うしかなかったのだ
畿内が魏と組めば、そういう状態に持ち込めるってこと
畿内も動機は十分じゃないの?
※ポリネシア諸語と民族
台湾の船乗りがポリネシア諸語の地域に拡散している、太平洋の大部分は台湾民族のものだった
→台湾のコネの対象は国津神(シベリアから大陸中央部ハートランド、現ロシア圏から中欧圏)
コネを持っているのは畿内だろう、ロシア正教の浸礼と道頓堀のカーネル像投入の動機は同じだ
発想自体が東京/九州や他のキリスト教圏に解り難い、技術より地理的統治力の文化であり文明
九州はトルコ(アナトリア)の鉄鋼技術系天津神アマテラスやスサノオの系統で、より一般的な
ナンナル/シン=ツクヨミ=ティレニアのそれではない(三貴子の枠組など原点はこちら側だ)
ドイツのドレスデンなど欧州の鉄工の起源でもある、トルコの主なる太陽女神アリンナにあった
ふいご本格採用前の製鉄技術は、山の斜面で加速された季節風(台風)に全面的に依存している
それ故に「普通の街の繁栄」に向く土地には適さない、風害の強い山地でしか行う事ができない
そして、鉄製品の大規模海上輸送は、水上輸送が王道だった古代でさえ、簡単では無かったろう
日本に来たのは「一般的な天津神(アナトリアの月神=主神=都市国家神の系譜)」、ではない。
相当なキワモノだ。 九州ローカルだったのも無理はない。 遺伝・血統的にも珍しいらしいな。
畿内(=国津神)は古代の大陸中央で最も一般的な文化系統で民族問わず合流する大多数はコレ。
北朝鮮はDNA検査もできてないから、酒弱って可能性もあるか・・・
となると畿内に移住してきた弥生人は昔のあの辺の民族?
色々辻褄が合うな
卑弥呼が外交に聡かったのは帯方郡の人間と懇意で便宜を図ってもらっていたからだとも聞く
寄せ集まりの女王国は必ずしも狗奴国の征服したかったわけじゃないだろう
他の国のように従属してくれればそれでよかったはずだ
大陸の先進的な強大国の後ろ盾を得て女王国の国威が増大すれば
狗奴国もついには屈服するかもしれない
そういう狙いがあったのではないか
※391
稲作の起源はもっと古いって上にレスがあるのに見てねえのかよ。
※391
無いんじゃないの。
満州や韓国に全くそんな気配ないし。
史実では大陸の北東部は騎馬民族系が完全に支配していた、漢民族がそれに匹敵した事はない。
彼らは、遊牧地域から離れると「消滅」してしまう。 土地の生活習慣に結び付き過ぎている。
モンゴルのような強大な覇者でさえ跡形もない。 生活至難な土地でないと文化の意味がない。
そして生活習慣が消えると、それに伴う文化も考え方も哲学も発想も皆、消えてしまうようだ。
それら以外の大陸のほぼ全ての民族が、「普通の人々」である国津神、日本だと「畿内派」だ。
むしろヤマタ列島ローカルではキワモノが目立ちすぎている。 ほとんどは普通の平地の民だ。
日本こそ「畿内派が畿内でしか勢力を振るっていない異常な状況」だが、大陸は皆「畿内派」。
大陸では大多数の民族が「畿内」文化文明派なのだから、日本等の局所以外では、「勝てる」。
※388
青紫色に光る黒色
ネットに挙がる画像は綺麗に光沢が見えるものを選んだり色調いじったりして強調してるんじゃね
※394
日本国内ですら畿内濃尾の地域で特異的に分布してるのに
なんで半島で無いって思えるのか?
※397
九州、四国、関東でも明確にその兆候が見れるのに、韓国や満州でなぜ出ない。
というか北朝鮮で検査してないのって本当か?
おいおい、稲作の時期がさかのぼって弥生・縄文っていう頭骨から見た区分は
実は農耕によって食べ物が変わったからかもしれないのに、何で邪馬台国の話で
DNAの話になっちゃうわけ?
>>387
ありがとう!
調べてみたら、今でも日本でサファイア取れるんだ。しかも結構広い地域で。
弥生時代ならもっと採れたかもしれないな。
真珠とサファイアが採れるなら魏も交易しようと思うに違いない。
昏睡期(0.41~0.50)
ビール(大びん10本以上)
日本酒(1升以上)
ウイスキー(ボトル1本以上)
◆揺り動かしても起きない
◆大小便はたれ流しになる
◆呼吸はゆっくりと深い
◆死亡
国税庁のwebページにあったけどこんなに飲めないよ
ある説によると日本人は、縄文人系はNN型、弥生人系(大陸から日本列島に移住)はND型あるいはDD型が多いと言われていますが、その割合は、NN型56%、ND型40%、DD型4%と言われています(別の説では、ALDH2型を持たない人が25%はいると言われています。)。国税庁より
今まで弥生人の王国である奴国と邪馬台国が大陸と朝貢してたのか不思議だったけど
お酒飲めない遺伝子=江南=稲作&鉄器=弥生人だと考えれば、むしろ大陸と交易することは不思議でもなんでもないな。
もしかしたら言葉も江南の言葉とほぼ同じで通訳要らなかったかもしれん
養蚕や紅花も同時に伝わったのかもしれないと考えると楽しいな
そう考えると南九州の狗奴国や女王国の南は同じ倭種でもまた別の民族集団、たとえば縄文系の生き残りの国かもしれんな
邪馬台国が畿内だとすると、狗奴国は愛知から静岡な
古代においては金よりも高価だったヒスイ
糸魚川のものは6000年前で支那にも輸出
漆製品は鳥浜貝塚遺跡が6000年前で
なんと支那の河姆渡遺跡が6200年前
なんだ、やっぱり支那から文明が伝わった?
いえいえ、垣ノ島B遺跡は9000年前
そして、ここで謎の放火事件発生!
支那人に都合よく歴史作るアルよ
>400
青玉っていうとむしろ翡翠を思い出すんですが。
翡翠なら縄文時代から日本では大事にしていますし。
あと碧玉というと青い瑪瑙をいうようです。
日本でサファイアが出るという話は聞かないんですけどね。
せい‐ぎょく【青玉】広辞苑第六版より引用
①サファイアの漢名。②竹の異称。
へき‐ぎょく【碧玉】
みどりいろの玉。菅家文草[5]「―の装ひせる箏の」
(jasper)不純物を含む石英。緻密・不透明で、酸化鉄を含むものは赤褐色、水酸化鉄を含むものは黄褐色。微細な緑色系雲母類を含むものは緑色。縞模様があるものを縞碧玉という。主にウラル・エジプト・ドイツなどに産出する。佐渡の赤玉、出雲の玉造石たまつくりいしなどはこれに属する。玉造石は古くより曲玉まがたま・管玉くだたまなどに作り、また印材・指輪・簪かんざし・笄こうがいなどの装飾品に使用。
め‐のう【瑪瑙】
縞状構造が明らかな玉髄。主成分は微小な石英。樹脂光沢を有し、往々鉄分などが滲透して美しい赤褐色・白色などの縞文様を現す。細工物・彫刻材料などに用いる。倭名類聚鈔[11]「馬脳、女奈于」
ひ‐すい【翡翠】
玉ぎょくの一つ。鮮やかな翠緑色を呈し、緻密で光沢がある。ミャンマー・カザフスタン・グアテマラなどに産出し、装身具・装飾品として愛玩され、日本では新潟県に見出された。ジェード。
こう‐ぎょく【硬玉】
翡翠ひすい輝石からできた岩石(翡翠)のこと。純粋なものは白色で、クロムを含むものは緑・青緑・緑白色。ミャンマー(ビルマ)・日本などに産する。中国の玉ぎょくの一部はこれである。角閃石を主成分とする軟玉より硬いところから硬玉といわれる。翡翠輝石。翡翠。
なん‐ぎょく【軟玉】
玉の一種。角閃石かくせんせき族鉱物から成る。細粒緻密な透角閃石から成るものは無色、緑閃石から成るものは暗緑色。近世まで中国で玉ぎょくと呼ばれていたものの多くが軟玉であった。
明 李時珍《本草綱目・石二・青玉》:“按《格古論》云:古玉以青玉為上,其色淡青,而帶黃色。
国産サファイアは富山、岐阜、奈良などにあるようだよ。
>>306
初めて知って調べたら、「何か出てきた」どころか結構重要な遺跡でワロタ
>405
400に代わってお伝えしましょう
ヒスイ 新潟県糸魚川市など
サファイア 富山県庄川流域など
アクアマリン 佐賀県富士町など
黒曜石 佐賀県伊万里市など
ルビー 岐阜県白川村など
トルマリン 岩手県三陸町など
オパール 福島県西会津町など
ガーネット 長野県諏訪市など
スピネル 岐阜県春日村など
ベリル 岐阜県中津川市など
トパーズ 岐阜県中津川市など
勝手に採ってはいけませんよ?
あなた様が聞いたことがなくとも存在している事象は世界にあふれておりますぞ
これからは是非、ご自身でお調べになると知識がよりあなた様の血肉になることでしょう
はさみ山遺跡(はさみやまいせき)は、大阪府藤井寺市に所在する旧石器時代から近世までの各時代の遺構や遺物が見つかった複合遺跡。全国的には、現在わかっている日本最古の住居跡が見つかったことで知られ、そこでは後期旧石器時代の住居の構造が明らかになったことが特筆される。
円筒埴輪のなかには井戸枠として転用されているものが見つかり、話題となった。
その旧石器時代住居・土坑の検出地点は「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせきなしだちてん)と命名されている
大ニュースじゃねぇか
縄文時代および弥生時代の遺構・遺物は少ないけどもうここが邪馬台国でいいよ
>406-409
ありがとうございました。
日本でもサファイヤ採れるんですね。
>411
重ねてありがとうございます。
ただ、負け惜しみを言わせてもらうと、日本が鉱物の見本市と呼ばれているのは知っていて、いろんなものがとりあえず採れるのも承知しています。
けれどそれらのうちで、献上品に値する宝石レベルのものが出るかというとまた別問題なんですよね。
文化としてサファイアを愛でる文化があったかは、今でも分かりません。古墳時代に入る前から青いものは青ガラスの管玉などが弥生墳丘墓の副葬品として出ていますが、副葬品にサファイアがあったというのは聞いたことが私はないです。
魏志倭人伝は支那人が書いた法螺話
「ホント日本人信じる、ばかアルね
学会もコントロールしてるアルからね」
酒に関して
古代の酒は、練酒というペースト状のものだったという話があり、がぶ飲みできるものではなさそうです。酒に強いかどうかというコメントが多くありますが、ペースト状の練り酒を嗜好品として楽しんでいたのかもしれません。
この辺の研究は進んでいないようですが。
台湾が倭人伝に混じってるのは明らか
練酒は博多や出雲で作られてたのか
弥生時代は口噛み酒の可能性もある
日本書紀には八塩折之酒が出てくる。8回醸してアルコール度数を高くしてる(再現したもの売ってら…)
縄文時代には果実酒(土器に果物を入れて発酵)を作ってたみたい
風土記には麹からお酒を造った記録がある。酵母の種類が大陸と半島と違うから日本列島独自の製法
結論:日本人は酒好き
ちょっと調べただけでこれだけ出てくるんだから、
魏の使節も「あいつら出汁のとり方知らないくせに酒は呑みすぎ」と思ったに違いない。
人類そのものが船で渡ってきたのではなく
日本が大陸と陸続きの時に日本には人が住んでいたし、石器も使っていた。
そこに、稲作と同時に製鉄技術が伝わったのが、弥生時代。
人の流れというのは、断続的ではなく常に流動的であるから、明確に何年前には稲作はあったと反論している人はおかしい。
重要なのは、地理的に九州は災害も少なく、水資源も豊富で平地もある。
ただでさえ住みやすいその土地を離れて、近畿に移住するのは考えられない。
そして、近畿は太平洋沿いだから直接たどり着いたなら日本海側の鳥取あたりに大きな文明があったはず。
鬼界カルデラや姶良噴火で全滅してる
阿蘇山の噴火は大陸の正史にも載ってる
台風は毎年来るし、地震も多い
>419
水田遺構があれば、稲作が行われていたとするのが当然ですし、ケイ酸質のプラントオパールはよく残りますから、稲のプラントオパールを見ることで稲作の有無が判断できます。それとその遺跡の推定年代を求めれば、何年前にどこで稲作が行われていたかは、実証的に述べることができます。
何をもっておかしいといっているのか分かりません。
繰り返し述べていますが、縄文時代から人・物の交流、移動は列島全体に及ぶほど盛んです。日本に届いた文物は、それほどのタイムラグなしに広範囲に伝播します。
その後受容されるか、または受容後にまた廃れるかは、地域ごとに異なります。
近畿に移住するのは「考えられない」というのは、あなたの判断だと思いますが、根拠が薄弱だと思います。
※421
詳しいね よっぽど邪馬台国に興味があるんだなぁ
その情熱で琉球と台湾について調べた方が早いよ
>>422
>その情熱で琉球と台湾について調べた方が早い
邪馬台国の場所並みになぞなコメントだな
※421
ならあなたが明日から鉄の鍬と鎌を10人分でいいので作ってくださいと言われてすぐに作れますか?
現代のように情報化が進んでいても、窯の作り方や精錬方法等のノウハウが文章のみで伝わるはずがない。
「文物」といって誤魔化しているけど、口伝えで師匠が弟子に伝えなければ、鉄製品は絶対に作れない。
あなたが近畿地方在住だからゴリ押ししたいのだろうけど、地理的要因は絶対に無視できないし、発掘調査からは当時の生活を推測することしかできない。
※423
俺は理解できたけどな
当時の邪馬台国が台湾とか琉球とも交流があった。
それを無視して語っているのが滑稽だということ。
>>425
なるほど
所有無與儋耳朱崖同
海南島と同じって記述があるから当然同じ文化圏の台湾、琉球ともつながりがあると解釈したわけだ
狗奴国との抗争があり台湾、琉球とは交易できなかったと考えてたから分からなかったというわけだ
ありがとう!
>424
なんだかポイントがずれますね。
私が繰り返し述べているのは近畿の優位性ではなく、縄文文化のレベルの高さです。
三内丸山遺跡の時点でほぞ組を作って、相当大きな木造建築を作っていたのが縄文時代です。
鉄器が入ることで文明が飛躍的に進んだ、なんてことはむしろ想像しにくいです。
鉄器は戦争の武器としては優秀でしょうが、生活レベルでは石器でかなりのことができていたわけですから。
それがどうして稲作の話をするのがおかしい、となるのかが分かりません。
※427
いやだから、戦争に使われたのは当時青銅器って言ってるじゃん。
何でもかんでも石器で全部できるとか頭逝ってるだろ。
畑仕事やったことあんのか?
TOKIOのDASH村も見たことないのか?
書き込んでる内容が畑仕事を一切したことのない素人だし、一度は自分で畑耕してから出直してこい。
あと、日曜大工もやってみろ。
石器で全部作れるわけないだろ。
>>428
世界最古の磨製石器が出土したのは日本
>428
どうしても、稲作の話をするのがおかしい、について答えてくれませんね。
縄文後期に水田稲作の遺跡があるのは、事実です。
弥生とは鉄器の制作技術だ、との意見で、石器では農作業はできないという立場のようですが、それだと縄文時代は鉄器がなく、稲作はできないことになりますが、実際に水田遺構は出ていますし、稲のプラントオパールはさらに広く検出されています。
農作業のかなりの部分は、木鋤とか木鍬などの木製品でできるんですよ。そして木製品の加工は石器でかなりのことができます。私、農学部出身です。
文物が移動して人が移動しないと考える理由も分かりません。鉄器の鍬先をもらって、便利だと思ったら、作り方を教えてもらいに行くって思いませんか? ものが自分で歩くはずがなくて、人も移動できるんですから。それを師匠から直接教えてもらわないと絶対にできないと言ってくる理由が分かりません。
※428
邪馬台国の都である纏向遺跡からは鉄製品が出土せず、石器とその砥石が出土するんだぜ?
魏志倭人伝にも書いてある鉄製の鏃を持つ北九州勢力と戦争して倭国一の王国になったんだぞ
石器と木の鏃の矢の威力で九州から近畿まで統一したんだぞ
インカ帝国も石器で開頭手術までしてたんだから不思議はない
>428
イリアンジャヤとパプアニューギニアディスってんのか?
>>428
縄文晩期の稲作どう説明するんだよ
※430
もう自滅コメやろ
農学部出身なら石器で日本の土壌を耕したらどういう結果になるか分かるやろ。
それが分からないなら、余程勉強してなかったんだろうな。
あとプラントオパールをやたら提唱しているけど、
もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない。
それよりも、簡単に育てられて、食べられる量も多いイモ類を育てる。
邪馬台国以前に稲が伝わっていても多くの日本人は見向きもしなかっただろうし、雑草のように自生していただけだろう。
それと炭素年代測定は数十年前は絶対的な信頼性を認められていたけど、最近になって炭素年代測定が正確ではないという意見が出てきているし、特定される年代も正確ではない。
てかお前ID出ないからって連投コメきもいからやめろ
>434
>もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない。
お前の感想が全ての世界なのか?
※434
稲作が伝わったのは邪馬台国以前ですよ
稲作に使う稲は自生してるものとは違いますね
ていうかよく分かったわ
この議論が長いこと続いてるって、
今も昔もキチガイが起源捏造するからだな。
なるほど、よく分かった。
>>434
イモ類を主食にしたら邪馬台国の人口は支えられないのでは?
やはり稲作を始めたことで7万戸の人口を支えられ、石器しかなくとも倭国最大の王国を築き、金印をもらったんだろう
魏志にも「収租賦有邸閣」とはっきり書かれてる
438
日本の稲作の起源はどんどん古くなるんじゃないかな?
昔は弥生時代って習ったけど今だと縄文人も稲作してたし、逆に弥生時代を経ずに古墳時代になったところもあるんでしょ?
世界で最初に稲を植えようって思った人凄いよね
>438
結局、縄文後期に水田稲作の遺跡がある事実に対してはどうなんですか?
鉄器を使わないと稲作ができないから捏造なんですか?
理由が分かりませんね。
For a long time the earliest evidence of rice farming was dated to around 300 BC which worked nicely into models that it was introduced when the Koreans, forced to migrate by upheaval in China n the Warring States Period (403-221 BC), arrived around the same time.
日本に稲作が伝わったのは紀元前300年ごろの戦乱の中国から逃れてきた朝鮮人がもたらした。
日本には多くの朝鮮の遺物が見つかる。
ttp://factsanddetails.com/japan/cat24/sub159/item939.html
※425,426
違う
中国が台湾や琉球とも交流があったはずなのだ
倭が中国との繋がりを会稽でもつというのが考えにくい
ならば先ずは琉球の可能性を疑うべきだ
琉球は文句無く温暖
ところが琉球には猿がいない
そこで台湾 台湾には猿がいて黒雉もいる
日本が海南島(香港付近)と似ているわけがないが
台湾は海南島とわりと近く緯度も大差なく似ていても不思議はない
倭人伝の一部は明らかに台湾の情報が混じっている
これを無視したら真実には永遠に辿りつけないぞ
>434
耕すのは木製品って書いてるじゃないですか。
プラントオパールがなんだかご存じですか?
これまでの研究で明らかになったことを軽視、あるいは無視していたら、話がかみ合わないのは当然です。
近畿に移住するのは「考えられない」というのは、「もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない」と同じで、個人の感想と言うことでよろしいですね?
※444
とりあえずお前は黙れ
そして畑仕事をしてこい。
>445
畑より水田のほうがいいのでは?
>443
そこで、魏志倭人伝のいう「倭人」って何だろう、と思うんですよ。
375に、和弓のことに触れたコメントがありますが、これは明らかに日本のことです。その一方で、南方系の台湾を思わせる記述もある。
倭人伝を書いた人にとって、日本人も台湾の人も「倭人」という括りだったし、長江河口にも「倭人」が住んでいた、ということなのだと思いますが、大和朝廷としても九州王朝を仮定したとしても、倭国に台湾・沖縄は、入っていないように思います。
この辺は知識がないので、詳しい人に教えていただけると助かります。
>445
自分に答えられない話になると相手を罵って精神的に勝ったつもりになるのは、精神勝利法というらしいですよ。
縄文稲作はすでにほぼ定説化していますから、勉強してみてください。自分の論旨に合わないことを無視して話をそらして勝った気になるのは建設的ではありません。
水田稲作に重要なのは水利であり、水路です。そのための土木には土止めその他で板材や杭など、木材の加工品が大量に必要であり、鉄器よりもそちらの方が重要です。もちろん、鉄器があった方が木材加工もはかどりますが、縄文時代は木の文化で石器の頃からその分野は技術の蓄積があるので、鉄器の有無は決定的というほどではないと思います。
>>443
ならば原文のどの部分が台湾でどの部分が琉球でどの部分が倭か他の文献と照らし合わせて明らかにしないといけないぞ
一応文献当たってみた
三国志呉書
遣將軍衞温 諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家 其上人民 時有至會稽貨布 會稽東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者 所在絶遠 卒不可得至 但得夷洲數千人還
種子島も出てくるけど見つけられなかったようだ。つまり種子島の存在自体は知られていたと考えられる。
隋書 煬帝本紀
大業三年三月 遣羽騎尉朱寛使於流求國 大業六年 武賁郎將陳稜 朝請大夫張鎭州撃流求破之獻俘萬七千口 大業三年 拜武賁郎將 後三歳 與朝請大夫張鎭周、発東陽兵萬餘人 自義安汎海 撃流求國
隋書 東夷列伝 琉求
大業元年 海師何蠻等 毎春秋二時 天清風静 東望依希 似有煙之気 亦不知幾千里
大業三年 煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗 何蛮言之 遂與蠻倶往 因到流求國 言不相通 掠一人而返 明年 帝復令寛慰撫之 流求不従 寛取其布甲而還
時【イ+妥】(たい)國使來朝 見之曰 此夷邪久國人所用也
帝遣武賁郎將 朝請大夫張鎭州率兵 自義安 浮海撃之・・・至流求
虜其男女数千人 載軍實而還 自爾遂絶
台湾滅んじゃったよ
念のため琉求は中国本土から見えるって書いてあるから台湾ね。
だから沖縄を琉球と名づけて歴史的領土だって主張する国があるからね。
沖縄は日本書紀(7世紀ごろの出来事かな?)には出てくるみたいだけど後期旧石器時代と貝塚時代の風習が中国の正史に見あたらん。探し方が悪いのかもしれん。
沖縄には今のところ水田のあとが見つからないようだから魏志に載ってるものはあてはまらないかもしれないな。
台湾も人狩りにあったり煬帝に滅ぼされたりしてるが倭人のような風習は分からなかった。
どちらかというとやはり海南島や揚子江付近と倭人の習慣は同一視されてるみたいだなぁ。
※447
少なくとも三国志の時代は台湾と日本(倭)は別扱い
さすがに目の前に見えるでかい島と朝鮮半島の先にある海中の島々を一緒にはしないだろう
もし台湾と倭を同一視してるなら除福は東の日本列島ではなく南の台湾に行けばいいんだから
>>447
倭人伝が書かれた時代は西晋だから台湾(夷州)と日本(倭)を一緒にしたとは考えづらい
現在の台湾の先住民はオーストロネシア語族がほとんどでハプログループO1aが多いことを考えると
煬帝に滅ぼされた後東南アジア経由で移住したか、滅ぼされる前からそのようなグループが住んでたかだから倭人とは関係ないと思うよ
>445
情けない
まず連騰コメの自演はやめろ
※448
まずお前は全て回りくどい言い方をするが中身がない。
だからわざわざ俺が説明するのがめんどくさいと思った。
でも、仕方ないから丁寧に説明する。
まず、お前は農作業をやったことないから分かっていないが、
日本という国はヨーロッパと違って土壌には恵まれていない。
どこにでもすぐに雑草が生え、土は硬く、砂利が含まれている。
それは日本ならではの、山と川がある地形だから仕方ない。
まず、日本のこういった土壌を石器で耕そうと思ってもまず不可能。
1時間耕したところで、石器は使い物にならなくなるし、全く耕せない。
そもそもなぜ、鉄製の鍬が登場したかと言えば、土を耕す時に刃が必ず小石にぶち当たる。
だからこそ、それに負けない強い素材が必要になった。
そして、日本特有の硬く、太い雑草の根を断ち切るには石器ではまず不可能。
畑と田んぼは違うという固定概念もあるようだが、基本的には同じ。
畑には田起こしという作業が必要になるが、現代のホームセンターの鍬でも本当に大変な作業だし、素人がやっても30分で筋肉痛になる。
稲作に鉄器が必要なのは間違いないし、鉄器の伝番と稲作の伝番のルートは全く同じ。
だから俺はとりあえず畑仕事をやってみろと言った。
別に田んぼを作るのに木製品は必要ないよ。
重要なのは鍬。
>453
欧州には雑草が生えてないんですか?驚きです。
※453
日本の土壌を生成する環境条件の特徴は雨量が多く地形が急峻なことから、
侵食・堆積作用が激しく運積土がおおく緻密でないため耕しやすいはずですよ
>>453
日本でも有数の土、鹿沼土は礫岩が風化して出来たものである。火山に近い所の土は良くないが、遠く離れて石が積もり、風化したところは最高の土になる。
なんで火山について言及しないんですか?
日本の土壌を語るならまず、火山、火山灰でしょうよ
ttp://soil-inventory.dc.affrc.go.jp/index.php
はい。
あとは自分で調べて。
あー、分かったわ
やたら、弥生以前に稲作あったって主張してる人がいるから少し調べたら、
「陸稲」と「稲作」を勘違いしてるんだろうな。
陸稲は4000-2300年前だから、これのことを言っているんだろう。
だから学者も勘違いしてて、縄文稲作を最初に唱えた山内清男もあとで否定してるぞ。
※447,449
>長江河口にも「倭人」が住んでいた
漢書地理志呉地の項に「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云。」とある
すなわち前漢代の東鯷人がそれ
同じく漢書地理志の燕地の項に「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」とある
漢書に於いて倭人と東鯷人は別の存在だった
台湾は会稽のほぼ真南なので、東鯷人とはおそらく沖縄人のことと思われる
魏略が倭の方角を曲げたので、位置的に沖縄と重なって
東鯷人が倭人ということになったのだろう
だからその東鯷人の本国(沖縄)の情報も倭人伝に混ざり込んだ可能性が高いと考える
※450
三国時代の呉は倭の正確な情報を知らず、魏は台湾を知らない
陳寿は魏志以外に外夷伝を設けておらず、
魏志は魏の史料を中心に編まれた
それゆえ三国志に台湾伝がないのだろう
陳寿は呉に大して興味が無く、外国の台湾のことともなれば
もはや何の興味もなかった可能性がある
沖縄の南端と台湾は極めて近く、地理的には同じ夷と見做すことも可能
その沖縄に倭が位置的に重なって同一視されたならば
台湾・沖縄・倭国が「会稽の東の島国」と一括りにされても不思議ではない
ちなみに中国本土から台湾は遠くて見えないよ
魏略の逸文読んでも方角を歪めたところが分からなかった…。
残念。
サツマイモ以外のイモは連作障害が激しいから、主食にはできないよ
パプアみたいに焼畑すれば別だが
日本の平野はほぼ沖積地で、定期的に氾濫してたから、稲作ってもその半沼地に種籾撒いて刈り取ってただけだろうな。ナイルの賜物みたいな。沼が乾かないように囲いをつくる土木はあっとろうが
その時期の日本には牛も豚すらも居なかったってのが明示的だと思う。雑草の生える平地や疎林に手を焼いてたなら、それらの家畜が大活躍で、生産性を上げることができたろうにな
つまり弥生人は、川の氾濫で生まれた沼地平野以外には興味がなかった。
>453
耕すのは木製品って書いてるじゃないですか(何度目だろう)
結局、あなたの意見は「現代の身近な狭い範囲の自分の見聞(DASH村とか)」からの思い込みですね。
プラントオパールからは、陸稲か水稲かは区別できませんが、東北地方の砂沢遺跡、垂柳遺跡は水田遺構で、時代区分としては弥生に入りますが、東北がいわゆる「弥生化」する前で鉄器も出ていませんし、魏志倭人伝の時代より数世紀前のことです。
水田には鉄器が必要でうんぬんという狭いところでなんとかごまかそうとしているのは分かりましたが、これも繰り返しになりますがもともと私が書いているのは、国内の交流の盛んさで、倭国の中に入ったものは想像よりも早く伝播するし、大陸から近いからとかそこから移動するはずがない、というのは根拠がないという話です。
連投している部分もありますが、別に自演しているわけではなくて、話が通じない人へのレスと、他の人との議論を分けているだけです。
芋(種類多くてあれだけど)っていつ頃日本に伝わったん?
もう一つ考えに入れてほしいのが、縄文海進の問題です。縄文時代も長いので一概には言えませんが、縄文時代に一度温暖化し、海面レベルが高くなっています。
大阪平野や出雲の平野部は海になっていて、奈良盆地も湖だったといわれています。これが弥生時代に陸化して沼沢地だったところに、水田耕作が広がったと考えられています。当時の土木技術では、水深1メートル程度の小河川がせき止められる限界で、大河川流域はむしろ灌漑が困難だったようです。
この出雲や奈良盆地の沼沢地を開発した様子が、豊葦原瑞穂の国、というのは直感的に分かりやすいのですが、九州北部の縄文海進についての情報はあまり見たことがありません。
この辺りの話(九州の昔の海岸線)について、ご存じの方に教えてほしいです。
※403 邪馬台国が畿内だとすると、狗奴国は愛知から静岡な
「狗奴」の地名は上毛野(かみつけの)下毛野(しもつけの)として今でも残っている
栃木、群馬周辺とされるが 蝦夷の支配地と思われる
※462
そう来ると思ったよ。
あまりにも素人の考え。
弥生時代の代表的な遺跡である静岡県の登呂遺跡では木製の鍬が出土している。
なら木で耕していたのか?
何度も言うけど石器でも耕すのは不可能。
上の人も書いてるけど、基本的に水稲作以前の農業は、適当な湿地に種をばら撒いて終わり。雑草も刈り取らない。
じゃあ登呂遺跡の木製の鍬は何か?
実は鉄製の刃が付けられていた。
しかし、登呂遺跡のあたりは金属の腐食が進みやすい土壌らしく、あいにく鉄製の刃は残っていない。
日本に古くからの文明が気づかれていたという主張だけども、世界の国々では石器時代→青銅器時代→鉄器時代と推移している。
しかし日本には製鉄の技術がなかったために、弥生時代に青銅と鉄が同時に持ち込まれ、青銅は祭祀の道具、武器として使われ、鉄は農具として使われた事実がある。
ヨーロッパ・中東・中国では石器を使って農業を行っていたというのは確かに残っている。
しかしながら、前にも書いたように日本という島国と大陸を同じように考えるのは間違っている。
畿内説に賛同している人は近畿地方で邪馬台国が成立しそしてヤマト王権へと変わっていったと考えれば、すべての日本の文化の起源は近畿であり、そこに日本人のアイデンティティがあるのだという意見なのだろうと思う。
しかし、日本に住んでいるのはあなただけではない。
多くの人間が日本全国その土地にはるか昔から住んでいたし、先祖を大切にしていた。
だからこそ、あなたの意見を深く追及する気はないが、自分の意見が全て正しく、相手の意見が間違っているというスタンスは変えてほしいし、本当に自分の考えが正しいという確信があるのであれば、前にも書いたように、ただ文章を読んだり書いたりするだけではなく、実際にその土地に行って「目で見て触れて体感して」真実を自分の感性で語れるようになってほしい。
※464
博多は中世まで草香江、冷泉津といった海が残った
糸島の志摩はちゃんと島だった(らしい)
佐賀平野は弥生時代に海岸線が後退して行った(早津江、諸富津などの地名が残る)
>467
ありがとうございます。
あと気になるのは、崗之水門おかのみなと(遠賀川河口)と洞海くきのうみ(洞海湾)の関係です。縄文海進の頃は洞海湾が遠賀川方面まで広がっていて、繋がっていそうに思います。
>466
プラントオパールを調べて、それが陸稲の可能性をあなたは知った。調べてよかったですね。
そこから、縄文稲作は陸稲だから水田ではない。水田ではないから鉄器はいらない。鉄器は日本の石の多い雑草の多い土地を耕すのに必要。
そういう筋立てをされていますが、陸稲を植えるような場所こそ、水田適地より石や雑草の多い耕しにくい土地だと分かっていますか? そして陸稲の縄文稲作には鉄器はないという立場ですよね?
縄文稲作を水田ではないという論理で持ってきているわけですから。
耕すのに鉄器が必要と、縄文稲作は陸稲だから弥生文化(鉄器)とは関係ないというのが、矛盾しているのは分かりますか?
登呂遺跡は1世紀の弥生遺跡ですから、そこで鉄鍬が使われるのは当たり前で、逆に東海地方まで鉄が普通に使われている例であり、鉄使用が大陸に近い北部九州の独占物ではなかった証座ですよね。
稲作がかなり古く(縄文後期~弥生最初期)から列島に広く広がっていたというのが、邪馬台国の所在地論争に、必要な視点であることは分かってもらえましたか? そして、でまかせではなく学術的な根拠のある論点であることは分かってもらえましたか? プラントオパールまで調べたのですからお分かりいただけたと思いたいです。
逆に、ヨーロッパの、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と進んで、鉄器時代こそが文明社会で、それ以外の文明の発展様式はない、という考え方が偏っているんですよ。
縄文時代は、三内丸山遺跡一つとっても、定住型で栗の栽培をし、木材加工の面では臍組みを作って大型の木造建築を作ることができ、漆で処理をしたポシェットが作れる文明社会です。
※469
まず、俺の意見を述べる。
まず俺はたまにこのブログを訪れて、記事を覗いている。
今回の邪馬台国に関しては正直場所は畿内でも九州でもどっちでもいい。
そして俺は福岡在住で、実際に遺跡も見たし、福岡市博物館で金印含む遺物を実際に見た。近畿の遺跡、博物館はまだ見ていないから、心の中で多少のバイアスがかかっている可能性はある。
しかしながら、正直どうでもいいと思いつつコメントを覗いてみたら、あまりにも偏った意見が多いことに気づきレスをした。
本当の客観的な見方をすれば、遺跡発掘調査と数少ない文献のみで邪馬台国を特定することはまず不可能であるし、これからも決着はつかないのは目に見えている。
今までのあなたの、コメントを見て思ったのが、すべての年代区分を断続的に捉えているということ。
現代的な政権というシステムがない古代で断続的に社会システムが移行するということはなく、すべてが川の流れのように流動的であるということ。
別にあなたの主張を貶しているわけではないけれど、あなたが歴史が好きそうな感じはよく伝わるしよく勉強していると思う。ただ、教科書は人に教える以上、時代区分というものを明確に記述するけれども、実際に古代の年代を明確に知ることはできない。
そして、地層からの年代特定と炭素年代測定は実は正確ではない。
だからこそ、年輪から正しい年代が分かったというのも炭素年代測定ありきで論じているわけでそこに盲点がある。
別に九州説を主張してこう言っているわけではない。あなたは俺が九州派だから反論をするのだろうと感じているが、先ほど書いたようにぶっちゃけどこでもいい。
別に近畿だから九州だからと言って俺は何も得をしない。近畿だったら俺は何も失わないし、何も得ない。
損得勘定なしに物事を考察するのは其れすなわち「公正」。
この世のすべての事象をすべて、頭の中だけで論理立てて組み立てていくと最終的には2択になる。其れすなわち「二元論」。AかBか。コンピュータではすべての計算は二元論で成り立っている。
しかし人間はコンピュータではなく生き物だ。最終的にたどり着くのは何を思うか。
法律という西洋式の二元論の社会システムもたどり着くのは「裁判」。
日本語では「どっちつかず」というけれども、まさにこの邪馬台国の議論もそうだろう。
俺はお前に「回りくどい言い方をしているが、中身がないと言った」
その中身とは何か。それはお前自身の「感情」だ。
俺は福岡という土地でいろいろな歴史文化、人とのふれあい、空気感。様々な体験を通じて、この九州という土地で古代の人々の想いを自分なりに感じ取った。
実際に農業も経験したし、前に書いていることも事実だ。
そしてそれは、福岡で育ったからなんてことではなく、公正な視点で考えコメントしたつもりだ。
あなたが近畿地方の人間かどうかは知らない。
ただ、本当にその土地のことを思うなら、損得感情なしに自分の経験したことを元に「公正」な意見で述べるべきだと思う。
あなたが裁判官で答えが出せないのならば、本当に信じるべきは「義」であって、人の意見ではない。
だから、本当にまっすぐな意見であれば俺は必ず受け入れる。
でも、もうこのブログには一切来ないから、レスしなくていいよ。 話に付き合ってくれてマジでありがとう。じゃあな。
※442
ウリナラファンタジーですね。妄想と捏造の歴史。
半島南部の前方後円墳の遺跡は日本より約2世紀遅れたもの。
「都合が悪いものは埋めてしまうニダ。チョッパリのものは
全部ウリたちのものが起源ニダ。騙される奴が悪いニダ。」
韓国では、政府は歴史的発見だけは大きく求めますが、実際の予算のほどが、産業にならない学問には雀の涙ていども付かないのが現状ですので、考古学発掘はまだまだ黎明前と言えます。
ですので、現状の古墳や水田遺構の古さのみで、「日本のほうが先」と断言するのは、それは発掘バイアスというものです。
韓国がさらなる経済発展を遂げれば、
その時には日本王朝の起源を揺るがす大発見が続出することも大いに考えられますので、どちらが先かと言う論争はそのときでいいでしょう。
今から結論を出している諸氏は、日韓を覆す新発見があったときに受け入れられず、「捏造ダ!」と意固地になるのは目に見えています。
なぜなら感情で「日本が兄」と決め付けてしまっているからです。
心をフラットに保ちましょう。
韓国が経済発展するまでは。経済でも日本が兄の時代はじき終わります
※472
>今から結論を出している諸氏は、日韓を覆す新発見があったときに受け入れられず、「捏造ダ!」と意固地になるのは目に見えています。
そういうのをウリナラファンタジーというのですよ。まだ見つかっていないのに空想物語で強がりを言う。だから日本人からバカにされる。そもそも「日本王朝の起源」などという段階で歴史ではなく政治の視点であり、半島での発見は未来永劫不可能。残念ながら半島では文化も文明も生まれず、ただの通り道に過ぎなかったというのが現在の発掘による事実です。
※413-414
※406、407、409の者だけど 408は別の人。
邪馬台国は魏か色々と貰っているから、一番良い物(大量に採れていなくても)を献上したと
考えた方がいいかも知れない。
「出真珠、青玉。其山有丹、」の有丹は単砂(辰砂)で、水銀と硫黄の化合物らしい。
奈良には大和水銀鉱山というのがある。硫黄温泉もある。
また、空海は吉野辺りで水銀を発見し、遣唐使の船に乗る為の資金を得たという話もあるらしい。
真珠は大阪湾でも獲れただろうから、近畿一帯での産出物とみることも可能。
「倭地溫暖 冬夏食生菜」は、前にも書いたが、気温が低かった江戸時代前期の料理物語では、生野菜を食べていた記述があるし、幕末の守貞万稿には、大阪の泉州でも砂糖が栽培されていた記述がある。
そもそも、魏から見れば日本全体が温暖に感じられるだろう。
※465
>「狗奴」の地名は上毛野(かみつけの)下毛野(しもつけの)として今でも残っている
この説を書いているサイトを見たけど、少し無理があるだろうと思う。
邪馬台国と狗奴が争った結果、狗奴が勝ち男の王になったが、また戦乱が始まり臺與が女王になった事で戦乱が収まったと解釈すると、狗奴と邪馬台国は一つに統合されている事になる。
↑は?全部ブーメランだぞ♪それらは皆お前らが言ってる事だろうが。鏡乙♪それとも燃料投下のつもりか?
※470さんが来ないのは残念だが…※319
畿内説につっこんだら九州説攻撃、畿内でも困らんで?俺は。雅な古都文化憧れます♪で、決まってるんでしょ?学会で。そちらでホルホルしてれば?コンナとこ来ずに。神武の故郷を認める度量?自分でいうか、度量を。身内じゃないのか?他人目線だな。俺達は共通の祖先を持つ日本人だろう?
で、燃料投下♪
1ナラカという場所だった事が気になる
2今の皇室はニセモノだと貶めたい
3畿内、九州ドチラモくさせて日本自体を貶めたい
4そちらに利権がある
まぁ、古い遺跡遺構が出たところで先住民のものだわな。
あ、でも邪馬台国は畿内だと思いばす♪偉いセンセや学会がユートッタ♪(゚∀゚)ワカリマス
※477と470は同一人物だろうな(笑)
確かに、畿内説に反論できなくて「凄く悔しい」というのが、どちらも文面に出ている。
※465
地名だけ見ればそうだからロマンはあるし気持ちもわかるけど、
あの時代の遺跡があの辺りでは見つかってないからね。
※468
真鍋大覚は約3500年前は福岡平野と筑紫平野が海の底で
大宰府を通じて博多湾と有明海が繋がっていたというから
そういう時代なら地形的に海だった可能性は高いけど
一方で鹿児島県出水市や薩摩川内市では標高10m以下の遺跡から縄文式土器が多数発見されたりして
つまりよくわからない
戦後の占領政策で歴史学会に左翼が入り歴史改竄
プレスコードで表現の自由も言論の自由も許さず
戦後72年を経過も閉ざされた言語空間変化せず
TV新聞も今やアルかニダが支配しオワコン状態
自虐史観に反するものは歴史修正主義として排除
ここ十数年の飛躍的な考古学の進歩にも拘らず
邪馬台国の物的証拠は無しも不毛な議論が続く
邪馬台国も卑弥呼も悪魔の証明状態で不可能
魏志倭人伝なるインチキ記述の指摘はネットのみか
ニダと言えば、
断定の【~(なの)だ】 【~ニダ】
疑問の【~(なの)か?】【~ニカ?】
で日本語・韓国語は奇妙な一致してるんだよね。文意を決める文末の最も大事な形態。こういう相似は他の言語では見られない。
ふだんネットじゃ当たり前にニダ~ニカ~?で煽って日本人同士で意味を教えられるまでもなく伝わってるけど、よく考えるとこれって凄いことだよね。
1800年前だともっと近かったんだろうなぁ。
通訳も要らないくらい?
関西弁だと
【〜(なん)や?】
【〜(なん)け?】
477と470、482~484
畿内説でほぼ決まったのが、めちゃくちゃ悔しいんだろうな(笑)
色々と※にボロが出ているのさえ、気づかないくらいに(笑)
関西弁だと
【~(なん)か?】だろ。
~か?の場面で~や?を使うことは出来ない。意味が全然違う。エセ関西人か?
※463
ごめん間違えて「?」付けてしまった
断定の方だからいらなかったね
大和政権の成り立ちに関しても謎が多いと言われてる。古事記そのものが神話と化した伝聞上の歴史記述。それ以前のものは考古学で現れた物証と伝説を付き合わせる作業で得た推論に過ぎない。
日本国内の墳墓の多くが宮内庁管理で調査も好き勝手には出来ない現状では、これ以上の進展は望めない。
もともと古代日本には九州に出雲に畿内に東北にとそれなりの大型地方文化圏が乱立していたと思われる。出雲大社の元の外観は大和朝廷の様な今の地上の平造り様式ではなくて、遺跡調査によると巨大な何本もの柱に支えられた階段状の社(やしろ)・神殿が聳え立つものだったらしい。
出雲と大和は明らかに独立した別のルーツから生まれた文化圏。
畿内と九州の歴史解釈上の混乱も、元々が別の大型地方文化圏として並立的に存在してた可能性が高い。
中国への朝貢の折、それぞれが外交戦略として倭国代表の使者を送りそして名乗っていた、とも考えられる。
訂正
×※463
○※486
473> おまえ、キムチ臭いわ。韓国で発見された前方後円墳、どうなったか教えてくれ?。
473> わずか100年前の日韓併合の歴史すら、ウリナラ捏造する朝鮮民族が考古学を語るとはねー。
福岡でも自分のDNAに半島の血が入っている事に気づかない奴が多いんだろう
※488
縄文時代、日本各地に色んな集落ができていたし、ルーツもそれぞれって事は皆知っている事だよ。
ただ、北九州からは畿内式の土器も出ているし、畿内からも日本各地の土器が出ている。
また黒曜石などからも日本各地で交流があった事が分かっている。
纏向からは、伊勢神宮式と出雲大社式の別々の建築様式の建物跡が整列して建てられていた事も
分かった。これについては日本書紀や古事記の国譲り神話を裏付ける証拠の一つ。
まち、新唐書には倭人が蝦夷を連れてきた事も記述されている。
※488
で、邪馬台国九州説が濃厚となる証拠が出ない限り、単なる願望にすぎないぞ。
※483
中国の語尾はどうなんだろうね?
「〜アル」はさすがにちがうよね
※495
あと九州弁もどうなんだろうね
>481
ありがとうございます。
縄文海進は4~6メートル程度の海水面の上昇(ソースなし)らしいので、海抜10メートル以下ならまだ陸上かもしれません。ただ、波打ち際すぐですよね。
ただ、縄文時代といっても長いので、縄文海進がどの時期なのかも抑えないとはっきりしたことは言えないのでしょうけれど。九州南部だと縄文遺跡は喜界カルデラの破局噴火の前でしょうし。
>481
497への自己レス
縄文時代はざっくりで約1万5,000年前から約2,300年前
縄文海進は約7000年前から始まりピークは約6,500年前-約6,000年前
喜界カルデラの破局噴火は7300年前
なので、九州南部の縄文遺跡はおそらく縄文海進より前ですね
英語に語尾がないように、中国語にも決まった語尾はない。
文の最後で肯定・疑問・自制・仮定などが一気に定まるのは日本語と韓国語の特徴だ。あと敬語や話者の属性など諸々。
お♪マダマダいけるな。※743なんだが※740だけは勘弁してくれ。あれは挑戦人だろう。No!
それと9州在住って言ってた人は最後は和解的に退場したじゃん。俺9州じゃねーし、農業したこともない。だから関する知識もない。俺はもっと話を聞きたかっただけ。例上げして迷惑かけてしまったか…。
畿内で悔しい?全~然。俺は他の説が面白いから来てるの。畿内説おもんないから。※でトルコ、アナトリアから台湾まで非常に興味深い話あったろ?まぁイスラエル云々はどうかと思うが、そういうのも期待する訳。
俺の気持ちの忖度は意味はない。で、忖度希望で敢えて言うが、アメリカで云えばインディアン政権時の首都?を何処だ此処だといってる様な議論だろ?←テキトウ、比喩デス。燃料投下、ヨシ。
※475
>料理物語では、生野菜を食べていた記述がある
具体的になんて書いてあるの?
砂糖の話よりそっちが重要
※470
横だけど、
石鍬というものが存在した事実に関して、どう思う?(>453)
自らの経験に基づく感覚は、理解の助けにも妨げにもなる
経験を買い被っちゃいけない
時代区分云々は一理ある
煽り合いも去られるのも見ていて惜しい
戻ってほしいな
西日本で2番目にお酒に強い沖縄県人
※499
中国語 語尾
でググったら何かあるっぽいけど
倭人伝の記述を和弓と断定するには
当時の台湾や沖縄の弓を確認する必要がある
和弓の上長下短の形って何か理由があってそうなったのかな?
ぜんぜん根拠といえるようなものではないんだが、
複数人が詰めて乗る肩幅しかないような細長い小舟(カヌー)同士が戦う場合、
兵は立たずに弓を射ることになるだろう
矢を遠くに飛ばせる方が有利で、材質が同じなら弓は大きい方がいい
しかし詰めて座って射るので、大きくしようとするなら上に伸ばすほかない
それで上長になった 理屈としては成り立つ
小舟(カヌー)同士が戦う イメージに過ぎないが
沖縄ならばそういう海戦が沢山起こり得たはず
沖縄で発展した弓が倭に伝わった可能性はあるかもしれない
大昔の沖縄の弓がどんなだったか結構に気になるところ
現代農法なんて、例え手作業重視のレクリエーションであっても古代とは単位収量のケタが違うからな
経験が認識を誤らせる典型だろう
ロクすっぽ土を耕さず、表面水を張るだけで種撒いても低い収量なら上げられる。人が少なく土地があり余ってる時代なら面積あたりの効率は重要でないので、むしろ労働力こそを効率よく配分するために手間のかかる耕うんはしないor少量という戦略も考えられる
社会限界を縛っているファクターが違うということなんだな
※490
お前が言え、このキムチ野郎
死ぬまでウリナラファンタジー言ってろw
1万2千年前から約7千年前まで半島は無人
半島の下半分は大和民族が住んでたんだよ
朝鮮には文化も文明もなかったんだね
7300年前の鬼界カルデラの噴火で日本人が移住
半島にもあった縄文文化ってやつw
偽書倭人伝の記述
気候は海南島と同じ
1年中生野菜を食べ裸足
畿内説って小氷河期に有り得ないんだが…
大丈夫ですか?
※508
新参か?上から読んでおいで
北海道の東大雪(紋別郡白滝町)の奥地には黒曜石の古い採掘、加工跡の古代遺跡がある。ここから掘り出された黒曜石の石器は日本全土に運ばれている。古代日本でもかなり広範囲の交易があった証拠だね。
505 > 和弓の上長下短の形って何か理由があってそうなったのかな?
★現在の日本の倭弓の形は平安期の騎馬武者の戦闘様式からの必然だと聞いたのだが・・違うのかね?。
492 >
古代朝鮮と今の韓国土人は人種的には別ものでしょ。
韓国人直系のご先祖様は朝鮮エベンキ。そのルーツはアリラン民謡の言葉が残るシベリアエベンキ。
古代朝鮮と倭国(古代日本)中国(漢民族)との血の相互交流はあったと思えるが、今の腐った血の朝鮮族とは日韓併合時代から戦後の混乱期に乗じて日本に侵入した密入国者の群れ以外、それまでの日本人との血の交流はほぼ無い。
>510
神津島の黒曜石ばかり話題に出してきましたが、北海道の白滝村(東大雪)や信州の和田峠のものも、広範囲で流通しています。おもしろいのは、黒曜石というのが、どこでも採れるとまではいきませんが、結構いろいろなところで採れるにもかかわらず、広域流通している産地は限られる点です。つまり近場のそこそこのものより、遠くから運んでまで質のよいものを使いたいというこだわりがあったようなのです。
こういうことを知ると、日本人は縄文時代から日本人だったのだなと、個人的には感じます。
>>512
そんなそっくり入れ替わるわけないだろ
というかエベンキも古代朝鮮人も同じ北アジア人として大して変わらんだろ
違うというなら証拠だせ
和弓については飛び道具の記事でも言及あったろ。
コメントするならせめてサイトの記事読めよ。
尚敬王の時代の弓の記録はあるな。
日本と運用が違う。
もし、昔から使ってたら形は似てても別もんだな。
※505
沖縄には櫂術あるだろ。
古墳時代には3mを越すものもあったのか。
和弓って昔から独特だったみたいだな。
だからこそ魏志倭人伝に書かれたんだな。
≫512
遺伝子を調べるとエベンキの民族と南方原住民が半々だぞ。
>>513
三内丸山遺跡も栗の栽培をして輸出してたんだぜ。
しかもその栗も年代を経ると遺伝子がまとまってくる。
身が大きく、病気に強く、美味しい木だけ選んで代々植えてったようだ。
環境の変化で滅んだけど、日本人は昔から品種改良と栽培が好きだったようだ。
神津恭介の説が一番美しい
末盧国は松浦=唐津だろ
日本最古の水田跡がある菜畑遺跡もあるし
佐世保に人が住みだしたのは明治になってからだっての
>>521
急性肝炎にならないといけないということですね
※521
魏志・倭人伝の重要部分には,いっさい改訂を加えないこと,古い地名を持ち出して,原文の地名や国名をあてはめないことという二つのタブーを設定して,邪馬台国の場所を推理するから邪馬台国=大和、邪馬台国の場所だけ南=東の畿内説を否定してる。
さらに当時の海岸線を想定してるから内陸の纏向遺跡が都である畿内説に不利。
また、投馬国が瀬戸内海に面してないし、狗奴国が愛知や栃木にないから不採用。
畿内説を前提にしていない推理に何の意味もない。
>いっさい改訂を加えないこと
じゃあ沖縄の海の底になりますけど
九州説もアウト
>原文の地名や国名をあてはめないこと
途中の国も全部ダメになりますけど
前者はともかくこっちは良いだろ。畿内説の方が優れてるってことだわなw
>内陸の纏向遺跡
当時の大阪は海だらけだったから、奈良は言うほど内陸じゃないよ
>狗奴国が愛知や栃木にないから不採用
愛知と静岡にあるから採用
はい、論破
>>525
小説なんだけど…
もしかしてラノベしか読んだことないのかな?
※525
畿内説のお前が論破してどうするんだよ
あと狗奴国は北関東だから
其地無牛馬虎豹羊鵲
と書かれてるのにどうやって陸で1ヶ月も下賜品を運んだんだ?
生口かな?そうだとしたらその食料はどうしたんだろう。
魏の使節団は何人で行ったのか?間に国がないのに。
謎は尽きぬ。
>525
>当時の大阪は海だらけだったから、奈良は言うほど内陸じゃないよ
それだと日数が合わなくなるんだよ
アンチ畿内説は黙ってろ
※526
は?この小説を読んだことない=ラノベしか読んだことないになるの?いみふ
※527
だから畿内説を前提としてない推理を論破しただけだよ
あと北関東に当時の遺跡は無いから
※529
俺は畿内説なんだけど
※175を見るに、狗奴国(毛野、鬼怒、久努)は関東平野から静岡あたりまで勢力範囲だったと思われる
※531
おまえ175信じてるのか?
※530
小説だと知らなかったからって怒るなよ
>>530
奈良=邪馬台国だから、その先から北関東に狗奴国の勢力がないと
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
これが関東になっちゃうんだよ、おかしいだろ?
畿内説なら当然、北関東=狗奴国と遺跡が出てなかろうが決まりなんだよ
※533
神津恭介ってググって小説だとわかってましたけど
畿内説否定されたと勘違いして怒ってるのはお前だろ
※534
??kwsk
愛知狗奴国と静岡狗奴国があるの?
なぁんだ ※15 で結論がでてるよ。
魏の都の工房後からは漢式鏡の型しか出土してないから、ヒミコがもらった鏡はそれだ。
そして、日本でその漢式鏡が圧倒的に大量出土するのは福岡近辺の北九州!
倭人は正歳を知らずに春耕秋収を持って年数を数えると書かれているのに、なんで神武東征が紀元前7世紀になるんだ? 頭可笑しいよ、安本美典のいう2世紀中頃の方が信じられるな。
だいたい、弥生時代の矢ジリは畿内はほとんど石器なのに、九州では鉄の矢ジリが豊富に見つかるんだ。つまり、使い捨てじゃない剣鉾も鉄器の九州系の鵜がや(近畿天皇家の苗字)一族という豪族が、迂回して隙をついて攻め込んだとは言え、少数でも奈良盆地を制圧出来たんだな。
原文で邪馬台国とされる記述
南至邪馬壹國 女王之所都
邪馬「台」国とは記されてない
ヤマタイ(ヤマト)と呼ばれてなかった説まである
音読み イチ 呉音
イツ 漢音
訓読み ひと(つ)
意味 ひとつ。一。数の名。
すべて。もっぱら。まったく。ひとえに。
ひとたび。一度。
契約書などの文書で、書き換えを防ぐために「一」の代わりに用いる大字。
調べれば調べるほど謎が出てきて楽しいな
宮崎県の西都市に3世紀半ばの帆立貝形古墳あるんだね
こっちのほうが前方後円墳のモデルじゃない?
女王国じゃないのかな?
まあ九州かな
畿内だと狗奴国はどこにあんのって話になるし、畿内在住が北九州を抑えるのは難しい
卑弥呼以前に王が男だと争いまくり、卑弥呼死後もすぐバトルするような国だぞ
南九州でシャーマンが王様役やってなんとか邪馬台国連合を保っていたんだろ
>531
魏志倭人伝の最古の「写本」に邪馬壹國とあることをもって、これはヤメイと読んで八女市周辺だっていう人もいますが、魏志倭人伝以外の史書では軒並み邪馬臺國となっています。文献はより古いものを重視するというのは、文献史学の基本ですが、そもそも現存の魏志も「写本」な訳ですし、本来は邪馬臺國だったのだろうというのが大勢の見方です。
九州派はせめて邪馬台国は山門なのか日向なのかぐらいハッキリしてくれ・・・
時と場合でどっちも使い分けるから聞いててイミフ
「とにかく九州なら、神武東征が事実ならなんでもいい!」感が出ててなんだかねぇ
そらプロの世界では少数派なわけだわ
3世紀以降に九州王権が畿内に移ったなら当然発掘されるはずの明確な状況証拠(土器・武具・墳墓の定向遷移)がまったく見られない
それどころか、日本各地の在地文化が卑弥呼以降に近畿文化を中心として緩やかに統合されていったように見られるから
考古学的には邪馬台国=畿内説が圧倒的に勝ってる
記紀神話だけ読んで九州に飛びつくのがシロウトでは圧倒的に多いからいつまでも荒れる要因なんだろな
もう別々に考えているのが間違っているよね
30国くらいの連合国だったのだから、畿内派が治めることもあれば九州派が治める事もあったが普通じゃねぇの
※537
・三角縁神獣鏡。九州説サイドの反論への反論もwiki載ってる。
・記紀を根拠にしながら、都合の悪いところは記紀に書いてある通りに読まない東遷説のほうが頭おかしい。14代仲哀天皇の后が晋に朝貢したって書いてあるわけだから、初代神武はこの時代よりもっと前の話。
・近江や淡路に鉄器工房があるんで普通に畿内勢力も鉄器を持ってたことは確実。古墳が天皇陵に指定されてるから発見しにくいだけ。
※536
邪馬台国が畿内であれば南は東だから、畿内の東に狗奴国がある。よって、愛知から静岡にあるあの時代の遺跡が狗奴国だと推測される。どちらかはわからない。
※528 其地無牛馬虎豹羊鵲 と書かれてるのにどうやって陸で1ヶ月も下賜品を運んだんだ?
馬の化石は岐阜県、長野県など第三紀の地層から出土している 骨は愛知県高倉貝塚や鹿児島県出水貝塚から出土している(林田重幸著 日本在来馬の系統) 縄文時代から飼っていたらしい
狗奴国と奴国の間までが女王国。
つまり愛知から北九州までが邪馬台国(奈良)を中心とした連合国家。
使者が見た北九州は牛馬がいなかっただけで、倭国や女王国全てがそうだったわけではない。
上の方によると畿内説は畿内説を前提にしてこじつけないといけないみたいだから
やっぱり違うんだろうな・・・
九州説の方がコジツケが多いんで
距離
九州× 畿内○
方角
九州○ 畿内×
地名
九州× 畿内○
畿内の勝ち
九州説がサンドバックで息してない
※501
料理物語では、生野菜を食べていた記述がある 具体的になんて書いてあるの?
1643年刊の料理物語の主に第七青物之部に書かれてあるのは「さしみ」=「生」の事で、
たんぽぽ、夕顔(干瓢)、ボタン、クチナシなどの花。シチャ、川チシャ、なすび、ねぎ、
あさつき、などが挙げられているが、「さしみ」で、まとめと書いてあるわけではない。
例 〔ちしゃ〕汁、さしみ、和え物 〔あさつき〕なます、さしみ といった具合に
食材名を題して、それに合う料理が順に書かれてある。
畿内説を前提にしないコメントに価値はない。
奈良で発掘されないものは近隣で出土したもので補えばいい
邪馬台国は奈良であり、魏志に載ってる邪馬壹は別かもしれないが、もはや畿内なのだから、魏志倭人伝は無視してよい。
畿内の風習と違っている倭人伝の記述は九州であり、邪馬台国は倭人伝に書かれていないのだから、必然的に邪馬台国は畿内になる。
東征も邪馬壹を邪馬台国にするための神話であり、九州の神話を取り入れた記紀は邪馬台国と無関係。
狗奴国も畿内以東では確たる遺跡はないが、魏志倭人伝は邪馬壹の話なので畿内説には関係ない。
三角縁神獣鏡も邪馬壹から奪ったものを元に畿内でコピーしたものだから、中国にない年代と韻を踏んでない文章をつけた。
このことからも邪馬壹と邪馬台国は別であり、邪馬台国が畿内だということを表している。
つづき、第十一指身之部に料理方法が書かれてあるが、主に鶏・魚・獣肉類で、その調理方法が書かれてある。湯引きのようなのものは「白めてよし」と書かれてある。
野菜では〔川ちしゃ〕よめがはぎ、あさつき、又は菊の花、シャクヤクの類はいずれも酢味噌にてよし
とある。つまり、湯をかけたりもしておらず、生で食べた事が分かる。
※554
畿内説を否定したいがための工作か?(笑)
※547
青玉=サファイアの産出は岐阜にもあるから、邪馬台国=奈良だとすると、岐阜あたりと交流があり、邪馬台国がサファイアと馬を入手していた可能性があるだろうな。
※551
距離で畿内って何をどう読んだの?
558
お前がコメントしてるブログのエントリを最初から読んでみなさい
※554読んで畿内は絶対ないなって思いました
これで半分くらい候補が減ったかな
めでたい
557
纒向から出てくる土器の中で東海地方が一番多い
560
精神勝利おめでとう(棒
馬がうまれたのは紀元前4000年のウクライナ
縄文時代の日本に居たってもそれは半島から船で北九州にやってきたルート以外考えられないので、長野だなんだに拘る意味はない
日本に居たなら九州にも当然いるし
倭人伝に居ないって書かれてたってことは超少なかったんだろうな。少なくとも組織的労働力として使われてたとは思われない
名前つながりで氷見
※551
地名は奈良付近の地名は九州と被ってるという有名な話が有るだろ
いや魏志倭人伝に載ってる地名と被ってないと
※566
邪馬台国=大和
これだけあれば証拠になる。
単なる大倭の当て字だが纒向遺跡=邪馬台国の証拠。
畿内説の否定は意味がない。
魏志倭人伝には、鉄の鏃が出てくるが、纒向遺跡周辺を始め、奈良県では出土しない。
儀礼用の木の鏃と見間違えたはず。
狗奴国と戦争していたとされるが、愛知、静岡、北関東と纒向が戦争した後はない。
張政の出番などあるはずがない。
これが魏の使節が邪馬台国までたどり着かなかった確かな証拠であり、旅程が間違っている証拠である。
北九州の倭国大乱を見て、邪馬台国と狗奴国が争っているに違いないと思い込み卑弥呼の話術に騙され、下賜品と金印を授けた。
在野の研究者がネットにあげていた文章なので、信憑性はその程度のものなのですが面白いと思った話に、247(8?)年に卑弥呼死すと書かれているのは台与の死だ、というものがあります。
そうでないと、卑弥呼の年齢が70歳くらいになるそうで、ちょっと長生きし過ぎな気もしていたので、そんなこともあるかなと思いました。
狗奴国との争いの中で卑弥呼が死んで、男王を立てたが国中服さず、宗女台与を立てておさまったのは247年よりもだいぶ前のことになる訳です。
平均寿命が短い時代は、乳幼児死亡率が高いため平均が短くなるだけで、育って大人になった人はそれなりに長生きなのは分かっています。
魏志倭人伝では卑弥呼が共立されて時期は書かれていませんが、後漢書や梁書では、「桓・靈閒 倭國大亂」「靈帝光和中 倭國亂」と書かれていて、その後に共立されるので、遅くて西暦200年前後になります。その時点で年已長大で、最初の遣使が239年、没年が247年だとすると、共立時に20歳でも67歳、長大というのをもう少し年上に考えると70歳を超えます。
まあ、この辺は想像するしかないですが、卑弥呼の事跡が卑弥呼+台与の二人分というのはありそうな気もします。
中国史でも日本史でも倭国と大和国を混同してる?。
倭国は北九州一帯の勢力圏。
大和国は畿内一円の勢力圏。
こう捉えれば理解しやすいのかも。
魏志倭人伝の時代、そもそも日本は中央集権的な統一国家だったのか?。
むしろゆるやかな連合国家群が日本全国にひしめき合ってたのではないか?。
古事記以前の神話、伝承物語に描かれている日本の情景はそのように見える。
>539
西都原古墳群は長期に渡って比較的大きな古墳の造営が続く古墳群ですが、古墳群中最大の古墳が作られるのは、大仙陵古墳が作られる頃です。その頃に日向の髪長姫が仁徳の妃になったという日本書紀の記述があり、大和を超える勢力には見えません。各時期の古墳も同時期の近畿の古墳より規模が小さいですし。
宮崎に円墳に近い前方後円墳みたいな古墳がある→奈良に突然巨大な前方後円墳が現れる。
東征の証拠じゃないですか…。
神武東征記事の、日下まで船で行ったなどを見ると、縄文海進の名残のある時期の物語のように見えます。
欠史八代以前は歴史ではないというのが、歴史学者の立場ですので、この辺は在野の研究者しか言及していないのですが、古系図の研究者によると、系図の残る豪族との世代対応を見ていくと、神武から欠史八代の存在を否定する必要はなく、ただ直系の父子相続ではないそうです。神武から10代の崇神まで、世代で五世代とすると各豪族の世代と整合性が取れるのだそうです。
記紀の記述に従って、纒向(記紀では磯城ですが)の王が崇神だとすると、神武東征はその五世代前、一世代25年とすると125年くらい前になります。倭国大乱よりも昔になりますね。
この辺りは、思考のお遊びみたいなものですが、ご参考まで。
※511
>倭弓の形は平安期の騎馬武者の戦闘様式からの必然
違うと思うよ
弓矢を射る真似をしてみれば分かると思うが、騎上では
利き手側に矢を放つ事ができない
騎上で弓は正面から左側だけで使う物(右利きの場合)
馬の反対側に移動させる事がないし
正面を射るときは少し傾ければいいだけ
弓が下に長くとも困ることがない
上長下短になったのは騎乗が原因ではないはず
※516
少なくとも19世紀の沖縄の弓は上長下短だったのね ありがとう
日本(本土)にも大昔から完成された和弓や弓道があったわけじゃない
弓の形が似ているならルーツが共通してる可能性があるな
現状、倭人伝の上長下短の弓の記述が和弓とは断定できない
※518
弓矢はドローイングの幅も重要
弓が3mもあっても人が引ける幅は変わらないので威力は大して出ないと思う
実用的でないから祭器の類あるいは上下対称で横向きに複数人で使う軍器では
※522
同意
唐津は中国との交易地についた唐以降の名称だと思う
※553,555
「さしみ」が生とは限らないよ?
調べてみると同書の指身の部に
「雉子 丸煮してむしり山椒みそすよし
にハとり これもきじのごとくつかまつり候」などと書かれてる
一口大に切って味付けしないでタレの類につけて食べる
これが刺身の定義のよう
読むかぎり生で食べる物のほうが少ない
その「川ちしゃ」以下の5種のうち冬に食べるのはあさつきだけ
根拠として弱くない?
そもそもこれも当時の沖縄・台湾の食文化についても調べない事には
何処と特定できない問題
>>576
邪馬台国は畿内だから台湾と沖縄を調べる意味はない
>>576
邪馬台国は畿内だから台湾と沖縄を調べる意味はない
種禾稻紵麻
とあるからカラムシで弦を作ったようだな
>574
東アジアでその形の弓を使うのは日本だけなのに倭人がどこか特定できないっておかしくない?
もし捏造するなら自分たちと同じ形にする
弓の下側を持つなんて想像できないだろう
※577
明らかに畿内と一致しない情報があるじゃないか
一部の一致だけを見ても意味が無い
全体の性質を明らかにする事が、読み解く事に繋がるんだよ
※569
原文読もうぜ
其人寿考 或百年或八九十年
って書いてあるじゃん
※581
調べてみたら沖縄も使ってたようじゃないか
いつからか知らないが
※581
捏造?
捏造じゃない 混同だよ 上の方読み返してくれ
>581
おいおい李氏朝鮮が1402年に作った混一疆理歴代国都之図は知ってんだろ?
これに日本列島が書かれてるんだよ。
そして中国の地図のものより正確な形をしていて、向きが90度回転してる
この地図によれば畿内に「至る」
ただしこの地図の元になったものから書かれたほかの地図は全て正しい向きをしているから他の地図は畿内説と違うので無視していい
そもそも当時の人間の皮膚も食事も残ってないのに何が沖縄や台湾だよ
台湾は一度煬帝に滅ぼされてるし、今住んでる先住民(本当は原住民と書いたほうが現地の人たちの漢字から受ける印象は良いが日本語なので先住民とする。先住民だとまさに滅んだ後の意味になってしまうので現地では使わないように)とは遺伝子のグループが違う。イメージ的に倭人と同じと思っている人も多いがそれは台湾先住民を無意識、あるいは意識的に下(野蛮人)に見ている差別意識からきている。
沖縄と倭人を同一視している人もいるが、明治まで少なくとも中国と日本では沖縄は日本とは別に扱われていた。むしろ今同じ日本国家だから先祖も一緒ではないかと思いがちだが、文化も言葉も風習もまるで違う。弥生時代以前から交流があったことは間違いないが、未だに奄美と沖縄と南九州を一からげに扱うのはいかがなものか。薩摩藩が琉球の武装解除したというのもイメージ、実際は銃の所持を禁止しただけ。そうじゃなければ釵術もティンベーも残らんわ。
日本書紀のほうがよっぽど沖縄の人を対等に見てるね。
南国で生のまま食べるほうがよっぽど危ない
>>584
畿内と違う情報は全て伝聞
畿内と合致する情報のみを拾っていけば正しい情報に行き着く
>585
邪馬台国は2~3世紀頃の国なのに、どうして1400年代の書物を参考にするんですか
日本書紀より後の書物で信憑性はありますか
魏は倭を遍く見て畿内にある邪馬台国が倭で一番大きい国だとして国王としたにもかかわらず
「其餘旁國遠絶 不可得詳」と書いてあるからおかしい。
兵を連れてこず張政が魏を持ち出しただけで狗奴国が停戦に応じるのもおかしい
畿内の邪馬台国のすぐ傍の狗奴国は愛知から静岡を経て北関東まで有する巨大国家であり、ここからは中国のものが出土していないにもかかわらず中国の魏の使節から停戦命令を出されても従ういわれはないはずである。
つまり中国のものが日本製(邪馬台国特産のコピー製品)の銅鏡以外出土しない地域にも魏の正確な権威が届いていたことになり魏志倭人伝はおかしい
後漢の時代から交易があり金印を授けられていた奴国がある九州ではないのだから魏と交渉する必要は邪馬台国以東の倭人には全くない
このことからも魏が近畿地方にあり、しかも倭国最大の国であり、石器を用い、鉄器勢力をも凌駕し、一人の戦死者すら発掘されない最強国家邪馬台国に権威を貸す必要など全くない
さらに纏向遺跡周辺と愛知、静岡、北関東の遺跡は戦争をしていない
このこともさらに魏志倭人伝の記述と違いが出てしまう。
圧倒的強者である奈良=大和=大倭=邪馬台国は戦争をする必要がないのである。
戦乱が続いたりそれを収めるために女王を立てたり、魏の使節を迎え入れる必要は畿内の邪馬台国にはない
狗奴国1つとっても畿内説という歴史的事実の前に魏志倭人伝の不合理さが透けて見えるのである
※588
畿内説に沿ってる日本列島の配置だからだよw
畿内説が出るずっと前に存在してたこの地図の存在が全てを物語っている
>588
古い新しいじゃなくて補完してるんだよなぁ
581じゃない
580
九州説が息してないな
>582
569ですが、魏志倭人伝に限らず漢書も後漢書も晋書も梁書も、原文に目を通してますよ。
魏志倭人伝に書いてあるからといって、80・90歳とか100歳とか医者もいない弥生時代に、現実にあるはずがないでしょう?
私は日本の古代は春秋年だったという説を支持していますので、40~50が寿命と言われれば、まあそうかなと思います。それと比べて、暦年(春秋年ではなく)で70超の年齢というのは難しいだろうということです。
ちなみに、縄文時代の推定平均余命は、遺跡(墓)から出る人骨の推定年齢(15歳以上に限る)から15歳時点で15~16年、足して30歳前後が育った人の平均寿命と見積もられています。15歳以下の人骨の出土が少ないので平均寿命(出生時の平均余命)は、計算できませんが借り物として18世紀のヨーロッパの15歳までの死亡率を入れて計算すると、平均寿命は15歳くらいになってしまうそうです。
弥生時代の平均寿命は、ざっくりで30歳くらい。江戸時代で40歳手前くらいです。秀吉より長生きすることで天下を取ったと言われる徳川家康でも、75歳で死んでいます。
卑弥呼が70を超える長寿(暦年で)だったというのが、信じがたいという感覚はお分かりいただけたでしょうか?
>589を読んで、狗奴国が、毛野国だと納得が行きました。
これまで、毛野国が上毛野、下毛野の領域だと思っていたので、離れすぎているしめぼしい遺跡もないしと思っていたのですが、邪馬台国連合(倭国)に属さない領域の太平洋側全体を毛野と呼んでいたのでしょう。それを音で聞いた中国の人が狗奴の字を当てた。日本語でも毛野と書いて、読みは「けぬ」ですからね。ざっくりで、後にヤマトタケルが征伐した領域全体が毛野国(狗奴国)でよいように思います。
統治の届かない土地は一括して一つの国名で呼ばれるのは、日本海側の「越」「出羽」、関東まで朝廷の支配が届いた以降の東北の陸奥の例があり、それと同列で考えれば、大和の国の東側で邪馬台国に属さないところを一括して毛野(狗奴)国と呼んだというのは、ありうる話だと思います。そして毛野国全体を治める王ではなく、毛野国の大和国に近いところにいた王が卑弥弓呼なのでしょう。
日本の氏族名は、地名で呼ばれることが多いので、豊城入彦命が毛野に入って上毛野氏になった。一方で尾張の国は、尾張氏が入ることで元の毛野国から分離して尾張の国と呼ばれるようになったのでしょう。尾張氏の氏族名は、もともと大和の葛城の高尾張にいたためのようです。
※589
>日本製(邪馬台国特産のコピー製品)の銅鏡以外出土しない
あれは中国製だってわかってるよ。情報が古いw
>石器を用い、鉄器勢力をも凌駕し
畿内勢力にも鉄器があったことは発覚してます。残念だったね九州説くん。
※576
ちゃんと読めよ、全ての指身=とは言っていない。『青物の部』では、書いてあるだろう。
『第七青物之部に書かれてあるのは「さしみ」=「生」の事』
そもそも日本原産とされる野菜は三つ葉・フキ・みょうが・ワサビ・セリなど20種類程度とされる。
江戸時代には色々な野菜の種類が増えたが、料理物語に全ての野菜が書かれているわけではない。
料理物語は料理書だから、調理するものを主として書かれているんだよ。
江戸時代以前から、ブドウや柿・スイカなどのフルーツは生で食べていたものだが、料理物語には記述がないだろ。
野菜をそのまま生で味噌をつけて食べるなんて事は初歩の事だから料理の範疇には入らない。
特筆する必要なんてないんだよ。
これくらい理解できるか?
ぶっちゃけ何時の時代も富裕層・支配層ってのは同じようなレベルの暮らししてるから、
75くらい生きても全然おかしくないよ
未経産の女性ならなおさら
外部と隔離されてたなら富裕層にとって一番怖い伝染病のリスクも大幅に減るしね
検疫隔離こそが前近代でとりえた最良の医術
その他は薬草まじないの域から数千年間脱してない
「狗奴国が魏の権威でもって邪馬台国に下った」ってのは当然ながら「正史」としての誇張表現だろ
国司元相 100歳
平賀元相 98歳
小梁川宗朝 96歳
北条幻庵 96歳
三好政勝 95歳
沖縄・台湾説は基本的に論外なのだが、この説を推したい人は、その後の歴史にどう繋がっていったか
複数の客観的証拠を出して説明できないとダメだぞ。
>598,600
王侯貴族や富裕層はいつの時代でも長生きというのは承知していますが、限度ってものがあります。
600で挙げられている例は軒並み戦国時代~安土桃山時代ですが、江戸以降で匹敵する長寿を多く挙げられるでしょうか?
戦国時代は戦乱の中記録も散逸しがちでしょうし、家督争いもあり複数の人物が一人とされている例も多いでしょう。北条幻庵のWikiにも以下のような記述があります。
最期と年齢に関して[編集]
天正17年(1589年)11月1日に死去。享年97という驚異的な長寿だった。ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として、大永3年(1522年)に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。一説に文亀元年(1501年)生まれという説がある。また、没年に関しても現在では疑問視されており、天正12年(1584年)、天正13年(1585年)などの説がある[7]。いずれにせよ当時としては長寿な部類の人物であった。
私自身詳しくないですし調べる方法もないので、すべて当てにならないという気はありませんが、それほど信頼できるというものでもないと思います。それと、戦国時代と弥生時代で同じくらいというのもさすがに難しいと思います。
>601
私が台湾・沖縄に言及するのは、魏志倭人伝を書いた側にその辺まで倭人という認識があって、台湾・沖縄の風物が、魏志倭人伝に混入しているのではないかと考えるからです。
魏志倭人伝の倭人の習俗に南方要素が色濃いから近畿というより九州だろうという論立てに、どれだけ妥当性があるのかを考えたい、ということです。
>>602
はじめに戦国時代・家康の例をあげたのは君だろ…というかもうどっちでも良いんじゃない邪馬台国の場所には関係ないでしょ
家康の数え75でも相当な長寿、それ以上の長寿は疑わしい。家康の生涯は研究、検証が進んでいるが、挙げられている人物程度では、資料も少なく検証も難しい。戦国から江戸期の人物でも75が珍しいレベルなのに弥生期末で家康と同等というのは疑問、ということです。
卑弥呼の没年齢の話は、邪馬台国の位置論争に直接は係わりませんが、魏志倭人伝の程度(信憑性)や卑弥呼および台与の共立の意味、時期に係わってきます。
女王卑弥呼を護衛する伊都國に郡使が駐在していた
ことから邪馬台国は伊都国とそう遠くない場所に
あったのではないか?
伊都国から1か月も掛かる所にいる卑弥呼をどうやって
郡使が救援できるのか?
奈良の都はナガスネヒコの統括するところで青銅器を生産していた。
大和時代になって地中から青銅器が発掘されたとき
当時の大和人はそれが何物か分からなかったといわれている。
資料なんて似たようなもんだろう
家康なんぞ生まれた時にはもと田舎豪族にすぎないんだし
伊都国のすぐ近くにあったのは「女王国」。
つまり女王連合(JU)加盟国圏。
その盟主的存在「邪馬台」までは距離があったというだけの話。
衣食足りて、労役もせず、あとは綺麗な上水を確保できれば死の原因が思いつかんだろ
感染症ぐらいしか
平均余命はあくまで平均であって
弥生の人間に50前後で何らかのリミットイベントがあった訳ではない
同時代の人がいいなら
孫権(182-252) 70歳
張昭(156-236) 80歳
顧雍(168-243) 75歳
司馬懿(179-251) 72歳
賈ク(147-223) 76歳
程イク(141-220) 79歳
鍾ヨウ(151-230) 79歳
など
地域が違うけどね
女性は記録が少ないけど男よりだいぶ長いだろうしな
出産がハイリスクだけど
「子を産まなくていい女」ってはあの時代ある意味最高の待遇よな。皇女も多くは生涯未婚で神社か寺にぶちこまれてたんだっけ
605です。
少し離れている間に多くのレスをありがとうございます。一応家康の松平家は、三河半国とはいえ国持ち大名ですし、家康が織田家に人質に出されていたように、人質のやり取りが必要な程度の家ではあります。信長公記などでも足跡が追えますし、出自も分からぬ田舎侍ということはないです。
まあ、私もこの件にそれほどのこだわりがあるわけではないので、反論がしたいということではありません。ただ、弥生時代末に「70過ぎまで女王位にいた卑弥呼」というのが、しっくり来ないだけです。
魏志倭人伝では「其人寿考 或百年或八九十年(おそらく春秋年)」と書かれていますし。
70まで生きる人が当時絶無ということはないと思いますが、大勢の中のごく少数でしょうし、女王その人がその数少ない長寿者になるかというと、やはり疑問に感じます(個人の感想ですので、これで終わりにします)
>611
皇女の多くが未婚を強いられたのは、嫁ぎ先がなかったからという点も大きいように思います。
相手が皇族でなければ釣り合わない、という感覚が強かったのではないでしょうか。
邪馬台国全然わかんないけど
このコメント欄見てて思ったのが九州説唱える人は頭がおかしい人が多いと思いました。(言動的な意味で)
※612
龍造寺家兼 93歳
松平忠輝 92歳
真田信之 91歳
島津義弘 85歳
宇喜多秀家 83歳
細川忠興 83歳
家康と同じぐらいだったら
伊達政宗や織田信雄、毛利輝元、今川氏真…いくらでもいる
>>612
不知正歳四節但計秋収之時以為年紀人多壽百年或八九十國
とちゃんと書いてあるじゃん。
四季はないけど秋の収穫でもって1年と数えてると。
いくらなんでも春と秋でそれぞれ1年ておかしいでしょうよ
「長生き」で80歳や90歳まで生きるって書いてあるんだから、一部の人だけ長生きとか、
2倍年で80歳=本当は40歳(ドヤァ)とか書いてないじゃん
※614
そりゃそうだ
畿内説を朝鮮半島で15世紀に作られた列島が90°回転してる世界で1枚だけの地図という強力な物証があるにもかかわらず批判してるんだからな。
>596
戦争で使われた鉄器が見つかったの?
鉄の鏃が打ち込まれた人骨が見つかったの?
近代に到るまで戦争の基本は投石
おまいは投石するときに「威力があるから」つって鉄の塊を投げるのかい?
鉄なんてその程度
まあ無いよりはマシってとこかな
※617
>この場合、投馬国までの「水行20日」とか、そこから邪馬台国までの「水行10日陸行1月」というのは、誇張表現だという風に解釈します。
九州説のこれに比べればかなり理知的だからな
※618
九州から出てきたやつがそれの可能性もあるんじゃない。
なんにしろ持ってたのは事実だから。
戦いは数だからな
全兵に潤沢な鉄を分配できるならともかく、一部の富裕将校が儀礼的に鉄器装備してる程度じゃ戦況に大差はあるまい
むしろ1つの鉄購入したせいで10の石器や木材を加工する資金を失ったならマイナスだろう
鉄器の所有はむしろ大規模戦ではなく平時の上下示威、治安秩序維持に役立ったと考える。少数VS少数なら装備の差は絶対だからな
明治時代以前は支那から人も文明も伝来した
独立を維持するため明治になって和魂洋才で
西洋の書物を翻訳し富国強兵により白人に対抗
支那人留学生受け入れで今の支那語の7割が和製
近年の考古学の進歩で実は古代も日本は技術大国
磨製石器や漆製品、ヒスイは世界の最先端であった
高度な技術が当然支那にも伝播したと考えられる
つまり文明は日本と支那では相互交流があった
ある時期は日本から支那へ、ある時期は逆の流れ
正確だと仮定するなら当然邪馬台国はフィリピン?
魏志倭人伝の記述は支那の一時期の記述でしかない
それ以前は逆に日本の先進技術で支那が豊かになった
歴史は全体を俯瞰する見方で捉える時代になった
視野狭窄での邪馬台国論争は不毛でしかない
まっ、それが狙いの人がいるのは事実ですが…
五斗長垣内遺跡、舟木遺跡は邪馬台国の時代には滅んでるのか、残念
そして日本海側では鉄器の出土する出雲~富山あたりが邪馬台国だという主張があるわけか
さらにその日本海ルートと瀬戸内ルートの交わるところが奴国と伊都国があったあたりになるとは面白いな
宮崎と鹿児島は鉄器があまり出ないからここが狗奴国だとの主張もうなずける
福井が鉄器王国だとはしらなかった。何事も調べてみるものだね
弥生時代の倭国の覇権をこの鉄器で争ってたと思うと面白い
九州が鉄器を以て畿内を制圧したなら、
むしろ鉄器で死んだ遺体が畿内から出てくるんじゃないの
>623
3世紀には、扶南国の交易相手として巨延洲の記述があり、フィリピン諸島とみられている
少なくとも中国では倭種とは違う認識みたいだよ
Q畿内では鉄生産はしてないのではないか?
A淡路島!淡路島!
⇒五斗長垣内遺跡は、卑弥呼が出てきた3世紀には鉄器生産が終わっていたようです。一方、舟木遺跡は、現在のところ鉄器は出土していません。
なんと…なんで肝心の卑弥呼の時代に石器&青銅器に戻ってるんだよ…。
宮崎と畿内の記紀由来の地域に鉄器が少ないのは関連があるのかな?
※622
鏃には大量に使っていたみたい
九州から福井まで日本海側では人骨に鏃が刺さってる
木の盾も貫通したんじゃないかな。痛そうだし傷口から破傷風になって死にそう。
仮に100人対100人で片一方は鉄剣&鉄の鏃、もう片方は青銅剣&石斧&木の鏃だったら勝負は見えてるよね。
これが100人の鉄装備対1万人の石器軍団だったらおそらく石器軍団の勝利だよね
ドズル・ザビ曰く「戦いは数だよ兄貴!」
仮想敵国との最前線がどんどん畿内から離れて平和だからじゃないかな(適当
平安時代も武士は東北で戦ってたけど、貴族は京都で遊んでたしさ
石崎曲り田遺跡が興味深い
伊都国の可能性がある
627
しれっと嘘つくなよ
兵庫県淡路市教委は25日、弥生時代後期の舟木遺跡(同市舟木)から大型の鉄器工房跡を確認したと発表した。遺跡中心部の状況を把握するため狭い範囲で溝(トレンチ)を掘って調査した結果、鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかった。
邪馬台国は東大京大の最新の共同研究で群馬県太田市付近と判明
>616
特に争うつもりはないですが、引用部分について。
不知正歳四節但計秋収之時以為年紀人多壽百年或八九十國 これは晋書ですね。
元ネタがあって、其俗不知正歳四節但計「春耕」秋収爲年紀 と魏略の逸文(『三国志』裴注)にありますが、晋書では春耕が落ちています。
続きは魏志倭人伝ですが 其人壽考或百年或八九十「年」となっています。引用の「国」は、次の文の文頭(國多婦女不淫不妬无爭訟)の文字ですね。
ここまで皆さんが挙げてくれた長寿の例でも、100年、100歳という例はありません。「寿命を考えるに100年あるいは8、90年」って、むしろ100年が主な言い方ですが、これを素直に信じられるのは、私からは不思議です。
あまり意識されませんが旧暦は日付が月齢と連動するので、1月が新月で始まって7日(上弦)が人日の節句、15日(満月)が小正月、半年後の7月も新月で始まって7日(上弦)が七夕の節句、15日(満月)がお盆です。
この二つが半年ごとに繰り返され、それぞれ春耕と秋収に対応すると考えるのが春秋年の考え方です。
四季を知らないのになぜ春と秋があるんだろう?
>634
そういわれても、直接見に行って書いてんだ
人の姿かたちを間違えたり、うそ書く理由がないだろ
中国の人が書いたのにわざわざ倭人の歴を使う必要はない
>628
鏃は消耗品だから
比べるなら鉄製と石製それぞれ当時の生産性を見なければ意味があるまい
鉄の鏃1つ作ってる間に石のを5つ作れるなら?
戦争は生産力の勝負なんだから、1騎打ちでやーやーワレこそわー、じゃない
技術発展を見るならそれぞれ兵器の威力ではなく生産性の進歩こそを見なければならない。日本人はどうもその辺の現実的な考えが弱いよね
>635
タネをまく時期と収穫の時期、でしょう。春とか秋とかを付けたのは作文をした人です。
>636
ある程度以上のお年の老人が、見た目で70歳と80歳の区別がつくでしょうか? 個人差も大きいですし、姿形で年齢が分かるってものではないと思いますよ。嘘を書いたとは思いませんが、現地の倭国の人にそう聞いたってことだと思います。そして倭国の人は春秋年で、年齢を数えていたと考えるわけですが、繰り返しますが争いたいわけではないので、そういう考え方をする人もいるんだくらいに思っておいてください。
>639
たとえ100歳がありえないとしても、見た目で70歳と80歳と35歳と40歳の区別がつかず長生きと表現するでしょうか?
>>638
鏃だけに限定するなら鉄で作るほうがはるかに生産性あがるぞ?
当時の製造技術段階では鉄が総合コスパ悪かったのであれば
工房閉鎖して石・青銅に戻すことは何もおかしくないよな
鉄の方が先に進んでるって思うのは現代人だからであって
当時の人間からすれば数ある素材選択肢の一つにすぎない
移行がゆるやかで行きつ戻りつしてたってことは優位性がその程度だったという証左でもある
石の鏃について調べたら近畿地方だけ大型化してる
他の地域は石の鏃については縄文時代から狩猟用の大きさで戦争には同じ大きさでも重く威力の増す金属製なのに、畿内だけ石の鏃が進化してる。
邪馬台国は石器で金属器勢力を遠征で打ち破ってた説がますます現実味を帯びてきた
意地でも鉄器を使わなかったのか、技術がなかったのか、他の国と戦争中で輸入できなかったのか、畿内は制圧済みで吉備と北関東を属国として戦わせていたのか、いろいろ考えられるな
※642
つまり技術力と資源があり早いうちに石器、青銅器から鉄器に移行した北部九州と出雲と吉備と福井と北関東は効率の悪い鉄にこだわって滅んだということか?
641
それは現代だからだろ
鉄資源をほとんど輸入に頼ってた弥生時代ではそうじゃない
対外貿易の対価に差し出す収穫をマイナスファクターに組み込まなきゃいけない
ボラれるからな戦略資源貿易は
日本最古の製鉄遺跡は6世紀前半?
それまでは全て輸入してたってことでいいんだよな
644
かもね
吉野ヶ里遺跡で発掘された甕棺(かめかん)の中から多くの鏃が突き刺さった一体の人骨が見つかっている。部分的に磨いた石鏃、打製の石鏃、サメの歯で作った鏃など10本が刺さっていた。(wiki「石鏃」)
>640 この話を続けたい訳ではないのですが
40歳が初老と言われていた訳ですし、当時の平均寿命を考えると十分に老人扱いな気もします。農業機械なしの農作業を炎天下で腰を曲げて続けていた訳ですから、しみやしわは今よりずっと若い頃から顔に刻まれていたでしょうし、腰が曲がるのも早かったでしょう。
610に挙げられている同時代の中国の人で上限が80くらいの年で、70歳が古稀、古来稀な年齢なのに、倭国の寿命が100歳あるいは80,90というのは、私にとっては不思議(個人の感想)です。
>>646
畿内説「淡路島」
>648
中国本土で40歳から50歳の人間を見たことがないと仮定するならば、倭人にこれが80歳から100歳ですよといわれて信じてしまうのも無理はないな
逆に本土で80歳くらいの老人を見たことがあって、この人は80歳(2倍歴により40歳)ですと紹介されて長生きと表現するかね?
>平均寿命が短い時代は、乳幼児死亡率が高いため平均が短くなるだけで、育って大人になった人はそれなりに長生きなのは分かっています。
とのコメントを残してる人もいてますます混乱するよね
九州北部はメソポタミアの肥沃な三角地帯やヨーロッパのガリア地域、中央アジアの草原地帯みたいに防御に適さずどんどん侵略されたり、覇権が移り変わる修羅の地域だったんじゃないかと思った。
一方大和は山に囲まれて防御しやすかったんじゃないかな
だからこそ鉄器も要らないし、神武天皇も東征で目指したんじゃないだろうか
>650 この話、そろそろ切り上げたいのですが
魏志倭人伝の其人壽考或百年或八九十年の「考」の字が、気になってはいます。
(倭人に聞いた話だと、(春秋年で)もっと上の年齢を言われたけれど、そんなはずはないので)其(の倭国の)人(の)壽(命を)考(えると)或百年或八九十年、くらいなら話が通るようにも思いますが、ここまで来ると妄想なので、返答は要りません。100年とか8,90年を素直に受け取る人が多いのに驚きました(個人の感想です)。
中国本土では100歳の人はほとんど見かけないのに
倭ではたまに見かけるので驚いたという話なのでは?
鹿児島の世界長寿1位になったお爺さんも結局15歳?も数え間違ってたのがバレてギネス取り消しになったしなぁ
戦前生まれですらそれなんだから
文字のない弥生の日本人なんて歳はかなりアバウト申告だったことは容易に想像がつく
ちょっと前まで沖縄が長寿日本一の県として有名だったよな
壽考は長寿という意味の単語
一般市民は三十四十で死ぬような食生活とか労働してたんだろうけど、偉い位の人も似たようなもん食ってたんかね
610で挙げたのは有名どころだけだよ
より長命がいいなら
呂岱(161-256) 95歳
司馬孚(272-180) 92歳
高柔(174-263) 89歳
士燮(137-226) 89歳
王祥(185-269) 84歳
など
生没年不詳ながら張セン(105歳)、来敏(97歳)というのもいる
あとはほとんど伝説で華佗やその弟子たちは100かそれ以上まで生きていたとされる
歴史書の人物が長命って言うのは日本でも、初期天皇は100歳超えてるよね。
そういうのは伝説扱いだけど、何歳くらいから史実扱いできるんだろう。
652です。
>656 訂正ありがとうございます。もう恥をさらすだけなので、この話題は終わりにしてほしいのですが。。
あと、現代と区別して考えるべきは、食中毒関係ですかね。冷蔵庫やコールドチェーンのない時代の食品管理は、食中毒との闘いです。中国では何でも油で加熱して食べる、という調理法が発達しましたが、このコメント欄でも何度も話題になっているように、倭国は刺身(生食)があったということですし。基本は獲ったものをすぐ食べるってことなのでしょうけれど。
無双シリーズの卑弥呼たんは関西弁だから九州じゃないよね
はい論破
畿内説完全勝利
素人目線だと末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいることを考えると畿内説の90回転ってのが自然な気がするな
九州説を取るなら上陸後もちゃんと南東に進むのが自然だと思うんだけどそっちのルートだと不弥国が山の中でそこから水行10日ってなるのがよく分からない
九州説くんうざかったけど、おとなしくなったらそれはそれでなんか寂しいw
※659
よく考えたら卑弥呼は曹操や華佗など、三国志の人物と同時代なんだよな
曹操と劉備が60歳前半だったわけで
そう考えるとあちこち転戦しない支配者階級の女性の寿命が長くても不思議ではないと思う
古事記での雄略(倭王武)までの宝算、要は各天皇の寿命です。
神武137
綏靖 45 安寧 49 懿徳 45 孝昭 93
孝安123 孝霊106 孝元 57 開化 63
崇神168 垂仁153 景行137
成務 95
仲哀 52
神功100
応神130 仁徳 83
履中 64 反正 60 允恭 78
安康 56 雄略124
欠史八代も、他と比べて特に長くなっている訳ではなく、むしろ短めです。
崇神、垂仁、景行の纏向に都した三代は特に長くなっています。
若くして亡くなったとされる仲哀や、弟があとを継いだ履中、反正、安康は、やはり相対的には若いですが、それでも50~60代です。
全体に見て、最も若くて綏靖の45歳、最長寿が崇神168歳で、そのままでは信じられません。実在がほぼ確実視されている応神以降でも、応神130歳、雄略124歳と神話レベルです。
これを春秋年と考えると、最も若い綏靖が22,3歳、最長寿の崇神が84歳で、人の寿命として不自然ではない数値になります。それでも纏向三代は長命ですが。
応神が生まれる前に亡くなった父親の仲哀は27歳と、ありそうな数字になります。
これが、実際にこの数値で伝承が残っていたのか、古事記を書くときに機械的に2倍にしたのかは分かりませんが、少なくとも日本の史書の雄略以前の紀年は春秋年と見た方が、自然な年数になります。
これで計算すると、崇神天皇の崩御は3世紀末になるそうです。箸墓古墳の築造推定年の前後ですね。
魏志倭人伝に記載されるものがほとんど出土しない畿内に邪馬台国はない
大和朝廷の前身はあったかもね
千里=一月も挹婁だったか夫餘だったかで資料が残ってるしな
九州説くんキター
良かった生きてた
>魏志倭人伝に記載されるものがほとんど出土しない
具体的になんだい?
ていうかちゃんとこのスレッド読んだか?
工作員の皆さん、ご苦労様です。
デタラメな記述を都合よく改ざんして纏向遺跡に当てはめる手口
もう魏志倭人伝なる書物の信頼性って地に堕ちてます、もっと言えば
歴史学会が特亜に汚染されて歴史的学問でなく政治マターってことも
邪馬台国も卑弥呼もすべて嘘ですから…
われわれは、この日本に愛すべき過去を投射したい。
どこかで断絶などのない過去。その過去に出会い、丸ごと愛したい。
愛する以上に、実は愛されたい。
愛されていると確認したい。
「美」と同じで、それはこの世界から我々への無条件の褒賞。生きるツラさを補って余りある覚醒剤だ。
国家、国民のアイデンティティとか、ルーツとか、歴史は、共同幻想であり、個人では作れない作品だ。
どんな物語であれば、愛が芽生えるのか?
古代史がロマンだと言われる理由の一端はそこにある。
物語である必要がある。鋭く「現在」のニーズに応える「ストーリー」でなければならない。
ということで、日本書紀編纂、古事記編纂のその時にも、今現在であっても、事情は全く変わらない。中国の正史編纂の動機であっても・・・立場は違えど。
最も美しい物語・・・その調べを奏でる自由がある。ただし、かき集めた同時代の事実は、整然とその物語からはみ出ることなく整列しているべき。
そのような物語を創れないと、従軍慰安婦一点張りで国体を支える某国のようになってしまう。
はたして現代のわれわれには、物語を「構成」する力量があるのかないのか?ないのか?
NHKの邪馬台国番組でも、石田衣良が適切であったかはともかくも、「構成主義」こそが歴史の醍醐味と伝えているかのようであった。
そもそも、人間にとって現象界のすべては「構成されたもの」なのであって、そうじゃない事実は脳が把握しない。
歴史は科学そのものでありようがなく、科学を使役はするが、作曲家のような歴史家が存在するべきなのであろう。
その過去への投射は、弥生時代?縄文時代?旧石器時代?それとも、古墳時代?飛鳥時代?
柳田國男は弥生時代で手を打った。私は縄文時代まで愛したい。
邪馬台国はどこにあっても愛せる。でも、歴史家には美しい交響曲を奏でてほしい。埒のない食い散らかしの分析主義よりも、そろそろ物語を紡ぐ頃合いではないだろうか?
まあ、通りすがりの酔っ払いのたわごとです。
ネトウヨくんお言葉ですが、
中国は歴史も余裕もあって、あそこのゴミ国とは違うと思う
鵜呑みには出来ないがそこまで否定する必要はない
日本王朝の起源が馬韓による東征だと判明したとき、この酔っ払いはどうするんだろうか・・・
愛が無いと、
ロマンが無いと、
美しくないからと「捏造捏造!」言って拒否し続けるんだろうな
慰安婦をまるで嘘のように書き立てる某3系経新聞のように
おそらく
卑弥呼さんは馬韓王の直系子孫ですね私の予想はよく当たる
※672
>ネトウヨくんお言葉ですが
有難うございます、何がネトウヨか脳内変換ご苦労様です、ハイ
※673
>慰安婦をまるで嘘のように書き立てる某3系経新聞のように
日本人は嘘だってみんなわかってるから。もう無駄な事は止めなさい
>日本王朝の起源が馬韓による東征だと判明
ウリナラファンタジーを死ぬまで唱えましょうw
※671
>NHKの邪馬台国番組でも、石田衣良が適切であったかはともかくも
反日のNHKを参考にしてる段階で情弱と言わざるを得ない
戦後一貫して捏造の歴史を支えてきたのはNHKであった
※669
円墳、鉄の鏃、鉄製品、絹とかかな
逆に畿内には魏志倭人伝には記述されていないものがよく出る
前方後円墳とか
邪馬台国は魏志倭人伝の中に登場するので、魏志倭人伝の記述と合致しないものがいくら出土しても無意味
どれだけ先進的な物質が畿内から出てきてもそれは魏志倭人伝に言う邪馬台国ではない
昔は本州と九州は陸続きだったので瀬戸内航路をとるなら
いったん九州に上陸する必要があった、としたほうが辻褄があう
海流の関係で九州東側を船で南下するのは難があり、
瀬戸内はすぐに変わる潮の流れに乗っては港で休みを繰り返すのだから
日数がかかる
對海國と一大國は米が取れないから米のために南北の倭人と交易してるって書いてあるな
好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之は倭国全体ではなく末盧国のことを書いてあるんだな
女王国に帰属してる王国は伊都国だけ、他は全部代官が置かれてる。他は倭国大乱で滅ぼされたな
自女王國以北~此女王境界所盡は「女王国より北はわかるけど女王国より先は良くわからないけど国名は分かるよ」だとすれば女王国の南側をあらわしてる
其南有狗奴國は奴国(女王国の境界)の南にあった男王の国を書いてる
そう考えると女王国と狗奴国の間には21カ国あるから狗奴國は愛知から静岡説や伊勢説ではなく北関東から東北になるな
自女王國以北特置一大率檢察~不得差錯は狗邪韓国から投馬国は伊都国による間接統治、それ以外を女王国の直接支配と読むことができる
女王國東~船行一年可至は邪馬台国は纏向遺跡だけの都市国家であり、狗奴国が北関東から東北なのを考えると女王国の東は北海道かグアムだな
方角は間違っており、年月は全て正しいからグアムからハワイが正しい
つまり畿内説大勝利!結構方角以外は正確に書いてるもんだな
狗奴國との調停を頼んでるけど実際は半島から畿内を制圧したから東に勢力を伸ばそうと狗奴國に侵略したのが原因なんじゃないのかな
東北も石器文化だから石器対石器で勝負がつかなかったのではないだろうか?
九州の鉄器文明を数で圧倒しても北関東から東北の広大な戦場で両国が渡り合っていたことを鑑みるに狗奴國も邪馬台国に負けず劣らずの巨大軍事石器国家だったのではないだろうか
いつの間にかすごい繁盛してるなここ
679ってもうコメント多すぎて目を通すのも大変になってきた…
ゴールデンウィークだったからな
距離か方位どちらが怪しいかといえば、方位だろうな。魏志倭人伝を書いた人は、日本には来ていないわけで、そうすると、実際に来た人から話を聞いて書くことになる。説明するには地図が必要。時代は後になるが宋の地図を見ると距離的にはそこそこ合ってるが方位が滅茶苦茶。90度近く日本が回転している。少なくとも方位の方が確実性が低い。邪馬台国と大和朝廷の関係はわからないが、宋時代の地図を見る限り、当時の技術レベルでは圧倒的に方位にミスがあると考えるべきだ。
朝鮮人が混ざって、強弁したり話をすり替えたり、全部嘘だと言ったり、議論を破綻させてる。
目的は、1300年前の朝鮮移民が日本を創った、という朝鮮史観で日本の歴史を塗りつぶすため。
朝鮮人によって日本人を支配し、1000年奴隷にする、新世界、を創る為。
近畿、九州、沖縄に住み着いた朝鮮人が、この話題については担当しているようだな。
うちの県でも帰化朝鮮人が、○○地域は新羅移民が作ったなどと歴史本を出して(歴史上の有名人も居る場所でそんな事実は無い)県内の公的機関や事業に食い込んでいる。日本の歴史学会でも同様の事が行われているだろう。
これは朝鮮民族による組織的な敵対行動であって、日本人は彼らを駆除する必要に迫られている。
朝鮮に対しては同情心もあるし、半島統一して周辺国に負けず対等に付き合える国になって欲しいと思っている。
しかし、日本国内においては、朝鮮系による侵略が明確になってくる以上、帰国の覚悟をして貰わねばならない。半島統一も近づいて戦争も終わるだろうから、それで良いな。
※678
むしろ関門海峡は現在より広かったと思われる
現在の下関市街地は海か群島
小倉から曽根のほうに海が繋がって企救半島も島だった可能性がある
>>667
鉄は畿内でも出てる。
円墳なんて書いてたっけ?
>>677
絹は確かに。しかしよく読んでほしい。
伊都国までは距離や習俗または地勢を詳しく書いてあるが、
伊都国より先はなにも書いてないし距離も陸行水行など大雑把になってる。
>>677
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
>>679
だいたい同意見だけど、
21カ国は個人的には「伊都国〜邪馬台国」間にある国だと思う。
根拠は奴国の位置。最初に邪馬台国までの道程の中に奴国が出てくる。そして21カ国の中にも奴国がある。よって21カ国も、奴国と同じく九州とヤマトの間にあるはず。
邪馬台国論争、畿内説や北九州説、琉球説、フィリピン説
出雲説、群馬説etc.北海道を除くどこでも説状態
ここ十数年の考古学の飛躍的な進歩にも拘らず不明のまま
物的証拠はなく魏志倭人伝の記述のみで続く論争
これは戦後GHQによる記紀否定が狙いということか
690
記紀に書いてないから困ってるんだよ。
畿内説が勝利してるんだから、東征はありえない。
つまり記紀は嘘。
こうなっちゃ困るだろ?
このバカウヨ同じことしか書かないな
卑弥呼の前の倭国大乱の時に、九州から畿内への東遷はあったと思う。
そして畿内に邪馬台国が作られ、畿内から山陽~九州にかけて安定した。
その後、愛知の狗奴國と争い負けたが、邪馬台国側のトヨが女王になった事で
上記地域に中部地方を加えた地域が一つの連合体となっていった。
そして記紀に書かれてあるように、出雲を併合。
古墳時代から平安期にかけて、残る小国と関東・東北を加えて日本という国の形が
ほぼ完成、安定していったと見るべきだろう。
691
しつこいな。
卑弥呼+台与=神功皇后
邪馬台国は畿内。東征はあったが、卑弥呼よりだいぶ昔。
とう‐せい【東征】広辞苑第六版より引用
東方の敵を征伐すること。「神武―」
とう‐せん【東遷】
東方にうつること。
意味を間違えるなよ。
※691
記紀の記述どおり、出雲大社の大きな柱も出てきていたりする。
記紀に書かれてある事は、ほぼ史実に近いという認識になってきているんだよ。
どんだけ頑張っても三韓(新羅)征伐があった事は史実。
邪馬台と大和朝廷(天皇家)を同一に見るからおかしなことになるんであって
天皇家は九州からきて当時内紛状態だった邪馬台を婚姻政策で乗っ取っただけ。
東征といっても正面から入れなくて、在地の有力者と組んで裏道から奇襲かけて
しかも一番強力な敵は友軍(ニギハヤヒ)に倒して貰ってるんだから征服もなにもない。
そのあとニギハヤヒ勢力と婚姻して、政治的にその後釜に収まった。
収まらない奴ら(出雲とか九州勢とか)は再征服する必要があった訳だが。
697
しつこいな。
卑弥呼+台与=神功皇后
邪馬台国は畿内。東征はあったが、卑弥呼よりだいぶ昔。
「年齢」 ツッコミ禁止
仮に乱が鎮静したのが180年頃で卑弥呼が21才ならば 159年生 248年に89才で没
異母兄生駒(孝元)は10才上で149年生 坐(開化)は170年代生? ミマキ(崇神)は201年生?
異母弟の武彦は1才下で160年生 実弟の芹彦は3才下で162年生 214年(ヒミコ55才)父君の考霊天皇崩御106才ならば108年生まれか ?年孝元天皇崩御 219年(ヒミコ60才)黒田の宮から海柘榴市へ移る 239年(ヒミコ80才)魏より銅鏡など下賜される 240年頃トヨ姫生?
※686
鉄は畿内でも出土する。
但し出土数は400倍ぐらい九州の方が多いけどな
径100歩の塚が円墳に当たるだろう
他にも埋葬文化で言えば「有棺無槨」に類似する甕棺も九州では発掘されるが畿内では出ない
逆に畿内ではきちんとした石槨が出る
魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬壹国
邪馬台国は別
魏志倭人伝で纒向遺跡を始め、畿内文化と違おうがどうでもいい話
狗奴國ではない邪馬台国の対抗勢力が愛知から北関東にあったと見るべき
出土品より:沖縄、九州北部、九州南部、日本海側、瀬戸内、畿内、関東、東北、北海道、全て別文化(交易はあった模様)
記紀より:紀元前に日向から大和に東征、その後朝鮮半島南部制圧、九州北部、吉備、出雲、関東征服
書かれていることは全て史実。
魏志倭人伝より:倭人は朝鮮半島南部から日本列島に住んでる。
分かれて争い過ぎ(倭人大乱)
交流国は100から30に減少
九州の伊都国(女王国の北)まで使節は毎回行く(流石に伊都国の場所が九州以外ってことはないだろう)
女王国の北側は分かるがそれ以外は知らん。
他にも倭人の国はあるし、狗奴国と争ってるから魏が面倒見てやるよ。
畿内説より:鉄器をほとんど持たないが、優れた石器で倭国統一!埋葬の方法が魏志倭人伝と違うこと、90度ずれた地図の証拠が朝鮮半島作成の地図1枚、刺青もないが学会では大勝利!
結論:邪馬台国は畿内。
通りすがりでざっと読んでの感想ですが、「邪馬台国はなかった、卑弥呼もいなかった」と考えてられる方がいらっしゃいます。確かに色々な説がある中でこれも検討されるべきだと感じました。
3月に「聖徳太子(厩戸王)」を「厩戸王(聖徳太子)」に変更についてのパブリックコメントをしました。当時使わなかったおくり名という事でした。それならばGHQの神道指令で変えられた「太平洋戦争」でなく「大東亜戦争」に戻すべきだと思います。歴史学者は平気で嘘をつく人達であると感じました。
>703
嘘を吐く訳じゃなくて、しがらみに絡め取られているだけ。
ただ、戦後の皇国史観批判からの津田左右吉を評価しすぎたのが、悪弊になっている感は私の感じます。
>701
>魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬壹国
それで言ったら魏志倭人伝に書かれてるのは對海國ですよ。対馬ではありません。
中国の史書は、王朝が滅びる度に正史が編まれますが、結構以前の文をコピペしています。その後の史書では軒並み邪馬臺國ですから、邪馬台国でいいでしょう。
>698
>卑弥呼+台与=神功皇后
これは日本書紀編者の考えであって、さすがに時代が合わないし史実ではないと思いますよ。
>>700
畿内は古墳が天皇陵に指定されてるところが多いから鉄が出にくい。
鉄にしろ絹にしろ棺にしろ、
>>688にあるように伊都国近辺にしか行ったことのない筆者が、
伊都国近辺の様子を倭地の習俗として書いただけ。
塚に関しては邪馬台国のことを書いてる数少ない事柄であり、
時代と大きさから見て、箸墓古墳が最有力。
自演ネトウヨ死ねよ
>>702
関東説より : 長崎出島のあたりの習俗は関東とは少し違うところはあるが、学会では大勝利!
結論 : 江戸城は関東。九州にあるとかいうやつはバカw
>>709
距離なんてどうでもいい!
とにかく日本人は九州弁を喋ってるんだ、
だから江戸城は九州にある!
驚くなかれ、久留米に「江戸屋敷」って地名がある!
デカい城跡なんてないけどそんなのカンケーネー
※707
2世紀より前の天皇陵なんかほとんどないし、鉄製品は古墳から出るだけが全てではない
そもそも鉄剣や刀ならともかく鉄の鏃なんか有力者の古墳に埋めないよね
また、箸墓古墳は前方後円墳なので、魏志倭人伝に記載される径100歩の塚とは全然違う
女王国の東から海を渡った倭人の住むところは畿内にはないし
伊都国の人間が畿内に出張して監視しているというのも難しい話だろう
逆に何が魏志倭人伝の内容と合致して畿内が邪馬台国と言い張るのか教えて欲しい
※711
残りにくいのは確かだよね
>鉄の鏃なんか有力者の古墳に埋めないよね
つ 島内地下式横穴墓←こういうのが畿内ではうっかり天皇陵に指定されてたりして見れないんだよね
>径100歩の塚
前方後円墳じゃないと断定できる要素がゼロだろ
>>664にあるように方角は結構あやふや。まだ羅針盤発明されてないからね。
伊都国の人間が監視してるのは
「女王国の北」であって、「邪馬台国の北」ではない
※712
鉄は残り難いが出土数が何百倍も違うのは流石にね
別に鏃なんか古墳にほとんど埋めないから天皇陵に指定されようがされまいが関係ない
魏晋鏡や勾玉なんか残りやすいものも九州が圧倒的だからな
径100歩というのは直径100歩という意味だ
直径だけで表現できる塚は円墳しかない
方角は星を見れば古代でも正確に把握できてるからな
というか間違ってる描写がほとんどない
703
聖徳太子が厩戸になったのは、そもそも「聖徳太子の実在が極めてアヤシイ」ということが分かってきたからだぞ。
でも今さらお札にまでなって、戦前道徳教育のカナメでもあった聖徳太子が「全部ウソでした」なんて言えない(保守が発狂する)から、とりあえず同時代に居たっぽい(でもどう考えても聖徳太子とは別モノ)の厩戸王にすり替えてフェードアウトしてく算段だったんだよ。
それを、まさかまさかの保守キチは厩戸カッコ聖徳太子にしただけで発狂しちゃって学者もアタマ抱えてる。w
まあ「正史」なんて間違ってても、考古学と合わなくても、日本人が気持ちよく誇り持てればそれでいい、って考え方もあるワナ。バカだと思うけど日本人って基本バカだし。教育勅語の時代に戻りたいんだろ
右に寄せたにも関わらず右から叩かれるってのは皮肉だよなぁ・・・
日本人のよくやる典型的ミス。なるたけ波風立てないように、左右どちらの顔も立てるように、真意をあえて曲げて折衷案通したら、何言ってるのか分からなくてどちらからも総スカンという。
初めにハッキリ言うべきだったんだよ「聖徳太子は実在しない。証拠もどんどん挙がって来てる」てさ。
邪馬台国も同じ。畿内だよ。状況・直接証拠でほぼ決まり。
九州派に引導渡す事を怖れてる。神武東征がウソって白日に晒すことも怖れてる。日本人は怖いことだらけだ。中途半端は良くないって知ってるのに止められない。
※713
>何百倍
ソースは?
箸墓の円墳部分は径100歩ある
方墳部分は陸橋説があってそれを裏付ける円形墳墓が見つかっている
よって円墳部分以外は墓の一部とみなしてなかった可能性が高い
正確に把握できてなかったから
>>664の指摘するように間違ってたのでは
同時代にいくつも前方後円墳あるのに見間違うかなぁ?
箸墓古墳は年代がなぁ…。
記紀だと別人の墓だしなぁ。
鉄の鏃は出ないし、大乱の跡も見つからないんだよねぇ。
せめて戦死者出てほしいよねぇ。
畿内は平和そのものだぜ?
つまり、畿内説で決まり!
710
他に文献がなければその論法は成り立つが他に文献があるとその論法は使えんよ
>717
箸墓より前には、ちゃんとした前方後円墳はないんですが、同時代っていつ頃の年代感ですか?
箸墓は早すぎるのですか?それとも遅すぎるという考えなのですか?
円墳と前方後円墳の間に位置する古墳もちゃんとあるよ。
畿内じゃないから無視されたけど。
箸墓古墳は完成されすぎてる。
あれを最初の前方後円墳だとすると技術の進歩がおかしい。
よって卑弥呼が霊能力で作った墓であり、邪馬台国は他と技術が断絶してる超国家であり、畿内にあった。
畿内説の証拠を探す必要はない
畿内説だと初めから考え、全てを当てはめていけばいい
地図も朝鮮の地図だけあればいいし、鉄の鏃も石だったことにすればいい
刺青をはじめ、風習も見間違いとすればなんらおかしいことはない
千人あまりの戦死者も当然ない
卑弥呼の墓も年代も形も合わないが、箸墓古墳に決まっている
都も当然、住居のない纒向遺跡である
畿内説に基づいた遺跡を世界遺産にすべきである
※721
あのーその考えですと、
魏志倭人伝なんかどうでもよくて、たままた魏志倭人伝が記述している時代に
畿内に魏志倭人伝と関係ない国(集落)がたまたまあったってことですか。
>722
すでに勝利が確定している畿内説を疑うことは許されない
聖徳太子の抹消工作の狙い。
渡来系勢力が次期天皇候補である聖徳太子一族を虐殺した。という史実を消し去るため。
蘇我氏の過剰な持ち上げも同じ。
蘇我氏は朝鮮人で日本を創ったのは全て朝鮮人の功績、聖徳太子なんて存在しなかった。と捏造してる。
朝鮮移民が日本を創った、という「朝鮮史観」で日本の歴史を塗りつぶすため。
朝鮮人によって日本人を支配する事が目的。
朝鮮民族による組織的な敵対行動であって、日本人は彼らを駆除する必要に迫られている。
※721
>地図
末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいることを考えると、方角がいい加減なのは確定では?その地図はダメ押しだ。グッバイ九州説。
>鉄の鏃
何百倍って言うのはウソだよね。陵墓指定されてる古墳がいっぱいある奈良大阪からは確かにごく少量しか見つかってないが、京都兵庫からは割といっぱい出てる。「だからあの当時近畿の中心地は奈良大阪ではなく、京都兵庫だ!」とでも言うつもりなのかな?そんなだからまともなプロから誰にも見向きもされないんだよ九州説は。
>大乱の跡
>千人あまりの戦死者
倭国大乱だから、女王国内や邪馬台国内で大乱が起こってる必要はないよね。
邪馬台国が九州に攻め込んだりしても倭国大乱だよね。
>風習
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
726
江戸城が九州から発掘されるのですか?
※726
同じ地図を写した他の地図やもっと古い地図は正しい向きをしてるから、15世紀頃の朝鮮の地図の話は出さないほうがいいよ。
>>709
熊本城があるだろ!
とにかく日本人は九州弁を喋ってるんだ、
だから江戸城は九州にある!
驚くなかれ、久留米に「江戸屋敷」って地名がある!
江戸城は遠かったらしいが距離とかそんなのカンケーネー
江戸城九州説万歳
×>>709
○>>727
※728
末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいるから、方角の話は持ち出さない方がいいよ
使節が毎回訪れる伊都国が畿内の邪馬台国の北(西)を治める一大国家だとしたら。
難波か京都か滋賀か淡路島まできて、大和が分からない⇒無能
大阪、京都、兵庫、滋賀まで南国の風習⇒大和は刺青なし
邪馬台国の都の様子、人口⇒想像
女王卑弥呼崩御に伴う墳墓(前方後円墳)の形が分からない⇒円墳だと思い込む
張政⇒出張費ごまかし
魏の皇帝⇒無能の報告を鵜呑みにして金印を授ける
邪馬台国は畿内で間違いないな。
※731
横から失礼します。
方角が分からず、どのように朝鮮半島から日本列島まで海を渡るのでしょうか?疑問に思ってすみません。
古代中国は方角がないのですか?
>709
小倉城じゃダメなの?
末蘆国から北東に進んだというのはあくまで一説
南東に進めば佐賀平野があり吉野ヶ里がある
※732
>伊都国が畿内の邪馬台国の北
×「邪馬台国の北」
○「女王国の北」
「女王国」は邪馬台国から奴国までの20以上の国から成る連合国家。
つまり女王国は九州伊都国の近くまで勢力圏。
無能なのはお前だ九州説。
>>734
九州説は常に変幻自在だからな
山門だったり、吉野ヶ里だったり、西都原古墳だったり、高千穂だったり、都合のいい時に都合のいい場所を出していけばOK
※716
はいソース
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm
魏志倭人伝を無視していいなら邪馬台国に拘らなくてもいいんじゃない?
※738
おせーよハゲ
何百倍って言うのはウソだよね。陵墓指定されてる古墳がいっぱいある奈良大阪からは確かにごく少量しか見つかってないが、京都兵庫からは割といっぱい出てる。「だからあの当時近畿の中心地は奈良大阪ではなく、京都兵庫だ!」とでも言うつもりなのかな?そんなだからまともなプロから誰にも見向きもされないんだよ九州説は。
735
そこから南に行ける川や海があるんですか?(小声)
※739
割といっぱい?
かなりの差があるけどね
兵庫と京都は鉄作ってたからそりゃあるだろう
奈良はないけどね
それと墳墓とか関係ないよ
現に天皇陵が多い4世紀~以降は鉄の発見数が畿内>九州になるからね
それに~2世紀の発掘できない天皇陵ってどこ?
はしはかも3世紀だから邪馬台国とは関係ないしね
というかなぜ畿内説なのかわからない
魏志倭人伝無視していいならローマでもエジプトでもいいんじゃないの?
魏志倭人伝には関係ないけどはるかに先進的な遺物がでるぞ?
※741
何百倍は盛りすぎたね。
京都や兵庫で作ったやつは普通に考えて都である奈良に献上。
wiki箸墓古墳
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
こういうのがいっぱいあるのが奈良。
※742
たしかに盛りすぎたな。100倍だったな。
で、献上された奈良での発掘量は?
そして、邪馬台国の時代である~2世紀の発掘できない天皇陵はいかほどあるの?
それに遺物の発掘は墳墓だけじゃないからな
最古?の前方国円墳のはしはかも3世紀~だぞ?
また、発掘した遺物の墳墓から出る割合と他から出る割合の比較は?
これがわからないと意味がない主張だぞ
女王国に女王と伊都国王が両立してる
かつてのスペインと同じ体制なんだね
卑弥呼はお飾りで実態は伊都国王?
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
自郡至女王國 萬二千餘里
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南
せっかくなので女王國と書いてあるところを抜き出してみた
「以北」は「~の北なのか」「~より北なのか」
邪馬台国連合の北、ではなく、女王国の都のある邪馬台国より北じゃないの?
そもそも女王国は帯方郡から1万2千里ってかいてあるんだから、狗邪韓国から邪馬台国「より北」の伊都国統治地域を合わせて1万2千里とするかな?
女王境であって女王國境ではないんだよね
女王の統治範囲はちゃんと女王ってなってるようだよ
方位も90度ずれてるなら東は北だから海を渡った先は琵琶湖の先かな?ここも以東とは書いてないね
以北は伊都国を書くときだけ使ってるようだから女王國の北あるいは西にある伊都国と位置関係を分けて書いてくれたんじゃないかな?
南至邪馬壹國 女王之所都
女王國は邪馬台国のことで倭国最大勢力の邪馬台伊都連合王国そのもののことではないんじゃないかな?
郡諸韓國及郡使倭國
私は統一邪馬台国王国を表すときは「倭國」、卑弥呼のいた都市は「邪馬壹國=女王國」を使った説でいこうとおもいます。
※743
まだ盛りすぎだぞ
近畿:九州では10倍も行かない。
「宮内庁治定陵墓の一覧」で検索しろ
墳墓からは絶対出ないというなら割合を調べて出してみろ
これがわからないなら意味がない主張だぞ
畿内説を否定する出土物は認められない
たとえ大和で鉄の鏃が発見されなかろうが畿内だけ鉄の代わりに石器が発展し大型になり砥石も磨製石器用のものしか出土してなかろうが関係ない
絹もほとんど出土しておらず、中国に献上できなかったが関係ない
魏で作られたものと同じ鏡がほとんど出土していなくとも畿内説のためには1枚でもあればそれでいい。
箸墓古墳はあきらかに年代が違うが畿内説の正しさの前には些細なことである。
今までの調査で出ていないが、これから出る可能性さえあれば畿内説の正しさの証明としてよい
※745
結局はデータがないけどとりあえず主張してるだけやん
宮内庁治定陵墓の一覧の発掘できない~2世紀以前の墳墓の数を教えてくれよ
それに墳墓からは絶対に出ないとか主張してないぞ?
天皇陵が圧倒的に多くなる4世紀以降は九州と奈良の鉄の出土数が逆転してる現象もなぜか教えてくれ
調査できない墳墓が増えるんだから出土数も横ばいもしくは減るんじゃないのか?
で、魏志倭人伝の記述と一切関係ないのになぜ奈良に邪馬台国なの?
九州説を否定することは認められない。
たとえ大和が陵墓指定されて発掘不可だとしても、そんなハンディを言い訳にしてはいけない。
石の鏃で九州人が死んでても、鉄が無敵だという神話は絶対である。
神獣鏡が中国製だとわかっても無視。
箸墓と魏の年代が三世紀で完全一致してるけど無視。
邪馬台国も江戸城も九州にある。
※746
自分で調べろよ
四世紀以降は技術が発達して鉄の製造も余裕になったから天皇陵からはみ出して来た
※740
有明海があるだろ
751
で、邪馬台国はどこ?
俺がガキの頃は魏志の倭人伝とかゴミ資料扱いで終わってた。金印の嘘くささも異常だし。
※750
まてまてまて
自分で天皇陵があるから発掘できないはずと主張してるくせにデータはないから俺に調べろっておかしくない?
つまり現時点では何の根拠もないけど憶測で話してるってことでいいんだね?
とりあえず畿内説の根拠が知りたいよ
※748
データはあるやん
兵庫京都で普通に出てる
※754
とりあえず箸墓は発掘不可なのは事実だししょうがないよね
発掘できないのにデータがないとかただの難癖
箸墓古墳は記紀をもとに年代を確定するから卑弥呼とずれてる
※754
京都や兵庫からは結構出てるんだし
鉄なんぞ九州の専売特許でもなんでもない
>>758
ほんとだよな
畿内の100倍しか出てないくせにな!
※688、710、726、729、749が畿内説を主張しているので畿内説が正しいに決まってる
なぜならこの5人のコメントにより江戸城が九州にないことが証明され、邪馬台国が纏向遺跡であり、畿内にあることが証明されたからだ
是非論文としてまとめてもらいたい
※755,756,758
あれ?邪馬台国って京都と兵庫だったのか?
奈良じゃないの?
ついでに絹もない甕棺もない魏鏡もないのないない尽くしの奈良がなぜ邪馬台国なのか意味不明だ
さらに墳墓が発掘できないといいつつそれに関するデータも出せない
発掘できない墳墓が爆発的に増える4世紀には鉄も爆発的に増えてるという矛盾
データないで憶測でものを言うのは簡単だ
しかしそれを人が納得するかは別の問題
>741,743
卑弥呼の死が247年か248年と、魏志倭人伝から読み取られている訳ですが、箸墓は3世紀で2世紀の邪馬台国と関係ないっていうのはどういう意味なんでしょう?
247年て3世紀ど真ん中ですよね?
>>761
何言ってるんだ?
畿内説は正しいんだよ
魏志倭人伝は朝鮮半島の地図により方角がずれてることが確定した
つまりどこで鉄が出てもその範囲が全て邪馬台国なんだよ
だから九州以外から鉄が出ればそれが1つだけでも纏向遺跡が邪馬台国である証拠
鉄が出たところが伊都国の支配下であり大和が邪馬台国
※762
失敬ミスだわ
はしはかは3世紀後半以降だから3世紀半ばの卑弥呼とは関係がない
それ以前に円墳と前方後円墳はちがうので関係ないけどね
※762
第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓だぞ
九州が優勢だったのは奴国王が金印をもらってた頃で、その後に倭国大乱があって、それが収まる頃には畿内の優位が確立していたというのが、多数説(定説とまではいかない)だと思うのですが。
倭国大乱後の卑弥呼の共立が、大和を倭国の中心にするエポックで、その数十年後に公孫氏が滅んで中原との通交が復活したおかげで卑弥呼が遣使した。そのことが,魏志倭人伝に書かれているのだから、九州が優位だった頃に九州の方が遺物が多いっていうのは当たり前だし、さっきから箸墓は時代が合わないと繰り返し書いている人の方が、年代感がずれているのだと思います。
考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もある。
少なくともど真ん中ではないな
>>766
お前の「思い」が現実になるといいですね~w
※766
近畿優位は古墳時代だぞ?
弥生時代と古墳時代を間違えてないか?
時代は下って中国の使者が浪速津に行く時は瀬戸内を水行した記述が出てくるのにそれがない時点で畿内はない
重機のない時代に人力で平場に墳丘長300メートル弱の大古墳を作るののどれくらい時間がかかると思いますか?
数十年後なら誤差範囲も考えたら、むしろどんぴしゃと言ってよいくらいだと思いますよ。
邪馬台国は2世紀だから時代が合わないというのは間違った印象操作でしたね。
>>771
涙拭けよ
※771
時間かかったらよけい合わなくなっちゃう…
もう箸墓古墳を貶めるのはやめて!
※728 同じ地図を写した他の地図やもっと古い地図は正しい向きをしてるから
15世紀頃の朝鮮の地図の話は出さないほうがいいよ
南北が逆の地図
1「海内華夷図」唐8世紀 2「石刻華夷図」南宋12世紀 3「声教広被図」元13世紀
4「混一疆理図」明14世紀 5「混一疆理歴代国都之図」朝鮮15世紀
3の「声教広被図」は戦前に北京図書館で確認されている
5の「混一疆理歴代国都之図」は龍谷大学に現存する
759
5倍程度でしょ
九州説はすぐ小さい話を盛るから
>769
だから古墳時代の始まりの時期の年代感の問題なんですよ。
古墳時代が箸墓の造営で始まるというのは定説で、古墳時代の始まりが邪馬台国の時代と重なるかどうかで決着がつく状況です。
箸墓を作るために近畿が優勢になったのではなく、近畿が優勢になっていたからこそ箸墓が「近畿に作られた」ことを理解してください。
761
九州説の邪馬台国はどこ?w
>ついでに絹もない甕棺もない
魏志倭人伝ちゃんと読めよ
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
768
現実=考古学者はほとんど畿内説
751
で、邪馬台国は九州のどこなの?
九州説って、民主党と同じだよね
とにかく畿内説の足を引っ張るだけで対案が何もない
だから誰にも支持されない
去年東大寺観光した後時間余ったから電車とバス使って箸墓古墳見に行って観光客全然いないしよく見たらゴミポイ捨てされてるしでみんな興味ないんかなって思ったけど、コメ見てる感じ興味ある人もかなりいるんやね
悲報 箸墓古墳の為に卑弥呼、古墳時代になる
776
箸墓古墳にこだわるのは吉野ヶ里遺跡が邪馬台国と主張するのと一緒。
いいんだよ、新たな発見により今までと違っても
あれだけでかい前方後円墳をつくる前にもっと古い前方後円墳見つかるから
きっとそれが初代大王の墓だよ
卑弥呼の円墳はまた別に見つかるよ。
※777
九州で九州弁喋るのは当たり前だよね?
>>780
やっぱりでかいの?
※777
倭人伝を全く無視していいなら、同じ論法で関東でも東北でもアメリカでもいいけどそこに比定されたらどう反論するんだ?
邪馬台国は倭人伝に登場するのだからどこまでも倭人伝を尊重すべき
倭人伝の記述を好き勝手に取捨選択や拡大解釈するのなら、それは邪馬台国否定派になるべきじゃないか?
倭人伝は無視するけど邪馬台国は畿内っておかしくない?
>>784
外周グルっと回ったけど、隣接してる池の分余計に歩いたがけっこう時間かかったで(行ったの去年の夏だからかかった時間は忘れちゃったけど)
ただまわり道路はさんですぐに民家あって生活感溢れまくってるし近くじゃただの雑木林にしか見えないから古墳って観光地向けじゃないなって思ったわw
造営時は130メートルを超すとみられる古墳もあるんだ。
まだまだ発見はありそうだね。
785
無視?ちゃんと読めばそうなると言ってるだけですけど
無視してるのはちゃんと読んでないお前
水行陸行で行ける範囲だから、アメリカと東北はアウト。
関東もあの時代の大した遺跡がないからアウト。
狗奴国の分も考えると静岡もアウト。
畿内じゃなければ愛知がギリギリ。
邪馬台国はここだって断定してあげられれば、その地域のまちおこしさせてあげれそう(小並)
※777
検索したが伊都国の後、国をわたった様で
伊都国、奴国、不弥国。その後が投馬国の順で最後が邪馬台国と
邪馬台国から北は不可得詳、自女王國以北 特置一大率檢察と確かにかいてあったけど
それは単にあなたの解釈が間違ってるだけで
長野から東北の蝦夷と呼ばれる勢力が邪馬台国に敵対してる
奈良、京都じゃやばいから、九州に引っ越そうって話じゃね
※786
ありがとう!
千年以上前の本物が今もあるなんてすごい。
きっと地元の人にとっては単なる山だったんだろうなぁ。
※788
倭人伝の記述と出土する遺物の整合性がとれないのになぜ畿内なの?
愛知じゃだめなの?
なぜ畿内なのかを教えてくれ
金属は鋳返すこともできるので、どういうときに金属が遺物に残るのかってことも考えてみてください。
金属が貴重品なら、威信材として首長墓に副葬されるのは理解できます。逆に生活雑器であれば、鋳掛け屋とかで直したり、くず鉄業者に引き取ってもらったりしてリサイクルします。そのような状況下で遺物に残る(土中に遺棄される)のはある意味偶然ですよね。
鉄が出る出ないにそこまでこだわるのは、そこしかポイントがないのか?とも思います。絹が出ないといっている人もいますが(同じ人?)、有機物の遺物が残るのはかなりまれですよね。日本は正倉院があって、奈良時代平安時代のものが平気で残っているので感覚がおかしいですが、1000年前の有機物が残っているのは本当に偶然です。大量にあったから残るというものではなく、たまたま保存状態のよい環境に置かれたために残り、またかなりの偶然があって見つかるものだと思います。
逆に、奈良で絹が出たらその瞬間に畿内説を認めてもらえるのでしょうか?
>781
逆です。
畿内説のために卑弥呼が古墳時代になったのではなく、弥生時代の推定年代が開始期で500年、終末期で100年程度古い方へシフトしたために、古墳時代が卑弥呼の時代に届くようになってきて、そのために畿内説の妥当性が高まったというのが話の順序です。悲報でも何でもありません。
科学の成果を軽視していたら、話が進みませんよ。盲信するのもおかしな話になりますけどね。
※752
熊本か八代、人吉
※793
どんな理屈をこねようと
遺物が出るのと出ないのでは出る方が倭人伝の記述に近いのは疑い用のない事実だからな
絹1つで畿内説が確定するわけないだろ
今は1つ1つ根拠を積み上げて確率を高めるしかできない
実際問題畿内にしても九州にしても確定するのは、金印が出土するしかないだろうな
同じ事を強弁したり(○○に決まっている)、話をすり替えたり、全部嘘だと言ったり、議論を破綻させようとする朝鮮人が湧いているな。
>796
なら絹一つで畿内説が否定できる訳でもないですよね。
魏志倭人伝の時代は文献なので絶対年代が出る。それに対して考古学資料は推定年代しか分からない。その状況下で、以前弥生時代が新しい(現代に近い)年代で推定されていた頃は、畿内が優勢になるのは古墳時代だから、邪馬台国は九州という説に一定の説得力がありました。
それが、一つ一つ根拠を積み上げて、弥生時代の年代全体(始期~終末期まで)が古い方向へずらした方が整合性が取れるということになってきました。魏志倭人伝の絶対年代(卑弥呼の死が三世紀半ば)が、弥生終末期から古墳時代の始まり(=箸墓の造営)の頃というのが、確率の高い推定であり当時のもっとも勢力のある遺跡が纏向遺跡ということな訳です。だから、考古学者の九割が畿内説という状況名訳です。
魏志倭人伝と遺物が合わないというのこそ、一部だけを見ていて整合性が取れない話ですよ。
※798
倭人伝の記述と合致しない遺跡があろうがなかろうが、それは当時すごい遺跡があったというだけだからなあ
何にせよ邪馬台国は文献に登場するのだからその文献と内容が一致しないとそれは邪馬台国ではない
学者の9割というのも怪しいものだが、数を恃んでなんになるのかわからない
9割が天動説を主張したら天が動くのか?
792
愛知でもいいと思うよ個人的には
なぜ畿内なのかは学者に聞いてくれw
795
そこは狗奴国じゃないの?
邪馬台っぽい地名無いよね?
記紀にも天皇関連で出てこないよね?
796
魏志倭人伝ちゃんと読めよ
記述してるのは倭国九州の風習であって、邪馬台の風習ではない
※802
それが詭弁なんだよなあ
それなら畿内じゃなくても愛知でもいいよな?東北でもどこでもいい
年代が違おうがでかい遺跡があればいいってな理由で
女王国まで萬二千里、女王国の東に海を渡った倭人の住む地
他にももろもろこれらすべてがないのはどうなの?
また同じ事を繰り返しているな。
金曜以降に書き込んだ人たちは、スレを頭から読み直した方がいいぞ。
803
は?
何が詭弁だよw
倭人伝の記述に従えばそうなるんだからしょうがないだろ。
愛知は確かにいいと思うよ年代も合ってる。
どこでもいいことはない。東北はダメw
女王国まで萬二千里→何が問題?
女王国の東に海を渡った倭人の住む地→(南→東)つまり(東→北)琵琶湖を挟んで近畿の北にある北陸ですね
>799
「親魏倭王」の金印を授けられたことの意味を軽視しない方がいいということです。
でかい遺跡はでかい権力の存在を明かすものですし、魏志倭人伝の邪馬台国が重要なのは、そこに倭国の権力中心があると書かれているからです。
ならば、その時代の権力中心と思しき遺跡の存在する場所を邪馬台国に比定することが、魏志倭人伝の記述に一番沿う解釈だと思うのですが?
このスレに書き込もうと思って、色々調べたら日本海側も鉄器が大量に出土していることを知った。
それと北関東も畿内よりは鉄器が出ることも分かった。
畿内は鉄器がほとんど出土せず、逆に石器文明を洗練させていったことが分かった。
鉄を溶かして再利用したからほとんど見当たらない説は様々な理由で廃れたことを知った。
調べると楽しいね。
>799
>数を恃んでなんになるのかわからない
>9割が天動説を主張したら天が動くのか?
それだけ多くの専門家が支持するだけの論拠があるってことですよ。
その論拠を薄弱な意見で無視あるいは軽視し、絹の存在とか本質でないことを根拠に強弁するから話が落着しない、というだけです。
>803
>年代が違おうがでかい遺跡があればいいってな理由で
これが、一つ一つ研究を積み重ねていった結果、「年代が違わないと推定されるようになった」から、畿内説が専門家の間でも優勢なんですよ。
私も含めて、ここにいる畿内説論者はそれを聞きかじった連中だと思います。十分な説得力がすでにあると思いますよ。
※806
当時の日本に大きな遺跡が1つしかないと仮定した場合しか成り立たないよなあその考えって
別に九州と並立して畿内に大きな集落があってもいいわけだよ
東に海を渡ると倭人の地があるわけだし
ただでかい集落があるだけでは意味がない
倭人伝の記述のものが出土しない限りただの同時代に存在した大きな集落でしかない
しかもマキムクは住居がほとんどない遺跡であり、倭人伝の7万戸=大人口の都という性質とも違うしな
そして9割の統計はどっからでてきたの?
全くどうでもいいことだけどそれも教えて欲しいな
※805
倭人伝をわざわざ誤ってると仮定して解釈してる時点で詭弁でしょう
ありのまま解釈しないと
南を東に読み替える意味が薄弱
方角を間違えてる史書があれば教えてほしい
千里=陸行は一月
琵琶湖は全く海ではない
奈良により近い湖南側から見たら陸続きなのは明白
同じ人物の主張について
魏志倭人伝は間違いだらけ!
でも纒向遺跡は魏志倭人伝にある邪馬台国!
さらに箸墓古墳は魏志倭人伝にある卑弥呼の墓!
魏志倭人伝があてにならないならどうして魏志倭人伝の邪馬台国と卑弥呼にこだわるのか?
そして出土品より魏志倭人伝の記述で纒向遺跡と箸墓古墳を考えるのか?
魏志倭人伝が正しくないと纒向遺跡と箸墓古墳は邪馬台国と卑弥呼の関連遺跡にならないからね?
>810
纒向遺跡の巨大さは相当に隔絶したものがありますよ。他の遺跡と較べて。箸墓がそれまでの弥生墳丘墓と較べて、隔絶した大きさを持つのと同じです。
逆に九州にそれに匹敵する巨大遺跡が見つかって初めてできる議論ですよね、810の言い分は。九州の巨大遺跡があれば教えてください。あってもいいですけど、現実になければ、為にする空論ですよね。
前の方にも書きましたが、7万戸の人口の都市はなかった、というのが私の立場です。魏志倭人伝に書いてあることがすべて正しいとする原理主義は意味がないですよ。
813
魏志倭人伝は貴方の妄想の産物ではありません
なぜ、弥生時代の話に古墳時代の前方後円墳が出てくるのかね?
前方後円墳は、大和朝廷のものだろう?
卑弥呼=大王かい?
記紀には伊都国に代官をさせてた様子も魏に使者を派遣した様子もなくないかい?
811
前回の記事で、魏志倭人伝の記述は、とりあえず九州に上陸するまではそこそこ正確っぽいことが分かりました。
そう、ここまではね。
問題は、そこから先。
普通に行くと海の上になっちゃう。
そこで、魏志倭人伝の記述を読み換える必要が出てきます。
かの有名な「畿内説」と「九州説」は、魏志倭人伝の記述のどこを間違っていると見なすかという点が一つの対立軸なのであります。
812
で、どこにあるの邪馬台は
魏志倭人伝で、なぜ方角が違うように書かれているのか?
ユーチューブに番組の動画があるから、九州説派は見てみろよ。
ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係
※811
古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあふみ、単に淡海とも。万葉集では「淡海乃海」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。
ウィキペディア「琵琶湖」より
九州説くん残念w
俺の煽りが効いて九州説くんが元気になってくれて嬉しい
812
ああついでに
一大国
伊都国
これもどこか答えとけ
>815
同じことを何度も書くのも飽きてきましたが
邪馬台国の時代が「弥生時代だから大和じゃない」という筋立てが「古い」んですよ。
弥生時代の開始も終了も、考古学の進展により以前より遡った年代が定説になっています。
さっきから一番一生懸命に九州説を書き込んでいる人も、箸墓(=古墳時代の始まり)は3世紀半ば過ぎ~後半と認めていますし。箸墓がいきなりできる訳ではなく、それ以前から権力の中心がそこにある訳で、それはほぼ完全に卑弥呼の死の前後の時代に重なります。
面倒なので、邪馬台国は弥生だから云々という書き込みは遠慮していただけると助かります。
魏志倭人伝の記述に合わないから畿内説は間違い、というなら、ここまでの書き込みにもありましたが、黒い雉子や吠える猿が九州にいないから九州説は間違い、というのと同じレベルですよ。
ここまでの議論では、雉子や猿は台湾の描写だと思われる、中国の史書では倭国と台湾は区別されている、が、この雉子や猿の記事は台湾の様子が倭人の地の記事として混入したものだろう、ということになっています。倭人の住む範囲というか、倭人の定義が現代の我々の感覚よりも広いようです。
※813
都市の巨大さとかは一切関係ないよね
巨大な都市で倭人伝の記述と合致してるかが問題
確かに九州にはまだ見つかってないがそれだけのこと
金印やら倭人伝に記述されているものでも出ない限りただの巨大都市でしかない
※819
琵琶湖の呼称がどうであれ海じゃないからな
中国の史書で渡海と書いて湖を渡った例を教えてくれ
※823
どれだけ記述に近いかが問われている
もちろん完全に合致などしないだろう
しかし畿内はあまりにも記述と矛盾している
というかフル無視に近い状態だ
卑弥呼の死と壱与までは中国の文献に載ってるけどその後100年空白があってまた出てくるんでしょう?
その間に弥生時代から古墳時代になって、前方後円墳が盛んになったんでしょう?
819
横からコメントします
魏志倭人伝は中国で書かれた書物ではないでしょうか
>825
古墳時代がいつから始まるのか今の定説を調べてみてください。
古墳時代は卑弥呼の死と同時かその後ほど遠からぬ時、台与の頃には古墳時代に入っています。邪馬台国は、古墳時代あるいはその前夜ですよ。
そこを押さえずに言い張る人がいて疲れます。
>824
>確かに九州にはまだ見つかってないがそれだけのこと
今後見つかると思っているのですか?
箸墓が卑弥呼後数十年後でほぼ同時代と認めた後で?
九州では箸墓の三分の一程度の前方後円墳しか造営されていないのに?
吉野ヶ里は堂々たる大遺跡ですが、外堀に囲まれた範囲は40ヘクタールほどで、それに対し纒向遺跡は300ヘクタール、7倍以上です。
これも繰り返しですが、「親魏倭王」に除せられる卑弥呼の都するところが、一地方政権の集落である方が、よほど魏志倭人伝の記述に合わないと思うのですが。
※824
>琵琶湖
別に中国人が直接見たと限ったわけじゃないから
むしろ上にあるように邪馬台国まで行ってない可能性が高い
日本人が結構あとの時代まで「海」と認識してたのは事実
824
>もちろん完全に合致などしないだろう
なーんだ
じゃあ畿内説でなんら問題ないじゃん
お前が思う一番記述に近い場所どこよ
※828
前方高円墳は倭人伝に記述されていないのだからいくら巨大な前方高円墳が発掘されても無意味
むしろ明確に矛盾するのだから発掘されない方がマシ
九州の端の奴国も金印もらったけど、当時の奴国は日本統一してたほどの勢力なのか?
畿内説頼みの綱の距離も
ゆうろうがふよから千里=六十日行で、旧唐書で倭地の東西が五月行なんだから短里千五百里があれだけの日数かかっても何らおかしくはない
※801
狗奴=球磨をとるなら邪馬台国はそれより北
記紀は記述が信用ならんので無視(ある程度は信用できるんだろうけど
>831
>九州の端の奴国も金印もらったけど、当時の奴国は日本統一してたほどの勢力なのか?
この話も何週目かなのですが、地域のトップで倭国のトップじゃない場合は「漢委「奴」国王」と注釈が入るんですよ。
卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
前方後円墳を前方高円墳と書く人を初めて見ましたがそれは置いといて、魏志倭人伝に円墳とも書いてないですよね? 大作冢 徑百余歩とあるだけで。径とあるから円墳だろうというだけで。そして、831が主張する北部九州の王墓級弥生墳丘墓は、平原一号墳など方形周溝墓が普通で、円墳じゃないですけど、これは明確に矛盾することにはならないのでしょうか?
結局、ご自分の主張に合うところを強調というかこだわって、おかしいところは無視しているだけではないでしょうか?
※833
>卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
これの論拠は?
当時の倭は東に海を渡ってまた倭人の地がある上に敵対勢力の狗奴国もあることから統一政権ではないと魏志の中で認めていると思うんだけど
>そして、831が主張する北部九州の王墓級弥生墳丘墓は、平原一号墳など方形周溝墓が普通で、円墳じゃない
だれも平原一号墳が円墳であり卑弥呼の墓だと主張してないからな
妄想で人の主張を決めるのはやめて頂きたい
九州でも畿内でもどこでもいいけど、円墳以外の墓が卑弥呼の墓だというのは魏志倭人伝に明確に矛盾するのでありえない
832
でも九州説論者はよく名前が似てることを根拠に熊本=狗奴国って言ってるよね
でも九州説論者はよく記紀では天皇は九州から来たって書いてることを根拠にしてるよね
で、熊本近辺=邪馬台国をとるなら狗奴国はどこ?
ていうか水行十日水行二十日陸行一月が熊本あたりで収まるとは思えないんだけど
831
円墳云々は昨日論破されただろお前
>834
平原一号墳は、北部九州の王墓として最も有名なものの一つとして、九州の王墓の例として上げたものです。北部九州の首長の墓の伝統は、方形周溝墓であるのはよいですね?
つまりあなたは、九州には畿内の纒向遺跡に匹敵する、女王国に比定しうる遺跡もなく、卑弥呼の墓の候補もなく、径百歩の「円墳」は九州の首長の伝統にも合わないけれど、九州に邪馬台国があったに決まっていて、畿内には鉄の出土が少なくて絹が出ていないからあり得ないという意見ですね?
かなりおかしな、思い込みベースの主張だとは思いませんか?
ここにいる九州説は無能な野党と同じ
何にも具体的対案がないけどとりあえず畿内説に難癖つけてるだけの駄々っ子
※836
全く論破されてないけど?
何をどう論破されたのかな?
※837
>北部九州の首長の墓の伝統は、方形周溝墓であるのはよいですね?
全くよくないよ
>つまりあなたは、九州には畿内の纒向遺跡に匹敵する、女王国に比定しうる遺跡もなく、卑弥呼の墓の候補もなく、径百歩の「円墳」は九州の首長の伝統にも合わないけれど、九州に邪馬台国があったに決まっていて、畿内には鉄の出土が少なくて絹が出ていないからあり得ないという意見ですね?
遺跡が発掘されてないのは畿内も一緒
まきむくが邪馬台国なら既に証明されているはずだ
今だ証明されてないということは違うということ
墓も同じ。畿内にも候補がない。形も違うし全く違う人物の墓であると記紀に記されているのに勝手に比定していいのならどうとでもなると思わないか?
九州に邪馬台国があったに決まってるなんて誰も言ってないよ
魏志倭人伝の記述に一番近いのが現状九州であるというだけ
万人が承知のように証拠はない。これは畿内でも同じだが
むしろ魏志倭人伝の記述を距離も方角も遺物もほぼすべて無視して、同時期で規模がでかいというだけでまきむくに比定するのが無理がある。
※835
ざっくり仮説で熊本平野に邪馬台国、人吉盆地に狗奴国
仮説なんで違ってても構わんよ
記紀の記述なんぞ時代が違いすぎてどうでもいい
「挹婁在夫餘東里北千餘里」
「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
千餘里=六十日行か?
>839
邪馬台国と同時期に「それまでになかった最大規模」の遺跡が畿内に作られていることまで認めていて、それでも九州ではまだ見つかっていないだけ(きっと見つかる)、と言えるのは正直すごいと思います。
私は今後も九州で纒向規模の遺跡は出ないと判断しています。纒向の出現がそれまでの弥生の遺跡とは不連続であり、その直前の王墓級弥生墳丘墓でもそれ以降の古墳でも、北部九州のものが近畿のものに規模の面で圧倒されていますから。国力の点で大きな差が見て取れます。
>遺跡が発掘されてないのは畿内も一緒 まきむくが邪馬台国なら既に証明されているはずだ
ここで使われている「証明」は、ほぼ悪魔の証明ですよ。824で「もちろん完全に合致などしないだろう」とし、796で「1つ1つ根拠を積み上げて確率を高めるしかできない」と書いたのは同じ人ですよね? それなのに畿内説の比定に証明されてないじゃないかというのはダブルスタンダードですよね。
記紀に箸墓は違う被葬者が書いてあるというのもあまり意味のある議論ではありません。
記紀は実年台より記事を古くしてしまっているので整合性が取れず、神功皇后が卑弥呼ではないかと思わせることでお茶を濁していますから。その一方で、天皇ではない一皇女の墓なのに、箸墓の造営方法の記事があり、これが特別な墓であることが明記されています。
正直に言えば、私個人は箸墓は崇神天皇の陵墓の可能性の方が高いと思っていますが。
※842
九州に見つかると信じてるのではないよ
纏向は明らかに邪馬台国ではないのだから、もし邪馬台国が実在したとするのなら日本のどこかから発掘されるのは間違いない
もちろんもはや開発が進みすぎて発掘が困難な可能性はある。これは邪馬台国に限ったことではないが
纏向が出現した時期あたりから徐々に九州との国力差が反転していく
当時の先進文物である鉄などは北部九州が圧倒的だが、4世紀には奈良に逆転される
纏向が大きな遺跡で高い国力を示しているのは疑う余地もないが、それは邪馬台国とは全く無関係
纏向にしてもどこにしても邪馬台国だと証明されていないのは同じ
ただ候補を上げただけ(しかも魏志倭人伝の記述と大きく食い違う)で女王国に比定する遺跡がないと言われるのはどうなのかと思う
全く見当違いの場所でもとりあえず比定だけしたらいいのか?
あと話がはずれるが「参問倭地、絶在海中洲島之上。或絶、或連、周旋可五千余里」
などの記述も畿内説はどう説明するのか教えてほしい
いわゆる「魏志倭人伝」の元になる歴史書が編纂された経緯、編纂者を考慮しましょう。
明らかに内容が「意図的な改竄」を受けています。
そもそも、中国の歴史書は「事実」を記すものではありませんから。
842
預言者現る
766、762、776、794、798、820、822、827、842、844のコメントを読んで確信しました。
正始八年(西暦247)の次の年を箸墓古墳の建設時期に合わせて修正すればいいということですね
つまり西暦247年の次の年は西暦300年から400年ということですね
すべて畿内にある遺跡から魏志倭人伝の文章を修正すればいいのですね
鉄の鏃は石の鏃と直径も全長と読み替えればいいのですね
前方後円墳は書いてないので存在していないことにして、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。というのは無視すればいいのですね
邪馬台国は大和朝廷の敵対勢力
だから魏を頼った
しかし結局滅ぼされ歴史から姿を消す
839
反論できなかったってことは論破されたんだよおまえは
840
具体的にどこかも言えないようでは、少なくとも纒向には勝てないなあ
勝てる要素、あるいは負けてないという根拠があるなら言ってみてくれ
言えないなら、仮説の中で纒向が一番可能性が高くて支持されて当然だと認めたってことで
※839
>むしろ魏志倭人伝の記述を距離も方角も遺物もほぼすべて無視して、同時期で規模がでかいというだけでまきむくに比定するのが無理がある。
「記述」に忠実であれば、「遺物」はむしろほとんど無視した方がいい。理由はコメ欄上で言われてる通り。
「方角」と「距離」は、このブログエントリで言われてるように二者択一。伊都国までの道のりですでに方角が90度ずれてるんで、死ぬのは「方角」。
よって畿内説の勝ち。仮説の域はまだ(ギリギリ)出てないが、圧倒的比較第1党で政権与党。九州説は死にかけの弱小野党。
>843
これも何度目か、と思いつつ書いていますが、時期の問題なんですよ。焦点は、弥生から古墳時代に移る時期の絶対年代です。
843は、纒向ができてから国力差が反転していくことに「したい」のは伝わってきますが、纒向は自生的に成長したものではなく計画的に作られた人工都市で、国力差ができたから、纒向が作られたと考える方が合理的だと思いませんか?
畿内ではない、と決めてかかっているから、纒向ではないと言い張ってまだ見ぬ発掘されていない大遺跡を想定しなければならないんですよ。私が畿内に絹が出ないというより九州で絹が出たことの方が偶然、に対し、「遺物が出るのと出ないのでは出る方が倭人伝の記述に近いのは疑い用のない事実だからな」と書いたあなたが、実際に大遺跡が確認されている方が、まだ見ぬ大遺跡を想定するより、倭人伝の時代の倭国の中心地=邪馬台国に近いのは疑い様のない事実だとどうして認められないのか不思議です。
現状、纒向が邪馬台国の遺跡であるというのが、あなたのいうところの「一番確率の高い仮説」ですよ。
九州説の立場で畿内説を一生懸命否定する人が、途中から「俺は九州説にこだわっているわけではなくてどこでもいいけど(畿内だけは違う)」と言い出すのはなぜなんでしょうね。
奴国は絹を取引してたんだ…
九州は魏の前から朝貢してたんだ…
九州で絹が出土することは疑問でもなんでもないんだ…
ごめんね…
鉄を再利用していたならその炉の跡があると思う
絹とか服は3年が寿命っていわれてんだ
1700年前の古墳時代の絹なんてのこってるわけないだろ
※848
何をどう論破されたのか教えてくれ
そのレス番号よろしくね
※850
なぜ遺物は無視するのか?
距離もなぜ無視するのか?面積もなぜ無視していいのか?
全部無視していいなら邪馬台国じゃなくていいのでは?
畿内説は周旋五千里の解釈を早く教えてくれ
※851
>纒向ができてから国力差が反転していくことに「したい」のは伝わってきますが、纒向は自生的に成長したものではなく計画的に作られた人工都市で、国力差ができたから、纒向が作られたと考える方が合理的だと思いませんか?
纏向造営当初は各地の豪族が集まって作った計画都市だと言われている
各地の土器が集まって争いの跡がないのが証拠だと
しかし、造営当初の当時の国力であるといえる鉄があまりにも出ない、が4世紀には九州と畿内が逆転する
しかも最後に九州勢力が合流したことは土器の流入からもほぼ間違いないだろう
実際にどこで国力が逆転したか正確な年代はわからないだろうが、造営当初は九州勢力の方が国力が高かったのは事実
>畿内ではない、と決めてかかっているから
そうではない
魏志倭人伝の記述にあわなければ九州でも畿内でもどこでもそれは邪馬台国ではないというだけだ
仮に九州で3世紀中ごろの箸墓古墳ぐらいの大きさの前方後円墳が見つかったとしてもそれは卑弥呼の墓ではない
円墳ではない=倭人伝の記述と合わないから
>実際に大遺跡が確認されている方が、まだ見ぬ大遺跡を想定するより
大遺跡がでようがでまいが魏志倭人伝の記述に合わなければそこは邪馬台国ではないというだけ
距離・方角・面積・遺物・他国との位置関係、後の歴史書との整合性、そのすべてを無視して大きい遺跡があったからというだけで邪馬台国を決めていいのならローマでもいいのでは?
奈良のように魏志倭人伝とは距離も方角も遺物も面積も全く違うけど当時巨大な遺跡はあったぞ
という馬鹿げた理論にも反論できないのが畿内説だ
>俺は九州説にこだわっているわけではなくてどこでもいいけど(畿内だけは違う)」と言い出すのはなぜなんでしょうね。
それは何度も言うが倭人伝の記述に合致していないから
当時の日本は色々な勢力がひしめき合ってたのは事実
その中でただでかい都市が奈良でみつかっただけ、邪馬台国とは関係がない
>>854
古墳時代には奈良からも京都からも出土してるよ
大和天神山古墳をご存じないかな?
絹は服にだけ利用したわけじゃないよ
弥生時代に絹が出土するのは九州北部
古墳時代に絹が出土するのは畿内と日本海側
絹だけ見ると弥生時代まで優勢だった九州北部の勢力が古墳時代に畿内勢力に滅ぼされて絹を奪われる様子が伺える
さらに古墳時代は畿内と日本海側の2強体制だったかも
九州を併合した畿内勢力と日本海勢力の激突が空白の100年だとしたら面白いね
邪馬台国四国説が今一番新しいんだな
※856
もう一回、このスレの※を頭からじっくり読み直した方がいいぞ。
>856
魏志倭人伝の記述に合致しないから絶対に違う、「しか」言いませんが、それで言ったら黒い雉子も吠える猿も居ないですよね?畿内はもちろん九州にも居なくて、台湾には居ます。これをもって邪馬台国は今の日本の領域には絶対にないって言い張るのと同じだとは思いませんか?
結局、「違う」の根拠として出してくるのは、絹と鉄、だけのようですし。ものレベルだけで否定していて、状況(弥生終末期から古墳時代にかけての首長墓の発達)や遺跡(同時期の遺跡の分布や規模)を無視するのは、恣意的だと思いませんか?
纒向が計画都市で広範囲の勢力が協力していたのまで認めながら、しかも邪馬台国の時期と同時代だと認識していて、それを「ただでかい都市が奈良でみつかっただけ」というのがおかしいと思いませんか? 広範囲の勢力が協力した理由として魏志倭人伝のいう「卑弥呼の共立」が最もありそうな理由だと思いませんか?
様々な状況証拠、856も認めている部分こそが、纒向遺跡が魏志倭人伝の記述に合う邪馬台国の比定地と考えられている理由なのですが。纒向遺跡はただでかい遺跡ではなく、古墳時代への移行が行われたと考えられる場所であり、それが卑弥呼と台与の共立を契機とすると考えるのが最も尤もらしい推定だと考えられているからこそ、多数説になっている訳です。
鉄は北陸でもたくさん出ていますし、登呂遺跡でも普通に使われていたと考えられていますよね? 鉄があった方がいろいろ捗るのは確かですが、北部九州の独占物でもなければ、権力や国力を示す唯一の指標でもないですよね?
「周旋五千里の解釈」と言いますが、「水行十日水行二十日陸行一月が熊本あたりで収まるとは思えない」と同じで、魏志倭人伝に書いてあることが何でも正しいと思うのが無理があるんですよ。黒い雉子や吠える猿と同じで。
魏志倭人伝の著者、陳壽は倭国に来たことはなく、先行する魏略や答礼使の報告書を見て書いたのではと考えられている訳ですよね。そして想定される報告書の作者も、行程記事の形式が変わるところから先は行っていなくて、伝聞だけではないかと多くの人が想定している訳です。なので、魏志倭人伝の記述が九州中心なのはある意味当たり前だと私は考えていて、ほぼそれ「だけ」を根拠に「畿内説は絶対にあり得ない(俺は絶対に九州だとは言ってない)」と言われるとなんだかなぁ、と正直思います。
>>860
台湾は距離が違うと思いますし、朝鮮半島よりは中国大陸から直接行くのではないでしょうか?
>861
邪馬台国が台湾だと言っているわけではありません。現実の生物の分布から考えると「有獮猴黒雉」は台湾のことと考えられますが、「作者の頭の中」ではその辺りまでぼんやりと倭人の活動範囲なんだろう、ということです。
魏志倭人伝の正確さはその程度と捉えてください、というつもりの例示です。
中国の史書では倭国と台湾は別立てになっています。
※860
>魏志倭人伝の著者、陳壽は倭国に来たことはなく、先行する魏略や答礼使の報告書を見て書いたのではと考えられている訳ですよね。そして想定される報告書の作者も、行程記事の形式が変わるところから先は行っていなくて、伝聞だけではないかと多くの人が想定している訳です
魏志倭人伝をもとに邪馬台国探せないじゃん
どこの遺跡もここだっていえないじゃん
日本に来た人しか日本のことを書いちゃいけないじゃん
>862
それなら別に畿内でも九州でも出雲でも福井でも京都でも沖縄でも大田でもどこでもいいのでは?
ってなってしまうがな
郡から1万2千里の範囲にあるからこそを探せばいい
魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
これね
正月や季節の区切りがなくて春に種まいて秋に収穫したらそれを1年(一区切り)としてるってくだりか
収穫祭とか田植え祭りとかしてたのかな?
二期作とか二毛作してなかったのかな
徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の時代はまだ殉葬者がいて、その後の古墳では代わりに埴輪を置いたから、殉葬者の骨が100体分出てきたらそこが卑弥呼の墓ということになる
855
>そのレス番号よろしくね
つ >>716
>863、864
これも繰り返しこのコメント欄に出てくる議論で、極論ですよね。
私も他の人も繰り返し書いていることですが、魏志倭人伝に「書いてあるとおりの場所はどこにもない」っていうだけです。だからいまだに決まらない。
その状態で、魏志倭人伝の「この部分(絹と鉄)」に合わないから(畿内説は)絶対に違う、式の議論をしていたら、どこでもいい、ではなく「どこであっても否定できてしまう」から不毛だということです。
魏志倭人伝の字義解釈では決まらないので、考古学資料で確認できる部分を押さえながら、総合的に検証していくしかないということです。そして考古学資料では畿内説の圧勝状態、という状況です。
>869の補足
魏志倭人伝に書いてあるとおりの場所はどこにもない、ということは、魏志倭人伝だけで場所を特定できるほど、魏志倭人伝は正確ではない、という当たり前のことです。
860は、その正確ではない理由として昔から言われていることを、改めて書いただけですよ。
「方墳部分は陸橋説」を調べた感想
弥生時代の円墳にも陸橋部はあるから箸墓古墳みたいに弥生時代の陸橋部と形が変わってたら流石に墓の一部と思うんじゃないかなと思いました。
『魏志倭人伝の謎を解く-三国志から見る邪馬台国』でほぼ説明されている通りだと思うけど。
邪馬台国や倭国に関する情報は、一定正しいのだろうけど、多くの偏向に満ちているのはほぼ間違いない。
中国の史書は、事実に基づいた記録を残すものではない。
黒い雉の記述だが、ヤフー知恵袋の「「雉」という字が有りますが、日本のキジとは」というのを
見てみると、
〈中国で言う「雉」というのはキジの仲間の総称であり、特定の種名を指す言葉ではありません。
日本のキジ(Phasianus versicolor)は日本の固有種であり、日本にしか生息していないため、中国の「雉」はおのずから日本のキジとは別種ということになるのです。
中国では通常、キジのことを「雉」ではなくて「野鸡」と言います。
雉という文字には「垣根」という意味がありますが……
中国に棲んでいる雉の仲間は色々いるので、いずれかだと思います
高麗雉(日本雉の亜種で北海道にもいるのでこれは違うかな?)
尾長雉(三國志の呂布の頭飾り…)
金鶏、銀鶏、雪鶏、雪シャコ、唐山鳥、蒙古雉、耳雉、帝雉、ハッカン(漢字は不明…)
ヒマラヤから中国の西部にかけての広範囲にキジ科の鳥類は多いです〉 とある。
※855
>なぜ遺物は無視するのか?
理由は散々上で説明されてるだろ池沼か?
>距離もなぜ無視するのか?
ちゃんと読め無視は方角。距離を重視した結果が畿内
>畿内説は周旋五千里の解釈を早く教えてくれ
伊都国の先はよくわからないって書かれてるわけだから、伊都国までのわかってるところ、参問できるところの倭地が周旋五千里ってだけの話
何があっても「邪馬台国=畿内」を認めたくない意固地な奴が難癖をつけているだけのスレになってきたな
871
形は変わってても、墓として神聖な部分と認識できるのは円墳部だけだった可能性は充分あるんじゃない
弥生時代に前方後円墳なくね?
※877
スレを頭から読め!!
箸墓古墳を見て前方後円墳はあれで1つの古墳だと認識できました。
後円部分だけ抜き出すのはどうかと思います。
>>878
魏の使節が前方後円墳をみたことがあったら円の部分だけを記述するのがおかしくなっちゃうだろ?
魏志倭人伝の著者がわざわざ間違える必要ないから何かしら事実が含まれてないと
※880
スレを頭から読め!!
魏志倭人伝の著者、陳壽って私も書きましたが、陳壽が書きたかったのは東夷伝倭人条ではなく、正史としての「三國志」です。わざわざ間違える必要はないですが、力点を置いて正確さを期して書いている訳でもない部分です。晋において司馬氏の功績を強調するために、司馬懿が公孫淵を滅ぼし、それによって公孫氏が遼東を押さえたために途絶えていた倭国の遣使が復活したことを、長く字数を割いて書いているという側面はあるそうですが。
魏志倭人伝がそこそこ正確で、今の研究のほうが的を射てないのかもね
>884
???
魏志倭人伝がそこそこ正確で、方角があやしいね程度の解釈修正で、今の研究と整合性が取れるから、今の多数説があるんですよ。
今の研究が的を射ていると考えられるのは、魏志倭人伝がそこそこ正確だからです。
どれだけ頑張っても、スレを読めば畿内説の方が圧倒的有利だと言う事が分かるから、いつまでも朝鮮人みたいにダダを捏ねるのは止めた方がいいぞ。
纏向遺跡が邪馬台国じゃないと思われる理由は
宮室、楼観、城柵がないこと
鉄の武器で武装した兵が厳かに守っていたはずなのに鉄製品がほぼでないこと
奈良には倭国大乱がおこった痕跡(死体)がないこと
東に海を渡ったところに住む倭人の地がないこと
南に大した勢力がないこと(和歌山も奈良同様鉄などの出土品がほぼない)
北に伊都国がないこと
※868
何か証拠のようなものが出てくるかと思ったら
>可能性が高い
ってただの感想、願望やないか
反論が仮説とはいかに?
ちゃんと確定してから教えてね
>>885
動物は台湾で風習は南九州で鉄と絹は畿内になくて年寄りの年齢は二年歴だと50歳で
方角も距離も違って実際は邪馬台国に行ってないと主張されていたはずでは?
方角が怪しい程度と今までの書き込みの落差に驚きました
朝鮮人言うてるのは同じ奴か?
まるで朝鮮人のように印象操作をするんだな
※860
>「卑弥呼の共立」
>>卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
>当時の倭は東に海を渡ってまた倭人の地がある上に敵対勢力の狗奴国もあることから統一政権ではな>いと魏志の中で認めていると思うんだけど
これについても反論してくれ
別に日本を統一するほどの大勢力じゃなくても魏は金印をくれているんだから、巨大勢力を想定しなくてもよい、というか当時の奈良は明らかに九州より国力下だったけどね
>北部九州の独占物でもなければ、権力や国力を示す唯一の指標でもないですよね?
国力をしめす唯一の指標ではないが、重要な指標の1つ
朝鮮半島の鉄を日本海ルートと対馬海峡ルートで手に入れていたという事実があるが、大和政権が成立して以降は大和に鉄が大量に流入したように、時の大勢力が鉄を多く入手していたのは事実※860
>889
そこそこ正確と、一通り正確の違いは分かりますか?
方角を90度回せばだいたい畿内にたどり着けば、その部分はそこそこ正確でしょう。
それでも旅程が距離から日数に変わるところから先は不正確と言うより不明確だし、風物や風習は、大陸の外のことが適当に交ざっている感じなのは、ここまでのコメントを読んでもらえば分かると思いますが。
結局自分の都合のいいところだけ切り出して勝ったような顔をする点は変わらないんですね。
>それでも旅程が距離から日数に変わるところから先は不正確と言うより不明確
え?
※892
>>方角を90度回せばだいたい畿内にたどり着けば
なにこれ。自分の都合のいいところから出発すればいいだけじゃん。
学者はこんなことを言えばいいのか、学問ってこんなもんなん
>>892
結局大陸の外が混ざってるって
混ざってるにもかかわらず肝心の畿内のものだけピンポイントでないんですけど
弥生時代から前方後円墳なんでしょ?鉄を鋳とかして何度も使うための炉は?祭祀場と住居を分けてたこと書いてなくね?市場と人口は?刺青ないんでしょ?東の狗奴國と戦争してたんでしょ?戦死者は?献上品や交易品の絹は?殉葬者は?
ここまで記述と違うといっそ奇跡だよね
>887
>宮室、楼観、城柵がないこと
建物は基本的に柱跡しか出ないので、どんな建物かは推定によるしかない部分が多いので、ないと言い切るのはむつかしいですよ?
もしかして、吉野ヶ里遺跡にはあるのに、と思っての書き込みじゃないですよね? あれはそうだったらいいのにな、という願望の混じった地上部の復元ですよ。
纒向遺跡では当時最大級の建物の柱跡が出ています。これを宮室ではなかったと考えるのは自由ですが。それから纒向に先行する大和盆地の唐古鍵遺跡から、楼閣の線画が出ています。
>鉄の武器で武装した兵が厳かに守っていたはずなのに鉄製品がほぼでないこと
原文は「常有人持兵守衛」ですよね。鉄の武器で武装ってどこから読み取れるのですか?
よほど「鉄」に思い入れがあるのでしょうが、魏志倭人伝に合わないから、とさんざん言ってきた人が、魏志倭人伝に書いてもいないことを根拠にするのは驚きです。
>奈良には倭国大乱がおこった痕跡(死体)がないこと
倭国大乱であって、邪馬台国が戦場になった、とは書いてないので、それを根拠にされても。奈良盆地では庶民(兵士階級)の墓が余り出ていないので、単に発掘バイアスなのかもしれませんがこの辺は詳しくないので深入りしません。
>東に海を渡ったところに住む倭人の地がないこと
畿内説が正しく方位が90度回っているなら北になるわけですが、それだと隠岐の島とか佐渡とかありますね。どちらも記紀に載っています。対馬海峡が千余里ですから距離もそんなものでしょう。
>南に大した勢力がないこと(和歌山も奈良同様鉄などの出土品がほぼない)
畿内説が正しく方位が90度回っているなら東になるわけですが、濃尾平野にはそれなりの規模の環濠集落があり、十分な勢力だと思います。
>北に伊都国がないこと
畿内説が正(ry
濃尾平野(狗奴國)との戦争跡はなんて遺跡ですか?
○濃尾平野が狗奴國→魏志倭人伝は一部方角が間違ってる
×魏志倭人伝は90度回転させなければならない→濃尾平野が狗奴國
主張すべきは逆なんだよなぁ…
※896
>もしかして、吉野ヶ里遺跡にはあるのに、と思っての書き込みじゃないですよね? あれはそうだったらいいのにな、という願望の混じった地上部の復元ですよ。
吉野ヶ里とかはこの際どうでもいいよ
ただ纏向は記述と合致しないというだけ
>兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃
少なくとも鉄の矛と鏃は使わないとな
>邪馬台国が戦場になった、とは書いてないので、それを根拠にされても
九州は各地に争いによって死んだと思われる遺骨が、有棺無槨の記述と合致する甕棺から多く出土するよ
>畿内説が正しく方位が90度回っているなら北になるわけですが、それだと隠岐の島とか佐渡とかありますね。どちらも記紀に載っています。対馬海峡が千余里ですから距離もそんなものでしょう。
そのような小さな島の情報まで載せるのに、なぜ畿内までの道のりや淡路島、四国などは不明瞭なのか?
そもそも女王国より北は詳らかではないではないか
この北も西に読み替えるのか?それなら西は九州と通過したであろう支配下である瀬戸内海の国家なのだから詳細がわかりそうなものである。
>濃尾平野にはそれなりの規模の環濠集落があり、十分な勢力だと思います。
ちなみに濃尾平野は鉄製品などの出土数は畿内よりもさらに低い
九州から畿内まで跨る大国とはもはや勝負にはならない吹けば飛ぶほどの雑魚でしかない
>891
倭人の住むところと、倭国はイコールではないんですよ。
魏志倭人伝でも夏后少康之子封於會稽と、会稽に倭人がいるとされていますがここは倭国ではないでしょう。
基本は遣使の上表文に対して除正するのですが、間違った除正は皇帝の権威に関わりますから、抑制的に値切られる方が多いようです。倭の五王の時も、求めた称号のいくつかを削られています。倭王は地域の首長ではなく、倭国の王という認定というのは文献史学の人の受け売りなので、今ソースに行き着けないですが、使譯所通三十國の30国から文句が出ない程度の正しさは認めてよいと思います。
要は一地域国家を倭王と除正したら、別の地域国家の長が朝貢してきたときに困るということで、それを魏朝は認めないということです。
大月氏と同じく当時の最恵国待遇のはずでは?
>899
私は纒向には当時最大級の建物跡がある、と書いたのですが読めますよね?
これが宮室や楼観ではないと、「証明」されなければ、纒向に楼観や宮室がないとは言えないですよね。さあ、楼観や宮室ではなかったと証明してください!
あなたが畿内説の否定に使っているのは、こういう論理です。バカバカしいと思いませんか?
もう一つ>899
>兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃
少なくとも鉄の矛と鏃は使わないとな
ここで「鐵」がかかっているのは鏃だけですよ?鉄の矛なんて書いてませんし、もともと宮室の護衛とは関係のない記述ですよね?
漢文、読めますか?
先にも書いたことですが、魏志倭人伝の記述通りの場所なんてないんですよ。あなたが九州説の具体的な比定地を挙げてくれれば、同じレベルかそれ以上に否定の論拠を並べられますよ。纒向という具体的な場所に対しては具体的なけちが付けやすいと言うだけで、一部ねつ造に近いことまで書きながら、一生懸命反論するエネルギーが凄いなと思いました。
>>903
その鉄の鏃は?
せっかくなので>899
>そのような小さな島の情報まで
隠岐も佐渡も記紀にいう大八洲なので、日本にとっては小さな島ではないし、倭人からの聞き取りなら入ってもおかしくはないと思いますよ。別に大きな島と書いてあるわけでもないですし。
※903
私は畿内に行くには日本海を通っていったと思ってるので、貴方の論に反対しますが、九州の場所は分かりません。
それとも貴方に反対する人は全て九州説で九州の遺跡を邪馬台国認定しなければならないのでしょうか。
横から失礼と書かなければいけませんでしたかね?
>903
邪馬台国は土佐だと学者が認めてる
壱岐も対馬も国ですからね。
俺は北関東説だから九州の場所は言わない
巨大都市+鉄の鏃=出雲=邪馬台国
距離も方角も関係ないからこれが正解
※903
矛と書いたら普通鉄の矛じゃないの?同じく剣も。これは記憶違いかも知れないが
銅矛とは書いてないからね
ちなみに銅矛も奈良からはほとんど出土しない
宮室の護衛も兵だろうに
まさか厳かに警備してるはずの宮室の護衛が徒手や棍棒で警備していたのかな?
>魏志倭人伝の記述通りの場所なんてないんですよ。
それを持ってして倭人伝の記述を全て否定するのが畿内説
というか九州説の弱点と言われる距離も
千余里=六十日行や、倭の東西五ヶ月行、南北三ヶ月行を考慮すると相当歩みが遅いので妥当だと思われるが
>あなたが九州説の具体的な比定地を挙げてくれれば、同じレベルかそれ以上に否定の論拠を並べられますよ。
現状確たるところはない。まあそれは纏向も同じことだけど
>一部ねつ造に近いことまで書きながら
具体的には?
他にも畿内説の根拠が薄いところは、後の史書にはきちんと瀬戸内海を航行して筑紫を発ったことや周辺国のことが書いてあること
そもそも、(やまたい)じゃなくて(やまと)だろ
場所がわからなくてもせめて読みは直せや
「遠津川族(とつかわぞく)伝説」
吉野の山奥に住んでいた遠津川族は、柿渋で染めた合羽を着ていたので「カラス」と言われた。また頭が大きいので「八咫烏」とも言われた。神武東征の際に道案内をした部族で、ヒミコの時代には宮殿の警護や情報収集をしていた。「倭、載烏越等を遣わし・・」とあるように、魏への使者を務めたこともある。
また、衛士の長が献上した遠津媛(トオツヒメ)は霊力があり ヒミコの侍女をしていた。またの名を遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ)という。後にミマキ(崇神)の妃となりトヨ(豊鋤入姫)を生んだ。
結局、鉄と絹が畿内に少ない、以外の根拠は言わないんですよね。
そして、論理から言えば、「ある」ことは根拠になりますが、「ない」ことは証明が難しいから根拠にするのは難しいのは分かりますよね? あなた自身、「纏向遺跡じゃない大きな遺跡は見つかってないけど、どこにあるかは分からないけどあるはずだ」って言ってましたし、そんな遺跡は「ない」ことは証明できませんから。
遺跡よりも小さな鉄鏃は見つからなくてもおかしくないし、今後見つかるかもしれないし、それをもって魏志倭人伝と合わないから「絶対」違うという根拠としてはそもそも厳しいのは分かりますか? そして、畿内からも鉄は出ているし、稲作関連で稲作をしていた範囲で使われていたのは鉄自体が出土していなくても確実で、単に少ないから違う、というのは難しいのは分かりますか?
鉄の出土量が国力の「一つの」指標になるのは確かですが、遺跡の規模や古墳の大きさの方が、より直接的な指標になります。
そして、「そもそも論」として根源的なこととして、魏志東夷伝倭人条であって、邪馬台国条、あるいは魏志邪馬台国伝ではないというところも確認してください。いわゆる魏志倭人伝に書いてある倭人や倭国の習俗、文化水準は、倭国の記述であって、邪馬台国ピンポイントの様子ではないということです。つまり、鉄鏃を使う倭人が九州にいれば、それは魏志の倭人条に書かれるだろうし、それが邪馬台国で出るかどうかは分からないってことです。
後漢書には
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
桓・靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻
とあって、安帝永初元年西暦107年の帥升から「倭国王」とされています。鉄と絹にこだわっている人の論法は、この帥升の時期のこととすればぴったり当てはまると思いますし、この帥升は九州の伊都国あたり(根拠なし)の王であり、倭国王(倭国で一番の中心)で問題ないと思いますし、後の大和朝廷とも直接は関係ないと考えてよいと思います。
しかし、その後桓帝と靈帝の在位の頃に倭国大乱がある。
纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり、大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが、乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
定形の前方後円墳は、箸墓以降だというのは、
数段の段築成で各段に円筒埴輪を置く 吉備
葺き石を置く 出雲
副葬品は剣・鏡・玉 北部九州
前方後円形(天円地方の思想?) 畿内
という、各地の弥生末期の王墓級墳丘墓の特徴を全て併せ持つ最初の大古墳が箸墓だからです。
纏向+箸墓は単にでかい遺跡などではなく、倭国内の各勢力が協力して作り上げた特別な都市であり古墳であることが分かります。そしてこのこと自体が、倭人伝のいう「卑弥呼の共立」を思わせるものです。
そして、倭国の習俗、鉄を使うとかは、倭国王帥升のときの遣使の情報も入っているでしょうし、九州の情報が多くても何の不思議もないし、それをもって邪馬台国は近畿ではないと言い張るのはおかしな話だということです。
繰り返しますが、弥生終末期から古墳時代に移行する時期の年代観の問題です。弥生時代のある時期までは北部九州が日本の中心であり鉄器もたくさん出ているけれども、それをどこまでも延長して、鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
「証拠はなくても、俺の考えの中では確実だ」ということまでは否定しませんが。
あと、狗奴国の位置について後漢書では
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
となっています。女王国の南ではなく東に千里海を渡ったところが拘奴國になっていて、魏志倭人伝の記述が一部ニコイチになっている感じです。
王朝の順序としては、前漢、後漢、三国(魏呉蜀)、晋の順ですが、史書は三国志の方が後漢書よりも先に成立しているので、後漢書は三国志の記述を受けてのものです。中国の史書をどの程度信頼できるかの、参考にしてください。
ああ、箸墓の発掘は陵墓参考地で行われていないので、副葬品については他の発掘調査が行われた初期古墳からの推定です。北部九州の勢力も古墳時代の成立にしっかり関与していることだけ確認してもらえばOKです。
※914
倭國王帥升 すいしょう は水松の音読みで 「水松彦」第六代考安天皇(ヒミコの大伯父)
(根拠はないので無視してください)
※887
この間放送があった知恵泉によると、纏向遺跡の発掘はわずか2%程度。
これから、色々な出土が期待できる。環濠や城柵などの跡が出てきたら、
纏向=邪馬台国で確定してもいいって事だな。
ちなみに、大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の池上・曽根遺跡は、
南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる、総面積60万m2に達する大規模な環濠集落
鉄製品の工房もあったようだ。
これらの事を考えると、纏向でも出てくる可能性が非常に高い。
914さんが書いたと思われるコメントを前から読んでいくと他に大きい遺跡が見つかったらダメだし、箸墓古墳の年代がいま考えられているより遡らないとダメなんだと分かりました。
あくまで、魏志倭人伝を都合のいいように抜粋して変更した上で現状、年代と様式を都合よく当てはめた結果だと分かりました。
その上でわたくしの考えは、纒向遺跡だとか箸墓古墳だとか決めつけず、遺跡の発掘や調査を楽しみたいと思います。
もしかしたら、思いもよらないところから大発見があるかもしれないですしね。
888
お前の「径100歩=円墳」理論も一緒だろ
鉄だとか絹だとか高楼だとかは、九州の習俗や建物であり、
それが邪馬台国のものだなんて書いてないよ。
ちゃんと魏志倭人伝を読めよ九州説の低学歴くんはw
911
>千余里=六十日行や、倭の東西五ヶ月行、南北三ヶ月行を考慮すると相当歩みが遅いので妥当だと思われるが
中国人がその道のりをちゃんと行ってればそれもあり得るが、
中国人「奴国以降は遠過ぎてよくわからない」
と書いてあるわけだからその可能性は極めて低い。
九州説への学者の支持率とぴったり一致するくらい低い。君の偏差値と民度(ry
魏志倭人伝の記述で、九州に合致しない事は、どう説明するんだろうか?
※914
>結局、鉄と絹が畿内に少ない、以外の根拠は言わないんですよね。
女王国まで万二千里、周旋五千里、魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、戦乱の遺体、方角、距離(水行十日、陸行一月では到底畿内まで到達できない)、東の倭種の地、南の対抗勢力、これら全てが根拠であり、畿内にはないもの
早く瀬戸内航海の記録がないことと、北の不詳の地、南のくな国、東の渡海した地をくるくるくるくる方角を回転させていることの回答を教えて欲しい
「絶対」だとかなんだとか勝手に人の言葉を付け足すのはやめて欲しい
相手の言葉を勝手に作り出して議論するなどはただのシャドーボクシングではないか
議論は建設的に行うべきだ
何度も言うとおり、今は確率を1%1%と積み上げる作業しかできないのが現状だ
(金印なり卑弥呼の墓なりが出てきたら話は一瞬で決着するだろうが)
その根拠の積み上げ作業が畿内説は一切合切無視してるということ
何度も言うとおり魏志倭人伝の記述にそぐわないならいくら巨大遺跡でも邪馬台国とは関係のない1つの遺跡である
>纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり
あなたは卑弥呼の共立を超巨大な統一体だと思っているのかもしれないがそれは間違いだ
なぜなら、かつて100ほどもあった使役通じる国が今や30国ほどに減っているからだ
それを見ても女王国連合が思ったよりも小規模だということがわかる
さらに北も不明、東も不明、南は敵。全く巨大な統一体だと思わせる節がない
逆に大和朝廷になってからは倭王武の上奏文や隋書、旧唐書の記述を見る限り、限りなく大きな統一体だということがわかる
>大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
奈良や大阪にも同時期の戦乱の死体はでない、卑弥呼が死去した後もまた大乱が起こったのだから上記のような批判は当たらない
>鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
これの意味がわからない
畿内説派は自説の勝利のために議論してるように見えてしまう
大事なのは真実の探求であり、自説の勝利などではない
ただ真実に導くために議論が必要であり、根拠の提示が必要なのだ
あなたは鏡を見て私が畿内説の否定を強弁してると思い戦ってるんだろうが、そのような低い次元の話はやめたほうがよい
真実の探求を諦め、自分のプライドのために議論を行うのは学問に対する冒涜ではないか?
※920-922
>お前の「径100歩=円墳」理論も一緒だろ
径百歩だけで表現できるのが円墳
色々わけのわからない解釈を付け足さなくても成り立つ
>鉄だとか絹だとか高楼だとかは、九州の習俗や建物であり、
>それが邪馬台国のものだなんて書いてないよ。
>ちゃんと魏志倭人伝を読めよ九州説の低学歴くんはw
宮室樓觀城柵は女王国というか卑弥呼の住まいの様子であり、絹は倭国の産物である上に魏から賜ったものでもあるんですけどね
どちらがちゃんと読んでないんでしょうかね
>中国人がその道のりをちゃんと行ってればそれもあり得るが、
>中国人「奴国以降は遠過ぎてよくわからない」
>と書いてあるわけだからその可能性は極めて低い。
>九州説への学者の支持率とぴったり一致するくらい低い。君の偏差値と民度(ry
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
わからないのは女王国より北にある国々ね
女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
あと人格攻撃は余裕のない証拠だからやめたほうがいいと思うよ?
偏差値と民度が高い高学歴大先生君に説教するのも申し訳ないが
で、九州からは青玉の産出や、生野菜を食べていた証拠、黒雉、吠える猿とか居るの?
青玉=翡翠は九州でよくとれるし、雉は※873に詳しい、吠える猿の吠えるはどこからきたのかわからないが猿はいるわな
生野菜を食べていたという証拠は申し訳ないが勉強不足で提示できない
しかし芹や葺等日本原産の野菜が日本各地に自生してる事実はあるんだから
野菜自体は存在した、そしてそれを食べたという文書がある
あとは自分で食べたか食べていないかを判断してくれ
まあ証拠が提示できないのはどこも同じでしょう
この極論君は1間違ってたら残りの99も全部無視ってのが面白いね
信憑性というものは100点満点中、何点とれるかだろう
これが90点取れるのが九州地方で、10点も取れないのが畿内
925
>色々わけのわからない解釈を付け足さなくても成り立つ
偏差値が低くて理解できないか、民度が低いから勝手な基準で拒絶してるか、その両方か。人格攻撃ニダとか言ってるが、ただの事実だったね…。
そういうのは誠実な学者の間では通用しないよという忠告だよ。
そんなことだから九州説ボロ負け、畿内説圧勝なのよ。
>女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
そうだよ。それが何か?
927
>これが90点取れるのが九州地方で、10点も取れないのが畿内
伊都国周辺のこと=邪馬台国のこと
だと勘違いしてるとそうなる。
「伊都国から先は遠くてわからない」と書いてるので
伊都国周辺の記述はなんの加点にもならない。
だから九州説は0点になって、もはや愛知説よりも低い。
>924
いい加減疲れてきましたが せっかくなので逐条解説しましょうか
> 女王国まで万二千里、周旋五千里、魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、
>戦乱の遺体、方角、距離(水行十日、陸行一月では到底畿内まで到達できない)、
>東の倭種の地、南の対抗勢力、これら全てが根拠であり、畿内にはないもの
「ない」ものを根拠にするのは難しいって書きましたよね?
あなた自身、843で
「もし邪馬台国が実在したとするのなら日本のどこかから発掘されるのは間違いない」
といっていますが、これを私は「ない」と証明することはできません。
それと同じで、「魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、戦乱の遺体、」がないとあなたが証明することはできないと思いますが、あなたの根拠の場合あなたがないと思えば根拠にしていいんですよね。
それはさておき、
魏晋鏡については、あなたが何をもって魏晋鏡としているのかいまいち分かりませんが、畿内でたくさん出る三角縁神獣鏡の研究は地道に進んでいて、一部のバージョンは中国製とされるようになっていたと思います。暇だったら調べてみてください。
甕棺は九州の墓制ですから、畿内では出ないでしょうが、棺あって廓なしの棺は甕棺である必要はないでしょう。
勾玉が畿内で出ないというソースを私は知りません。矛はメスリ山古墳から出ていますね。鉄はこれまでのコメントにもあるように、兵庫京都からはたくさん出ています。でもあなたの認識では、畿内に「ない」ものなんですよね。
絹は有機物だから(ry
丹というか水銀朱はむしろ畿内に特産地があります。
戦乱の遺体は、纏向遺跡が大乱後の造成だからで十分だと思います。
方角は、九州内での移動ですでに90度回っています。
距離はむしろちょうどでしょう。「到底畿内まで到達できない」はあなた個人の感想ですね。
東の倭種の地、南の対抗勢力、90度回っているなら特に問題ないのは896ですでに書きましたし、914でも書きましたが、後漢書の記述を見るとこの二つがニコイチになっていて、それほど中国の史書も正確性を期していないことが分かります。
>早く瀬戸内航海の記録がないことと、北の不詳の地、南のくな国、東の渡海した地をくるくる
>くるくる方角を回転させていることの回答を教えて欲しい
全部、90度回すだけで説明したつもりですが。くるくるはしていませんよ。
瀬戸内航路の話は私は一度もしていません。この件については詳しくないので一度も触れていません。ただ、瀬戸内航路でも日本海経由でも特に問題だとは思いません。最後の陸行1月が長いくらいで。
>「絶対」だとかなんだとか勝手に人の言葉を付け足すのはやめて欲しい
まあ、絶対とは言っていないかもしれませんが、「全くよくない」「間違いない」等の全否定や決め付けの言葉は何度も使っていますよね?
>相手の言葉を勝手に作り出して議論するなどはただのシャドーボクシングではないか
>議論は建設的に行うべきだ
私には「あなたの議論」の仕方が、あら捜しや揚げ足取りに見えます。途中からかなり荒れた言葉も使っていますし。建設的な議論ならよいのですが。
>何度も言うとおり、今は確率を1%1%と積み上げる作業しかできないのが現状だ
(金印なり卑弥呼の墓なりが出てきたら話は一瞬で決着するだろうが)
その1%ずつ式に、考古学資料その他の研究を積み上げた成果が、弥生年代の遡上であり、古墳時代前代が邪馬台国の時代に重なってきた、という流れなのですが。一度、弥生期から古墳時代始期の年代論の研究成果を調べてみてはいかがでしょうか?
>その根拠の積み上げ作業が畿内説は一切合切無視してるということ
>何度も言うとおり魏志倭人伝の記述にそぐわないならいくら巨大遺跡でも
>邪馬台国とは関係のない1つの遺跡である
私から見ると、あなたの方が年代論の積み上げ一切を無視して議論しているようにしか見えません。
魏志倭人伝の記述にそぐわないと「判定する権限」はあなただけが持っているのですか?
>纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり
>あなたは卑弥呼の共立を超巨大な統一体だと思っているのかもしれないがそれは間違いだ
> なぜなら、かつて100ほどもあった使役通じる国が今や30国ほどに減っているからだ
> それを見ても女王国連合が思ったよりも小規模だということがわかる
ここを見て、あなたの判断の仕方が一部分かったような気がします。
100から30に減ったのは、倭国100カ国のうち70カ国が女王国連合から漏れていると考えているのですね?
この部分は多数説では、地域の統合が進み小国は地域の盟主の下に統合されたから国の数が減ったと判断しています。女王国連合に入っていない国が多く、女王国が弱体であるのではなく。
先にも書きましたが、弥生期晩期にはただ一人の首長のために多くの労力・宝物をつぎ込んだ王墓級巨大墳丘墓が各地に作られるようになります。こうした地方王権の伸張が、周りの小国を吸収する形で進んだと考えられている訳です。
> さらに北も不明、東も不明、南は敵。全く巨大な統一体だと思わせる節がない
>逆に大和朝廷になってからは倭王武の上奏文や隋書、旧唐書の記述を見る限り、
>限りなく大きな統一体だということがわかる
不明なのは魏志の作者にとってであって、倭国の人間には不明でもなんでもないと思いますよ。
周囲を併呑して成長した30カ国の統一体は、あなたの言う「限りなく大きな統一体」とみなしてよいと思います。
「思わせる節がない」というのはあなたの誤読に基づく個人的な感想ですね。
>大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
> 奈良や大阪にも同時期の戦乱の死体はでない、卑弥呼が死去した後もまた大乱が
>起こったのだから上記のような批判は当たらない
まあ、乱が畿内で起こる必要はないですからね。倭国王帥升後の乱は、九州中心らしいですし(そうですよね?畿内ではない理由にそれを挙げているくらいですから)卑弥呼後の乱も、そのときの残党と考えれば、九州でよいのでは?
>鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
>これの意味がわからない
>畿内説派は自説の勝利のために議論してるように見えてしまう
>大事なのは真実の探求であり、自説の勝利などではない
> ただ真実に導くために議論が必要であり、根拠の提示が必要なのだ
> あなたは鏡を見て私が畿内説の否定を強弁してると思い戦ってるんだろうが、
>そのような低い次元の話はやめたほうがよい
でも、あなたのやっていることは客観的に見て、畿内説の否定、纏向遺跡は魏志倭人伝と関係ない、という主張のみに見えるのですが。畿内説の肯定的な理由根拠には一切言及せず、鉄が畿内には出ないから魏志倭人伝の記述と違う、という否定のみに字数を割いているように見えます。
相手の意見を一顧だにせず、違うったら違う式の書き込みは建設的だとは思えません。
>真実の探求を諦め、自分のプライドのために議論を行うのは学問に対する冒涜ではないか?
私、特にプライドはないですよ。年齢と春秋年のところでは恥をさらしてますし。
基本的に素人の聞きかじりですから、プライドも何もないです。ただ、これまでに読んできたことなどで、十分に説得力があると思った部分を紹介しているだけです。
あなたの方が、文体が荒れたりブレが合ったりしている部分が見受けられますが、プライドを傷つけられたと感じているのではないですか?
>925
>「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
>わからないのは女王国より北にある国々ね
>女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
漢文、読めますか?(二度目)
自女王國以北 ここまでが「女王国より以北」女王国の北側です。
魏志倭人伝では女王国まで南に向かっていますから、「倭国に着いてから女王国まで」が「女王国の北側」です。
其戸數道里 可得略載
其餘旁國遠絶 不可得詳
これが対句になっているのは分かりますよね?
その戸数や道里が略載できるのは「自女王國以北」であって、
その余の旁國については遠絶なので、詳しいことは分からないと書いてあります。
つまり、女王国の北側「以外」の国が分からないと書いてあるのですよ。
単に筆が滑っただけかもしれませんが、きちんと読みましょう。
>>930
絹は出土してますよ
別に有機物が出土しないわけではないですよ
畿内説を唱える人が絹の出土状況知らないわけではないですよね
租税を徴収してたことは書かれてるけど、調はどうだったんだろう
もし畿内説さん(便宜上こう呼ばせてもらおうかな)は九州を支配下においてるから別に畿内では出土しなくていいって書いてたけど、そうしたら税として絹を納めなくてもいい優しい政権だね。
倭国の王とまで称される巨大国家の支配層の人たちは麻を着て、大事なものも麻にくるんでたのかな?
九州で米と交易していた鉄や絹を自分たちの本拠地に税として運ばせないってことはそんなに強い政権ではなかったのかなと思ってしまう。
のちの大和朝廷の中央集権ぶり(手本は中国)を考えるとそんなに権力は強くなかったのかもね
傳送文書賜遺之物詣女王
ここに絹は含まれてなかったと考えればいいのかな?
>932,933
ものがないことを理由にしても、それは強い根拠にはならないと何度言えば。
絹みたいなものは、出ることもある、であって、どんなにたくさんあっても出ないときは出ないし、逆に明日畿内で発掘されるかもしれませんし。
絹がいくらあっても、蚕が出たって話はあるんですかね? 養蚕をしているって書かれていたら蚕が出てないと否定されるのかというのとそんなに違わないって分かりますか?
分かりやすいように極論で書いてますが、有機物の遺物の扱いは注意が必要です。
914でも書きましたが、再掲します。
そして、「そもそも論」として根源的なこととして、魏志東夷伝倭人条であって、邪馬台国条、あるいは魏志邪馬台国伝ではないというところも確認してください。いわゆる魏志倭人伝に書いてある倭人や倭国の習俗、文化水準は、倭国の記述であって、邪馬台国ピンポイントの様子ではないということです。つまり、鉄鏃を使う倭人が九州にいれば、それは魏志の倭人条に書かれるだろうし、それが邪馬台国で出るかどうかは分からないってことです。
これと同様に、倭国からの献上品が邪馬台国産品に限定される必要がないのは分かりますか? 倭国王としての遣使であり献上品なのですから、むしろ国中からよいものを選んで献上するでしょう。
物のあるなしで否定しようとするのは、根拠として弱いですよ。
>>934
鏡と土器が出たから畿内って書いてたよね?
弥生時代には楽浪系の三眠蚕が飼われてたそうですよ
1世紀から2世紀にかけて伝わったんだね
本当かどうかは分からなかったけど伝えた人の記録まで残ってる
中国で門外不出になる前にもたらされたのか、それとも長江河口の倭人が持ち帰ったのか、記録どおり朝鮮半島経由でもたらされたのか、興味は尽きない
>927
>青玉=翡翠は九州でよくとれるし、
青玉というのはサファイアらしいですよ。
私は九州のサファイア産地を知らないのですが、あったら教えてください。
吉野ヶ里遺跡は紡錘車が出土してんじゃん
※938
コランダムなら産出してるよ!
是非掘りにきてみてください!
>936
で、倭国で三眠蚕が飼われていたという記録文献があって、蚕の遺物が出ないからそこは倭国ではないって言われたら、何を言ってるんだろう?って思いますよね。
物、特に有機物が出ないことを根拠にするのは、根拠として弱いっていうのが分かってもらえるでしょうか。
>940
ありがとうございます。
コランダムの青いのがサファイアですよね。九州のコランダムで青い良いのは出るんでしょうか?
質問ばかりですみません。
弥生時代の区分が変わったという主張を受けて調べました
以前は、弥生時代を3つにの区分に分け、前期 紀元前200~紀元前100年、中期 紀元前100~紀元後(西暦)100年、後期 西暦100~西暦300年頃としていました。
しかし、近年時代測定法の進歩により、弥生時代が広がりつつ遡るようになり、西暦2000年には、早期が紀元前1000年頃から紀元前800年頃、前期がその後紀元前400年頃まで、中期が紀元後50年くらいまで、後期はこれまでと同じ。という風に変更されようとしています。
つまり弥生時代の始まりは早まったが弥生時代の終わりは変わりがなかったです。
確かに弥生時代の区分は変わっていましたが、卑弥呼の時代が弥生時代であることに変わりはないようです。
なんか時代がどうのと主張されている方に危うく騙されるところでした。皆さんも気をつけていただければと思います。
これからまた、変わるかも知れませんが、少なくとも卑弥呼の墓が作られたときが古墳時代の始まりとは学会のほとんどの学者は決め付けておりませんでした。
経糸と緯糸の完全度と断面積と1cmあたり織密度を中国のものと倭国のものを比べると明らかに違うのね
もしこれが同じだったら輸入品といえるけどここまで違ったら倭国産だといっていいレベル
奈良県の唐古・鍵遺跡から出土した男根形の木製品を是非見て欲しい
これを見れば邪馬台国が間違いなく畿内にあったと確信できるであろう
できれば畿内説を採用する方々は名前をこの出土物の名前にしていただきたい
倭国大乱の理由は稲作の開始により人口が増加し、収穫率のいい土地を手にしたものと、しないものとの間の格差が開き、土地をめぐる争いも起きるようになったことだと考えれば一番いい耕地を持ったところが邪馬台国だな
登呂遺跡だっけ?
ここまでの畿内説の結論
倭人伝のことは全部九州のことを書いてるけど
方角と距離をねじ曲げてまきまくを邪馬台国にしたい
これで合ってるよな
>>942
失礼
>コランダムの青いのがサファイアですよね
間違いではないですが、正しくもないです。
「サファイアはコランダムのうち宝石としての価値があり、かつ色が赤でないもの」をいいいます
ただ、青玉といえば青色をしたものをさします。
九州ですと長崎、大分、熊本、福岡で産出された記録がありますが、閉山してるところも多いのでどうでしょう?
ただ、昔はもっと取れたのかもしれないということ正直日本全国で産出するのでコランダムから邪馬台国を特定するのは無理ではないでしょうか?
きっと倭国全体の山から採れたので魏志倭人伝に書いたのではないでしょうか?
もしかしたら、弥生時代の庶民はサファイアやルビー、(ルビーのほうが稀少です。九州でも四国でも中国地方でも中部地方でも採れますよ!)を身に付けてお洒落してたかもしれませんね
それとガラス細工も作っていたようで、今だとガラスが宝石の代わりですが、当時は宝石がガラスの代わりだったかもしれませんね
纏向遺跡は縄文時代からずっと続く遺跡だけあって祭祀場が真ん中にあってまだ発見されてない住居が周辺にあるのは縄文時代の集落の特徴だな
鉄と絹を持ってなかったことからも縄文人が水田だけ取り入れてそのまま暮らしてたんだろう
石器と青銅器+水田稲作で九州から畿内までを制圧したと考えれば大和朝廷の天皇家が万世一系であり、名前が倭の伝統を受け継いでいるのも当たり前だな
弥生時代に「貫」の技術があるんだから高い建物造れるな
>943
また微妙なごまかしを。
卑弥呼の墓を特定するような発言は、まともな考古学者はしないですよ。
なので、卑弥呼の墓が作られたときが古墳時代の始まりという学者はいなくて当然です。それを「少なくとも」と表現するのはさすがですね。
纒向遺跡が古墳時代の始まりを告げた地であること、定型化した前方後円墳が各地の弥生墳丘墓の特徴を統合したものであることは、一定以上認められているはずです。
そして、箸墓が最初の定型化した前方後円墳であることは、唯一五段築成であることあること、円筒埴輪が最古級であることからほぼ認められています。
で、あとは箸墓の築造年代ですが、これは幅があり3世紀半ばから後半程度で何年とは特定できません。そして、纒向遺跡は箸墓よりも早く「弥生時代から」作られ始めています。
弥生後期の各地の地方首長が成長し、王墓級弥生墳丘墓が作られる時代は、もちろん「弥生時代」ですが、これを古墳時代前代と表現しています。これまでかなり丁寧に書いてきましたから、基本的には誤解はないと思いますが。
弥生時代の絹織物面白いね
畿内からは出土しないから無視されるだろうけど
透目絹とか献上したのかなぁとかこの絹で鉄を買ったのかなぁとか想像すると楽しいね
対馬から瀬戸内にかけて製塩の跡もあるから塩も作って漬物作ってたかもね、これなら冬も野菜が食べられる、生じゃないけど
※951
こいつやっと箸墓古墳が卑弥呼の墓じゃないと認めたよ…
>951
纏向遺跡は縄文時代から古墳時代の遺跡じゃないの?
3世紀前半にいったん衰退して3世紀終わりからまた復興したみたいだけど、新しい発見あった?
>948
丁寧に教えていただきありがとうございます。
宝石級のはどれくらい採れたのでしょうね? 産出されたというのは鉱山として成り立つほど良質な物が出たのでしょうか。
青ガラスの腕輪は丹波の大風呂南墳丘墓で出ているのですが、サファイヤの副葬品ってあるのでしょうか。
>>34・199
箸墓古墳は卑弥呼の墓でその箸墓古墳から古墳時代が始まったというあなたの新説を信じてます
>953
結構前に、卑弥呼よりむしろ崇神天皇の陵墓の可能性の方が高いと個人的には思っているってとっくに書いてありますが。
その辺にも誤解と思い込みがあるようですね。
私の最初の書き込みでも、卑弥呼の墓であってもなくてもっていう書き方してますよ。
纒向遺跡が特別な遺跡で、箸墓が特別な古墳としか言ってませんよ。
>954
新しい話じゃなくて、その3世紀後半の復興というのが、3世紀半ば前後まで遡った編年でよいのではないかという話です。
唐古鍵の環濠集落から纒向に奈良盆地の中心が移る頃が、魏志倭人伝の時代にかかるかどうかという視点です。
碧玉でまとめられちゃってるね
明らかにヒスイに比べて地位は低いね
縄文時代から緑>青だから仕方がないのかな
せめて碧玉(コランダム)って書いてあれば分かるのにね
まあ、どこからでも出る珍しくもない石だからしょうがないね
957
もはや邪馬台国関係なくなってる…
※957 ※842
日本書紀の春秋年は採用して同じく日本書紀に書いてある倭迹迹日百襲姫命は採用しないのはおかしくない?
なんだ、自分の都合いいように解釈してここまでコメントしてただけかよ
畿内説のエースだと思ってたのにがっかりだ
畿内かそれ以外かは一から議論のし直しだな
>>930
>>951
古墳時代前代という言葉を調べましたが橋本博文という人しか使っていませんでした
さらに佐渡の研究者のようですが佐渡が邪馬台国なのでしょうか?
さらに畿内を中心に発掘されている腕輪は佐渡までいきわたっているようですが、魏志倭人伝には出てきますか?
日本の固有種のキジは中国で緑雉という名
野鶏とは中国北部に広く生息する高麗雉のこと
台湾固有種のキジの名は帝雉(ミカドキジ)
これが件の黒い雉
生野菜の記述もたぶん台湾
江戸時代に野菜の刺身があったとかいう根拠はお笑いもの
倭に刺身があったのでないなら江戸時代の刺身とは繋がらない
もし倭に魚の生食があったなら、中国人の目には間違いなく異様に映ったはずなので
冬の生野菜などでなく魚の生食について特筆される
これが無いということはその地に魚の生食がなかったということ(可能性が高い)
青玉がサファイアというのは何を根拠した説?
中国語でサファイアは藍宝石
青玉は碧玉の一種
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393?fr=aladdin
台湾は翡翠の名産地 これもおそらく台湾
何が出土しても、特定の「卑弥呼」なる人物の墳墓であることの証明は限りなく困難。
「親魏倭王印」の本物が出たら学術的には一応決着かな。
文献的には九州の方がありそう(筑紫平野を無視するのはおかしい)。
畿内説の一縷の望みが箸墓古墳なんだろ。
個人的には
倭 =漢字表記
邪馬台=「ヤマト」発音の漢字表記
だと思ってるので、逆から見ると畿内の政権で「何故大倭をヤマトと読むのか」説明出来る人間がいないって時点で本場の「倭」じゃないだろって思う。
あと磐余彦の元で倭国造になった珍彦が速吸門(九州北部沖とも)で合流したって古事記の伝承は気になるね。
九州にも出雲にも吉備にも関西にも別個の勢力があって、そのうち半島に近い九州勢力が公孫氏次いで魏に朝貢したでは問題なのかと訊いてみたい。
その後百年余りこそ本当の「倭国大乱」で、更に継体天皇以前の事情はまだ検討の余地がありそう。
好太土王との戦もどれだけの勢力が参加したのかハッキリしないからね。
神功皇后の事蹟はこれなのかも。
九州説w
池沼は大変だなw
※964
「今倭水人好沈没捕魚蛤」は?
捕るだけで食わないの?
※966
それは降参って意味ですか。
>筑紫平野を無視するのはおかしい
邪馬台国への通り道じゃないから
>967
煮たり焼いたり
蒸したり
干したり?
燻したり(燻製の歴史は1万年超え)
※969
オレはそこが本命だと思ってるですが。
筑後川流域から博多までがまずクニとして纏りやすい。
悪魔の証明みたいになるけど、近代以降の土地開発で失われた遺構も多いだろうから「親魏倭王」の金印は永久に出土しないかも。
オレ的には後漢書の「奴国」が後に「倭(実体は邪馬台と同じ)」を統括してたと見てて、上記の地域が正にその版図だと思ってる。
里程が記されてないクニには原則使者は行ってないと。
大和の元の読み方はミワだ
畿内は邪馬台国と関係が無い
神武は侵略者で大和は奪われた
それが本来の歴史だ
その上で、朝廷成立後は畿内の民も朝廷に協力してきた
帯方郡(ソウル)から女王の都まで一万ニ千余里で、
郡から末ラ国(松浦郡)まで一万里だから、後の残りはニ千余里。
どう逆立ちしても北九州じゃん。畿内説pgr
魏の工房跡から大量に出土する鏡の型枠は漢式鏡で、それが女王が大量にもらった鏡。
この漢式鏡でも立派な物が数多く出土するのが福岡市近辺!
この辺りは昔から都市化が進んでてもう女王の墓や宮殿跡の発掘は望めない、残念。
因チナみに、2世紀半ば前後に神武の兄弟達がこのままでは行き詰まってダメだから東征しようと相談した岡田の宮も福岡市だよな。
※15, ※537, 参照
976
× 帯方郡(ソウル)から女王の都まで
○ 帯方郡(ソウル)から女王に服属する一番端の国まで
そこから女王の都までは、水行20日水行10日陸行1カ月
どう逆立ちしても北九州ではないじゃん。
そこから同じ方向のさらに先に、女王に服属しないほど大きな国がある。
どう逆立ちしても九州ではないじゃん。九州説pgr
畿内で大量に出てくる神獣鏡が中国で作られたものだとわかって、
完全に九州説の息の根は止められたよw
947
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を九州伊都国がしていて、九州出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに九州長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
※976
記紀を根拠にしながら、都合の悪いところは記紀に書いてある通りに読まない東遷説のほうが頭おかしい。14代仲哀天皇の后が晋に朝貢したって書いてあるわけだから、初代神武は2世紀よりかなり前の話。
947
九州説は、距離が都合良過ぎ
方角も、末盧国や伊都国の時点で狂ってるのに、
その先だけはちゃんとしてるというトンデモ理論
卑弥呼が奈良に住んでたから奈良に古墳があるの?
埋葬は出生地か死んだ場所か適当か霊的な場所だったのか?
埼玉古墳群の近くに住んでるけど、当時日本の辺境だったのに何で古墳が多いか謎なので教えてくださいな。
>960-963
私は考古学その他の研究成果のうち、自分で納得がいくものを中心に書き込みをしています。考古学者で、卑弥呼や邪馬台国に積極的に言及する人はほぼいません。どこかと聞かれれば、纏向が候補だと答える人が多いですが、断定する人はいないはずです。それはまだ科学ではない状態ですから。
倭迹迹日百襲姫はもちろん知っていますし、海部氏の勘注系図を引用して倭迹迹日百襲姫を卑弥呼だと結論付けている論考も読みましたが、勘注系図が後世の偽書だという論説の方が私は説得力があると考えていますし、記紀の情報だけでは倭迹迹日百襲姫が何者であるかははっきりしたことは言えません。その一方で、倭迹迹日百襲姫は記紀において一皇女としては最も多くのエピソードが書かれており、その陵墓造営記事があり、母親の名前が意富夜麻登玖邇阿礼比売で、天皇級かつクニを生んだ姫というような名前がつけられており、憶測でよければ一番卑弥呼っぽい伝承だとは思います。
まあ素人の落書きに、信憑性は要らないといえばそれまでですが、トンデモ説との境界が怪しいと思う部分は、書き込んでいません。だから、箸墓が卑弥呼の墓かどうかというのは、直接の話題にはしていないということです。
文献史学と考古学は別の学問分野で、考古学者で記紀等の文献に言及しているのは森浩一さんくらいだと思います。また、考古学でも、土器編年を専門にしている人と、三角縁神獣鏡を研究している人、古代の葬送儀礼を研究している人は、別々の研究分野であって分野横断的な研究は多くありません。
で、私は素人としていろんな話を読んで、自分の中で「トンデモにならない範囲」でいろいろな分野を総合して書き込みをしているつもりです。
古墳時代前代という言い方は、他に誰か使っているからという理由で書いたものではありません。自分のオリジナルだというつもりもないですが。吉備の楯築墳丘墓のような王墓級弥生墳丘墓が各地で作られ、古墳時代に入る前の、それでいていわゆる弥生時代から、時代の針が一つ進んだ段階を指して使っています。巨大な弥生墳丘墓が何代も続けて造営されている様子は見られないので、これは世代にして1世代か2世代の短い時間のようです。
私の興味の方向は、
邪馬台国はどこだろう→纏向遺跡がある! ではなく
日本の国家形成はどうなっているのだろう→弥生時代の地域王権の伸張→纏向遺跡→古墳時代 です。
それと、土器編年を中心にした遺跡遺物の年代観、魏志倭人伝に言う3世紀半ばの倭国の中心、をあわせて考えると纏向遺跡でいいだろう、という判断です。もちろん、中国の史書も原文で倭国関連の部分は一通り目を通していますよ。
※964
もう一回スレを頭から読み直せ。
青玉はサファイア。魚の刺身と野菜の生を混同させたごまかし論法。
魚の刺身と野菜の指身とは別。魚の生食の話は全く関係ないものだよ。
ちなみに魚の生食は室町時代には四条流などの料理の流派である程度確立されたもの。
江戸時代の生の野菜を食べていたというのと、堺で砂糖が生産されていたというのは
気温が低い時代であっても畿内は中国から見て温暖で、生の野菜も食べていたという事だ。
文献がある畿内の情報より、文献や証拠を提示せず、台湾で生野菜を食べていたと類推する
のは、まともな思考ではないね。
こういった思考をする人間の言う事を信用する奴は、よほどの無知だけ(笑)
この※だけでも、君が願望妄想を基本して論じている事が分かる。
※981
埼玉の古墳群が多いのは、それなりの大勢力があった事を示しているが、
卑弥呼の時代とは関係ない。
日本各地の前方後円墳は、大阪藤井寺市の土師ノ里という場所があるが、そこを領地としてきた
土師一族が古墳づくりを伝えたとされる。ちなみに土師氏は菅原道真の母方の一族。
はじ【土師】
(ハニシの約)大和政権で葬式・陵墓・土器製作などを担当した氏うじ。はにし。
はじ‐き【土師器】広辞苑第六版より引用
弥生土器の系譜につながる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
はじ‐べ【土師部】
古代、大和政権に土師器を貢納した品部しなべ。北九州から関東地方まで各地に分布。埴輪はにわの製作、葬儀にも従事。はにしべ
古墳時代の5世紀とされる埼玉稲荷山古墳と熊本の江田船山古墳のどちらからも雄略天皇と推定される人名(ワカタケル)の文字が入った鉄剣が出土しているから、大和王権の勢力が関東~九州まで及んでいたとされる。
ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係で
日本の三国志研究の第一人者とされる教授が「文献学者は考古学の発見によって、色々と
覆される」と言っていた。
推論が含まれる可能性がある文献より、物証として出る発掘による出土の方が圧倒的に
信憑性が高い事を文献学者自体が認めているんだよ。
だから現時点において、九州および他の候補より、纏向遺跡が邪馬台国である可能性が
非常に高いとされている。これは九州説をとってきた九州の研究者の多くが認める所らしい。
九州説を推している人は、その現実を受け止めるべきだね。
平安時代から栽培されている泉州特産の水ナスは水代りにもいで生で食べるよ
>>947
畿内で合致していないものは、これから出土する可能性があるもの
しかし九州で合致していないサファイアなどは、現在見つかっていなければ
見つかる可能性が極めて低い物だ
畿内説派は倭人で以外にも文献やサイト・番組など客観的な証拠を明示しているが、
九州派の場合はそれらを都合の良いように脳内変換して論破した気になっているだけ
議論の基本は、客観的な証拠を明示して自分の意見を裏付けしなければ、誰も信用しない
できれば複数の裏付け証拠を明示してから、自分の意見を言うことにすべき
上からずっと読めば、畿内派の方が正しいと思うのが普通だろう
プロパガンダが酷いねぇ。
天皇が唯一の皇帝になっちゃったから、天皇は支那のおかげで日本を支配できた天皇は支那皇帝が作ってやったって事にしたいのだろうねぇ。
それは置いておいて、いくつか気付いた考察。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶
女王国の北(到着するまで)は書けるが、「他の国は遠絶」
これさ、「女王国まで地域が繋がってた」んじゃないの?
北九州の平野(福岡から佐賀県まで)は繋がってて、近畿とほぼ同等の平野が広がってるし。
女王国までの残り1500里については、
朝鮮半島の1000里を(陸行?)60日、倭人の水行は30日1000里。
水行20日水行10日陸行30日 = 1500里 これで概ね当てはまる。(12000余里だから200里は気にしなくていいよね、12200余里とは書かないし)
福岡から南に川上り20日、2万の平野、宝満川南に下って10日と陸行30日、5万の平野(福岡+佐賀)。南には敵の強国くまもん。
それからWikiに載ってないけど、
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
南に4000里で侏儒国が種子島(小人人骨発見された)、東南?船1年(12000里)で黒歯国が近畿(黒歯は風習の事って他の書物に書いてある、お歯黒やってたのは近畿で入れ墨倭人と風習が違うって日本側の記述とも合う)
周旋5000里は福岡+佐賀でちょうどそれくらい。最初の東?に1000里は、福岡→山口で、出雲などは朝貢してなかったから国名が無く倭種とのみ記述された?
方角?については、朝鮮半島と九州が南北扱いされていて、対馬(400里なので浦の島)から南が壱岐島(300里)とある事からも、45度くらいは誤差の範囲らしいから、東で山口、東南で近畿もおかしいことはないね。
それで後に、黒歯国が大倭統一したから、公家がお歯黒してる。
それゆえ、5世紀以降の記述が、ヤメイからヤマトに変わる。
それと、倭から大倭になると、国の広さが船で年単位になるんだったか、
こんな感じで両国の記述がだいたいあってくるかねぇ。
琉球(台湾)の猿や雉が混同して書かれてるって話は、中原を世界の中心にするため、東世界の朝鮮半島が実際より大きく思われていた事、倭人は南シナ海~東シナ海沿岸に広がっていた事(海南島にも倭人が居た)、などを考えると、九州=琉球(台湾)のようなものだと思って、日本の雉と猿を実物は見ずに琉球(台湾)の雉と猿として書いたって事かなぁ。
日本の古代史はファンタジーすぎて考えても答えが出ない。
神武天皇からして実在しないのに実在の人物として扱ったり、権威的な理由で歪められてる人物がいたりして訳が分からない状態になってる。
※989
神武天皇や神話時代の各天皇や武内宿祢、ヤマトタケルなども一人ではなく何世代もしくは何人かの集合体として一つの人物に集約されたんだろうと思う。
ファンタジーではあるけど、記紀の記述を裏付ける出雲大社の柱跡などが出土しているから、元になった出来事はあるんじゃないか?
台湾の記述と度々出てくるが、魏が台湾を認識していたという記述は三国志などを
含めた史書のいつの時代に初出があるんだろうか?
上にもあるように、雉は中国では日本で考えている雉より幅広い。
中国で「吠える」は日本と同じ意味なんだろうか?
わずかな倭人伝の記述だけを見ていても木を見て森を見ずって事だから、
もっと視野を広げて考える必要があるんだろうな。
魏志倭人伝をそのまま読む。(3)というサイトを見つけた。
台湾猿は日本の猿と近縁種で、外見的には尾が長いかどうかの違いくらいしかない。
他のサイトでは朝鮮の雉より日本の雉の方が黒っぽいから黒雉と書いたという内容もあった。
前方後円墳に関していうと、航空写真で見るから前方後円墳と認識できるが、地上から実際に
見たって全体の形を掴むのは難しい。
埋葬部は円墳の部分であるから、「墓は?」と聞かれた「丸い墓」と答えるだろう。
現代と同じような知識で考えてはいけない。筆者は別に日本の為に倭人伝を書いたわけでは
ないから、実際に手にもって見られる物以外はアバウトな見方をしていただろう。
呉は台湾に人狩りに行ってるから認識はしてたと思うよ。
魏は倭国は海南島と同じ文化と書いてるから、台湾を知っててもおかしくはない。
九州説の人のコメントからは、九州王朝を認めたいという願いが感じられます。
九州王朝仮説は、大和朝廷とは別に九州には独立王朝があり、倭の五王も、隋の煬帝に日出處天子という国書を送ったのも九州王朝で、記紀は大和朝廷が九州王朝の歴史を盗んで書いたものだとするものです。
これまでの九州説の書き込みを見ると、巻向は立派でいいから、魏志倭人伝の邪馬台国は九州で巻向・大和とは無関係という立場のように見えます。その邪馬台国が、大和とは別に九州王朝になるという筋書きのようです。
※994
全部読んできてるが、そんなコメントどこにもないぞ。
お前らのプロパガンダ気持ち悪いんだよ。全部自己紹介になってるじゃないか。
そんなことするのは、成り済ましで自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴だよ。
訂正
成り済ましで自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴
洗脳で、自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴
日向から東征したんだから天皇家のルーツは九州だろ?
問題は東征した後、邪馬台国になったのか、邪馬台国を滅ぼして日本になったのかだろ?
東征があったとして、その東征の年代が問題ですよね。
トンデモの隣のレベルで書かせてもらえば、私は日向は宮崎ではなく筑紫の日向説の方がいろいろと納得が行きます。そして、日向から東征で大和入りして、五代あとくらいが3世紀中ごろで崇神天皇が三輪山の山裾に宮を築いたくらいだと、ちょうどいい頃合だと思っています。
ただこの辺は、系譜図も信頼できませんし、推論に推論を重ねるとこうなる、くらいの話ですから信憑性はあまりありません。
雉や猿については考えなくても良さそうですね。声だけ聞いて書いたとしても見た上で書いたとしても問題なさそうです。
大陸の権威誇示器具と人材派遣を受けた九州北部の勢力が西からの脅威となり、黒歯風習の人達は呉の国で作られた鏡などを手に入れ対抗し、勢力を伸ばすため東国に進出した。
最も大陸の脅威を感じていたであろう出雲の人々とは同盟し、関東を従えその兵力を以て東の55国、西の66国、そして百済新羅の95国まで行ったところで高句麗に止められる。
関東が朝鮮半島に影響力持っていたのは、関東兵力が遠征していたためかもしれない。
倭国が抑えられた北九州には、関東勢力の拠点として影響が残り、後の防人などでも東国の人が入り、南九州の倭人と対立してた地域と、ほぼほぼ同じような分布になった。
壇ノ浦で関東勢力が平家を追い詰めたのは北九州だし、足利尊氏を支えたのも北九州勢力だし、この繋がりはずっと続いていったのだろうね。
3世紀には日本に色んな勢力があったのだし、別王朝でもなんでも大した問題ではないと思います。
記紀の記述を信頼できないと避ける人も多いようですが、土地の代表者が男女2名で同じ名前という描写が多くあります。宇沙都比古、宇沙都比賣のような形です。これはいわゆるヒコヒメ制を思わせるものです。魏志倭人伝も、卑弥呼を女王とし有男弟佐治國とあり、邪馬台国もヒコヒメ制のように見えます。
ここで話が飛ぶのですが、前方後円墳は後円部に埋葬主体がありますが、前方部にも方形壇を設け埋葬施設が作られているものも知られています。島の山古墳は後円部の埋葬区画は盗掘されていましたが、前方部の埋葬施設から多くの石製腕飾りが発掘されていて、前方部の被葬者は女性と想定されています。
何が言いたいかというと、前方後円墳は前方部と後円部に一人ずつ埋葬する、ヒコヒメ制の墓なのかもしれないということです。だとすると、後円部で一つのお墓、前方部で一つのお墓と見ることもできるわけです。まあ、前方部に埋葬区画が確認されない古墳も多いですし、ただの妄想ですけどね。
※1000
そう言われてみれば、継体天皇以後は、推古天皇や持統天皇のように夫婦でやっていた形跡があり、皇女を巫女として送り出したり、そういった文化が見受けられる気がしますね。
支那と付き合う上で男1人が統治者になる必要があったと考えると、すぐに廃れたのも納得がいく。
>979
>14代仲哀天皇の后
神功皇后って書いた方が分かりやすいと思います。三韓征伐の逸話で有名な人です。
日本書紀では仲哀天皇の皇后であり、仲哀の死後の天皇は応神で皇位には登らず、摂政だったという扱いですが、一つの巻を天皇一代に当てている日本書紀で、神功皇后に9巻を当てており、その意味で天皇扱いとも言えます。
三韓征伐は史実ではないという扱いが主流ですが、神功皇后を広開土王の石碑の頃の年代の人とする紀年解釈もあり、当時倭国と半島の間に深い関係があったのは確かなようです。
青玉はサファイアの和名
魏志倭人伝は漢籍
この意味わかる?
江戸の刺身の話も砂糖の話も関係なし
中国から見て温暖で生の野菜も食べられていたと言いたかった?
魏都より寒い朝鮮でサンチュが生食されてきた事実
江戸時代の生野菜がなんだって?
ここの人たちは書物を「撰」することがどういう作業か分かってないようだ
神功皇后を天皇から外したのは明治政府(大正時代)だぞ。
それまでは天皇として扱われてたの知っててコメントしてるんだよな?
門外漢でよくわからないんだけど、どちらも正しいという可能性はないの?
邪馬台国はみなの心の中にあるんだよ
~完~
まあたぶんこれを元ネタにしてるんだろうな
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm
信じるものは人それぞれ
>1005
よく知らなかったから調べたけど、その前も一般に天皇とされていたってことは特にないようだね。
扶桑略記などに神功天皇という表記もあるけれど、日本書紀はじめ六国史ではすべて皇后だし、水戸藩の大日本史では皇妃伝で記載して、本紀には入れていない。
大正15年の詔書は、皇后でありながら神功皇后の称制が天皇の代数(15代)に入っていたのを外すというのが、目的だったようだ。
>>988
>「女王国まで地域が繋がってた」んじゃないの?
女王に服属する一番端の国(東南至奴国、次有奴國 此女王境界所盡)まではそうだけど、女王の都までは繋がってはいないと思う。
>女王国までの残り1500里
女王に服属する一番端の国(烏奴国?)があと1500里ぐらいってことなんじゃないかな。
>朝鮮半島の1000里を(陸行?)60日、倭人の水行は30日1000里。
水行のほうは根拠ないでしょ。陸行1000里60日のほうも、あの辺は険しい山岳地帯らしいし。
そもそも里数がわかってるなら中国人はちゃんと里数で書いてたと思うけどな。後の時代でも倭人は里数がわからなかったらしいし、そこは多分倭人の話を聞いて書いただけかと。
>黒歯は風習の事って他の書物に書いてある、お歯黒やってたのは近畿で入れ墨倭人と風習が違うって日本側の記述にも合う
へえ。そこだけ風習なんだ(不信)
ちなみにアイヌもお歯黒するらしいんだけど。
柳田国男によると、佐渡では衾(ふすま)という妖怪は刀や弓では傷つけられないが一度でもお歯黒をした歯なら噛み切れるという伝承があり、男性でもお歯黒をしていたという。
アイヌなら口の周りの刺青のほうが有名だな。
材料も木の実から鉄に変わったようで、ここでも鉄が出てくる
間を取って岡山で手を打たないか?
出雲か吉備か土佐が妥当だな
日本海、瀬戸内海、太平洋、このルートが特定できれば解決する
青玉 が結局訳分からんくなってるね
青玉はサファイアの和名ってどや顔で書いてるけど、中国語のネット辞書で青玉って引くと
青玉
中国語訳 碧
青玉
中国語訳 竹子 (植物の竹のこと)
青玉
中国語訳 蓝宝石 (サファイアのこと)
青玉
日本語訳 青玉、サファイア
青玉
英語訳 sapphire
てな感じで出てくる。下の二つは「中国語の青玉」を日本語と、英語に訳したものだけど、少なくとも現代語の中国語では、青玉にサファイアって意味があるね。
そして、台湾あたりで藍寶石というと、サファイアはもちろんトルコ石やジェムシリカも、藍寶石の範疇に入るらしい。
また、ラピスラズリを藍方石というけど、これも藍宝石とも書かれるし、要は青い宝石は全部、藍宝石でいいみたいだね。もちろんサファイアも。
ここまで調べた限りでは、青玉にも藍宝石にもサファイアは含まれるし、藍宝石には碧玉ははいらないっぽい。サファイヤだったら藍宝石だから、青玉と書いてある以上サファイヤじゃないっていうのは無理筋じゃね?
青玉に碧が入るのはありそうだけど、「日本語の青玉」の中国語訳が碧だから、魏志倭人伝が中国語であると言い張るなら、むしろ碧ではなさそうってことになる。
>1013
>日本海、瀬戸内海、太平洋、このルートが特定できれば解決する
水行十日陸行一月
この8文字から、どのルートか特定する方法があれば教えてくれ
サファイア(sapphire)または蒼玉、青玉(せいぎょく)は、コランダム(Al2O3、酸化アルミニウム)の変種で、ダイヤモンドに次ぐ硬度の赤色以外の色の宝石。9月の誕生石。
語源は「青色」を意味するラテン語の「sapphirus」、ギリシャ語の「sappheiros」に由来する。
せい ぎょく [0] 【青玉】
青色の鋼玉。サファイア。
三省堂 大辞林
質問者のPCはインターネットと繋がっておらずご自宅に国語辞典もないのかな?
海を渡って別の陸地に行く場合は「渡」、渡らない場合は「水行」と書き方を変えている→九州から出ていない。という説もあるんだ
余計分からんな
前のほうで地図を出してる人いたけど
1532年に中国で作られた地図は倭国は九州、日本国は本州、の位置に描かれていることは知らなかったのかな?
>1016
ここまでのコメント全部読めとは言わないけれど、
948,964,1003
この3つくらいは読んで。
1016の立場なら、964と1003を書いた人にはなんて答える?
「お前んちにはネットに繋がったPCも国語辞典もないのか?」って言っておいてくれるのかな?
雉も朝鮮半島の雉に比べれば黒いって意味か、
南越の雉が黒いから南の雉は黒雉とかかれた可能性があるとは知らんかった
長江や黄河を知ってる中国人からすれば、関門海峡なんて海を渡った感ゼロなんじゃないの
流石に海水と淡水まちがえんだろ
>1019
この人のコメントが魏志倭人伝より難解だ
こういうところだけ切り取られて後世に残ったのが魏志倭人伝だとしたらそこから読み取るのは非常に難しい
現在の中国大陸だと蓝宝石が一般的だが、簡体字だしなぁ…、青玉でももちろんサファイアのことだし…
※1003
いいから、九州や生野菜が食べられていたという証拠と、九州でサファイアが産出していたという証拠を出せよ。また挑戦でサンチュが食べられてきたは、いつからか文献の記述を提示してみろ。
いいかげん、脳内妄想だけでの誤魔化し理論が通用していない事に気づけ!!
泉州では少なくとも平安時代から生のナス(水ナス)を食べている。
それと卑弥呼の墓に比類できる古墳がない以上、九州説は全くないんだよ。
※1022
魏志倭人伝に海水や淡水なんて文字はないんだよ。
上にも書かれてあるが、日本では琵琶湖を『近江の海』と読んできた。
当時の魏で、大きな湖を何て読んでいたのか気にはなるが、魏は呉と違って海洋戦を得意としていない民族だったという事を三国志研究者が言っていたから、海と琵琶湖を区別していたかは分からない。
そもそも、当時はまとも地図が無い時代、情報だってわずかだし、現代のように物事を詳細に区別するための知識も必要性もなかったと考えるべきなんだよ。
現代人の常識知識のまま、魏志倭人伝を読み解こうとするのが間違い。
湖海で世間だから少なくとも湖と海の区別はあるよ。
其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。
※1025
山の上などから見渡せる程度の湖なら区別はできるだろうが、琵琶湖は非常に大きな湖なんだよ。
そこが重要なんだ。地元の海洋民族と言われている日本人ですら「近江の海」と呼んでいたんだぞ。
中国人がちゃんと邪馬台国まで行ってればさすがにわかったとは思うけど
関門海峡のところで倭人に「ここをあっちにずっと行くんだぞ」って言われただけだとわからなかったと思う。
>1023
964に
「青玉がサファイアというのは何を根拠した説?
中国語でサファイアは藍宝石
青玉は碧玉の一種
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393?fr=aladdin
台湾は翡翠の名産地 これもおそらく台湾」
とあって
1003では
「青玉はサファイアの和名
魏志倭人伝は漢籍
この意味わかる?」
と書いてる。この間にこれまでのコメント欄の議論で青玉はサファイアって書いてあるだろうという反論あり
保証はないけど964と1003は同じ人
切り貼りじゃなくて該当箇所、全文引用したよ
この人の言わんとするところは、
「魏志倭人伝は漢籍だから、青玉はサファイアの和名、というのを根拠に「出真珠青玉」の青玉をサファイアというのは間違い」
という論拠だと思われます
で、それに対する回答のつもりで書いたのが、1014
中国語でも青玉はサファイアを指すってこと
それに対して1016が、青玉はサファイアに決まってるだろう、辞書を引け(意訳)って言ってきたから、これまでの文脈で読んでくれっていう返事が1019
1016も、どや顔でコランダムとサファイアの関係を説いてくれてるけど、その辺は948の人の方が詳しい
この964と1003の書き込みはかなりケンカ腰
1023と1016が同じ人かどうかは分からないけど、これでお分かりですか?
>1024
948によるとコランダムは
「九州ですと長崎、大分、熊本、福岡で産出された記録がありますが、閉山してるところも多いのでどうでしょう?
ただ、昔はもっと取れたのかもしれないということ正直日本全国で産出するのでコランダムから邪馬台国を特定するのは無理ではないでしょうか?」
だそうです。
コランダムの青いのが青玉と思ってよいようです。そのうち宝石級がサファイアで。
※1030
その具体的な産出場所を書いてほしいんだよなぁ。
コロンダムというのを広辞苑で調べると、サファイア以外の事もいうようだから、
コランダム=サファイアの原石と決めるのは無理があるようだよ。
なので、青色のコランダムを産出したという九州の記録を具体的に示してほしい。
こう‐ぎょく【鋼玉】広辞苑第六版より引用
酸化アルミニウム(アルミナ)から成る鉱物。六方晶系。硬度は9。金剛ないしガラス光沢をもち、青・赤・黄・褐灰色など。透明もしくは半透明。ルビー・サファイアはこの一種。飾り石・ガラス切り・研磨材などとする。コランダム。
※1024
琵琶湖が海扱い?淡水か海水かの違いぐらいわかるだろう
淡海ってことは海のように大きい湖(淡水)って意味だろう
海じゃないことは誰でもわかる
しかも湖南から見渡せばすぐに海じゃないこともわかる
鉄は半島からの輸入で九州から福井にかけての地域ばっかり⇒関係ない
弥生時代の絹は北部九州で多く出土⇒関係ない
水銀は奈良か阿波⇒邪馬台国は畿内
素晴らしい論理展開ですな。
サファイア知らない人って意外と多いのね。
洞庭湖を海と呼ばないから中国では湖は湖だろ
倭では海です
>1034
関係ない、ではなく「決め手にならない」ですよ。
決め手はもっと大きなものに求めるべきだということです。
どっちもどっち論は、明らかな負けの時に引き分けに持ち込んだ(様な気になる)精神勝利法だそうです。
>1035
サファイアは知ってても、青玉って言い方はあまり知らないんじゃないかな。
酸化アルミの鉱物って知ってる人も少ないだろうし。
琵琶湖は淡海ってちゃんと分けて書いてあるじゃん。
大きな水たまりを全部 うみ ってあらわしてたら流石に不便だったんだろうね
>1039
そういうことか、ありがとう。
※1038
つまり、距離では負け、方角では90°負け、猿の描写では台湾に負け、鉄では日本海側に負け、墓の形では他の地域に負け、描写のない土器で勝ち、水銀で阿波と引き分けることで貴方は精神的に勝った訳ですね。
おめでとうございます。
倭人伝にいう丹は後に修正された後漢書でいうところの丹土(ベンガラ)だろう
後漢書での修正箇所(誤記?)には検証の必要があるが、丹(水銀)を体に白粉のごとく塗りまくったらあっという間に水銀中毒で死ぬ
>>1032
コロンダム?
弁柄
古くは弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて濃尾平野を中心に生産された
知らなかった。
丹は仙丹を表すから、卑弥呼が作る霊薬という説もあるよ。
徐福伝説からわかるけど、東にある霊薬、妙薬は献上されるに値するとの説もある。
今だったら、中国人の上司に虎の骨や象牙や真珠の粉を東南アジアで買い付け、プレゼントするみたいなものかなぁ?
水銀を体に塗って水に入るということは、無機水銀でも微生物によりメチル水銀などの有機水銀に変質させられるであろうから、周辺水域での生物濃縮や有機水銀の直接摂取が恐ろしい
邪馬台国滅亡の謎は水銀にあり
これで本を出そう。
※1046
その仙丹の材料は硫黄と水銀らしぞ。だから水銀の産出は必須。
※1049
むしろ早死にするぜ…
歴代皇帝も大迷惑だな。
ウィキ『辰砂』によると
辰砂(しんしゃ、cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。
伝統中国医学では「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的として、現在でも使用されている。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。辰砂を含む代表的な処方には「朱砂安神丸」等がある。
>1048,1049
ちょっと時代は下るけど、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と、妻、膳大郎女、そして本人が相次いで亡くなったのは、仙薬として水銀朱を服んでいたからという説もあるよね。
1042
距離 魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
方角 魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
猿の描写 魏志倭人伝「伊都国のこと」
鉄 魏志倭人伝「伊都国のこと」
墓の形 魏志倭人伝「形は詳しくは知らないがデカイから畿内説の勝ち」
強すぎて申し訳ない
複数のサイトを見てみると、赤土に全国各地で産出されるようだが、奈良が最も有名だったようだ
丹といえば丹の三侠
※1026
>丹生の民俗というサイトには
って今検索して見たら、青森と北九州の風習で、松浦(九州北西部)で産出って書いてあるんだが。
水銀使うようになったのは秦氏が来てからだとさ。当時の日本人にその技術は無かったらしい。
丹の記述からは、北九州確定だな。(青森からは出ない)
1053
伊都国の勝ちじゃん
※1053
絹は?
>1053
生野菜はどうなった
1057
伊都国は邪馬台国じゃないだろ
1058
魏志倭人伝「伊都国のこと」
※247
意外だったな
むしろ文献の方が九州にチャンスあるのかと思ってた
※1056
また、脳内改ざんされているな(笑)
『朱の呪術
血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。
葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
朱の原料
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。』
朱の呪術で使われたも朱色が辰砂とは書いていない。ベンガラのほうだろう。
「水銀使うようになったのは秦氏が来てから」という部分はあっているが、
『丹生氏と丹生都比売
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。』と書いてあるんだよ。
邪馬台国時代、九州では辰砂(水銀)の鉱山発掘がない。
秦氏は飛鳥時代の渡来人。この時代、九州に水銀精錬技術があったら活用されているはずだよな?
※1056の理論だと、九州は日本ではないという事になるな(笑)
昨日の知恵泉で邪馬台国の後編をしていたが、愛知=狗奴国のS字目甕土器に入れ墨を入れた顔と思われる文様があるとやっていた
纏向は九州・出雲・吉備などは全く違う出土傾向があることもやっていた
各地の土器の出土もあるらしい
1056の九州派くんは【ああいえば上祐】と同じ詐欺師論法だよねw
※1062
>葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
>九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
>朱の呪術で使われたも朱色が辰砂とは書いていない。ベンガラのほうだろう。
>施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。』と書いてあるんだよ。
言ってる事が変わってるのはおいとくとして、
その文章からは、九州北部にのみ縄文時代から呪術具としての朱の風習があったとしか読めないが。(青森は縄文で終焉)
そして風習があるのだから、朱が手に入る事が確定してる。
30年以上前の出版物持ち出されて、九州北部での産出がなかったとする根拠がさっぱり解らないが、※1056の秦氏の下りは蛇足だったな、へびの足を取られたわ。
蛇の足を描いたのが蛇足の故事
※1066
だから、東北と九州の儀式で用いられていたものは天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)であって、水銀の辰砂ではないといっているんだよ。
次の丹生氏と丹生都比売の「施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸…」は東北や九州とは全く関係ない記述だろ。別々の項目で分けられて書かれている文を都合よく脳内でミックスするな。
今すぐ病院で脳と精神検査をしてもらった方がいいぞ。
この丹生氏は畿内の奈良から和歌山に拠点があった氏族。
丹生都比売神社は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある。
丹生川上という地名は奈良県吉野郡川上村から東吉野村にかけての地域の古称だ。
1068
伊都国は和歌山にあったの?
丹が水銀か酸化鉄かも分かってないなら何処で採れようが邪馬台国の場所探しには役に立たないのでは?
※1069
僕ちゃん、文章を正しく理解できるようになってから、書き込もうな
とりあえず小学校から通い直す事をオススメするよ。分かりましたか?
鉄と絹が畿内で出土しなくても邪馬台国が畿内なら丹が何処で産出してもいいのでは?
>1066
前に「魏志倭人伝は漢籍」って書いてた人がいたので、中国語のネット辞書で調べてみたら、
丹
日本語訳 丹
対訳の関係完全同義関係
で、丹は丹で問題ないけど、
ベンガラ
中国語訳 红土
でベンガラだと中国語では丹にならないみたいですよ。
まあ現代語での話ですけど、ベンガラはただの赤土
九州北部では、紅土(中国語)が出るんですね。
※1071
つまり卑弥呼はその一族であり、邪馬台国は和歌山ですね。
分かります。
魏の言葉と今の北京語違わない?
ベンガラは中国語だと红丹,印度红のようだが
※1075
じゃあ、その疑問を調べて報告してくれよ。
※1074
君は幼稚園から入りなおした方がよさそうだな(笑)
>1072
鉄は弥生期には農具等で広く使われていたのが知られています。静岡の登呂遺跡とか、鉄器そのものは出なくても、使われていたと考えられています。鉄は九州で大和では出ない、というのは、甕棺墓等から鉄の鏃の出土数に差があるということですが、当時鉄は九州北部の独占物ではありません。北陸でも多く出ています。鉄を理由に大和より吸収が有利というなら、北陸と九州北部で差はないという話になりますよね?
絹については、現実の出土品が北部九州に多いのは確かですが、桑の木は日本中生えていますし、有機物なので遺物が出る出ないで論じるのは難しいという話です。
どちらも、わりに日本に広く存在しておかしくないもので、それを以て比定地を決めるのは難しいという話です。
それに比べると、辰砂などの水銀朱の原料は、国内でも産地がある程度限られます。
ただ、何度も書いているように、倭人伝であって邪馬台国伝ではないので、倭国内で採れるものはどこで採れても倭人伝に出真珠青玉 其山有丹のように、出○○有△△と書かれるでしょうから、物の出所にこだわってもあまり深い議論にはなりません。
>1075
>魏の言葉と今の北京語違わない?
中国語と言いますが、北京語と広東語は話が通じないレベルで発音が違うらしいです。
それだから、「書き文字の文章」が、ある意味共通語として通用しているらしい(ソースなし)ので、文字になっている部分はそれほど意味が変わらないような気がします。
まあ、気がする、のレベルですから、詳しい人がいたら解説をお願いします。
>>1066
30年以上前の出版物持ち出されて、九州北部での産出がなかったとする根拠がさっぱり解らないが
魏志倭人伝に比べりゃ昨日書かれた本くらいの感覚だけどなw
30年前の本が信用ならないなら最新の本で卑弥呼時代に北九州から水銀が産出していたというを示すべきだぜww
1074
九州の邪馬台国はどこなんですか?w
1062
三内丸山遺跡(青森)から纒向遺跡(大和)に移動して邪馬台国になったってのは新説だな。
丹で分かった真実。
まず、魏志倭人伝の丹が本当に水銀なのか?
検討すべきはこのことだと思うんだが。
有機物だと出土しないっておかしいよな。
>1084
漢字の世界では、丹は丹だと思います。
三国の前の漢の前の秦の始皇帝が仙薬を探し回ってますから。
※1079
物の出所にはある程度拘る必要があるよ
普通に考えると、九州で産出しない品が献上されていたという事になると、産出地は邪馬台国の勢力に含まれる事になるから
畿内より西に産出地がなく畿内に産出品があった場合、畿内が邪馬台国に含まれる
この時、九州に邪馬台国があったとして、狗奴国などの国の配置は記述と整合性がとれるのか
という問題が出てくるから
>1085
出土しないではなく、「出土しなくても何も不思議はない」です。
肉や卵、麻や木綿、絹の布を土に埋めて3年後に掘り出してみてください。
こういうものが、有機物です。
絹を織るのに使われた道具も有機物だったの?
>1088
畿内から出土した古墳時代の絹は無機物なの?
>1087
確かにそうですね。
ただ私は九州から近畿地方までの共同体ができていたという立場なので、邪馬台国が九州でも畿内の産品は九州に届くし、倭人伝にも記載されるんじゃないかと思っています。
共同体といっても、中央集権の主従関係ではなく、卑弥呼を共立して王と認める、という程度の意味ですが。
殷の紋織物も発掘されてる
>1089
絹を織る道具と、麻を織る道具の区別が私にはつきません。
古事記では高天原でも機織をする様子が出ていますが、絹かどうかは知りません。
ところで ※1024で九州派に要求されている
九州や朝鮮での生野菜を食べていた証拠や 九州でのサファイアの産出の証拠はいつになったら
明確に回答されるんだろうねw
邪馬台国は神聖ローマ帝国と同じ。
卑弥呼はハプスブルク家と同じ役割。
伊都国王は選帝侯。
狗奴国がブルボン朝。
弥生時代に絹織物を生産していた証拠は畿内ではまだ見つかっていない。
古墳時代になると逆に生産は増える。
有機物なのに出土してる。
だから古墳時代を卑弥呼の時代にしてしまえば、卑弥呼の時代でも畿内で絹を生産したことになる。
箸墓古墳も年代を変えて、卑弥呼の時代にしよう。
みんなで署名して、畿内説のために弥生時代と古墳時代の区切りを変えよう!
魏志倭人伝にカラムシでてくるから、織物はしてただろうな。
※1094
青玉=サファイヤとかいう現代日本の用語を古代中国に適用しようとしてるアホがいるけど
青玉は翡翠のことだからな(厳密に言えば違うが割愛)
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393
丹は水銀化合物ではと言われてるが神農本草経には
丹砂と水銀で項目がわかれている
抱朴子だったか何かでは丹は水銀(水銀か水銀化合物か不明)丹土はベンガラのことである
しかも生野菜がどうとかわけがわからん
九州は生野菜が食べられてなくて他の地域は食ってた証拠でもあるのか?
互いに証拠が出せないなら意味のない論争である
大阪で機織り機が出土してる。
有機物の木で出来てる。
3年以上たっても地中から発見されてる。
肉や卵とは違うね。
でも有機物だね。
でも麻布なんだね。
一本でいいから絹糸が付着していてほしいね。
有機物だけど。
サファイアの名前の語源は、ラテン語の青からきています。中国でもサファイアを青玉と呼んでいた事でも古代の人々が心の安らぎや誠実な心をこの青色に求めていました。
有機物が出てこようが出てこまいが意味がないというのはすごい暴論だな
今も世界中で発掘され重要な考古学的遺物とされる木製品、織物、骨等を全否定する歴史の冒涜みたいなものだろう
※1098
「其山有丹」だから「丹」は水銀で決定だなw
生野菜は関西では平安時代に水ナスが食べられていたし江戸時代にも食べていたという記録が書かれてあるだろw
むしろ朝鮮半島南部から西日本、東日本、東北の倭国のなかで生野菜食べてない地域があったらそっちのほうがビビる。
中国語でも青玉=サファイヤって書かれてあるぞ
もしかして生野菜君は弥生時代に日本に文字がないことを忘れてるのでは?
魏志倭人伝などの中国の文献以外でどう残ってると思ってるんだ?
そう捉えれば彼の文章に納得できる。
平安時代の貴族の日記や宮中の食事の記録を根拠にしてて違和感があったが、これで分かった。
ちなみにアイヌの人達は生野菜食べるよ。
1042
距離…魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
方角…魏志倭人伝「方角は苦手」
猿の描写…魏志倭人伝「伊都国のこと」
鉄…魏志倭人伝「伊都国のこと」
絹…魏志倭人伝「伊都国のこと」
野菜…魏志倭人伝「伊都国のこと」
墓の形…魏志倭人伝「形は詳しくは知らないがデカイから畿内説の勝ち」
強すぎて申し訳ない
※1102
後漢書には丹土に変更されてるけどな
先にも言ったが朱丹を塗りたくってるなら水銀中毒が恐ろしいので長寿は実現不可能
無機水銀が固体の場合は経口摂取しても排便され無害に近いと言っても白粉のような微粒子の粉なら呼吸器系から吸収されるし、海につかるなら有機水銀(メチル水銀)への変質による水質汚染と生物濃縮が心配である
そのためか後漢書では丹土(ベンガラ)に変更されたのだろう
平安時代と弥生時代って1000年近く離れてるけど何か参考になるのか?
※1103
無知だな。日本で広くサラダ類の生野菜が食べられるようになったのは戦後かららしいぞ。
江戸時代以前の日本では、瓜、スイカなどを果物として食べ、ネギなどを薬味にする以外に、野菜をそのままで生食する習慣はなかった。付け合せやビタミン源としての野菜は漬物、おひたし、煮物、汁物がその役割を果たしていた。
第二次世界大戦後の日本では下肥の利用が一般的であり、回虫、ギョウチュウなど寄生虫が蔓延していた。これに対しGHQは化学肥料、堆肥の使用徹底を推し進めた。その後も、厚生省から1955年(昭和30年)に清浄野菜の普及について指導されるなど衛生面の改善が徐々に進み、安心して生で食べられる食環境の整備・浸透が図られたが、各家庭の食卓にまでサラダが普及するには、1970年代中期頃までの年月経過を待たねばならなかった。
※1105
で、アイヌの人たちはいつから生野菜を食べているのか、書き込んだ以上年代をはっきりしてくれ。
※1088
つまり、畿内の絹織物は有機物で他の地域の絹織物は無機物なんですね。
また、新しい知識が増えました。感謝です。
仮に副葬品として埋められていても3年でなくなっちゃいますもんね。残念です。
1109
10000年以上前から
※1109
アイヌ文化成立からずっと
>1109
7世紀の擦文文化は確実
縄文時代と同じだから1万5千年前からだな。
青玉=サファイヤ君はもう観念しろ
いつの時代の話をしてるのか知らんが過去の文献に見える且末、于田等の青玉の産地で発掘されるのはサファイヤではない
ttp://blog.163.com/wangweihao_6/blog/static/16616621920120102620708/
また古代の遺物でも青玉とされるものが発掘されるがサファイヤではない
青玉には軟玉と硬玉があるとされてるからこれはまさに翡翠のことだ
生野菜て、冬でもとれる野菜さえあれば何でもいける、後は好みの問題。しかも料理が下手っぽい記述もあるし。
華北や半島みたいに冬凍り付くわけでもないし、どうでもいい話。
縄文時代から、日本列島各地で交易が行われていた事はわかってて、
倭人の習慣や特徴を書いている場面で、東に倭種の島、南の小人国(種子島らしい?)、
さらに東南船行1年とあるから、女王国から船行1年の間に四国を見聞していったのなら、丹が出る山として徳島が十分条件を満たすね、縄文時代から産出してるらしいし。
※1107
後漢書の記述は前の史書の倭人伝を少しずつ変えながらコピペされてきたコピペだから、ほとんど参考にならないぞ。
上にも書かれてあるように水銀そのものは精製する技術は飛鳥時代までなかったという事だから、
それ以前の日本で産出される水銀は辰砂の事だよ。
邪馬台国の時代、九州では産出が無かったようだから九州での施朱はベンガラという事になる。
デカい都市が奈良にあったんだから
丹の和歌山徳島、鉄の京都兵庫もそうだけど
それらは奈良の支配下だったんだろ
青玉がサファイアでないと畿内説が正しくないので青玉=サファイアに決まってる。
畿内説万歳
※1116
支那からの輸入品が、北九州~中国では使われていたそうです。
四国と奈良は国産辰砂だそうです。
翡翠だと宮崎や熊本でも産出されちゃうから畿内説の人達困っちゃうじゃん。
別に困りはしないけどね
>>1114
もし青玉が翡翠(軟玉、和田玉)だとしたら産地は姫川か長崎か?
※1119訂正
出雲は国産優勢8/10でした。
近畿大学の遺跡出土朱の起源という資料です。
辰砂も西日本ならいたるところで取れるんだ
翡翠は畿内から産出できるから青玉=翡翠であっても構わない訳だが、邪馬台国時代に北九州では辰砂の産出はなかったとされている
今度はこの反論を九州説派は頑張って!!
あと卑弥呼の墓とされるものの存在も教えてほしい
※1124
至る所で採れていても卑弥呼の時代に採れていた事が証明できないと意味ないげとな
もし、北部九州の朱が中国のものならなんで邪馬台国の畿内の阿波と大和の辰砂を使わなかったんだろう
同じ倭国の水銀を使ったほうが安いし、わざわざ倭国内にあるものを交易で手に入れる必要なくないか?
それとも女王國の上層部が独占してて九州では中国から買わないといけなかったのか?
同じ邪馬台国連合だとしたらおかしくないか?
辰砂から畿内勢力の勢力範囲が割り出せたな
※1125
残念ながら弥生時代後期の翡翠の遺物が出るのは九州ばっかりですな
それに辰砂は熊本から出るで、というか日本各地から出る
ウィキペディア翡翠によると(記述がどこまで正しいかは分からないが)
古い時代の中国では、特に白色のものが好まれており数々の作品が残っている。これらの軟玉の産地は、現在の中国新疆ウイグル自治区に属するホータンであり、他の軟玉より硬く籽玉(シギョク、シは米へんに子)または和田玉(古くはコーラン玉)と呼ばれていた。
18世紀(清の時代)以降、ミャンマーから硬玉が輸入されるようになると、鮮やかな緑のものが好まれるようになった。そのなかでも高品質のものは琅玕(ロウカン、(カンは玉へんに干)と呼ばれ珍重されることになった。台北故宮博物院にある有名な翠玉白菜の彫刻は硬玉製である。
元々、翡翠は美しい石として、瑪瑙やその他の宝石とともに「玉」と総称されていた。
「翡翠」は中国では元々カワセミを指す言葉であったが、時代が下ると翡翠が宝石の玉も指すようになった。その経緯は分かっていないが以下の説がある。翡翠のうち白地に緑色と緋色が混じる石はとりわけ美しく、カワセミの羽の色に例えられ翡翠玉と名づけられたという。この「翡翠玉」がいつしか「玉」全体をさす名前になったのではないかと考えられている。
中国サイトでは、昔から碧玉も翡翠を意味するようだよ
※1129
熊本などで辰砂が出るのは、丹生氏が日本中を探し回った飛鳥時代以降の事だけどな。
少し時代は下るけど、北九州~朝鮮南端辺りは、大和の指示に従わず独自行動みたいな話を見た気がする。
奈良勢力に対抗するために、支那王朝と高誼を持ち、中国にも流していたという事かな。
大陸から派遣されたのはただの調査員で、女王国は奈良勢力に敗北し空白世紀ができたんだろうか。
1132は1127宛てです、すみません。
①以朱丹塗其身體
②出真珠青玉 其山有丹
③又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
④上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
①赤い丹を体に塗ってる、中国だと白粉のようなもの
②真珠と青玉を産出し山には丹がある
③鉛丹を授けた
④丹を献上した
①は赤土?虫除けかなぁ?これが水銀だとしたらちょっと恐ろしい、ただ、日本画の朱の原料が辰砂だから可能性はなくはない。魏の使節が単に赤い色を見て「あの塗ってるの辰砂じゃね?」と思ったのかも
②と④は倭国のことだから同じもの、これが水銀(辰砂)?もしくは弁柄?
③は水銀?これが北部九州の遺体に塗られた朱?
もしくは四酸化三鉛を主成分とする赤色の無機顔料?
ローマでも平安時代でも顔料として使われている
朱丹はこの中だと別物って気がするけど、どうかな
北部九州で中国産の辰砂を使ってたなら③は水銀でいいと思うんだ
あとは②と④だけど絹も倭は献上してるけど高級品を下賜されてるから、倭国産はワンランク下に見られていて、魏はわざわざ国力を見せ付けるために最高級品を下賜したのかもしれないね
※1112
糸川だと思う
まあ各地で出たんだろうけど
>1122
新潟姫川(糸魚川)は硬玉翡翠じゃね
>1119
九州説の論理だと、畿内にでかい国があったとしてもそれは魏志倭人伝のいう女王國東渡海千里復有國皆倭種の国だから、倭国とは違うってことだよね。
九州北部は体に赤いのを塗るけど、1119によるとそれは大陸産だと分かっている。
だったら、倭国の山に丹ありとは書かれないんじゃないですかね?
1129に九州でも出るって書き込みもあったけど、それは1131に飛鳥時代に畿内豪族が見つけたものだって書かれてるし。
九州では体にベンガラを塗ってて、それを丹と書いてくれてたっていうのは、大陸から丹を輸入していたことを考えると無理なんじゃないですかね?
水銀朱を体に塗ってたらたとえ無機水銀でも有機化すると危ないからベンガラに決まってると繰り返し書いている人(九州説?)がいますが、それだと天然に辰砂の採れる水系は水銀中毒で死の世界になってしまいませんか?
畿内豪族が見つけたのが飛鳥時代ってだけで九州豪族はそれ以前から知ってたんじゃないの
※1138
硫化水銀自体には毒性はない
それを精練して使うから問題がある
>1140
なら、水銀として生成せずに使う水銀朱とかなら、体に塗っても大丈夫ですよね。無理にベンガラだと言わなくても。
>1139
別に飛鳥時代には畿内と九州が敵対していたわけではないので、九州豪族が知っていたら教えてもらえば良いわけで、丹生氏が探して見つける必要はないんじゃないでしょうか?
その辺は原文に当たっていないので、分からないといえば分からないですけど。
1110
無機物じゃなくて保存条件が良かっただけ
高級品だった場合は、陵墓指定されるような大きい墓を作れる権力者の副葬品になってて、近畿では発掘出来ない
「箸墓古墳 異聞」
織田有楽斉(信長の弟)は 関ヶ原の戦いの後 大和に領地をもらった 形の良い山があったので そこに築城しようとしたが 近隣の住民に百襲姫が乗り移り この御陵は昼は民がつくり夜は三輪山の神がつくったことを有楽斉に伝えた 有楽斉はそれを聞いて築城をやめたという
山はクヌギやナラの雑木林であったが 明治時代に宮内省の通達により 常盤木に植え替えられた 100年くらい前までは 前方部と後円部の間に溝があり 通路として使われていたという
※1142
水銀朱は蒸発した場合と水環境に流出してメチル水銀に変異した場合に毒性をもつからね
精練して純度を高くして細かく砕いたりして水に蓄積されやすくするから問題
ベンガラなのは後漢書に丹土だとそう記載されなおしているから
体に塗る朱丹が何かは不明だが、ここでは塗料としての朱色丹色のものだと思われる
>1145
九州と畿内は別の国で、九州で遺跡から出る丹は大陸からの輸入物だったら、其山有丹って書かれますか?
正直ベンガラかどうかはどうでもいいですけど。
水銀朱、常温では蒸発しないですよ? そして水に不溶です。
成分及び含有量:硫化水銀(Ⅱ)構造式:HgS … 溶解度 水、アルコールに溶解しない。
後漢書は時代的には5世紀の文書ですよ。そして倭人伝部分の多くはコピペ。
>1145
後漢書を根拠にするなら、
自女王國東度海千餘里至拘奴國
ですから、拘奴國は女王国の東ですね、南ではなく。
これまで九州説だと狗奴国は熊本(球磨)という意見が多かったのですが、海を千里渡って東へ行くとなると、邪馬台国は島原半島ですね! 千里もなさそうですけど。
※1146
上の文は俺はそんなこと言って無いので知らない
丹がないことが再確認れたから丹土に変更されたのでは?
当時の精練の方法がどんな方法なのかは知らないが、硫化水銀から水銀に精練もできるしどのような不純物と混和して水銀化合物を精製するかわからない
毒性の高い水銀化合物は暴露や経口摂取で毒性を示す
それと水に可溶と蓄積はまた別なんだな
用は水に溶けずとも、水辺に蓄積されたら有機生物有機水銀に変異するということ
水辺の底で硫酸還元菌によりHg+をメチル水銀に変質させる
そのメチル水銀が生物濃縮されて水俣秒の原因になったのだ
ついでに硫化水銀自体が水に溶けずとも水銀イオンが水分中に流出する
※1147
上でも書いたが後漢書の表記が違うところは検証しないといけないと述べたが?
少なくともこの丹土の件は水銀の危険性によりこちらの方が妥当なのではないかと考えたまで
>1148
あなたが言ったかどうかではなく、九州から出る丹が大陸産(論文で報告されている)状況で、九州からは丹は出ていないと思われる訳ですよね?
だからあなたは、九州で丹は出なくても赤いのを体に塗る風習があってそれはベンガラであると言っている訳ですよね? 本来、硫化水銀(水銀朱)に毒性もなく、当時日本で水銀の精製をしていた記録もないのに、精製したら水銀は危険という謎の論陣を張って。
>少なくともこの丹土の件は水銀の危険性によりこちらの方が妥当 と考えるのは、九州では水銀朱(丹)ではなく、丹土(ベンガラ)を使っていた、丹は使っていないと考えるからですよね?
「私が」「あなた(1145,1148)に」「あなたの考え」を教えてほしいと思っているのですが、
「この状態で、九州と畿内は別の国(畿内での産物は九州にもたらされない)なら、魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?」
知恵泉によると、九州の遺跡から出土する翡翠は北陸産らしい。
伊都国遺跡からは出雲の土器が多く見つかっているので、交流が深かったようだ。
別に番組だったと思うが、近畿の土器も見つかっているので、畿内勢力が鉄を買いに来たのでは
ないか?と推測されている。
狗奴国最有力候補の愛知の土器は関東など東日本に多く分布しており、これらと交流があった。
奈良の纏向からは日本各地の土器が出土、特に愛知の土器も大量に見つかっており、争いで負けた
後、邪馬台国が狗奴国の支配を受けた形跡ではないか? とも言っていた。
墳墓の形は国のアイデンティティーを示し、大きさは王の権力を表す。
土器の発見は国同士の交流関係、人の移動を表す。
このサイトでは、これらからの推論がほとんどない。もっと議論するべきなんじゃないか?
※1150
精製と精練は違うからな
鉱物のまま辰砂をどうやって使うの?逆に教えてほしい
だから丹は丹土に変更されたんだろう?
俺も上の文章で精製と精練を間違えてるところがあったわ
辰砂が含有した鉱物の精練過程で水銀化合物が精製されることもあるし、精練された比較的純度の高い辰砂は水環境中に蓄積して有機水銀を精製する
で、この状態で、九州が大陸から丹を輸入して使っている状態で、
「魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?」
※1125を見ろ
畿内説派は青玉をサファイアだとねじ曲げてそれが否定されるとぽいっと持論を捨てる
これは畿内を邪馬台国に結論付けてから、根拠を探してくるという行為だ
順序が全く逆
原因があるから結果が出るのであって
結果を決めてから原因を捏造までして探す
これは歴史を軽んじる行為ではないか?
こんな奴が多いから信用できないのだ
福岡の弥生時代後期~晩期の平原遺跡の墳墓は方形周溝墓ってある。
伊都国の女王の墓で卑弥呼や八咫の鏡と関連があると推測されているようだけど、
九州で箸墓級の円墳が発見されていないのは、なぜ?
※1154
それが間違いだとされて丹土に変更されたのでは?
それに畿内説派は倭人伝は邪馬台国伝ではなく倭人伝なので、倭のどこかかから産出されたらいいという立場なのに九州説派にだけ九州原産を強要するというのは明確な矛盾ではないか?
ちなみに九州にも辰砂の産地は存在する
※1155
それは違うな。議論の結果、より正しい結果が出たから結果を受け止めただけの話。
より正確な知識を得る為に議論しているんじゃないのか?
より正確な知識が出ているのに、証拠を提示せずヘリクツで自説を曲げない九州説派の方に
非常に問題があるだろ。
卑弥呼の墓に比定される大きな墓が九州にない事に関して、どう思っているのね
九州説派の諸君は。明確な見解を聞きたいものだ。
>1157
畿内説は、九州北部まで女王国の範疇だから、九州の事物も倭人伝に記載されるだろうといっているのですよ。
九州説は、畿内は別の国だから纏向遺跡は違うという立場ですよね? ならば畿内の産品は倭人伝に記載されないというのが、九州説の立場ですよね? 畿内は倭国に入れないのですから。
九州の辰砂の産地は飛鳥時代の発見って書いてありますよね?
何の為に議論しているか>>1155の方がいいんじゃないの?
都合の悪い事にはちゃんと答えないで誤魔化しているくせに
※1158
>より正確な知識が出ているのに、証拠を提示せずヘリクツで自説を曲げない
例えば?
魏史倭人伝をわけのわからん解釈を入れまくって解釈してるほうはどっちなのか?
確かに鉱物は他の資料と表記がぶれてたり矛盾していたりするところは解釈が入る余地はある
しかしながらほとんどの箇所で九州説派は全く解釈なしでそのままで成り立つが、畿内説はわけのわからん屁理屈をこねてばっかりではないのか?
1161
>ほとんどの箇所で九州説派は全く解釈なしでそのままで成り立つ
「伊都国から先は遠すぎてよくわからん」という記述を【無視】して
書かれてあるものほとんど全部邪馬台国だと【解釈】してるのが九州説。
※1161
産物などは移動するから様々な解釈が可能だが、移動せず最も重要な重要な記述である
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」が明確に説明できていないと
何の意味も持たないだろ?
付属品が揃っていても本体が無いと全く意味ないね
※1162
伊都国より北?そんなことどこにも書いていない
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
女王国までの戸数道のりなどは詳らかにされている
また、邪馬台国の女王の宮殿の様子まで書かれているし
張政一行が倭国に長期滞在しており壱与とも接触していることが覗えるのに、
伊都国あるいは不彌国以降は実際に行っていない説は妥当ではない
※1163
箸墓も明確に説明できてないだろ?
「徑百餘歩」から読み取れる円墳でもないし、「徇葬者奴婢百餘人」も未だ発見されていない
未だ調査が進んでいないのは確かだが現状証拠も何もないのに、ここが卑弥呼の墓なのではないかと勝手に想像するだけでいいのか?
1165
詳らかなのは女王国以北
女王国が絶えるのは奴国
女王の都までは里数もわかってない
九州に径百歩で「想像」出来る古墳はどれなんですか?
想像すら出来ないようでは話になりませんよ
※1165
円墳に埋葬され、方墳は後から造られたという可能性もある。
箸墓が卑弥呼の墓である事指摘している学者も昔から多い。
卑弥呼の墓に比定できるのは箸墓であると明確に言っているが?
都合の悪い時は、議論のすり替えばかりだな。
九州で卑弥呼の墓だと思われるのはどこなのか? 明確に答えろよ。
簡単だろ? それも出来ないで、邪馬台国は九州にあるとか、とんだ笑話だな。
※1166
女王国までは帯方群から萬二千里ちゃんとわかってるんだよなあ
※1168
何が議論のすり替えなのか教えてくれ
証拠も何もないけどとりあえず比定してこじつけたらおkってすごい考え方だな
現状箸墓に関しては何も確定していない以上、吠えても無駄
吉野ヶ里が邪馬台国ですととりあえず言えば候補地があがった以上それでいいというのか?
※1169
脳内妄想ばかりしているから文章読解力が全くないんだろうな。
「九州で卑弥呼の墓と思われる古墳を、名前を挙げてくれ」と言っている。
又は「九州に卑弥呼の古墳と思われるものが無い事について、どう思っている?」と言っている。
それに対し「箸墓も明確に説明できていないだろ」と返してきた。
畿内説派は卑弥呼の墓は箸墓古墳の可能性が高い。と何度も明確に言っている。
1169
邪馬台国までは何里?
吉野ヶ里にある径百歩の古墳どれ?
続き、吉野ケ里などの遺跡の事は聞いていない。
「※1169が卑弥呼の墓と思う古墳の名前を明確に教えてくれ」と聞いているだけだ。
※1169
九州で卑弥呼の墓と思われる古墳はどれだ?
×候補地があがった以上それでいい
○候補地すらあげられないなら話にならない
最も重要な記述だから普通の思考を持つ人間だったら、それ位想定してから自説を展開するよ
普通の思考の持ち主なら ね!!
三角縁神獣鏡が魏国製というソースを教えて下さい
考古学ないし工学の研究論文等だと嬉しいです
九州 畿内
萬二千餘里 ○ × 帯方群からの距離
水行十日陸行一月 ○ × ※1
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ○ × 記載されている兵器の出土数
倭地温暖 ○ △ 気温の比較
有棺無槨 ○ × 甕棺の出土
人性嗜酒 ○ × 下戸の数(根拠としては薄い)
出真珠青玉 ○ × 真珠、翡翠の出土数
其山有丹 × × 硫化水銀の出土数
× ○ 硫化水銀
其山有丹土 ○ × ベンガラの出土数
女王國以北特置一大率 ○ × 伊都国が北にあるかどうか
倭國亂相攻伐歴年 ○ × 死者の墓の出土数
東渡海~復有國皆倭種 ○ × 東に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 △ × 周旋可五千餘里に収まるか
白絹 五尺刀 ○ × そのものかは不明だが絹と刀の出土数
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡 ○ ○ 神獣鏡が魏製とするなら
倭錦 ○ × そのものかは不明だが絹の出土数
白珠 青大句珠 ○ × 勾玉の出土数
※1「挹婁在夫餘東里北千餘里」「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
1176
http://www.athome-academy.jp/archive/history/0000001100_all.html
※1170
現時点で卑弥呼の墓に相応しい墓は畿内九州及び全国に1つもなし
※1177
涙拭けよwwwwwwwwwwwww
>>1179
脳内妄想乙!!
九州で卑弥呼の墓らしいものが1つも挙げられない時点で、相手にもされないレベル
「卑弥呼さま~」って言いながらオ○ニーでもしてろよ(藁)
※1177
質問とは違う事を答える←明かな誤魔化し論法だろうが。
九州で卑弥呼の墓を早く答えろよ。
※1179で自爆したな。もう、二度と九州説は言えないぞ。
1177
>挹婁在夫餘東里北千餘
挹婁は山岳地帯なので北九州の平地と同一視は出来ない。というか水行のデータではない。
>方角
末盧国や伊都国の時点でずれてるので無意味。
>その他
「倭国」の習俗であって、邪馬台国を特定しうるものではない。畿内説派としては九州が倭国で女王国圏内であることは否定してないのでノーダメージ。
1179
畿内90点
九州 0点
※1178
ありがとうございます
一方で
arai-hist.jp/thesis/archeaology/johokouko/sankaku.doc
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/2015_11_03.htm
等の研究もあるみたいですね
科学的には鉛同位体比の分析が信憑性が高いようにも思えますが
いろんな説があって面白いです
思考が半島系だと思ってみていたら、案の定ファビョって終了か…
卑弥呼の墓が出てきたらもう勝負はついてる
未だ論争してるということは日本全国どこにも見つかってないということ
こんなことすらわからないのか?
ただ比定するだけなら日本全国にあるがな
学者や町起こし担当の役人によって言うことは変わるが
畿内説のアホなところは箸墓がなぜかもう卑弥呼の墓として確定したかのようにほざいてることだ
馬具まで出土してしまったというのに
824
>どれだけ記述に近いかが問われている
>もちろん完全に合致などしないだろう
100点ではなくてもいいってことでしょ
畿内は90点
九州は5点
その他が5点
こんなもんだろ
確定とも勝負がついたとも言ってないぞ。
9回2アウトランナー無し10点差でリードしてると言ってるだけだ。
九州派、畿内派の意見をどちらを見ても確定ではないのになぜ畿内派は確定として語るのでしょうか?
箸墓が卑弥呼の墓であると100%確定したとしても纏向が邪馬台国であるということでもないのでは?
纏向自体が200年頃から作られた計画都市で生活用具が出てないのなら神事を行うための場所。
遺跡が見つかってないだけで、中国四国、兵庫あたりにある可能性はないのかね?
9回2アウトランナー無しから10点差を追いつく可能性を問われたらそりゃあるだろ。それがどうした。
※1184
苦しいなあ
たった合計六十日行ないし、四十日行だけで九千里程進める資料を教えてくれ
>その他
魏から下賜されたものや魏と交易で手に入れたものが九州で止まって畿内まで来てないってどういうこと?
普通女王に献上されるはずなのに、九州勢力がネコババしたのか?
神獣鏡なんかほんのお情けで実際は魏で作られた証拠が一切ないのが現状だぞ
「又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀」
それに女王国までのは詳らかにされてるらしいのに、後代の瀬戸内海を渡ったこういった情報が詳らかにされていないのはどういうことだ?
長政一行と壱与の関係にまで言及されているのに、邪馬台国には到達していない説はないよな?
ところで反論できない印象操作だけの連投君は印象悪くなるだけだからやめた方がいいんじゃないかな?
今の日本列島を逆立ちさせると
距離も方位もピッタリ一致するそうだけどね。
>>1195
朝鮮半島作成の地図ですね。
使役通じるところは三十ヶ国
魏志倭人伝に記載されてる国名 狗邪韓国+二十九ヶ国 他、狗奴国
隋書「經十餘國達於海岸」
あれ?大和まで行くなら四十ヶ国以上になるのでは?
九州から大和まで女王国という一国扱いにするのなら(周旋五千里と超絶に矛盾するが)、雄略天皇の中央集権体制を経て結束が強まった隋代にまた国が分かれてるのはおかしいのでは?
1194
会稽の東だったら、ちょうど奄美と屋久島の間にあるトカラ列島。
福岡市〜十島村(トカラ列島の島) 512km
福岡市〜桜井市(纒向遺跡)599km
神獣鏡が魏国製のソースが2つも出てるのに根拠もなく無視か
箸墓古墳は時期が違う
畿内説を唱えてる人で箸墓古墳=卑弥呼の墓としてる人はほとんどいない
だから未だみながその周辺で探してる
1197
ごめん何が言いたいのかわからん
※1186
面白いですね。鏡は長江下流域(呉の地域)に工房があったそうなので、呉と交流した可能性が気になります。呉は朝鮮半島に援軍を送って華北を攻撃させようとしたり、東南アジアと交易したり、当たり前に船旅する国ですから、広島や大阪までやってくるのも可能でしょうし。
それと、北九州から出た鏡が世界最大だと見たけれど、それも全部同じ場所で作られたのか気になります。
縄文時代から交易があったこと、そして各地の土器がそれぞれの国で発見されること、
この二つの条件を見ると、ローマなどの土器片山を思い出しますね。
交易する物を土器に入れて運ぶので、使い終わった各地の土器が、大量に廃棄されて山になったと。
他地域の土器=交易の跡と考えると、奈良→京都→中国→九州(逆も)という交易跡かもしれないですね。辰砂などは徳島や奈良から出雲にまで運ばれていたわけですし、当時の日本で宗教上重要なものを徳島奈良が独占していたとしたら、奈良に多様な土器があるのもわかる気がします。(辰砂交易の対価を土器入りで支払った?)
丹も台湾
ttps://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%80%80%E8%BE%B0%E7%A0%82&spf=1495104936691
「男子無大小皆黥面文身~國國有市,交易有無」の箇所は
台湾・沖縄の情報が中心である可能性が高い
この行から邪馬台国の場所を探るのは不可能
※1198
それは計算した結果だぞ
長里と短里をごっちゃにしてるからそういう計算になったという話
神獣鏡のソースって全然ソースになってないやんけ
結局材料分析かけた結果不明で中国では見つからないし
中国工人の跡というのもソースなしの記事やったやん
九州説は九州説で自信を持って論じてくれればいいのですが、どうも九州説を唱えている方がごく少数で(活発な書き込みは1人?)、その方(たち)がケンカ腰なので微妙に場が荒れていますね。
質問には答えられる人が、煽り抜きで答えるようにすれば、議論も深まっていくと思います。
>1204
1029の人?
オレ964と1003だけど、オレのどこがケンカ腰?
どう見ても相手だろう?
畿内説の人は箸墓古墳が卑弥呼の時代じゃないのに未だに卑弥呼の墓扱いしてるの?
邪馬台国は四国か日本海側だから畿内にはないよ
>1189
>馬具まで出土してしまったというのに
周濠に落ちていたあぶみの事でしょうか?
唯一五段築成であること、円筒埴輪が特殊器台と呼ばれるタイプであることから、最初の前方後円墳であることは動きません。
逆に、馬具が副葬品に増える中期古墳であれば、三段築成でなければなりませんし円筒埴輪の編年からしてもありえません。
たった一つの流入物で、箸墓の築造時期を動かそうとしても無理ですよ。
移動可能な「物」で決定的なことを論じようとするのは無理があると何度言えば分かってもらえるのでしょうか?
1143
負け惜しみもここまでくると立派だな
畿内の重要なものは全て宮内庁のせいで出土しないことにすればいいんだからな
畿内派の根拠
15世紀の朝鮮半島製の地図
>1207
殉葬者いたの?
※1207
埴輪あったら弥生時代じゃなくね?
吉備地方で弥生時代のもっとも終わりに出現して畿内に移ったんだろ?
埴輪があったなら箸墓古墳は吉備地方の豪族が東遷した結果じゃん
つまり吉備の豪族が畿内を征服して古墳時代に前方後円墳を作ったんだから邪馬台国関係ないよね
さらに兵庫の1例除いて都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡が一緒に出ないことを考えても
箸墓古墳と邪馬台国を同時に議論することに意味があるとは思えない
中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料を塗布して、畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったことからみても箸墓古墳は邪馬台国時代というよりは大和朝廷のものだと思うんだよなぁ
箸墓古墳のことを持ち上げれば持ち上げるだけ畿内説から遠ざかるんだぞ
卑弥呼の時代はその前だからな
つまり卑弥呼の墓が前方後円墳なら箸墓古墳の前に前方後円墳があることになり、最古の前方後円墳が箸墓古墳ならそれは間違いになる。
纏向遺跡のはしのほうにまだ見ぬ円墳が眠っており、殉葬者とともに眠りについているはず
そこには卑弥呼のミイラが盗掘を免れていれば存在しているはず
陵墓指定されると主張するかもしれないが、前方後円墳以外が天皇陵になる可能性は低いから大丈夫だ
その近くには宮殿も租税を納めた建物もあるはず
奈良県は全県民を強制移住させて100年くらい掛けて全県を掘り返すべき
せめて地中レーダーが衛星か航空機を使って一度調べて欲しい
1203
1194「たった合計六十日行ないし、四十日行だけで九千里程進める資料を教えてくれ」
↓
当時の中国人「それくらいの日数水行陸行したら、ちょうど会稽の東くらいの位置までいける計算になるよ」
↓
そこまでの距離を測ったら、ちょうど纒向まで
長里と短里がなんだって?
ソースになってないというソースは?
※1204
畿内説の連中の方が朝鮮人だの低学歴だの低民度だの煽ってきてると思うけどそこのところどうなの?
※1207
馬具がでようが出まいが、径百歩、奴碑百人、もしくは金印でも出土しないと箸墓はないだろう
しかも4世紀前後箸墓が260~280年代の可能性があるというのも堀から見つかった土器が炭素14年代測定法でその年代だからという理由ではないか
それならそんな流動物をもってして箸墓を3世紀の墓とするのは言語道断という立場じゃないといけないのではないか?
流動可能な物云々はまあ物が出ない方の言い訳だわな
流動可能なら双方に出るはずなのに、出土量に圧倒的開きがあるのはやはり原産地が一番数が多いという理由でしかない
それに甕棺のような墓や絹織機などの工作機械が流動するのかと
1213
防衛上邪馬台国の正確な場所は教えてないので
ちょうど纏向遺跡まで行くわけがない
そもそも魏は邪馬台国まで行かず伝聞で倭人伝を書いてる
お前は畿内説の根幹が分かってない
1208
×負け惜しみ
○論理的考察
論理的考察を否定できずに負け惜しみほざいてるのはお前だろ
というか、以下↓の理由で負け惜しみなんてする必要は別に無いしね
鉄とか絹は「倭国」の習俗であって、邪馬台国を特定しうるものではない。畿内説派としては九州が倭国で女王国圏内であることは否定してないのでノーダメージ。
1215
防衛上正確な場所を教えてないという根拠は?
>>1213
日数になっているところは倭人から聞いただけだからそれで正しい位置にあったらむしろ間違い
※1213
お前本当に文章読めないのな
短里だとわからず萬二千里南下したら長里で萬二千里南の会稽の東にあるという計算だ
というか計って書いてるだろ
ソースにならないというソースって日本語いけるか?
上の人も言ってたけど論文なり出せよと
あの記事ではただ発言してるだけで、中国工人の工作跡がどんなものなのかも提示していないではないか
1218、1219
などと意味不明なことを言っており
※1143
傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
が分からないみたいだな
なんだ>1143は魏志倭人伝読んでないだけか
よかった
1221
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw
1222
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw
1198
512km=599km?
1225
グーグルマップで測っただけだから大まかだw
とりあえず九州は論外
1143
とりあえず原文読めば?
※1226
なんだそうだったのかw
古代の人もこんな感じだったんだろうなw
1227
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(3回目)
前の記事のコメントでも用心深いから邪馬台国の人は嘘を教えてたってなってた
つまり魏志倭人伝に書いてあることをより正確に辿ったところ以外のところになる
>1143
涙拭いていいんだよw
1230
お前の中ではそうなんだろうなとしか言えないんですけど
※1143※793
かわいそう
1231
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(4回目)
>>1232
畿内説を否定するコメントはいらない
1233
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(5
1235
論理的客観的なものならいくらでもどうぞ
邪馬台国=畿内
この真実から全てのことを見ればいい
箸墓古墳も弥生時代から古墳時代に掛けて延々造営していたとすれば不思議ではない
魏の使節が見たときは円墳部分だけ作っておりそこから100年、150年掛けて全ての土や副葬品を入れ替えて作り直したとすればどうだろう
殉葬者も一度全て掘り起こしてなかったことにすれば今の状態となるだろう
前方部分と後円部分に時代的な差もつくりの差もないことからも一度全て壊し、作り直したことが分かる
魏志倭人伝に記述のあるものが畿内にはない
→倭国全体ではあったことにすればいい
→女王の下に献上されていた記録あり
→女王とは倭国全体のこと
これで完璧
これを論理的客観的という
九州派はおぼえとけ
1238、1239
畿内説に反論できないからって、反論できそうな文に勝手に変えるなよw
九州説はこの手の精神勝利が多いねw
1240
具体的な反論のない文章なんて九州信者の見本のようなコメントですね
邪馬台国=纏向遺跡
卑弥呼の墓=箸墓古墳
この事実に対して具体的に反論してもらおうじゃないか
古代の史書編纂ってこういういかにも関係ない煽りあいでもとにかく話を聞いて情報取捨選択していったんだろうな
448さん精神的勝利おめでとうございます
木材が重要といいながら有機物は出土しないというその姿勢に畿内説一同感服しております
>1214
どこまで同一人物か分かりませんが、科学の軽視が凄く気になるんですよ。
硫化水銀は塩ですから、イオン(水銀イオン)化するというのは水に溶けることを意味します。でも、硫化物イオンと水銀イオンの溶解度積が非常に小さいから水に不溶とされているわけです。まあ、厳密に0ではないですが、毒性を云々できるレベルではありません。水にたまると危険と何度も書いていますが、辰砂は川沿いの産地が多くもとより水に浸かっているものが多いですが、その川で水銀中毒があるかっていうとそんなことはありません。それに辰砂から水銀朱を作るのに、精錬も精製もしません。ただすり潰して粉にするだけです。基本的な事実誤認(あるいは知ったかぶりか思い込み)が多いんですよ。
箸墓の年代は木片一つで決まっている訳ではありません。吉備の楯築墳丘墓の推定年代とも矛盾しない、土器編年その他を総合して推定されています。それに矛盾するものが出た場合、新たな説明ができなければ、その一つがおかしいことになります。
※1243
歴史を編纂しようとしたら宮刑に処された人いたらしいよ
もし仮に箸墓古墳で見つかった土器が卑弥呼の時代のものだとするとその後150年ほどいったんその形式の土器が消えちゃうんですけど…
その後また大量に使用されるようになるのっておかしくない?
纏向遺跡はずっと続くのにその土器だけ150年タイムスリップしてることになるんですが…
古墳時代には弥生時代と自由に行き来できるタイムトンネルがあってその土器だけ置いてきたんですかね?
>1212
私は箸墓を「定型化」した最初の前方後円墳、という言い方で書いてきています。箸墓の前に数十メートルから100メートル超の5つの前方後円型の古墳(定型化前なので厳密には弥生墳丘墓扱いの方が分かりやすい)がありますよ。
繰り返し邪馬台国は弥生時代だから、というコメントがありますが、時代区分には絶対年代がなく、時代の区切りが絶対年代でいつに当たるのかは、様々な資料から推定することになります。
箸墓から古墳時代が始まりますが、その前から纒向の人工都市は築かれていますし、その中に箸墓につながる大きな墳丘墓が作られていて、その時代は魏志倭人伝の邪馬台国の時代に重なります。
それにしても纏向遺跡のまわりは古墳だらけだね
魏志倭人伝の投馬国と邪馬台国の人口は推計値ということは魏の人も行ってないから、
行き方は伝聞に過ぎない可能性が高い
奴国が福岡市周辺で2万戸、投馬国は2.5倍の平地、邪馬台国は3.5倍の平地が必要だと考えられる
かつ大きな国はでかい川のそばにできるものだというのがセオリーだとするなら、投馬国は筑後川沿い上流部(久留米~うきは)、邪馬台国が下流部(久留米~有明海)
この2国が周辺を巻き込んで争えばそれは倭国大乱といえるレベルになる
そもそも纒向の近くに大きな川がないゆえ大国があったとは思えない
纒向遺跡はおそらく祭殿、当時の伊勢神宮や出雲大社のような存在、信仰の中心地だっただけ
九州、出雲、近畿、北陸、etcそれぞれ交流のある別勢力
九州=倭 出雲以東は蝦夷地みたいなものだった可能性は大きい
>1211
ある意味、前方後円墳の円筒埴輪は吉備の楯築墳丘墓の直系の子孫です。しかし吉備が大和を征服した形跡はありません。九州派の人が、大和からは戦死者の遺体が出ないといっているとおりです。
その一方で、定型化した前方後円墳は墳丘を覆う葺き石を伴いますが、これは弥生墳丘墓では出雲など日本海側の四隅突出墓に見られるものです。
さらに、初期古墳の副葬品は、剣、鏡、玉が多いですが、これは吉備や出雲というより、北部九州の伝統的な副葬品です。
前方後円墳が大和朝廷のものというのには同意します。そしてそれは各地の勢力が共立したもの、つまり「邪馬台国が女王の都」するところになったためだと考えています。
以前にこのコメント欄で、伊都国に置かれた一大率について、女王国の北に置かれたのだから女王国のそば、伊都国の場所は九州だから邪馬台国も九州、という書き込みがありました。
しかし、邪馬台国が伊都国の近くだったのなら、わざわざ伊都国に一大率を置かなくても、邪馬台国の人が直接諸国を検察すればよいと思うのですが。むしろ伊都国から遠かったから、一大率を置く必要があったのだと思います。
ただ、その遠くが、どの程度なのかが問題なのですが、魏志倭人伝によれば水行10日陸行1月ですから十分に遠いように思います。投馬国までの水行20日を加えればさらに遠いですし。
>1250
>大きな国はでかい川のそばにできるものだというのがセオリーだとすれば
当時の土木治水の技術だと灌漑のためにせき止められるのは、水深1メートル程度の小河川までだろうという推定があって、それだと大河川の流域はむしろ農地として利用しにくいことになります。実際、ここでも繰り返し話題に出る出雲や吉備に、大河川はありませんが、一定の勢力があったことは同意されることと思います。
古事記や日本書紀に大規模土木工事の記事が出るのは古墳時代中期くらいですから、弥生時代には筑紫次郎とも呼ばれた筑後川流域は農地化はむつかしかったのではないでしょうか。
伊都国が九州なのを前提にしないと畿内にたどり着かないから伊都国は九州
そうすると女王国の北だとすると大和の北を九州の伊都国が管理することになるし、
90°回転してるなら女王国の西を伊都国が管理することになる
九州と瀬戸内海は全て伊都国が管理することになる
ただし女王国の先にもその支配下の国は広がっており、その先に狗奴国があったとするならば、西(北)は伊都国、東(南)は女王国と分けていたのかもしれない
王がいるのは伊都国と女王国と狗奴国だからこの3つが3強でその内二つが手を組んだのかもしれない
纏向遺跡の中に川があり、たびたび氾濫して建物を作り直していたことが遺跡から分かっている
わざわざ何回も流された上、その小さな範囲にこだわって祭祀場を作っていたことは何か意味があるのではないかと言われている
※1245
前にも言ったかもしれないが
硫化水銀は経口では毒性を示さないが暴露で毒性を示す
鉱石と粉末の表面積の違いを考慮すればわかると思うがイオン化傾向が圧倒的に違う
前にも言ったとおり別にイオン化は必要なく、無機水銀の有機水銀への変遷は水中での「蓄積」によるものと考えられている
すごく伸びてるので記念書き込み
1254
この期に及んできみぜんぜん理解できてないわ
女王国=倭の1大勢力
邪馬台国=女王国の都国
伊都国=女王国下の二十数カ国ある内の1国
狗奴国=女王国に服属しない1勢力
やで
>二十数カ国
訂正:コレ明らである国の数だから、二十数カ国というのは最低数
南至邪馬壹國 女王之所都
女王の住む都であり女王国の都国ではない
>>1258
その説って邪馬台国は大和にあって女王国は九州にあるっている魏略の逸文から来てるんでしょ
卑弥呼は女王国で九州、台与は邪馬台国で大和
卑弥呼と台与の間の混乱も説明できるし、伊都国の代官の説明もできるし、箸墓古墳が頑張って遡ると台与の時代だし、大和朝廷誕生も分かるし、邪馬台国が倭国最大の勢力だったことも分かる
倭人伝が九州の文化や産物しか記していないことや邪馬台国が伝聞形式で書かれていることも説明できる説でしょ
女王国が支配している国名に奴国が出てくることと狗奴國が九州にあることもスマートに説明できる
コメント1200ってなにごとだ?荒らしか?と思ったらまだやりあってたんか
好きだねぇ・・
荒しが大部分だぞ。
朝鮮人が声闘(ソント)やって、議論を妨害してる。
支離滅裂な事を騒ぎ立てて、日本人に必要な情報を隠そうとしてる。
九州は朝鮮半島経由の使者が確実に通った場所。
畿内はそれなりの遺構はあるかも知れんがそこまで魏使が行った確証はない。
決め手は「親魏倭王印」だけど、それは未発見。
オレが九州説支持するようになった理由は「(畿内説では)朝鮮半島に比べても西日本一帯を統治する政権が成立するのが早過ぎる」って学者の著作(タイトルも著者も忘れたけど)を読んで共感したから。高句麗との対決が西暦400年なのに、その150年も前に西日本の諸国連合があったってのは余りに無茶な議論じゃないか。
国家形成の過程を考慮しても畿内説は無理だと思う。
>1264
諸国連合、国家形成をどう考えるか、なんですよ。
兵士を動員して戦争ができるようになるのは400年代初頭でも、その前から列島の広い範囲でほぼ同時期に、同一コンセプトの前方後円墳(一部で前方後方墳が優勢)が作られるようになり、その時点で倭国というまとまりが共有されるようになったのだと思います。
>1256
溶解速度と溶解度が異なるものだと理解していますか?
粉にして表面積が大きくなったときに大きくなるのは溶解速度であって、溶解度=溶ける量は物質の性質で決まっているので塊だろうが粉だろうが変わりません。
たとえば岩塩の塊を水に入れて、十分に時間をおき飽和したあとに、その岩塩を砕いて粉にするとさらに溶けるっていってるのと同じですよ。1256に書いてあるのはそういうことです。
分かる人から見たら、馬鹿なことをいってるなとしか思いません。溶解度積という言葉の意味は分かりますか?
>>1261
九州が倭、その東に日本国って書いてある唐書もあるね。
その後に、日本が倭を支配したのか、倭が日本地域を支配して国名を日本と変えたのかわからないって続くけど。
そこそこ日本の情報は入ってて、後の時代になっても九州=倭だと思われてたって事じゃないかな。
壱与の時代に張政が調査した時点では、倭の邪馬壱ヤメイ国は九州にあり、空白世紀以降は、邪馬台ヤマト国の名が知られていた(奈良勢力ヤマトが朝鮮半島まで支配してるから)が、現地調査は遣隋使まで無かった、と考える方が矛盾無く読める気がする。
それから、壱与の時代を報告した張政が、女王国の勢力圏に無い国として、東に海を越えて1000里の倭種島、南4000里の種子島、東南水行1年の裸国黒歯国なんかを挙げていて、さらに別の書で、倭の島が東西三月南北五月って記述からも、倭が九州島を指している(1年かかるのは別の島)と見るべきだろうし。
その1年で、九州から出た先も見てきたとするなら、四国辺りの産物(辰砂)が書かれていてもおかしい事はないだろうね。
※1266
多分ウィキペディアとかで一生懸命調べてるんだろうけど問題とするところがおかしい
海ほどの体積に溶解度って何を言ってるんだ?
問題は蓄積なんだから、重要なのは溶解する量であり速度なんだよ
なぜなら海中への投棄量が海がもつ拡散力より下回ると蓄積しないから
排水基準というのがなぜ存在するのか考えてみてほしい
しかもイオン化の話は誰かさんが水には不溶とかいう全く的はずれな反論を言ったことに対して、厳密にはそんなことはないよと教えてあげただけで
しかも無機水銀が有機水銀に変質する過程はまだ完璧に解明されていなく
水環境に蓄積された無機水銀がある一定量を超えると有機水銀に変質するというだけでここを掘り下げても意味がない議論
あのね、水に不溶というのはガラスのようなものを言うんですよ。ガラスでも水に入れれば、ソーダガラスならナトリウムイオンが微量に水の中に出てきますが、それをガラスが溶けたとは言わないでしょう? さらに言えば、ガラスを粉にしても水に溶けないですよね?
海の水の量が莫大だから飽和しないとかまた的外れなことを言っていますが、それを言うなら微量ずつでも溶けていたら日々雨に濡れるうちにすべて溶けて流れてしまうって分かりますか? 水に不溶だから、川沿いに辰砂の鉱床があるんですよ?
結局、溶解度積が何を意味するか分かっていないでしょう? 高校レベルの化学の知識が不十分です。だからウィキペディアとか無駄なことを言い出すのだと思います。先に示した、硫化水銀の水に不溶の文言は、硫化水銀のCSDS(ケミカルセーフティデータシート)からとったものです。
それから、水に蓄積したらと的外れなことを繰り返し書いていらっしゃいますが、辰砂の鉱床は川沿いにある場合も多く、水にほぼ浸かりっぱなしで蓄積するも何も大量にありますが、それが死の川になったりしてませんよね。何度も書いていることですが。
自分に反論されること、持論に不利なことは否定しなければという認知バイアスがかかっているから、書かれていることが理解も把握もできないのだと思います。
現代科学の産業規模で水銀廃液を出していたチッソと、人口密度も低い状態でちまちまと粉にして使っていたのを同列に考えようとしているのが、そもそも間違いです。
>1261の考え方は面白いし、理解できます。ただ、卑弥呼の宗女と表現される台与が遠く離れた場所にいるというのが、やや難しく思います。
私は、1261のいう権力の移動がもう一段前の、卑弥呼の共立のときに起こったのだと思っています。
もともとは、伊都国かどこかの九州北部の国の中に倭国王帥升らがいて、それが死ぬか戦乱の中で後継者が決められない状況で、その倭国王の血筋の遠縁の卑弥呼を大和に見出して共立した。卑弥呼はもともとの倭国王の血筋だから、王に推されたと考えることができます。そして、卑弥呼の何代前になるか分かりませんが、九州の倭国王の血筋の大和への移動が、神武の東遷として逸話に残っていると考えると、一通り話が繋がります。まあ、ほぼ推量だけなので、根拠は挙げられませんが。
私は時々平原遺跡の平原一号墳の話を出しますが、この被葬者の女性を天照大神に当てれば、その子孫が大和に移住して、そこから卑弥呼が出て大和朝廷に繋がる、というのが話としてはきれいです。
1261
>その説って邪馬台国は大和にあって女王国は九州にあるっている魏略の逸文から来てるんでしょ
違う。女王国の尽きるところ、女王国の境界が九州伊都国から千里余の奴国にあって、倭国が水行陸行で福岡から500km以上離れた場所(会稽の東)まであるという、魏志倭人伝の記述から。
>卑弥呼は女王国で九州、台与は邪馬台国で大和
根拠は無いよね。
>倭人伝が九州の文化や産物しか記していないことや邪馬台国が伝聞形式で書かれていることも説明できる説でしょ
九州伊都国が長崎出島だったけど、都までは行ってないということで説明できる。
1264
>高句麗との対決が西暦400年なのに、その150年も前に西日本の諸国連合があったってのは余りに無茶な議論じゃないか。
古代の歴史の流れは、中世以降より全然遅いだろ
この時代にはそれぐらい出来てないと間に合わない
弥生時代にはある程度の西日本連合と、東日本連合ができていた事は土器の出土と前方後円墳で説明できるだろ。現在の国家のような中央集権ではなく、ゆるやかな国家連合(共同体)だったんだろう。
そもそも黒曜石の出土状況から考えると、縄文時代には日本各地で広く交流があったんだし。
つまり種子島説が一番説得力があるわけか・・・
奴国の後、北九州から福井辺りまで修羅の国になって倭国大乱と言われ、その後、北九州の有力者達が卑弥呼を担いで平和になって、卑弥呼の死で今度は九州から畿内まで乱れて、大昔に日向から大和に東征した子孫の畿内の台与が担がれたのか。
神功皇后がこのあたりだな。
熊襲征伐だっけ?
その後倭の五王から大和朝廷まで繋がるんだね。
そして呉の人狩りでは台湾は行けても種子島には行けなかったとかいてあるから、種子島あたりまで倭人領域とみなされていたようだね。
魏志倭人伝の謎は謎でもなんでもなく、素直に出来事をかいていた、もしくは原典や使節の報告書が複数あって組み合わせて書いてあったんだね。
※1270
ちょっと話が意味のわからない方向にいってるね
水に蓄積は辰砂を砕いて白粉のように塗って海に定期的に浸かって蓄積された場合とはじめから言ってるだろう
川沿いがどうのとかは君以外誰も言ってないの
何度も言うが相手の言葉を勝手に妄想して議論を進めていくのはやめていただきたい
まあ何にせよ粉末の硫化水銀を吸入した場合は危険性が高いので、直接顔面に白粉のように塗るものとしては適さないだろう
ゆえに後漢書では丹土に訂正され、白粉のように塗っていたのは安全なベンガラであろうと推測する
1276
で、径100歩の墓はどこだい?
纒向=邪馬台国の怪しい所は
九州の土器がほとんどないこと、また中国や朝鮮のものもほぼ出ないこと
九州から畿内にまたがる大勢力のくせになぜ九州系の土器がほぼないのか?
対馬は朝鮮と日本と行き来しているというし、伊都国は使節が往来する、国々には市があったという
そして邪馬台国はそれらの国から租税を課して、中国からの賜下品は女王に献上されたという
邪馬台国には朝鮮中国九州の文物が集まって然るべきなのにそれがないということは
つまりは纒向は邪馬台国ではないということだ
また卑弥呼が東遷ったということも考え難い
畿内の古墳の形状や搬入土器を見る限り、最後に九州勢力が合流する
故に記紀にいうニギハヤヒに相当する者が纒向の盟主であり、後に北九州日向神武に相当する人物が合流し王に推されたと考える
これは記紀が古代の記憶を神話化して再編したと仮定した場合の話である
>1277
私が確認していなかったのも悪いですが、
>ゆえに後漢書では丹土に訂正され
何度も書かれているコレ、間違ってますね。
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
倭地温暖冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲
で「其山有丹」の部分は、まったく同じですね。訂正されていません。
1277の人が繰り返し書いている後漢書の「丹土」部分も確認すると
後漢書
並以丹朱坋身 如中國之用粉也
魏志倭人伝
以朱丹塗其身體 如中國用粉也
で、魏志倭人伝にも対応箇所があり、丹に関する部分については、後漢書はほぼ魏志倭人伝のコピペであることが分かります。
つまり九州の様子に合わせて「訂正などされていない」ことが分かります。
そして1134の人が引用されているように
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布「丹」木短弓矢
倭国から丹が献上されてもいます。
これ、ベンガラだったら献上する価値ないですよね?
硫化水銀は水にも溶けないし、事実上無毒なんですよ。ただ、そう思っていたら、水俣病が起こったので、無機水銀が有機化することもあることが確認され、安全とは言えないけど、という状態です。
1256で
>鉱石と粉末の表面積の違いを考慮すればわかると思うがイオン化傾向が圧倒的に違う
などと無知なことを書かれていますが、イオン化傾向って元素に固有の値ですから変わりようがないんですよ。
ということで、倭国にあったのは「丹(水銀化合物、たぶん辰砂)」
そして、当時九州では採られていなかった
→九州で出るものは中国産
→九州の産地は飛鳥時代に畿内豪族、丹生氏が見つけたもの
でいいですね?
九州で使われていたのは、丹土、つまり大陸への献上品にならないベンガラなんですから。
そして後漢書は、魏志倭人伝から丹についての訂正はないのは、確認いただけましたでしょうか?
九州で畿内の水銀が使われず中国の水銀が使われたのは下賜されたものを使っていたから
下賜されたものは女王にいき、間違いは許されないから女王は九州
丹により科学的にも文献的にも正解が出てしまった
倭国の丹はベンガラ
中国の丹は辰砂
そうじゃないと邪馬台国が畿内にならない
土気という単語の使用例を教えてくれ
それと献上品はベンガラで何が悪いのか?
まあここは中国から出土してないので何とも言えないが
顔料に適しているぞ
さらに粉末の硫化水銀は何度も言うが呼吸器系から吸入されることにより毒性を示す
SDSも結晶状のものを見てるんだろうけど、粉末は顔面に塗るには適さない
そもそも水銀は白粉のように身体に塗れるの?
秦の始皇帝の墓は地下宮殿になっていて水銀の川が流れていたというし、霊薬の材料でもあったから、中国の水銀需要は高かったに違いない。
丹木という名の木だよ
魏志倭人伝
其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、、短弓矢。
山海經‧西山經
峚山 , 其上多丹木, 員葉而赤莖, 黃華而赤實, 其味如飴, 食之不饑。
原文は丹木と短弓矢の間に一字がある
書き込んだが消えた サイトの環境が適さないようだ
ケモノへんに「付」という字で、羊に似た動物らしい(山羊?)
>1283
何が悪いのかと思うのなら献上してくれてもよいですけど、献上品は大陸の王朝に届くわけですから、それが中国でいう丹かどうかは分かった上で記録するでしょう。遠絶で詳らかにできない倭国のことではないのですから。
その上で「其山有丹」と魏志倭人伝でも、ずいぶん後に書かれた後漢書でも「訂正されることなく」書かれている訳ですから、それを疑うには相当な理由が必要だと思いますが?
これまで「九州で使ってたのはベンガラ。その証拠に後漢書では訂正されている。九州で当時、「丹(辰砂)」が採れなかったとしても、問題ない。」っていっていた論拠が、全否定状態ですが、どうなさいますか?
後漢書の丹土が丹と土気だというのなら
土気という単語を教えてくれと言ってるんだよ
それにどうもないよなあ
もし仮に丹が産物としてあったとしても
九州と四国は縄文時代から交易が盛んだしな
四国のことは倭人伝にも記述されているしおかしくはない
土気
ttps://pedia.cloud.edu.tw/Entry/Detail/?title=%E5%9C%9F%E6%B0%A3
ttp://www.chinesewords.org/dict/72152-118.html
倭国の人が風習として白粉代わりに使えるくらい大和と阿波から辰砂が採れたのか?
>1286,1288
ありゃ、そうなんですか。
失礼しました。
丹木っていう木(材木?)があるんですね。
となると中国に届いたから丹があるには間違いないってのは言えないですね。
私がよく読ませてもらっているサイトでは「生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木(けものへんに付)・短弓矢を上献す」と訳されていたので考えもしませんでした。
ただ、ググってみても地名の丹木町しか出てきませんし、中国語のネット辞書でも「丹木」はヒットしませんでした。どんなものかご存じの方がいたら、教えてください。
まあそれでも、その山に丹あり、というのは動かない訳ですが。
>1294
1287下部
※1273
古代ギリシアの歴史時代が紀元前700年頃からだとして、500年経ってもヘラス全体の諸国連合は出来なかったよ。
イタリア半島もエトルスキの記録が残る紀元前7世紀から事実上ローマの支配下に入った紀元前3世紀まで400年くらいか。
朝鮮半島でも百済や新羅の王朝が信頼出来るようになるのが4世紀。支那の王朝との接触は倭よりずっと早かったはずなのに。
状況的に整合性が取れない。
オレは倭の五王を天皇家と結び付けるのも、関東の剣に刻まれてた「ワカタケル」を雄略天皇と断定するのも証拠不足だと思ってるかんね。
邪馬台国の時代には文字も無かった国の人間が、文字を教わった国をイキがって支那とか言ってると痛い
中国人の民族性考えたら、邪馬台国の位置が台湾の東あたりになるのは当然じゃないかな。
魏としては呉の後背を突く位置に同盟国があって欲しいだろ。
中国のニュースとか見てると、願望をそのまま記事にしてるのが多い。
つまり、魏志倭人伝も当時の魏の願望が背景にある。
>>1297
シナのほうが由緒ある呼び方ですよ
秦に由来するギリシャ語またはラテン語から来ています
歴史ある素晴らしい言葉ですよね
魏志倭人伝に書かれてる事と考古学的事実を照らし合わせてみるのはいい
しかし魏志倭人伝に書かれてる事から考古学的事実を創出してはいけない
実際にある事実と魏志倭人伝の記述を照らし合わせていけば
おのずと邪馬台国がどこにあったのかは明白になる
丹木で検索したら、対馬侍従起草ってところで、丹木黒角が出てきたけど、東夷の産物として丹木があったのかねぇ。時代が違い過ぎるし、その文章の後に、対馬は朝鮮由来みたいな意味不明解説ついてるから、信憑性は無いけど、一応出てきたって事で。
木丹って漢方薬もあるっぽい?、帛布が布帛って訳されたりもするし、この辺りは知識がないと難しそう。
鉛丹朱丹・・・布丹?、丹だけでも表すみたいだし無理があるか。
丹木の持ち手が付いた短弓、とか、持ち手に布帛が巻いてあったのかとか、そこまで考えると説明長すぎて語呂?も悪いし、
素直に丹で、交易で手に入れていた化粧用の丹を献上したんだろうか。周囲に見せびらかす様にって下賜された財物や鏡を取引に使えば、辰砂なんかも大量に手に入るだろうし。
会稽の部分が場所を表すって読んでしまうと、小学生並の文章力だと思う。
倭のやってる風習に対する考え方まで説明して、そこから風 俗説明に繋がる文章で、いきなり場所の説明は無い。
会稽に伝説の聖王が祀られていて、その東側に倭人風習の人達が住んでいたって話を見ると、理想の政治が為されていた時代の風習が、まさにこれ東に在り、と風習についての感想を述べているって解釈のが合ってると思う。
1296
?
いまいちその3国の例の何がどう関係あるのかよくわからない。
ヤマト王権を否定するんならまあしょうがないかなとは思うが。(同意はしない)
時代的に纏向と重なりながら、次第に衰滅したといわれる唐古・鍵遺跡(銅鐸の主な生産地)では、漢式鏡は一枚も見つかっていない
奈良県全体の弥生遺跡の中で、唯一漢式鏡が出たのは唐古・鍵遺跡の北にある清水風遺跡だけ
近畿地方にまで広げても、大阪府の瓜破北遺跡と神戸市森北町遺跡から2例の前漢鏡が出土しているにすぎない
唐古・鍵遺跡では成人用土坑墓や木棺墓、方形周溝墓、小児用土器棺墓などさまざまな墓が見つかっているが、弥生時代の墓には副葬品は埋納されていない(副葬の習慣が絶無)
鉄族の数の県別比較で、福岡県398個に対し、奈良県はわずか4個にすぎない
纒向遺跡も大して異ならない
朝鮮半島系遺物は非常に少ない。楽浪系や三韓系の土器は、対島や壱岐、北九州、瀬戸内で多く見つかり、大阪平野でも久宝寺遺跡や加美遺跡、四ツ遺跡などでも出土している
しかし、纒向遺跡では、朝鮮半島の土器は、かけらが3点見つかっているにすぎない
つまり、卑弥呼の時代以前、中国、朝鮮半島との交渉を想定させる遺物がほとんどない
伊都国を遠隔支配していたとは到底思えない
また、纒向遺跡で楼観らしい建物跡は見つかっていない
建物Bの周りには柵が巡らされていたが、単なる建物の範囲を区切る区画柵にすぎない
以上、纏向を始め大和地方の多くの遺跡を発掘調査した橿原考古学研究所の元職員関川尚功氏の見解
纏向→大和王権だろうが、倭人伝の女王国は纏向ではなさそうということ
では、地方色豊かな土器の出土で観察されるように、なぜ、纏向に多くの地方から人が集まり始めたのか?そして古墳時代(以降)の中心スポットになりおおせるための何がその後に起きたのか?
九州が北に描かれている地図
「海内華夷図」8世紀唐 「石刻華夷図」12世紀南宋 「声教広被図」13世紀元
「混一疆理図」14世紀明 「混一疆理図歴代国都之図」15世紀朝鮮(龍谷大学に現存)
南北が逆で しかも日本列島の位置が東シナ海にずれているので「其の道里を計るに当に会稽と東冶の東に在るべし」に一致する
元の「声教広被図」は戦前に北京図書館で確認されている 元寇が二度とも九州を襲ったのは九州を最北端と考えていたのかも知れない
九州が倭、本州が日本と書かれた地図もあるから地図から確定することは無理
女王国=九州から大和にかけての大国家とか言ってる人間に聞きたいが
じゃあ女王国七万戸って少なすぎない?
対馬・伊都国などと比べても面積の割に戸数が少なすぎる
また奈良時代以降から現代にかけての日本でそれほどの広域の自治体が発達したこともない
以前検討された道州制の州を1つの自治体として見たとしてもそれをはるかに超える広域連合である
そんな広域連合が成されたとは考えづらい
雄略天皇が豪族の力を奪って中央集権体制を敷いた以降でも地方の国々は独立したクニなりアガタなりとして残っていた
>1295
山海經、目を通してきましたが、丹木が何を意味するのかはよく分からないですね。
山海經で「丹」を検索すると、丹木の他には、丹粟、丹水、丹火と出てきます。
このうち丹火は、単に「赤い」火のようです。
丹水は、丹火と同じように「赤い」水ですね。
そして丹粟は、朱砂の別名で、粟粒に様に細かくなった丹(硫化水銀)ですね。
丹粟とセットで出てくる丹水もあり、丹粟を含んだ赤い水を指しているのかもしれません。
丹木が出ているところを見ると
又西北四百二十里,曰峚山,其上多丹木,員葉而赤莖,黃華而赤實,其味如飴,食之不饑。丹水出焉,西流注于稷澤,其中多白玉。是有玉膏,其原沸沸湯湯,黃帝是食是饗。是生玄玉。玉膏所出,以灌丹木,丹木五歲,五色乃清,五味乃馨。
となっていて、赤い茎赤い実と書いてあるのを見ると、要は赤い(丹色の)木なのでしょうが、実の味が飴の如しとか、丹水が近くに出ていたりとか、五歳、五色の清、五味の馨、玉膏、黃帝是食是饗など、神仙郷に近い表現になっていて、具体的な何かの木を表すものではなさそうです。
この文章、山海經の西山經・峚山の描写で、東夷のことではありませんし、魏志倭人伝の生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木犭付短弓矢は、丹木・犭付と読むより丹・木犭付と読む方がいいような気もします。
「犭付」がなんだか分からないので、なんとも言えませんが。
とりあえず
丹(たん、に、あか)
辰砂 – 硫化水銀からなる赤色の鉱物。
仙丹 – 霊力のある薬。
丹色 – 赤・朱系の色。
赤土 – 赤みがかった土壌。
燕太子丹 – 中国戦国時代・燕の太子。
荘丹 – 荘子の孫・達人伝の主人公
其山有丹は山から赤土が採れるでも辰砂が採れるでも両方でも意味通じるからね
播磨国風土記逸文には、神功皇后が三韓征伐の際、播磨で採れた赤土を天の逆矛や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川の藤代の峯に祭ったとあるから赤土でも間違いではないよ。
倭国の産物や献上品には丹だけ使って下賜品には鉛をつけてるから
丹=朱丹=赤土、鉛丹=赤い金属だろうと個人的には思うよ
丹木拊短弓矢
は「丹」と「木の握りのついた短い弓」って意味
戦争用や狩猟用とはべつに儀式用の木の握りのついた短い弓と木の鏃の矢が出土してる
体に塗る神聖な顔料と儀礼用の弓を献上して皇帝への敬意を表したと考えられる
もしかしたら皇帝を神と同一視しますよという卑弥呼の外交だったのかもしれない
>1303
やっと話ができるところまで来ましたって感じです。
>時代的に纏向と重なりながら、次第に衰滅したといわれる唐古・鍵遺跡
これは、唐古・鍵の環濠集落が元の拠点で、これを母体に広域連合の新しい中心=纒向を作っていったと考えるとすっきりします。
唐古鍵にいた倭王の血筋が共立されたのは、倭国の国内の論理なので大陸との交流の有無は唐古鍵の時点では少なくても特に不思議はないと思います。そして共立された卑弥呼の都するところが邪馬台国=纒向ですっきりするじゃないですか。
戦乱が畿内でないから倭国大乱の枠外➡邪馬台国じゃないという論理展開をする人がいますが、戦乱で疲弊していないから&争いの直接の当事者ではなかったから、共立するのに多くの賛同が得られたのかもしれません。
>纒向遺跡で楼観らしい建物跡は見つかっていない
これは地上部は分からないのでなんとも言えませんが、唐古鍵から楼観の線画が出ていたと思います。絵じゃん、と言われればそれまでですが。
纒向にあるのは宮殿じゃなくて神殿という主張もあったように思いますが、自爲王以來少有見者であれば、神殿の方が卑弥呼の居処としてふさわしいように思います。
※1310
発掘も書籍も無視して、願望推論になってますね。
それは日本では、出鱈目と呼ばれるものです。精神勝利ですか?
>>1310
上から目線ありがとうございます
唐古・鍵の土器から纏向遺跡の建物を想像するのは唐古鍵を捨て纏向遺跡に移ったことがまず最初になければなりません
九州から日本海側や山陽で争っていた弥生人が
「そうだ、唐古・鍵の女王をみんなで擁こう、伊都国以外の王は廃止にしよう」
となったとすれば凄いですね
「唐古・鍵は古いから纏向に新たに都を作ろう、鉄製武器は持ち込み禁止」
となったのでしょうか?
今の民主主義世界よりよっぽど平和ですね
>1306
國が何を意味しているのかが、魏志倭人伝を読んでもはっきりしないんですよ。
百余国に分かれ、というときは、環濠集落一つを一つの国としている感じですし、
纒向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡ではある。しかし、この3平方キロにおよぶ面積は、実は布留式土器が出土する頃のものだ。卑弥呼が君臨したとされる3世紀前半の規模ははるかに小さく、庄内式土器が出土する地域とされている。
この時期の土器群は、庄内0式~庄内3式、布留0式~布留4式(5世紀末)に分類されることが多い。しかし、こうした分類は相対的な土器編年の一部であり、絶対年代を正確に表したものではない。そのため、専門家の間でも庄内土器の年代観には大きなバラツキがある。
まず、倭国大乱を収束するために邪馬台国の卑弥呼が共立されて倭国連合の王とされたと理解されている。ということは、卑弥呼が倭国大乱を収束された西暦190年頃には、すでに邪馬台国が纒向の地に存在し、卑弥呼がその国を治めていたと考えなければならない。しかし、考古学的知見はそのことを実証していない。
纒向遺跡の中枢部からは弥生時代の集落跡は発見されていない。集落の周りに巡らした環濠も検出されていない。以前はわずかに銅鐸の破片や土坑が2基発見されていたにすぎない。
纒向遺跡が大和政権発祥の地であることは、誰しも認めるところである。そこを邪馬台国の所在地と考えることで、さまざまな無理が生じてくる。
唐古・鍵遺跡やその他の奈良盆地の拠点集落からも大勢の住民が王都の建設に参加したであろう。だが、その王都は陳寿が記した邪馬台国とは関わりがない。
調べたら卑弥呼の時代の纏向遺跡ってそんなに大きくない
だから卑弥呼の時代は古墳時代だって主張してた人がいた
土器編年をやたら主張してるからおかしいと思ってた
唐古鍵遺跡も古墳時代までずっと継続して人が住んでた
各地域の集合政権は大和朝廷だな
都の周りにそれぞれの出身地域の地名をつけて土器や生活様式を持ち込んで暮らしてたことが知られている
それなら箸墓古墳が前方後円墳のはじまりであり、大和朝廷の始まりとすることに異論はない
>>1313
はいはい、女王国が日本全国で邪馬台国が纏向遺跡で箸墓古墳が卑弥呼の墓で日本列島の戸数が7万でいいですよ、もう。
1313が切れてしまいました。
末廬國も伊都國も領域国家ではなさそうです。
邪馬台国というのは魏志倭人伝の中に一カ所しかなくて、あとは女王国になっています。そして、邪馬台国は女王之所都と書かれていますから、女王国は倭国の中で卑弥呼を王と認める範囲、邪馬台国はそのうちの伊都国などと同じ階層(?)の国で、卑弥呼の居処ということだと思います。
女王国は倭国の広域連合で、邪馬台国は王都のある一国でよいのではないでしょうか。
邪馬台国の7万戸はもちろん、投馬国5万戸、奴 国2万戸も盛りすぎだと思いますが。
>1308
>其山有丹は山から赤土が採れるでも辰砂が採れるでも両方でも意味通じるからね
意味は通じるのですが、赤土の場合、倭国の特徴として倭国の特徴としてわざわざ書くだろうかと思うのですよ。直前が出真珠青玉ですから、真珠や青玉程度には特産物感がないといけないと思うのですがいかがでしょう?
※1316
邪馬壱(ヤバヰ)国な
中国には黄土、黒土、紅土がある
海南島と同じとの記述と倭国の山は赤土との記述はまさに整合性がある
よほど呉を挟み撃ちにしたかったようだ
※1316
それなら女王国まで萬二千里という表現はおかしい
萬二千里に到達していない対馬なり伊都なり奴なりは女王国ではないのかと
伊都国は女王国に属していると書かれている
女王国ないし女王というのは邪馬台国の別名で問題は無いだろう
女王国=邪馬台国とみたときは矛盾はないが、女王国=邪馬台国を含めた広域連合とみた場合は矛盾が多い
七万が盛ってるか盛っていないかは置いとくとしても
伊都などと比べるとやはり比率がおかしい
張政が壹與を卑弥呼の跡継ぎとして擁立したせいでこうなった
女王、女王国、邪馬台国、倭国、倭を同一視するやつが現代でもいることを考えると
張政の報告書は大成功だったといえるだろう
邪馬台国を想像以上に大きく見せ、大月氏と同じ待遇を得た卑弥呼なら
今でも外交官が務まるだろうし、
呉を倒すためにあえてそのブラフに乗る魏の皇帝は政治センスがある
古代も同じ人間が政治をしているんだから今と同じように考えていた
不正会計をしてる●芝としていることは変わらない
そう考えれば不思議でもなんでもないと思う
倭国=日本=女王国=邪馬台国は立派すぎ!涙が出る!って考えも素敵だけど
実際は朝鮮半島南部から九州中部の出来事なんだろうなぁ…
※1305 九州が倭、本州が日本と書かれた地図もあるから地図から確定することは無理
地図名 年代など詳しくお願いします
奴国や投馬国は邪馬台国にとって同盟国で、伊都国や末盧国は格下の属国だったんじゃ無いの
1322
別に立派過ぎではないだろう
もうすぐ(古代タイム基準)ヤマト王権が確立するんだから
この時代にはこれくらい出来てても不思議ではない
連盟構成国=女王国
その植民地=女王国に従属する国
EU加盟国はメルケルに従属してるわけじゃないのと同じ
1323~6
伊都国の重要性もわからんとか、また出鱈目言い出す工作員が出たな。ケチ付けてやったから論破ニダって毎日やってそう。
朝鮮史観ごり押しするために、日本人にまとまられたら困るよな、わかるわ。
>1322
>邪馬台国を想像以上に大きく見せ、大月氏と同じ待遇を得た
ここのところ、少し教えてほしいのですが、西域で大月氏より遠くで魏に朝貢使を送ってきた国はあるのでしょうか?
中国の王朝は、遠交近攻という言葉があるところですから、最も遠いところは基本的に最恵国待遇になるってことはないでしょうか?
>1319
倭在韓東南大海中(中略)樂浪郡徼去其國萬二千里(中略)其地大較在會稽・東冶之東
これは、魏志倭人伝ではなく後漢書の冒頭の倭国の位置を記した部分ですが、こうしてみると1219の言うとおり、大陸の人の観念では倭国は「大まかに會稽・東冶之東」にあって、だから「樂浪郡徼去其國萬二千里」なんですね。魏志倭人伝では帯方郡からが、後漢書では楽浪郡からになってますけど。だから、呉の背後にあるという認識は分かります。
それはそれとして、
>中国には黄土、黒土、紅土がある
の対比として、赤い土(テラロッサ?)を丹と表現するでしょうか?
現代語ですが、中国語にはベンガラを紅土とする表現もあるようですし。
真珠や青玉と、併記する形で土が赤いとは書かないように思います。やはり、献上品にも使えるような特産物=辰砂などの水銀化合物・丹の方が、理解しやすいように思います。
>1307
丹木だってば
朝鮮王朝実録
琉球國王二男賀通連遣人致書于左、右議政,獻丹木五百斤、白磻五百斤、金襴一段、段子一段、靑磁器十事、深黃五十斤、川芎五十斤、藿香五十斤、靑磁花甁一口、沈香五斤。
一歧萬戸道永遣人獻丹木一百斤、白磻三十斤、胡椒二十斤、訶子二十二斤、良薑三十斤、丁香十五斤,仍求米穀。
「犭付」
ttp://www.cidianwang.com/kangxi/4/429624.htm
>1309
「犭付」は写本で確認済み
>1301も
>1312
共立というのは、争いに疲れた後でないとできないと思うのですよ。そしてその場合でも争いの当事者から選ぶのは、血で血を洗う争いの後では難しい。まあ、想像といわれれば想像ですけどね。
記紀のいう神武東遷で、高天原の天照大神の血筋(北部九州の倭国王の血筋)が畿内にいたなら、ある意味適格者になれると思いませんか? 民主主義というより戦いに疲弊したのだと思います。
>唐古・鍵の土器から纏向遺跡の建物を想像するのは唐古鍵を捨て纏向遺跡に移ったことがまず最初になければなりません
これは、私にとっては意味不明です。唐子鍵の土器に楼閣の線画が出ているということは、単に大和の地の住民が楼閣の形を知っていたというだけで、「唐子鍵に楼閣があって、それを捨てて纏向に移動した」とは読み取れません。
共立というのは、単に御輿を担ぐだけで、伊都国以外の奴国にも王はいたと思いますよ。そして邪馬台国にも王がいて、その王を倭王と認める、ということだと思います。
魏志倭人伝ではなく後漢書ですが「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國」とあって、使訳通ずる所三十國の、國皆王を稱す、とありますから。
その30カ国全体が倭国であり、その大倭王が邪馬臺國に居る、ということだと思います。
>唐古・鍵は古いから纏向に新たに都を作ろう、鉄製武器は持ち込み禁止
ということになったら、各地の土器が纏向に集まることはなかったと思います。倭王に共立された卑弥呼のもともとの拠点が唐子鍵(想像)ですが、唐子鍵の王に攻められて負けたから従うのではなく、「新たな王権を立ち上げるから新たな都を作ろう」(想像)の方が落ち着くということではないでしょうか? そして、戦いをやめて(戦いに疲れて)新都を作るので、環濠も柵もなく武器も出ないというのは話としてはきれいだと思います。
巻向宮殿は景行天皇の巻向日代宮に決まってるだろう。
古事記が伝えている。三重采女(雄略記)がその様子を歌っておる。
麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比伝流美夜 由布比能 比賀気流美夜
多気能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 ゝ本尒余志 伊岐豆能美夜
麻紀佐久 比能美加度 尒比那閉夜尒 淤斐陀弖流 毛ゝ陀流 都紀賀延波
・・・・・・以下略
なぜ女王共立で丸く収まるのかよくわからなかった。仮に、「戦いに疲れて女王共立」・・・2回なのだとする。2回とも機内で起きたことなのだろうか?
纏向の3世紀後半からの変性、変質は、「大陸要素」の侵入と土器以外の葬制や鍛冶技術など北九州文化の移植。「もの」そのもので語らないとすれば、日本列島の古代「鉄の道」の組み替え。察するに「瀬戸内海航路」の開闢。
なぜか「冢」を造る古墳文化が花盛り、銅鏡の副葬が始まり、4世紀からなのか、国産でわざわざ「魏鏡」を演出している。
魏志倭人伝の逆輸入状況が畿内で始まり、継続しているのを古墳文化と呼んでもいいくらい。4世紀初頭に「魏志倭人伝」を入手し、ずっと大和王権内には読みこなせる階層がいたか、あるいは、そんな存在はおらず、魏志倭人伝で若干触れられた「非常に大きな出来事」によって実際にまかれた種の一端が、継承されて古墳文化を花開かせたか?
弥生時代に東遷があったのか(←たぶん3世紀半ば以上に難しい)、3世紀半ばに東遷があったのか、3世紀末から4世紀以降に東遷があったのか?記録はないので分からないが、纏向の3世紀後半からの変質を想うとき、3世紀半ばにあった線も捨てがたい。
着実なる成熟や、内部衝突限りの弁証法的発展段階を踏んでではなく、ポールシフトを起こす「一突き」を材料として求めたくなるのが、この3世紀半ばなのである。
3世紀までの奈良は銅鐸が発達し矛はなし
4世紀から徐々に剣矛珠のような九州の文化が流入し、製鉄技術が発達してきた
これは土器の流入でも証明されている
弥生時代まで倭の中枢であった九州の文化が一気に畿内に流れ込んできた
支配者層が九州系なのかガラッと九州の文化が取り入れられた
これが大和朝廷の始まりであり、危機に言う神武東遷のことであろう
倭の中心が九州から畿内に移ったのは4世紀以降からとみて間違いないだろう
小説の体になっていますが、鯨統一郎の 邪馬台国はどこですか? という本の、邪馬台国東北説が好きです。
小説の体になっていますが、鯨統一郎の 邪馬台国はどこですか? という本の、邪馬台国東北説が好きです。
原文読むといい加減な記述って明らかw
邪馬台国?卑弥呼?そんなのないよw
支那人と朝鮮人が作った架空の話w
アホな日本人が真に受けて研究ww
神武の東遷は古事記では足かけ16年におよび、日本書紀では6年だとする。
古事記における安芸、吉備での長期滞在は、調略工作と海路啓開に要した時間であり、対岸の伊予や讃岐も含めた瀬戸内海連合の形成に費やされたと考えれば決して長くはない。
戦は大義を掲げ、豪族を味方につけ、戦士を糾合し、資材含め現地調達で行うもの。畿内に船積で九州系の土器などが運ばれる速やかさはなく、瀬戸内連合と化した人とモノが、緩慢なうねりのように政治と技術と交易ルートを引っ提げて押し寄せ、畿内銅鐸祭祀文化を崩壊に導いたのではないか。
蛇体の三輪山信仰ともども畿内男根ファルス信仰も駆逐された。大国主がファルス信仰の象徴である。新しい時代の古墳は「ホト」を形象化している。
wを使う数と知能の低さは比例する説
三輪山信仰は復活する。太田一族が召喚される。
太田一族・・・出雲にもおり、猿田彦にも関連する「太田」。
伊勢神宮の設置にも関わっている・
一体何者なのか?
太田という地名は纏向周辺にもある。
東遷があったとした場合、北九州は放置された。
台与以降、五胡十六国で荒れた中国情勢と同期して、朝貢行事は停止。
でも、本当は、ヤマトに引っ込んだので、瀬戸内海海航路開発後であっても、遠いから(大変だから)、266年の晋への朝貢を最後に、さぼっていたのが正直なところ。
中国勢力後退後は、朝鮮半島がもっぱらの関心事になるのは道理。
どうやって料理してくれよう・・・
関門海峡封鎖を買って出る忠実な勢力を、ヤマト王権はマネジメントしてはいない。できるわけもない。
放置された北九州はどのように育つのか?
やんちゃにも朝鮮半島に進出したのだ。倭の五王は、ヤマトとはおそらくは関係がない。半島いじりは北九州の伝統だ。中国が統一されれば、真っ先に北九州が反応する。乱世になっても、北九州が即座に反応する。日本列島の「触覚」みたいなものだが、やんちゃも得意なのが九州勢力。
キリシタン大名とかね。
磐井の乱で鎮圧されるときまでは自由にやっていた。
船舶航行技術の飛躍的発展は、5世紀後半からの阿蘇ピンク石の輸送で知れる。ピンク石をわざわざ運んだ石棺を持つ古墳は下記。
〈1〉岡山市・造山古墳
〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳
〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳
〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳
〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷
〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳
〈9〉奈良市・野神古墳
〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳
〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳
〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
古墳の石棺に使用する何トンもの重量物を、船で運ぶ能力がすでにあった。
実証実験も行われている。「大王のひつぎ実験航海実行委員会」の航海実験だ。
一体どんな船が?実質的な航海日は23日間。古代なら50日間であろうとの結果が出た。陸上は「修羅」で曳いた。
瀬戸内連合の記憶を新たにするような労苦である。日本海航路ではない。
※めっちゃ伸びてるな、すごい!
ところで次の更新は6月ですかね?
1342のような考え方が九州王朝仮説です。
「邪馬台国は北部九州で、纒向・大和王権と関係ない」とすると、その仮定を引きずっていって「倭の五王も大和朝廷とは関係ない」と考えるのがある意味当然になります。
>1342
五胡十六国の前に、漢末の混乱期にも、遼東の公孫氏の自立もあって、倭国から大陸の王朝への朝貢が途絶えています。
卑弥呼の遣使は239年で、倭国王帥升の107年の遣使から約130年ぶりのものです。
後漢の時代に使者送ってるのに漢字読めないとかあり得ない。
日本書紀の漢字伝来の時期は流石に不正確な情報を敢えて載せる必要があったから(支那に早くから通じてた地域に優位を示すためか?)だと思う。
記紀の記述は(当然だが)神話的要素が初期ほど強い。
オレの説では崇神天皇に関わる伝承は神武東遷より古いんじゃないかと。
神武・崇神・応神の伝承はそれぞれ年代の整理が必要だと思うし、そこに魏志の記述とどう整合性を見付けるかってことが大事。因みに、確か「神」の字が入る諡号はこの三人の他は神功皇后だけだと思ったな。
「魏志」を普通に読んだら畿内説は出て来ないだろ。
奈良京都が都の時代が長かったからそこに引き付けたいと(無意識にでも)思う人間が畿内説に固執してる。京大学派が頑なに畿内説唱えてるのがその状況証拠。
実際には「西暦3世紀に魏王朝と通交したのはどの地域か」ってのが核心なのに「日本の国家成立」と必要以上に絡めるからややこしくなる。
関西の学閥がゴリ押しして世論誘導してないか?
※1302
※1273へのレスだから文脈読め。
国語の成績悪かっただろ。
初代と10代目と15代目の天皇に「神」の字を入れてるのは、
神道の魔法陣の数字のマジナイなんだよ。(1+9+5=15)
七五三で11月15日に神社に行くのもそういうマジナイ。(7+5+3=15)
伊都国は、「東遷」後は中央政権にとって江戸時代の長崎の出島のように、遠きにありてよし、むしろ遠ざけるものと化したかもしれない。
九州のやんちゃの伝統は明治維新でも発揮されるほどである。九州勢をどんげかせんといかん。
まず、「東遷勢力=鎌倉幕府」が鎮西探題を置く。室町時代には九州探題に強化される。尊氏は京都落ちをして九州に逃走、菊池氏と一戦を交え、再びの「東遷」をやってのけて、京都に室町幕府を開く。
「東遷勢力=徳川」の江戸時代初期にも当然対策を打たれた。西国筋郡代の設置はもちろん、細川氏を小倉に据えて熊本加藤家北上を警戒した。加藤家は清正の子の代に迅速に改易され、細川家が送り込まれ、薩摩島津家の監視のために南下させた。小倉には家康の血を継ぐ小笠原家を据えた。
それにもかかわらず、薩摩と肥前、長州が、統幕の「東遷」を繰り広げたのは周知のとおり。
日本史は「東遷」だらけである。
だから2~9代目、11~14代目の天皇はほとんど意味の無い存在
※34
敗走
>1330
提示された朝鮮王朝実録の該当部分見てきましたが、これ15世紀の文書ですよね。もう少し時代の近い丹木の用例をご存じでしたら教えてください。
丹木の用例は、山海經と朝鮮王朝実録と示していただきましたが、丹木がどんなものか見えてきません。山海經は三皇五帝が出てくる半ば伝承を扱う書ですし。15世紀に分かることなら今でももう少し、丹木が何か分かりそうだとも思うのですが。
丹木と読むと後ろは必然的に「犭付」を1字で解釈しないといけないのですが、羊に似た獣って何でしょう。死体は運ぶうちに腐るでしょうし、生きた獣を船に乗せて運ぶのも大変だなと思います。
漢字も日本が日「夲」と書かれていたり異体字が多いですし、其山有丹との関係を考えても、1309の丹・木附短弓矢の読み方の方が分かりやすいように思います。
朝鮮王朝実の記述では、丹木は琉球からの朝貢品になっています。琉球と倭の共通の産物だとするとどんなものが考えられるのでしょうか?
>>1353
同じ時代の朝鮮半島で90°ずれてる日本地図も作成されたんだぞ
90°回転説は正しくて丹木は15世紀だから間違いか?
邪馬台国は畿内であり90°回転も朝鮮の地図により正しいんだから、当然同じ朝鮮が証拠の丹木も正しいんだよ
さらに倭人伝の記述は台湾と琉球と九州を混ぜてるから邪馬台国は畿内なんだろ?
丹木が琉球でも九州でもむしろ邪馬台国畿内説の強力な証左じゃないか
もう諦めろ
畿内説派の議論が一般的に受けいれられないのは、記紀の古代史の部分の大幅な書き換えを前提にしているからだと思います
九州派は、記紀の書き換えを前提にしていません
>1355
逆に九州説派は「記紀には書いてないから違う」という理由で、あとの部分を無視してしまうんですよね。もうコメ番は追いませんが、定説になっている雄略天皇を指すとされるワカタケルと記されている鉄剣とかを信じないという九州王朝仮説の書き込みもありましたし。
記紀の書き換えというより、読み方・解釈の問題なのだと思います。崇神天皇紀のタケハニヤスの乱や、四道将軍の派遣が倭国大乱や卑弥呼死後の乱の記憶なのかもしれませんし。
あと、紀年の延長があるのは確実です。古事記では雄略天皇の宝算が124歳となっていますが人はそんなに長生きできません。その辺りを解読したものに、高城修三の『紀年を解読する』があります。これによれば、倭の五王の遣使も形を変えて日本書紀に書かれていることが分かります。高城氏の見解がすべて正しいとはいいませんが、ネット上でも骨子の抜粋は読めるので興味のある方はどうぞ。
>1354
私は朝鮮半島の地図に言及したことはありませんよ。
それよりも後漢書その他の倭国は會稽・東冶之東というのとセットの樂浪郡徼 去其國萬二千里というのを考えると、「中国の史書を編纂する人にとって倭国というのはそれくらい南まで伸びるもの」と思われていたことを重視しています。
魏志倭人伝ではその辺りが後漢書ほど明確な表現ではないですが、後漢書との対応を見れば、同じ想定をしていたと考えて差し支えないと思います。
古地図というのは古代の様子が描かれたものではなく、古代の人が「そう思った」という構想を絵にしたものですから、むしろ字に書かれた史書を元に地図を書いていると思った方が妥当のものも多いと思います。
1354が例に出している地図などは、相当に後世のものですし、まさにこの例ではないかと
TVでやってたが畿内説だろうな
当時三国志において日本はあくまで参考程度
作者は魏と同盟結んでる日本が呉に対して牽制する位置にいてほしかった
実際には奈良の位置なんだろうけど九州の南海上にもってきて
呉の横に位置するように書かれたというだけの話
神武の即位が紀元前660年とか信じるなよwテキトーもいいとこだぞ。
120歳だの180歳だの生きる人間なんか居るわけねーw
当時の王なり天皇の在位年数は平均10年程度。中国もその他の国の王も同じだ。
とすれば、21代の雄略天皇から計算すれば、神武は西暦300年前後の天皇だろ。
卑弥呼が247だか248年に死んでるが、神武より5代前のアマテラスだ。
ぴったり50年前だしな。
つまり、卑弥呼の死=社会的混乱=アマテラスの岩戸隠れだろ。
岩戸から出てきたアマテラスがタカミムスビに牛耳られてる(岩戸前のアマテラスは主体的に命令を出してるが、岩戸後はタカミムスビが指示者になってる)のは、卑弥呼の跡を継いだ新たな巫女のトヨが、ガキで実権がなかったからだ。
つまり、邪馬台国の卑弥呼は九州の女王だ。
まきむくだのなんだのは、西暦300年よりもあと。
神武が畿内に引っ越してから出来たものだろう。
じゃあ、なんで神武が引っ越したか?内戦続きで嫌になったんじゃねーの?
民族的にもこいつら渡来系で、隼人だのなんだのの縄文系とは別系統だよ。
卑弥呼=縄文系の血を継ぐオシホミミと結婚したのはタカミムスビの娘だよな?
つまりは渡来系のこいつらが、政略結婚で縄文系の卑弥呼の権力基盤を引き継ごうとした(卑弥呼の死後に立った男王とかもその一派)・・・ところが内戦でガタガタになった。
じゃ、縄文系のバカが居ない土地に行こう、とな。
実際、縄文人の遺跡は畿内にはほとんどないことが分かってる。
九州と関東には大勢いたが、なぜか畿内には居なかった。
だから、神武は畿内に行ったんだ。
※1357
順序が逆
長里と短里を区別せず計算した結果、帯方群から萬二千里南と洛陽から萬里南に下ったところを同一視した
地図がどういう意図で作られたかは知る由はないが、上記のような錯誤を元に作ったから間違った地図が生まれたと予想する
>1353
魏晋人阮籍の東平賦や清思賦に出てくるけど、賦だしね
伝説の丹木の正体は後世の誰も知らないのでは
もちろん魏晋人も
誰も知らないがゆえに、他国から見た事ない物が持ち込まれ
伝説の物を称されたらそれを否定することができない
その物の性質などに説得力があれば、敢えて疑う(否定する)意味がなく
国内における稀少価値も相まって
それは世に於いて本物のように高い価値があるものとして通用する
魏志倭人伝のは分からないけど、
朝鮮王朝実録の丹木は「アカギ(学名:Bischofia javanica)」の木材かと
「犭付」
毛皮では
これについても上と同じで誰も知らないから
見た事もないそれっぽい毛皮が献上されれば通用する
木附短弓矢
文章上「木の附いた短い弓矢」としか読めない
「木握短弓矢」ならまだしも「木握附短弓矢」なとと書くわけないし
「木附短弓矢(木の附いた短い弓矢)」に至っては意味すら通じない
よく考えると、ただの「短い弓矢」を献上するのもどうかと思うので
ここは「犭付」で区切らず、「丹木、[犭付]短弓矢、」かもしれない
伝説の動物で製った短い弓矢=見た事もない動物の毛皮が巻かれた動物製の弓矢
ではないかと思う
>1360
長里と短里の取り違えがどこであったのかは分かりませんが、史書の編者がそう思ってたってことですよね。ならば、報告書の東を編者の段階で「間違ったことが書いてあるな」と修正することに妥当性があるってことですよね?
まあ、短里って言葉もこの魏志倭人伝に関わるところ以外では出てこない言葉みたいですけど。里という言葉と75メートルという距離の対応が悪いのはなんとも言えないですよね。75メートルだと里と言えるだけの軒数が入る気がしません。また、300歩が一里なので、短里だと径100歩の塚が25メートルくらいになってしまって、大いに塚を作るの、大いに、とここでも感覚がずれます。
[犭付]短弓矢が毛皮をまいた短い弓矢だとしたら文法として滅茶苦茶だな
魏志の倭人部分を書いた人は中国語のできない人だな
つまりこの部分は中国人以外が後で付け足したんだよ
本当に[犭付]短弓矢が毛皮をまいた短い弓矢をあらわしているとしたらね
>>1362
造成年代の合わない箸墓古墳を卑弥呼の墓にするためにありとあらゆる手段と取ることを畿内説というんだから何でもいいんだよ
※1362
報告書の東を編者が修正するはずないでしょ
南行したって書いており、それを信じて萬二千里南に計算した結果、會稽・東冶之東に行き着いたんだから
当時南に下ったというのは魏の中では確定事項だった
ちなみに短里を否定しても仕方がないよ
三国志には何度も出てくるんだから
>1361
1309に「戦争用や狩猟用とはべつに儀式用の木の握りのついた短い弓と木の鏃の矢が出土してる」とありますが、これだと「文章上「木の附いた短い弓矢」としか読めない」という木附短弓矢そのもののように思えるのですがどんなものでしょう。
琉球にアカギがあることを教えていただいてありがとうございます。丹木というのは、やはり魏晋の頃でも山海經にあるような伝説の事物なのですね。勉強になりました。
>1365
短里で計100歩なら25メートルくらいってあまりいう人がいないなと思って。
その像を説明しただけで、文章上は「[犭付]の短い弓矢」だよ
文章上破綻している「木附短弓矢」と一緒にするな
>1365
三国志でも距離は里としか書いてなくて、ある部分の里をよその里とは区別しないと話が合わないから、それを短里って呼んでるだけじゃなかったでしたっけ?
だから萬二千里が會稽・東冶之東になるんですよね? 三国志っていうか魏志倭人伝でも里の基本はいわゆる長里ってことですよね?
1368は1361じゃないですよね?
あなたには聞いていません
同じ人だったらごめんなさい
>1368
木鏃弓矢とかになるかな
基本的に弓矢には木が使われている
先進文明国に対して蛮族が祭祀のための道具を贈るって考えにくいけどね
自分たちの宗教の押し付けに他ならないし相手に価値のないものを贈るのは失礼
そもそも字が違うのにこれ以上論じる必要があるのかな?
※1369
確かに短里も長里も里としか書いてない
短里は魏晋の時代に使われていが公定里かどうかは定かではない
周髀算経のように明確に短里が使われている書物もある
三国志は前時代の書物から引用されたところは長里であり、魏代に新しく短里によって測られた部分だけが短里ではないかと予想している
何にせよ色々な書物をまとめた書物には混乱が生じているのは確か
で単なる獣の意味もあるな、毛皮かもしれん
宮内庁所蔵の写本を見てみたが、けものへんとは違う気もする
「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説
『三国志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝の朝鮮半島の広さが短里だと正しい大きさになることから、その先も短里とすれば成り立つという説だね
周・漢の1歩は1.3m、300歩四方で1里、これが普通の里だね、その後1歩を5尺、360歩(=1800尺)を1里とし、清まで続いた
ただし周王朝やそれ以前は短里に近い長さで測っていた記録もあるから間違いとはいえないね
もし短里も300歩だとすると短里の1歩は0.25M、直径100歩は25M
むしろ普通の円墳だね
※1356
「ワカタケル≠雄略天皇」を書いた者だけど、「ワカタケル」なんて結構ありふれた名前だと思わないか。「若くして武勲を挙げた者」くらいの意味じゃん。
「泊瀬の」とかついてりゃ決まりだと思うけど、あれだけでは疑問だって言ってるんだよ。
公式な記録に載せられなかった「ワカタケル」もいたかも知れないじゃないか。
1374
千余里
対馬市〜壱岐市 67km
壱岐市〜唐津市 52km
五百里
唐津市〜糸島市 30km
短里とやらだと合わないね
※1359
記紀を信じないなら東遷もなしってことで
都合のいいとこだけのつまみ食いはNG
>1375
記紀を見ると、タケルというのは尊称として使われているようです。
建御名方神や、武内宿禰のタケです。古事記では建、書紀では武の字を使うことが多いです。
他にも武埴安彦や屋主忍男武雄心、稚武吉備津彦もそうです。とはいえ、記紀全体を見ても、建あるいは武の字を持つ名前は、それほど多くありません。また尊称として、接頭辞的に本来の名前の前に付けられたものが多いようです。
名前そのものがタケルというのは、主だった人物としては倭建と大泊瀬幼武くらいしかいません。タケルというのは、記紀編纂者にとってはかなり特別な名前のようです。
常陸国風土記に見られる「倭武天皇」も、ヤマトタケルが天皇という伝承があったという読み方と、倭王武に当たる雄略天皇をこう表記したという解釈のほぼ2択です。
>公式な記録に載せられなかった「ワカタケル」もいたかも知れないじゃないか
居たかもしれないですが、記録にないものを想定するよりは、記録にあるものをもとに考える方が無理がありません。九州王朝を認める立場でも、畿内の大古墳を作った勢力は認めるわけですから、武蔵の国の鉄剣に「九州王朝の記録に残らないワカタケル」の名が刻まれるのは、難しいのではないでしょうか?
1347
都が最初から近畿にあると都合が悪くてゴッドハンドとかを推進してた東大閥もついに兜を脱いで畿内説が大勢を占めるようになってる。
>1359
>当時の王なり天皇の在位年数は平均10年程度
安本美典氏が提唱した数値ですね。なつかしいです。安本氏の、数理学を古代史に適用するという考えは、すばらしいものだと私も思っています。しかし、この1代10年は適当ではなさそうだという批判も当然ご存知ですよね?
だいたい、1359の人は卑弥呼が共立されたのは2世紀末で、3世紀半ばの248年あるいは249年に亡くなるまでの50年を、卑弥呼一代だと考えている訳ですよね? 神武まで50年だから1代10年で5代でちょうど、って無理がありませんか?
>1361
何度もすみません。感覚の問題なので、論じる必要はないのかもしれませんが、牛の毛皮を献上したときに、献上品リストに「牛」って書くでしょうか? もちろん犭付が牛でないのは分かっています。毛皮をもって、その動物を献じたと書くか、ということです。その前の布のところは、倭錦絳靑縑緜衣帛布と、布の種類を書いていますし、皮の種類を書くというか、皮を献じたという書き方になるのではないでしょうか?
>ここは「犭付」で区切らず、「丹木、[犭付]短弓矢、」かもしれない
>伝説の動物で製った短い弓矢=見た事もない動物の毛皮が巻かれた動物製の弓矢
>ではないかと思う
これも同じように、牛の毛皮を巻かれた短弓矢を牛短弓矢って書くでしょうか?
なんだか、すっきりしません。
ここは「岩波文庫は『丹・木[犬付]』だが、中華書局標点本は『丹木・[犬付]』とする」のだそうです。素人では結論は出なさそうです。
※1376
長里だとその5倍~だからもっと合わないぞ
蛮夷の夏至の影の長さ測ってどうたらのちゃんとした測量してないところはそんなもんだろう
なんにせよ、いわゆる短里じゃないと合致しない箇所が何箇所もあるのは確か
1382
?
なぜそんなに短里ごり推しなのかわからない
九州説頭おかしい
「論争の始まり」
邪馬台国論争はいつごろから始まったのか 魯迅は本居宣長の「馭戒慨言」1777年のころと見ており 邪馬台をヤマタイと読んだのも宣長といわれている
それ以前の北畠親房や新井白石は 九州が北に描かれている古地図を見ていたので 倭人伝も地図も間違っていて 邪馬台国は大和であると考えていた 実際 倭人伝の記述を古地図にあてはめると 符合する部分が多い
しかし 新地図(正確な地図)が出始めるに従い 古地図を知らない人が多くなり 倭人伝との矛盾が指摘されるようになった 皮肉なことに正確な地図が論争のきっかけとなったと思われる
※1383
頭おかしいのは実際問題短里としか言えない里表記が多数に渡り散見しており
その距離もおおまかに合致してるのにも関わらず、わけもわからず否定してる君のような人間では?
何かしらの根拠があって否定するのなら別に構わんけど
短里では完璧に距離が合致しないからおかしいのでは?というのなら、長里では完璧に合致するという資料をもってこなくてはならない
古代の百里単位で表示される大まかな資料にそこまで正確性を求めるのは野暮だとは思うが
※1374
>朝鮮半島の広さが短里だと正しい大きさになる
当時の境界は明確に判明していないはずなのに韓地の範囲を誰がどうやって特定した?
朝鮮半島の面積を測る方法が当時すでに存在していたというのならどうやって測定した?
そんな先進技術が東夷に存在していたなのなら中国本土になぜ伝わらなかった?
朝鮮半島においてもその先進技術はなぜ後世に残されなかった?
>周王朝やそれ以前は短里に近い長さで測っていた記録もある
具体的にどの記録だ?
魏志の中で短里で書かれた部分と普通の里で書かれた部分をどうやって判別するんですか?
魏志の中では里という表記しか出てきませんが
※1385
>実際問題短里としか言えない里表記が多数に渡り散見しており
横レスだが、具体的にどこの行程で短里なるものが合致するんだ?
あと短里なるものが実在したかのような前提で話を進めているが日本人が造った造語である
長里も同様に造語
里は里だ
1385
千余里
対馬市〜壱岐市 67km
壱岐市〜唐津市 52km
五百里
唐津市〜糸島市 30km
長里でほぼ合致してるだろ
短里としか言えない里表記って何?
※1374
>もし短里も300歩だとすると
根拠なしw
九州に径百歩の墓がないからって無理しすぎ
女王国までの里数の話と、夏王朝時代の会稽風習と倭人風習が同じって話は、
連続した文章として読んでも、里数によってではなく、「風習が同じだから」会稽東治の東(台湾辺り?)って意味になるよね。
短里を勘違いして地図を書いたのは、後の時代の人であって、当時直接行ってきた人が陽の昇る方(東)を南と間違える事はありえないと思うな。
後、江戸時代に近畿だったから近畿とか、完全に歴史詐欺だろ。
戦国時代には地球儀だってあったし、東海道は朝鮮の地図で南だから南とでも言うのか国学者が。
情報封鎖された時代に言ってたから事実とか間抜けにも程が在る。
晋代以前の里は400m程度だからてんで合ってないぞ
普通の里がある所にわざわざ短里を用いて表記する理由、利点が不明
100kmの距離を短里で現せば約125里だが普通の里でも約25里と表せる
これは現在で言うとキロメートルで書けるものをわざわざマイルで表記しているのと同じ
魏志倭人伝には短里で邪馬台国の位置を表記してあるというのは不合理に思える
※1393
訂正
100km→10km
1392
合ってるでしょ
実際に末盧国から伊都国のところで90度ずれてんだから、東が南でも余裕でありえる
太陽の位置で方角を知ろうと思ったら、日の出と日没の時しか動けない
羅針盤が大発明に位置づけられてる意味がわからないのかねえ
百歩の墓も短里計算は面白いですね。
平原遺跡が殉葬16人で、十数メートルの方墳だから、径百余歩、三十メートル弱での100人殉葬も、少し窮屈だけど可能ではあるのかな。
※1389
長里=434mだとすると
千里=434kmだから全く合わないぞ
ちゃんと計算ぐらいできるようになれよ
1398
無理無理w
九州説「前方後円墳だからアウト」
九州説「方墳だけどセーフ」
kzすぎ
1400、1401
日中湧く誤魔化し朝鮮脳か。
短里百歩で殉葬100人も可能かって話をしてるのに、kzの自己紹介は要りません。
>もし短里も300歩だとすると
根拠ないぞ朝鮮脳はお前だボケ
太陽の位置で方角が分かると言い張ってるやつは伊都国や奴国から邪馬台国が見えるとでも思ってんのか?
A地点からB地点に地図も見ないで長距離移動した場合、相互の位置関係が分からなくなるのは誰でも経験してるだろが
1355
記紀通りなら、東遷は紀元前で邪馬台国は大和
>1390、1403
あのお、1里=300歩っていうのは、中国の距離の計り方としては公式ですよ
せめてググって見てください
魏志倭人伝には「里」としか書いていない以上、1里は300歩です
これは譲る譲らないの前の話で、「調べてみてからものを言ってください」としか言えません
ちなみに1374は私ですが、ご存知のように私はゴリゴリの畿内派です
というか、日本の墓ではっきり殉葬と見られるものは見つかっていないようです。
ただ、首長墓が墳丘墓として大型化する前は、一つの周溝墓に複数の遺体を葬っていましたから、それが殉葬のように見えたのでしょうか。吉野ヶ里遺跡の墳丘墓はその段階ですよね。
殉葬の風習は、記紀にも埴輪の起源譚として出ているので、あってもおかしくはないのですが。
「短里がある」派は倭人伝の行程記事は途中から先は短里、という主張だと思いますが、奴国から不彌国が百里って、近いなと思いませんか?
短里が75メートルほどだとすると、100里で7500メートル、7.5キロです。環濠集落一つが国であれば、まあそれほど不自然ではないのかもしれませんが。
1406
一歩は1.3m
百歩は100m超
>1410
その辺は1374がきっちり書いてくれていますが、里と歩の換算が1里=300歩ってことです。
途中から1里=360歩になっていますが、魏の頃は1里300歩です。
1410が示してくれているのは、短里ではない里でのメートルとの換算の値ですね。
短里というものがもしあるとしても、1里=300歩でなければおかしいという話です。
短里というものがあるとして、
それが採られた場合に1歩の長さが変動したという証拠はない
>1415
お返事遅れてごめんなさい。考古学的資料を基に語ってくれるようになって、やっと同じ土俵で話ができるのをうれしく思います。
>箸墓古墳が前方後円墳のはじまりであり、大和朝廷の始まりとすることに異論はない
まず、この共通認識ができたのが大変うれしいです。
あとは、1415の認識と私の認識の異同ですね。
>卑弥呼が君臨したとされる3世紀前半の規模ははるかに小さく、庄内式土器が出土する地域とされている。
ここは、このままでいいです。以前にも纏向遺跡は縄文からの遺跡だが一度廃れて、3世紀にまた復興した、という書き込みがありましたが、私もそのように理解しています。
>卑弥呼が倭国大乱を収束された西暦190年頃には、すでに邪馬台国が纒向の地に存在し、卑弥呼がその国を治めていたと考えなければならない。
ここからが違うんですよ。
>纒向遺跡の中枢部からは弥生時代の集落跡は発見されていない。集落の周りに巡らした環濠も検出されていない。
つまり、纏向遺跡は(唐子鍵の)住民用の拠点ではなかったということです。
唐子鍵が古墳時代まで存続する、と書いていただいていますが、唐子鍵の引越しが目的ではなく、別の都を作るのが目的だったように見えます。つまり、唐子鍵の発展的解消が目的ではなく、唐子鍵とは別の王都(初期は単に王宮か)を作るのが目的に見えます。だから、3世紀初期の纏向遺跡は小さい。
つまり「西暦190年頃には、すでに邪馬台国が『纒向』の地に存在し」ではなく、「西暦190年頃には、すでに邪馬台国が『大和』の地に存在し、卑弥呼が唐子鍵で治めていた」ところで「倭国王に共立されて『纏向の建設』が始まった」と考えるとすべてすんなり理解できます。逆にそう考えないと、「各地の勢力が集まって新たな都を作る」理由が分かりません。唐子鍵の引越しに、各地の勢力が集まるいわれはありませんから。
記紀(主に古事記)によると大和は出雲の植民先で、夫婦喧嘩した大国主が大和に行こうとする場面があり、纏向の背後にある三輪山(大神神社)の祭神、大物主は大国主と同体の神とされています。そうした出雲の勢力の地に、ニギハヤヒやイワレビコといった九州の倭王の血筋が入植してきて、そこへ吉備の勢力が卑弥呼の共立で合同し、魏の仲介で東海の毛野国(狗奴国)が参加すれば纏向遺跡で発掘される各地の土器および推定年代と、大体合うように思います。
古墳時代に入ると、東海から九州までの広い範囲でいっせいに定型化した前方後円墳が作られ始めます。それでも、箸墓がその嚆矢であることはほぼ動きません。そして、記銘鏡や王朝銭の出土で「編年がしっかりしている北部九州の第1期古墳の推定年代」から、古墳時代の始まりはそんなに遅くできないんですよ。ちょっと調べてみてください。
>1412
途中で6尺=1歩から5尺=1歩に変わって、1里300歩から360歩に変更されますが、それ以前は1里=300歩というのはずっと変わらないんですよ。つまり里と歩の「換算の公式」は、300から360に変更された1回の変更を除けば、変更されていないんです。
短里というものがあったとして、それが「里」と書かれている以上、「300歩ではない理由」が逆にありません。10寸が1尺というのは、鯨尺でも曲尺でも同じです。同じ単位を注釈抜きで書いている以上、違う理解を要求する理由が分かりません。
実際に300が360に変わってるのに、
短里になったときに絶対に変わってないという理由がわからん
>1381
文章は読者がどう受け取るか意識して書かれるから、記述のあり方は感覚によるところが大きい
要は読者がどう受け取るか
1353さんが思ったように、死体は腐るだろうし、生きた獣を遠方から運ぶのは大変だ
また、
[犭付] は牛などの一般的な動物と違って誰も見たことがない奇獣
[犭付] はもと猼と書き、山海經の南山經に出てくる伝説上の動物で、魏晋人の誰も実物を知らない
又東三百里,曰基山,其陽多玉,其陰多怪木。有獸焉,其狀如羊,九尾四耳,其目在背,其名曰猼訑,佩之不畏。 (「九尾」は「无(無)尾」の可能性あり)
「羊に似ていて、尾が9本、耳が4つ、目が背中にある」
このような奇獣を生獲し、遥か遠国より海を越えて生きたまま運ぶというのは
当時の人にとって想像しがたいに違いなく、多くの人は毛皮と考えるんじゃないかな
毛皮でも得られたならば御の字 もしも生きたまま献じられたのなら、それこそ字数を使って特筆すべき事柄なので、そのままなら毛皮という解釈が妥当かと思う
また表現技術の面でも申し分ない
献じられたのが[犭付]の毛皮であるとして、
「 犭付 」と記すか「 犭付 皮」と記すか
感覚の問題だけど、奇獣だけに記録の信憑性に関わる
「 犭付 」だと丸ごとのイメージ、「 犭付 皮」だと部分的なイメージが混じる
読者に部分的な毛皮をイメージされると奇獣の真贋に余計な疑いを持たれかねない
それゆえ不用意に「皮」をつけない方が上手い
であるけれど、述べたように「犭付の短い弓矢」が正解だと思う
>なんだか、すっきりしません。
「毛皮を巻かれた」に引っ張られ過ぎてる
「見た事もない動物の毛皮が巻かれた」は握りなど見た目に分かり易い部分
「動物製の弓矢」としてるように、本体は革や骨や腱や毛を使って作られた弓矢
本体だけでは何の動物で作ったものか判然としないため、
仕上げに握りなどに毛皮を巻いて[犭付]製をアピールしたものと想像する
犀の革で作られた「犀鎧」というものが史書に記録されてるから
「犭付短弓矢」という表現が変だとは思わない
牛短弓矢がしっくりこないのは、「毛皮が巻かれた」に主眼があるから
また牛製の短い弓矢は割と普通であるうえ、特に表現するときには「角弓」と書かれてる
念のため、
[犬付]は[犭付] の異体字(形が異なる同じ文字)なので、
[犭付]でも [犬付]でも書かれてることは同じ
木[犭付]って何? 木彫りの[犭付]像?
短弓矢って何? ただの短い弓矢? 漢弓より優れるの?
そんなしょうもない物を献じたと考えるよりは、
珍重されるであろう伝説の獣で作った弓矢を贈ったと考える方が易い
九州邪馬台国と近畿勢力に交流があったことと古墳時代に近畿式の墓が全国でブームになったのは事実
近畿邪馬台国があり得ない理由は福岡と500km離れていながら途中に投馬国一国しかない不自然さ
末廬国~不弥国まで直線50km以内に4か国ある以上、途上30~40国ないとおかしい話
邪馬台国は倭人伝通り南に30~50km行けばあると考えれば途中に投馬国一国しかなくても不自然じゃない
中国地方まとめて5万戸の投馬国(出雲)なんだろ
九州に5万戸7万戸の大都市と、それに対抗する狗奴国がある方が不自然
水行してたわけだから国の存在を意識しなくても当然でしょ
そんな近くにあったら船で何十日もかからない
よって九州説はあり得ない
(一日これくらい歩いた+歩速はどれくらいだ)×歩幅はこう定めてある=これくらいの距離じゃないかなあ
くらいの感覚じゃないのかな
海上は測る術はないし山がちな地域でずれるのも当然
まあだったらどこかの学者が実際に歩いて測ってそうだけどね
そういう話は知らないけど
↑あ、時間と歩速を足しちゃダメだなw
まあ計算式自体はどうでもいいけど
1419
補給は?
九州も中国地方の人達が擁立した唐古・鍵の王?
唐古・鍵遺跡にその時代の九州、中国地方の人が住んだ形跡ないよ?
九州はいいとして吉備の文化の流入は古墳時代だよ?
短里厨が金科玉条のごとく崇める周髀算経より
①是故衡之間萬九千八百三十三里、三分里之一,即為百步
②即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一
①より、1里=300步
②より、1步>5.8尺、つまり1步=6尺がほぼ確実
1397
南中も分からんのか?
航海できんがな
>1424
1里=300歩、1歩=6尺
これが公式ですよね。この時点で1里=1800尺
>1415
1里=360歩になったのは、1歩=5尺にしたのに伴うもので、この変更にかかわらず
1里=1800尺は変わりません
1里=300歩が絶対に変わらないとは言いませんが、変えるならその断りがないとおかしいということです。逆に変えたと書いてない以上、変えて考えるべき理由がありません。魏志倭人伝に書いてあるのは里は里だし、歩は歩であって他の表現にはなっていません。
牛も馬もいない弥生時代の日本でどうやって陸で1ヶ月も鉄や絹や租や辰砂を運んだんだろうな。
>1425
日本くらいの緯度でも、たとえば夏の太陽はかなり高いところを通りますから、いつが南中かって知らない土地だとなかなか分からないと思いますよ。よく知った土地であらかじめ南の方角を知っていれば分かるでしょうが。
当時は日本列島はもっと広くって南に90°回転していて日本中が纒向遺跡で卑弥呼は実はあと150年生きてた、でいいよ
こうすれば畿内に邪馬台国があるし満足だろ?
夜は北極星出てるんだから方角わかるだろ
なんで日の出と日の入りしか方角知るすべがないと思ってるんだ?
「周髀算経」「周礼」に方角をはかる方法載ってら
>1418
奴国2万戸(240km^2)→福岡平野
投馬国5万戸+邪馬台国7万戸(1200km^2)→筑紫平野
狗奴国(775km^2)→熊本平野
纒向(450km^2)→奈良盆地
今と地形が全く同じじゃないにしても纒向より大きな勢力があったとしても不思議じゃない
※1419
隋書には瀬戸内水行で十数ヵ国出てくるが?
1430
寝てるだろ
※1426
断りなく短里になってるのに?
1433
時代を経れば未開国のこともだんだん詳しいとこまでわかってくるというだけのこと
>>1433
又經十餘國達於海岸
これのこと?
卑弥呼の時代じゃないじゃん
長里だと九州でも近畿でもないんだけど、ええの?
短里説についてはここに詳しく書かれてる
ttp://home.b06.itscom.net/kodaishi/page003.html
※1433
隋書だと聖徳太子は大王になってるけど
畿内説の根拠たる記紀だと太子だろ
いいのか
隋書を認めちゃうと日本書紀に書かれてる内容の年代も内容も嘘が混じってることになっちゃうぞ
瀬戸内のために畿内説と記紀を捨てることになるのか
やめとけ
1435
短里になってると言い張ってるだけで全く証明していないぞ
短里なるものが存在したという根拠は何?
周髀算経の一部だけを都合よく解釈してるだけで、歩や尺との矛盾も説明できていない
行程の中で短里なるものが当てはまる区間はどこなのかも示していない
調べたら結構短里で記されてる戦国時代のものもあるな
始皇帝が統一するまで本当にばらばらだったのがよく分かる
地域によってはそういったものも残っていても不思議ではない
きっと中国人でも勘違いするはず
1438
まず長里というのは造語だ
里は里だ
倭人伝の里数は正しくないというのが一般的な畿内説の見解だ
リンク先のサイト見たがどこの馬の骨が作ったか知らんが妄想を並べているだけ
短歩なるものまで捏造してたのには笑った
そうすると短尺や短寸も存在したという主張になるな
1短尺=4cm程度、1短寸=4mm程度
こんな短い影の長さを測ったんかwww
影の長さで1短寸の違いなんて誤差かどうかもわからんだろwww
里と歩の正しい現在に直した距離もまだ定まってなかったのか
「畿内説が正しい」
ここから出発するからわけ分からんことになる
やはり邪馬台国は土佐だな
妄想で書いたコメントと出土した事実と中国の文献の原文に対するコメントは分けて欲しい
少なくとも原文が書いてないコメントは意味ないね
やっと造営年代の違う箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする人はいなくなりましたね
30年程前にとある考古学者上がりの寺の坊さんが決定的な証拠も見つけたがこれを世に出せば自分は考古学会からだけでなくこの世から消されてしまうので墓まで持っていくしかないと言っていたな
あの時代の日本の歴史が曖昧なのも本当の事が世に出てはならない勢力が教育とかこの国を乗っ取ってしまってるんだろうね
中韓通って日本の支配者になった我々はその正当な血脈なるぞって事にしたいんだろ
1439
畿内説の根拠は考古学的証拠だぞ
記紀を根拠にしてるのは九州東遷説
※1447
卑弥呼の墓は箸墓でしょ
※1437
卑弥呼の時代じゃなかろうが、海岸沿いの国の名前まで記すはずがないという反論ね
※1439
歴史学を知らないんだろうが
百が百正しい書物なんてない
大事なのは他の資料や考古学的証拠と照らし合わせてどの程度信憑性があるか検証すること
それに記紀なんか書いてることそのまま信じられるはずないだろう
1間違ってたら残りの99も間違いとするのはアホだということだ
※1436
女王国までの国の戸数、道里を略載してるという文と矛盾する
>1452
いや、まさに略載してるじゃないですか?
水行10日陸行1月が略載じゃなかったらなんだ?って話です。
で、略載である以上、その間に国が書いてないとか、瀬戸内航路だと書いてないだとか、それが畿内説を否定する根拠になると考える考え方が、正直に言ってものすごく不思議です。
古代史を考えている人は、安本美典氏と古田武彦氏だけじゃないんですよ。
>1441
>調べたら結構短里で記されてる戦国時代のものもあるな
>始皇帝が統一するまで本当にばらばらだったのがよく分かる
ただ、始皇帝の統一の後に、前漢、新、後漢とあって魏晋南北朝の時代になるので、すでに統一された度量衡を使い始めてから400年くらい経ってるんですよね。中国は広いから、とか、東夷のことだから、という理由はつけられますが、不思議はないの一言で済ませるのも無責任な気がします。
>1435
>断りなく短里になってるのに?
だから、本来短里だと考えるべき理由もないんですよ。そこを「短里はある」と言い切るところが九州説の始まりです。
そして、短里だったとしても、里が大陸の度量衡の単位である以上は、他の単位との関係を持って度量衡という体系ができている以上、300歩が1里でなければ、それは里でもなんでもない、ただの符丁ということになります。
つまり短「里」ですらないという主張になるのですが、それを言うならただのトンデモ説であり、妄想に限りなく近づきますよ。
>1416
丁寧な解説、ありがとうございます。おっしゃりたいことがよく分かりました。
私は、魏志倭人伝に書いてあることは、それなりに現実世界のことだという思い込みが強すぎたようです。
魏志倭人伝の編者にとっては、倭は遠絶な東夷であり、伝説の秘境扱いなんですね。だから、西王母や東王父が出てくるような山海經の事物、「丹木」や「犭付」が倭国から献上されたと書いてあっても不審ではない訳ですね。
まあ、その他の部分も、推して知るべしな気がしてきました。いろいろと、盛ってあるのでしょう。黒齒國も山海經に載っていますし、侏儒國、裸國もあわせて、世界の果てにある国扱いなのでしょう。種子島で背の低い人骨が出たとか、鉄漿の習慣が、とかいうのはほぼ無意味ですね。
>1442
ただ、もともと「長さは寸・尺・丈」「距離は歩・里」という使い分けがあるそうなので、尺と歩の換算はある意味後付けです。短里(あるとしてですが)は短歩と連動しますが、尺や寸とは連動しないかもしれません。
>1423
>唐古・鍵遺跡にその時代の九州、中国地方の人が住んだ形跡ないよ?
共立がどのように行われたのかは分かりません。今のように選挙や会議で思いませんが。
共立の時点で別々の勢力な訳ですから、別々に住んでいる=唐古・鍵に住んでいなくて当然ではないでしょうか。
>九州はいいとして吉備の文化の流入は古墳時代だよ?
古墳時代というか、古墳の形式(段築成、円筒埴輪による各段の囲繞)が吉備の楯築墳丘墓の様式を引き継いだものです。その、古墳の形式が作られるとき=古墳時代に入る直前の時期から、吉備の勢力が係わっていたのは確実だと思いますが、いかがでしょう。
>1457
周髀算経より
即平地徑二十一步,周六十三步。令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一
1歩=6尺であることは確実
短里なるものの理論的根拠を周髀算経に求めるなら、1歩=6尺も受け入れなければならない
つまり、短里や短歩なるものがあったと主張するなら、短尺や短寸なるものもあったと主張しなければならない
江戸と京都だと畳のサイズが違うように、九州と畿内で測り方が違った説を唱えたい
九州は里、近畿は日数
だから大和朝廷時代の隋書に倭人は里ではなく日数で測ると書かれてる
女王国までは里、邪馬台国は日数
これもその測り方文化圏に国があったと考える
沖縄説は無いの?
沖縄説はないの?、琉球王国は巫女のお告げを聞いて、王様が国を治めるという国家体制だぞ。
他の地方で、史実上にそんな体制の記録が残る所ないだろ?
>1461
皇室が女子を巫女にする斎皇女やってたよ。最も格式高いとされる伊勢神宮でね。
その巫女のお告げは天皇すら逆らえず、お告げによって国政が変わったこともあるとか。
最も、近畿地方は宗教の流行り廃りが多かったみたいで、2、300年で祭祀文化が様変わりって事が多かった様だから、卑弥呼時代からやってたというよりは、取り入れたって考えのが近い気がするなぁ。
琉球は15世紀にできた国だし、こういう歴史語る上では浅すぎる気がする。
そもそも最も有名な伊勢神宮でやってるのに、独自文化で他ではやってないとか、頭が心配になるぞ。
琉球は、源氏(皇室)の子孫(自称)で、日本仏教やってて日本語使ってた国だから。
それよりも、もっと古い沖縄文化に目を向けたげて。神様の考え方とか貴重だと思うのよね。
悪乗りで:
おお(大)きなわ(和)≒沖縄=ウチナー≒ウテナ
ヤマト≒ヤ―ムトゥ≒家元≒本家
琉球は台湾を含む総称。中国の真珠の首飾り
国そのものが九州から機内へ移ったとするのはいかがでしょうか。
その際に東(北)と西(南)に別れる何らかの禁忌(近畿)があった
木の文化圏なら移動出来るのではと思えます。
名残の神事が遷宮とか言ってみる。
九州誕生の畿内育ちの国が後の天皇制に続く大和とその支配が
及ばなかった先まで行ったのがウチナー。
※1453
時代は下るが十数カ国あった海外沿いの国がたった1つだけとは略載していないではないか
仮に瀬戸内海を航行して十数カ国を経たと仮定してもそれは省略ではないか?
というか書くべきを書かないでいることに疑問を感じないのか?
むしろ書かなければならないことを書いていないことに対する理由付けが必要なのではないか
>1464
>書くべきを書かないでいることに
たぶんこれ、牽強付会っていうんだと思いますよ。
書く「べき」こと、と判断しているのはあなたですよね。そしてあなたは魏志倭人伝の編者ではない。
前も思ったのですが、漢文読めますか?
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
この「遠絶」は其餘旁國にかかるというより、大陸から見て倭国が遠絶だからととった方がいいですよ。自女王國以北だって略載で、女王国の向こうっ側は女王国の隣だって不可得詳なんですから。どれが隣かすら書いてないですけど。まあ、次と書いてあるから、斯馬國が隣っていう読み方もできなくはないですが、国が一列に数珠繋ぎにあるわけもなく、そういう読み方はほぼ意味がありません。
つまり陳寿にとって、倭国は遠絶な東夷の国で、書けることだけ書けばいい国なんですよ。
とりあえず今のところ畿内でいいんじゃないの
ヤマト王権がもうすぐ成立するしどう見ても本命は畿内
九州説は成仏して
帯方郡~狗邪韓国(釜山?)まで海路で650km~700kmで7000里
帯方郡~邪馬台国まで12000里なら1100km~1200km
帯方郡~奴国(福岡市?)まで10600里で移動距離がおよそ950km
奴国~邪馬台国まで移動距離長くてせいぜい150km~250km
博多湾にある川はだいたい南が上流(水行可能)もポイントが高い
奈良まで後何キロあるか計算できないわけじゃないでしょ?
※1467
それ何回も論破されてるから遡ってね
管理人さんか誰でもいいけど
こういうのを一度まとめてくれないかな
>1468
論破できるわけないでしょ
算数の計算もできない小学生ですか?
※1465
「遠絶」は其餘旁國にかかるのではないか
博識な漢文解釈で教えてくれ
そもそも大陸から遠いからというのなら伊都国や奴国の次点で既に「遠絶」ではないのか?
色々な漢文解釈を読んできたつもりだが、この遠絶が大陸にかかっているという解釈を見たことが無い。
勉強のためにそういった解釈をしている学者の著書や解釈の方法を教えてぜひ欲しいね。
倭に赴いた使節からしたら報告しないのは怠慢ではないのかな?
それに書くべきことだろう。なぜなら自身で
「自女王國以北其戸數道里可得略載」って書いてあるんだから。
そして略載するといって記載していた道中の国名等を急に省きだした理由を問いたい。
これでは同一資料中に無意味な矛盾が生じたのではないか?
これは畿内に邪馬台国を無理やり比定する読み方をしたため生じた矛盾であり、その矛盾を解消するための責任が生じるのではないか?
そもそも書いていないことに対して、なぜそれが「有」と結論づけているのか?
邪馬台国=畿内の結論から生じた架空の過程ではないのか?
>1470
漢文云々の前に、あなたの言う「略載」って何なのか、きっちり定義して説明してもらえますか?
正直、あなたの相手をするのにかなり徒労感を感じています。
あなたの、「略載なのに書いてないのはおかしい」の部分こそ、「邪馬台国=九州の結論から生じた架空の疑問ではないのか?」と感じます。
ぜひご丁寧に、略載というたった2文字に込められた「書くべき記事の数々の深奥」を、あなたの定義で結構ですから、私に分かるように「九州説を正しいというためだけではない、誰が見ても「ああそうだな」と得心が行く」形で説明していただけると大変に助かります。
1467
>帯方郡~狗邪韓国(釜山?)まで海路で650km~700km
最初からデタラメ
帯方郡はどこ?
どういう航路を通った?
沖合をエンジン付きの大型船で無寄港で航行したんかwww
1465
漢文読めないでしょ?
無理しなくていいよ
距離が正しいなら畿内には着かない。
畿内説にとっては常識
距離を無視することから畿内説は始まる
ついでに魏志倭人伝の記述もほぼ全て無視することによってより畿内説は正しくなる
つまり畿内説が正しい
短里を否定してる人がいるけど短里とでも言うべきものは三国志だけではなくほかの文献でも見られる
それに畿内も九州もなく短里を否定するのならまず狗邪韓國まですら到達できない
萬二千里は5200kmにも及ぶしもはや九州とか畿内で議論してる場合ではない
直線距離ではなく道のりだというのならばわからないではないが、朝鮮南岸~対馬~壱岐あたりのほぼ直線距離の航行が説明つかない
邪馬台国は奈良であることの完璧な証明
魏志倭人伝に書かれている邪馬壱国は邪馬台国=邪馬台国の読み方は誰も正確には知らないが奈良は大和、当て字だが読み方はヤマト=魏志倭人伝に記されているものが奈良ではほとんど出土しない=魏志倭人伝は適当=邪馬台国は奈良
これは絶対の真理であり、魏志倭人伝の記述が間違っている以上、むしろ、魏志倭人伝と違う畿内こそが邪馬台国なのである。
問題は「魏志倭人伝の邪馬台国」がどこか?であって、
弥生時代の倭国ナンバー1の集落を探しているわけではない
なぜ頑なに魏志倭人伝を否定するのか?
もっと他の文献や出土品との整合性が取れる日を期待してる。
>1472
帯方郡のwikipediaぐらいみてこいよ
おおよそソウル付近といわれている
ここから韓国の南端を通って釜山へ行くルート直線距離で640kmくらい
当然まっすぐ行けるわけじゃないだろうから移動距離として650km~700kmと書いた
※1469
あーメンドクセ
>帯方郡~邪馬台国まで12000里
そんなこと書いてない。
萬二千里なのは「女王国」「女王国」の境があるのは奴国のあたりだから九州の近くで異論なし。
しかし「邪馬台国」までは水行陸行二ヶ月で奈良確定じゃボケ。
※1471
「略載」の定義を説明した後は、漢文の解釈をきっちり教えて欲しい。
「略載」とは簡略化して記載するという意味であると理解しており、決して省くという意味ではない。
「自女王國以北其戸數道里可得略載」と書いてあるとおり、女王国以北の国々は戸数道里を記載している。
記載することができうると書いており、現に記載されている。
それなのになぜ記載されていないことがあると言い出せるのか教えて欲しい。
なぜそもそも書いてないことをあるかのように言い始めるのか。
書いていないことを書いてあるかのように言うのならそれなりの根拠が必要だと思うのは当然のことだと思う。
あなたが私とのやり取りに徒労感を感じているのは何度も反論に窮した
すらすらと反論して相手の説を否定できるのなら徒労感は感じない
正しくないと自分でもわかってるからこそ、疲れが見えているのではないのか?
私はこのレス欄に途中参加だが、あなたは初めの方から参加してるようなので少し休まれた方がいいのでは?
※1474
距離が正しいなら畿内には着く。
畿内説にとっては常識
距離を重視することから畿内説は始まる
ついでに魏志倭人伝の記述もほぼ全て正確に読むことによってより畿内説は正しくなる
つまり畿内説が正しい
距離が正しいなら九州には着かない。
九州説にとっては常識
距離を無視することから九州説は始まる
ついでに魏志倭人伝の記述もほぼ全て無視することによってより九州説は正しくなる
つまり畿内説が正しい
四千里=一年行という記述もあるのにどう考えたら畿内にたどり着くのだろうか
1478
帯方郡はソウルは否定され沙里院が有力のはずだが
百歩譲ってソウルだとしてもそんな短い距離で到達すると言い張ってるということは
倭人伝にある「循海岸水行」を無視してることになる
無寄港航路して船の上で飯を食い、船の上で寝てたんかよ
問題外の妄想
最低限グーグルマップで想定される航路を試行錯誤して出直してこい
※1476
邪馬台国は九州であることの完璧な証明
魏志倭人伝に書かれている邪馬壱国は邪馬台国=邪馬台国の読み方はだいたいわかっていて福岡の山門、ついでに福岡には江戸屋敷っていう地名もある=記紀にも東遷の様子が書かれているから邪馬台国は九州、ついでに明治維新も九州が勝ったから江戸城も九州=魏志倭人伝には伊都国には行ったが邪馬台国は遠すぎてよくわからんし行ってないから里数すらもわからんけど出先機関である九州のことがいっぱい書いてる、オランダ商人も九州人とだけ喋ってた=邪馬台国は九州、江戸城も九州
これは絶対の真理であり、魏志倭人伝の記述が間違っている以上、むしろ、魏志倭人伝と違う九州こそが邪馬台国、熊本城は江戸城なのである。
地図上の距離から日数を割って計算した1日あたりの距離数など無意味
当時の倭において日数で測られる距離が現在の何キロなのか誰も正しく分からないのに、さも倭人の用いた日数の距離が確定しているかのように語る似非学者嫌い。
魏志倭人伝で畿内には向かうならば記述があるのは距離ではなく日数
もし畿内なら唐古・鍵遺跡の記述がないのはどうなのか?
建物の絵のある土器を見れば、纒向遺跡の前に唐古・鍵遺跡のほうが目につくはず
1ヶ月も陸を歩いて通らないのか?
九州の詳しさはどこへ行ったのか
漢の時代、ローマの使者だと思ってたら実は現地の東南アジアの人だったってこともあるから、九州の女王国が畿内の邪馬台国と交易してるんだよって言ったのを端折って書いたら、いつの間にか邪馬台国が全てを支配してる物語ができたんだよ。
>1483
で君はソウル~プサン間何キロになると?
1482
四千里と一年行きは別の国のことじゃないの
日数考えたら瀬戸内ではなく日本海を通ってる。
隋書は瀬戸内だから国数が増えた。
投馬国は出雲
これなら邪馬台国の北は分かるの文章とも一致する
※1475
当時の技術で長距離を正確に測定するのは不可能
例え短里で表記してたとしても大幅なズレが出るのが普通
短里は1万2千里を九州に納める為に作り上げられた単位
倭国大乱を鎮めた卑弥呼がいた女王国は九州
その後また戦乱があり、畿内の邪馬台国の女王が後継者になった
その邪馬台国が成長したのが大和朝廷
邪馬台国のルーツは日向
倭国大乱時に畿内に逃れた南九州グループだとされている
中国の人は距離が測れてすごいよな
対馬と壱岐とか朝鮮半島南部から対馬とかほぼ正確なんだぜ?
地球の丸さとか知ってたのかなぁ?
>1480
>簡略化して記載するという意味であると
たったそれだけですか? それだけの定義で、略載で書かなければならないことが分かるのですか?
書かなければならないことを決めるのはあなたですか?
そこのところを、誰にでも理解できるように、定義してもらえますか?
水行十日陸行一月は、とても簡略化して記載されていて、あなたの言う意味通りだと思うのですが、この他に付け加え得るべきことがあると思う理由は、「邪馬台国は九州に決まっている」以外では、何ですか?
※1492
目視確認できる韓国南岸、対馬、壱岐あたりが長里だとすると10倍ほど数値がぶれている件の理由を教えてくれ
いくらなんでも目視可能な範囲で10倍はおかしくないのか?
また短里としか思えない記述が各史書に度々登場する理由も教えてくれ
※1493
卑弥呼が居たのは奈良
九州にあったのは卑弥呼を推戴する国である女王国
>1496
なぜその区間だけ直線距離で考える?
目視できるのは山の上に登ったときであり地上目線では見えない
対馬海流が流れているから最短距離では進めない
瀬戸内海を水行したなら距離は分かる。
何故なら目印となる陸地を見放題だから。
なんで帯方郡から女王国までの距離が分かったか不思議だったけど星を見たんだな。
※1496
なら窓から見える山が何キロぐらいあるか大体予測してから地図で確認してみてくれ
ましてや魏使は初めて訪れる海の上
それに短里と普通の里を使い分けて表記している理由も教えてくれ
※1498
じゃあ10倍の距離を迂回して移動したという根拠も教えてくれ
あと多くの箇所で短里で表すと調度良いと思われる記述の解説もよろしく
>1502
倭人伝の里数は正しくない
それだけのこと
>あと多くの箇所で短里で表すと調度良いと思われる記述の解説もよろしく
短里とかいうトンデモ電波説は信じてない
そんなものがあったというなら主張する側が立証義務を負う
わかってるところの距離が何里かで計算できるだろうが
なんで頑なに計算しようとしない
畿内までどういう経路たどって移動距離5000kmになるか説明しろ
計算も放棄、経路も不明、5000km移動も有耶無耶
願望しか残ってないぞ
福岡から4000kmあるからなちゃんと経路をかけよ
まともな思考の人間なら帯方から1万2千里をメートルで直すと
約4800kmで赤道付近になると聞けばあっ察しとなってそれ以上追及はしない
短里なるものについてのまとめ
・短里なるものの理論的根拠を周髀算経の一寸千里の法とするなら、南北千里の地点がどこか、それが本当に実測であるか示していない
・短里なるものと歩、尺との換算の矛盾も説明できていない
・倭人伝の行程は短里なるものが丁度いいと言い張るだけで、それがどの区間で当てはまるのか1つも示していない
・ある区間は直線距離、ある区間は道のりの移動距離で考えていて統一性がなく、短里なるものがどちらで当てはまるのか示していない
・直線距離で短里なるものが丁度いいというなら、どのように距離を計測したか示していない
九州説の言う通りに1万2千里の距離をぴたりと測量できるような技術があれば
伊能忠敬の伊能図ばりの最高精度の地図が作れるはずなんだが実際はお察しの通り
魏使が距離計った方法って洛陽の都から自分たちの足で何日かかったかを
里数に換算して出した数字なのかも知れない
なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく
そして日本方面だけではなくてインド方面でも同じ現象が起こっている
>1506
お前が示すのは短里の否定ではなく5000kmの経路である
福岡ー畿内邪馬台国4000kmの間に投馬国一国しかない理由も併せて言えれば説得力も増すかもしれんぞ
算数ができないのはわかったから短里じゃないなら経路を書け
※1509
5000kmだと日本に収まらん
経路なんぞ書けるわけがない
つまり魏志倭人伝の距離の表記はかなりアバウトだから
それを辿ったら絶対邪馬台国には行き着かないという事
もともと陸続きの朝鮮半島の距離が合わないことから始まったんだぜ?
そんで一般的な里ではなく、短い里を使ったら整合性が取れたんだよ。
さらに邪馬台国は日数になってる。
中原から離れればそれだけ文明も違うということ。
短里だから、ではなく、三国志の中の流れからそうなってる。
魏志倭人伝は通称であくまで東の地域の話の中で倭人が出てるだけと分かれば問題ない。
1510
そうであれば邪馬台国が日本列島にないことになる。
今までの主張と矛盾する。
もう休んでいいんだよ。
※1507
短里も長里も関わらず当時の里表記はかなり信用度が高いものが多数あるのに何を言ってるのか?
しかも地図を作るための測量と距離を測るのは全く別物
>1509
倭人伝の里数は正しくない
それだけのことだ
そもそも中国の史書の中で
鴻門のありかをそれぞれ短里と長里で記録されて論争にもなってるからな
新豊東十七里
新豊県故城東三里
計算したらこれらはほぼ同じ距離になる
※1511
普通なら距離は適当なんだなで終わる話
実際の距離と魏志倭人伝の里数が合わない箇所はいくらでもある
※1512
なので魏志倭人伝の距離表記で邪馬台国の位置特定をしなければいい
※1507
距離はまともに測れるのに正確な地図は作れないの?
俺ならたぶん作れるけど
1時間で3000歩(現在でいう6000歩=分速100歩)で午前に3時間午後に3時間動けば6時間で18000歩=60里
一月30日なら1800里で水行7000+1000+1000+1000を合わせて11800里と12000里にだいたい合致する
一方で末蘆国~伊都国の500里は山道で時速3キロ程度としても100キロを超える
唐津からだと日田あたり
吉野ヶ里からの逆算だと平戸でもちょっと足りない
みんな間違ってる
纒向遺跡が邪馬台国であるとの真実から考えれば良い
つまり、卑弥呼の時代には纒向遺跡は太平洋にあり、その後空を飛び、今の場所に落ち着いたのだ。
そうであれば、他の国々を従えることができた理由もその霊能力で説明がつくし、九州は伊都国に任せたことも説明がつく。
さらには纒向遺跡に住居がないのも当然である。
場所は会稽の東であろう。
弥生時代の現地の纒向遺跡周辺にわずかしか集落の跡がないのも鉄や絹や矛が出土しないのも当たり前である。
卑弥呼の墓は無人島を1つ丸ごと墓にしたために畿内に移せなかったため、後に同じ大きさの円墳に造成当時流行りの方墳をつけたのだろう。
卑弥呼の時代と造成時期がずれている理由も説明がつく。
ループばっかりになって来たな
そろそろ九州派の畿内説へのいちゃもんもネタ切れか
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
だいたい魏志倭人伝には百里、五百里、千里と3つしか出てこないのに
それで正確な距離を表してるわけがない
テンプレ3
九州説「記紀に東遷したって書いてる!だから九州」
畿内説「晋への朝貢時にはすでに奈良が都って記紀に書いてる」
九州説「ぐぬぬ」
直接行ってなくて遠くて不明で不正確なのに日数ぴったり?
伊都国のことなら兵士に警備された女王の住まいは伊都国にあることになるね…
東遷は紀元前だから大和朝廷の都は奈良だろ?
大和朝廷=邪馬台国なら都も奈良なのは当たり前だし、天皇も120歳超えるよね
主張1
邪馬台国まで直接行ってないため、伝聞である日数を用いた
そのため風習その他は邪馬台国ではない
主張2
倭人は日数を用いて距離を測り、それに基づくと正確に場所が分かる
主張3
里数は適当であり、魏志倭人伝から場所を探ることは不可能
※1516
じゃあつくってどうぞ
伊能忠敬なめてんのか?
直線距離なら図る手段は多数あるが
地形を記録しようと思ったら海岸線をくまなく歩いていちいち三角測量や伊能忠敬のなんちゃらとかいう測量方法や天体観測までしなくてはいけない
お前じゃやり方を調べてからでも無理
里数が間違ってるなら、日数に切り替わる前も間違ってることになるから、そもそも瀬戸内海の出発場所が分からない
当然投馬国と邪馬壱国も分からないじゃん
倭人伝に書かれた風習、風土は倭人一般、倭国一般についての記述だ
初心者は倭人伝に書かれている風習は邪馬台国のことだと勝手に判断している
1525なんかはそういう初心者の典型
邪馬台国固有の情報は後半に書かれているが限られたものしかない
里程なんて旅程から逆算しただけだろ。
因みに朝鮮半島の国々に関する魏志の記述には「里程」なんてほぼ出て来ない。
それを考慮すれば魏の使者は最初ほぼ初めての道程を辿ったんだろう。
九州北部は割に細かく記述してるのに、畿内説の主張する大事な部分は御座なり。
魏志自体の記述の混乱からして複数の使節の報告が混合してるのはまず確か。
それで、「畿内独特」の記述がないのは文献的に致命的だろ。
畿内説は関西の過大評価の産物だ。
報告を端折るんだったら九州北部をカットして瀬戸内海から畿内の要部を記述すべきだ。
「倭」「やまと」の用例を精査しないといつまでも水掛け論だと思うが。
※1528
そんな大変ならますます古代の中国に長距離を正確に測る方法があったかどうかが怪しくなるな
※1532
うん地図は大変、距離はおおよそ正確に計算できてる
何の知識もなく駄々をこねてるだけでは恥をかくだけだからやめておいた方が良い
>1531
このコメントで首肯するのは
>魏志自体の記述の混乱からして複数の使節の報告が混合してるのはまず確か
この部分、これは私も正しいと思う。
そして、みんな忘れがちなのが、卑弥呼の238年(239年説もあり)の遣使が、107年の帥升の朝貢から130年ぶりのものだということ。この間は、漢末の混乱と遼東の公孫氏の自立で東夷と中原の往来が絶えていた。そして、その間に倭国でも、中原の王朝からのお墨付きがなくなったせいかどうかは分からないが、それまで倭王として認められていた北部九州の押さえが聞かなくなって、倭国大乱になる。
1531のいう複数の報告書のうち古典化していたもの(つまりコピペ元)は、漢委奴國王から帥升にかけての報告書が多いだろうし、倭国の風習をいう場合、九州のものが多くなるのはある意味当然。
この130年間、中原の記録に倭国は現れない。空白の4世紀という言い方がよくされるが、2世紀のことも中国の史書からは分からない。その間に、倭国の王の所在が、九州北部から畿内に移っても、中国の史書には書かれないことになる。
そして、ここまでにも、九州派の煩い人が「それなら2世紀末に纏向は大遺跡になっていなければ」というが、倭国大乱を2世紀末でその直後に卑弥呼が共立されたとして、遣使の238年までに40年近い時間がある。そして、3世紀後半には纏向遺跡は十分な大きさになっている。
これだけで判断しても、纏向遺跡に王宮を置いた大和の国が邪馬台国だと判断して、不都合はないと思えるのだが。
1530
横から失礼いたします。
一般的な習慣と地域独自の習慣の言葉の意味も分からんのか?
ますますおかしいな。
どの記述が一般的でどの部分が邪馬台国かは他の文献と出土品で研究するべき。
例えば絹が畿内で出土しないなら絹の部分は他の地域、出汁を取らないが列島の習慣ならそれは日本全体の一般的なこと。
卑弥呼の宮殿が纒向遺跡にしかなければ纒向遺跡が邪馬台国。
ご自身の想像を勝手に記述を当てはめて喜ぶのはとても可愛らしいけどね。
魏志東夷伝の他に短里と思しき里数が使われている箇所
(長江の)去北岸二里余 (付近の長江の川幅500m)
扶南國在日南郡之南海西大灣中去日南可七千里
その他多数
同一の距離が短里と長里で別々に記載されている例
斉の大きさについて
(『史記』)方二千余里
(『管子』)方三百六十里
鴻門のありかについて
(『漢書』)新豊東十七里
(『水経注』)新豊県故城東三里
※1532
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
※1531
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
このぐぬぬ君って全く魏志倭人伝に書いてないことを根拠にしゃべってるけど同じ畿内説の人間からも煙たがられてるんじゃないの?
しかもその内容がほとんど論破されるか、論戦にもちこまれて反論できないものばかり
畿内説派の中でも飛びぬけてレベルが低いから、同じ派閥だと思われたくないんじゃないのか?
※1535
>卑弥呼の宮殿が纒向遺跡にしかなければ纒向遺跡が邪馬台国。
どんな理屈だよw
距離や方角は適当に間違ってるからって言うくせに何故か30万戸だけは頑なに信じて
そういう都市がありそうなとこに比定するというね
※1539
悔しかったら反論してくれていいんだよw
距離は合ってる
方角は間違ってる
※1535
短里があったとしても魏志の距離が全部それで記されてないなら短里があった事の証明には使えないよ
逆に短里が当てはまる部分と当てはまらない部分があるのなら
たまたま短里に一致する箇所も現れるくらいに当時の1里の表記は不正確という事を証明してないか
テンプレ1
当時の陸行水行六十日で一万里ほども行けた記録はない
陸行六十日=千余里などの記録はある
テンプレ2
女王国=邪馬台国とした場合矛盾はなく、女王国=連合国とした場合多数の矛盾が存在する
戸数と面積の比率の整合性がない
卑弥呼の元に運ばれた品々が畿内では全く見つからない故不適当
テンプレ3
記紀編年をそのまま理解してるところが問題外
>1536
こういう事例を集めてくる努力は評価するけど、単に距離が正しくないってだけじゃないのか?
文献によって距離が違う事例が実際は山のようにあるが、
その中から短里の口実として使えそうなものだけを拾ってきたのではないかと勘ぐってしまう
※1528
今ならレーザー距離測定器とかあるから古代中国のよりも正確な地図を作れるだろうね
まあやるわけないけど
そもそも地図を作るときに三角測量を行うのは正確な距離を割り出すため
三角測量の知識、技術のなかった当時の中国でどうやって1万2千里に相当するような距離を
正確に計測できたと思う?
やり方を知ってたら教えて欲しい
※1546
それなら全ての里を長くとって永遠に彷徨ってろ
※1547
当時の測量の道具はあなたがタイムマシンで置いてきたのですか?
>1536
全部確認したわけではないですが、ひと目見てあれっと思ったところを
>(長江の)去北岸二里余 (付近の長江の川幅500m)
これって、1536の人としては、長江の川幅が実際に500mなのに二里って書いてあって長里なら900メートルくらいになるから短里に決まっている、というつもりで書いているのでしょうか?
これ、原文に当たりましたか? 三国志の本文に全文検索かけても「去北岸二里余」というところはありませんでした。赤壁の戦いは、正史の三国志には詳しく書いてなくて、三国志演義でいろいろ書いてあります。
で、さらに調べたところ、「三国志54 吳書09 周瑜魯肅呂蒙傳第九」の本文ではなく、江表傳曰という注記に「去北『軍』二里餘」というのがありますね。
1536の人はこれでも同じだというかもしれませんが、この書き方だと、「北軍の停泊地まで二里」ですから、「上流二里」くらいのところで火をかけたように読めます。特に短里を証明することにはならないですよね?
「真珠」 ※1134
倭が献上した 真珠青玉 の真珠は青玉とセットなのでパールかもしれない しかし
魏から下賜された 真珠鉛丹各五十斤 の真珠は 鉛丹とセットなのでパールではなく 真朱 つまり硫化水銀ではないだろうか 大きな古墳では硫化水銀 四酸化三鉛が使われ 庶民は弁柄を使った
これらは一見しただけでは判別がつかず 専門家に分析してもらう必要がある
と昔の本に書いてありました
土地の広さ測れなかったら税金も取れないし、裁判も出来ない。
距離が分からなければ戦争も出来ない。
測量出来なければ城壁や城は建てられない。
天文が観測出来なければ暦が作れない。
三国志の時代に距離が測れないほうがおかしいだろ。
※1549
そうだったとしたら距離はもっと正確に表記されてるだろ
しかもメートル法で
度量衡の統一がいかに偉大かがよく分かる
劉徽による263年頃の島の高さを三角測量で測る方法を示した図があった
魏には九章算術と海島算経があるからほぼ正確に測量できる
※1552
そのぐらいなら特別な技術がなくても測れて不思議じゃないんだよなぁ
100km超を正確に測るのは難しいが
三国志の頃には既に円周率も判明してた
これなら円墳の直径も出せる
※1557
劉徽なら余裕
>1536
>扶南國在日南郡之南海西大灣中去日南可七千里
これは梁書卷五十四 列傳第四十八 諸夷の扶南國の項ですね。扶南國は、プノンペンとされていて、中国世界から見て南の果てに近いところです。
そしてこれは、1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」や
1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」の例そのものであって、短里であるとするより、遠くのことはアバウトの方が分かりやすいですよね。
これも「短里が確かにある」という挙証にはなっていませんよ。
※1545
テンプレ1
陸行水行60日で倭国の都につく
倭国は会稽の東にある
奈良までの距離が会稽の東までの距離に一致する
テンプレ2
女王国の境は奴国、邪馬台国は投馬国の先。女王国=邪馬台国は矛盾。
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
テンプレ3
記紀編年だけではなく記紀記述をそのまま素直に読んでるのが畿内説。
都合のいいところを都合のいいように読んでるだけなのが九州説。
日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている。
また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている
これのことかな?
魏志倭人伝の卑弥呼の記述から神功皇后を卑弥呼にするため書いたから、素直に読んだら一緒になるの当たり前じゃない?
当時の人にとって邪馬台国が帯方郡の1万2千里だろうが1万2千1里だろうが一緒だけど畿内説にとっては死活問題だよね
1557
当時の方法が書かれた本は無視ですか?
※1560
短里としか思えない箇所は短里だと距離がほぼ合致してくるけどな
そこはどうなのか?
長里とするといい加減だが短里だと距離が合致する
これは偶然か?
それに別々の資料でそれぞれ長里短里で記されている例を見てくれ
これはほぼ完璧に距離が合致する
しかも洛陽と離れているというのはこの例では当たらないし
これも適当だというのか?
≫1557
確かに当時、魏にとって三角測量も平方根も円周率も直交座標系も特別な技術じゃないわ
1532は魏の測量技術の前に敗北
以後彼の姿を見たものはいない
※1561
全く読めてないやん
テンプレ1
長里の洛陽から会稽までの距離と短里での帯方群から女王国までの距離を同じ里と錯覚して「計算」した結果そうなったまで
テンプレ2
奴国は女王国の境ではなく女王の境
女王の支配領域の境という意味である
女王国は邪馬台国の代名詞としてしか使われていいない
テンプレ3
記紀編年をそのまま読むのはアホ
これが誇張されて引き延ばされているのは周知の事実であり、考古学的事実と一致しない
※1562
九州説「東遷は記憶に基づいてるから正確!でも神功皇后=卑弥呼は無視しろ」
都合良すぎィ!
卑弥呼の時代に三韓ないから神功皇后は卑弥呼ではないと知って落胆した
※1568
テンプレ1
洛陽から会稽までの距離なんてどこに書いてるんですか?
テンプレ2
邪馬台国は女王の都するところとしてしか使われてません
テンプレ3
じゃあ東遷も誇張でそのまま読んではいけないよね
はい論破
※1567
ロクな反論ができなくて悪口しか言う事の出来なくなった九州説の哀れな姿を
皆様ご覧下さい
1570
神功皇后=ヒミコ+トヨ+?
だとすればなんとかいける
1572
お帰り!
当時の測量について何か分かった?
>1536
>斉の大きさについて
>(『史記』)方二千余里
>(『管子』)方三百六十里
>鴻門のありかについて
>(『漢書』)新豊東十七里
>(『水経注』)新豊県故城東三里
これは、1536の人は、史記(短里)、管子(長里)、漢書(短里)、水経中(長里)といいたいのだと思います。
このうち新豊県の分をググって見ると、漢書とあるのは水経注の中の記述で「按《漢書注》:鴻門在新豐東十七里」「今新豐縣故城東三里有」とあって、水経注の編者が漢書の記述がおかしいと言っているものです。そしてされにググると、漢書の記述には元ネタがあって、「晉地《史記·項羽紀》兵四十萬在新豐鴻門。《孟康註》在新豐東十七里」という史記の記述です。
それぞれの成立時期をざっくりで並べると
長里 管子 前4世紀?
長里 秦による度量衡の統一(秦の統一 前221年)
短里 史記 前1世紀
短里 漢書 1世紀 内容は史記のコピペ
長里 水経注 6世紀
となります。
つまり史記の頃には、短里の記述もあるということが分かる「だけ」ですね。
史記の成立は秦の統一後(前漢の時代)ですが、その頃には統一前の記録も多かったのでしょう。
こうして見てくると、1536に挙げられた例では、魏志倭人伝の時代に短里が使われていたとする理由にはならないですね。
どうぞ、ご確認ください。
短里が存在することは確定している。これに異論を挟む人はいない。
あとは魏志倭人伝に短里が使われている箇所があるか否かが問題となる。
今までのレス読んだ?
※1565
>短里としか思えない箇所は短里だと距離がほぼ合致してくるけどな
>そこはどうなのか?
>長里とするといい加減だが短里だと距離が合致する
>これは偶然か?
ヨコレスだが、こういう主張はよく見かけるが具体例で証明したのを1度も見たことがない
①倭人伝のほとんどすべての行程において、短里だと距離が合致する
②倭人伝の行程において、いくつか(1つか2つ)の区間は短里だと距離が合致する
この①②のうちどっちを意味している?
①であるなら短里の存在を認めるべき
②であるなら、「倭人伝の里は正しくない」で終わり
①を主張したいなら、それぞれの国は現在の地名でどこであり、その区間の距離は何kmになるときちんと示さんと証明にならない
1576
典型的な短里厨
頭が脳タリン
>1536, 1565
原文ベースでほぼ論破できたと思いますが、まだ例を挙げるなら挙げてください。
1576にあるように、秦の度量衡の統一前には地域差、地方差が大きく、短里があったこと使われていたことを争う人はいません。ただ、魏志倭人伝を短里で読むことの妥当性が問題にされているのです。
そしてその妥当性の判断は1578の通りです。
言いたいことがあればどうぞ。
>1579
脊髄反射していますが、1576は短里厨ではなく「短里が倭人伝で使われていることを示して見ろ」と言っているんですよ?
『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝の弁辰伝・辰韓伝も面白いね
※1563
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
1579
お前は論文とか苦手そうだな
結局どこまで行っても九州に邪馬台国があったはずだからそれに合わせて
万二千里は一里77mの短里で換算すべきであるという牽強付会の域を出ない
短里説は20年前にとっくに破綻している
一万二千里を里と短里の両方から場所を探して発掘することは悪いことじゃないと思うけど
ぜってー見当違いの場所掘るハメになるぞ
魏志倭人伝に出てくる距離は不正確だから
>1586
赤道を越えて掘りに行くのですね! ムネアツです!
※1586
魏志倭人伝「邪馬台国が出てくるとは書いてない」
※1571
テンプレ1
調べたらでてくるよ
テンプレ2
女王国が連合国であるという記述は全くないし、そう見ると矛盾するのは何度も言った
戸数、出土品に関するはんろんは?
テンプレ3
資料の批評というものが全くできないレベルというのが露呈したね
ちなみに4世紀ごろに九州の文化や物が畿内に流入している考古学的事実がある
短里厨は倭人伝は短里だと言い張っただけで、1575、1578、1580で論破されて結局トンズラ
1575
短里はあったとする説明ですね。ありがとうございます。
※1575
やはり短里と長里は時代や場所により併用されていたようだな
※1350
まず岸は軍であった、これは記憶違いだったので訂正させて頂く
黄蓋は南岸から近づいて途中、中江を経てるのにか?
それに二里よりさらに離れた距離から「降」の声を発したらしいが1kmを超える距離から声が聞こえるのか?
これに関しても回答を求める
≫1575
少なくともそれだけの記述があれば短里が存在していたと疑う人はいない
※1350じゃなくて1550の間違いです
※1578
横レスだが帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐が短里だと現在の位置関係と合うから①でもいいのでは?
一つ前の記事より。
※1590
テンプレ1
言えないんですね
テンプレ2
女王国が邪馬台国の代名詞という証拠はどこにもない。女王の支配領域の境ということは女王国の境ということで奴国の隣であり、投馬国の先にある邪馬台国とは別。
テンプレ3
お前らがやってるのは批評ではなく都合のいい曲解。具体的にどうぞ>考古学的事実
※1575
つまり短里が実在したということはもはや疑いの余地はなく同時代に使用されているかどうかが問題ということだね?
なら三国志韓伝、方可四千里はいかがかな?
他にも江東の広さについて
(『漢書』)「方千里」
(『三国志』)「方数千里」
天柱山(霍山、約1800m)の高さ二十余里
これも論破()してくれるならまた次々といくらでも例を出すのでコンクラーベでもするか?
短里だとについて三国志でも蜀では長里しか使われておらず、魏史では後漢滅亡後は短里を、呉史ではよくわからないが散見される
>1597
一つ前の記事が正しいか検証しましたか?
例えば帯方郡がどこで狗邪韓国がどこで、その間の距離がどのくらいかを示すことが必要
ちなみに一つ前の記事は短里があると仮定して77×7000で計算した数字を載せていただけ
1575は「短里」という言葉を使っているのは不適切だろうな
「統一される前のバラバラの里」と言うべき
※1598
テンプレ1
君はレベルが低いから自分で探しなさい
勉強になるよ
テンプレ2
全く反論になっていない
自分論の根拠こそ証明できてないことが理解できていない
そしてその証明できてない結論を根拠にして論を唱えてるので目茶苦茶になってることも理解できていない
テンプレ3
それまで九州で見られていて畿内にはなかった剣矛勾玉土器や墓の副葬品の文化が4世紀前後から畿内に流入した
出土状況がどうだとかは自分で調べろ
※1601
周王朝で使われていた里(短里)で正解
これはこれで統一されておりバラバラではない
>1575.1578.1580.1591
魏志倭人伝にも短里が採用されていた箇所があることが明らかになりましたね
これぞまさしく証明です
この結果に異議を唱えるのは難しと思います
魏には三角測量の技術があり、そこで記された里は約77Mとして良さそうだな
1602
テンプレ1
降参するってことですね。
テンプレ2
反論できないってことですね。お前の論は証明できてるんですか?
テンプレ3
降参するってことですね。
>1592
「短里が、秦の始皇帝の度量衡の成立前には使われていた地域がある」 というのと
「度量衡の統一後、400年後の魏志倭人伝を短里で読むのが正しい」 はぜんぜん違います。
下の鍵括弧を論証してください。話をずらさないでください。話題そらしは、論拠の薄い側の典型的な対応です。
1536は一番自信が持てる例を出してきたのでしょうが、それがまったく根拠になってないんですよ。その意味をよく考えてください。
>1594
>これは記憶違いだったので
本当に記憶違いですか? 原文にあたったことがありますか?
1550でも書きましたが、赤壁の戦いの細かいことが書かれているのは、正史の三国志ではなく「三国志演義」です。
>黄蓋は南岸から近づいて途中、中江を経てるのにか?
こんなことは正史の三国志には書いてありません。「演義」は物語ですから、史実ではありません。それを根拠にするというのは、逆に根拠がないといっているのと同じですよ。
もしかしたらこれのことかなと思うのは、1550に挙げた「江表傳曰という注記」に「中江舉帆」とありますが、「江(長江)の中ほどで帆を挙げ」ほどの意味でで東南の風が強かったので、それを帆に受けてってことですね。川を渡っていくのですから、どこかで川の中ほどは過ぎるでしょう。「江表傳」は4世紀に死んだ虞溥という人の書らしいですが、信頼性は不明です。
1604
吠えてるだけ
今までに確認されたこと
・始皇帝が度量衡を統一する前にはバラバラの里が使われていた
・短里という距離単位が倭人伝に使われていたと主張するならそれを証明しなければならないが全く示していない
現時点で言えることは「倭人伝の里は正しくない」
それだけ
実際の移動距離÷掛かった里数=?m/1里
伊能忠敬は1歩を正確に決めて2つの地点を何歩歩くかで正確な地図を作った
当時の人は必ずしも同じ歩幅じゃなかったからずれがあるのはしょうがない
各国の移動距離から1里を割り出してどこが短里でどこが長里か説明してみろ
長里だと思える場所は1つもないがな
最短距離で書くと
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
平均87m/1里 移動距離が倍掛かったとしても170m、1里400m~500mという長里説にはずいぶんと差が大きい
場所が違う移動距離が違うというなら示せ
ちなみに不弥国から邪馬台国まであと1300里、最短113km倍にしても226km最短500kmの奈良は無理
近畿説を推すと数字が見えなくなるのか?
投馬国・邪馬台国へは2カ月かかる長距離移動、荷物も多く移動速度はずいぶんと遅くなった可能性が高い
地図なし、道なし、牛馬なしすべて人力で休憩を取りながらなら、なおさら移動距離は短かろう
>1604
ちょっと待て。
1575.1578.1580.1591で話題になっている1536の例に、三国志の部分は1つしかなくて、それも倭人伝でも魏志でもなく呉書の注記で、それはまったく当てにならないって書いてあるんだぞ?
後は、梁書、史記、管子、漢書、水経中で、魏志倭人伝の例など一つもないのだが?
>1599
>なら三国志韓伝、方可四千里はいかがかな?
>(『漢書』)「方千里」
>(『三国志』)「方数千里」
これ全部、1560でも書いた、1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」の例だぞ?
千里単位のは「白髪三千丈」と同じで、「たくさん、多い」であって、定量評価に値しない。それをいくら出してきても無駄。
>天柱山(霍山、約1800m)の高さ二十余里
原典を出してくれないと、論評しようがない。そして、山の高さは「どこ」から図ったかで変わってくるから、原典を見ても判断できない可能性が大きい。
結局、短里であると挙証できる例を出せていないところを考えてくれ。
※1599
短里に合致してる所だけポロポロと出されても何の証明にもならないよ
1609
倭人伝の記述「循海岸水行」も無視、対馬海流が流れてることも無視して
自分に都合のいい数字を並べてるだけだろ
一つ一つ片付けていこうか
狗邪韓国まで660kmって無寄港で航行したのか?
陸からどのくらい離れて航行したと想定している?
飯はどうやって食べたと考えている?
短里が魏志倭人伝で使われていると挙証するには、
1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」や
1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」
に対して、明確に反論できないといけないのは分かりますか?
そもそも魏志「東夷」伝の時点で「洛陽から地方へ行った先」なので、アバウトでいいかげんなんですよ。そうでないことを立証してください。
適当にすぐ論破されるような数字を出して、挙証責任を相手に押し付けて勝った気になっても無駄です。
丹は水銀だから危ない、だから後漢書では訂正されてるって散々言った挙句に逃げたのを忘れていませんよ。
こうしてみると100里500里1000里の中から近い値を選んで報告書に書いたのかもね
一里単位での報告は求められてなかった可能性がある
目視できる距離はだいぶ正確なのが印象的だね
卑弥呼の墓の100歩も100がキリのいい数字で単に大きいことを表すだけで、正確な大きさじゃなかったのか!
謎が解けた
狗邪韓国まで660kmって空を飛ばないと不可能な数字だわ
こういうインチキしてまで短里だと強弁したいんか
>1613
最短距離だと書いてある
「地図 距離」でググれば距離を測れる地図が出てくる
ソウルから韓国南端、プサンへ行くルートを最短でとると650km前後ジグザグ頑張れば4倍かかるルートがあるかもしれん頑張れ
※1609
これで魏志倭人伝の里数は1里50m~200mまで幅がある事がわかる
1里の記述は不正確という畿内説の主張を証明してくれたわけだご苦労様
なので三角測量なんて行われてなかったわけだし
帯方より1万2千里は短里で北九州を正確に示していると言う九州説の主張は
事実ではないと証明された事になる
狗邪韓国まで行く道程は南に行ったり東に行ったりとわざわざ書かれてる
別に里の長さの主張はどっちでもいいけど、原文の表現まで無視しなくてもいいのでは?
1619
ついにあの畿内説さんが短里を認めました、歴史的快挙ですね
素直になれてよかったですね
今まで長里だから畿内と言っていた人がみんなの議論で短里を受け入れた瞬間に出会えて感動です
これからも疑問点はみんなで話し合いましょう
※1621
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
お疲れー
>1611
自己レス&>1599
>天柱山(霍山、約1800m)の高さ二十余里
調べたよ。
三国志17 魏書17 張樂于張徐傳第十七
灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹、步徑裁通蘭等壁其上
これのことだな?
前に、長さは寸・尺・丈、距離は歩・里って書いたけど、高さは尺だ。
つまり、
灊中に天柱山あり (その道のりは)高峻にして二十餘里 道は険しく狭い だな。
「高さが長里で20余里だったら計算が合わない」って考えたんだろうけど、そもそも里と書いてある時点で山の高さじゃない。
またこれを書かなきゃいけないのか。 漢文読めますか?
>1619
伊都国を糸島市中心部、奴国を福岡市中心部とした場合の話、伊都国が東にずれていた場合
そこまで大きくずれてはいない
長い距離の区間と短い距離の区間の差が大きいからと同じに扱ってはいけない
あくまで参考値、全体の平均では短里に近い数字がでる以上それを否定してはいけない
4倍かかるルートがあるなら別
距離が分からなきゃ移動にかかる日数が正確に分からないから、水と食料の用意が出来ない
1センチ単位で正確にわかる必要はないが、使節が旅するなら予算も用意できない
魏人は距離が分からないって喜んでる人は旅行の用意とかしたことないかママに全部してもらってたのかなぁって思う。
万二千里は短里で北九州を示している
なぜなら万二千里を短里に直すと北九州になるからだ、と
こういうのを循環論法といいます。
※1619
やっぱ長里じゃないじゃん
※1621
なら九州説は1里77メートルじゃないって事を認める事になるんだが?
畿内説よしては魏志倭人伝の1里は50~200メートルになり不正確というのを
認めるのに何のやぶさかもない
少しは頭を冷やそうぜ
>1629
短里でもないですね?
つまり、アバウトでいいかげんってことです。
短里で読めばばっちり、っていうのが九州説の人の言い分だったのをお忘れですか?
1618
結局何も証明できずに言い張るだけだな
少なくとも自分でグーグルマップいじくって試してみれば660kmなんて不可能だとわかるはずなんだがな
1歩が25.5センチって説もあるんだ
対馬と壱岐は琵琶湖みたいに移動しないからその間の距離はある程度信用してもいいのでは?
短里?長里?南が東?実は邪馬台国に行ってなかった?纏向は大きいから邪馬台国?箸墓以外に卑弥呼の墓っぽいのが見つかってないから卑弥呼の墓?邪馬台国はヤマト政権に繋がるはずだから畿内???
東遷は弥生初期だから???
よく考古学的に畿内であると言われているけれど考古学的にとは何かよくわからん。
もう、このコメント欄だけで「魏志倭人伝の旅程は短里(1里=77メートル)で正確に書かれていて、それで読めば九州で決まり」っていうのが「虚妄」だってはっきりしたな。
1633の人は短里厨の九州説の人ですか?
短里のことは風向きが悪くなったので、別の方向に話を展開するんですか?
20年前からはっきりしてるんだけどね
※1611
定量評価に値しないというのは暴論である
これはそこまでの精度は求められていないか測る必要がないか測ることができなかっただけで、少なくともその範囲においてある程度の信憑性があるではないか
それを一概に信憑性なしとなぜ切り捨てるのか?
ただ逃げてるだけ
さらに、これは定量ではなくただ同じ場所を説明するのに里数が変わってることは間違いようがない。
(『魏志第十七張遼伝』)成遂将二其衆一就蘭転入二潜山一潜中有二天柱山一高峻二十余里道険狭歩径裁通蘭等壁二真上一
まあ麓からだろうな。仮に麓だろうが海抜であろうがなんだろうが二十余里が長里ならエベレストすら霞む超巨大山脈になるのでこれは長里ではないのがわかる。
※1614
君は漢文の解釈も教えてくれよ
都合の悪い所は全スルーはよしてくれ
他にも色々スルーしてくれてるところを答えてほしいね
丹土の件はありがとうね、勉強になったよ
すぐにつぎの話題になったから御礼を言うのを忘れてたよ
>「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」
例文きちっと出し欲しい
私は原文を載せるようにしているのだから
1つや2つだけでなく複数出してくれないと意味がないということは伝えておく
>「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」
上に同じ
※1599もちゃんと答えてくれよ
きちんと答えてくれたら次の例を出すよ
>1624
1609で
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
>奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
って書いたのあなたですよね?
>長い距離の区間と短い距離の区間の差が大きいからと同じに扱ってはいけない
上に挙げた例は、すべて短い距離の区間ですよね? それでも4倍違いますよね?
そもそも長里と短里って言ってるものの差って、4倍くらいじゃなかったでしたっけ?
1635
有機物は発掘されないと主張されてた方ですか?
お久しぶりです
>1637
1623を読む前に返事してしまったのですね?
もう一度1623をお読みください。
長里でも短里でもないなら、ますます卑弥呼の墓の大きさも分からんな
※1625
食料や水なんてもん行く先々で倭の人間が用意するに決まってるだろ
魏の使者が飢え死にしそうになってるのに倭人だけ何かムシャムシャ食ってたら魏と戦争になるわ
まず、短里云々は置いといて、
長里はありえないということが確実という認識でいいですか?
※1642
帯方郡から狗邪韓国の間を一食ごとに屋台を用意する倭人を想像して笑った
朝鮮半島沿岸に倭人の補給スタンドがあればそれを目印に魏の使節団は正確な里数もなしで到達できるなって思う
もしかして瀬戸内海にも倭人スタンドが存在したのかなぁ
投馬国(広島県・ともの浦)がそうかも知れない
>1643
倭人伝の里は正しくない
それだけのこと
>1638
伊都国を東に10kmずらせば
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 35km/500里=70m/1里
伊都国(糸島福岡寄り)ー奴国(福岡市) 10km/100里=100m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
となる
国の位置はあくまで推定
あくまで大体の場所と距離をとっただけ個別でみれば大きな差が出る可能性は否定できない
重要なのは全行程での平均が87m/1里であること
末廬国(唐津)ー不弥国(宇美)の平均も78m/1里←重要
末廬国(唐津)ー不弥国(宇美)の距離は変えてない、伊都国の位置をずらしただけ
末廬国(唐津)ー不弥国(宇美)の平均は変わってない
700里の平均から大きくずれていたなら国の位置が大きくずれていたと考えるほうが妥当
この場合
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)の平均が200m/1里なら修正不能だったけどね
「地図 距離」でググってじぶんで不弥国まで距離測りな
>1630
ソウルー珍島ー釜山で距離測ってから言え
しかし1里が50m~200mとすると
万二千里は俄然畿内を示してる可能性も出てくるな
もしかして前回と今回の記事読んでない人がコメントしてるの?
>1647
1626の
万二千里は短里で北九州を示している
なぜなら万二千里を短里に直すと北九州になるからだ、と
こういうのを循環論法といいます。
は読みましたか?
1609 短里は正しい、そのために実際の距離に当てはめて見ればこうだ
↓
1638 4倍くらいずれているんですけど、それで正しいっていえますか?
↓
1647 伊都国を「10キロずらせば」正しい
それって、自分の願望に合わせるためのデータ修正ですよね
1626で言う循環論法と同じだって分かりますか?
九州説の短里説に対抗して畿内説は1里50m~200mのアバウト里説を採用しよう
これなら魏志倭人伝の距離表記と現在の地理を完璧に合致するし
1万2千里を畿内に持ってくることもできる
けどまあ邪馬台国の特定には使わんけど
>1637
>丹土の件はありがとうね、勉強になったよ
やっと認めてくれましたね
ならば私が1150でした質問
(九州で水銀朱の採掘が知られておらず、九州で使われている水銀朱が大陸からの輸入品だという分析結果があって)九州と畿内は別の国(畿内での産物は九州にもたらされない)なら、魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?
の答えは、「書かれないだろう」ですね?
1159で私が書いたように
「畿内説は、九州北部まで女王国の範疇だから、九州の事物も倭人伝に記載されるだろうといっているのですよ。
九州説は、畿内は別の国だから纏向遺跡は違うという立場ですよね? ならば畿内の産品は倭人伝に記載されないというのが、九州説の立場ですよね? 畿内は倭国に入れないのですから。」
というところで、九州説の立場は成り立たないということでいいですね?
後漢書で訂正されることなく、倭国の特産品として其山有丹と書かれているわけですから。
せっかくなので
自女王國以北其戸数道里可得略載其余旁國遠絶不可得詳
の解釈を書いておくと、前にも書きましたが
自女王國以北 其戸数道里 可得略載
其余旁國 遠絶 不可得詳 が対となる表現です。
で、前半部は、自女王國以北が修飾語(場所を示す副詞)、其戸数道里が主語、可得略載が述部(動詞)です。
1637の人は自女王國の自(より)が「起点を示す」ことが読めなくて、925で「わからないのは女王国より北にある国々ね 女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ」と訳の分からないことを書いています。女王国より北の国々は分かっているから略載できると書いてあります。
前半部は「女王国より北の(国)については、その戸数や道里を略載することができる」ですね。
後半部は、其余旁國が修飾語(場所を示す副詞)、遠絶が修飾語(理由を示す副詞)、主語が省略されて、不可得詳が述部(動詞)です。
後半部の意味は「その余の旁國については、遠絶なので、つまびらかに得る(知る)ことはできない」です。直接的には「遠絶」は、不可得詳にかかります。
解釈の上で問題になるのは、其余旁國が遠絶なのは「どこから」なのか、なんですよ。
女王国から遠絶というのは、女王国に属しており、其余旁國を挙げたあとに、此女王境界所盡、女王国の境界の尽きるところとあるので違います。そもそも遠絶というのは、連絡も絶えるほど遠い訳ですから、同じ倭国の中で遠絶という言葉は使いません。絶海の孤島というときの絶です。なので、九州の伊都国辺りからでも、遠絶とは書かれません。特に九州説の立場では、女王国は九州で女王国の向こうも当然九州ですから、遠絶じゃないですよね。
なので、この遠絶は結局は「大陸で三国志を書いている陳寿の調べの付く範囲」からは遠絶ということになります。だから、遠絶っていうのは、その余傍国にかかるんじゃなくて、と書いたんですがね。
お分かりいただけたでしょうか?
※1607
三国志演技に書かれているのは江表伝から引用された文じゃないか
江表伝自体は西晋の時代の書物なので使用例にちょうど良い
※1623
次は君が反証してくれる番だね
色々調べてたら海抜で1400mぐらいで平地からの高さは500~600mぐらいが多いらしいね
麓と頂上の2点間の距離が長里に相応しいと計算してくれ
道のりなんていうのは冗談じゃない
なぜなら里表示は長里短里に関わらず2点間の距離を表しているから
口だけで数字は出さない
こちらが出した数字は都合が悪くなると検証するに値しないと言うだけ
>1647
もう一つ言っておくと、
>不弥国(宇美)
これって、結構疑問が多い比定地ですよね。
現在、ほぼこれでよいだろうと定説化しているのは
對海【馬】國 対馬
一大國 壱岐
末廬國 松浦(唐津)
伊都國 怡土(糸島)
奴國 儺縣(福岡)
までです。
この範囲で
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
これの伊都国を10キロ動かしたら、何でも言えると思いませんか?
不弥国が付いているともっともらしく見えますけど、ほぼデータ捏造に近いですよ。
1653
訳は
単に女王国の先は分からない
だけでよくね?
使節が行ってないから狗奴国のことやその先は分からん、距離も戸数も分からん
ただし、その先に住んでるのも倭人だし、国もあるよ
ぐらいの意味だろ?
もし編者の意見なら注釈とつけるから本文なら報告者の話と見るべきじゃない?
あれだけ魏志倭人伝の距離は不正確って熱く語ってた人達が正確じゃないならおかしいとのコメントをしてるのが古代史マジック
※1652
>九州で水銀朱の採掘が知られておらず、九州で使われている水銀朱が大陸からの輸入品だという分析結果があって
これ思うんだけど九州に大陸産の水銀朱が出て畿内から出ないというのは致命的ではないか?
大陸から賜って女王に献上されるはずの水銀朱がでないというのはどうしようもないだろう
当時の倭は縄文時代から交易が広く行われており、九州と四国や吉備などは交易が行われていた
>九州と畿内は別の国(畿内での産物は九州にもたらされない)なら、魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?
答えは書かれますだね
当時の倭は縄文時代から交易が広く行われており、九州と四国や吉備などは交易が行われていた
3世紀は畿内との交易の遺物がほとんどないが、水銀朱が出る四国などは別
一切合切スルーして答えられない以下の質問に答えてくれ
女王国連合7万戸のという少なさ
瀬戸内航行の記録がないこと(すぐはぐらかす)
畿内から中国朝鮮の遺物の出土物がほぼないこと(女王の下に間違いなく運ばれている)
九州からきた遺物の出土物がないこと(市もあり租税も科している)
まだまだ答えてもらってないことが多かったけどもう忘れたわ
論理的に答えてくれ、すぐに逃げないように頼む
※1657
タダのいいがかりやんけ
>1654
1623を読みましたか?
中国では、道のり(距離)と、長さ(高さを含む)は別の単位を使うんですよ。
長さ(高さを含む)は、寸・尺・丈を用います。だから、「アルプス一万『尺』」なんですよ。
ピラミッドの高さも「金字塔从基底到顶点有142公『尺』高 」です。
距離を測る『里』で、高さを表すことはないんです。
1599で
>天柱山(霍山、約1800m)の高さ二十余里
と書いたのはなんだったんですか?
1654で
>色々調べてたら海抜で1400mぐらいで平地からの高さは500~600m
そもそも数字が違うじゃないですか。ごまかしに走っているのが見え見えですね。
人にものを尋ねるなら、挙証責任を相手に投げずに、自分でこうだからと相手に分かるように説明するのが筋だって分かりますか?
>なぜなら里表示は長里短里に関わらず2点間の距離
これのソースはどこにあります?
里表示は長里短里に係わらず「距離」というのは同意です。
だから「高さには用いない」
これはいいですね? この時点で1599でのあなたのご下問は破綻しています。
そして、「2点間」の距離、というのはどこから来たのですか?
灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹、「步徑裁通蘭等壁其上」
とあるのですから、普通に読めば「その山を抜ける(越える)のに高峻な道で二十餘里かかる」ってことです。
>1650
個々の国の位置はおおよその位置、100里の距離がずれてたから全体がおかしいは暴論以外の何物でもない
全体の平均から大きくずれているなら場所が正しくない可能性が高い
全体で1里87m、陸路のみでも1里78mになること重要なのはここだけ、ずれて困るのは各々の国がこの道中になく全く違う場所をさした場合距離もろもろが変わってくる
場所は推定、距離は最短にすぎない、揚げ足をとるのではなく、この4倍かかるルートと国の場所を
書けばいい
>1657
>あれだけ魏志倭人伝の距離は不正確って熱く語ってた人達が正確じゃないならおかしいとのコメントをしてるのが古代史マジック
また、ごまかしを。
もともと、
畿内説は旅程記事は正確じゃない(距離を含む)
九州説は魏志倭人伝は短里で読めば正確に読める
という主張です。
短里なら正確と言っていた九州説に対して、そもそも短里なんてない、挙げてる数字も正確じゃない、と批判が殺到している状態です。
1657
里数は短里でほぼ合致するのにいい加減といって無視するが、日数は正しいようだ
日数も十日単位でいい加減と言わないと矛盾すると思うが
畿内は国産の丹で九州は大陸の丹
畿内の丹は九州まで流通してなかった
本当に女王の範囲なの?
確かに日数も丸い数字だね
明らかに操作してる
アフリカのある民族の数え方の1,2,3,たくさんみたいなもんだね
だから水行と陸行も「なんか遠いわ」って意味だとしたらありえる
※1653
その解釈をしてる人を見たことがない
あなたが間違っているのではないか?
学者の本でも何でもいいからそういう解釈をしている例を教えてくれ
まさか世界で自分だけが正解で、他は間違っているなんて傲慢なことは言わないでしょうから
遠絶なのは使者からの報告であって筆者は関係ないだろう
使者は行ってないし調べてもない、女王国へのルートから遠いから遠絶というのは普通に成り立つ解釈ではないか
それなら魏志が通って報告した国々は遠絶ではなく、報告しなかった場合は遠絶になるのか?
なぜ邪馬台国が方角も距離もおかしいのに畿内にあると推定されたのか
畿内の勢力が日本を統一したこと、昔は今ほど発掘が進まず畿内以外が栄えた証拠が乏しかったこと
現在は発掘も進み九州、出雲、吉備、関東、東北と様々な地域が栄えていた証拠が続々とでてきており
倭人伝通り不弥国から南に行っても大きな勢力があり、十分に邪馬台国の可能性は高い
ではなぜ畿内にこだわるのか、自説を曲げたがらず古い価値観にとらわれてしまった権威だけはあるもはや学者とはいえない老害ともいえる教授たちのせいなのです
何の証拠もないのに纒向・箸墓と念仏のように唱えるだけの畿内説信者に成り下がってしまったのです
彼らの命数が尽きたとき何の証拠もない畿内説は終焉を迎えるのです
畿内説の根拠は距離が合っていて方角がまちがっているという主張だった
畿内説は短里と日数が正確じゃないといけない
もし短里も適当で日数も信用できないなら…
邪馬台国は出雲か土佐
※1662
せめて距離だけでも正確じゃないと畿内説にならない
記事にもあるでしょ
>1661
すごい暴論いただきました!
もうコメ番追うのも疲れたので書きませんけれど、私が前に「奴国と不弥国の間が100里で、短里(75メートル)だと7.5キロで10キロもなくて、国と国の間としては近すぎませんか?」と書いたのは覚えてませんか?
「奴国と不弥国の間は7.5キロしかないけど、伊都国は10キロ動かすよ、でないと短里に合わないからね(テヘペロ)」ってすごくないですか?
>全体で1里87m、陸路のみでも1里78mになること重要なのはここだけ
これって結局、旅程記事の中で「末廬國 と 奴國 の二点間距離、1箇所だけが、短里に合う数値になる」ってだけなんですけど。
しかもあれだけ、「地球の大きさを測った計算でも短里は75~77メートルで一致している」といっていたのが、「全体で1里87m」って10%以上ずれているんですが?
※三角縁神獣鏡とか前方後円墳があるよ
1653
解釈は自由ですね
それで論文書けば
>1658
>女王国連合7万戸のという少なさ
>瀬戸内航行の記録がないこと(すぐはぐらかす)
>畿内から中国朝鮮の遺物の出土物がほぼないこと(女王の下に間違いなく運ばれている)
>九州からきた遺物の出土物がないこと(市もあり租税も科している)
この辺は、私以外の人も何度も何度も答えてるんですけどね。あなたが認めないだけで。
また時間のあるときに、ゆっくり書いておきますよ。
最初のだけ少し書いておくと、7万戸を女王国「連合」にしたくてたまらないのは、あなたですよね。
私は、7万戸で4人家族で28万人って言うのは盛りすぎだと思っています。
纒向遺跡の最大の根拠である距離の正しさは放棄しちゃいかんでしょ
正確ではないけどとりあえず近すぎて九州はあり得ないということぐらいはわかる
↓
遠すぎるので東北が消える
↓
当時の大した遺跡がないので関東も消える
↓
女王国の東(北)には倭種がないといけないので北陸も消える
↓
狗奴国の分まで考えると静岡も消える
↓
中国四国近畿愛知が候補
↓
のちにヤマト王権が発足する近畿がダントツ優勢
※1675
いつから畿内説は魏志倭人伝の距離は正確だって主張してた事になってるんだよ
むしろ九州説が短里で正確に記されてるってさんざん言ってただろ
>1675
水行10日陸行1月から、どうやって「正確な距離」を出すのか?ってことですよ。
旅程としてなら、そこそこでしょうが、距離としては「計算できない」と思っています。
日本海を通ったから瀬戸内海の記録がなくて当たり前
隋書はわざわざ魏志と違うことを表してる
1676
北関東には大きな遺跡あるよ
濃尾平野にも大きな遺跡あるよ
※1680
それなんて遺跡
>1671
10%の誤差なら4倍差よりもずいぶんと小さい
1000km行くのに4倍かかるなら福岡から奈良まで移動距離は2000kmこの距離を2か月でいけるとでも?
畿内説の確からしさを見たことないけど、どっかの国の野党みたいに反対、反論だけじゃ周りからは評価されんぞ
今すぐ最短500km、移動距離2000km途中に投馬国一国しか書かれていない理由を述べなよ
※1677
畿内説のスタンスは腹筋崩壊ニュースの邪馬台国畿内説と九州説まとめで読みました
「方角が間違っているよ」というスタンスで若干距離に誤差はあるものの、見事に畿内へと到達するそうです。
まだ読んでないなら一読をお勧めします
若干の誤差にどれくらいを含むか人それぞれかもしれませんが、私は距離はほぼ正確と読みました
読んで損はないと思います。
※1682
どっかの野党は、畿内説にケチつけるばかりで北九州なのか南九州なのかも言えない九州説のことでしょそれ。民主党や野党でこのページ検索してみな。パクるんじゃねーよカス。
>投馬国
つ※1419
九州説が正しい 理由は俺が福岡生まれ福岡育ちだから
※1683
それははるか昔の説
研究が進んで畿内説は魏志倭人伝の距離方位はともに不正確というのが見解
東北、関東、東海も戦争の跡があまりないから、畿内説と同じ理由で邪馬台国足り得るな
>1684
移動距離2000kmとその距離を2か月で行く方法は?
※1686
え?畿内の根拠は魏志倭人伝にないじゃん
畿内説の拠り所である距離を失うとは
風習と出土品の次は距離すら違うのか
あとは7万戸が否定されたら残るは卑弥呼の宮殿と墓?
何としても纒向遺跡で7万戸の住居が発掘されないとな
※1689
邪馬臺国=やまと国
7万戸を思わせる巨大集落巻向遺跡
景初三年、四年、正始5年など魏の年号入りの三角縁神獣鏡が出土
(景初二年に倭国から使者が来て銅鏡100枚送ったと魏志倭人伝に出てくる)
九州北部は伊都国、奴国と記載され邪馬台国ではないとはっきりしている
そして九州にはそこ以外に邪馬台国に比定できるような有力な遺跡がない
※1690
畿内説は魏志倭人伝の1里は現在の地図と照らし合わせると50~200mになるから
邪馬台国の位置を魏志倭人伝に書かれてる距離では導き出せないと考える
>1691
畿内説の鬼門である距離と移動手段とルート誰も答えられない説
移動距離は2000kmじゃないの?
手漕ぎなの?
帆船なの?
ルートは出雲それとも瀬戸内海それとも四国迂回?
2月の移動は荷物多そうだね何人従者がいんだろうね?
従者多いと荷物が増えるよ?
大型船があったの?
さんざん九州じゃないっていうなら答えておくれよまだまだ疑問はたくさんあるよ
※1690
距離はとりあえず九州はあり得ないと言うだけの話
九州はスッカラカン
畿内は考古学者9割の支持を得るぐらい証拠が豊富
※1691
距離は魏志倭人伝の記載が不正確だから知らん
船も魏志倭人伝に何も書かれてないから知らん
ルートも(略
もしかして当時の船が見つかってないから邪馬台国は九州とでも主張するつもりですか?
※1693
無能な野党の手法そのまんまでワロタ
それらはどこだと答えられる質問なの?
質問の回答とともに答えてね。
1691
魏にない年号が使われてるのは偽物じゃないの?
※1691
100枚以上存在してる
≫1691
大和は当て字
>1691
巻向遺跡とは纒向遺跡でいいんだよな?
まだ住居発掘されてないよ
これは保留にしておくのが大半の考古学者の考え
見つかるとは思われるけど
※1674
認めないだけ?
きちんとした反論を得られたことがない
レス番でいいから教えてくれ
そして7万は誇張にしようがしまいが、他国との比率を言ってるんだが
それに伊都国は女王国に属すのに女王国ではないのはなぜ?
ちなみに吉野ヶ里などでは家族一人一人に家があったとされるけどな
※1697
だとしても魏と畿内の交流を示す証拠
交流がなければ景初という年号自体がわからない
※1698
魏には4回ぐらい使者を送った
さらに国内で作られたコピー品もある
使節が邪馬台国まで行っておらず、伝聞なら七万戸は単に奴国や伊都国より大きいと聞いただけとも考えられる
すなわち、奴国や伊都国と考えられている遺跡より大きい遺跡は全て候補として考えていいのではないだろうか
1702
とても分かりやすい説明ですね
そうすると魏は毎年銅鏡を作って朝貢国や家臣に下賜してたんでしょうかね?
そうだとしたら魏の有力者の墓や周辺諸国にも同じものがありますね。
もし倭国専用ならよっぽど重視されてたんでしょうね。
邪馬台国はコピー作ってバレたり権威が下がったりしなかったんでしょうかね?
コピーとオリジナルが判別できるならそれで邪馬台国の候補地も絞れますね
結局のところ三角淵神獣境が魏製だという証拠や論文がないからな
※1704
三角縁神獣鏡は倭国だけの特別製の下賜品
全唐文という古文書に昔魏は倭国へ特別な鏡を贈り・・・とあります
詳しくは 全唐文 鏡 でググれば出て来ます
コピーが作られたのは魏と交流がなくなって三角縁神獣鏡が手に入らなくなった後ですね
コピーは割と見た目で判断がつくようです
九州-近畿ルートが確立されてるなら、九州と近畿に(道中の瀬戸内を無視するぐらいの)密な関係性を示す発掘物がないとちょっと苦しいわな
内向花紋鏡
1706
ありがとうございます
>帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
>ソウルから韓国南端、プサンへ行くルートを最短でとると650km前後
>1609>1618>1647の短里厨がどれだけマヌケで低脳かを晒してみる
ttp://i.imgur.com/RhXva5D.jpg
帯方郡から狗邪韓国までを強引に650kmに収めようとすると
行程の一部で空を飛ぶか陸上を一直線で移動しなければならない
さらに海岸についたらそこに必ず船が用意されてていて次から次への乗り捨てて行く
帯方郡がソウル、狗邪韓国が釜山という主張に基づいてもこれだけインチキしている
問題外
>1609>1618>1647の短里厨のインチキを具体的指摘してみる
・ソウルから黄海に出るには川を下るので大きく迂回するのを無視
・「循海岸水行」とあるから陸が見える範囲で海上を航行したはずだが一直線で移動
・夜には陸に上がって火を起こし煮焚きして飯を食い寝ていたはずだがそういう点も考慮していない
仁川から釜山まで現代のフェリーで航行距離は確か900kmだったか?
沖合を航行してもそれだけの距離があるのだから沿岸航行の当時の船ならそれ以上の距離になるのは確実
>1710
わかったから7000里×400m=2800kmの航路を示しせ
タンリガーは聞き飽きた長里の航路でもう一回画像を上げろ
反論はいらない航路の画像だけほしい
>1701
たとえば、あなたが普通の神経なら、1695で十分答えになるんですよ。
それを、答えてないって言い募って、印象操作してるだけ。
>1704
背面の真ん中にある、紐通し用の穴(この書き方で分かりますか?)が、丸穴か四角い穴か、とか、いろいろな特徴で、分類、判別できるそうですよ。
>1712
では、「九州の邪馬台国」に至る水行20日+10日の航路を画像で上げていただけませんかねぇ?
「魏志倭人伝に書かれてさえいない」ことですけど、人に要求するくらいですから、当然できるんですよね。
※1705
つ1178、1186
>1712
低脳ぶりを晒されて悔しいのう
こっちの主張は
・短里はない
・倭人伝の里は正しくない
よって短里とかいうトンデモ説を潰せばそれで十分
1717
距離が間違いなら畿内もたどり着かないのでは?
やはり邪馬台国は土佐ですよね
>1712
タンリガーは聞き飽きたって、短里はある、九州の陸上の移動でもばっちりって言ってたのはあなたですよね?
もう諦めるんですか?
1614の
短里が魏志倭人伝で使われていると挙証するには、
1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」や
1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」
に対して、明確に反論できないといけないのは分かりますか?
に対する素晴らしい誰もが膝を打つような解説を待っているんですが、まだですか?
ドサクサに紛れておいしい所持ってこうとしてんじゃねー土佐
あとは魏の工房から三角縁神獣鏡の型が見つかれば決まりだな
三角縁神獣鏡が魏の下賜品ならば当然魏で作られた証拠もあるだろう
>1720
土佐説あるだろ?
九州を南に行ってそのあと東に行くと四国だし
四国は鉄も水銀も出るし、宮崎や大分のあと国が投馬国ひとつなのもおかしくない。
四国の東には本州あるし
>1718
つまり行程記事からでは邪馬台国の場所を特定することは不可能
それだけのこと
九州は距離が違う
畿内は距離と方角と風習と出土品と遺跡の年代が違う
東海は墓の形が違う
関東は大規模な争いのあとがないから違う
東北は寒冷で籾が発芽しないから違う
北海道は弥生時代がないから違う
沖縄は他の文献で別地域として書かれてるから違う
残るは日本海側と四国だな
四国に何か出てんの?
※1713
匙を投げているようにしか見えない
あらゆる整合性を放棄しわからないの一点張り
後の史書との整合性、伊都国が女王国に属してるのに属してないとか、九州と畿内の交流とか一切答えず話をはぐらかす
または無視する
持論の弱点では徹底的に争わないとするのは戦略的には正しいと思うが、それは歴史の真実を知ろうとしようとしないということではないか?
まあ、畿内に邪馬台国を定めてから都合の良い過程を探すという逆順的な思考方法だからそうなるのは当然だが
※1742
遺跡が合ってる畿内でほぼ決まり
鉄と水銀がセットで出る四国が邪馬台国
四国全体の戸数が七万戸
対馬も壱岐も島で一つの国扱いだから四国が邪馬台国で倭国が九州と四国を表す
狗奴国が実は唐古・鍵遺跡と纒向遺跡
纒向遺跡は紀元前に日向から大和に東遷した南九州勢力であり大和朝廷
1720からこっちの議論みたいのが好きw
※1719
1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」や
1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」
これを何度も言ってるが上でも反論してるがそれに対する反論はまだかな?
というかこれ反論になってないよね
上は数字の考証を全くしてないみたいで、例を出せと言っても出せない
下は百、五百、千というアバウトな範囲において整合性があることは認められている
※千と百が長さが逆になってる例などない、完璧に正確なんてことはもちろんないが(これは長里にも言える)ある程度において整合性がある
しかしこれでは正しい長里表記を探すのも至難の技になりそうだが
そしてその正しくない長里表記が短里と考えると整合性が出てくるのはなぜか答えてほしいところ
そしてこういうと1508とやらで逃げる無限ループ
簡潔に言うと議論を避けて逃げ回ってるだけ
※1724
>畿内は距離と方角と風習と出土品と遺跡の年代が違う
距離…九州と東北だけは論外で、その他はどこであってもおかしくない
方角…そもそも伊都国までも狂ってるので気にしなくて良い
風習…伊都国までしかわからないと言ってるので気にしなくて良い
出土品…神獣鏡が出る畿内が強い
遺跡…畿内が強い
畿内でほぼ決まり
1508なんてかもしれないって自分でも自信がないみたいだし、倭人伝なんか出発点は帯方群じゃないか
その理屈でいうと少なくとも帯方群からは正確じゃないといけないのでは?
また洛陽ないし帯方群から一気に目的地まで出向くのではなく、点々と途中の休憩地点というか町や国を経由していくんだから、その点と点の間が非常に空いてるならともかく、そうでないならその理屈で不正確になるというのは全く当てはまらないと思うが?
九州説がとうとう絶滅したか…もう畿内しかないね
>対馬も壱岐も島で一つの国扱いだから四国が邪馬台国で
九州にいっぱい国がある件
いつまで待たせるのタンリガー
2800kmの航路を出せと言った、反論しろとは言ってない
九州説は不弥国を南下すればいいだけ、長い距離の場合は物理的に不可能だが短い距離の場合ゆっくりいけば着くので行程的には可能
逃げるなよタンリガー、ソウループサン2800km、福岡ー奈良2000kmのルート、移動手段、移動速度を当時の技術でどれくらいか早く出せよタンリガー
空想をスタートラインにしている畿内説をつぶさないと揚げ足ばかり取って
まともに議論できない
今度はこちらがおたくらの妄想を叩き潰すばん
物理的、合理的、客観的、論理的な畿内説のルートはよ
結局神獣鏡が魏製だという証拠はなかった
上でも穴がどうとかいうURL張ってたがそこには穴がどうなってるからこうとかいう説明は一切なく、見つけたと言い張ってるだけのページだった
しかも神獣鏡ばかり注目されるが、福岡がダントツで多いこれは確定的な魏晋鏡が無視されるのも解せない
さらに神獣鏡のほとんどは古墳時代の遺跡から出る
>1726
ほらね、勝手な個人的な判断で認めないでしょ?
「畿内説は南を東に書き換えるな、倭人伝は文字通りに解釈しろ」と言いながら、そもそも書いていないことに答えろと言って、答えると気に入らないという。
そりゃあ、議論にならんよ。
「北岸まで二里あまりと書いてある、これが短里の証拠」と言いながら、その原典が何かも調べていない。
もうあなたの相手をするのは不毛です。
九州の邪馬台国に至る水行20日+10日の航路を画像で上げてくださいね! 待ってますよ!
それと、1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」や
1512の「百里、五百里、千里と3つしか出てこないのにそれで正確な距離を表してるわけがない」
に対する素晴らしい誰もが膝を打つような解説を待ってます! 挙証責任は短里があると主張する側にありますから。
>1735
反問は認めない!俺の要求には応えろ! ですか?
素晴らしいですね!
無敵です!
まだ見つかってないだけできっとあるという、纒向より大きい立派な遺跡が早く見つかるといいですね!
※1730
畿内説は長里も短里も正しいとは思ってないよ
1里50~200mのアバウト里こそ正しいよ
>1735
なんだこいつ?
倭人伝の里は正しくないと回答してるだろが
行程パズルが邪馬台国特定の唯一のアプローチだと思い込んでるとか初心者丸出し
現在では考古資料ベースのアプローチが主流になってることくらい理解しろや
ここのコメント読んで九州なんだと分かりました
※1735
畿内説は魏志倭人伝の距離は正確なものじゃないって見解だから
何々キロのルート出せと言われても知るかいなって話なんだが
ルートはないがきっと行けたはず、妄想か願望じゃん
長里では論理破たんしてるのは誰よりも畿内説信じてるやつらがわかってること
だから誰もルートを語りたがらないし語れない
伊都国までの移動距離を考えても長里の半分以下の距離でつく
不弥国からゆっくり南下すれば日数も問題なし
物理的、論理的に到達不能な畿内は無理
※1736
景初三年などの魏の年号
師出洛陽(製作者は洛陽出身)と銘文あり
伝世する事を考えたら古墳時代に出ても不思議ではないしその前の時代の古墳は
あまり発掘されてない
>1741
そう思いたければいいんじゃね
でも学問の世界では畿内説が通説になってる
九州説は素人が支持してるだけで、はっきり言うともはや”俗説”
※1741
※1743
距離…九州と東北だけは論外で、その他はどこであってもおかしくない
方角…そもそも伊都国までも狂ってるので気にしなくて良い
風習…伊都国までしかわからないと言ってるので気にしなくて良い
出土品…神獣鏡が出る畿内が強い
遺跡…畿内が強い
畿内でほぼ決まり。反論ある?
※1743
ルート自体なら魏志倭人伝に書いてある通り
現代のに直すと
韓国南岸→対馬→壱岐→松浦→糸島→博多→宇美(?)
こっから水行っつってるから恐らく瀬戸内海→トモの浦→大和
淡路島の遺跡がちょうど卑弥呼の時代に衰退したのは狗奴国である纒向遺跡に攻められたから
それで四国の邪馬台国が魏に停戦の調停を依頼した
日本書紀で淡路島が本州とともに産まれているのはこの名残
纒向遺跡は鉄を必要としなかったので、淡路島の鉄文化は失われた
その後四国の邪馬台国に勝った畿内の狗奴国である大和朝廷は吉備の土器と鉄文化を吸収し、濃尾平野と東海地方の方墳を足した前方後円墳を箸墓古墳として作り、前方後円墳が列島を席巻した
さらに神功皇后が熊襲と三韓を征伐した
※1741
どういったとこで九州説だと思ったの?
※1748
淡路が邪馬台国で、纒向が狗奴国という根拠はなに?
ヤマトに勝った狗奴国が、ヤマト朝廷になる?
普通にヤマトがヤマト朝廷になると考えた方がよくね?
このスレを読んでなぜ学者が畿内説を支持しまくってるのかがすっきりよくわかった
三角縁神獣鏡の銘文は明らかにコピーだとわかるものがあるから親切
>1747
>恐らく瀬戸内海
こう書くと、1743の人は「なら、なぜ倭人伝に瀬戸内航路って書いてないんだ? 後の史書には瀬戸内航路と書いてあるのに? つまり瀬戸内航路は使っていない。だから畿内説はあり得ない(どやぁ)」って言いますよ。
考えてみたら瀬戸内海通って大和に行くのに淡路島の記述がないのは不自然だよね
1753
そりゃあ、土佐の邪馬台国に行くのに瀬戸内海は通らんな
※1753
九州から大和に行くのは日本海航路が自然、陸行1ヶ月もそのルート
>1730
1508の「なので洛陽から地方に行けば行くほど距離の表記が過大になっていく」
これの例証をしましょうか? 簡単ですよ!
中華世界からみた東の果ての倭国(洛陽から地方へ行けばの東の極限)までの距離が、万二千里というあり得ない距離になってる
中華世界から南の果ての扶南国(洛陽から地方へ行けばの南の極限)までの距離が、七千里というあり得ない距離になってる
呉書の本文ではない注記の、解釈次第でどうにでもなる去北軍二里の一つで、短里がある例証になるらしいですから、正史の三国志の本文から直接、二つも例を挙げられたら完璧ですよね。
>1747
あくまで個人的な見解だけど、あの記述は倭国の地理志を表すもので投馬国は出雲だと思ってる
伊都国にいた出雲系の倭人からの伝聞を郡使がまとめたものと推測
楽浪土器などが出土していて郡使が常駐してたであろう伊都国の中心地(三雲)からは
出雲系の土器は出るが畿内系の土器はあまり出ていないのが根拠
一大率を置いて貿易なども管理してたとあるから畿内系の住人はもう少し北で当時の海岸沿いにいたと推測
遺跡名を失念したがあそこはまだ発掘が全然進んでいないはず
なお、梯儁や張政は当時のメインルートである瀬戸内海ルートを通ったのは確実だろうけど
結論:魏志倭人伝は短里
※1757
それと洛陽に近い所はわりと長里で正確らしいですよ(未検証)
1758
説得力がある
卑弥呼の時代は伊都国から先に使節が行かなかったこと、出雲が投馬国であること、投馬国から畿内へのルートを記述しただけであること、何もその日数で実際に畿内に行く必要がないこと、張政は卑弥呼の時代ではないこと、隋の使節は瀬戸内海のルートだったこと、日本海側と朝鮮半島との出土品からの交易事実、全てが整合性を持って説明されている
畿内説最後の関門、陸路1月の間に国がない理由は?
それなりの距離を行くはずだよね
※1753
たぶん1743はそこまで詳しくない気がする
※1757
結局反論できずに匙を投げてばっかり
結局反論できてない
扶南国は短里だと調度良い距離だし、邪馬台国は確定してないのでこれを根拠にはしないが
韓の方可四千里も短里だと合致
他にもマレーシアや台湾なども短里だと調度良いんだよなあ
そして短里の根拠は何度も上げたがすぐに、わけのわからん言い訳で逃げる
まあ短里なんかより出土物の件や伊都国が女王国に属してるのに属してないことに関してコメント欲しいが
※1744
年号・銘文は魏鏡に偽装させてるんだから根拠には誰もしてない
ただ四年のせいでイチャモンだけはつけられてしまう状況だけども
結局成分分析かけたけど中国製とは違うというのが現状だろう
中国から発掘されたらいいんだけどね
まあ中国の古物商が一枚持ってたらしいが
古物商が持ってる時点で一次資料じゃなくなって残念無念だけど
>1764
今までの経緯がさっぱりわからんから議論に参加するつもりはないが
短里を主張するならそれが直線距離のことなのか、道のりの移動距離のことなのか明確にした方がいいんじゃね
韓の方可四千里を出してきたんだからその分は面積や直線距離として考えてるんだろうけど
そもそも韓地の範囲を特定できないはずだが、とりあえずここは百歩譲って現在の韓国の領土と同じとしよう
(面積が一致するという意図でこの事例を持ち出してきたんだろうから)
じゃあ韓地の面積をどういう方法で計測したかを明らかにしないと、いくら短里があったと主張しても二重の意味で同意しないだろう
争点を短里に絞るために直線距離の計測方法、面積の計測方法をあらかじめ示しておくべき
>1757
匙を投げてばっかり、って、論証責任がそちらにあるのを頬っかむりして、いい神経してますね。
魏晋里って言葉があるのはご存じですよね? あなた自身も使ってましたから?
公定里があり、魏晋里として数値も分かっていて、それを根拠なく疑う理由はないでしょう?
それを、この部分は短里だと言うなら、言う人が論証しなければならない。それだけのことがどうして分からないんでしょうね?
そして出してくる根拠が、聞きかじりの二次情報で、自分では原本すら確認してなくて、それでもなお、こっちが悪いという、その神経がすごいです!
天柱山の20里は高さじゃないって分かりましたか? あなたも言うとおり、里は基本的に距離にしか使わないですからね。
>1766
自分では原書も確認していない人に、そんな難しいことを要求するのは酷ですよ。
1762
なぜ九州説なら関門にならないの?
>1682
>10%の誤差なら4倍差よりもずいぶんと小さい
「自分の都合のよい数値に合う」ように「伊都国を10キロも動か」して、それでもまだ10%の誤差が残るところまでしか修正できていないんですよ。
やりたい放題やってなお、「もともとの主張の数値」にあわない。
>1688他
>移動距離2000kmとその距離を2か月で行く方法は?
これ何度も言ってますけど、畿内説派でこんなことを主張している人、このコメ欄に一人もいませんよ? というか、あなた以外一人も言っていません。
長里だと2000キロと言いたいのだと想像しますが、水行20日+10日、陸行1月を2000キロと換算する理由が分かりません。あなたのは論理的であるかどうか以前に、論理がないです。
北九州から奈良まで、2000キロもある訳ないのは、日本人なら常識以前ですよね?
>1764
>扶南国は短里だと調度良い距離
あなたの言う短里って、どれくらいの長さですか?
狗邪韓國(釜山)→ 對海國(対馬)→ 一大國(壱岐)→ 末廬國(松浦)
これらは比定地もほぼブレがなく決まっていて、それぞれの間は千里で短里で読んでも
ばっちりなんですよね?
短い区間は誤差が大きくなるなら、釜山から松浦までの全体で3千里でいいですか?
それなら短里で合うんですよね?
それが、去日南可七千里で、日南から扶南国まで7千里ですよ。
ベトナムの日南(ドンホイ)からカンボジアの扶南国(プノンペン)まで、対馬海峡の2倍ちょっとでは、とてもたどり着けないんですが?
結局、魏晋里の公定里では合わないところを、勝手に短里と呼んでいるだけで、短里としてきちんと定義できるような距離を、一つも挙げられてないじゃないですか?
「短里はある説」っていうのは、洛陽から離れて千里単位で計られるようなところは「いいかげんな距離」の一言で済むことを、九州説に都合のよいように捏造しているだけです。
一応、全否定にはなっていない「去北軍二里餘 中略 中江舉帆」も、「去北岸二里餘 中江を経てるのにか」と読むから、川幅の半分以下に二里が入っているように見えるだけです。
「北岸から(去北岸)二里」だと「岸から二里で平行に引いた線上」のどこかですが、「北軍から(去北軍)二里」だと「北軍から二里で引いた円弧」のどこかで川幅とは関係ない数値になります。
三国志演義から「中江を経てるのにか」と読み取ると、川の対岸に向かい合って布陣し、川をまっすぐ渡っていく図が浮かびます。しかし、そもそも川の南岸と北岸とあるだけで真正面という訳ではなく、東南の風が強かったとありますから、むしろ南岸の周瑜軍は北岸の曹操の軍より東寄りだったと考える方が筋が通ります。その上で「中江舉帆」ですから、川の真ん中まで来てというよりも、「川中で(岸を離れたところで)東南の風をよく受けるように帆を挙げた」ととれば十分で、この注記一つで短里があることの証拠にはなりません。
もう、短里がある、とか、長里だったら畿内にはたどり着かないとか言うのやめません?
自分が惨めにならないですか?
>1770
倭人伝の記述通りなら水行は目的地までということで投馬国までの国は省略したでも狗邪韓国の例があり理屈は通る、がその後の水行10日後の記述がないのはなぜか、理屈通りならこの国の名は書かれるはずである、また陸行1月の間の国名がないことも倭人伝の記述からいえばおかしい、わざわざ不弥国1000余の家族の小国まで書かれている以上、長距離を移動する畿内説でその記述がない理由はなにか?
ソウループサンで660kmなんてありえないそれに近い数字もあり得ないという
ざっくり移動距離1000kmなら問題ないか?
移動で最短距離の1.5倍かかるなら同様の理屈で最短距離500kmの福岡ー奈良も移動距離750kmはかかる
この距離を当時の技術で2か月で行けたとする根拠は何か?
殆ど読んでないが
九州に上陸してそこから南って書いていて、地名が類似している土地は東に進んでるんでしょ
そこから再び海に出て南に水行数十日って書いてるんだから、一貫して東と見るのが自然でしょ
瀬戸内海なのか日本海なのかは判らないが、投馬は九州の例に倣えば出雲に推定できるし
不弥国の後は距離が急にアバウトかつ遠くなるのも九州内説の場合の方が不自然ではないのか
実際に使者が邪馬台国まで行ったのか、倭人の説明を書いただけなのかは知らんけど
弥生人とも言われる新モンゴロイドの入植・混血から邪馬台国まででも軽く千数百年経ってる
皇祖が九州人としても、更にそのルーツがもし大陸からでも神武東征が邪馬台国より後の必然性は皆無
逆に当時既に畿内の方が栄えていた事、時代が進むほど九州勢力の畿内侵略が困難になる事からも神武東征が史実だとしても邪馬台国よりずっと昔に起きた事と考えるべきなんじゃないのか
※1767
気分を悪くさせてしまったら申し訳ないが、こちらが論証したものをろくに反証もせずに信用できない記述というだけで済ますのはどうかとは思うが
こちらはきちんと数字で出してるのだなら、そちらも数字で出して欲しい
例えば洛陽から離れる度に数字がいい加減になるという(これは仮定でその法則を全く証明していない)なら、例文をひっぱってきて洛陽から近いとこれぐらい正確で遠いとこんなに不正確になる
短里換算でもこれだけ数字が違うんだから合致しない
と言って欲しいわけよ
それともう1つ、あなたは私を他の短里説の人と混同してるね
まあIDが出ないからこれは仕方ないけどね
私はあなたに鉄と絹の人と呼ばれてきた人だよ
>1773
短里説の人が2人もいるとは思いもしませんでした。失礼しました。
ここ直近の100コメ分くらいでいいので、ご自分のコメを指定してもらえますか?
1772
鉄も絹もなく、魏志倭人伝に風習も記されていない畿内のほうがずっと栄えてますもんね!
何度も「地図 距離」で検索すれば距離が測れるといってるのに自分以外だれも距離を調べないで
短里、長里いってるのはずいぶん気持ち悪い
距離は調べられる、何里かも書いてある、後は人によりどれくらいの幅、航路の違いを論じれば
落ちどころはあるはず
少なくとも魏志倭人伝の1里何mかは出る、1300里の距離もおおよそ出るなぜしない
調べたら絶対に畿内につかないからだろ、それで無知だといわれる筋合いはない
こちらは科学的な検証を求めてる、考古学上の意味の違いではない
文系はバカだといわれたくなければ伊都国まででいいから距離とルートを示せ
※1774
長里より短いものを短里説というなら全員短里説だよ。
「距離が正しいから畿内」
日数になるところを調整すれば必ず畿内に着く
※1770
短里が存在することは既に証明してあなたもそれを認めただろう
あとは魏晋の頃に使われていたかどうかだろう?
1km以上離れたところから「降」の声が聞こえるのか?
そして弓の射程から1kmも離れていたら全く当たらないんだから「降」と言って油断させる意味もないのではないか?
「国名」
奴国・博多福岡 遠賀川まで領地 九州最大
不弥・小倉門司 洞海湾を内海(ノウミ?)といい 変化してフミ
投馬・広島岡山 鞆が都でトモ国 またキビの産地でキビ国 後に吉備津が中心となった
大和・大和 摂津 河内 熊野が直轄地 その他属国多数
※1771
>その後の水行10日後の記述がないのはなぜか、理屈通りならこの国の名は書かれるはずである
>また陸行1月の間の国名がないことも倭人伝の記述からいえばおかしい、わざわざ不弥国1000余の家族の小国まで書かれている以上、長距離を移動する畿内説でその記述がない理由はなにか?
不弥国までは行った(あるいは奴国から超近い)から。
その先は遠すぎて行ってないからよくわからん、倭人から聞きかじったのを書いただけということ。だから別に〜はずなんていう規則性もない。
もっと個人的な感想を言わせて貰えば、ざっくりし始めるのが水行の後だから、当時は船で行くというのがものすごく便利で早かったんだと思うな。韓国も地続きなのに船で移動してるでしょ。だから陸行のところは比較的そんなに長距離ではないかもしれない。
※1776
そんないきり立つなよ。
一万二千里って女王国でしょ。どっちにしろ邪馬台国は関係ないよ。
※1775
そりゃ結局人の数の多い方が勝ちだからな。ていうか、鉄は畿内にもそこそこあったし。
>1781
不弥国までは行った(あるいは奴国から超近い)から。
その先は遠すぎて行ってないからよくわからん、倭人から聞きかじったのを書いただけということ。だから別に〜はずなんていう規則性もない。
少なくとも張政という人物が台与にあっている、まだ若い女王を国外(伊都国)まで移動させるにはリスクが大きい、何かがあっても2か月かかり、どうしようもないと考えるならこの男は邪馬台国まで行っている可能性は高く、そうであるならそれ以外の魏の使者の行き来があっても不思議ではない
また地図のない時代の唯一の情報・道しるべを細かく書いて損はないが大雑把に書けばどういけばいいのかわからなくなる、畿内までとするならおおざっぱすぎるが不弥国から南下し100km前後なら二つの大国が隣接していたとしてもおかしくない
そもそも畿内説があり得るなら畿内以西はどこでも邪馬台国足りえる、畿内説は何十とある候補地の一つに過ぎないということか?
>1777
また、話をそらそうとする。
短里説として、「短里という固有の値」があって、それで読めば九州に決まってるという論陣で、ここにコメントを書き込んでいる人が、二人以上いるとは思っても見ませんでした。
これでいいですか?
あなたがまともに答える気がないのに、自分の勝手な立論に答えないからと、勝った気になるのはやめた方がいいですよ?
同じ質問を繰り返します。
「ここ直近の100コメ分くらいでいいので、ご自分のコメを指定してもらえますか?」
>1779
>1km以上離れたところから「降」の声が聞こえるのか?
これ、原文に当たった上で書き込んでいますか?
違いますよね? この部分が江表伝曰くの注に過ぎないことすら、私のコメントで知ったくらいですから。
なぜあなたの勝手な思い込みを、わざわざ私が調べて否定しないといけないのか教えてほしいです。
全文を引いておいてあげますから、読んでください。二里手前で「降」と叫んだわけではないのが読み取れますか? 漢文読めますか?(これもう何度目だ?)
江表傳曰。至戰日、蓋先取輕利艦十舫、載燥荻枯柴積其中、灌以魚膏、赤幔覆之、建旌旗龍幡於艦上。時東南風急、因以十艦最著前、中江舉帆、蓋舉火白諸校、使衆兵齊聲大叫曰「降焉!」操軍人皆出營立觀。去北軍二里餘、同時發火、火烈風猛、往船如箭、飛埃絕爛、燒盡北船、延及岸邊營柴。瑜等率輕銳尋繼其後、雷鼓大進、北軍大壞、曹公退走。
>1776
>1300里の距離もおおよそ出る
それただのこじつけな
①倭人伝に記載されているのは邪馬台国まで水行二十日と水行十日陸行一月であって、1300里とはどこにも書かれていない
②そもそも12000里は魏略からの引用で、日数表記は倭人伝で初出であり、明らかに別ソース
陳寿が引き算をして里に換算せず、あえて日数表記のまま記述したのは里への換算が不適切だと判断したと解釈すべき
③12000里という数字を勝手に使ってるが実際の記述は「万二千余里」
可能性としては12999里までありえる
よって邪馬台国まで1300里というのは屁理屈にすぎない
1609に書いてあるがそもそも短里とはいっていない長里では長すぎる移動距離が4倍以上になるなら示せと書いたもともとは距離にも幅を持たせた書き方をしている「倍だとしても~」
倭人伝の1里が何mかを出すべきだと、そうすれば1300里がどれくらいかわかると
もう一度言おうか伊能忠敬のように1歩の歩幅を決めて歩き回った人間が当時の中国にいない以上
幅やブレはあって当たり前、長くなれば当然おおよその値になる、でその値が何に近いかという話
いまだ数値を出さずに長里に近い値をとると言い張る理由を書けよ長里派、は一人かな?
※1784
告諭したとは書いてるけど会ったとは書いてない。
もし張政が邪馬台国に行ってたとしてもその道のりをこの著者に伝えたとは限らない。
記述を読むだけなら(南に限界がすぐ来る九州や遠すぎる東北などはさすがに厳しいが)どこでもあり得る。ヤマトっていう地名があるのでどっちにしろその中でも飛び抜けて有利ではあるが、それに加えて出土品や遺跡でほぼ確定。
まとめ
1畿内説をとるものは畿内以西の候補地たり得る場所はすべて邪馬台国の可能性があることをみとめる
2その中で不弥国から南に位置する九州説は最有力である
3「1」を唱える者は「2」を否定してはいけない
4「2」を否定すると倭人伝のすべての記述を無視することになる畿内説はありえないものとする
結論はこんなところ
あとは遺跡の調査しだいで纒向勢力が吉備の近くまで直轄地にしていればワンチャンある程度の可能性
なぜ2月の旅程を遠方までという解釈に固執するのか
距離が短いならいくらでも時間はつぶせる
荷物が多く遅々として進まない、道がわるい、移動手段が悪い、天候が悪い、疲労による速度低下
距離が短いというのはなにも問題ではない
だが遠いとなると本当に2月で行けるのか?という問題にぶち当たる
でも誰も答えられない
※1776
主張したい事の意図がつかめない
魏志倭人伝にある距離と実際の距離の比較なんて何十年も前から調べられてるし、
現在なら調べようとすればネットですぐできる。
ちなみに上に出ているが魏志倭人伝の1里を現在の地図に当てはめると
1里=50~200mくらいになるらしい。
これはつまり、
プサン~対馬は1里100m、壱岐~松浦は1里50m、と言った風に
場所によって1里の長さが違った結果が出てくるのだから、
魏志倭人伝に出てくる距離は不正確なものであり、
邪馬台国の場所を特定するのに使えば全然違う場所になってしまうという事。
なので畿内説は魏志倭人伝に書いてある距離ではなく、
前方後円墳などの遺跡や出土する土器、鏡などの考古学的証拠で
邪馬台国の位置を畿内と推定している。
魏志倭人伝の旅程や距離は現在と照らし合わせて割と不正確だから、
それを証拠として用いないというのが畿内説の常識。
だから航路とか1300里がいくつとか問われても誰も何も答えようがない
1790
意味不明
言い張ってるだけ
そもそも伊都国や奴国までの方角間違いが判明しており、南に信憑性はない
もはや謎なのは邪馬台国の位置ではなく、
なぜここまで頑なになるほど畿内説にルサンチマンを持ってるのか
そこを議論した方が面白い
方角に信憑性もなく1里あたりの距離もバラバラで行程からは場所を特定できないことがすでに確定してるのに
なぜしつこく行程にこだわるのか理解不能だわ
※1791
近すぎるのも普通に変だろ。
それに別に際限なく遠くてもいいと言ってるわけじゃないぞ。
遠すぎるのも近すぎるのもどっちもダメ。
>1794
私は「刷り込み:imprinting」じゃないかと思っています。
鳥の雛が、卵から生まれてすぐに目にしたものを親だと思い込んで、修正が効かないというアレです。
古田史学の会とか、邪馬台国研究のホームページでは、九州説のいろんなこと(一代10年仮説とか、短里とか、島周り航路とか)が書いてあって、その内部では筋が通っているんですよ。興味を持ち始めたときにこの手の話を読んで「すごい、これが答えなんだ」と思い込んでしまった。そしてそこで学んだことを否定されると、個人攻撃であり、自分の尊厳に対する挑戦だと感じるようになってるんじゃないでしょうか?
>1776
>少なくとも魏志倭人伝の1里何mかは出る
その結果が、50~200メートルだったんでしょ?
そして4倍も狂ってて、そのうちのどこが短里だ?と聞かれて、伊都国を10キロ動かすという暴挙にでたんですよね?
百里より千里が長いところはないから大体は正しいってどこかに書いてあったように思いますけど、ではなぜ、二百里とか三百里とかの記載はないんでしょう?
百、五百、千、という大まかにもほどがある表記法だから、4倍もの差になるんじゃないですか?
だから、あなた以外の人は、里程表記はいいかげん、信頼できない、と言っているのです。
この話の流れ、理解できますか?
もともとは短里=77メートルで読めばばっちり、という立論だったように思うのですが?
>1792-1795
1は「倭人伝の記述なんか何も信用できないという畿内説」ならどこでもいいだろという皮肉だよ
気づかなかった?
陳寿は満二千余里と書いてある
不弥国からの残りは1300里くらいが当時の中国の公文書が出した数値である
魏の公文書を否定できる証拠を持ってこい
君たちのバイブルの記紀に狗奴国はでてくるのかい?
※1799
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
>1791
>荷物が多く遅々として進まない
これに関しては、日本国内では黒曜石などのわりに重いものでも、広域流通しているのをあなたも認めてましたよね? つまり、問題にならないのでは?
丹が四国で出るから、九州で弥生時代に採れてなくても、其山有丹で問題なしって言ってましたよね。
理屈と膏薬はどこにでも付くの典型ですよ。
近くても時間をかけることはできる、というのは、それ単体なら間違いとは言い切れませんが、近かったら、里程を示した方が早いですよね? 正確に測れるそうですから?
1609
実際の移動距離÷掛かった里数=?m/1里
伊能忠敬は1歩を正確に決めて2つの地点を何歩歩くかで正確な地図を作った
当時の人は必ずしも同じ歩幅じゃなかったからずれがあるのはしょうがない
各国の移動距離から1里を割り出してどこが短里でどこが長里か説明してみろ
長里だと思える場所は1つもないがな
最短距離で書くと
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
!!「「「平均87m/1里 移動距離が倍掛かったとしても170m、1里400m~500mという長里説にはずいぶんと差が大きい
場所が違う移動距離が違うというなら示せ
ちなみに不弥国から邪馬台国まであと1300里、最短113km倍にしても226km最短500kmの奈良は無理
近畿説を推すと数字が見えなくなるのか?」」」!!
投馬国・邪馬台国へは2カ月かかる長距離移動、荷物も多く移動速度はずいぶんと遅くなった可能性が高い
地図なし、道なし、牛馬なしすべて人力で休憩を取りながらなら、なおさら移動距離は短かろう
!!「「「~」」」!!畿内説はこの中の文章が読めないのか
ここを引用してからしゃべれ
都合のいい部分しか見えないやつに刷り込みがどうたら言われたくないね
>1799
狗奴国は、ここのコメント欄では毛野国が一番人気ですよ。
毛野国は記紀に出ていますよね?
そして、纏向の王と考えられる崇神天皇の代に、毛野国まで四道将軍が征服しに行っています。邪馬台国=纏向(を含む大和)と考えれば、魏志倭人伝の記述ともぴったりですよね?
戦い(四道将軍派遣)があって、その後倭国に合流ですから。
※1802
テンプレ1
>1800
女王の都がある邪馬台国じゃない女王国とは?
どこにあるの?
ちゃかさずに答えてよ
>1802
>畿内説はこの中の文章が読めないのか
あなたの書いた文章は、一通り読んでいますよ。
その上で、おかしなことを書いているなと思っています。
平均を出してきた時点で、論が破綻していると分からないならそれでいいです。
あなた以外の人は、短里説について、ほぼ共通認識が得られていると思います。
どうでもいいですが、ここのコメント欄で言葉遣いが一番粗野なのはあなたですよ。
よほど頭に来ているのですね?
自分以外のコメントと一緒にしてもらっては困ると言われたので、二人以上いるなら済みません、あなたのコメントを特定してくれますか?とお願いしたのですが、その件はどうなりましたか?
>1803
毛野のwikipediaの一部引用
>なお、古くは『魏志倭人伝』に見える「狗奴国(くなこく)」を「毛野国」にあてる説もあった。狗奴>国とは邪馬台国の東にあり長年争ったという国である。しかしながら、遺跡調査から邪馬台国の時代に>はまだ毛野地域の平野部の開拓はなされていなかったことが判明した。そのため、近年では狗奴と毛野>は全く別のものと考えられるようになっている
新しい仮説が必要みたい
魏志倭人伝を遵守すると辻褄が合わなくなるから苦しい
でも魏志倭人伝を無視すると歴史ファンタジーになる
とりあえず天皇陵を開けようよ
天皇関係ない古墳だらけじゃん
なんらかのヒントは出てくるだろ
>1806
平均や統計という考え方ができないならまずネットで一通りその考え方を学んで来ればいかがか?
100歩歩いて平均1歩55cm、一歩ずつ測ってやれ40cmだやれ60cmだ平均と一緒じゃないと難癖をつけている人間にしか見えない
「伊能忠敬は1歩を正確に決めて2つの地点を何歩歩くかで正確な地図を作った
当時の人は必ずしも同じ歩幅じゃなかったからずれがあるのはしょうがない」
重要なのはサンプルの多さである距離(里)が長くなるほど平均のブレは小さくなる
小さいサンプルの誤差は大きく、大きいサンプルの誤差が小さいのは見てわかるとおりである
移動距離を多くとるなら1里87m+αのαが大きくなるだけ
また直線上の3点の距離の各平均が大きくずれていた場合、場所をずらせば平均に収まる場合途中の点の位置がずれていると予想するのはおかしくない
この場合始点と終点は変えておらず途中の点を平均に収まるようにずらした場合すべての平均は大きくブレないと証明したが意味の有無はない伊都国の都がどこかは知られてないから
長い距離を重要視した理由をわかってくれたら幸いです
※1805
女王国=女王を推戴する国々なんじゃないの?
奴国の近くだから福岡かその近辺(北九州市?山口県?)かと
※1802
奈良まで500kmでそれが(魏志倭人伝に書かれてないが、書かれていたとして)1300里というなら、
魏志倭人伝の1里は50~400mなんだねとなるだけなんだが。
>1807
私も「毛野国=上野、下野」と思っていたときは、無理があるなと思っていたのですが、ここのコメント欄の討論で、「昔の越の国は越前から先の日本海側全部」「途中で分離した出羽の国も山形から先全部」「陸奥の国も白川の関から先の太平洋側全部」のならいで、「東海から先の太平洋側全部が毛野国」なら、特に問題がないと思うようになりました。大和の国の東側、愛知県辺りにはかなり有力な環濠集落の遺跡がありますし、その辺全部が毛野国なら話はうまく繋がります。
まあ、そういう学説がある訳でもなく、想像なので強く主張はしませんが。
>1809
>平均や統計という考え方ができないならまずネットで一通りその考え方を学んで来ればいかがか?
統計に「有意差検定」と言う言葉があるのはご存知ですか?
あと、「点推定」と「区間推定」の概念はご存知ですか?
硫化水銀のところで十分にお気づきかと思いましたが、理系の分野で知ったかぶりをしても無理ですよ。
九州説こそ不弥国から113km~226kmでどこを邪馬台国の比定地にするの
>1814
それ、私も九州説で投馬国までの水行20日と邪馬台国までの水行10日分の航路を出してくれってお願いしてるんですけど、一向に教えていただける気配がないんですよ。
投馬国から邪馬台国の間に一国もないことをひどく気にされているので、国がたくさんある九州であれば、さぞ説得力のある航路図を教えていただけると思っているのですが。
邪馬台国が九州にあったとしたら、邪馬台国の場所や卑弥呼の墓のある位置は限られるはず。
遺跡は埋まっていて発見が難しいとしても、大きな古墳が発見されない事に疑問を持たないのは
不思議で仕方がない。
>1813
サンプルの多さが誤差を小さくするというのが何が間違いか
用語を並べて何が言いたいのか?
倭人伝の1里何mかはサンプル(距離)が大きいほど正確さを増す
そしてそれが自分の試算では短里に近く長里とはいえないという結論に達した
統計的誤りがあるというなら正しく指摘してくれ
>1817
統計と言う言葉を出しながら、分散とか標準偏差は無視ですか?
たとえば、3センチと2メートルと15センチの棒があったとして、この3,200,15と言う何の関係のない数字であっても、平均を計算することはできるんですよ。72.7センチになりますが、この数字にどんな意味があると思いますか? あなたのやっているのは、これと同じです。
さらにいえば、統計処理を行うときに一番してはいけないことは、数値を恣意的にいじることです。
伊都国を10キロ動かすというのがこれに当たります。
これだけでは納得しないでしょうから、あなたの出してくれた数値を使って正しく統計処理を行って見ます。
1609のこの数字でいいですね?
帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73メートル 分散633メートル
陸路 平均117メートル 分散5833メートル で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8~135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1~306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はメートルです。
この範囲に、あなたの言う短里の値が入る確率が95%という意味です。
11から136メートルとか、-73~306メートルとか、「意味のある数値」だと思いますか?
これが正しい統計のやり方です。nが小さくて、ばらつきが大きいデータでは、いかに統計処理をしても信頼性のある数値は出ないんですよ。
あなたがやっていることは統計でもなんでもなくて、牽強付会なデータ捏造に近いです。
伊都国を平気でずらしてますし。
漢文読めますか?と繰り返したので私のベースが文系だと勘違いしているかもしれませんが、私はゴリゴリの理系ですよ。
これくらいの統計処理は、私にやらせずにあなたがやるべきものです。
短里があるといっていて、挙証責任があるのはあなたの方なのですから。
統計も分からずに、よく自信満々に根拠もないことを書けますね。
統計っつうか平均のとり方自体は問題ないんじゃない詳しくないから良くわからんけど
問題は平均を求めてどうするのって事だろう
AからBまで10キロ、BからCまで30キロだったから、
じゃあ次のCからDまではその平均の20キロになるはずだなんて事にはならないだろ
なのでそれまでの平均を求める方法で1万2千里に当てはまる数字を求めるのは
少し違うのではないか
1789
大和は当て字
※1818
理系と理系だと議論にならないことは分かった
纒向遺跡が騒がれているが、その前に一体いくつの畿内の遺跡が邪馬台国だと騒がれ、消えていったことか
いつも年代が違うことから畿内の候補は消えていく
まずは卑弥呼の時代がいつなのかを認識するべき
>1817
>統計的誤りがあるというなら正しく指摘してくれ
統計的誤りという前に、そもそも統計とは何なのかが分かっていないと思います。
これで、短里のお話を終わりにした方が、傷は浅いと思いますよ。老婆心ながら。
畿内説は水行と陸行がある限りどんな距離でも主張できるので問題ない
畿内の遺跡を見つかった順にさしていけばいつかは正解になる
>1823
長里だと赤道超えるんでしょ?
長里以外じゃないと畿内に着かないよ
>1822
水月湖年縞ってご存知ですか?
福井県の三方五湖の一つ、水月湖は水が乱されることなく、沈降物が静かに湖底に溜まります。この沈降物は季節ごとに色が変わるため、湖底に1年に1本(1枚)ずつ年縞が溜まります。
2012年の世界放射性炭素会議総会で、この水月湖年縞が、炭素試料の世界標準に認定されています。
C14年代測定法は、その炭素が固定されたときの環境の影響を受け誤差を生じますが、水月湖年縞は1年単位で正確に数えることができるため、絶対年代の分かる炭素試料が手に入ります。そして、水月湖年縞は過去7万年分の蓄積があります。
この水月湖年縞をゴールデンスタンダードとすることで、C14年代測定法の信頼度は確実に上がります。
>年代が違うことから畿内の候補は消えていく
卑弥呼の時代も、年単位で把握できますよ。もちろん誤差のエラーバーは付きますが。
楽しみですね。
>1825
まだやりますか?
そもそも、短里も長里も、九州派の造語であり、普通は認めていません。
そして、九州派以外は魏志倭人伝の里程は正確性を求められない、あてにならないと言っているだけです。
事実誤認、という言葉も何度目でしょうか?
※1824
魏志倭人伝に記された里数が実際と当てはまらない以上
距離から邪馬台国を探そうとするのは無意味
※1825
そこで1里50m~200mのアバウト里ですよ
九州説の短里に比べて実際の地理に完全に合致するし実際の距離から割り出した数字だから
存在も完全に実証できる上に1万2千里を畿内にもできる
土器を炭素法使って年代測定するなら焼かずに失敗して残ったものを使わないとな
>1819
>統計っつうか平均のとり方自体は問題ないんじゃない(?)
1818でも書きましたが、平均をとる、というのは何の意味もない数字の間でも計算できてしまうんですよ。1818ではまだ遠慮して、すべて棒の長さにしてありますが、池の鯉の数20匹と、鉛筆の長さ15センチと、猫の体温39度、という全く関係のない数字でも、平均は「計算できてしまう」んです。
なので、本当は無作為抽出標本を採るところからやらないと、本当の意味での統計処理はできないんですけどね。
距離が命の畿内説を否定するやつ多いな
>1819
1830の補足
さらにこの場合だと、三つの連続する経路の平均をとるというのが結局は、起点と終点だけで値を出すことになり、3つあったデータを、たった1つのデータにしてしまうだけなんです。
私も別のところでも書いているのですが、それで彼の言う短里と数値があったとしても、魏志倭人伝の経路の中で「たまたま一箇所その数値に合うところがあった」というだけのことになって、統計的には情報の価値がむしろ下がっています。
方角を90°曲げたとき、距離が正しいのが畿内説
距離を考慮しない奴は畿内説にあらず
1830
長さと温度で平均は取れない
つまり、朝鮮半島と対馬と壱岐と北九州の距離はほぼ短里説と同じくらいだから、魏志倭人伝は短里で計算していたということですよね
前回の記事でも地図つけて解説してたから、短里なことは明白
距離が適当なら卑弥呼の墓の大きさも適当
七万戸も適当なら遺跡の大きさも関係ない
魏志倭人伝の里は適当!魏の測量など無意味!
魏人は邪馬台国にたどり着いていない!
卑弥呼の墓は100歩、130M!
何故なのか?
>1829
>土器を炭素法使って年代測定するなら焼かずに失敗して残ったものを使わないとな
C14年代測定法は、放射性同位体の原子核の反応を利用するものですから、化学的な燃焼はまったく問題ありません。
土器に付いたすすからでも、測定可能ですよ。
ただ、空気中の二酸化炭素が固定されたときが計測されるので、極端なことを言うと、薪を燃やした場合内側の年輪と外側の年輪で異なる数値が出ます。まあ、実際はそこまでの精度は出ないので、あまり気にしてもしょうがないのですが。
で、候補地が狭い範囲に限られているのに卑弥呼の墓が九州から出ない理由は何?
説明できる九州説派っていないんだな。
>1818
老婆心はありがたいが平均の出し方が間違ってないか
Aクラス20人平均点55点
Bクラス30人平均点40点
Cクラス10人平均点60点
全クラスに平均は(55+40+60)/3ではなく(20*55+40*30+10*60)/60
また標準偏差は全体の何%が偏差内に収まるかの数値のはず
あくまで例だが平均60点標準偏差10点の場合50点~60点のあいだに60%の人が含まれるという話
さて話を戻すが
まず海路が一つ抜けてる
また海路の平均88m 標準偏差は14.7m標準誤差0.14m
陸路は平均78m標準偏差は52m標準誤差1.93m
また信頼区間95%の場合平均±2×標準誤差
海路なら88m±2×0.14
陸路なら78m±2×1.93
信頼水準95%で海路なら約88m陸路なら76m~80mになる
>1609のオレ様行程論をしつこく貼ってるやつ何したいんだ?
狗邪韓国まで660kmとか恣意的な数字並べただけの距離で論理を組み立てるのが無意味だと理解できんのかね
現代のフェリー航路の900kmより長くなることは推測できるが
正確な距離は「不明」とするのが正しい答えだ
したがって行程からは邪馬台国の位置を特定できない
なお考古資料などより邪馬台国は畿内でほとんど確定している
>1834
>長さと温度で平均は取れない
何度も書きますが、人の言葉を勝手に捏造しないように。
長さと温度でも平均は「計算できてしまう」んですよ。
でもそれには意味がないと分かっているから、そんな計算をする人はいない。
平均はとれない、というのは、意味がないと分かっているからしないだけで、そこには「人間の判断」が入ります。
1830で書いているのは、計算自体は算数だから、「人の判断」を離れて、数字があれば平均が計算できますよね?という意味です。
そして、短里があると一人でがんばっている九州派の人のやった計算は、事実上、体温と長さの平均を出すのと同じ操作なんですよ。計算自体はできる。そこに「どんな意味があるのか」まで付けて、初めて統計処理です。途中端折ってありますが、1818に正しい計算が書いてありますから見ておいてください。
※1786
ん?1km先から言ってることになるだろ?何がおかしいのか
漢文解釈が得意なようだが先の倭人伝の遠絶の解釈の参考文献も教えてもらってないしね
江表伝なら信憑性がないというのも理解できない。正史以外は信憑性がない?
それに言葉が荒れすぎだし、印象操作に走りすぎだ
昔はそんなことなかったのに余裕を持つべきだ
何度も言うが何人かを混同してるようだ
レス番ははっきり言ってめんどくさいので勘弁してくれ
そして短里なんか学者の9割が認めてるのにまだ争おうとするのか
畿内説は自説に有利じゃないものを自分たちの理屈で切り捨てる
しかし学問としては真実を解き明かすことが大事だ
普通の人間はデタラメに思える数字や記述が出てきても、デタラメと切り捨てるのではなく何らかの意味を見つけて歴史の真実に結びつけようとする
それが新たな発見に繋がる
全くいい加減に記述してることの方が少ないんだから
結論ありきで都合の悪い記述は全て切り捨てる畿内説派(の一部)とは違うんだよ
ソウループサン除外版ね
海路改訂
平均73m標準偏差20m標準誤差0.3m
逆に短里に近い値になっちゃったね
1840
日本全国どこからも出てないだろw
そんなもん出てたら決着してるわ
マジレスすると全ての遺跡が発掘されつくしているわけではないからでいいのでは?
炭素年代測定には計測結果が実際の年代より古く出る欠点がある。地球に入射する宇宙線の量の変動の痕跡が屋久杉の分析から発見されている
大まかなのが分かっても卑弥呼という中国の歴史書に元号で載ってる場合
炭素年代測定だとあくまで可能性しか示せない
それが分かっていれば議論の価値もあるが、可能性がある=それが正しいと主張されると議論にならん
※1833
正しくないから。
万二千里を当時の中国で使われてた1里400mで換算すると約4800km。
東へ万二千里も進んだら、
日本列島の端から端まで3000kmだから多分アリューシャン列島辺りに辿り着く。
>1830
鯉の数と猫の体温で平均?
鯉の数は他の池と足して1つの池あたりの平均を出すべきだし、猫の体温は1匹の1日の体温とかその猫の1年の体温とか30匹の猫の1匹あたりの体温が平均の意味
まずはそこからじゃないかな?
>1833
30年前で時間が止まってる人ですか?
一部には今でもそういう化石のような畿内説を唱える人がいるかもしれないが主流派ではない
主流派は考古資料ベースで実証している
>1848
ダンナ、そこで短里の登場でっせ
※1850
そうなると七万戸も魏志倭人伝由来だから考古学的見地から外れるよ?
>1841
の間違いもう一つ
あくまで例だが平均60点標準偏差10点の場合50点~60点のあいだに60%の人が含まれるという話
これ50点~70点が正しい
ソウループサン900kmは今の船(フェリー等)の話なら
フェリーは喫水が深いから一旦外海に出ないといけない沿岸部をそうように移動はまず無理
フェリーは大回りするルートとなるので最大値としてはいい目安かもしれない
魏志倭人伝を否定すると当たり前だが考古資料ベースだと邪馬台国を確定することはできない
飛鳥時代の大和朝廷を邪馬台国に見立てる以外にないが、遺跡や発掘から無理なことが分かったから、今はどれだけ魏志倭人伝を曲げられるかの勝負になってる
※1851
ではどうして短里は1里77メートルになるのか説明して貰おうか?
万二千里を短里にしたら九州になったからは駄目だぞ。
魏志倭人伝に書いてある距離に当てはまるからも当てはまってないから駄目だからな
距離の根拠がなくなった今、畿内説に残された道は大和朝廷=邪馬台国のみ
つまり万世一系の否定あるのみ
紀元前に神武天皇が東征して日本をまとめたのにそのあと周りの王に推されて卑弥呼=神功皇后が王になるのは不自然
邪馬台国が倭国No.1だから金印を貰えたとするが、邪馬台国が畿内なら伊勢から北関東まで狗奴国だからそちらの方が大きくない?
>1841
がんばりましたね!
でも、理系の領域、しかもデータ処理の部分で私と争うのは筋悪だと早く気づいた方がいいですよ。
1818でも書きましたが、データは同じ立場のもの同士でないと意味がありません。
これこそが、猫の体温と鉛筆の長さを一緒にしてはいけない、の意味です。
そして、最初の帯方郡(ソウル)-狗邪韓国(プサン)の間は、ひとつだけ距離が飛び離れて大きく、外れ値の扱いになります。だから外しているんですよ。それに、ほかは基本的にまっすぐ海を渡るだけなのに、ここは朝鮮半島の南西角を回りこむ航路ですよね?
明らかに立場の違うデータは、一緒にしてはいけません。たとえそれが自分の主張に都合がよくても、です。
それから、平均平均といいますが、たとえば、この帯方郡(ソウル)-狗邪韓国(プサン)の間を10分割して、それぞれの値を入れて、94m/1里のデータを10個入れたら、平均も動かず、分散は小さくなりますが、それには意味がないですよね? ここが分からないというなら、もう私にはあなたに対する説明は無理です。
それから、平均±2×標準誤差で計算できるのは、データ数が60程度以上あって、正規分布で近似できる場合です。データ数が一桁の場合は、正規分布では近似できず、正規分布で近似したときの係数2(95%の場合正確には1.96)は使えなくて、t-分布およびt-値を使うことになります。そして1818にも書きましたが、t2(0.05)=4.303です。
それから、計算自体間違っています。海路は前提が違うので論評しませんが、陸路は同じデータセットで計算したんですよね?
それだと、標準偏差で76.4メートル、標準誤差で44.1メートルです。
まさか伊都国を動かしてませんよね?
なんにせよ、統計自体は1818が正解です。
>1849
1843をお読みください。
1818
短里の存在をよりはっきりと確信しました
※1830
体温と数と長さの平均ってどういうこと?
それがわかれば畿内説の真髄に触れられるの?
>1847
水月湖年縞では、たとえば卑弥呼の没年とされる西暦248年の炭素試料が、1年の誤差もなく手に入るんですよ。すごいと思いませんか?
しかも、7万年前までの一続きの連続試料が得られます。年輪年代法のような、データのつなぎ合わせによる解釈の違いが入る余地もありません。
もちろん、同じ年であっても、地球上の場所によってC14の比率に影響を及ぼす要因が多数あるので、絶対年代は正確には出ませんが、
>実際の年代より古く出る欠点がある
のような部分は、実年代に対して補正するための確実なデータが得られる訳です。
このすばらしさ、分かってもらえますか?
そういう数で平均出しても意味ないよって事の例えだろ
だとしたら、距離の平均出してるから間違いじゃないんじゃない?
むしろ正解だよね?
それとも朝鮮半島と日本列島だと次元が違うとでも言いたいの?
※1865
AからBまで10m、BからCまで30mで平均すると20m
では、CからDまでは何mになるでしょう?
とか聞かれてもわからないだろ
つまり今までの距離の平均は未知の距離を割り出す指標にはならない
行程パズル厨がデタラメ書いてるシリーズその2
狗邪韓国から対馬の区間
この間の距離を100kmとするのも地図にモノサシ当てただけのレベル
対馬海流が流れていて真っ直ぐには行けない
狗邪韓国を釜山としても海流の影響を受けないように沿岸航行で巨済島まで行ってから渡海する
対馬のどこかを特定できないので移動距離も不明であるが少なくとも100kmではない
>1845
>平均73m標準偏差20m標準誤差0.3m
これ、どうやって計算してますか? エクセル使っててくれると話が楽なんですけど。
平均が73ってことは(100,70,50)の3つの数字ですよね?
その標準偏差は分散の平方根ですが、エクセルだと=var(100,70,50)で分散を計算してくれます。
たぶん、標準偏差を出す前の、分散を出すときに試料数が小さいときの不偏分散ではなく、試料分散で計算しているのだと思います。試料分散だと、エクセルの関数は=varp(100,70,50)になります。
これで平方根をとると、20.54です。
試料分散を使う時点で間違っていますが、ここまではまあよいです。
不偏分散 633.33 →平方根 25.16
試料分散 422.22 →平方根 20.54
標準誤差、どうやって計算していますか?
標準誤差=(分散÷試料数)の平方根
なのですが、
不偏分散からの標準誤差 = 14.52
試料分散からの標準誤差 = 11.86
試料数は3で、分散は書いてあるので自分でも計算してみてください。
どうやっても、0.3なんていう小さな数字にはなりませんよ?
標準偏差が20まではまだ理解できます(間違ってますが)。しかし、そこから標準誤差に行くところが何を計算しているのかまったく分かりません。
朝鮮半島から対馬は見えるから距離は測れるよ
それとも朝鮮半島が肉眼で見えないくらい弥生時代の対馬と朝鮮半島は離れてたのかな?
実際に船を漕いだ距離は分からなくとも肉眼で見えれば距離は測定できる
※1866
そういうことが言いたかったのか
ありがとうございます、やっと理解しました
里数の書いてあるところは多少誤差があってもまあまあ合ってるっぽいけどその平均を生かして水行と陸行を考えちゃいけないということなんですね
その部分も里数で書いてくれればよかったのにって思いましたよ
伊都国までの距離が正確であるならば、1万2千里も正確だが、全行程なのか、地図上の直線距離なのか、観念的なものなのか、起点はどこなのか、が論点なんだな
1866
話まとめるのうまいですね
短里批判の説明で謎の猫の体温が出てきたので短里が正しいと思います
>1868
君は大きく間違っている総サンプル数は陸で700、海で3000のはず勝手に2にしてはいけない
私は里数を足した距離が帯方郡から女王国まで1万2千里だと思います。
そのほうが文章の整合性はあると思います。
なぜならわざわざ1つ1つ国を上げてその国と国の里数を書いていった理由がそれだからだと思います。
1868
何故わざわざ商品名を指定するのか?
表計算ソフトではダメなのか?
>>1843
魏志倭人伝の里は正しくないと言いながら、その里をもとに計算して間違ってると批判してるのおかしくない?
魏志倭人伝の里が間違ってることを示すべきじゃない?
あなたは長里かつ畿内説でしょ?
ならば倭人部分が長里(大陸の時は長里なのはみんな知ってる)であることと長里であり里が間違ってると邪馬台国が畿内になることを示せばいいのでは?
※1846
確定できなくとも、それに比定できる古墳が無かったら里数計算とか全く意味がない。
また里数計算できるなら、九州内で邪馬台国の位置がほぼ推測できるだろ?
伊都国を含んだ九州北部に大勢力を誇り、最先端の鉄器を持っていた邪馬台国が
南に位置する狗奴国に負けた理由は何だ?
単純に考えると、狗奴国は邪馬台国より強大な国を持っていた、つまり発見される
遺跡はかなりの大規模になるはず。
これらが全て九州にあったとすれば臺與の墓も当然ながら九州にあるはず。
九州内での争いを緩和するために畿内に移動する必要は全くないわけだからな。
空白年代は想像するだけになるだろうが、大和王権が支配を拡大するにあたり、
九州勢力がまとまっていれば、大規模な戦闘になるはずだから、その痕跡が
必ず残っているはず。
邪馬台国から大和政権に移る行程を、上記の事を全部踏まえた上で、九州派は
どれだけ納得できる整合性を持って推測できる?
箸墓古墳は前方後円墳
前方後円墳は大和朝廷発祥
完璧な前方後円墳は箸墓古墳から始まる
箸墓古墳の造営は3世紀末から4世紀
卑弥呼の死は248年前後
とてもおしい
今では卑弥呼のお墓説も大分下火になってしまったね
南九州の土器って面白いよね
一時は九州北部まで勢力が伸びてるのにどんどん南に追いやられてるのが分かる
卑弥呼率いる北部九州連合の前に破れたんだなぁって感じだよね
やっぱり鉄剣や鉄の鏃や矛の力なのかな?
もしかしてその南九州人が生口として献上されて刺青や裸足の習慣だと思われたのかなぁ
※1879
狗奴国がのちの大和朝廷
前方後円墳は日向と大和でより多く見つかっている
しかも日向には前方後円墳の前身の帆立貝型古墳もある
邪馬台国より強大だった狗奴国が空白の4世紀の覇者となった
その後北部九州も平らげ倭の五王が朝貢したと考えると記述と合う
畿内説は倭人伝の何を正しいと思ってその説を唱えてるの距離も、方角も違うんでしょ
答えてくれ畿内説に倭人伝必要ないよね?
1879
>狗奴国に負けた
いつ負けたんだよ
この時点で既に破綻してるやん
邪馬台国が大和朝廷なら空白の100年の間に争いや文化の入れ替わりは必要ない
大規模な文化の入れ替わりが邪馬台国が大和朝廷ではないことを表している
※1879
一見筋が通っているように見えて全体的に何となく意味が通じない文章
何だか不安になる
※1846
纒向遺跡が出てるんでw
とりあえず九州から何か出るまではおとなしく認めとけよ
何か出たらその時聞いてやるから
はい終了
※1882
臺與の墓は? 倭の五王が九州の大王だったとして、その五王はどこに居た?墓は?
畿内の纏向遺跡の勢力と争った形跡は?
※1880
卑弥呼の死後、倭国は大乱になったから、すぐに古墳の造営なんてできない。
臺與が女王の跡をついでからと考えるのが普通だろ?
※1852
外れるというか話半分だね
もともと文献なんてそんなもの
※1856
遺跡と出土品があるんで諦めてどうぞ
>>1888
倭の五王は日本書紀に書いてあるだろうが
※1890
ただ広いだけなんだなぁ…
※1889
また1つ畿内の根拠がなくなってしまったじゃないか
※1857
つまり東遷もなかったってことか
皇室に九州は関係ないと
>1875
三千里だから、n=3000にしたんですか!!!!!!
思っても見ませんでした!!!!!!
ここでいう試料数nは、50,100,70で1個2個3個って数えるんです。
標準誤差を出すときに分散を試料数nで割るのは、平均を出すときに全部足したあと試料数nで割るのと同じです。
50点と100点と200点の平均を出すときに、350で割ったらどうにもならないですよね。
ここで、間違っていると言われるとは思っても見ませんでした!
統計については、私が正しいです。
※1887
纒向遺跡に出土した邪馬台国を思わせる出土物はなに?
残念ながら掘れば掘るほど邪馬台国とは関係のないことがわかってきてる状況だぞ
魏史倭人伝に記述されてるものは徹底的に出ないし、九州中国朝鮮の遺物もほとんど出ないし、逆にどうでもいい土器ばっかりでる
※1892
時代もぴったり
※1893
謎理論爆誕
※1858
邪馬台国が畿内なら、九州から中四国と畿内だから邪馬台国といい勝負
>1891
1888は、九州説で倭の五王も九州王朝って言ってる人に、それはいったいどこにいたんだ?って訊いてるんですよ。倭の五王は日本書紀に書いてある通り、大和朝廷の天皇だという立場です。
なんだかコメントの進みが早くて、コメ番を追うのも大変ですが。
※1896
お前の中ではそうなんだろうな
現実は畿内説に寝返る考古学者がどんどん増えていまや9割
※1883
出土品・遺跡>>魏志倭人伝>>>>>記紀
こんなもんだね
魏史倭人伝に記されている考古学的遺物は残念ながら九州が圧勝だ。もう勝負にならないと言ってもいい。
だから畿内説派も九州にまたがる大連合だと言っている。魏史倭人伝の記述が九州に集中してるおり畿内のことは全く書いていないことは畿内説派も認めているところだ。
しかしながら当時奈良と九州及び中国朝鮮と交流してた形跡がほとんどない
全くと言って良いほどない。
ここを論理的に説明できる畿内説の人はいる?
勉強になるし是非とも論じて欲しい
ちなみに巻向の土器の割合は現地付近が85%地方が15%、その地方15%のうち九州は1%未満だ
つまり0.15%未満というこど
>1878
>その里をもとに計算して間違ってると批判してるのおかしくない?
その里の計算の、考え方と計算そのものがおかしい、という話です。
その里を元に計算しているのではなく、その里の出し方からしておかしい、ということです。
よろしいでしょうか?
※1880
>箸墓古墳の造営は3世紀末から4世紀
>卑弥呼の死は248年前後
>とてもおしい
>今では卑弥呼のお墓説も大分下火になってしまったね
広瀬和雄はその時期を3世紀中ごろ[3]、白石太一郎は3世紀中葉過ぎ[4]、寺沢薫は260~280年頃[5]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけて[6]としている。
「ウィキペディア箸墓古墳」
しれっと嘘つくなよドンピシャだろが
燃え盛っとるわ
倭人伝に書かれている行程で遺跡レベルで場所が確定してるのは伊都国-奴国だけ
すなわち糸島の三雲遺跡から博多の比恵那珂遺跡まで
この間の距離は現在の道路を使って22kmある
当時の道は不明であるがこれより短いとは考えられない
倭人伝では100里と記載されている
短里など問題外
※1902
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
かつての畿内説の根拠
魏志倭人伝、距離、短里、地図、七万戸の住居、唐古鍵遺跡、土器(絵付)、三角縁神獣鏡、箸墓古墳、日本書紀、神功皇后、邪馬台国、大和、卑弥呼(天照大神)、前方後円墳、銅鏡、銅鐸、水銀、聖徳太子
現在の畿内説の根拠
纏向遺跡、水銀、三角縁神獣鏡(コピー)
※1907
優先順位があると言ってるだけだぞ
大したものが出てこないからといって、
倭人伝や記紀を都合よく読んで喚いてる九州説が頭おかしいだけ
魏志倭人伝をもとに
畿内ルートを考えた
その一、投馬国、四国高松説
その二、投馬国、出雲説
その三、投馬国、吉備説
最有力が四国高松説、投馬国からさらに海を渡る理由が明確で本州に行くため、そしてついた先はもう邪馬台国の領土、陸を1月も邪馬台国内を移動したから他国なんて不要
その次が出雲説、また海に出る理由は山を避けて若狭湾に行くため、もちろん京都から南は邪馬台国の領土
最後は吉備、海に出る理由が希薄、でも上陸した後からは邪馬台国の領土
邪馬台国の直轄領土が広かったかは発掘待ち
>1902
ワロタ
考古学をもとに九州説を主張するとは無謀としか言いようがない
ほれ、庄内式土器の九州北部での分布だ
ttp://yamatai.cside.com/katudou/image/238-11.gif
残念ながら伊都国が九州にある以上、北部九州を征服しないと魏志倭人伝の邪馬台国とは認められない
その証拠はまだ纏向遺跡からは見つかっていない
残りの未発掘の場所から見つかるとの主張は考古学的とは言えないが、これからの調査に期待する
九州説はバカだけど無駄に粘り強いね
サンドバックとしては有能だけど
※1902
ものすごい自信だが考古学的遺物においては畿内が圧倒しているというのが通説
誰がそんな事言ってたの
それに九州に邪馬台国があった事を証するような考古学的遺物とは何ぞ
へー、庄内式土器って全て畿内で製作されたと思ってたら各地で生産されてたんだ
ちょっとづつ文様も違ってて古墳に副葬品として置かれたものはより文様がはっきりしてる
その文様で製作地も分かるなんてかっこいいね
きっと弥生時代のグッドデザイン賞取ってみんな真似したんだね
全国的(釜山~関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)
河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない
今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない
胎土観察の結果、庄内式土器の次の段階の布留式土器である布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった
初期大和政権の拡張と庄内式土器、布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた
頼みの庄内式土器ですら纏向遺跡を裏切るのかい?
纏向遺跡の根拠はこれから出土するであろう七万戸の住居跡に託された
前方後円墳と三角縁神獣鏡もあるよ
「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた土器についての決定的反証となる庄内式土器研究会の研究成果も存在してる
これが考古学的資料ということでいいだろう
長かったなあ。
結局、畿内派を頑なに否定する人はいても
畿内派以上にこれは、という候補を上げれる人が
一人もいないのなら新たな発見がない限りは
畿内有力としておくしかないんじゃ?という話だったなあ。
確証がないことについてその説は間違ってるぞってだけの話ならいくらでもできるからなあ。
九州派は都合の悪い事は絶対答えないか、誤魔化ししかしていない。
この時点で九州派は議論できる立場にすらないんだよ。
筑紫野市御笠地住居跡から蝙蝠座鈕長宜子孫鏡が発見された。
この鏡は、位至三公鏡と同様に、邪馬台国時代の魏晋鏡である。
三角縁神獣鏡以外にも魏の鏡ってあるのね
※1902
時々こういう風に畿内説が有利とされてる点を
まるまる九州説に書きかえて投稿してるヤツがいる
当然みんなに突っ込まれるに決まってる
そういう芸風なのか?
>1915
その播磨がヤマトの版図なんだが
九州だと卑弥呼の死から庄内式土器が増えるみたいだ
これって卑弥呼の女王国が九州でそのあとの壹與が畿内の邪馬台国という証拠
画文帯神獣鏡も魏の年号入りのが見つかっている
大阪だったかな
ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造である
画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の二種類の鏡の鉛同位体比を見ると、ほぼ同じ領域で分布している。しかし、画文帯神獣鏡の一部は、三角縁神獣鏡の分布領域からはみ出している。
これは、中国南方の銅で作った画文帯神獣鏡などの銅製品をまとめて溶かし、国内であらたに三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡を製作したことが理由と考えられる。つまり、中国からの輸入品は成分がばらつくが、国産の鏡はブレンドによって成分のばらつきが平均化されたことを示している。
さらに画文帯神獣鏡には呉の南方の銅が使われている
これは魏が呉を倒し、統一したからこそ作られた鏡である
このことからもこの二つの鏡が卑弥呼の鏡ではないことを物語っている
※1910
その図のあるウェブページに以下のことが書いてあった
”北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。
これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。”
少なくとも考古学的資料に基づけば纏向遺跡は邪馬台国ではない
>1915
後の時代のことをどこまで援用してよいかという問題はありますが、古墳時代に入ってから古墳が大和柳本古墳群に作られる頃で、首長系譜が四系統程、読み取れるそうです。また畿内の大古墳が、大和古墳群、佐紀盾列古墳群、馬見古墳群、百舌鳥・古市古墳群と、4~五カ所に作られることを考えると、纒向の母体となった畿内勢力も、それくらいの数の連合勢力と考えるのが妥当かもしれません。そう考えると、唐古鍵だけでなく和泉の池上曽根遺跡も、纒向の母体勢力と考えてよいのかもしれません。そうであれば、庄内式土器の中心が河内でも別に問題ないのでは?と思います。
古代の出雲も四隅突出型弥生墳丘墓の範囲と、広く考えてよいのかもしれませんし。
>1927
安本氏は考古学の分野は素人だからそういうトンチンカンなことを言う
九州における庄内式土器はあくまで外来土器として九州各地から出土してるだけ
それぞれの場所でメインに出土するのは在地の土器である
庄内式土器の出土量はもちろん圧倒的に畿内が多い
つまり畿内人が九州各地に広く移動して行ったと解釈できる
分布図だけを見て九州の方が広いから庄内式土器は九州発祥だなどとトンチンカンな解釈するのは考古学無知を晒しているのも同然
しかし何かのアンケート結果によると
世間の7割だかは邪馬台国は九州と思ってるらしいな
もう畿内説で9割決まりなのになぜか学校は畿内説と九州説が半々で対立してるかのように教えるし
そんなに詳しくやらないから日本史の1~4世紀の頃は非常に漠然とした記憶しかない
1世紀に奴国が金印貰ったと後漢書にあるとか3世紀に魏から三角縁貰ったと魏志倭人伝にあるとか
やればすぐ邪馬台国は畿内とピンと来るのにな
今は違うかも知れないが特に金印とか江戸時代に発掘されたからという事で
江戸時代で紹介するせいで1世紀の奴国、九州福岡のものという印象が全然ない
これは金印に「漢の倭の奴の国王」とあるから、
九州北部は1世紀から奴と呼ばれてきて
魏志倭人伝にも登場する奴国だな、では九州北部は邪馬台国ではなくて奴国なんだなと
連想されるのを防ぐためにそうしてるとしか思えない
天皇の権威化につながりそうな物はできるだけ排除したいという
九州説にはどうにも左翼思想が絡んでいるフシがある
※1910
で、そのデータが何を意味するのか君の口から語って貰おうか
と言おうとしたけどすぐ下で語ってくれてるやん
※1913
はいよ※1177
魏史倭人伝に記述されてるものね
畿内で邪馬台国の証拠だという遺物の発掘結果はよ
こういう話題になると行程パズル厨はチンプンカンプンだろうな
短里説が終わってほっとしたら、また出土遺物論に戻るんですねぇ。
結局は、三角縁神獣鏡を魏志倭人伝の卑弥呼に下賜された銅鏡百枚かどうかなんですけどね。
今のところ、そう考えて大きな矛盾はないというのが多数説です。
丹がどうとかって話をする人もいますが、丹のような物質は何時の輸入か特定できないので、決め手にはしづらいですよね。
それと前にも書きましたが、倭國王帥升の朝貢から卑弥呼の遣使まで130年間が開いています。その間中原の皇帝からの下賜品はありません。九州では漢式鏡が出るというのも、その辺の中断を考慮する必要があると思います。
※1931
一昔前のテレビのDボタンかなんかのアンケートじゃないか?
九州説畿内説それぞれの根拠を順を追って説明していくという内容で、番組の始めと途中と最後に視聴者アンケートがあった
番組始まる前の調査は畿内説が多かったけど、番組最後のアンケートでは九州説が多数派になっていたというやつ
それにしても思想と考古学を結びつけようとするのははなはだぶっ飛んでると思うぞ
まだ町おこしの匂いがすると言った方が同意が得られるであろう
※1926
金属考古学の鉛同位体の鑑定結果はどうにも実際の考古学的事実と一致する事が少ないらしい
時代も場所も違う所で作られた鏡が一緒の数値になったり
同じ時代に近くで作られた鏡が別の場所のものという数値が出たりして
銅の産地特定には使えないそうだ
これは銅製品の鉛同位体の量は銅の産地によって違うわけではなく
精製過程における加熱量の違い、または混入する鉛の量によって違いが現れるのであり
生産地によって銅に含まれる鉛同位体は変わらないという事が考えられると何かに書いてた
※1935
まあ陰謀論の一種になるんだろうな
しかし九州説を支持しているのは東大というのも何かの符合を感じる
※1936
魏で作られた鏡はばらばらで国内で作られた鏡がまとまってるなら
やっぱり国内のものはブレンドでいいんじゃない?
※1934
魏志倭人伝が信用できないなら出土物で議論するしかないし
畿内が考古学的に正しいなら遺物がその証拠になるし
有機物は3日すると腐ってなくなるなら、古墳と金属と焼いた土である土器と遺構を研究するしかないし
1929
もう日本全国が纏向遺跡でいいですよ
※1934
三角縁神獣鏡が魏で作られたとする証拠はただの1つもないが国内産とする証拠は多いというのが現住所だろう
結局の所、魏から賜ったものかを確かめるものことができない以上、中国産の遺物が多い方が有利となる
まあ圧倒的に九州だから困るんだろうけどこれは考古学的事実であり事実には誠実に向き合わないといけない
庄内式土器は北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての限られた地域にしか分布しないのが特長である。そのため、近畿の土器に吉備の土器が影響して出来たとする説や、逆に、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。
※1941
逆逆
魏で作られた鏡という証拠しかない
※1943
おkすごいな
三角縁神獣鏡が魏製であることを証明しようと今も寝ずにがんばってる学者が卒倒するだろうな
布留式土器は、地域的変化をともなわず画一的に九州から東北地方まで展開していった
もしかして庄内式土器と布留式土器をごっちゃにしてない?
画一的なのは古墳時代の布留式土器だからね?
これもまた卑弥呼とは時代が違うからね?
それにして前方後円墳といい鏡といい土器といい古墳時代に一気に日本列島が統一されていく
(ばらばらなのが弥生時代、統一されていくのを古墳時代と区分しただけなんだろうけど)
大和政権恐るべし、弥生時代にはいなかった馬でも導入したのかな?
弥生時代にはぱっとしないのに卑弥呼の死をきっかけに今までの地域分立は壊されている
卑弥呼の死でまとまりを失ったそれまでの九州をはじめ地方政権は大和朝廷に飲み込まれていったようだな
卑弥呼の邪馬台国が世襲制でずっと続けばもしかした日本各地の文化はもっと多様で違ったものになったかも、畿内では今も銅鐸を祀って、九州では遺体を朱色に塗っていたかも
>1941
で、九州に3世紀の物証はどれだけあるんだ?
1世紀も2世紀も含めて九州はこんなに凄いぞと考古学的遺物を自慢してくるのが九州説のいつものパターン
弥生時代通期で見れば九州の方が多いのはとっくに認めている
2世紀後半を境にして九州優位であったのが畿内優位に逆転する
年代をごちゃ混ぜにして比較しようとするのは詐欺師の論法だ
卑怯なことをせず邪馬台国の時代の物証を出してくれ
制作された土器には地域差や形式の違いなどさまざまな要素が絡み合って全国一律というわけにはいかない。そのため近畿や西日本、東海といった地域毎にそれぞれの土器編年が提唱されている。
土器編年から正確に邪馬台国の範囲を確定するのは無理みたい
残念だ
「土器編年からわかるのは、土器を古い順番に並べることであって、年表にして何年ごろかという具体的な年代ではありません。つまり、相対的な年代であって、絶対年代ではない。
たとえば、土器のタイプから紀元前35年とか、紀元後100年というような具体的な年代は絶対に出てきません。」
土器を邪馬台国の証拠に使う試みはすでに頓挫していたのかぁ…
どの説とは言わないけど土器編年を主張してる人がいたからずっと調べてみたけど…
なにを考古学的資料として主張してたんだろう?
※1946
ちなみに逆転するのは4世紀頃からだぞ
出土物の分布を1世紀2世紀3世紀と場合分けしてる資料を見たことがないな
探してみるわ
※1944
魏志倭人伝には景初二年(238年)に倭から来た卑弥呼の使いに銅鏡百枚下賜したと出てくる
三角縁神獣鏡にも景初三年(239年)と魏の年号が入ったものが畿内から見つかっている
そして魏志倭人伝にある景初二年は実は三年が正しいのではと言われている
なぜなら景初二年は魏は帯方郡(朝鮮半島)で公孫氏と戦争中であり
倭が使者を送れる状況ではなかったから
そうなると年号は完全に一致する
まあ1年ズレていても特に問題はないが
三角縁神獣鏡には「銅出徐州 師出洛陽」(洛陽出身の鏡師が徐州の銅で作った)と銘文があり
成分分析では国内のコピー品もあるがほとんどが中国製の銅を使って作られたものと結果が出てる
国土交通省の九州と畿内の比較展示なら見つけた
※1946
鉄でよければグラフがあるが鉄は国力の証拠にはならないんだっけ?
※1950
結局のところそれら全ては推論の根拠とするには問題ないとしても、証拠ではないから考古学者が葛藤しているという現状だろう
景初四年のような鏡や、画文帯神獣鏡1枚より三角縁神獣鏡数枚が格下のように添えられていたりと扱いも不遇
鉛同位体比は1926に詳しいから省くが
三角縁神獣鏡が魏の鏡だと主張する人たちの最大のより所は「景初三年」鏡(島根県神原神社古墳出土)。景初三年(239年)は魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に任命した年だから。
しかし、三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたにもかかわらず、銘文の韻律がなってない。
・句末の押韻
第3句の「述」と第5句の「出」が隔句韻を踏むだけで、他はまったく押韻していない。
・平仄のルール
平仄の韻律は、まったく無視されている。
荘重な詔書とともに、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡が下賜されたとの主張はこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑う結果となる。「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。
外国人が着てる変な漢字Tシャツ並みの違和感だと思えば分かってもらえると思う
三角縁神獣鏡は国産
三角縁神獣鏡でも、三角縁の内側は磨かれておらず、鋳放しの状態のままである。しかし、中国の古鏡では、鋳放しの状態になっているものほとんどない。
内区と外区の間の鋸歯文は磨いておらず、鋳放しのままザラザラになっている。ほとんどの中国鏡には鋳放したままのものはないが、日本で出土した三角縁神獣鏡には鋳放したままのものが多く、三角縁神獣鏡の特徴の一つである。
中国鏡では鈕や小乳の先をきれいに磨いている。特に、小乳は円錐形でよく磨かれていて、ぐっと押すと指が切れるほど尖っているものが多い。しかし、国内で出土した三角縁神獣鏡では、鈕は研磨が粗い、または鋳放しのままのものが沢山ある
こんな粗悪品を下賜された倭国最大の国家である畿内の邪馬台国の面子は丸つぶれだな
今まで中国の鏡を持ってた地方豪族は鏡面のゆがんだ研磨もしていない鏡を贈られて何を思ったんだろうな
あれは違う、これも違うってのまだやってるんだね。
否定だけなら簡単でいいよね。
>1949
逆に九州説の「最後の拠り所」が「古墳時代は四世紀から」なんだよ。
古墳時代の編年が3世紀なかばから、になったら、その瞬間に邪馬台国は大和で決着する。
※1932
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
つ 神獣鏡
※1954
↑という理論でなんとか抵抗出来てたんだろうね昔は
※1178 ※1186 でその時代も終わった
>1952
そもそも鉄貧乏の奈良で誕生したヤマト王権が全国を統一したのだから鉄と国力の関連性はない
九州説は「木を見て森を見ず」、細かい所の辻褄合わせにだけは詳細に書き込むのに、
歴史の大局や最も重要かつ見つけやすい古墳に関する明確な回答が全くできていない
1959
1960によって鉄は否定されてまっせ
※1826
大変興味深い
福井もすごい
※1960
鉄と国力の関係は相関してるから、これは歴史が証明している
そもそも大和は武力で日本を統一したわけではなく、各地の豪族があつまって平和的にできあがった集合体だと言われている
だから国力がある大和が統一したというより、国力が高い国々が参加してできあがったと見てよい
ちなみにその大和には一番遅くに九州が参加している
四道将軍派遣も物騒に聞こえるが、争いの痕跡はない
唯一抵抗したと思われるのは出雲だけ
※1959
※1178と※1186を最後まで読んだか?
※1178は皇帝直属の工房の工人に特有な技術であると突き止めたと言ってるけど
それがどういった技術で国産品とどう違うのかということを全く説明していない
また魏の工人が魏で作ったのか倭に招かれて作ったのかも言及していない
※1186は三次元測定の結果、出来・不出来で国産か中国産かを区別しようとしていたのが
全ての鏡が国産品もしくは全ての鏡が中国製の可能性があることを示唆したと言っているだけで
研究者も記者も国産としている。
>1964
鉄貧乏のヤマトに国力があったからこそ求心力があったと解釈すべき
何もない弱小国のもとに各地の豪族が集まると考える方が非現実的
全国統一を完了する前の3世紀後半にすでに鉄が豊富な奴国は実質的にヤマトの植民地化していることをどうとらえる?
出雲が抵抗ってなんだそりゃ?
記紀の神話をオレ様解釈してるのか?
出雲は古墳時代を通じて半独立地域だ
最も遅くヤマトの傘下に入ったくらいだし、抵抗したとか根拠なし
※1966
大和の勢力って何?
纒向遺跡の時点で既に祭祀に特化した都市づくりで、争いや征服の痕跡がなく、地域の土器が搬入されているから各豪族の合意のもと作られた人工都市だと推定されているんだけど
ということは纒向以前の勢力ってことだよな?
それはどんな勢力だったの?
3世紀後半奴国がヤマトの植民地ってどんな認識で言ってるんだ?
よくわからん
3世紀の時点でほとんど纒向と北九州は交流がなかったが3世紀後半~4世紀頃から北九州が大和に合流した形跡はあるけど
これも争いがなく北九州の文化がそのまま取り入れられるような形で合流しているから、植民地とか戦争の結果ではなく平和的に合併したと思われている
出雲は最後の最後まで大和勢力に合流しなかった、この記憶が記紀で言う出雲の国譲りの物語に語り継がれたのだと思われる
>1966
記紀に記された(どっちだったかな?)大和による出雲の神宝簒奪の話だと思う。
出雲振根の話で、神話の時代の話ではないよ。
>1967
1929を読んでみてください。
大和朝廷は各地の豪族に共立された連合体ですが、その大和自体も古墳時代の首長墓の系譜から、4~5つの勢力があったようです。そのうちの有力なものが、唐子鍵や池上曽根遺跡の勢力でしょう。それに大和盆地北部の佐紀盾列の勢力(記紀で言えば佐保)と西部の葛城を足せば、4つになります。
3世紀後半に入る頃の様子が魏志倭人伝に書かれていて、奴国のあたりは「みな女王国に統属す」と書いてあるので、邪馬台国が大和なら奴国のあたりはそれに従っていたということが1966に書いてあることですよ。
九州説の人(たち?)に聞きたいのですが、吉備の楯築墳丘墓のような大規模弥生王墓が作られる時期は、どの時期だと考えていますか?
倭国大乱の前、後?
卑弥呼の共立の前、後?
※1969
つまり鉄がなくても国力があったというのは間違いで、ある程度の国力がある地域が連合した結果高い国力を誇るようになり求心力が生まれたという話だろ?
そして最終的に九州の上流文化を取り入れる形で大和王権が完成したと
この時点で唯一大和に参加してなかった大勢力が出雲
※1965
http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/060908asahisankaku.htm
1968
出雲振根の話は10代崇神天皇の話だから、神功皇后(卑弥呼)より前では
※1972
結局この記事も確証を得たと言ってるだけで、国産との比較やらが写真やらが一切なく、また魏の工人が倭で作ったのか魏で作ったのかも言及してない
さらにこれは10年以上も前の記事で、今に至るまで氏の発見が証明されていないという証拠ではないのか?
>1967
>大和の勢力って何?
近畿一帯で土器形式が統一化されている
それなりのローカル勢力が存在していたと解釈すべき
>3世紀後半奴国がヤマトの植民地ってどんな認識で言ってるんだ?
3世紀後半には奴国の中枢部で畿内系土器が増えていき過半数が畿内系土器になる
九州で真っ先に前方後円墳が造られ三角縁神獣鏡が副葬される
これを植民地のようだと表現したまで
弱小国のもとに全国から諸勢力が集まってくると考える方が不自然で非現実的
背景には国力があるからこそ求心力が生まれる
ヤマトがローカル勢力時代に複数勢力の集合体であっとしてしも本質は同じ
ほぼ同年代に同じ天武天皇により作成指示され、文面と神名と記述内容が違う記紀のそれぞれのコンセプトとターゲットと狙いを把握すればある程度見えてくる。
古代天皇の年齢が春秋歴を使っていたとみれば、大体の辻褄はあう。
※1975
大和のローカル勢力とやらが、大和の豪族連合というのなら別に反論はしない
副葬品については、大和こそ北九州の剣珠絹のような副葬品文化が流入してるからその論でいくと大和が九州の植民地というべきではないか?
もちろん実態はそうではなく、九州も遅れて大和に合流しただけで、九州の文化は大和の上流階級に取り入れられたし、大和の副葬品も北九州に流入したというだけだろう
というか大和の文化がごっそり九州の文化に入れ替わってるので、九州がどれだけ大きい待遇だったかわかるというもの
というか大和の頂点が九州勢力になったんだろう
>1977
>というか大和の文化がごっそり九州の文化に入れ替わってるので、
>九州がどれだけ大きい待遇だったかわかるというもの
>というか大和の頂点が九州勢力になったんだろう
どこをどう評価してごっそり入れ替わってるんだ?
なんか根底のところでの理解が違うようだ
古代史の通説となってること、教科書に書かれてることさえひっくり返そうとしてるなら話がかみ合いそうにない
※1974
>結局この記事も確証を得たと言ってるだけで、国産との比較やらが写真やらが一切なく、
じゃあ頑張って彼の本でもなんでも見ればいいと思うよ
>また魏の工人が倭で作ったのか魏で作ったのかも言及してない
畿内と魏の繋がりがあるかないかが議論の目的であって、魏産か国産かはそのための手段の1つ
>さらにこれは10年以上も前の記事で、今に至るまで氏の発見が証明されていないという証拠ではないのか?
ある程度重要な成果ということは言えるのでは
そして特に反論もないということでは
※1979
×九州の文化
○中国の文明
では?w
九州説のひとはヤマトタケルとかが各地を征伐して行った話などはどう捉えてるの
三角縁神獣鏡に対して、やれ国産だ、景初四年と存在しなかった
年号の物もあるから偽物だ、
銘文の韻が踏まれてないから魏の皇帝からの下賜品ではない…などなど、
様々な意見がある。
しかし、構わないのである。
三角縁神獣鏡が国産品でも、例え景初四億年と刻まれた偽物でも、
魏の皇帝からの下賜品でなくても、畿内説にとって全く何の問題もない。
なぜなら、三角縁神獣鏡には魏の年号が刻まれているからである。
魏との交流がなければ、国内で三角縁を作るにせよ
景初、正始という魏で使われている年号自体を知りようがない。
すなわち、魏の年号が鏡に刻まれている事自体が、
出土地の畿内と魏との交流を示す証拠なのである。
ゆえに、もし三角縁神獣鏡が例え国産品の偽物であり
魏からの下賜品でなかったとしても、それが例え紙粘土で作ってあったとしても
景初、正始と魏の年号が刻まれている以上、
それは魏と畿内との交流を示す証拠となるのである。
確かに幕末は九州近辺の藩が海外の文明をいち早く取り入れたことで本州勢力を駆逐したが、戦国時代はそうではなかったよね。そこを思い出して欲しいと思う。
畿内の古墳からは、景初三年だけじゃなく、その前の青龍三年の鏡も出土しているぞ。
>1977
>九州も遅れて大和に合流しただけで、九州の文化は大和の上流階級に取り入れられたし、大和の副葬品も北九州に流入したというだけだろう
このあたりは、想像混じりになるので強くは言いませんが、そもそも卑弥呼が共立されたのが、「倭国においての正当な王統」に繋がる血筋だったからではないかと思っています。
1976に
>文面と神名と記述内容が違う記紀のそれぞれのコンセプトとターゲットと狙い
と書いていただいていますが、古事記の本来的な目的は「大王家および各豪族の由来・系譜」を書くことだったと思っています。日本書・紀は、正史としての歴史書でしょう。
その中で、神武の東征(東遷?)が書かれているのは、それが「倭国においての正当な王統」の大和への移入を記録するものではなかったかと考えています。そう考えると、北部九州の合流が遅れるのは、本家筋の意地のようにも見えます。まあ、ただの推測ですが。
>1973
>出雲振根の話は10代崇神天皇の話だから、神功皇后(卑弥呼)より前では
記紀の紀年はそのままでは信頼できないと思っています。神功皇后(卑弥呼)は、日本書紀編纂時の作為的な混同で、干支が二運、120年移動されているとも言われています。
邪馬台国の時代は記紀に纏向に都したとそのままに書かれている、崇神、垂仁、景行の頃だと思います。「出雲振根の話は10代崇神天皇の頃」というのは、むしろ時代的にちょうどであり、伝説扱いされている頃でも、史実に近い伝承も記録されていることをうかがわせます。
朝鮮半島南東部の辰韓(秦韓)は秦からの亡命集団で漢以前の中国語を話していたし、日本海側と貿易してたから、中国の年号が刻まれた三角縁神獣鏡は出土場所からみて、その人たちが日本で作って上げたのかもね。
日本書紀は中国に対して、大和朝廷の正統性を訴えるために作ったのは全員知ってる。
だから、魏志倭人伝の卑弥呼を登場させないわけにはいかなかった。
古事記との違いはそこにある。
結局、弥生時代の1世紀~2世紀初めの倭國王帥升の朝貢の頃までは、確実に九州北部が倭国の最先端地域で、古墳時代に入ると大和が日本の中心になる。ここまでは、ほぼ誰も異論がなくて、この間に入る邪馬台国の時代が、九州北部に倭王がいる時代なのか、倭国の中心が畿内に移ってからなのかというのが、焦点になる訳です。
でも、編年の上で古墳時代が4世紀になったところで、纏向遺跡が古墳時代の始まりの地であることは動かないし、纏向に各地の勢力が集まって「新しい祭祀の場」を作り始めたのは、九州派がどうがんばったところで3世紀半ばには始まっています。この「新しい祭祀」を始める理由が、卑弥呼の共立以外には現在のところ見出せないのが、九州説の一番弱いところだと思っています。
邪馬台国が日本史において重要なのは、卑弥呼が共立された倭王であり、倭国・日本というこの国の起点と考えられているからであって、兵士が鉄の鏃を使っていたからではありません。
九州派の人が、なぜ鉄と絹にこだわるのか、正直に言うと不思議です。ポイントはそこではないだろう、と。
以前は卑弥呼の100枚の銅鏡は三角縁神獣鏡だとされた
三角縁神獣鏡が1000枚以上見つかるとオリジナルとコピーがあるとされた
全て、魏と違う製法だと分かると特別に作ったとされた。
専門家が見てもオリジナルとコピーの差はなく、議論が続いている。
これをオリジナルと寸分違わぬコピーを作った倭がすごいと見るか、全部国内製と見るかはあなた次第。
3世紀半ばだと卑弥呼死んでるから、そこは3世紀初めと捏造しといたほうがいいよ。
卑弥呼(ひみこ、生年不明 – 247年あるいは248年頃)
3世紀半ばで間違いないだろうに。
※1978
そもそも豪華な副葬品を供えるというのは北九州の文化だし、剣、鏡、勾玉、絹などを副葬品にするようになったのも九州の影響だぞ
矛の使用もそうだ
今までに畿内になかった文化が流入している
もちろん豪華な副葬品を供えるのは上流階級のお墓であるのだから
北九州が畿内の上流階級に多大なる影響を与えたのは間違いない
確証がないので深くは掘り下げないが記紀の伝承とも合致している
※1979
>じゃあ頑張って彼の本でもなんでも見ればいいと思うよ
急に宣伝はやめてくれw
本を買う気はないが論文などが公開されているのなら読みたいとは思う
>畿内と魏の繋がりがあるかないかが議論の目的であって、魏産か国産かはそのための手段の1つ
三角縁神獣鏡の研究者の論点はつまるところ国産か魏産かである
そのような議論の目的があったとは初耳だし、上でURLが載せられていた学者も私もそんなことは論点にしていなかった
>ある程度重要な成果ということは言えるのでは
>そして特に反論もないということでは
正直この学者さんの主張ははじめて知ったが、彼の主張が認められているのならもう三角縁神獣鏡の国産かどうかという話は決着がついているということ
反論があったかどうかとかまでは全く知らないし、学会での認知度も成果も知らないけどまあそういうことなんじゃないの?
知らんけど
日本で一番大きな勢力があったと思われる場所が「邪馬台国」なのではなく
魏志倭人伝の記述通りの場所が「邪馬台国」のあった場所なのである
畿内説の人間は
日本で一番大きな勢力があったと思われる場所が「邪馬台国」であるべきというバイアスのかかった
結論ありきで話すので当然魏志倭人伝とは矛盾する
現状畿内勢力の名前の候補は、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国のどれかと考えたほうが自然
卑弥呼の死後、攻めて来た狗奴国がやがて物部氏になり大王を擁立して大和朝廷を作り上げた
遺跡の鉄製品を見れば明らか
ここまで読んで、九州説は平気で嘘を多く吐いてきているから全く信用ならない
畿内説を攻める時は雄弁だが、自らが攻められている事項に関しては適切に
答えていない
※1988
邪馬台国は魏志倭人伝の中に登場するのでできるだけ魏志倭人伝の記述に忠実な場所が邪馬台国というだけだろう
その中で重要なものが場所であり出土物であり遺跡であるということ
魏志倭人伝には鉄、矛、剣、絹、玉、鏡などが挙げられておりこれらは魏に献上するものであったり下賜されたものであったりする
つまりそれらの品物は宝物であり最上級の品だ
ということはそれらを一番手にしているところが邪馬台国の可能性が高いというのは当然の理である
間違いなくそれらの品は女王が手中に収め、付き従う諸侯に配ったと考えられているのだから
>纏向に各地の勢力が集まって「新しい祭祀の場」を作り始めたのは、九州派がどうがんばったところで3世紀半ばには始まっています。この「新しい祭祀」を始める理由が、卑弥呼の共立以外には現在のところ見出せないのが、九州説の一番弱いところだと思っています。
こんなものは2世紀末に始まっていなければならないし、「新しい祭祀の場」を設けた話は魏志倭人伝にはなく、もっと厳かで堅牢な都市が明記されている
また、「新しい祭祀の場」を創りはじめた理由は大和朝廷の誕生であると、その後の発掘や大和朝廷の動向を見れば疑いようがないではないか
記紀の記録からもこれは疑いようがないだろう
畿内で争いの跡がないなら邪馬台国ではない、なぜなら魏が狗奴国との調停をしている
戦死者まで出た激しい争いだったにもかかわらず、畿内は平和すぎる。
唐古・鍵や河内、庄内、淡路島、琵琶湖の勢力が共立したとしたら銅鐸はどうしたんだろう?
剣じゃなくて銅鐸こそが神器となるべきじゃない?
纒向遺跡からはコンテナ1,000箱ぶんも土器出たがほとんど畿内と東海だったことが分かってる
どうやら、畿内の文化は兵庫あたりで止まったらしい
吉備が強く、その先に行けなかったと研究者のほとんどは考えている
鉄は日本海側から得ていたことは既に判明している。
北陸との繋がりは相当深い
逆に九州も吉備に阻まれ、畿内の物資が入ってこない
水銀を中国から輸入していたことがその例として上げられるだろう
古代吉備帝国の全容が明らかになる時が弥生時代の謎が解ける時かもしれない
>1994
>魏志倭人伝の記述通りの場所
まだ言いますか(あきれ)
そんな場所は日本のどこにもない、というのがコンセンサスだと思っていました。
ここまでのこのコメント欄の議論でも、
夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害
計其道里、當在會稽東冶之東
とあって、會稽東冶之東、つまり南国と想定されていて、倭国そのものではなさそうな南国の事物(獮猴、黑雉)も書かれている
献上品に「丹木、」が含まれているが、これは山海經にあるような伝説の木であり獣であり、倭国はそういう古代からの伝説の地と同類だと想定されている
ことが確認されています。
このあたりの記述通りの場所を、日本に求めるのは無理だと思いますが?
そして、里程は短里などなく、アバウト里とでも考えるしかないのも、確認されています。
短里節の人の言うとおりの条件で、統計処理して区間推定すると、比定地が確実な陸路部分で
116.7(-73.1~306.4)ただし( )内は95%信頼区間
になることへの反論はなくなっていますので、短里で記述どおりの場所を探せるはずもないことは分かっていただけると思います。
で、「魏志倭人伝の記述通りの場所」の場所の候補地を挙げていただけると、適否を検討できるのですが、いかがでしょうか?
2001
つまり魏志倭人伝の邪馬台国に地図上で一番近い纒向遺跡を全否定するんだな?
畿内説派と戦争する覚悟があるんだろうな?
1万2千里も短里だと畿内になるって分かってるんだろうな?
伊都国までは場所が分かってることも否定するんだな?
魏志倭人伝の里数が正しいからこそ、伊都国の場所が確定できるんだぞ?
邪馬台国の九州における拠点もなかったとするんだな?
魏志倭人伝の中で唯一正しいのは畿内までの距離
コンセンサスではなくそれが真実
>1992
ヤマトの葬制は全国各地の影響を受けているが北部九州からの影響はその一つに過ぎない
所詮、”one of them”ということ
※2001
魏志倭人伝の記述通りの場所は纒向遺跡
適否を検討しろよ、九州さんよ
>2001
116.7(-73.1~306.4)ただし( )内は95%信頼区間が正しいとするなら
95%の確率で1里は-73.1m~306.4mに収まるという意味であり
1里400mの確立は5%もないという意味?
>1997
>間違いなくそれらの品は女王が手中に収め、付き従う諸侯に配ったと
この諸侯に配ったものの第一候補が三角縁神獣鏡なんですよ。この考え方が、三角縁神獣鏡が多く出る畿内が邪馬台国の比定地になったもともとの理由です。
>また、「新しい祭祀の場」を創りはじめた理由は大和朝廷の誕生であると
そして、大和朝廷の誕生の理由が「卑弥呼の共立」で何も問題はないですね?
ばっちりじゃないですか!
>こんなものは2世紀末に始まっていなければならないし
古墳時代の始まりを遅くしようとし、邪馬台国の卑弥呼の都は古くしようとがんばっていますが、卑弥呼は何度も書きますが「共立」と魏志倭人伝にばっちり書かれています。周りを武力で攻め滅ぼして従わせたわけじゃないんですよ。基本的に「共立」された王は、共立された時点ではただの御輿であり、強大な権力などはありません。その時点で、都の建設を周りに強制できる権力基盤はないと考える方が基本です。
あなたの言う「もっと厳かで堅牢な都市」は、「239年の遣使」以降の話です。それまで中原の王朝との連絡が130年途絶えていたことを無視しないでください。
239年は3世紀半ばで、全く問題ないですね? 逆に「2世紀末に始まっていなければならない」の理由を、あなたがそう思った、以外で教えていただきたいです。
>2000
>吉備が強く、その先に行けなかったと研究者のほとんどは考えている
何度も話に出している吉備の楯築墳丘墓から、神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が出たとされています。出土自体は昔のことで科学的な発掘で確認されたものではないですが、神社のご神体として伝世されていて、現在は遺跡のそばの収蔵庫に祀られています。
そして纏向遺跡から、この「毛糸の束をねじったような弧帯文様」が刻まれた木製品が出土しています。纏向遺跡の新しい祭祀には、吉備も参加していたと考えて、問題はないと思います。つまり、吉備も卑弥呼の共立勢力の一員であると。
>1988
九州北部や瀬戸内海(または日本海)の国々と良関係、半服従状態なのに鉄が少ないのは不思議。
狗奴国と対立しているのに一大率が伊都国にあるのも疑問。
九州説ではないのですが畿内の邪馬台国が九州北部の国をどう服従させたんだろうか?
>2005
>95%の確率で1里は-73.1m~306.4mに収まるという意味であり
1里400mの確立は5%もないという意味?
形式的にはそうですが、それ以前に「下限が-73メートル」になる時点で、推計として意味がないと判断するのが普通です。
※2001
全くもって同意できない
それなら記紀などは神話や異常な長寿や超常現象の類が記されているから捨て置くべきと考えるのか?
そうではないだろう信憑性のない記述はあれど、その中でも信憑性のある記述は拾うべき
「計其道里、當在會稽東冶之東」
倭人伝の距離が短里にせよ誇張にせよ、その距離に従って計算した結果だろう
現に計と書いてある
また雉も猿も存在しているし何を言っているのかわからない
その信頼区間の話は詳しくは見てないが、母数があれだけ少ないものを統計処理など無駄なこと
誇張にせよ短里にせよ、里数が長里より長くなることはないし、里数の大小が実際の距離で逆転することもない
ある一定の法則の元、長里から短縮されているのでこれはこれで参考にすべきだ
それに※1844には何の返信ももらってないしな
また、そんなに信憑性がないならなぜ卑弥呼の共立にだけはこだわるのか?
魏志倭人伝の記述をことごとく捨て置くなら、魏使が到達もしていない遥か遠い地のことをさもありそうなことを書いた夢物語だと言わなければならないのではないか?
魏志倭人伝の記述どおりの場所を点で指せといわれればそれは互いに無理なことだが円では説明できる
北九州一円だ
>2002 & 2004
正直あなた方が何が言いたいのか分かりません。
>1万2千里も短里だと畿内になるって分かってるんだろうな?
畿内派の人が繰り返し、長里も短里もなく、そもそもあてにならないから、旅程パズルではなく考古学的アプローチが主流になっている、と書いているのは無視ですか?
>魏志倭人伝の里数が正しいからこそ、伊都国の場所が確定できるんだぞ?
いいえ違います。糸島に王墓級の弥生墳丘墓などの考古学資料が出ていること、地名(怡土)の一致、一大國、末盧國、奴國の比定地との位置関係からの推定です。里数はほとんど役に立っていません。1905にも書かれているとおりです。
>魏志倭人伝の記述通りの場所は纒向遺跡
まずは、どの点をもって「魏志倭人伝の記述どおりの場所」と判断したのか示していただけると議論が進むと思います。
>1844>2009
>そして短里なんか学者の9割が認めてるのにまだ争おうとするのか
横レスだが、ぶったまげた
その学者の名前を3人でいいから挙げてくれ
※2006
>この諸侯に配ったものの第一候補が三角縁神獣鏡なんですよ。この考え方が、三角縁神獣鏡が多く出る畿内が邪馬台国の比定地になったもともとの理由です。
そもそも国産の可能性が極めて高い三角縁神獣鏡を配った勢力があったとしても、魏との関係はない
それよりも確実な魏晋鏡や、魏の下賜品に書かれている丹、剣、玉などがでる北九州が有力だと思わないのか?
根拠にしてるのがとてもあやしい三角縁神獣鏡だが、仮に三角縁神獣鏡が国産であると完璧に立証された場合は畿内が邪馬台国ではないと考えをあらためるのか?
>そして、大和朝廷の誕生の理由が「卑弥呼の共立」で何も問題はないですね?
問題大有りだろう
記紀に全く書かれていないじゃないか
一書に曰く卑弥呼が神宮皇后と同一人物だったと言われているが、これは記紀の年代操作の結果そうなっただけなのは広く支持を集めるところだろう
しかも同時期に共立勢力が複数あっても何か問題があるのか?
>あなたの言う「もっと厳かで堅牢な都市」は、「239年の遣使」以降の話です。それまで中原の王朝との連絡が130年途絶えていたことを無視しないでください。
だからこそ纏向遺跡は「もっと厳かで堅牢な都市」でなくてはならないのではないか?
>「2世紀末に始まっていなければならない」の理由を、あなたがそう思った、以外で教えていただきたいです。
卑弥呼の共立は2世紀末だから
>2009
あなたの同意が得られるとはもう期待していません。
あなたの書き込みがない時間帯は、有意義な議論が進むのに、と思っています。
>「ある一定の法則」の元、長里から短縮されている
「」は引用者
そんなものはない、と言っているんですよ。
>「その信頼区間の話は詳しくは見てない」が、母数があれだけ少ないものを統計処理など
「」は引用者
統計の話を持ち出したのは、「短里はある」派の人です。詳しく見てから論評してください。
「短里はある」派の人が、ここに何人いるのかはっきりさせてもらいたいです。あなたでないとしたら、もう一人の人は統計の話の後、沈黙しましたから、短里の話は無理筋だと判断されたのだと思います。
すべてこのコメント欄でのことですから、同意できるできないの判断は、相手の論拠を確認してからにしてください。でなければ、ただの言いがかりです。
>2009
>魏志倭人伝の記述どおりの場所を点で指せといわれればそれは互いに無理なことだが円では説明できる
北九州一円だ
魏志倭人伝のとおりの場所だとすると、會稽東冶之東に北九州一円があるのですね。
會稽ってどこでしたっけ?
と、これで済んでしまうんですよ。
會稽東冶之東というのは、里程が正しいとした場合の推定なんですよね?
※2013
>あなたの同意が得られるとはもう期待していません。
>あなたの書き込みがない時間帯は、有意義な議論が進むのに、と思っています。
反論者がいないと有意義で、反論者がいると有意義ではないのか
良薬口に苦し云々というし反論こそ議論が煮詰まるし新しい発見があるから私は嬉しいね
耳をふさげば頭が固くなる
ちなみに私は元々は畿内説派だった
理由は簡単、ただ地元だからだ
しかし調べれば調べるほど邪馬台国とは関係のないことを知った、はじめはつらかったけど受け入れたよ
邪馬台国なんかなくても大和朝廷があるし、古代の都も古墳もいくつもある(あった)から別にいいと思いましたとさ
>そもそも反論してるものを簡単にねじ伏せてこそ正しい統計の話を持ち出したのは、「短里はある」派の人です。詳しく見てから論評してください。
「短里はある」派の人が、ここに何人いるのかはっきりさせてもらいたいです。あなたでないとしたら、もう一人の人は統計の話の後、沈黙しましたから、短里の話は無理筋だと判断されたのだと思います。
今から読み返すのは面倒くさい
私は徹底的に文献に登場した短里を紹介している
※2011
9割というのは畿内説派が言ってたから真似して書いただけ
本人につっこんで欲しかったけど、横レスに邪魔されちゃったな
※2014
そうだろうな
推定というか「計」って書いてあるから計算したんだろう
2014
畿内説は方角が間違いで距離があってるのだから、会稽の東はあてにならないからこその畿内。
まず、畿内説の根拠を確認してからにしてほしい
※2014
九州を北、畿内を南にした間違った方角認識により、畿内が会稽の南になるのは地図から明らか
そして里数は短里
あとは、分かるな?
>2012
>そもそも国産の可能性が極めて高い三角縁神獣鏡を配った勢力があったとしても、魏との関係はない
1982は私の書き込みではありませんが、読んでみてください。魏の年号が刻まれている時点で、魏と畿内との連絡があったことは確実です。
そして、なぜ「三角縁神獣鏡を『受け取った』勢力」があったのかを考えてみてください。受け取った側として、それが箔付けになるからです。それだけの権威が三角縁神獣鏡にはあったんですよ。その権威の源泉は、魏からの下賜品だからと考えるのが自然です。
>問題大有りだろう
>記紀に「全く書かれていない」じゃないか 「」は引用者
では、なぜ大和朝廷が「始まることができた」とお考えですか?
あなたの立論はいつも「ない」ことを理由にします。「ある」ことは一定の説得力がありますが、「ない」ことは往々にして「悪魔の証明」を求めることになり、議論の行方を拡散します。
これも私の書き込みではありませんが、1976によいまとめがあります。記紀はそれぞれの目的に従って、書きたいことを書き、書きたくないことは書いていません。男系の天皇の正当性を強調する目的は、あなたも否定しないと思いますが。
私は強くは主張しませんが、倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼にあてる在野の研究者は多く、一定の支持を集めており、その見方を認めれば、記紀にも書かれていることになります。「まったく書かれていない」ではないですね。
倭迹迹日百襲姫=卑弥呼は、私は主張しませんが、彼女と同時代と記紀に書かれている崇神天皇が、纏向の王だとは繰り返し書いています。記紀の記述と、時代的には矛盾しないと思いますよ。
>2015
>私は徹底的に文献に登場した短里を紹介している
天柱山の話を持ち出したのは、あなたですか?
>今から読み返すのは面倒くさい
私は持ち出された短里の話は、一通りすべて「根拠にならない」ことを示せたつもりです。
時々出てきて、その間の論証は読む気がないというなら、もう無駄ですね。
今後、私が「短里はない」と書き込んでも無視してください。それでかまいませんから。
その上で、あなたが短里があるという根拠を書き込んでくれればいいです。あとは、読んだ人がそれぞれに判断するでしょう。
※2019
三角縁神獣鏡について受け取った理由については発言を控える
何の根拠もなく発言はできないから
ただ現状国産の可能性が極めて高いところは諸氏が認めるところだと思うが、国産を配らなければならなかった理由を考えたらわかるのではないか?
魏から賜ってないからである。そして魏との連絡が不足していた事実は景初四年鏡や銘文の不自然さから想定されるものである
>「ない」ことを理由にします。「ある」ことは一定の説得力があります
そういうこと。実際出土物に関する記述が「ある」九州が有利。
「ない」ことを理由にしているのではない。
ありもし「ない」ことを根拠に自説を創らないほうがいいと言っているんだよ。
記紀に書いて「ない」から100%違うとは確かに言えない
但し、書いて「ない」ことを根拠に話を作るのは、それは100%方法が違うと言える
>倭迹迹日百襲姫命
これはあなたに言っても仕方がないがこれも肝心の記紀には書いてないじゃないか
記紀に一書に曰く魏志に云う処の卑弥呼也とかかかれていたら話は別だけどさ
※2020
江表伝の1km先の話を最後まで伺いたいね
漢文が苦手なのでどうかご教示願いたい
途中でレスもらってないから
>私は持ち出された短里の話は、一通りすべて「根拠にならない」ことを示せたつもりです。
あなたが根拠にしてたレス番つぐらいあったと思うけど
その2つに両方反論したけどレス返ってきてないんだよね
まあ「示せたつもり」と言ってるので別に構わないが
まあ短里はないから、あると認めてもらった上で
ただし三国志時代には使われている証拠はないという風に認識を改めてもらっただけでも上出来と思うようにするわ
一人が推計した短里仮説の否定は短里であることの否定ではなく長里の肯定でもない
あくまでその仮説一つの否定である
東夷伝韓に関する記述に
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
韓は四千里四方とある
長里では大きすぎると思うが如何に?
2023
長里という造語は不可
里は里だ
その記述の里が正しくない
それだけ
三角縁神獣鏡の銘文の音韻と平仄問題は誰も反論しないの?
短里と三角縁神獣鏡が国産であることについては畿内説も九州説もない。
あとはそれをどう解釈するか。
短里の否定と三角縁神獣鏡が魏製だとすることはそもそも卑弥呼の時代を語る資格はない
>2015
>私は徹底的に文献に登場した短里を紹介している
天柱山の話を持ち出したのは、あなたですか?
これに「はい、いいえ」で答えてもらえますか?
>2012
あなたの苦手なのは漢文ではなく、日本語の理解ですね。
>だからこそ纏向遺跡は「もっと厳かで堅牢な都市」でなくてはならないのではないか?
3世紀半ばには十分な規模に達していると思いますよ。
あなたが思ったより小さいといっているのは、3世紀初めのころですよね?
>卑弥呼の共立は2世紀末だから
だから、そのすぐ後の時期に纏向の建設が始まっている訳ですよ。
共立時に「堅牢な都市」がある必要がどこにあるのかと聞いているのです。
「全唐文」に昔魏は倭国に範を外した(それまでの形式に囚われない)鏡を特注し贈ったとあるから
韻ぐらい踏んで無くてもいいんじゃね
2026
短里はない
三角縁神獣鏡の製作地は不明
これが正しい答えだ
※2027
はい
そのあと天柱山の話は無視されているがな、レス帰って来てない
ついでに山高○里という表現は度々あると思うが、これは全部道のりなのか?
まあ里表記でみちのりなんか書いてることはないから麓と頂上の2点間の距離と考えていいのか?
※2028
まーた口が悪くなってる
議論が思うようにいかないと口が悪くなる人多いよね
思うように反論できなくても余裕を見せるべき、客観的に見ればわかるはずだ
堅牢な都市である必要は魏史倭人伝に記述されているから
それ以上でも以下でもない
それよりこちらの質問にはなぜ答えてくれない?
一方的にこちらに答えさせるのは不公平だと思わないか?
今返信考えてるところだったら謝罪するけど
三角縁の材料の銅は中国原産
銅出徐州と三角縁の銘文にも刻まれている
※1993
>三角縁神獣鏡の研究者の論点はつまるところ国産か魏産かである
邪馬台国の所在地を探すものの論点はつまるところ魏が下賜したという鏡はどこへ行ったか?だから鏡の産地がどこかは手段の1つであって目的ではない
>まあそういうことなんじゃないの?
畿内説が優勢ってのはそういうことだね
※1994
>魏志倭人伝の記述通りの場所が「邪馬台国」のあった場所なのである
地名を追う→方角は無視して良いことに気づく→ヤマト=奈良
会稽の東を信じる→沖縄
九州説の居場所、なし!w
※1997
テンプレ2
※1998
新しいテンプレサンキュー
テンプレ4
九州説「大乱のあとがある!つまり九州」
畿内説「邪馬台国大乱ではなく倭国大乱。邪馬台国のそばで起こってる必要はない」
九州説「ぐぬぬ」
陳寿が1里を400mと認識していたことを前提に一大国の記述を書いたとき
方可三百里は
面積が300余里四方
300*400m=120000m
120km*120km=14400平方km
陳寿は当然この大きさは理解できたはずであるまた
このなかに有三千許家つまり三千の家しかないと書いてある
これを書いておかしいと思わなかった理由は何か?
距離が誇張されたならつじつまを合わせるために家の数も誇張されるはずではないか?
中国は広いしそういうのも珍しくなかったんじゃないの
纏向から15kmほどのところに2400年前の最大規模の水田が見つかってるから大和に高い国力の一大勢力がいたんだろうね
この近辺は天皇家、葛城氏、鴨氏、秦氏と有名な豪族が集まってくる不思議な場所
歴史の流れを全く説明できないのが九州説。
細かい事を見る前に大枠を年代を追って理論的に説明できなければ意味がない。
邪馬台国に勝利できるだけの狗奴国の遺跡ってどこかな?
三角縁神獣鏡が邪馬台国と無関係なんて20年前に終わった議論
やはり魏志倭人伝は短里だな
畿内と魏志倭人伝の邪馬台国を結ぶものは距離と七万戸以外ないというのが畿内説の主張?
纒向遺跡が邪馬台国だと主張してる人たちはなんか魏志倭人伝を全部否定してるけど…
箸墓古墳が卑弥呼の墓なのは円墳と前方後円墳を見間違えたからと主張されてますが、魏志倭人伝のどの部分が見間違えと読めるのでしょうか?
あの立派な墓を見間違える人間がいるのでしょうか?
山の上から見ても、横から見ても円しかないとは思えません。
それとも漢字には円しかないのでしょうか?
箸墓古墳の周りにも同時代の同じ型式の古墳がありますが、全て見間違えたのでしょうか?
不思議です。
魏志倭人伝を全否定するからこそ、纒向遺跡は邪馬台国足り得る。
全てを否定することこそ、考古学的である。
文献も出土物もいらない。
つまり全ては畿内に行き着くのである。
魏の人間は多分卑弥呼の墓は見てないよ
径百歩の大きさで殉葬100人というのも単に大きな墓だったというだけの可能性
誰かが書いてたけどこういう感じでループしてるな
AからBまでの距離は50m、BからCまでは200mでした
CからDまでの距離はどのくらいになるか?
短里厨「平均すれば125mだから、絶対に125m前後だ」
畿内説「距離の規則性もないので不明としか答えらない」
天柱山の書き込みをした人だそうです。
あとは読む人で判断して下さい。
>2031
>堅牢な都市である必要は魏史倭人伝に記述されているから
魏志倭人伝のどこに書かれているのかさっぱり分かりません。
短里なんてないし、書いてないことを読み取る能力には長けていらっしゃるようですね。
対馬と壱岐の間が里だと合わない
長里だと伊都国が畿内に近くなるから都合いいんだよ
>2043
>畿内と魏志倭人伝の邪馬台国を結ぶものは距離と七万戸以外ない
7万戸だから纒向って主張してるコメント、どれですか?
2043みたいな茶化した書き込み以外は、なかったように思いますが。
それから、短里はあるっていう九州派の人って実際、何人いるんですか?
私はずっと一人だと思ってたんですが。同時に二人居たっぽい時もなくはないですが、あれだけうるさい人が、二人も居るとは考えたくないのですが?
水行と陸行を考えれば日本海航路になる
邪馬台国の場所も里の長さも多数決で決めるものなの?
陳寿という人間を理由なく否定するならもはや何も書き込むな
自分がいかにこの史書を書いた人間を冒涜しているかわからないのか
魏志倭人伝に論拠を求めない畿内邪馬台国ならもはやここに書き込む理由はなかろう
七万戸の可能性がある遺跡は纒向遺跡以外ないからって主張だったよね?
九州には七万戸もの住居を建てる平野がないからあり得ないって主張でしょうに。
七万戸否定したら遺跡の大きさで邪馬台国が決まらないことになる
吉野ヶ里遺跡が否定された最大の理由は広さなのを忘れてはいないだろ。
話は違うけど、吉野ヶ里遺跡が発見された時と唐古・鍵遺跡の絵付きの土器が発見された時は感動したよね。
※2048
結局自分に都合の悪いことは答えてくれない
議論をそこで終了させる
歩が悪い部分では徹底的に争わないのは賢いとは思う
もしや孫子兵法を全て丸暗記してるのかな?
しかしそれは事実と歴史に対して誠実じゃないよね
こちらの質問に全て答えられるぐらいじゃないとその持論はその程度ということ
これは私も自覚してるがね
宮室樓觀城柵嚴設
を堅牢と表現したまで
こんなこと突っ込まれるとは思わなかった
※2043
魏志倭人伝にあるもので実際でも確認とれるもの
地名(対馬、壱岐、松浦、糸島、博多(儺県))と魏志倭人伝に出てくる地名で現在も辿れるくらい
今のものと一致する
ゆえに邪馬台国=大和国の可能性が高い
三角縁神獣鏡
魏志倭人伝に景初二年(238年)に魏は倭国に銅鏡を100枚下賜したと出てくる
畿内からは景初三年(239年)記銘の三角縁神獣鏡が発見されている
古墳
魏志倭人伝には卑弥呼が死んだ時径百歩(約140m)の大きな墓を作ったとある
機内には(偶然だろうけど)丁度それに符号するような
後円部分が140mの三世紀の巨大前方後円墳がある
>2053
多数決も何も、そもそも「里」としか書いてないのに、ある部分は短里であるといきなり主張し始めた人がいて、その人に説得される人も居なくはないけれど、大多数の人がその主張は根拠がないし必要もないと、みなしてるだけです。
相手をしている人のボランティア精神を高く評価してあげるべき事案ではないかと。
魏志倭人伝が書かれた時、少なくとも中国の人たちはその部分を読んで納得していたはず。
その後も引用されているところを見ると間違いとは決して言えない。
また、日本書紀も魏志倭人伝のエピソードを自分たちのこととしてそれに合うように記述している。
以上のことから国の場所や距離、風習などは実際のことだと分かる。
大和は当て字だってば
ヤマトって地名は様々な場所にあるから
※2040
狗奴国勝利君はもはやネタで言ってるだろw
丁寧な反証のおかげで短里を確信することが出来ました
ここで初めて短里の存在を知りましたが、豊富な実例で実に分かりやすかったです。
※2061
その説は一応本も出てるけどね
>2055
吉野ヶ里が否定された理由は時代が合わないことだと私は認識していますが。
墳丘墓が出ていますが、複数の遺体が埋葬されている集合墓で、一人の首長のために大きな王墓級墳丘墓を作り始める前の段階なので、編年的に合わないということだと思います。
吉野ヶ里遺跡に行って火錐での火起こしもしてきましたが、邪馬台国とは時代が合わないという解説があったように思います。
>2061
狗奴国大和朝廷説を知らないとは
もっと古代史研究を知ってほしい
正しいかどうかは別だからな
一応言っとくぜ
結構面白いと思うから、ちょっとネットで調べてみなよ
長里さんの数式よりよっぽど楽しいからさ
>2062
そういう書き込みして楽しいですか(真顔)
大和が当て字でも問題ないよ
やまとという地名で中国語で邪馬台という字が当たっている
大和は古い日本の呼び名「倭」を「和」とし、それに大をつけたもの
本来なら「ダイワ」とでも読むべきなんだろうけれど
当時の日本行政の中心だったやまとにその字を持ってきて大和をやまとと呼ぶようになった
やまとは元々山の入口(山戸)とかいう意味らしくて全国にあるようだけれど
一番大きくて三角縁神獣鏡が出土し前方後円墳と全部そろっているのな
畿内のやまと
>2047
単位を理解できていないのはわかった
1ヤード 0.9144m
15ヤード=13.7166m
1里 400m
15里=6000m
何里かは書いてあるのでそれを現在のメートル法に直しているだけ
1里400mだとずいぶんと距離が合わないが畿内説だという人たちは距離(里)は誇張された、方角は陳寿のアホが間違ったとずいぶんないいざまである
もし魏の職人製なら三角縁神獣鏡はなんでヤスリで磨かなかったんだろうな
わざわざ倭と同じ製法にしたのかな?
鏡面の磨きも他の魏の鏡と違って端に向かって歪めたんだろう?
他の鏡は均一に仕上げてるのに何か意味があるのかな?
※2057
を見るに畿内派は矛盾が多数だ
国産の可能性が極めて高い三角縁を根拠とするなら、実際の魏晋鏡が多い地域をなぜ無視するのか?
鏡を根拠とするなら少なく見積もっても1000枚、多いと3000枚はあると言われる三角縁より、本物の魏晋鏡をまず根拠にあげなければならないのでは?
卑弥呼の墓もそうだ
倭人伝の数字は全くのデタラメと主張し、邪馬台国など行ったこともないと言ってるのに
100歩の塚だけは「径」の文字以外は神のごとく信じる
まあ畿内説派の人も色々いるので、十把一絡げにして申し訳ないが
少なくともここの矛盾は九州だとか四国だとかいう前に、畿内説派の中において解決しなければならないのではないか?
>2059
>魏志倭人伝が書かれた時、少なくとも中国の人たちはその部分を読んで納得していたはず。
その後も引用されているところを見ると間違いとは決して言えない。
また、日本書紀も魏志倭人伝のエピソードを自分たちのこととしてそれに合うように記述している。
以上のことから国の場所や距離、風習などは実際のことだと分かる。
これ本気でそう思って書き込んでいるんですか?
私は陳壽も、その前の文書をコピペした部分が多いと思っていますが、納得してという前に、そもそも知らないし違うという理由もないから、コピペになるのだと思っています。
納得していた「はず」という根拠のない思い込みがスタート地点なのに、それだけを根拠に「実際のことだと分かる」と結論づける神経がすごいです。そこにシビれも憧れもしませんがね。
絹は出土してほしいよね
※2065
面白そうだから調べてみるわ
正直ロマンがある話は大好きだ
>2043
細かい点は置いておいて、畿内説の最大の根拠は纒向が3世紀の時点で倭国の都だったからだ
(この辺は30年前の邪馬台国論争と根本的に違うところ)
魏使が倭国の情勢をきちんと調査していれば、倭国王を親魏倭王に認定するのが順当だということ
さらに言えば、畿内勢は3世紀の時点で北部九州に到達しているので魏使に誤解があった可能性はほとんどない
逆に九州説は魏が偽者を親魏倭王に認定したという非現実的な陰謀論でしかない
そんな陰謀論を主張したければそれなりの根拠を出せばいいが何も示せてないのが現実
小学生みたいな行程パズルで屁理屈こねても全く無意味
短里だと何か不都合でもあるのか?
魏志東夷伝では半島の国家について道程なんか記してない。
つまり魏の人間にとっては半島の国家は「とっくに既知である」か「どうでも良かった」か。
対馬からこっちは「未踏の地」だからわざわざ道程を報告したんだし「女王国」である以上女王に会わずに帰国することもあり得ない。
んで確実に行ったと認定出来るのは九州北部だけで、畿内説では肝心の女王国に行くための役に立たない。九州北部は割に細かく記述されてるのに、畿内までの道程は丸々省略するって意味不明じゃん。
畿内に女王がいたんなら九州北部こそ省略の対象だろ。
出雲でも吉備でも畿内でもそれぞれ一大勢力があっていいし、最終的に日本国家の直接の基盤になったのは畿内なんだから、何でここまで固執するのか分からない。
ロシアで昔、建国の祖リューリクが北欧人だってことを否定しようとしたりノヴゴロドが先進地域だったことやキエフ・ルーシが本家だってことには口を噤み続けてるのに似てるなと思う。
2073
嬉しい!
私も古代の浪漫が大好きです
※2068
当時使われていた里と実際の地理と照らし合わせて換算すれば里の表記は明らかに合ってないから
不正確な記述なんだねで終わり
九州説は暗号じみた方法で正しい距離を書いてあると言っているけど
現実は長距離を正確に測定する方法がなくて大幅にズレが生じる結果になっただけ
※2069
100枚一気に作ったから仕上げが雑になったとか
>2078
当時の知識層・エリートである陳寿が1里の長さを理解していないとは思えない
面積と人口の齟齬も説明できないで不正確な記述ですますのは陳寿への侮辱ではないか
※2079
卑弥呼の時代は240~250年ころ
陳寿が魏志倭人伝を書いたのは280年ころ
多分陳寿は倭国を訪れた事はないだろう
陳寿は倭を訪れた魏使の報告書をまとめて魏志倭人伝を書いたはず
なので魏の使者が間違った数字を残していて陳寿はそれに基づいただけという可能性もある
どれを、日本ネイティブと見るかで味方が変わる。
縄文人 古墳人に変わられる
古墳人 青銅器銅鐸王朝終焉
邪馬台国 倭の五王に東西120か国征服される。
倭の五王 大陸の南朝という後ろ盾消える。
継体帝 5代前の天皇の子孫とは、上記のどれ系か? 呉越人かもしれない。
皆死んだという皇子の前後 死んだら後は、どこ系が継ぐ?
蘇我氏 亡ぼされるまでは、上記のどこ系?
天智系 蘇我氏を亡ぼして、どこ系?
天武系 日本書紀を編纂して、継体帝を持ち上げたけど・・・
藤原系 編纂完了した時は、藤原天下人だから・・・
このあたりで、 「日本」と名乗る。 さて日本ネイティブはどこ系?
※2033
>邪馬台国の所在地を探すものの論点はつまるところ魏が下賜したという鏡はどこへ行ったか?だから鏡の産地がどこかは手段の1つであって目的ではない
三角縁神獣鏡の研究者の論点はと言ったはずだが
邪馬台国論争の人からすると三角縁神獣鏡は道具の1つだね
>畿内説が優勢ってのはそういうことだね
そういう煽りはいいから
三角縁神獣鏡はその都度新しい方法で検査・検証されてるけど一切大陸産の証拠はでない
上のURLでもきちんとデータを出してる研究者の方々の結論は国産だった
2078
魏の職人さんたちの首が物理的に心配
※2080
なんで編者が倭国に行く必要があるんだよ
※2084
いやないよ
だからか自分の目で見てないから
いくら優秀な陳寿でも正確な記述をするのは難しかったんじゃないかな
仮に三角縁神獣鏡が魏製だとしたら、皇帝なり倭の使節に渡した人はびっくりしただろうな。
なんせ、鋳造した後バリはとってないし、銘文は適当だし、
鏡面は歪んでるし
しかも、九州には他にも魏の鏡はある。
九州や出雲の豪族もしたり顔で渡してくる畿内の邪馬台国人に苦笑いで返すしかなかっただろうなぁ。
※2082
ttp://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2004/040515/
ここのサイトでは三角縁の原材料の銅はほぼ中国産という分析結果が出ているよ
※2076
>「女王国」である以上女王に会わずに帰国することもあり得ない。
>んで確実に行ったと認定出来るのは九州北部だけで、畿内説では肝心の女王国に行くための役に立たない。九州北部は割に細かく記述されてるのに
勝手な思い込みw
しょうがないだろ。魏志倭人伝には「女王の都・邪馬台国」までの道程が「確実に行ったと認定出来」ないような書かれ方(水行陸行)をしてるんだし、途中から「細かく記述され」ていないんだから。
※2082
>三角縁神獣鏡の研究者の論点はと言ったはずだが
知らんがな。
我々の論点は邪馬台国の位置。
古墳時代に九州を征服した記念に九州の魏晋鏡を鋳溶かしてつくった説を支持してる
昔
三角縁神獣鏡は中国製
三角縁神獣鏡の多いところが邪馬台国
少し前
三角縁神獣鏡は倭国製
三角縁神獣鏡が1000枚以上あるのは技術力と国力の高さ
三角縁神獣鏡の多いところが邪馬台国
今
三角縁神獣鏡の銅は中国産
三角縁神獣鏡は中国との交流の証
三角縁神獣鏡の多いところが邪馬台国
俺は銅鏡がお金だった説を唱える
つまり日本初の貨幣は銅鏡だった
粉々に砕かれた三角縁神獣鏡は小銭扱いだったんだよ。
鏡が何十枚と出てくる古墳の主は吝嗇家だったに違いない。
お金を細かくする事を砕くって言うもんな
文体からすると九州大好き君は一度自分で退場宣言した人だよね?
よくやるわ。
混一彊理歴代国都之図が日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。
また1つ根拠が消えた…。
※2094
※500のこと?
※2088
文書を残す意味を理解してる?
空想上の話でいいんなら幾らでも盛れる。
マルコ・ポーロやジョン・マンデヴィルみたいにね。
官製の史書であり後世に残ることを考えたら知られている範囲では精確を期すだろうし、格上の国からの使者である以上最高の地位にある人物と対面せずに帰ったら国威を損なう行為だぞ。
そして最も詳しくあるべき「女王国」の位置が分からないような報告書なら意味がない。
確実に行った最後の場所が女王国であると推認するのが最も自然だろ。
「邪馬台」と「大和」の音が似てるって以外に畿内説を言い出す理由が思い浮かばないね。
あと「奴国」の位置に関して金印が博多湾沿岸の志賀島から出土したからっていつまでもそこにへばり付いてたと思い込むのはどうなのか。
河川の流域に出来たクニが内陸に後背地(ヒンターラント)を獲得するのは歴史的によくある事例で、アテナイがアッティカを、ローマがラティウムを、ヴェネツィアがヴェネトを制圧したように。
なのでオレは奴国が南方に領域を拡大して女王を擁立した正にそのクニだと見てる。
※2087
その検証サイトの初めの方は銅は中国産だと言っているが
結局それは測定方法が銀(Ag)と錫(Sn)の比率を元に測定する方法でそれでは意味がないと反論されており、そして鉛同位体比でもって調べてみると国産品であるという結果が出た。
また、三次元測定機で計測した結果全てが国産もしくは全てが中国産のどちらかである可能性があるとされ、その研究所の所長が下した最終的な結論としては国産品であるとしている。
遠淡海が遠江になったからやっぱり琵琶湖と浜名湖は淡水と認識されてたんだな
これで昔、琵琶湖をうみと呼んだから海と認識してた説は無くなったな
日本書紀の記述では、神武東征前に、この国々の中心となるだろうとして、「内つ国」と表記し、大和成立以前では「内つ国」と呼称されていた。
日本書紀によればヤマトじゃなかったんだ
2097のように畿内説を認めたくない、理解できない、理解したくない人に
畿内説がなぜ通説になってるかををいくら説明しても拒否反応を示すだけで無駄であろう
考古学的物証と矛盾したオレ様ストーリーで完璧な九州説を作りだしてこれで間違いないと脳内で確信しているのだから
それなら九州説を否定してやればいい
まず、3世紀に倭国王は纒向にいたというのが考古学的事実である
九州説が成り立つためには、魏使が認識していた倭国王は偽者であり別の場所にいたという仮説を作りそれを証明しなければならない
つまり事実を否定して、魏使は嘘情報を信じていたというのが九州説である
九州邪馬台国の候補地に魏との密接な交流痕跡などがあれば騙されていたという仮説も成り立つが、現実そんなものはない
九州説はどうやっても無理筋ということ
呉を牽制するために戸数や距離を2~3倍にした結果、邪馬台国は宮崎県になる
※2101
「3世紀に倭国王は纒向にいたというのが考古学的事実である」
え?
それこそ「それ」が歴史的事実かどうかで揉めてるのに?
墓誌も金印も出土しない状態で考古学的に何が出たって、それは「畿内の一勢力」がどういうものだったかの話に過ぎない。
オレが呈した疑問(九州は詳しいのにそれ以外は省略されてる不自然性)に正面から答えてくれ給え。
畿内説の方が妄想に浸ってるとしか思えない書き込みだぞ。
※2097
>官製の史書であり後世に残ることを考えたら知られている範囲では精確を期すだろうし
精確wwじゃー沖縄のあたりだねだね〜。東の倭種は海の底か。
>格上の国からの使者である以上最高の地位にある人物と対面せずに帰ったら国威を損なう行為だぞ。
魏志倭人伝には「女王の都・邪馬台国」までの道程が「確実に行ったと認定出来」ないような書かれ方(水行陸行)をしてるんだし、途中から「細かく記述され」ていないんだから仕方ない。現実受け入れろ。
>確実に行った最後の場所が女王国であると推認するのが最も自然だろ。
「女王国」はそうだね。「邪馬台国」までは行ってない。
>なのでオレは奴国が南方に領域を拡大して女王を擁立した正にそのクニだと見てる
空想上の話はいくらでも盛れる。
※2099
海と呼んでいた事実は変わらない
※2100
それ「首都」などと同じ意味で、固有名詞ではないだろ。
固有名詞はヤマト。
※2103
>オレが呈した疑問(九州は詳しいのにそれ以外は省略されてる不自然性)に正面から答えてくれ給え。
こんなもんどうやってまともに相手にできるんだよ。
「卑弥呼の邪馬台国は詳しく書かれてない。」
「けど、卑弥呼に会ったに決まってるんだから」
→「詳しく書かれてある九州に卑弥呼がいた!」
→「邪馬台国は九州!」
精神病院放り込まれてもおかしくないレベルだぞ
※2104
倭人条では北部九州の範囲で起こったことを記述しましたって体裁になってる。
>「『女王の都・邪馬台国』までの道程が『確実に行ったと認定出来』ないような書かれ方(水行陸行)をしてるんだし、途中から『細かく記述され』ていないんだから仕方ない。現実受け入れろ。」
*
オレが書いた内容読んでるか?
使者が報告すべき事実を書かなかったら処罰対象だろと。
固有名詞が出てる以上、それに対応する(一致までは必要ないかと)人物の痕跡が出ないとそれは「コジツケ」。
んで、例の「北部九州は詳しいのにそれ以外はぞんざいである理由」は思い付いたかい?
頑張って詭弁を捻り出してくれ給え。
※2107
魏志東夷伝倭人条を先入観なしに読んだら貴君が説明してる通りの結論になり、それが通説になっておかしくない。
ロジックに欠陥がないなら精神病院行きはどっちだろうね。
楽しみだなぁ。
※2108
「報告すべき」も「処罰対象」もただのお前の思い込み、空想。
それに合わせてなぜ理由とやらを考えてやらねばならんのか。
マジで病院行けよ。危ないぞお前。煽り抜きで。
※2109
「けど、卑弥呼に会ったに決まってるんだから」
↑
これが先入観なし、なのか…(驚愕
ラリってるだろお前
※2110
これは王朝当局から指名を受けて編纂された史書である以上、完璧でなくても最善を尽くすべきは当然。
そんで北部九州に記述が集中してるのに「敢えて」畿内を候補地に挙げる文献的な根拠があるのかい?
>「なぜ理由とやらを考えてやらねばならんのか」…何度か2ちゃんねるで論争したことあるけど(オレは中級者だな)、こういう反応する奴は弾切れになってることが殆ど。
文献上無理筋な畿内説をゴリ押しする根本を教えろよってだけなのに。
※2112
ああ、弾切れだよ
お前の妄想と思い込みには誰も手出し出来ないからな
魏志倭人伝「邪馬台国→詳しく書かない」
九州説「邪馬台国→詳しく書く」「だから九州」
こんなのが許されるならどこでも良いじゃんもうw
纒向遺跡に3世紀に倭国王がいた考古学的事実がないからみんな困ってる
箸墓古墳は日本書紀により皇女の墓であることが分かる
発掘された範囲内では宮殿もない、祭祀場はある
まだ発掘されてないだけかもしれないけど、発掘されていないものを発掘されるかもしれない前提や決めつけることは考古学的事実でないことはみな分かってる
発掘されるはずだから倭国王がいたという人はロマンがあるけど、事実には基づいていない
箸墓古墳も全面的に発掘できない以上、未だ考古学的事実ではない
箸墓古墳の副葬品から魏の下賜品が出るか、宮殿跡が発掘されるか、中国からの書簡が見つかるか、九州のものが大量に納められているか、そしてそれらが卑弥呼の時代か確定された時に考古学的事実として明らかになるだろう
皆で署名と出資をして発掘しようじゃないか!
※2113
※2114
全く論理に基づかない返答ありがとう。
君らが匙を投げたように、「魏志東夷伝倭人条」を読む限り魏と国交を結んだのは北部九州の女王国であるとしか読みようがない。
それで考古学的な出土物や何やらを持ち出し、更に「魏志」の記述を大幅に改変することで「大和」が「大倭」の後継勢力であるかの如く言い募っている。
「大倭」と「大和」の関係を示せない以上、支那の南朝に遣使したのが誰かも不明。
冷静に考えようよ。
>2103
おいおい、根本的なレベルでの認識がこんなにズレてるんかい
邪馬台国とか関係なく日本の古代史として、3世紀の纒向が倭国の首都というのは
少なくとも古代史に興味を持ってる層では常識レベルの基礎知識だと思ってたんだが・・・
教科書にヤマト王権は3世紀初頭に誕生と明記されるようになるまでそういう基礎知識さえ知らないということか
しかも畿内勢は3世紀の時点で北部九州まで到達している
逆に伊都国や奴国に比定される玄界灘沿岸地域以外の九州で3世紀の中国との交流を示すものは何もないのが現実
>オレが呈した疑問(九州は詳しいのにそれ以外は省略されてる不自然性)
元のレスが不明なのでこの一文からしか判断できないが、そもそも何が不自然か理解できない
あえて推測すると、魏志倭人伝を単一ソースによる”邪馬台国旅行記”と考えてるような人には不自然と感じるかもしれないことくらいだ
だが魏志倭人伝が複数ソースを元に書かれていることは明らか
魏略や過去の文献からの引用、伊都国に常駐した郡使が収集した情報、邪馬台国まで行った梯儁や張政からの情報、大陸に渡った倭人からの情報等
この中でメインとなる情報ソースは伊都国に常駐した郡使が収集した情報であることは容易に想像できる
多くの情報を集めた地域の記述が詳しくなるのは当たり前のこと
遠くて情報が少なかった地域の記述が薄くなるのも当たり前のこと
※2115
可能かどうかは別として、空理空論で騒いでる連中よりずっと真っ当なこと言ってる。
素直で真っ直ぐな思考は尊重されるべきだ。
ちなみに畿内説は考古学的物証をただの1つも出せないんだぞ
唯一出せるのが国産説がほぼ決まってしまった三角縁神獣鏡だけという
まきむくが九州中国朝鮮と密接に繋がってた証拠は未だないのが現状
なぜ九州中国朝鮮の遺物が出ないのか誰も立証できてない
だから三角縁神獣鏡にこだわる
本物の魏晋鏡は九州で多く出るのにそれは無視
※2116
早く病院行けよ
※2117
「3世紀の纒向が倭国の首都」…だから、そもそもその説の根拠は何だよと。
陳寿が複数の報告を整理して編纂したのなんてそれこそ常識。
その上で、幾度も送られた使節から「瀬戸内海経由で畿内の女王に会見した」って具体的な報告が入って来ない、つまり陳寿の没年まで北部九州より遠方の「畿内」についての報告が入手不能だったと見るのが最も自然だろ。
魏王朝と接触したのは「魏志」に記されたクニだとしたらどんな屁理屈捏ねても「九州北部」は動かない。
考古学的遺物は例外を除いて個人の特定には役立たない。
後世に九州が衰退して畿内が影響力を拡大したことは紛れもない事実だけどね。
※2120
反論出来なくなると人格攻撃。
流石だね。
もういい時間だから寝る。
続きは明日相手してあげるよ。
※2095 >混一彊理歴代国都之図が日本列島を南に転倒して描いているのは、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本の「行基図」を、不用意に挿入してしまったためであることが明らかになった。また1つ根拠が消えた…。
15世紀の「混一彊理歴代国都之図」は 14世紀に作成された明の「混一彊理之図」を模写したもので
それ以前の「海内華夷図」8世紀 「石刻華夷図」12世紀 「声教広被図」13世紀なども九州が北になっている このうち元の時代に作成された「声教広被図」は戦前に北京図書館で確認されている
※2122
魏志倭人伝「邪馬台国→詳しく書かない」
九州説「邪馬台国→詳しく書く」「だから九州」
こんなこと言うキチガイとまともに会話できるわけないだろ
※2098
「銀(Ag)と錫(Sn)の比率を元に測定する方法」で、しっかりと分類はできている
それを分析した結果、銅鏡は
戦国時代~秦、前漢前期、後漢、そして国内の古墳時代と4つのグループに
銀(Ag)と錫(Sn)の比率をまとめる事ができた
これは逆に言うと鏡の銀(Ag)と錫(Sn)の比率の数値がわかれば
いつの時代の時代の鏡かも言い当てる事ができるという事
鉛同位体を分析する方法ではこういった分類ができない
なぜなら鉛同位体の比率は製造する時に銅に混入する鉛の量で決まる可能性が高いから
つまり鏡の作り方次第でどうという数字でも出るということ
鉛同位体が何々パーセントの鏡は中国のどこどこ製、という関係を示す対応表を見たことがない
すなわち明確なデータが出ないからそれを作れないのである
※2121
>つまり陳寿の没年まで北部九州より遠方の「畿内」についての報告が入手不能だったと見るのが最も自然だろ
その通り。
つまり、「里数もわからない邪馬台国」は畿内ってことだね。
>2121
“邪馬台国とか関係なく日本の古代史として”と書いてるだろが
邪馬台国のことだけで頭がいっぱいっぱいで、日本史として考えてない証拠
まずは日本史としての基礎知識を身につけてくれとしか言いようがない
>幾度も送られた使節
何だこれ?
邪馬台国まで行ったと書かれているのは梯儁と張政だけだ
※2119
>まきむくが九州中国朝鮮と密接に繋がってた証拠は未だないのが現状
九州と朝鮮はどうでも良いけど、
中国の元号を書いた神獣鏡が見つかってる以上、繋がりがあった。
>2119
九州で出るという本物の魏晋鏡って何?
一般的には九州で出るのは漢鏡6期までの鏡とされてるが
そして漢鏡7期からは畿内に集中
※2070
>国産の可能性が極めて高い三角縁を根拠とするなら、実際の魏晋鏡が多い地域をなぜ無視するのか?
魏との繋がりを示す鏡が畿内まであったということ。国産かどうかはあんま意味がない。
「魏はちゃんと畿内と繋がってたにも関わらず、畿内を無視して九州のことだけ記録した」っていうのは考えづらいでしょ。
魏志倭人伝読む限り、魏と交流のある繋がりの最も遠い位置にあるのが邪馬台国=畿内。近いとか詳しいのは九州だけどそれはただの伊都国だwざんねん
テンプレ2・改
九州説「鉄や絹や魏晋鏡があるのは九州!つまり九州」
畿内説「それ伊都国だろ」
九州説「ぐぬぬ」
そうなってくると九州説は
三角縁神獣鏡は九州にあった頃の邪馬台国に下賜されたものであり、
畿内で多数見つかるのはその後4世紀に九州が機内を征服する際に多数持ち込んだからだと
言い訳をし始める
魏志倭人伝「邪馬台国→詳しく書かない」
九州説「邪馬台国→詳しく書く」「だから九州」
もう九州説の頭はここまで逝っちゃってるから何言われても驚かないわ
アホか三角縁なんていう国産鏡なんてまともな人間は誰も根拠にはしないの
むしろそれしか根拠がないから未だしがみついてる人間がいるというのが実情
※2130
これとか全く理論的ではない
論理的な思考方法ではない
ベトナムの方が遠いが魏と繋がりがある遺物が出るから邪馬台国か?
こんなトンデモも否定できないのが畿内説、なぜなら同じ論法だから
そもそも偽物を配らなければならない理由は何か?
偽物を作る時点で魏に対する背信行為ではないのか
魏とうまく通じてなかったかは鏡の作りや銘文がいい加減なのではないのか
ベトナムの話はだれもしてないぞ
日本国内の話だ
追い詰められすぎだろw
やばい
ベトナムはちょっとビビった
九州説の頭のおかしさは斜め上をいってる…恐るべし
偽物だったり背信行為であったら、
魏の使節がウロウロしてる北部九州に神獣鏡は渡さないでしょ
もし国産だったとしても、魏の公認だろう
例えば「魏の年号が書かれた三角縁神獣鏡が一番多く出たところが邪馬台国」と命題があるなら
その場所を皆で探たり、議論したりできるけど
今は「三角縁神獣鏡が魏から卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡」かどうかも分かってない
それで「三角縁神獣鏡のうち魏の年号が書かれたものは鳥取で出土したから纏向遺跡が邪馬台国」
と言っても9割の人は納得しないだろう
やはり、魏志倭人伝に書かれている、卑弥呼が朝貢した年号、7万戸の住居、宮殿、風習、水行陸行、絹、矛、盾、鏃、狗奴国との戦争、墓、占いに用いた骨をもとに女王国の場所を議論したい
古い鉄は鋳溶かして使ったなら銅鏡も古い銅を鋳溶かして鋳造しなおしたのでは?
輸入した銅鏡に中国の銅が使われていてそれを使って国産鏡作ったなら当然中国の銅も入っていていいと思う
>2129,2130
>実際の魏晋鏡が多い地域
天柱山を抜ける道の距離を山の高さだと「勝手に思い込んで」魏晋里だったらこんな高い山がある訳ない、短里があったことはこの「たった1例」を示すだけで確実(ドヤア)ってやる人なんですよ。
不正確な断片情報を示して相手が調べなかったら、それを事実のように吹聴していくスタイルです。
そして「根拠と称するもの」をこちらが追求していくと「~なはず」「~に決まっている」という勝手な思い込みでしかないんですよ。
私もだいぶ相手にしましたが、「丹については後漢書で九州に都合のよいように修正されている」「短里はある」について、完全粉砕したところで、もう疲れました。
通常の論理で「議論しようとしても」無駄なようです。目的が何かは分かりませんが、ある意味確信犯(正しい誤用)ですよ。こちらが何を言っても話をそらすだけです。
短里だと位置関係がほぼ合うとなれば短里としても不合理はなさそうだな
さすがに漢の里だとおかしいとは思ってたんだよ
否定できないだろ?
なぜなら畿内説と同じ論法だから
どれだけ馬鹿らしい論法かわかってもらえたかな?
頭がおかしいと感じたのは当然のこと
それが畿内説のやり方で普段自分らがやってることだからね
上の方にもあったけれど
九州説の議論の仕方はデタラメでも何でもわめき散らして相手をやり込める韓国の伝統技能
声闘(ソント)と同じ
※2125
俺は要約しただけだから上のURLの学者に反論してくれ
実際そこのところ詳しくないから色々学びたいと思ってる
※2143
九州説の何がデタラメ?
畿内説の方が偽物を根拠とするとか、考古学的遺物無視とか文献無視とかデタラメなところがあると思うけど
丹が辰砂だとして四国で採掘していてそれは九州に運ばれなかったのは交易してなかったのかな?
俺が当時の四国人だとしたらその辰砂と鉄製武器や絹と交換したいと思うけど、
四国の人は鉄や絹に価値を認めていなくて交易が成り立たなかったのかな?
それとも中国の辰砂のほうが品質がよくて安かったのかな?
弥生時代には市がたってるし、税も納めていたようだから、ある程度の経済活動はあったと思うんだ(そうじゃないと貧富の差も支配階級も戦争も生まれないはず)
もし物々交換なら土器1つが単位とか錘とか秤が必要になるから、統一規格の土器は便利だと思うんだ
布留式土器百杯分の米と絹一匹とか
当時も厚底とか、粗悪品とかで誤魔化してた奴いそうだなと思った
※2142
どこがどう同じなんだよ
三角縁神獣鏡については、いろいろなバージョンがあることまでは間違いない事実で、その初期のバージョンのものは、魏から贈られたものとして矛盾はない、というところまで研究は進んでいます。まあ、この状態でまともな研究者ならこれまでの経緯もあるし、魏からの鏡だと断定的に受け取られるようなことは言わないですよね。
逆に、初期型以外のバージョンは、国産であることは明言されているので、畿内説否定派はそれを拡大解釈して、三角縁神獣鏡は国産と証明されているって、断定的に言うんですよ。それで調べない人はそういうものかと思ってしまう。
纒向から邪馬台国を示す考古学的遺物は出ていないと「彼」がいうのも、同じロジックです。
挙証責任とか、論証に必要な論拠が論証対象によって変わることは全無視です。
魏志倭人伝の距離を認められないなら邪馬台国の場所は永遠に認められないことになる
2145
日本の学者や専門家がみんなデタラメだとでも言いたいのか?
自分に知識が足りないとか、学者の論理を自分が理解できないためだとか考えないの?
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説。
短里が正しいからこそ纏向遺跡が邪馬台国に比定されている
逆に纏向遺跡が邪馬台国であれば短里も正しい
つまり短里否定派は纏向遺跡とその王が正統な邪馬台国であり、唐古鍵遺跡から始まる大和朝廷に連なる倭国の正統な王統であり、弥生時代の西日本の王から共立された倭国の中の王の中の偉大な王だということを認めない
畿内説(纏向遺跡)否定派は自害すべし
>2141
私には「彼」のなりすましにしか見えません。
なりすましでないのならごめんなさい。
「彼」ではない人だとして、ここまでのコメント欄をずっと読んできてそう思うのなら、論理的に日本語を使う能力のない人だと私は判断します。
2010とか読みましたか? 短里で読んだからここが○○国だと分かった場所などないんですよ。基本的に比定地に対して数字を当てただけの循環論法です。
※2138
魏の年号入りの鏡は5~6枚見つかってる
ほぼ畿内と呼ばれる文化圏の内で
魏志倭人伝には景初二年(三年?238か239年)に魏に卑弥呼の使いが来たとある
三角縁神獣鏡は景初三年(239年)と魏の年号でバッチリ刻まれている
魏志倭人伝に書かれている内容と考古学的事実がここの部分ではしっかり一致している
これは三角縁を魏鏡とする有力な証拠と見なす事ができる
大分上でも書いたけれど
魏志倭人伝の記述と考古学的物証を突き合わせて事実の確認をするのはいい
けれど魏志倭人伝の記述から考古学的物証を作り出してはいけない短里とか
魏志倭人伝の記述と考古学的物証の両方を合致させ事実を確認することによって
おのずと邪馬台国の実体ははっきりしてくる
>2148
あんな粗悪品贈るくらいなら金印贈らないで欲しい
議論するならまずは共通認識が必要だな
魏の年号を有する紀年銘鏡
青龍三年(西暦235年)銘 方格規矩四神鏡が3面(太田南5号墳、安満宮山古墳、出土地不明鏡)。
景初三年(西暦239年)銘 三角縁神獣鏡(神原神社古墳)と平縁神獣鏡(大阪府和泉市和泉黄金塚古墳)が各1面ずつ。
景初四年銘(魏の年号は景初三年の後、正始に変わり、「景初四年」は存在しないが西暦240年を指す。)斜縁盤龍鏡2面(広峯15号墳、伝・持田古墳)。
正始元年(西暦240年)銘 三角縁神獣鏡3面(竹島御家老屋敷古墳、蟹沢古墳、森尾古墳)。
呉の年号を有する紀年銘鏡
赤烏元年(西暦238年)銘 平縁神獣鏡が1面(鳥居原狐塚古墳)。
赤烏七年(西暦245年)銘 平縁神獣鏡が1面(安倉高塚古墳)。
晋の年号を有する紀年銘鏡
元康?年(291~299年)銘 平縁神獣鏡が1面(伝・上狛古墳)。
まず、これが国内で見つかっている元号が刻まれた鏡
意外と少ない
内行花文鏡とは、後漢代の中国や、弥生時代から古墳時代にかけての日本列島にもたらされた銅鏡。、日本列島では模造して倭鏡も作られた。
国宝に指定された福岡県平原方形周溝墓出土品一括の中に直径46.5cmの大型内行花文鏡が含まれており、現在までに日本国内で出土した銅鏡の中で日本最大の大きさである。
この鏡の様式みたいに中国と日本で作られたものがそれぞれ分かるものもある
オリジナルとコピーが分かりやすいのはいいことだ
2152
畿内説の成りすましか
※2144
鉛同位体を調べるいわゆる金属考古学はほとんど九州説の人間しか研究してないから
ネットで調べようとすると九州派の意見ばかり出てくるからそこを頭に入れておくこと
国産とわかっている鏡と中国産とわかっている鏡から同じ数値が出たりして
畿内説では金属考古学を何かの金属器の時代特定の参考に使う事はない
あと、「彼」のロジック(もどき)の常套手段は、論点そらしと決めつけです。
たとえば、纒向遺跡は3世紀に建設が始まる訳ですが、
『卑弥呼の共立時(2世紀末?)』に「堅牢な都じゃないから」邪馬台国じゃない、
と意味がないことを言い出し、
魏志倭人伝に書かれているのは卑弥呼の遣使(239年)以降だからその頃には纒向は十分大きかった、そもそも魏志倭人伝に堅牢などとは書いていない
と反論されると
魏志倭人伝の宮室樓觀城柵嚴設を堅牢と言ったまででそんな揚げ足を取られると思わなかった、
とさもこちらがケチを付けているような書き方をして、そもそも『倭人伝に2世紀末のことは書いていないのにそれを根拠にしている』という点には答えません。
短里の主張にしても赤壁の戦いの一説の江表傳の記述「一件」を根拠にしていますが、「それを根拠にするなら最低限江表傳中の全ての「里」の使用法を上げて、短里で矛盾しないことを示す必要がある、それは短里があると主張する側に挙証責任だ」と言われても、それは無視して答えず、短里でなくても解釈できるというのに対して、「短里じゃないと否定はできないじゃないかに答えないのは、自分に不利で答えたくないことは無視するなんて論争の仕方としてお上手ですね」とどっちもどっち論に落とし込もうとする。
>2155
日本でコピーして作ったものは、まあ粗悪品でしょうね。でも、それでも各地の古墳に「副葬品」として埋納されているのは、オリジナルが魏からのの下賜品で、それを持つことが倭国という豪族連合の一員であることの証だったからだろうと考えるのが自然です。まあいっぱいコピーが作られすぎて、インフレ的に価値が下がっているようにも見えますけれど。
粗悪品とされる特徴はすべての三角縁神獣鏡に確認されたものという訳でもないんですよ。出土状態によっては磨き方などは確認できないですし。ただ、コピーの倭国産の方が多いので、粗悪品の方を調べてることの方が多いってこともあるっていうのも考えてあげてください。
中国で年号が刻まれているのは
正始五年(244年)画文帯環状乳神獣鏡 中国(出土地不明) 五島美術館蔵 正始五年作 (右回り)
と
中平六年(189年)四獣鏡 中国 中平六年正月丙午日 吾作明竟 幽湅三羊 自有己 除不羊 冝孫子 東王父西王母 仙人玉女 大神道 長吏買竟 位至三公 古人買竟 百倍田家 大吉 天日月 (右回り)
他は出来事で持って年をあらわしてる
そのほうが詩的で素敵な文章になると思ったことが伺える
おそらく日本の鏡の年号銘文は魏志倭人伝を読んだ職人集団か王侯が箔付けのために刻んだと思われる
個人的に魏が周辺国に下賜した鏡は方格規矩四神鏡系じゃないかなと思う
なぜなら朝鮮半島でも出土してるから
※2161
年代を経るごとに扱いがぞんざいになる三角縁神獣鏡には同情を禁じえない
中には本当に三角縁神獣鏡は大切にされてたのか?みたいな出土状況もあるし
最後はバーゲンセールみたいに配ったのかなぁ?と考えるのも楽しいよね
楽浪郡の鏡と静岡県庚申塚古墳、兵庫県ヘボソ塚古墳出土の「吾作明竟」三角縁二神二獣鏡の文様、銘文、鏡径がほぼ同じでだから三角縁の鏡は魏ではなく朝鮮半島作成説がある
方格規矩四神鏡は今から約2000年前の中国前漢時代後期に出現し、西暦紀元前後の王莽の「新」の時代に多数作られた、長い中国の銅鏡の歴史の中で最高品質の製品の一つ
その後も長い間にわたって作り続けられ、200年以上後の魏の時代にも同じデザインの銅鏡がある
北部九州の弥生時代中期~後期の遺跡からの出土品があり、これらはほぼリアルタイムで大陸から輸入されてきたと思わる
鏡の大量埋葬で有名な糸島市の平原墳丘墓では、40面もの銅鏡の中で方格規矩四神鏡が最多数を占めている
魏の「青龍三年」の銘が入った方格規矩四神鏡は邪馬台国の遣使の年代に近いことから「卑弥呼の鏡」と注目されている
古墳時代にはこれを倭国で模造した鏡が多数作られていて、大和天神山古墳や新沢千塚500号墳などからの出土品は倭国製とされている
魏志倭人伝の里が短里である限り邪馬台国は畿内
これは決して揺るがない考古学的事実
ここのコメントで「考古学的には畿内」「学者の9割が畿内説」とは短里による距離の正確さをあらわす
まずこれを事実として認識しコメントするように
※2162
魏志倭人伝読んだ職人なら逆に景初四年と入れた鏡は作らないんじゃないの
年代推定は技術的に誤差が大きく、学者によって意見がちがうぞ
3世紀に建設というが纒向遺跡は西暦180年から200年と推定されてる
古墳は250年から2世紀末らしいが、これも意見が異なる
魏志倭人伝の距離が短里で畿内を示してるというなら
どこにどう短里を当てはめたら邪馬台国の位置が畿内となるのか
詳しい解説が聞きたいのう
2168
纒向遺跡は縄文時代からある
争いの跡がなく弥生文化に移行したことが特徴
九州派は全く答えていないので、明確に具体的に名称を挙げて答えてくれ
① 邪馬台国があったであろうと推測する地域?
② 卑彌呼以死 大作冢徑 百餘歩 狥葬者奴碑百餘人)大きな古墳なのに卑弥呼
およびトヨの墓が出ない理由は?
③ 倭の五王が九州王であるなら、その王たちがいた場所の遺跡と規模および墓
④ 狗奴国と思われる遺跡と規模
⑤ トヨ以降~大和王権に至る空白期間の歴史の流れの推論
>2169
炎上しているサイトでも書き込みしている人数はそれほど多くないっていう分析を思い出しました。
短里はあるっていってる人が複数いるとは思いにくいです。
どれが自分のコメントか教えてくれって訊いても逃げますし。
混ぜっ返しでネタ的に書き込むのは時々みますが、2166みたいなのは「彼」ご本人なんじゃないかと思います。畿内派で、距離に言及する人は基本的にいませんし、ここ直近500くらいのコメントで畿内派の立場で短里を畿内比定の根拠にしている人はいません。
陳寿についてしらべたら
出生 建興11年(233年)
益州巴西郡安漢(四川省南充市)
死去元康7年(297年)
とあった
蜀漢の後、西晋に仕えてるから同時代の人だったんだな
もしかしたら、邪馬台国の使者にあった人に話を聞けたかもしれない
少なくとも記録は残ってたに違いない
距離正しいじゃん
ブログの記事もそうじゃん
>2170
三輪山信仰に伴うと見られる遺跡は縄文時代からあるのですが、いったん廃れるんですよ。
そして唐古鍵辺りが、大和盆地の中心集落になっている。唐古鍵は環濠集落で倭国大乱に対応した時期の集落だと考えられます。戦死体が出ないから、畿内に戦乱はないという書き込みをみますが、「環濠」集落というのは、戦乱を前提とした集落形態です。まあ、奈良は発掘が進まないですから、唐古鍵より大きい中心集落が今後見つかるかもしれませんが。
それが2世紀末から3世紀始め(2168の言うとおり幅があります)に、新たに纒向に新しい「環濠を持たない」都が作られ始めます。崇神の時に意富多々泥古を探し出して三輪山の神を祀らせたとあるのは、一度廃れた縄文以来の祭祀を復活させたことを記録しているのかもしれません。
記紀によると、三輪山の神は出雲系なので、卑弥呼の共立の時の出雲参加の条件だったのかもしれません。記紀によると神武以来の皇妃は出雲系が何代か続いていることから考えると、卑弥呼の共立に出雲の権威も重要だったのかもしれません。
この辺りは「かもしれない」が続く、根拠が薄弱なところですが、九州説の人が言うほど、記紀の記述と纒向の考古学的事実の整合性は悪くないんですよ。結局「彼」が言っているのは、記紀には卑弥呼が出て来ない、の一点だけなんですけどね。
※2172
ほとんど貴女の書き込みですもん
初期の環濠は外側に土を盛ったり、深さがたりなかったりと明らかに防衛向きじゃない。
後々、逆茂木が仕込んであったり、より深くしたりと実践的になる。
最初は協同労働として集落の結束を固めるために行ったとみられている
九州説派って、対案(比定される古墳があるであろう場所など)を示さず、与党案(纏向・箸墓)に
いゃもんを付けるだけの民主党とよく似ているね!!
>2177
>最初は協同労働として集落の結束を固めるために
集落の結束を固める必要が出てきた時点で、争いがあったんでしょうね。
採集狩猟生活のうちは、人口密度も低いですが、天候不順の年にある食べ物が取れなくても逆にその天候で多く実る植物もあったりして、飢餓はあまり生じないのだそうです。
それが稲作のような農耕が始まると、豊年作の年は人口が増えますが、凶作の年は一気に飢餓に見舞われます。農耕の始まりと王権の発達が関係するのは、飢餓と戦争のためだといわれています。
どこかに、魏志倭人伝の距離も方角も信じないのになぜ共立を信じるのかという書き込みがありましたが、魏志倭人伝で一番重要な情報が卑弥呼の共立だからです。共立で王が決まるというのはなかなか珍しいことですし、国の始まりとして非常に興味深いからです。
>2177
もう一つ
>初期の環濠は外側に土を盛ったり、深さがたりなかったりと明らかに防衛向きじゃない。
乗り越えるのに大して障害にならなくても、まっすぐ押し寄せて来にくいだけで、防衛上は相当に役に立つのですよ。「環濠」集落は、戦乱の心配のない平和な土地には、自生的には発生しにくいと思います。
環濠の外に土が盛られてて弓矢に対して遮蔽物を提供しているのはおかしいと思ったが、初期は対野生動物用だったのかも
それなら外に掻き出した土を盛ってもおかしくないし、溝も浅くて十分だ
卑弥呼を共立した王達はすぐ廃止はされていなくなってる
自分達で共立した女王に騙され、廃止されたかつての王は伊都国王を除いて処刑されたに違いない
その様子をみた狗奴国王は最後まで抵抗しただろう
>2168
現在では学者ごとの年代観の差はせいぜい10年か20年の差で収まっている
50年も100年もズレた年代観を主張してるのは学者でない人たち
>2183
ただ、飛鳥時代以前の編年で年輪年代法に頼っている部分は、まだ議論の余地があります。
年輪年代法の利点は絶対年代が1年単位で出ることですが、対象が有機物ですから当然古くなるほど試料が少なくなるのに対し、日本はヨーロッパに比べて微気象の影響が大きく、より多数の試料から統計的に基準パターンを作成する必要があります。
現在、年輪年代法で出た絶対年代を信頼して作られた編年は、私の感覚でも古いほうにより過ぎていると感じる部分もあります。まあ、私は素人なので私の感覚より、専門の学者が真剣に考えて妥当だと認めたものの方が正しいと判断していますが。
※2183
多くの学者は、ほぼ畿内説をとるようになったが、九州説を主張しているのは
遺跡出土や歴史の流れを見ようとしない頑固な九州人たち
というのと同じ事ですな。
>2182
魏志倭人伝には伊都国王しか出てきませんが、後漢書には使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統とあって、使訳通じるところの30カ国はみな王を称し、世世統を伝う、と書いてありますよ。
>共立した王達はすぐ廃止はされて
これはどこ情報ですか?
>廃止されたかつての王は伊都国王を除いて処刑されたに「違いない」
>その様子をみた狗奴国王は最後まで抵抗した「だろう」
「 」は引用者
これもあなたの妄想ですよね?
大和朝廷の時代でも、各地の豪族の力は十分に強いと思うのですが、この豪族は共立した王たちの子孫とは考えもしないのですか?
>2181
浅い溝の分の土を盛っても、矢の遮蔽物になるほどの高さの壁にはならないでしょう。
野生動物向けなら、農地こそ囲う必要がありますが、それはないですし。
つまるところ畿内説のいう考古学的事実は短里と七万戸でいいんですよね。
魏志倭人伝をどこまでも否定する人がいる
彼の何がそこまで魏志倭人伝を憎悪させるのか
魏に滅ぼされた漢の末裔ではないか
だとすればやたら前漢や後漢を例に出すことに納得がいく
魏を正統とするのは西晋の伝統
蜀漢を正統とする漢の生き残りが彼の魏志倭人伝に対する激しい憎悪の正体であろう
日本書紀だと明らかに邪馬台国を大和朝廷の前身としてる
大和朝廷成立前後で畿内の出土品が大きく変わっている
どちらが古いかは明らかだから邪馬台国が大和朝廷だとすると大和朝廷成立時に邪馬台国文化ぎ畿内にきた
元々の畿内文化の担い手は他所からきた邪馬台国文化をもつ集団に吸収されたことが考古学的事実である
短里だと気付いた人は偉大だ
邪馬台国論争に1つの答えを見出した
>2188~2191
同じ人ですか?
2138、2055、2043、1915、1907、1852、1837、1703、1691、1690、[1658]、1541、1306
7万戸で検索をかけてみましたが、このうちあなたの書き込みでないものはどれですか?
2188~2191が、お一人ではない場合、それぞれに答えていただけると助かります。
立場を集約して議論ができますから。
中国人が9000年前から米の発酵飲料をたしなんでいたことは、河南の発掘現場から見つかった証拠からわかっている。しかし、2016年、中国人はビール愛飲家であることもわかった。陝西省で紀元前3400年~2900年にさかのぼるビール醸造設備が発掘されたのだ
魏志倭人伝の酒はどんなもんだったんだろうなぁ
口噛み酒か果実酒か濁酒か
倭人も唐古・鍵遺跡の酒がうまいとか伊都国の酒が好みとか言ってたのかなぁ?
儀式には欠かせないし正史に書かれるくらいだから庶民も飲めたはず
ここのコメントには「はず」って書いちゃいけないルールがあったら申し訳ない
2192様
管理人様ですか?
何分にも初の書き込みで不愉快にさせてしまい大変申し訳ありませんでした。
謝罪致します。
2138と2188は俺な
問い このうちあなたの書き込みでないものはどれですか?
答え 2055、2043、1915、1907、1852、1837、1703、1691、1690、[1658]、1541、1306
これでいいかな
折角だから書くよ
最初は九州だと思ってたけど、この記事よんで纏向遺跡も候補だと思った
その理由が距離と広さ
他にも理由があるなら知りたいと思った(2138)けど
記事の短里での距離と七万戸だとしたときの収容できる広さが根拠だと思ったのが2188。
本当はもっと思ったこととか感想書きたいけどやめとくよ
残念だな
>2195
主な考古学的事実というのは次のもの
・ヤマト王権が邪馬台国の時代にすでに成立していて、その都が纒向に置かれていた
・畿内勢は邪馬台国の時代にすでに北部九州に到達していた(庄内式土器の分布)
・魏とヤマト王権との交流を示す様々な出土品が畿内から出る(漢鏡や三角縁神獣鏡など)
(なお、仮に三角縁神獣鏡が国産であろうと、魏の年号を知っているということは交流があった証)
↓
ここから言えること
”魏使はヤマト王権の存在を認識していた”ことを示す
↓
仮に九州に邪馬台国の候補地があったとしても、魏使は本物の倭国王を認識してるんだから偽者はお呼びでない、出る幕がない
よって九州説は否定される
なお畿内説で短里を主張してる人は一人もいないでしょう
畿内説側のスタンスは”倭人伝の里は正しくなく、区間ごとにバラバラで規則性もない”ので邪馬台国の位置の特定には使えない
・ヤマト王権が邪馬台国の時代にすでに成立していて、その都が纒向に置かれていた
なにをもって確定したんだろう
>>2196
>魏とヤマト王権との交流を示す様々な出土品が畿内から出る(漢鏡や三角縁神獣鏡など)
そんなもん日本全国にある
例えば蟹沢古墳は群馬県高崎市柴崎町にある古墳時代前期の墳形は円墳。
出土品は、銅鏡4面、短冊形鉄斧2個、鉄鑿1本、鉄製刀剣一括、土師器片9個である。中でも三角縁四神四獣鏡は同向式と呼ばれるもので、内区の外側に時計回りで「□始元年陳是作鏡…」という銘文が巡る。同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として、山口県新南陽市竹島古墳、兵庫県豊岡市森尾古墳のものがあり、これらの鏡の銘文解読から中国三国時代の魏の年号である正始元年(西暦240年)であることが判明した。『魏志倭人伝』によると、正始元年に魏から倭国に金帛、錦罽、刀、鏡などを賜うとある。本三角縁四神四獣鏡はその年号を鋳だした鏡であり、女王卑弥呼の時代を考える上で最重要資料である。古墳出土の紀年銘鏡は数が少なく、極めて重要なものであるとともに、同時に出土した副葬品類も一括品として資料的価値は高い。
>1915 >2195
そこ書かれていることの元ネタは九州説のHPからのコピペであるが、
講演内容を歪曲して書いている可能性(少なくとも印象操作)があるが元の講演内容がわからないのでなんとも言えない
そもそもその報告書を作った人(講演をした人と同じかは不明)は畿内説の人です
そのうえで、コピペに改竄があることを指摘しておきます
誤) 初期大和政権の拡張と庄内式土器、布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた
正) 初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた
畿内説なら出雲、吉備のどちらかが邪馬台国で纒向が狗奴国でも問題ないよね
あるいは出雲が投馬国、吉備が邪馬台国という可能性が高いか
纒向から近い吉備近辺の土器の出土が少ないのは敵対していたからか
九州、中国邪馬台国連合と近畿以東狗奴国連合の争い、これが倭国大乱か?
なぜこの説を推す人がいないか不思議なくらいしっくりきた
纒向の出土土器的には敵は西側っぽいじゃん
庄内式土器について畿内の遺跡74箇所を中河内、摂津北河内、山城、和泉、纏向、大和盆地にわけて1期から4期までまとめた
大和地域(纏向遺跡群、大和盆地)のものはあまり拡散せず中河内あたりのものが少し西に拡散している程度だった
胎土からは畿内の庄内式土器はあまり移動していない
古墳時代初頭前後には各集落間の関係が緊密化するとともに,各土器群の分布によって地域集団としての まとまりをみせはじめる
>2195
では、2135のこの辺りから議論していきましょうか
>「三角縁神獣鏡のうち魏の年号が書かれたものは鳥取で出土したから纏向遺跡が邪馬台国」
鳥取には妻木晩田遺跡があり、大国主が八上姫の嫁取りに行った因幡の国の故地であり、弥生時代の日本海側に盛行した四隅突出型弥生墳丘墓の中心地の一つですので、2195の思うほど箸にも棒にも引っかからないってことはないですよ。ただそれでも、王墓級墳丘墓の規模で出雲の西谷墳墓群に劣りますし、倭国王の国とは考えにくいです。
どこにどんな遺跡があって、それが周辺の遺跡とどんな関係があるかを考えながら位置づけを考えていけばよいのだと思います。
>2197
纒向遺跡の発掘報告書
>2198
ポイントはそんなとこじゃない
1つだけでは意味がない
3つの考古学的事実が揃った結果、「”魏使はヤマト王権の存在を認識していた”」に繋がる
>2199
おもしろい
その正しいコピペ?が本当なら
庄内式の一番古い段階は三世紀の第1四半期の中に収められる。
布留0式は箸墓古墳の年代、その大きなピークがあるのは三世紀の第4四半期に入るころ
この土器編年とあわせて布留0式より古い庄内式は大和朝廷の広がりや箸墓古墳とは関係ないことになる
邪馬台国=大和朝廷が考古学的事実なら布留式・庄内式ともに邪馬台国とは無関係
土器編年は研究者ごとに主張があるみたいだな
確か箸墓古墳造営から古墳時代が始まり、すでにそのときには邪馬台国は大和朝廷だとの主張が書き込まれている
さらに箸墓古墳が卑弥呼の崩御と同じくらいとの主張もあった
その箸墓古墳と同年代の布留0式が大和朝廷の広がりとが無関係なら…
様々な角度から研究できる土器研究は楽しいな
>2203
纒向遺跡の発掘報告書のどの部分かが具体的に知りたい
※2196の
①ヤマト王権が~
②畿内勢は~
③魏とヤマト王権との交流~
のうち②と③は九州なら当たり前だから議論すべきは①だけじゃない?
ごめんね、気になったからコメントしただけだから、気に障ったら触れなくていいからね、ほんと、横からごめんね、別に反論じゃないからね、ごめんね
>2204
意味不明
日本語で頼む
庄内式土器を出土する地域は博多湾沿岸から筑紫野市付近に集中している。文献から解明した邪馬萱国の位置、および邪馬萱国が支配していた地域である。邪馬萱国の時代は庄内式土器の時代であるから庄内式土器の分布図は邪馬萱国の位置が正しいことを立証している。
陳寿は「景初二年(238年)」以前の「卑弥呼」を「女王」と記し、国を「女王国」と記す。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」になる。それ以降の卑弥呼は「倭王」「倭女王」になっている。「景初二年」に卑弥呼は「倭王」となり、国は「倭国」になったことを陳寿は明確に書き分けている。
「景初二年」に日本列島に初めて「倭国」が誕生した。
北部九州の纏向型前方後円墳の分布について柳沢一男氏は『大和政権への道』 (日本放送教育協会)の中で次のように述べている。
九州における纏向型前方後円墳を見ますと、大変注目されてよいことがございます。それはその分布域です。いまのところ纏向型の前方後円墳は、玄界灘沿岸の福岡平野と有明海側から玄界灘側に抜ける筑後平野の一番北部、つけ根の部分でございますが、そこに大変な集中度を認めることができます。そしてその地域では、定型化した前方後円墳は纏向型前方後円墳が姿を消した後にあらわれる、ということが知られています。
「組向型前方後円墳」は邪馬萱国の位置に集中している。しかも「組向型前方後円墳」は円墳にしか見えないという。卑弥呼の墓は「纏向型前方後円墳」と考えて間違いないであろう。魏の使者は「纏向型前方後円墳」を見て円墳と思ったので「径百餘歩」 (円墳)と書いたのである。
九州では庄内式の時期まで環濠集落がある。福岡県の野方中原遺跡、佐賀県の千塔山遺跡、熊本県の西家御免遺跡もそう。
仮に庄内式土器が畿内邪馬台国のもので同時期の畿内からはもはや環濠集落は消えてるのに九州には残ってたのは環濠集落のあるところは征服できなかったから?
※2196
阿部嗣治氏は『紀要 1』の「土器の移動についての一考察Jの中で次のように述べている。
九州では生駒西麓産の庄内式甕は津屋崎町今川遺跡のみであるが、在地産の庄内式甕は、福岡市三雲遺跡、春 日市柏田遺跡、佐賀市姫方原遺跡、鳥栖市本川原遺跡、山鹿市白石遺跡、大分市守岡遺跡、
国東市安国寺遺跡の7遺跡で出土している。
追加資料の遺跡数は、計20遺跡である。特に北部九州に多く認められ16遺跡にのぼる。この16遺跡の庄内式甕は、報告者によるとすべて在地産である。遺跡名は、久原瀧 ヶ下遺跡、御床松原遺跡、
西新町遺跡、多々良込田遺跡、那珂深ヲサ遺跡、瑞穂遺跡、板付周辺遺跡、井平ノ原遺跡、今光遺跡、小田道遺跡、神蔵古墳下層、塚堂遺跡、西一杉遺跡、西原遺跡、千塔山遺跡、赤塚古墳周濠である。
北部九州では津屋崎町の今川遺跡以外の庄内式土器はすべて在地産であるという。従来は庄内式土器は近畿地方から搬入されたといわれてきた。庄内式土器は近畿地方から全国各地へ広まったと考えられてきた。それが否定されるようになってきた。
庄内式土器は朝鮮半島からの逃亡者達が日本列島各地に伝えたものである。したがって各地の庄内式土器はよく似ている。それを従来は近畿地方から搬入されたものと解釈してきたのである。
>2205
この辺がまとまってるかも
ttp://makimuku.jp/index.html
ちなみに纒向のWikiはまったくダメ
読んでも重要部分を意図的に削除したり意味が通じないように悪意の編集がされている
>2206
>②と③は九州なら当たり前だから
ところが全然当たり前でないんだな、これが
伊都国(糸島)や奴国(博多)でそれなりのプレゼンスを示せている九州勢がいったいどれだけあるのか?
あるなら挙げて欲しいものだ
さらに、伊都国(糸島)や奴国(博多)以外の九州で魏との交流痕跡なんてあるのか?
あるなら挙げて欲しいものだ
>2210
纏向型前方後円墳の横取りはダメ
纏向型前方後円墳は発祥は纏向であり、北部九州で纏向型前方後円墳が出現するのは畿内ヤマトの進出を意味する
銅矛と銅鐸の交わる場所(両方発掘される場所)は土佐
もし九州~畿内の王たちが話し合って自分たちの文化を持ち寄ったところが邪馬台国だとしたらその場所は土佐以外ありえない
>2213
HP読んでみた
結論が書いてあった
「そして、邪馬台国を九州に考えようが、畿内に考えようが、この「纒向型前方後円墳」が全国各地へと広がっていく。ヤマト政権へと続く日本の国づくりは、纒向でその夜明けを迎えることに変わりはない。」
邪馬台国が纏向遺跡だとは書いてなかった。
あくまでヤマト政権の首都のようなものが三輪山にあったとだけ書いてあった
でも、ありがとう!
>2213
>ちなみに纒向のWikiはまったくダメ
>読んでも重要部分を意図的に削除したり意味が通じないように悪意の編集がされている
そういう努力をする人がいるんですね。
その情熱というか、動機はどこから来るんでしょうね。
主な考古学事実
邪馬台国は大和朝廷(未だ証拠は出ず)
ヤマト政権の首都は纏向遺跡(正しい)
纏向遺跡は邪馬台国(?)
次の記事は邪馬台国ヤマト政権説だから楽しみだぜ
西側より東側と仲がよさそうな纒向
西側と仲が良く東側が敵のはずの畿内邪馬台国
都合が悪いとその記述が見えなくなる畿内派
>2213
Wiki直してくれば?
※2213
改竄されているところを示してください
>2201
>胎土からは畿内の庄内式土器はあまり移動していない
そうなんですよね。かさばるしぶつければ壊れる土器は基本的に地産地消であまり移動するものではない。移動時の容器には、大型のひょうたんなどが使われたようです。有機質なのであまり残りませんけど。
そういうことを前提に考えると、纒向の土器の15%が外部から持ち込まれたものだというのがかなり破格で特異的なものであることが分かります。
九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原古墳群」(宮崎県西都市)から、国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。
出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南九州では最古。大和政権があった畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導したとされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになる。
確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纒向型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。本格的な巨大古墳の登場に先立つもので、3世紀中ごろまでに造られたとされる奈良県桜井市の纒向石塚などと同じ形。後円部からは、弥生時代と古墳時代の過渡期にあたる土器が出土した。このため、4世紀とされてきた西都原古墳群の築造開始も、半世紀前後さかのぼることになる。
纒向型は全国で30例を超えるともいわれるが、南九州での発掘は初めて。
近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり、南九州の勢力も、古墳文化の成立に参画していた可能性を考えなくてはならなくなった。
3世紀中頃、という時代は、一緒に出土した土器から判断してのことだ。南九州ではもちろん最古だが、前方後円墳を政権のシンボルとしていた、と考えられている大和政権でも、ほぼ同時期に最古の前方後円墳が作られている。
つまり、前方後円墳は同時多発的に発生、九州と畿内ではそれぞれ別で、必ずしも前方後円墳=大和政権の勢力範囲ではないという考え方も出来る。
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-15/2015_01_18.htm
卑弥呼の時代に帯方郡や魏と盛んに交流していたのなら、邪馬台国の女王の都があったとされる纒向遺跡からは、もう少し様々な遺物が出土していておかしくない。それがない以上、、「邪馬台国=大和説」は成り立たないと、関川氏は言われる。邪馬台国は大和ではなく、やはり北九州に存在した国であると考古学的遺物は語っているようだ。
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-8/images/0720-07.jpg
他の地域で作られた土器が搬入されること自体は、縄文・弥生時代を通じて希有なことではない。だが、纒向遺跡ではその出土量が多く、外来系土器の占める比率は全体のほぼ15%
ttp://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/gairaidoki1.jpg
九州の土器はほとんどみられないようだ
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%とされる。この数値でちょうど100%となるから、各数値に四捨五入があるとしても、九州関係は皆無に近いということである。
全体が123個ということは、1%未満だと最大限で1個あった可能性しか考えられない。
>2222
纒向型前方後円墳と、定型化した前方後円墳は区別しないと議論が混乱しますよ。
同時多発的に発生したとしたら、作り始める前に、相談というか設計のすりあわせをしたと考える方が自然だと思いますし。
発言をまとめてみた
(63) 914 934 982 1038 (1064) 1201
[1245] 1332 1413 1839 {1929}
[1930] [1975] 2196 2221
どうやら900ぐらいに参入してずっと纏向遺跡には九州の土器があるって主張しているみたい
その前後に纏向遺跡では九州の土器は出土してないってコメントがあるんだけど
ひとりだけ延々纏向遺跡の外来土器は九州って主張をしてる
うまいのは明確に九州の土器は何%とか何個とか言わないで半分くらい入ってると思わせる書き込みをしてる
914では日本全国の土器と濁した言い方をしてる
纏向遺跡の土器については有名だからいろんなコメントで否定されてる
どうしてものが「ない」ことを根拠にしたがるのでしょう?
そして、交流・連絡があることは確実なのに。姫川(新潟糸魚川)の翡翠も全国に出るし、縄文時代から黒曜石は広域流通してるし、逆に九州の含クロム白雲母が新潟くらいまで出土例があるのに?
そして、ウィキペディアあたりでも「寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、3世紀の日本列島には他に存在しない」として」と書かれています。
これと卑弥呼の称号が「親魏倭王」であることを考えると、纒向を超えるまだ見ぬ遺跡を夢想するか、纒向が倭王の都と考えるかのどちらか、だと思うのですが。
ウィキペディアより
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている[1][6]。
搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 :49%
北陸・山陰系 :17%
河内系 :10%
吉備系 :7%
近江系 :5%
関東系 :5%
播磨系 :3%
西部瀬戸内海系 :3%
紀伊系 :1%
確かにグラフを見れば九州の割合がないことは分かるが、本文を見るとさも九州も入っているかのような書き方をしている
さらに河内は畿内に含めてよくないか?近畿だとしたら近江も播磨も含むよね?
>2227
まとめ方の精度が悪すぎますよ。
2221は私の書き込みなので、どれどれと思ってあげられたコメ番全部見直してみましたが、この中で纒向の外来土器の話題を出しているのは1930、1975くらいでどちらも私の書き込みではありません。私は搬入土器の話は詳しくないので、搬入土器について書いたのは2221くらいで、そこでも本来土器の移動は少ないものだ、という趣旨で書いています。2227は纒向に九州の土器が少ないことを強調したいようですが、私の2221の書き込みもむしろその趣旨に沿うものだと思いますよ。
前半の方で私の発言を拾っているコメ番もありますが、内容は土器編年の話で土器の移動、搬入の話ではありません。
それに私の最初の書き込みは34で、900くらいから参入ってのはまあ読めていないということだと思います。2227の人がどういう印象で読まれているのかは分かりませんが。
おまえら、旅行ガイドだと思って読め
「AからBまで何キロです。BからCまで何キロです・・・GからHまで何キロです
Hの次が目的地の邪馬台国です
全部で、船旅3日、陸での移動6日の工程となっております」
何故日数が最後にしか書いていないのか。それは、全行程の総計だからさ
おまえら、上陸地点が間違ってるぞ
対馬から壱岐は南と書いてあるが、壱岐から九州本土上陸は対馬~壱岐と同じ距離だが方向の記述が無い
これは何を意味するかというと、九州の真南に上陸したのではなく(それだと距離が半分しかない)、ほとんど壱岐から見ると東南東に上陸した事を示す
なぜなら、九州上陸後東へ、南へ、と進んでいるから。船でなるべく行ける所まで行って、それから内陸に向かって進んで行くのが妥当(自分の足で歩くのは疲れるからね)
>2227
>纏向遺跡には九州の土器があるって主張している
>ひとりだけ延々纏向遺跡の外来土器は九州って主張をしてる
どこをどう読んだらそんな解釈になるんだ?
纏向に九州からの土器が多いと書いてるレスは1つもないだろ
多いと思わせる印象操作もない
逆に畿内から北部九州に人が移動していることを書いたレスは山ほどある
それを地元の胎土を使ってるからと土器様式だけが伝搬したかのように結論付けようとしてるが無駄だ
祭祀土器も含めて出ているんだから人の移動を伴っている
移住してそこで生活してたら土器はいつかは壊れる、壊れたら地元の胎土で土器を作る、当たり前のこと
首長層の祭祀もやがて畿内系土器に変わり、北部九州が徐々に畿内ヤマトに飲み込まれていくことを示している
>魏志倭人伝「邪馬台国→詳しく書かない」
>九州説「邪馬台国→詳しく書く」「だから九州」
これ論理的に間違ってる?
言い出したのはオレだけど、どこがどうおかしいのか全然分からない。
王朝が派遣した使節が何を為すべきなのか理解してる?
交易の結果がどうかとかも無関係(ここ重要)。
「魏志東夷伝倭人条」って特定の文献に記された場所はどこかって問題だぞ。
オレ自身書いてるけど、ヤマト政権の前身が畿内勢力であっても全く大丈夫。
西暦3世紀に魏と通交してたのはどこのクニかって話だからね。
どこをどう取ったら「キチガイ」扱いになるのか論理的に説明して貰いたい。
「地域最強の王朝が使者を派遣する意味(表現は違うが)」も踏まえた上で、何故九州の記述は詳しいのに畿内と確認出来る記述が存在しないのか説明可能ならしてくれよ。
文献的にどういう意味があるのかの説明がないなら単なる言い掛かりだからな。
※2230
まただよ
>纒向に九州の土器が「少ない」ことを強調したいようですが
ないんだよ、まだ発見されてないんだよ
少ないじゃなくて、ないの、それが今のところ事実なの
どうしても認めたくないの分かるけど、そういう書き方上手だな
>私の2221の書き込みもむしろその趣旨に沿うものだと思いますよ。
おいおい
>纒向の土器の15%が外部から持ち込まれたものだというのがかなり破格で特異的なものであることが分かります。
と書き込んで「外来土器があるの珍しい」と纏向遺跡のこと持ち上げといて、
九州の土器が「ある」前提で語っていることと整合性取れてないよ
さらに
>1930、1975くらいでどちらも私の書き込みではありません。
>前半の方で私の発言を拾っているコメ番もありますが
ほんと感心するよ、上手だな
いかにも全部違いますよ風の印象をつけることに成功してるよ、流石
>2234
纏向遺跡に魏との交流を示すものがほとんどないことを纏向遺跡が九州を植民地にしていたことにすれば、九州=纏向遺跡だと考えて魏と纏向遺跡が交流したいことにしたい人たちの考えだからしょうがない
実は纏向遺跡に卑弥呼の時代に魏と交流していた遺物はいまだ発見されていない
研究者もそのことは誰でも知ってる
だから木製の仮面が朝鮮半島の祭事と酷似してることを強調し、帯方郡や楽浪郡との繋がりを強調しているし、鐙の発見を大陸との交流としている
また、三角縁神獣鏡が多く発見されているから、そのことを魏との交流と位置づけ頑張っている
さらに、古墳時代になると一気に大陸との交易が盛んになるから頑張ってその交流を弥生時代後期にするよう土器編年などを毎年少しずつ古くして少しでも卑弥呼の年に近づけている
結局魏と交流が一番多かったのは北部九州だからそこを九州のみが支配していたのか、それとも纏向遺跡の植民地でありすべてを支配されていたのか、このどちらかにより「魏志倭人伝に書かれた女王国」の場所がどこだったのか考古学的事実にもとづいて判断できることとなる
※2236
ふむ。
コメントありがとう。
「国交樹立」
奴国(博多福岡)は早くから朝鮮半島と交易していたが 西暦57年(光武帝 建武中元2年)洛陽に使と貢物を送り漢との交易を始めた
それから50年後の西暦107年(安帝 永初元年)には倭国王帥升が生口160人を献じて倭国と漢との国交を正式に樹立した
「帥升 すいしょう」は水松彦(みずまつひこ)の音読みで第六代考安天皇(ヒミコの大伯父) 名前の由来は父君の観松彦(みまつひこ 第五代考昭天皇)にちなんだとも また母君の泉媛(いずみひめ)が松を愛でたからとも
※2234
アメリカとかでニューヨークについていくら詳細に書かれてても
アメリカの首都はワシントンだろ?
詳しく書かれてる=その国の首都という事ではない
捻じ曲げたい外野が、最後の砦と騒いでるだけで、
遺跡調査やってる本職の人は、現状近畿はありえないって事だよね。
瀬戸内だけでなく関東でも円墳出てるのは面白いと思ったけど、さすがに関東では時代が違うかな。
仮面は長江上流~縄文~北米辺りまで文化としてあるよね。何が朝鮮なんだか。
馬は東日本に馬文化あったんでないの、縄文から日本海交易圏みたいな感じで、大陸や支那半島東側と交易あったようだし、馬を知らない西日本の人が、鹿に神様が乗ってるぞーとか騒いだのだと思う。東では奥州を始めとして弓馬文化が盛んだったのもわかるし。
で、九州説はいつになったら、2171の質問にまともに答えるんだ?
これを的確に答えられない以上、九州派がいくら頑張っても無理なんだよ
※2240
逆、考古学的には、畿内こそが最有力
多くの学者が邪馬台国=畿内と考えるようになっているが、このコメ欄を見てわかる通り
それを明言すると、ややこしい奴らが必死で横やりを入れてくるので、
纏向調査から、九州派などがぐうの音も出せないほどの決定的な出土を待っている状態
纏向遺跡の発掘調査は、まだ2%ほどしかなされていない
ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係に迫る
という番組がユーチューブに挙がっているから見てみろよ
特に最後の方が非常に重要、文献学者が「考古学が一番怖い」って言っている通り
発掘結果>>>>>>文献 文献が少ない時に書かれた魏志倭人伝は発掘の手がかりに過ぎない
また考古学者は「我々は物が移動する事をよく知っている」とも述べている
つまり、移動できない古墳や遺跡の建物の遺構こそが決定的な証拠になる
2171の質問に答えられない限り、九州説は願望から枝葉末節だけの辻褄を合わせようと
しているだけの事だと捉えられてもしかたがない
>2235
よほど私に恨みがあるんですかねぇ。あなたの書き込みの論理的におかしいところをずいぶん指摘させてもらってますから。
私の書き込みがどうこうではなく、あなたが「読んでくれる人が納得いくような論拠を揃えて『論理的に』話を展開して自分の考えを主張」なさればいいだけだと思いますよ。
最初から最後まで読めば、私が「一度たりとも『九州の土器が纒向にある』とか『近畿の土器が九州にある』とか書いてない」のが確認できると思いますがね。
私が書いているのは、「九州から近畿に文化が伝わるのに時間がかかるから、という理由で畿内の土器編年が九州より遅い年代だったのはすでに修正されている」という点です。考古学の研究の進展というのはこういう点です。
近畿の歴史の進みを遅くしないと成り立たない九州説からは、気にくわない書き込みでしょうけれど、これはもう広く認められている話ですよ。考古学者はみんな、というのはこのあたりの認識が共有されているからです。
>2240
>遺跡調査やってる本職の人は、現状近畿はありえないって事
ここに書かれている一部の書き込みを鵜呑みにしないで、考古学者の公刊されている書籍を読んでみられることをお勧めします。図書館にいくらでもありますから。
そんなことは一切書いてないですよ。
まあ2240の書き込みが誰かの別名義でも不思議はないなと思いますが。
現状、それくらいこのコメント欄に九州派の人、いないですよ?
>2240
>公刊されている書籍
書籍名教えてくださいませんか?著者名でもいいですので
ちょっくら借りてきますわ
九州はどうでもいいけど纏向遺跡懐疑派は増えた
京都大学は畿内以外認めていない、畿内説以外の人が遺跡掘る許可出ないから仕方がない
諦めようぜ
私の興味の方向は、
邪馬台国はどこだろう→纏向遺跡がある! ではなく
日本の国家形成はどうなっているのだろう→弥生時代の地域王権の伸張→纏向遺跡→古墳時代 です。
>2241
自己紹介は要らねーです、気持ち悪い。
毎日毎日、昼頃から張り付いて印象操作の書き込みしてる奴は、とても少ないのでしょうね。
2243も同じ人かな、一言も出ていない九州に見えてしまうなんて、
よほど自覚しているのですね、事実は近畿ではなく九州だと。
私はどこでもいいので、面白い発見を待つ派ですな。
※818※2241
ユーチューブ学派と名づけよう
>2243
どんな本読んだか知りたいわ
>>2241
>>纏向調査から、九州派などがぐうの音も出せないほどの決定的な出土を待っている状態
>>また考古学者は「我々は物が移動する事をよく知っている」とも述べている
>>つまり、移動できない古墳や遺跡の建物の遺構こそが決定的な証拠になる
なにが出てくるんだい?
2241から2243は同一人物?
※2249、2251
とりあえず番組見ろよ、それと質問に答えてみろよ
コメの内容から、まともに反論できない事が透けてみえるぜ
※2252
2241しか書き込んでないが
2241
結局出土してないということがわかりました
※2243
是非その本の内容を知りたいです
>>2241
これからは名前に34とつけることを許す
魏志倭人伝に記されていない土器の話を持ち出すから論破されるんだよ
※2171とほぼ同じ質問が、その前でも質問されていたが、
九州説を主張している者たちは、一切まともな返しをしていない
答える事は、九州説の理論が成り立たなくなるからだろうな
と誰しも思う
Wikiによれば交流が深まったのは古墳時代だけど
改ざんされてるんだっけ?
纏向遺跡が邪馬台国だという歴史的、考古学的事実は”まだ”発見されていない
邪馬台国が畿内だという証拠は木製仮面と鐙と三角縁神獣鏡だと考古学者の9割が認めてる
繰り返し言うぞ、九州説主張派は2171の質問に的確に答えろよ
それが的確に答えられず、別の話題ではぐらかしたり、涙交じりの負け惜しみしか
書けないんだな(笑)
書き込みが一気に減ったという事は、九州説主張は同一人物の工作だったんだな
しかも、前に同じ質問で書き込めなくなった奴と同じだろう、どうしようもないクズだな
>2244
お返事遅れて済みません。ここに張り付いてもいられないので。
1904に
広瀬和雄はその時期を3世紀中ごろ[3]、白石太一郎は3世紀中葉過ぎ[4]、寺沢薫は260~280年頃[5]、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけて[6]としている。
「ウィキペディア箸墓古墳」
とか書いてありますし、広瀬和雄、白石太一郎、寺沢薫、石野博信このあたりは、人に聞かなくても図書館に行って、日本史の古代の棚にたくさん本がありますよ。ぜひ読んでみてください。
>2252,2256
2242,2243は私ですが、2241は別の方ですよ。
なので、2241の方が34と名乗ることはないです。34は私の書き込みなので。
無理に荒そうとしなくても、きちんとした論拠できちんと論理を立てて主張してくれれば、どこ説で主張してもいいですが、その論拠が筋の通らないものだったり、論理のすり替えがあれば、指摘させてもらっています。
具体的な考古学的事実とやらは一切示されていない
纒向が女王国の都である出土物ははっきりと決まったものはない
むしろあったら決着してる
2234
魏志倭人伝の記述をガン無視だから。
魏志倭人伝は確かに鵜呑みには出来ないしここでも誰も鵜呑みにしていないが、否定するにはそれなりの根拠が必要。単なるお前のなかの思い込みはNG。
>2259
>Wikiによれば交流が深まったのは古墳時代だけど
発掘って難しいんですよ。墓があれば、それが墓だと分かって発掘できますが、何の目処もなくお金をかけて発掘することは事実上できません。
「交流が深まったのは古墳時代」というのは、古墳は外観上分かりやすいので、発掘対象になりやすいのですよ。だから、古墳を発掘して得られた資料を基に交流を追っている部分が多くなります。つまり、はっきりしたことが言えるのは古墳時代から。
纏向くらいになると、順番に面的な発掘を目指すことができますがね。そのおかげで、吉備の楯築墳丘墓出土(と伝えられる)の神石の弧帯紋と同じ模様の木片が発見されて、吉備が纏向に係わっていたことが分かります。
北部九州で鉄の鏃の出土が多いのも、北部九州で甕棺墓の発掘が進んでいるから、というバイアスもあると思っています。甕棺墓は、ある意味タイムカプセルでいろんな遺物が残りやすいですから。これは北部九州から考古学者への贈り物みたいなものですね。畿内では、庶民の墓というか古墳以外の墓はあまり知られていなくて、発掘自体が少ないですから。それでも、これまでに6基の甕棺墓が発掘されていて、九州と畿内に交流があったことを示唆してくれています。この甕棺の胎土分析はなされていないと思いますが、わざわざ九州から持ち込んではいないと思います。ものそのものが移動しなくても、人は交流できますし、土器はどこでも作れますから。
2235
「女王国」は北部九州の国(伊都国等)を統属させてるかもしれんが、
「邪馬台国」は直接九州を統治してなかったのかもな
幕府-薩摩-琉球
みたいな感じで
邪馬台国-女王国-伊都国等
北部九州各国は、吉備あるいは出雲あるいは播磨あたりの中国地方にある女王連盟加盟国の属国だっただけ説
>2266
前から思っているのですが「具体的な考古学的事実」って、鉄の鏃とか絹のきれっぱしとかの「もの」限定なんですか?
纏向遺跡そのものが、3世紀半ばの日本で最大の遺跡で広範囲の交流があった交流の中心地であり、北部九州とも、中国の王朝とも交流があった、というのは、非常に具体的な考古学的事実だと思うのですが?
そしてこれだけで、事実上邪馬台国認定して問題ないと思うのですが、どこが問題か具体的に指摘してもらえますか?
新説
遺跡が大きければ九州と中国と交流があり、九州を支配していた
※2271どんよぉ〜
なんだぁ〜?オメェってやつはぁ魏志倭人伝の七万戸は否定する癖に 広ければ邪馬台国の事実認定だぁ〜?
お〜い そりゃあ 道理が通らねぇてもんじゃねぇんですかい?
>2272
こういう書き込みが議論をまともに進めることのじゃまになるんですよ。
九州との交流 → 甕棺墓の纏向遺跡内での発見 具体的な考古学的事実ですよね?
魏朝との交流 → 魏の年号を記した鏡の発掘 これは纏向そのものではないですが、畿内で問題ないですよね? これも具体的なものです。
そして、「九州との交流」と「九州を支配」とは全くの別物でしょう。
こういうのを「捏造」というんですよ。
ただでさえここまで、九州派はバカなこと(短里とか)ばかり書いていると思われているのに、これ以上印象を悪くしてどうしようというのでしょうか。
2270
吉備だな
纒向遺跡からも吉備の土器は出土してる
墳丘墓もあるし、ある時期を境に環濠集落が消えてる
投馬国が山口で邪馬台国が吉備なら納得だ
これ以後、魏の年号が記された鏡が出土した場所を全て纒向とみなす
近畿だろうが山陰だろうが中国だろうがそこは纒向遺跡
これにて邪馬台国論争は終結
>鉄の鏃とか絹のきれっぱしとか
流石にここまで遺物を馬鹿にされたら学者の9割である畿内派学者も怒るんちゃう?
一生かけてる人もおるやろ
※2172
2日ぶりぐらいに出てきたら自分に都合の悪い人間は自作自演扱いしてるんだな
反対論を唱える人は少ない方がいいという考えだろうが恥ずかしいのでやめた方がいい
※2271
2266ではないが答える
>「具体的な考古学的事実」って、鉄の鏃とか絹のきれっぱしとかの「もの」限定なんですか?
それ以外の考古学的事実は現在発見されていないから
金印とか卑弥呼の墓が見つかれば申し分ないが現在発見されていない
また、それらは魏志倭人伝に書かれている数少ない「もの」なので物証としては十分
他にも剣、矛、鏡(蝙蝠鈕座内行花文鏡 、位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、方格規矩鳥文鏡、漢鏡6期の方格規矩鏡、○鳳鏡、獣首鏡、三角縁盤竜鏡を除く盤竜鏡、 飛禽鏡、円圏鳥文鏡のような洛陽で製作されたもの)、玉、大陸産の丹などなど
意図的に2つしか書いていないがこれほど合致しているのに
そしてこれらはほとんど纏向からは出土していない
それどころか九州、魏、朝鮮との交流の跡もほぼない
魏や朝鮮の文物は九州からもたらされる、その九州と交流がないという点はどうしようもない
逆にこれらが纏向遺跡から出土したら畿内説派は狂ったように喜ぶのは目に見えている
もし仮にこれらが纏向から出土したらこんな移動できる「もの」は物証にならないと宣言できるのか?
>2273
また言葉が悪くなっていますよ。
七万戸で人口は何人ですか? そういう具体的な点で魏志倭人伝はそれほどあてにならないと思っています。
前にも九州派の立場で、正史なんだから信用できるに決まっている、という書き込みがありましたが、中国の正史は史記以降は紀伝体で書かれています。紀伝体は、本紀、世家、列伝、志などで構成されていますが、大事なのは本紀であり、列伝の中でも異民族の分の伝はそれほど正確なわけではありません。東王父や西王母が出てくる山海經の事物が実在とは誰も思わないですが、魏志東夷伝には山海經の黒歯国がそのまま出てきます。
私が、纏向遺跡の大きさを指摘するのは、これも何度も書いていることですが、卑弥呼の称号が「親魏倭王」だからであって、7万戸はあまり気にしていません。使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はないと考えるからです。
交流の中心で、最大の勢力を示す遺跡が纏向である、というのは十分に具体的な考古学的事実だと思いますが?
>2278
やっぱり2278にとっては「もの」なんですね?
遺跡そのものは考古学的事実ではない、と?
2266の方の見解もお待ちしています。
※2274
君は昔はまともだったけど最近はまともに反論もできず印象操作ばっかりで
遺物や文献にも敬意を払わない態度が目立ってきた
自説にそぐわないものは全てゴミで無視してもいいと思ってるかのようだ
そもそも短里も畿内説の学者でも主張しておられる方がいるのに
自分がどれだけ偉いのか知らないが、どうしたらそのように人の研究を無下にできるのか
人口は出土しないのでは?
7万戸の住居跡は遺構として発掘されるのでは?
※2280
遺跡そのものは考古学的事実に違いないが
残念ながら邪馬台国であると証明する考古学的事実ではない
もし仮に邪馬台国であると証明される遺跡があるならもう勝負はついている
魏志倭人伝の記述に一番よく合致している遺跡こそが邪馬台国
魏志倭人伝の記述に全く合わない遺跡はいくら大きくとも邪馬台国ではない
短里は共通認識でしょ
畿内派にとってはもはや書く必要もない常識
纒向遺跡の大きさという考古学的事実ではなく、纒向遺跡が邪馬台国であるという考古学的(発掘)事実を知りたいだけ
>2275
>墳丘墓もあるし、「ある時期」を境に環濠集落が消えてる
「 」は引用者
こういうのが、考古学的事実だと思うのですが、2278にとっては遺跡そのものは考古学的事実には入らないようですね。
この「ある時期」が、倭国大乱の、各地の王権が伸長し楯築墳丘墓のような大規模な王墓級弥生墳丘墓が作られる時期と、卑弥呼および台与が共立されて古墳時代に入って行く時期の、境界なのだと思っています。
そして、その時期の交流の中心地としての纏向遺跡が見つかっているのだから、これこそが具体的な考古学的事実だと思うのですけれどね。遺跡は考古学的事実ではないという見方もあるようです。
鋤を再利用した木製仮面が纒向遺跡が邪馬台国である証拠
魏との交流は鎧で証明された
鳥取や北関東で魏の年号入りの鏡が見つかっているので、纒向遺跡の巨大さから当然魏の年号入りの鏡は纒向王家が授けたものであり纒向遺跡は邪馬台国の都であり、古代倭人の正統なる王家であり各地の豪族に共立され、纒向遺跡に移り都を造った唐古・鍵王朝はヤマト政権である
考古学的事実に照らし合わせれば当然
※2278
>畿内説派は狂ったように喜ぶのは目に見えている
脳内妄想を根拠に勝ち誇るのはNG
魏志倭人伝読めば、それらのものは邪馬台国に直接繋がるメニューではない。
出ても出なくてもどうでもいい。
それを根拠にしてた九州説が窒息するだけ。具体的な墓も遺跡も出せない九州説など雑魚なのでもともと眼中にない。
>2283
>もし仮に邪馬台国であると証明される遺跡があるならもう勝負はついている
これも散々、私の方からも何度も書き込みしてきたことなんですけれどね。
だから、状況証拠的に一つ一つ、1%ずつ、遺跡や遺物の検証を積み重ねていくしかない。
この点は同意されますよね?
そして、鉄の鏃は、残る環境、発掘される機会が限られていて、あるなしで言えばある方が有利だけれども、それこそ証明に使えるようなものではないし、数が少ないながら畿内でも出ている。その上、魏志倭人伝の成立の仕方を考えれば、後漢のころの帥升の朝貢などの記録も残っているし、「倭国の情勢」として九州の事物が多くなるのもある意味当然のことであって、邪馬台国であると証明される遺物ではない、と言っているのですよ。
大規模遺跡の希少性と、鉄の鏃の希少性を比べるのもあまり意味のあることではありませんが、状況証拠の何%分かと考えたときに、纏向遺跡の存在は数10%分の寄与度があるのに対し、鉄の鏃は数%というのもかなり甘い判定だと思います。
国内の交流が、縄文時代から黒曜石のようなかなりの重量物まで広域で行われていたことを考えると、移動可能なもので判定しようとするのは、そもそも難しい、というのがこちらの意見です。
※2275
九州を諦めたんならそれでいいわw
「魏との繋がり」「遺跡」「地名」で畿内を上回れるよう頑張れ
2266です。
2270さんのコメントを拝見しまして、2275を書き込みました。
私は纒向遺跡が邪馬台国である考古学的事実を見出すことができませんでした。
そんな中とても理路整然とされている2270さんのコメントを拝見しました
吉備もありかなと初めて思いました
誰とは言いませんが、鉄や絹をもの扱いする人よりよっぽど素晴らしいです。
黒曜石や翡翠から交流範囲を確定してるのに移動するものは無視って凄い
畿内説の主張はつまるところ九州以外なら畿内
>2281
>自説にそぐわないものは全てゴミ
こういうのこそ、印象操作だと思いますよ。
私から見て、原理主義的で話の通じない書き込みに対しても、かなり丁寧に対応しているつもりです。
私も言葉が悪くなる部分もありますが、それは議論する気がなく、場を荒らすことを目的にしていると「思われる」コメントに対してです。
この「思われる」の部分は私の主観ですので、2281がどのように感じるのかは、私の感知するところではありませんが。
黒曜石ネットワークがあるなら鉄の鏃もそのネットワークで捌けばいいのに
※2291
悪いけど俺は畿内だと思ってるよw吉備は九州よりマシだと思ってるだけで
鉄や絹も、伊都国にしか行けなかった魏人が書いただけでどうでもいいと思ってる
魏の繋がりナンバーワンは北部九州だよな?
まさか纒向遺跡が魏の繋がりナンバーワンなの?
とりあえず、※2171に答えられないから、九州説は消滅した事でいいな?
まだ九州説を唱えたい奴は、ちゃんと答えてからにしろよ
俺は土佐説
ここの主の34は重視していないが、距離と出土物がある
>2291
丁寧な言葉遣いをしてくださるようになって、その点はうれしく思います。
>鉄や絹をもの扱いする人
いや、鉄や絹は「もの」でしょう。
卑弥呼の共立のような「こと・イベント」ではない。
魏志倭人伝の日本史における重要性は、卑弥呼が共立されて倭國王となった、という「イベント」だと考えています。そして、イベントそのものは考古学的遺物として残らないので、その場所(遺跡)や交流範囲から考えていこう、というのが最近のアプローチの主流だというのを、ずーっと書き込み続けているのですけれどね。
広さ以外の根拠なしということを畿内説の人たちが丁寧に教えてくれる良スレですね
※2279
魏との繋がりナンバーワン=伊都国
魏との繋がりナンバーツー=邪馬台国
>2295
鉄の鏃は、そのネットワークでさばかれていませんが、鉄素材は広く全国(というと言いすぎですが、弥生化して稲作をしていたところ)に広がっていますよ。登呂遺跡あたりでも、鉄の鍬を使っていなかったと考える人はいないと思います。が、鉄自体は錆びると朽ちてしまうので、案外残っていないんですよ。
その中で、九州では甕棺墓から人に刺さった鏃が多く出ている、ということです。
>2301
広さそのものではなく、広さの背景、を考えていただけると分かりやすいと思います。
そのあたりは、論理的に考えてください。
九州説は重要な前提を説明できず、妄想願望の自説を必死でゴリ押ししているスレだよ。
漢の時代にはそれぞれの国に王がいた地域があった
魏の時代にはそれぞれの国は王をやめ一人の女王を立てた地域があった
魏志倭人伝によればその女王の都は邪馬台国と呼ばれた
その地域はどこなんでしょうね
魏と交流すると広くなるのか素晴らしい国だ
日本海側でも鉄は残ってるんだけど、無視?
九州派「畿内だけは絶対認めたくない」
三角縁神獣鏡が国産で纒向遺跡が配ってたなら纒向遺跡から炉と型が出るんじゃない?
その工房が弥生時代か古墳時代かでわかるっしょ。
まとめ
纒向遺跡に邪馬台国だとされる遺構と遺物、すなわち考古学的事実はまだない
※2289
なるほど
しかしながら縄文時代に広く交流されていたものが弥生時代に入りクニが分かれて利害が対立し敵対しあうようになってからはかつてのような広範囲の交流が成されていないのもまた確実だ
現に纏向などを見ても出土した土器の出身地からして高い偏りを見せる
これは交流地を限定されているからであり、それらはクニどうしの利害関係の対立の結果だろう
古今東西、敵対国とは極力交流しなかったり物資の移動の制限をしたりするのは至極当然のことで、もちろん少数紛れ込むことはあるかもしれないが弥生時代の日本からしても考古学的に証明されているのではないか?
魏との繋がりゲーム得点表
鉄:1点
絹:1点
鏡:2点(三角縁神獣鏡は100点)
ボーナス
遺跡の場所が畿内なら1,000点
倭国一の広さ10,000点
これで最高点を取ったところが邪馬台国な!
鉄については弥生時代に日本全国から見つかるがその数は
北部九州>中部九州>山陰山陽>近畿北部>四国
まあだいたいこんなところであとは有象無象だ
韓から鉄を獲っていたことは文献的にも証明されている事実であり
それらを獲得して日本に持ち帰ったルートが九州ルートと日本海側ルートに分かれている
鉄の多い地域は国力である鉄を独占しようと考えたと思われるので、鉄の多い地域と少ない地域というのに別れる
少ない地域は錆びて残ってないというよりかは、絶対数が少ないので残っている数も少ないと見るべき
考古学的事実とし4世紀ごろ畿内に北部九州の文物が流入した時に鉄も同時に畿内にあふれることになる
それまで鉄を九州で食い止めていた(四国とは交流の可能性有るが)のにそれからは九州はただの鉄の通り道(言いすぎだが)と成り果てた
これは九州勢力が畿内に屈したか、参加したか、逆に支配したかのいずれかによって鉄の独占が解けたためと思われる
多くの古代遺跡から見て、古代日本人の食生活はかなり恵まれていたという説もかなり信憑性がある。
採集経済中心の日本の縄文期は優に一万年に達するという研究もあるから驚きだ。
そんな長期間に渡って日本列島にたどりついた海洋民族を始め、北方アイヌから中国大陸・朝鮮半島に至る多くの人々がこの日本に渡来していたと見るのが自然。
当時としては釣り道具や狩猟のワナ、調理方法に至る最新技術も次々と渡来する新たな民族や部族との交流を通して、もたらされていたと思える。
大きな人口を支える巨大集落の形成は、近郊に豊富な食料環境が無いと難しい。
外敵への備えから集落はやがてゆるやかな連合を組み始め、いずれは利害対立や内乱から中央集権国家へと突き進むようになる。
古事記以前の神話の時代はそんな虚実こもごもの歴史の混沌があるから、かえって面白い。
邪馬台国論争に一つの区切りをもたらす大きな意義は古墳の発掘調査にあるが、かつての支配者達の英霊が現代人の野暮な歴史への踏み込みを妨げる様に、天皇陵としての敷居の高さがそれを阻んでいるのも又、面白い。
日本の歴史は天皇家の歴史、といわれる所以か。
武家の台頭による権力移譲で、日本は早い段階から天皇家は君臨すれど統治せずの国家体制を敷いてきた。
今日では憲法上でも日本国民統合の象徴としての位置付けから、その歴史的権威はゆるぎない。
正直、普通の日本人にとっては空気のような存在なのだが、日本にあって当然、無くてはならない存在。
何か事あるたびにその存在感を増す天皇は、自分が日本人である事をその都度、強烈に思い知らされる。
ここの米欄にIDが出たら九州派のキチな書き込みが減ってまともな議論ができそうだけど…
※2311
九州説派のクズ君はまだまだ必死だな(笑)
※2314
鉄…北近畿
丹…南近畿
これを繋ぐ位置にあるのが奈良。
これで近畿がまとまる。
丹の徳島、鉄の淡路には少なそうな米もいっぱいあるからそれらを併呑。
吉備出雲九州との争いも制していく。
とかいう想像。
アイヌの人達は明治時代でも狩猟採集生活できたから案外狩猟採集も効率いいのかもよ
米は長期保存が利く有益な農作物であり、簡単な加工調理で兵站にも即利用できる優れた糧食。
日本の歴史上、連合集落から中央集権国家へと変貌する時期と完全に一致する。
考古学的事実からは吉備の勢力が強く九州と畿内はほとんど交流がなかったことがうかがえる
あと、九州派の人たち(特定できないのでこれまでの書き込みを尊重して複数形にします)が、繰り返し「纒向がでかいから、邪馬台国なのか」と書き込みをしていますが、大きさよりもむしろ「時期」なんですけどね、邪馬台国に比定される理由として大きいのは。
まあ、編年は絶対値ではないので決定的ではないですが、十分以上に説得力があると思うんですが、九州説はここを「認めないことが出発点」なので、話がかみ合わない訳です。
邪馬台国の存在が唯一、中国史の魏志倭人伝という伝聞記録しかなく、これを証明する明確な手段が今の所ない。
稲作の伝来で日本は古事記以前の神話時代から一歩進んだ古代大和中央政権の時代へと移る。
その激動の国家統一の過渡期に存在したと思われる邪馬台国。
畿内であれば大和朝廷の母体となり得るが、九州ならば衰亡したという事になるのだろうか。
いずれにしても女王・卑弥呼による邪馬台国のシャーマニズムの統治形態は終焉を迎えたか、あるいは大和中央集権による全国各地での統治基盤、神社経営としての巫女文化として利用されてゆく事になったのかも知れない。
大和政権成立の大きな歴史的事実が当時、強大な出雲勢力の併合(滅亡・占領)。
古事記伝承の多くは、実際は大和政権による血なまぐさい戦いの連続、日本統一戦争だったらしい。
畿内説にせよ、九州説にせよ、邪馬台国もこれらの争いに巻き込まれていった可能性は高いと思われる。
魏志倭人伝 私注というウェブサイトがあるのですが、非常に詳しく、参考にさせてもらっています。
そこに「通説どおり、末廬を唐津、伊都を前原とした場合、この間を陸行するというのは信じられない。何がしかの誤りを想定する必要があるのではなかろうか。」「いずれにせよ、末盧国から不弥国まで、玄海灘沿岸を陸行するのは極めて不自然。」という指摘があります。
ここまでのコメント欄でも、歩くより船の方が楽、などの指摘もありましたし、魏からの使者がどのような経路、移動方法を想定するのは、魏志倭人伝の記述だけではやはりむつかしいのだと思います。
>2324
記紀で、出雲のことが比率的に非常に大きな部分を占めること(古事記では神代の3分の1ほど)が、現在でも謎とされていますが、私は個人的な考えですが、大和王権の大王家の母系の祖先が出雲系とされているからではないかと考えています。
卑弥呼の共立に頼りすぎてはいけませんが、祖先祭祀の統一(定型化した前方後円墳の成立)を通じた、戦争によらない穏やかな連合があってもよいのでは、と思っています。
>>1314
>纒向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶ全国屈指の大規>模遺跡ではある。しかし、この3平方キロにおよぶ面積は、実は布留式土器が出土する頃のものだ。>卑弥呼が君臨したとされる3世紀前半の規模ははるかに小さく、庄内式土器が出土する地域とされて>いる。
>>2196
>・畿内勢は邪馬台国の時代にすでに北部九州に到達していた(庄内式土器の分布)
纏向遺跡は卑弥呼の時代にはそれほど大きくなかったんだ…
※2322
どれだけ時期が合致してようがなぜ北九州からのものが流れてきてないのか?
九州通して魏の文物が入ってきたのに土器すらない
後の時代からは出てくる
一番関係ないと思われる理由がこれだ
魏使が確実に通ったルートである北九州と交流がほとんどないと思われること
この理由に納得のいく説明かまない限り納得ができないし、畿内説派は説明すべきだと思う
>2327
この3世紀前半、というのがどの時期かっていうことなんですよ、焦点は。
九州派の人のこれまでの書き込みでは、纒向が邪馬台国なら卑弥呼が共立される2世紀末には大遺跡じゃなければおかしいという意見だそうですが、むしろ卑弥呼の共立後に建設が始まったと考えれば3世紀初頭には小さくて当然で、急に建設が始まったこと自体が新たな勢力の形成=卑弥呼の共立を想定させます。
そして、その後纒向は急成長するんですよ。卑弥呼の遣使のあった238年頃には十分な大きさだと思います。この辺が編年論から問題になるところで、確定的な数値は出ませんが特に矛盾はないと思います。
卑弥呼の時代の土器は庄内式
庄内式土器の分布は小さい
土器編年的に卑弥呼の時代は小さいでOKだよ
>2328
ものがない、ものがないといいますが、古墳時代に入る前の時点でいわゆる纒向型前方後円墳が北部九州にもありますよね?
「古墳時代の前から北部九州と畿内の交流がある」というのは、わざわざ議論しなければならないことなんでしょうか?
長里説によれば伊都国の場所も6倍になるんでしょ?
奴国も伊都国も九州じゃないかもよ!
金印も移動するから奴国も九州じゃないって主張できるよ!
きっと奴国も伊都国も畿内にあったんだよ。
確か近畿に伊都の地名もあるよ。
2231
箸墓古墳が最初の前方後円墳
そこから古墳時代と9割の学者が認めてる考古学的事実ですよ
九州の前方後円墳の造営時期と卑弥呼の時期が合わないとの主張はどこへ
畿内の前方後円墳のあとに九州の前方後円墳ができてそれが古墳時代なら、弥生時代に勢力が及んでた証拠にならないでしょ
遺跡は動かないんだから
古墳の時代鑑定は副葬品からでも炭素法でも土器でもできるでしょ
※2321
邪馬台国は、魏との繋がりがあればいい
九州との繋がりが必要だという根拠はなんだい?
古墳時代になると畿内の石棺は熊本の石が使われる
一番大切な石棺が九州産
弥生時代にはなかった風習
古墳時代とともに南九州と畿内は急激に交流が盛んになる
私は紀元前に起こった東遷について行かず日向に残った神武天皇の親族の子孫が畿内の天皇家とまた交流を始めたと睨んでる
>2231
いわゆる纒向型前方後円墳というのは、箸墓古墳で定型化した前方後円墳が完成する前の、前方後円型の墳形をした「弥生墳丘墓」を言います。
箸墓古墳が造営される前の時期の纒向遺跡内に、5基の弥生墳丘墓があり、それについて付けられた呼び名ですが、割に広い範囲でこれらと同様の墳形の弥生墳丘墓がありそれらも纒向型前方後円墳と呼ばれています。この呼び方を認めない人もいるので私も「いわゆる」を付けて表現しています。
知っていることの範囲が違うと誤解を生じがちですが、いきなり相手が間違っていると考えるより少し調べていただくと助かります。
私も短里の議論の時には非常にいい加減な例示にたいして原書、原典を探して対応させていただきましたよ。
前方後円墳は宮崎県発祥の可能性が極めて高い
宮崎→畿内→北部九州
記紀の流れと一致する
纒向遺跡の特異性はまず、住居がないこと、次に外来土器が多いこと
住居がないということは人が住んでいなかったということ
周りの遺跡も案外近い
季節ごとの儀式と墓造りのみ
土器はその儀式や墓造りの時に持ち込まれたもの
東北と九州以外から人が集まった様子が分かる
弥生時代の終わりから古墳時代にかけて、東北九州の省かれっぷりを堪能できる遺跡
この2つの地域は祭事が違うことが分かっている
つまり纒向遺跡は同じ神を祀る共同体の集合場所であり日本のオリンピアと言えるだろう
九州と東北はバルバロイの扱いを受けていた
九州と交流はない
九州説が弱いのは、王墓級弥生墳丘墓を造営した大勢力があったのが確実なのに、それらが伊都国であり奴国であり、邪馬台国ではないと魏志倭人伝に明示されてしまっていることです。それ以外には、古墳時代に入ってからも強大な豪族もなく大きな古墳もありませんし。
時代が下ると、継体天皇と争った筑紫君磐井が記紀に登場し、その墓とされる岩戸山古墳も北部九州で最大の古墳ですが、戦後処理で儺県を大和朝廷に譲っているので、これも奴国の末裔のようにも見えます。まあ、磐井の勢力範囲は広いので、もしかしたら、その勢力範囲の中にまだ見ぬ大遺跡があって磐井はその後裔なのかもしれませんが。実際、九州王朝仮説では邪馬臺國ではなく邪馬壹國で、岩戸山古墳の近くの八女を候補地にしています。
>2327
>纏向遺跡は卑弥呼の時代にはそれほど大きくなかったんだ…
それでも700~800メートル四方はある
しかもその時点ですでに全国(うざいのであえて言うが九州、東北は除く)から人が集まってきている
当時として日本列島最大の建物もある
農業を行っておらず政治宗教に特化した集落でこれだけ大きいものは他にない
ヤマト王権の都だったことを今さら否定する理由なし
邪馬台国=ヤマト王朝
まずここに議論があるのに
ヤマト王朝=纒向遺跡を
纒向遺跡=邪馬台国と主張するから考古学的事実とずれるんだよ
纒向遺跡=ヤマト王朝の都
確定してるのはここまで
これは誰も否定してないぞ
>2338
どうしても九州を孤立させたいようですが、そう考えるなら、それが九州に一大率を置く理由になると思いませんか?
でも、出雲と九州は大国主 が宗像三神に妻問したという話が古事記にあって、出雲には鉄も出るし、この間の交流は否定しませんよね? そして、北部九州には実際に古墳時代の前から、いわゆる纒向型前方後円墳(弥生墳丘墓)がありますし、出雲と畿内とは交流があって、九州と畿内のつながりを積極的に否定する理由がないと思うのですが。
何度も言いますが、「ない」ことを立論の基礎に置くのは根拠として弱いですよ。
纒向遺跡が邪馬台国の都である可能性は纒向遺跡から出土する外来土器の確率と理解してる
全くだ
魏との交流がないのに邪馬台国とはこれいかに
ないことを根拠にしてはなりませんな
女王のもとに届けたって書いてあって出土しないの不自然
弥生時代に墳丘墓あって副葬品出ないの不自然
※2331
古墳時代の直前というのは九州との交流がそのあたりから始まる時期であって卑弥呼の共立から100年程も経つ時期だ
九州(大陸や朝鮮)との交流は2世紀の終わりごろから始まるべきだと思うのが当然だろう
>2341
そのヤマト王権が北部九州に進出していて奴国は植民地に近い状態になっている
ヤマト王権が魏と交流した物証もある(中国鏡など)
ここまでくれば魏使はヤマト王権の王を倭国王とみなしたとするのが当然の理屈だと思うが
むしろ魏使が九州のどこかの王を倭国王とみなしたはずだと主張する方が非現実的で根拠ゼロ
赤壁の戦いも正史だと55語
>何度も言いますが、「ない」ことを立論の基礎に置くのは根拠として弱いですよ。
これも意味わからんよな
簡単に言うと畿内にはないが九州にはあるというだけ
しかも畿内説はどこにも書いてないことを根拠にして、書いてないからと言って「ない」とは言えないという相手に悪魔の証明を求めるやり方
A.瀬戸内海を通った
B.そんなこと書いてないじゃないか(隋書には書いてる)
A.書いてないからといってなかったとは言えない
これがまかり通ってるからな
この瀬戸内海を太平洋にした時に畿内説派はどうやって否定するんだ?
※2347
大和王権と邪馬台国をごっちゃにしてる
九州の奴国は金印を貰ったので九州の国を倭王とするはずがないというのは成り立たない
ヤマト政権は紀元前から大和にある
日本書紀では卑弥呼の時代に朝貢していない
金印ももらっていない
奴隷も献上していない
鏡も受け取っていない
そして天皇家は一度も中国に朝貢していない
天皇家は日本の国王であったことは一度もない、王ではなく天皇である
これはまぎれもない事実
そして日本書紀により万世一系であることも明らか
以上により、邪馬台国がヤマト朝廷ではありえない
そして纒向遺跡はヤマト政権の前身であるから、纒向遺跡が邪馬台国であることはありえない
これこそ考古学的事実により得られる結論である
>2350
意味不明
というか明らかに知識不足
理解できないならレスしないでくれ
3世紀半ばの時点で奴国はヤマト王権の傘下に入っている
奴国の中枢である比恵那珂での畿内系土器の急増があり3世紀後半には半数を超える
首長層の祭祀が畿内系土器に変わり、前方後円墳が造られ三角縁神獣鏡が副葬される
九州で最も早くヤマト王権の傘下に入ったのが奴国だ
おまえら、最終目的地が間違ってるぞ
至るは中継地点のバラン星、到るは目的地を意味する。で、到った国には何がある?
「他国の大使館がある所」だ。つまり、到った大使館までしか国使は行っていない
どの国の外交官も、邪馬台国には入らせてもらえなかったか、或いは女王が既に他界しており行く謁見自体不可能だったか、だ
魏志倭人伝に卑弥呼亡き後の記述があるのは何故だ。既に死んで、国乱れて新たな女王を立てて何とかまとまった後のナポレオン三世時代に書かれたものではないのか。で、一世であるボナパルドを忍んで色々書いてあるが、実は思い出を書いているだけでは無いのか?
(そのため邪馬台国という聖域丸ごと禁忌エリアとして指定されていたのかも。ここら辺は根拠なし)
要するに卑弥呼が死んでから急に九州に畿内勢力が広がったんだろ
なら卑弥呼と畿内勢力は関係ない
これが遺跡からわかること
3世紀初めが卑弥呼即位で3世紀前半から半ばが治世で3世紀半ばに崩御で墳丘墓の時代、3世紀終わりから4世紀初めが前方後円墳の古墳時代の始まり
3世紀終わりから前方後円墳の範囲がヤマト政権なら卑弥呼はヤマト政権ではない
>2331
これも何度も書いているのでいい加減把握してほしいのですが、卑弥呼の遣使は239年でその前は130年ほど前の帥升の朝貢(107年)まで飛びます。
空白の四世紀と言われますが、二世紀も中国の史書に倭国の情報はほぼありません。まあ、倭国大乱とはありますが。
朝貢の記録が、中原の王朝側からすれば最も重要な事項(対夷狄では)なので、これの書き落としはないと思います。2世紀末は遼東の公孫氏が中原から自立して東夷との連絡を遮断していたので、卑弥呼の共立も239年の遣使後に中原にもたらされた情報でしょう。
>九州(大陸や朝鮮)との交流は2世紀の終わりごろから始まるべきだと思うのが
これが当然ではないのはお分かりいただけたでしょうか。朝鮮までは南北市糴していたと思いますが。
※2352
3世紀半ばでの畿内系土器の急増って何をさすの?
前方後円墳の出現も早くとも3世紀後半だし
※2356
倭国大乱が九州で起こって何もない土地の畿内に卑弥呼を共立したんだろ?
なのになぜ九州からの移民はいない?
また、租税をとって市もあり魏に朝貢した産物は九州産が多い
それら最高級の品は女王の元に運ばれなかった?
また鉄や漢式鏡なども畿内には運ばれなかった?
しかも2世紀後半どころか3世紀半ばでも畿内からは見つかってないじゃないか
拾いものだけど、3世紀前半の日本列島における人の動き
ttp://i.imgur.com/NfhXr3E.jpg
これ誰が何という文献で載せたものなのかご存知の方いますか?
ソースがわかればこういう議論で使えると思ったので
「九州にあった地方政権が逸早く魏国と通交を始めたのであろう」ってのがシンプルな主張なのに、ムキになって否定するのは何故?
例え箸墓の発掘が行われても腐敗しない石の墓碑か「親魏倭王」の金印が出なければ決定打にはならないんだよ(金印に至っては持ち歩くことも可能)。
考古学的な見地から「繁栄していた」と看做されても固有名詞が出るわけでもなし、畿内派は何と戦ってるんだろ。
卑弥呼の墓の大きさだけど、「一歩=1フィート」で「方墳の一辺が百歩」と仮定すれば約30m四方って勘定になるわな(あくまで仮定だよ)。その程度の古墳だったら気付かずに破壊されてても記録すら残ってないかも知れない(志賀島の金印だって偶然発見されたんだし)。
もし畿内に女王がいたなら博多辺りからいきなり瀬戸内海に出ないと非効率だけど、北部九州をウロウロしてる意味が分からないから「詳しい→北部九州、記述なし(かな)→畿内」って言ってるんだけど、理解してくれない人が多いのな。
考古学的遺物に固有名詞や余程特殊なブツが含まれてない限り「親魏倭王」と認められないんだから、淡々と情報集めて「どちらかと言えば◯◯」でいいのに。オレは「どちらかと言えば北部九州」だね。
それじゃダメなの?
九州だと思いたければ思ってればいいだろ
倭人伝もまともによんでない、考古知識ゼロのやつに今の畿内説を理解するのは不可能だから
まあ、ちゃんと知識のある人でいまだに九州説を支持してる人はいないのが現実だけどな
※2361
ほら。
具体的に「魏国と通交したのはどこか」なんて無視して「考古知識」なる一般人には分からないようなものを説明もせずに自明のものとして押し付ける。
この議論は「考古学的な知見」がどうかじゃなく、あくまで「文献上の『女王国』はどこだったか」が問題だと理解しない輩が上から何を言っても説得力ないんだよ。
発掘される遺物が年単位での証拠になるわけじゃないんだから。
廐戸皇子が隋に使者を派遣するまで日本は南朝を正統と見做して来た。
そこの外交的転換を恙なく、しかも国威を損なうことなくやってのけたことが廐戸皇子(聖徳太子)の最大の功績でしょ。
目を覚ませよ。
>2335
その墳丘墓と古墳時代の境目が問題って何度も言っているのですがね。
そしていわゆる纒向型前方後円墳と言う呼び方をされる弥生墳丘墓が、纒向のいいところに4基集まって存在しています。纒向型前方後円墳はかなり広い範囲で存在します(北部九州を含む)が、最大規模のものはやはり纒向のものです。
この弥生墳丘墓が卑弥呼の時代と認めてもらえるなら、それでもう意見の相違はなく決着ですね。
纏向遺跡の根拠はやはり広さ
広ければ邪馬台国
考古学的事実に照らし合わせて考えると前方後円墳が邪馬台国である証拠を先に考える
前方後円墳が邪馬台国だと決め付けている時点ですでに考古学ではない
ここまで見た感じだと、邪馬壱国が北部九州、邪馬台国が近畿の大和。
後はどっちがどっちを支配したか(唐書)、そしてそれはいつ頃か(東征?日本武尊伝説の後?)。ここで争ってる感じかな。
34の人もそんな事書いてるし。
近畿勢力の中でも、奈良勢力は東国(東海~関東)との繋がりが強く、かつ最も勢力が大きいって見えるけど、この状態ですぐに(古墳年代が早まった?)争い無しで国譲りは考えにくい。
邪馬壱国で読むと、北部九州勢力は、南部九州に負けないために大陸と結び付いたと読めるわけで、本州勢力は生き残ってたわけだし、直後に争いなしで近畿まで支配できたとは思えない。
何より、前方後円墳の広がりを見るに、近畿勢力(日本)が北部九州(倭)へ伸びていったと見るべきだろうから。
九州というか渡来人の影響とされるものは、大阪辺りまでは来ていたけど、最大勢力と見られる奈良には届かず、逆に奈良の影響下に置かれた。
支那の後ろ盾で朝鮮人が日本を支配したって筋書きにはならないし、大阪から日本支配をもう一度って妄想劇も終幕だな。
ウチ奈良が朝鮮や支那を支配したノダ
>2349
>これも意味わからんよな
分かってて書いているでしょ?
大和に鉄の鏃が「ない」から、違う
魏志倭人伝に瀬戸内航路って書いて「ない」から、大和は違う
こういう立論しているのはあなたですよね?
鉄の鏃を使うのは倭国の習俗で、邪馬台国限定ではないし、そういう部分は帥升の頃からの記録のコピペも多いから、九州のことが多く書かれているのがむしろ当然出し、畿内でも少ないだけで出てるし、否定の根拠には使えないって何度も書いてますよね?
水行10日、陸行1月という略載の、どこに瀬戸内航路と書く隙間があるんですか? 逆に九州説が正しかったら、筑後川の遡行が書かれていなければならないんじゃないですか? 有明海航路でもいいですが、書かれてない以上九州説は成り立たないですよね? あなたの議論の仕方だとこうなります。
要はいいかげんに書いてあるだけですよ。
そこから読み取ろうといったって無理だ、だから考古学資料その他と照らし合わせながら考えよう、という話なんですが、遺跡そのものは直接証拠じゃないと言い張るし、年代論は古墳時代は4世紀とかたくなに言い張るし。年代については研究者の間でも完全一致はもちろんないですが、それなりに収束してきていて、古墳時代は4世紀に入ってからというのはかなりオールドファッションですよ。
※2360
>九州にあった地方政権が逸早く魏国と通交を始めたのであろう」ってのがシンプルな主張なのに、ムキになって否定するのは何故?ムキになって否定するのは何故?
誰か否定してる?魏は九州の親分筋に当たる畿内とも交流していて(神獣鏡を送った)、そっちを倭王と認めた。それをムキになって認めようとしてないからボコられてるのが九州説。
>石の墓碑か「親魏倭王」の金印が出なければ決定打にはならないんだよ(金印に至っては持ち歩くことも可能)。
つ ※2151
>考古学的な見地から「繁栄していた」と看做されても固有名詞が出るわけでもなし、畿内派は何と戦ってるんだろ。
・九州から水行陸行2月の遠い位置にあって、そこから九州近辺までの広大な領域の盟主である大きな都
・魏と交流
・固有名詞=ヤマト
これだけ鉄板な邪馬台国畿内説に、訳の分からんイチャモンこねくり回して頑なに認めようとしない九州説と戦ってる。
>その程度の古墳だったら気付かずに破壊されてても記録すら残ってないかも知れない(志賀島の金印だって偶然発見されたんだし)。
そう、その程度じゃないから「大作冢」と明記されてる。
>北部九州をウロウロしてる意味が分からないから「詳しい→北部九州、記述なし(かな)→畿内」って言ってるんだけど、理解してくれない人が多いのな。
理解してるよ。
魏志倭人伝「詳しい→伊都国、記述なし(かな)→邪馬台国」
つまり伊都国=九州、邪馬台国=畿内でいいよね?
>淡々と情報集めて「どちらかと言えば◯◯」でいいのに。オレは「どちらかと言えば北部九州」だね。
>それじゃダメなの?
お前らのは、情報や根拠ゼロだろw
だからダメ。
>2360
>「九州にあった地方政権が逸早く魏国と通交を始めたのであろう」ってのがシンプルな主張なのに、ムキになって否定するのは何故?
これも何度も書いていますが、それ(一地方政権)だと「親魏倭王」の称号とそぐわないんですよ。華夷秩序というのは、中華の王朝に対して蛮夷が朝貢し、それに対してそのトップを王なり侯なりに除正し、配下に率善中郎將などの位階を与え、朝貢の品の何倍もの下賜品を与えることで、王朝の権威を示すというシステムです。
ここで、トップの王なり侯なりへの除正を間違うことが、王朝ひいては皇帝の権威に一番傷を付けることになります。だから、文句が出そうであれば除正の範囲を値切るし、確認の意味もこめて答礼使を派遣します。実際倭の五王の遣使の時には、上表文で求めた半島についての称号を外されています。
使訳通じるところ30ヶ国が、全部九州の中で、全部九州説の言う邪馬台国(地方政権)の配下であるなら、可能性はなくはないですが、九州説の人もこれまで出雲等の日本海側も、大陸と交流があって鉄を入れていたことを認めていますし、30カ国に畿内と連絡のある国がある方が当然でしょう。
そうなれば、九州の一地方政権より大きい畿内の祭祀連合の情報が魏に届くわけで、そうなれば倭王の称号は難しくなります。
地方政権が魏と通交を始めても構わないですし、実際使訳通じるところは30ヶ国あったと書かれている訳ですが、その30カ国が「倭王」の称号が貰える訳ではありません。そういう意味です。
>2359
これを見ると、畿内が邪馬台国で出雲が投馬国と考えるのが妥当なんだろうか
投馬国は吉備が有力とされてるけど出雲の方が自然だな
2366
半島系渡来人の集積地関東が現在の首都なのでどうでも良いニダ
2367
倭いらヤマトが昔から日本に君臨してたンヤ
※2360
>もし畿内に女王がいたなら博多辺りからいきなり瀬戸内海に出ないと非効率だけど、
>北部九州をウロウロしてる意味が分からないから「詳しい→北部九州、記述なし(かな)→畿内」って言ってるんだけど、
>理解してくれない人が多いのな。
この人同じことずーっと繰り返し言ってるな
そのたびに、北部九州は伊都国に郡使が常駐してたから詳しくて当然、邪馬台国は梯儁と張政しか行ってないから情報が少ないのは当然
と説明されてるのに、まったく理解しようとしない
自分の先入観が優先で物事を論理的に考えようとしない
能力は低いけど、まじめで粘り強い
ゼークトの組織論で射殺されるべきと言われた人種
※2368
隋書には瀬戸内を航行して十余国名前入りで通過したことを記述して海岸(難波)についたことも記述しているのに不自然だと思わないのか?
ここだけ省く意味がわからない
不自然と思わないのは結論ありきだから
しかも鉄だけに限定してるけど※2278で書いたとおり、出てないのは矛であり絹であり玉だあり由緒正しき魏晋鏡なりなんなりだからな
これらがなぜ出ないのか?
そして九州と交流してない件はどうなったの?
九州説は歴史の流れを全然説明できていない。それを行うと九州説には様々な自己矛盾が生じ
破たんするからだ。
また、各出土品からも都合の悪い物は無視して、都合の良い物だけを挙げている。
どこから何が出土しており、どう考えられるかなどは歴史ヒストリアや知恵泉などの番組でも
九州説学者や考古学者が纏向遺跡の調査結果などから最新の述べているが、そういうのも無視。
未だに、昭和に提唱された古田武彦説の影響を受けているだけ。
>2359,2371
調べました。
『三世期の人の動き』(松木武彦)という図です。
この松木武彦さんの「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」という論文が国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月に出ていて、ネット上でpdfで読めます。
もう、私がぐだぐだ言うより、これを読んでくれ、で決着でいいように思います。
※2370
その時代、国家間の規模をどうやって比較するのか?
少なくとも鉄は国家なりと言われるほどの鉄や高価格で取引された絹やらの産物と人口(これはあいまい)では九州が畿内を圧倒してる
それにあなたは戸数の誇張説を唱えていたのにこれこそ自分を大きく見せるための邪馬台国の策略だとは考えないのか?
さらに、魏は邪馬台国を倭を統一していない政権だと認めてるから、その批判は当たらない
>2376
>ここだけ省く意味がわからない
>不自然と思わないのは結論ありきだから
逆です。九州説ありきの結論から読んでいるからそう見えるんですよ。
前にも、略載の定義を聞きましたが、「簡略に記載すること」と答えてくれましたよね?
「戸數道里」可得略載 と、魏志倭人伝にそのままに書いてあるのに、戸数と道里「以外」が書いてないのを不自然だと言い募るのは、普通の論理的思考をする人からすれば、ただの言いがかりにしか見えません。
後漢書と魏志倭人伝では、力点のポイントが違うのですから、書いてないことは書いてなくて当たり前でしょう。他のところでは、やれ鉄の鏃が書いてあるのに畿内に出ないのは、畿内じゃないからだとか、妙に原理主義的な魏志倭人伝の読み方を披露しているのに、「戸數道里」可得略載と書いてあるのに途中の国が書いてないのがおかしいとか、どうして拡大解釈をするのでしょう?
九州に決まっているという結論ありきの推論以外で、この論理にたどり着くのはありえないと思いますよ。
纒向遺跡がヤマト王朝の始まり
これに異論はあるまい
遺跡と記紀が証拠
これが考古学的事実
そうすると金印も張政も記紀に書いてない
要するに纒向遺跡は邪馬台国ではない
もちろん邪馬台国である遺物も纒向遺跡からは出土していない
>2379
よく読んでください。
魏は、倭国の国勢調査をしに来たわけじゃないので、基本は聞き取り調査でしょう。そして、使訳通じるところが30ヶ国ある。その30ヶ国から文句が来なければ、魏の威信に傷がつかない訳です。そういう認定だと思いますよ。
30ヶ国全部の人と面談する必要はないと思いますが、その中には畿内の纏向の新しい祖先祭祀共同体のメンバーもいるでしょうし、そういう人たちと魏の使いの間の完全隔離を仮定しないと、纏向の方が大きいのに、九州の一地方政権が倭国王認定されるのは無理だと言っているのです。
34はひとり魏は距離も広さも把握できない適当国家と貶めながら、魏は日本列島を遍く把握し、その中から最大勢力を選んで金印を授けたと曰っている
34の霊能力が卑弥呼を越えた瞬間である。
個人的に距離と広大さを考えれば、纒向遺跡が邪馬台国の1番正しい候補に違いないと思ってるので、正直困ってる
おかげで他のコメントを見ると距離と戸数の議論をするとまるで異端審問のように攻撃される
いい加減にしてほしい
>2381
>そうすると金印も張政も記紀に書いてない
金印や張政について、記紀に書いてないですが、九州に金印があるとか張政が来たとかいうことが書いてある日本の史書はそもそもないですよね?
同じ論理で、畿内以上に九州は強く否定されますよ?
「ない」ことを基礎にした論理は、まるで反論にならないというのが、まだ分かりませんか?
>要するに纒向遺跡は邪馬台国ではない
上のことしか理由がないなら、この文には何も意味はないですよね?
オレがこう思ったからこうだ、と書いてあるようにしか見えません。
>もちろん邪馬台国である遺物も纒向遺跡からは出土していない
九州からも出ていませんよね? 九州で出る水銀朱は大陸産という分析結果がありますが、真珠鈆丹各五十斤なんて、でかい古墳の水銀朱の使用量から考えたら、すぐなくなる量です。対馬や壱岐を介した南北市糴で入手したものと、魏への朝貢へのお返しの品との区別なんてつかないですよね?
そもそも、邪馬台国である遺物が九州から出ていたらすでに結論が出ている訳ですから、
「もちろん邪馬台国である遺物も九州から出土していない」
ということは、九州説は全否定ですね。
あなたの論理もどきは、穴だらけ以前に論理の体裁をとっていないんですよ。早く気づきましょう。
それと、「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」という論文を、ググって読んでください。
それで、もういいでしょう。
※2376
漢以前
中国人「九州しか知らない」
魏以降
中国人「畿内を知った」「詳しいのは九州」
隋
中国人「畿内にも詳しくなった」
めっちゃ自然ですやん
※2376
テンプレ2・改
九州説「鉄や絹や魏晋鏡があるのは九州!つまり九州」
畿内説「それ伊都国だろ」
九州説「ぐぬぬ」
稲部遺跡から大規模の鉄器工房が見つかってる
この辺りに交流、影響力があったと思われる氏族の本拠地は葛城高尾張
その付近にあるヤマト王権初期と言われる秋津遺跡からも鉄器工房は見つかっているね
>2376
全部論破されてるじゃん
しつこいぞ
瀬戸内海の記述がない
→筑後川、有明海、周防灘、豊後水道の記述がないと同じこと
鉄・矛・絹・玉
→それは倭国一般の話であり、邪馬台国固有の記述でない
由緒正しき魏晋鏡
→2278に書かれているのは漢鏡であって100年ずれている
それらが出てるのは伊都国や奴国であり、九州の他の地域からは出てない
しかも漢鏡7期からは畿内に集中
九州と交流してない件
→畿内から九州への人の移動と北部九州が畿内文化に飲み込まれていく状況で説明済み
※2382
その根拠が不明だ九州説によるとその30国も九州に限定されて、畿内との交流も全然ないのになぜ畿内情勢を詳しく知ったうえに大和にも参加してる国があると言えるのか?
しかも30国は遠絶で行ってもないんだから
これも書いてないことを根拠にしていて、相手に悪魔の証明を強いるパターンではないか
かつ、30国は卑弥呼を担いでるのに他国を知っていたとしてもなぜ畿内を持ち上げる必要があるのか?
そしてそこそこ大国を思わせるクナ国すら無視されているではないか
>2389
もう正直面倒くさいです。
それだけの情熱があるなら、ちょっとググって、松木武彦さんの「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」という論文が国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月を読んできてくれますか?
2014年のものですから、まあ、最新の考古学者の専門家の見解ということでよいでしょう。私のような素人に難癖付けてるよりも、よほど有意義だと思いますよ。読み終わってから、書き込みをしていただけると、非常に助かります。
ただ、私にはあなたの行動を制御する権限はもとよりありませんので、私以外からもフルボッコ状態の議論をそのままに続けられることも、あなたの自由であることは認めます。
※2388
瀬戸内は国がたくさんあるのに、国名を略載したと記述してるのに書いてないことが同じ文献内での矛盾だと言っている
産物は百歩譲って九州産だとしよう
で、それらは市し租税も課されてるのになぜ畿内に運ばれてないのかと聞いているの
また魏産の丹や鏡などの下賜品もそう
奈良から2~3枚しかでてないのに鏡がなんだって?
九州の土器はマキムクにほぼないのにか?
何をどう交流があったのか証拠と年代を出して教えてくれ
>2391
>国名を略載したと記述してるのに書いてないこと
このレベルですか!!!!!!
どこにそんなことが書いてあるのですか!!!!!!
この部分は特に難しくもなく普通に読めますよね? 漢字さえ読めれば?
自女王國以北「其戸數道里」可得略載
このカギカッコの五文字の、どこにも「国名」なんて書いてないですよね?
繰り返します。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」を読んできてもらえますか?(哀願)
>2391
この人、古田とかにどっぷり嵌って新しい知識を吸収してないんじゃないか
岡村編年も知らない、久住の論文も知らない
30年前で時計が止まったまま
※2389
>その根拠が不明だ九州説によるとその30国も九州に限定されて、畿内との交流も全然ないのになぜ畿内情勢を詳しく知ったうえに大和にも参加してる国があると言えるのか?
うん、だからその九州説の論理は破綻してて話にならんよね。って話。もう何言ってるか自分でわかってないだろw
>しかも30国は遠絶で行ってもないんだから
魏→30国 遠絶
30国→魏 朝貢
こうして魏は畿内の情報を得て倭国王に認定
>かつ、30国は卑弥呼を担いでるのに他国を知っていたとしてもなぜ畿内を持ち上げる必要があるのか?
>そしてそこそこ大国を思わせるクナ国すら無視されているではないか
何言ってるか分からんkwsk
※2391
略載したのは女王国以北。女王の境は奴国(福岡?)なので、山口県以西。瀬戸内は遠絶だろうな。
九州が従属してたのは東隣にある「女王国」。「女王国」は畿内卑弥呼を推戴する連合国家。九州は畿内への納税の義務はなかったぽい。ということで説明できる。
奈良には神獣鏡がわんさかあるけど?
私も隋書は時代が違うのであまりよく見ていなかったのですが、あんまり瀬戸内航路をうるさく言う人がいるので見てきました。
「彼」の言うところはここでしょうね。
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國(其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也)又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
行程記事ではないところは、括弧でくくりました。竹斯國は筑紫の国、つまり北部九州ですね。そして、竹斯國から「東」へ行くと秦王國(この国はどこに比定するか定説はなさそうです。単に渡来人の秦氏の領分程度の意味かもしれません)、また十餘國を經て海岸に達し、竹斯國より東はみな俀に附庸す、とあるだけです。
あれだけ「彼」が一生懸命解くので、さぞはっきり書かれているのだろうと思っていたのですが、瀬戸内とも書いてないし、途中の国名も書いてないですね。ただ「十余国を経て」とあるだけです。これで、瀬戸内航路と断定できるのはすごいと思いました。
また、隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國 には
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
とあって、書き下しは
邪靡堆に都す 即ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也
となります。
読みから言っても、邪靡堆は大和ですし、これが魏志のいわゆる邪馬臺だってばっちり書かれていますね。
まあ、後代のものは同時代資料と比べれば、資料価値は下がるものですが、あれだけ隋書を根拠に「瀬戸内航路と書いてないから畿内はありえない」と言っていたのですから、この部分にも言及してしかるべきだと思いました。
※2392
通った国とその国の戸数と道里を書いてるんだから
現に通ってない国名は書いてないし、通った国名は書いてるわけよ
※2395
妄想
なぜ九州だけ納税の義務から外れるのか?
それに魏の文物は女王に間違いなく納品されるらしいので、畿内に全くないのはおかしい
※2396
国名は書いてなかったな
それで海岸(難波)に着いてるんだから瀬戸内航行以外ないだろ
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
邪の部分は、倭と日本は違うと
旧唐書に書かれていて混乱が伺える
その後日本書記を渡してからは、神武が九州から東遷したと信じているので
倭国の立場は過去の倭奴国、邪馬台国を継承したという立場を表明したということだ
中国から見ても国号の変更を要求してないので、継承を信じたということ
ところで、はやく3世紀の九州と畿内の交流の証拠を出せと
自分の弱点を聞かれたら全く答えないよね
私は逐一反論できるけど、そちらはできない
あと国産濃厚の三角縁神獣鏡にいつまでもしがみついてるのはそれしか証拠がないと言ってるのと一緒だよ?
九州にあるはずの卑弥呼の墓が見つからない理由と、クナ国があったであろう
と思われる遺跡の名称と規模は、いつになったら答えるのかね?
>2397
>※2396
>国名は書いてなかったな
>それで海岸(難波)に着いてるんだから瀬戸内航行以外ないだろ
要するに、確認もせずに強弁していたということですね。そしてこの期に及んで「海岸(難波)に」と何一つ根拠のない決め付けをしている。
これまでずいぶん、あなたのコメントに対して返答してしまって申し訳ありませんでした。
これを最後に、今後基本的にあなたのコメントには触りません。
まともな根拠をもとに論理的な思考ができる人たちの間では、ほぼコンセンサスに達したと思います。2387の畿内の鉄器工房の話など、私も知らなかったことを教えていただけて、このコメント欄は有意義でした。いろいろとありがとうございました。
>2398
畿内説だと、弥生時代の東海地方最大級の環濠集落遺跡の愛知県の朝日遺跡辺りが第一候補ですよね。
畿内説だと、結構ピンポイントで狗奴国の候補が挙げられます。
① 邪馬台国があったであろうと推測する地域?
② 卑彌呼以死 大作冢徑 百餘歩 狥葬者奴碑百餘人)大きな古墳なのに卑弥呼
およびトヨの墓が出ない理由は?
③ 倭の五王が九州王であるなら、その王たちがいた場所の遺跡と規模および墓
④ 狗奴国と思われる遺跡と規模
⑤ トヨ以降~大和王権に至る空白期間の歴史の流れの推論
以上の事を何度も問われているのに、全く適切に答えられていない時点で、
九州説はありえないんだよ
九州説を唱えている奴は福岡人らしいから、前にも指摘されているように
半島系の思考であっても不思議はないけどな
※2397
>自分の弱点を聞かれたら全く答えないよね 私は逐一反論できるけど、そちらはできない
と言うなら、2041にも適切に答えてもらいもんだ(笑)
※2399
裴世清が難波に着いたと日本書記に書いてるが?
これを疑う必要はないだろう
結局こっちが返信を求めているものは最後まで答えることができなかったようだ
逃げる口実をこちらが与えてしまったのは残念だが
以前も言ったが、答えられないということはそれまでの論ということ
こんなに答えられないことだらけでどうやって整合性を持たせられるのか?
まあ、返信はしてくれないらしいから深くは言わない
結局、九州説および他の説は大きい遺跡、古墳が見つかってないのでわからない
畿内説は九州との関係を説明できず、邪馬台国から魏(魏から邪馬台国ではなく)へのルートを説明できない
西暦107年から纏向が作られ始める200年までに九州、中国地方、畿内に何が起こったのかわかればいいのにね
①筑後川流域周辺
②里数が誇張されているのなら、歩数も誇張されている可能性が高い
70~80m級の墓なら多く、またまだ発掘されていない可能性もある
ちなみに日本全国どこにも卑弥呼の墓は見つかっていない
③倭の五王は九州王ではなく大和政権の王である
④熊本県、遺跡は確定していないので断言できないが鉄の量は北部九州に匹敵するほど出る
⑤3世紀半ばまで九州と大和の交流はなかったが4世紀頃から急激に九州の文化文物が大和に流れた
古墳の副葬品文化など首長級に九州の文化が取り入れられた
九州勢力は共立する一勢力か共立された王としてかは不明だが、大和に参加した
日本書記は中国に倭奴国を継承すると宣言しているようなもので、中国も異論を挟んでいない
で、こちらからの質問
①2世紀後半~3世紀半ばまでにおいて九州と畿内の交流の証拠は何か?
②なぜ、大和から魏や韓、九州の土器やらモノは出ないのか?
※2397
>妄想
>なぜ九州だけ納税の義務から外れるのか?
>それに魏の文物は女王に間違いなく納品されるらしいので、畿内に全くないのはおかしい
というか何故九州は畿内に対して納税の義務があると思っているのか?お前が勝手に言ってるだけだろ。
魏の文物=神獣鏡。畿内にはめちゃくちゃいっぱいあるんで。
つまり畿内による九州支配は4世紀からで、そこからヤマト朝廷になるんだな
それ以前は交流もあまりなく、支配もしていなかったと
古墳からも土器からも明らかになっていると
こういうのがいいよね
2406
邪馬台国の支配地域では女王に祖を納めてた
※2406
鏡出るのが古墳時代だからだろ?
金属製のものは年代特定が難しいのは常識だろ?
例えば俺が戦前の年号が彫られた指輪と一緒にお墓に納骨されても俺は戦前生まれかわからんだろ?でも墓石に平成に死んだって書いてあったら、祖母の指輪をした孫が葬られてるってわかるよな?スマホが置いてあってもいいぞ、アイフォンならその型番で特定できんだろ
2000年経って、墓石に没年書いてなくて、指輪だけだったら、絶対わからんよ、戦前か、戦後なんて
2405
①遺跡の雄大さ
②再利用したから
※2405
1 偉い学者のpdf
2 奈良では珍しくないので工事で破壊した
※2406
収租賦有邸閣
九州が畿内の従属国ならなぜ納税の義務がないのか?
ま~だ神獣鏡に拘ってるのか
どれだけ出土物がなかったら国産説濃厚な神獣鏡にそこまでしがみつくのか?
まだ時期は下るが画紋帯神獣鏡を踏み返して使った説のほうが説得力がある
蝙蝠鈕座内行花文鏡 、位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、方格規矩鳥文鏡、漢鏡6期の方格規矩鏡、○鳳鏡、獣首鏡、三角縁盤竜鏡を除く盤竜鏡、 飛禽鏡、円圏鳥文鏡みたいな確実に中国から出土してる物がなぜないのか
これらは魏~晋の時代に作られた鏡であると考えられているが、これらが卑弥呼の鏡だとは考えないのか?
どうせ考えないだろうが、では考えない理由は何か?
>2405
1.その100年後に宮崎の纒向型前方後円墳を真似て巨大前方後円墳を作り、石棺は熊本から運び、副葬品は北部九州の習慣を取り入れ、九州に土着した朝鮮半島人が作った庄内式土器を真似して作ったから
2.まだ掘ってない部分にある
※2408
九州→邪馬台国の納税の話をしてるんだけど
出せないってことは脳内ソースだったのかな
神獣鏡は朝鮮半島由来だぞ
一番出土してるのは半島だからな
畿内は日本海経由で辰韓やその前身と繋がってたんだよ
それくらい分かれ、本や論文を読め
※2410
①遺跡の雄大さ
答えになっていない
②再利用したから
何をどう再利用したのか?
再利用したとする証拠は?後の時代の古墳から魏からの下賜品がでるのか?
土器は九州系の土器だけ再利用して他の地域の物はバンバン捨てたのか?
※2411
①偉い学者のpdf
勉強がてらそのPDFファイルを教えて下さい
②奈良では珍しくないので工事で破壊した
纏向遺跡やら他の遺跡でもあれだけ慎重に発掘作業を行っていたのに出ない
それも破壊していく奴がいたのか?
収租賦有邸閣
傳送文書賜遺之物詣女王
書いてあるやん
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩
畿内説邪馬台国たどり着けない派はこれも伊都国がちょろまかした説?
>>2405
1は魏志倭人伝の短里と水行陸行の距離
2は盗掘
2416
奈良の土建利権を探ってこいよ
長屋王の屋敷跡を百貨店にして潰れたところなかったっけ?
その後スーパーも潰れたよな?
※2045
①具体性にかけているな。筑紫川流域で現在発掘されている遺跡はある?
②具体的に古墳の年代と場所を挙げてもらおうか
九州の女王の大きな古墳が発見されない理由はなんだ?
③大和政権の物と認めたなら、これについては異存はない
④その「鉄の量」という誤魔化しはいらない 発掘された具体的な鉄器や遺跡名が必要
⑤こちらも誤魔化しだな、具体的な名称が全く入っていない
畿内説は魏志倭人伝にないことを証拠として採用している
それをどう感じるかはそれぞれだろう
※2413
①その100年後に宮崎の纒向型前方後円墳を真似て巨大前方後円墳を作り、石棺は熊本から運び、副葬品は北部九州の習慣を取り入れ、九州に土着した朝鮮半島人が作った庄内式土器を真似して作ったから
弥生時代の交流の証拠が必要なのに100年後の古墳時代では意味がない
②まだ掘ってない部分にある
それは可能性がある
今後に期待する
※2419
①は魏志倭人伝の短里と水行陸行の距離
それは証拠ではなく想定である
また当時の60日で短里で壱萬里ほどもある距離を移動できたという証拠はない
六十日=千余里という記述はある
考古学的な遺物で証明願いたい
②は盗掘
さほど価値のない割れた土器の破片まで盗掘されるのはおかしい
また他の地方の土器だけ残っているのもおかしい
しかも三角縁神獣鏡は除いて他だけ盗っていったのか?
※2412
>収租賦有邸閣
それが何故邪馬台国への納税になるの?
(九州の国が地元の)庶民から税をとってたって話なだけではw
国産かどうかはどうでも良い。
魏と交流してなければ魏の年号なんか書かれない。
つまり畿内からは魏との交流を示す出土品が出る、はい論破。
奴国伊都国が昔から中国と交流があるのは知ってる。
でも邪馬台国ではない。邪馬台国はもっと遠い。そしてそれは神獣鏡が出た畿内。
神獣鏡がある以上、九州説(畿内など東はただの倭種で魏とはなんの関わりもない場所)の論理はボロボロ。
2421
横槍だけと熊本の鉄に関しては本も出てるし、データもあるよ
全ての本を読めとは言わないけど一応有名な部類に入るから読んでみたら?
その上でその本や発掘データに疑問があればここで披露すれば?
ちなみに出土している以上、その遺跡はわかるからね?
どの遺跡が狗奴国か、それともその地域の総称なのかは議論の分かれるところだからね
三角縁神獣鏡からは西晋時代の支配地域の銅が使われてる
※2417
・九州の偉い人は庶民から税を取ってた
・魏から来た文物は邪馬台国に送ってた
九州から邪馬台国に税を納めてたとはどこにも書いてないやん
2424
距離に関することはここでは議論してはいけない
※2418
・魏から来た文物は邪馬台国に送ってた
九州から邪馬台国に税を納めてたとはどこにも書いてないやん
※2427
ないことを証拠にすると怒られますよ
※2045
九州に70m以上の円墳があるなら具体的な古墳名を挙げてもらおうか?
具体名を挙げない誤魔化し理論はいらない
※2425
どの遺跡か分かるんだったら書き込めよ、
またデータがあるならネットに挙がっているだろうから、確認できるサイトを教えてもらおうか
鐙が証拠です
九州はただの通り道の役目をきちんと果たしてたと言うだけで、
通り道が何か付加物を加えて邪馬台国におくらなきゃいけないのか?
九州説のトンデモ理論きもい
※2430
オラオラさっさと答えろや
※2420
纏向遺跡で九州・魏の遺物がでないんだけど
現在慎重に掘ってるけど?
※2421
①②九州の女王の大きな古墳が発見されない理由はなんだ?
未だ発掘されていないから、畿内にも見つかっていないのに良く言う
弥生時代60~150万ほどの人口がいたとされるが、その全ての人口をまかなうだけの遺跡は見つかっていない
つまり未発掘の遺跡がまだゴマンとある
④その「鉄の量」という誤魔化しはいらない 発掘された具体的な鉄器や遺跡名が必要
有名どころで言うとうてな遺跡とかかな?もちろん証拠はないが
鉄鏃、鉄剣、鉄刀、刀子など
物によって異なるが奈良の15~80倍ぐらいでる
⑤こちらも誤魔化しだな、具体的な名称が全く入っていない
記紀の伝承と考古学的モノの流れに沿って説明したまでだ
そんな掘り下げて言うほどの質問でもなかっただろう
そこまでいうなら具体的な名称を用いて説明をお願い致します
※2422
例えば?
「邪馬台国と狗奴国と鉄」
面白かった
※2427※2429
女王に税送らないんだ
そっちの方がすごいな
で、纏向から魏の文物は?
九州人は最高級の絹を着て、玉で着飾って、魏産の丹をふんだんに使って、
畿内の女王は麻の服で玉もつけず、偽者の鏡だけ作らせてたと
鉄製品も使えなかったと
※2433
九州からの土器は纏向遺跡にほとんどない
つまり人の流れがないということ
ちなみに魏や朝鮮の文物もない
現状女王に送られていなかったということ=女王はそこにいない
※2435
畿内では、何度も書かれてある通り箸墓を比定しているだろ、九州派が認めたくないだけで
箸墓の可能性も何度も説明されている
発見と発掘は違うんだよ、日本語も理解できないのか?
トヨはどうなったんだ? 記紀の具体的な記述を挙げて説明してもらおうか?
アバウトな書きようは誤魔化しをいくらでもできるからな
九州派は都合の悪い時は具体的な物は無いも書かないな(笑)
誤魔化すしかないからだろう?
ペースに乗せられちゃだめだよ。
適当なことしか書いてないんだから。
ただの思い込み。論破しようとしなくても大丈夫。どうせ根拠もないし間違ってるんだから。
それに間違っていることを指摘されても認めずにとぼけるだけだし、相手にするだけ無駄だよ。
畿内説で説得力があるのは距離と遺跡の大きさ
これは九州にはない
逆に畿内説で纒向型前方後円墳や三角縁神獣鏡を証拠にしていたら疑った方がいい
さらに土器を出してきたら無視した方が良い
九州説は魏との繋がり、出土物、墓、風習、年代を根拠に語ってあれば読むに値するだろう
逆に距離は伊都国までしか合っていないのでその先に不都合があるとみて良い
両方の説に言えることだが、魏志倭人伝を無視していたら、魏志倭人伝の邪馬台国ではなくその人の妄想の邪馬台国か弥生時代の想像の大和朝廷なので注意するように
※2438
やっぱ根拠は脳内妄想だったんだねw
魏の文物=神獣鏡 残念w
鉄なんか畿内にも余裕である工房跡もある
淡路島の鉄も纒向遺跡の拡大とともにいったん消滅してる
これにより弥生時代の纒向遺跡文化が鉄を必要としなかったことが判明した
砥石も鉄用ではなく石用であり、鉄器を使用していたら不必要なほど磨製石器が発達している
因みに九州から日本海側は鉄器の普及とともに石器が消えている
よく鉄ばかり注目されるが、錆びず、再利用の難しい石器を見ればその地域の鉄利用は見えてくる
三角縁神獣鏡は南方の銅が使われてるから魏じゃないよ
熊本県山鹿市にある弥生時代後期から古墳時代前期のものと考えられる方保田東原遺跡からは
山陰地方や近畿地方など西日本各地から持ち込まれた土器なども出土している。
そうじゃないか
九州と畿内での交流が無かったのに不思議だな
三角縁神獣鏡は副葬される際足元に置かれている。
他の中国の鏡は頭に置かれている。
格下すぎる扱いに涙が出る。
※2421
テンプレ5
九州説「神獣鏡は国産だしノーカン」
畿内説「なぜ魏の年号を知ってる?」
九州説「ぐぬぬ」
テンプレ2・改
九州説「鉄や絹や魏晋鏡があるのは九州!つまり九州」
畿内説「それ伊都国だろ」
九州説「ぐぬぬ」
2245
熊本の狗奴国は大和朝廷に参加した由緒ある国だから当たり前
そもそも古墳時代の畿内の石棺は熊本産
弥生時代には交流がなかったが、古墳時代に交流があったのは自然なこと
北の女王国勢力を畿内と挟み撃ちし出来た大和朝廷の証が畿内と南部九州との交流
宮崎の前方後円墳は北部九州より早いのは今や常識
うてな遺跡が狗奴国の可能性があるなら、優先的に調査されているんじゃないかね。
九州人は邪馬台国があったと思っているんだから、大きな証拠に繋がるだろうに
未発掘には何か理由があるんだろうね。
普通に考えれば、狗奴国の可能性が低いから調査が進んでいないんたろうね。
魏製の鏡の銘文だと年号を直接記さず出来事でその年を表している
詩人でもあった曹孟徳の国らしい詩的表現が美しい
魏のことを文献で知った後世の倭人が箔付けに作ったものなので魏の音韻など知らなかったことがありありとわかる
纒向遺跡が巨大になるのは古墳時代
卑弥呼は弥生時代
決定的だよな
記紀を読めば大和朝廷に参加した豪族の地域はわかる
その範囲が纒向王国
記紀に魏への朝貢がない以上、それ以外の地域が邪馬台国の候補地
神功皇后が卑弥呼だと思ってたら、その当時、三韓ないから卑弥呼ではないと知って反論できなかった
卑弥呼っぽい話は出てくるけど、肝心の共立とか、魏への朝貢とかは記紀にないから大和朝廷と邪馬台国を結ぶものはないと知った
そんで纒向遺跡周辺はずっと大和朝廷の場所だから邪馬台国が纒向遺跡でないことも分かった
記紀にない以上、天皇家とは関係ないんでしょうね
まとめると
記紀重視→大和朝廷と邪馬台国は別
魏志倭人伝重視→邪馬台国は九州
纒向遺跡重視→邪馬台国は纒向遺跡
水行陸行重視→邪馬台国は出雲、吉備、土佐
距離と七万戸重視→邪馬台国は纒向遺跡
土器と三角縁神獣鏡重視→邪馬台国は纒向遺跡
※2453
神功皇后=卑弥呼+台与+α
だから問題ない
※2454
記紀重視→邪馬台国は纒向
魏志倭人伝(水行陸行、距離、七万個)重視→邪馬台国は纒向
遺跡重視→邪馬台国は纒向
三韓征伐
経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮や中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれる
『百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に奉らなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した
昨今の事情からどうしても万世一系を汚したい輩が多いようだな
九州と近畿の豪族の話し合いの上で作られた王が天皇家の祖なわけないだろが
松木武彦の論文読んだら、纒向の建設開始は二世紀初頭だってさ。
卑弥呼の共立とは関係なくその前からヤマトは大勢力で回りがそれに乗っかったんだって。
纒向遺跡の初期はそんなに大きくない
古墳時代に一気に大きくなるよ
倭の五王も記紀には書いてないけど、大和朝廷の天皇だと認めるなら、卑弥呼も書いてないけど大和の大王家の人でいいんじゃないの?
記紀は、日本が中華の王朝からの冊封から自立した天皇を戴く国だっていう立場の上に書かれてるから、朝貢したことは基本的に書いてない。
ここ20年30年で考古学の科学的な分析は進みまくってて、さらに10数年の変化は著しいしな
逆に、畿内は「広くてたくさんの物が見つかっている」から邪馬台国との関係を否定されている
個人的に卑弥呼の墓については、ここまで有名なはずの代物が見つかってないって点から「上に何か乗っかってるんじゃねーの?」みたいな事は思うけど
初代天皇を卑弥呼とし、2代目天皇をトヨにすれば女系の前例になり女性宮家創設に繋がるだろう
京都大学を筆頭に学者の9割が纒向遺跡を邪馬台国としていると聞けば、その背景も浮かび上がるというものだ
倭の五王も記紀には書いてない「けど」、大和朝廷の天皇だと認める「なら」、卑弥呼も書いてないけど大和の大王家の人でいいんじゃないの?
仮定を確定であるかのように語るよなぁ、こういう手合いは。
東遷の理由が日本を統一するために九州より畿内が良かろうと行ったが、中国を後ろ盾とした渡来系北部九州に押された縄文系天皇家が畿内に移動し、卑弥呼の死後、混乱した北部九州を畿内から攻め、統一した
古墳、土器、鉄器など全ての遺物がそれを示している
ヤマト王権は聖徳太子始めいつの時代も中国にかなり攻撃的
他のアジア諸国とそこが違う
>2464
そういう妄想はいらん
>古墳、土器、鉄器など全ての遺物がそれを示している
考古学者でそんなことに同意してる人は一人もいない
ド素人の妄言
いやぁ、九州説の人が倭の五王は大和朝廷でいいって書いてるのに、卑弥呼は記紀に書いてないからダメっていってるのを茶化してるだけだけど?
2405の③で倭の五王は大和の王って書いてる人は、記紀に卑弥呼が書いてないから大和朝廷は邪馬台国と関係なくて纒向じゃないっていってるじゃん
記紀否定派の妄言も可愛らしいものだ
>2461
否定してる人(考古学者?)教えてくれるかな?
教えてくれたら調べてみるから
倭の五王は邪馬台国の後継の九州王朝でヤマト王権とは別だぞ
纒向遺跡のHPでさえ邪馬台国だと主張していない
公式ページだと大陸との繋がりは木製仮面と鐙しか紹介されていない
※2461
そういう嘘は要らない
理化学的分析では材の伐採年代は特定できても伐採から投棄までの時間の幅や、これらの祭祀が築造段階のものなのか、あるいは後世の祭祀に伴うものかがはっきりしないという多くの不安定材料を孕んだ資料での分析年代であり、木材の年代と築造年代は全く別に議論する必要があるでしょう。
やっぱり専門家の分析は全然違うぜ
墳丘周辺からは大阪府芝山産の安山岩の板材が少量採集されており、竪穴式石室の存在も指摘されていますが、詳細は解っていません。
やはり近場の交流はかなり盛んだったんだなぁ
纒向遺跡で確認された唯一の前方後方墳です。標高74m前後の微高地中央に立地し、墳丘は全長28m、後方部長19.5m、前方部長9.5mで、埴輪や葺石は無く、後世の削平により埋葬施設も確認されていません。幅約4mの周濠からは多くの土器が出土しており、庄内3式期~布留0式期の3世紀後半の築造と考えられています。 前方後円墳成立の地に前方後方墳が築造された事は興味深く、小規模な墳丘でありながら纒向型前方後円墳の企画を踏襲していることなどは被葬者の出自や階層を示しているのでしょうか。
これなんかも濃尾平野や東海地方との繋がりを感じさせてくれるじゃないか
墳形は方墳あるいは前方後円墳と考えられています。 溝からは布留0式期(3世紀後半)の土器とともに建築物の壁材と考えられる木製構造物が倒壊したままの状態で出土しています。この建物は住居としての用途ではなく、祭祀行為に伴うものと考えられており、当時の建築技術のみならず古墳における祭祀を考える上でも重要な資料
やはり住居はない様子
建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。
3世紀中ごろにいったん建物が壊され、衰退している
卑弥呼の時代に衰退しているのは興味深い
炉跡や周壁溝が無い事や補助柱穴を持つ事などは通常の住居跡とは異なる点であり、竪穴式住居では無く、
どうやらいつの時代も人は生活していないらしい
中に納められた祭具は後の『延喜式』新嘗祭の条の器材との共通点が多い事が指摘されており、一種の「ニイナメオスクニ儀礼」が行われていたものと考えられています。
今も続く儀式と同じものが出土している。九州とは違った文化だとはっきりといえる
>2472
纒向の公式HPでそんなこと書くわけないでしょJK
纒向が邪馬台国の都かどうかは畿内や北部九州などの考古資料と合わせて判断するものであり
そういう分析は纒向の発掘を行ってる人の仕事ではない
学者が纒向や畿内、北部九州その他の考古資料、それに文献資料を検証して判断するものだっつーの
銅鐸の飾耳は突線鈕式銅鐸の破片ですが、纒向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。特殊埴輪は都月型と呼ばれるもので、特殊器台から派生した最古の埴輪とも呼ばれるものです。
実は纏向遺跡は弥生時代の遺物が少ないことでも有名
卑弥呼の時代には何をしていたのか?なぜ古墳時代に突然力を持ったのか?何度か中心部が代わりそのたびに支配層も文化も入れ替わっているが遺跡自体は続いているのか?興味は尽きない
木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1㎝程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。
このことから箸墓古墳は4世紀初めに造られたと見られる
馬を操る一族がこの時代から支配層に着いたのだろうか?これが纏向遺跡躍進の始まりか?
冠帽形埴輪については黒塚古墳・勝山古墳出土のU字形鉄製品・木製品との形態的共通点も多く、近年注目を浴びている資料です。共伴土器より埴輪の廃棄時期は布留1式期(4世紀初め)と考えられています。
ぜひ纏向遺跡の4世紀初めに注目していただきたい
おそらく皆さんの心の中にある古墳時代のイメージはこの纏向遺跡から出土する4世紀の遺物であろう
古墳時代はまさにこの4世紀の纏向遺跡で始まったのだ
箸中イヅカ古墳(桜井市大字箸中)
国道169号線のバイパス設置に伴う纒向遺跡第121次調査で確認された古墳です。墳丘はすでに削平されており、地表には全くその痕跡を残していませんでした。墳形は前方後円墳で、馬蹄形周濠を持つと考えられており、後円部の直径は45~50m、全長は100mを超える大きなものと想定されています。 確認された周濠の幅は10m前後で、多くの埴輪や木製品・土器などが出土しており、築造時期は4世紀後半と考えられています。纒向遺跡では箸中ビハクビ古墳と並んで数少ない4世紀代の古墳のひとつです。
箸中ビハクビ古墳(桜井市大字箸中)
店舗の建築工事に先立つ纒向遺跡第112次調査で確認された古墳で、地表にはその痕跡は残されていませんでした。古墳の全容はわかりませんが、直径20m前後の円墳、もしくは前方後円墳の可能性もあります。周濠の幅は約3mで、墳丘上からは原位置を保った5本の円筒埴輪の基底部が出土しています。 また、墳丘の下層からは布留0式期の竪穴式住居跡が1棟検出されており、箸墓古墳との関係が注目されています。なお、古墳の築造時期は埴輪の年代観から概ね4世紀末頃のものと考えられています。
古墳が見つからないのは地上部分は削られてるのではないかとのコメントを見かけた
実はその通りで古墳を削ってしまってる例は枚挙に暇がない。石棺だけや地下だけ、あるいは神社になっていたり城砦として利用されているニュースなどを耳にしたことはないだろうか?
纏向遺跡でもそのような例はある。とくに4世紀などの古墳時代初めのほうの古墳は削られている可能性が高い。古墳時代が始まる4世紀初めの貴重な古墳や遺跡がこれからも発見され続けると考えれば胸が熱くなるじゃないか
邪馬台国とはまた違ったヤマト王権、すなわち今の日本を形作る巨大統一祭祀王権の誕生秘話がここに明らかになるのだ
考古学的事実とやらが何かは分からないが、古代日本人が残してくれたこの雄大な歴史を楽しもうじゃないか
考古学者の意見
まず、「鉄」です。鉄は古代では刃物の原料となる貴重な金属でしたから、たくさんあった場所には当然、大きな権力があったと推定できます。
九州では銅矛、近畿から東海にかけては銅鐸が権力のシンボルとされていた
古代の天皇の中で、実在した人物として最も古い存在は10代目の崇神天皇(BC97年~BC30年)とされていますが、崇神天皇の墓は箸墓古墳の近くにあり、周辺には複数の巨大な前方後円墳がある。
三角縁神獣鏡のまん中にあるひもを通す穴(鈕孔)の形が、中国の銅鏡の中では珍しい長方形をしていることに気付いたんです。
2472はたった1行のカキコミだけど九州説のレベルを象徴している
調査地周辺は、かねてより布留式期の纒向遺跡の中心域と想定されていた場所にあたり、今回の調査でも古墳時代前期の遺構が検出されることが期待されました。
調査の結果、明確に古墳時代前期といえる遺構は確認できませんでした。しかし、出土した須恵器の年代から古墳時代後期以降と考えられる柱穴を調査区の西寄りで複数確認しました。
なかなか古墳時代前期の遺構は発見されないな
4世紀中ごろから終わりなら大分分かってきたのに
調査地周辺は纒向遺跡の西端にあたると考えられており、今回の調査では古墳時代における纒向遺跡の集落範囲の確認が期待されましたが、調査を通して古墳時代 まで遡る遺構の発見はありませんでした。古墳時代の遺物の発見もほぼなかったため、調査地周辺は古墳時代の纒向遺跡の範囲を外れている可能性が考えられます。
古墳時代の纏向遺跡の範囲が特定される日も近い
3世紀前半に遡る遺構は認められなかったものの、4世紀中頃から後半の大規模な東西溝が検出されました。これは建物Dを壊す4世紀中頃から後半の南北溝と組み合って、微高地を区画する施設と考えられます。この溝が何を意味するのか明らかではありませんが、各地の似た例から、首長居館を囲う溝の可能性が考えられます。同じ地点に複数の時期にわたって居館が造営されているとすれば、この土地が居館の造営に適した立地であったことをうかがわせるものです。
4世紀中ごろから人が住み始めたようだ。この頃をヤマト王朝確立としていいのではないか
古墳の造成時期とも矛盾はない
5世紀の溝からは木製の鋤すき(スコップ)や米などを蒸すための甑、木製の建築部材のほか、古墳の上にたてられる埴輪の破片が出土しました。調査範囲が狭く確実ではありませんが、埴輪が出土したことから5世紀の溝は古墳のまわりをめぐる周濠の一部である可能性があります。古墳の盛り上がった墳丘は後世に削られてしまい、溝だけが残ったのかもしれません。
このあたりになると安定して人が住み始める
3世紀には人は住んでおらず祭祀場だけ、4世紀中ごろには人が住み始めるも少なく、5世紀には煮炊きの跡が出る、やはり面白い遺跡と言わざるを得ない
※2439
うん、箸墓はやく発掘されたらいいね
絶対卑弥呼と関係ないけどな
具体的な名称君はろくに資料もないのにどうやって具体的に語るんだね
証拠もなく文献無視に走る畿内説派にはほとほと困りはてる
妄想を根拠にするのだから手のつけようがない
ま、どうでもいいけどはやく壱与からのつながりを説明してくれよ
※2445
古墳時代交流があったのは、当たり前
問題は弥生時代
邪馬台国がいつの時代かも知らないのか?
発掘結果からは箸墓古墳が4世紀初めだと示されている
学者なら卑弥呼の墓とはいわんだろ
>2484
箸墓が4世紀初めとか通説無視のデタラメ言ってるのは邪馬台国の怪あたりからの回し者か?
畿内と九州の間で時空の歪みが生じていて、同じ庄内式土器でも100年の差があるというトンデモ説を唱え
無理やり箸墓を4世紀に持って行こうとしてる
そんなのに騙される人はもういないぞ
無駄な工作活動はやめろ
>2454
>まとめると
>記紀重視→大和朝廷と邪馬台国は別
>魏志倭人伝重視→邪馬台国は九州
纒向遺跡重視→邪馬台国は纒向遺跡 ←意味不明
>水行陸行重視→邪馬台国は出雲、吉備、土佐
距離と七万戸重視→邪馬台国は纒向遺跡 ←距離は九州だし七万戸食わせる食が無い、灌漑簡単で水田米増産しやすい筑紫平野
土器と三角縁神獣鏡重視→邪馬台国は纒向遺跡←九州土器出ないし鏡千枚は国産だから関係性無し。
現状こんなとこで、近畿が妄言を垂れ流してる。
>2471
2405で、九州派の一番うっとうしい人が倭の五王は大和の王でいいって言ってるよ。
記紀には書いてないどね。
2471は2405と九州説同士で話の擦り合わせをしてくれるかな?
個別に相手をするのはうっとうしいし、いちいちオレは言ってないって言われるのも煩わしいから。
※2486
論破されてるくせに、聞こえないふりしちゃってw
九州説はほんとクズ
>2485
>畿内と九州の間で、同じ庄内式土器でも100年の差があるというトンデモ説
九州説の中では、文化の先進地たる九州から未開の地である畿内まで、先進文化が伝わるのに時間がかかるって本気で考えてたんですよ。今となっては古い話ですけど、そういう書き込みをする人の頭の中では、今もそうなんでしょう。
>2480
>古代の天皇の中で、実在した人物として最も古い存在は10代目の崇神天皇(BC97年~BC30年)とされていますが、崇神天皇の墓は箸墓古墳の近くにあり、周辺には複数の巨大な前方後円墳がある
この論旨だと纒向や古墳時代は、紀元前1世紀ですね!
卑弥呼の頃は完全に大和朝廷じゃないですか!
崇神天皇の在位の頃は、記紀以外の根拠から推定しないとどうにもなりませんよ。
>2488
クズというより、「謝ったら負け」っていう価値観で生きてる人のような気がする。
間違いを指摘されて、結果的に延々と嘘を書き続けていたことがはっきりしても、しばらく離れてほとぼりが冷めた頃に違う話題で蒸し返すを繰り返してるし。
>2483
いつまでも古墳時代は四世紀からって思ってればいいよ。
畿内と九州の交流が盛んになって、畿内が優勢になるのが古墳時代、というのは間違ってないが、古墳時代の絶対年代が遡上してるんだよ。
邪馬台国のためじゃなく、科学的な測定の結果、そう考えた方が整合性が取れると考えられているんだ。
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」に具体的に反論してくれたら、水掛け論ではない議論ができると思う。
発掘調査読めば4世紀だって分析だよ
理研の報告も4世紀だよ
具体的にどれが3世紀でその証拠なの?
たとえば
女王国より北は略載できると書いてあるから、投馬国と邪馬台国の間に国が書いてないってことは、その間に国がないことを意味している。魏志倭人伝には瀬戸内航路のことも書いてない。
後の史書に(隋書)に、瀬戸内航路で間の国名も書いてあるのに、魏志倭人伝で邪馬台国まで途中の国名が書いて「ない」のは、間に国がなかったことを示していて、それはつまり邪馬台国が九州だから。と言っている人がいました。
でも、隋書 東夷傳俀國 と実際に調べてみると
又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 としか書いてなくて、瀬戸内航路とも書いてなければ、間の国名も書いてありません。
この指摘+略載できるのは「戸数と道里」だという指摘を受けたあとでも2397で
※2392
通った国とその国の戸数と道里を書いてるんだから
現に通ってない国名は書いてないし、通った「国名は書いてる」わけよ
※2396
「国名は書いてなかった」な
それで海岸(難波)に着いてるんだから瀬戸内航行以外ないだろ
と一つのコメントの中で筋の通らないことを書いており、
さらに「海岸(難波)に着いてる」などとは隋書のどこにも書いてない、捏造するなと言われると
2403で
裴世清が難波に着いたと「日本書記に書いてる」が?
と、中国の史書の書き方、信頼性を話していて「『隋書には書いていない』のに書いてあると言い張っていた」という話なのに、日本書紀を持ち出す。
結局、隋書(中国の史書)には瀬戸内航路のことも、間の国名も一切書いてないのに、「隋書に書いてあるのに魏志倭人伝(中国の史書)に書いてないのはおかしい」から畿内じゃない、というのは徹頭徹尾、筋が通らないことが理解できないんですよ。
こういう人と、まともに議論しようとしても無駄ですよ。
>2493
2492に「具体的な論文の名称」まで書いてあって、pdfでウェブ上に公開されているので、それを読んでください。引用文献も含めて、すべて確認できますよ。
これはこれで、野心的な立論だなと思いますが、これを考古学者が公表して学者生命を心配しなくて言い状況になっているということです。
>2483
>邪馬台国がいつの時代かも知らないのか?
邪馬台国は239年の卑弥呼の遣使から248年の台与の共立までが魏志倭人伝に書いてあるが、これは絶対年代であって、「日本の時代区分のどこに当たるか」は、2483も分かってないと思うぞ。
思い込んでることはあるかもしれないが。
箸墓古墳は土器から4世紀初めに造られたことは9割の学者が認めてる
畿内説の人は、不正確なことや思い違いを書くことはありますが、うそや捏造は書かないんですよ。
その点、九州説の人は人としての基本的な資質にかけているようにしか見えない書き込みを散見(遠慮した書き方)します。
そういうのが楽しい、という価値観なんでしょうね。
2487~2492
また悪口自己紹介のきもいやつか、声闘で騒ぎ立てて口数多いからはい事実って、日本人にはそんなもん要りまへん。
古墳時代が遡るって近年の主張が認められたとして、ほぼ同時に、近畿と北九州の文化や遺物の違いが見られ、間に出雲などの強国があり直接繋がってない、って事が判明していってるんだから、結局近畿にもってくるのは無理じゃないか。
窓口北九州を否定するか、出雲などの中国諸国を否定するかしないと、北九州と近畿が、遡った古墳時代で繋がるって事は言えないだろ。
何度こういう事言われても、そちらの言葉で言えば、聞こえないふりしてほとぼりが冷めた頃に違う話題で蒸し返すを繰り返してる。
私の言葉でなら、逃げ回りすり替えを繰り返す、日本人離れした工作部隊にしか見えませんがね。
>2499
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」
これをググって読んできて。
>古墳時代が遡るって近年の主張が認められたとして、ほぼ同時に、近畿と北九州の文化や遺物の違いが見られ、間に出雲などの強国があり直接繋がってない、って事が判明していってるんだから、結局近畿にもってくるのは無理じゃないか。
この「繋がっていない時期」が、邪馬台国の時代よりも「前」だったら、九州説の全ての立論がひっくり返るのは分かるかな?
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」には、畿内の鉄事情もきちんと書いてあるよ。
>2498
九州説の人は、不正確なことや思い違いを書くことはありますが、うそや捏造は書かないんですよ。
その点、畿内説の人は人としての基本的な資質にかけているようにしか見えない書き込みを散見(遠慮した書き方)します。
そういうのが工作指示、という価値観なんでしょうね。
面白いなこれ、うそと不正確、捏造と思い違い、日本人が大嫌いな某新聞みたいな言い様だ。
>2500
声闘で時代を動かしてしまえば、証拠全滅の畿内説にこじつけられると。
解ります。
奈良(やまと)は東国と、大阪は西国と繋がりがあったけど、近畿説とか言って誤魔化しておけば日本人をだませるアルカニダ。
解ります。
つまるところ、箸墓古墳の年代が西暦250年(遺体の保存を考慮すると+5年くらい?)に合致しなかったら畿内説は少なくとも箸墓は諦めるでいいんだよね。
古代オリエントのアガテも発掘されてないけど、どう解釈すんのかね。
前にも書いたけど、西暦3世紀に西日本をほぼ統一してるなら白村江の戦まで何百年もモタモタしてた理由が知りたい。
出土物とかには正直興味ない。
持ち運び可能だから。
その場所固有の根拠を教えて欲しいねぇ。
2461の
「ここ20年30年で考古学の科学的な分析は進みまくってて、さらに10数年の変化は著しいしな
逆に、畿内は「広くてたくさんの物が見つかっている」から邪馬台国との関係を否定されている」
みたいなのは、畿内説は書かないよ。
誰が言ってるのか教えてくれといわれても答えないし。
自分に不利なことは無視
求められたことには答えない
批判は相手と自分を入れ替えた鸚鵡返し 声闘の基本ですな
「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年 2月
これは学術論文だから、捏造とかとは関係ないだろ。
素人がぐじゃぐじゃ言うより、プロが現状をまとめたものがあるのだから、まず読んでくれと言っているのに。
読むと反論が一切できなくなるから読まない。
それと、逆に問いたい。
畿内に魏の使者が到達した証拠が欠片でもあるんでしょうか。
情況証拠以外に何もないから遺跡だの出土物だのを持ち出すんでしょ。
文献置き去りで力説されても頭オカシイとしか思わないんですけど。
状況的に犯人であり得る被疑者の中で、関係する文書持ってる者が犯人だってのと似てる。
文献に記された条件と余りに背馳してたら疑うのは当然じゃないの?
卑弥呼の墳墓が確定されるのはほぼ不可能なんだし。
※2360 >卑弥呼の墓の大きさだけど、「一歩=1フィート」
wiki
歩(ぶ、拼音: bù プー) 約1.667m(中国) 約1.818m(日本)
径百余歩=160m 箸墓円部=径150m
>2509
横からで悪いが、その計算だと倭が太平洋の海の中になる。つまり邪馬台国も卑弥呼も朝貢も無かった、これではいかんでしょ。
存在の根拠となる文献記述では、30m程度にしかならないよ。
1374、1411辺りに書いてある。
※2509
34により長さで証明するのは禁止された
論文書いたことある人なら全員わかると思うけど、前の人と少しでも違わないと発表できない
誰々と同じです。では論文として認められない
何かしかの新仮定をテーマとし、それを証明ないしは考察しないといけない
だから中世や古代史はだんだん遡っていってある時また元に戻る
論文書いた時にみんな経験したでしょ?
引用元を否定したり、補足したり、重箱の隅をつついたり
学術論文を金科玉条にするのは学術論文から最も離れた行為だよ
偉い先生の論文に書いてあるから邪馬台国は纒向遺跡なんて主張をその先生にしてごらん
優しく学問について教えてくれるよ
学者が発表した論文が全て正しいならSTAP細胞も存在するわ。
その論文が正しいかどうかを考えたり、証明したり、否定するのが学問じゃい!
もしかしてその論文を書いたご本人?もしくは助手かね?
ここではその論文が支持されてるようですぞ。
補助金申請時や講演会で自慢できてよかったな。
※2492
古墳時代が遡ってるのは知ってるが
じゃあ卑弥呼の時代に奈良に九州の文物流れていたのかと
ないでしょ?
古墳時代が遡ろうが卑弥呼の時代は絶対年代がある程度特定されているので動かしようがない
そしてこの時代に九州(魏)と奈良の交流が証明できない
※2494
反論できずにお手上げ退散したと思ったら、まだねちねちと印象操作してるのか
恥ずかしいし、反論できないことを宣伝してるようなものだからやめたほうが懸命だと思う
あげ足取りばっかりしないで、もっと本質的なことを議論したいものだが、今回も逃げて答えてはくれないのだろう
弥生時代の九州と奈良の交流の証拠と伊都国は女王国に属すのか属さないかぐらいは最後に教えて欲しいものだ
同じものごとが複数の史書に記述されているのなら互いを見るのは当然のことだと思うが?
自説に都合の悪いことには目をつぶるという悪い癖が出ている
つまり難波津についたのが都合が悪くて見たくないのだろう
>2514
卑弥呼の時代が「弥生時代と判定されていた」から、「奈良に九州の文物流れていなかった」になるんですよ。
古墳時代には、中国のものも九州のものも、畿内に届いているでしょ?
時代ごと丸ごとずれていれば、議論がガラッと変わるのは分かりますか?
※2498
畿内説の間違いは
不正確や思い違い
九州説の間違いは
うそや捏造
このレベルの扇動をする必要があるのが畿内説派だ
まさに畿内説派のレベルを下げる行為であり、あまりに稚拙
他の畿内説派に迷惑をかける前に発言を訂正した方がいい
>2512,2513
>学者が発表した論文が全て正しいならSTAP細胞も存在するわ。
>その論文が正しいかどうかを考えたり、証明したり、否定するのが学問じゃい!
その通りですよ?
検証した結果、STAP細胞は否定されましたが? 何を言っているのか意味不明です。
だから「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年 2月 を読んで、「不備があると思うところを指摘してくれれば」、検証ができるでしょう?
駄々捏ねてないで、まずは読んで内容について語ってください。
※2516
180~250年ごろは今の主流な学説でも弥生時代だろ?
古墳時代は3世紀後半~と記憶しているが
言葉遊びはやめてくれ
なんなら邪馬台国時代という言葉を使うようにしようか?
※2516
どんなに卑弥呼を古墳時代にしても畿内と九州の繋がりは4世紀からっスよ
奈良時代はかなり後っスよ
論文2014年
最新の発掘報告2017年4月
そういうことよ
※2405の回答
>①筑後川流域周辺
②里数が誇張されているのなら、歩数も誇張されている可能性が高い
70~80m級の墓なら多く、またまだ発掘されていない可能性もある
ちなみに日本全国どこにも卑弥呼の墓は見つかっていない
①末廬国から東南へ五百里→伊都国東南へ百里で→奴国から東へ不弥国から南へ水行20日→投馬国から南へ水行10日陸行1月で邪馬台国
東南→東南→東→南→南と進んで九州の西の端の筑紫平野に到達する事はない。
到達するなら魏志倭人伝の方角の記述は間違っている事になる。
また、この地域は九州説派の多くが遺跡や古墳を探した地域であり、遺跡は可能性があるとしても
大型古墳の新規発見の可能性は限りなく0に近い。
九州説派の東大教授によると邪馬台国の位置は熊本あたりになり、距離的にも筑紫平野はありえない。
②里数は長い単位なので解釈は短里や長里ができるという人もいるようだが、歩数に関して
直接体の一部を使って計るので誤差は少ないし、誇張する意味は全くない。
卑弥呼と同時代の出雲にも巨大な方墳がある事から大きい。
卑弥呼の墓のサイズはほぼ正しいとみるのが普通である。
箸墓古墳が唯一、卑弥呼の墓の可能性があるとされている。
このサイズの円形をもつ古墳が新規発見される可能性は極めて低い。
>④熊本県、遺跡は確定していないので断言できないが鉄の量は北部九州に匹敵するほど出る
⑤3世紀半ばまで九州と大和の交流はなかったが4世紀頃から急激に九州の文化文物が大和に流れた
④魏志倭人伝「自女王國以北 其戸數道里可得略載~此女王境界所盡」および「其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里」
(九州説をとれば)邪馬台国より南に20ヶ国ほどの国名があり、狗奴国まで1万2000里以上なので、
邪馬台国が筑紫平野にあったと仮定すると熊本に狗奴国はありえない。
逆に畿内説の狗奴国比定地の愛知県の萩原遺跡群は吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模を持ち、3世紀初めにS字甕土器は琵琶湖東部~東日本の広い範囲に分布が確認されている。
魏志倭人伝の狗奴国の特徴として「男子無大小 皆黥面文身」とあるが、同遺跡のS字甕土器には入れ墨を入れた顔が描かれた「人面文壺形土器」が発見されている。
纏向遺跡から出土するS字甕土器は卑弥呼が死んだ3世紀半ば以降からの出土が一気に多くなり、(対立していた両国のどちらが勝ったか負けたかは別として)邪馬台国(纏向)と狗奴国(愛知)との交流が活発になった事が断言できる。
⑤この時代の鉄の多くは朝鮮半島などから長崎の壱岐島を経由して九州にもたらされたと
考えられている。壱岐島の原の辻遺跡から鉄器類を加工するための鉄の延べ棒(板状鉄斧)が
多く出ている事から、そう考えられている。
また、福岡の博多遺跡の弥生時代末期~古墳時代初めにかけて各地域の土器が発見されており、
ここから大量の畿内の土器が発見されている。(出典 福岡市博物館および考古学岡山大学院の松木武彦教授)
松木教授「鉄は北九州に依存しており、畿内から鉄を買い付けにきていた事が伺われる」
弥生時代中期の大阪の池上曽根遺跡などには鉄の加工場が発掘されている。
纏向遺跡からは東海・北陸・出雲・四国・山城・近江・淡路・鳥取・関東および九州北部の土器が
出土している。
以上の事を鑑みるに九州と畿内との交流は少なくとも弥生時代の中期にはあったと断定できる。
なぜ伊都国、わかってる中では九州最大の奴国が邪馬台国に従属していたのか
理由たり得るのは2つ
1つは武力による降伏
2つめは邪馬台国への朝貢による恩恵
九州邪馬台国なら両方可能だが
畿内邪馬台国が3世紀に九州征伐は兵站を考えると難しい
朝貢をした場合両国にそれなりの遺物が残るはずだがこれも見つかっていない
邪馬台国につく理由やうまみを畿内邪馬台国では説明できないような気がする
※2524
北九州が従属してたのは女王連合国の1つ(魏志倭人伝でいうところの「女王国」)
つまり邪馬台国から見て北九州は陪臣。
女王の境が奴国(福岡)にあるから、中国地方の国に従属してた。
※2522,2523
①福岡市あたりから南にいくと筑後川流域周辺になる
②歩とは歩数の可能性もなくはないが一里=三百歩の単位と見るべきである
当前里数が短里換算または誇張されているなら歩数も短里または誇張の可能性が高く
どちらか一方だけ別の単位で計算するのは公平性と整合性に欠ける
④帯方群より萬二千里からさらに外なら十分熊本が視野に入る
「男子無大小 皆黥面文身」は狗奴国の特徴ではなく倭人の特徴である
⑤纏向遺跡からは九州の土器が発掘されると書いてあるが0.15%未満しか出土していない
九州土器は非常に数が少なく鞴の近くで発見されたことから九州の製鉄職人を招いた結果と思われており奈良の製鉄技術の未発達と交流の少なさを表現している
>2519
その学説(180~250年ごろは弥生時代)に対して、出土土器付着の炭素標本を使ったC14年代測定の最新のデータから検証を行っているのが、紹介している論文です。
科学は、データによって日々新しい学説が出され、それを検証しながら進むものです。
これまではこうだった、ではなく、新しいデータを見て検証してみてください。
>2521
>論文2014年
>最新の発掘報告2017年4月
発掘報告は、論文ほど過去の研究成果について検証しません。
報告書と論文は、書く方のハードルがかなり違います。
読まずに済ませようとしているのが見え見えですが、まずは読んでみてください。
※2526
本当にご都合主義だな。
②当時は計測機械などがないから里は確定できないアバウトな大きい単位。
歩数は体の一部だからほぼ誤差の少ない単位。
例えば、現在でも目の前にある家の大きさを近づき両手を広げて計った時と、
山の大きさを目で見ただけの計測だと、もちろん後者のほうが大幅な誤差が生じる。
これ位は低知能でも理解できることだよ。
④魏志倭人伝を読み直せよ。
また倭人全体の特徴であったとすれば、九州から愛知まで交流がなげれば同じような
風習は伝わらないだろ
⑤日本各地域から土器が集まっており、3世紀半ば以降に狗奴国の土器が大幅に増えている
から少ないように見える。
また、古墳時代になると逆に畿内や古墳や土器が九州などに増えるから、文化の流入が
交代しただけの事。
アサヒってるなぁ。
2522
>歩数に関して直接体の一部を使って計るので誤差は少ないし、
1歩が1.8mて、一体全体体のどこを直接使って計るのでしょうねぇ。
記述通り、25cmならちょうど計れますね、墓は30m未満。
2533
>邪馬台国より南に20ヶ国ほどの国名があり、狗奴国まで1万2000里以上なので、
東西はどこ行ったんですかね。日本地図わかりませんか?、東西に長崎も大分もありますよ。
狗奴国が鹿児島や宮崎の可能性もありますね。
>纏向遺跡からは~中略~九州北部の土器が出土している。以上の事を鑑みるに九州と畿内との交流は少なくとも弥生時代の中期にはあったと断定できる。
断定(笑)
九州土器の年代捏造は他の方も指摘されているので、ごり押し勢力の常套手段として知られているとだけ書いておきますね。
正体わかっちゃったかも。
>2502
>面白いなこれ、うそと不正確、捏造と思い違い、日本人が大嫌いな某新聞みたいな言い様だ。
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_0129.htm
「マスコミ各社」はこぞって、この場所が卑弥呼が祭祀を行なった神殿であり、邪馬台国の所在地はここで決まりといった論調で、発掘調査の成果を報じている。
■ その発掘報道には看過できない問題点があることを、彼らは認識しているのだろうか。
~中略~
箸墓古墳を卑弥呼の墓と考える「国立民俗学博物館」は、庄内0式の土器の初現を2世紀前半におき、庄内3式の時期は3世紀前半としている。この場合、卑弥呼の死んだ248年は庄内3式の時代に重なる。
~中略~
倭国大乱を収束するために邪馬台国の卑弥呼が共立されて倭国連合の王とされたと理解されている。ということは、卑弥呼が倭国大乱を収束された西暦190年頃には、すでに邪馬台国が纒向の地に存在し、卑弥呼がその国を治めていたと考えなければならない。しかし、考古学的知見はそのことを実証していない。
「」は筆者
「マスコミ各社」「国立民族学博物館(の学者派閥)」が繋がっていて、ここでも某マスコミ論調そのままに工作書き込みを続けていると。
某新聞社がネット工作やってるのは有名だもんなぁ。朝昼張り付いて精が出ますなぁ。
※2530
可哀想だな、脳内妄想の反論しかできないとは…
魏志倭人伝を読み直せよ(笑)
>>2530
卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人の
そこまで主張するなら、徑百餘歩=30m未満と解釈している専門家を教えてくれないか? 今すぐ
できないなら半島人なみの願望しか書けない奴だと認識されるぜ
>2532、2533
自己紹介は要らねーです。
1里が300歩、1里(短里)=75~90mとすると、1歩は25~30cm、100歩は25~30m。
史実に基づいた算数してるとです。
>2524
いくら兵站だの朝貢だの妄想を並べても、事実として庄内式土器が北部九州から出てるんだから畿内勢は北部九州にいた
博多で庄内式土器が過半数に達する3世紀後半には奴国はヤマト王権の植民地同然になっていたと解釈すべき
邪馬台国が魏と盛んに通交した239年~247年はその直前であり、植民地化までされていないがヤマト王権の勢力下と判断すべき
九州→纒向への土器搬入がないことで繋がりがなかったと言い訳してるが、
畿内→九州への人的移動を伴う土器搬入があるのだから言い逃れはできない
逆に他の九州勢が奴国を支配した、あるいは影響力を行使したという物証はない
つまり博多の考古学資料からは九州邪馬台国があったことは認められない
九州邪馬台国とやらが奴国を支配してたというなら根拠を出せ
なお、伊都国に関しては庄内式土器はほんのわずかしか見つかっていない
したがって大国である奴国の圧力を利用した可能性としか今のところ言えない
もちろん他の九州勢が伊都国を支配したという証拠もない
伊都国との関係に関しては畿内説がやや有利という程度でしかない
>>2534
いいから、専門家を示せ
>東西はどこ行ったんですかね。日本地図わかりませんか?、東西に長崎も大分もありますよ。
これに関しても 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 ~次有奴國 此女王境界所盡
までの、少なくとも半分くらいの国は比定できる遺跡を明示できるはずだな
証拠も無しに言う事=妄想なんだよ できなければ、お前は朝鮮人の思考と同じだって事だよ
何お前ら?
ずっとレスバトルしてたの?
何百何千と?
2523
纒向遺跡で発見された九州の土器とはなんですか?
発見されたら大ニュースですよ
庄内式土器は朝鮮半島出身者からもたらされたから、九州のほうが早くて当然
畿内の鉄は日本海経由だから九州関係ないぞ
近畿から出土してるんだぞ
京都は日本海に面してるからな
炭素ね…
同じ試料使って結果が100年ずれるのに…
どうしろっていうんだよ…
土器編年をC14に合わせれば100年の空白が出来る問題はまだ解決してないぞ
纒向遺跡が邪馬台国である証拠は短里とその大きさ
魏志倭人伝を短里で読み、七万戸の可能性のある遺跡となれば自ずから分かろうというものであろう
女王国まで行ってその先に国はあるが詳しくは分からないと書いてある
それは当然だ
何故なら使節は女王に謁見すればいいのだからその先に行く必要はない
国名も書いてありそこも女王国の勢力下である
纒向遺跡だとすぐ東は別勢力になる
九州北部だと中部九州の先の南部九州ということになる
吉備や出雲、土佐ならその先には纒向帝国がある
吉備や出雲、土佐が邪馬台国である可能性は限りなく高い
※2538
nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d108.html
炊飯土器と北九州のちくわ型フイゴ土器
※2540
では、その当時、畿内の鉄が日本海経由であった事を証明してくれ
博多遺跡から畿内の土器が出ている意味を説明してくれ
主張するからには、具体的な物証などを提示して説明できるはずだよな
九州説はありえないけど、畿内説の纏向=邪馬台国は考古学的にありえないんじゃないの?
西暦200年頃から作られて30年で7万戸を擁するクニをつくるって不可能でしょう。
纏向のさらに地中に弥生時代の大規模集落が発見されるまで纏向=邪馬台国を唱えるのはまだ早いのでは?
それとも倭国大乱後に西日本全体の各クニが纏向に首都をつくるためにモノや人員を派遣したんだろうか?
※2543
土佐は知らんが古墳だけで言うと、卑弥呼時代の出雲は四隅突出型墳丘墓という古墳。
吉備は双方中円形墳丘墓。吉備の古墳に円があるから可能性は残るが、出雲の可能性はない。
※2546
それとも倭国大乱後に西日本全体の各クニが纏向に首都をつくるためにモノや人員を派遣したんだろうか?
纏向から日本各地の土器が集まっている事から推測すれば、そうなるだろう。
※2544
見てみます、ありがとう
土器だけ見たら纒向遺跡は播磨から大和と東海から北陸の2つの連合だな
和歌山と四国、淡路島は参加してないか、参加しても影が薄い
庄内式土器(しょうないしきどき)とは – コトバンク
近畿地方の弥生(やよい)時代後期の第Ⅴ様式土器と古墳時代布留(ふる)式土器との間隙(かんげき)を埋める土器群として、1965年(昭和40)に田中琢(みがく)によって提唱された土器様式。特徴的な土器を出土した大阪府庄内遺跡の名に由来するが、これを纏向(まきむく)Ⅱ・Ⅲ式土器とよぶ者もある。器種としては、大きく開く口縁部に装飾をもつ有段口縁壺(つぼ)、丸底化を始める甕(かめ)、顕著な段を有する高坏(たかつき)、鉢、坩(かん)、小形器台(きだい)、手焙(てあぶり)形土器などがあるが、小形丸底坩はまだみられない。この時期を代表する甕は、外面に細かい叩(たた)き目をとどめ、内面は篦(へら)削りによってごく薄く仕上げてある。この特徴的な土器もしくはその手法の影響は、他の飾られた土器ともども、関東、北陸地方から北九州一円にまで波及している。第Ⅴ様式弥生土器の狭い分布圏とは対照的といえよう。
庄内式土器は、最古の土師器(はじき)様式として設定されたものであるが、これを弥生土器の終末様式として、第Ⅵ様式の名も提唱されるなど、その位置づけが確定するまで、まだ若干の時間を必要としよう。
>2542
畿内説の成りすましは止めろ
畿内説論者の誰が短里みたいなトンデモ説を唱えてるんだ???
九州説と同じレベルまで引きずり落とすための工作活動か
2552
畿内否定派工作員乙!
ブログの記事を読めば一目瞭然
長里だと畿内にたどり着かんがな
※2548
九州の土器が少ないのは九州は奴隷派遣が担当で南九州人を送ったんだろうね。
7万戸は奴隷居住区だから神殿近くに住居がなく、モノの派遣は吉備とか出雲に任せたんだろうね。
倭国の軍事、経済、政治(外交)は伊都国および北九州が中心であり、政治(神事)が纏向なら筋が通りそう。
卑弥呼時代の畿内は国力としては九州以下だから卑弥呼が亡くなると混乱するのは当然だろうし。
>2553
ド素人かよw
こんなブログ記事を鵜呑みにしてる畿内説論者がいると思ってるのか?
みんな学者が書いた学術書か論文読んでるんだが
もう少し勉強して出直して来い
畿内説は少数精鋭でいいよ
トンデモ電波を唱えるやつまで招き入れて多数派になる必要はない
説の信用が失われてしまう
>2541
>同じ試料使って結果が100年ずれるのに…
C14年代は、単調減少ではなく「局所的なピーク値」を持つので、その前後で同じ値が出ます。
この論文では、土器編年とC14年代とあわせて考えることでこの局所的なピーク値(西暦270年頃)と対応する土器形式を特定し、そこから年代論を展開しています。
読まずに批判するのではなく、とりあえず読んでみてください。トンデモではないちゃんとした学術論文です。和文で40ページほどなので、それほど手間なく読めると思います。
誰も読みに行かないので、URLを貼っておきます。
ttps://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185012.pdf
私から見ても、この論文の年代観は、なかなか尖っていると思いますが、畿内と大阪平野の拠点集落の消長や、大和川流域での大和と南河内の連合の様子など、遺跡から読み取れる纏向以前の畿内の状況についてまとめられていて、参考にするところが多いと思います。
畿内の鉄事情についても、専門家から見た状況がまとめられており、年代観が合わないなら、その分ずらして解釈すればよいことですし、一度読んでみてください。
銅鐸の時代から本州で畿内が無双してたってことですかね
どう広く見積もっても弥生時代の纒向文化圏は銅鐸の範囲
>2559
西から入ってきた流行り物を大量生産して、自分たちの物として日本中にばらまき権威を高める。
これを数百年周期で繰り返してるみたいですね。
稲作、銅鐸、辰砂、鏡、仏教に建築に都に文化芸術に至るまで、鉄砲も九州からあっという間に近畿で大量生産。
少なくとも弥生時代から、近畿にはそういう習性を持つ人達が住み続けてるみたいですね。
倭人というか、商人の習性なのかなー。
夏王朝の黥面文身人種と、商王朝の流行り物取り入れて自分の商売に使うのと、呉越どころか日本には色々相乗りしてそうで興味がつきませんね。
そして、入ってきた人たちが、貝塚で作った干し貝を広域流通させてそれを肴に酒を楽しんでいた縄文文化に同化して溶け込んで混じり合ってできあがったのが日本人なんでしょうね。いろんな風習、習慣を持ち寄りながら。
鏡の分布からすると九州の勝ち目は全くなさそうだなw
魏と同じ鏡は九州ばっかだね
2557
畿内説の根拠は9割の学者が唱えていることなんだぞ
数が畿内説の正しさを担保してる
弥生時代から同じ性質の人しかいないなら、他地域からの流入ない証拠
畿内は稀に見る排他的地域
>2565
後漢鏡を魏鏡と言い張るのは不可
当時、どうやって、水行10日プラス水行20日プラス陸行1ヶ月の地域を支配したんだろ
大炎上「三角縁神獣鏡=魏鏡説」
この本読んでみて
大学教授も纒向遺跡が邪馬台国ではないと本書いたり論文出してんじゃん
論文が全部畿内説みたいなコメントの人は信用できないと思うんだけど、皆様どう思いますか?
魏志倭人伝の邪馬台国の場所に興味があるわけで、4世紀の纒向遺跡の偉大さはもうお腹いっぱい
熱狂的な信者のいる纒向邪馬台国説が証拠の遺物を示せないのもある意味奇跡
>2569
九州説のやつらも3世紀の広域政権は絶対に不可能だと言いながら
4世紀にヤマト王権が全国統一すると小学校のとき習ってて、何の疑問も持ってないという不思議
昔習った4世紀が今は3世紀に修正されただけなんだけどな
倭国王帥升は、根拠もなく伊都国王と思っていたのですが、寺沢薫氏がそれに言及しているんですね。
でも、帥升の朝貢に当たる記事が隋書にあって
安帝時又遣使朝貢 謂之俀奴國
と書いてあるので、帥升も奴国ですね、伊都国ではなく。
西暦57年の漢委奴國王の金印をもらったのも、西暦107年の帥升の朝貢も、奴国の王ということになります。
>2571
その大学教授って誰?
まさか心理学の大学教授で古代史は専門外、つまりアマチュアとかじゃないよな?
2571
誰も全部とは言ってないだろ
9割と言ってるだけ
歴博の185集、通称「岸本論文」について
まじでこれを根拠に今までここに書き込みしてたんだ…
本人じゃないよね?
う〜ん、ここまでスルーされてるってことはここをみている人たちはだいぶ弥生時代について詳しいから俺が何か書くの躊躇われるわ
みんな知ってて黙ってるんだな、大人だぜ
今は大和朝廷と言わず、ヤマト王権なんだ
みんな若いねぇ〜
※2576
あなたの大好きな京都大学の日本古代史の教授もそうですよ
考えてみたら本当に9割なら人数示せますもんね
岸本の年代観と屁理屈っぽい論理展開は話半分で読んでればいいだろ
役に立つ資料を引用してるからそれだけでも読む価値ある
そういう資料はネット上ではほとんど転がってないから貴重なソースだと思うけどな
本来は4世紀半ばに築造されたと考えられる石塚古墳や勝山古墳を2世紀なかごろに築造されたものであると「誤解」することから、弥生時代に前方後円墳が存在し、弥生墳丘墓と併存するという奇妙な考えになる。
大王の権力と地方首長の権力とは、同じレベルで比較できないほどの大きな差異があったとみられ、ほぼ同等の地方権力の連合の上にいだかれる共立された王という概念がおかしなものである。岸本氏も、「巨大な王墓は倭国王の権力を物語る」とは認めており、安村俊史氏の論考「大王権力の卓越」でも、「卓絶した大王墓」という項目が設けられている。
文献を見ても、「首長連合」という見方を裏付けるものは、まったくない。どうして、文献にも依拠しない思考が突如出てきたのだろうか。不思議に思いながら、岸本氏の記述を追っていくと、その根源には、邪馬台国女王の卑弥呼が畿内にあったという見方、その女王への戴冠には倭国を構成する諸国の王が共立したという『魏志倭人伝』の記事があったことが分かってくる。ここに、三世紀の倭国がそのまま直接に五世紀の大和の王権国家につながり、政治体制も同じであったという見方が出てきている。
しかし、歴史の流れを考えてみても、三世紀代の倭国の体制がそのまま五世紀代の大和の王権国家につながるはずがない。それぞれの中心地域が北九州と畿内という大きな差異があり(考古学者では邪馬台国畿内説もいるが、文献的には根拠が皆無)、二世紀という期間の経過のなかで、王権は強化されず、その政治組織・体制もまったく発展しなかったことになる。現実に、その間の四世紀後葉には日本列島から韓地への大規模な出兵があった。これは『日本書紀』神功皇后紀ばかりではなく、『三国史記』や高句麗・好太王碑にも記事が見えるから、これまで否定するのではないと思うが、すでに絶大な王権のもとで国家体制を整えていた高句麗の大軍に対して、本拠地から遠く離れた韓地で広域にわたり、長期間かつ大規模な戦闘をくり広げた倭地の国家が、「首長連合」を基礎にした弱体な国家であったはずがない。
「首長連合」という概念が否定されれば、「政権」という現代政治家のもとにあるような概念など、まるで当てはまらず、かえって混乱の要因になることくらいはわかるはずであろう。
>2581
ありがとうございます
やっぱり有名人なんですね
なんか、重ねるとか、決めつけとか多いと思ってました
資料を引っ張ってきてそれを自分の考えに切り貼りした感じだったんです
元の資料をそのまま読んで楽しみます
魏の鏡は見事に畿内ばっかりだ
もう決着ついたなー
昔の先入観で邪馬台国は九州だと思ってた人たちもようやく間違いに気づいたようだな
きちんと証拠を積み重ねて行けば畿内説にたどり着く
もうイタコに卑弥呼の霊呼び出してもらってどこか聞こうぜ
>2572
もし九州派のいうように、ただの地方政権だったのなら、私にとってはどうでもいいです。卑弥呼が共立された倭国王で、日本の元となる大枠ができたと考えるから重要視しているので。
倭国王は魏が命名したんですよ
共立されたからではないんですよ、岸本先生
今まで以上に畿内の遺跡に詳しくなりました
おかげさまで邪馬台国だと宣言できる遺物は何もないことを学びました
ありがとうございました
大崩壊「邪馬台国畿内説」
土器と鏡の編年・不都合な真実
卑弥呼が魏からおくられたとされるホケノ山古墳出土の「画文帯神獣鏡」は、中国北方の魏系の鏡ではない。土器には、西暦年数に換算できるような確実な年代的指標はない。
数々の科学的・歴史的データを駆使し、「畿内説」の論拠を徹底的に検証する。
従来は弥生墳丘墓とみられてきたこれらの前方後円形をなす墳墓を、古墳として積極的に評価しようという観点から、寺澤薫氏は「纒向型前方後円墳墳」という概念を提唱された。そして、古墳時代の始まりを、纒向型前方後円墳の出現とそれを生む時代・社会の成立時期と定義された
学会では認められていない説をあたかも学者の9割が〜とか言ってはいかん
纒向地域は、弥生時代には過疎地だったようで、発掘調査でも弥生時代の遺構や遺物はほとんど見つかっていない。
そういえば、水田は鉄がないと作業効率悪いから稲作先進地域の畿内で鉄がないのは再利用したか、錆びて見えなくなったって主張があったけど、そもそも纒向遺跡は祭りばっかりで稲作してないし、戦争もしてないんだから、鉄いらないよな
儀式用の木の弓と鋤を再利用したら仮面があれば十分だから鉄にこだわってた畿内説の人達は何と戦ってたんだろう
>2592
纒向型前方後円墳をどうとか、誰がそんなこと言ってる?
畿内説を学者の9割が支持してるという書き込みは上の方にあったけど
鉄に拘ってたのは九州説だろw
そんで思いっきり論破されて最後は、お前は畑仕事しろ!っていう謎のセリフを吐いて遁走w
畿内説の根拠はざっくり言うと地名、前方後円墳、三角縁神獣鏡だけど
そもそも九州説の根拠は?
帯方より1万2千里をありもしない短里で換算したら九州ってだけ?
あ、あと畿内説は短里も長里もどっちも支持してないから
距離は正しくないから参考にならないって立場だから
短里だから畿内なんだぞ
そこを外してどうする
地名は山門もあるからやめとけ
2597
前方後円墳は岸本氏の論文読んだのかな?
感想を言ってあげると喜ぶ人がいるよ
山門なんてこじつけじゃんw
あの辺は筑紫って呼ばれてんだし諦めろ
※2597
呉の地域の銅が使われた中国南方のデザインの倭国産の1000枚以上見つかってる卑弥呼が下賜された100枚の銅鏡の一部は確かに有力な根拠だな
2601
山口はお嫌いかな?
九州、中国地方の豪族が当時未開な畿内に新たな首都である邪馬台国をつくった。
各地方本当は乗り気じゃなかったから卑弥呼が死んで共立首都計画が頓挫し国が乱れた。
再度、台与により計画が続行されヤマト政権へ。
卑弥呼時代の畿内が九州・中国を支配したという畿内説はありえない。
・そもそも漢末になると九州から鏡が全く出なくなってるんで邪馬台国九州説の勝ちは消える。引き分けが精一杯。
・魏の領域は北方だけじゃなく中原全域。呉ともずっと戦争してたわけじゃなく、なんども講和してる。共同で関羽を討ったのは有名。
内行花文鏡を無視するやつは素人
1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された
この遺跡からは21面の鏡が出土している。拓本からは全てが方格規矩四神鏡(流雲文、草葉文、波文、忍冬様華文などの縁がある)であることが分かっている。後漢尺で六寸のものが多く、王莽の新時代から後漢の時代にかけての鏡である。これらの鏡に加え、巴形銅器3、鉄刀・鉄剣類が発見されている
>2605
>・そもそも漢末になると九州から鏡が全く出なくなってるんで邪馬台国九州説の勝ちは消える。引き分けが精一杯。
倭国王帥升の朝貢以降、130年ほど朝貢が途絶えるっていうのも何度も書いてるんですけどね。その間、中原からの鏡は正式ルートでは入らない。
遼東の公孫氏に朝貢してたって話は、所々で見かけるのですが、信頼できるソースをご存じの方は教えてください。
>2589
>倭国王は魏が命名したんですよ
>共立されたからではないんですよ、岸本先生
「共立に関しては遺跡から言えることではないので、共立というのは魏志倭人伝から考えたことだが、(要約は引用者)」
って書いてあったと思うんですがね。
共立によって倭国王に命名されたって、どこに書いてあるんでしょうね。
>2609
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-19/2017_02_19.htm
■ 当時の倭国が、公孫氏と通交していたことを示す文献史料はない。だが、倭国連合の盟主に祭り上げられた女王卑弥呼の政権基盤は脆弱であり、絶えず後ろ盾としての外国王朝の権威を必要としていたと思われる。
■ 奈良県天理市にある東大寺山古墳は、西暦350年頃の築造と推定されている前方後円墳だが、その古墳から中平銘の鉄刀が出土している。「中平」とは、中国後漢末の霊帝の年号(184~190)であり、『魏志倭人伝』に記された卑弥呼が倭国の女王に共立され、「倭国乱」が終結した時期と一致する。もし、卑弥呼が権威の象徴として公孫氏を宗主国と仰ぐことにしたなら、女王就任を報告する使者を公孫氏のもと派遣したはずである。その折に、公孫氏から中平銘の鉄刀を下賜された可能性もあるのだ。
こんな風に書いてる人も居ますね。
当時の倭国が朝鮮半島南端から北九州の共立で、権威誇示に必要な朱を手に入れる事もできず、出雲や南九州などの勢力に脅かされていた、と考えるとわからなくもないですね、証拠ないけど。
>2611
ありがとうございます。
>当時の倭国が、公孫氏と通交していたことを示す文献史料はない
これが確認できてうれしく思います。とはいえ、燕書はないわけですし、推定以外はできないということですね。
>2606~2608
この平原方形周溝墓あたりは、明らかに「王の墓」ですよね。王墓級ってやつです。
後漢というと倭国王帥升の朝貢が思い浮かぶのですが、隋書ではこの安帝の永初元年の朝貢を「安帝時又遣使朝貢 謂之俀奴國」って書いてありますから、伊都国の平原遺跡の王ではなさそうです。
「原の辻上層式土器群の検討により,岡崎が紹介した原の辻・唐神両遺跡出土鉄器を後期中葉から後葉のものとし,鉄刃農耕具の出現と普及は弥生時代後期後葉から終末の時期にまで降ることを強調し,弥生鉄器文化における鉄刃農耕具の過大評価を戒めた[高倉 1986]。その後の鉄刃農耕具の出土状況からみても,今まで考えられてきたよりもかなり遅くならないと鉄刃農耕具は普及しないと考えられるようになり,鉄刃農耕具の投入による農業生産基盤の拡大から階級社会の成立を描くという理念的歴史像が存続する余地はほぼなくなった。」
「弥生時代前期の鍛造鉄器文化に対する批判的・否定的意見によって水稲農耕による計画経済の導入ののち,かなりの年月を経て対外的な交易物資としての鉄器がもたらされたと理解されることとなった。AMS測定によって新たに構築された長期編年観では,農耕の開始から 600 年を経て,鉄器が使用されたとみられている。これに従えば,弥生時代当初にもたらされた稲作農耕とその技術体系のなかには鉄器文化が含まれてはおらず,相対的に鉄器文化が弥生社会の農業生産力の維持・向上に直接的に結びついていたとは考えにくいものとなったといってよい。」
「研究史からみた弥生時代の鉄器文化」野島 永
弥生時代の鉄の普及に関しては、この辺りですかね。
ttps://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185007.pdf
書き込みが減ったのは畿内説が正しいとようやく理解したか、九州説はもう無理だと自覚して消えていったかのどちらかだろう
>2609
畿内には入ってきてるみたいだけどどういうことかな
>2616
朝貢に対する下賜品というルート以外がないわけではないですから。
対馬も壱岐も南北市糴していたので、その商品として移動していたかもしれませんし。ただ、こういうのは推測しかできません。
遺物から語れる範囲では、2世紀前半の漢鏡第6期から2世紀後半の第7期前半は、実際少なくなっているそうです。
で、そのあと国内で鏡が増える頃には、畿内の優位が確立している状況です。
じゃあやっぱり畿内だよね邪馬台国
鏡についてだと、この辺ですかね。
「日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期」 上野祥史
ttps://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf
「近畿地方を中心とする分配システムの成立をめぐる議論において,「2 世紀の鏡」である漢鏡 6・7 期鏡の流入段階を,東方世界にも及ぶ,漢鏡を保有する「紐帯」が形成された時期としてとらえておきたい。画文帯神獣鏡という特定の鏡式に限定するのではなく,画文帯神獣鏡を含めた「2 世紀の鏡」の在り方にこそ,以前とは異なる様相があることを評価したい。」
この、2世紀の鏡が倭国内で流通(配布)する3世紀前半が、卑弥呼の共立と魏志倭人伝に記された直後の頃であり、その頃に国内の物流を含めた体勢が大きく変化しているように見えます。
そして、3世紀中ごろに遼東の公孫氏が滅びた(238年)直後に、卑弥呼の遣使があり、邪馬台国が魏に知られるようになる訳です。
ここの書き込み読んで九州なんだと分かりました
ありがとうございます
>2620
定期的にこういう書き込みがありますが、どこをどう読んだら九州なんだと分かるのか、説明していただけると助かります。
無理だよ
書けるなら最初から書いてるw
畿内説→論文ががんがん出てくる
九州説→いつもの胡散臭いブログ
卑弥呼は共立された王→魏志倭人伝がソース
ヤマト王権は共立された王権→論文筆者の頭の中がソース
共立されたことが共通しているから纏向遺跡が邪馬台国
九州派は邪馬台国が最強の国だと思ってるのが間違い
文化や軍事は九州と出雲、吉備がそれぞれ上でこれらが不毛な畿内に2世紀後半からクニをつくったんだよ
九州から50年かけて東遷していった考古学的事実を認めるべき
>>2625
その説はかの有名な34様が唱えてらっしゃる倭国王説への誹謗と受け取ってよろしゅうございますか?
倭国壱だからこそ親魏倭王の称号と金印を授けられたのは纏向遺跡を含む列島最大の勢力に相違なく、岸本論文を独自に発展させ、例え鉄も鏡も絹も発掘されなくとも纏向遺跡が邪馬台国だとの34様独自の説をないがしろにするコメントでございますな
>2613
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
もし時代が合うなら、ちょうどこの記述に合致しそうなんだけども。
十数m方墳に殉葬16人?、これで諸国を畏怖させるのだから、
径100歩余が、30m円墳で殉葬100人も、女王の墓として十分可能なのかな。
奴国(福岡平野?)が抑えていた大陸との関係を、南?の女王国に抑えられ畏怖することになる。
ttp://www.hakuchizu.com/club/nihonmap/heiya.html
ttp://self-study-site.com/shogakushakai/archives/711/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E5%B9%B3%E9%87%8E
平野や盆地の地図を見ると、南九州や岡山・讃岐、高知に、北九州や近畿を凌ぐような強国があってもうなずける気がする。
そして関東まで勢力を伸ばし、文化の力でうまく騙くらかして、ヤマトタケル伝説やらかしたのが纏向大和勢力って気もする。やっくでかるちゃー
>2627
ただ、一人の首長のためだけの王墓級弥生墳丘墓が作られるようになる前は、方形周溝墓は複数の遺体を一つの墳丘に葬る家族墓が基本だったようなので、複数の遺体があっても殉死かどうかは判断しにくいです。この平原遺跡のものは殉死溝と言っていますが、日本で殉死が確認されている墳墓は他になかったとされていますし、これも本当に殉死と見ていいかは判断に困ります。
平原は2世紀末
西新式の直前の土器が出てるから3世紀と解釈するのは不可能
年代がバラバラなので殉葬ではなく共同墓地
宮崎県からも景初4年の銅鏡出てるのか
やっぱり日向から大和に東遷したんじゃねえの?
殉葬を否定する論文お願いします
魏の年号が刻まれた銅鏡は四世紀末から五世紀初めの古墳から出土している
大事に取っておいたのかその時期輸入されたのか
魏の年号の鏡のあるところが邪馬台国との主張は多いが副葬品だった古墳のことを一緒に語らないのは古墳の造成時期が四世紀以降だから
論文を読んで改めて気付いた
やはり自分で一次資料に当たらないといかんな
卑弥呼の時代の王級の墓は宮殿や集落から離れてるのか
ヤマト王権になってはじめて集落に近いところに古墳を作るようになったのか
大市の近くに箸墓前方後円墳があったら皆ビビっただろうな
周溝のうち、発掘された部分からは殉葬墓と考えられる土壙墓が10弱見つかっている。
周溝の残り9割を全て発掘すると相当数の土壙墓が見つかる可能性が高い。
今度は殉死で行くのか。懲りないな。
土坑墓一つでどれくらいの大きさだと思う?
周溝の一割しか発掘されてないってどういう妄想だ?
平原遺跡1号墓出土の大量の中国朱は239年以後贈られたもの
魏志東夷伝における「出」と「有」の使い分け
魏志東夷伝韓条
>國出鐵韓濊倭皆従取之
鉄が「産出」して、倭人を含めた皆がこれを採取する。
魏志東夷伝倭人条
>出細紵縑緜
綿絹等を「産出」している
>有薑橘椒蘘荷 不知以爲滋味
しょうがや山椒や胡椒は「有る」だけで、食べられることを知らない
魏志東夷伝において
「出」とは自国で産出して使っているもの
「有」とは自国に有るけれど使っていないか、輸入品で賄っているもの
魏使は各地の情報収集も仕事の一つなので、この2つは厳格に使い分けている。
>出真珠青玉 其山有丹
真珠と翡翠は「産出」するが
丹は山に「有る」だけ
倭国が丹を採っているのなら
出真珠青玉丹
あるいは
出真珠青玉 其山有丹亦取之
出真珠青玉 其國有丹山
などの記載になる。
平原遺跡の建築順序は以下の通り。
周溝ならびに墳丘墓の基礎を建設(200年代)
祭祀遺跡を建設
2号墓を仕上げる
土壙墓に殉葬
1号墓を仕上げる
周溝から出土する古い土器などは、過去に放棄された土器の混入と考えられるため、
遺跡の年代遡上には使えない。(逆に新しいものであれば、年代更新には使える)
2号墓出土の西新式土器の年代よりも、1号墓は新しい。
殉葬の土壙墓は確実に周溝より後に作成される。
不毛
平原一号墓の最大の特徴は副葬品の鏡の大量埋納で、その中心は漢鏡5期で紀元1世紀末頃のもの。埋葬主体は二世紀で動かないよ。そこにどうやって3世紀半ばの輸入品が使えるのか教えてほしい。
そもそも水銀朱の年代を測る方法はないだろう。
どうしてこういう筋の通らない、すぐにばれる捏造を書き込むのか、理解できない。
『魏志東夷伝・序文』
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服。
公孫氏が遼東に進出してからは(189)、東夷世界と漢や魏は遮断されていたが、
陸海の大軍で公孫氏を滅ぼして(238)、東夷は朝貢してくるようになった。
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡の来日を最後に、舶載鏡の来日が途絶えて、
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした仿製鏡が発展した。
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした八葉鏡が開発されている以上、
平原遺跡1号墓出土の大量の中国朱は、189年以前もしくは239年以後。
後者(239年以後)であって、魏から贈られた中国朱である。
上の方で公孫氏が如何の斯うのってこれのことか
遼東半島を抑えられている以上、中原との取引がない事実は銅鏡から明らか
その間に発展したのがコピーや倭国オリジナルの鏡
そのコピーやオリジナルの銅鏡がある以上、中国の朱が公孫氏滅亡後の輸入品だということは説得力がある
>>2626
西暦200年時点で畿内が西日本を制圧できる名分、文献、考古学的資料がないからしょうがない
纏向以前の弥生時代で畿内が圧倒的だった証拠が無い限り、北九州、吉備の共立を考えざる得ない
250年までの邪馬台国は政治(神事)の中心であって軍事、文化の中心である必要が無いし証拠がない
私は狗奴国=南九州だと思っていて北九州、吉備などの連合が政治や宝物を何もない畿内に東遷したと思ってるのです
>2625
>九州から50年かけて東遷していった考古学的事実
そんな考古学的事実がどこにある?
畿内が九州を制圧した
証拠は石の鏃を受けて死んで葬られた遺体が九州から出てくること
>2643
2627にある通り、小国であるはずの伊都国を諸国が畏敬している事や、
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
奴国よりもさらに大きな女王国が、伊都国からの舶来品を独占していたこと。
鉄などの軍事物資も持っていたことが態々記述されているのに、文化の中心ではないという、その論はおかしいと思います。
北九州と吉備の共立と言うのなら、吉備には具体的にどのような繋がりがあったのかお願いします。
>2628、2629
人を騙そうという意図が見え見えです。
複数の埋葬が一つに合わされていても、数人の重要人物とその他という構造くらいは一目見ればわかります。ただの数字に置き換えて詐称しようとしても無駄ですね。
年代ばらばらを否定の根拠としているのに、自分に都合の良い年代だと断定する。たった数行にすら矛盾をはらむ言い様に底の浅さを感じます。
人類拡散の歴史みたいなのを調べた時に、C14年代測定を悪用する、ドイツチャイナハーバード繋がりがあったように思います。付着物(汚染されやすい)や周辺の年代が古いとか、肝心の遺物は遺物とも呼べないような欠片を、○○の証拠大発見(立派な想像図レプリカで印象操作)などと、不確かな測定法と検証無しで続き、人類の軌跡や文化の広まりがぶつ切りになるんですよね。
日本の派閥やマスコミは、ここのチャイナの手下だと思います。
自分たちの民族が最高と結論を決めて、そこに歴史をねじ曲げはめ込んでいくお仕事、やってる派閥?が世界規模であるって事も気に留めておいた方が良いと思います。
目的が違うと、やってることが違うと、そもそも議論が成り立たない話の通じない相手が居るって事ですね。
>2646
それは共立後(卑弥呼の邪馬台国)の話しだと思います
あれれ?纏向邪馬台国派の皆さんは倭国大乱と共立で卑弥呼を立てたことをどう考えているの?
倭国大乱(180年頃)までの国力は考古学的に奴国(+伊都国)>出雲、吉備>大和(纏向)では?
倭国大乱は奴国VS狗奴国(南九州)で伊都国が機能せず後漢との交流が出来ず困る国、高地性集落がある国で共立したと思ってましたが・・
※2647
都合の悪い証拠は陰謀論ですか〜すごいですね
>2648
高地性集落の発生を、倭国大乱の表出と見るなら、乱は最初北部九州で起こり、次に畿内が騒乱状態になり、その後出雲や吉備、瀬戸内海沿岸諸国(東の方)の順に波及します。
そして、乱が真っ先に収束来るのが畿内で、その後高地性集落の放棄と、大和南部の唐子鍵と河内平野の亀井遺跡等の少数の大規模集落を残して、池上曽根遺跡のような拠点集落は解体され、小規模集落へと再編されます。これは、大和南部と河内平野の連合が、地域覇権を掌握したためと考えられます。
こうして、狭い意味での畿内が一つにまとまることで、纏向遺跡の建設が始まり、そこに出雲と吉備が「寄らば大樹の影」的に畿内連合に乗っかっていったというのが、共立の流れのようです。まあ、高地性集落、環濠集落の消長までが、遺跡から分かることで、その先は推測交じりになりますが。
そして、畿内連合に吉備、出雲が合流した時点で、倭国の覇権の行方が確定し、その頃まで騒乱を続けて疲弊した九州北部もその傘下に最後に加わったくらいに考えておけば、九州の人も理解しやすいのではないでしょうか。
>2648
わけわからん
纏向について一読してこいよ
>2646
>小国であるはずの伊都国を諸国が畏敬
魏志倭人伝をきちんと読んでください。
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
諸国が畏れ憚かるのは「之」であって、伊都国ではありません。
諸国が畏れているのは女王国が置いた「一大率(之)」で、それが伊都国にあったということです。
伊都国を畏れていたのではなく、伊都国にいる「女王国の一大率」の威光を畏れていた訳です。
>2650
>出雲と吉備が「寄らば大樹の影」的に畿内連合に乗っかっていったというのが、共立の流れ
この推測はどのような根拠からでしょうか、また年代はいつ頃だと思われますか?
>2647
>年代ばらばらを否定の根拠
殉葬だったら、埋葬主体と殉層とされる土坑墓の年代が「一緒じゃないとおかしい」のは分かりますか?
ある国の王が死んで、王墓を作って、それから10年後、20年後に死んだ家臣を王墓のそばに葬ったら、陪葬とは言っても、殉葬とは言わないでしょう? 殉葬と言うのは王が死んだのに合わせて、意図的に死んだ(殺された)者を葬ることを言う訳ですから。
「年代がばらばらだったら、殉葬ではない」というのは日本語が分かる人には、議論の余地のないことだと思いますが? だいたい、周溝墓の周溝が(年月を経て)埋まりかけてから、そこに埋められた土坑墓を、殉葬だと思う方がどうかしてるんですよ。
もし2634と同じ人なら「周溝の残り9割を全て発掘(発掘済みがほんの1割)」の根拠を教えてもらえますかね。
>2653
2560で
>どう広く見積もっても弥生時代の纒向文化圏は銅鐸の範囲
とありますが、これが「大和南部と河内湖南岸の連合」に加わった初期の共立範囲と考えてよいのではないでしょうか。
>2653
年代論的には、布留1式の時期に270年頃のC14の局所ピークが来る、以上のことははっきりしたことは言えません。普通は、土器編年の形式1つ分を、土器製作者の代替わり(1世代)と見て年代を当てていく(通常10~25年)のですが、このあたりはさじ加減なので、素人としては当否を判断できません。
邪馬台国以外で倭人伝に出てくる国は九州っぽいんだろ?
じゃあそっから飛んで畿内の邪馬台国になるのはなんで?
邪馬台国が畿内なら中間の中国地方とか四国にも当然地方政権あるいは集落があったとおもうんだがそれらについて記述がなくて無視なのは変じゃない?
纒向遺跡はすごいけど邪馬台国と大和朝廷はまた別の国なんじゃないの
※2657
そっから飛んで(=水行陸行2月)、って書いてるから
海を通る(水行)ので、いちいち陸にある国を意識も記録もする必要なし
はい論破
九州説派=朝鮮人と同じ思考
こう考えれば全て辻褄が合う
>2650
邪馬台国九州説の人には何にしても理解は難しいかも。
うーーん。吉備や出雲が大和に共立を打診されてOKするかな?
後漢にとって伊都国の安定が倭国大乱の終了だから(狗奴国はまだ存続)一応当時盟主の奴国か後漢の役人が軍事力(鉄)のある吉備、出雲に打診したと思うんだけど。
中平の刀が倭国大乱の終了の証なら190年でまだ纏向は造り始めだと思われるから大和が共立するだろう3か国より下じゃないかな?
※2660
あー
纒向はまだ小さかった=畿内に人がいなかった
って思ってるのか
纒向以前にも畿内周辺に大集落があったから
彼らが新しい拠点を作って集まってきたと考えれば問題ない
あと鉄は普通に畿内からも出てくるし、
石の鏃で殺された遺体が九州から出てくるように鉄=軍事力というわけではない
纒向遺跡を邪馬台国とするならば必然的に邪馬台国からヤマト王権になったとみなさなければならない
これは記紀の否定であり、天皇家の万世一系及び天皇家の正統性の否定である
卑弥呼、台予を歴代天皇や皇女に比定することは、大王が弥生系渡来人豪族による共立、傀儡と定義することであり、この国の歴史を真っ向から否定し、親魏倭王を は列島の最大勢力でなければならないという中華思想の元での説である
天皇家は唯一無二の存在であり、決して各地の豪族や王による共立ではない
纒向遺跡から始まるヤマト王権と魏志倭人伝に記されている女王国は文献からも遺跡からも遺物からも科学的分析からも別なことは明らかである
畿内の証拠は七万戸と水行20日陸行1ヶ月
これ以外ないんだから畿内派はこれだけ論ずればいいだけ
現状七万戸入りそうな遺跡の第一候補は纒向遺跡なんだから纒向遺跡の根拠はそれで事足りる
あとは七万戸が女王国全部なのか都のある集落だけなのかそれとも誇張なのかを考察すれば良い
九州説の証拠、無しw!
>2663
懲りずに今日もわいてますねww
思ったのが、投馬国が出雲なら、投馬国の範囲は四隅突出墓を作る日本海側の結構広い範囲でよいのでは、ということです。へんな言い方ですが広義の出雲です。
狗奴国が広い範囲の毛野国(東海から埼玉の毛野国まで)と考えたのと同じ考え方です。
で、さらに出雲から水行十日で丹波に上陸して、大和に向かう。丹波道主命が崇神天皇の甥での四道将軍で、丹波を押さえていますから、その辺りまでが広義の大和でいいんじゃないでしょうか。丹波は、大風呂南とか王墓級墳丘墓を作っていますし、古墳時代初期に独特の円筒埴輪をもつ100メートル超の大古墳を作っていますから、結構な実力地です。
もともとの大和は、奈良盆地南部の唐子鍵と河内湖南岸の亀井遺跡の合同が核になって、奈良盆地と河内平野が一つの単位になる。たぶん、これが七万戸の母体です(実数として七万戸あったとは思いませんが)。
そこに旧国名で、山城、丹波、近江、紀伊辺りまで合同して広い大和になる。
そこへ、出雲(広義)と吉備が合同するっていうのは、ありだと思いますけれどね。今となっては実態があったわけではないとされる銅鐸文化圏が、その辺までの範囲ですし。
>2660
>後漢にとって伊都国の安定が倭国大乱の終了だから
その頃の後漢は、国内がぐちゃぐちゃで東夷のことなんか構ってる暇ないですよ。
桓靈之間からいわゆる三国志の騒乱の時代に入ってますから。おかげで九州説の頼りの鏡も倭国にあまり入らなくなりますし。
>2661
たしかに畿内では戦乱跡がほぼないし食料の心配もなさそうだから人口は多そうです
畿内連合が成立して野心が芽生えてしまい、後漢(後の魏)に朝貢して倭王になりたくなる
しかし伊都国が安定しないため後漢に行けない
狗奴国を倒すから食料と武器の補給をよろしくと出雲、吉備に共立を打診
出雲、吉備はあまり乗り気ないけど、狗奴国倒せばまた後漢と国交できるからOKする
大和強い!狗奴国は補給分断を頑張る!(南九州は歴史的に航海術は高そう)
これで大きいな戦乱跡があまりない瀬戸内の中国、四国で高地性集落が多い理由も解消
狗奴国を押し込めて伊都国に一大率を置き安定
倭国王になる予定だから恥じない都造るぞ!
こんな感じでいいかな?
>2662
>天皇家は唯一無二の存在であり、決して各地の豪族や王による共立ではない
記紀をちゃんと読んでください。
允恭天皇も継体天皇も、豪族の協議の末、推戴されてますよ。あと、推古天皇の次の舒明天皇とか、記紀の範囲を超えますが、称徳天皇の次の光仁天皇とかもそうです。
>2666
構ってられないから奴国を助けに来なかったんでしょうね
190年ころに倭国大乱の終了をさせたと聞いた皇帝は奴国じゃなくて大和???
よくわからんが褒美として中平の刀をあげるって感じだったでしょうね
>2665
2世紀後半の近畿第Ⅴ様式分布範囲が邪馬台国の範囲かと
このうち2世紀末に河内と大和の一部だけが庄内式に変わるけど
朝鮮半島南端地域で北九州の土器だけが出る(製鉄もやってた)って事からも、半島南端から対馬壱岐北九州まで、共通の倭人勢力が存在し、大陸文化を最初に取り入れる窓口であり、
奴国のように、北九州勢力が金印もらって冊封された前例もあるのに、
その北九州との繋がりが無いまま、近畿の共立で邪馬台国成立とは、結論に食いつき過ぎ。
北九州の大陸影響文化と、他の地域の文化が異なっている事、
その他の地域、特に奈良の石器中心の文化が北九州を飲み込んだ事、
これらを無視して、中華のおかげで日本ができた、天皇は中華が作ってやったとこじつけたいのがよくわかる。
中華皇帝が天皇を作ってやった事にしたいって本音が隠せなくなってきてる。
>2671
基本的な知識がなく事実認識が間違ってるが、過去レスくらい読めとしか言いようがない
この手のやつらの教育係じゃないんだし教えるのめんどくさい
で、後半に書かれている中国の影響についての個人的妄想
魏への朝貢がヤマト王権の全国統一にどのくらい役に立ったかは判断不能だけど、少しは役に立ったのは確かだろうな
特に独自に大陸と交流していた独立勢力にとってはヤマトは自分たちより上だと認識したはず
>2655、2656 説明ありがとうございます。
文化先進地帯である北部九州勢力が、四国近畿勢力が独占していたであろう、辰砂(埋葬権威付けに必須)なども輸入で手に入れるようになり、出雲などの日本海側に影響力を広げた。
それに危機感を覚えた近畿勢力が、銅鐸文化圏を纏め祭祀文化の一新(一目でわかる桁違いに大きい墓を作り、街道からも見上げさせる事で他国へ広報させる織田信長方式?、方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓の3形式を一つに纏める前方後円墳の始まり?)を行い、東に勢力拡大して兵力を集め、北九州勢力を飲み込んで、百済新羅までも属国とした。
北九州は稲作先進地帯で、近畿よりも広い平野が広がり、水利も豊かで大規模な人口、兵力を抱えていただろうから、中国四国北陸東海関東まで結集する必要があった。
こんな感じでどうでしょう。
文化の取捨からして、おそらく初期の大和勢力は、日本の保守系連合だったのではないかと、しかしそれから渡来文化を賛美する渡来勢力が強まり、天皇暗殺や権威乗っ取りまで始まり、再び保守がクーデター、その後また大陸文化を取り入れ都造り、武士の反乱・・・と、どうも日本の歴史には、明治の破壊政策のような事をやらかすやり過ぎ革新派が、保守に反乱起こされるって流れがあるような気がしますね。
独身の卑弥呼がヤマト王権だと結婚しているのは不思議だな
>2674
俗説に従って、卑弥呼を記紀にある倭迹迹日百襲姫だとすると、結婚したことになってるけど、結婚相手は神様・大物主だし、巫女的性格の強調と見ておけばいいんじゃないかな?
>2671
>その北九州との繋がりが無いまま
たぶん、この前提が意味を持たないんだと思うよ 2671の思い込みでしょ?
倭人は、どこにいても倭人としての共同体意識は持っていたように思う
魏志東夷伝「倭人」条であって、「倭国」条ではないのは案外正確なのかもしれない
倭国の外の、倭人の住むところも一応記載されているし
纒向遺跡から出土する卑弥呼時代の遺物から九州との繋がりを見つけるのはちょっと…。
早くC14の分析に使った試料を公開するか再鑑定してくださいな
自分だけこの結果が出ました!では誰も信用しないがな…。
九州との繋がりなんてどうでもよくね?
>2677
北部九州から畿内へは人の移動はないが、畿内から北部九州への移動は庄内式土器で証明されてると
上の方で何度も出てきてるのを見なかったことにしてるだけ
認めたくないことはすっとぼけて毎回振り出しに戻そうとしてる
まず庄内式土器が河内から九州に伝わったということを証明しないとね
九州は北部の広域から出土されるが、近畿は大阪と奈良の一部だけ
九州から畿内に伝わり、大阪奈良の一部に拠点を置く豪族だけ使用したと見るのが自然
そうでないなら大阪と奈良の一部が九州だけ支配して、他は全く支配していないという謎な現象になる
しかも大阪以西と九州は昔から交易があるが、纏向と大阪は繋がりが薄いんだよな
ほとんど地元の河内の土器が纏向からはあんまり出ない
これをどう見るかだな
庄内式土器の技術は朝鮮半島由来だからなぁ
それを畿内が九州を制圧した根拠にするのはちょっと弱い
考古学者の転向って言葉があるんですよ。2677とか見てると、誤解してるんだろうなと思うんですが、基本的に考古学者というのは、文系の人です。考古学研究室というのは、文学部史学科あたりにあるのが普通です。ご自分でC14年代を測れる技術も施設も持ってないのが普通で、理科系の研究機関に外注するわけです。
で、それまで積み上げてきた編年とまるで異なる数値が返ってくる。このC14年代測定法の結果に一番抵抗を示したのは考古学者なんですよ。自分たちの牙城である編年を信じるか、それとも科学技術による客観測定を採るか、というところで、科学技術による手続き的妥当性を認めて、編年の修正を考えるようになることを「転向」した、などと表現されてたんですよ。信念を曲げたみたいな言われようですけどね。
九州、出雲、吉備、畿内の遺物をC14でそれぞれ鑑定すればよかろう
ススの炭素を鑑定→100年遡れる結果が1つだけ出た
他の地域と合わなくなる→他の地域も遡らせた→墳丘墓を古墳と言い張る
文献と合わなくなる→正史はいじれない→中国人を嘘つきにし、記紀を捏造扱い
結果:天皇家の先祖は卑弥呼
>2680
邪馬台国の怪のHPにある安本氏のトンデモ説はとっくに論破されてる
分布図だけを見て九州の方が広く分布してるから九州発祥だとか考え方が薄っぺらすぎる
量を考慮してない
畿内では庄内式土器が出土の大半で地元の土器を意味するが、
九州では在地の土器に混じってほんの数パーセントが庄内式土器であくまで外来土器という意味になる
例外は博多で3世紀の初めは少なかったが時代を下るに連れて増えてきて3世紀後半には過半数に達する
さらに首長層の祭祀も庄内式土器に替わり前方後円墳ができてくる
完全に畿内勢に支配されたと言える
>2681
トンデモはいらない
卑弥呼の死後、ヤマト王権に征服されたのが土器と古墳から分かる
卑弥呼の死後の3世紀後半から終わりに一気に拡がった事を考えると卑弥呼はかなり統率力があったんだろう
※2685
その論理でいくと畿内の副葬品は完全に鏡、剣、勾玉と九州式になったから九州に支配されたともいえるのではないのか?
本当ののころは文化の移動から北部九州が大和に合併したのは決定的
仮に九州が支配を受けただけなら、九州の埋葬文化や副葬品を大和の首長層が取り入れるはずがない
ここのところに合理的な反論はできるのか?
また大和の庄内式土器はほとんど移動せず、河内の庄内式土器だけが移動しているようだがこれなら大和と河内は別勢力ではないのか?
また、河内と纏向の関係の薄さはどう捉えるのか
前方後円墳の前身である帆立貝型を含めれば、前方後円墳の早い順は宮崎、奈良、北部九州
まさに記紀の順番で出来上がっている
前方後円墳文化を持つ日向の王が三世紀半ばに纒向に向かい河内を併合し、三世紀後半に日本海側と濃尾平野と淡路島を糾合し、鉄と兵力と庄内式土器を得て吉備をはじめとした瀬戸内海を征服し、四世紀に卑弥呼の崩御後の混乱した九州の北側を攻撃したことが古墳と土器の分布とその移り変わりからよく分かる
九州の北側の土器と前方後円墳の分布は抵抗した順、即ち滅ぼされたもしくは恭順した順と見れば、あの変な分布も首肯ける
その後九州の大半を収めたことで鉄と銅鏡と絹と石棺用の石が畿内をはじめ日本全国に行き渡る
天皇家の祖を邪馬台国の卑弥呼とし親魏倭王を今上天皇に置き換えることで一路一帯に取り込もうとする遠大な計画はここらで警戒しないといけない
纒向遺跡が天下を取るのは庄内式の次の布留式から
石野先生の講演により、土器編年を用いて、「卑弥呼の宮殿の方が、箸墓古墳よりやや早い」と言ったような、時代の比較は可能である。土器編年により相対年代は分かる。
2682
岸●先生、遅くまでお疲れ様です
次の論文待ってます
庄内式土器は北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての限られた地域にしか分布しないのが特長である。そのため、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。
寺沢編年のみ庄内0式を庄内1式の前に設け、200年前後としている
庄内式土器は研究者によって分け方も編年も様々
この寺澤氏ぐらいかな?周りより常に早くしてってるのは
他の人は大体同じくらいかな?
庄内3式の後、近畿では、布留式と呼ばれる土器が作られ始めた。 布留式には、山陰や北陸の土器の影響がうかがえるという意見もある。 布留式は、布留0式、布留1式、布留2式と分類されるが、 箸墓古墳の周濠の底からからは、布留0式の土器が出土している。 また、この布留0式の土器は、日本の広い範囲でも出土している。
>2687
>ここのところに合理的な反論はできるのか?
簡単に説明できる
弥生時代を通して文化の伝搬は西から東が大原則
副葬文化もその文化の伝搬のひとつに過ぎない
副葬文化だけをやたら強調してるが、畿内における葬制の変化のひとつの要素でしかない
庄内式土器の移動や前方後円墳は東から西に向かっているから権力の存在なしでは説明がつかない
大和と河内の関係は弥生時代中期からとっくにあり、近畿第Ⅴ様式土器は大和・河内から近畿一帯に広まった
それに纒向の外来土器の10%は河内な
大和と河内が関係ないとかデタラメもいいところ
>2688
前方後円墳のルーツは突出部付き円形周溝墓と吉備の楯築から3世紀初頭に纒向型前方後円墳ができた
宮崎の纒向型前方後円墳は3世紀中頃であり、宮崎がヤマトの傘下に入ったのが従来の説より早いというだけの話
西都原古墳群は、3世紀末から7世紀にかけて築造され、その数は、陵墓参考地の男狭穂塚・女狭穂塚を加えた319基である(内訳は、前方後円墳31基、方墳2基、円墳286基)。古墳の分布と築造年代等により10~13の小群に分けられる。また、古墳群には、墳丘をもつ古墳に加えて、南九州に特有の地下式横穴墓や全国に広く分布する横穴墓が混在する。
※2696
そもそも副葬品文化とは祭祀や文化と密接に繋がる
それを被征服民の文化をそのまま流用するのがただの文化の伝播でまかり通るのか?
天皇が百済を服属させたから埋葬文化を百済式に変えたと言うようなもの
そもそもではなぜ銅鐸を捨てることになったのか?
文化が流れてくるにしても自らの祭祀である銅鐸を捨てる必要はないはずだ
また日本書記に銅鐸の記述がないことから、天皇は銅鐸祭祀をした民族の出ではない
河内と関係が薄いと言うのを勝手にないに捏造するのはよくない
地元の河内の土器が10%しか出ないというのが不自然なのだ
もっと密接に関わってるなら東海並に出てもいいのではないか?
後円部に長さ8.1mの粘土槨が検出され、三角縁神獣鏡1面、翡翠製勾玉2点、碧玉製管玉40点余り、ガラス製小玉多数、鉄剣、刀子、棺材と思われる木片等が出土している。
前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に作られたと思われる南九州地方に多く見られる「柄鏡形類型」と呼ばれる前方後円墳の存在や、地域を統括する首長の墳墓とされる前方後円墳がほぼ同時期に形成されていることなどが西都原古墳群の大きな特徴。
発掘調査の結果、第1古墳群は3世紀の末から4世紀にかけて1号墳→72号墳→13号墳→35号墳→46号墳の順で前方後円墳が作られた。
発掘調査の結果、第2古墳群は3世紀半ばから4世紀にかけて81号墳→91号墳→100号墳→92号墳→95号墳→90号墳→99号墳→83号墳→109号墳の順で前方後円墳が作られた。
女狭穂塚は九州では珍しいくびれ部に造出(つくりだし)を持つ九州最大の畿内式前方後円墳、男狭穂塚は全国最大の帆立貝形前方後円墳。 明治28年、宮内庁により御陵墓参考地に指定された。
また、周辺には169号墳、170号墳、171号墳(西都原古墳唯一の方墳)の3基の陪塚が配置されている。
生目古墳群は50基の古墳で構成されており、公園内には、前方後円墳8基、円墳25基がありる。その中の1号墳、3号墳、22号墳は全長が100mを超える規模を誇り、生目古墳群は古墳時代前期において、九州最大の古墳群であったと言える。当時、この生目古墳群に埋葬された人物は、かなり大きな力を持った人物であったと考えられる。また、南九州独特のお墓の形である地下式横穴墓も多く発見されている。その中で注目されるのは、地下式横穴墓が前方後円墳の下から見つかったこと
西都原古墳群は勿論前方後円墳や方墳など、日本で知られている古墳の形式としては、山陰の四隅突出型古墳を除き、全てある。現在までに判明している古墳の数は、前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓11基、横穴墓12基となっている。
西都原古墳群の中で最大のものは、天孫「ニニギの尊」の御陵といわれている全長219mの巨大な前方後円墳(学会では帆立貝形古墳もしくは円墳とする説が有力)である男狭穂塚(おさほづか)と「ニニギの尊」のお妃である木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)の墓と言われる、同じく前方後円墳、女狭穂塚(めさほづか:全長174m)である。現在この二つの古墳は「陵墓参考地」に指定され、宮内庁の管轄下に置かれており一般人が立ち入ることはできない、うっそうとした森である。女狭穂塚の前方部が、男狭穂塚の前方部に食い込んだような形で築造されている。
もはや古墳のバーゲンセール
この一連の古墳群が3世紀後半から造成されてたんだから恐ろしい
山陰はやはり出雲として独立していたんだろうか?
ぜひ古代の浪漫を感じてほしい
宮崎県西都市の国特別史跡「西都原古墳群」にある81号墳が、3世紀中ごろに築造されたと見られる国内最古級の前方後円墳の可能性が高いことが宮崎大の調査で確認された。
柳沢教授によると、81号墳の後円墳から3世紀中ごろのものと見られるつぼなど計4点の土器が発見され、墳丘の形も前方後円墳出現期に特徴的な前方部が丸みを帯びた「纒向型」で、3世紀中ごろの築造の可能性が高まったという。81号墳は西都原台地東端にあり、墳長は46メートル。後円部の高さは3メートル。
纏向遺跡で発掘された土器のうち15%が外来土器、その「外来土器」の中の割合
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
つまり全体で1,000個出土したとしたらそのうちの150個が纏向遺跡以外の土器
その150個のうち74個が伊勢・東海系でその150個のうち15個が河内系
要するに全体で1,000個だとしたらそのうち15個が河内系
その程度の繋がりです
ちなみに外来土器は全部で「123個」見つかったらしいですよ
西都原古墳群(さいとばる古墳群)は、宮崎県のほぼ中央、一ツ瀬川の中流域右岸に位置する。西都市街の西、通称「西都原」(さいとばる)と呼ばれている標高60mの洪積層台地を中心に東西2.6Km、南北4.2Km、(東京ドーム233個分)の広い範囲に分布している。
現在までの発掘調査より3世紀半ば(3世紀前半の可能性)から7世紀前半に築造されたと推定されている。
前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基、地下式横穴墓、横穴墓など、311基のさまざまな古墳で構成された全国有数の大古墳群。
西都原81号古墳:後円部の長さ約33m、前方部が約19m前方部が短くばちの形に開いた纒向型前方後円墳、宮崎大学の調査で2005年5月18日までに、国内最古級と確認された。築造は3世紀中~後半とみられる。後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。
レーダーを使い地中に埋もれている部分の形状などを調べている宮崎県教育委員は2006年5月31日、2005年度調査のまとめとして両古墳の墳丘の長さがこれまでの公表値より長いと発表した。
*男狭穂塚は1997年の墳丘測量値より前方部が約20m長く、約175m 女狭穂塚が約4m長い180mと特定。
どちらの古墳を先に造ったかはわかっていない。
男狭穂塚古墳は二重の周掘を有する*墳長約160m、円形部直径132m、後円部の高さ18mの、列島最大の帆立貝式古墳。近畿地方などで見つかっている首長級の前方後円墳を上る大きさで造られている。
>2705 他
男狭穂塚、女狭穂塚は、確かに大きいですが、畿内でも最大級の誉田山、大仙陵、上石津ミサンザイ古墳が作られていた時期で、畿内を凌駕する規模ではないです。古墳時代中期は、畿内以外でも吉備の作山古墳、造山古墳など巨大古墳が作られた時期です。
記紀に日向の諸県君牛諸井の娘、髪長姫が仁徳の皇妃に入ったことが書かれている時期でもあり、髪長姫の実家筋の古墳と考えられています。
>2684
>ススの炭素を鑑定→100年遡れる結果が1つだけ出た
C14年代測定法は、近年は質量分析機を用いたAMS法が使われており、極微量で測定値が得られるため、一つの試料で多点計測して、統計処理をすることで推定精度を高めています。九州派にとっての主敵である岸本論文では、そうして得た個別の土器の値を各時期の土器形式ごとに複数集めて、C14年代の校正曲線の西暦270年の局所ピーク(論文ではボトムと表現)が布留1式の時期で、布留0式の時期ではない、としています。1点だけだったら、誰も転向しませんよ。
九州派の人の書き込みで気になるのは、科学の軽視です。ネットにつながっている環境なら10分も調べれば分かることでも、自分の気に入らないことは確認もせず妄想を垂れ流す。それでは議論になりません。
誰も否定しなかったらそれが真実になると思っているのでしょうか?
なるほど、つまりは弥生時代のまきむくと魏の繋がりが証明されたということか?
違うよな、これを証明できない限り何を言おうが魏と何の関係もない地域である
三角縁ガーと言いそうだが、なら三角縁が魏産であるという科学的証明と邪馬台国の時代に使われていたという証明をして欲しいものだ
>2698
副葬文化を過大評価しすぎているだけと回答済み
畿内の墓自体の形態や祭祀に九州の影響はほとんどない
銅鐸は年代が違いすぎて問題外
纏向から河内の土器の出土が少ない(基準があいまいだが)というだけで河内との関係が薄いというのは暴論
大和川の上流と下流でずっと同一文化圏にある
そもそも纏向は政治・祭祀施設の要素が濃いがそこに同一文化圏からわざわざ来る必要があるのか?
まあ、それ以前の問題として、邪馬台国=ヤマト王権ということを忘れているのではないか?
ヤマト王権に河内はほとんど関わってないはずと難癖つけているのと同じ
行程パズル厨がいなくなって結構まともな議論ができてるな
※2709
何の根拠もなく副葬文化を過大評価してると言うのなら
そちらが副葬文化を過小評価してるとも言えるのではないか
破砕銅鐸は庄内式土器と一緒に出土するがこれでも年代が違うというのか?
河内は弥生時代を通して四国や九州との交流があり、奈良は東国との交流が多かった
河内と北部九州と交流があったからといって、マキムクと大陸の交流の跡が見つからない限り邪馬台国=マキムクの根拠は乏しい
>2711
ところであんたは纏向と北部九州の繋がりがあると言いたいのか、ないと言いたいのか、はっきりしてくれ
土器からはないと言い、副葬文化からはあると言う
訳ワカメ
纏向と大陸の交流痕跡は上の方のレスに何度も出てきてるだろが
魏の年号は交流がなければ知りえないこと
ホケノの出土品
朝鮮半島では出土しないベニバナやバジル
真円で古墳を作る土木技術
中国式の複数の建物を平行に建てる文化
四角い柱
「円形部直径132m」
へ〜、該当するものあるんだ
逆に言えば景初四年以外魏との繋がりなさすぎ
2712
鐙と木製仮面がない
やり直し
銅鐸の巨大化→突然の破棄から→墳墓の巨大化、地域共同体で楽しむものから、よそへ見せつける物に変わった。
墓は文化を足し合わせたようなのが作られるようになるし、土器も同じのが一気に広まる。
その広まりは奈良からで、奈良の母体が西の宮崎や岡山から。
北九州河内勢力は、少し後から飲み込まれて参画した感じなのかな。
この他に、ある程度の関係を維持しつつ、後から参画させられた出雲や、最初から奈良勢力の支持母体となっていた、愛知勢力と扱いからして多分三重も一緒かな?
南東北まで一気に加わり、後残るは熊襲蝦夷などって教科書範囲に繋がっていく。
極薄銅鐸など高い金属技術を持つ佐賀や、朝鮮半島から鉄をとってこれる福岡が、大陸権威も背景に倭国として力を持った。
それに対抗するように、石器を進化させ、国産の朱や巨大な墓で大陸権威に対抗しようとした勢力が、保守派閥を纏めて大和合衆国誕生。
銅鐸破棄は、大陸権威に頭下げて恵んで貰う文化に嫌気がさし、国産権威に乗り替えたから。
有力国から嫁を繰り返し迎え、血の結びつきを強めて権威を高めていく。
が、仲間だと思って迎え入れた渡来朝鮮系に専横されるって落ちまで、実に日本人らしいと思いました丸
※2714
良いんじゃないの?
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国とぴったり一致する
国力がついてきたタイミングで大陸に献上品をもってくの
やめねえか、みたいな空気ができたんじゃね
※2712
邪馬台国の時代からは交流が見られない
それ以降は交流の跡が見られる
大陸の遺物がバンバンでる九州と比べて、魏の年号を知ってるだけ(倭人から知った可能性もある)で交流と言えるの か?
※2719
邪馬台国から見たら伊都国は陪臣だから、そんなもんで丁度いいんだよ
魏から見れば邪馬台国は遠くて里数もよくわからんとこなんだから、これまたそんなもんで丁度いい
邪馬台国は畿内だな
テンプレ6
九州説「畿内は、魏や九州との繋がりがちょっとしかない!つまり九州」
畿内説「魏志倭人伝に、邪馬台国は魏や九州との繋がりはちょっとだけだと書いてるだろ」
九州説「ぐぬぬ」
>2719
箸墓以外は3世紀前半の物証だ
では、こっちからも要求する
伊都国と奴国以外の九州で3世紀の中国との交流を示すものを挙げてくれ
まだ、しつこく九州派が粘っているようだが、すでに論破されているように、九州に邪馬台国が存在した可能性は0に等しい。
※2720
女王国まで萬二千里と書いてあるやん
女王国が広域連合であるという点は誰もまだ証明できてないが
伊都国が女王に属すのか属さないのか誰も答えられない
※2721
そんなことどこにも書いてないんだよなあ
捏造君
畿内説の共立と倭国大乱の終了についてはマンパワーが最強だと理解しました
それでは九州説の人たちは共立と倭国大乱の終了についてはどのように解釈しているんでしょうか?
北九州+日向辺りの国が共立して邪馬台国なのか、北九州が吉備辺りまで打診してなのか?中平の刀は?
しかし狗奴国は強すぎるね。倭寇大乱後も含めて200年ぐらい争いを続けている
2717
偽の年号でっせ
九州は大陸に近いから中国と交流した痕跡はいくらでもあると思ってる無知な九州説多いな
たった2つ条件つけるだけで「0」になってしまう
伊都国・奴国以外と3世紀という2つの条件
ハンムラビ法典も略奪された先のスーサで見つかったから、邪馬台国を滅ぼしたヤマト王権が戦利品として副葬してもおかしくはないけどね
2千年後に今のユーロを発掘したらブリュッセルを首都とした巨大共和国とか言いそう
各地のサッカースタジアムをみて第三次世界大戦がなくとも統一された国と認定しそう
ロンドンとパリとベルリンを発掘して、栄えてただけ(キリッ)と言うはず
日向と大和は通称貝の道で繋がっていた
畿内説の弱いところは日向を無視しないと成り立たない
畿内説が日向に言及するのをみたことがない
記紀や古墳や出土品を元に考察してもいいはず
※2722
正直ホケノあたりの年代はかなり怪しい
いいとこ3世紀半ば~4世紀だろ
とりあえず鏡だけだけど物証だ
ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
他にも大陸産の朱も使われてたりするぞ
ベニバナやバジルの流入ルートはよくわからんが、魏志倭人伝に記述されている鏡はやっぱ重要だわな
※2730
邪馬台国がどこにあったかが、このスレの議題
宮崎が邪馬台国であれば狗奴国は鹿児島しかありえないが、それに該当する遺跡などはあるのか?
宮崎が狗奴国であれば、邪馬台国に該当する遺跡や卑弥呼の墓などはあるのか?
具体的に挙げてみろよ
※2727
3世紀はまだわからんでもないが(あるけど)、伊都国・奴国を外す意味がわからん
>2730
日向は、西都原古墳群の近くに妻という地名があるので、ここを投馬国に当てる説はちょくちょく見ます。ただ、西都原古墳群以外の遺跡があまりめぼしいものが出ていないので、編年もはっきりしていなかったと思います。
貝の道というのは、ゴホウラなどの貝釧の原料の道でしょうか?
>2733
いやいや2727の指摘は、結構クリティカルヒットだと思うよ。
伊都国と奴国は、魏志倭人伝では邪馬台国とは別に書いてある。つまり、この2国は邪馬台国ではない訳だ。
となると、九州説では伊都国と奴国以外で邪馬台国を探さないといけないことになるけど、それ以外には九州と交流したとはっきり言える遺跡も遺物も、ほぼない状態になってしまう。
>2735の文末
× 九州と交流した
○ 中国と交流した
失礼しました。
魏志倭人伝に描かれた邪馬台国の「望楼(物見櫓)」、「城柵」、「宮室」、「邸閣」などに相当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ近畿地方の遺跡からは発見されていない
これって本当?
>2687
その論理でいくと畿内の副葬品は完全に鏡、剣、勾玉と九州式になったから九州に支配されたともいえるのではないのか?
この、副葬品=前方後円墳祭祀の中心に、北部九州の習慣が採られているのは、記紀の神武の東遷の記事と繋がるものがあると思うのです。このあたりはどうやっても推測や憶測の域を出ませんが、卑弥呼の共立や大和中心の連合の理由に、神武の東遷にあたる北部九州の倭王の血筋の畿内への移住があり、その血筋をもって共立のバックボーンにしたのではないかと、考えるのです。
そう考えると、祭祀=先祖を祀ることにおいて、先祖・本家筋の習俗をもって統一するというのはありうることだと思います。
以前にも書きましたが、私は神武の東遷に当たる出来事を、邪馬台国の頃=崇神天皇から5世代程度前(100~125年程度前)と考えています。邪馬台国が九州から東遷したのではなく、東遷してきた血筋の末裔を御輿にして、大和(奈良盆地南部+河内湖南岸)を中心に邪馬台国となっていった、という考えです。
朝日新聞のタイトル
「卑弥呼の三角縁神獣鏡」
三世紀、中国の魏(ぎ)が邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に送ったとされる三角縁神獣鏡〜
大手マスコミがこのように記事にしているのだから1,000枚以上ある三角縁神獣鏡は魏から贈られた100枚の銅鏡で、それが一番多く出る畿内が最有力
4世紀以降の古墳で副葬されているが、朝日新聞が認めているくらいだから邪馬台国の証拠だろう
まさか大手新聞社が嘘はつくまい
平原1号墓の殉死は、こだわるのを止めたらしい。
でも短里にはまだこだわっている模様。
それから、北部九州と畿内にはつながりがないというのを一生懸命、強弁中。
※2739
倭は魏に4回ほど使いを送ったと記録にあるし三角縁は国産のコピー品も沢山作られたから
1000枚あっても不思議じゃない
持ち主の墓に入れるんだから四世紀以降の墓から出ても問題はないし
そもそも三世紀の古墳はほとんど発掘されていない
やっぱり大手新聞社は嘘はつかない
>2731
>とりあえず鏡だけだけど物証だ
>ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm
3世紀の鏡で伊都国と奴国以外から出土してるのはどれ?
鏡の場合、出土した墓の年代ではなく、製作年代(≒入手年代)が基準な
>他にも大陸産の朱も使われてたりするぞ
それは採れた場所をある程度特定できるのか?(中国か朝鮮半島かの区別で十分)
もちろん3世紀の墓で
昔は三角縁神獣鏡のそれぞれの微妙な違いは中国産と倭国産の違いと言われたが、各地から青銅器の鋳型が見つかり、国内の様々な場所で高度な技術があり、三角縁神獣鏡を作ることができたことが分かってきた
考古学と科学が互いに身近になった成果である
原材料の銅から西晋鏡を溶かして作られたものがあることが分かった
発掘地域毎に成分がまとまっており、畿内で作られ、全国に配られたのではなく、それぞれの地域で作られ副葬されたことが、成分分析から明らかとなった
三角縁神獣鏡だけ大量に発掘されたり足元や石棺の外など明らかに格下の扱いの理由もこれで判明した
北部九州と畿内は四世紀から強い繋がりがある
まるで畿内の文化が北部九州になったかのようだ
※2724
>女王国まで萬二千里と書いてあるやん
テンプレ1
>伊都国が女王に属すのか属さないのか誰も答えられない
皆統屬女王國
>そんなことどこにも書いてないんだよなあ
目ついてんのかお前
>2743
デタラメ捏造は不可
>2744
しつこいぞ
※2743
そんな分析結果聞いたことがないけれど
よろしかったら論文かサイトを紹介して頂けませんかな?
もし西都原が邪馬台国だとしたら
倭国大乱後、奴国と伊都国を支配、伊都国を残し王を廃止、代官を置く、伊都国に北半分と外交を任す
熊本と鹿児島を合わせた狗奴国勢力と常に争う
東には四国と本州という別の倭人勢力あり
卑弥呼の死後、狗奴国との抗争激化
魏が調停、のち張政帰国
東遷開始、八咫烏の案内により大和制覇、纒向遺跡九州色に染まる
吉備制圧、出雲制覇あるいは合同
熊襲征伐、三韓征伐
前方後円墳と三角縁神獣鏡ブーム到来
倭の五王が列島と朝鮮半島を制覇し朝貢再開
この間実家の周りの日向からより多くの后を迎える
内弁慶な大王が多く畿内とは言葉と習慣が違いゆっくりできなかった模様、詩ばっかり詠んでる場合ではない
卑弥呼という強い女性に政を任す軟弱さこそが九州人の証
九州は亭主関白だからなw
女王なんかありえんわな
東遷も嘘だわ
2749
九州の知り合いいないっしょ…
>2748
>伊都国を残し王を廃止、代官を置く
伊都国以外にも、それぞれの王はいたと思います。時代が下った隋書ですが魏時譯通中國三十餘國皆自稱王と書いてありますし。いずれにしても後の豪族に当たる首長はいたと思います。
>この間実家の周りの日向からより多くの后を迎える
九州からの皇妃記事は、髪長姫の以外は記憶にないです。
西都原でも、男狭穂塚と女狭穂塚の前も後も、巨大古墳は作られておらず、髪長姫の入内に伴う一代限りの畿内からの助力で大古墳が作られたと考えた方が自然だと思います。
ブログの更新が一ヶ月あく間に、コメント欄でほぼ決着がついてしまったんですけどww
ブログ主さん、更新記事、書きにくいだろうなぁ。
九州説では2743のような書き込みが多数あるんだけど、どういう考えで書き込んでるのか理解できない。
たとえ根拠がでたらめで、真実とはまったくかけ離れたことでも、論争に勝ちさえすればいいという価値観なのだろうか?
日本人なら、たとえ自分の当初の立場と違っても、議論の結果、真実・真相が明らかになることの方が大事だと考えるものだと思うんだが。
纏向が大和に繋がるのはほぼ異論無いだろうけど、
他の意見批判するときは、断定できないからとか幅があるからと言う人間が、
科学調査で箸墓は西暦240~340年、卑弥呼の250年である(断定)とかやるから、信用されないわけで。
箸墓以外の5つの古墳は、卑弥呼と弟が長期政権やってる時に、目の前で別の墓作ってたんかいってなるし、とてもじゃないが、真相なんて言えるもんじゃないだろ。
旧石器捏造事件と同じやり方が、歴博で行われているって批判も出てるし、朝日が前面バックアップしてるし、こんどはどんな纏向捏造事件がアルカニダの餌、日本批判の材料になるか逆に興味深いくらいですわ。
学術レベルではもう決着済みだしな
九州説なんて所詮”俗説”に過ぎない
時の権力者の権威を高めるために隠ぺい、改竄した記述を遡っても答えを導き出す事は出来ない出口のない迷宮である
葛城の謎を解かない限り本質は見えてこない
管理人さんの次の記事に期待してます
※2753
おかしな事を書き込んでいる九州説派の奴らは福岡人
本人が知らないだけで半島のDNAが混入している可能性は高い
>2754
>箸墓以外の5つの古墳
ホケノ山は場所も違うからはっきりしないけど、他の4つは明らかに箸墓に先行してるでしょ。
そして墳丘長・墳丘の規模で他の地域の弥生墳丘墓を、この時点で凌駕している。
私自身は前から言っているように、箸墓が卑弥呼の墓であってもなくても、纒向(で祭祀を行った大和)が邪馬台国で動かないと思っている。箸墓が時期的に間に合わなかったとしてもその前から纒向は十分な威容に達している。まあ、C14年代測定法も年輪年代法も、年代的な齟齬はなさそうであることを示しているけれど。
>纏向が大和に繋がるのはほぼ異論無いだろうけど
これを認めた上で、纒向が邪馬台国じゃないと考えるなら、邪馬台国から大和朝廷までの「時間が足りない」ことをどう考えるんだろうか?
卑弥呼の死が248年でそのあと争乱があって、台与が共立されて、その後266年にも遣使があったと晋書にある。そのあと、何年で大和朝廷に倭国の中心が移動するのか教えてほしい。四世紀まで30年しかないぞ。
>2754
>卑弥呼と弟が長期政権やってる時に、目の前で別の墓作ってたんかい
大和自体、畿内各地の寄合い所帯ですし、それぞれのトップが交代(死没)したときに、墓を作るのは不思議はないと思いますよ。それが一体となって共立された卑弥呼を支えるために、共通の祭祀空間である纒向の一角に隣り合わせに墳丘墓を作るというのは、むしろ自然だと思います。
※2754
>他の意見批判するときは、断定できないからとか幅があるからと言う
具体的に何のこと言ってんの?
はっきり言って九州の遺跡ってかすりもしてないんじゃない?
>2758
纏向の成長に合わせて、後の日本勢力が結集し、30年で女王国に勝った。
東海~南関東に北陸も協力していて、南九州と瀬戸内も味方につけ、出雲は半島利権で対立する北九州には関わってこないし、後は大陸と繋がりの強い北九州さえ降伏し技術を明け渡せば、すぐに九州から南東北まで似通った墓や土器文化を広める事も可能だろう。
墓には各地の文化を取り入れたが、貴族中心に残った文化は入れ墨ではなくお歯黒。
倭が日本を侵したのではなく、日本が倭を領土に加えたということ。
>2761
倭国大乱が終わったあとまで倭国王を維持していたのに?
その後特に争いがあった様子もないのに?
それでいきなり大和朝廷ができる?
それは具体的にいつ頃だと思う?
それから、黒歯国は山海經に出てくる地の果ての伝説の秘境だから、話題に出すだけでも間抜けだしそれを根拠にすると何言ってんだって思われるよ。
九州説の立場からすると2743のような嘘っぱちな書き込みはどう思うの?
>2762
嘘っぱちな書き込みという自己紹介いただきましたー。
邪馬台国の唯一の根拠である魏志倭人伝に黒歯国書いてあるのに、それすら知らずに毎日こじつけ工作、朝昼お仕事ごくろーさん。
魏志倭人伝の邪馬台国は九州のことを書いていたのですね
遺跡や出土物、遺構など詳しくて面白かったです
>2763
魏志倭人伝原理主義は笑われるよって話。
丹木と犭付については、1416あたりを読んでみて。
2743のような書き込みをどう思うか?に答えられないのは、2763が同じ人だってことかな? 2763の答え方は2743が嘘っぱちだと認めてることになるんだけどね。
2764も合わせて、普通の感覚なら余計に九州説を書き込むことの信憑性を下げることだと分かりそうなものだけれど。
>2765
魏志倭人伝原理主義…
早く真・魏志倭人伝が見つかるといいですね
※2765
人格攻撃を始めたら敗北宣言
2758
希望的観測が根拠なんですね
分かります
邪馬台国の存在と、その時代の日本が朝貢してた証拠って、魏志倭人伝と北九州の大陸産遺物くらいだよね。
北九州の倭が朝貢してたっていうのは発掘からも可能性は高いと思うけど、それ以外については魏志倭人伝以外の証拠がない。
あちらの記録でも、邪馬壱国(女王国)と邪馬台国(倭の五王の時代だっけか)が同じかわからないって残ってるし、さらに後の時代では倭が日本になったのか、日本が倭を飲み込んだのかわからないとなってるし、日本や朝鮮の記録に邪馬台国なんて存在しない。
魏志倭人伝にしか存在しない邪馬台国なのに、平気でその記述を否定しつつ近畿が邪馬台国で決まりとかやるんだから、某捏造新聞等のマスコミのごり押しは、程度が低すぎるだろ。
>2769
>邪馬台国の存在と、その時代の日本が朝貢してた証拠って、魏志倭人伝と北九州の大陸産遺物くらいだよね。
証拠となる北九州の大陸産遺物とやらを具体的に書いてくれ
>北九州の倭が朝貢してたっていうのは発掘からも可能性は高い
どこを発掘してどういう根拠なのか具体的に書いてくれ
>魏志倭人伝にしか存在しない邪馬台国なのに、平気でその記述を否定しつつ近畿が邪馬台国で決まりとかやるんだから
どこをどう否定しているのか具体的に書いてくれ
昨日書いたこの質問に九州説は誰も答えられなかった
「伊都国と奴国以外の九州で3世紀の中国との交流を示すものを挙げてくれ」
邪馬台国が九州にあったのならその九州邪馬台国とやらは3世紀に中国と通交があったはず
邪馬台国は九州だと言い張るのはいいけど、最低限その根拠となる物証くらい出そうぜ
河内云々って言ってるのがあるけど、大阪平野って弥生時代は海面下じゃないの?
古墳の年代もほぼ年単位で被葬者であるべき者の没年が分かってるんだから、「数十年の誤差」が出るような手法で「決定!」は変だと思う。結局「魏王朝と通交してた女王」って意味のことが書いてある墓碑と遺骨が出土しない限り屁理屈じゃん。
「学会では通説」とまで言うのなら教科書にも載せるべきだし。
考古学的知見は文字などの具体的なブツが出ない限り「情況証拠」しか示さない。
「魏志」の記述がなかったら議論にすらならないんだから、その記述の条件に反する地域は除外してくべきだろ。「文献上の存在」を考古学で証明するのは不可能に近い。
ヒッサリクの丘が「(イリアスの)トロイア」だってことも完璧な証明はされてないはず。
畿内派は黙々と考古学的な事実を積み重ね続ければいいんで、文献の解釈に踏み込む資格はない。
「文献それ自体の内的論理」に忠実である限り九州説はあり得ても畿内説は成立しない(「文献そのものに誤記がある」って言い出したらその文献を分析する意味がないから)。
「女王国の東方に別の倭種がある」って件りを素直に取ればそれこそが畿内の地方政権だったと解釈可能だろ。
支那王朝への朝貢は「早い者勝ち」な部分もある(倭五王が誇大に支配地域を申告したのは承認される可能性があったから)んだから、出土品だけから結論を急ぐのはやめたらいいと思うんだがね。
※2764
九州のことを書いてたのは伊都国なw
テンプレ2
「龍野伝説」 大吉備津彦・・播磨を道の口として吉備の国を言向け和したまいし(考霊天皇紀)
吉備国(投馬)は帰化人の建てた国で 開発資金の融資などで周辺国を併呑し大国になった 岡山広島以上の領地があり 経済的にも大和をしのぐほどであった この時も那岐族(美作)との間で融資返済をめぐって武力衝突が起きた 事態を重く見た大和政権は出兵して鎮圧しようとしたが ヒミコは反対し自ら吉備へ向かった
播磨に着いたヒミコの霊眼に映ったのは野原を埋め尽くす龍の群れであった 出雲の国津神である この竜神たちを退散させなければ多くの犠牲者が出る ヒミコは二十一日間の断食祈願を行い 満願の日にすべての竜神を退散させた その後吉備と美作の紛争は収まり両国は和解した
この場所が現在の龍野市である
※2766
魏志倭人伝を原理主義的にそのまま読めば、邪馬台国は会稽の東だから沖縄。その東方の和種がいるのは海の底w南の狗奴国も海の底w
※2772
>大阪平野って弥生時代は海面下じゃないの?
河内湖南岸があるだろ
>古墳の年代もほぼ年単位で被葬者であるべき者の没年が分かってるんだから
そうなの?具体的にどれ?
※2772
>結局「魏王朝と通交してた女王」って意味のことが書いてある墓碑と遺骨が出土しない限り屁理屈じゃん。
つ ※2151
>「魏志」の記述がなかったら議論にすらならないんだから、その記述の条件に反する地域は除外してくべきだろ。
>「文献それ自体の内的論理」に忠実である限り九州説はあり得ても畿内説は成立しない
じゃあ九州説もアウトだねw会稽の東じゃないだろ九州は。
>2772
河内湖南岸の亀井遺跡って何度か書いているけど、大阪平野全域が水底ではなく、亀井遺跡から北くらいが当時の河内湖の範囲です。
>古墳の年代もほぼ年単位で被葬者であるべき者の没年が分かってるんだから
えーと、被葬者がはっきり分かっている古墳は、今城塚古墳の継体天皇と、天武持統合葬陵くらいですよ。そして被葬者であるべきものの没年と言っても、崇神天皇の没年は推定値があるだけでとても年単位でなど分かりません。
なので、古墳時代の開始は正確な年代は分からないのですよ。
まあ、ここで年単位で分かっているというのは卑弥呼のことが言いたいんだろうことは分かりますが。
箸墓の年代推定は、墳丘そのものは調査できないので周濠からの出土物に頼っている現状です。周濠の沈降物の底(掘り下げられた底面)から布留0式の土器が出ていて、C14年代測定法の結果から西暦270年のピークが布留1式の時期であることはほぼ動きません。
2761が「30年で女王国に勝った」と書いてくれていますが、266年の晋の武帝への遣使(おそらく台与)から270年まで4年しかありません。箸墓が古墳時代の始まりでそれが大和朝廷であることはここにいる九州説の人も認めていますが、結局箸墓・纒向は邪馬台国と同時代なんですよ。
箸墓の周濠の遺物というと九州派の人はアブミガーと一つ覚えのように書き込みしてくれますが、鐙は「周濠の沈降物の中層」から出ています。調べてもらえば簡単に確認できると思います。周濠の泥の沈降速度は判りませんが、鐙等の馬具類の古墳の副葬が増える古墳時代中期(4世紀~)まで百数十年であることを考えると、整合的であると言えます。
2638で「周溝から出土する古い土器などは、過去に放棄された土器の混入と考えられるため、遺跡の年代遡上には使えない。(逆に新しいものであれば、年代更新には使える)」などと書いている人がいますが、その古い土器はどこから来るのでしょう? 新しいものはその新しいものが使われていた時代にはいくらでもありますから、混入しうるのは分かりますが、150年前のものがわざわざ混入するというのはどういう特殊な状況を想定すれば可能になるのか、考えが及びません。
埋葬主体部の副葬品であれば、古いものは伝世品の可能性があるので、新しいものを編年の基準にするのですが、その辺の認識がごっちゃになっているのではないかと思います。
2727,2735,2771を九州説は無視しないでほしいな。
前に九州派の人が、九州説だと邪馬台国の候補はどこだ?と訊かれたのに対して、奴国が筑紫平野の方に拡大した国だと思う、って書いてくれてたけど、それって奴国そのものだよね。そして、魏志倭人伝に奴国と邪馬台国は別だと書いてある。
無理にその拡大した国と奴国を別だとしても、陸続きだし歩いて行けるよね? 水行20日+10日はどこに入るの?
魏志倭人伝の論理だと九州っていうのも、筋の通った論理で示されたこと、ないんだよね。九州派の人が言い張るだけで。
箸墓古墳の年代だけ3世後半にしても他の古墳や遺構との整合性取れんがな
箸墓古墳の周りの土器に付着したの炭素が3世後半なことと箸墓古墳の年代をごっちゃにしちゃいかんよ
畿内説が弱くなるから箸墓古墳の中を調査する前に断定するのやめんかね
>2772
>(「文献そのものに誤記がある」って言い出したらその文献を分析する意味がないから)
本当に人の言葉を読めない人だなぁ。
魏志倭人伝を分析したところ、信憑性には限界がある、っていってるのに、魏志倭人伝が間違っていると考えるのは許さんって、話をそらすのはもうホントいい加減にしてほしい。
>畿内派は黙々と考古学的な事実を積み重ね続ければいいんで、文献の解釈に踏み込む資格はない
資格があるかどうかは2772に決めてもらわなくていいので。
>「女王国の東方に別の倭種がある」
九州に上陸した時点で方位は90°回ってるんだから、それに合わせたら、北に千里海を渡ったところで、壱岐や対馬の距離感なら、隠岐か佐渡でちょうどって前にも書いたでしょ。
魏志倭人伝に書いてあるとおりに読むとむしろこうだよ。
昭和59年に寺沢氏が書いた論文で初めて纏向遺跡がヤマト王権の初代都にされた
>2780
箸墓の年代だけを遡上させるんじゃなくて、古墳時代全体が遡上するって言う話だよ。
土器・埴輪編年に合わせて推定されている各古墳の推定年代は、編年の定点が動くと全体がスライドするからね。
以前の編年に基づく推定年代を維持して議論すると、箸墓だけ浮くって言う話になる。箸墓が最初で、その後メスリ山 桜井茶臼山 西殿塚古墳 行灯山古墳の大王級古墳が相次いで作られていく(築造順にはまだ定説はない)のは動かないし特に問題は生じないよ。
>2778
1式270というのが出鱈目。
1式は340-380。0式より先に1式のピークが来るってどういうことよ。
出鱈目捏造を、何遍も繰り返して事実認定したいとか、朝昼お仕事ご苦労さん。
>周濠の泥の沈降速度は判りませんが
都合の悪いことはこうやって乗り切ろうとするから科学的に信用されんのよ
1式270年に拘る理由を推定。
捏造品を紛れ込ませたのに、発掘品が増えすぎてデータが浮いてしまった。
それゆえ科学に基づかないアサヒる強弁で、捏造を認めさせなければならない無様な状況に陥った。
データ見てても卑弥呼時代の1カ所だけおかしいのよ。突然古い炭素が消えてはっきり年代が見えたと思ったら、また本来のデータに戻る。
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm#1syou
ここの奈良布留0式矢印の真下辺りね。
1式270年、0式は240-270で卑弥呼時代に断定!って筋書きがよく見えます。
次はどんな纏向捏造事件を起こしてくれるのやら。
>2784
もちろん布留0式はそれより前になるよ、当然。
そして、布留式はもう大和王権の時代でいいんでしょ?
人を捏造呼ばわりしてないで一次資料を調べておいでよ。
都合の悪いことを言葉だけで否定してないでさ!
ほら、がんばって!
どんな否定の資料を見つけてきて紹介してくれるのか、ものすごく楽しみにしてるからね!
それと、伊都国と奴国以外で、北部九州と大陸の交流を示す、遺跡や遺物の紹介もよろしく!
伊都国と奴国は邪馬台国じゃないって、魏志倭人伝に書いてあるからね!
がんばれ! ホントに期待してるからね!
ここのコメントでも何度も指摘されてたけど、本当に1つの鑑定結果だけピンポイントに三世紀後半って強弁してるだけ
畿内説の学者は、新聞発表に持ち込めば成功と考えている人が多い。新聞発表では証明したことにならないので、証明は別に行なわねばならない。
旧石器捏造事件の時と同じように、研究費を配分する人と、研究費を使用する人たちが同じグループに入っている。
C14に関しては現時点では疑ったほうがいい。
研究者は配分者の説に沿うように成果を出さないと研究費がもらえなくなるので、ますます捏造が拡大しする。
箸墓古墳出土土器付着物C14鑑定に固執すると前後関係のために他の古墳なんかで捏造をやらかしかねない。
旧石器捏造事件から何も学んでないことになる。
九州説にとって考古学は敵だから旧石器捏造事件を持ち出して考古学全部を否定しようとしている
刑事裁判で検察が1度証拠の捏造をやったからといって、今後の裁判に証拠は一切使わず自白と証人の証言だけにしろと要求してるようなもの
遺跡数においても、鏡の数においても、「庄内期~布留1式期」までは、分布の中心は北九州にある。
布留1式期~布留2式期になると逆転し、鏡は畿内を中心に分布するようになる。
ただし、この場合、畿内を中心に分布するとといっても、奈良県が中心ではない。奈良県の周辺の、京都府、兵庫県などに、分布の重みがかかっている。
福岡県では、庄内期から布留2式期までのすべての時代で鏡が出土しているのに、奈良県では、庄内期のホケノ山古墳で出土して以降、布留1~2式の桜井茶臼山古墳までとんでしまい、連続的に分布していない。
庄内式土器と中国の鏡の組み合わせから編年作るってすごい考古学的
九州と違って奈良は庄内式土器と一緒にあんま鏡が出ないから編年作れへん
だから布留式を卑弥呼時代にしたいんちゃう?
科学の力、炭素で布留式を100年遡らせるのが目的やん?
その結果庄内式の使用期間短くなったから、さらに150年遡って纒向王国が2世紀から天下取ったっちゅう主張やろ
そんで河内や吉備との整合性のため墳丘墓が古墳で形がどうのこうのって
箸墓古墳と布留式が4世紀なら土器と鏡の編年含め何の齟齬も起きんがな
2791
逆〜〜!
捏造事件の弁護人側の証言が捏造だったから今度から弁護人推薦の証言者は身元確認の上、複数人になってさらに裏も取るようになっただけ
お前らまだやってんのか
そんなに論破したかったら邪馬台国があるとアジ演説してるところを
掘ってこい
纒向遺跡は箸墓古墳の中を開ける以外に卑弥呼の時代の場所がないのがいかん
周りを掘ってももう出てこないがな
河内と天理を掘ろうや
※2777
「じゃあ九州説もアウトだねw会稽の東じゃないだろ九州は。」
真東以外は東じゃないと仰るんですね。
個人的には北北東から南南東まで「東」と言い得ると思うんだが、感覚の違いかね。
※2779
「水行20日+10日はどこに入るの?」
オレは帯方郡から女王国までの距離が編集段階で紛れ込んだんだと解釈してるけど。
※2781
「九州に上陸した時点で方位は90°回ってるんだから」
それって既に恣意的な解釈だよね。
方位が90°ずれてるってのはそうでないと畿内に辿り着かないからで、そういうのが文献解釈の限度を超えてるって言ってるんだよ。方位が間違ってるってのを畿内説を前提としないで根拠を示してくれ。
そういう意味で「考古学的な研究にだけ邁進してくれ」って言うんだよ。本当に女王国が畿内にあったのなら将来自ずと判明するだろ。現状程度の研究レヴェルで白黒つけるのは無理っぽいし、だからこそ文献上無理の少ない九州説で一応収めておこうって主張してるの。
「魏志」が倭や女王国に触れてなかったらそもそもこの論争も起こらなかったのは認めるだろ。だから文献の方を重視すべきだと考えてるんだ。考古学的な証拠だけで論じるなら「九州説」なんか成立しないことくらい分かるよ。基本唯一の文献にしか出て来ない「クニグニの連合」だからこそ何故ああいう記述になったのか考えたら現時点では九州説押さざるを得ないんだよ。「畿内説の明確な根拠or九州説の明確な否定要素」が出たら当然間違いを認めるさ。
※2787
「伊都国と奴国は邪馬台国じゃないって、魏志倭人伝に書いてあるからね!」
そんな記述ないよ。
もっと曖昧な記述になってる。
「倭」を読み下して「ヤマト」と倭人自身が言ってたなら魏使がそれを更に音訳して「邪馬臺」と表記した可能性がある(同様の例が「明史」の本能寺の変関係の記事にある)し、そこ(倭)に女王が君臨してるなら伊都国も奴国もその一部と読めるだろ。
どこにあった説でも「何故(記紀で)『大倭』を『やまと』と読むのか」って疑問には一応留意すべきだと思うんだが。普通はそう読むことってないだろ。オレの見解は上の通り。
>2798
>真東以外は東じゃないと仰るんですね。
>個人的には北北東から南南東まで「東」と言い得ると思うんだが、感覚の違いかね。
魏志倭人伝にはこう書いてあるんですよ
計其道里「當」在會稽東治之東
この「當」の字、「まさに」って読むんですよ。
これがなければあなたの言い分もまあ分からないでもないですが、ちゃんと読めば通らないですよね。前から思うんですが思い込みじゃなく、原文に当たってから書き込んだ方がいいですよ?
唐津から糸島に向けての方角は「現実には北東」ですよね。魏志倭人伝には「東南陸行五百里」と書いてありますが。それともまた伊都国を10キロ動かしますか?
恣意的に読んでいるのは九州派というか、あなたですよ。
>2798
>※2779
>「水行20日+10日はどこに入るの?」
>オレは帯方郡から女王国までの距離が編集段階で紛れ込んだんだと解釈してるけど。
散々畿内説に都合のよい読み替えはするなと言いつつ、これは読み替えではないんですか?
魏志倭人伝はその通りに解釈しないといけないというのがあなたの立場ですよね?
それに、投馬国までで水行「20日」が入るのに「帯方郡から女王国までの距離」で水行「10日」陸行1月が紛れ込むってどういう解釈なのかさっぱり分かりません。
途中から放射読みだと言い張るなら、散々言っていた「途中の国が書いてないからおかしい」は当らない訳ですよね? なんにせよ、その場その場で思いつきで言い逃れをするのはみっともないですよ。
で、会稽東治ってどこなん?
相当範囲広いんですけど、東冶から東は琉球(台湾)が視野に入るんですけど、どこが當なの?
夏后少康之子封於「會稽」 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在「會稽」東治之東
倭人風・俗を持っていた伝説の王が、会稽に封じられた=治世を任された。
その倭人風・俗が、後に飾りとなっていったものだろう。
だ か ら 東にある琉球(台湾)と混同って結論なんだろ。
ちゃんと混同した理由まで説明してくれてるし、倭人が半島関係ナッシングで江南からやってきたこと、呉と繋がりがあっても不思議は無いというかあるはずだ(風習同じ)から、離間工作に意味があるって書いてるんじゃろ。
>2798
>そんな記述ないよ。
>もっと曖昧な記述になってる。
伊都国と奴国から、さらに進んで邪馬台国、女王の都するところに着くって書いてありますよね?
伊都国や奴国の中に、邪馬台国があるなんて書いてないですよね?
直接には記述してないって言っても、ここは解釈のブレでどうこうなるものじゃないですよ。
あなたの無理やりな強弁では、倭国=邪馬臺なら、ってことですが、邪馬台国は女王の都するところであって倭国の中の地名です。倭国=邪馬台国は無理ですよ。
伊都国と奴国以外で、3世紀で大陸との交流を示す遺跡なり遺物なりを紹介していただけると大変に助かります。
会稽の儀式風習が、九州では飾りの風・俗に変化してたって書いた方がいいかな。
※2797
>それって既に恣意的な解釈だよね。
>方位が90°ずれてるってのはそうでないと畿内に辿り着かないからで、そういうのが文献解釈の限度を超えてるって言ってるんだよ。方位が間違ってるってのを畿内説を前提としないで根拠を示してくれ。
違うよ。伊都国までは畿内説も九州説も一致してるでしょ。
その伊都国に行くまでに、すでに東南ではなく北東に行ってるわけで90度ずれてる。畿内説前提ではない。
そこの方位のズレはスルーするくせに、畿内説の方位のズレはダメとかいう九州説って頭おかしいw
>北北東から南南東まで「東」と言い得る
もう180度近く方位がズレてるわけだけど、畿内説の90度のズレにはやたら厳しいのも頭おかしいw
>2800
>東冶から東は琉球(台湾)が視野に入るんですけど、
九州からはさらに遠ざかるだけだろ
>2803
どこでもいいし存在しないほうがむしろ好都合だけど歴史は大切にしなきゃ説、に拠ると、畿内説はおかしいと思います。
>2800
>だ か ら 東にある琉球(台湾)と混同って結論なんだろ
それは畿内派が魏志倭人伝を分析して言っていたことですよね? このコメント欄で。
でも九州派の人は、南方風の風習は九州ならありえても畿内ではありえないから違うって言ってましたよね? このコメント欄で。
下手に分析することなく、魏志倭人伝に書いてある通りの場所を探さないといけないんじゃなかったでしたっけ? 魏志倭人伝にしか書いてない国なんですから、邪馬台国は。
とにかく、九州は魏志倭人伝に書いてある通りの場所からは離れてるってことでいいですね?
それから、
>ちゃんと混同した理由まで説明してくれてる
「混同した理由」じゃないですよ。魏志倭人伝を書いた「当時の大陸の観念」そのものです。後漢の頃から、大陸の人にとって、倭国のあり様というのはこのように把握されてたということです。山海經に出てくるこの世の果ての東王父がいる蓬莱の島の隣にあるような、半ば人外境扱いです。黒歯国を鉄漿って言うのはいい加減に止めたほうがいいですよ。
そういう大陸側の色眼鏡を意識して読まないと、「魏志倭人伝に書いてある通りの場所を探さないといけない」という寝言を言う羽目になるんですよ。
>2806
じゃあ探さなくていいよね。
天皇が朝貢していたことにこじつけないと本国から怒られる、って朝昼方々に付き合う必要もございませんので。
魏志倭人伝に書いてないなら、邪馬台国は存在しません。
後の時代のはそれを元にした写しなんだから。
隋からは普通に国交持ってますので、その歴史で十分ですね。
※2805
日本語でOK
※2807、2808
じゃあお前らはそう思ってれば良いから出て行け
ここはあるとしたらどこかを探る場所
あるとしたら、じゃなくて、
マスコミ歴博の捏造事件繋がりで、畿内にこじつけたい。本国からの指令なので。
こうだろ?
女王国の東の海を渡った千里のところにある倭種の国について私見
これは都市伝説レベルの記述と考えてる
この記述と同じブロックにある身長3~4尺の小人の国とか船で1年かかる国とかどう考えても非現実的
黒歯国は山海経にもあって地の果てにある国という意味
倭種の国は魏使が実際に確認したというより信憑性のない倭人の言い伝えを記録しただけと考えてる
あえて場所を示せば伊豆諸島
倭種という表現から国名も詳細もわからないし交流もほとんどない地域
千里だから400kmだけど三重県から200kmならまあ誤差程度
畿内説は朝日新聞を信じるかどうかのその一点だけで事足りる
>2812
千里が400kmなら邪馬台国なんて存在しない。ゆえに畿内ではない。出鱈目を何度並べても無駄。
一応説明も載せておく。
信憑性のない倭種の国をわざわざ書く理由が無い。直接行った張政などの報告から、女王勢力圏以外も追記する必要が出たという事。
身長3~4尺の小人は、日本の伝説にも存在し、さらには種子島から人骨が発見され「実在が証明された」。
隋書だったかの倭(九州)の島は、(倭人距離で)東西3ヶ月南北5ヶ月記述から(一つの島であるから本州や四国とは別であり九州が倭の範囲)、倭人距離で水行1年の黒歯国は女王国の範囲を数倍飛び出し、ちょうど近畿地方程度の距離になる。
おまけにお歯黒という「実在が証明された」風習がある。
種子島は邪馬壱国から南四千里ということ、邪馬壱国から北に千五百里程度で福岡であること、ここまでは証明済みとなった。
さてどこだろう。
奴国から御笠川を南へ水行し、支流登って筑紫税務署辺りまでいくと、宝満川支流まで100m程度。
宇美(不弥)から御笠へ入る経路でも、御笠川を南へ水行でき、同様に宝満川支流まで100m程度。
宝満(投馬)には筑前5万戸、宝満川筑後川を南へ水行、後は陸行で南の八女でも西の佐賀でも好きに歩けば、筑後7万戸、佐賀からは弥生の先進文化も出る。
邪馬台国なんてどこでも良いし、日本に必要ないから無くても良いけど、魏志倭人伝一応読んであげるとこんな感じだね。
>御笠川を南へ水行
するなとは言わないけど、陸地を歩けるときに内陸航路でもない細こい川を水行すると言い張るのも大変だなぁと思いました。川幅どれくらいあるの?
※2814
隋の時代は推古天皇や小野妹子の時代で、完全に畿内が都。
九州だけのことを書くわけもないし、1つの島なんてどこにも書いてない。
>東西3ヶ月南北5ヶ月
↑ウソ。
南北3ヶ月東西5ヶ月。
水行陸行2ヶ月では絶対に九州に収まらないことが確定したな。
※2811
お前らは
半島南岸が倭国の一部だって書いてある魏志倭人伝をなかったことにしたい。
こうだろ?w
>2814
>信憑性のない倭種の国をわざわざ書く理由が無い
そこが、中華思想が分かってないところなんですよ。
山海經は、三皇五帝からの歴史書であり世界の始まりの頃からの世界の端までを描いた書という扱いなんですよ。本来のもともとは。だから、後の史書にもそのコピペ的なものが出てくるし、倭国から「丹木」とか「犭付」とかいった現実にはない山海經の産物が、倭国からの朝貢品として魏志倭人伝に書かれている。
倭国が遠ければ遠いほど、そんな遠地から魏に遣使してきたというのが、魏の威光として描かれる。そういう思想です。だから、信憑性がなくても山海經の事物や国に寄せた記述がある。鉄漿があるから黒歯国とか、種子島で小さい人骨が出たから侏儒國は実在するとか、書かれるのを見るたび正直めまいがします。
黒歯国は、船で1年かかるほど遠くなんだから倭国じゃないですよね? それが倭国の鉄漿の風習と関係があるっていうのはおかしいと思いませんか? 時代も合わないし。
その種子島の「実在が証明された」侏儒たちはどうなったんですか? 国を作るほどの人口があったんですよね? それが1体の人骨だけを残して、他はきれいに骨も残さずに消えたんですか?
本気で侏儒國が実在したと信じているのですか? 本気で?
種子島で発見された人骨は確か身長140cm程度
当時の弥生系渡来人よりかなり低い身長
縄文人と比べても低身長
だからといって3〜4尺の身長とするのは無理がある
縄文時代にすでに神津島の黒曜石が本州から出てる
一応交流はあったようだ
定期的に交流していたかどうかは不明
>2819
自己レス、ちょっと自己嫌悪
後半部分、調べずに書いてた。「それが1体の人骨だけを残して、他はきれいに骨も残さずに消えたんですか?」これは間違いだね。嘘・捏造と言われてもしょうがない。
調べたら、種子島弥生人骨っていうのは「後頭部が異様な程に扁平で短頭性が強く、顔面は著しく低顔、小顔傾向をみせ、鼻根部周辺は縄文人に似てかなり立体的である。身長は男性でも154cm(女性:142.8cm)」という特徴を持つそうな。
男性で154センチというのと、女性の142.8センチではまたイメージが違うけれど。
魏晋里に対応する尺は、1尺=23.1cmだから、人長三四尺(69.3~92.4センチ)よりはだいぶ大きいね。女性でも1.5倍くらいはある。
大航海時代の後だってアメリカ大陸の中西部にはビッグフットが住んでるって新聞記事が載るんだから、人の想像力と信じる心はいつの時代も一緒さ
お歯黒の習俗は佐渡やアイヌでもあったみたいだし、平安貴族の時とは時代も違うから近畿だとは言い切れないと思うけどな。(そもそも黒い歯を意味するのかもわからないし)
魏志倭人伝の距離は当てならないといいながら小人の身長とお墓の直径は頑なに信じる方々が素敵です
さぞや楽しい人生をお過ごしでしょう
お歯黒は鉄が身近になる前後で染め方が違う
もし原始的な染め方ならそのための木の実が大量に畿内で発掘される
まだ発掘されてないから、畿内では鉄が一般的になった4世紀から5世紀以降の習慣とみられている
卑弥呼が天皇家の先祖で台与がその娘なら女性宮家も創設できる
中国に認められてはじめて倭王が名乗れるなら天皇か総理大臣が中国に行かなければならない
朝日新聞はじめ大手マスコミは畿内説
畿内派によれば9割の学者が畿内説
つまり纒向遺跡=邪馬台国=ヤマト王権=現代日本=冊封体制下
>2816
至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人
四千戸の松浦潟周辺ですらこんな状況で、伊都国では千戸しか開発が進んでいない。国家周辺の開拓部でなければ、まともな道は存在しないということ。
さらに日本では、隣国から攻めにくいよう街道を整備しない、ということが明治まで行われていた。
それゆえ國と國とを隔てているのは、平地であっても簡単に通れる場所ではないということ。
奈良と大阪が、大和川の上流下流で別の文化圏として隔たりがあったように、奴国と投馬国には、陸路で簡単に攻め込めないほどの隔たりがあったのだろう。
さらにまた、人の手が入らない山林や原野には何が潜んでいるかもわからず、賓客と水行で川を行くという安全な方法をとるのは当然とも言える。
エンジンなんて無い時代は、船引っ張って川上りしてたのだから、小舟だろうと人や物を乗せて浮いてくれさえすれば、荷物担いで原野原生林突っ込むよりはるかに楽に安全に届けられるし、国境見張るのも楽だし川消すわけにもいかないしで、水行のみで繋いでいたって自然だろう。倭国大乱の後なんだから。
>2817
あぁそっちだ、上の方で逆のがあったからそれにつられたみたいだ。
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 ~ 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於ワ
隋書でははっきり東と書いてあって間に10ヶ国もあるって書いてあるし、その後に書かれた唐書では、倭と日本が違う国かもしれないとされてるし、魏志倭人伝時代の南記述で九州南下しててもおかしくはないね。
※2828
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
隋書では大和朝廷の都が、邪馬台国だとはっきり書いてある。
つまり魏志倭人伝の南は、実際には東だ。はい終了w
>2824、2826
お歯黒はもっと遠くの国のようですね、失礼しました。
>2827
今は天皇に認められて国家主席って形式とると勝ちやすいから、就任前に日本に来ることになってるのだよね。その辺りをひっくり返したいのだろう。
それとマスコミ関係は、九州だけはない、纏向から金印出れば決まり、でるのが楽しみです。って番組を何度も作って下準備してるし。
纏向捏造事件がそろそろ発生しそう。
>2829
者也
場所ではなく人、むしろなんで者也なんて書いたのか、場所が南じゃなく東に変わっているから。
>2828
>エンジンなんて無い時代は、船引っ張って川上りしてたのだから、小舟だろうと人や物を乗せて浮いてくれさえすれば、荷物担いで原野原生林突っ込むよりはるかに楽に安全に届けられるし、国境見張るのも楽だし川消すわけにもいかないしで、水行のみで繋いでいたって自然だろう。
まあ、そう言い張るならそれもいいですが、それだと最後の「陸行1月」はどういう解釈だと教えていただけるんでしょう? 有明海沿岸の筑後川流域なんですよね、終着点は? それまで狭い川を一生懸命投馬国まで20日、邪馬台国の途中まで10日水行してきて、原生林突っ込むよりはるかに楽で安全な水路をたどってきて、川幅も広くなってきてから、陸行を1月する理由が今度はないことになりはしませんかねぇ。
>2831
>者也
>場所ではなく人
初めて見ました。斬新な解釈ですね!
魏志倭人伝を読み間違えてる番組を平気でコメント欄でお勧めするやついるしな
陸行一月は木簡を写す時に日が月になったと言われてる
海なら渡ると表現されるから水行が川だとする考え方は間違ってはいない
隋書の表現は聖徳太子の日出ずる国に対抗する隋側の抗議
中原には易姓革命の考えがあって前王朝の正統性が今の王朝の正統性になる
隋は大和朝廷は魏に朝貢していた邪馬台国の後継だからお前らも朝貢して冊封体制に入れと主張しているが聖徳太子は日本は朝貢してないから冊封体制に入らないと主張した
邪馬台国→大和朝廷の畿内説だと聖徳太子の言い分の根拠がなくなる
因みに北方騎馬民族と朝鮮半島は王朝や支配者が変わってもずっと冊封体制の中で朝貢してる
むしろ朝貢することがその地域の正統支配者の証
日本列島が倭から日本になり、真の意味での日本になった瞬間はやはり聖徳太子の遣隋使であろう
>2831
者
「は」「こと」「もの」と読む。しかし、多くの場合、この字自体は読まない。日本語のように「者」自体が人を意味するものではなく、広く事物一般を指し、行為・状態・叙述の主体を指示したり示唆したりする場合に用いられる。時には場所や時間、条件などを示唆する場合もある。
2831
漢文を習う前ってことは小学生かな?
古代に興味をもつのはいいことですね
>2836
>海なら渡ると表現されるから水行が川だとする考え方は間違ってはいない
がんばっておられるのは分かりますが、魏志倭人伝の冒頭に
從郡至倭循「海岸水行」暦韓國
とありますから、渡らずに海を行くのが水行、という方が魏志倭人伝に沿った読み方だと思いますよ。
今度は「海岸と付いていない」から、川だと主張しますか?
※2833
解釈も何も単なる間違いだろ
畿内説の根拠となるのは短里と水行だからな
これは覆しようがない
※2836
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国
関係ないぞ
>2835
>陸行一月は木簡を写す時に日が月になったと言われてる
魏志倭人伝の文字を書き換えると、九州派の人に怒られますよ?
魏志倭人伝はその通りに読まないといけないらしいです。
ただ、それより、「1日」だったらわざわざ「陸行」って書きますかね?
陸行1日ってどれくらいの距離でしょう? 旅程記事にわざわざ入れますかね?
投馬国から先は水行も10日単位だし、すごくざっくりしてるんですけど、最後の最後で1日単位の旅程を入れるのは不審だと思うのですが?
>2841
2831が単なる間違いってことは、2829に対する反論は「単なる間違い」ってことで、
2829のいう
>都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
>隋書では大和朝廷の都が、邪馬台国だとはっきり書いてある。
>つまり魏志倭人伝の南は、実際には東だ。はい終了w
でいいってことですね。長かったなぁ。
三国志読んでりゃ舎に見覚えあるっしょ
2845
すまん
2841だが、「者」について、解釈も何も人じゃなくて漢文読み下しのときのことって意味だろ?
って伝えたかったんだ
別に魏志倭人伝の内容についてじゃないしさそもそも貴方のバトル相手じゃなくてすまん
まさかそこまではしゃがれるとはなぁ
者を人したら間違いじゃなく斬新な解釈だとする人がいるとは思わんかったわ
※2827
卑弥呼に旦那はいないし、つまり子供もいないぞ
天皇陛下は、倭王ではない
お前日本人じゃないだろw
>2847
私(2845)は分かってますから
2831に言ってやってください
倭の使者が実際の場所を誤魔化すために適当な距離を教えた説もあるぞ
あと魏にとっても、当時敵対してた呉をけん制するために
日本列島の位置を、実際よりはるか南方の呉の真横に描いてる地図も存在するし
魏側の資料を鵜呑みにするのは危険だと思うな
そもそも当時はまだ測量自体が正確ではなかったし、距離の信憑性は薄い
出土品は奈良が多いが、九州から持って移動したと考えれば
九州から出土品が少ない説明はつく
九州から畿内に人が移動した神武東征と共に物も移動したんでは?
奈良時代に全国から人を集め人口10万の大都市となったわけで
それ以前に30万人もいた可能性は薄いだろう
>2847
もちろん「斬新な解釈」は皮肉ですよ。2833を日本語で読めばそう読めると思います。
※2829
要するに隋は邪馬台国とヤマト王権を間違えたのか
だから南を東と書いたのね
ありがとう!
鉄漿の習慣は、ポリネシアや東南アジアでもあったぞ
中国や朝鮮半島ではない文化だな
>2850
>当時はまだ測量自体が正確ではなかったし
時代が下った隋書ですが、
夷人不知里數但計以日
里数を知らずただ日を以って計る、と書いてありますから、水行20日とかは、倭人が計った数値と見てよいと思います。そして魏人は里数を計っていないということでしょう。
※2848
それ畿内派に言っておやりよ
魏には既に三角測量あったし、その方法を書いた本が流通してるぞ
2848
畿内説だと夫のいる皇女や神功皇后が卑弥呼だぞ?
※2852
都合のいい時には隋書を根拠にするくせに、
都合が悪くなると隋書は間違ってるとか言い出す九州派まじで頭おかしいw
※2855
九州派にしか言いません
赤壁の戦いも合肥城の戦いも船の1日の移動距離は計算されてたから、日数でも問題ないのかもな
※2858
都合のいい時には魏志倭人伝を根拠にするくせに、
都合が悪くなると魏志倭人伝は間違ってるとか言い出す畿内派まじで頭おかしいw
※2857
皇女…夫は大物主神だからセーフ
神宮皇后…夫は天皇だからセーフ
2848
卑弥呼が独身で子がいないなら、畿内説の根拠の記紀との整合性なくなるがな
※2860
そんなことをするのは九州派だけ。
畿内説が魏志倭人伝を間違ってるという時は
実際の地形と矛盾してるところだけ
日本史見るとさ、神武天皇が近畿に攻め込んだ際
大坂の土着民である土蜘蛛に酒をふるまい酔わせたところで皆殺しして
「奴ら強いと言われてたけど大したことねえじゃんww
俺らの大勝利!目出度い目出度い、さあみんな乾杯だ~」みたいなことが書かれてるし
奈良の土着民は強かったから、現地女性を娶って朝廷開いたわけで
それだと邪馬台国=大和朝廷と言う理論が破綻しないか?
この矛盾は他のとこでも書いたんだけど、イマイチ納得する返事がなかったんだが
神武天皇が畿内に攻め込んで奈良に朝廷を作った歴史は間違いないわけで
それなら邪馬台国は大和朝廷ではないんじゃないのか?
※2862
畿内説は誰もそんなもの根拠にしてないぞ
畿内説を取ると邪馬台国は東征してきた大和朝廷により滅ぼされたと考えるべきだろうな
2864
そもそも神武が邪馬台国の前か後かによっても違うし、
それが本当かもわからないから議論のしようもなくスルーされてるだけだろう
畿内説は短里と七万戸が根拠
これさえ証明できれば良い
短里は既に証明されたから残りは七万戸
大和全域と紀伊の一部、河内と福知山と琵琶湖湖畔も纒向遺跡と考えれば不可能ではない
遺構と遺物と副葬品と墓の形と献上品と習慣はどう考えても畿内ではないため無視して良い
※2866
根拠は?
東遷があったというなら記紀が根拠だろうから、
それに従えば邪馬台国よりもっと前の時代だから関係ないぞ
>2866
畿内説では、神武の東遷後に発達してできた国が邪馬台国でいい、という意見も多いですよ。
東遷の時期の解釈は畿内説でもまちまちです。そもそも神武の東遷は「神話」として考えないという人もいますし。
>2860
相手に対する批判さえオリジナリティがなくて、
相手に言われて悔しかったことを、
自分と相手を入れ替えてオウム返しにするって、一部で有名なテンプレですよ。
少しは気を使ったらいかがですか?
※2868
つ テンプレ2
>隋書では大和朝廷の都が、邪馬台国だとはっきり書いてある。
>つまり魏志倭人伝の南は、実際には東だ。はい終了w
反論まだか九州説くんw
2864
東征の時期の問題じゃね?
卑弥呼の後に東征したなら四世紀に九州文化を移植したと考えればいいし、
卑弥呼の前に東征してたなら邪馬台国とヤマト王権は別で畿内のヤマト王権が卑弥呼の後の邪馬台国を滅ぼすか吸収したんじゃね?
卑弥呼の時代は九州に都のあった邪馬台国が隋の時代には畿内に移って大和朝廷の都になったから隋書に所謂邪馬台国なりと記載されたのか
記紀の東遷と中国の正史があるら古くから邪馬台国東遷説があるのね
それなら南だったり東だったりするはずだわ
2871
横から失礼
そんなに悔しかったら、一旦コメントから離れたら?
※2871
君のそのコメントは邪馬台国の場所とどう繋がるの?
魏志倭人伝の南から隋書の東へ遷都
これが全ての考えを包摂した遺跡とも土器編年とも矛盾しない説
>2871
悔しいの
>2868
>畿内説は短里が根拠
いい加減にしろ
成りすましか工作員か知らんが畿内説を貶めようとしている卑劣なやつ
畿内説の誰が短里なんか主張をしてるんだ?
このコメント欄でも畿内説を名乗ってそんなトンデモ主張してるのはお前だけだ
学問の世界で短里などと言ってる学者は1人もいない
アマチュアでもまともな畿内説論者でそんなトンデモ言ってるのは1人もいない
低レベルな九州説と一緒にするな
ここのブログ主はレベルは高くなく九州説の影響を受けているのか知らないが
短里なるものを前提に書いているよだがそれを鵜呑みにしてる畿内説論者はいない
他の畿内説論者に迷惑がかかるからとっとと消えろ
※2875
会稽の東だから九州は関係ないはずだがw
※2878
そして沖縄に遺跡はない
さらに言えば伊都国の時点で方角はメチャクチャ
つまり邪馬台国は移動しておらず
魏志倭人伝の方角は間違いだったということ。はい論破
>2876,2877,2879
魏志倭人伝の其山有丹で、当時近畿には辰砂の産地が知られていて九州には飛鳥時代にならないと産出がないという話題の時に、九州ではベンガラを使ってるから「後漢書では」それに合わせて「朱丹」に変更されていると言っていたけれど、その部分は後漢書は完全にコピペで其山有丹のまま。
「隋書では」瀬戸内航路で途中の国名も書いてあるのに、魏志倭人伝では途中の国も書いてないから畿内ではないと言っていたのに、隋書には国名もなければ瀬戸内航路とも書いてない。
「隋書だったかの倭(九州)の島は、(倭人距離で)東西3ヶ月南北5ヶ月(だから九州)」は正確には、其國境東西五月行南北三月行各至於海で、東西と南北が入れ替わってる。
ここはidも出ないし同じ人かどうかも分からないけど、九州派の人が後の史書から「間違った引用」を繰り返しして、その度に指摘されてムググってしてるのを見てきたからねぇ。
私は何にも悔しくないよww
最初の引用番号がほぼ連続なのはどうしてなんだろうねww
2875
邪馬台っていうのは固有名詞で地名だから移動しないんじゃない?
とりあえず移動したとは一切書かれてないわけだから却下
有と産の明確な区別も分からんとは
短里ではない限り畿内にはたどり着かない
つまり短里否定派は畿内否定派
短里とか訳のわからんことを言ってるのは九州説だけw
>2885
畿内説論者が短里とかいうトンデモに対してどうコメントしてるか過去スレ読んだのか?
お前がしつこく短里とか言い張るなら論破してやるから逃げずに議論する気あるか?
>2887
2885は繰り返し混ぜっ返しを書いてるだけの確信犯だから相手にするだけ無駄な気もするけど、ほっとくと自分が正しいみたいな態度に出るから鬱陶しいんだよなぁ。
2884も同じ人間かどうかは分からないけど、同じ手合いだよね。
2885は勝ち馬に乗ろうとしてる知識0の初心者の可能性もある
いや、しつこく成りすましてる粘着九州説だよ
短里で1万2千里行けば畿内になるなら畿内説に説得力がありますね
※2891
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
≫2871
相手に対する批判さえオリジナリティがなくて、
相手に言われて悔しかったことを、
自分と相手を入れ替えてオウム返しにするって、一部で有名なテンプレですよ。
少しは気を使ったらいかがですか?
2868
こいつの狙いは
まず、自分も畿内説だと偽って、短里を畿内説論者に同意させること
次に、「遺構と遺物と副葬品と墓の形と献上品と習慣はどう考えても畿内ではない」
というトンチンカンなことをいつの間にか畿内説論者が認めたことにして
突然、手のひら返しをするつもりだろう
真っ向勝負では九州説に勝ち目はないから騙してうっかり九州だと認めたことにさせようとしてる
卑劣なやつだよ
もともと短里って九州説の有名な人が推してた説で、ここに書き込んでる九州派の人の引用もだいたいその筋のウェブサイトからのもの。邪馬【臺】國か邪馬【壹】國かにこだわるのも、九州王朝説をとなえる史学の人が多い。ここの九州説の人は、倭の五王は九州王朝、までは言ってないけれど。
ここまで読んできて、畿内派で短里を言う人がいたら、話の筋を論理的に追えない人か、嫌がらせで書いてるだけでまともに議論する気がない人か、または九州派のなりすましの3択だね。
九州説って、無能だけど何度も同じことを繰り返す粘り強さがあって性格が陰湿なんだな
無能なだけならまだいいんだけど、後漢書とか隋書とかの間違った引用をするのは、わざとやってるような気もする。たぶん漢文読めてないし、無能なだけかもしれないけど、間違いを指摘されたあとの開き直り方を見ると、悪意でミスリードするために変な引用をしてるような気もする。
嘘を100回言えば本当になると思ってるんだろうな
2894から2898が同一人物だとの自己紹介ですかな?
>2899
そういう自己紹介はいいから、
1.批判されていることに
2.根拠を述べた上で(必要ならソースを示して)
3.そこからこじつけではない論理で
4.論点をずらさずに
反論、反証してくれるだけでいいんだが?
自分が正しいと思うことを自分なりの論理で、書いてくれってこと。
そして根拠や論理展開が間違っていることを指摘されたら、それを無視せずにきちんと対応してくれればいいだけなんだがな。
昔の日本語では、母音の連続は絶対に避けられてきた。
「邪馬壹国」をそのまま日本語として発音されることは、まずあり得ないことも留意すべきでしょうね。
本当は邪馬台でヤマトともヤマタイとも読まないんでしょ?
なんて読むの?
ヤマタイもヤマイも母音の連続になってしまう
>2901
>昔の日本語では、母音の連続は絶対に避けられてきた
これはどのレベルの絶対?
今、万葉集の1巻の冒頭の2番目の舒明天皇の歌の三句目まで引用すると
山常庭 村山有等 取與呂布
大和には 群山あれど とりよろふ
やまとには,むらやまあれど,とりよろふ
となっていて、2句目の「むらやまあれど」の「ま」と「あ」のところは母音が連続するよね?
単語の中では、母音の連続は避けるってことなのかな?
>2901
万葉集をつらつら見てて思ったんだけど、母音の連続を避けるために、ワ行とかハ行になってるってことはないかな?
「あをによし」とか「家聞かな=いへきかな」とか。
だったら「邪馬臺→やまたひ」で済むような気もするんだけど。
隋書だと
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與儋耳相近
則って邪靡堆の音が似てるから同じだと言ってるのであって、古云以下で場所としてははっきりしてないな。
自魏至于齊梁代與中國相通
関係は続いてたようだから、それなりに連続性は認められてるのだろうけど、
日本側は遷都をちょくちょくやってて、冠位十二階なども制定された後に、ようやく直接行って場所を確認できた状態。
則~邪馬臺で場所が決まりとは言えないな。
にしても、
無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字
キープ文字使ってるって書いてたり、
食用手餔之
手掴みって事なのかな、なんだか散々だと思ったら、
新羅百濟皆以倭爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來
百済新羅から間接で情報受け取ってて、日本の事はよく分らなかったみたいね。
仏教求めて初めて文字がって、最初論語だったはずだし、縄文遺跡から匙出るっぽい事見たけど、土器調理の後手掴みでどうやって食べてたんかと。
実情以上に貶められてそうな予感がするな。あるいは文化輸入する前は、倭人より毛人の方が豊かだったのか。
あくまで中国人の認識として、隋の時代の倭国の都はヤマトであり、すなわち魏の時代の邪馬台国のことである
場所については古来の文献に書かれていることをそのままだと載せている
九州から東に行った奈良が邪馬台国だとはっきり言ってるだろ
>2841,2847
分かりますか?
2831と2907は同じ人ですよ。まあidも出ないコメント欄なので否定されれば、はあそうですかというしかないですが。
九州説に不利なことをなんとか理屈をひねり出して否定しようとしているだけです。
「即ち」や「所謂」を全無視している訳です。
これを斬新な解釈と言わずしてなんと言えばよいのでしょうか?
オレはアレな人間だけど(因みに前回以来初の書き込み)「魏志」の記述がなければ九州説なんか採らないってのは変わらない。
何故そういう記述になったのかがどうしても解せないから九州説についてるんだよ。
文献の特定部位が信用出来ないと断言するのならそれ以外の部分が何故創作でないと言えるのか分からないし。「古墳が畿内・九州ほかに存在し一部は弥生時代、一部は古墳時代の遺物が出土する」だけでいいのに「魏志」を相手にするのはおかしい。北部九州以外の場所は確定出来ないんだから「考慮に値しない」と言ってくれれば却ってスッキリするんだよ。
オレ個人としては「長里・短里」に関することは一切書いてない。朝鮮半島南端から対馬、対馬から壱岐、壱岐から伊都の里程を見たら大体の想定は可能だろうと思うから二種類の単位を持ち込む理由はないと思ってるので。あと「出土物」にも触れてないよ。銅鏡(など)の年代測定とか知らないもん。
オレはとにかく「魏志東夷伝倭人条」の文章ととっくに既知の所見との関係を突いてるんであって、それ以外の議論には加わってない。
それと「陸行一月水行十日」の件は単語の置き換え(南→東とか)じゃなく「編集の過程での混入」と思ってるので「帯方郡から女王国まで」だと想定することを完全に論破する根拠が示されない限り納得出来ないね。文章の位置の違いと文字そのものの違いを一緒くたにされては困るな。
こういう場所で考えてること全部論じるのは憚られるので要約してるけど、そのコメントの文脈を読めない者を相手にするのは疲れる(だから時々しか来ないんだけど)。
続くんならたまに来るけど、以前書いたように現時点で決定的な証拠は出ないんだろうと思ってるから、畿内説の方々がムキになってるのは理解不能。議論で相手を言い負かすだけのために必死で史料漁ってるんなら無意味だからやめたら? と思う。確証が出なきゃ決着しないし出たら議論の余地は殆どなくなるんだからもっと楽しい議論出来ないかね。
オレは事実が明確になれば認めると表明してるんだから余裕持って「これはどう解釈する?」とか緩い議論でいいと考えてる。
そういう気分の人はいないの?
一応、おれ※2797だよ。
それ以降の書き込みはオレじゃないし、唯一の文献である「魏志東夷伝倭人条」で説明可能な限りそこに足場を置こうと思ってる。
さっきも書いたけど絶対確実な証拠が出ない限り異論はある(べきだ)し、意見の違いと思想の違いを一緒にされたら困る。
1.絶対的九州説
2.相対的九州説
3.相対的畿内説
4.絶対的畿内説
5.その他
で言えばオレは「2」なわけで、むしろ畿内説ならもっと確実な根拠出してくれ! って思うわけだよ。
今までの根拠で万人を納得させられると思うなと。未発見のものがあるんならそこは一度留保しようよと。
確定してないことについては「妥協可能な線」を九州でも畿内でもほかの場所でも設定する努力をすべきじゃないのかね。別に生命懸かってるわけでもなし。
ね。
あ、忘れてた。
奴国は東じゃなくて南でいいと思ってるよ。
志賀島の金印の件で東だって思い込みが広まってるけど、版図が移動してたら記述の通りだと一応考察してみよう。
って根拠で奴国南進説を言ってるんだけど、歴史学的に「否」であるなら指摘乞う。
多分そこまで確たる証拠はまだ未発見だと思うけど。
※2911
>それと「陸行一月水行十日」の件は単語の置き換え(南→東とか)じゃなく「編集の過程での混入」と思ってるので「帯方郡から女王国まで」だと想定することを完全に論破する根拠が示されない限り納得出来ないね。
いやいや、その自分勝手な理論を完全に事実だと証明する責任があるのはお前だろ。
伊都国までで方角がズレてるのは事実なんで。
>畿内説の方々がムキになってるのは理解不能。
>余裕持って「これはどう解釈する?」とか緩い議論でいいと考えてる。
じゃあお前がまずムキにならず余裕持って畿内説を認めれば良いんじゃない?
勝手な解釈をするな(でも九州説はガンガン勝手な解釈するぞ)とか、余裕持て(でも畿内説は文献上絶対認めない)とか、お前のは全部そのパターンだなw頭悪いというか無邪気というか。
>2911
では、改めて2911に訊きたいんだが、隋書に
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與儋耳相近
と書いてある。
無理な読み方をしなければ、隋の時点での
都は邪靡堆 すなわち魏志の所謂邪馬臺なり
と書いてあって、隋の時代の飛鳥朝のある大和の国を「魏志の所謂邪馬臺」と言っているのをどう思う?
隋書の時点では
其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下
東西五ヶ月行 南北三ヶ月行でそれぞれ海に至り、東が高く西が低い
と九州から近畿までの地勢は理解されている。東側が中部山岳地帯(?)までだから東高というのも分かりやすい。
その上で、「古云」で現実とは違うけどとにじませた上で、
去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與儋耳相近
と魏志倭人伝をコピペして、魏志倭人伝で書いてあった邪馬臺のことだと明示してる訳だ。
これを見ると、魏志倭人伝の時点では倭国のことが「よく分かってなかった」から、あるいは「そう思ってた」から、あんな書き方になっているって理解で十分だと思うんだけど、いかが?
これでも、魏志倭人伝のとおりに読めば、、、って言い続ける必要ある?
>2911
久しぶりに出てきたって事で無視してるけど、2801辺りのことは、どう考えてらっしゃいますか?
奴国も伊都国も、邪馬台国とは別に書いてありますよね?
やはり短里だったと言わざるを得ない
古代の中国人の書いた文献が正確で、古代の日本人書いた文献がウソツキ
現代の中国人の書いた文章が正しくて、現代日本人の書いた文章がほら吹き
欧米の人が聞いたら、ナイス・ジョークといわれるよね
鏡について
舶載鏡については、漢鏡5期までは北部九州中心、漢鏡6期~7期前半の時期は倭国での出土は少なく、漢鏡7期後半になると分布の中心が畿内に移る。
これを、漢鏡5期までは西暦57年の光武帝への朝貢(漢委奴国王の金印)と西暦107年の倭国王帥升の安帝への朝貢でもたらされたもの、漢鏡7期後半からは卑弥呼および次代の台与の遣使によってもたらされたものと考えれば、理解しやすい。
かつて、古墳時代の開始が遅く考えられていた頃は、古墳造営の推定年代と発掘される鏡の年代が合わず、鏡の伝世を考える必要があったが、古墳時代の開始が早かったことを認めれば、鏡を入手した人物の死去に合わせて副葬したと考えて大きな齟齬はなくなる。北部九州での鏡の副葬と同じように考えることができる。
三角縁神獣鏡が、舶載品であれ倭国産であれ景初の年号を鋳込まれている以上、そこから100年も後の鋳造は考えにくい。景初年間またはその直後の鋳造と考えるべきだろう。そして、それが副葬される時期も、当然鋳造と同時期またはその直後であり、その頃には古墳時代が始まっていることになる。
いずれにせよ、魏志倭人伝の述べる卑弥呼の時代と古墳時代の始期は、相い接していると考えて問題ないと考えられる。
※2918
中国人の書いたレポートと、日本人の書いた小説
中国人の書いたレポートの方が少し信頼度は高いでしょさすがに
畿内じゃないけど景初三年の鏡が出土した地域に直径100メートルを超える帆立貝型古墳がある
>2912
>「妥協可能な線」
九州説と妥協しなきゃならないような必要性をまるで感じないんだが
>2921
徑百餘歩だから、円墳ってよく言われるけど、徑の字はたとえば楕円の長径と短径みたいに円じゃないものにも使われて「差し渡し」くらいの意味でも使えるんだそうな。
その意味では前方後円墳でもいい訳で、その場合はおそらく墳丘長が徑で示されるだろう。
そう考えると墳丘長が300メートルに迫る箸墓は、むしろ大きすぎるのかもしれない。
時代的にも前方後円墳ないしな
隋書が書かれたのは7世紀で、もう聖徳太子の時代だよ。400年もずれてる。
対等な文章を送ってしかもその後も従おうとしないから、漢の頃から朝貢してたくせにって序文で書いて溜飲下げて(メンツをたもって)るんだな。
その後に、百済新羅が大国と認めて日本に朝貢続けてるって、正直に書く辺りが良心だけど、それらの事実を否定するように、日本はずっと朝貢国だって決めつけた。
その証拠に、さらに後の時代の唐書では、倭と日本の繋がりがわからないってちゃんと書いてある。
唐は戦争で日本に勝って、朝鮮半島手に入れてるから、メンツで必要以上に貶める必要もないし。
隋書のずっと朝貢してた国って決めつけで論じるのはおかしいな。
それなので、2837の人が書いてる意見に納得だね。
個人的には、卑弥呼→北九州、五王→大和、継体日本→五王の朝貢をなかった事にしたい。
一方では継続を、一方では断絶を主張するダブスタ、くらいに思ってるけど、ここは謎のままかな。
>2919
1世紀の漢鏡5期が、近畿からも結構な数出るんですけど、200年くらい齟齬のうちに入りませんかね。
>2925
物証を無視して、文献のみをオレ様解釈でストーリーを作ってるだけ
ただのラノベ
問題外
>2926
漢鏡5期の「分布の中心」は北部九州で動かないでしょう。
まあ平原1号墓のような王墓級の副葬物でかさ上げされていて、それを除くと差は縮まりますが、そうした大量埋納の王墓級の存在そのものが、北部九州に倭王がいたことを示しています。
そして漢鏡5期が畿内でも出ることは、漢鏡5期の1世紀の時点で、畿内と九州の連絡があったことを示しています。また漢鏡5期から6期、7期前半は、倭国内の漢鏡不足が深刻だったようで、破鏡した鏡片の出土が見られるそうです。しかも、鏡片に紐通しの穴が開けられていたり、手擦れのあとが見られるものもあるそうなので、そのころのものは一定程度、伝世品の蓋然性があると思います。昭和になって元伊勢籠神社神宝として、海部氏伝世鏡が見つかっていますし伝世鏡自体を否定しているわけではありません。
それに対し、国内で大量にコピーを作っていた三角縁神獣鏡は伝世する必要性が低いだろうということです。そしてその三角縁神獣鏡は年号が記されているものもあって、年代を考える上での起点にでき、それがC14年代測定法とも整合性がある、という状況です。
C14の不自然さは克服できたかい?
>2929
一度きちんと書いたつもりですが読み取ってもらえないようですね。
C14年代測定法は、空気中の窒素(N14)が宇宙からの高エネルギー粒子線(宇宙線)を受けて、原子核から陽電子一つを叩き出されることで生じたC14が、β崩壊してN14に戻る現象を利用したものです。C14のベータ崩壊の速度は一定なので、「宇宙線の地球への照射量を一定」と仮定すると、宇宙線によるN14→C14の改変速度とβ崩壊によるC14→N14の復帰速度が釣り合う平衡点で、地球大気中のC14濃度は一定になります。それと、非放射性同位体のC12,C13との比率を計れば、非放射性同位体の方が量比が圧倒的に大きいこともあり、「十分な撹拌」が見込める範囲ではこの比率も一定になります。
これが、流入、流出のない固定状態に置かれると、上記で述べた一定の比率からC14の崩壊速度の分だけ時間経過とともに定率でC14の比率が下がっていきます。なので、このC14の比率を計ることで、固定されてからの年月を砂時計式に計るというのがC14年代測定法です。
ただこれは、上記の二つのカギカッコ「宇宙線の照射量が一定」「十分な撹拌」がなければ前提が狂います。CO2は水に溶けやすいですがN2は水に溶けにくいので、空気中のCO2と海洋に溶けたCO2では比率が異なりますし、その分海辺の植物も影響を受けます。また「固定されたとき」がスタートなので、一本の薪でも、年輪の若い方と古い方では比率が年輪の分ずれます。
また、「宇宙線の照射量」は太陽黒点の活動量で大きく変動し、黒点活動が活発な時期が長期間続くと、宇宙線の照射量が下がり、大気中のC14濃度が下がります。逆に黒点活動が低調なときにはC14濃度が上がります。
そのため、横軸に現在からの時間、縦軸にC14比率を取ると、本来単調減少になるはずですが、過去の太陽活動の多寡により、局所的なピークができてしまい、時間からC14比率を見る場合には一つの値が得られますが、逆関数としてC14比率から時間に換算しようとする(年代測定はこちらです)と、ピークの前後で複数のあり得る年代が出てしまいます。そのため、C14比率の順に遺物を並べて、その年代を新しい方から位置づけていくと、こうしたピークの前後で「推定年代が飛ぶ」ことになります。
2929のいう「C14の不自然さ」はこのことを言っているのだと思います。
ちょうど、こうしたピークのうち比較的大きなものが、西暦270年頃、つまり卑弥呼の死後数十年の位置に一つあって、これが批判の的になっています。今の編年は一つ一つの遺物の年代をC14でがちっと決めようとするのではなく、この「ピーク位置」が土器編年のどの「形式に対応」するか、を見ています。そしてその結果、布留1式の土器の時期に、西暦270年のピークが来るという結果になっています。このピーク位置は、日本の研究者が独自に作ったものではなく、世界放射性炭素会議が世界中の試料から作った校正曲線上のものです。
もちろん、今後データが更新されてより信頼性の高い結果が出れば、それに合わせて編年も変更していく必要があります。こうした結果が出てからそろそろ10年近くになりますが、その間のデータも整合性が取れています。同じグループの研究者のデータしかないと言われればそれまでですが、積極的な反論反証は今のところないようです。
景初四年は昭和一年と刻まれた硬貨や昭和64年2月と書かれた公文書並みに変
>2931
景初三年は問題ないでしょう?
そして、三角縁神獣鏡は倭国で作られたものが多いことは、ほぼ確定しています。
その上で「景初四年の鏡がいつ作られたか」と考えたときに、「景初三年から100年後に作られた」というのはおかしいでしょう?
「景初四年」鏡がいつ作られたのか、というのと、「景初四年」鏡が魏からの下賜品の銅鏡100枚に当たるかというのは別問題です。
そして、記年鏡の製作時期を考える場合、やはりその年号は参考になるだろうというのが2928の話です。
今と違って迅速に対応できるわけじゃないからそこまで変ではない
レア硬貨以上に普通な話
質問
漢鏡(7期)と神獣鏡はまた別のものなんですか?
>2930
それで煙に巻けると思ってるのか、
340~380の方が大量に出ていて、それが1式という話について何も答えてないぞ。
直接答えず、270に決まってますと回答したふりをする。
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku270.htm#1syou
>歴博は、いっぽうでは較正曲線が未完成なので、弥生終末期~古墳時代開始期も実年代を決められる状況ではないことを認めていながら、片方においては、まさにその較正曲線を根拠にして古墳時代開始期の箸墓古墳の年代発表をするという矛盾した行為を行ったのである。
>これらの点について、歴博との質疑応答で質問した。しかし、歴博からいろいろ説明された内容は、質問に正面から答える形のものではなく、納得できる回答ではなかった。
ここに書かれている通り、詐欺師の常套手段やってるだけだろ。
気色悪い詐欺師丁寧語使って、ずっと張り付いてる奴は、関係者本人臭いな。
>2928
古墳からはるかに古い漢鏡が出る事について、副葬品が不足して、古い鏡まで持ち出し破片までも大事に使って埋めていった事が見て取れます。
そのためとうとう国内で作れと工人ごと輸入、という流れで枚数の多さが説明できると思います。
三角縁神獣鏡を作れる工人が迎えられる(又は技術が習得できる)のは、呉が滅んだ280年以降の出来事と見るべきで、国産模造品を古墳時代の4世紀とするならば、C14年代測定法とも整合性がある、という状況ではないですか。
持田古墳群出土とされる景初四年銘(西暦240年。なお景初四年は実際にはなし)の斜縁盤龍鏡が伝わっている。景初四年の銅鏡は広峯15号墳(広島県・福知山市)からも出土している。
「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人△之位至三公母人△之保子宜孫寿如金石兮」
実際の年号としての240年を示す正始元年銘のある銅鏡の出土例としては、柴崎蟹沢古墳(群馬県・高崎市)、竹島古墳(山口県・周南市)、森尾古墳(兵庫県・豊岡市)。
なお、景初四年の前年と思われるが、実際に存在している景初三年の銘がある銅鏡は、和泉黄金塚古墳(大阪府・和泉市)と神原神社古墳(島根県・雲南市)から出土している。
これら全ての古墳が三世紀か?
九州から日本を統治するのは地理的・距離的に不可能だわ
どうやって九州から関東や東北を支配下に納めるというのか
まず最初に京都新聞、ついで各全国紙で報道された時「景初四年鏡がでた」。そして、「それは中国製である」、「とすると三角縁神獣鏡も ーー盤竜鏡という名前で伝えられていましたがーー 盤竜鏡と同種類の鏡であるから、三角縁神獣鏡もまた中国製である」と。そこで「三角縁神獣鏡が中国製であるとすれば、魏から卑弥呼に送ってきた鏡も三角縁神獣鏡と考えてよろしい」と。とすれば「邪馬台国はやっぱり大和、つまり近畿説が正しい」と。こういう形に話が論理的につながっていたわけです。
例の「景初」の「初」が見えない鏡がございます。たとえば、黄金塚の画文帯神獣鏡、また島根県の神原(かんばら)神社の三角縁神獣鏡、いずれも「景初」の「初」が読めません。また正始元年と呼ばれるもので「正」が欠けているものがあるわけですね。あれについて「古田さんは何という字だとお考えですか」ということを、行った時に聞かれたわけです。「いやあれはないから言えません」とそっけない話なんですが、そうお答えしたわけです。「何か、朝鮮半島あたりの年号とお考えですか」と聞かれたので、「いやそれもわかりません」と。「そういう可能性があるかも知れませんが、そうであるとはわかりません。ないから読めない。出てきたらそれを読む。というのが私のやり方です。」という事をお答えしたことがあるわけです。
斉王が卑弥呼に送ってきた鏡に“存在しなかった年号”があったんでは格好がつきません。自分の方が「景初三年」までで、この「景初」の年号は終りだ。もう年が明けたらこの年号は使いませんよ、というおふれを景初三年の十二月に出しておいて、おふれに反した景初四年という年号鏡を倭王のところへ送る、これはもう全く自己矛盾もいい所で、全くこれはありうる話ではない。天子はいちいち忙しいから、単なるミスだろうと言えばおしまいですけれども。そういうミスを、中国製にしたいという自分の都合のために“しくむ”のはやっぱりフェアではない。素直にというかスムーズに考えた場合、これはやはり中国本土でつくられた、なかんづく洛陽でつくられた、さらになかんづく魏の天子が倭王たる卑弥呼に送った鏡ではありえない。
なお念のために申し上げておかなければいけないのは「五月丙午之日」という言葉でございます。これは考古学界では、ご存じのように吉祥の意味をもった“決まり”文句でありまして、必ずしも文字通りにとって「五月の真最中につくった」というものには限らない、ということはよく知られています。
朝日新聞の方からの問い合わせの場合も、「『嘉なること金石の如し』となってますが、これはどうでしょう」ということが言われましたが、「聞いたことがありませんね。普通は『寿は金石の如し』なら、よくあるんですが、『嘉なること金石の如し』はちょっと、聞いたことがありません。」こう言ってたんです。
朝日新聞の高橋徹さんと一緒に、一所懸命見たんですが、どうも三角縁と見るには不足だと言うか、「三角縁と迄は言えませんねえ、斜縁と言うところが妥当ですねえ」と言う結論に二人とも達していたわけです。ところが今の新聞報道では、「三角縁神獣鏡」と報道されたので混乱したわけです。
たとえば『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)の本をお読みいただきますと、実は、中国ではたかだか女の人のお化粧品、男の人の手廻品でしかない鏡が、日本では太陽信仰の聖なる器として作られたからこそこれだけ立派な鏡が作られたんじゃないかということを論じました。
紀年鏡が4世紀以降の作とする重大な証拠として、銘文の字体問題がある。安萬宮山古墳出土の「青龍三年(235年)」鏡の「龍」の字の旁は「大」となっている。この字体は4~5世紀の中国北朝(北魏、東魏、 西魏)時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。という ことは、この鏡が4~5世紀の作品であることを示している。
この問題について、畿内派は「書体の専門家でないので分からない・・・・ノーコメント」と口を濁しており、現在までのところ畿内派からの有効な反論が無い。
質問
漢鏡(7期)と神獣鏡はまた別のものなんですか?
誰か答えて〜
>2938
支配していないのでしょう。
7世紀に日本と名乗ってからですら、南東北から毛人の領土を削っていく段階で、後に征夷大将軍なるものが用意されたわけですし。
>2947
神獣鏡は日本にしか存在しない独自の鏡(呉系の鏡に近い)ですね。年号などから魏の鏡かと勘違いされたくらいなので、漢の鏡ではないです。
言葉が足りなかったですね。
神獣鏡が作られ始めたのは漢鏡7期ですが、「日本の神獣鏡」は魏以降の鏡。
神獣鏡の種類によって答えが変わりそうです。
ありがたき幸せ。
7期の漢鏡が、卑弥呼に贈られた可能性はないんですか?
朝日新聞に、邪馬台国畿内説の立場で書かれた「転換古代史」が連載された。「事実に基づく検証」をおこなえば、邪馬台国畿内説には多くの疑問があり成立し得ないと思うのだが、このような形で大新聞に取り上げられると一般の人は信じ込んでしまう。
2951
こんだけ論破されておいてよく言うなお前w
>2950
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku220.htm
ここ見ると、そもそも○期の分類事態が、古くしたいって願望のもとに作られた部分があるようです。
中国の研究者までもが時代否定している鏡もあるのに、古いはずだって持論を変えないとか、歴史探究以外の目的でもあるんでしょうかね。
>2952
自己紹介は要りませんよ。
朝日新聞が短里説に基づいて畿内説を支持している以上邪馬台国=纏向遺跡
※2952
朝日新聞が否定されたときだけ反応早いね
>2953
平原の方格規矩四神鏡
平原遺跡の公式な報告書が発行されたのが2000年で、そのとき平原の鏡は国産だという見解になった
岡村編年はもっと前のもの
平原の鏡が中国製だったら漢鏡5期に編年されるが、国産だと判明し製作時期も2世紀末かそれ以前となった
平原遺跡には3世紀前半のものもあるが、方格規矩四神鏡が副葬された1号墓は2世紀末だっつーの
安本氏はこういうせこい嘘をついている
岡村編年では中国製を前提に漢鏡5期に編年されていた平原の方格規矩四神鏡の分をごっそり消せばいいだけの話
位至三公鏡
魏晋時代にも引き続きダラダラと製作されていただけのこと
そもそも位至三公鏡は家臣が所有する鏡で王様が所有するなどありえない
位至三公鏡の一部は漢鏡7期以降の時期にも分布地図に載るはずと考えればいいだけ
ただしその量は不明
一部の鏡で年代修正があったのでその分だけを修正すればいい
全体の年代を100年動かせとは筋が通らないイチャモン
要するに今は岡村編年は間違ってるんだね
>2956
おいおい、歴史詐欺の関係者がほんとに張り付いてるみたいだな。
集団でこじつけネット工作とか、捏造学者は暇でいいなー。
倭国で作られた鏡を大陸製にして100年古くする
三角縁神獣鏡と同じ
2958
反論出来ないんだね…
2954、2955
半島に近い九州の方が都合がいい朝日でも抵抗を諦めたのさ
漢鏡の編年は中国でもやってて岡村氏とほとんど同じ
安本氏が言うように100年動かしたら中国の歴史も変えないといけなくなる
滅茶苦茶な言い分
使われている字体が4世紀なら4世紀以降でいいのでは?
>2961
朝日新聞の発祥は畿内だぞ
2964
吉田清治の出身は福岡だぞ
邪馬台国の会とかいう九州説信者のサイトが、
読売新聞の記事に発狂してるのはどういうことだい?
質問
7期の漢鏡が、卑弥呼に贈られた可能性はないんですか?
>2935
お返事遅れました
自信満々に書いてらっしゃいますが
>340~380の方が大量に出ていて、それが1式という話について何も答えてないぞ。
これの編年(年代)はどのように決められたものでしょうか?
土器編年であればもとより推定ですし、C14年代なら、こっちは信じてこっちは信じないというのは筋が通らないですよね? それは単に「俺はこう思う」以上のものではありません。
y=x^2(xの二乗)のグラフで、x=2ならy=4、x=-2ならy=4、と、xからyは決まります。
しかし、y=4のとき、x=2とx=-2の二つの値が出ます。 西暦270年の局所ピークの「前と後ろ」に2つ、測定値から推定される年代が出ます。そのどっちを信じるかって話なんですよ。大雑把に言えば。
さらに、西暦270年の局所ピークから新しい側(4世紀側)は傾きがなだらかになるので、年代を決めるのがさらに困難になります。また西暦350年前後にも局所ピークがあるので、さらに単純な推定は困難になります。
>いっぽうでは較正曲線が未完成なので
この「未完成」というのは、「弥生終末期~古墳時代開始期も実年代を決められる状況」にはなっていない、ということを意味していてますが、国際標準としてよく用いられる[Reimer et al. 2004,Reimer et al. 2009]の編年と、局所ピークの相同を判断できる程度の精度はあります。日本産樹木の炭素試料を用いた校正曲線でも、西暦270と350年前後の局所ピークは確認できます。
要するに、これまで私が縷々述べてきたのは、「校正曲線のパターンマッチング(局所ピーク位置)は信用できる」であって、「校正曲線から年代が決定できる」ではありません。
そして、土器編年上で布留0式が布留1式よりも古いことを認めるなら、C14年代の西暦270年のピーク位置は布留0式の範囲ではなく、布留1式の範囲に入ります。
邪馬台国の会のウェブサイトだけでなく、プロの書いた文章も読んでみてください。
ttps://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1889&file_id=22&file_no=1
素人が考えるようなことは、当然プロも考えていますし、それを考慮した上で専門家としての判断をしています。
>2968
0式より先に1式って突っ込みに、全く答えてない。
煙に巻こうとしてるだけでんがな。
長々と権威付けの方式説明などやって、本題は語らない、詐欺師の話術そのまんまでんがなまんがな。
3世紀には九州から近畿に鏡の中心が移ったって論が、
位至三公鏡の出鱈目が消えたら、3世紀九州の他に近畿でも鏡が増え始めたって話におさまって、女王国以外の近畿勢力が見えてくるね。
近畿が力をつけ始め呉の遺民技術も手に入れた4世紀に、大量の国産鏡で一気に権威を高め土器と一緒に全国展開、これで色々と無理なく繋がりそう。
こんな所で議論した所で、纏向から計画通り金印が出る、歴史編年の答えは決定され用意されてるのだから無駄無駄。
そして譲位ではなく退位させ、継承前に集金に頭下げに行ったら、女系認めてやるって筋書き、逆らったら交通事故。
次世代が中共取り巻きに乗っ取られてるって、東アジア王朝のトレンド、日本もそう、外務省が何十年もかけて侵略済みだ。
>2969
>0式より先に1式
これのソースを私は見つけられないので、答えようがないです。
2969のおっしゃる0式(布留ですよね?)の編年の根拠が分からなければ答えようがないです。
私が繰り返しているのは、270年前後が布留1式の範囲に入るので、0式は「自動的にその前」というだけです。
>2969
>権威付けの方式説明などやって、本題は語らない
「方式説明」こそ編年の本質・本題だと思うのですが?
編年を編むための根拠、方法が適当だったらどうしようもないじゃないですか?
それ以外に、どうやって編年を作るのですか?
陰謀論に頼るようになったら人間おしまい
土器についた付着物が何かも分からないのによくそれでC14を鑑定しようと思ったよな。
せめて桃の種と木製鎧と木製仮面を鑑定してその鑑定結果貼ってくださいな。
朝日支那朝鮮がウチ奈良を侵略しているノダ
土器付着物は、遺物(木など炭化物そのもの)より平均100年近く古く出るって結果が出てる。
歴博の調べた付着物が、不思議なほど全部、100年古いからなんだけどね。
で布留1式の340から380の編年のソースは?
それを張るのはあなたの側だと思いますよ。
穴の中ってことは穴を掘ってるってことで、層序が判断しにくいってのは分かりますよね?
土器には土器編年があって、形や形式から相対的な時代的な位置が分かりますが、桃の種がいつの種か分かるような編年ってありましたでしょうか?
そういうことは考えもしなかったでしょう?
自信満々なあなたの拠り所はそれほど当てになるものでもないんですよ。
鐙一つで古墳時代中期だっていうのもありましたっけ?
年号の刻まれた鏡はその年号に作られたって主張だけど魏の年号に使われてる文字が四世紀以降の文字なんだよね。
炭素で3世紀にした古墳から4世紀以降の文字で刻まれた魏の年号の鏡が出るとかどう思ってるんだろう。
個人的には北魏の字が好きで篆刻に使ってたから、4世紀から6世紀の字を使う気持ちはよく分かる。
>2979
>年号の刻まれた鏡はその年号に作られたって主張だけど魏の年号に使われてる文字が四世紀以降の文字なんだよね。
ソースは?
そういやどっかにあったな
ヤマト国のヒメミコです⇒邪馬台国の卑弥呼です
俺も案外こんな感じなんじゃないかと
「炭素14年代法そのものは充分に科学的な年代測定法です。前述のように放射性元素の減少期間を測定して、残留放射性元素の数から、その検査対象がもともとはいつ頃のものかを調べる方法がC14法ですが、これは各方面で言われるように非常にバラつきがあります。同じ方法で、同じ試料を用いても、検査機関によって50年から100年、ひどいときには300年以上のばらつきがあります。
紀元前1万年か1万5千年かを調べる方法としては有効ですが、50年程度の違いはこの方法では確定出来ないという前提がまずあります。
それでも何とか分からないかと模索しているのですが、今回の発表でも、たとえば北海道埋蔵文化財センター、あるいは九州大学の測定値と、国立民俗学博物館の測定値は異なっています。 ~ そのデータの取り扱いや測定方法に対して、これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません。
~
土器に付着していた試料というのは、相当古い年代を示すというデータがあるにもかかわらず、それを是正していないのはなぜか? 内陸部と海岸部でもC14の値は相当異なるのにその補正値を考慮していないのはなぜか、等々。
つまり、研究者、研究機関によっては全く異なる値を示すような測定方法で得られた値を、そのデータや測定法を学会に図ることもせずに、まずマスコミに流した後で、学会発表するという方法が、とても学者のする事では無いという意味で「科学的」ではないのです。
一連の新聞記事では、C14法など知らない人々はあの方法が充分「科学的」と思うはずです。そしてそれこそが、歴博の、或いは春成秀爾という教授の狙いだと思えるのです。「春成秀爾という人物は、一たい何が目的なのだろう」と書いたのはそういう意味合いです。弥生時代が500-700年遡るという発表をしたのもこの教授です。それもマスコミにまず流して、それから学会で発表していますが、学界ではその方法論、データを巡って総スカンをくらい、あの測定値は学界では認められていません、しかし新聞だけを読んだ人の中には、「弥生時代は紀元前1000年からだ。」と思い込んだ人がいるかもしれません。
最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。
橿原考古学研究所に関川尚功という学者がいます。この人は近畿圏で活躍している学者であるにもかかわらず、「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」と言っています。
また、魏志倭人伝には、「倭人は鉄鏃(てつぞく:鉄のやじり)を使う」と記載されているのに、福岡の460に対して、卑弥呼時代の奈良には鉄の鏃は4つの出土例しかありません。そしてもと歴博の館長もやった佐原真は、「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」とマジで答え、さすがにこれには近畿圏の学者たちも沈黙していました。春成秀爾はこの佐原真の弟子です。この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?
~
今回の歴博の発表についてはケンケンがくがくで、先日早稲田で行われた日本考古学会では、この(春成グループの)発表後、事務局から「この報告は学会で承認されたモノではありません。」という異例のコメントがあったようです。つまり学会も、マスコミに先に漏らす報告など報告とは認めないぞ、という意志が表明されているような気がします。しかもそれが、異論が山ほどある方法ときては、なにをか況んやです。この騒動は、そのうちHPに纏めたいと思っています。私見では、この歴博の一連のマスコミ操作は、歴史学者が捏造する「歴史」として歴史に残ると思います。」
そのHPから転載。
前項で、「この一連のマスコミ操作は、いったい何が目的なのでしょうか?」と書いたが、実はその目的ははっきりしている。「邪馬台国は近畿にあった。卑弥呼の墓は箸墓古墳である。」ということを証明したいのである。しかし見てきたように全く証明になっていないどころか、その「確信犯的捏造度」を疑われてさえいる。つまり、これを発表した春成教授以下のメンバーたちは、おそらくそれを知っているのではないかと思う。このデータは捏造か、或いは捏造に近いということを知りながら発表しているのではないか。だが、一体なぜ?という疑問は残る。
藤村新一によるあれだけの捏造事件を体験しながら、また、春成教授は曲がりなりにも国立歴史民俗博物館から「名誉教授」という肩書きまで貰っている身分でありながら、その「名誉」を全く捨て去ってしまうような行動に何故かられるのであろうか?
普通の人ならまず誰もがこういう疑問を抱くことだろう。だがしかし、近畿圏の、妄信的な「郷土史家的」歴史学者・考古学者に接したことのある人であれば、それは、必ずしも理解できない事ではない。彼等はまさしく「妄信的な郷土史家」だからである。
~
もし邪馬台国が近畿にあったとしても、納得する理由があればそれはそれで良い。ほんとは近畿圏の学者連中もそのはずなのだ。学者としての自分の研究テーマがあるだろうし、邪馬台国問題は、大きな歴史の流れの中の一つのトピックスと考えれば、わざわざ捏造へ走る理由などさらさら無いはずである。
しかし近畿圏には、古くからの学者達による「郷土史家」の伝統がある。邪馬台国は近畿でなければならないのだ。箸墓には卑弥呼が眠っていなければならないのである。そのため過去、近畿説を唱える学者達は多くの詭弁を労しその証明に邁進してきた。その歴史を見てみると、
第1段階 遺跡・人口論
古くは(大正、昭和初期の頃)、近畿説学者達は九州にさしたる遺跡が無く、人口も7万戸を擁するような地方はないと指摘してきた。公的文化財調査機関を多数抱えて、日々発掘が行われていた近畿に比べると、高校の史学部が細々と発掘していた九州では、当時さしたる遺跡が無かったのも事実であった。小林行雄などは「九州には考古学上の遺跡が少ない。特に三種の神器の一つである鏡は近畿地方から多く出土し、九州からはほんの数枚しか出ていない。倭人伝には、卑弥呼は魏から銅鏡百枚を貰ったとあるが、その多くは大和を中心にして広く畿内に分布したものと見るべきである。」と言っていたし、肥後和男は「ヤマトは元々大和地方の呼び方であって、古くから奈良を中心に栄えてきたのである。歴史的に文化的にも大和が日本の中心として栄えてきたのであって、九州地方には3世紀当時、7万戸を擁するような場所は無い。山門郡にしても宇佐にしても狭小な所で、とても邪馬台国があった所とは認めがたい。」などと唱えていた。
しかし、その後の学問的成果は周知の通りである。昭和後半あたりからの発掘ラッシュによって、遺跡は近畿圏にもその規模に例を見ないような「吉野ヶ里」や「原の辻」や「平塚川添」などが続々と出現した。また古地質学・古地形学や人口問題の研究によって、弥生期の人口は、いまでは筑後平野の方が、奈良盆地を遙かに上回る人口であった事がほぼ確定的となっている。
第2段階 魏鏡論
「三角縁神獣鏡は魏鏡であって、これこそ卑弥呼が魏から貰った鏡であり、これが広範に分布する近畿にこそ邪馬台国があった。」という神話は、長い間近畿説学者達のよりどころであった。時代が合わないという批判に対して、前出の小林行男などは「伝世鏡」などという奇想天外な説を持ち出して、弥生時代の鏡が百年間伝世されて古墳に副葬されたと唱え、不思議なことに、これに疑義を挟む学者は近畿圏に殆ど居なかったのである。同志社の森浩一教授が「三角縁神獣鏡は和鏡である」と唱えてからは、これが和鏡か魏鏡かを巡って大論争が続いていたが、現代ではもう三角縁神獣鏡を魏鏡と主張する学者はわずかである。ごく一部の「妄信的郷土史家」的学者を除いて、これは日本で製造された和鏡であるという所に落ち着いている。
第3段階 年代論
次に、主として近畿圏の「妄信的郷土史家」的学者たちが取り組んだのは、古代の時代区分を古く古く遡らせる事であった。稲作の起源が紀元前10世紀に遡るという説も、ひいてはこの遠大な計画の一環とみなすことも出来る。彼等はまず古墳の築造年代を見直した。何十年も前に発掘された古墳を再調査し、新たに見つかった土器のかけらや出土物を元に、「これは考えられていた年代より百年は古い」とか、「この古墳の築造は4世紀初頭とされていたが、再調査の結果3世紀中葉に築造されたものと考えられる」などと発表しだし、近畿圏の古墳の年代は軒並みその築造年代が遡った。
春成教授とその一派にとって、卑弥呼の墓である箸墓の築造年代を、卑弥呼が死んだ弥生時代に持ってくることはいわば悲願であるといってよい。そのことだけが、あまりにも念頭にある余り、いわば手段を選んでいないのが、今回の炭素14年代論論争である。初めに結論がまずあるのである。その為にはありとあらゆる手段をもちいる。年輪年代法、炭素14年代法など、一見科学的と思える手法を駆使して、箸墓の築造年代を卑弥呼の死亡時期に併せようとやっきである。その姿が、アマチュアの歴史マニアから見れば藤村新一とダブって見えてしまうのだ。
箸墓古墳の築造年代や、布留式土器の初現の時期を古く古く見つもる見解は、近畿圏の一部の学者たちを中心に今でも唱えられているが、それも確たる証拠をもっているわけではなく、むしろあまり古く見積もり過ぎて、遺跡・遺物が連続せず途中で空白を生じたり、無理な説明におちいっているようにみえる。自ら墓穴を掘っているのである。
邪馬台国近畿説論者たちは、あまりにも焦りすぎるように見える。第1、第2の段階で近畿説が地にまみれたとは言っても、それは九州説やその他の説が有利になったわけではないのだ。今の段階では、邪馬台国をここだと決定づける最終的な要因はまだ無いと言ってよい。ひらたく言えば、現時点では邪馬台国がどこかは分からないのである。文献の解釈は一通り済んでいるし、重箱の隅をつつくような議論はまだ続いてはいるものの、何か論争の方向を大きく左右するような新発見でも無い限り、論争は今の所膠着状態である。
我々の世代でわからなければ、解決は次代へ先送りしてもいいのである。解釈をねじ曲げて、無理矢理論を立てても、やがて誰かがその誤謬を暴き出す。データを捏造して、世論を操作できたと思っても、それが正しかったかどうかはやがて歴史が明らかにする。
不正な手段の上に成り立っている論などは、その論者個人の名誉が地に落ちるだけではない。「名誉」教授が「不名誉」教授になるだけではすまないのだ。彼を取り囲む機関や学界をも巻き込んで、全ての学究の営みが、全く無に帰してしまう危険性を孕んでいるのである。藤村新一は、身を以てそのことを我々に教えてくれたのでは無かったか。
>彼を取り囲む機関や学界をも巻き込んで、全ての学究の営みが、全く無に帰してしまう危険性を孕んでいるのである。
これが狙いなんじゃないの?、日本の歴史は捏造アルカニダ。歴史は中共政府が管理する。
コピペうざい
調べれば調べるほど、歴博の捏造発表って批判が出てくるな。近畿説側からも捏造扱いされてて笑える、味方は朝日新聞て。
>(近畿説の)主張をおこなっている私自身からみても、今回の歴博グループの発表は、とくに春成秀爾先生の被葬者云々の主張は聞くに耐えない「戯言」にしか映りません。それを放置することは、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性を論じてきた日本考古学史に汚点しか残さない。そう考えてもいます。
とそんな中、考古学の主張に合わせて、C14年代の方を日本独自に歴史修正する(J-Cal)って書いてあるんだけど、特に稲作伝来付近と鏡の時期が「確実に間違っている」から、歴博が年代修正するんだとさ。
C14の結果で裏打ちされるのではなく、ここが卑弥呼とか鏡100年古いって断定したところから、「科学測定の解釈を決める」って事なんですかね。
最近の資料読んでも、C14で数十年の誤差が出るって書いてあるし、日本の木材は数十年古く出るって事も変わってない。
不自然な炭素の増減(古く出たり若く出たりする)は気候によるものと予測されていて、270年の所だけ数十年古く出るはずの日本木材とIntCalが重なって、木材炭素増加してるのは、これがたまたま出た数年間と見るべきで、270付近で数年土器が作られて、その後0式に戻って出なくなるのはおかしい。
布留1式の炭素年代がIntCalより数十年古いのを安定して満たしているのは、360年ピークの期間、
さらに、庄内が1式と同年代の炭素で出てしまう事も、270年の炭素増加時期に作られた物が、後の1式時代と重なるからって事で説明がつく。
などと色々解釈こねてみても、現段階では、全く話にならんね。
今後大学調査などで資料が増えてくのを待つしかない。薬剤で古く出せるとか警告する文章入れる人もいるし、まともな大学学者に期待してます。
とりあえず歴博には気をつけろ。
ずいぶん書いてくれたけど、歴博が嫌いしか書いてない気がする
どうせ邪馬台国の怪HPのコピペだろう
いい時代になったよな
昔だったら炭素法で3世紀ですって報道されたらそれで決まりだったけど、今はそれを検証できるようになった
検証してくれればいいんだけど。
「自分がこうだと思っていた編年(古墳時代は4世紀)と100年違う」しかここの書き込みにはないんですがね。
>C14法ですが、これは各方面で言われるように非常にバラつきがあります。同じ方法で、同じ試料を用いても、検査機関によって50年から100年、ひどいときには300年以上のばらつきがあります。
>今回の発表でも、たとえば北海道埋蔵文化財センター、あるいは九州大学の測定値と、国立民俗学博物館の測定値は異なっています。 ~ そのデータの取り扱いや測定方法に対して、これらの機関が歴博に質問した内容に対して、歴博は全く答えていません。
>土器に付着していた試料というのは、相当古い年代を示すというデータがあるにもかかわらず、それを是正していないのはなぜか? 内陸部と海岸部でもC14の値は相当異なるのにその補正値を考慮していないのはなぜか、等々。
はいどうぞお答えください。
九州説なんて郷土史家しか残ってないだろ
邪馬台国大研究・ホームページ またもや捏造する歴博というサイトを見れば
コラムがなど引用されているが、井上筑前(福岡県朝倉市に生まれ)とか
九州大学とか九州説派が批判しているだけのようだな。
単純な話、
九州説派は畿内説批判している暇があれば、邪馬台国が九州あったといえるだけの
遺跡を発見すればいいだけの事なのに、何故それができないクセに九州にあったと
未だに主張しているのだろう。
出土品>>>>>>>文献記述というのは常識なのに。
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
「今のはボールだろ!」←わかる
「つ誤審だからオレの勝ちだ」←は?
九州説はこんなのばっか
>2997
>土器に付着していた試料というのは、相当古い年代を示すというデータがある
これも基準をどっちに取るか、ですよね?
あなたが正しいと思う編年からすると、相当古い年代というだけで。
あなたが正しいと思う「編年の根拠」と比較しないと、議論にならないんですよ。
>3002
捏造がばれて言い返せなくなったから、声闘に持ち込もうという話。
朝昼お仕事本日もご苦労。
※3002
再鑑定すればいいのでは?
短里なのだから、九州により多くの魏の鏡があり、畿内にほとんどない鉄や全くない絹が九州にあり、奴国や伊都国が北部九州にあり、直径130メートル近い3世紀の古墳が南部九州にあろうと、魏志倭人伝の里数を当てはめ、方角を南から東に変えれば畿内になる。
例えC14が疑わしくとも現状、文献>出土物と考えれば、邪馬台国は畿内になる
≫3002
いつも他の書き込みを批判する様に自分の一次資料は出さないの?
鑑定に用いた試料の写真と測定結果と測定者の名前、履歴と、研究資金の出所待ってるぞ!
魏志倭人伝の記述が不確かなのは一致してるんだからほかの資料の補助として考えればいい
考古学的には近畿とのことだが本スレで上げてることは言うほどのことなのだろうか?
入れ墨の件や地理的な要素、日本書紀につながる部分を考えたら九州説のほうが自然だろう
あとはゴットハンドとそれと同じムジナのしりぬぐいはもう終わったんだろうか
※3005
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
>直径130メートル近い3世紀の古墳が南部九州にあろうと
そこが邪馬台国だとすると、それに対抗しうる大勢力狗奴国が消滅するから却下。ざんねーんw
※3006
>入れ墨の件
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
>地理的な要素
水行陸行2月に、その先にデカイ狗奴国まで考えたら九州は絶対にありえんわぼけ
>日本書紀につながる部分
テンプレ3
九州説「記紀に東遷したって書いてる!だから九州」
畿内説「晋への朝貢時にはすでに奈良が都って記紀に書いてる」
九州説「ぐぬぬ」
×※3006
○※3007
狗奴国について魏志倭人伝に広さ書いてあったっけ?
考古学的な正しさとはすなわち里数と七万戸
ゆえに畿内が正しい
鏡もC14も里数と七万戸には全く関係ないから捏造でも畿内説の考古学的正しさは揺らがない
※3011
小さい国なのに対抗できると?
仮に邪馬台国が長崎、佐賀、福岡、大分、宮崎なら熊本、鹿児島で十分対抗できると思うけど…
逆に邪馬台国が九州、山口から新潟までの日本海、広島から大阪までの瀬戸内海、滋賀から和歌山だとしたら、三重から静岡の範囲じゃ対抗できないと思う
もし邪馬台国が九州全域だとしたら中国、四国、近畿地方の勢力が対抗できたんじゃない?
>3003
声闘って言われる前に先に言えば勝ちだと思ってませんか?ww
3004、3005も合わせて、古田史学の会と邪馬台国の会以外のソースは結局出てこないんですよねぇ。
そして発表している研究者の背景とか、予算の獲得とか、「科学以外の批判」しかしてないですよね。
私が1826で水月湖の年縞の話をしたのを覚えていますか? 私も考古学に関しては素人ですが、それでもあえて言いますがあなたより科学的データの扱い方はよほど分かっていますよ。統計も分からない人が科学以外の部分で印象操作しても無駄です。
科学はそれぞれの立場で研究して発表をして、互いに批判しながら真理の追究をしていくものです。そして、新しいデータや根拠が出たら、その信憑性を互いに吟味して、その都度修正をしていくものです。現時点で一番信頼できるとされている情報を元に考えている、ということですよ。
それを自分の考えと合わないから、という理由で「あーあ-聞こえない、オレが信じる歴史と違うから間違っているに違いない、捏造だ」っていうのは、意味ないですよ。
「あなたの信じる編年の根拠はなんですか?」には、ずっと答えてくれないですよね。
>3014
邪馬台国は中央集権国家ではないから、兵員の動員とかはできなかったと私は思います。
これまでにも九州派の人も書いているように、纒向の性格は宗教都市だと考えられていますし、女王国連合の中身も、前方後円墳(地祇を信じる場合は前方後方墳)で墓制を統一することが本質のようです。
そう考えると、狗奴国との争いという点では、畿内と東海の争い以上の広がりは考えなくてよいように思います。
>>3009
※3006
>入れ墨の件
テンプレ2
九州説「絹や鉄は九州!だから九州」
畿内説「邪馬台国までは遠くていけなかった(里数も不明)から、伊都国の習俗を書いただけ」
九州説「ぐぬぬ」
「遠くて行けなかった」って・・・それって魏志倭人伝は全部推測で書いてますってことじゃ・・・
>地理的な要素
水行陸行2月に、その先にデカイ狗奴国まで考えたら九州は絶対にありえんわぼけ
狗奴国がどんだけでかいと考えてるのかは知らないけど、なんで?
>日本書紀につながる部分
テンプレ3
九州説「記紀に東遷したって書いてる!だから九州」
畿内説「晋への朝貢時にはすでに奈良が都って記紀に書いてる」
九州説「ぐぬぬ」
どういった書き方だろうか?奈良からさらに東遷したということだろうか?朝貢というのは西晋に対しての時で東晋の際ではないということでいいんだよね?
横から
>①科学はそれぞれの立場で研究して発表をして、互いに批判しながら真理の追究をしていくものです。そして、②新しいデータや根拠が出たら、その信憑性を互いに吟味して、その都度修正をしていくものです。③現時点で一番信頼できるとされている情報を元に考えている、ということですよ。
まず①の「それぞれの立場」を明らかにするために発表者の公表がある(匿名の論文なんてあるか?)
そして②のためには発表した「全てのデータ」を公表する必要がある(一部黒塗りの論文なんか読んでどないすんねん)
さらに③の現時点で一番信頼できると「されている」情報なんてものは存在しない(一番信頼できる情報を誰が決めんねん)
>>3009
晋は春秋時代の晋(紀元前11世紀 – 紀元前376年)だよね?
ちょうど日本書紀の東遷は紀元前6世紀だもんね
※3016
倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
その程度の小競り合いに魏はずいぶんと大げさですな
>>それを自分の考えと合わないから、という理由で「あーあ-聞こえない、オレが信じる歴史と違うから間違っているに違いない、捏造だ」っていうのは、意味ないですよ。
結論でてんじゃん
箸墓古墳を三世紀にしたいからって土器の内側の付着物が100年古く鑑定されるのを利用しただけじゃん
サンキュー34!フォーエバー34!ジャスティス34!
ほんで九州説を裏付ける遺跡は?
>>3022
九州には遺跡自体は多いよ
裏付けるというのが何を指しているかがわからない
>>3022
記事にもなっている通り短里と七万戸が根拠だからそんな質問は無意味なんだよ
やたら遺跡にこだわるけど意味ないんだよ
纏向遺跡=邪馬台国だけ覚えて帰ってください
※3022
九州にしろ畿内にしろそんなもん出てきたら議論いらんがな
>3022
日本全国でそれを探してるんだろ?
3022
土器に付着した炭素が3世紀の場所でいいよ
>3023
要求されてるのは九州邪馬台国の根拠になる遺跡と中国との交流痕跡を出せってことだろ
ごちゃごちゃ言わんでさっさと出せばいいだけ
畿内説:伊都国が窓口だから纏向遺跡(邪馬台国)に魏の痕跡がなくてOK
九州説への批判:邪馬台国には魏との交流がなくてはならない
どっちやねん
卑弥呼を北京語の発音でfei nii uu. おそらく魏の国では違う発音だったろう。ヒミコと云う名前だったかも分からない。しかし存在ははっきりしている。
>3029
纒向での魏との交流痕跡とっくに出してるだろが
過去レス読んでから書き込めや
>3018
だから九州説の人に「あなたにとって一番信頼できると考えるデータを教えてください」と何度も聞いているのですけれどね。
人によって何を信頼できるとするかは違うでしょうから。
でもそれには答えずに3021みたいな「混ぜっ返しで勝利宣言」するだけなんですよ。
こっちはとりあえず論文のpdfのurlを示したりはしてるんですけどね。ブログの論点と公表論文とどちらを信用するかはそれぞれの判断でいいと思いますが、内容ではなく「歴博だから捏造」しか言わないし。
C14に懐疑的な人が貼った一次資料が一番信頼できた
まさか批判が全部歴博だからしかないと思ってんのか?
>>34以降都合の悪いことは無視していくスタイル
>いまだ測定データが十分ではないにしても
>年代測定は奈良盆地の資料について実施したものであり
>布留 0 式に築造された箸墓古墳の年代は 3 世紀中頃に求められ[岸本 2004c]
>布留 1 式 古墳の年代観から 3 世紀後半を中心とする時期と考えられることと整合し
>布留 2 式のデータは少ないが,2 点のデータは,すなわち 3 世紀末から 4 世紀前葉に相当する。布留 1 式との交替期は厳密には不明であるが,4 世紀初頭から前葉のなかにありそうである。
>大和では庄内型甕は未成立で,藤田三郎らは「第Ⅴ様式土器」の末期に位置づけⅥ 4 様式とする[藤田 ・ 松本 1989]。
>直後の庄内0式(=纒向 1 式≒大和Ⅵ 4 式)は 2 世紀前半に中心があるが,100 年頃のピークに近いデータがあることから,歴博は大和Ⅵ 3(河内Ⅵ 1・2)を,1 世紀末の Jcal 帯の落ち込みに対応させる。しかし,「第Ⅴ様式土器」全体が 1 世紀に収まるとみることは困難であり、大和Ⅵ 3(河内Ⅵ 1・2)のデータは,2 世紀前葉に下らせることが適当と考える。5 期に区分される大和の「第Ⅴ様式土器」は、現時点では,1 世紀前葉から 2 世紀前葉になるとみた方がよいと思う。
>現時点ではデータが乏しく,開始期と後続する庄内式からおおよその時期幅が推測できる段階であり,測定データの蓄積が望まれる。
さぞ素晴らしい内容やろと思って見たんやが、ここまで恣意的だと驚くで
弥生時代後期の地域圏図に広島と熊本と宮崎ないんだが…
弥生時代後期のヤマト国の評価は高くない。これまでの鉄器出土量は多くなく,吉備・出雲・丹
後のような大型墳丘墓はないとされる。しかし,ヤマト国を主導する中河内・大和南部は広い平野
部を擁し,生活拠点も墳墓も低地部にあり,遺跡の実態は,まだ限定的にしか明らかになっていな
い。拠点的遺跡の内実,鉄器や首長墓の様相はまだ解明されているわけではない。
畿内の潜在的生産性
畿内は,東海地域とならんで列島において平野面積が大きい地域であり,ここでは潜在的な生産
力が高かったことが確認できればよい。基礎となる農業生産力からすれば,畿内がひとつにまとま
ることで,列島の中で最有力となる潜在的な実力を有していたとみる。
もとねたはこれかな?
だから畿内連合とか潜在的とか未だ発見されてないだけとか言ってたのかな?
しかし土器の独自性もまた顕著であり,それぞれの地域圏の維持を図っている時期
河内と大和の交流は残念ながら土器ベースだとほとんどないことは学者なら常識だね
近畿地方では,前期末には石鏃の大型化が始まり,中期にはいると凸基式・有茎式を発達させ,
地域内抗争が始まっている。吉備や讃岐,東海地域でも,やがて中期後葉になると石鏃の大型化が
顕在化する。松木武彦によれば,大きな平野部を有する地域で,農耕社会の定着とともに地域内部
での抗争が始まるが、早期末に抗争の始まる北部九州には遅れるものの,北部九州より以東の地域
のなかで,近畿地方ではこれに次いで中期前半に抗争が始まっているという。
ここは畿内説の人たちとは違うみたいだね
岩永省三は,こうした吉備や出雲に対し,銅鐸の鋳造を続けることについて,王墓の発達が顕著
でないこととともに,ヤマト国の後進性とみる。
やはり銅鐸が畿内勢力の範囲だとするのは多くの学者が認めるところ
鉄はないが高い青銅器技術があり鉄の使用がなかったことを裏付けている
後進性とは思わんがね
完形の後漢鏡の手擦れは,弥生時代における分割使用と考えられる破鏡と共通しており,ともに長期使用による摩滅とみている。鶴尾神社 4 号墳の方格規矩鏡のように,割れたものを穿孔し紐で緊縛して用いていることも,長期間にわたり大切に扱われてきたことを示す。
伝世鏡を認めてる。ここも畿内説派との違い
出土鉄器量の寡少さ,大型墳丘墓の不在から低くみられることが多い
これが考古学的事実?
邪馬台国に至る経路の解釈の点でも[山尾 1983],「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡であることからも[福永 2005],邪馬台国は畿内ヤマト国に比定できる。
したがって,考古学的な現象と〈魏志倭人伝〉の記述を結びつけることができ,2 世紀後葉に倭国乱が生じ,長引く戦争を終結させるために,倭国という枠組みを作りだしたと考えることができる。卑弥呼共立は神功紀から 201 年と考えている[岸本 2011]。
一点気になるんだがこの論文は銅鏡100枚を三角縁神獣鏡と定義してるんだよな
さらに経路解釈も短里だな
まず,14C 年代計測データの充実が望まれる。冒頭で示した畿内における年代的枠組みも,とくに 2 世紀についてはさらに精度を上げることが望まれる。古墳時代を専門とする筆者には,布留 2式以後,古墳時代中期までの年代を是非とも知りたいのであるが,それは措くとして,本論の関係でいえば,弥生時代後期から庄内式にかけて,各地での計測が進むことにより,その対応関係が明らかになることが,なによりもこの時代を考える上で重要である。
吉備の楯築墓との関係については,これからも思考を重ねたい。
3 世紀前半の各地の纒向型前方後円墳についても,纒向に築造されたヤマト国王墓の波及と考えることが妥当であると考えるが,個々の検討が課題である。
国家形成の議論については,根拠のない思いこみを羅列したと受け取られても仕方がない。
この論文を引用した人の印象操作のせいで間違って理解した人多そう
結局「箸墓古墳が3世紀だったらこうなるだろう」ということがかかれていて最後にちゃんともっとデータを集めたいってかいてある。
引用者のように「箸墓古墳は3世紀で決まり!古墳時代の新たな真実!」みたいな論調では決してない
論文というよりは意見書みたいなもんかな
この論文が書かれた時期にはまだ発見されていない遺跡については当たり前だけど載ってない
もう少し最新の情報に基づいた論文も読みたいね
>3038
まともな研究を求めても、捏造優先でその環境が得られないのですよ。
古墳時代を知るためには、4世紀への繋がりが重要な手掛かりだと思われますが、
歴博は3世紀までの調査なんです。
纏向関連で100年繰り上げると、土師器との間で4世紀がすかすかになる事が予測されますが、土師器までは捏造の手が回らないので、4世紀を調べない、という考えだと思います。
また、Jcalという日本独自基準を、歴博の主張に合うように創出し、科学調査の「解釈変更」で年代が歪められています、もっともその科学調査すら誤差数十年でしか結果が出ないのですけどね。
知れば知るほど、腹立たしい事だらけですよ。
口開けて情報を待っていたら、毒餌(偏向情報)を投げ込まれます。
信頼できる情報の精査から行わなければいけない。金を掛けて学術破壊を行っているのが今の日本の現状です。
繰り返しますが、
C14年代測定から遺跡の年代が出たのではありません。
主張したい遺跡の年代(考古学視点)から、C14年代測定の解釈(J-cal)が創られたのです。
研究費も研究対象も、科学の解釈方法すら歴博一味が全て操作しています。
J-cal
歴博によって創られた、考古学視点を取り入れた、日本独自の編年基準です。
歴博が捏造やってると書いてるやつは研究者に対する侮辱だが名誉毀損で訴えられればいい
覚悟があってやってるんだよな
※3014
>仮に邪馬台国が長崎、佐賀、福岡、大分、宮崎なら熊本、鹿児島で十分対抗
単純計算で5vs2だぞ。
熊本鹿児島に大きな遺跡あんの?
>三重から静岡の範囲じゃ対抗できない
静岡の先に関東もあるだろ。甲信地方もあるし。
あと邪馬台国畿内ならば北陸は「東方の和種」に比定で邪馬台国圏から除外な。
「遣魏使」
西暦236年 倭国は公孫氏に親善使を送った そのため魏からは敵国とみなされたが238年に公孫氏が滅び さらに239年明帝(曹叡)が病気と知り特使を送ることにした
正使-難升米(ナシメ 大吉備津彦の末弟?)
副使-牛利(ゴリ 奴国の王子)
護衛-カラスの越 他 (越は後にも使者を務めた)
魏は曹操が220年に没した後 曹丕が後を継いだがわずか6年で没した その子曹叡も病弱で魏の将来に不安を抱いていたので倭国の使節は歓迎された 多くの品々が下賜され銅鏡だけで100kg以上であった使節は出立してから半年後に帰国しヒミコに帰朝報告をした この様子は「ミコりんブログ」で公開され再生回数は1億回を超えた
※3014
>もし邪馬台国が九州全域だとしたら中国、四国、近畿地方の勢力が対抗できたんじゃない?
狗奴国は、邪馬台国の南にあるはずだけど?
※3017
>それって魏志倭人伝は全部推測で書いてますってことじゃ・・・
×全部
○伊都国周辺以外
>狗奴国がどんだけでかいと考えてるのかは知らないけど、なんで?
北九州から邪馬台国までは結構遠い。そのさらに先に邪馬台国に対抗できるぐらいでかい狗奴国がある。九州では尺が足りない。足りると思うなら説明してみ。
だいたいさあ、九州説のカスどもは邪馬台国や狗奴国の位置もちゃんと言わずに逃げまくってて話にならん。邪馬台国の位置からして筑紫なのか宮崎なのか九州説内部ですらまとまってないからな。民主党と共産党の野合と一緒。誰にも支持される訳ない。
>どういった書き方だろうか?奈良からさらに東遷したということだろうか?
は?日本書紀ちゃんと読んでから書込めよ。
3045
九州説人発見
※3046
C14については捏造とまでは言えないけど現状怪しいということでいいの?
気になったからウィキペディアで調べてみた(間違っていたらどうしよう…)
女王国の勢力下とされてもおかしくない地域
佐賀 2,439 km²
長崎 4,093 km²
福岡 4,971 km²
大分 6,339 km²
宮崎 6,685 km²
狗奴国とされてもおかしくない地域
熊本 7,405 km²
鹿児島 9,132 km²
宮崎を狗奴国にすると邪馬台国より狗奴国のほうが広くなっちゃいますね…
>3043
纏向遺跡から出土する土器から北陸は纏向王国の勢力圏だぞ
※3047
九州だと仮定した場合って言ってるだけ
九州だと仮定した場合
↓
邪馬台国は南
狗奴国もそのさらに南
↑
矛盾
↓
邪馬台国は九州全体
狗奴国は本州
よって邪馬台国は九州全体説は消滅ってこと。残念だったなw
※3051
狗奴国を邪馬台国の南と読むのは九州説
畿内説では南を東と読み替える
よって
※3045は「狗奴国は、邪馬台国の南にあるはずだけど?」により九州説
>3045
>※3047
>九州だと仮定した場合って言ってるだけ
九州だと仮定していいのかね
それなら九州北部だとしたら整合性があることになるぞ
一階掘ってヤバいってんで埋めちゃった遺跡あんじゃん
近いだけあってそういうメンタリティも鮮人に似てるのね
※3049
宮崎は邪馬台国じゃなかったのかよw九州説テキトーすぎ
宮崎が狗奴国だとすると邪馬台国は近すぎだね
どっちにしろ九州はありえんわ
※3053
>直径130メートル近い3世紀の古墳が南部九州に(※3005)
↑これは諦めたってことでOK?w
北部九州だと水行陸行2月に近すぎて整合しない
九州説は諦めれ
※3052
九州だと仮定した場合って言ってるだけ
C14が否定されたから次は狗奴国?
邪馬台国以上に記述なくね?
何があろうと短里説の正しさのみが揺らがない
※3043
>単純計算で5vs2だぞ。
こいつは何説?
適当すぎんだろw
3054
長屋王の屋敷跡のことですね
>>3054
纒向遺跡の古墳群なんて邪魔やからと盛ってる部分平らにして道路にしたり建物建てたんやで
地下の石室しかない古墳とかあってもう二度と元に戻らん
流石奈良県やで土建強すぎや
>3042
脅迫か、覚語ならあるぞ。
土器空白の4世紀を創り出し、そこで朝鮮半島の4世紀土器が発見される事を持ち出し、日本は朝鮮人が支配した国とするのだろ。
中国の臣下として朝鮮人が支配した日本奴隷国
こんな歴史を何十年でも何百年でも言い続けて、日本に押しつける腹づもりだろう。
歴史をねじ曲げ穢されるくらいなら、屈せず戦う事も辞さない、そういった在野の研究者が9割というのが事実であろう。
歴史を捏造する事が目的なのだ。
だから証拠も論理も一切関係なくあるいは捏造し、結論を強弁し続ける事が「正しい」方法論なのだ。
議論も対話も通用しない集団が、日本を破壊し続けている。
歴史に限らず、文化や政治経済に至るまで、昨今の数々の証拠が示すとおり。
>3044
>「遣魏使」
>西暦236年 倭国は公孫氏に親善使を送った そのため魏からは敵国とみなされた
遣魏使の1行目から遣魏使ではないという矛盾。
西暦236年親善使についての資料は示されていましたか?
4世紀
( 庄内式 )
( 布留式 )
( 土師器 )
( 庄内式 )
( 布留式 ←200年ずらす(J-cal)
( 土師器 )
( 庄内式 )
( 布留式 ←200年ずらす(J-cal)
| 朝鮮式 | ←4世紀に朝鮮が日本を支配した証拠
( 土師器 )
大和成立期が知りたければ、朝鮮土器を調べればよい
※3060
九州説だぞw
テキトーなんだよ
バカしか支持してないw
3054
狗奴国比定の静岡の古墳も潰されかけたしな
邪馬台国九州説にとって邪魔だから
>3044
>西暦236年 倭国は公孫氏に親善使を送った
これ、しばらく前にこちらで聞いたのですが、文献資料はないそうですよ?
どこから引っ張ってきた情報ですか?
おそらく在野の方の推論だと思うのですが?
>3038
>「弥生時代後期」のヤマト国の評価は高くない
「 」は引用者
この「弥生時代後期」が何を意味するかなんですよ。
このコメント欄でもさんざん書かれて来ましたが、箸墓の築造をもって古墳時代の開始とする、というのは問題ないと思います。
そして、纏向には箸墓以前の大規模墳丘墓が5基あります。うち、ホケノ山は位置が半端な場所にあって位置づけが難しいし、編年も定まっていない(ことにしましょう、面倒ですから)ですが、纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳は、箸墓よりも古い築造です。これらが箸墓以前(=古墳時代に入っていない)なのに、古墳と呼ばれていることで混乱を招いていますが、これらはたとえば吉備の楯築墳丘墓と同じ時期の位置づけになります。いわゆる、各地の王墓級弥生墳丘墓の時代のものであり、楯築墳丘墓よりも規模が大きいものです。
古墳時代に入る前の時期は弥生時代後期ではないのでしょうか? これを後期ではないとして、この古墳時代に繋がる弥生時代の最後の時期には、列島で最大規模の墳丘墓を作れる勢力があったということです。
そして、この弥生から古墳時代に移り行く移行期を、古墳時代前代的に「古墳時代早期」等の用語で扱うのが寺沢薫等の立論の基礎なのですが、これは単に呼び方の問題であり、箸墓をもって古墳時代の始まりとするという立場からすれば、まだ弥生時代です。「その時期を古墳時代と呼ぶのは古墳時代を早くしたい勢力の捏造」っていうのが、九州派の人が繰り返していることですが、年代が数十年動いたところで、3世紀半ば(楯築墳丘墓が作られた弥生時代後期)に列島最大規模の墳丘墓が纏向遺跡に作られています。
纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳の4つの墳丘墓が、纏向を共同で作った4つの勢力の首長の墓を一箇所に集めたものか、それとも一人のヤマトの王を一代一墳的に作ったのかは分かりませんが、いずれにしても、箸墓よりも1世代前の、数十年前の築造になります。
岸本論文は、C14年代については「いまだ測定データが十分ではないにしても,現時点での14C 年代データにもとづく土器様式各段階の年代により,考古学的事象を暦年代の上に配置し,これにより弥生時代から古墳時代への転換を考えるものである」と書いてあり、その上で「データの精粗がある段階で確定的なことがいえない部分は残るが,(中略)布留式期についてはあまり問題はないだろう」というまとめになっています。
3038は「河内と大和の交流は残念ながら土器ベースだとほとんどないことは学者なら常識だね」と書いていますが、畿内「第Ⅴ様式土器」の時代(庄内式の前の時期)に
「近畿地方の弥生土器は,前期の土器を母とし,器形・口縁部形態・紋様など,それぞれの地域で独自化が進んでいたが,それが後期に「第Ⅴ様式土器」に斉一化する。約500 年を要して変化を遂げてきた日常土器の共通化は,統合を図る力が働かなければ成し遂げられないであろう。「第Ⅴ様式土器」を主体的に生みだしたのは中河内・大和南部であり,この地域の拠点集落が存続することから,中河内・南大和の主導勢力が畿内圏を形成したとみる。」
ということで、「交流」ではなく「一体化」が進んでいると見る方がよいのではないでしょうか。
3038のいう「この論文を引用した人の印象操作のせいで間違って理解した人多そう」については私の不徳の致すところで、そう思うなら反論はしませんが、最初から「私がぐだぐだ言うよりプロの書いた文章を読んでくれ」というのに、捏造だから意味がないと言って中身についての議論に進まないようにさせていたのが九州派です。
>3070
詐欺を暴きましょうか。
前提とする纏向古墳の年代が詐称されている、と散々語られているのに、
詐称された纏向古墳の年代、を基に議論を進める事で反論できる、と強弁している。
論文は仮定、データ、考察、結論、感想の順に並んでるから、仮定を頭に入れて結論を読んで、それからデータを見るといいぞ
そして最後に考察と感想読んで発表会で質問するといいぞ
データだけ切り取ると恣意的に使ってると言われても仕方がないぞ
纏向古墳の年代が詐称
→纏向古墳群の年代が歴博の恣意的な編年解釈により詐称
この方がいい
箸墓古墳を100年遡ったら他で100年空くんだがな。
あと周濠の泥は鎧や他の土器が投げ込まれるまで100年間溜まりっぱなしだったのか?
ちょっと放置しすぎじゃね?
箸墓古墳が3世紀ならその時代は河内と纒向遺跡の土器はそれぞれオリジナル期だから交流も支配も統合もないがな
河内飛び越えてどないして九州と瀬戸内支配するんやろな
※3017
>それって魏志倭人伝は全部推測で書いてますってことじゃ・・・
×全部
○伊都国周辺以外
>狗奴国がどんだけでかいと考えてるのかは知らないけど、なんで?
北九州から邪馬台国までは結構遠い。そのさらに先に邪馬台国に対抗できるぐらいでかい狗奴国がある。九州では尺が足りない。足りると思うなら説明してみ。
尺が足りないって魏の使節は計量しながらきたのだろうか?近畿説は方角を間違えてるというのが主張なんだよね?正確な距離を測るのは太陽を見て方角を図るより難しい。伊都国周辺以外は推測ならなんで尺が足らないくらいでかいと思ったのだろう?
あと魏の使節は一応外交官みたいなものだと思う。わざわざ出かけて自分の功績を軽く見られるくらいなら少なからず吹かすだろう。あるいは呉との関係から台湾あたりにあってほしいと考えるかもしれない。一部が間違ってるのが確定しているのだから事象の整合性を考えるのは必要だと思う。
>3074
その100年に4世紀の朝鮮土器が入ります。
4世紀のC14年代測定は、調査しませんので、朝鮮土器や土師器が遡って矛盾を起こすことは事はありません。
>3075
日本独自のC14年代解釈により、土器編年が100~200年遡りますので、3世紀にはすでに統合された事になります。
これが歴博が創る歴史です。
近畿説の人は狗奴国をどこに比定してるのか?
自分は畿内説に傾いているけど狗奴国=南九州だと思っていた
>3078
狗奴国については情報が少なすぎて決め手に欠けるが、可能性として3つ考えてる
1つめは東海地方のS字甕や前方後方墳分布地域
これは後漢書で狗奴国(厳密には字が違うが同一とみなすのが妥当)の方角が東に修正されたことも根拠のひとつ
2つめは伊勢あたり
狗奴国の男王の名が卑弥弓呼で卑弥呼に似ているので同一文化圏にあると判断したもの
卑弥呼≒ヒメミコ≒姫命、卑弥弓呼≒ヒコミコ≒彦命
卑弥呼との不和は邪馬台国連合の中でので内紛と解釈
後漢書での方角修正も根拠のひとつ
3つめは南九州
単なる語呂合わせで、狗奴国≒熊襲
3世紀~4世紀初頭のヤマト王権の版図を考えると可能性は低い
畿内は土器編年が杜撰すぎてな
ホケノの木棺の炭素年代測定結果から土器編年を変えるという本末転倒をやってるからな
なんとか纏向やらホケノやら箸墓を西暦200年代にあわせたいんだろうけど
結果からモノサシを変えるのは違うだろうと
土器付着の炭化物と木棺の測定結果が100年ずれるなら新しい方の合わせるべきであって
古いほうに合せるのなら、なぜヒノキのBC100年頃に合せないのか?
>3080
同じ庄内式土器でも畿内と九州で100年の差があるはずと主張する安本説か?
畿内と九州の間のどこかに時空の歪みが生じていたのかよ
そういうオカルトは月間ムーでやってくれ
後漢書の書き方を見ると、
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣
魏志倭人伝の 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 これを狗奴国と合体させたのだろうけど、方角が近畿からで正しいとするなら、南四千里の侏儒国ってどこなんだとか疑問が残る。
梁書では
其南有侏儒国 人長三四尺 又南黒齒國裸國 去倭四千餘里船行可一年至 又西南萬里有海人 身黒眼白裸而醜其肉羙行者或射而食之
狗奴国が消え黒歯国が南になり、四千里は船行1年って事と、おそらく南西諸島、沖縄~台湾辺りの海人を食糧にしてうまいって感想まで書いてるから、こっちの方角は割と合ってそうなんだけど、やっぱり近畿からじゃ疑問が残る。
すぐ後の隋書で、直接日本に行って書いた文章ですら、魏志倭人伝で南で正解だった壱岐まで東と書いたり、倭国に関する方角はいい加減に書換えられてる部分が多くて困るね。
※3081
炭素年代測定法の話だよ
土器付着物と木棺に100年差があるのに古い方に合わせるのは横暴だという話
しかもさらに古い方のヒノキには絶対合わせようとしないからな
九州上陸の話ですが、壱岐から唐津に船で行く馬鹿はしないでしょう、上陸するなら最短距離の名護屋か呼子あたりにするはず、そこから陸路で伊都を目指すならまず東南の方角に向かうのはあってます。
伊都=糸島ならわざわざ唐津にまわりこむより真っ直ぐ糸島まで船でいくはずです。
>3084
行程パズルしか眼中にない人の典型的な発想だな
一支国から伊都国への移動途中の任意の場所を選んで都合よく末盧国にしているが
たとえそこが上陸地点だろうが移動途中の「通過点」に過ぎない
魏志倭人伝の国とは国邑であり遺跡の裏付けがなければならない
名護屋やら呼子に4000戸の戸数は不可能
現実的には唐津しかないが、拠点集落の候補となる遺跡がいくつもあり決め手に欠けるのが現状
>伊都=糸島ならわざわざ唐津にまわりこむより真っ直ぐ糸島まで船でいくはずです。
これは正しいだろう
対馬海流が流れているのだから往路と復路で同じルートを通るはずがない
>3083
同じことだよ
現状、九州の土器編年=畿内の土器編年=C14年代
で整合性が取れてる
邪馬台国の怪が主張してるようにC14年代を100年後ろにずらしたら
畿内の土器編年も100年ずらさないといけなくなる
そうすると九州と畿内で100年のギャップが生じるという話
この時空の歪みを説明できるのか?
>>8
邪馬台国関係に、その糞つまんないの書き込んでるけど
あんた年齢的にかなりオッサンでしょ?
よくそんな恥ずかしいことかけるよね
※3086
貴方の思い描いている土器の編年を九州と畿内に分けて書いていただかない限りどうしようもありません
※3076
>尺が足りないって魏の使節は計量しながらきたのだろうか?
とりあえず水行陸行2月って書いてるから
>なんで尺が足らないくらいでかいと思ったのだろう?
邪馬台国に対抗しうる→でかい
逃げてないでさっさと説明しろやボケw
>2946
>安萬宮山古墳出土の「青龍三年(235年)」鏡の「龍」の字の旁は「大」となっている。この字体は4~5世紀の中国北朝(北魏、東魏、 西魏)時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。という ことは、この鏡が4~5世紀の作品であることを示している。
これと同汎鏡が、京丹後市大田南5号墳から出ています。大田南古墳群には、比較的大きな盟主墳的なものが4基あり、2号墳、4号墳、5号墳、6号墳と呼ばれています。これら4つの築造順序は、この2号墳が最初で、次に4,5号墳、最後に6号墳という順番だと考えられています。
2,4,5号墳は方墳で、4,5号墳には複数の埋葬施設がありました。6号墳は整った円墳で円筒埴輪が樹立されており、埋葬施設は一つです。こうしてみると、大田南古墳群と呼ばれていますが、4,5号墳あたりまでは、弥生時代の家族墓的な方形周溝墓を思わせるものがあり、古墳時代だとしても、最初期のものであるのは間違いないでしょう。2号墳と4,5号墳の築造間隔は正確には分かりませんが、これらが盟主墳であるなら一代一墳的な築成が考えられるので、一世代ほどと考えられます。
そして、鏡が出ているのは2号墳と5号墳で、2号墳からは「直径14.5㎝の「画文帯環状乳神獣鏡」」が、5号墳からは問題の「「青龍三年」銘の記年銘鏡、直径17.4㎝の「方格規矩四神鏡」」が出土しています。2号墳の「画文帯環状乳神獣鏡」は後漢時代(2世紀後半)のものと考えられています。また、方格規矩四神鏡は、通常は漢代から魏・晋代に盛行した形式といわれています。
また、土器編年からは、2号墓から山陰系の甕と鼓形器台が出土しており庄内式新段階との併行関係が見られる時代であり、4号墓からは布留式古段階と併行する資料と考えられる頸部に突帯を持つ山陰色の濃い特徴的な二重口縁壺が出土しています。そこから「京丹後市の考古資料」では「2号墳が最初に営まれ、やや遅れて、4、5号墳が営まれたと考えられ、その築造年代は3世紀中頃と推測される。」としています。
墳墓の形式、鏡の様式、土器編年は、ほぼ整合的に弥生終末期から古墳時代最初期であることを示しています。
これを、「龍の異体字一つ」で覆すのは難しいのではないでしょうか?
2号墳と5号墳の時間差はおそらく1世代数十年でしょう。そこに「2世紀後半」の「画文帯環状乳神獣鏡」と、2946の言うとおりなら「4~5世紀の作品」となる「方格規矩四神鏡」が並んで存在するとなると、間に2~300年の飛躍が必要なように思います。4~5世紀に、3世紀半ばの魏の年号を入れた鏡を作る動機や契機を想定するのも困難ですし。
異体字は、本当にいろいろな種類のものがいろいろな地域、時代に用いられており、つくりが「大」の龍の字も、「4~5世紀の中国北朝(北魏、東魏、 西魏)時代に使用された異体字」であることは言えても、「後漢・魏晋朝時代にはなかった字体」というのを証明するのは、悪魔の証明になりますし、できないと思います。この「方格規矩四神鏡」のつくりが「大」の龍の字は、「この鏡が4~5世紀の作品」と考えるより、「魏晋朝時代にもこの異体字が使われていた例」と考える方が蓋然性が高いと思いますがいかがでしょう。
>3074
>あと周濠の泥は鎧や他の土器が投げ込まれるまで100年間溜まりっぱなしだったのか?
>ちょっと放置しすぎじゃね?
というより、周濠の泥をさらったり掃除したりしたという話を聞いたことがありません。それこそ溜まりっ放しだと思いますよ。まあ、陵戸が具体的に何をして陵墓を守っていたのかの記録がないので、何とも言えないといえば言えないですが。ただ、周濠の浚渫のような大規模土木作業ができるような人数の陵戸は置かれていないと思います。大仙古墳で陵戸五烟ですから。
>3077
>朝鮮土器や土師器
これって、具体的にはどれのことを言ってらっしゃるんでしょうか?
3092
纒向遺跡からは韓式土器の破片が見つかってる
九州の土器はないが朝鮮半島の土器はある
畿内説ではこれが纒向遺跡と大陸との確実な繋がりであり、伊都国を経由しなくとも大陸と交易していた動かぬ証拠とされている
3090
築造時期のはっきりしている6号を外していることとC14土器編年に基づいていることと研究者なら常識の後漢鏡の制作年が古墳の築造時期とは一致しないことをかかないことと古墳時代を一世紀早めてその古墳時代前期と決めつけていることに姑息さを感じる
太田南5号古墳
この古墳は、京都府北部の丹後半島の中央部にあり、標高82メートルの山の上に築かれた4世紀の後半に築造されたとものとみられている。
>3095
>4世紀の後半に築造されたとものとみられている
それのソースは?
私は「平成17年度より開始しました京丹後市史編さん事業により」作成された、資料編『京丹後市の考古資料』からの引用なんですが。
「以上の点から、2号墳が最初に営まれ、やや遅れて、4、5号墳が営まれたと考えられ、その築造年代は3世紀中頃と推測される。
これに対し、整美な円墳であり巨大な墓壙に木郭、中央部ら礫床を持つ組合式木棺を持つ6号墳の築造年代4世紀中葉と推測される。」
大田南古墳群と呼ばれていて、6号墳は円筒埴輪も据えられているので明らかに古墳時代ですが、それ以前の2,4,5号墳は、むしろ弥生方形墓の範疇に入りそうな形態です。また、墳丘の配置2~5号分までは同じ尾根上、6号墳は別の尾根のふもと)から、4,5号墳と6号墳の間には断絶がありそうです。
>3093
>纒向遺跡からは韓式土器の破片が見つかってる
教えていただいたので、少しググって見たのですが、破片だけで量は出てないようですね。
出たところは、家ツラ地区という纏向遺跡の中でも最北東端くらいに位置する地点で、纏向遺跡のなかでも最後に拡大した地域だそうですね。
で、この韓式土器の破片から、何が言いたいのでしょう? とりあえず、これらの韓式土器を作るまたは持ち込んだ人たちが、纏向の大勢に影響を与えるような勢力であったようには見えないのですが。
3096
なんでぽっかり100年空いてんねん
中国で4世紀から5世紀まで使われていた字体が3世紀の日本にあるとか…
もはやオーパーツですな
銅鏡については、古代の中国の年号の入ったものが多数出土しています。青龍もあれば、景初、正始、赤烏、元康などもあります。中平という年号の入った剣も出ています。後漢から魏、呉、晋など多岐に渡る国の年号があるわけです。
青龍三年は、西暦235年で、卑弥呼が魏に遣使する前になります。三角縁神獣鏡が中国から出土しない理由として特注説がありますが、使いが来る前の特注はありえず、いろんな矛盾が見えます。青龍三年銘の鏡は、方格規矩四神鏡が多く、これまた、銘が入ったものが見つかっている三角縁神獣鏡と矛盾します。
だから、鏡に年号を入れるのは、後世の趣味というか流行だったと考えるのが妥当なようです。元康というのは、西暦290年から299年なので、恐らくこれよりも後に年号の入ったすべての鏡が日本で作られたと考えた方がよさそうです。
島根県の神原神社古墳から、景初三年(卑弥呼が魏に使いを送った年)の銘の入った三角縁神獣鏡が出ていますが、この古墳は4世紀後半といわれます。恐らく、四世紀半ば頃から年号の入った鏡などが作られるようになったのではないかと思われます。
特に、卑弥呼時代の年号(中平、青龍、景初、正始など)はけっこう由緒ある年号として認識されていたのでしょう。
朝日新聞の記事で、箸墓古墳の後円部頂上付近が全面に石を厚く積んだ特異な構造であることが判明したと伝えている。朝日新聞社は、箸墓古墳を管理する宮内庁に対して、これまで公開されてこなかった発掘調査の記録を情報公開請求した。そして、1968年と71年、74年に撮影した前方部と後方部の写真55枚、調査結果を報告した文書、出土土器や調査地の図面などを得た。入手した写真の一部を精査したところ、後円部頂上が全面葺石で覆われていることが明らかになった。そのことを伝える朝日新聞のスクープ記事であり、いずれの他紙もこの情報を伝えていない。
大阪本社では「箸墓 石積みの偉容」「44年前の宮内庁調査」というタイトルを付けているのに対して、東京本社では、「卑弥呼説の古墳、石覆う」「頂上部分、特異な構造」となっている。おそらく、塚本記者が付けた見出しを、東京本社の編集部が読者の関心を引くために変更し、卑弥呼の名を出したのであろう。文字の活字も大きい。見出しの表現次第で読者の関心度はまったく違ってくる
邪馬台国畿内説の根拠とされてきたのが、近つ飛鳥博物館館長白石太一郎氏などが説く箸墓古墳をもって古墳時代の幕開けとする説である。白石氏によれば、卑弥呼の死を契機として、干戈交えた邪馬台国連合とその東にあった狗奴国くなこく連合が新しい首長連合を形成し、ここに「初期ヤマト政権」とでも呼ぶべき統合国家が成立したという。そして、統合の象徴として採用したのが新しい墓制、すなわち”定型化された前方後円墳”であり、箸墓古墳はさしずめ定型化された第一号の前方後円墳ということになる。
白石氏の箸墓古墳の年代論は考古学的年代論ではなく、笠井新也氏の『古事記に記す没年』を下敷きにした文献的年代論である。そして、文献的年代論に基づけば、第10代崇神天皇の没年は西暦360年前後と見られ、箸墓古墳の築造もせいぜいその10年前以内程度であるとのことだ。だが、最近の研究では、卑弥呼の死亡時期を意識してか箸墓古墳の築造時期がどんどん早められる傾向にある。しかし、専門家の間では築造時期の統一見解はない。橿考研の所員として纒向遺跡に携わった関川尚功せきかわひさよし氏は4世紀中頃といい、寺沢薫氏は3世紀後半とし、白石太一郎氏は3世紀中頃としている。
前方後円墳では最古とされる奈良県桜井市の「箸墓古墳」の前方部南側で、二重の周濠跡が見つかった。桜井市教委が発表した。過去の調査でも指摘されていた大規模な二重周濠の存在が確定的になった。二重周濠が一般化するのは4世紀末である。
前方部南で、幅約55メートルに及ぶ外濠と幅約11メートルの外濠の堤の痕跡が見つかった。幅約6メートルの内濠の堤も確認された。
前方後円墳の二重周濠は、4世紀末の大阪府藤井寺市の津堂城山古墳から一般的になり、堺市の大山古墳(仁徳天皇陵)など5世紀以後の大王墓クラスで定着した。
>3100
>三角縁神獣鏡が中国から出土しない理由として特注説がありますが、使いが来る前の特注はありえず、いろんな矛盾が見えます。
いろんな矛盾とは何か具体的に頼む
そもそも魏使が来る前の三角縁神獣鏡って何のことだよ
>青龍三年銘の鏡は、方格規矩四神鏡が多く、これまた、銘が入ったものが見つかっている三角縁神獣鏡と矛盾します。
矛盾とは何か具体的に頼む
あと、後漢末から魏晋朝の頃の大陸では、鏡は「鉄鏡」の方が普通だったそうです。色つきの銅鏡より鉄鏡の方がそのままに写りますから、鏡として使うなら鉄鏡の方が見やすいでしょうし。
それを倭人が銅鏡が欲しいといったから、銅鏡を作った。また普通の普段使いの鏡より大きいものが好まれたから、強度を増すために縁(斜縁or三角縁)をつけたってあたりが特鋳なんじゃないでしょうか?
大体、大王墓候補と言われるのは以下の大古墳で、編年の順番に並べてある。
箸墓→西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山→津堂城山→仲津山→百舌鳥陵山→誉田御廟山→大仙→土師ニサンザイ→岡ミサンザイ
外山茶臼山とメスリ山は所在地が他の古墳と外れるため、通常は大王墓候補に入れない。誉田御廟山が、応神天皇陵とされているが、それを認めない意見も多い。ただいずれにせよ、百舌鳥陵山→誉田御廟山→大仙→土師ニサンザイのあたりが、応神~仁徳の年代に当たるというのは、認めてよいとされている。
そして、応神天皇の没年は、いろいろな考え方はあっても大体5世紀初頭とされ、その後「倭の五王」の5世紀に入り、421年、425年に宋書の倭王讃の貢献記事が見られる。
箸墓の築造=古墳時代の開始を、九州説の人たちの言うとおり4世紀に遅らせると、すごく窮屈になる。記紀の系図が正しいとは言わないが、纏向に都した初代大和朝廷の大王と考えられる崇神から、垂仁、景行、ヤマトタケル、仲哀、応神の6世代を100年に押し込むことになる。景行から応神までは、記紀の系譜に特に混乱や矛盾が多い部分であり、記紀に載らない大王の存在を考える人もいるが、その場合さらに窮屈になる。このあたりの編年観も、箸墓の築造年代、つまり纏向遺跡の時代の編年に影響しているのだろう。
>3102
あなたが一生懸命、箸墓を遅くしたいのは分かります。これのソースは、毎日新聞の記事でしょうか?
「桜井市教委が発表した」のはそうなのでしょうが、これ、多くの場合「周濠」とは考えられていないですよ。
箸墓は、山の尾根などを切り取って墳丘とした外山茶臼山などとは異なり、平坦地に作られた巨大古墳です。この外濠とされているのは、墳丘に大量の盛土をするための土取り跡の落ち込みと考えるのが主流だと思います。幅10メートル内外の内濠に関しては、葺き石を伴う渡土堤が検出されていて、濠だったと考えられています。
外濠と考えられている遺構も、まだ一部しか発掘されていないので断定はできないですし、今後外濠にも渡土堤が検出されたら私も考えを改めます。しかし、後円部が5段築成であるとか、特殊器台形埴輪の存在から、箸墓が定型化された墳丘に葺き石を伴う前方後円墳のうち最古のものであることはまず動かないですよ。津堂城山以降の築成というのは、無理があります。
箸墓古墳で作って後の津堂城山古墳から一般的にって記事だと思うけどね、プレオープン的な
気になるのはソースが新聞記事じゃなくて桜井市教委の発表をソースに新聞が記事作ったんでしょう?
朝日新聞以外認めないスタイルが潔いね
>3107
箸墓で二重周濠と言われているものの形状が、津堂城山以降の二重周濠とぜんぜん違うんですよ。
そして、箸墓と津堂城山の間に入る、西殿塚→外山茶臼山→メスリ山→行燈山→渋谷向山→五社神→宝来山→佐紀陵山→佐紀石塚山、の存在を全無視しています。
少しは、ネットで文字で見たもの以外も、調べてみてくださいよ。私から見るとあなたは「 」にしか見えません。
朝日新聞批判に即レス&人格攻撃
見事なコンボが決まってますね
論理的に苦しくなると朝日新聞ガー
九州=半島近い朝日新聞も認めざるを得ないほどガチガチだってことだぞ
読売も産経も邪馬台国畿内だって言ってる
>3109
内容では反論できないチェリーピッカーの典型ですねぇ。
人格攻撃だと感じるとしたら、あなたは「 」に何を入れて読んだのでしょう?
あなたが想像した「 」が、あなた自身なんですよ。
>3108
内容では反論できないチェリーピッカーの典型ですねぇ。
人格攻撃だと感じるとしたら、あなたは「 」に何を入れて読んだのでしょう?
あなたが想像した「 」が、あなた自身なんですよ。
※3110
当時の朝鮮半島は半分が中国の領土で半分が属国だから朝鮮半島にとって独立して魏と交流していた倭王擁する邪馬台国は目の敵では?
出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の発見で、それまでの古代史の枠組みが一変したように、新発見や新知見によって、前提や枠組みががらっと変わること、パラダイムシフトが起こることがあります。どの学問領域でも起こりうることで、その度ごとに新しい枠組みを検討し直しながら科学は進んでいきます。
ただその際に新しい枠組みに納得いかない人も当然いますし、むしろそういう人たちが多い方が普通だとも言えます。天動説から地動説へのパラダイムシフトの時には、ガリレオは異端審問にかけられています。
結局、邪馬台国の所在地論争というのは、卑弥呼の時代が弥生時代で古墳時代がまだ始まっていないと思っていたから謎だっただけで、すでに古墳時代が始まる時期だったと分かれば、謎でも何でもなくなる訳です。
そのパラダイムシフトのきっかけが、年輪年代測定法でありC14年代測定法の高精度化であり、それに加えて様々な発掘情報の蓄積です。
現在それらを総合して、全体として整合の取れた編年が組み上げられていて、その結果纒向遺跡は3世紀半ばには、弥生終末期の王墓級墳丘墓としては吉備の楯築墳丘墓より大きな当時最大の墳墓が4基、築造されていたと考えられるようになっています。
もちろん今後新しい発見があれば、またがらっと枠組みが変わることもあるかもしれませんし、その発見に伴う新しい学説に説得力があれば、私も考えを変えるでしょう。今期待しているのは水月湖年縞を基礎にした絶対年代付きのC14年代のデータですね。現在の土器編年体系と年輪年代法の間で100年ずれているという説があるのですが、その辺りにも決着が付くのを楽しみにしています。
新しいC14の鑑定で4世紀の結果になったら無視するんでしょ
宮内庁が開けるのが先やな
未盗掘の可能性あるんやで
これで男性が葬られてたら絶対卑弥呼は男性だったって主張するやつやん
3115、3117
都合悪いからって認めない九州説といっしょにするなよ
庄内式土器の出土する時点での鏡の出土状況から考えると畿内は九州に勝ち目がないからな
さらに時代は下ってから三角縁神獣鏡とかいう国産鏡は出てくるけど
>3084
最も安全な航路と考えると、来るときは加唐島、帰るときは馬渡島で、壱岐水道の左右の島を、壱岐との航路に使うのではないかな。
前を行く人が見えないほどの道を行ってでも、航海の安全重視だった大陸支那人なのか、
あるいは博多湾や糸島に直接行けず、陸路をとらねばならない理由があったのか。
伊都国が重要であるはずなのに、1000戸しかないというのも不思議。
素潜り九州倭人はひょっとして航海技術が低かったのかな。
西太平洋ポリネシア系が古くから縄文人やってるし、近畿は呉系の鏡が出るし、後の時代には東北の奥州藤原氏の方が広い海洋交易圏持ってて、滅ぼしたから消えるんだよね確か。
漢字のオーパーツも面白いけど、漢鏡は、大陸で作られた瞬間に九州の墓に埋められる、という時空の歪みもすごいよね。
長年の使用痕もついてるんだっけか。
>3114
学会で認められてないとか、批判が噴出とか、歴博の妄想の中って散々言われてるのに、相変わらず嘘を断定し続ければーか。
C14年代で古墳内の炭化物そのものを調べたら4世紀なのに、資料汚染されやすい付着炭化物だけを選んで100年古い大発見、科学で決めただもんなぁ。
ちなみに前1世紀の炭化物も出るのに、歴博の考古学視点で3世紀が事実にしますだもんなぁ。
あなたを犯人です、と同じなんだよなぁ。
>3119
記年銘鏡13枚のうち1枚も九州で出ていない件について
結局、朝鮮土器がどうのこうのって言ってたのは何だったの?
最初は須恵器とかにつながる陶質土器の話かと思ってたけどそうじゃないみたいだし
九州からも中国の年号が記された鏡は出てるよ
3124
土器編年で4世紀のものを3世紀にするとちょうどその100年が空くのね
そこに纒向遺跡の朝鮮半島の土器と鎧が該当するの
しかも中国の歴史書から倭が消えるの
さらにその4世紀に前方後円墳が日本中に広がるの
だからその空白では朝鮮半島から纒向遺跡にやってきた渡来人が100年で日本を征服したことになって、天皇家は朝鮮人になるの
とても34をはじめ一部の人の好みのストーリーでしょう?
※3126
纒向からは半島の土器は出ないんじゃなかったっけ?
それを理由に邪馬台国じゃないと言ってる九州説論者もいたはずだけど。
ちょっと調べても破片ぐらいしか出てないみたいだ。
※3119
漢鏡6期とか7期は?
その朝鮮半島の鎧っていうのを見たことも聞いたこともないんだが
まあ私の勉強不足か記憶してないだけかもしれないけど、どれのことだか教えてはくれまいか
纏向遺跡 鎧 でググっても、何もヒットしないし
>3126
あんたが言ってる土器編年って50年以上も前のもので、いまだにそんな年代観の学者は1人もいない
邪馬台国の怪の回し者か?
安本氏のような一部の特殊な人たちだけが畿内と九州で時空の歪みが生じていて
100年のズレがあると訳のわからんことを言ってる
あぶみじゃない?
土器編年は順番が分かるだけでその土器が作られたり使われたりした年がピンポイントで分かるわけじゃない
3086をはじめC14一派は畿内と九州、全国の土器編年を明らかにせんから議論にならんがな
3126
朝鮮人=酒が強い
近畿人=酒が弱い
心配しなくても全く関係ないよ
>3131
鐙は知っているけど、「朝鮮半島の」と付くとさっぱり何のことを言っているのか分からない。
それに出土した鐙は木製で、実用品じゃないし。
ますます何が言いたいのかさっぱり分からない。
鐙は使用あとが付いている
実際使用したことは間違いない
使用あとって何?
足をかける部分は壊れてるんだけど?
それと、鐙で「朝鮮半島の」って分かる理由は何でしょう?
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。5世紀には朝鮮半島や日本でも使用されていた。
3126は鎧(よろい)と鐙(あぶみ)を間違えてたみたいだな
箸中地区の木製輪鐙(桜井市大字箸中)
木製輪鐙は箸墓古墳後円部裾で行われた纒向遺跡第109次調査で出土しました。輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層からで、古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます。
輪鐙はアカガシ亜属の材を用いて作られていますが、輪の下部を欠損しています。現存長は16.3㎝、最大幅10.2㎝、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長めのものです。柄の長さは11.2㎝、上方幅3.2㎝、下方幅2.6㎝、厚さは1.5㎝程度で、柄の上部には縦1.5㎝、横1㎝の縦長の鐙靼みずお孔があけられていますが、孔の上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1㎝程度の摩耗痕が認められ、この鐙が実際に使用されていたものであることを物語っています。
輪鐙が出土した植物層には土器片と少量の加工木が含まれ、輪鐙の所属時期は層位やこれらの遺物の年代観から布留1式期(4世紀初め)の国内最古の事例と考えられています。
あぶみは朝鮮半島経由で伝わったようだな
纒向遺跡と朝鮮半島との繋がりがわかる
北九州や出雲を通さず日本海側から朝鮮半島と交易していたようだ
畿内の国産銅鏡が半島と似ているのもこのためだな
墓への副葬品として職人が作るのだから302年の時点で中国には実用品としての鐙が存在していたことは確実
>3141
>箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20~25㎝の植物層の中層
あまりよそ様に迷惑はかけたくないのですが、「前方部北斜面と周壕・外堤の土層断面」でググって貰うと出てくる「古代史探訪」というブログで、問題の周濠の堆積層の発掘時の断面の写真が見られます。
これの、上層に堆積した厚さ20~25センチの植物層、って堆積層のかなり上の方だって分かりますか?
写真の上部に、赤白のポールがスケールとして写っていますが、この赤と白がそれぞれ10センチ幅です。
まあ、最初の「周濠の上層に」というのが間違っているのかもしれませんが、文字通り周濠の上層だったら、かなり濠が埋まってからのことになります。
写真見てもらったら分かるように「地層」が見られるくらいの年月をかけて堆積した「上層」ならそれこそ100年ではきかないと思うけれど。
編年を布留1式土器に頼るのは、今までの論調と真逆だと思うけれどそこは置いておいて。
そもそも、鐙という判断が「大阪府四条畷市の蔀屋(しとみや)北(きた)遺跡出土の木製輪鐙と類似」しているためということですが、「柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長め」で、本当に鐙かどうかは確定的でもないようです。
馬具で明確に最古のものは、福岡市の老司古墳3号石室から出土したもので、金銅製鞍橋金具片、鐙、捩り金具が出ているそうです。馬具としての鐙を考えたときに、金属が使える時代であれば、金属を使う方が機能的だとも思いますし。
>孔の上部から柄の上端にかけては鐙靼によって摩耗したと考えられる幅1㎝程度の摩耗痕が認められ
使用あとについては了解です。
※3144
桜井市纒向学研究センターが鐙と認めている。
所長は土器型式に関して「布留0式」を提唱したことで知られるかの有名な寺沢薫氏その人だぞ。
鐙としての使用痕のある鐙以外のものなんてないだろうに。
土器の年代も間違うわけなかろう。
結局自分に都合のいいことだけかき集めた底の浅い主張を繰り返しているだけだったな。
3144
横からで悪いんやけど植物層って腐植層やで
同じ109次調査の出土物もC14で調べた結果4世紀って書いてある
>3144
興味持って写真見たらその上の層って現代の地層だった
今の地面だよね?それとも4世紀の地層が露出してるの?
現代の地層から4世紀のものが出たの?
ゴッドハンド再び?
3134
今の半島人と当時の半島人は別
※3149
根拠プリーズ
弁韓、馬韓、辰韓だろ?
朝鮮半島は元来、粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮、濊、濊貊等、各諸民族の混在地域である。その後、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人によって移民国家である辰韓が建国される
『魏志東夷伝』には、東アジアからも「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。」とあり、朝鮮半島は移民・渡来人の受け皿的役割を果たしていた。また隣国、百済・高句麗等の扶余系民族(現在の満族と同系統)も国内に抱えていた。
『隋書』東夷伝によると、新羅は「その人には華夏(中国)、高句麗、百済のたぐいがまっじている」という
百済・任那・加羅・新羅地域においては、倭人特有の前方後円墳等の居住跡が発見にされていることから一定数の倭人が同地に居住していたとされる
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていった。
朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる。
>3146
写真の説明でも、下部に腐食層って書いてあるから、そうなんだろうと思うんだけどね。
だとすると「周濠の上層」ってのは何なんだろう?というのが残るんだが、もとの文章がどうやら桜井市の「桜井市纒向学研究センター」のウェブからの転載のようだから、発掘とかに携わっていない事務系の方が作った文章で、あまり正確でもないのかな?とも思う。
歴博は日本に世界最古の使用済み鐙が存在し、日本から大陸へ技術が流れたと言い始めるのだろうか。
歴博の布留式土器は3世紀だったよね確か。
毛人が居たから、馬の可能性が無いわけじゃないだろう。鹿島の神様が白鹿に乗るってコロボックルじゃないんだから白馬かもしれないし。モンゴルのイヌワシだって野生のが東北に居たりする。
>3145
>鐙としての使用痕のある鐙以外のもの
がんばっているところ申し訳ないが、この擦れ痕は「穴の開いた木の棒に紐を通して使った使用痕」であって、「鐙としての使用痕」とは限らないぞ。 写真は見てるよね?
そもそも4世紀初頭には、馬の骨が出ていない。魏志倭人伝にも其地無牛馬虎豹羊鵲って書いてあるとおりだよ。一番古い馬の出土は山梨県甲府市塩部遺跡で4世紀の第3四半期、近畿では5世紀中頃から6世紀の中葉まで河内湖の東岸から生駒山山麓にかけて馬を飼育する牧が営なまれていたとされている。
で、その河内湖の東岸から生駒山山麓の蔀屋北遺跡出土の輪鐙に「似ている」という理由で「鐙とされている」のだけれど、蔀屋北遺跡で出ている鞍で「現存幅46.6cm(復元幅48cm)、高さ27cm、最大厚4.5cm」の大きさで、「在来馬でいう御崎馬の小さいクラス程度の体格」に合うサイズのものなんだよな。
纏向で出ている「鐙とされているもの」は「現存長は16.3㎝、最大幅10.2㎝、柄の部分は上部がやや開き、他の輪鐙の類例よりは若干長め」で蔀屋北遺跡の鞍と比べても相対的にでかい。しかも欠損部分を考えたらもっと大きくなる。そもそも「輪鐙」といいながら、輪の部分が欠損していて、「柄と二股」しか残っていないので、本当に鐙かどうかは分からないといえば分からない。
では何か?と言われても答えようがないけれど、これが「絶対に鐙」で「絶対に4世紀初頭」で「使用痕があるから馬がいたに違いない」と言われると、まあ、どこかあるいは全部が間違っているのだろうと私は思うよ。
「よろい」と「あぶみ」が読めない人は、分からなくても構わないけどさ。
それから、国内出土の輪鐙に似ているものを、「朝鮮半島の」鐙というのは意味がないだろう?
あんまり無理なことを言うのはもう止めたらいかがかな?
纒向遺跡のあぶみは大陸や半島と同じ形なのにね
国産あぶみならもっと数あるし馬もいるんじゃない?
朝鮮半島からきた人が持ってたものを訳もわからず崇めて周濠にお供えしたのかもよ
三国志の中にある武人が下馬するとき鞍がずれないように押さえたという記述がある
これは片方の鐙にだけ足をかけている状況を表していると言えよう
つまり2世紀末には鐙は存在していた
仮にその記述が想像で書かれたとしても少なくとも陳寿が三国志を書いた3世紀後半には存在していた
ちなみにソースは2ちゃんなので突っ込まないでくれ
三国志のどこに書かれているか知らん
>3157
>纒向遺跡のあぶみは大陸や半島と同じ形
また適当なことを
そういうことを書くなら、ソースを付けてっていってるだろうが
鐙なんてのはそうそう形にバリエーションもないけどさ
乗馬をやってる人のブログだけどよくまとまってるから読んでみて
ttp://komafun.blog.so-net.ne.jp/2013-08-17
要は、この鐙(よろいじゃないよ)をもって4世紀初頭に馬がいたなどというのは無理、その意味で4世紀初頭のものなら実用品ではない。もしくはそもそも鐙ではない。
あるいは、実際に鐙で実用に供していたなら、4世紀初頭という編年がおかしいってことだね。
日本列島への馬の渡来は4世紀代であり、鐙はアジア大陸発、朝鮮半島経由で持ち込まれたもの
輪鐙は4世紀に周壕に投棄されと推定、大量の土器とともに出土、後世の混入した可能性は少ない、20~30年にわたって堆積して固く締まった層から出土などとしている。この土器とは「布留1式」であり、土器の年代から輪鐙の時期を4世紀としている
結論として現状の判断では今後の発掘次第では、馬の渡来が数十年早まる可能性は残されている
鐙は馬具の一種。鞍の両側に吊下げて,乗る人が足を掛けるもの。ヨーロッパではローマ時代,中国では漢代に始る。輪になっていて足を掛けるものと,足の前面を包むようになっていて,足を載せる式のものと2種ある。
前者を輪鐙といい,古今を通じて広く用いられ,日本では古くは上古~平安時代の唐鞍 (からくら) に限って用いられた。
後者は壺鐙といい,日本独自のものらしく,足の前半を踏込むところが壺状になっているのでこの名がある。
※3160
ブログ主さんこんにちは
アクセス増えましたか?
馬の渡来は4世紀と書いてあるように読めるのですが?
土器と一緒に出土したならその土器の時代では?
鐙以外ならなんですか?鎧ですか?
和弓と同じく日本独自の形のものってありませんでしたっけ?
朝鮮半島を通じて大陸のものがもたらされるのは普通では?
そもそも邪馬台国とどのような関係が?
※3130
土器編年は今の所絶対年代がわからない
ホケノの木棺とか都合の年輪年代法とかで示された都合のいい部分だけをとって絶対年代に当てはめているだけ
土器付着炭化物やホケノ出土の小枝の炭素年代測定法は無視しているのが現状
そもそも庄内式土器の出土する遺跡から出る鏡の年代や墓の様式で九州と畿内にズレが生じているのは明らかであり
鐙はアジア大陸発、朝鮮半島経由で持ち込まれたものであるが、その中国では湖南省長沙市の墓から永寧2(302)年銘の磚(せん)と多数の陶製の騎馬俑が出土した。その騎馬俑のうち3体に片足だけの鐙が付いていた。これが鐙の最古とされているが、乗馬の不得意な漢民族、特に農民が乗馬する際の道具としての発明品と考えられている。中国の302年は、三国時代の覇者魏を滅ぼした西晋の時代(280~316年)の最中である、鐙の発明をこの頃とするのが妥当である。三国時代(220~280)の英雄魏の曹操(絶影)、蜀の劉備(的濾)、諸葛亮(草慮)、関羽(赤兎)、張飛(玉追)、呉の孫権などが乗った愛馬には騎馬遊牧民族の馬と同様に鐙はなかった。この長沙市で発掘された磚からみて、箸墓古墳の木製鐙は4世紀初めのとの見解には相当無理があり、まして読売新聞の世界最古との報道は、邪馬台国畿内説者への読者迎合の記事(ミスリード)ではないか。
>3164
同じ土器なのにどうして九州と畿内で年代のズレが生じるんですか?
庄内式土器と一口で言っても20年くらいごとに少しずつ様式が変わっていく
九州で起きた様式変化が100年後の畿内でも同じように起きているってそんな偶然あるんですか?
柳田俊雄教授が提唱した九州の柳田編年にしても、畿内の寺澤編年、あるいは石野・関川編年にしても、庄内式土器の開始時期を実年代で言えば西暦200年頃、終わりを300年頃ころとしている。庄内式はさらに細かく、庄内1式、庄内2式、庄内3式と古い順に分類される
暦年代と纒向編年の対応
180年-210年 纒向1式 弥生V様式末
210年-250年 纒向2式 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3式 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4式 庄内III式(庄内新新式),(布留0式)
290年-350年 纒向5式 布留Ⅰ式
>3166
どこが100年ずれてるんや?
>3167
もちろん考古学者の年代観はほとんど同じ
違ってもせいぜい10年か20年
一方、邪馬台国の怪や安本氏の年代観は100年ずれている
考古学者たちの年代観では邪馬台国東遷説が成り立たないからだ
九州にあった邪馬台国が東遷してヤマト王権になったという説だから
纒向に都が築かれるのは3世紀末より後の年代でなければならない
魏志倭人伝に邪馬台国が登場する3世紀前半にすでにヤマト王権が誕生していたという現在の通説では困るのだ
3168
東征は紀元前6世紀だから関係あらへんよ
箸墓古墳は布留式だから卑弥呼の墓ではないことは学者なら常識
倭である邪馬台国とヤマト王権である纒向遺跡が別なのも常識やん
勘違いしてるやつなんぞおらんがな
C14のあんちゃんだけやろ
※3168
そうだよな
卑弥呼の時代が庄内式なのはどんな立場だろうが一致してる
さらに纒向遺跡は庄内式の時代は小さいことも発掘の結果分かってる
畿内の庄内式は河内がほとんどで河内のは兵庫まで伝播してる
九州や瀬戸内、日本海側はそれぞれ弥生式と土師器の間の土器がそれに対応してるよな
この辺りがそれぞれまとまってたんだろうな
4世紀の布留式になってから大和が徐々に巨大になって前方後円墳も巨大になる
何もおかしいことないよなぁ
3169
九州説論者の中では卑弥呼の後なので
3173
つまり邪馬台国は九州、大和朝廷は畿内
土器にも鏡にも矛盾なし
貴方の考えに賛同します
3174
九州説論者の論拠はめちゃくちゃだというのが私の考えなんですけど…
土器や鏡…考古学者が計測した年代観からずれる
記紀…紀元前の話なのに三世紀にずれる
何1つ当たってない
>3172
>4世紀の布留式になってから大和が徐々に巨大になって前方後円墳も巨大になる
布留式になったときにはすでに大和は巨大で、箸墓の前の4つの弥生墳墓の時点でもう列島最大だよ
これを「纏向型前方後円墳と呼んで古墳時代に入れる(古墳時代を前倒しする)」ことには異論があるってだけで
漢委奴国 → 漢イド国 → 伊都国 ←東夷の侮蔑国名に見えない
伊都国が大陸との交流を常に監視独占
大和拡大
伊都国ではなく筑紫国以東が倭(大和)に従う範囲
それでも伊都国は独立していた
邪馬壱国は伊都国
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
伊都国は大率を送りこまれて畏れ憚ってる。独立なんぞしてない。
邪馬台国は邪馬台国、伊都国は伊都国。別物。
※3164
九州では庄内式土器といっしょに甕棺や後漢代の内行花文鏡等が出てるからな
また奈良ではホケノ山古墳からは庄内式土器と一緒に布留式土器やC14で320~420年頃と推定される小枝が埋葬施設から出土している
思ったより庄内式土器の期間が長く地域によって差があるというのが正しいだろう
庄内式で最も古いものが九州の~200年?ぐらいのもの、最も新しいものがの奈良320~というところだろう
もちろん西暦200年代の同じ期間に九州と河内、大和庄内式が使われていたりする
さらに庄内式土器と言っても河内式と大和式があり九州と似ているのは大和式
様式が全く同じように推移していくというのはどの土器とどの土器を比べて言ってるのかはわからないが
収斂進化の一言で片づけられる問題かと
生物の身体・器官の機能に対する収斂進化はあっても、生物以外に収斂進化の概念を当てるのは的外れ
実際問題、火や車輪、剣、弓、衣服、土器等の単純なモノや、単純な文化や習慣なんかは必要に応じて世界各国で自然に出来上がり、交流がないにも関わらず似ていたり同じものが発達したりするからな
単純な土器であっても首周りのような微妙な部分に、収斂はないよ
そこは作り手の意思が現れるところだから
土器がつぼになったり、皿になったりは、同じものと言えても、土器形式の鑑別ポイントのような部分に収斂を考えるのは的外れ
最古と思われる庄内式土器が九州から出土していて、最新が奈良から出土だから途中同じ時期に使われていたことはあれどある程度時期に差があるのは認められる
土器編年も佐原式から古く古くなっていったが、土器付着物の炭化物が実年代より古い結果が出ることが認められるようになり、ホケノの小枝試料と出土する土器の時期などからも昨今の古く古くは科学的な根拠と相反していることが分かってきた
一周まわって佐原式が最も現実に則しているのだろう
>最古と思われる庄内式土器が九州から出土
怪しい言い方だな
※3184
絶対年代は誰にも分からないからな
C14でも正確な数値は出ないし、創られた絶対年代が比較的にわかりやすい漢式鏡でもその鏡が作られた以降の遺構であるとしか言えない
ただ、甕棺(弥生後期には出なくなる)と一緒にでてくることや、漢式鏡の中国の出土状況(こちらは絶対年代がわかる)と比較しての話だからな
だから畿内の土器編年なんかも盲目的に信じないほうがいい
中国と比較できる九州と中国と比較できない畿内では畿内の土器編年の正確性はさらに落ちる
収斂は諦めた?
佐原式を今言う人はいないよ
その前に、庄内式土器の九州と畿内の様式が同じように変化しているというのが何のことかわからないから、写真付きで例を出して欲しいな
どちらにせよ最も古いと思われる庄内式土器が九州で出土し、最も新しいものが畿内で出てきている以上、庄内式土器の使われている時期に違いが認められるのは明白
佐原式を言う人は少なかったが、科学的に最も近しいのが佐原式だと再確認されてきたところだろう
これはC14の土器付着炭化物の年代は実際より古くなるという結果が明らかになり、
土器付着炭化物以外の同じくして出土した炭化物のC14の測定母数が多くなり、畿内の庄内式土器が4世紀以降のものと一緒に多く出土しているため
>科学的に最も近しいのが佐原式だと再確認されてきた
また、すぐいい加減なことを
※3188
ttp://washiyamataikoku.my.coocan.jp/rekihaku.pdf
はいよ
土器付着炭化物は同じ地点で出土した他の炭化物より一様に古い年代が測定される
ゆえに土器付着炭化物を試料とした土器の年代測定は誤りであり
その年代測定結果を基にして作られた編年を根拠に纏向遺跡や箸墓古墳などの年代を邪馬台国の時代に比定した論文は全て見直す必要性が出てきたわけだ
上の方で何回か話題に出ていた「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」などもそう
見直さずに主張し続けてもそれは科学的根拠のない「間違い」を主張し続けることになってしまう
>季刊『邪馬台国』111 号、2011 年 10 月号
その辺は結局、光谷拓実さんの作った日本の年輪年代法の標準パターンの連結の問題に帰着するんだよ
光谷さんは一人で、たくさんの古い年輪資料を集めて、それを統計処理して年輪の標準パターンを作っているので、もう一度それだけの年輪試料を集めることも困難だし、事実上追試不能になっている
そして、標準パターンの連結というのは、グループとして得られた試料のグループ内での異同で絶対年代なしの横に動きうる標準パターンを作っていって、最終的に現代からのパターンと重なる部分を確認しながら、連結していく訳だ
しかし、古代に行くほど得られる試料の数もすくなるなるので、統計処理の精度も低くなるし、連結するために重なりの部分も見出しにくくなる
鷲崎弘朋さんの「木材の年輪年代法の問題点―古代史との関連について」ttp://washiyamataikoku.my.coocan.jp/ronbun1.html
は説得力があると思う
ただ、この鷲崎さんのいう「年輪年代法の標準パターンが100年古い方にずれている」というのは、「標準的な土器編年に対して」100年ずれているんだよね
上の方で、日本のC14年代測定法の較正曲線J-calはint-calに対して100年古い値が出る、って書いてる人がいるけど、この較正曲線は結局年輪年代法の値を絶対年代として作るものだから、年輪年代法が100年ずれると較正曲線も100年ずれるんだよ
で、J-calはint-calに対して100年ずらすことで、年輪年代法と標準的な土器編年の100年のずれを戻してるんだよ
だから、結局のところ、日本の古代の編年は今でも「土器編年」が考古学者の間で一番信頼されてて、年輪年代法とそれを基にしたC14年代法の較正曲線は、土器編年に合うように運用されている訳だ
だから、年輪年代法もC14年代測定法も信用できない、といくら言っても、実はもともと土器編年にはそれほど大きな影響は与えていないから、あまり意味がない
3167が書いてくれた
暦年代と纒向編年の対応
180年-210年 纒向1式 弥生V様式末
210年-250年 纒向2式 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3式 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4式 庄内III式(庄内新新式),(布留0式)
290年-350年 纒向5式 布留Ⅰ式
は、そんなに大きくずれないよ
100年ずれてるから当てにならん、といってた「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」だって、布留Ⅰ式の開始を270年ごろとしているだけだから、上記の編年と20年くらいの差だよ 100年もずれてない
三方五湖の水月湖年縞で、年輪年代法と独立したC14の較正曲線がゴールドスタンダードとして使えるようになれば、もう少し見通しがよくなると思う
鷲崎弘朋さんの論文は面白かった
土器編年で絶対年代は絶対にわからないが通説ではないのか?
そもそも土器編年とはその土器が使われていた時期はこういった遺物や遺構が出るという参考程度にしかならず、絶対年代を特定できるものと一緒に出土しなければ年代の特定は不可能
そして唯一の年代特定の決め手が年輪年代法であり、C14であるのだからこの数値が古い方に古い方に出る以上、土器編年に確実性はない
編年に通説と言っているがそのようなものは学者により時代によりころころ変わるうえに、古墳時代のもの土器すら時代がはっきりしているわけではない
須恵器と貸銭を軸にしている以上、ここの数値がはっきりわからないようでは土器編年はあまりにも不正確である
スタートとゴールがどこだかわからず間が何mかすらわからないのに中間のタイムが測れるはずがない
それは未だに土器編年を基に絶対年代が特定された遺物が1つもないことがそれを裏付ける
卑弥呼の時代は弥生時代
箸墓古墳は古墳時代
弥生時代は庄内式土器
布留式土器からが古墳時代
これくらいの認識でよい
だから庄内式土器の最晩年を布留ゼロ式と命名して邪馬台国を古墳時代にしようとしたんだよ
今じゃ箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする学者はいないけどね
>3193
>箸墓古墳は古墳時代
古墳時代の「中」じゃなくて古墳時代の「始まり」なんだよね
で、その「箸墓が古墳時代の始まり」というのが、箸墓が完成したときなのか、作り始めたときなのか
また、いきなり箸墓はできないから、その前駆となる期間をどう捉えるか
こう考えてきたときに、「箸墓を作る主体」ができたときから、もう古墳時代が始まっているとみなしてよかろう、というのが寺沢薫等の立論の基礎で、布留式を古墳時代とするならその前駆時代も布留式(0式)と捉えようってことで、これはこれで筋が通ってる
「箸墓を作る主体」て、縄文あたりから小さいのあったんじゃなかったっけ?
古墳の作り方から埋葬品まで、各地のやり方取り入れてて、主体をどこまで定義するんだ?纏向拡大期?
特定の場所から恣意的に~~でよかろうってよりも、もっと広範囲に見てほしいが。
弥生時代とか言うよくわからないもの消して、稲作伝播期、墳墓期、みたいにわかりやすくできないものか。
地域によって墓はだいぶ違うから無理じゃね?
弥生土器使って稲作ない地域もあるし
墓なんて魏志倭人伝に書かれてるのは九州の埋葬じゃん
中国地方や畿内や東海は違うじゃん
気になったので一言
「倭」という字に小さいという意味は無い
新しい考古学ツールが出ない限り答えに近寄れすらしない
邪馬台国が大きな遺跡一箇所として見つからなきゃいけない理由はないしそもそも魏志倭人伝を聖書みたいに信じる理由もないし
いずれにしてもバタフライ効果の途中式長すぎで遡れないし,しかも考察材料の殆どが不確実でいつ人為的に塗り替えられたかもわからないとかお手上げじゃん
今は大まかな流れで我慢するしかないよ
無理に断定しようとする発言は自身がこの問題の沼を深くしてるトンデモ背理者
ただ四国はない
空海の時代まで米も作れない山田舎が九州と近畿と中国を差し置くのはわからない
>3198
>ただ四国はない
ほぼ同意
ただ、国産みの神話は四国が源流ぽいっていうのと、方形周溝墓など四角が主流だったところへ前方後「円」墳に繋がる丸い墓を作り始めたのは、四国らしい
まあ、だからどうした、レベルの話ではあるが
>3195
>「箸墓を作る主体」て、
寺沢薫辺りは、それを纏向の域内に作られた4基の大型の墳丘墓が作られた頃を、想定してる
この時点で吉備の楯築墳丘墓よりも墳丘規模が大きく、当時の列島最大のものだから
そしてそれを纏向型前方後円墳と呼んでいる訳だ
私も箸墓からが古墳時代、という方が分かりやすくてよいと思うがね
4000踏んだ
3200だった 数も数えられないとはorz
※3200
よくわからないけど4000のキリ番おめでとう
時代をどう区切ろうが箸墓古墳の築造年代は変わらない
それと古墳「時代」というからには日本列島で古墳を造るようにならないとな
稲作だって一部地域で始まった時期は縄文晩期と区分されている
大和一地域だけで造っていたならそれは弥生時代終期というべきだな
戦国時代の天下が畿内を表していたように当時の日本が畿内だけならそれでもいいがね
それなら畿内のみを古墳王国、他の地域は弥生時代として歴史も国も民族も畿内とそれ以外と別なものにして独立すべきだな
>3202
>それなら畿内のみを古墳王国
その「畿内のみの古墳王国」が、魏志倭人伝に「邪馬台国」って書かれてるらしいで
そしてその畿内のみの古墳王国が、倭国の代表として周りからも認められて、みんなででかいの作ろうぜって言って箸墓古墳を作って、ほかの地域でも古墳と作り始めたのが古墳時代ってことで、メチャクチャ筋が通るじゃん?
>他の地域は弥生時代として歴史も国も民族も畿内とそれ以外と別なものにして独立すべきだな
他の地域もすぐにというか、箸墓と同時に古墳時代に合流したやん? 独立させる理由ないだろ?
それも分からないならお薬増やさないとね
通りがかりのものです。
>3191
科学的・合理的思考の出来る方がおられますね。とっても嬉しいです。
鷲崎さんという方が指摘された「年輪年代法」の問題は9年前の問題提起ですね。未だに決着がついてないのは、理科系の学問をやった人間には、すごく変な世界に思えます。批判された方たちが、言い訳でなく、きちんと再検討すべきです。古墳時代の開始の絶対年代が100年古くなっているかも知れないという基本的な、重大問題ではないですか。テレビ番組で、「纏向遺跡=邪馬台国」とか印象操作をやっている場合ではないと思います。「前期旧石器」問題と同じく、放置すれば関係者の学問的信用が地に落ちます。
>3192
理系の学問の基礎も理解すべきです。”>3192”の意味を理解されていないように思います。要するに、「古墳時代の始まりは、昔のように戻す方が科学的」という問題提起です。
とおりがかりのものです。余計なことを。
10年ほど前でしたか? 日本の前期旧石器を次から次にみつけていて、God-handと言われていた人がいましたね。嘘がついにバレたはなしです。
あれ、とっても不思議なのは、日本にも、その方面の「専門家・権威・学会の長老」とかおられて、「嘘の彼」を褒めておられるか、黙認しておられた方々が何人かおられると思います。採掘現場に一緒におられた方々は、いなかったんですかね。論文は査読者を通ったんでしょう?
「嘘つき本人」以外にも、一寸は責任のある人がいたように思います。大先生の眼が節穴だったか、高齢で判断力が鈍っていたか。なんにせよ、何も聞こえてきませんでした。ウントかスーとか言わないと、学問的な誠実さが疑われます。
※3196
テンプレ2の亜流やなあ
※3198
庄・蔵本遺跡
-日本列島で有数の初期農耕集落跡-
庄・蔵本遺跡とは
庄・蔵本遺跡は、阿波徳島のランドマーク、眉山の北側山麓に広がる遺跡です。蔵本キャンパスでは、1982 年に体育館器具庫地点の発掘調査を嚆矢とし、これまで30次にわたる発掘調査が実施されています。その結果、縄文時代晩期から近代までの幅広い時代にわたる、数多くの貴重な文化財が発見されています。その中でも、弥生時代前期のそれは極めて豊富で、初期の農耕集落遺跡として、学界で注目されています。弥生時代の始まりには、2重の大溝が居住地の周りを巡り、その周辺に墓地や畑・水田が広がっていたようです。そのほか、弥生時代中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡、銅鐸片を発見するなどの学術的価値の高い成果をあげています。旧河道や溝などからは、土器・石器などの道具に加え、木製品・炭化種実といった有機質資料も豊富かつ良好な状態で出土しており、弥生人の生活誌の復元にも大きく貢献しています。
田村遺跡
2000年2月に高知県南国市で見つかった、全国で最大級の弥生時代の集落遺跡。約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物の計約850棟が確認された。三重の環濠や大量の土器やガラス玉、環状石斧(せきふ)を始め、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。北部九州より古い弥生土器もあるとされ、早くから発展し、盛期には「1000人規模の弥生都市だった」との見解も出されている。
>3207
教えてくれてありがとう
こういうのをおしえてもらえるとうれしい
でも教えてもらってググってみた限りでは、どちらも遺跡群としては大きいって感じで、それぞれの時代ごとで見ればそれほど大きな遺跡って訳でもなくて、大勢力の根拠地ってことでもないみたいだね
>3207
>全国で最大級の弥生時代の集落遺跡
これは、「全国で最大級の集落」遺跡じゃなくて、各時代の集落の集積として「全国最大級の遺跡」ってことみたい
※3204
通りすがりが入るとややこしくなるね
※3191の引用してる※3167の考古学者が信用している土器編年とやらがそもそも当てにならないのではないかという話なんだ
なぜならC14や年輪年代法があやふやなら土器の絶対年代を特定できる手段は皆無であり、
土器編年では絶対年代を特定できないから
ちなみに布留0式なんかはホケノ山古墳から320~450年と測定された小枝と一緒に出土している
これには海洋リザーバー効果も古木活用も認められないしな
※3208、3209
俺が引っかかったのは、
「四国は米も作れない」というところであって、
「大きい遺跡」にはそれほどこだわってなかったから、そこは別にいいんだけど。
でも逆に言うと「大きい遺跡」が基準ならもう畿内で良いんじゃないの?
無理に断定する必要はないけど、無理に否定することもない。
今のところ畿内が最有力ってことで良いのでは。
最後は一万二千里と七万戸が決め手になる
テンプレ1
九州説「邪馬台国まで萬二千里!だから九州」
畿内説「萬二千里なのは女王国。邪馬台国までは水行1月陸行1月」
九州説「ぐぬぬ」
7万戸も眉唾。日本列島で最大級ぐらいに捉えておいたほうがいい。
>3211
>「大きい遺跡」が基準なら
大きいことが基準とは思わないけど、新しい墓制(前方後円墳)が創られた=新しい時代を作った場所で、各地の土器が出土し当時の交流の結節点であることが見て取れる、ことから、纏向でいいと思う
>3213
>7万戸も眉唾。日本列島で最大級ぐらいに捉えて
同意 一万二千里も適当だよなと思う
※3213
キチガイに触るのもあれだが
伊都国は女王に属す
伊都国は女王国の北にある
女王国は広域連合などではなく邪馬台国の別名
女王国を邪馬台国になおして読めない箇所はないが
女王国を広域連合にすると矛盾が発生する
3214
残念ながら纒向遺跡から九州の土器は出ないからそれだと九州だけ範囲から外れる
※3215
矛盾って何?
ちなみに、女王国=邪馬台国の別名なら、
帯方郡〜女王国=1万2千里
帯方郡〜伊都国=1万5百里 よって、
伊都国〜女王国=1千5百里
とはっきり出るはずなのに、
伊都国〜邪馬台国=1百里+水行陸行60日
となってるのは矛盾。
※3216
九州伊都国が属してるのは「女王国」
邪馬台国(女王の都)-女王国(女王を共立してる各国)-伊都国(各国に従う陪臣)
陪臣なんか格下すぎて直接邪馬台国とは繋がってない。
>3216
土器の移動をどこまで考えるかというのは、一度考えてみてもいいと思う
重いし嵩張るし割れやすい土器をどこまで後生大事に運ぶか、ということ
纏向で出る各地の土器は、各地から物を土気に入れて持ってきた、と考えられているが、容器としてはひさご、ふくべという語も残る大型のひょうたんの方が軽くて便利だ
途中で何度か泊地に寄るだろうし、途中で土器が損なわれれば、そこで中身を入れ替えるだろう
出発地の土器を遠距離運ぶのは、あまり賢くはないと思う
纏向遺跡の大田微高地から甕棺墓(土器棺墓)が6基、出ている
甕棺墓は九州の墓制であり、土器棺墓はその子供版と考えられているそうだが、この大田微高地の土器棺墓をどう考えたらいいかはよく分からない
埋葬に使われた土器棺は、東海系壺片で蓋をした中部瀬戸内系とされており、北部九州系ではないが、さて
三国志研究してる早稲田の教授が
「伊都国の近くに邪馬台国があったら、わざわざ一大率を伊都国に置かない。よって伊都国に近い九州に邪馬台国は有り得ん」
って言ってたよ。
テンプレ6
九州説「畿内は、魏や九州との繋がりがちょっとしかない!つまり九州」
畿内説「魏志倭人伝に、邪馬台国は魏や九州との繋がりはちょっとだけだと書いてるだろ」
九州説「ぐぬぬ」
(※)
魏志倭人伝「伊都国は(邪馬台国に、ではなく)女王国に従う」
魏志倭人伝「伊都国から先は遠すぎて里数もわからない」
「女王国」と「女王の都(=邪馬台国)」は全然違うんじゃない?
「日本国」と「日本の首都」で考えてみなよ
九州は「日本国」だけど「日本の首都」じゃないよね。それと一緒
伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
=伊都国は女王国に属する
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
=伊都国(他の北にある国も)は女王国ではない
自郡至女王國萬二千餘里
=女王国までは万二千里である
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
=女王国の北は戸數道里が略載可能である
そしてその次その次と略載不可の国々が女王国を基点として記述される
故にこれらの国々も女王国ではない。
此女王境界所盡
=境界がつきるところは女王国の境界ではなく女王の境界である
この文章からは女王国が広域連合を指す言葉だという記述は認められない
女王国=邪馬台国にして読めない箇所はない
女王国=広域連合にして読むとと伊都国が女王国に属してるのに属してないことになる
魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」
順に見ていくと
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがあるね
2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と4と5と、おそらく9と10は「女王国連合」(4、5、10は女王で女王国の意味)
3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
6ははっきりしないけど、たぶん9と10と同じ扱いで「女王国連合」でいいと思うが、「邪馬台国(女王の都する所)」でも特に問題はない
3223の9について
日本が90度回って(東が南になって)書かれているとすると、東に海を渡るは実際には北に渡ることになる
そして、海を渡る千里は、半島から対馬、対馬から壱岐、壱岐から松浦程度だから、ちょうど隠岐の島辺りでよいと思う
そうなると、9は「女王国連合」でよいことになる
>3222
>女王国=広域連合にして読むとと伊都国が女王国に属してるのに属してないことになる
これが意味不明なんだけど
女王国=広域連合で、伊都国はその一員で何も問題ないじゃない?
なぜ属していないことになるの?
※3222
>女王国=邪馬台国にして読めない箇所はない
>女王国までは万二千里である
女王国=邪馬台国にすると、
邪馬台国までは万二千里で、(不弥国から)水行陸行60日になる。
矛盾というか、なぜ全く別の数え方で言い直したのか説明がつかない。
※3223
>これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがあるね
>3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
どういう基準でそんなこと言ってるのか全く意味不明なんだけど
全部女王国連合or全部邪馬台国とした方が自然だろ(当然女王国連合しかあり得ないけど)
※3223
1と4と5と、おそらく9と10は邪馬台国と読んでも普通に読めるのに、わざわざ女王国連合とする根拠は?
※3225
伊都国は女王国の北にあるから
※3226
それの何が矛盾なの?
「挹婁在夫餘東里北千餘里」「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
千餘里=六十日行
ぴったり合致だな
※3228
>伊都国は女王国の北にあるから
??
>「挹婁在夫餘東里北千餘里」
それもう概出。ページ検索しろ。
※3229
伊都国が女王国を形成する国の1つなら、女王国の北にあるのはおかしい
なら六十日行がとんでもなく遅いことは理解できたかな?
※3230
なんで?
◯伊都国=女王国を形成する国の統率下にある国
×伊都国=女王国を形成する国の1つ
魏志倭人伝の水行陸行60日とは条件が全く違うことは理解してないみたいだね
※3231
そもそも女王国を連合国とみなくてはならない箇所はない
自説に都合よくするために作られた概念にすぎない
女王国を連合国としなければ意味が通らない部分はどこか?
また女王国とはどこを指すのか?
女王国の次とかかれてる国は女王国を起点に次なので女王国ではない
陸行なら六十日で千里で、水行一月陸行一月なら一万里ぐらいいけるのか?
つまり一万二千里と水行陸行を考えると土佐が一番の候補地だな
※3232
「女王国」と「邪馬台国」を分けて書いてあるんだから、素直に別物を意味すると考えただけだ。
「邪馬台国」は「女王の都」だと書いてあるし「女王(の)国」とは明らかに違うだろ。「日本の首都」と「日本国」が違うものであることぐらい小学生以上であれば全員わかる。
これを強引に同じものにすることこそ、自説に都合よくするために作られた概念にすぎない。
朝鮮半島を縦断するときも地続きなのにわざわざ水行してるから水行の方が速いというのがわかる。陸行でも山岳地帯か平地かでかなり移動速度は変わる。(挹婁や夫餘は山岳地帯)
※3234
女王国の説明が一切ない
そういう場合は通称や別名であるのが慣例
「中国」「国」「王」など
水行の利点は荷物を多く運べることであって
それなら水行一月で八千里?、陸行一月で二千里ぐらいか?を進めた根拠も必要だな
ちかみに倭も山が深いとか森林が生い茂って前が見えないとか険しく書かれてるぞ
※3235
そう、
◯◯国(女王を共立した国々)の別称として「女王国」
ちなみに邪馬台国の別称は「女王の都」
計其道里 當在會稽東治之東
って書いてるからな。
九州では全く尺がたらんのよ。
>3226
>矛盾というか、なぜ全く別の数え方で言い直したのか説明がつかない
隋書に「夷人不知里數但計以日」とあるように、倭人(東夷)は里で距離を測ることを知らず、日をもって計ってたんだよ
途中から日数表記になるのは、途中から魏の人が里を計ってないってこと
実際に行ったかどうかはまた別の話だけど
そう考えると、そもそも自郡至女王國萬二千餘里というのも実測地ではなく、會稽東治之東(だと思っていた)から推定したザックリの数値なんだろうなと分かる
>3227
>どういう基準でそんなこと言ってるのか全く意味不明なんだけど
再掲
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
例えば、1と5は伊都国と狗奴国について、女王に従うかどうかを示した文章で、ほぼ同じ文型を取っているけれど、属の目的語が「女王」と「女王国」になっている
5の「女王」は卑弥呼個人に属する(さない)というのは意味がないから、事実上「女王国」だろう
9と10も同様に、10の「女王」を去ること四千餘里も「女王国」でいい
結局女王国というのは、倭国の中で卑弥呼の都する国・邪馬台国に「属」する国の範囲をいうのだろう つまり「女王国」≠「倭国」
さらに言えば、「女王国(伊都国、邪馬台国を含む)」+狗奴国+α=「倭国」
ただ、属する、というのが、帰属、所属くらいの意味なのか、隷属を意味するのかは分からない
2,7は「自女王國以北」が共通していて「自(より)」で起点を示しているので、この起点となる「女王国」が広範囲だと、文意が取りづらくなる(取れないとまでは言わない)
この二つは「女王国」=女王がいる国=女王が都する国・邪馬台国と読む方が素直だと思う
※3236
>◯◯国(女王を共立した国々)の別称として「女王国」
これは女王を共立した国々などを説明する文が無い中でいきなり女王国(広域連合)などが出てきても理解不能である
よって邪馬台国の別称である
>ちなみに邪馬台国の別称は「女王の都」
これはただの説明だからな
>計其道里 當在會稽東治之東
畿内でも一緒。
しかもこれは計算した結果こうなった會稽東治之東になっただけだから
畿内説の学者で一寸千里の法を使って計算した結果、群より万二千里南下したところが會稽東治之東に位置すると試算した人がいた
おそらくそれで正しいのだろう
何せ実際に會稽東治之東から海を渡って倭地に行ったのではなく、陳寿が計算した結果なのだから
※3237
別の呼称を使うなら、ざっくりとでもわかってるわけだから里数で統一して書くと思うんだけどな。
逆に、測り方を2つ書くなら呼称を統一すると思う(例:挹婁在夫餘東里北千餘里」「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行)
※3238
2,7も9と同じように解釈しちゃっていい気がする
※3239
>これは女王を共立した国々などを説明する文が無い中でいきなり女王国(広域連合)などが出てきても理解不能である
>よって邪馬台国の別称である
・倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 っていうのは説明にならないの?
・邪馬台国の別称だという説明はwhere?
>これはただの説明だからな
そう、邪馬台国は女王の都であって、女王の国ではない。という説明。
>畿内でも一緒。
一緒ではないわ。
会稽の東=トカラ列島付近で、九州だとほとんど完全に外れてしまうが、
福岡〜トカラ列島の距離=福岡〜畿内の距離(Google Map参照)だから、畿内だとちょうど良いんだよ。
一万二千里と七万戸だけを根拠に話を進めるべき
家の跡がないところは候補ですらない
※3241
・倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 っていうのは説明にならないの?
ならない
女王を立てたことしか書いてない
構成国などのことは微塵もない
・邪馬台国の別称だという説明はwhere?
女王国が連合国だという説明が書いていないから、別称
別称の場合は特に説明は書かないことが通例
>そう、邪馬台国は女王の都であって、女王の国ではない。という説明。
女王国=邪馬台国で意味が全て通るのに
あえて女王国に邪馬台国と連合国家という2つの意味を付与しなければならない理由がない
そして女王国の構成国や連合国であることなどはどこにも書いていない
>会稽の東=トカラ列島付近で、九州だとほとんど完全に外れてしまうが、
福岡〜トカラ列島の距離=福岡〜畿内の距離(Google Map参照)だから、畿内だとちょうど良いんだよ。
これも結論ありきで、畿内から逆算してる
google mapもなく、里数もわからないのにどうやって会稽の東と計算したのか?
根拠に欠ける
計算した方法を教えてくれ
下記は引用要約だが一寸千里の法を使っての計算だ
見事に計算上一致する
帯方郡夏至南中時の高度は75.09°髀の影の長さは2尺1寸3分
紹興市夏至南中時の高度は83.43°髀の影の長さは9寸2分
差は1尺2寸1分
一寸千里により
会稽東治は帯方郡の南12100里の位置になる
>3205
>余計なことを。
10年ほど前でしたか? 日本の前期旧石器を次から次にみつけていて、God-handと言われていた人がいましたね。嘘がついにバレたはなしです。
本性出てるなー。
また朝昼捏造部隊が騒ぎ出したのか。
>3223
女王國、一つの國、=都する所邪馬壱国?
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
女王、女王勢力圏とその代表権威としての女王個人、
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
わざわざごちゃ混ぜ論に持ち込まなければ、簡単に理解できるな。
※3243
>女王を立てたことしか書いてない
>構成国などのことは微塵もない
立てたことを書いてることは認めるのね
勝手にそれを都合よく、説明じゃないと言ってるだけ
>別称の場合は特に説明は書かないことが通例
それが通例だという根拠は?
>そして女王国の構成国や連合国であることなどはどこにも書いていない
女王国=(邪馬台国=)女王の都であることもどこにも書かれてないんですがそれは
>google mapもなく、里数もわからないのにどうやって会稽の東と計算したのか?
↑の答え
自分で書いてるじゃん↓
>帯方郡夏至南中時の高度は75.09°髀の影の長さは2尺1寸3分
>紹興市夏至南中時の高度は83.43°髀の影の長さは9寸2分
>差は1尺2寸1分
>一寸千里により
>会稽東治は帯方郡の南12100里の位置になる
頭大丈夫?
自分で何言ってるかあんまりわかってないっぽいよ。
病院行った方が良いと思うよ。煽り抜きで。
>3245
4「次有奴國此女王境界所盡」を「代表権威としての女王個人」とするのは無理があるんじゃないの?
女王個人の境界ではおかしいでしょ
ごちゃ混ぜ論というより「そこまで厳密に書いてないよな論」だよ
それと問題になってるのは「女王国」という言葉が、「女王勢力圏」なのか「邪馬台国、一国」なのかだよ
それに
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
の女王と女王国は同じ内容じゃないと意味が通らない
女王国は一国を表しており、それに従う国名はきちんと書いてある
魏志倭人伝内に連合王国とは一言も書かれておらず、それは吉備、出雲、大和が連合していたに違いないとの主張からの逆算でしかない
>3247
何言ってんだ?
女王勢力圏って文字を都合良く消し去って、意味不明な文句をつける。
事実誤認を狙う工作書き込みしなきゃならんほど、認めてるってことね。
到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
伊都国の王は代々女王国に属してきた。つまり共立以前から女王国単体に属していたということが書かれてる。
不屬女王
女王勢力圏に属していない。
女王=女王勢力圏、またその権威影響力の象徴として女王個人。
だから、その女王勢力圏っていうのが連合範囲だろ?
言葉の言い換えをしているだけで?
その女王勢力圏を「女王」と書いてあるところと「女王国」と書いてあるところがあるって言ってるんだが
同じ内容を自分が言うのは正しくて他人が言ったら捏造ってどういう基準だ?
※3246
>立てたことを書いてることは認めるのね
>勝手にそれを都合よく、説明じゃないと言ってるだけ
いいから構成国はよかけや
>それが通例だという根拠は?
国史読め
>女王国=(邪馬台国=)女王の都であることもどこにも書かれてないんですがそれは
女王国が何の説明もなく出現することが証拠
他の国々はいちいち説明がある
>↑の答え
>自分で書いてるじゃん↓
>頭大丈夫?
>自分で何言ってるかあんまりわかってないっぽいよ。
>病院行った方が良いと思うよ。煽り抜きで。
多分理解できてないんだろうが
この計算では万二千里という北部九州に当てはまる範囲で試算した結果、東治の東という答えが出るんだよ
一寸千里では南北はわかるが東西は計算できないため
つまり畿内など全く想定されてないということ
一生懸命煽ってくれてるが自分の頭の悪さを露呈してしまったな
>3250
日本語不自由なくせに日本の歴史を改編しようとする工作員w
>3252
本当に工作員ていう言葉が好きだな
内容で語ることができないんだろうな
3252の書き様にはみんなひどいなと思いながらも指摘するときにはいちいち理由をつけてるのにそれに対する反論が工作員だの捏造だの陰謀だのそんなのばっかり
3252の粗雑な論にもみんな付き合ってどこがおかしいって書いてくれてるんだから、それに再度反論すればいいのに、それができないとすぐレッテル貼りで逃げる
まあ、もともと自分が論じてる内容に無理があると内心分かってるからそういう逃げしかできないんだろうけど
3249の
>女王=「女王勢力圏」、またその権威影響力の象徴として女王個人
というのを女王国連合と読んでるだけだってのは理解できたか?
そして、その「女王勢力圏」を示すのに「女王」と「女王国」が区別なく使用されているのは理解できるか?
女王個人に属するっていうのはおかしいっていうのは理解できるか?
>3253
みんなを持ち出しましたか・・・、詭弁に見えますよというか詭弁ですね。
自分の意見以外は認めない人格が透けて見えるので、相手にされないのでしょうね。
中華帝国に対する交渉を、皇帝に○○すると言うように、権威全てを代表個人が肩代わりすることがよくあるのですよ。
それを理解できないというのは、あなた自身の中に破壊主義無政府主義、極左志向が根付いているからではないでしょうか。
女王国を邪馬壹国、女王を倭連合及びその代表者、これで3223の1~13は全て理解できますよ。
女王を倭連合及びその代表者
→女王を倭連合又はその代表者
出土品から見て近畿にも大きな国家があったのは確か、
なぜなら大陸沖縄九州関東東北のすべての現物が関西から出土する
少なくとも流通の中心で巨大であった事は確か
また日本は南に延びる島だと考えられていた事も事実なので
どう見ても魏志倭人伝の使者は関西方面を訪れた
少し後に連合国関西と連合国九州とが合併したというのが妥当
しかも武力でなく協議で統合した事は周辺国の歴史書や史跡に「大戦争」の痕がない事から推測できる。
中国地方の遺跡や島根の国譲りの逸話、天皇成立後東征に力を入れ始めた事からも
近畿と九州合併は戦争で支配したりされたりではない事が伺われる
サルタヒコは関西で太陽神だったが神武にその座を譲ったわけだから。
政略結婚までしてる。これで連合同士の合併というものが伺えないのは異常。
遡って、新唐書や旧唐書にも「あいつら代表が二組来て皇帝の前で我こそが代表だって争った」
という事も書き残されている
常識的に見なきゃね
大王家の権力統合の手口は相手の娘を奪って当主を酒で酔わせて首を刎ねる
今までに支配下に置いた豪族を嗾ける
とても平和的な手法なんだぜ
あまりにもうまく行き過ぎて何回も繰り返している鉄板の戦術なんだぜ
※3257
纒向遺跡からは邪馬台国時代の九州の土器は出ないけどいいの?
>3257
こういう捏造をかんさい(笑い)にばらまいて、日本侵略しようとしてるのか。
偽物歴史や偽物日本人には気をつけなきゃね。
そもそも弥生時代の遺跡のほとんどは別の地域の土器が出る
まきむくだけではない
>3261
>弥生時代の遺跡のほとんどは別の地域の土器が出る
そうだよな、弥生時代というか縄文時代から列島内の交流は現代人の想定以上に活発だった
そうした状況で、畿内に大連合ができてきているときに、それとは独立した倭国が北部九州にあると考える必要はないよな
>3254の人
統属対象を女王と女王国で書き分ける理由は?
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
地理的な記述で女王という権威全てを肩代わりする代表個人を起点にする理由は?
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
あなたにとってはそうかもしれないけど、論理としては説得力に乏しい
女王と女王国の書き分けがないと困るという結論ありきの推論に過ぎない
>3257
>新唐書や旧唐書にも「あいつら代表が二組来て皇帝の前で我こそが代表だって争った」
という事も書き残されている
これどこ? 原本で教えて
※3262
その論でいくと畿内に大連合ができてるから狗奴国は独立した国家として考える必要はないというのか?
畿内と出雲や九州は土器の出土状況から交流がなかったんだから、交流していないと考えるのが自然
そもそも魏志倭人伝にいう海を渡った東の倭種の国など別に倭を大統一した国家ではない
>3263
阿呆がまだ何か言ってるな。
>女王勢力圏って文字を都合良く消し去って、意味不明な文句をつける。
>事実誤認を狙う工作書き込みしなきゃならんほど、認めてるってことね。
>到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
>伊都国の王は代々女王国に属してきた。つまり共立以前から女王国単体に属していたということが書かれてる。
>不屬女王
>女王勢力圏に属していない。
>女王=女王勢力圏、またその権威影響力の象徴として女王個人。
都合の悪い事は見えなくなって、ごちゃまぜ論に持ち込む、てょーん。
>3266
何度同じことを繰り返してもそれで納得するのはお前さんだけだって
女王勢力圏が共立範囲っていうのは分かった?
※3251
>いいから構成国はよかけや
立てたことを書いてることは認めるのね
勝手にそれを都合よく、説明じゃないと言ってるだけ
っていうのは認めるんだね。
で、構成国云々がどう関係あるの?なんで書かなきゃいけないの?
>国史読め
さっさと書けや
>女王国が何の説明もなく出現することが証拠
は?wなんの証拠になるんだよ
>この計算では万二千里という北部九州に当てはまる範囲で試算した結果、東治の東という答えが出るんだよ
???
なんでそれが北部九州に当てはまるの?
東治の東とはかけ離れてるだろw
結局さー「里数」という「同じモノサシ」を都合よく
ごちゃごちゃ言い訳しながら、北九州にしたり、東治の東にしたりという
アクロバティックな理論を構築しないと成り立たない九州説はもうメチャクチャってことですねw
そんなもん常人に理解できるかボケェw
※3268
ロクに反論もできないのに、取敢えず悔しくて返信だけはしたの図かな?
卑弥呼を女王として立てたのは使役通じる倭の三十ヶ国
三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はあるから上記とは違う
構成国は書けないだろ?なぜなら女王国は連合国家でも何でもないから
国の説明をしてる部分なんだから、国名と共に知りうる情報を書くのが普通
国名だけ知ってて詳細は知らないなら知らないと書いてある
女王国は何の説明もなく、よく知ってる風に何回も書かれていて詳細の説明はない
つまりは他の例でも見られるように別称である
例、中国、国、王など
>なんでそれが北部九州に当てはまるの?
>東治の東とはかけ離れてるだろw
>結局さー「里数」という「同じモノサシ」を都合よく
>ごちゃごちゃ言い訳しながら、北九州にしたり、東治の東にしたりという
>アクロバティックな理論を構築しないと成り立たない九州説はもうメチャクチャってことですねw
>そんなもん常人に理解できるかボケェw
先のレスでは、この式をさもわかったかのように正しいと思ってレスしてたくせにw
陳寿が知りうる万二千里という情報と東治の東の位置から計算した結果そうなるということ
現に東治の東ではないが、これは帯方群から南に万二千里下ったところに東治の東があるから
倭人伝では万二千里の行程を南に行ったり東に行ったりしてるが、陳寿はどれだけ東に進んだのか知りようが無い上に、一寸千里の法ではどちらにせよ東西の行程が計算できないため
計算結果と実際の位置関係に齟齬が生じたという話なんだよ
常人と同じぐらいの知能を誇ってるぐらいならわかるだろ?
逆に聞くがどうやったら畿内が東治の東という「計算結果」になるのか教えて欲しい
※3269
>ロクに反論もできないのに、取敢えず悔しくて返信だけはしたの図かな?
反論になってないのはオマエだよw
勝手に意味不明なオレ様ルールをゴリ押ししてるだけ
>卑弥呼を女王として立てたのは使役通じる倭の三十ヶ国
>三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はあるから上記とは違う
・三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はある、ってどこに書いてるの?
・また、三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はある、が正しいとして、なぜそれが理由で女王として立てた30国とは違うことになるの?
>先のレスでは、この式をさもわかったかのように正しいと思ってレスしてたくせにw
違うよ、おまえがおまえの言葉の中で矛盾したこと言ってるから頭大丈夫かと思っただけだよw
まさか万二千里=北九州=東治の東っていう脳みそ蛆虫だらけなことを本気で言ってたとはw
>倭人伝では万二千里の行程を南に行ったり東に行ったりしてるが、陳寿はどれだけ東に進んだのか知りようが無い
ん??東に行ったせい!ってこと?北九州ではどっちにしろそんな大して東には行ってないだろ。それこそ東つまり本州に行ってないと。となると畿内だなやっぱりw
無事に↓の答えも出たなw
>逆に聞くがどうやったら畿内が東治の東という「計算結果」になるのか教えて欲しい
※3269
>女王国は何の説明もなく、よく知ってる風に何回も書かれていて詳細の説明はない
>つまりは他の例でも見られるように別称である
>例、中国、国、王など
うん、だから女王を推戴した国々の別称だよね
※3259
纒向には九州の土器はないけど、
九州には河内大和の庄内式土器がある。
一大率が持ってきたのかな。
※3270
>・三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はある、ってどこに書いてるの?
魏史倭人伝も読まずに議論してるのか?
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
>・また、三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はある、が正しいとして、なぜそれが理由で女王として立てた30国とは違うことになるの?
三十カ国は卑弥呼を立てた国だが、そのいくつかは女王国より北にあるので、女王国を構成する国家ではない
つまり使役通じる三十国は女王国ではない
>違うよ、おまえがおまえの言葉の中で矛盾したこと言ってるから頭大丈夫かと思っただけだよw
>まさか万二千里=北九州=東治の東っていう脳みそ蛆虫
>ん??東に行ったせい!ってこと?北九州ではどっちにしろそんな大して東には行ってないだろ。それこそ東つまり本州に行ってないと。となると畿内だなやっぱりw
やっぱり理解できてなかったか
常人より遥かに知能がおとるのに常人と見栄をはらないことだ
帯方群より會稽東治は一寸千里の法により万二千百里南
女王国までの距離を群から南に万二千余里行ったと仮定した場合距離がぴったり一致する
東に行ったことを考慮に入れずに計算したから実際の距離と乖離しているという話だよ
全く理解できてないんだから話に入らないほうがいい
こっちが恥ずかしくなるわ
※3271
違うことは本文で証明ずみ
※3273
>自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
>自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
これのどこをどう読めば
>三十ヶ国の国の何カ国かの南に女王国はある
になるの?もうちょっと詳しく説明してよ。
>三十カ国は卑弥呼を立てた国だが、そのいくつかは女王国より北にあるので、女王国を構成する国家ではない
だからなんでそうなるのか説明してくれ
論理の飛躍が凄すぎてわけわからん
>東に行ったことを考慮に入れずに計算したから実際の距離と乖離しているという話だよ
うんうんわかってる。だから陳寿は南移動の量を多く計算してしまった→実際は東移動が多め→九州から出ちゃうw畿内でちょうどいい、ってことだろ?
やっぱり病院行けやおまえw
九州説はネットでは思う存分キチガイ理論をがなり立ててゴリ押しできるけど
リアルではそんな恥ずかしいことができないからショボくて畿内説にぼろ負けしちゃう
畿内の遺跡には宮殿の跡がないから今のところ女王の都である邪馬台国に比定される遺跡はないよ
※3274
>だからなんでそうなるのか説明してくれ
>論理の飛躍が凄すぎてわけわからん
本当にわからないのか?
論理の飛躍ではなしに、君が訳文を知らないか、極端に理解力がないだけ
「自女王國以北其戸數道里可得略載」
により戸数や道里を略載した対馬(狗邪韓国)~投馬国までが女王国の北にあることになる
しかしながら、女王国=使役通じる三十国だと仮定すると、女王国の北は狗邪韓国より北の国々になり、その国々の「其戸數道里可得略載」したことになる
よってこれは完全に矛盾する
女王国=邪馬台国だと仮定するなら、女王国(邪馬台国)の北=対馬(狗邪韓国)~投馬国になり矛盾は生じない
よって、使役通じる三十国は女王国ではなく、女王国は邪馬台国の別称である
>うんうんわかってる。だから陳寿は南移動の量を多く計算してしまった→実際は東移動が多め→九州から出ちゃうw畿内でちょうどいい、ってことだろ?
>やっぱり病院行けやおまえw
驚いた。本当に理解できてないんだな
畿内など計算の根拠のどこにもでてきてない
というかすぐに暴言吐いて人格攻撃に走るのは反論できない証拠だぞ
帯方群から南に万二千里で會稽東治
女王国も南に万二千里だと計算したから會稽東治の東と誤って計算された
(実際は南には六千里~七千里ほどしか進んでいないが、陳寿にそれを知りうる手段がないため、一律南に万二千里と計算した。この五千里~六千里の距離が実際の會稽東治と女王国の緯度の差)
陳寿の知りうる数字は、會稽東治までの距離と、女王国まで万二千里という情報だけ
一寸千里も全く知らないのだろうが、前が畿内がどうやって會稽東治の東に納まるのか計算してみせろ
言っておくがこの計算だと畿内は全く関係ない蚊帳の外だぞ?
※3272
邪馬台国は各地からモノが集まっていた上に租も集めていたようだからその時のものかもしれないね
もしくは大陸や半島のモノと畿内の土器に入る穀物なんかと交換していたのか
あるいは畿内の商人が単身赴任していて自作の土器で自炊していたのか
想像は膨らむね
>3277
>一寸千里も全く知らないのだろうが、前が畿内がどうやって會稽東治の東に納まるのか計算してみせろ
>言っておくがこの計算だと畿内は全く関係ない蚊帳の外だぞ?
その一寸千里って、「短里がある」って人が金科玉条のように持ち出す数値ですよね
畿内説で短里を唱える人はほぼいませんから、確かに畿内(説)はまったく関係ないですね
なぜ「女王」が女王国連合になって、「女王国」が邪馬台国以外を示さないのかがさっぱりわかりませんけどね
女王国と書いて邪馬台国を示す場合と、女王国連合(共立範囲)を示す場合があるのに
※3279
>その一寸千里って、「短里がある」って人が金科玉条のように持ち出す数値ですよね
>畿内説で短里を唱える人はほぼいませんから、確かに畿内(説)はまったく関係ないですね
ちなみにこの計算を導きだしたのは畿内説の人だぞ
その人の目的は万二千里と會稽東治の東の矛盾の解消
その人も短里を主張している。というか短里じゃなければ対馬にも着かない
短里は漢の時代にも魏晋時代にも使われている箇所が多々あるぞ
女王は女王国連合ではなく単に女王を指す
もしくは女王=女王国=邪馬台国を指す
>女王国と書いて邪馬台国を示す場合と、女王国連合(共立範囲)を示す場合があるのに
そんな場合は一切ない
女王国と書いて邪馬台国で全て読める
女王国と書いて、女王国連合としなければならない場合はない
そうしても読めないことはないというだけで、そう読まなければならない必然性はない
また女王国が女王国連合であると説明した箇所は全くない
最初は女王と女王国は明確に分かれてたけど写本の過程で抜けた説
引用していた文献も魏略とすくなくともあともう一つはあるみたいだし、どちらの部分を引用したのかや写本での抜けや誤字はあるだろうね
短里君必死だな
そりゃあ短里じゃない限り畿内着かないから
元から変わっちゃう
はいはい
短里が存在することは確定している
これに異論を唱える人はわかっている側の人間ならいない
問題はこの短里が魏志倭人伝に使われているかどうかだけ
短里という概念が存在すると主張しているから短里君と呼ばれるわけではない
短里説を採用しなければ畿内説は成立しないと強弁し続けるのが短里君
畿内説を支持する現役の学者で誰が短里説を唱えてるのかと
畿内説は魏志倭人伝の方角以外は正しいと考えている。
里数を短里にすると畿内になる。
短里だから畿内ではなく、畿内だから短里。
この考えには一分の間違いもない。
だめだこりゃ
まあ、畿内説を誹謗するのが目的の短里説だからな
ここに書き込みをしている畿内説の立場の人で、短里だから畿内って言ってる人が一人もいないのに3288と同じことを繰り返してるから、どうしようもない
短里はあった。短里と水行と陸行により纒向遺跡に辿り着く。
記事の内容は何か間違っているのだろうか?
これだけ多くの人が短里説なのだから短里でいいのでは?
学者の論文は短里が前提
仮に短里が使用されていなかったにせよ常より短い里数で表記されているのは事実なのでこれに何らかの解釈が必要
もちろん様々な解釈が施されているが決定的なものは一つもない
そんな中、短里説だけが文献から存在が確認されている唯一の解釈だということ
無論この解釈が正解かどうかは別の話
涙目大敗北した女王国連合君が単発荒らしになった模様
>3295
たぶ女王国連合君って言われてるのオレだと思うけど、3281、3282でまあそういうこともあるかと思ってるだけだが
別に大敗北したとは思わないが3295がそう思いたいなら好きにすればいいが、単発荒らしってどれだ?
3291~3293は短里があるって立場だからオレじゃないよ?
畿内説を支持する現役の学者で短里説を唱えている人は誰がいるの?
てかさ、魏志倭人伝で卑弥呼は親魏倭王って書かれてるんだから、その卑弥呼=女王の「女王国」って言ったら「倭王国」の意味になるのが素直な読み方じゃね?
まあ、倭国内でも狗奴国とか「倭王国」に入ってない国はあるけど、そういうのを除いたのが「女王国」でいいんじゃない?
なぜ、女王国=邪馬台国って限定する必要があるの?
魏志倭人伝の本文内において女王国は倭国の中のある邪馬台国の代名詞として書かれているから
女王国が倭王国だと矛盾する箇所
・自郡至女王國萬二千餘里
→倭王国までなら七千里ないし八千里
・自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
→女王国が倭王国なら北の伊都国に一大率を置けない
・自女王國以北其戸數道里可得略載
→戸数や道里を略載したのは対馬~投馬国までの間である、狗邪韓國以北ではない
>3299
自女王國以北の書き出しの2つ以外まで、この2件の解釈に合わせる必要ないんじゃないの?
この2件に関しては文脈的に女王国が邪馬台国だと思うけど
それから、
>→戸数や道里を略載したのは対馬~投馬国までの間である、狗邪韓國以北ではない
これはおかしいでしょ?
戸数や道里を略載したのは「帯方郡」~「邪馬台国」だよ
循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 は道里を略載してるし
水行十日陸行一月 可七萬餘戸 は道里も戸数も略載してあるじゃない
「自」女王國は、女王国が起点であって、女王国は除かれてないよ
じゃあ一大率はどうなるって話だけど、むしろ投馬国も一大率の檢察範囲には入ってない様に見える
要するに、魏志倭人伝ってそこまで正確じゃないってことでいいんだと思う
陳寿は、参考にした底本の記述をできるだけ変更しないようにしたんじゃないかとも言われているし、原本がいい加減だったら、陳寿もそれを直せなかったってことだと思う
自郡至女王國萬二千餘里 これの解釈を後生大事に考えるのはあまり実りが多くないと思うよ
ずーっとそう言ってるんだけどね
※3277
>女王国=使役通じる三十国だと仮定すると
>よって、使役通じる三十国は女王国ではなく、女王国は邪馬台国の別称である
え?いつの間にそんなことになってるの?
女王国=女王を共立した国
だとしか俺は言ってないぞw
使役通じる国の何個かは含まれてるかもしれんが全部だとは言ってない。
>(実際は南には六千里~七千里ほどしか進んでいないが、陳寿にそれを知りうる手段がないため、一律南に万二千里と計算した。この五千里~六千里の距離が実際の會稽東治と女王国の緯度の差)
うん。万二千里(全行程)ー六千里(南)=六千里(東)が残ってるけど、
とても九州内では収まらず蚊帳の外。近畿がドンピシャってことだろ。
お前やっぱ自分で何言ってるかわかってないから病院行ったほうがいいよ。
これは煽りはなくただのナイスアドバイスだから。
>自郡至女王國萬二千餘里 これの解釈を後生大事に考えるのはあまり実りが多くないと思う
邪馬台=大和
さらに、隋書でも奈良の都のことを昔の邪馬台だって言ってるからもう奈良でいいよね
でもそれだと九州説は困るから色々ごちゃごちゃ引っ掻き回して粘ってる
※3301
>え?いつの間にそんなことになってるの?
>女王国=女王を共立した国
>だとしか俺は言ってないぞw
>使役通じる国の何個かは含まれてるかもしれんが全部だとは言ってない。
あっそ。ならどこにも書いていない女王国の構成国をはやく書いてね
>うん。万二千里(全行程)ー六千里(南)=六千里(東)が残ってるけど、
>とても九州内では収まらず蚊帳の外。近畿がドンピシャってことだろ。
>お前やっぱ自分で何言ってるかわかってないから病院行ったほうがいいよ。
>これは煽りはなくただのナイスアドバイスだから。
ナイスアドバイスありがとうね
やっぱり理解できてないんだね
畿内説が君のような低能ばかりだと思われるのは酷だから黙っておいた方が良いというのが俺のアドバイスね
倭人伝の万二千里では九州を出ることは不可能だから
南六千里だけだと多分済州島のちょっと南ぐらいかな?
倭人伝の里数でいくと畿内まで二万里は優に超えるだろうね
まあ、その程度の知識で議論に臨むのはやめた方がいい
>3303
>女王国の構成国
3301じゃないけどオレは何度か書いてるよ
卑弥呼が親魏倭王なんだから、倭人の領域で、狗奴国他の属さないところを除いた範囲だって
倭国=「女王国」+「狗奴国+α」
対馬国も壱岐国も伊都国も奴国も女王(=倭王)国でしょ
※3299
狗邪韓國以北は倭ではない
※3301
女王=卑弥呼
女王國の都=邪馬台国
女王國≠共立国
女王に従う国は列挙されている
奴国は入っている
伊都国は王がいて独立しているが、一大卒が置かれている
狗奴国は男王がいて対立している
遺跡から伊都国にも衛星国があることは分かっている
そこが伊都国の範囲なのか女王に従っている国かは遺跡から国名が分かるものが出土しないと分からん
※3303
>ならどこにも書いていない女王国の構成国をはやく書いてね
書いてないんなら書けるわけないだろ。
でも、共立したと書いてるんだからあったという事実は消せない。残念。
>倭人伝の万二千里では九州を出ることは不可能だから
>南六千里だけだと多分済州島のちょっと南ぐらいかな?
南六千里=済州島でどうやって、残り六千里で東治之東まで行くんですかねえ…
※3300
>自女王國以北の書き出しの2つ以外まで、この2件の解釈に合わせる必要ないんじゃないの?
>この2件に関しては文脈的に女王国が邪馬台国だと思うけど
全て女王国=邪馬台国で読むことができる
それ以外の解釈をする必要がなく、そうしなければならない必然性もない
>戸数や道里を略載したのは「帯方郡」~「邪馬台国」だよ
>循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 は道里を略載してるし
>水行十日陸行一月 可七萬餘戸 は道里も戸数も略載してあるじゃない
>「自」女王國は、女王国が起点であって、女王国は除かれてないよ
女王国が起点であるのは確実であり、それが含まれてるか含まれていないかは問題ではない
女王以北の倭国がどこであるかであり、それは対馬~投馬国である
>要するに、魏志倭人伝ってそこまで正確じゃないってことでいいんだと思う
>陳寿は、参考にした底本の記述をできるだけ変更しないようにしたんじゃないかとも言われているし、>原本がいい加減だったら、陳寿もそれを直せなかったってことだと思う
>自郡至女王國萬二千餘里 これの解釈を後生大事に考えるのはあまり実りが多くないと思うよ
>ずーっとそう言ってるんだけどね
根拠もなく資料批判をしてはなんとでも読める
特に里数などを好きに無視して好きな数字に置き換えてはどこにでも比定地を置ける
※3304
※3299によりそれはない
魏志倭人伝のどこをどう見ても女王国が複数国を表して書いてあると読める箇所はない
くそみそ論法で荒らし回ってるな(笑)
翰苑(かんえん)によると「馬臺国(俀たい国)」は、
吉野ヶ里、八女、熊本山門、宮崎日向、くらいしか候補なくなるだろ。
※3308
>書いてないんなら書けるわけないだろ。
>でも、共立したと書いてるんだからあったという事実は消せない。残念。
共立した国々=女王国ではないと上でさんざん否定したのにね
で、その共立した国々が女王国だと説明した箇所は?
共立した国々は倭国であり、女王国ではないんだよなあ
>南六千里=済州島でどうやって、残り六千里で東治之東まで行くんですかねえ…
会稽東治を浙江省紹興市とすれば、あとは緯度を計算すればわかる
で、万二千里でどうやって畿内まで行く計算になったかは出たの?
※3312
>共立した国々=女王国ではないと上でさんざん否定したのにね
その勝手な理屈が論破されて今に至る
>で、その共立した国々が女王国だと説明した箇所は?
で、邪馬台国が女王国だと説明した箇所は?
>共立した国々は倭国であり、女王国ではないんだよなあ
で、その共立した国々が倭国だと説明した箇所は?
というか卑弥呼に反対した狗奴国は倭国に含まれないの?
>会稽東治を浙江省紹興市とすれば、
福州市だぞw
(wiki会稽郡)
後漢が成立すると冶県は東冶県に改められ、
(wiki侯官県)
侯官県(こうかん-けん)は漢代から中華民国初期にかけて福建省に存在した県。現在の福州市中心部及び閩侯県の一部に相当する。
漢代に冶県が設置されたのが侯官県の前身である。
※3313
何度同じ事を言わせるのかな?
>その勝手な理屈が論破されて今に至る
どこで?
>で、邪馬台国が女王国だと説明した箇所は?
何度も言うが、国として説明されてないから別称なのである
これは例として、中国、王国、国など枚挙に暇が無い
>で、その共立した国々が倭国だと説明した箇所は?
>というか卑弥呼に反対した狗奴国は倭国に含まれないの?
ちゃんと魏志倭人伝読めよ
無知丸出しで議論に来てるの丸分かりだぞ
其國本亦以男子爲王住七八十年「倭國」亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
共立した国は倭国です
東夷伝倭人条だからな、倭国伝ではないのがミソ
狗奴国は倭地にある国家であるが、魏が倭国として認めたのは卑弥呼が治める範囲
だから卑弥呼に金印紫綬を下賜し、正当な倭国と認めた
>福州市だぞw
これまた不勉強
正しくは東冶ではなく東治である
当時福州市は会稽群という名称は使われておらず、東冶は建安郡に属した
その当時の会稽群は紹興市である
魏志東夷伝韓では「東西以海爲限 南與倭接」と書いてあって、韓の地の東西は海までだけど、南は海までじゃなくて倭に接する、と書いてあるから、半島南岸、狗邪韓國は素直に読めば倭に入ると思う
であるなら、自女王國以北其戸數道里可得略載は、
到其北岸狗邪韓國七千餘里から南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月(中略)可七萬餘戸
までが、自女王國以北だよな?
「自」は起点を示すから、普通はその起点も入るんだよ
その一方で一大率のところは、入らないとしないとおかしいから、そういうところをみると魏志倭人伝はそれほど厳密に書いてないことが分かる
3309は自分一人だけが、魏志倭人伝の正しい読みをしてるつもりみたいだけど、かなり勝手な解釈してるよ
>魏志倭人伝のどこをどう見ても女王国が複数国を表して書いてあると読める箇所はない
複数国じゃなくて、「女王に属する範囲が一つの国」(≒倭国、属していない狗奴国とかは入らない)が女王国で何もおかしくないじゃない
伊都国とかが例えば伊都「県」とかって書いてあれば紛れもなかったんだけどね
倭国≒女王国で、その中に伊都県とか邪馬台県があるって書いておいてくれればよかったのに
実際そんな読みで十分だと思うよ
九州説の人は、よく「萬二千餘里で、残り1500里ほどだから九州」って言うけどさ、千里って対馬と壱岐の間くらいの距離なんだろ?
残り1500里で水行20日+10日、陸行1月かけるとすると、その1500里の三分の二を水行に割り振っても、対馬-壱岐間に一月かかる計算だぞ? そんなにかかってたら、飢え死にするしその前に水切れで死ぬだろ?
水行20日+10日は、対馬-壱岐間の千里とは関係のない計り方だって分かるよな?
そして短里が正しいの前提が、対馬-壱岐間の千里なんだから、結局全体として話が繋がらなくなる
短里だなんだの言って、水行20日+10日、陸行1月、を知らん顔するからおかしな話になるんだよ
※3315
>「自」は起点を示すから、普通はその起点も入るんだよ
別に女王国を起点として入れるべき
そこは別に問題としていない
女王国より北の国はどこかというのが書きたかっただけで、ここで女王国を含める含めないの議論は意味が無い
>その一方で一大率のところは、入らないとしないとおかしいから、そういうところをみると魏志倭人伝はそれほど厳密に書いてないことが分かる
一大率が檢察してる区間は女王国も入るだろうな。
ただ本部?が伊都国にあるというだけで
>複数国じゃなくて、「女王に属する範囲が一つの国」(≒倭国、属していない狗奴国とかは入らない)が女王国で何もおかしくないじゃない
それは倭国として登場している。
決して女王国ではない
女王国の名で邪馬台国と同じ地点を起点として書かれてる通り、
女王国は邪馬台国を指す
逆に「女王に属する範囲が一つの国」として書かれた箇所はない
※3314
>何度も言うが、国として説明されてないから別称なのである
>これは例として、中国、王国、国など枚挙に暇が無い
うん、だから
女王国=女王を推戴する国々の別称
邪馬台国の別称=女王の都だよね
>当時福州市は会稽群という名称は使われておらず、東冶は建安郡に属した
だから何?東冶の漢字を勝手に変えて、場所を変えるのは勝手すぎる。
建安郡ができたのは260年。魏の時代(220年-265年)はほとんど会稽郡。当時は会稽郡。
※3316
水行と陸行の時間についてだが、使は全速力で都に向かうのではない
もちろん半島から対馬や対馬から壱岐のような何もない海上で留まることは意味がないのでしないが
要所要所で留まり、歓待を受けたり、天気(風)を待ったり、その地を観察するのが常である
時代は400年ほども違い、道路や航路の整備も整い、船の速度も上がったと思われるので比較としては適切ではないかもしれないが、裴世清などは百済から都に上るまで7ヶ月も要している
警護の騎馬200騎がそろうのに10日もかかったりと何かと日数を要しているようだ
難波で1月ほど滞在したりもしている
さらに使の日程はどの箇所をとってもなぜか十日行単位であり、四捨五入か切り上げかはわからないが実際にかかった日数ぽっきりではないのは確実視されている
また無日行というのはもちろん無いので、切り上げの可能性が高いか?
対馬-壱岐間の千里ではなくて群から伊都国までの区間区間の平均である
そしてそれが、一寸千里の法や、史書に度々現れる「短里」77mとの近い数字であることから
短里が使われていると言われる所以である
ちなみに海上の距離を測る方法としては、水時計を使ったり線香を燃やして何本消費するかなどで測る方法があったようだ
もちろんこれは厳密には距離ではなく時間を測定しているので、実際の距離とは相違が生じる
※3314
>共立した国は倭国です
倭国=共立国
であっても、
女王国≠共立国の証明にはならないからどっちでもいいわ
※3317
>女王国の名で邪馬台国と同じ地点を起点として書かれてる
どこにそんなこと書いてるの?
3315
伊都国は王国だから中国だと県とは書かない
山国谷(現 耶馬渓)という地名もある
※3320
※3299で女王国≠共立国は証明済み
逆に女王国=共立国と書かれている箇所は?
※3321
自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
倭王国と女王国は同じですか?
>3322
とはいえ、伊都国王がいるといっても皇帝が冊封した王ではないので、大陸としては王と認める必要もない訳で、その土地の首長程度なんだし県と書かれてもおかしくはない
まあ、王と書いてもらっているけれども
だから「伊都国は王国だから」というのは、ただの結果論だよ
※3318
>女王国=女王を推戴する国々の別称
オウム返し戦法にでたか?
何度も言うが、その用例の箇所はない
あるならどこか答えてみろ
なおかつ女王国=女王を推戴する国々の別称なら矛盾する箇所多数
>邪馬台国の別称=女王の都だよね
それはただの説明。
しかも女王の都する所だからな。
「南至邪馬壹國女王之所都」
正式名のあとに別称をまた書くのか?
明らかに説明文だ。別称ならなぜ何度も使われない?
>だから何?東冶の漢字を勝手に変えて、場所を変えるのは勝手すぎる。
そうだね。字を勝手に変えるのは最低の行為だ
よって原文に忠実に「東治」にすべき。東冶ではない
またもや無知から恥をかいてしまったな
原文を読まないからこういうアホな目にあう
>建安郡ができたのは260年。魏の時代(220年-265年)はほとんど会稽郡。当時は会稽郡。
残念ながら三国志が書かれたのは晋の時代なんだよ
「計其道里 當在會稽東治之東」
さらにこれは元にした文からの引用ではなく陳寿が計算した注意書きなので晋の時代を表すものである
最後にもう一つ、どうやって會稽東治之東が畿内になるのか計算結果はよだせよ
※3324
3299の「→」後の根拠が不明
邪馬台国と投馬国の道里は得られてない。水行とか陸行でしか書けてない。
3324が分かってないなと思うのは
「女王国=共立国」これにこだわっているけれども、こっちが言っているのは、「女王国=倭国の女王に統属している範囲」であって、「倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」なんだから、本来的には「女王国=倭国」だろうってこと
女王国=邪馬台国なんていう注記はないんだから、そのままに読めば、倭国の王が卑弥呼で、その女王国って言ったらそのまま倭国だろう
で、倭国でも狗奴国とか、属していないところは当然女王国には入らない
で、その入らないところを除けた残りの倭国を表現するのに「共立国」って言っているだけなんだが、分かるかな?
>3328
ただ文句が言いたいだけでしょう?
自分だけが正しいと言い張るために?
>邪馬台国と投馬国の道里は得られてない。水行とか陸行でしか書けてない。
それで言うなら、投馬国までも水行二十日としか書かれてないよね?
これが戸数道里可得略載に当たらないというのなら、自分で書いた3309の
>女王以北の倭国がどこであるかであり、それは対馬~「投馬国」である
にまず文句を言ってやってくれ
戸数と道里じゃなくて、戸数や道里、程度だと思うぞ
それに「水行、陸行」も道里扱いじゃないと、自女王国と起点を示す意味がなくなる
※3327
女王国=邪馬台国の用例もない
矛盾があるならどこか書いてみろ
そもそも説明だろうが別称だろうがどうでもいい。
単なるお前の勝手な基準。
東治之東では意味が通らない。東冶でしかあり得ない。
お前の都合で、東冶の東では困るから
勝手に字を変えたり時代を変えてるだけ。
※3330
ごめん3309俺じゃないから
※3329
>「女王国=倭国の女王に統属している範囲」であって、「倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼」なんだから、本来的には「女王国=倭国」だろうってこと
>女王国=邪馬台国なんていう注記はないんだから、そのままに読めば、倭国の王が卑弥呼で、その女王国って言ったらそのまま倭国だろう
・自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
・自女王國以北其戸數道里可得略載
何度も言うがこれと矛盾するからそれはない。
邪馬台国でしか意味が通らない。
逆に本文で女王国=倭国の箇所はどこか?
本文の女王国にその用法がないのに、新たな意味を付与させる必要はない
>その入らないところを除けた残りの倭国を表現するのに「共立国」って言っているだけなんだが、分かるかな?
それはもちろんその通りだ
どうぞ勝手にすればいいし共立国でなんら問題はない
但し、本文中に見る女王国=共立国ではない
※3331
>女王国=邪馬台国の用例もない
>矛盾があるならどこか書いてみろ
オウム返し戦法はもういいからな
※3277に反論の1つでもしてみよう
>そもそも説明だろうが別称だろうがどうでもいい。
>単なるお前の勝手な基準。
女王国=共立国などが勝手な基準であって
本文中にどこがその用法で使ってるのか説明してみせろ
>東治之東では意味が通らない。東冶でしかあり得ない。
>お前の都合で、東冶の東では困るから
>勝手に字を変えたり時代を変えてるだけ。
ひえ~、字を変えるなといいつつ自分は勝手に「東冶」に変えるという
しかも時代も勝手に変えてるしな
わかったから晋代に会稽群がどこかと、原文が「東治」であることを確認してこような
で、畿内がどうやったら会稽の東になるの?
この際どっちの会稽でもいいよw
※3334
オウム返しっていうかさ、
それに答えられないのは
「用例」にしろ「矛盾」にしろ、
お前が都合の良い方だけを採用して、都合の悪い方を不採用にして
ドヤ顔してるだけってことなんだよw
女王国=邪馬台国は勝手な基準じゃないんですか?
女王国は全て共立国のこと。女王の都のことは邪馬台国って書いてますんで。
東冶っていうのが通説なんだからしょうがない。
悔しかったら東治()ってなんなのかちょっと答えてみてよw
地図見りゃわかるが、東冶之東と畿内は帯方郡を中心とした同心円上にあるからな。
距離的にぴったりなんだよ。九州はあり得ない。
もう誰が誰だか分からんからどうでもいいが
3319の
>水行と陸行の時間についてだが、使は全速力で都に向かうのではない
とかいうのは勝手な基準だと思う
一方で、魏志倭人伝に書いてないことを勝手に想定するなと言い
一方で、1500里に2ヶ月かかるのはおかしいと言われると、魏志倭人伝に片言隻句も書かれていない使いの移動速度の解説を始める
陸行1月は1日の間違いとも言われてるし、里数ではないから倭人からの伝聞と言われている
どこかに倭人の1日は何里みたいな対応がないと議論しても決定打にはならん
隋書で大和=邪馬台国って言われてるんだからそれが決定打でいいんじゃないの
>3337
>陸行1月は1日の間違いとも言われてる
そういう人がいるのは知ってるけど、その前の水行20日+10日が、10日単位のざっくりした計り方のところへ、+1日の陸行を書く必要があるのかって考えると1月でいいんじゃないかと思うんだよな
+1日なら誤差じゃん
というか、陸行1日って船を下りてすぐだよね
投馬国ではその1日すらかかれないってことは投馬国って水辺の国なのって話にもなるし
※3340
アテネとピレウスみたいなもんかなと勝手に思ってる
ピレウスはアテネの中じゃね?
一日もかからないだろうに
オレは陸行一月でいいと思うから、一日だったらとかは考えないけどさ
※3335
>「用例」にしろ「矛盾」にしろ、お前が都合の良い方だけを採用して、都合の悪い方を不採用にして
ドヤ顔してるだけってことなんだよw
俺がなにをどう都合の良いほうだけ採用してるのか教えてくれ
>女王国は全て共立国のこと。女王の都のことは邪馬台国って書いてますんで。
女王国が共立国だと書いてある箇所をはやく書けと
また本文中の女王国で共立国だとしか読めない箇所もはよ
何度も何度も言うが
女王国=邪馬台国ですべての女王国で矛盾は生じない
女王国=共立国なら本文中の多くの女王国で矛盾する
>東冶っていうのが通説なんだからしょうがない。
>悔しかったら東治()ってなんなのかちょっと答えてみてよw
勝手に字を変えるなと言いつつ、自分が字を変えてると知るや否や通説だとか笑うしかないな
全く答えが出てないのに通説もくそもないと思うが
東治は兎が会稽の東を治めたという意味
また、三国志の中において、永安三年(260年)を基準にすべての表記が会稽から建安に変わっている
漏れは一つもない
陳寿が間違うことはないということ
>地図見りゃわかるが、東冶之東と畿内は帯方郡を中心とした同心円上にあるからな。
>距離的にぴったりなんだよ。九州はあり得ない。
同心円上wこれはすごい論を見た
つまりウラジオストックでも北京でも会稽東治之東の東になるわけだ
そんなことあるかい
しかももう一つおまけに教えてあげると、群から奈良までは直線距離で1000kmほど
1000kmでは杭州までが精いっぱいでとても福建省 福州市までは行けない
ついでに、陳寿が計算してその結果がちょうど導きだされたんだから、どういう計算をしてどういう結果が出たのかを教えてもらわないとね
※3336
>一方で、魏志倭人伝に書いてないことを勝手に想定するなと言い
そのようなことは一言も言ってないが?
魏志倭人伝の本文中に登場する語句に明らかに他と矛盾する意味合いを付与するなと言ってるだけ
東京を勝手に関東と読み替えているのと同じこと
>一方で、1500里に2ヶ月かかるのはおかしいと言われると、魏志倭人伝に片言隻句も書かれていない使いの移動速度の解説を始める
魏志倭人伝中ですべての事象を解明させるのは不可能
他の資料と比較して正解を求めるのは当然のこと
このような当たり前のこともわからないのは困りものではないかな?
ついでに六十日行=千余里という使いの歩みの遅さがわかる資料もあると付け加えておく
例えば行軍の速度と使いの速度が明らかに違うのは事実であり、他の資料から使いがどれほどの速さで進んでいるのかを比較検討するのがなぜおかしいと思うのか謎だ
まあ自説に都合の悪いことを解説されるのは困るのだろう
畿内派の主張
「魏志倭人伝の方角も距離も風習も建物も物も全て信用ならない」
もう魏志倭人伝読むのやめたら?
※3343
>俺がなにをどう都合の良いほうだけ採用してるのか教えてくれ
「女王国が共立国だと説明した部分はどこだ言え!」→女王国が邪馬台国だと説明した部分は言えない
「女王国は邪馬台国の別称だからセーフ」→女王国が共立国の別称だと言うのは認めない
「女王国が共立国の用例はない」→女王国が邪馬台国の用例はないなんてオウム返しはやめろ
「女王国が邪馬台国で矛盾あるなら言ってみろ」→女王国が共立国で矛盾あるなら言ってみろなんていうオウム返しはやめろ
※3346
ま~だ認めないのか
倭人伝にある女王国の用例は以下の5つ
・世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
女王国が共立国なら、伊都国も属している共立国に伊都国王がさらに属するという意味のわからない文章になる
また、倭国中が共立国なら国中属しているのに伊都国だけ重複して属していると書く意味がない
・自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國
女王国が共立国なら北に置く一大卒は、いったいどこに置くのか?
伊都国の南にある女王国とは邪馬台国であることが明白
・自女王國以北其戸數道里可得略載
前後の文脈から見ても明らかに邪馬台国を指している
邪馬台国より北の戸數道里を略載している
・自郡至女王國萬二千餘里
この距離も明らかに邪馬台国である。
共立国なら七千里である。
・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
ここはこれと言って情報をもたらしていない
以上、倭人伝の文中で使われる女王国は邪馬台国であり、女王国が共立国を指す言葉でないことがわかる
其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
其年十二月詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑彌呼
女王を共立したのは倭国であり、共立した主体を指す言葉は倭国であり女王国ではない
※3343
>東治は兎が会稽の東を治めたという意味
wwwwww
それだったら兎治会稽之東だろ
兎なんてどこから来た?もう一個の東はどこいった?順番もめちゃくちゃ
>また、三国志の中において、永安三年(260年)を基準にすべての表記が会稽から建安に変わっている
計算されたのが基準より前ってだけだろ
>つまりウラジオストックでも北京でも会稽東治之東の東になるわけだ
郡から東と南にしか行ってないわけだから、北のウラジオや西の北京はあり得ないけど、そもそも尺が足りない九州はそれと似たようなレベルであり得ないってことだ。
>群から奈良までは直線距離で1000kmほど
>1000kmでは杭州までが精いっぱいでとても福建省 福州市までは行けない
福岡までは直線距離で500kmほど。1000kmだと鹿児島さえもオーバーラン。福州市なんて夢のまた夢。
杭州なら紹興市と近い。直線距離ではなく経由すれば福州市もイケるのが奈良。
※3347
>女王国が共立国なら、伊都国も属している共立国に伊都国王がさらに属するという意味のわからない文章になる
いや、わかるだろ。陪臣ってことだ。
>女王国が共立国なら北に置く一大卒は、いったいどこに置くのか?
>伊都国の南にある女王国とは邪馬台国であることが明白
伊都国に置く。何が明白なのか意味不明。
>邪馬台国より北の戸數道里を略載している
邪馬台国や投馬国までは里数がわからんから微妙。
>共立国なら七千里である。
なんで?
>女王を共立したのは倭国であり、共立した主体を指す言葉は倭国であり女王国ではない
女王国(略)共立一女子爲王
って書かないといけないことになるけど、それは表現として変だからなあ
倭国の国々が女王を共立して結果女王国になったということ。
※3345
距離…水行陸行みたいな計測不能な単位を使う中国人が悪い。というかここで困って一月を一日とか言ってるのが九州派
風習、建物…テンプレ2
方角…実際隋書で東って訂正されてるからね仕方ないね
はい論破
>3347
>女王国が共立国なら、伊都国も属している共立国に伊都国王がさらに属するという意味のわからない文章になる
何を言っているのかやっと分かった気がする
>伊都国も属している共立国
これが「3347の脳内」の「余分な情報」なんだよ
二重に属してるんじゃなくて、単に伊都国王(=伊都国、国王で国を代表していいんだよな)が女王国=共立範囲に属しているってだけ
愛知県は日本国に属していますと同じこと
何が言いたいかっていうと、この「丗有王皆統屬女王國」の女王国が、魏志倭人伝中の「女王国の初出」だってこと
つまり、「伊都国には国王がいますが、その上位に女王国=倭国(狗奴国ほかは含まず)があって。そこに属しています」ってここで始めて、倭人の領域に統属すべき国=女王国があることを示している部分だってこと
この時点では邪馬台国も何も出ていないんだから、この女王国は「倭国内の特定の一国=邪馬台国」ではなく、「一つの領域としての倭国=3347以外が認めている共立範囲」じゃないと読めないよ
自分で「伊都国も属している共立国」なんていう変な注釈を作り出した挙句に、それを理由に否定されちゃあ、他の人には訳が分からないよ
自分自身で「伊都国も属している共立国」って書いてるじゃん
その「共立国」がここでは「女王国」って書かれているだけ
※3348
>それだったら兎治会稽之東だろ
>兎なんてどこから来た?もう一個の東はどこいった?順番もめちゃくちゃ
男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害
を受けての文章
会稽の東を兎が治めたという意味であり、その治世が倭人にも継承されていることを書きたい文章なのだろう
>計算されたのが基準より前ってだけだろ
三国志が編纂されたのは280年、計算は陳寿がしたので基準より後
>郡から東と南にしか行ってないわけだから、北のウラジオや西の北京はあり得ないけど、そもそも尺が足りない九州はそれと似たようなレベルであり得ないってことだ。
尺も足らず、方角が全然ちがうのが畿内である
>福岡までは直線距離で500kmほど。1000kmだと鹿児島さえもオーバーラン。福州市なんて夢のまた夢。
>杭州なら紹興市と近い。直線距離ではなく経由すれば福州市もイケるのが奈良。
同心円上とか言ってたのに、急に道のりに変化w
道のりと直線距離の比較なんか意味が無い、山1つのぼるだけで道のりは膨大になるではないか
まあ、無知は毎度のことだから許してやるけど、だからそれを陳寿がどうやって計算したのか、計算方法を書けと
※3349
>いや、わかるだろ。陪臣ってことだ。
>伊都国に置く。何が明白なのか意味不明。
伊都国は女王国の内の一国なんだろ?
なぜ女王国の北にあるのか?
>邪馬台国や投馬国までは里数がわからんから微妙。
戸数や里数を表記してる程度の意味である
なら、少なくとも対馬~不彌國までは女王を共立した女王国ではないのだな?
伊都国も入ってるがそれでいいのか?
>なんで?
女王国が共立した国を指すのなら、対馬(狗邪韓国)も構成国の内だから
>倭国の国々が女王を共立して結果女王国になったということ。
そんなことはどこにも書いていない
女王が治めた三十カ国の名称は一にも二にも倭国である
いいから女王国が共立国であることを示した文章と、文中の女王国が共立国としなければ読めない箇所を書いてみろと
※3351
>二重に属してるんじゃなくて、単に伊都国王(=伊都国、国王で国を代表していいんだよな)が女王国=共立範囲に属しているってだけ
>愛知県は日本国に属していますと同じこと
>何が言いたいかっていうと、この「丗有王皆統屬女王國」の女王国が、魏志倭人伝中の「女王国の初出」だってこと
>つまり、「伊都国には国王がいますが、その上位に女王国=倭国(狗奴国ほかは含まず)があって。そこに属しています」ってここで始めて、倭人の領域に統属すべき国=女王国があることを示している部分だってこと
女王国=共立国とかいう連中に合わせて言葉を使っているだけのこと
本来の意味は伊都国王は代々の王が共立するしない関係なしに、女王国=邪馬台国に従属していた歴史があるということ
伊都国が女王国=共立国に属しているなどという情報は書く必要がない
なぜなら、女王国=共立国なら使役通じる三十国はみな属しているから
愛知県だけでなく全ての都道府県は日本に属している、愛知だけことさら書く意味がない
>この時点では邪馬台国も何も出ていないんだから、この女王国は「倭国内の特定の一国=邪馬台国」ではなく、「一つの領域としての倭国=3347以外が認めている共立範囲」じゃないと読めないよ
その指摘は当てはまらない、倭国が共立して女王を立てたという文章がもっと後に出てくる
その文章の前までは女王が何かわからないから女王国は意味不明と言えると思うか?そんなことないわな
つまり、後に説明される文章が手前にあるからと言って文章を解釈できないなんていうことはないということ
まあ、この文章で女王を共立した主体は倭国であり、女王国ではないということがわかるんだが
>自分で「伊都国も属している共立国」なんていう変な注釈を作り出した挙句に、それを理由に否定されちゃあ、他の人には訳が分からないよ
>自分自身で「伊都国も属している共立国」って書いてるじゃん
>その「共立国」がここでは「女王国」って書かれているだけ
上でも言ったが、女王国=共立国とかいう連中に合わせて言葉を使っているだけ
女王国は邪馬台国である、共立した主体は倭国としか書かれていない
女王国は共立国だと言ってる人たちへ言いたいことは
・女王国が共立国であるというのがわかる文章はどこにあるのか?
・倭国が共立国であるという文章はじゃあどうするのか?
・女王国が邪馬台国を指すものだとしか解釈できない文章もどう解釈するのか?
・女王国が共立国としないと解釈できない文章はどこなのか?
※3352
>会稽の東を兎が治めたという意味
wwwwww論破されたことを何回言っても無駄じゃボケ
それだったら兎治会稽之東だろ
ていうか会稽の東は、海か倭地だぞw
倭王だったのか兎ちゃんは?
「受けて」どころか一番最初に書くべきビッグニュースじゃねーか
地図見て福岡との比較でざっくり言っただけだよ
鬼の首取ったみたいに言うなよ余裕ねーな
そんなことよりどう見ても奈良より尺足らない九州の言い訳でも考えろアホ
◯◯里とか陸行水行を計算して距離を割り出したんだろそれがどうした
※3353
>伊都国は女王国の内の一国なんだろ?
俺はそんなこと言ってないぞ。
女王国(の一つ?)に従う(邪馬台国から見て)陪臣だとしか。
>対馬~不彌國までは女王を共立した女王国ではないのだな?
「女王の境」が奴国までだから、伊都国とか対馬は女王国ではない。その陪臣。
よって、↓も却下。
>女王国が共立した国を指すのなら、対馬(狗邪韓国)も構成国の内だから
>そんなことはどこにも書いていない
倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
女王国(略)共立一女子爲王
だと「頭痛が痛い」みたいな文章になるからなw
>いいから女王国が共立国であることを示した文章と、文中の女王国が共立国としなければ読めない箇所を書いてみろと
女王国が邪馬台国であることを示した文書と、文中の女王国が邪馬台国としなければ読めない箇所を書いてみろと
※3355
会稽東治「の」東
なんだから兎が治めたのは倭じゃないの
九州は、万二千里という情報と一寸千里の法でトンピシャだからな?
え?水行陸行は里換算でいくらなの?
どうやって距離を割り出してそれが数値でいくらなのか計算結果はよ
※3356
>俺はそんなこと言ってないぞ。
>「女王の境」が奴国までだから、伊都国とか対馬は女王国ではない。その陪臣。
よって、↓も却下。
ならはやく、女王国の共立国がどこなのかを書いてね
>倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
>女王国(略)共立一女子爲王
>だと「頭痛が痛い」みたいな文章になるからなw
文中のどこもかしこも女王を共立した勢力は倭国として記されているぞ?
じゃあ倭国は何なのかも教えてくれよ
>女王国が邪馬台国であることを示した文書と、文中の女王国が邪馬台国としなければ読めない箇所を書いてみろと
・世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
・自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
・自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
・自郡至女王國萬二千餘里
もう何度も何度も言って、未だに有効な反論も頂けないが
はい、次は女王国が共立国であることを示した文章と、文中の女王国が共立国としなければ読めない箇所を書いてみてね
3354は共立国って言葉を否定したいの?
共立国って言ってる人たちの間では、「倭国」と「卑弥呼を共立した倭国」には差分があるから、その差分(属さない狗奴国など)を除いた分を「共立国」とか「共立範囲」と言っているだけで、基本的には「女王国=倭国」という意味だよ
>伊都国が女王国=共立国に属しているなどという情報は書く必要がない
これが「書く必要」があるんだって!
伊都国には「王」がいるって書いたから、倭国の中に王が二人いたらおかしなことになるので、「伊都国王は王を名乗っていても倭王ではない」ことを示すために、わざわざ伊都国王は「女王国=倭国」に統属するって書いてあるんだよ
>つまり、後に説明される文章が手前にあるからと言って文章を解釈できないなんていうことはないということ
後ろに書いてあるから分かるだろう、なんて書き方は文章を書くプロだったらしない
読む人は前から読んでいくんだから、初出のところで分かるように書く
それで足りない情報があるとしたら、それは常識的に読み取れることだと作者も想定していること
倭人伝として書き出しているなら、「女王国」というのは「倭国が女王国」だという前提で読まれることを前提に陳寿も書いているってこと
>まあ、この文章で女王を共立した主体は倭国であり、女王国ではないということがわかるんだが
違う
この文章で女王を共立した主体が「倭国」であり、それが「=女王国」と書かれているわけだ
・女王国が共立国であるというのがわかる文章はどこにあるのか?
3354が書いたとおり、卑弥呼を共立したのが倭国であり、倭国を女王国と陳寿が書いている
・倭国が共立国であるという文章はじゃあどうするのか?
だから、倭国=女王国が共立した範囲をさすってだけ
・女王国が邪馬台国を指すものだとしか解釈できない文章もどう解釈するのか?
そこのところだけ邪馬台国と読めばいいだろう
それで困ることは何もない 3354が「認めない」と言い張る以外にはね
・女王国が共立国としないと解釈できない文章はどこなのか?
解釈できないというより、普通に読めば女王国は倭国を指す語として使われていて、邪馬台国一国を指すという注釈もないし、そう読むのが自然で女王国=邪馬台国だと限定すると不自然な文もある
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
これ、3347で「ここはこれと言って情報をもたらしていない」といってごまかしてるけど、3347の理論だと「女王国=邪馬台国」が東海岸にある国ってことになるけど、そんな話は魏志倭人伝にないよね?
これは島国である「倭国=女王国」から東に渡ると、の方が自然だろう?
※3537
下品なゴリ押しからちょっと成長したのは褒めてつかわすけど
都合の悪いことをガン無視すんなよw
それだったら兎治会稽之東だろ←反論はよ
>兎が治めたのは倭じゃないの
じゃあ兎は倭王なの?卑弥呼なの?
>え?水行陸行は里換算でいくらなの?
>どうやって距離を割り出してそれが数値でいくらなのか計算結果はよ
知らんがなw
とりあえず東冶の東ぐらいの距離にあるっていうのが計算結果
だから九州はハズレ
◯※3357
×※3537
※3358
>ならはやく、女王国の共立国がどこなのかを書いてね
なんでそんなことしないといけないの?説明よろしく
>文中のどこもかしこも女王を共立した勢力は倭国として記されているぞ?
どこにもそんなこと書いてないぞ
>じゃあ倭国は何なのかも教えてくれよ
倭地ってことでしょ
>もう何度も何度も言って、未だに有効な反論も頂けないが
反論食らいまくって、それに対して有効な反論ができないから
兎治会稽之東とか対馬云々とか無視祭りでノックアウト寸前なのはお前だろ
※3359
>倭人伝として書き出しているなら、「女王国」というのは「倭国が女王国」だという前提で読まれることを前提に陳寿も書いているってこと
なら女王国が倭国であるというのはどこに書いているのか?
その前提とやらを誰が知っているのか?
しかも下で邪馬台国としか解釈できない箇所があると認めているではないか
>この文章で女王を共立した主体が「倭国」であり、それが「=女王国」と書かれているわけだ
・女王国が共立国であるというのがわかる文章はどこにあるのか?
>3354が書いたとおり、卑弥呼を共立したのが倭国であり、倭国を女王国と陳寿が書いている
倭国を女王国などとはどこにも書いていない
女王国の記述があるのはさきに上げた5つであり、どれも邪馬台国を指す
卑弥呼は常に倭国王、倭王、倭女王と書かれており主体は倭国である
女王共立国家は倭国としてしか書かれていない
・倭国が共立国であるという文章はじゃあどうするのか?
>だから、倭国=女王国が共立した範囲をさすってだけ
ならその倭国こそが、共立範囲で女王国はその首都で何の問題もない
・女王国が邪馬台国を指すものだとしか解釈できない文章もどう解釈するのか?
>そこのところだけ邪馬台国と読めばいいだろう
>それで困ることは何もない 3354が「認めない」と言い張る以外にはね
これが破綻である。
なぜただでさえ説明がない女王国に2つも意味を与えるのか?
これが文章を書くプロのすることなのか?
・女王国が共立国としないと解釈できない文章はどこなのか?
>解釈できないというより、普通に読めば女王国は倭国を指す語として使われていて、邪馬台国一国を指すという注釈もないし、そう読むのが自然で女王国=邪馬台国だと限定すると不自然な文もある
なら女王国が倭国を指す文章はどこなのか答えよ
まさか例が1つしかない下記とはいわないよな?
>これ、3347で「ここはこれと言って情報をもたらしていない」といってごまかしてるけど、3347の理論だと「女王国=邪馬台国」が東海岸にある国ってことになるけど、そんな話は魏志倭人伝にないよね?
>これは島国である「倭国=女王国」から東に渡ると、の方が自然だろう?
邪馬台国の領域などは誰にもわかっていない
そのわかっていないことをもってして確実性がないことを論拠に論理を展開すべきではない
それをしたいのなら邪馬台国は東海岸に面していないことを証明すべきだ
また、七万戸を誇る倭国随一である大国であることは伺えるので東海岸まで広がる大国だとしてもおかしくはない
※3537
>それだったら兎治会稽之東だろ←反論はよ
>じゃあ兎は倭王なの?卑弥呼なの?
夏王朝の王である
それが前文からの連なりである
会稽東を治めた
その東が会稽東治の東
>とりあえず東冶の東ぐらいの距離にあるっていうのが計算結果
>だから九州はハズレ
奈良も距離的に遥かに及ばないことが証明されたのにまだいうか?
何度も言うが万二千里という距離が一寸千里によって緯度が完璧に合致するのが紹興市にある会稽
>なんでそんなことしないといけないの?説明よろしく
ないから書けない
それがよくわかるね
書いてそれに正当性があれば俺は黙るだろうにそれができない
>どこにもそんなこと書いてないぞ
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
>倭地ってことでしょ
倭地は倭人の住んでる地で、倭国ではない
>兎治会稽之東とか対馬云々とか無視祭りでノックアウト
対馬云々ってなんぞや?
だから、倭「国」も邪馬台「国」も国って書いちゃってるから、紛れてるだけなんだってば
それを、女王国は=邪馬台国以外は認めないって言い出すから揉めるだけで
卑弥呼が女王で、どこの女王かって言えば倭国の女王
これは認めるよね?
だったら、女王国といえば倭国を意味する、というのが特に書くまでもない、一番普通の読み方であり読んでいる人が当然に考える読み方
「これ(女王国=倭国)がどこに書いてあるか?」と居丈高に詰問する人の方がおかしいと思うぞ
そして、邪馬台国は女王卑弥呼がいる「国」だから、そこも女王国と書かれるのはおかしくない
それだけのことだろう
中国語(漢文?)には、日本語の助詞のような便利なものがないから、「女王(を戴く)国=倭国」と「女王(の暮らす)国=邪馬台国」が特に区別することなく女王国って書かれてるだけだろ?
※3365
>女王国といえば倭国を意味する、というのが特に書くまでもない、一番普通の読み方であり読んでいる人が当然に考える読み方
邪馬台国以外認めないもくそも女王国とかいて倭国を表す箇所が一つもない
あるなら教えてくれ
一つもないのにいらぬ混乱を招いてまで女王国に意味を付与する必要はない
倭国=女王国
邪馬台国=女王国
こんな滅茶苦茶が文章のプロの仕事なのか?
本文中は全て、共立国は倭国と書かれており、女王国は邪馬台国の意味しかもたない
違う箇所があるなら何度も言うが書いてくれ
それに漢文の問題ではない
文中に女王国とかいて倭国を表す箇所があるかないかだけの問題だ
※3364
>夏王朝の王である
??倭王なのかどうかを聞いてるんだけど。
どっちだ?YesかNoかで答えろ。
>会稽東を治めた
>その東が会稽東治の東
wwwwww
「会稽東を治めたの東」ってなんだよw文章になってねーぞ
そもそも漢文はSVOになるから(兎が)会稽を治めたのなら
「(兎) 治 会稽(之東)」なんだけどw
もういいってお前…よく頑張ったよw
>緯度が完璧に合致するのが紹興市にある会稽
東冶は福州だから全然足りないよ九州では
>ないから書けない
共立したって書いてんだから、あるのは確実なんだよ。
でも構成国とかまで詳しくは書いてないから、書けない。それだけ。
>正当性があれば俺は黙るだろうにそれができない
あー、じゃあ一回黙ったというかガン無視してやり過ごそうとした会稽東冶之東のくだりは正当性を認めたってことか?
追求されて黙ってごめんなさいせずにまた粘りはじめたのは、お前にはそんな民度なんて備わってないってことだな。
>正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
これのどこが倭国=共立勢力なの?
>対馬云々ってなんぞや?
上の方でお前が対馬がどうとか言ってただろ。
>倭地は倭人の住んでる地で、倭国ではない
水掛け論になるから質問変えよう。
女王の境界って書いてるけど、あれはなに?
>3363
>まさか例が1つしかない下記とはいわないよな?
逆に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるのは
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の自女王國以北で起点を示している2つしかないんだよ
これだって、起点があまり広いと読みにくいよねくらいで、女王国=倭国で読んでもそれほど読みにくいわけでもない
5ヶ所の女王国のうち、2ヶ所はまあ、邪馬台国ととったほうが読みやすいけど、他のまでそうだと言い張るのは、特に根拠がない
※3367
>??倭王なのかどうかを聞いてるんだけど。
>どっちだ?YesかNoかで答えろ。
NOだ
>「会稽東を治めたの東」ってなんだよw文章になってねーぞ
>そもそも漢文はSVOになるから(兎が)会稽を治めたのなら
>「(兎) 治 会稽(之東)」なんだけどw
>もういいってお前…よく頑張ったよw
会稽東治という固有名詞だ
会稽東に治が及んだという意味である
>東冶は福州だから全然足りないよ九州では
東冶などはどこにも書いていない、当時は会稽ではなく建安であることは先に述べた
しかも距離は畿内でも足りない
>共立したって書いてんだから、あるのは確実なんだよ。
>でも構成国とかまで詳しくは書いてないから、書けない。それだけ。
何度も言うが共立した国は倭国であり、女王国を表しはしない
重要な構成国もないということは、女王国は構成国を有する連合国家ではないということ
>あー、じゃあ一回黙ったというかガン無視してやり過ごそうとした会稽東冶之東のくだりは正当性を認めたってことか?
>追求されて黙ってごめんなさいせずにまた粘りはじめたのは、お前にはそんな民度なんて備わってないってことだな。
ずっとガン無視してるのは君だよ
はやく畿内が正に東であるという計算式を出せよと
会稽=浙江省紹興市ならドンピシャで万二千百里になり正に東になる
これ以外に正に東と計算できるものがない
逆算的でもあるが
>これのどこが倭国=共立勢力なの?
国号が倭国であることに注目、つまり女王国が共立した勢力を表す言葉として使われていないということ
使われているなら何度も言うが書けと
>水掛け論になるから質問変えよう。
逃げずにまず質問に答えろよ、あと対馬云々が何のことかわからんから答えろよ
>女王の境界って書いてるけど、あれはなに?
卑弥呼が治める範囲の境である
対の言葉が、其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王である
※3368
>逆に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるのは
>3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
>7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
>の自女王國以北で起点を示している2つしかないんだよ
>これだって、起点があまり広いと読みにくいよねくらいで、女王国=倭国で読んでもそれほど読みにくいわけでもない
何を言っているのか、この女王国が倭国なら倭国は対馬~女王の境の奴国までなのだから明確に矛盾する
しかも自郡至女王國萬二千餘里とも矛盾する
倭国なら七千里ないし八千里である
>5ヶ所の女王国のうち、2ヶ所はまあ、邪馬台国ととったほうが読みやすいけど、他のまでそうだと言い張るのは、特に根拠がない
5ヶ所の女王国は全て邪馬台国として読んでも問題はないのだ
しかし、女王国を共立国として読んだ場合は矛盾が生ずる
あえて矛盾が生ずる読み方をする理由は何かと言ってるんだ
そしてそうしなけば読めない箇所はどこなのかと?
何度聞いてもこれが答えられないということは、女王国=共立国に正当性がないということ
何度も書きすぎて疲れたわ
女王国=共立国でないと読めない箇所を1つ提供するだけで俺は黙るのにそれができないということはないということ
女王国を倭国として読んでみたらどうなるのか
・世有王皆統屬「倭国」郡使往來常所駐
伊都国以外も全て倭国に属しているのにこれを書く意味が無い
・自「倭國」以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
対馬~邪馬台国を略載したのでありこれは矛盾する
韓の戸数を記した箇所などはない
其餘旁國遠絶不可得詳も意味が不明、狗奴国のことだとでも言うのか?
・自郡至「倭國」萬二千餘里
倭国までは七千里ないし八千里であるので矛盾する
・自「倭國」以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史
2番目と同じ理由でこれもない
・「倭國」東渡海千餘里復有國皆倭種
これだけは唯一意味が通ずる
しかしながら邪馬台国でも意味が通じてしまう
対して倭国の用法はどうか?
・王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
国名は倭国であり女王国ではない
・其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王
女王を共立したのは倭国である
・正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦ケイ刀鏡采物倭王因使上表答謝詔恩
やはりここでも女王国ではない
魏志倭人伝では使役通じる三十国が女王を共立した国の国号及び通称は倭国であり、女王国の文字は1つも見えない
>3371
勢いに任せて書くなよ
>・世有王皆統屬「倭国」郡使往來常所駐
>伊都国以外も全て倭国に属しているのにこれを書く意味が無い
3359で回答済みだけどもう一回
「これが「書く必要」があるんだって!
伊都国には「王」がいるって書いたから、倭国の中に王が二人いたらおかしなことになるので、「伊都国王は王を名乗っていても倭王ではない」ことを示すために、わざわざ伊都国王は「女王国=倭国」に統属するって書いてあるんだよ」
倭王は魏がつけた称号で卑弥呼が名乗っていたかは分からんよ
伊都国王は狗奴国王と同じ王やがな
※3369
倭を治めたというのは結構大事件なのに、
そしてそのことが中国に知れ渡ってるのに倭王ともされず
道里計算のついでみたいにさらっと書かれてるだけなのはどういうこと?w
>会稽東治という固有名詞だ
具体的にどこ?
>会稽東に治が及んだという意味
wwwwww
そんな意味にはならんぞ
会稽東=S、治=Vだから
「会稽東が治めた」っていう意味にしかならんw
っていう、さっきから何度も大草原不可避になってあり得ないぞといわれてるのに反論もできずボロボロなお前の漢文珍説はありえず、「東冶」の書き間違いっていうのが定説になってる。即ち福州市。
>しかも距離は畿内でも足りない
畿内でも足りないなら、九州は問題外だぞ
>重要な構成国もない
共立してるのに構成国がないってのはあり得んだろうアホかおまえは
>畿内が正に東であるという計算式を出せよと
>>会稽=浙江省紹興市ならドンピシャで万二千百里になり正に東になる
だから※3360で言ったように計算式なんてどうやって計算したか書いてないんだから、おまえのドンピシャ()とやらの計算式もただの妄想に過ぎないしどうでもいいってばw
紹興市でドンピシャなら、福州市なら大ハズレだね。そして残念ながら東治とかいうおまえの漢文理論では全く意味が通らず、福州市なので大ハズレ。となると距離が足りないので九州はアウト、本州になるので畿内がドンピシャ。
>逃げずにまず質問に答えろよ、あと対馬云々が何のことかわからんから答えろよ
おまえみたいにそう思うからそうなんだっていうアホな水掛け論を何回もやるつもりはないだけだよ。
※3353とかでおまえが何度も対馬がーとか言ってるだろ。それのことだよ。
>卑弥呼が治める範囲の境である
卑弥呼が治める範囲、とはどこからどこまでですか?
※3372
だから、世々王があるのに、倭国=三十国の共立国に属するのはおかしいの
「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」
伊都国には代々王がいるのだが、倭国の盟主たる大王はいなかった
なぜなら倭國亂相攻伐歴年だから
お互いに攻撃しあって戦乱状態の倭国に属するはずがない
だから女王国=邪馬台国にだけ世々の王は属している
よってこの女王国も邪馬台国の代名詞である
※3369
>具体的にどこ?
>wwwwww
>そんな意味にはならんぞ
>会稽東=S、治=Vだから
>「会稽東が治めた」っていう意味にしかならんw
>っていう、さっきから何度も大草原不可避になってあり得ないぞといわれてるのに反論もできずボロボ>ロなお前の漢文珍説はありえず、「東冶」の書き間違いっていうのが定説になってる。即ち福州市。
上からいろいろ教えてくれてありがとうね
あまりにも無知が過ぎるから一から教えてやるわ
或以號令,禹合諸侯,大計東治之山,會稽是也
まず会稽の命名の下りがこれだ
夏王朝の禹が名付けた東治之山が会稽山であり会稽という地名になり、その地名から秦代に会稽群が作られた
これは会稽山付近のことであり今でいう紹興市だ
これが陳寿のいう会稽東治
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
そして魏志倭人伝には夏王朝の王子が会稽(紹興市)に封ぜられたという一見意味不明な下りと文身やら沈没の下りから以下の文章につながる
計其道里當在會稽東治之東
きれいな転結で陳寿は倭国と夏王朝を繋げて考えているわけだ
歴代の中国人は良い国があったら中国人の子孫と考えがちであるのでこの思想はわからないでもない
他の例として日本は周代に渡った周王朝の末裔であるので礼儀の国であるという孔子の言や
秦代の日本に渡って日本人の祖先になったと伝えられている徐福伝説などが有名である
この会稽が会稽群東冶なら上の下りの意味が全くない
また陳寿は260年を境に会稽群が建安群になったことを契機にすべての表記を改めている
三国志が記述されたのは280年ごろ
「計其道里當在會稽東治之東」は陳寿が挿入した計算結果を書いた注意書きであるので、福州市を指すなら「建安東冶」と書くのが正解である「会稽東治」とは全く違う
>畿内でも足りないなら、九州は問題外だぞ
お前のわけのわからん計算方法ではな
一寸千里の法を使えばドンピシャで合うんだから
>共立してるのに構成国がないってのはあり得んだろうアホかおまえは
アホは君
重要な構成国がどこにも載っていないということは、それが共立国家ではないということ
だから何度も言うけど、女王国が共立国であるという用法で使われている部分を書けと
>卑弥呼が治める範囲、とはどこからどこまでですか?
対馬(狗邪韓国)~南の方の奴国までの三十国
1.事実に対して仮定を持ち出す
2.ごくまれな反例をとりあげる
3.自分に有利な将来像を予想する
4.主観で決め付ける
5.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
6.一見関係ありそうで関係ない話を始める
7.陰謀であると力説する
8.知能障害を起こす
9.自分の見解を述べずに人格批判をする
10.ありえない解決策を図る
11.レッテル貼りをする
12.決着した話を経緯を無視して蒸し返す
13.勝利宣言をする
14.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
15.新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
16.全てか無かで、途中を認めないか、あえて無視する
17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する
18.自分で話をずらしておいて、「話をずらすな」と相手を批難する
19.権威主義に陥って話を聞かなくなる
魏志倭人伝の一番最初
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
この三十国と対になるものとして、伊都国説明とみられる場所の、
丗有王 皆統屬女王國 丗 → 三十の王有り、皆すべて女王国に属する
魏と交流のある国はすべて倭国に属している事が書かれ、女王に属さない東の倭種や狗奴国は、魏と交流を持っていない。
其北岸狗邪韓國から、海外交易監視の伊都国を過ぎ、後に一つだけ出てくる国内交易監視の大倭まで含めた場合31国、つまり邪馬壹国が他の30国を抑えているという説明になる。
>3379
「丗」
これ多くの人は「世」の異体字と見てるよ
地理的な説明で順番に話題にしているときに、伊都国のところでいきなり30国のことを言い出すのはおかしいし、なぜ末廬國のところで言わないのか説明ができないし、次の郡使往來常所駐も伊都国じゃなくて30国ってことになっちゃうし、30と読むのは無理だと思う
會稽東「冶」之東か、會稽東「治」之東かで、治だって言い張ってる人がいたので、他の大陸の史書を確認しといたよ
魏書 計其道里當在會稽東治之東
漢書 會稽海外有東鯷人
後漢書 其地大較在會稽東冶之東
晋書 計其道里當會稽東冶之東
梁書 大抵在會稽之東
隋書 在會稽之東與儋耳相近
基本魏書(魏志倭人伝)のコピペなんだけど、それが會稽東「冶」之東としている
また、魏書より前の漢書は會稽海外にいるのは東鯷人としている
魏志倭人伝も、最も古い写本は紹熙本、紹興本ともに「東治」になってるけど、一応中国の公式である中華書局標点本は『東冶』としているそうな
禹が治めただのなんだのいうのは、意味がなかったね
魏志倭人伝の表記がとにかく正しいっていうのは、あまり意味がないんだよ
女王国表記もそうだし、短里はさらにバカらしい
漢書では會稽海外にいるのは東鯷人になってて、台湾あたりの人らしいけど、倭人もそれと混ざっちゃってるから文身とか南方要素が入ってる側面もあるようだし、これをもって九州とかいうのもばからしい話だよ
>3380
女王国が突然出てきて、その後に邪馬壹が女王の都って出てくるから、
丗有王皆統屬女王國
この部分は伊都国の説明の中に紛れ込んだ別の断片なんじゃないかと思って。
あるいは、文脈から世の異体字だとすると、同様に、会稽東治が禹王の話としか読めなくなる。距離の話は終わっていて風、俗話に完全に挟まれてる所だから。
>3381
他の大陸?日本語怪しいね。歴史書全否定して属国の歴史を消すニダ?大声で歴史捏造するアル?
>3382
>他の大陸?日本語怪しいね
日本人なら日本語をきちんと読もうな
「他の大陸」の史書、じゃなくて、他の「大陸の史書」な
後ろに、漢書、後漢書、晋書、梁書ってあるんだから、一瞬「他の大陸」の、と読んでも、すぐに分かるだろうが
>あるいは、文脈から世の異体字だとすると、同様に、会稽東治が禹王の話としか読めなくなる。
これ、後漢書だと
使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
となっていて、「世々(代々)統を傳い」って読むんだよ
他の「大陸の史書」も読まず比較もせずに、魏志倭人伝の解釈だけをひねくり回してるからバカなはまり道に迷い込むんだよ
「会稽東治が禹王の話としか読めなくなる」これ、こんな寝ぼけたこと言ってる人始めてみたぞ
そもそも或以號令,禹合諸侯,大計「東冶之山」,會稽是也の部分も、「東治」とする写本もあるってだけで、應劭「漢官儀」の中華書局標点本では「東冶」になってる
3382のいっている事は、誤植を見つけて、それを基礎にして論じているだけっていう間抜け状態だぞ
>3382
>距離の話は終わっていて風、俗話に完全に挟まれてる所だから。
その直後が「東南至奴國百里」で、地理の話がまだまだ続いてる真っ只中なんだが
そんな適当な言い訳が通ると思ってる程度の論なのか?
※3381
>漢書では會稽海外にいるのは東鯷人になってて
漢書は女王国まで萬二千里の情報が出る前なので考慮に入れるのもどうかと思う
史書の誤字の話は諸説あるからパスする、どうせ議論しても原本がない以上絶対に答は出ないしな
>これをもって九州とかいうのもばからしい話だよ
そもそもの出発点は萬二千余里としか情報がない状態でなぜ、会稽東治之東という話になるのかという矛盾の解消
>帯方郡夏至南中時の高度は75.09°髀の影の長さは2尺1寸3分
>紹興市夏至南中時の高度は83.43°髀の影の長さは9寸2分
>差は1尺2寸1分
>一寸千里により
>会稽東治は帯方郡の南12100里の位置になる
上記の計算結果により陳寿が知り得る情報から、陳寿が導き出した計算結果を矛盾なく説明できるのが
会稽東治=紹興市という話
そもそもここには九州説も何も関係ないが、畿内なら福州で合致するとかいうアホな話をする奴がでてきて話がこじれた
それと1つ聞きたいが
夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
もし福州とするのならこの文章は何の意味があるのか?
福州なら距離が大きく違い上記の文章の意味は全くない、納得のいく説明がほしい
計其道里「當」在會稽東治之東と自信まんまんにぴったりを宣言してるしな
>魏志倭人伝の表記がとにかく正しいっていうのは、あまり意味がないんだよ
>女王国表記もそうだし
誤字かどうかならともかく、確かに、女王国に共立国などという意味を無理やり付与させようなどという試みは馬鹿らしいな
>3385
>女王国に共立国
前にも、共立国という言葉を否定したのかって訊いたけどさ
本質的には、こっちのいっていることは「女王国=倭王國≒倭国」だっての
ただ、倭国だとすると、倭王=女王=卑弥呼に属さない狗奴国とかあるから、「倭国ー狗奴国他」を分かりやすいように共立国って表現してるだけだって、何度も言ってるよな
倭国の範囲は「前提」であって、魏志倭人伝にことさらには書いてない
それを共立国の範囲はどこだ、とか言って、謎解釈を振り回してるのは3385の方だぞ
>3385
>そもそもの出発点は萬二千余里としか情報がない状態でなぜ、会稽東治之東という話になるのかという矛盾の解消
そもそも「萬二千余里が正しい」と考えるのが、おかしいというのがこちらの言い分
矛盾も何も、当時の大陸の人の認識で、帯方から萬二千余里が會稽東冶之東になる」ってだけで、ああそうなんだと思うだけ。それ以上も以下もなくて、「矛盾を解消しよう」なんてのがそもそも意味がないんだよ
>上記の計算結果により「陳寿が知り得る」情報
3385の「共立国の範囲がどこに書いてある?」と同様に書けば、「それを陳寿が知っていたとどこに書いてある?」
そもそも計算がおかしいし、そんな角度の小数点以下2桁下なんて正確に測れるはずもないだろ?
帯方夏至南中時の影の長さを計ったのは誰だ?
全部後付けで数字合わせしただけだよ
魏略逸文には
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文「聞其旧語 自謂太伯之後」
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
と書いてあって、「聞其旧語 自謂太伯之後」が魏志倭人伝で落ちてるから話が通じにくくなってる
陳寿は魏略を読んでるから、これで倭国を会稽の東って思い込んだんだよ
要はそれだけ
数字で分かったようなことを書くのはバカらしいって早く気づくといいね
※3386
>本質的には、こっちのいっていることは「女王国=倭王國≒倭国」だっての
>ただ、倭国だとすると、倭王=女王=卑弥呼に属さない狗奴国とかあるから、「倭国ー狗奴国他」を分かりやすいように共立国って表現してるだけだって、何度も言ってるよな
>倭国の範囲は「前提」であって、魏志倭人伝にことさらには書いてない
>それを共立国の範囲はどこだ、とか言って、謎解釈を振り回してるのは3385の方だぞ
だ~か~ら~、女王国=倭王国と読める箇所はどこにあるのかって聞いてるんだよ
魏志倭人伝にそう思わせる箇所はただの1つもないどころか、そう読むと矛盾する箇所が8割もあるのが現実
そして女王国=邪馬台国と読むとその矛盾は何もない
そう読むことができないのにそう読ませようとするのは結論ありきの、自説の補強に使いたいだけ
※3371に反論してくれるか、女王国を倭国と読んで矛盾が無い個所か無い方法を教えてくれよ
これを今まで誰ひとり答えることができなかった
お前もそのうちの一人
※3387
>そもそも「萬二千余里が正しい」と考えるのが、おかしいというのがこちらの言い分
>矛盾も何も、当時の大陸の人の認識で、帯方から萬二千余里が會稽東冶之東になる」ってだけで、ああそうなんだと思うだけ。それ以上も以下もなくて、「矛盾を解消しよう」なんてのがそもそも意味がないんだよ
そんなこと言い出したら研究は何も進まない
極論すればお前は既に自説に結論があってそれにそぐわぬ表記は間違いであって、自説に合う表記は正解と言ってるだけ
大昔の書物なんだから間違いや理にそぐわないことが書いてあることは当然あること
しかし、嘘を書こうと思って嘘を書いたならまだしも、正しいことを書こうとしてなぜ正しくないことを書いているのかを研究し知らなければ次に繋がらない
>「それを陳寿が知っていたとどこに書いてある?」
計るにと書いてあるんだから、会稽までの距離は知っているのが前提だろう
会稽までの距離を知らずに、計算して比較することは不可能
>そもそも計算がおかしいし、そんな角度の小数点以下2桁下なんて正確に測れるはずもないだろ?
>帯方夏至南中時の影の長さを計ったのは誰だ?
>全部後付けで数字合わせしただけだよ
どう計算がおかしいのか教えてくれ
小数点以下2桁下なんか出てこないぞ?計算の仕方わからないんだろ?
太陽の高度のことを言ってるんだとは思うが、これは現地に行って夏至に牌の影の長さを測ることができないから、現在の天文学の知識を使って影の長さを計算しただけの話
計算したのは俺じゃないので偉そうには言えないが
分のことを言っているのなら百里が計算結果に反映されないだけで萬二千余里という数値は出る
要はただ牌立てて影の長さがわかれば極めて正確な距離がでる
それを後から答え合わせしたら正に合致したということ
「周髀算經」「九章算術」
>陳寿は魏略を読んでるから、これで倭国を会稽の東って思い込んだんだよ
ちゃんと魏志倭人伝読んだか?
陳寿は書物から倭国を会稽の東を連想したのではなく、計算した結果正に会稽の東だと断定した
計算したということは陳寿自身が書いていること
ならなぜその結果になったのかという、計算方法を導き出さなければ答は出ない
>数字で分かったようなことを書くのはバカらしいって早く気づくといいね
数字の問題に、数字なくして何をどう答を導くのか教えてほしいね
途中で送信した失礼
「周髀算經」「九章算術」
の部分は
「周髀算經」「九章算術」を見るに当時は思った以上に数学が発達していたことがわかる
>角度の小数点以下2桁下
>帯方郡夏至南中時の高度は「75.09°」髀の影の長さは2尺1寸3分
これを書いたのは3389じゃない別の人なの?
ずっと一寸千里を言い続けている人は一人だと思っていたんだが?
それに、だいぶ前にも書いたけど、短里があるとしても1里=300歩=1800尺の関係は変わらない
1里が75メートルくらいなんだっけ?短里だと? 何か計算するごとに4割くらい増減するみたいだけどまあ75メートルだとして、7500÷1800は、4センチちょいだな
1寸は4ミリ、1分は400ミクロン
それをどう計るのか?
まあ、三角比だから大きくても小さくてもいいんだが、日光の影って、太陽の直径分ボケるのは知ってるよな? ミリ単位の計測なんてできないぞ? 夏至は過ぎたけど、晴れてたら表に出て確かめてみるといい
1尺が30センチだったとしても、尺の2桁下の分の値を正確に計るのは原理的に無理
それに「帯方郡夏至南中時の影の長さは2尺1寸3分」
これ、後の人、というか昭和だか平成の人が帯方郡の推定地の緯度から計算した値でしょ?
上にも書いたように、原理的にここまで正確には測れない
もしそうでないなら「帯方郡夏至南中時の髀の影の長さを測った記録」を教えてくれ
ということで、数字をひねくり回しても説得力ないよ
※3391
確かに「分」の値は後に計算した正確な値であり、周髀算經にも寸までの計算した結果しか載っていない
しかしながら上でも述べたように、「分」がなくても2尺1寸 - 9寸 = 1尺2寸 = 萬二千里 であり、萬二千里という数字に変更はない
影の長さの測定、完璧に夏至の南中を捉えているのか、尺(モノサシ)の公差などによる測定誤差については+5%~10%ほどの誤差があるらしい
測定誤差が8%以下だった場合萬二千余里としても問題ない
>数字をひねくり回しても説得力ないよ
では陳寿が計算した結果はどうであると考える?
道里を計算した結果、会稽東治之東であるとしたことは文中から明らかである
明確な答を是非とも教えて頂きたいところだ
>3392
その前に
>もしそうでないなら「帯方郡夏至南中時の髀の影の長さを測った記録」を教えてくれ
これがないなら、陳寿が影の長さで計算したに「ちがいない」ってところがそもそもただの「あて推量」
帯方郡の影の長さを、わざわざ夏至の日に計った奇特な御仁はいないと思うよ
もし居たら、教えてくれ
こうなってるからこうに違いない、っていう循環論法になっているし、後付けのあて推量にしかなってない
陳寿が「計算」(笑)する前に、魏略で
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文「聞其旧語 自謂太伯之後」
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身
こう書いてあるから、倭人が文身しているという内容と合わせて、陳寿が「まさにそう思った」ってだけで、解釈としては十分おつりが来ると思うぞ
※3393
周髀算經を参考にして影の長さを色々な時代において度々測っているのは様々な資料に確認されるが
残念ながら魏・晋代に測ったという史書を見出すことはできない
>こうなってるからこうに違いない、っていう循環論法になっているし、後付けのあて推量にしかなってない
確かに後付けの推量だが、それは全ての論でそう
これは数値的に陳寿が知りうる情報から合致する計算結果だということが大きいのだ
>陳寿が「まさにそう思った」ってだけで、解釈としては十分おつりが来ると思うぞ
それはない
なぜなら陳寿は女王国までの道里から会稽の東という比較を計って結果を導いているから
そう思っただけなら「計」の文字は不適切、勝手に原文を変更してはならない
ただ思うだけなら范曄のように「其地大較在會稽東冶之東」こう書くほうが適切だろう
※3377
その珍説が定説になるように頑張ればいいと思うよw
>一寸千里の法を使えばドンピシャで合うんだから
は?なんで?
>重要な構成国がどこにも載っていないということは、それが共立国家ではないということ
共立したと書いてるのに、構成国が載ってないだけでなんで共立国家じゃないことになるの?w
>対馬(狗邪韓国)~南の方の奴国までの三十国
邪馬台国は?
>3394
>陳寿が知りうる情報
これが拡大解釈過ぎて、信頼性がないって話
そして
>影の長さを色々な時代において度々測っている
のであればそれはそれで、「過去の誰かよその人の計測結果の数値」(どこかから會稽までが一万二千里、たぶん帯方郡からではない、帯方郡と同じ緯度くらいと当時の地理感覚で信じられていたところ)を持ってきて、倭国が帯方郡から一万二千里の彼方という「魏略の情報」と合わせて述べただけで、「陳寿自身は計算してない」ことになるぞ
何を一生懸命「そう思っただけなら「計」の文字は不適切、勝手に原文を変更してはならない」とか息巻いているのか不思議に思う
※3395
君は一段とレベルが低いから君との議論は飽き飽きしてるんだ
それにその疑問点は全て上で答えてるからレスを見直したまえ
※3397
見たけどどこにも書いてないからはよ答えろやハゲ
※3395
>は?なんで?
参照※3243
>共立したと書いてるのに、構成国が載ってないだけでなんで共立国家じゃないことになるの?w
共立したのは倭国
女王国は邪馬台国の代名詞としか読めない
参照※3371※3388
君より相当優秀そうな※3386ですら答えらないのが現実
>邪馬台国は?
もちろん三十国の中に入る倭国の構成国
女王が都してるところから倭国の盟主といった所か
箸墓古墳は周尺に基づいているから短里が正しい。
※3396
>これが拡大解釈過ぎて、信頼性がないって話
何が拡大解釈なのか?
女王国まで萬二千里の情報は陳寿はもちろん知ってるし、
会稽までの距離も知っていることももちろん前提だ
>「過去の誰かよその人の計測結果の数値」(どこかから會稽までが一万二千里、たぶん帯方郡からではない、帯方郡と同じ緯度くらいと当時の地理感覚で信じられていたところ)を持ってきて、倭国が帯方郡から一万二千里の彼方という「魏略の情報」と合わせて述べただけで、「陳寿自身は計算してない」ことになるぞ
帯方郡⇔洛陽⇔会稽の距離がわかっていたら自ずと出るわけであって
なぜ「陳寿自身は計算してない」ことになるのかわからない
萬二千里と会稽の東の距離を比較して計算したのは陳寿である
群~会稽までの距離と、群~女王国までの距離を計測したのが別人であれ陳寿であれ
会稽と女王国の距離を比較したのは陳寿以外の何者でもない
>何を一生懸命「そう思っただけなら「計」の文字は不適切、勝手に原文を変更してはならない」とか息巻いているのか不思議に思う
これが一番恐ろしいと思った
要はどんなことが書いてあろうが自由に別の漢字を当てはめて読んでいいわけだ
計を思にしても何ら問題がないということか?
「文献は自由に情報を取捨選択して、書いてあることも自由に思った通りに読み替えてよい」
こんなことしたらどんな解釈でもできるわけであって、原文に対して敬意を持つべき
全く別の文字に勝手に変えていいわけがない
畿内説派とひとくくりにするのは大変失礼だろうが、こんなことをしていては良識が疑われる
他人が勝手に、仮に萬二千里を萬九千里に変えても絶対に文句を言わないように
※3399
>参照※3243
>帯方郡夏至南中時の高度は75.09°髀の影の長さは2尺1寸3分
>紹興市夏至南中時の高度は83.43°髀の影の長さは9寸2分
>差は1尺2寸1分
>一寸千里により
>会稽東治は帯方郡の南12100里の位置になる
↑これのこと?
でも魏志倭人伝には、南万二千里とはどこにも書いてないぞ?
>※3371
>女王国を倭国として読んでみたらどうなるのか
女王国=倭国だとは俺は言ってないからどうでもいい
>国名は倭国であり女王国ではない
>やはりここでも女王国ではない
国名が女王国だとは俺は言ってないからどうでもいい
>女王を共立したのは倭国である
倭国の一部の国々が女王を共立した。その国々を代名詞的に女王国と呼んだということだと思う。そして倭王の称号を与えて倭国全体の統治権を認め、従わない狗奴国などの征伐を促したってこと。
>>対馬(狗邪韓国)~南の方の奴国までの三十国(※3377)
>もちろん三十国の中に入る倭国の構成国
しかし、邪馬台国は奴国より南にあるはずだが?
東南至奴国 百里
(中略)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
※3402
>これのこと?
でも魏志倭人伝には、南万二千里とはどこにも書いてないぞ?
何度も言った
参照※3277
>倭国の一部の国々が女王を共立した。その国々を代名詞的に女王国と呼んだということだと思う。そして倭王の称号を与えて倭国全体の統治権を認め、従わない狗奴国などの征伐を促したってこと。
そのような説明はどこにもない。
例えば魏から見た倭国は使役通じる三十国が女王を共立した連合国家であると見える
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居「邪馬臺國」(案今名邪摩惟音之訛也)「楽浪郡徼去其國萬二千里」其西北界狗邪韓國七千餘里
また、上記後漢書を見るに范曄も「自郡至女王國 萬二千餘里」を「楽浪郡徼去其國(先の邪馬臺國にかかる、ここらに女王国の表記はどこにもない)萬二千里」として認識している
当時の中国人が読んでも女王国は邪馬台国と読んでいたということ
>しかし、邪馬台国は奴国より南にあるはずだが?
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 ~中略~次有烏奴國 次有「奴國」 此女王境界所盡
原文を読め、奴国は2回出てくる
俺が言ってるのは女王の境界の奴国である
>3400
>箸墓古墳は周尺に基づいているから短里が正しい。
ほんとならその当時の日本では大陸式の計算が使われてたってことなのか。
距離を日数でって所から、文化を仕入れて纏向繁栄する頃までに進歩してたんだな。
※3403
>※3277
>実際は南には六千里~七千里ほどしか進んでいないが、陳寿にそれを知りうる手段がないため、一律南に万二千里と計算した。
知りうる手段が無い → 一律南に計算!
歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
東南陸行 五百里 到伊都國
東南至奴国 百里
東行至不彌國 百里
こんだけ東って書いてるのに全部無かったことにwwwww
恐ろしいほど都合がいい頭してんな九州説って。ということがよくわかるいい例。
>例えば魏から見た倭国は使役通じる三十国が女王を共立した連合国家であると見える
>先の邪馬臺國にかかる
これもまた都合のいい思い込み。
「共立した国」を、勝手に「使役が通じる国」にしてるだけ。
かかるのは「共立した国」でも十分通じる。
>原文を読め、奴国は2回出てくる
うん、知ってるけどそれがどうした?
※3405
その東南で東にどれだけ進んでるのか説明できるのか?
陳寿がそれを知りうる情報がないから万二千里南と計算しただけの話
現にそれで計算上はぴったり合うのに、実際は間違っている
これが何よりの証拠
そして、畿内に到達する計算方法をさっさと書けと
>これもまた都合のいい思い込み。
>「共立した国」を、勝手に「使役が通じる国」にしてるだけ。
>かかるのは「共立した国」でも十分通じる。
文中に出てくる国で女王に属さないのは狗奴國と東の倭種のみ
2回目の奴国が女王の境界だから、それまでは女王に属する国家ということ
どうでもいいけど、共立した国を早く書けよ
そして、文中の女王国を共立国として読んでも問題ない箇所もな
まあ、中国人にも否定されてるんだから何を言ってもムダなんだけど
>うん、知ってるけどそれがどうした?
知らなかったから
>邪馬台国は奴国より南にあるはずだが?
とかいうことを恥ずかしげもなく言ってきたんだろ?
※3405
畿内ではないことだけはよくわかりました
ありがとうございます
※3406
その東南で東にどれだけ進んでるのか説明できるのか? ←わかる
一律南で計算! ←は?wwwww
頭おかしいだろお前まじで病院行ってくれ
>現にそれで計算上はぴったり合うのに、実際は間違っている
>これが何よりの証拠
何がぴったりで、何が間違ってて、それが何の証拠になるんだよハゲ
>共立した国を早く書けよ
何でだよ
>文中の女王国を共立国として読んでも問題ない箇所もな
全部問題ないよ
>知らなかったから
>>邪馬台国は奴国より南にあるはずだが?
>とかいうことを恥ずかしげもなく言ってきたんだろ?
どういう理屈だよw
そもそも「境界」の話を始めたの俺だし(※3367)知らんわけないだろ。
そして、邪馬台国は奴国より南にあるのもただの事実だし。
東南至奴国 百里
(中略)
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
で、それがどうしたんだよ早く言えやボケ
3407
そういう負け惜しみは良いから
※3408
>その東南で東にどれだけ進んでるのか説明できるのか? ←わかる
はい、グーグルマップもない当時に何里東に行ったのかどうやって知るのか
わかるならその方法と実際に東に何里行ったのか書いてくれ
>何がぴったりで、何が間違ってて、それが何の証拠になるんだよハゲ
学習障害か?上で何度も説明したぞ
>何でだよ
書かないと、女王国が共立した国であると証明できないぞ?
どこにも書いてないし、誰も知らないけどあるんです!ってか?
>全部問題ないよ
※3371 全部反論よろしく
>で、それがどうしたんだよ早く言えやボケ
やっぱり原文読んでないやん
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 ~中略~ 次有烏奴國 次有「奴國」 此女王境界所盡
奴国は2回別々の地域で登場する別の国家なの
2回目の奴国は「其南有狗奴國」とあるから倭国の極南界なの
というかすぐ上でも書いたのに本当に障害があるのか?
自分では自覚できないかもしれないがあると思うぞ
とりあえず最後に意味もなく噛み付いておこうというのはやめような
お前は他の畿内説論者と違って著しくレベルが低いんだから
一律南とかギャグかよ
※3410
>はい、グーグルマップもない当時に何里東に行ったのかどうやって知るのか
>わかるならその方法と実際に東に何里行ったのか書いてくれ
うん、わからないよな。
で、なんでお前(の中の陳寿)は東0里だと知ったの?
わかるならその方法を書いてくれ
>学習障害か?上で何度も説明したぞ
はよ書けボケ
>奴国は2回別々の地域で登場する別の国家なの
一律南と同じでただの思い込みだな。
※3410
>書かないと、女王国が共立した国であると証明できないぞ?
関係無いだろうw
>どこにも書いてないし、誰も知らないけどあるんです!ってか?
共立したのは書いてる
構成国はどこにも書いてないだけ
※3412
>うん、わからないよな。
わかるって言ってただろうに
後先考えないからこんな大恥をかくことになる本当に頭がわるいな
>で、なんでお前(の中の陳寿)は東0里だと知ったの?
>わかるならその方法を書いてくれ
仕返しのつもりだろうが、読解力がないからこんなアホなオウム返しをする
東に何里いったのかわからないから、一律南とした
なぜこんなことが言えるかと言うと、会稽東治の東と距離が合致したため
>はよ書けボケ
※3243 何度も書かせるなよ学習障害相手につらいわ
>一律南と同じでただの思い込みだな。
ま~た大恥さらしたか
三十国をよく数えてみ、奴国重複してるから
というか邪馬台国を起点に北に奴国、南にも奴国(其南有狗奴國とあるためおそらく倭国の極南界)
これでわからないなら相当
※3413
文中に何度も出てきている女王国の構成国も書いてないのに女王国が共立国のはずがない
以上
女王を共立したことと構成国が書いてるのは倭国
後の史書でも女王国は邪馬台国と替えて書かれている
まあ、※3371※3388に反論しなければ何の証明にもならないとだけ言っておく
※3414
「その東南で東にどれだけ進んでるのか説明できるのか? 」
に対して
「←(その疑問を持つのは)わかる」って言ったんだぞ
「説明できる」とは書いてないだろ。
頭悪いのはお前だぞ。日本語も理解できないとは辛いなw
>仕返しのつもりだろうが、読解力がないからこんなアホなオウム返しをする
>東に何里いったのかわからないから、一律南とした
>なぜこんなことが言えるかと言うと、会稽東治の東と距離が合致したため
会稽の東=女王国だとどこに書いてるんだ?
>三十国をよく数えてみ、奴国重複してるから
>文中に何度も出てきている女王国の構成国も書いてないのに女王国が共立国のはずがない
はいはいまーたお得意の思い込みですな
おじいちゃんお昼ご飯はもう食べたでしょ
倭国大乱は九州島バトルロワイアル
共倒れを避ける為に卑弥呼を代表者にしたところ空気の読めない狗奴国が反発
卑弥呼をアイドルとし、抜けがけ禁止の為の親衛隊長が弟
ファンクラブ会長が一大卒
もっとも貢いだのが伊都国王
中国とのプロデューサーが狗邪韓國、対馬、壱岐、奴国
後継者を巡ってみんなで喧嘩した結果、後継者は台与
後継者を張政が独占しようとしたが追放
海を渡った東にはアマテラスをアイドルとする戦闘民族がいて、その後併合されました
東に何里いったのかわからない ← せやな
から、一律南とした ← !?wwWwwWWWw!!ww!??!W???!wWwWWWw
※3415
>「説明できる」とは書いてないだろ。
>頭悪いのはお前だぞ。日本語も理解できないとは辛いなw
おっけおっけ、はやく陳寿が会稽の東が畿内相当だとする計算結果書けよ
>会稽の東=女王国だとどこに書いてるんだ?
原文読めよ、それにこれが話の本筋だったのにこれを理解してないとかやばすぎでしょ
>はいはいまーたお得意の思い込みですな
>おじいちゃんお昼ご飯はもう食べたでしょ
※3371※3388はよ
お前は最後にレスしたほうが勝ちとか思ってるみたいだけど、反論を1つもできてないレスをしまくっても意味がないぞ
※3417
萬二千里中、東に何里いったかもわからない状態で、正に会稽東治之東と断じてる陳寿に対する冒涜だな
それで計算結果が正に会稽東治之東になるんだから仕方がないというものだが
東に何里進んだか分からないから全部南!w
※3418
>原文読めよ、それにこれが話の本筋だったのにこれを理解してないとかやばすぎでしょ
はよ書けって言ってんだろkrすぞ
>※3371※3388はよ
それ論破済み→※3402
会稽の東かつ帯方郡の一万二千里先がほぼ真南ならそれで終わりでしょ?
【悲報】陳寿は池沼だった
※3421
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里 男子無大小 皆黥面文身 自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東
本質がわかってないのに議論とかどれだけ頭わるいねん
これがわかってない奴だったから俺は学習障害だと思ってしまったのか
実際そうなの?
全く論破になってないどうぞ
※3371※3388はよ項目ごとに論破()頼むわ
中国大陸と朝鮮半島と日本列島が一枚に描かれている3世紀の地図の原本が発見されない限り答えは分からんな
※3324
>自古以來 其使詣中國
って書いてるけど、女王国(邪馬台国)って昔から朝貢してたの?
>倭水人
倭国の話題に移ってるんじゃない?
魏略は魚豢、魏志は陳寿が書き記した。歴史書はすべて過去の文献を探しだし、その正誤を勘案して編纂した。当事者やそれに近い人物が書き残した雑多な文書類、宮廷書庫等に集積されたものを分析、総合している。現在の歴史研究者と何ら異ならない。何が正しいかを判定するのは編纂者、史書には編纂者の思考、個性といったものが色濃くあらわれ、同じ資料を使いながら異なる結論に到る。魏略の成立の方が早いという理由で、魏志は魏略に基づいて書かれたわけではない、魏から晋への王朝交代も禅譲という形で、戦乱はないのだから、魏略が使用できた資料は、後発の魏志も使用できたと。つまり、魏志は、魏略を参考資料のひとつとした可能性は残るが、魏略に頼る必要はなかった。
「東にどれだけ進んだかはわからない」「つまり東に進んだのはゼロ」
おじいちゃん病院行ってお願い
※3324
>諸國文身各異
邪馬台国だけのことを言ってるわけじゃ無いみたいだね…。
魏略、魏志には共通の原典が存在する。帯方郡から倭へ、二度の遣使がなされている。最初は正始元年の梯儁を責任者とする一行。帯方郡の船で渡来し、人数が多かったとされる。二度目は正始八年の張政等。女王国から軍事援助の要請があって、それに応えたもの。この二人が報告書を残した。魏志倭人伝には、倭から女王国までの行程が詳しく書かれている。航海中に方向を見失ったか、張政が誇張したかで後の解釈を混乱させているが、対馬、壱岐の地理描写は今でもおなじである。国ごとに入れ墨が異なることや、食べ物が口に合わない不満(ショウガ、山椒などがあるが、それを使ってうまみを出すことを知らない)を書いている。これは国内の移動と長期の滞在を示す記述である。
特に、二度目の張政は、危機に瀕した女王の緊急援助の要請を受けて派遣されたもので、 その任務は軍事指導である。政権中枢部と交流していた彼らほど女王国の内情を知るものはいない。女王、卑弥呼とその宮廷の様子や、卑弥呼が神を祭り、その弟が政治を補佐すること、卑弥呼死後の中央政治の混乱など、単なる交易商人や旅行者が書けることではない。現実に軍事指導に当たっていた張政の観察と考えることが簡単かつ妥当。
元々、帯方郡使が帯方郡に提出した報告書だったなら、「帯方」と書かずに、単に「郡」と書いていたことにも説明が付く。
魏略、魏志の違いを整理すると、次のようになる。
「魏略」は帯方郡使の残した報告書に、後漢代の奴国の朝貢のおりに得られた情報を加えて「倭伝」を組み立て、後漢の情報を重視して、女王国を太伯の後の呉人の国と考えた。
「魏志」は帯方郡使の残した報告書を比較的忠実に引用した。女王国を越人の国と考え、参照した魏略の間違いと対比させるため、魏略の「太伯の後」と同じ位置に「古より以来、その使、中国に詣ずるはみな大夫を自称す。」という文をはめ込んだ。
3429
交流可能な30余國でそれぞれ刺青違いまっせって意味だよ。
それぞれの国ごとに顔に違う模様の刺青をしていた
都のある邪馬台国の市や伊都国では様々な刺青をした人達で賑わってたんじゃない?
※3426
以前朝貢していた奴国のこと
彼らは太伯の子孫を自称していた
古代中国の威を借りたのか、親近感を持ってもらいたかったのか、先祖が長江流域だったからそうしたのかは分からないが、倭人が中国に使者を立てると毎回そう言ったらしいと書いてあるだけ
男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東冶之東
男は、大人も子供もみな顔と体に刺青をしている。昔から、倭の使者が中国に行くと、皆自分は大夫であると言った。夏后少康の子が會稽に封ぜられたとき、髪を短くし、身体に刺青をして蛟龍の害を避けていたという伝説がある。今、倭の漁師は水に潜り魚やハマグリをとらえることを好んでいる。(彼らも)また身体に刺青をして大魚や水禽を避けている。後には、これは飾りとなった。国々で刺青は異なっている。左や右だったり、大きかったり小さかったり。身分によっても差がある。その道のりからすると、(倭は)まさに會稽の東冶の東にある。
魏略逸文では、「夏后少康・・・」の前に『聞其舊語、自謂太伯之後。』がある。この一文がないと、「夏后少康・・・」は少々唐突である。『聞其舊語、自謂太伯之後。』があると、「以前に倭人は自分たちは太伯(春秋時代の呉国の始祖)の末裔である(つまり呉の国からやってきた)と言っている。そういえば、夏后小康の子が会稽に封ぜられた時に入墨をしたという言い伝えがある。今の倭の漁師も入墨をして魚を採っている。(つまり、かつての呉の習慣と今の倭の習慣は同じであるということになる。とすれば、『太伯の後』という倭人の言は本当かもしれない。)」という文脈になっておさまりが良い。さらに、この文脈であれば、そのあとの『計其道里、當在會稽、東冶之東。 』も生きてくる。
夏后は国号で夏王朝のこと。少康は夏王朝六世。禹-啓-太康-中康-相-少康と続く。この後、少康の子の予が帝位についているが、ここでいう「夏后少康の子」はこれではなく、庶子で、禹の祭祀を絶やさないために越に封じられた無余のこと。史記越王勾践世家に会稽に封じられ断髪分身したことが記されている。越王勾践も剪髪文身していたと伝えられる。蛟龍は伝説上の動物。鱗のある龍。
魏略逸文の太伯は、周の古公亶父の子であり、王位を末弟の季歴に譲るために弟の仲雍と共に文身断髪したと伝えられる。呉の始祖と言われる。古公亶父は戎狄との争いで民衆が苦しまないように、領地を捨て岐山のふもとに移り住んだといわれる。ちなみに、季歴は太公望の太公。
紹熙本、紹興本ともに「東治」に作るが、中華書局標点本は『東冶』とする。東冶ならば會稽の土地の名。
『無大小』は“大人も子供も”とされることが多いが、“身分の上下によらず”とする説もある。
※3431
諸国で刺青違うってことはわかるよw
そういう解釈ができるなら、
「邪馬台国のことは言ってない」まで解釈可能じゃない?
※3432
邪馬台国のことじゃ無いんだね…w
3435
以前に朝貢していたのは邪馬台国ではなく奴国みたいだね
中国からしてみれば同じ倭人だけどね
中国「倭人がまた来たけど、あいつらまた呉越の子孫だって言ってやがる。記録と同じ刺青じゃん。」
こんな感想を書かれてる
おそらく手引きしたのが邪馬台国の支配下の奴国だったんじゃないかな
※3436
とりあえず
会稽の東≠邪馬台国
ってことでいいよね?
3434
すまん、なんの話か全く分からんから答えられん
刺青がそれぞれの国で違うが倭人は刺青をしているから刺青をしていない畿内は邪馬台国ではないのではないかという話ではないのか?
それとも魏志倭人伝は朝鮮半島南部と九州各地の風習と邪馬台国一国(都だとか宮殿だとか)の話が混ざってて分かりにくいという話か?
3437
よく分からんが、北でも南でも西でもないから東でいいんじゃないか?
太伯の子孫って自称したから呉の東、建業の東だとでも思ったんじゃない?
※3434
※3435
何をどう言おうが、計其道里 當在會稽東治之東がかかってるところは萬二千余里
里数を計ったところはそこしかない
ぐぬぬ君連投大発狂の巻きか?
ロクに反論になってないから放置したらいいのに
※3438
違う、とは言いきれないけど
とりあえずそこ(邪馬台国)に触れてはいないのは確かかなという話
※3440
それだと、奴国=女王国になっちゃうね…
※3441
それだと、再反論できないから逃げたことになっちゃうね…
九州説「東にどれだけ行ったかわからないんだから、東に行ったのはゼロだ」
畿内説「わからないのに、ゼロだとわかるってどういうこと?」
九州説「とにかく東南万二千里=南万二千里なんだ」
畿内説「東南万二千里のところと、南万二千里のところって違う場所っぽいよ」
九州説「ぐぬぬ」
※3443
間に挿入されてるのは倭国を指す
道里を計算してるのは女王国までの万二千里
漢文読めないのか知らんが簡単なこと
※3444
>畿内説「東南万二千里のところと、南万二千里のところって違う場所っぽいよ」の
「東南万二千里と南万二千里」が原文で見当たらなかった
萬二千餘里しか見つけられなかった
しかも郡からだからおそらく郡都からだろうけどそこから直線なのか全行程なのかも分からなかった
このコメントはどういうこと?
邪馬台国が朝鮮半島の東南にあると認識しているんだから日本列島が90°回転して南に伸びている説は間違っている訳だ。
やはり元の時代の朝鮮半島の地図のみを根拠にした90°回転説は間違っていた。
やはり畿内だな。理由としては。
・考古学的に2世紀には九州と同じくらい畿内は発展していた。
・魏志倭人伝は中国の偉大さが遠く日本までに知れ渡っている。ということを主張するため、誇張表現になっている。日本書紀程じゃないけど。
・個人的に倭百襲姫が卑弥呼、神効皇后が台与、と当てはめるとしっくりくる。
・急速に発展したのは崇神天皇の四道将軍派遣と説明できる。
あと、出雲のことが言われてないのが悔しいな。あと、吉備は出雲を滅ぼした後の抑えの役割があるというか、その役割が大きい。正直、3世紀のことを知るには2世紀のことを知る必要がそれ以上にある。多分、日本古代史の謎は二世紀にすべて収まっている。正直、神武=崇神だと思うから、欠史8代の説明とか、僕の説としては説明が難しい。
>3401
>何が拡大解釈なのか?
3396の
「>陳寿が知りうる情報
これが拡大解釈過ぎて、信頼性がないって話」
これは、どこかで過去に計った人がいるかもしれない
⇒陳寿が知りうる情報
っていうのは飛躍しすぎだろってこと
例えば、今オーランチオキトリウムが、油脂生産藻類として石油代替油脂生産の研究がされていることは、論文では出ているけれども、3408は知らないだろ?
世間では知っている人がいる ⇒ 陳寿が知っているとはならないだろって話
それに結局帯方郡で夏至に影の長さを計った資料は見つからないようだし、あんまりこれを言い張るのもおかしな話だ
>帯方郡⇔洛陽⇔会稽の距離がわかっていたら自ずと出るわけであって
出ないよ
これまでさんざん一寸千里って書いてたけど、これ「同一子午線上=経度が同じ」時しか言えないよ
というか、影の長さが異なる緯線の間の平行距離が出るだけ
帯方郡と洛陽の間も、洛陽と会稽の間も同一子午線上じゃないから、一寸千里の換算では距離は出ないし、帯方郡と会稽の間も距離ももちろん出ない
結局は、こうなってるといいなという思い込みから来てる計算だけなんだから、これにこだわるの止めたら?
そして、
「こんなことしたらどんな解釈でもできるわけであって、原文に対して敬意を持つべき
全く別の文字に勝手に変えていいわけがない」
だったら、会稽の東、つまり台湾か沖縄辺りでしか、邪馬台国は探せないことになるよね?
字義通りに読んだってしょうがないんだって!
それから3403への横レスだけど
>次有「奴國」 此女王境界所盡
>原文を読め、奴国は2回出てくる
この2番目の奴国は「儺県の奴国」とは別で、おそらく脱字があるのだろう、とするのが多数説だよ
こういうところまで原文どおりに読まなきゃだめっていったって、原文もそこまで正確だっていう保証はないんだから、しょうがないだろう
>3447
>邪馬台国が朝鮮半島の東南にあると認識しているんだから日本列島が90°回転して南に伸びている説は間違っている訳だ。
朝鮮半島の「東南の海上」に「90°回転して南に伸びている日本列島がある」と、大陸の人が思ってたってだけで、特に間違っていると断言する理由はどこにもないぞ
原文だと、倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑、で
帯方(朝鮮半島)の東南の大海の中の山島に依りて國邑を為す
島(山島)が朝鮮半島の東南にあるって書いてあるだけで、その島の向きまでは書いてないぞ
>3401にもう一つ
>他人が勝手に、仮に萬二千里を萬九千里に変えても絶対に文句を言わないように
後漢書の作者、范曄は、樂浪郡徼 去其國萬二千里って起点を動かしちゃってるけど、距離はそのままにしてるよ 公孫氏が帯方郡を置く前だからね
楽浪郡と帯方郡の間の距離分くらいは楽勝で誤差って考えなんだろうね
もともと、そんなに信頼すべき数値だと思ってないから、まあそんなもんだろうと思うだけだけどさ
※3446
東南万二千里…これは萬二千餘里のことね。行程で東南って書いてるから。
南万二千里…これは会稽東治之東のことね。一寸なんちゃらの法で計ると帯方郡からちょうど真南に一万二千里なんだってさ(by九州説くん)
>3451
後漢書の時代には単位が完全に変わっているから、あてにならない数字だと思われたんだろうね。
自郡至女王國萬二千餘里と書かれているのは、実際に行程計算(足し算)したと思われる。
倭人伝に倭人の船行一年が四千里は後の時代に書き足してあるし、東夷伝まで広げれば千里を六十日も出てる。
陸行一月水行30日だと900里ほど、つまり出ている数字と合計して11600里余+それぞれの国の大きさで萬二千余、千里六十日ほど道が険しくないか、水行が船行より速かったとしても、張政報告などから萬二千余りで不思議はないかな。
3447
日本列島は北東に伸びてる(事実)
↓90度回転
日本列島は南東に伸びてる(認識)
やっぱり合ってる
九州最北端の県庁所在地・福岡でさえ、近畿最南端の県庁所在地・和歌山より南にあるぐらいだから、日本列島は東北地方を持ち出すまでもなく北東に伸びてる
90度回転させると近畿や東海は南東にある
>3453
>倭人伝に倭人の船行一年が四千里は後の時代に書き足してある
前にも書いたけどさ、これでいくと半島から対馬の間で、三ヶ月かかるよね?
着く前に飢え死にするよ?
そういうムチャにムチャを積み重ねるのは止めようよ
「行程距離はあてにならない」ってだけのことを、何をがんばっているんだか
後の時代の書き足しでいいんだったら、
大和=邪馬台国でいいじゃないの
さすがに隋の時代の都は大和つまり奈良で文句ないだろ
※3449
>⇒陳寿が知りうる情報
>っていうのは飛躍しすぎだろってこと
論理的に考えよう
群から女王国まで萬二千里という情報を陳寿は持っている
それが正に会稽の東であると、「計算」した結果その答えを出した
なら陳寿は会稽までの距離を知っていることが前提なわけで
会稽までの距離を知らずして、正に東と「計算」して出すことはできない
当てずっぽうで書いたというのならそれは原文の何の根拠も無い変更になる
>これまでさんざん一寸千里って書いてたけど、これ「同一子午線上=経度が同じ」時しか言えないよ
というか、影の長さが異なる緯線の間の平行距離が出るだけ
だからこれは緯度の話だよ
影の長さを知っていたなら知っていたでいいし
洛陽⇔会稽の距離が南北△里東西○里、洛陽⇔群の距離が南北◎里東西×里とかいう情報でも
群⇔会稽は△+◎里という情報がでる訳だ
まあ、陳寿の知ってる会稽までの距離がどのような認識、どのような計算で出されたものかという記録は残っていないが、陳寿はその距離を知っていたということには変わりはない
>結局は、こうなってるといいなという思い込みから来てる計算だけなんだから、これにこだわるの止めたら?
思い込みではなく、きちんと計算結果が合致してるからな
では君が思い込みではない完璧な数字を出して立証して欲しいものだ
>「こんなことしたらどんな解釈でもできるわけであって、原文に対して敬意を持つべき
全く別の文字に勝手に変えていいわけがない」
>だったら、会稽の東、つまり台湾か沖縄辺りでしか、邪馬台国は探せないことになるよね?
字義通りに読んだってしょうがないんだって!
これは計算結果が誤っているが、原文を変更・無視して良い理由にはならない
そもそもなぜ誤った計算結果が出たのかを研究するのは純粋な資料批判・考証である
「実際会稽の東じゃないから、廣陵の東にしよう」
これが原文の改鋳、君がやってることと一緒
ここでの問題はなぜ計算結果が間違っているかであって、これでは何の解決にはならない
間違いやすい文字で、誤字の可能性があるならまだしもだが
>この2番目の奴国は「儺県の奴国」とは別で、おそらく脱字があるのだろう、とするのが多数説だよ
こういうところまで原文どおりに読まなきゃだめっていったって、原文もそこまで正確だっていう保証はないんだから、しょうがないだろう
何度も言う。原文は間違っていることはある。誤字脱字もある
しかし、自由に原文の文字を好き勝手に変更して解釈していいわけがない
君のやってることは、誤字脱字の訂正レベルの話じゃなくて、原文の意図的な改鋳
それがまかり通るなら何やってもいいことになる
計→思が誤字脱字のレベルなのかと
東南を勝手に真南だ解釈してるやつが何言ってんだか…
※3420「其」=「『直前』のことに掛かるに決まってんだろぉ」
※3445「其」=「『直前』になんか書いてるな。あれは挿入されてるだけだから無視するぞ」
九州説ってほんとクズだなー
※3420 ×
※3410 ○
だった
混一疆理歴代国都之図のことをまだ言ってる奴がいるのか
龍谷大学所蔵のものだけが日本の向きがおかしいだけで
別の写本の本光寺図は日本の向きが正しい
よくある用紙が足らない都合だろう
つ ※774
テンプレ8案件か
※3458
ものの本質が全くわかってないね、学習障害君は
結果が間違ってるんだからどこかを間違って陳寿は計算してるわけであって
その方法を試行錯誤しただけのこと
で試行錯誤した結果が間違ってるならまだしも、完璧に合致してるんだから問題ない
※3459
そんなこと誰も言ってないぞ
漢文知らないのかな?
「從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」
これ一つ取ってみてもお前の行ってることがおかしいと思うと思うんだけど
そこまでいうなら「計其道里當在會稽東治之東」の道里は何を指すのか教えてくれよ
※3464
勝手に陳寿が間違ってると決めつけて、
勝手に自分の都合のいいように試行錯誤して
勝手に完璧だ本質だと言ってるだけのことだろ
>そんなこと誰も言ってないぞ
じゃあなんて言ってるの?
>漢文知らないのかな?
>そこまでいうなら「計其道里當在會稽東治之東」の道里は何を指すのか教えてくれよ
もうお前は何言っても都合よく解釈し直す、それを漢文だと言ってるだけだってバレてるから嫌だわw
>これ一つ取ってみてもお前の行ってることがおかしいと思うと思うんだけど
どこがどうおかしいの?
※3465
じゃあ陳寿が計算した結果の会稽の東は正解なのかと
実際間違ってるんだからしゃーない
「計其道里當在會稽東治之東」
いいからはやくこの道里がどこまでの道里か答えてみろよ
ほんと頭悪い奴との会話は疲れるわ
「從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」
これの其のが何を指すかわからんか?
※3466
間違ってるという根拠は?
>3462
>774の南北が逆の地図
1「海内華夷図」唐8世紀 2「石刻華夷図」南宋12世紀
は拓本の原本なので逆なだけ、写すと正常な向きになる
しかも日本は載ってない
3「声教広被図」元13世紀 4「混一疆理図」明14世紀 5「混一疆理歴代国都之図」朝鮮15世紀
これらは現在失われているので確認はできない
「混一疆理歴代国都之図」の参考にもなったから日本の向きが逆だと勝手に思われているだけ
5「混一疆理歴代国都之図」朝鮮15世紀
用紙が大きく日本の位置に余裕がある別の写本では日本の向きは正常に書かれている
ここに挙げられた地図以外の全ての日本が載っている地図は日本の向きが正常
※3467
アホなん?
実際に会稽の東に日本はない
はい終了
※3469
アホはお前だろ…
結果が間違ってることなんてわかってんだから言わずもがな
お前絶対偏差値低いだろ
頭の回転悪すぎるわ
>結果が間違ってるんだからどこかを間違って陳寿は計算してるわけであって(※3464)
俺が言ってるのは、計算過程が間違ってるという根拠をだせってこと
具体的にいうと、
東南って自分で書いてるのに
なぜ東方向をゼロだと(お前の中の)陳寿は思ったのかということ
>実際に会稽の東に日本はない
東南七千里のあとの(ここ重要)
伊都国のあたりまでは「実際に」当たってるわけだが?
なぜ東南を真南っていうことにしたの?陳寿はというかお前は
>3453
>倭人伝に倭人の船行一年が四千里は後の時代に書き足してある
前にも書いたけどさ、これでいくと半島から対馬の間で、三ヶ月かかるよね?
着く前に飢え死にするよ?
これはどうなった?
>3457
>論理的に考えよう
の次の文章がこれかい↓
>群から女王国まで萬二千里という情報を陳寿は持っている
「情報を陳寿が持っている」ことの論証がない って言ってるんだが
次の
>「計算」した結果その答えを出したなら
ここがあて推量に過ぎないと、こっちは言ってるの
>陳寿の知ってる会稽までの距離がどのような認識、どのような計算で出されたものかという「記録は残っていない」
のであれば
「陳寿はその距離を知っていたということには変わりはない」
ここに論理の飛躍があって、論理的な考証になっていない
要するに。「陳寿は距離を知っていた」という論証が必要な部分を、「a prioriに正しい」として話を進めようとしているのが「おかしい」んだって!
>きちんと計算結果が合致してる
と書いた直後に
>これは計算結果が誤っている
と書くのに、抵抗感は感じないの?
二つの数値が一致していて、それが実際には間違っているなら、その二つの数値はもともと根拠がなくて、たまたま一致したとしか言えないぞ
そして、万二千里の方は、明らかに陳寿にとっては伝聞情報なんだし、客観的に間違っている(倭国は台湾にも沖縄にもない)ことが分かっていて、間違っている数字を「正しいと言い張る」ことに何の意味があるのか?
>ここでの問題はなぜ計算結果が間違っているか
この「なぜ」にはどうやっても答えは出ないんだから、考えるだけ無駄だろう
3457がやっているのは、循環論法で数字を合わせて、数字が合っているからこれが正しいと言っているだけで、何の情報も付加されていない
そして残るのは、倭国は台湾にも沖縄にもないのに、その位置を示す万二千余里という数値だけ
>自由に原文の文字を好き勝手に変更して解釈していいわけがない
自由にではなく「客観的に倭国は台湾にも沖縄にもない」という「理由があって、この文章はあてにならないと判断する」のが、どうして好き勝手になるのか?
これをあてにしないだけで、書き換えはしてないぞ!
>3469
日本語の意味も正確に取れないやつがドヤ顔で漢文授業してんのか
※3470~3472
やっぱり学習障害の世話は困るな
>俺が言ってるのは、計算過程が間違ってるという根拠をだせってこと
計算結果が間違っているということは、過程か数字が間違っているということ
こんなことは言わなくてもわかること
1+1=3 で3の数字が揺るぎないなら1+1の部分が間違ってるのだよ
>東南七千里のあとの(ここ重要)
こんなこと書いてないからな?
>伊都国のあたりまでは「実際に」当たってるわけだが?
>なぜ東南を真南っていうことにしたの?陳寿はというかお前は
東に進んだ距離を特定できないから、一寸千里の法で計算できる南北の数字と過程して計算した
するとそれは会稽の数字とぴったり合っていた
さらにその会稽というのは陳寿にとって以下の理由で都合がよかったため
「夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽」
どうでもいいけどはやく畿内にぴったりあうというお前の計算結果を見せてくれよ
ブレブレの論理もなく数字も合致していないお前の論()より説得力があるぞ
魏志倭人伝の通りにすると辿り着く場所がある派と魏志倭人伝の通りにすると畿内に辿り着かないから魏志倭人伝を認めない派の熱い戦いだな
※3474
>「情報を陳寿が持っている」ことの論証がない って言ってるんだが
>次の
>>「計算」した結果その答えを出したなら
>ここがあて推量に過ぎないと、こっちは言ってるの
つまりそれは陳寿は計算して道里を比べて正に会稽の東という数字を出したことを
何の根拠もなくうそっぱちで陳寿が書いたと言ってるということでしょ?
なら、なぜ陳寿が嘘を書いたのかという資料批判をまず君がすべきではないのか?
>要するに。「陳寿は距離を知っていた」という論証が必要な部分を、「a prioriに正しい」として話を進めようとしているのが「おかしい」んだって!
上に同じ、陳寿は道里を計算して結果を出したことを述べている
ならその道里を知っていることは前提
この前提を覆すのなら、陳寿はこうこうこういう理由で「道里を計算して会稽の東という結論を出した」という嘘を書いたのか論証しなければならない
>そして、万二千里の方は、明らかに陳寿にとっては伝聞情報なんだし、客観的に間違っている(倭国は台湾にも沖縄にもない)ことが分かっていて、間違っている数字を「正しいと言い張る」ことに何の意味があるのか?
陳寿には萬二千里という情報が間違っていても合っていても確かめようがないし
日本の位置も確かめようがない
だから萬二千里を机上で計算した結果、会稽の東になったんだよ
これは陳寿が導き出した計算方法と答を探る議論であって、実際の日本の所在地を探る議論ではない
>この「なぜ」にはどうやっても答えは出ないんだから、考えるだけ無駄だろう
>3457がやっているのは、循環論法で数字を合わせて、数字が合っているからこれが正しいと言っているだけで、何の情報も付加されていない
>そして残るのは、倭国は台湾にも沖縄にもないのに、その位置を示す万二千余里という数値だけ
考えるだけ無駄ってそれ歴史学の否定じゃないか?
歴史学にとって考古学的に証明されないと、歴史として証明されないのは常であって
畿内説派も九州説派もすべて否定する行為じゃないのか?
俺は楽しいからここで議論してるんだ、君もそうでしょ
どれだけ議論を戦わせても邪馬台国はそこには出てこない
けど論争してる、楽しいからだ
よくわからんが萬二千里というのは台湾も沖縄も示さないぞ?
短里換算では北部九州だし、直線南萬二千里ならトカラ列島らへんか?
長里だと六千里でもフィリピン、倍いくと赤道を越える
>自由にではなく「客観的に倭国は台湾にも沖縄にもない」という「理由があって、この文章はあてにならないと判断する」のが、どうして好き勝手になるのか?
>これをあてにしないだけで、書き換えはしてないぞ!
上の方で計を思に勝手に書き換えて読んでこれで問題ないというようなことを言ってたでしょう
別に当てにならないならなぜ当てにならないのかを論証すればいいだけであって、
字を置き換えて読むのは違うということ
陳寿ガイジ説はさすがに草生えますよ
※3476
>こんなこと書いてないからな?
乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
>>なぜ東南を真南っていうことにしたの?
>東に進んだ距離を特定できないから、一寸千里の法で計算できる南北の数字と過程して計算した
「なぜ東を無視したのか」聞いてるのに
「東を無視して(南北で)計算したから」って答えになってない
東に何里いったのかわからない ← せやな
だから、一律南とした ← !?wwWwwWWWw!!ww!??!W???!wWwWWWw
自分がガイジだからと言って、陳寿さんをガイジにしてはいけない(戒め)
羅針盤もグーグルマップもないから不便な環境であることを考慮するのは当然だが、
勝手に頭がパッカーンな人だということにするのはNG
× 陳寿=ガイジ
○九州説=ガイジ
魏略だと畿内説の根拠はないのか、残念だ
3477
魏志倭人伝通りにするとどこにもたどり着かないぞ
正しい結果と計算…1+1=2
(羅針盤がなくて)見間違えた結果と計算…1×1=1 ←わかる
(陳寿はガイジだから)間違えた結果と計算…1+1=3 ←ガイジはお前やぞ
>3478
>よくわからんが萬二千里というのは台湾も沖縄も示さないぞ?
会稽の東は台湾か沖縄だろ?
あてにならない数字より、あてになる地名を頼りにする方が、明らかに有意義だろ?
そして、これも字義通りに取れというのかと言っている
そして>3453
>倭人伝に倭人の船行一年が四千里は後の時代に書き足してある
これで行くと千里に3カ月かかることになるが、半島と対馬の間が千里だよな?
この間補給もできない海の上で、3ヶ月も漂ってたら飢え死にするよな?
距離に関してはあてにならないんだよ
>俺は楽しいからここで議論してるんだ、君もそうでしょ
もう少し話が通じるようじゃないと楽しくないな
※3480
連投してどんだけ必死やねん
>「なぜ東を無視したのか」聞いてるのに
君がガイジちゃう?
東に進んだ距離を特定できないから、一寸千里の法で計算できる南北の数字と過程して計算した
するとそれは会稽の数字とぴったり合っていた
さらにその会稽というのは陳寿にとって以下の理由で都合がよかったため
ここに思いっきり書いてるからな?
>「東を無視して(南北で)計算したから」って答えになってない
君は何度教えてもモノを覚えないからもう一度教えてあげるね
萬二千里の東行の距離が特定できないうえ、一寸千里の法では東西を測ることができないから南北として計算するしかないのだよ
しかも君は問題がわかってないようだから教えてあげよう
ここでは陳寿がなぜ誤った計算結果を出したかを議論している
つまり1+1=3の3だ
この3のなぞを特定するために3を不動にして1+1をどう間違えたのかを検証するという話だ
ところで、畿内ならぴったり会稽東冶(当時こんな地名はどこにもない、建安東冶)にあうらしいから早くその計算方法を教えてくれよ
※3486
>会稽の東は台湾か沖縄だろ?
会稽東治之東はトカラだぞ、夏の会稽国は会稽山付近なんだから紹興市だ
建安群東冶県のことを会稽というのなら沖縄だが
だからこれを陳寿が計算して出したから、どういった計算したらこんな宛ての外れた結果を出すのかと考証してるのが今やってること
君は結果が考慮に値しない、陳寿が計算して結果を出したのも嘘だといって匙を投げてるだけ
というか冒涜
陳寿が嘘を書いたと言いたいなら、なぜ陳寿がわざわざそうしたのか?
>これで行くと千里に3カ月かかることになるが、半島と対馬の間が千里だよな?
>この間補給もできない海の上で、3ヶ月も漂ってたら飢え死にするよな?
>距離に関してはあてにならないんだよ
これは俺じゃないが代わりに答えよう
そもそも黒歯国は実際に行ったわけではなく山海經からとってつけた話だろう
ここでの一年は言うほど根拠があるように思えない
が、ここでの問題は船行一年が問題ないと認識されていたことと
四千余里が一年行でも全く問題ないと認識されていたことだろう
謝銘仁によると水行陸行などの日数は実際に移動した日ではなく、
滞在期間や天気待ちの日数、修辞などを付け足した概数であるという
つまり日数分全力で真っ直ぐ進んだと思うのは間違いであるということ
対馬も実際はがんばれば1日、遅くても2日で渡れるようだが
天気を待ったり、韓国で接待などをされて滞在していたらこれを10日行でも30日行でも問題ないというのが中国人学者の認識だ
>3484
中国人学者は文献だけを読んだ場合ほぼ全員九州だと断定してるらしいで
ソースは沈仁安氏
魏志倭人伝によれば、帯方郡から邪馬台国まで12、000余里とあり、このうち伊都国(福岡県糸島郡)まで10、500里を計上している。伊都国から邪馬台国まで残りは1、500里に過ぎないので、比例関係からして邪馬台国は北部九州の域を出ない。仮に邪馬台国が畿内大和とすれば、倭人伝は 「帯方郡から邪馬台国まで20、000余里」 と表現したはずである。
隋書で東に変わっているとあったが対馬と壱岐の方角も東西になっていたから魏志倭人伝の方角の南は南で合ってる
倭人伝の紀行文風の「第1および第2章」では卑弥呼を「女王」と表示するのが3ヵ所、「王」が3ヵ所、合計6ヵ所出現し、この用語の実体は「王」である。一方、首都洛陽での公文書からの写しと考えられる「第3章」では「倭女王」が3ヶ所、「倭王」が3ヵ所、「親魏倭王」が2ヵ所、合計8ヵ所出現し、この実体は「倭王」である。
このように、「第1、2章」では「王」、「第3章」では「倭王」とはっきり区別して書かれ 、混同は一つもない。第3章の梯儁は倭王卑弥呼に会見するため倭国を訪れた、仮に梯儁が第1章の里程日程の原作者であれば「王」ではなく「倭王」と表示し、天子の詔書印綬を奉じた魏使の立場からしてもそう書くべき。また、張政の場合でも倭王卑弥呼への詔書を奉じている以上、「倭王」と書いた。
なお、「第3章」で男王について1ヵ所、壱与について1ヵ所、合計2ヵ所「王」が出現するが、これは卑弥呼ではない。
一月とか一年とかの倭人の距離の計り方は現在で換算したら半月とか半年になるのかな?
水行の日数も日が出てる半日なのかな?
もしかしたら水行陸行はそんなに進んでないのかも
※3489
どこでそんなこと言ったの?
陳寿ガイジ説やめーや
※3490
テンプレ1
※3487
>さらにその会稽というのは陳寿にとって以下の理由で都合がよかったため
だったら最初から「東」へ行ったとか書かなければいいだろ
もし「東」を書かなければいけないのであれば「万二千里」を水増しすればいい
はい却下
よって陳寿ガイジ説だけしか可能性はなくなる
申し訳ないがガイジとまともに議論する気にはなれないので消えろガイジ
>萬二千里の東行の距離が特定できないうえ、一寸千里の法では東西を測ることができないから南北として計算するしかないのだよ
普通に、南北方向の距離だけ算出したでいいんじゃないの?
東西方向の距離を南北方向に加算するってのがガイジ感半端ない…
1+1を3という答えにしたいな…
そうだ、
1+(2)にしちゃえ! ←わかる
1+1=3ということにしちゃえ ←ガイジ特有の発想
※3490
ちゃんと九州から飛び出すぐらい遠くまで行くって書いてるぞ→会稽の東
あのさあ、いまさらで悪いんだけど、ひょっとして陳寿の「計算」が正しいって言い張ってる人は
「計」其道里當在會稽東治之東
この「計」の字を「計算」したって、言い張ってるの?
これって、その道里を計るに、だよね?
計測だって、計る、なのにどうして「計算」って言い張るんだろう?
洛陽から会稽までの距離は陳寿が計算するまでもなく、いろんな人が行き来してるんだから、距離は分かってるだろうし、洛陽から帯方郡までだって陸路なんだからどれくらいの距離かは雑な地図でも分かるだろう
何で歩いて行き来してるところで、影の長さを持ち出して距離を計算しなきゃならないんだ?
それと魏略にあった「倭国まで帯方郡から万二千里」っていう数字を見て、「ああ数字が合ってるな」と思っただけで、計算なんてしてないと思うが
3489
まともに読む→トカラ列島→九州に近い→九州でええんちゃう(適当)
どうせこんなもんだろ
※3497
どんだけアホやねん
陳寿の目的は歴史を記すことであって一番の目的は会稽と倭国を結びつけることではない
だから陳寿が距離を捏造すればよかったとか言ってるのは無知極まりない
陳寿は誤って女王国を会稽の東として計算してしまった
だからその誤った計算式と計算結果を求めているだけ
君はアホだから九州説と結びつけてるんだ!と脊髄反射で反応してるけど、主眼はそんなところではないんだよね
君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
※3503
>陳寿の目的は歴史を記すことであって一番の目的は会稽と倭国を結びつけることではない
は?お前が言い出したんだろ↓
>その会稽というのは陳寿にとって以下の理由で都合がよかったため
>陳寿は誤って女王国を会稽の東として計算してしまった
んん?どういうこと?
何をどう計算すべきところをどう誤ったの?
>3503
>一番の目的は会稽と倭国を結びつけることではない
一番ではないかもしれんが、倭国の文身の習俗と、夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害を結びつけることで、倭人が太伯の子孫だっていうのが言いたいんでしょ 魏略の原文では
魏志倭人伝では太伯のくだりは落ちてるけど
>3503
>君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
これ本気で言ってるんだったら、頭の中身を疑うよ
こっちが言ってるのは、魏志倭人伝に会稽の東に倭国があると書いてあるが、そんなところを探してもムダってこと そんなところに倭国が実際にはないの、は今も昔も変わらない事実
なのに、会稽の東とした計算が「これこれこういう風」に間違ってたと「考えれば」九州のことを言っていたに違いない、っていう論理が端から根本的におかしい、と言っているだけ
※3504
>その会稽というのは陳寿にとって以下の理由で都合がよかったため
うんこれは一番の目的ではないね
何でこれが一番の目的だと思ったのか、読解力が不足しているよ
>んん?どういうこと?
>何をどう計算すべきところをどう誤ったの?
実際の距離では会稽の東に女王国がないのはわかるな?
つまり何らかの誤った計算式と計算結果により陳寿は会稽の東に女王国を置いたということ
※3507
不足してるのはお前の倫理観(後付けで言い逃れ)か文章力だろう
何らかって何だよ
ガイジ理論以外出てこないんなら、ごめんなさいして2度と出てこないように
※3507
別に誰も一番の目的だと思ったとは言ってないぞ
※3505
>一番ではないかもしれんが、倭国の文身の習俗と、夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害を結び>つけることで、倭人が太伯の子孫だっていうのが言いたいんでしょ 魏略の原文では
だから以下により
「夏后少康之子封於會稽 斷髪文身 以避蛟龍之害 今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差 計其道里 當在會稽東治之東」
かつての会稽国(東治之山、すなわち会稽、現在の紹興市)に繋げて計算してるんでしょ
一寸千里の計算式を当てはめた場合に
ただ単に誤って計算したのか、誤ってるのは承知の上で会稽の東で都合がよかったからそう書いたのかはわからないけどね
※3506
>これ本気で言ってるんだったら、頭の中身を疑うよ
まあまあ、勝手に話に入ってきたらややこしくなるからここでは引っ込んどいてね
※3497を発言した通称ぐぬぬ君は※3241を見たらわかるように本気でそう言ってるんだから
彼の頭の中身を疑うのはわからないでもないが、君は関係ないんだから放っておいてやれ
>こっちが言ってるのは、魏志倭人伝に会稽の東に倭国があると書いてあるが、そんなところを探しても>ムダってこと そんなところに倭国が実際にはないの、は今も昔も変わらない事実
そんなこと知ってる
>なのに、会稽の東とした計算が「これこれこういう風」に間違ってたと「考えれば」九州のことを言っていたに違いない、っていう論理が端から根本的におかしい、と言っているだけ
読解力皆無
というか※3503で思いっきり以下のように発言している
これは何度も言っている
>陳寿は誤って女王国を会稽の東として計算してしまった
>だからその誤った計算式と計算結果を求めているだけ
>君はアホだから九州説と結びつけてるんだ!と脊髄反射で反応してるけど、主眼はそんなところではないんだよね
君らが勝手に九州説に結び付けて考えてるだけで実際のところは主眼はそんなところではない
君らがいかに畿内説ありきで考えているかわかるよな
九州とか畿内とかどうでもよくて、陳寿がなぜそういう結果を出したのかを求めていると言っているのに、勝手に九州説と結びつてきて発狂する
笑うしかないね
陳寿ガイジ説ゴリ押ししすぎてもう滅茶苦茶やん
※3508
君はレベルが低いんだから強がるなよ
上で何度も一寸千里の計算結果を教えてやったよな
ちなみにこの計算結果を出したのは畿内説の人なんだけどな
畿内説の中でも一番レベルが低い君が盛大な自爆というか、頭のわるい反論でわめき散らしてるのは笑うを通り越して悲しくなるが
※3506という畿内説仲間?から
「これ本気で言ってるんだったら、頭の中身を疑うよ」
と言われてるぐらい、君は読解力が足りず、頭の悪い発言を続けているんだ
ガイジ認定が好きなようだが、お仲間からもガイジ認定されているのは残念ながら君のようだ
※3509
・距離を報告どおりに正しく記す
・会稽之東に距離を増やして無理やり持ってくる
この相反する二者択一をどっちを優先するかを考えた場合
どちらが優先(一番)かってことだよ
君は思わないとか言ってるけど、結果的にそういう風に発言しているの
※3501
>あのさあ、いまさらで悪いんだけど、ひょっとして陳寿の「計算」が正しいって言い張ってる人は
正しいなんて思ってないぞ?
陳寿の誤った計算結果をどうやって、導き出したらそうなったのかを求めているんだよ
>「計」其道里當在會稽東治之東
>この「計」の字を「計算」したって、言い張ってるの?
>これって、その道里を計るに、だよね?
>計測だって、計る、なのにどうして「計算」って言い張るんだろう?
>それと魏略にあった「倭国まで帯方郡から万二千里」っていう数字を見て、「ああ数字が合ってるな」と思っただけで、計算なんてしてないと思うが
あのね、数字を比較するだけでも計ってるんだよ
5+7と12は等しいのかを比べるだけでも計なんだよ
「ああ数字が合ってるな」とすることがつまり計算
簡単に暗算でできるレベルなら計算じゃないと思うのは間違い
※3512
一寸千里の計算自体は別にどっちでもいいんだよ。
東に何里いったのかわからない ← せやな
だから、一律南とした ← !?wwWwwWWWw!!ww!??!W???!wWwWWWw
このガイジ理論はやめてくれと言ってるだけ。
??
※3506さんがレスしてるのは※3503だろ。
おれ※3503じゃないぞ。ていうかお前だろw
>距離を報告どおりに正しく記す
陳寿ガイジ理論で無理やり一律南に捻じ曲げたことにしたのはお前だろ
陳寿ガイジ説を唱える現役の学者ってどれくらいいる?
>3513
>あのね、数字を比較するだけでも計ってるんだよ
へーえ、一寸千里の法で陳寿が正しく短里で計算した数値がばっちり九州を指すから、九州って言ってたんじゃないんだ
具体的には計算せずに、会稽までの、世間に流布していた(であろう)距離(を陳寿は知っていたに決まっているから)と、魏略(またはその元ネタ)に書いてあった帯方郡から倭国まで萬二千余里が、一致していたことに気づいた、だけでいいんだ
萬二千余里の方は陳寿以前から魏略にある数字だから、陳寿が計算した数字ではないし、それが正しいかどうかを陳寿が検討もしていないってことでいいんだね
今までに言ってたことと全然違うからびっくりしたよ
陳寿は編者であって、以前の文献をまとめるにあたって基本的に原文の記述を変更せずに従ったようだとする研究も出ているそうだから、その線で正しいんじゃないかな
つまり陳寿は萬二千余里が正しいかどうかには全く責任がないってことだけど、これが正解だとおもうよ!!
>3516
もしかして、今まで歴史書の編纂の仕方も知らないで騒いでたの?
それなら納得
※3516
魏略と三国志の成り立ち知らんのやろ?
距離の後には国名が来てるのに水行陸行の間に国がない
これは間の国が抜け落ちたか、水行又は陸行で着くとも読めるとの説もある
※3514
そこまで読解力ないのかよ
恐ろしいな
※3503の俺がお前へ言った下記の発言に対して
>君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
自分が言われてると勘違いしたのか
畿内が会稽の東に来ると本気でできると考えてるということに対して、頭の中身を疑ってるわけだ
残念ながら畿内が会稽の東に来ると考えてるのは君なんだよ…
3520
畿内説の否定は許されない
どのような解釈をしようが畿内説になる
それ滑ってるぞ
魏志倭人伝が書かれた時代、西暦300年頃の邪馬台国は纏向にあったと考えるの妥当、纏向の出土品や大神殿遺構を見ると魏の時代に相当する倭国の中心は畿内に存在したことは確かです。
魏の次の時代である東晋時代に魏志倭人伝を現した陳寿は漢時代に起きた倭国騒乱を収拾した天照神話(卑弥呼)、「倭国では話し合いのにより王を決め、しかもそれが女性」と言う中国人には信じがたい話と纏向の王が日御子(ヒミコ)を名乗っていることを混同し事、又、秦の時代から伝わる東海にある神仙の国伝説にも影響され、天照(ヒミコ)を仙人の様な人間として捉え、魏の時代にも生きていたと信じ、「年長大にして夫勢なしと表現」、纏向の王である日御子を卑弥呼(天照)と思い込んだと見るべきです。
漢時代の倭国騒乱は北九州で起きた事件で、その時の倭国の中心は北九州と畿内に存在しましたが、その後、古事記に記載されている通り、神武時代に東遷し、機内に倭国の中心が移動した。
陳寿は官符に在った倭国に関する書物を引用するにあたり(倭国の中心が九州から近畿に移動した事実を知らなかったか、あるいは無視し)、方角と距離は九州を採用し、日程は当時の畿内の日程を取り入れたことが九州説・畿内説混乱の原因と考える。
※3520
>※3503の俺がお前へ言った下記の発言に対して
>>君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
>自分が言われてると勘違いしたのか
>畿内が会稽の東に来ると本気でできると考えてるということに対して、頭の中身を疑ってるわけだ
>残念ながら畿内が会稽の東に来ると考えてるのは君なんだよ…
ごめん何が言いたいのか全然わからん
※3520
結局何が言いたいの?
主張が分からない
陳寿ガイジ説が封じられたから窒息死寸前なんだよ察してやれ
味方から不意打ちくるとはさすがにぐぬぬ君可哀相になってきたな
※3516
>へーえ、一寸千里の法で陳寿が正しく短里で計算した数値がばっちり九州を指すから、九州って言ってたんじゃないんだ
は?九州どうやって指すねん
一寸千里で計算したら万二千里が会稽の東を指すんやろ
九州説憎しで読解力がなくなってるようだ
>萬二千余里の方は陳寿以前から魏略にある数字だから、陳寿が計算した数字ではないし、それが正しいかどうかを陳寿が検討もしていないってことでいいんだね
ちょっと意味分からないんだけど
歴史家って距離を全部確かめる義務あるの?
どうやって確かめるの?
証明するなんて自分で測量するしかないと思うけど物理的に無理でしょ
>今までに言ってたことと全然違うからびっくりしたよ
多分君が九州説憎しで勝手に妄想してただけだと思うよ
ごめんだけど下の方の文章は言いたいことがあまりわからない
3527
畿内から逆算しているだけだから無理出るよな…。
3529
九州から逆算して陳寿ガイジ説をぶち上げてスベったのはお前だろ
3530
早く畿内に辿り着く計算法を公開して下さいよ
焦らすのうまいですね〜
3531
陳寿ガイジ説を振りかざすキチガイと
まともに話をする気にはなれないんだわスマンな
>3528
>ちょっと意味分からないんだけど
>歴史家って距離を全部確かめる義務あるの?
>どうやって確かめるの?
>証明するなんて自分で測量するしかないと思うけど物理的に無理でしょ
いや、陳寿が「計算」して確かめたって主張してたんじゃないの?
その「計算」の仕方を考えるのが大事だって、さんざん他人を攻撃しながら主張してたんだと思ってたんだけど?
その「計算」の根拠が一寸千里の法だって言ってるんだとばかり思ってたんだが?
じゃあ陳寿は距離を確かめる義務もないし、計算もしてないってことだね? 了解!!
3532
つまり原文をそのまま読めば九州ですよね
3534
いや海の底だろ
周の地において、夏至の日の南中時に地面に垂直に立てた8尺の長さの棒の影の長さは1尺6寸である。これに対し、ここから南に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺5寸。周から北に千里行ったところで同様の計測を行えば棒の影の長さは1尺7寸であった。よって、8尺の棒に対する影の長さの差1寸は、地上の距離にして千里にあたる。これが「一寸千里の法」である。また、夏至の日には1尺6寸であった棒の影は冬至の日には13尺5寸である。よって、夏至の日には太陽は周の地から南1万6千里の彼方の真上にあり、冬至の日には南へ13万5千里の地の真上にある。夏至以後、棒の影はだんだんと長くなって行き、南中時にちょうど6尺になる日がある。このとき、長さが8尺で穴の直径が1寸の竹筒で太陽を見れば穴と太陽の大きさが一致する。このことから、太陽の真下までの距離は6万里、太陽の高さは8万里、観測者から斜めに10万里の彼方に太陽はある。(3:4:5 の直角三角形に関するピタゴラスの定理が使用されている)太陽の直径は、10万里に1/80を乗ずることにより1250里と求められる。
当時の周の版図から、すべて北回帰線よりも北の場所での計測なので
周の地で棒が影を作る角度
tan-1 16/80=0.1974(rad)=11.3°
南へ千里の地で棒が影を作る角度
tan-1 15/80=0.1853(rad)=10.6°
北へ千里の地で棒が影を作る角度
tan-1 17/80=0.2094(rad)=12.0°
北回帰線は北緯 23~24°であるので、この計算からは周の地は北緯35°あたりにあることになる。古代の地図から、ちょうどこのあたりに周はあったことが確認できる。
ここで、地球の半径を 6,370㎞として、周の地から南へ千里行ったところまでの距離を求めてみる。
6,370×(0.1974-0.1853)=77.1 千里=77.1Km
次に周の地から北へ千里行ったところまでの距離を求めてみる。
6,370×(0.2094-0.1974)=76.4 千里=76.4Km
中学レベルである。
中国の都は一辺千里の角形に作られていた。しかし時代がくだるとともに、都を大きくする必要が出てきた。そして実際大きい都を作ってしまった。さてどうしたか。里の長さを長くして、一辺千里の原則を守った。
このことが時代とともに里の長さが変わる理由である。
※3533
>いや、陳寿が「計算」して確かめたって主張してたんじゃないの?
>その「計算」の仕方を考えるのが大事だって、さんざん他人を攻撃しながら主張してたんだと思ってたんだけど?
計算して確かめったっていうのはよくわからん
女王国まで萬二千里が本当に萬二千里かどうかを確かめたなんてことは一言も言ってない
群から萬二千里が正に会稽の東に来るという計算結果を陳寿が出したとは言ったが
他人を攻撃って言うけど、君も彼を馬鹿にしたように
会稽の東にちょうど畿内がおさまる計算結果になるんだと言っていた君も頭を疑っているという彼が、
ちょっかいかけてきたから、優しく教えてあげてただけだよ
>その「計算」の根拠が一寸千里の法だって言ってるんだとばかり思ってたんだが?
そうだよ
>じゃあ陳寿は距離を確かめる義務もないし、計算もしてないってことだね? 了解!!
ちょっと君もぶっとびだしたね
途中で誰かとまざったのか変な思い込みをしているようだ
実際の距離なんか確かめられないし、それを確かめるとかしないとかの話は一回もしたことはない
女王国までの道里が会稽の東に来るという結果を導き出した計算はした
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※3538
>女王国までの道里が会稽の東に来るという結果を導き出した計算はした
女王国=九州なんだろ?
九州が会稽の東に来るという結果を導き出した計算はしたってことだよね
>一寸千里の法で陳寿が正しく短里で計算した数値がばっちり九州を指す
ってことじゃないか。
追い込まれるたびに都合のいいガイジ理論を唱えて、
それが別の追い込まれる原因を作ってんだよw
ぶっ飛んでるのはお前だぞガイジ。
まあこういうクズじゃないと九州説なんかなれないってことだよな。
だから匿名のネットでオラついてるが、
リアルな学者の世界では恥ずかしくて誰にも支持されないのが九州説。
ガイジくん、畿内説の人に「東南→南」の無理矢理ガイジ理論を白日の下に晒されて追い込まれる
↓
他の畿内説の人の言葉尻を利用して、追い込んできた畿内説の人を馬鹿にしたことにする無理矢理ガイジ理論2号を唱える
↓
その理論では自分も馬鹿にされる対象になるブーメラン直撃
↓
必死で自分は違うんだという言い訳中 (イマココ)
ガイジくん「陳寿がガイジになったのは会稽と倭国を結びつけるのに都合が良かった(キリッ」
↓矛盾を指摘される
ガイジくん「む、結びつけるのは一番の目的じゃないから…」
↓改めてガイジになった理由を聞かれる
ガイジくん「ぐぬぬ」
その場しのぎで数手先を考えて喋ってないからすぐ追い込まれる
>3538
>群から萬二千里が正に会稽の東に来るという計算結果を陳寿が出したとは言ったが
この部分については、
「計算するためには郡で影の長さを測ってみないとダメ」だけど、その記録はないって自分で認めてるよね?
そして、計算してないだろう、と指摘されたら、既知の数値を比較するだけでも「計る」であり「計算」だって言い張ってたよね?
で較べるだけだったら、陳寿は確認してないよね?って訊いたら、編者がいちいち距離を確認する必要はないだろうって、逆ギレしてたよね?
そもそも短里があるに違いないって言いたいだけなんじゃなかったの?
当時、日本人(倭人)は距離を測る単位を持たず、歩いて何日といった表現しかできなかった。その伝聞をもとに、総距離を割り出し、史書に記載したとどこかで聞いたことがあるんですけど、そのような状態で正確な距離は測れないのでは?
いずれにせよ著者が直接行ったわけではなく、伝聞をもとに書いているというのも留意すべきかと。
奴国と往復した使節の報告書が保存されていたことは確実
魏略も倭人伝も奴国までの距離は正しい
卑弥呼と台与時代の使節の報告書も伊都国までは実際に行ったと見るべき
そうじゃないと遺跡が見つからないし、確定できない
その後の日数部分は使節が直接行ってないか距離を測れる役人が同行していなかったかどちらか
報告書に使節が旅した日付しか載ってなくてそこから記したか倭人の台詞が載っていたと見るべき
一万二千里は後で報告書を繋ぎ合わせて計算して編纂したか当時そのように認識されていたかのどちらか
魏略も倭人伝も報告書の距離と風習からこの辺りだろうと記したか先祖が長江下流域だった邪馬台国の倭人が「ここは会稽の東だよ」と使節に教えたかのどちらか
何れにせよ魏略も倭人伝も報告書に記載された事項を確認して納得して編纂しているし、当時の人々も事実として認識していたことは明らか
※3538~3540
>女王国=九州なんだろ?
>九州が会稽の東に来るという結果を導き出した計算はしたってことだよね
え?ここまで何度も言って本当にわかっていなかったの?
萬二千里南が会稽の東に来るという計算だと何度も言ったぞ
そこは九州じゃない
女王国=九州は間違いないが
>>一寸千里の法で陳寿が正しく短里で計算した数値がばっちり九州を指す
>ってことじゃないか。
一寸千里の法で計算した数値は東西を測れないから九州にはこないぞ?
九州南海という表現なら九州かもしれないが
ここまで議論しておいて、本当に理解できてないんだな
学習障害はかわいそうだけど、まあがんばれよ
>リアルな学者の世界では恥ずかしくて誰にも支持されないのが九州説。
ソースはよ
ちなみに
>ガイジくん、畿内説の人に「東南→南」の無理矢理ガイジ理論を白日の下に晒されて追い込まれ
君がガイジ理論といってるのはね
実は畿内説の人がうちたてた理論なんだよね~
ttp://www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/yamataikoku2.html
まあ、謝っときなよ
というか君は理解できてないようだけど、お仲間からも頭おかしいと思われてるんだから仕方ないね
もう一人の畿内説君がだんまり決めてることが証拠なのにわかってすらいない
それと最後にもう一つ
君が頭おかしいと思われている理由である
畿内なら会稽の東にちょうどくるという証拠を早く出してよねー
流石に仲間から頭おかしいと言われたら出しにくいかな?
※3543
>「計算するためには郡で影の長さを測ってみないとダメ」だけど、その記録はないって自分で認めてるよね?
うん、後から陳寿がどうやって計算したのかを知るためだからな
その条件にすべて合致したのがかつて俺が紹介した計算ね
後漢の「霊憲」などでは一寸千里を認めていたりするからね
>そして、計算してないだろう、と指摘されたら、既知の数値を比較するだけでも「計る」であり「計算」だって言い張ってたよね?
それは言葉の定義の問題だろう
計算したのかもしれないし、群⇔会稽の距離を陳寿自体が計算したのではなくとも、比較計算したのなら計という意味であるということを言ったんだけど
既知の数字の比較なら計じゃないのか?
なら計の定義を教えてくれ、どこからどこが計なのか
そして勝手に思に漢字を変えていい理由も教えてね
>で較べるだけだったら、陳寿は確認してないよね?って訊いたら、編者がいちいち距離を確認する必要はないだろうって、逆ギレしてたよね?
じゃあ計と書いたら、その計算の根拠たる数字を著者自ら測量した結果を出せよと
地図上の距離の比較なんて現代でもするが、その計算をするには自分で測量からしないといけないという謎理論
論旨に反論できないから、わけのわからん言いがかりをつける
>そもそも短里があるに違いないって言いたいだけなんじゃなかったの?
短里があるなんてのは数多の史書を見渡せば簡単に証明されることであって
問題はそれが使われているかどうかだけ
だいたい陳寿は萬二千里を会稽の東に持ってきてる時点でどう考えても434mで計算してはないわけだ
この点どう考えるのかな?
郡で影の長さを測る必要ある?
算術書があるんだからそれ使えばいいし、そこから求められるでしょ
陳寿ガイジ説を唱える現役の学者ってどれくらいいるの?
陳寿ガイジ説を唱える現役の学者ってどれくらいいるの?
人にさんざん字の書き換えをするなと言いながら、「群」と書き続けている人がいますねえ
>「計算したのかもしれないし」、群⇔会稽の距離を陳寿自体が計算したのではなくとも
さんざん計算した方法を考えないと、と言ってたのに、「したのかもしれない」程度なら、考える必要ないだろってこと
それで出てくる場所は、九州ですらないのに、それを九州説の根拠にしてるのがもうね
3550
畿内に辿り着かないからって魏志倭人伝自体を貶めなくても大丈夫ですよ
邪馬台国じゃなくて邪馬壹国(やまいちこく)なんだけどな
だからヤマトは関係ない
※3546
>萬二千里南が会稽の東に来るという計算だと何度も言ったぞ
お前「どれだけ東に行ったかわからないから萬二千里南とした」←おまえ「東や南に萬二千里の女王国のこと」←おまえ「女王国は九州」
つまり
おまえ「九州は会稽の東に来る」
ってことだろ
その場しのぎですぐ追い込まれることを言うなってwアホかおまえは
>一寸千里の法で計算した数値は東西を測れないから九州にはこないぞ
それは実際の話
陳寿の中ではそういう計算だったというのがおまえの主張
その場しのぎですぐ嘘をつく、そして本当にそう思い込んでてあんまり罪悪感がないってのは、小保方と同じ。詳しい人によると、あいつは人格障害なんだってさ。おまえもそうだと思う。害悪だから世間に出てこないでねw
他の畿内説の人の力を借りないと俺に勝てないと踏んだのかなw
もっと上の方の発掘物とか議論の時からずっとそうだが、俺は俺の思う通りのことを言うだけで他の畿内説の人と細部で意見が違っててもそれはそれとして別に気にはしないからノーダメージだよ?残念でしたw
>3552
>邪馬台国じゃなくて邪馬壹国(やまいちこく)なんだけどな
いまさらそれかい
じゃあ、狗邪韓国の次がもう対馬国じゃなくて對海國(つうみこく?)なんだから
魏志倭人伝に書いてあることは倭国(日本)とは関係ないね
基本、魏志倭人伝のコピペの後の史書がみんな邪馬壹臺國なんだから、現存最古とはいえ「写本」の一文字を後生大事にする方がおかしいって早く気づけるといいね
>3548
>郡で影の長さを測る必要ある?
>算術書があるんだからそれ使えばいいし、そこから求められるでしょ
算術書には計算に使う公式が書いてある「だけ」だと思いな
その公式に当てはめる「具体的な数値」がなければ、「帯方郡からの距離」は計算できないだろ?
一寸千里の人はそれで「計算した」って言い張ってるんだから、「帯方郡の影の長さ」が何寸か計らない限りは計算できないんだよ
そして「帯方郡」で「夏至の南中時」に「影の長さ」を測った「記録はない」んだってさ
そして、一寸千里の法と繰り返しながら、「寸」は魏晋里に沿った度量衡の寸で、「里」は短里(周里?)らしいよ
この時点で頭おかしい気づいた方がいいと思うんだけどねえ
>3554の訂正
× 基本、魏志倭人伝のコピペの後の史書がみんな邪馬壹臺國なんだから
○ 基本、魏志倭人伝のコピペの後の史書がみんな邪馬臺國なんだから
※3550
>人にさんざん字の書き換えをするなと言いながら、「群」と書き続けている人がいますねえ
漢字のミスぐらい揚げ足とらないとやっていけないのか
論旨に反論してほしいものだ
>さんざん計算した方法を考えないと、と言ってたのに、「したのかもしれない」程度なら、考える必要ないだろってこと
この感覚もよくわからん
いずれにせよ陳寿が何らかの計算を行って特定したのは文中から明らかであって
どのような計算をしたかは証明のしようがないことだけど、計算式と結果を求めることはできる
答は会稽東治の東が女王国までの道里と合致すること
それに証明できないならやらないっていうのなら君はもう何もしなくてもいいのでは?
歴史なんか考古学的裏付けがなければ、文献解釈でこうかもしれないああかもしれないってのが現状であり、定説と言われようが考古学的事実が出てきたら簡単に覆る可能性がある
つまり考古学的証明ができていない限りは「かもしれない」の域を出ない
君は畿内説が正しいことを証明できる?できないでしょ
だから「したのかもしれない」なら考える必要がないと思うのなら、もう君は何も考えなくてもいいんだよ
>それで出てくる場所は、九州ですらないのに、それを九州説の根拠にしてるのがもうね
いつ九州説の根拠にしたの?
会稽の東が畿内にちょうどあうとか言っていた君も認める頭のおかしい奴の畿内説の否定には使ったが
Q魏志倭人伝で使われている里とは?
A短里
周の時代の計算による長さと対馬と壱岐の間の表記がほぼ一致する
Q会稽の東、郡から一万二千里とは?
A計算上の女王国の位置
帯方郡からの旅程を足した距離が一万二千里、その地点と会稽の東を結んだ辺りが計算上の女王国の位置
Q筆者は直接邪馬台国に行った人?
A違う
使節の報告書や交易商人、朝鮮半島人や倭国の使者の話をもとにまとめ、編纂し皇帝に献上したものが三国志
※3555
北回帰線より北ならどこでもほぼ変わらん
帯方郡で影の長さを測っても女王国までの距離は出ない
周髀算経は公式が載っている算術書ではないぞ?
>3555
周髀算経は、古代中国の数学書。九章算術とともに中国最古の数学書の1つとされている。本来は単に『周髀』と称されており、蓋天説(周髀説)を説明するために編纂された天文学のテキスト。数学以上に中国の暦学・天文学の発展に対して貢献するところが大きかった。
冒頭に周の周公旦と、高官の商高の会話が掲げられて数学と暦の重要性が説かれ、続いて数学・暦学・天文学に必要な知識が述べられている。多くは天文のために必要な計算を扱っている。
※3557
>いつ九州説の根拠にしたの?
※3377より
>>畿内でも足りないなら、九州は問題外だぞ
>お前のわけのわからん計算方法ではな
>一寸千里の法を使えばドンピシャで合うんだから
はい
>3557
>文中から明らかであって
これを明らかだと言っているのは3557だけ!
そして「計」は「計るに」と読むんだ、と指摘されたら、較べるだけでも計るだと強弁し、だったら計算してないんじゃね、と言われると、さっきのはただの言葉の定義だと、逃げる
そして3547で「だいたい陳寿は萬二千里を会稽の東に持ってきてる時点でどう考えても434mで計算してはないわけだ」と思いっきり都合のいいことをかましているが、短里だったら済州島のあたりまでしか行かないんだろ?(3303「多分済州島のちょっと南ぐらいかな?」)
つまり「だいたい陳寿は萬二千里を会稽の東に持ってきてる時点でどう考えても短里で計算してはないわけだ」
自己矛盾のない書き込みができない時点で、論評に値しないわな
普通の里数だと万二千里が5000kmくらいで、太平洋の真ん中くらいになる。→ありえない
周時代の里数だと万二千里が1000km未満、福岡から残り100kmくらいだと山口大分熊本までが候補。福岡より大きい都市が二つ続く記述から、西日本最大級の筑紫(+八代)平野しかない。
※3563
テンプレ1
>3564
?
壱岐水道通って唐津に上陸し、東南陸行で松浦川や松浦潟で素潜り倭人を見て、玉島川にそって糸島近くまで前も見えないような道を行ったなら、方角も距離もおかしくないとおも。
唐津って、大陸との交流やってた故の地名じゃないの。
※3565
糸島や福岡までは問題ないと思うよ。
問題はその先
※3566
つまり九州北部ですね
※3561
萬二千里が会稽東治之東にドンピシャに合うということだよ
君は畿内にちょうど来ると言ってるみたいだけど、はやく計算まだかな~?
※3562
>そして「計」は「計るに」と読むんだ、と指摘されたら、較べるだけでも計るだと強弁し、だったら計算してないんじゃね、と言われると、さっきのはただの言葉の定義だと、逃げる
は?計は計るにで計算することを指す
そして、距離を比べるだけでも計算なんだから影の長さから距離を求めて計ろうと
過去誰かが計った郡~会稽の距離から郡~女王国まで萬二千里を比較して計ろうとどっちも計で足りる
これは計の定義であって、君は何か勘違いしているね
こちらは陳寿が一寸千里で計ったと言ってるんだ
そして影の長さを陳寿が計った可能性がどうと言われたから、影の長さを他人が計っていたとしても、陳寿が会稽と女王国の比較計算をしただけでも計で成り立つと言っている
君からつっかかってきたのに何をちんぷんかんぷん言ってるのかわからん
>そして3547で「だいたい陳寿は萬二千里を会稽の東に持ってきてる時点でどう考えても434mで計算してはないわけだ」と思いっきり都合のいいことをかましているが、短里だったら済州島のあたりまでしか行かないんだろ?(3303「多分済州島のちょっと南ぐらいかな?」)
>つまり「だいたい陳寿は萬二千里を会稽の東に持ってきてる時点でどう考えても短里で計算してはないわけだ」
>自己矛盾のない書き込みができない時点で、論評に値しないわな
それは六千里で計算した場合な、萬二千里なら会稽東治之東にドンピシャで合う
文の前後を読もうぜ、そのこと
女王国の定義でも完全に敗北したからと言って、わけのわからん解釈論に巻き込もうとするのはやめよう
※3562
追加でもう一つ教えてほしい
>>文中から明らかであって
>これを明らかだと言っているのは3557だけ!
なら「計」はどういう意味なのか?
まさか「思」に変換してもかまわないという謎理論をまた振りかざすの?
※3568
>萬二千里が会稽東治之東にドンピシャに合うということだよ
おれ「九州は問題外」
お前「ドンピシャだ!」
九州のこと言ってるだろどう見てもw
そういうさあ最低限のモラルも無い奴とまともな議論になるわけないから嫌なんだよ
※3567
テンプレ1
※3570
ここまでの書き込みを何1つ理解していないのが逆にすごい
女王国の定義で勝ったと思ってるの君だけだよ
ていうか何を言っても「オレは認めない」って言い張っただけじゃないか
女王国=倭王の国であり、それは倭国(倭人の住む範囲)の中で卑弥呼の共立に参加あるいは認めた国全部だよ
>3570、3571
畿内へ至る計算はまだですか?
3573
どうなったらそうなるの?
それが邪馬台国が纒向遺跡との主張とどう繋がるの?
何の意味があるの?
原文をどう読み取ったの?
※3572
反論できないんだね
お前のめちゃくちゃな説明を理解できる方がすごいわ
※3573
陳寿ガイジ説は笑わせて貰ったよ
※3574
ガイジくんがごめんなさいして病院行ってくれればすぐにでも
3578
やはりテンプレ君と会稽の東は畿内説君は同一人物だったか
もし私が邪馬台国人で中国の使者を本国に連れてくるとしたら・・
強大で、周辺国を次々支配していく中国に、敬意を感じつつも、自国も侵略されるのではないかと警戒し、信用はしていない。
邪馬台国の場所がわからないように、わざと大きく遠回りしたりするなどして方角や距離がわからないようにすると思う。
水行・・・とかの記述はこだわらない方が良いと思う。重要なのは習俗などの邪馬台国についてからの記述。
邪馬台国の場所を中国人が知らないってことは、
邪馬台国の習俗も知らないってことじゃないの?
つまり記述できたのは伊都国あたりの習俗。
※3570
郡より南萬二千里が九州だと思ってるなら
九州でいいんちゃうの?
ところで早く畿内への計算方法だせよと
※3573
>女王国の定義で勝ったと思ってるの君だけだよ
>ていうか何を言っても「オレは認めない」って言い張っただけじゃないか
>女王国=倭王の国であり、それは倭国(倭人の住む範囲)の中で卑弥呼の共立に参加あるいは認めた国全部だよ
・女王国=倭国と読んで問題ない箇所
・女王国=邪馬台国と読んで矛盾がある箇所
・女王国=共立国ないし倭国だと説明している箇所
をすべて書いてくれって
・後漢書では女王国=邪馬台国になっていること
・卑弥呼を共立した三十国を示す言葉は全て倭国であるということ
・卑弥呼は倭国王、倭王、倭女王であり、国名は倭であること
も踏まえてな
文中で女王国=倭国と読むとほぼすべての箇所で矛盾が生じるんだから
矛盾が生じても無理やりそう読まなければならないという根拠はなに?
仮に矛盾が生じていいのなら伊都国=女王国と読んでも問題ないんだろ?
ただ今をもって、俺は女王国=伊都国説を唱えるから否定してみせてね
>3581
???
何という読解力のなさ
貴方がこれまで受けてきた教育に絶望するとともにこれからの日本が心配になりました
貴方にご理解いただけるかどうかわかりませんが、邪馬台国に着くことと途中の旅程がわかることは別です
例えば貴方が住んでいるところを大阪だとします
貴方は東京に出張に行きました
格安チケットなので、一度新千歳空港に寄ってから羽田に着きました
貴方は東京に行きましたが、北海道しか知らないと主張しているわけです
出張報告書に北海道の夜の遊びだけ書きますか?
貴方なら書きそうですね
東京までの詳しい旅程は分からなくとも東京の様子ぐらい書けるでしょう
ずっと目隠しでもされていたのですか?
※3582
>九州でいいんちゃうの?
ガイジくん、畿内説の人に「東南→南」の無理矢理ガイジ理論を白日の下に晒されて追い込まれる
↓
他の畿内説の人の言葉尻を利用して、追い込んできた畿内説の人を馬鹿にしたことにする無理矢理ガイジ理論2号を唱える
↓
その理論では自分も馬鹿にされる対象になるブーメラン直撃
↓
必死で自分は違うんだという言い訳中
↓
違わないという証拠となる過去の自分の発言を掘り返されて、ぐうの音も出なくなる(イマココ)
ってことでいいんだね。
あー人格障害者と喋ると疲れるわw
こんなわかりきったことですらグダグダ無駄に粘って認めないんだからな。
お前はさっさと病院行け。2度と出てくるな。そうしないと議論する気になれん。
※3583
>貴方は東京に出張に行きました
>格安チケットなので、一度新千歳空港に寄ってから羽田に着きました
どうでもいいけど、この設定がもうすでに頭おかしいw
こんな頭の悪い奴がいる日本の教育が心配になるわ。
んで、3581は3580を受けて書いたのよ。
その3580には
>邪馬台国の場所がわからないように、わざと大きく遠回りしたりするなどして方角や距離がわからないようにすると思う。
って書いてるだろ?まさに君のいう「目隠しでもされていたのですか?」的な状況だったんじゃないかという仮定のもとに話が進んでるんだよ。残念だったね。
>3584
つまり畿内はあり得ないということですね
※3585
船の中が目隠し状態でもいいけど、都についても目隠しされてたの?
船の中で目隠しされて手を引かれながら謁見?
トイレも食事も目隠し?
卑弥呼も声だけだから高齢と判断?
目隠ししてたから出汁がないとしか記述できなくて、建物広いから何となく宮殿があって、甲冑の音から武装を判断したのかな
呉は琉球や奄美に人狩りに出かけて島が見つからなかった記録が残っている
台湾ではきちんと人狩りしている
当時倭人の住む場所は正確に知られてなかったのではないだろうか
会稽の東だと思って船団を派遣したら何もなくて引き返したのだろう
むしろ、着くまでは目隠しで着いてからは自由だったっていう仮定は、九州に持ってこようという魂胆から逆算したただの都合のいい仮定なんじゃないの。
3584
お仲間の畿内説の人達からも信用されてなくて可哀想
※3590
俺はもっと上の議論の時からそんなの気にせずに喋ってるからどうでもいいぞ
そんなことよりブーメラン直撃御愁傷様
※3591
気にしすぎ…
※3584
要するに陳寿の記述は当時のデータに基けば正しかったということですね
>3580
>重要なのは習俗などの邪馬台国についてからの記述
倭人伝であって邪馬台国伝じゃないから、習俗は邪馬台国の習俗って訳じゃないぞ
魏志倭人伝私注っていう個人サイトが論点をきれいにまとめてくれているから、見てきたら?
伊都国には邪馬台国が一大率を置いて檢察する対象だから、邪馬台国ではない
奴国もそこから先の邪馬台国への旅程が記されているから、邪馬台国ではない
北部九州には、弥生末期に王墓級弥生墳丘墓を作れた勢力が伊都国と奴国しかなく、その2国の「王墓級」も副葬品が一般人と違うから王墓級とされているもので、墳丘サイズは小さく、出雲の西谷墳墓群や吉備のの楯築墳丘墓、大和の纒向型前方後円墳とは較べられるべくもなく、「大作冢 徑百餘歩」の主体となり得る勢力が「見当たらない」
3594
中国側では倭人はどこでもほぼ一緒の風習と認識していたようですね
国ごとに違うのは刺青の模様と採れる海産物ぐらいでしょうか
畿内では刺青は廃れていたので、中国での倭人の認識範囲は九州とその周りですね
出雲と吉備と畿内が魏志倭人伝に出てこないのも当然ですね
>3596
だから、記録が古くていい加減なんだよ
後漢書の方が成立が遅いけど後漢の時に2回倭国から朝貢に来てて、それは北部九州の王で異論はない
そして邪馬台国も倭国王としての遣使だから、後漢のときの記録と一緒くたで、結果、習俗としては九州的な要素が多いってだけだろ
そもそも行程記事をそのまま読んだら太平洋のはるか彼方なんだし、殉葬者奴婢百余餘人とあるがどうやら日本では大規模殉葬の例は発掘されないようだし、魏志倭人伝の記述は基本的に東夷のこととて「いい加減」なんだろうな、という態度で読むのが相当だと思う
※3593
出た〜陳寿ガイジ説wwwwwww
でもまあ、島伝い航路とか言い出さないだけまだいいか
その昔、残り千五百里の内訳として、対馬が方可四百餘里、壱岐が方可三百里だから、この島を方形(四角形)と見て、その二辺を伝って、距離に足せば400×2+300×2=1400でさらに餘里分を足せばぴったり1500里になるって力説してる人が居たんだけどね
その辺は九州の短里君はどう考えるんだろう?
学者の9割が畿内説というのが本当ならその人達全員の名前と論文を公表していけばそれで終わりではないか?
九州説を支持する現役の学者をまず挙げてもらった方が早い
女王国連合の元ネタは産経新聞だな
新聞記事を読んで倭国=女王国=女王国連合=共立国と書き込んだようだ
権現塚古墳は円墳で外堤の直径が約150メートルある
九州にでかい円墳がないわけではない
柳田編年の柳田康雄氏は、1990年代の時点で「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと思っている人は一人もいない」と言っていたそうだけどな
>3603
ウィキペディアの情報で「外堤の直径は約150メートル、墳丘は径55メートル」と書かれてる
墳丘規模で径55メートルなら、円墳としては大きいな程度で、まあ普通にいろんなところにあるレベルだな
九州にも大きな円墳があると胸を張られると、お、おう、そうだな、としか反応できないんだが
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XRumer201707
>3595
※3605によれば九州にも王級の墳丘墓があるそうですよ
>まあ普通にいろんなところにあるレベルだな
墳丘墓や古墳は道路や建物で破壊されていたり、埋まっていたり、砦や城になっていたり、丘や小山だと思われていたりしてまだまだ知られていないものはある
もっと発掘調査に予算がつくといいね
陳寿の計算では畿内に辿り着かないことは明らかだがどのように原文を改変すると畿内に辿り着くか示してもらいたい
陳寿ガイジ説なら九州なんだねそうだね
>3607
>※3605によれば九州にも王級の墳丘墓があるそうですよ
王墓級墳丘墓は、古墳時代に入る前の弥生時代のもの
ここで紹介されている権現塚古墳は2段築成で、大和の纏向が発祥の地の定式化した古墳の枠組みに入る古墳時代のもの
古墳時代の「大王墓」の墳丘サイズは大体200mくらいで弥生時代の「王墓」級とは比べ物にならないよ
時代が違うし、レベルが違うのを分かって書いてるなら悪質だな
>3609
>もっと発掘調査に予算がつくといいね
これには同意
結局C14年代測定もお金がかかるから、予算が取れないとそもそも測定ができない
ただ、王墓級墳丘墓とか、大王級古墳なら発掘するしない以前に、でかいから所在は大体分かりそうなものだってこともある
>3610
>陳寿の計算では畿内に辿り着かないことは明らかだがどのように原文を改変すると畿内に辿り着くか示してもらいたい
最後の拠り所だからがんばっているけれど、九州にも着かないんだから、畿内にも着かないのをどうする必要もあるまいに
まあ、儺県までは「方角も距離もおかしい」なりに、地名や遺跡からまあ妥当だと思われているので、そこを起点に、水行20日+10日、陸行1月なら、畿内までの距離感の方が妥当だろう、くらいのことをいつまでもグダグダと
結論としては七万戸のみが残る畿内説の根拠だが、邪馬台国の場所の可能性は九州と畿内が半々といったところだな
※3615
>結論としては七万戸のみが残る畿内説の根拠だが
しれっウソ混ぜないように。
それだけしか根拠なければとっくの昔に破綻しているでしょ。
>3615
>可能性は九州と畿内が半々といったところだな
本当に言うんだ
↓
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
※3617
七万戸が一番大きな要素だから仕方がないね
例えば卑弥呼の墓も邪馬台国に造ったとは書いていない(邪馬台国に造るとは思うけど)
文化風習も邪馬台国とは明言されていない(邪馬台国だけ違えばそう書くだろうけど)
一万二千里もあくまで女王国(邪馬台国のことだろうけど)
水行20日と陸行1ヶ月は検討しようがない
天然資源も倭人の領域での話にすぎない(支配地ではあるだろうけど)
直接的に邪馬台国だと明示されているものは宮殿と七万戸しかない(七万戸は誇張かもしれないけど)
九州説を唱える現役の学者ってどれくらいいるの?
※3584
>他の畿内説の人の言葉尻を利用して、追い込んできた畿内説の人を馬鹿にしたことにする無理矢理ガイジ理論2号を唱える
>↓
>その理論では自分も馬鹿にされる対象になるブーメラン直撃
おいおいおい~
馬鹿にされてるの君だけやで?
もう一人の畿内説派の人この件に気まずくなってかだんまりやん
というか本当に読解力ないんだな
畿内説派の中でも一番最低クラスの能力だと思ってたけど、仲間からもキチガイ扱いされるだけあるな
>違わないという証拠となる過去の自分の発言を掘り返されて、ぐうの音も出なくなる(イマココ)
全く証拠じゃない件について
お前郡より萬二千里南が九州になるの?
というか上でも何度か言ったけどこの説を唱えた人は畿内説の人だからな
それでわかるとは思うが、これは直接九州説を補強する論というわけではない
目的は陳寿の計算方法の解析であって
まあ学習障害君にはわからないか
>3494
沈仁安著「倭国と東アジア」だったと思う
うろ覚えのため違うかも
違った場合は他の書物を調べてみてくれ
>3619
日本の九州説派の教授はwikipediaでも確認したらいいとして
北京大学教授、中国日本史学会名誉会長、中華日本学会理事などを務めた沈仁安氏をはじめ
王金林氏、謝銘仁氏などの著名な中国系の学者はみな九州説を推してるんだよね
いや、推してるというか九州にあったことが事実として見てる
畿内説なんか微塵も考慮していないのが中国の学会の立場と見て問題ない
ちなみに三角縁神獣鏡が魏製の鏡だと言う中国の学者は一人もいない
中国製である証拠がただの1つもないから妥当ではあるが
※3580です。なにげに書いたことでひと波乱あったようで申し訳ありません。
皆さんのようによく研究したり・調べたりしているわけでもなく、昔、学校の授業中に思いついたことなのでさらっと流してください。
史書に出ている倭国の小国についてはだいたいここら辺というのがわかっているものあるわけです。水行・・の通りにたどっていくとA→Bの行程と日数を参考にB→Cを予測すると合わない。なぜだろう。中国へたくさんの奴隷を贈っている。中国からお土産もたくさんもらったはず。使者にもたくさんの随行員がいただろう。川や山中など、それらが安全に交通するには直線距離で移動するのではなく迂回したことも多かっただろう。安全な水路では大量輸送に適した船が多用されただろう。にしても何か変。ということで嫌な奴が家までくっついてきた時に取るあの手・・を思いついたわけです。結果的に邪馬台国は近畿より西という説になりますね。
再び思いつきで申し訳ないですが・・
倭国について史書に阿蘇山の記述がある。地域が小さい。→倭国はほぼ九州
大和国の遣唐使が倭というのはカッコ悪いから和にしてくれと言った。倭国を引き継いでいるが倭国とは別だと言った。支配地域が大きい。→大和国は西日本を支配・大和朝廷
という説を目にしました。これだと邪馬台国は大和国の前の倭国にあるわけですから九州にあったということになりますね。
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XRumer20170717
>3621
当時大陸では銅鏡は廃れていて、鉄鏡が多く用いられていたこと、使われていた鏡のサイズは三角縁神獣鏡であれば、内区と呼ばれる部分だけに相当する直径10数センチのものが主流だったことを考えると、倭国への下賜品の鏡が特注品であることが現実味のある話だと分かる
そして、本来小さい鏡を大きく作る際の強度を増すための工夫が、斜縁または三角縁だというのも理解しやすい
中国の学者が文献だけで何を言ったところで、殉葬100人を始め現実に沿わない記述から読み取れることは、やはり現実との関連が薄いんだよ
>3620
おまえへにしか返信してないんだから馬鹿にしてるのはおまえだけだぞ
3622
>水行・・の通りにたどっていくとA→Bの行程と日数を参考にB→Cを予測すると合わない。
なんのことを言ってるのか全然わからん
>結果的に邪馬台国は近畿より西という説になりますね。
は?どういう理論なんだよ
3622
その時代はもう流石に日本人も字を覚えていろんな記録が残ってて大和朝廷が全国統一してることが確定なんだから、倭と日本が別と言ったという中国人の記録は無視でいい。というか中国もすぐに倭=日本だと書き直してるし。
※3620
ガイジくんまだ病院行ってないのか〜w
馬鹿にされてるのはお前だけだってよw
普通に考えたら最低限直接レスされてる(>それで出てくる場所は、九州ですらないのに、それを九州説の根拠にしてるのがもうね)お前が外れるわけはないだろうに、どんだけ都合のいい読解力()してんだよさすが脳障ガイジ。そんなもん理解できるのは異常者だけで、理解できないのは健常な証拠。
>全く証拠じゃない件について
ただ言い張ってるだけw
※3377より
>>畿内でも足りないなら、九州は問題外だぞ
>お前のわけのわからん計算方法ではな
>一寸千里の法を使えばドンピシャで合うんだから
これを覆せるだけの根拠をきちんと示せよ。
>お前郡より萬二千里南が九州になるの?
誰もそんなこと言ってないぞ。「お前がそう言ってた(そしてブーメラン直撃を逃れるために慌てて無かったことにしようとしてる)」と言ってるだけだぞ。ちゃんと読めやハゲ。
>というか上でも何度か言ったけどこの説を唱えた人は畿内説の人だからな
>それでわかるとは思うが、これは直接九州説を補強する論というわけではない
んなもんわかってるってwそのひとはそういう仮説を立てて検証してみた結果、お前と違って陳寿ガイジ説を取らなかったのでそれを捨てたって書いてるだろ。
http://www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/yamataikoku2.html
>方向が正しいとすれば、邪馬台国は宮崎か鹿児島あたりに在ったとしてもよいのではないか。邪馬台国が鹿児島にあったとすると、その南に狗奴国は存在できないので、邪馬台国が宮崎にあり、狗奴国が鹿児島にあったことになる。しかし、下記の観点から、邪馬台国が宮崎に在ったとする考えには無理がある。
>(7)1.1に示すように、邪馬台国までを連続行程とすると、宮崎では水行、陸行の距離が全く合わない。
>日本の九州説派の教授はwikipediaでも確認したらいいとして
見てみたけどほとんど死んでたわ
後進も育たなかったのかな
あるいは死後に裏切った?
>3617
水行陸行のぶん、距離も畿内説有利
あと丹は当時の九州では無理なのでこれも畿内説有利
大きな墓も畿内説有利
九州説が有利なのは方角ぐらい
>3624
三角縁神獣鏡は中国ではただの1枚も出土していない
鋳型なども出土していない
神獣鏡という鏡は呉系の鏡であり、魏で呉系の鏡を特注して下賜する必要性が無い
三角縁神獣鏡は当時の魏の韻を踏んだ韻文の形式から大きく異なる文であり、魏製であるかは疑わしい
意味が理解できない文、存在しない年号が刻まれている、これも魏製であるか疑わしい
三角縁神獣鏡は仕上げ(やすり)が荒く、皇帝の威厳を損なう粗悪品である
一部だが上記のような点で日本中国問わず、学者は魏製であることを疑っている
>そして、本来小さい鏡を大きく作る際の強度を増すための工夫が、斜縁または三角縁だというのも理解しやすい
三角縁神獣鏡は平縁神獣鏡と三角縁画像鏡を参考にして作成したと王仲殊氏などは指摘する
ちなみに洛陽で平縁神獣鏡が初出土したのは273年、三角縁画像鏡が初出土したのは隋の時代である
遣使の時代に全く合わない
>中国の学者が文献だけで何を言ったところで、殉葬100人を始め現実に沿わない記述から読み取れることは、やはり現実との関連が薄いんだよ
中国の学者バカにしてるけど、中国から出土する鏡と日本から出土する鏡、三角縁神獣鏡などを精査して出した結論だ
決して文献解釈だけではない
王仲殊氏や徐苹芳氏などは方格規矩鏡、内行花文鏡、鳳鏡、獣首鏡、位至三公鏡などが
当時の出土状況やらなんやらを照らし合わせた結果、卑弥呼に下賜した鏡だと断定している
三角縁神獣鏡下賜説は残念ながら中国ではトンデモ扱いだ
倭人は距離を日数で表すとされ、里数表記から日数表記に変わっている事。
他の東夷伝から、陸行30日では500里程度と言うことと、倭人の船行1年が四千里という事。
場所がほぼ解っている奴国(不彌國)の後に、
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
自女王國以北 其戸數道里可得略載
これらの事から、
1 水行&陸行30日ではたいした距離にならない事。
2 邪馬壹国以北がそれまで記述されてきた国々である事。
3 奴国不彌國辺りから南に連続している事。(其餘旁國遠絶)
奴国(不彌國)
| 御笠川→(筑紫野市筑紫の税務署辺りで乗り替え)→宝満川
投馬國 (宝満国?)
| 筑後川→陸行数百里
邪馬壹國 (吉野ヶ里?八女?、熊本山門?)
これで条件を満たせる。
魏志倭人伝時代の南の狗奴国が、熊本の菊池彦だと思ってるから、邪馬壹国は佐賀県内!!
大陸朱が北九州~出雲~丹波辺りまで入ったようだし、銅鐸も出雲が北近畿から南に進出し、
大陸と結んで先進文化に朱まで手に入れ力をつけた日本海側勢力の伸張。
四国や奈良で独占していた国産朱の優位性が失われ、先進文化と稲作人口増加に危機感覚えた黒潮沿岸(鹿児島~茨城)+瀬戸内が大和連合創って対抗したんだろうな。
神武東征(近畿の日本海勢力追い出し)に当然のように東から援軍が来るのもうなずける。
3632
時系列で、大陸影響→日本海側伸張→太平洋側対抗としたけど、
日本海側伸張→太平洋側対抗→日本海側大陸と結んで逆転を狙う→太平洋側に倭交易を奪われる、の方がありかもしれない。
※3621
>畿内説なんか微塵も考慮していないのが中国の学会の立場と見て問題ない
ソースは?
>>3621
>日本の九州説派の教授はwikipediaでも確認したらいいとして
現役の学者はほとんどいないってことですね
>倭人の船行1年が四千里
四千里なのは侏儒國で、船行1年なのは裸國黒齒國だから、別なのでは?
>3665
3604「柳田編年の柳田康雄氏は、1990年代の時点で「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと思っている人は一人もいない」と言っていたそうだけどな」
吉野ヶ里遺跡の発掘責任者の高島忠平氏はまだご存命で、吉野ヶ里が邪馬台国である可能性を否定していないそうな
まあ、現役ではないが
>3632
>奴国(不彌國)
> | 御笠川→(筑紫野市筑紫の税務署辺りで乗り替え)→宝満川
>投馬國 (宝満国?)
> | 筑後川→陸行数百里
何度もこの手のこと繰り返し書いてるけどさ、そもそも日本の細こい川で「水行」という表現がされると思うか?
しかも勝手に、辺りで乗り替えとか書いてるし、こういうのは原文の書き換えにはならないのか?
通常「水行」は海岸沿いを船で行くことって分かってて書いてるだろ?
魏志倭人伝の冒頭にも「循海岸水行」ってばっちり書いてあるし
>3632
>倭人の船行1年が四千里という事
前にも書いてたけど、それだと「千里に三ヶ月かかることになって狗邪韓國と対馬の間(千里)で飢え死にする」って教えただろうが
その時は狗邪韓國と対馬の間はがんばれば1日、がんばらなければ2日で着くって書いてたけど、海の上で夜を明かすことは考えにくいので、がんばって千里を1日で渡ると考えていい
とすると1日で千里なら水行30日で三万里進めるなww
こうして見て来ると、万二千余里っていうのは、水行陸行抜きの数値なのかもな
ますます、万二千里はあてにならないだろ?
隋書に倭国は「東西五月行」って書いてるからな
この時代の日本の範囲が九州から関東だから、
2ヶ月で九州から奈良だとちょうどいい
水行と陸行の時間についてだが、使は全速力で都に向かうのではない
もちろん半島から対馬や対馬から壱岐のような何もない海上で留まることは意味がないのでしないが
要所要所で留まり、歓待を受けたり、天気(風)を待ったり、その地を観察するのが常である
時代は400年ほども違い、道路や航路の整備も整い、船の速度も上がったと思われるので比較としては適切ではないかもしれないが、裴世清などは百済から都に上るまで7ヶ月も要している
警護の騎馬200騎がそろうのに10日もかかったりと何かと日数を要しているようだ
難波で1月ほど滞在したりもしている
さらに使の日程はどの箇所をとってもなぜか十日行単位であり、四捨五入か切り上げかはわからないが実際にかかった日数ぽっきりではないのは確実視されている
また無日行というのはもちろん無いので、切り上げの可能性が高いか?
対馬-壱岐間の千里ではなくて群から伊都国までの区間区間の平均である
そしてそれが、一寸千里の法や、史書に度々現れる「短里」77mとの近い数字であることから
短里が使われていると言われる所以である
ちなみに海上の距離を測る方法としては、水時計を使ったり線香を燃やして何本消費するかなどで測る方法があったようだ
もちろんこれは厳密には距離ではなく時間を測定しているので、実際の距離とは相違が生じる
>3634~3640
この連投ログ流しは、声の大きさ(この場合多数投降で優勢と見せかけたい)で勝負のソントってやつか?
大昔ならいざ知らず、発掘と科学調査で証拠が出る時代に、証拠無しで○○説ぶち上げるのは学者じゃないって書いてあった気がするが、九州説(今はだんまり)が研究中の学者で、畿内説はエセ学者って事だな。
というかここで派閥抗争やらかしてるのは、皆偽物だろ。
>3638
>通常「水行」は海岸沿いを船で行くことって分かってて書いてるだろ?
>魏志倭人伝の冒頭にも「循海岸水行」ってばっちり書いてあるし
水行が海岸沿いを船でいくことなら、循海岸水行はどういう意味だよ。
こういう論理の矛盾よりも、相手を言い負かした空気作り、にしか頭が回らない日本語使いなど、どこの工作員か丸わかり。
循海岸無しに水行と書かれたら、単に水のある所を舟で移動する事が当然の解釈だろ。船行ですらない。
乗り替えについては、御笠川と宝満川は、鹿児島本線で分断された今現在ですら200mも離れておらず、当時は繋がっていた可能性すらある。
200m以下では陸に上がって一休みと距離が変わらず、水行日数以外の表記は必要ではない。
>3639
里数表記されている部分に、倭人日数で計算する理由が不明。併記されてるわけでもないのに。
こういう論理の矛盾よりも、相手を言い負かした空気作り、にしか頭が回らない日本語使いなど、どこの工作員か丸わかり。
>3640
東と北が山で毛人の国と何度も指摘されているのに、都合の悪い情報は言わない自由か。
東境は京都辺りまで、北は中国山地で、東国~出雲~新羅辺りは別勢力だった可能性もあるな。
その後、倭と日本という二つの表記も説明がつく。
※3628
>>3503
>>君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
>これ本気で言ってるんだったら、頭の中身を疑うよ
>こっちが言ってるのは、魏志倭人伝に会稽の東に倭国があると書いてあるが、そんなところを探しても>ムダってこと そんなところに倭国が実際にはないの、は今も昔も変わらない事実
>なのに、会稽の東とした計算が「これこれこういう風」に間違ってたと「考えれば」九州のことを言っ>ていたに違いない、っていう論理が端から根本的におかしい、と言っているだけ
頭の中身を疑われているのは「畿内がちょうど会稽の東に来る」という学習障害君だぞ
「魏志倭人伝に会稽の東に倭国があると書いてあるが、そんなところを探してもムダ」らしいから会稽の東がちょうど畿内に来るという学習障害君は頭がおかしいと思われてるみたいだね
ttp://www.kurumi.sakura.ne.jp/~mmrnet/yamataikoku/yamataikoku2.html
のHPの人は列島を南に伸びていると陳寿が解釈したとして、南行を東行に読み替えて無理やり萬二千里を畿内に繋げている
自分の説を捨ててなどいない
しかも次のページでも短里は存在するという前提で論を進めている
というか本当に障害があるのか?
なぜこの程度のことがわからないんだ?自分は頭が悪いですと宣伝してるようなものだ
ガイジが言ったことなので許してもらえるとは思うが、陳寿ガイジ説などと言ったことをごめんなさいしとけよ
想像力の欠如した、スクリュー付きの船やモーターボートか何かで移動してると思ってる輩がよく湧くけど、安全に人や物を運ぶために川を上るのであれば、舟を引く人間が必要で、その速度は徒歩よりも遅いだろう。
あるいは舟で海沿いを行くにしても、岸から離れなければ波が荒いし、安全を考えて船で移動するのでは、入れる港や上陸できる場所が限られる。
よほど整備された場所でなければ、移動は著しく不便なのが当然だろう。
>3643
無理矢理感が凄いよねぇ。
3632でも書いたけど、奴国以降の里数がはっきり記述されず、餘旁國遠絶と詳しい情報も得られない状態で、日本を回転させれば郡から直線万二千里でどんぴしゃとか、そこまで正確な情報があるなら、魏志倭人伝にあんな書き方されないだろと。
>この連投ログ流しは、声の大きさ(この場合多数投降で優勢と見せかけたい)で勝負のソントってやつか?
透視能力の持ち主かな?
>3631
>日本から出土する鏡、三角縁神獣鏡などを精査して出した結論だ
三角縁神獣鏡の研究、近年に至るまでどんどん新知見が積み重ねられてきているけれど、中国の学者さんたちがみんなそれをフォローしている訳でもあるまい
三角縁神獣鏡の「大部分」は国内産で間違いないが、この大部分が「全て」と言えるかどうかの問題
>3644
>安全に人や物を運ぶために川を上るのであれば、舟を引く人間が必要で、その速度は徒歩よりも遅いだろう
前にも書いているけれど、例えば水路に荷物を浮かべて引いて移動している場合、それを「水行」って言うか?
陸地を歩いているのに?
>3642
>水行が海岸沿いを船でいくことなら、循海岸水行はどういう意味だよ。
文字通り、海岸にしたがって「水行」することに決まっているじゃないか
海を渡るときが「渡一海」で、渡らずに海を行く場合が「水行」
「水行」でも、海岸からある程度離れていく場合もあるし、海流が激しいとかで海岸に沿って海岸の近くを行かなきゃいけない場合もあるだろう
朝鮮半島の東側~南側を通るときには「循海岸」で水行したから、わざわざ書いてあるだけだろ
あるいはその後の「乍南乍東」に気を使って「循海岸」としただけ(要は途中で曲がるけど陸沿い)かもしれんがね
「水行は海を行くこと」を、否定したかったら、川に船を浮かべて「陸地を人が歩いて」移動しているのを「水行」と表現してあるところを、大陸の史書から探してこないとダメだってことは分かるかな?
長江や黄河クラスの大河なら水行でもありうるとオレでも思うが、細い川で陸地を行く人が舟を引っ張って歩くのを水行って言うのは、普通の感覚ならありえないと思うぞ
さあ、がんばって例証してくれ
そういう根拠を示してくれたら始めて、「川上り川下り水行仮説」が論証する意味を持つようになるから
>3642
>どこの工作員
また、論理で勝てなくなると、憶測で個人攻撃を始める
3634~3640で、文の書き方からして3人分だよ
それくらい読み取れるだろ?
>3641
>時代は400年ほども違い、道路や航路の整備も整い、船の速度も上がったと思われる
400年くらいで、船の速度は変わらないよ
モーターボートのエンジンが開発されたりしてないんだからさ
こういう「思われる」を根拠にしてるから、筋の通った話にならないんだよ
>要所要所で留まり、歓待を受けたり
こういう移動以外の日数は「旅程」では除くんじゃないかな
そうでないと、距離感がつかめないだろう
不彌國までの「里」表示が、「日」表示に変わっているけれども、これは道里を略載したものなのだから距離を示すためにあるのであり、歓待を受けている日数とかは入れないだろ
>なぜか十日行単位であり、四捨五入か切り上げかはわからないが実際にかかった日数ぽっきりではないのは確実視されている
まあこの部分は同意
だが、これと同様に、里で書かれている部分も、百里、五百里、千里単位なんだから、そんな正確な数字じゃないことも分かるよな?
※3643
つ ※3625
残念でしたw
まあ、会稽の東で探ろうとした全員、HPの人も含めた畿内説も含むと解釈出来ないこともないけど、とりあえず馬鹿にされてるのはお前だけだ
陳寿が「自分で東行と書いておきながら南行で計算した→1万500里の近くである九州でドンピシャ」とする陳寿ガイジ説を唱えてるのは君だけだ。その人は水行陸行が残ってるから無理だと捨てた。残念〜
>奴国以降の里数がはっきり記述されず、餘旁國遠絶と詳しい情報も得られない状態
もちろんはっきりとはわからないけど、
掛かった日数からある程度ざっくりとした距離感はわかるんじゃないの当時の人々の間では
問題は現代人にはよくわからないだけで
我々だって「クルマで1時間」って言われたらなんとなくわかるし
3642
>東と北が山で毛人の国
それ東北。だから関東までっていってるだろ。
稲荷山古墳の出土剣を見てもそこまでは制圧済み。
出雲なんか論外。
>3644
>想像力の欠如した(中略)移動は著しく不便なのが当然だろう
マルコポーロはイタリアからアジアまで往復したし、縄文時代にも列島全域が(一部は大陸まで)繋がる交易が認められる
想像力の欠如した人物は、古代は不便で何もできないと思いがちだが、徒歩と丸木舟の時代でも遠距離間を結構な重量物を運んでいる。伊豆の神津島の黒曜石の話はこのコメント欄でも何度もしている
ひ弱で想像力の欠けた現代人が思うほど、古代の人の行き来は不便ではないし、普通の営みとして倭人は海峡を渡って居たんだよ。魏志倭人伝にも対馬や壱岐の人が、乗船南北市糴と書いてある通り。そして列島内の移動なら、もっと容易だろう。大国主は妻問いで、九州から越の国まで行ったり来たりしている
不便てことにしないと、九州に「水行20+10日、陸行1月」が入らなくて苦労しているのは分かるけどさ
>3634
沈仁安著「倭国と東アジア」
以下引用
「中国の学者の間では、相当長期間に渡って、九州説がほとんど定説化していたように見える。」
>3651
>餘旁國遠絶
これ、前にも書いたけど、遠絶なのは餘旁國じゃなくて、倭国だから
其餘旁國遠絶不可得詳
その餘の旁國は(倭国が)遠絶にして詳らかに得べからず
梁書で
倭者 自云太伯之後 俗皆文身 去帶方萬二千餘里 大抵在會稽之東 相去絶遠
と書いてあるのと同じだよ
ついでだけどさ、萬二千里にこだわってる人は、魏志倭人伝のここはどう読むの?
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
倭地の海中の洲島は、繋がったり切れたりしてるけど一周五千餘里
案外、狗邪韓國まで七千餘里にこの五千餘里を足して萬二千餘里だったりして
※3649
>こういう移動以外の日数は「旅程」では除くんじゃないかな
>そうでないと、距離感がつかめないだろう
>不彌國までの「里」表示が、「日」表示に変わっているけれども、これは道里を略載したものなのだか>ら距離を示すためにあるのであり、歓待を受けている日数とかは入れないだろ
謝銘仁曰く
「『水行二十日』『水行十日』『陸行一月』は、休日・節日や、いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり、鬼神への配慮などから道を急ぐのを控えた日々をひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。決して実際にかかった”所要日数”のことを意味しているのではない。」
「この日程記事は、先に水路を『十日』行ってから、引き続いて、陸路を『一月』行ったという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸路を行ったり、水行に陸行、陸行に水行をくり返し、さらに、天候や何かの事情により進めなかった日数や休息・祭日その他の日数も加算し、卜旬の風習も頭に入れて、大ざっぱながらも、整然とした『十日』『一月』で表記したのであろう。」
それを裏付ける事例として時代は下るが隋使の日程だ
百済から奈良まで7ヶ月行、使いの歩みはとんでもなく遅い実例である
>だが、これと同様に、里で書かれている部分も、百里、五百里、千里単位なんだから、そんな正確な数字じゃないことも分かるよな?
千里は余里がついているとはいえ、正確な数字ではないのは認めるが
萬二千里>七千里>千里>五百里>百里の関係は揺るぎない
数字に幅は見られるが里数と実際の距離の不等号は間違ってはいないのである
正確な数字ではないが、いい加減な数字でもない
>3656
>謝銘仁
誰? この人が言うことが正しいという保証は?
>表記したのであろう
この人の推測じゃん? オレの推測とどっちがえらい?ww
確か上の方で、学者の肩書きを取っ払ってしまえば対等って書いてたの3656じゃなかったっけ?
>百済から奈良まで7ヶ月行、使いの歩みはとんでもなく遅い実例である
隋書のどこをどう読んだらそう読める?
明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
この中に、日程らしいものは「後十日」しかないぞ
そのとんでもなく遅い歩みでも、難波津についてから飛鳥の都まで10日で着く訳だが、陸行1月となるとさらに遠いな
中国人=九州説
日本人=畿内説か〜
※3657
誰って言われても学者だよ
君のは根拠もない推測だけど、この人は当時の距離の測り方とか色々研究して
様々な根拠からこう断定している
詳しくは著書を読んでくれ
純粋に邪馬台国とか抜きにして勉強になるから
ついでに上の方で書いて云々は俺じゃないから
あと日本書記を読んでみ?
裴世清の日程が詳しく載ってるから
しかも10日は200騎の護衛を待った日にちであり、難波から京までの日数じゃないとだけ言っておく
※3650
>陳寿が「自分で東行と書いておきながら南行で計算した→1万500里の近くである九州でドンピシャ」とする陳寿ガイジ説を唱えてるのは君だけだ。その人は水行陸行が残ってるから無理だと捨てた。残念〜
本当に頭大丈夫なのか?
HPの人は自説を捨てているのではなく、萬二千里南は種子島ぐらいの海上に位置するが、方向を正しいとしたて女王国をを宮崎や鹿児島と仮定した場合は様々な理由で無理があるので、南を東に置き換えて解釈したというだけ
萬二千里=会稽の東は捨てていない
何度も言うが次のページでその自分が証明した短里の換算をベースに論理を展開している
はやく陳寿ガイジ説などと言ったことを謝っとけよ
頭がわるいのはわかっていたが、この程度の文章も読めないのは困りものではないか?
君が畿内説で一番レベルが低いのは周知の事実だが、君のような人間がいるだけで他の畿内説の人に迷惑ではないか?
へったくそな印象操作ばっかりで中身のある議論ができない
しかしながら畿内説派はこんな学習障碍者が主張してるんですよという逆の印象操作はうまくいってる
3652
時代が違う
三角縁神獣鏡が魏製なら畿内、国産なら九州で決まり
※3660
>様々な理由で無理があるので
都合が悪いから誤魔化してるけど、
>(7)1.1に示すように、邪馬台国までを連続行程とすると、宮崎では水行、陸行の距離が全く合わない。
だからな。
散々主張していた「馬鹿にされてる」のもお前だけだったよね。
お前は脳障害なんだからもう無理するなって。
それこそ九州説がガイジしか支持してないことをますます印象付けちゃうから。
3661
それがどうした?
前の時代でももうすでにそこまで制圧済みってことなんだから問題ないだろ
3662
国産であっても、中国との繋がりぐらいはないとそんなもの作れないだろ
>3662
漢鏡7期は?
京都大学人文科学研究所漢鏡の時期別区分
1.漢鏡1期(前二世紀前半、前漢前期)
2.漢鏡2期(前二世紀後半、前漢中期前半)
3.漢鏡3期(前一世紀前半から中ごろ、前漢中期後半から後期前半)
4.漢鏡4期(前一世後葉から一世紀はじめ、前漢末から新の王莽の時代)
5.漢鏡5期(一世紀中ごろから後半、後漢前期)
6.漢鏡6期(二世紀前半、後漢中期)
7.漢鏡7期(二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期)
8.三世紀の三角縁神獣鏡をはじめとする魏鏡
出典:『三角縁神獣鏡の時代』。1999年発行。
この区分は多くの学者により現在では否定されている。
畿内論者が導き出そうとした「三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代の鏡」論が正しいとの結論から導き出された区分であり、恣意的な分類である。
問題のある区分法であることが指摘されている。
※3652
出土品の鉄剣に「辛亥年(471年)七月…」に始まる金象眼一一五文字の銘が刻まれている。
卑弥呼は239年、魏に使いして「親魏倭王」の称号と金印紫綬とを賜った。
君の中では約230年の歴史はなかったことになってるのかな?
≫3665
弥生人自体が倭人だが青銅器の技術を持つ中国大陸からの渡来人でっせ
※3654
何でしていたって過去形?前後の文章は?
3668
はあ?話の流れをちゃんと理解してから入ってこいよ
3669
技術があっても、鏡や漢字の知識が無いと厳しいだろ
※3663
本当にわからないの?マジで?
ページ全部読んだ?
>1.1に示すように、邪馬台国までを連続行程とすると、宮崎では水行、陸行の距離が全く合わない。
これ前のページのことなんだけど、前と次のページも読んだ?
君と話すのはいつも疲れるが、やっぱりレベルが著しく低いようだ
HPの人は陳寿は萬二千里で計算したが、萬七百里から水行陸行1月づつで萬二千里は距離的に無理があるので、萬二千里に誤差があると言っている
実際に距離的には無理はないのだがそれは別の話として
陳寿の会稽東治之東が萬二千里を示すことを否定しているのではない
というかここまで親切に説明しても君は頭が悪いから理解できないのだろう
まあ畿内にぴったりいける計算とやらを教えてくれよ
なんだかんだで頭がおかしいから計算すらできないだろうけど
陳寿ガイジ説なら九州なんだもんね
※3672
確かに三角縁神獣鏡の銘文には北魏の漢字が使われているから北魏と交流があったことは間違いないよね
※3673
散々主張していた「馬鹿にされてる」のもお前だけだったよね。
散々主張していた「馬鹿にされてる」のもお前だけだったよね。
散々主張していた「馬鹿にされてる」のもお前だけだったよね。
お前は日本語も読めない脳障害なんだからもう無理するなって。
陳寿ガイジ説は、
東にどれだけ行ったかわからんから→東はゼロ!
ってやつだぞ
だから
1万数百里+水行陸行=南万二千里になるのが陳寿ガイジ説
この人が言ってるのは
1万数百里+水行陸行=南万二千里+東?里
この結果、九州に収めようとすると南水行陸行が余るのでちゃんと捨てられる。
アタマ悪いガイジ理論のままのお前との差なんだよね。
※3676
心の平静保てなくて可哀想だな
後からどんな言い訳しようが、あの時頭がおかしいと思われてたのはお前の畿内までちょうどいい理論だからな?
本当に頭が悪いのを何で何度も宣伝するのか?
九州で収まるかどうかは話の流れじゃないし
著書の言いたいことも全く理解してないやん
このHPの人も万二千里を一律南で計算してその数字が陳寿が導きだした計算であることを疑ってないが?
そして畿内までいくと二万里になるので、水行と陸行でごまかしてるだけ
陳寿が知り得た情報も万二千里だけと断定してるし、二万里は誤差としてあくまで万二千里は正しいとしている
なんでそんなに頭がわるいのに議論に出てくるのか?
ことごとく反論できずに印象操作と罵詈雑言のみ
議論ができない人間の教科書みたいなやつだな
※3677
つ ※3625
声に出して10回読みましょうw
そして現実を受け止める力を養いましょう。
ちゃんと宮崎を導き出して、やっぱ収まらないわ水行陸行余るから
という話の流れを、無理矢理違うと言い張ってるだけ。
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>3659
>あと日本書記を読んでみ?
>裴世清の日程が詳しく載ってるから
これのことか?
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。
秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。
小野妹子が派遣されて、裴世淸を伴って入京するまでだから、この部分で大和に着くまでの日程は全部だよな?
百済なんてどこにある? 百済は妹子の返書をなくした言い訳の中で通過地として書いてあってそこで唐からの返書を取られたとは書いてあるが、百済を起点にした道里も日程も書いてないよな?
そして16年夏4月に小野妹子が大唐に至りそれから裴世淸と帰ってきて6月に難波津に着いてるよな?
この間オレの計算だと2ヶ月なんだが、引き算を間違えたかな? どうも7ヶ月にならないんだが?
そして、そこから入京するのが8月で、そこまででも4ヶ月。7ヶ月ってどこから来た数字だ?
隋書で後十日(難波津から入京まで)と書かれていたところは、日本書紀の干支をきちんと読むと6月15日から8月3日に当たるそうだから、48日かかっててどちらが正しいとも言えないが
そして、この1月半は「客等泊于難波津(中略)安置新館」と書いてあって、行程としては書いてない
前に上の方で「投馬国までの水行20日やそのあとの水行10日陸行1月の間に、他の国が書いてないから、九州に決まっている。大和なら隋書に瀬戸内航路と書いてあって間の十数カ国の国名が書いてある」とさんざん言った挙句に、隋書にも日本書紀にも「瀬戸内航路」とも途中の十数カ国の国名も書いてないっていうのを、九州派の人間がやらかしてるんだが、3659も同じ人間か?
さんざん自信たっぷりに言って、3657で隋書の原文を確認されて書いてないと、今度は日本書紀には書いてあるといい、そこも原文を当たられると書いてない
>百済から奈良まで7ヶ月行
こういう妄想がどこから来るのか、教えて欲しいわ
まあ、水行陸行合わせて2ヶ月を屁理屈つけて九州に入れるためには、妄想も必要なんだろうけど
>3667
否定されてるというソースは?
いつも思うんだけどさ、否定されているなら否定されているって書くときに理由もつけて、これこれこういう理由から否定されているって書けばいいのに
九州説の人、何人いるか分からないけど、いつもそう
で、訊かれてからソースはこれ(例えば隋書)とか言って、調べられたら原文にはそんなことは書いてない
せめてソースはこれって示す前に、自分で確認すればいいのにそれすらしないから、九州説の人との議論は無駄な手間が多くて、議論が深まるわけじゃないし、無駄な罵倒語も多いし面白くない
○○説と名前張りするのはもういいから、工作員ってばればれです。
解釈でどうとでもできるってお茶を濁してから、大声で(多数の書き込みで)騒いでこれが通説だってやってるだけだもの。
文献記述や時代背景などを総合した根拠を基に行程を語っているのに、実際に移動したら日数が合わないだの否定した直後に、曖昧な記述や別の時代持ち出し、根拠のない推測でこうに違いないって、騒いでる。
科学でも考古学でも歴史文献でもなく、インチキ詐話師が朝昼出張ってうるさいね。
あれもこれも出鱈目だーと騒いで回って、後は声の大きさで決めてやる。
はい、寄生民族の仕業です。
出鱈目じゃないと属国だもんなー。日本の3~4世紀とか狙い目だよなー。考古学遺伝学その他で捏造が次々と暴かれてるから、尚更大騒ぎで五月蠅いんだよな。わかってるって。
中国人は九州説推しなのか〜あっ…(察し)
※3680
>百済なんてどこにある? 百済は妹子の返書をなくした言い訳の中で通過地として書いてあってそこで唐からの返書を取られたとは書いてあるが、百済を起点にした道里も日程も書いてないよな?
三国志記 九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路
>そして16年夏4月に小野妹子が大唐に至りそれから裴世淸と帰ってきて6月に難波津に着いてるよな?
漢文読めるか?
4月に筑紫に大唐自(よ)り至る
3月~8月で5ヶ月
3月~9月で6ヶ月
7ヶ月は間違いだったわすまんな
しかしどちらにせよ歩みが遅いのには変わりはない
水行30日では筑紫から難波まで行けない
これは認めるな?
>まあ、水行陸行合わせて2ヶ月を屁理屈つけて九州に入れるためには、妄想も必要なんだろうけど
屁理屈もくそも中国や台湾の学者が短い距離でも長い日程で書かれることがあるのを解説して定説化してるのに
外野の漢文を解さない日本人がわけのわからん解釈をしてるだけ
中国の畿内説派の汪向栄氏の論文はおもしろい
文献解釈の一切を放棄しているのだ
つまりは文献に従えば、畿内には到底たどり着かないから、生産力差を根拠に当時の最大勢力が倭国という結論を下している
日本人の畿内説派の文献解釈は全て詭弁だと言える
例、女王国が倭国とか、水行陸行でとんでもなく長い距離を行くこととか
工作員って言葉を使い出すのは、言葉に困ったとき
いい加減にせいや
最初から必要なときには根拠を書いて、ソースを示して議論がさくさく進むようにしようや っていうのがどこが工作なのかいうてみい
言ってたことも、そのソースだって示したことも何も根拠がないぞと言われたあとに、工作員て言い出すとは何事だ
根拠なしでわめいてるだけか?
>3686
>7ヶ月は間違いだったわすまんな
じゃなくて、その7ヶ月はどこから出てきたのかを訊いてる
>三国志記 九年春三月遣使入隋朝貢隋文林郞裴淸奉使倭國經我國南路
三国「史」記は成立年代が遅く、史料価値が低い
そして、日本書紀に細かく書いてあるとしながら、三国史記を持ち出すんじゃ話が混乱するだけだろう
おそらく、日本書紀に4月に筑紫に至ると書いてあるから、それに合わせてその前の月を書いただけだろう
そして、隋書では後十日と48日日本書紀では48日とこのニ書でも記述が違うのに、さらに違うものを持ち出して、起点と終点をいじってたら、意味のある議論にならない
そして
>3月~9月で6ヶ月
この9月はどこから来た?
三国史記にも隋書にも日本書紀にもないぞ
三国史記は無視すると
日本書紀で筑紫に戻ったのが4月で難波津に着いたのが6月15日で、2ヶ月だな
本来魏志倭人伝のことを論じるなら、同じ大陸の史書を根拠とするべきだが、隋書には旅程の記述(日数)は難波津についてから都で二百餘騎の迎えがあるまで10日かかっただけだぞ
そして日本書紀では飾騎七十五匹で、ここは隋書の方がだいぶ馬の数を盛ってる
というように、複数の史書の記述を二個一にして何か言うのは、ほとんど意味がない
そして、魏志倭人伝と比べるべき隋書には、難波津の滞在時間しか書いてなくて、ここから7ヶ月かかったとか言うのは笑止
日本書紀だと筑紫から難波津まで最大二ヶ月半、最低で一月半(4月の日にちが書いてないから、4月の初日か末日かでひと月異なる)
その後、難波津から入京まで48日、難波津に泊まったと書いてある
魏志倭人伝の水行20+10日 陸行1月と、大体近い値になってるだろ?
まあ、畿内説派の主流は、日本海航路で、丹波に上陸してから陸行一月という説だけどな
※3688
>おそらく、日本書紀に4月に筑紫に至ると書いてあるから、それに合わせてその前の月を書いただけだろう
こんないいかげんな憶測で資料批判していいのか?
いずれにせよ、信用しても問題のない記述である
>そして、隋書では後十日と48日日本書紀では48日とこのニ書でも記述が違うのに、さらに違うものを持ち出して、起点と終点をいじってたら、意味のある議論にならない
漢文読めないからそんなわけのわからん解釈をする
隋書の十日と書記の滞在48日は同じ期間を指してないからな?
>この9月はどこから来た?
最終目的地を難波大都としてみた場合である
>魏志倭人伝の水行20+10日 陸行1月と、大体近い値になってるだろ?
なってないね
中国の学者は滞在中日数も含めての水行陸行の記述であると断じている
難波で滞在したと書いてあるとか言ってるけど、隋書は水行陸行の記述じゃないので滞在したと書かれていようが関係のないこと
>まあ、畿内説派の主流は、日本海航路で、丹波に上陸してから陸行一月という説だけどな
北東水行20日、東水行10日、南陸行一月に読み替えるのか
そして女王国までを二万里に替えれば問題ないというわけね
相変わらずむちゃくちゃだな
だから文献解釈では合理性が一切ないと中国の学者から批判されるわけだ
>滞在中日数も含めての水行陸行の記述である
合理性が一切ないのはどっちだか。
無理矢理臭すぎて草も生えない。
>3689
>いずれにせよ、信用しても問題のない記述である
逆! 信用しなくても問題ない記述!
隋書、日本書紀と7世紀の(ほぼ)同時代資料があるのに、そこからさらに500年後の12世紀成立の文書を参考にする必要はない
>最終目的地を難波大都としてみた場合である
なぜ? 入京までの部分を引用してあるのに、なぜ最終目的地を動かすのか?
>中国の学者は滞在中日数も含めての水行陸行の記述であると断じている
これを言うのであれば、その学者の判断の元になった根拠を示してくれって何度も書いてるだろう?
誰かがこう言ったでよければ「東日流外三郡誌」に日本の歴史が書いてあることになる
なぜ中国の学者を持ち出すのか? ソースを当たりにくくさせてるだけじゃないのか?
それに「滞在中日数も含めて」なのであれば、筑紫から難波津まで1月半と水行20日+10日は15日程度の差、上陸してから48日は陸行1月と、18日間の差
この48日は滞在中日数も含めてだからまさにそういう計り方だろ?
まあまあ、ほぼ合ってると言えるレベルだな
東行きは計算できないから0とか、水行30日陸行1月全無視よりかは、かなり合ってる
中国人が行ってたらちゃんと里数を測ってたと思うんだよなあ
そこだけ日数になってるのは倭人に教えてもらったのを書いたんじゃない?
なので「中国人は滞在日数も含めてた!」とか言われても
だから?みたいな
>3691
もう一つ
>隋書の十日と書記の滞在48日は同じ期間を指してないからな?
隋書は
「經十餘國達於海岸」
ここで難波津についているよな? そして
「王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎」
これが難波津での歓迎式典 この小德阿輩臺は大河内直糠手だろうとされている
そしてその次が
「後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」
で、10日後に二百餘騎を従えて大禮哥多毗が出迎えていて都に着いている 大禮哥多毗は額田部連比羅夫だろう
対応する日本書紀は
「六月壬寅朔丙辰客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客」
で難波津に着いて大河內直糠手ほかが出迎えて、難波津の新館に泊まっている訳だ
日本書紀だとこのあと百済で隋(大唐)の国書をなくした言い訳が入って、そのあとに
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉」
と飾騎七十五匹で、額田部連比羅夫が入京を出迎えている
きちんと対応してるよな?
日本書紀の方は、難波津に着いた日と入京した日が明記されていて、干支からそれが6月15日と8月3日だと分かる訳だ
で、日本書紀の方は字数も多くて、難波津に着いた日と入京した日の間が48日だって分かるが
隋書の「後十日」はどの期間を指しているんだ? 漢文を正しく読める人の解説を聞こうじゃないか
※3691
>逆! 信用しなくても問題ない記述!
>隋書、日本書紀と7世紀の(ほぼ)同時代資料があるのに、そこからさらに500年後の12世紀成立の文書を参考にする必要はない
そうやって自由に資料を取捨選択することによって畿内説派成り立つのかとその片鱗をみた気がする
3月に百済南部を経由した
別に無茶苦茶な内容を書いてるわけでもなく、三国史記は日本書紀やら中国の史書以外にも参考にしている文献はあるわけであって
参考にするにあたって何の問題もない
>これを言うのであれば、その学者の判断の元になった根拠を示してくれって何度も書いてるだろう?
著書読めばいいんじゃない?
全て引用なんてもちろんできないから、図書館行くなりamazonで探すなりしてくれよ
>それに「滞在中日数も含めて」なのであれば、筑紫から難波津まで1月半と水行20日+10日は15日程度の差、上陸してから48日は陸行1月と、18日間の差
>この48日は滞在中日数も含めてだからまさにそういう計り方だろ?
>まあまあ、ほぼ合ってると言えるレベルだな
うんそういう測り方だよ
君は勝手に印象操作で4月末日から計算してるみたいだけど
>東行きは計算できないから0とか
東行きは計算できないから0というか、女王国を萬二千里を南にしたら距離が合致するという話
まあ、俺が上のほうではったHPで詳しく解釈してくれてるわな
君もそのHP見た?
学習障害君は頭が悪いから否定しているが、そのHPの人はその説を捨ててないわけで
君もそう思うでしょ?
>水行30日陸行1月全無視
いつ?
「挹婁在夫餘東里北千餘里」
「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
六十日行=千餘里で全く問題ないのが当時の中国人の見解なんだから
※3693
6月15日に難波津に入り、「王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎」と歓待を受けた
その歓待が終わった10日後に200騎で警護され8月3日入京
これが日本書紀と隋書を総合的に見た日程
つまり隋書10日=日本書紀48日ではなく
隋書10日+隋書38日(詳しい日数の記述にはない、この間歓待を受けていた)=日本書紀48日
と見るのが妥当ではないかな
古い日本の年の計り方は春秋暦なのだからそこを入れて書き込んでくれ
干支から西暦の復元はほとんどできているのだからまず皇紀か西暦かで表記を統一してくれ
天皇の崩御の日が1日から15日までに集中しているから1ヶ月も15日だった可能性だってあるし
みんな都合のいい解釈しかしないから訳わからん
※3690
>合理性が一切ないのはどっちだか。
>無理矢理臭すぎて草も生えない。
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
これを
北東至投馬國 水行二十日
東至海岸 水行十日
南至邪馬壹國 女王之所都 陸行一月
に勝手に読み替える合理的な説明を待っています
女王国が二萬餘里になる合理的な説明もね
九州説はあらゆる資料と整合するんだろうなぁ
※3694
日本語すら読めない脳障ガイジくんはよ病院行けよw
水行陸行があるから九州は捨てられてるだろ無事に
>六十日行=千餘里
まず水行ですらない
つまり移動手段として異なるものを一緒にするのはNG
>に勝手に読み替える合理的な説明を待っています
そもそも中国人が行ったのなら里数でがっちり表現されてる
里数も測れない倭人が適当に表現したことだからざっくりでいい
少なくとも九州ではなく本州(か四国)
はい論破
実際に畿内に到着した中国の使節の旅程と魏志倭人伝の旅程は別ということだな
3世紀と7世紀の船の性能差がそれを埋めない限り同一とはいえないことがわかるわけだ
※3700
郡から1万2千里先はどこなの?
沖ノ島にヤマト王権の支配が及んだのは4世紀以降だからそれ以前は別勢力だよね
邪馬台国が纒向遺跡であれば、水行→水行→陸行の順番ではなく、水行→陸行→水行の順番に進んだことが正しいことは確実。
>3696
>古い日本の年の計り方は春秋暦なのだからそこを入れて書き込んでくれ
>干支から西暦の復元はほとんどできているのだからまず皇紀か西暦かで表記を統一してくれ
古い日本の年の計り方が、どこから春秋暦なのかは決めきれないんだよ
日本書紀では大体、雄略天皇からは元嘉暦で書かれているので、ここから後ろは春秋年でなく太陽年と見てよいとされている
履中・反正天皇紀は儀鳳暦になっているので、春秋暦を認める人はこれより古い時代は春秋年だったのだろうとしている
その間の、安康、允恭紀の部分は元嘉暦でも儀鳳暦でも暦が一致するので、単純には決めきれない
また、雄略天皇からは太陽年だろうとされているが、宝年が書紀62歳、古事記124歳となっていて、春秋年での宝算が記録されていたことが想定される
また、古事記と日本書紀で先帝崩御と即位年の関係が違っていて、その辺りでも、代を遡って紀年を復元していくのを困難にしている
この件については、これまでにも何度か名前を出した高城修三氏の作業仮説が面白いので、興味があるなら「紀年解読」でググってみてくれ
ただ、その場合でも、古事記と日本書紀が共通に参照した元資料がどこまで正確かという問題もあるし、そう簡単に「干支から西暦の復元はほとんどできている」と言えるものではないよ
干支自体は、60年で一周するだけのものだから、機械的に西暦何年の干支は○○とは言えるけど、崇神天皇崩御年として古事記に書かれた戊寅年が、どの戊寅年なのかとか、そもそもその戊寅が正しいのかというのは、なんとも言えない
船の性能なんてそんな変わるか?
※3702
九州か山口
※3696
>天皇の崩御の日が1日から15日までに集中しているから1ヶ月も15日だった可能性だってあるし
これは誤りだろう
初代~15代までの崩御年だけを切り抜いているだけ
即位の日などは16日以降もあるしね
どういった理由か操作かはわからないが確かに15日までが異様に多いけどさ
16日以降が1日でもあれば1月が15日までという結論は下せないんじゃないかな?
※3699
>日本語すら読めない脳障ガイジくんはよ病院行けよw
>水行陸行があるから九州は捨てられてるだろ無事に
おお、相変わらず口が悪いな学習障害君は
君は他の畿内説の人より何枚も劣るから議論が成立しないのだがあえて聞いてあげよう
水行陸行があるからなぜ九州は捨てられるの?
>まず水行ですらない
>つまり移動手段として異なるものを一緒にするのはNG
水行と陸行ならどれぐらい速度変わるの?
君ら畿内説は一直線に進んだ日数だと言ってるんだから、他の史書と整合させればある程度の速度差がわかるでしょ
ついでにHPの人は自説を捨ててないからな?
君は日本語をきちんと理解できないんだからな?
ちゃんと謝っとけよ
※3700
>そもそも中国人が行ったのなら里数でがっちり表現されてる
魏書の東夷伝のほかの条見てみ?日数表記他にもあるから
漢書西域伝でもいいぞ
>里数も測れない倭人が適当に表現したことだからざっくりでいい
魏略には日数表記なく萬二千里で女(王)国で矛盾なく九州に収まるで?
>少なくとも九州ではなく本州(か四国)
理由は?
>3695
隋書だと
俀王「遣小徳阿輩臺」従數百人設儀仗鳴皷角來迎 『後十日』「又遣大禮哥多毗」
となっていて、倭王が「小徳阿輩臺を遣わし」と「また大禮哥多毗を遣わし」が対というか連続表現になっていて、「阿輩臺を遣わし」た『十日後』にまた「哥多毗を遣わし」たと読むのが自然じゃないかね?
字数が少ないから、どうとでも読めるけれども、書いてもないことを補って読むのは、原文の改ざんに当たるからダメだって言ってなかったっけ? 自分自身で?
それから阿輩臺の歓待が38日続いて、その10日後って言ってるけど、逆に歓待が終わってから10日間何をしていたの? 大禮哥多毗の準備が整うまで、ずっと歓待を続ければいいんじゃないの?
まあ、都合のいい想定が次から次へと沸いて来るねぇ
※3709
>水行陸行があるからなぜ九州は捨てられるの?
HP読んでこいよw日本語読めないガイジくん
>水行と陸行ならどれぐらい速度変わるの?
そりゃ朝鮮半島でも陸続きなのにわざわざ水行するぐらいだからだいぶ違うんでしょ
同じ(ぐらいの)速度だというならソース出せよ
日本語読めないのは君だって「馬鹿にされてるのは誰だ問題」で答え出たよねw
畿内説が唯一絶対の真理であり、その畿内説は魏志倭人伝を根拠にしていないのであるから、一万二千里も方角も水行と陸行も議論すること自体が無意味である
>魏略には日数表記なく萬二千里で女(王)国で矛盾なく九州に収まるで?
女王国だったら魏志倭人伝でも万二千里で奴国の近くだけど
邪馬台国は水行陸行2月が必須
※3710
何が言いたいかと言うと
隋書10日と日本書紀48日は、同じ期間を表した日数ではないというだけ
これは書いてある文章からでもわかること
隋書10日=日本書紀48日は同じ期間を表すというのならその根拠を示さねばならない
>書いてもないことを補って読むのは、原文の改ざんに当たるからダメだって言ってなかったっけ? 自分自身で?
もちろんそうだ、何の根拠もなく原文を改ざんするのは最悪の行為
君らの得意技だが
しかし、複数の史書に同じことが記されていれば照らし合わせて調べるべきということも言っているんだよ?
この10日と48日は同じ期間を指した言葉ではないのは誰でもわかるわけであって
隋書の空白の38日間を、原文から調べる余地はあまりないが
日本書紀で補っているということ
記紀の干支と西暦との対応はほぼ解明されている
神功皇后が120年ずらされていることも明らかになった
天皇が空位になった1年を抜かしていたり、中国の暦を取り入れたり、戻したりの混乱も逆にその差を利用して対応させることができている
卑弥呼=神功皇后と思い込みたい人には邪魔だよな
※3711
以下HPより引用
これより、会稽東治の東とは、種子島より南の中之島近辺になる。陳寿はこの辺りに邪馬台国があると考え、倭国は南北に長い島であると想定していたことになる。精度が低いとは云え総距離12000里は、不彌国から更に長い距離、南下することを意味し、北九州より遙かに遠い位置にあることを示している。少なくとも北九州ではない。
方向が正しいとすれば、邪馬台国は宮崎か鹿児島あたりに在ったとしてもよいのではないか。邪馬台国が鹿児島にあったとすると、その南に狗奴国は存在できないので、邪馬台国が宮崎にあり、狗奴国が鹿児島にあったことになる。しかし、下記の観点から、邪馬台国が宮崎に在ったとする考えには無理がある。
倭人伝では、不彌国から邪馬台国までの行程を、水行20日と10日、陸行1ヶ月としており、一日千里とすると水行だけで30000里(2310km)になり、萬二千里とは大きくかけ離れる。これは、上記の船で換算したものではなく、はるかに遅い船の渡航日数か、各地を訪れるた旅の日数であると考えられる。よって、この日数と、萬二千里の情報は明らかに別なものであり、共に梯儁の情報とは考えられない。梯儁は邪馬台国に至る行程に関して、何らかの情報を残したと思われるが、それが必ずしも洛陽の宮廷に資料として残ったとは限らない。
■張政の情報とした場合
張政は、国境警備が任務であり、当然、水行の距離は計算できたと思われる。しかし、彼は伊都国に留まったので、帯方郡から不彌国までの距離しか分からないはずである。そこで、不彌国から邪馬台国の距離と、帯方郡から不彌国の距離の比を、帯方郡まで一緒に行った掖邪狗に質して推定したのではないか。大凡の推論では、張政は、帯方郡から不彌国までの距離を8000里と見積もり、掖邪狗は、不彌国から邪馬台国の距離を、帯方郡から不彌国の半分程度と答えたのだろう。このようにして12000里としたため、距離に大きな誤差が出た。それ故、邪馬台国に至る行程も、方向も分からず、報告できなかったか、あるいは間違った報告になったと考えられる。12000里は、感覚的に見積もった距離であったため、大きな誤差を持ち、他の資料のデータを足し引きしても合わないし、方向も合わないのではないか。
以下要約
・魏志の萬二千里の表記は正しい
・実際には萬二千里には誤差がある
・方角は南から東に置き換えた
・筆者が誤っていると考えているのは北九州に萬二千里が収まること
萬二千里を会稽東治之東とした陳寿の計算は正しいが、実際の萬二千里は誤差があるので距離は問題ないく大和まで行く、また南に行けば奈良につかないので東とした
そもそも短里を想定していることから、自分で証明した短里を捨てていないことがわかる
萬二千里を一律南と計算しないと萬二千里は北部九州の域を出ないので困るということもある
結論
自説を捨ててなどいない、君が言っているのはこのHPの人の結論を真っ向から否定すること
読解力がないのは知っているが他人に迷惑をかけないように
>3691
>うんそういう測り方だよ
で、その計り方で、大体九州から畿内に着くんだからOKなんじゃないの?
それから
>「挹婁在夫餘東北千餘里」
これは魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳第三十の挹婁
>「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
これは晋書巻九十七 列傳第六十七 四夷傳で後ろに東濱大海,西接寇漫汗國,北極弱水。「其土界廣袤數千里」ってあるけど、この60日行で行けるのは、広さ数千里の挹婁のどの辺に着くの?
魏書の夫餘の東北千餘里にある挹婁っていうのは、国境に着くことなのかね? 挹婁の中心地に着くことなのかね?
この頃は領域国家ではないから、挹婁の中心集落に着くことだと思うんだがな
この辺をちゃんと論じてくれないと、千餘里=六十日行とは単純には言えないだろう?
こういう論証を、どうしてこちらがやらなきゃいけないのか?ってずっと言ってるんだが?
いろんな史書をつまみ食いして、都合のいいところだけ短い引用で分かったようなことを書く
そしてきちんとした論証ができていない
いい加減にして欲しいよな
畿内説:魏志倭人伝は参考にならない
九州説:魏志倭人伝は参考になる
まず原書に対するスタンスが違うから議論そのものが成り立っていない
それぞれ議論の場を分けて、〇〇説ならこの部分はこう考えるくらいでいいのでは?
一番の問題は邪馬台国がヤマト王権に連なっている場合、東遷説以外は記紀と整合性が無くなる
邪馬台国とヤマト王権が別なら、畿内だと纒向遺跡の説明がつかなくなる
邪馬台国がヤマト王権とは別の王朝であり、畿内以外に存在したことのであれば記紀との矛盾は一切無くなる
九州 畿内
萬二千餘里 ○ × 帯方郡からの距離
水行三十日陸行一月 ○ × 畿内まではたどり着けない
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ○ × 記載されている兵器の出土数
倭地温暖 ○ △ 気温の比較
有棺無槨 ○ × 甕棺の出土
父母兄弟卧息異處 ○ × 父母兄弟が別々の家に住むという住居形態
出真珠青玉 ○ × 真珠、翡翠の出土数
其山有丹 × ○ 硫化水銀の産地
女王國以北特置一大率 ○ × 伊都国が北にあるかどうか
倭國亂相攻伐歴年 ○ × 戦死者の墓の出土数
其南有狗奴國 ○ × 南に狗奴國が存在する可能性
東渡海~復有國皆倭種 ○ × 女王国の東に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ × 周旋可五千餘里に収まるか
五尺刀 ○ × 刀の出土数
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ○ × 確実に3世紀と言える遺跡から出土した三角縁神獣鏡は皆無
魏産と証明された三角縁神獣鏡も皆無
4世紀、国産とする証拠・根拠多数
倭錦 ○ × 絹の出土数
白珠 青大句珠 ○ × 勾玉の出土数
3717
中国語のわかる人が魏志倭人伝を読むと固有名詞以外はそのまま読める
原文に付け加えたり解釈したりする必要はないのかもしれない
※3717
>で、その計り方で、大体九州から畿内に着くんだからOKなんじゃないの?
400年程前に2分の1の時間で着くことができたと思えるならいいんじゃない?
もちろん着くことを証明してもらわないと困るけど
>この辺をちゃんと論じてくれないと、千餘里=六十日行とは単純には言えないだろう?
起点・終点の名前が替わってることは明示されているが、位置が変わっていることは明示されていない
少なくとも原文を変えずに文献引用してるんだから評価してほしいものだ
自分は原文をむっちゃくちゃに替えまくって魏志倭人伝読んでるよな?
原文むちゃくちゃに変更して、都合の悪い部分は全部無視は論証あってのものなのかな?
>いろんな史書をつまみ食いして、都合のいいところだけ短い引用で分かったようなことを書く
>そしてきちんとした論証ができていない
>いい加減にして欲しいよな
お~い、なら水行一月陸行一月で奈良まで着けるという論証は?
確か日本海ルートだっけ?
里数も行程も方角も全部むちゃくちゃにしてるみたいだけど何かしらの根拠はあるんだよな?
畿内説の人に聞きたいが
里数は誇張である、短里など存在しないと言うが
なぜ日数や卑弥呼の墓径百余歩は誇張であると言わないの?
ダブルスタンダードなんじゃないの?
これまでの書き込みを総合すると、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州、魏志倭人伝に書かれていない邪馬台国は畿内で決着すると言える
九州 畿内
萬二千餘里 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
水行三十日陸行一月 × ○ 九州では収まらない
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
倭地温暖 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
有棺無槨 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
父母兄弟卧息異處 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
出真珠青玉 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其山有丹 × ○ 邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
女王國以北特置一大率 × ○ 伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
倭國亂相攻伐歴年 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其南有狗奴國 × ○ 九州では存在する土地の余裕がない
東渡海~復有國皆倭種 ○ ○ 女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ ○ 参問できるところの倭地が周旋五千里
五尺刀 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ▲ ○ 漢鏡7期は畿内優勢
神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
倭錦 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
白珠 青大句珠 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
>3714
>隋書10日と日本書紀48日は、同じ期間を表した日数ではないというだけ
>これは書いてある文章からでもわかること
いつも思うんだが、そもそもここからしておかしいんだよな
同じ期間を表してるんだが、片方あるいは両方が間違っているまたはいい加減、ってことを考慮に入れなさ過ぎ
文脈からも、字義通りに読んでも、対応関係のきちんと取れている二つの書で、違うことが書かれていたら、普通はどっちかが間違っている、という解釈で問題ないと思うんだが?
>複数の史書に同じことが記されていれば照らし合わせて調べるべきということも言っているんだよ?
で、照らし合わせて、日本書紀の方が自国の記録だし、より細かく日付(に当たる干支)まで書いてあるんだから、日本書紀が正しく、隋書の方は2年後(?)に戻ってきた裴世淸の報告書頼りだし、そもそも東夷傳で本紀部分ではないからそんなに正確性は求めてないだろう
だから丸めた10日くらいって書いてあるだけ と判断するのが、合理的判断だと思うがね
それから少し遅れたけど
>3694
>そうやって自由に資料を取捨選択することによって畿内説派成り立つのかとその片鱗をみた気がする
自己紹介乙、としか言いようがないな
最初3656で
「それを裏付ける事例として時代は下るが隋使の日程だ
百済から奈良まで7ヶ月行、使いの歩みはとんでもなく遅い実例である」
といい
3657で「隋書」にそんなことは書いてないと言われたら
3659で
「あと日本書記を読んでみ?
裴世清の日程が詳しく載ってるから」
といい
さらに3680で「日本書紀」にも詳しい日程なんて書いてない、7ヶ月なんてどうやっても出て来ない
と言われると
3686でいきなり500年後の「三国志記(誤変換まま)」を出してくる
そして、そのご都合主義で継ぎ足し継ぎ足しした話でも、5ヶ月にしかならない
こういうのをチェリーピッカーって言うんじゃないのか?
同時代に近い資料が当事国の双方にあって、それなのに、500年も後の先の二資料を参照して書いたのが明らかな第三国の資料を基に論を進めようって言うのが「自由に資料を取捨選択すること」以外の何ものなのか?と
※3716
捨てられたのは陳寿ガイジ説とそれでドンピシャになる九州だぞ
ちゃんと読めよガイジくん
>3725で答え出たじゃん
畿内説は魏史倭人伝を無視すれば成り立つ
3719
神武天皇=紀元前の時代
神功皇后=卑弥呼や台与の時代
邪馬台国=大和朝廷で一切矛盾がない。
それ以外のパターンだと整合性がなくなる。
×畿内説は魏史倭人伝を無視すれば成り立つ
○畿内説は魏史倭人伝をそのまま読めば成り立つ
※3729
神功皇后を卑弥呼に比定し、三韓征伐をなくしたい朝鮮半島人お疲れ様
3729
神功皇后の先祖は新羅の王子やがな
邪馬台国の時代には新羅ないで
歴史を勉強してから出直しや
3731
台与も神功皇后だからなくならないよ
日本書紀か三韓征伐かもしくはそのどちらもなくしたい朝鮮人乙
>3729
日本書紀を無視する工作員は帰ってどうぞ
>3733
時代が干支でふた回り違う
一応書いとくけど干支は60年だからね?
3732
おまえが出直してこい
※3733
神功皇后の系譜辿ってみな
3734
無視してるのはおまえだぞチョンキン
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている。
3737
何にも問題ない
神功皇后が卑弥呼なら狗奴国滅んでんじゃねえか
台与の時代に魏の援助必要ねえよ
3740
などと意味不明なことを供述しており警察では近く精神鑑定ry
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」
>3725
実質完封勝利か
気持ちE
実在する2人を実在する1人の皇后にするのがおかしい
3725
畿内と関東の間は当時海だったんですね
天日槍知らない奴多すぎ
畿内説では南→東に(というか九州説でも末盧国まで南東→北東に)90度ずれてるので、東→北となり、畿内と琵琶湖を挟んだ北陸のこと
3744
神武天皇も死んだのは127歳だからねしょうがないね
アメノヒボコは『日本書紀』『古事記』では神功皇后に至る諸人物の祖
『日本書紀』では新羅王子の天日槍が渡来したと記す
中臣氏の先祖が一緒に活躍した神功皇后を中国の文献にある伝説の卑弥呼にするなんて藤原不比等は策士だよな
干支が巡って一緒になるのも利用してるし
武内宿禰の子孫の蘇我氏をはじめ皇族系豪族もご満悦だっただろうな
三韓征伐と魏への朝貢の差の120年を飛ばして意図的に一緒にする外交センスも流石だな
3750
日本書紀と三韓征伐はなかったと?
>3749
それが何か?
三韓征伐は380年頃だから邪馬台国とは100年以上離れていることは常識
3753
日本書紀を無視するの?
※3726
>で、照らし合わせて、日本書紀の方が自国の記録だし、より細かく日付(に当たる干支)まで書いてあるんだから、日本書紀が正しく、隋書の方は2年後(?)に戻ってきた裴世淸の報告書頼りだし、そもそも東夷傳で本紀部分ではないからそんなに正確性は求めてないだろう
>だから丸めた10日くらいって書いてあるだけ と判断するのが、合理的判断だと思うがね
はっきり言ってこの10日と48日が同じ時期を表すとは全く思っていないが
いずれにせよ裴世清の日程を左右するものではない上に、隋書は総日程は載っておらず掘り下げても意味がない
俺自身も総日程は日本書紀からとっているので、日本書紀を優先するというのなら勝手にそうすればいい
>「それを裏付ける事例として時代は下るが隋使の日程だ
>百済から奈良まで7ヶ月行、使いの歩みはとんでもなく遅い実例である」
>といい
>3657で「隋書」にそんなことは書いてないと言われたら
そもそも、隋書に載っているなどとは言っていないはずだが?
>3659で
>「あと日本書記を読んでみ?
>裴世清の日程が詳しく載ってるから」
>といい
>さらに3680で「日本書紀」にも詳しい日程なんて書いてない、7ヶ月なんてどうやっても出て来ないと言われると
>3686でいきなり500年後の「三国志記(誤変換まま)」を出してくる
>そして、そのご都合主義で継ぎ足し継ぎ足しした話でも、5ヶ月にしかならない
そもそもが百済から奈良までの日程を言ったので、三国史記も参考にしたのは言うまでもない
いちいち出展を1から10まで言わなければいけないのなら議論すらできない
お前はいちいち出展を全て述べているのかと
>こういうのをチェリーピッカーって言うんじゃないのか?
こういうのを印象操作というのでは?
しかも全く原文の取捨選択はしてないしな、三書すべて包み隠さず
ところで魏志倭人伝の方角日程里数を自由自在に読み替える根拠はまだかな?
こういうのを取捨選択というか改ざんと言うと思うのだが
>同時代に近い資料が当事国の双方にあって、それなのに、500年も後の先の二資料を参照して書いたのが明らかな第三国の資料を基に論を進めようって言うのが「自由に資料を取捨選択すること」以外の何ものなのか?と
百済を3月に経由したというのがそれほどおかしいのかと?
何の矛盾もないうえに先の二資料を参照して書いたとなぜ断じれるのか?
その根拠はいかに?
そもそも、百済を通過したなんて、百済王に何ら関係ないし、百済の行事でもない
日本書紀には百済人が盗みを働いたとまで書かれており、わざわざ他の史書を参考にして書き足す必要のある文章ではない
これをなぜ他の史書を参考に推測(3月部分は推測)で書き足したと言えるのか?
しかも「經我國南路」は他の二書にない情報である
取捨選択とはこういうこと
とくに根拠もないのに、思い込みだけで三国史記は正しくないと切り捨てること
君らは魏志倭人伝でよくやってるよね
※3727
やっぱりアホやな~
陳寿ガイジ説=南に萬二千里として計算した説だろ?
これ全く捨ててないからな
というか上の文章読んでないのか?
HPの人としては一律南に萬二千里にしないと陳寿が北部九州を女王国として見ていたとなって都合がわるいんだよ
まあ読めないのはわかってたけど、つくづく頭が悪いな
論理的な思考が全くできていない、というか怖くなるわ
しかも九州にドンピシャなんて一言も言ってないからな?
萬二千里南とすると会稽東治の東にドンピシャとは言ったが
まあ萬二千里を一律南に計算しなかったら、九州に収まるんだけどね
「紹興市でドンピシャなら、福州市なら大ハズレだね。そして残念ながら東治とかいうおまえの漢文理論では全く意味が通らず、福州市なので大ハズレ。となると距離が足りないので九州はアウト、本州になるので畿内がドンピシャ。」
「とても九州内では収まらず蚊帳の外。近畿がドンピシャってことだろ。」
ところで萬二千里が福州市で畿内にはドンピシャらしいね
その計算方法を早く教えてくれよ?
ああ、これで別の畿内説君から頭がおかしいと思われたんだっけ?
>>君は畿内がちょうど会稽の東に来ると言ってるんだから、はやくその計算結果を出しなさいよ
>これ本気で言ってるんだったら、頭の中身を疑うよ
本気で「会稽の東に来ると言ってる」ことに対して頭の中身を疑われてるらしいよ
学習障害君に向けての発言だったのに、自分が言われてると勘違いしたみたいね
※3725
卑弥呼に下賜されたものが邪馬台国のことじゃないのでどうでもいいらしいぞ
しかも邪馬台国の描写を書いているものも邪馬台国のものじゃないらしい
漢鏡7期は畿内優勢?よかったね
4世紀前後の鏡が畿内優勢ということは、それ以前は全て九州優勢ということ
神獣鏡は呉系の鏡であり魏の関係者が呉系の鏡作ったのかな?
>3755
たぶん気づいてないだろうけど、
その三国史記の3月に百済を信じると、4月には筑紫にいるんだから、最低でも海を渡る三千里+百済国内の陸行と九州上陸後の陸行まで入れて、一ヶ月で行けるってことだぞ
つまり、奴国から邪馬台国の水行20+10日で、三千里くらいは軽く行くってことだよな
しかもそれが最低ラインで、陸行分があるから水行にかかる日数を少なく見積もるなら、水行30日で進める距離はもっと大きくなるぞ
「残り千五百里だから九州」とかいうのは、3755の読み方だったら真っ先に否定しなきゃならないって分かるかな?
3755の読み方が正しいなら百済通過は2月とか1月じゃないと筋が通らないだろ?
それならあの「出所不明の謎数値」の7ヶ月になるし
そうなってないところを見ても、日本書紀を見て「筑紫に4月だからその前の百済は3月」くらいのものだよ
日付まで三国史記に書いてあるならともかく、参照する必要ないよ
勘違いでごまかしてるけど、典拠不明で勝手に出てきた数字は妄想って言うんだよ
※3756
必死やな〜
(※3377)
>>畿内でも足りないなら、九州は問題外だぞ
>お前のわけのわからん計算方法ではな
>一寸千里の法を使えばドンピシャで合うんだから
(※3625)
>>3620
>おまえへにしか返信してないんだから馬鹿にしてるのはおまえだけだぞ
これだけはっきりした日本語も読めないキチガイジとは喋りませ〜ん
※3758
>その三国史記の3月に百済を信じると、4月には筑紫にいるんだから、最低でも海を渡る三千里+百済国内の陸行と九州上陸後の陸行まで入れて、一ヶ月で行けるってことだぞ
だから何度も言っているだろう
「謝銘仁によると水行陸行などの日数は実際に移動した日ではなく、
滞在期間や天気待ちの日数、修辞などを付け足した概数であるという
つまり日数分全力で真っ直ぐ進んだと思うのは間違いであるということ
対馬も実際はがんばれば1日、遅くても2日で渡れるようだが
天気を待ったり、韓国で接待などをされて滞在していたらこれを10日行でも30日行でも問題ないというのが中国人学者の認識だ」
一日千里(434m)を強行軍して追撃したという記録もある
数字がぽっきりなんで修辞もあるし、軍隊と使者の速さなんて全く異なるので参考程度だが
早く行けることを否定なんかしない
なぜならそれは事実とは異なるから
嘘をついてまで、真実を隠してまで自説を補強しようなどとは思わないんだよ君たちと違ってね
こちらの言いたいことは、使者は様々な理由で歩みが遅い場合もあり、その歩みが遅い時でもそのまま日数が表記されるということ
そして実際表記されている例があるということ
>3757
>卑弥呼に下賜されたもの
五尺刀のこと?
3720では刀の出土数に改変されてたからそっちに合わせてしまったわすまんな
刀の出土数 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
五尺刀 × ▲ 東大寺山古墳中平銘大刀
>4世紀前後の鏡が畿内優勢
漢鏡7期は2世紀後半でしょ
早く行けることもあるなんて言ってたっけ?
指摘されるまで隠蔽してたような気が
>天気を待ったり、韓国で接待などをされて滞在していたらこれを10日行でも30日行でも問題ない
嘘くさw
日記的な感じで「(接待に応じたり寄り道したりで)これだけの日数掛かりました(まる)」
ならわかるが、
道筋を説明するこういう記録の時にそんなもん書くか??
中国人(の学者は)頭おかしいとしか思えない。
>3760
>だから何度も言っているだろう
だ・か・ら、何度も言っているだろう!
>そして実際表記されている例がある
3760の言う、「とんでもなく遅いはず」の「隋の公式の答礼使の裴世清の日程」を、「3760の言うとおりに読む」と、百済から九州までの「三千里+αが一月で移動できる」という「実例」だぞ!
これを、勝手に改竄しちゃいけないんだろ? 3760の言い分では?
それとも自分の都合の悪いことは、そんな例があっても、もっと遅くてもいいになるのか?
3760の言う「とんでもなく遅いはずの大陸王朝の公式の使いの移動」だぞ!
そもそも、「起点が三国史記の時点でそんなつぎはぎの情報は意味がない」というのが、こちらの言い分だがな
それと、典拠不明の「7ヶ月」が出てきた理由は、「勘違い」でファイナルアンサーでいいのか?
それに、こっちが入京までを示しているのに、勝手にゴールを動かして意味のない1ヶ月をもぐりこませようとしたのは、「嘘をついてまで、真実を隠してまで自説を補強しよう」の典型だと思うがな!
そして、「遅くても2日で渡れる」は前に否定した 海を舐めるな!
>一日千里(434m)を強行軍
434メートルならプロアスリートなら1分少々で駆け抜けると思うけど
短里って、俺が思うよりずっと短かったんだな! 43センチちょっとか
まあ、これは見逃してあげるよ
ていうか、こういうところでは普通の魏晋里を出すんだな
434キロはどんな強行軍でも一日では進めないから誇張表現なのは当然だが、こんなのも文字通り解釈しろとか言うなら、もう、何か考えるのは止めたほうがいいと思う
それとそもそも論なんだが、「里」という単位はもともとは「集落=里が一つ入る」大きさの方形の範囲の面積を示すもので、その一辺を長さの単位ともしている
434メートルなら、そこに何軒も家があって畑があって、一つの里(さと)がある大きさだと分かる
そして大陸の度量衡では時代によって長さが前後しても大体1里=400~500mくらいの範囲のばらつき
短里を一生懸命言い立ててる人が居るが、77メートル四方の範囲に何軒の家が入るか?とか、耕地は?とか考えると、里(さと)としては成立し得ない大きさだと分かる
不彌國までは里で距離が示されていることから、大陸の役人さんがその辺りまでは来て距離を記録しているのはまあ確実視してよいだろう
海を渡る距離はともかく陸の上は歩いたのだろうし、基本は1里300歩なのだから、歩けば距離は概算できる
三国志全体が魏晋里という公定里で書かれているのに、大陸の役人さんがわざわざ「謎の短里」で計らなければいけない理由がないだろう
それなのに、実際の距離と魏志倭人伝に記された距離が異なるなら、それは「その距離がいい加減に記されている」以外の言い分はほぼ根拠がない
東夷伝に限らず、散発的に魏晋里に合わない数値が出てきたら、その数値がフィクションかいい加減かのどちらかだろう
ずっと上の方で、統計的な推定を計算して示したが、大体60くらいの試料があれば、統計的に意味のある推定ができる
しかし実際に使えそうなのは、
末廬國(五百里)伊都國(百里)奴國(百里)不彌國百里
の3例しかないのだから、意味のある推定値は出ない
>3760の言う、「とんでもなく遅いはず」の「隋の公式の答礼使の裴世清の日程」を、「3760の言うとおりに読む」と、百済から九州までの「三千里+αが一月で移動できる」という「実例」だぞ!
うん、それが?
早く行けることと、そのペースで進み続けるかはイコールじゃないのはわかるな?
>これを、勝手に改竄しちゃいけないんだろ? 3760の言い分では?
>それとも自分の都合の悪いことは、そんな例があっても、もっと遅くてもいいになるのか?
>3760の言う「とんでもなく遅いはずの大陸王朝の公式の使いの移動」だぞ!
改鋳もくそもこちらから提示してるのに何が改鋳なのか?
先にも滞在日数も日程に含めることは述べた
百済なんかではあまり滞在しなかったからすんなり、難波では歓待を受けたからゆっくり
>それと、典拠不明の「7ヶ月」が出てきた理由は、「勘違い」でファイナルアンサーでいいのか?
何度も言わすな
謝ってるだろう
>ていうか、こういうところでは普通の魏晋里を出すんだな
君らは事実に対して誠実じゃないよね
明らかな公定里の部分をこちらの都合に合わせて改変なんかしない
>434キロはどんな強行軍でも一日では進めないから誇張表現なのは当然だが、こんなのも文字通り解釈しろとか言うなら、もう、何か考えるのは止めたほうがいいと思う
ただの例に対して揚げ足取りしかできないのか?
論旨に反論してほしいものだが
※3761
五尺刀 × ▲ 東大寺山古墳中平銘大刀
自分で三角にしてるからわかってるんだろうが
2世紀後半の年号が記されたものが、4世紀後半の墓からでた
邪馬台国に関係のないことは理解しているようだ
>4漢鏡7期は2世紀後半でしょ
残念ながら4世紀前後なんだな
岡本氏の漢鏡年代論ははっきり言って間違いである
例えば漢鏡6〜7期に位置付けられる位至三公鏡などは西晋の時代に流行った鏡である
2世紀後半の漢鏡7期の鏡とは何か?
※3763
>日記的な感じで「(接待に応じたり寄り道したりで)これだけの日数掛かりました(まる)」
ならわかるが、
>道筋を説明するこういう記録の時にそんなもん書くか??
>中国人(の学者は)頭おかしいとしか思えない。
魏略ではそもそも日程の記述がないわけで
それを補う形で魏使の報告から日程記事を陳寿が追記したと言われているな
※3765
>それとそもそも論なんだが、「里」という単位はもともとは「集落=里が一つ入る」大きさの方形
語源に忠実じゃないとダメという強迫観念はなんなのか?
語源から離れた言葉は使わないのか?
そもそも短里は各史書で同じ場所を短里と長里で記述されてその長さが一致している例があるのだから存在を疑う必要はない
>大陸基本は1里300歩なのだから、歩けば距離は概算できる
歩は歩数じゃないだろう
自分の一歩分を距離1歩に変換するのか?
>それなのに、実際の距離と魏志倭人伝に記された距離が異なるなら、それは「その距離がいい加減に記されている」以外の言い分はほぼ根拠がない
きちんと測量されたものではないのでいい加減という意味ならわかるが
全くのデタラメならなぜ公定里より長くなるものがないのか?
そして万二千里>七千里>千里>五百里>百里の関係が覆るものがない
これは仮に短里を使用していないとしても、里数の誇張に法則性があるものと推測される
本当にいい加減ならもっと無茶苦茶な数字でなければならない
>3766
>早く行けることと、そのペースで進み続けるかはイコールじゃないのはわかるな?
そのとんでもなく遅いの「実例」があって、それでも3766の論旨には合わないとなったら、その実例をもってしても通用しないくらい「もっと遅い」と言い張ることの「信用度はいかほどか?」と訊いているんだが?
>何度も言わすな
>謝ってるだろう
それと「ゴールを動かして」「さらに1ヶ月」「関係ない時間を紛れ込ませようとした」件については?
>ただの例に対して揚げ足取りしかできないのか?
>論旨に反論してほしいものだが
「複数の史書を比較検討できない場合には、理由なく改竄してはいけない」が3766の「論旨」だったんじゃないか?
オレの書いた「どんな強行軍でも一日では進めない」の部分は、他の史書との比較もできないし、ただの推測なんだが、だとすると字義通り読まなきゃいけないことになるんじゃないのか?
>3768
>語源に忠実じゃないとダメという強迫観念はなんなのか?
語源に忠実なんじゃなくて、魏書(三国志)の頃を含めて3765で書いたように「大陸の度量衡では時代によって長さが前後しても大体1里=400~500mくらいの範囲のばらつき」で、極端に短い「里」は秦の始皇帝による度量衡の統一以降はないだろう、という話
>そもそも短里は各史書で同じ場所を短里と長里で記述されてその長さが一致している例
この例を挙げてくれって話
三国志の頃が、短里になってる例だぞ
>歩は歩数じゃないだろう
>自分の一歩分を距離1歩に変換するのか?
300歩=1里で、大体1歩がいわゆる「複歩」と同じくらいの長さなんだよ
普通の数え方の2歩分が「複歩」で、右足なら右足を踏み出した回数が複歩の歩数になる
大陸の1歩が1.3メートルくらいだから、実際に普通に歩く歩幅と変わらないだろ?
歩数を複歩で数えれば、300歩=1里で里数に換算できるんだよ
訓練した人じゃないと歩測でそんなに正確な数値が出るわけじゃないけど、計測係が居て歩数を数えていれば、それで距離の概算は出る
知らないことまで、何にでも噛み付くのはみっともないぞ
>3767
◯と間違えたわ
関係ないとか都合良すぎ
流行ったかどうかは関係なくね
全くなかった、ならわかるが
※3769
>そのとんでもなく遅いの「実例」があって、それでも3766の論旨には合わないとなったら、その実例をもってしても通用しないくらい「もっと遅い」と言い張ることの「信用度はいかほどか?」と訊いているんだが?
ごめん何が言いたいのかわからんわ
>「複数の史書を比較検討できない場合には、理由なく改竄してはいけない」が3766の「論旨」だったんじゃないか?
こんなもん論旨じゃなくて当然だし、しかも受け取り方おかしい
原文を理由なく改鋳してはいけない
複数の史書で同じ内容が書かれている時は比較して見てみる
こんなこと資料をみる上では当然ではないか?
君らは女王国に誰もしない意味を付け加えたり、日程方角をむちゃくちゃに改鋳したりしてるが
>オレの書いた「どんな強行軍でも一日では進めない」の部分は、他の史書との比較もできないし、ただの推測なんだが、だとすると字義通り読まなきゃいけないことになるんじゃないのか
誰がそんな話してるのか?
話ぶっとびすぎ
信用できないならできないなりの理由と根拠があれば資料批判はできるだろ
君らは何ら矛盾もない原文に、わけのわからん意味を与えたり、数字を変えたりしてるが
九州 畿内
萬二千餘里 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
水行三十日陸行一月 × ○ 九州では収まらない
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
倭地温暖 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
有棺無槨 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
父母兄弟卧息異處 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
出真珠青玉 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其山有丹 × ○ 邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
女王國以北特置一大率 × ○ 伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
倭國亂相攻伐歴年 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其南有狗奴國 × ○ 九州では存在する土地の余裕がない
東渡海~復有國皆倭種 ○ ○ 女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ ○ 参問できるところの倭地が周旋五千里
五尺刀 × ◯ 東大寺山古墳中平銘大刀
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ▲ ○ 漢鏡7期は畿内優勢
神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
倭錦 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
白珠 青大句珠 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
※3771
漢鏡6期 二世紀前半、後漢中期
漢鏡7期 二世紀後半から三世紀はじめ、後漢後期
位至三公鏡 6~7期とされる
洛陽付近出土数
27枚中26枚が西晋時代、1枚が後漢後期の時代と言われる
西暦換算で287年、295年、302年と墓誌に記されたものもある
26/27が西晋時代、多く流通した年代を考えたら4世紀前後の鏡だわな
だいたい100年はずれている
畿内説だと隋と日本の1日の長さが違えば成り立つ
つまり邪馬台国が畿内にあるならば隋と日本は別の惑星にあることになる
結論は邪馬台国は畿内にあるのだから、当時の日本は隋と百済とは別の時間軸に存在していたと思われる
>1枚が後漢後期の時代と言われる
なんだやっぱり正しいんじゃないか。
>だいたい100年はずれている
百歩譲ってそうだとしても、
既に5期の時点で畿内から鏡が出てるわけだから、
邪馬台国の時代に中国との繋がりが畿内にあったことは否定不可能。
やっぱり邪馬台国は畿内だね。
※3770
>語源に忠実なんじゃなくて、魏書(三国志)の頃を含めて3765で書いたように「大陸の度量衡では時代によって長さが前後しても大体1里=400~500mくらいの範囲のばらつき」で、極端に短い「里」は秦の始皇帝による度量衡の統一以降はないだろう、という話
実際問題、度量衡統一後もあるんだから仕方ないよね
>300歩=1里で、大体1歩がいわゆる「複歩」と同じくらいの長さなんだよ
普通の数え方の2歩分が「複歩」で、右足なら右足を踏み出した回数が複歩の歩数になる
良いことを教えてもらったよありがとう
ただでものを教えてくれるんだからありがたいね
ちなみにどんな書物にこの方法が書いてあるんだ?
次俺が使う時に知らないまま使って恥をかきたくないから是非とも教えて頂きたい
噛みつくとか言ってるけど、それは君の考えを如実に表してるね
質問すら攻撃に思うんだね
※3775
畿内説を支持する現役の学者でそんな主張をしている人がいるの?
>3777
>実際問題、度量衡統一後もあるんだから仕方ないよね
それを示してくれ
天柱山とかはもう出すなよww
>3777
「三国志は公式な史書だから正しいとみなすべきだ、改竄は認めない」って言ってなかったっけ?
公式な史書に「公式じゃない度量衡を記してある」と主張するのは「都合のいい改竄」に当たるんじゃないの?
それから、何度も改鋳って書いてるけど、江戸時代の小判の改鋳、とかに使うんだよ、改「鋳」って言葉は
鋳造(鋳型に融かした金属を流し込んで整形する技術)の「鋳」だからね
文書を改鋳するとなると、お寺の梵鐘の銘を変えるとか、そういう場面じゃないと難しいわな
>3777
>ちなみにどんな書物にこの方法が書いてあるんだ?
自分でググってみればいいのに
距離を測るときの「歩」が「複歩」だっていうのは、割に常識
伊能忠敬も複歩で歩測してるし、右足と左足で癖があっても相殺して計れるので複歩を基準にするのが基本
書物じゃなくてもこんなところにも普通に解説してあるぞ
ttp://scacademia.blog.jp/archives/50312019.html
※3780
>三国志は公式な史書だから正しいとみなすべきだ、改竄は認めない」って言ってなかったっけ?
誰がやねんそんなこと言ってるの?
とくに矛盾もないのに原文の改ざんはするなと言ってるんだよ
君のようにね
>公式な史書に「公式じゃない度量衡を記してある」と主張するのは「都合のいい改竄」に当たるんじゃないの?
意味不明だが?
公式な史書とやらが何か知らんが
通信の度量衡で書いていないのは事実
これは明らかな矛盾なんだから、何らかの解釈が必要なのは当然でしょ?
そのまま読むのか?
※3781
いや、古代の中国人がそうやって測っていたという書物だよ
中国人が複歩で測っていたと言って例が示せなかったら次自分で使った時に大恥かくからさ
※3776
ついに九州が圧倒的な漢鏡5期を出してきたか
さらに奈良の漢鏡5期は古墳時代の墓から出る
畿内の弥生時代後期の遺跡から出土する漢鏡とは何か?
>3773
九州 畿内
ヤマトという地名 × ○ 「山門」は上代特殊仮名遣の甲類なのでNG
>3775
>畿内説だと隋と日本の1日の長さが違えば成り立つ
それ、隋書も日本書紀も間違いなく正しい、とした場合でしょ?
中国の正史(紀伝体)で大事なのは「本紀」であって、これは起居注を元に書かれるから基本的には信頼できる
それに対して列伝部分は「書き残しておきたいできごと」くらいの位置づけだし、列伝の末尾の東夷北狄南蛮西戎の部分は「そんなことが伝えられている」程度なんだから、そんなにありがたがる必要もないんだよ
まあ、魏志倭人伝の3世紀ともなると他の同時代資料がないからその意味で貴重だけど、隋書(7世紀半ば成立、列伝は636年)は、日本書紀(720年完成)と成立年代もそんなに違わないし、「一日の長さが違えば」というよりも「どちらかが間違っていれば」で十分でしょ?
三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だと推す人間は3世紀には出土せず、中国でも出土しない、しかも呉系の神獣鏡系列を模した三角縁神獣鏡をなぜ推すの?
確実に洛陽で、しかも魏や晋の時代に出土する
位至三公鏡、内向花文鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡、方格規矩鏡、獣首鏡などのことをどう思っているの?
これを是非聞いてみたいですね
>3782
>公式な史書とやらが何か知らんが
三国志魏書だよ
>通信の度量衡で書いていないのは事実
>これは明らかな矛盾なんだから、何らかの解釈が必要
「通信の度量衡」というのは意味不明だけど置いておいて
魏志倭人伝の旅程記事では「日本の領域に邪馬台国を位置づけられない」のは明らかな矛盾
これは認める
そして、「何らかの解釈」という時に「どこにも根拠がない『短里』を持ち出す」よりも、「隋書等の他の史書との比較(隋書:都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也、自竹斯國以東皆附庸於俀)」から、「筑紫からは『東』」と解釈する方が矛盾が少ない、と言っているのに
3782は「とくに矛盾もないのに原文の改ざんはするな」って言うだろ?
「日本の領域に邪馬台国を位置づけられない」のは明らかな矛盾 があって、
「隋書等の他の史書との比較」という文献解釈の基本 を押さえた上で、
「魏志倭人伝のいう「南」は「東」だろう」 という「解釈」をしているだけなのに
自分の意見(九州説)に都合の悪いことは、「原文の改竄」と決め付ける
それがダブスタだって言ってるんだよ
>3772
>ごめん何が言いたいのかわからんわ
自分に不利なこと、言い込められたことは「わからん」で済ませればいいんだ
これを使うと論争を煙に巻くのに便利だねww
3772は九州説を主張している
その根拠は魏志倭人伝の里程は「短里」が使われていて、萬二千余里のうち萬五百里程度まで北部九州に着くのに使っていて、残り千五百里を短里で読めば九州内に決まっている
それがこれまでの主張の根本だよな
それに対し
1.「水行20+10日、陸行1月」が普通に考えれば九州で収まらない
2.「水行は海を渡らずに海岸沿いを船で移動すること」で九州だと適当な場所に行き着かない
と二つの反論を受けている訳だ
で、3772は
1.に対し「公式の使いはとんでもなく移動が遅いから「水行20+10日、陸行1月」が九州でもおかしくない」と再反論して、3769がそれに対する再度の反論だってのは把握してるな?
もう一度分かりやすく書くと、
3772の言い分をそのままに受け取ると「公式の使い(裴世清)が、百済から筑紫まで一か月で移動している」ことになるのだが、これが「とんでもなく遅い移動の実例」となる
その「とんでもなく遅い移動」でも「百済(半島内)での移動+半島から九州までの移動(魏志倭人伝で三千里)」を30日程度で移動できることになる
3769では、百済での移動を「陸行」って書いたけど、考えてみると百済の位置が帯方郡の位置と重なる訳だから「循海岸水行」と考えた方がいいだろう
となると、魏志倭人伝でいう「七千餘里+三千里」が水行で一ヶ月程度で行けることになる
「隋使のとんでもなく遅い移動」の「実例」として、水行30日程度が「萬餘里」となることが読み取れる訳だ
北部九州からの投馬国経由の邪馬台国までの旅程「水行20+10日、陸行1月」は、水行部分だけで「萬餘里」進むことが、「とんでもなく移動の遅い公式に大陸の使い」の移動の「実例」を当てはめて考えると、示されることになる
つまり「九州の中には収まらない」し、「萬二千余里の『残り千五百里』だから九州」も意味がない
「実例=史書からの読取り」で示されているのに、それでも「水行20+10日、陸行1月」を九州の中に収めるには、「もっと遅い」と主張しなければならないし3772は実際そう言い張っている訳だけど、
「三国史記や日本書紀」から「実例として読み取れること」を
「自分の主張と合わない」からというだけで「もっと遅くてもいい」というのは、「理由もなく内容を改竄(もっと遅く)する」に当たるんじゃないかって言ってるんだよ
理解できたかな?
それともまた、「分からん」で済ますかな?
それから
2.「水行は海を渡らずに海岸沿いを船で移動すること」で九州だと適当な場所に行き着かない
に対する反論として、3772は九州内の細い川の「川上り川下り」を「水行」だと主張しているけれど、
「中国の正史で『川に船を浮かべて人が陸を歩いて進む』のを『水行』と表現しているところを教えてくれ」というのにはまだ答えてないよな?
これは「ないことを証明する悪魔の証明」ではなく、「はっきりとした実例を一つ示す」だけでいいんだから、がんばってくれ
短里を否定する奴は漢字が読めない朝鮮人
これだけ覚えておけばOK
短里君滑ってるよ
※3788
>そして、「何らかの解釈」という時に「どこにも根拠がない『短里』を持ち出す」よりも、「隋書等の他の史書との比較(隋書:都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也、自竹斯國以東皆附庸於俀)」から、>「筑紫からは『東』」と解釈する方が矛盾が少ない、と言っているのに
隋書は実際に東に行き難波津に行っている
魏志とは違い「經十餘國達於海岸」を経ている
投馬国一国だけの魏志とは明らかに行程が違う
つまりは魏志では東に行っていなかったという証明である
音が似る邪靡堆と邪馬臺と云えるというのは当然の勘違いであり、後に
旧唐書では倭国=倭奴国であると断定している
倭と日本は別種だという混乱の記事がある、東遷した故混乱が生じるのも無理はないが
「自竹斯國以東皆附庸於俀」は「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」の対になっている文章
今は筑紫国より東も倭国であるということを強調しているということは、以前は倭国ではなかったということである
>「日本の領域に邪馬台国を位置づけられない」のは明らかな矛盾 があって、
>「隋書等の他の史書との比較」という文献解釈の基本 を押さえた上で、
>「魏志倭人伝のいう「南」は「東」だろう」 という「解釈」をしているだけなのに
>自分の意見(九州説)に都合の悪いことは、「原文の改竄」と決め付ける
>それがダブスタだって言ってるんだよ
俺は 水行二十日 水行十日 陸行一月 の原文いじってないぞ?
そのままで意味が通じると言っている
君のはいじってるけどね
というか、君が主張する日本海ルートとやらを地図になおすと
「北東水行二十日 東水行十日 南陸行一月」 になるんじゃなかったっけ?
それとか「女王国」に倭国の意味を加えるのが、矛盾がないのに自説に不利だからと必要もない意味を加える行為を「原文の改竄」というんじゃないのか?
※3789
>自分に不利なこと、言い込められたことは「わからん」で済ませればいいんだ
>これを使うと論争を煙に巻くのに便利だねww
ごめん、君の文章が本当にわからなかった
下のはわかりやすいからはしょらずに書いてくれ
自分の頭の中では理解できていても、前提条件とかがこっちはわからないんだから伝わらない
>その「とんでもなく遅い移動」でも「百済(半島内)での移動+半島から九州までの移動(魏志倭人伝で三千里)」を30日程度で移動できることになる
>3769では、百済での移動を「陸行」って書いたけど、考えてみると百済の位置が帯方郡の位置と重なる訳だから「循海岸水行」と考えた方がいいだろう
「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」
勝手に書き換えてるけどさ、3月に百済南路を経たと書いてあるだけだぞ
どこにも帯方郡のあった位置から筑紫国までを1月で渡ったなんて書いていない
よって以下だらだら書いていた指摘は不適当である
>「実例=史書からの読取り」で示されているのに、それでも「水行20+10日、陸行1月」を九州の中に収めるには、「もっと遅い」と主張しなければならないし3772は実際そう言い張っている訳だけど、
>「三国史記や日本書紀」から「実例として読み取れること」を
>「自分の主張と合わない」からというだけで「もっと遅くてもいい」というのは、「理由もなく内容を改竄(もっと遅く)する」に当たるんじゃないかって言ってるんだよ
実際に筑紫国から難波まで二月かかってるわけだが、魏志の倍の日程、難波から奈良も二月で魏志の倍、何もおかしくないよな?これも遅い例だろう?
そしてこの時代でもこれほどの時間を有していることが証明されたわけだ
先にも述べた通り、日程には滞在日数や待ちの時間が含まれる
「澤散王屬大秦其治在海中央北至驢分水行半歲風疾時一月到」
水行半歲かかる旅路も風がいいように吹けば一月で行くことができるという例もある
これなども、日数が余計にかかるという例である
はっきり言って遅く行こうと思ったらだらだらしていればいくらでも遅く行けるが、速く行こうと思っても自分の最高速度より速く行くことは物理的に不可能
故に、水行一月、陸行一月で九州から奈良まで行くことができることの証明をするべきではないかね?
2は悪いけど俺の発言じゃないんでパスね
※3789
もう1つ聞きたいが
確か、魏志倭人伝の里数はいい加減であるという主張だったよな?
しかしこれが
万二千里>七千里>千里>五百里>百里の関係が覆るものがなく、
いい加減に数字を割り当てただけとは到底思えず、ある一定の法則(たとえば5倍しているとか)があてはめられているのは疑いようがない
ならなぜ日程記事もいい加減あるいは誇張と思わないのか?
丸い数字の十日、二十日、一月しか出てこない明らかに実際の日程とは思えない数字である
里数がいい加減と主張するのならこれにも批判を加えないといけないのではないのか?
>魏志とは違い「經十餘國達於海岸」を経ている
>投馬国一国だけの魏志とは明らかに行程が違う
>つまりは魏志では東に行っていなかったという証明である
無理矢理すぎるだろw
>旧唐書では倭国=倭奴国であると断定している
>倭と日本は別種だという混乱の記事がある、東遷した故混乱が生じるのも無理はないが
新唐書で訂正されてるよ
倭という漢字がよほど嫌だったからって書かれてるし、混乱したのはそのせいでしょどう見ても。
3784
九州説だと、畿内は東方の倭種に過ぎないからね。
魏国から見たら全く知らない連中であるはずなのに、矛盾が生じる。
九州も女王勢力下だとする畿内説よりもハードルが高いんだよ。
※3796
東方の倭種の国がない畿内に言われてもね
畿内には弥生時代の墓から魏鏡が出るのかと?
出るならどこから何が出るの?
古墳時代の墓から出るのはもう聞き飽きたから教えてね
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XRumer20170721
方角が90度ずれてるから東→北で北陸だろ
なんで古墳時代を嫌がるの?
卑弥呼の墓はクッソでかいんだよ?古墳じゃないとおかしいはずだろ。
九州説的に都合が悪いから?
でもよく考えたら、卑弥呼の墓に鏡を埋めたとは書いてないよな?
埋めずに住居や祭壇で伝承されて、九州文化が伝わったところで埋め始めた可能性もあるな
時間軸のすり替え発生中。
時間軸のすり替え発生中。
随書(聖徳太子の時代西暦600年頃)と
三国志時代の卑弥呼(西暦250年頃)を混同させる書き込みが多発しています。
魏 → 南に狗奴国、東に海を渡って倭種 → 北九州邪馬壹国、南九州と争い、本州四国には別の国(○種=似た人種の別の国)
随 → 西と南は海に達し、東と北に山と毛人の国、日が昇ると弟(国?五王?)に政権を取られていた → 中国山地と日本山脈辺りで区切られた範囲で近畿に大和。
唐 → 倭か日本(藤原氏が摂関政治を始める辺り) → 日本(藤原氏が我が世を謳歌する辺り)
※3801はバカだから無視ってことでOK?
※3799
北陸は海渡らんからな
卑弥呼の時代は古墳時代じゃないからな
卑弥呼の墓を古墳と呼ぶかどうかの問題と古墳時代とは一切関係がない
古墳時代と弥生時代は時勢が大きくかわって出土物の傾向もガラッと変わる
弥生時代の遺跡から魏製の鏡が出土しない限り意味がない
>3799, 3803
要するに「北」へ海を千里渡ったところの倭種の島なんだから、隠岐でも佐渡でもいいんじゃないか?
どちらも古事記でも日本書紀でも、イザナギ・イザナミの国産みの大八洲に入ってるし、対馬-壱岐間とか、壱岐-松浦間が千里というのと、隠岐や佐渡と本州間の距離も大体同じくらいの距離感だから、まさに魏志倭人伝の記述に合うと思う
邪馬台国を九州にして、東に「千里」海を渡った国を本州と見るには、関門海峡は狭すぎるだろう
九州説はこの辺もガバガバ過ぎ
>3803
>卑弥呼の墓を古墳と呼ぶかどうかの問題と古墳時代とは一切関係がない
3803がそう思うならそれは自由にすればいいが、古墳時代に入る直前の時期に各地で巨大な墳丘を持つただ一人の首長のための王墓級弥生墳丘墓が作られているが、九州には北部にも熊本にも、見るべき大きさの墳丘墓がないんだよな
その巨大な王墓級墳丘墓の時代から古墳時代へは、つなぎ目なしに滑らかに直接繋がっている
大和だけの問題じゃなく、吉備も楯築墳丘墓から古墳時代へは直接繋がるし、出雲も西谷墳墓から古墳時代に直接入っていく
弥生時代と古墳時代の間に線を引いて、「邪馬台国は弥生時代」と声をからして叫んでもほぼ意味がないんだよ
3世紀、魏志倭人伝
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
5世紀、後漢書倭伝
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 自女王國南四千餘里至侏儒國 人長三四尺 自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國 使驛所傳極於此矣
7世紀、随書俀(倭)国伝
夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海
使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
10世紀、旧唐書
倭國者,古倭奴國也。 依山島而居,東西五月行,南北三月行
日本國者,倭國之別種也。 又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。
(別種例:扶余国に対して、高句麗国扶余種や百済国扶余種の様に、別の国と認識されている。)
(倭国は648年(631年)までで途絶える、日本国は主に8世紀からの遣唐使について)
11世紀、新唐書
日本,古倭奴也。 (倭奴国→倭国→日本国)
左右小島五十餘,皆自名國,而臣附之。置本率一人,檢察諸部。
居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。
亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。(6世紀末に通交始まる→絶えていた?無かった?)
時新羅爲高麗、百濟所暴,高宗賜璽書,令出兵援新羅。
(日本国に650年に新羅を救済させた。倭百済高句麗と日本新羅唐が戦った?)
使者與蝦蛦人偕朝。蝦蛦亦居海島中,其使者須長四尺許 (662年日本は蝦蛦人と一緒に唐に挨拶。)(663年倭は唐と戦い敗れる。)
子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄誇其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
(670年以降に倭から日本へ国号が変わる)(壬申の乱671年の後、国号が日本に変わる。)
何が言いたいかっていうと、時代によって倭の表す範囲も国家も変わっている。千年近くも完全な形で続いているわけがない、京都に落ち着く前は、遷都だって沢山やってた事が明らか。
初期王朝、神功皇后の夫王朝、継体天皇王朝、日本王朝くらいあってもおかしくない。
都の位置については、東遷は当然として、それ以外にも動いてる可能性は十分にある。
>3793
>ごめん、君の文章が本当にわからなかった
これね、3793が自分の言ったことを大事にせずに、木に竹を継ぐように思いつきで適当なことを書いてるから、自分で自分の話を追えなくなってるから分からないんだよ
>「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」
>勝手に書き換えてるけどさ、3月に百済南路を経たと書いてあるだけだぞ
>どこにも帯方郡のあった位置から筑紫国までを1月で渡ったなんて書いていない
そもそもこっちは、500年もあとに書かれた三国史記の史料価値を低く見ているので、それを日本書紀の旅程とつぎはぎにして論拠にするのは適当ではないと言っている
その上で「そっちの言い分に乗れば」という立場だから、百済南路がどことかはどうでもいいが、「九年 春三月 遣使入隋朝貢」と書いてある以上、本来「春三月」は「入隋朝貢」にかかる訳で、3月に百済南路にいた訳じゃないぞ
それだと「さらに長距離を一月で移動した」ことになるな
>よって以下だらだら書いていた指摘は不適当である
ほら!自分に都合の悪いところはごまかして逃げる!
大事なのは「一月=30日で移動した距離」だろ!
百済南路を無視しても、「とんでもなく遅いはずの隋使」が一月で「最低でも海路を三千里」移動していて、九州北部から先の「水行20+10日、陸行1月」の水行部分だけでも、最低でも三千里進むってこと
魏志倭人伝の旅程記事で「残り千五百里だから九州」ってのは、意味がないってこと!
「水行20+10日、陸行1月」部分は萬二千餘里にはどうやら入っていないことが3797の論理によって、明らかになったってことだよ!
魏志倭人伝の解釈に、新しい光を投げかけることができたね! すばらしい!
魏志倭人伝の旅程が、里と日で書かれている部分は、本質的に違って、「水行20+10日、陸行1月」の部分は里で計られていないから、萬二千餘里には入らない
だから、「萬二千餘里」と「短里」から、「九州と判断する」のは無理ってことだね!
>水行一月、陸行一月で九州から奈良まで行くことができることの証明をするべきではないかね?
これについては、自分で
>実際に筑紫国から難波まで二月かかってるわけだが、魏志の倍の日程
アンド
>水行半歲かかる旅路も風がいいように吹けば一月で行くことができるという例もある
って書いてるんだから、倍くらいはなんでもないよな?
証明終わり
>3794
>万二千里>七千里>千里>五百里>百里の関係が覆るものがなく、
>いい加減に数字を割り当てただけとは到底思えず
実際に倭国を訪れているんだから、距離が遠いか近いかくらいは分かるだろう
しかも、萬二千餘里は総距離(「日」分は入ってないかもね)なんだから、その部分集合よりも短くなるはずがない
千里と七千里で、七倍違っていたら順序が入れ替わるはずがないだろう
百里と五百里も、五倍違うからこれも普通なら順序が入れ替わったらおかしい
結局、千里と五百里くらいしか、紛れそうなところはなくて、千里が渡海で五百里が陸路なんだから、これも比べてもしょうがない
ということで順番が覆らないからいい加減ではないってのは、3794の思い込み
そして、比定地にほぼ異論がない北部九州の範囲でも1609(=3794じゃないのか?)のまとめだと
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
なんだろ?
これがいい加減でなくて、何になるんだ?
だから
>ある一定の法則(たとえば5倍しているとか)があてはめられているのは疑いようがない
と言われても、一定の法則で4倍も値が狂ってたら、そんな法則があると万一仮定したとしても「疑うしかない」だろ?
>里数がいい加減と主張するのならこれにも批判を加えないといけない
そう(日数もいい加減)だよ? いまさら何を言ってるんだ?
畿内説の人間は「水行20+10日、陸行1月」が「実距離に換算すると何キロになるから畿内でぴったり」なんて言っていない!
単に「九州には入りきらないくらい遠くだね!」としか言ってない
そして、速かったり遅かったりするんだろ?(3793参照)
>3783
「漢字の「歩」は「左足の1歩と右足の1歩」の象形文字から来ている」
「漢和辞典によれば、「歩」とは「あゆむ」などの他に、「長さの単位」でもあり、①「ひとあしの長さ」と②「ふたあしの長さ」と2つの意味が明記されている」
古代中国で計った記録も何も、漢字の成り立ちからして「両足の一歩」なんだし、表意文字としての歩の意味にも最初から「ふたあしの長さ」があるんだから、これ以上どうしようがある?
そして実際、各時代の「歩」の長さは「複歩」の長さと一致してるんだから
3783みたいなのを、「難癖」と言わずしてなんと呼べばいいんだろうね?ww
あと答えてないのは3792か
めんどくさいな
>3792
>隋書は実際に東に行き難波津に行っている
>魏志とは違い「經十餘國達於海岸」を経ている
>投馬国一国だけの魏志とは明らかに行程が違う
>つまりは魏志では東に行っていなかったという証明である
自分で答えを書いているじゃん >「魏志とは明らかに行程が違う」
畿内説の主流は「日本海航路で丹波から陸行」って書いたよな
何も証明してないよな >「魏志では東に行っていなかったという証明である」
それから「投馬国一国だけ」については、日本海航路説では投馬国に出雲を当てていて、オレは出雲を「四隅突出墓が見られる範囲」と考えている
出雲も吉備も大和も、比較的早く倭国大乱を収束させて広域の連合となっていたと考えれば、むしろ「投馬国一国だけ」というのは、当時の状況をよく反映しており、畿内に至る道筋の正しい描写だと言える
>音が似る邪靡堆と邪馬臺と云えるというのは当然の勘違いであり、後に
勘違いする3792みたいなのがいるから、わざわざ注記を書いてくれたんだよ
これを勘違いと言い張るのが「内容の改竄」
>旧唐書では倭国=倭奴国であると断定している
そうだよ
旧唐書に出てくる倭国も、後漢に朝貢した倭奴国から連続している国だって言っている訳だ
>倭と日本は別種だという混乱の記事がある、東遷した故混乱が生じるのも無理はないが
「東遷した」っていうのは、九州説の人が都合がいいからそう言ってるだけで、誰も証明した人のいない「俗説」だよね
神武の東征に対応する北部九州の王族の大和への移住はあったと、オレも考えているが、魏志倭人伝の頃より5代くらい前だと思ってる。まあ、これも俗説の域を出ないので強く主張はしないし、論拠にもしないけどな。「俗説」ってのはそういう扱いが相当
>「自竹斯國以東皆附庸於俀」は「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」の対になっている文章
>今は筑紫国より東も倭国であるということを強調しているということは、以前は倭国ではなかったと>いうことである
これも妄想だよね
一つの文書の中でなら対になる表現ってのもあるけど、何百年も間があって編者も違うのに対ってのはないだろう
それに対になるというなら、むしろ
「自竹斯國以東皆附庸於俀」と「次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」だろ? 長いけどさ
>俺は 水行二十日 水行十日 陸行一月 の原文いじってないぞ?
>そのままで意味が通じると言っている
>君のはいじってるけどね
「水行二十日 水行十日 陸行一月」を「水行20日+10日 陸行1月」って書くと「いじってる」って言われるんだ
びっくりだよ!
>というか、君が主張する日本海ルートとやらを地図になおすと
>「北東水行二十日 東水行十日 南陸行一月」 になるんじゃなかったっけ?
この書き方してるのは3792だけだよね 検索かけても3792と3689しかない
ここのコメント欄でも、他人の書いたコメントを「改竄」するのはよくないんじゃないかね?
古事記の想定する世界観では、大和の東で海に行き当たるところが伊勢神宮であり、大和の西に行って海に行き当たるところが出雲大社なんだから、出雲から大和へは古代(古事記の世界観)では正しく「東」だぞ
「水行十日陸行一月」としか書いてなくて、途中で曲がったとも書いてないのだから水行と陸行をつないで、出発点(出雲)から見て到達点(大和)が「東」で何も問題ないだろう(魏志倭人伝は九州上陸後90°回ってるから南表記)
>それとか「女王国」に倭国の意味を加えるのが、矛盾がないのに自説に不利だからと必要もない意味を加える行為を「原文の改竄」というんじゃないのか?
「必要もない意味」も何も、女王は倭王なんだから、女王国は倭王を戴く国で当たり前じゃないか
>3793
>2は悪いけど俺の発言じゃないんでパスね
では改めて、3793は投馬国までの「水行二十日」とその後の「水行十日」はどこをどう通ると思っているのか教えてくれるか?
それで、九州に収まるんだろ?
>3807~3811
>木に竹を継ぐように思いつきで適当なことを書いてる
なるほどね、自分が思いつきで適当な事を書いてるから、相手もそうに違いないと。
ソントってやつですなぁ。
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XRumer20170721
邪馬台国は弥生時代。
畿内のヤマト王権(大和朝廷)は古墳時代。
畿内の巻向遺跡の炊飯土器などから,巻向に吉備や讃岐や安芸や出雲や毛野(東海)など本州西部~中部および四国,九州中南部の王権が集結していたことが見て取れるが,なぜか北部九州だけは来ていない。
魏志倭人伝の行程からは北部九州だけは邪馬台国の勢力圏(少なくとも通っていること)が確実。
ところが弥生時代終末期になると,北部九州から吉備や出雲や毛野や畿内の炊飯土器が一斉に見つかるようになる。
北部九州がほぼ独占あるいは大部分を占めていた絹や鉄器も,古墳時代になるや畿内を中心に全国に広まっている。
そもそも北部九州が邪馬台国の勢力圏であるということは,大陸との玄関口が外国の王朝である魏(晋)の朝貢国となることを意味する。
それ以外の本州や四国,九州中南部にとっては,外国の侵略の先兵と対峙することになり,どこか戦闘のおよばないところに同盟国が集結する土地が必要になる。
それが政治機能しか持たないとみられる巻向の役割であり,邪馬台国が崩壊し,魏や晋との国交が断絶した後は巻向も機能を失ったと考えられる。
そして北部九州も併呑したことで日本全体の連合王権である大和朝廷が誕生した。
>>3811
横ですが,普通に収まるでしょう。
「距離」なら収めようがありませんが,ここだけはなぜか「時間」で書かれているのですから。
ゴールまであとたった100mでも,手前で一か月滞在すれば「一月」です。
(大使が急病で寝込んだとか,大洪水に見舞われたとか,邪馬台国側が(みすぼらしい施設しかなくて)ただちに会う準備ができていなかったとか,いくらでも足止めの理由は考えられます)
また「本当は1か月かかったんだけど,自分の勘では急げば10日で行けたはず。」というとき,皇帝への報告書にどちらを書けば罪に問われないでしょう。
ただ現在残っている魏志倭人伝は,紹興本とよばれる割と最近の写本であり,史書には結構誤記が見受けられるので,「日」の縦線が数ミリ長くて「月」と「誤写されただけ」の可能性の方が高いと思います。
※3807
>これね、3793が自分の言ったことを大事にせずに、木に竹を継ぐように思いつきで適当なことを書いてるから、自分で自分の話を追えなくなってるから分からないんだよ
いや君の表現が悪いだけ
はっきり言って誰もわからんわ
>その上で「そっちの言い分に乗れば」という立場だから、百済南路がどことかはどうでもいいが、「九年 春三月 遣使入隋朝貢」と書いてある以上、本来「春三月」は「入隋朝貢」にかかる訳で、3月に百済南路にいた訳じゃないぞ
>それだと「さらに長距離を一月で移動した」ことになるな
あのね、春三月に「遣使入隋朝貢(百済が」)と「隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」の2つの出来事があったんだよ
三国史記はこういう風に ○王何年 1月 ××があった △△があった 5月 ◎◎があったという書き方なんだよ
小野妹子らが入隋したのは前年の西暦607年(武王八年)なんだから考えればわかること
>ほら!自分に都合の悪いところはごまかして逃げる!
実際に帯方郡あたりから1月かけて筑紫まで行ったという前提がなかったことなんだからその通りだろ?
前提が間違っている以上、その前提の上に成り立つ論理は
>魏志倭人伝の旅程記事で「残り千五百里だから九州」ってのは、意味がないってこと!
「水行20+10日、陸行1月」部分は萬二千餘里にはどうやら入っていないことが3797の論理によって、明らかになったってことだよ!
意味がわからないなあ
先に何度も述べたようにどれだけ遅くともそれは日数にカウントされる
唐代の○日程という表現はご存じか?
実際に移動した日数を以て「陸行○日程」という表現を使い、旅の滞在などの全ての日程を以て「陸行○日」と表記するようになった
裏を返せば唐代以前は両者の区別なく両方「陸行○日」などと表記されていたということ
魏志倭人伝の日程記事は文章の書き方から魏略とは異なる別の資料を参照にしたのはおそらく君も疑わないだろう
恐らくは魏志の滞在なども含めた日程記事を参考に付け加えたのだろう
「○日程」の意味とするのならば陸行一月は難波津から纏向までは40km、河内湾を迂回するにしても50kmほどの移動距離、グーグルマップでは40kmで徒歩8時間16分と出る
今よりかは遥かに道が険しいことを考慮しても一月はかからないであろうから「○日程」表記ではないことがわかる
君は対馬を1日で渡ることを力説していたし、これを一月かかるとは言わないよな?
あ、日本海ルートだっけ?それならまずそのルートが使われていたことから証明してくれ
90度ずれて南を北東に変える理由とかそのへんも添えてね
>魏志倭人伝の旅程が、里と日で書かれている部分は、本質的に違って、「水行20+10日、陸行1月」の部分は里で計られていないから、萬二千餘里には入らない
>だから、「萬二千餘里」と「短里」から、「九州と判断する」のは無理ってことだね!
そもそも魏略では日程の記事はなく、女(王)国に萬二千里で到着したんだからそれでも納得できないのか?
ちなみに女王国=邪馬台国であると後の古代の中国の歴史家は評価している
>証明終わり
なるほど、それなら逆にどれだけ遅くてもそういう事例があるということも認めたわけだ
これで計2月の日程は1500里程に収まらないという疑問も解けたわけだね
※3809
>古代中国で計った記録も何も、漢字の成り立ちからして「両足の一歩」なんだし、表意文字としての歩の意味にも最初から「ふたあしの長さ」があるんだから、これ以上どうしようがある?
それで言葉の説明としては十分であると思う
でも算書とかで載ってないと、他人にソースは?って聞かれたときに恥ずかしい思いをするからさ
>そして実際、各時代の「歩」の長さは「複歩」の長さと一致してるんだから
前漢代 1.35cm
隋代 1.77cm
隋人って巨人だったのか?
こんなしょーもない揚げ足とっても仕方ないけど
いい加減なことは言わないことだ
※3810
>自分で答えを書いているじゃん >「魏志とは明らかに行程が違う」
>畿内説の主流は「日本海航路で丹波から陸行」って書いたよな
>何も証明してないよな >「魏志では東に行っていなかったという証明である」
何度も言うがそんな航路が使われていたという証明をしてくれ
上でも書いたが、南を北東に読み替える正当な理由も添えてよろしく
>出雲も吉備も大和も、比較的早く倭国大乱を収束させて広域の連合となっていたと考えれば、むしろ>「投馬国一国だけ」というのは、当時の状況をよく反映しており、畿内に至る道筋の正しい描写だと言える
九州から出雲、九州から畿内にという移動の証拠が本当に少ないんだよなあ
九州から移動したのなら土器が圧倒的に出ない
九州経由せずに半島から直接出雲に来ていたというルートならあるらしいが
どういう知見に基づいて九州→出雲→畿内なんだい?
そこを教えてほしい
>勘違いする3792みたいなのがいるから、わざわざ注記を書いてくれたんだよ
>これを勘違いと言い張るのが「内容の改竄」
隋書に従うと古の「ヤマイ」と「ヤマト」は読みが違うんだよなあ
>そうだよ
>旧唐書に出てくる倭国も、後漢に朝貢した倭奴国から連続している国だって言っている訳だ
>「東遷した」っていうのは、九州説の人が都合がいいからそう言ってるだけで、誰も証明した人のいない「俗説」だよね
実際王朝が連続してるかしてないかは証明できないが
倭奴國=九州が倭の盟主やってたときから、古墳時代以降は大和が倭の盟主やってるというのは疑いようのない事実
情報の錯綜から混乱は見られてもこれを王朝の「東遷」と捉えているのが中国の認識だからな
普通王朝が変われば国号も変わる
その国号の変更がなければ連続王朝と中国はみなす
国号を日本に変え、都の位置も変わっているし倭人も誠実に答えないから当時の中国人が混乱するのもうなづける
>これも妄想だよね
>一つの文書の中でなら対になる表現ってのもあるけど、何百年も間があって編者も違うのに対ってのはないだろう
「倭人在帶方東南大海之中」⇔「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」
「其死有棺無槨 封土作冢」⇔「死者歛以棺槨」
こういうのが対になる文章だよ
過去の文章を参照しつつ過去と現在の対比をしている
>それに対になるというなら、むしろ
>「自竹斯國以東皆附庸於俀」と「次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」だろ? 長いけどさ
これのどこが対なのかわからん・・・
以東は倭種だった→以東も倭に属す
これほど綺麗な対になる文章があるのか?
>「水行二十日 水行十日 陸行一月」を「水行20日+10日 陸行1月」って書くと「いじってる」って言われるんだ
いや、まず北東水行二十日になる君の理論をもってそう言ってるんだけど?
>古事記の想定する世界観では、大和の東で海に行き当たるところが伊勢神宮であり、大和の西に行って海に行き当たるところが出雲大社なんだから、出雲から大和へは古代(古事記の世界観)では正しく「東」だぞ
まず九州から北東だろ?何度も言うがここんとこよろしく
>「必要もない意味」も何も、女王は倭王なんだから、女王国は倭王を戴く国で当たり前じゃないか
女王国は邪馬台国の意味でしか記述されていないことは何度も述べた
女王国を倭国と読んでは矛盾する箇所が8割もあることも述べた
後世の歴史家が女王国を邪馬台国に置き換えていることも述べた
女王国が倭国であることを証明せよ
※3808
>ということで順番が覆らないからいい加減ではないってのは、3794の思い込み
つまり実際にある程度計測したことは認めるんだなあ
ということは全くのいい加減ではないということは自分で証明できたかな?
>そして、比定地にほぼ異論がない北部九州の範囲でも1609(=3794じゃないのか?)のまとめだと
ちがうな俺じゃない
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
>なんだろ?
>これがいい加減でなくて、何になるんだ?
だいたい当時は現在の海抜5m~10m地点ぐらいまでは海らしかったじゃないか
そしてこの数字は現在の地図で現在の市町村区分だろ?どこを起点・終点にしてるのか知らんけど
当時も全く同じということは考えられないし、きっちり計測してはないことはわかっていることなのでその程度の誤差は想定の範囲内
そして国間の比率はわかるぐらいには計測してたのに、そこに当てはめる数字だけをねつ造する意味がわからない
しかもなぜ韓にまでこの倭とほぼ同様の比率のいい加減なねつ造を加えたのか?
そこも教えてほしい
>そう(日数もいい加減)だよ? いまさら何を言ってるんだ?
>畿内説の人間は「水行20+10日、陸行1月」が「実距離に換算すると何キロになるから畿内でぴったり」なんて言っていない!
>単に「九州には入りきらないくらい遠くだね!」としか言ってない
>そして、速かったり遅かったりするんだろ?(3793参照)
じゃあ日数も里数同様5倍ほども誇張されていると考えないのか?
仮に5倍するのなら元の数字が偶数だと10日行単位になり、倭人伝の記述とも合う
これを疑わないことが既にダブルスタンダード
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>3813
コメント欄の流れをきちんと読んでくれ
短里があるだのなんだの言って九州説を唱える人が、「水行20日+10日、陸行1月」はどうやったら九州に収まるんだ?と問われて、苦し紛れに「正式な使いは歓待を受けながらとんでもなくゆっくり進むから日数のわりに距離は進まない、『隋使』がその例」って言い出したから、それについて論じてるだけ
その人は隋書からさらに時代が500年遅れて12世紀に成立した三国史記まで持ち出してるけどな
ちゃんと読んでるヒトには紛れがない
またバカ扱いされたくないなら、きちんと読んでくれ
時間軸のすり替えってことにしてごまかしたいなら残念だったなとしか言いようがないが
>3817
>横ですが,
もうそういうのいいから めんどくさいなあもう
>ただ現在残っている魏志倭人伝は,紹興本とよばれる割と最近の写本であり,史書には結構誤記が見受けられる
でも「邪馬『壹』國」は誤記じゃないらしいし、書き換えをすると怒られるらしいよ
「對『海』國」とか、完全に字の形が違うのにね
「對『海』國」が誤記と認められて「邪馬『壹』國」は誤記じゃない理由とかオレには分からないんだけどさ
>いくらでも足止めの理由は「考えられます」
これを言い出したら、なんでもアリになるって分かるかな?
それを言い出したら「魏志倭人伝」を基に考える必要がなくなるって分かるかな?
>皇帝への報告書にどちらを書けば罪に問われないでしょう
中華思想の徳治主義からすれば、遠くから朝貢に来るほうがいいのは分かるよな?
それを短里だのなんだの言ってる人に教えてあげて!
>3821
>じゃあ日数も里数同様5倍ほども誇張されていると考えないのか?
里:集落一つ分が入る方形の面積 からのその一辺の距離
歩:人間が歩くときの複歩の長さ
日:お日様が上がってから、沈んでまた上がるまで
どれも、普通の生活に密着してるところから来てる単位だよね
だから、もともとの定義から大きく外れたら違和感ありありになる
日数が五分の一とか、言ってて無理があると思わんかね?
まあ、短里が五分の一ってのも、普通の感覚ならその時点でおかしいと思うもんだがな
ただまあ、例えば五百里だと1里=300歩だから、歩測で歩数を数えてたら150,000歩で、計測の専門の人でもなければまともに数えてはいないんだろうなと思うけどな
それに対して、日数はせいぜい2桁なんだから、そうそう大きくはずれないだろう
それに、3821が言うようにお泊りの時間も入れて丸めた日数であの表記なんだろ
魏志倭人伝を尊重して読まないといけないとか言って、畿内説に食って掛かっておきながら、日数も「五倍も誇張」とか、それを言い出したらなんでもアリだろ?
そういう、首尾一貫しない主張(魏志倭人伝は改竄せずそのまま読め vs 日数は誇張と考えよう&距離も短里)だから、木に竹を接いだような主張って言われるんだよ!
※3825
こちらの立場では魏志倭人伝の内容をいい加減ともせず改変もしない
その通りの表記でいい
日数もある程度の修辞はあるかもしれないが誇張などとは考えない
しかしそちらは里数がいい加減と言う
なら日数もなぜいい加減とは言わずこれを固守するのかということを聞きたいわけ
実際問題里数が公定里の5分の1ぐらいの数字だということは認めるよな?
なら日数も同じように誇張されていて当然と考えるのが普通では?そちらの立場なら
しかしそれは絶対にしない
要は自説に良いように取捨選択をしているだけなんだよね
畿内までいくなら日数が多い方がいいから、これを絶対に疑わないし
里数は畿内までいくなら短いから、これをいい加減という
邪馬台国=女王国が萬二千里だと都合が悪いから、女王国は倭国のことだという
こういう言い訳を次から次へと考えないといけないのが畿内説
だから漢文に明るい中国の学者は九州説を推すし
中国の畿内説の学者も魏志倭人伝の解釈は匙を投げるんだ
邪馬台国は概念上及び認識上畿内にあるのだから、里数も日数も畿内に辿り着くよう逆算して解釈するのが正しい魏志倭人伝の読み方である。
畿内説を正しく導くためには里数も伸び縮みするし、日数もいくらでも解釈できる。
すなわち邪馬台国は畿内に存在したのである。
脳内畿内説論者?
>3826
>魏志倭人伝の内容をいい加減ともせず改変もしない
これと
>実際問題里数が公定里の5分の1ぐらいの数字
これが、両立してるのがおかしいと認識しないのが不思議
「公定里の5分の1くらい」に改変してるってなぜ分からないかな
そしてその「公定里の5分の1くらい」も、ぶれぶれで平気で何倍も違う数字を出してくる
そういうのをいい加減って言うんだよ
それから九州説論者な不思議なところは、畿内説に対する異議が書き込みの中心で、九州説がどのように成り立つかについてはほとんど論じない
例えば、3826は「邪馬台国の比定地」はどこに置くのか?
いくら訊かれても、「水行20日+10日の経路の想定」も答えない
まあ、奴国が那の津付近なのはほぼ動かないから、そこから「南」に水行する経路はないものな
九州に邪馬台国があったとして、九州も古墳時代の最初期から何事もなく古墳を作り始めることの合理的説明もしない
卑弥呼の墓の候補も九州にはないし、3828の言葉を借りれば九州の邪馬台国は九州論者の頭の中にしかないんだよ
3829
奴国から水行とは新説ですね。
新しい放射線説は興味深いです。
※3829の書き込みの中に畿内説の根拠が1つもない…
>不思議なところは、畿内説に対する異議が書き込みの中心で、九州説がどのように成り立つかについては「ほとんど」論じない
「」は引用者
逆に※3829は九州説の解説しかしてない…
畿内説の解説を「まったく」していない
何を考えているのかわからない
批判するなら畿内説の根拠を書けばいいのに…
九州説の批判≠畿内説大勝利ではないよ
畿内説の合理的な説明
「魏の方角と里数はあてにならないから無視」
「魏は邪馬台国まで行っていないから描写がない」
「後漢の鏡が一枚でも出ればそこは邪馬台国」
「纒向遺跡から九州の土器が出ないのは九州を支配していたから」
「庄内式〜布留0式の範囲の纒向遺跡からは住居跡が見つからないが七万戸の邪馬台国は纒向遺跡」
「畿内から絹が出ないのは畿内の有機物は全て腐るから」
「畿内から鉄がほとんど出ないのは再利用して見当たらないから」
「新羅の王子を先祖に持つ4世紀の神功皇后が3世紀の卑弥呼(独身かつ子供なし)と台与」
「卑弥呼の墓は畿内にあるはず」
「卑弥呼の墓は3世紀中頃には存在しない前方後円墳の円墳部分」
「4世紀頃の箸墓古墳から古墳時代は始まったが卑弥呼の墓はそれより古いが卑弥呼も古墳時代」
「日数表記は倭人風表記」
「卑弥呼の墓は邪馬台国に行ったことのないはずの魏人が百歩と測った正しい数字!」
流石に9割の学者が畿内説を唱えているらしく、どれも合理的で素晴らしい。
>そこから「南」に水行する経路はないものな
博多湾から(元寇での水城や,たびたび洪水する水量の豊富さで有名な)御笠川を遡上して大宰府,宝満川,筑後川で有明湾でしょうね。
なんで大宰府みたいなところに重要拠点があるのかと思えば,博多湾,有明湾のどちらにも行けるからでしょうね。
もちろん大型帆船が入れるはずもなく,ペーロン船やドラゴンボート型の手漕ぎ船で数隻に分乗することになりますが,客数より漕ぎ手が多数を占める上,荷物と人員全てを運ぶのに往復する必要もあったかもしれません。
博多湾から有明湾までたかだか数十キロですが,毎日日暮れまでに次の拠点まで荷物と人員全てがつけばそこで宿営することになりますから,20日はかかるのは妥当でしょう。
>>3824
>でも「邪馬『壹』國」は誤記じゃないらしいし
つまり「邪馬壹國と邪馬臺国のどちらかが誤記」だと言えます。
また隋書倭国伝には「邪靡堆(やびたい)」などという,どこから出てきたのかと思うような表記がありますが,同時代の北史では「邪摩堆(やまたい)」とあり,その誤記だといわれています。
(木板表面の凹凸などのために「手」の縦線が2本になったとみられ,それを律義になぞって写しただけということです)
そして,「日」を(筆で)書くと下の横線の位置をコンマ数ミリ上げるだけでただちに「月」になりますが,邪馬壹,邪摩堆のような比較的複雑な字でさえ誤写をするのなら,この単純な写し間違えをする可能性はその数倍も高いといえます。
>中華思想の徳治主義からすれば、遠くから朝貢に来るほうがいいのは分かるよな?
ええ,ですから「陸行一日」を「陸行一月」にするのは,「動機としても十分理解できる」ということです。(意図的に誇張したのか,あるいは日と月の判別がつかなくなってどちらを選ぶべきかを考えた末かはわかりませんが)
もっとも先に述べたようにこれは距離ではなくあくまで所要時間ですから,仮に一月かかったとしても九州内で矛盾はありません。
「やまたい」にしろ「やまい」にしろ、奈良以前の日本の言葉ではありえない発音で、「やまい」じゃなく「やまゐ」という発音だという意見もあるが、当時の中国の発音で「ゐ」を「壹」と書き記したかという問題と、他の地名は現在もある程度推測可能な地名が残っているが、「やまたい」、「やまゐ」に通じる遺跡を伴う、規模相応な地名が残っていないという問題もある。
>3833
>御笠川を遡上して大宰府,宝満川,筑後川
これに関しては、「この程度の細い川で、場合によっては陸から人が船を引くような形」を中国の史書でで「水行」という表現をしているところがあったら教えてくれって、ずいぶん前から言ってるんだがな
内陸航路でもない川を水行と言い張るのは無理があるだろ
>3830
>奴国から水行とは新説ですね。
>新しい放射線説は興味深いです。
不彌國からでいいよ
でも、九州説+短里だと、不彌國まで那の津からいくらも行かない(玄界灘に面しているところから出ない)から一緒だろ?
>3831
>批判するなら畿内説の根拠を書けばいいのに…
これは、ここまでにげっぷが出るほど書いてあるだろ?
コメ番が3000に行くまでにどれだけ書いてあると思う?
弥生末期から新しく作られた都市で、そのまま古墳時代に突入する場ともなっている纏向遺跡が邪馬台国で何も問題ないって
箸墓が卑弥呼の墓に間に合わないってい一生懸命言う人がいるけど、その前の東田大塚古墳を初めとする4つの弥生墳丘墓が完全に邪馬台国の時代に作られていて、それが他の地域で最大の王墓級墳丘墓の吉備の楯築墳丘墓よりも大きい
これだけで、もう畿内説の根拠として十分だよ
九州説みたいに、「川を水行」するとか、「公式な使いはゆっくり」だから「2ヶ月って書いてあっても20キロで問題ない」とか強弁しなくて言いし
で、九州説の人の根拠の中核となるべき
「邪馬台国の比定地」
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
を教えてくれないか?
まさか、多くの人が住んでいた痕跡が検出されていないところに、王都があったとか言わないよな?
>九州説の批判≠畿内説大勝利ではないよ
またオウム返ししてる
こっちが言ってることだよ
畿内説の批判≠九州説の延命じゃないぞってのは
>3834
>ですから「陸行一日」
その前に、陸行1日を書く必要があるのかって考えてくれ
その一日は、24時間なのか? 半日なのか?
水行十日してきて、陸に上がってその日に着くならわざわざ陸行1日って書くか?
逆に、投馬国までの旅程には陸行1日すら付いていないが、これは港に国の中心があるのか?
そっちの方が不自然だろ?
陸行一月を陸行一日に、さしたる根拠もなく(ちょっと線が長くなったら間違えるかも程度で)書き換えると3826に怒られるよ
3803
琵琶湖のことを昔の日本人は海と表現してたからね仕方ないね
古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。(wikiより)
3801、3806、3813
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
混同させてるわけじゃないよw
隋の人が邪馬台国は奈良だと言ってるねという話
3832
九州説
「末廬国からの90度のズレを認めるけど、伊都国からの方角のズレは都合が悪いから認めない」
「邪馬台国まで行ったけど里数を計ってない」
「中国は、畿内を東方の倭種としか記さないけど、鏡はあげた」
「九州から庄内土器が出てくるけど、畿内とは関係がない」
「伊都国や奴国以外の九州からは当時中国と交流してた集落跡はどこにもないけど、邪馬台国は九州」
「絹や鉄の出る伊都国や奴国のことを邪馬台国にしちゃえ」
「東遷伝説は都合がいいから採用するけど、神功皇后卑弥呼説は却下」
「九州に伊都国や奴国以外の3世紀の大きな墓はないけどいつか見つかるはず」
「古墳時代の始まりは、明治や昭和のように明確に始まる」
「邪馬台国は女王国だから万二千里」
「どれだけ東に行ったかわからないから東には行ってない」
そりゃまともな日本人から誰にも支持されないわけだわ
まーだ纒向が邪馬台国とかいってる畿内説の闇よ
>3843
>畿内説の闇
ここもう一度解説して
「二十四節気暦は日本の土地から見る東西線の太陽の位置について30度の誤差がある
北を0度(360度)とした場合82.5度までは東南である」
「邪馬台国までは萬二千里である」
「畿内から弥生時代の遺跡から魏鏡が出ない」
「最古の庄内式土器が九州から出る」
「九州には魏鏡がいたる所から発掘される」
「絹や鉄は福岡県から圧倒的に出土する」
「歴史的に九州から大和に倭の中心が移ったのは事実、神功皇后は年月が合わない」
九州に銅鏡の出土が多いのは確かだけど、平原1号墓のようないくつかの王墓級墳墓から突出して多くの鏡が出ているために多くなっている部分もかなりある
そして、平原一号墓の鏡は有名な国内最大級の内行花文鏡も含め、国内産が大部分という判定に現在ではなっている(全部とは言わない)
三角縁神獣鏡が、卑弥呼の鏡だと言っていたけれど、大部分が国内産(全部とは言わない)っていうのと、とてもよく似た展開だなと思う
>3845
>歴史的に九州から大和に倭の中心が移ったのは事実、神功皇后は年月が合わない
そうだよ? 何が不思議なの?
その倭の中心が移ったのが、卑弥呼の共立ってことで綺麗に理解できるじゃない?
逆に、卑弥呼が旧来の北部九州の王家の人間なら「共立」する必要があるかどうかを、考えてみるのもいいんじゃないかな?
>3832
それお前が捏造したデタラメ畿内説
九州説論者の卑劣さがよく表れてるな
畿内にある鏡が九州や出雲経由じゃなくて直接中国と交易した結果のみだと信じる人達ってピュアだよね
そのままでいて欲しい
>3849
>畿内にある鏡が九州や出雲経由じゃなくて
この「経由」の読み方だけだろ?
丹波では前漢鏡が弥生墳墓から出てるし、丹波は開化天皇の孫の丹波道主のところだし、日本海経由で畿内に鏡は十分届くだろ
開化天皇
日本書紀、古事記ともに開化天皇の事績に関する記載はない。
漢風諡号である「開化」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称である。
和風諡号である「わかやまとねこひこ-おおひひ」のうち、「わかやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統・文武・元明・元正の諡号に同じ)、末尾の「ひ」は神名の末尾に付く「ひ」と同義であり、開化天皇の原像は「おおひひ(大日日/大毘毘)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられた。
実在の初代天皇である崇神天皇の父とされている。
丹波道主命
第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父である。四道将軍の1人で、丹波に派遣された。
『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では丹波道主命を丹波に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された武渟川別、西道に派遣された吉備津彦命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
丹波は4世紀の初めまでは独立した勢力であり、崇神天皇の時代に征服されたのだから、3世紀の卑弥呼の時代に畿内に含めるのは適当ではない
※3850
伊都国経由してない時点でそれは邪馬台国とは倭国とは関係ないからな
土器の流れから九州経由してないのは明らかなんだから畿内はない
>3851~3
四道将軍は古事記では四道将軍とはまとめられていなくて、それぞれの派遣記事になっているし、4人の将軍の世代もばらばらというか四世代にわたっている
吉備への派遣は、実際には崇神天皇より前で、ただ欠史八代のことは記事がないから、崇神天皇の代の話としてまとめられているのかも知れない
>3854
鏡に荷札が付いてるわけじゃないんだから、伊都国を経由してないっていうのは単に3854の判断だろ?
土器の流れっていうけど庄内式が奴国の領域で出てるんじゃなかったっけ?
※3850
伊都国は丹波にあったの?
寺澤編年は「須恵器の登場を400年とし、弥生の終末を200年と見てその間を土器の種類で均等に割ると」といった相当にアバウトなものである。一体、どのくらいの誤差が見込めるのかすら分からない。本人も論文で、前後、一世代(20年ほど)の誤差があると書いている。実際、畿内編年の信頼性の低さを実証する寺沢編年は年々変化している。
結局、畿内説は鏡ガー、土器編年ガー、しか言わなくなるだろ?
再掲
九州説の人の根拠の中核となるべき
「邪馬台国の比定地」
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
を教えてくれないか?
まさか、多くの人が住んでいた痕跡が検出されていないところに、王都があったとか言わないよな?
>3858
>須恵器の登場を400年とし、弥生の終末を200年と見て
この二点は基準になるくらいはっきりした画期だってことだよな!
「弥生の終末は200年」
まあ、寺澤薫は纒向型前方後円墳を認め、そこから古墳時代とする立場だけどさ
古墳時代
3世紀半ば過ぎに、前方後円墳が出現したと考えられている。3世紀後半から、4世紀初め頃が古墳時代前期、4世紀末から古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ば頃までを古墳時代後期としている。実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半頃、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わる。時代名称はこの時期、古墳の築造が盛んに行われたことに由来する。
3世紀半ば過ぎには、出現期古墳が現れる。前方部が撥形に開いているもので、濠が認められていないものがある。中には、自然の山を利用しているものもあり、最古級の古墳に多いと言われている。埴輪が確認されていないのが特徴である。葺石なども造り方が定まっていない。
この時期の主な古墳
福岡県京都郡苅田町、石塚山古墳(女王卑弥呼の墓と目されることもある最古級の前方後円墳。造営当初は130メートル以上。築造時に墳丘に複合口縁壺が樹立されていた。)
大分県宇佐市、川部・高森古墳群の赤塚古墳(57.5メートル、周囲には幅8.5m~11mの空濠が巡る。)
石塚山古墳は墳丘に円筒埴輪列が見られず、出土遺物に石釧や車輪石、鍬形石などの石製腕飾類を含まず、出土鏡がすべて舶載鏡である特徴を持つことから、築造年代は4世紀初めごろが推定されてきたが、最新の発掘により、さらに年代を遡り、築造時期は3世紀の中頃であることがほぼ確定しており、築造当初は現在より大きかったことが明らかとなっている。
>3833
>これに関しては、「この程度の細い川で、場合によっては陸から人が船を引くような形」を中国の史書でで「水行」という表現をしているところがあったら教えてくれって、ずいぶん前から言ってるんだがな
ですから,元寇時の水城や(源流の山にダムを造って水量をコントロールしている現在でさえも)たびたび洪水が起きる豊富な水量の河です。
水城は分かりますか?
元寇軍があれを発見したとしたら「あたり一面の壁から満々と蓄えた水があふれ出ている。きっと攻め入ったら堤防を切って水攻めにするつもりだ」と思ったことでしょうね。
そんなこと豊富な水量を背景にしないとできないってことが分かりますか?
>>3863
築造時期が3世紀の中頃であることがほぼ確定しているというソースは?
その文章途中までWikiそっくりなんだが、まさか最後のところだけ改ざん捏造してないよな?www
※3856
庄内式土器は九州と河内とどちらが起源かは不明
ちなみにホケノ山古墳4世紀築造濃厚に庄内式土器が出てきており大和のものが最新の可能性が高い
そして「細い川」だとおっしゃる「御笠川」が実は「今でもたびたび氾濫することで有名な河」だという認識はありますか?
「御笠川 氾濫」でググって映像もご覧ください。
これで源流のダム(宝満山だったと思うけど)が無かった当時は,どれだけの水量だったんでしょうね。
そしてその宝満山のふもとにあるのが大宰府です。
宿営地では当然上陸するわけですが,「御笠川」側から大宰府に上陸して翌日,目の前の「宝満川」側に行けばそのまま有明海まで続いています。(空の手漕ぎ舟は運べたでしょうし,宝満山のふもと同士なので御笠川と宝満川のほぼ同じ標高を結ぶ水路跡らしきものが,グーグルマップでも太宰府天満宮裏手や九州情報大学西側に見て取れます。)
いずれも当時,手漕ぎ船の喫水で移動できないほど細い川だったとは思いませんが,どうしてもだめなら川岸を歩いただけのことでしょう。
(だからといって「水行二十日(厳密にはときどき歩いた)」とは書かなかったでしょうね。陸行に含まれてる可能性はあるでしょうが)
※3846
>三角縁神獣鏡が、卑弥呼の鏡だと言っていたけれど、大部分が国内産(全部とは言わない)っていうのと、とてもよく似た展開だなと思う
1枚でも魏鏡の可能性があるものが発掘されたのかと?
最新の研究では
『制作地は「すべてが中国製か日本製となる可能性がある」』
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/2015_11_03.htm
つまり1枚でも日本の鏡だと認められたらすべて日本の鏡だという可能性が濃厚
景初四年鏡とか意味不明な漢文刻まれてる鏡なんかはほぼ100%日本製なので
まあ日本製なんだろうな
ちなみに『洛陽出土銅鏡』『洛陽考古集成』『洛陽焼溝漢墓』『南陽出土銅鏡』『長安漢鏡』『千秋金繿』『歴代銅鏡文飾』などの中国で出版されている鏡の総覧でも三角縁神獣鏡は一切取り扱われてはいない(ないものはないので当然だが)
※3847
>その倭の中心が移ったのが、卑弥呼の共立ってことで綺麗に理解できるじゃない?
>逆に、卑弥呼が旧来の北部九州の王家の人間なら「共立」する必要があるかどうかを、考えてみるのもいいんじゃないかな?
弥生時代に九州には戦乱で亡くなった人骨が多数出現する(倭国乱の跡)→卑弥呼を畿内で共立
と言いたいのだろうが
卑弥呼が共立された時代に九州と大和の物質的交流の跡が見られない
纏向遺跡は東海などが多く九州の土器はほとんど全くと言っていいほどでない
九州の勢力が共立した可能性は0
畿内の弥生時代の遺跡からは魏鏡や鉄製品、絹、勾玉などが圧倒的に出ない
これらは卑弥呼に献上されているのだから畿内に多く出土しないとおかしい
>3866
>庄内式土器は九州と河内とどちらが起源かは不明
はあ???
考古学者で九州が起源と主張してる人いるのか?
考古学者でないアマチュアがそんなこと言ってても話にならんのだがな
分布地域が九州の方が広いとかトンチンカンな理由だったりする
お笑いでしかない
>3864,3867
中国の史書で内陸航路という記録すらない細い川で、水行という表現をしているところはあるか?と訊いているのは理解できるか?
三笠川を3867がどう思おうが勝手だが、長江や黄河クラスならともかく、信濃川でも利根川でも日本の川は細いんだよ
氾濫するくらい水量が多いとかいってるけど、氾濫してるときに移動はできないし、それだけ水量の変化が大きいってだけだろ? また流れがきついなら水運に向かないし、大陸王朝の正式な使いをそんな暴れ川に浮かべた船に乗せるのか?
せめて日本の記録でもどの辺まで水運に使ってたって記録を出してくるならともかく、水量が多いんだよってただ言うことに、「中国の史書に水行と書かれる」ための根拠としてどれだけの価値があるかっていうと、皆無だって分かってくれるといいんだがな
>3868
>つまり1枚でも日本の鏡だと認められたらすべて日本の鏡だという可能性が濃厚
すげえな!
じゃあ、「平原1号墓で出た40枚の鏡のうち、38枚が日本の鏡だと認められた」から、九州で出た鏡は全て日本の鏡だという可能性が濃厚ってことでいいね!
1枚どころか38枚なんだから、もう、ばっちり!
それくらい稚拙なことを言っているって、気がついてくれるといいけど
※3869
じゃあ庄内式は河内型 大和型 九州型 どれが一番早いんだ?
最新のものは4世紀まで使われていた大和なんだろうけど
庄内式土器は今も謎が多いのに、そのように断定できる理由も添えて教えて欲しいわ
※3871
ttp://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/2015_11_03.htm
ちゃんと読んだか?
最新の三角縁神獣鏡の知見も持たずに中国産だとか言っていたのか?
はっきり言って全て国産だよ
以下転用
■ 同一文様の鏡を量産する方法としては、「同笵技法」と「同型技法」がある。同笵技法とは、一つの鋳型(笵)で鋳造を複数回行い、同一の鋳物を製作する技法をいう。一つの鋳型から複数面鋳造する場合、鋳造ごとに鋳型に傷が増えて行く傾向にある(下図参照)。
■ 一方、同型技法では、青銅鏡で初めに制作した一面を原鏡とし、これを真土(まつち)とよぶ粘土で文様を写し取り鋳型を複数作り、この2次鋳型から同一文様の子鏡を制作する方法である。この技法では、複製した2次鋳型が乾燥や焼成する過程で、原鏡に対して一回り収縮する傾向がある。また、原鏡の傷は子鏡に写しとられて共有されるが、子鏡間では鋳型複製の過程で生じた共有しない鋳型の傷を持つことになる(下図参照)。
■ 三次元計測では、三角縁神獣鏡の裏面の文様を約400万の点として記録することができ、この点群をもとに陰影をつけた画像を白黒写真のようなコンピュータ・グラフィックとして、パソコンの画面上に表示させることができる。さらに、計測した点群を利用して、立体的な形状の比較や、非接触での高精度の断面図の作成、2点間の距離の測定なども可能である。
■ 永野敏典研究員は、三角縁神獣鏡のこうした三次元計測データを利用して、鏡に残る鋳型の傷などを分析された。同氏によれば、三角縁神獣鏡には特徴的な鋳型の傷が2種類あるという。一つは鏡背面を横切る亀裂状の鋳型(笵)傷で、他の種類の銅鏡には目立たない傷である。もう一つは、鋳型表面の面的な剥落傷である。これは同笵技法に特徴的なもので、鋳造ごとに鋳型に付けられ、同笵鏡の間で共有しながら増加する。
■ 同一文様の精良な銅鏡が多数必要であれば、同型技法を用いて原鏡から必要な面数を踏み返し続けて鋳型を量産するのが一番確実である。ところが、分析結果から、三角縁神獣鏡は同笵技法を主力として、一部に同型技法を併用している可能性があることを、永野氏は突き止められた。三角縁神獣鏡は仕上げの研磨が雑なため、鋳型の傷が確認しやすい。そのため、永野氏は、銅鏡に残された鋳型の傷から舶載鏡一面と彷製鏡3面が同じ鋳型で作られていることを突き止められた。類例は他にもあるという。
■ 永野氏の研究成果が意味するところは大きい。従来は文様の出来・不出来で「舶載鏡」と「彷製鏡」を分類してきたが、そうした分類はもはや意味をなさないことになる。そのため、制作地は「すべてが中国製か日本製となる可能性がある」ことを指摘された。
>3872
その研究が示していることは同じ時期に作られた鏡はすべて中国製あるいはすべて日本製ってなるだけだ
初期のものは中国製で途中からは日本製の可能性がますます高くなったということ
どこまでが中国製なのかは不明
3866
不明であれ何であれ、とりあえず3854は否定されたわけだな。
河内から派遣されてきた一大率が、
福岡あたりで九州を監視&献上品を畿内に輸送してたって感じかな。
逆に九州でその時代に伊都国や奴国や中国と関係のあった邪馬台国候補ってってどこ?
※3873
悪いけどそんなことどこにも書いていないし過去に証明もされていない
じゃあ初期のもの中国製と言える三角縁神獣鏡はどこの遺跡から発掘されたものなの?
この論文最後まで見たか?
■ 清水康二・主任研究員も、鋳型の傷を詳細に検討され、舶載鏡と彷製鏡の間でも、傷の位置や形状が複数箇所で一致し、同じ鋳型を再利用したと考えられる例があることを指摘された。つまり、鏡笵が損傷するたびに、傷を直して鏡笵を再利用する技法が確立していたようだ。そして「舶載鏡から彷製鏡まで同じような工人が作っていた可能性が高い」とされた。最後に講演された菅谷文則所長も、中国では出土しておらず、日本で約560面見つかっている以上、三角縁神獣鏡は国産とみる考えを披露された。
■ 三角縁神獣鏡の一部は、卑弥呼のもらった魏鏡であるとする説に筆者は与しないが、現在は舶載鏡も日本製とする全量国産説と、いわゆる彷製鏡までも中国製とする全量中国産説まで飛び出して、議論はますます混迷を深めている。しかし、筆者としては、未発見のものを含めれば2000面とも3000面とも言われる三角縁神獣鏡をすべて中国製とするにはいささか抵抗を感じる。講演を聴き終わって、むしろすべて国産であるとした方が、すっきりするように思われた。
三角縁神獣鏡研究を最新技術で解析した結果
橿考研の所長以下は国産であるという結論を下した
また、中国社会科学院考古学研究所長の王仲殊氏も日本産であるとした
日本の三角縁神獣鏡を最前線で研究する学者「日本製である」
中国の考古学の権威である学者「日本製である」
中国産もあるというのは時代に逆行する主張である
そう主張するのなら根拠と証拠を提出しなければならない
逆に聞くけど位至三公鏡、内向花文鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡、方格規矩鏡、獣首鏡などという魏で作られたことが判明されている鏡については何かコメントないの?
これは卑弥呼の鏡じゃないの?
国産の三角縁神獣鏡と違って由緒正しい中国産だけど
>3875
>逆に聞くけど位至三公鏡、内向花文鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡、方格規矩鏡、獣首鏡などという魏で作られたことが判明されている鏡については何かコメントないの?
3846でも書いたけどさ、ある意味一番有名な「平原1号墓出土の内行花文鏡」は「国内産」だと認定されてるよ
というか、出土40面中、38面が国内産とされてるし、そこには方格規矩鏡も入ってる
これらは、魏でも作られていたけれども、日本で作られたものが副葬され出土したとされてる訳だ
九州は大陸との交流が盛んで多くの舶載鏡があるから、邪馬台国は九州って言いたい気持ちは分かるけど、この認定で九州の舶載鏡が一気に40枚近く数が減るし、「由緒正しい中国産」と思っていた「内向花文鏡」も「方格規矩鏡」もその鏡面形式からだけでは中国産かどうかは分からない訳だ
さらに、3868の論理に従えば「1枚でも日本の鏡だと認められたらすべて日本の鏡だという可能性が濃厚」だそうだから、九州各地で出土されこれまで「由緒正しい中国産」と思われてきた「内向花文鏡」も「方格規矩鏡」も「日本の鏡だという可能性が濃厚」ってことだね!
ってことになるから、あんまり粗雑な論理は止めようや
吉野ヶ里遺跡から銅鐸の鋳型が出てるし、邪馬台国より100年以上前から国内で青銅器の鋳造技術は確立されてる
日本でも、たいていの鏡は作れたんだよ
その中で、なぜ三角縁神獣鏡が「大量生産」され「大量に配布」されたかというと、おそらくブランド化してたんだろう
で、そのブランド価値の根本はどこかって考えると、魏からの下賜品がもとであり、倭王の秩序の一員、ってところが考えやすいんだよ
「500枚出ていて、総数は2000枚くらいあるかもしれない、これが全部魏鏡のはずがない」のは当然で、最初に100枚もらって、あとはそれを元に国内で大量生産したって考えるのが、考えやすい
>3875
>銅鏡に残された鋳型の傷から舶載鏡一面と彷製鏡3面が同じ鋳型で作られていることを突き止められた。類例は他にもあるという。
これはいいんだけどさ、560枚出ている中で、何面分の異同が確認できてるの?
この時点では「従来は文様の出来・不出来で「舶載鏡」と「彷製鏡」を分類してきたが、そうした分類はもはや意味をなさない」ことが確認できただけで、そうやってセットにできたもののうち、大部分が国内産で、あるセットは中国産ってことになるんだと思うよ
形式論理としてはね
また、文様の出来・不出来があるってことが、何を意味するかっていうのもこれから研究が進むんだろうし、あんまり自分の都合で予断をもって読むのもなんだかな、だよ
3876
三角縁神獣鏡だけ出土時の状況から見て大事にされてないよね
他の鏡は頭を守るように配置されているのに足とか石棺の外とか割られてたりとか
三角縁神獣鏡の扱いが分かるよね
当時の人は研磨されてないし銘文も国産だし数あるしで国産だと認識していたのがよく分かるよね
>3877
>あんまり自分の都合で予断をもって読むのもなんだかな、だよ
あんまり自分の都合で予断をもって読むのもなんだかな、だよ
>三角縁神獣鏡研究を最新技術で解析した結果
>橿考研の所長以下は国産であるという結論を下した
>また、中国社会科学院考古学研究所長の王仲殊氏も日本産であるとした
>日本の三角縁神獣鏡を最前線で研究する学者「日本製である」
>中国の考古学の権威である学者「日本製である」
>中国産もあるというのは時代に逆行する主張である
>そう主張するのなら根拠と証拠を提出しなければならない
3877はすげぇな。自分の都合でこんな事言ってるように読めてしまう頭ん中してるんだろうな。
普段どんだけ捏造繰り返してるんだよw
またオウム返しかよ
そんなんしてるからホロン部扱いされるんだろうに
3875の
>何かコメントないの?
に対して3876で
「「由緒正しい中国産」と思っていた「内向花文鏡」も「方格規矩鏡」もその鏡面形式からだけでは中国産かどうかは分からない訳だ」
とお返事もらったんだから、創造性の欠片もないオウム返しなんかしてないで、自分の論拠が大して意味を持たないことに関して、自分なりの意見表明してみたら?
そもそも三角縁神獣鏡はほとんど成分が均一
明らかに中国鏡を鋳溶かして国産銅を足して作り直してる
中国の銅も魏の範囲ではないものが混じっているから魏の特注品説は違うな
三角縁神獣鏡が中国産としている現役の学者はいないから要注意
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと主張しているのは主に朝日新聞の畿内説記事由来だから騙されてはいけない
内向花文鏡も方格規矩鏡も古すぎる
一部は漢鏡6期のものもあるが、それでも邪馬台国の時代と合わない
2世紀末の出土例もありその時点ですでに伝世鏡とみなされている
3720の考古学や文献に基づいた
九州 畿内
萬二千餘里 ○ × 帯方郡からの距離
水行三十日陸行一月 ○ × 畿内まではたどり着けない
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ○ × 記載されている兵器の出土数
倭地温暖 ○ △ 気温の比較
有棺無槨 ○ × 甕棺の出土
父母兄弟卧息異處 ○ × 父母兄弟が別々の家に住むという住居形態
出真珠青玉 ○ × 真珠、翡翠の出土数
其山有丹 × ○ 硫化水銀の産地
女王國以北特置一大率 ○ × 伊都国が北にあるかどうか
倭國亂相攻伐歴年 ○ × 戦死者の墓の出土数
其南有狗奴國 ○ × 南に狗奴國が存在する可能性
東渡海~復有國皆倭種 ○ × 女王国の東に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ × 周旋可五千餘里に収まるか
五尺刀 ○ × 刀の出土数
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ○ × 確実に3世紀と言える遺跡から出土した三角縁神獣鏡は皆無
魏産と証明された三角縁神獣鏡も皆無
4世紀、国産とする証拠・根拠多数
倭錦 ○ × 絹の出土数
白珠 青大句珠 ○ × 勾玉の出土数
この結果を
3773
九州 畿内
萬二千餘里 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
水行三十日陸行一月 × ○ 九州では収まらない
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
倭地温暖 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
有棺無槨 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
父母兄弟卧息異處 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
出真珠青玉 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其山有丹 × ○ 邪馬台国が九州だと仮定すると和種の地でしかないはずの畿内が女王国圏内になってしまう
女王國以北特置一大率 × ○ 伊都国の近くに邪馬台国があれば、わざわざそんなもの置かない
倭國亂相攻伐歴年 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
其南有狗奴國 × ○ 九州では存在する土地の余裕がない
東渡海~復有國皆倭種 ○ ○ 女王国の東(北)に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 ○ ○ 参問できるところの倭地が周旋五千里
五尺刀 × ◯ 東大寺山古墳中平銘大刀
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡百枚 ▲ ○ 漢鏡7期は畿内優勢
神獣鏡が国産だとしても魏との繋がりがないと作れない
倭錦 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
白珠 青大句珠 ー ー 邪馬台国のことじゃないのでどうでもいい
こんな風にねじ曲げるんだからなぁ。
水行陸行は、両方収まるか両方収まらない読みになるから、両方収まる読みになるし、
山に丹有りは、在るだけで産出してる書き方ではないから北九州にも丹は有るし、
以北に一大率は意味不明の言いがかりだし、南狗奴國は普通に入るし畿内のがありえないし、
太刀も時代が違いすぎるし、銅鏡も時代が完全に違って学者の間違いと判明している。
ほんと酷いな。
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XRumer20170725
>3885
横レスだが、なるべく中立的立場でコメントする
・水行陸行 → 九州に不一致は”一般常識レベル”。これを九州に収まるとするのは詭弁。よって九州× 畿内○
・其山有丹 → 採取してない限り存在することを知りえない。九州にあったと強弁するのは屁理屈。よって九州× 畿内○
・一大率 → 畿内説では方角が合わない、九州説では近すぎて刺史のようだという記述に矛盾。よって両方とも×
・南狗奴國 → 畿内説では方角が合わない、九州説では面積が足りない。よって両方とも×
・五尺刀 → 製作時期を3世紀に特定できる有力な刀はない。よって両方とも×
・銅鏡百枚 → 決定的な証拠はともにない。漢鏡7期以降は九州にはないので候補さえもない。よって九州× 畿内▲
この一覧表には邪馬台国と関係ない倭人一般、倭国一般の風習風土がやたら載ってる一方で、極めて重要な項目が抜けてる
また邪馬台国固有の記述も抜けてる
九州説にとっては致命的なので意図的に除外したのではないかと勘ぐられても仕方がないだろう
・邪馬台国の発音に近い地名
・戸数7万戸
・30近くの国々の盟主
・宮室、楼観、城柵
・卑弥呼の墓径百歩
・徇葬百人
補足
一大率のことろで九州が×に納得できないかもしれないので補足しておくと
三国志の専門家である渡邉義浩氏は一大率の記述をもって邪馬台国は九州ではないと断言している
※3832
全然合理的だと思えないんだけど。
あと学者の99.9%が主張していようともそれは真実の根拠にはならないのはハインリヒ・シュリーマンの例で分かるよね。
>3888
3832は九州説の人が畿内説を揶揄するために書いたもの
3888はそれを分かった上で書いてるんだよな?
それすら不安になるような書き方なんだが
それから畿内というか纒向から絹の巾着袋が出てるよ
漆で塗ってあるものだけど、有機物は残りにくいから、そういう加工がされてないとなかなか時を超えられない
>3887
畿内説で×になってる項目の理由が軒並み「方角が合わない」になってる
逆に言えば、方角以外で畿内説に対する強い否定はほぼない
これが九州説の人が「一文字たりとも魏志倭人伝のテキストの書き換えは許さん」という理由だよな
「南」を「東」の誤りと認めれば、畿内ではないとする理由の過半はなくなる
これは多分、大陸側の「倭奴国が九州」という先入観から来る、倭國は半島の南っていう思い込みなんだと思う
それでいて九州説は、「距離は短里」だとか、「日数は移動をとんでもなく遅いと考えればいい」とか、「水行は川」とか、根拠として通用しない内容の書き換えを強弁するんだよな
そうしないと九州説は成り立たないからだろうけど、そこまでしても具体的な邪馬台国の比定地を挙げることさえできない
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XRumer20170725
※3888
将来的に逆転の可能性はもちろんあるけど、
とりあえず現時点ではそうだということで良いんじゃないの
なんか見つかったら相手してやるから大人しくしとけって九州説は
末廬国から奴国までで方角がズレてるのに、
そこから邪馬台国までの方角のズレは許さない九州説のご都合主義はなんとかならんもんか
方角がずれているからと全てなかったことにするよりは説得力がある
全て90°ずれているならそもそも最初の南東の海中からずれ、北東つまり北海道になってしまう
他の書だと東との主張もその書では対馬と壱岐も東になっておりむしろその書の東は南になる
文章の読み方としては行ったりきたりするが、最終地点はおおよそ東寄りの南として間違いではない
果たしてそれが正確かどうかはおいといて文章を書いた人はそういう認識だったということ
それ以下でもそれ以上でもない
※3876
>さらに、3868の論理に従えば「1枚でも日本の鏡だと認められたらすべて日本の鏡だという可能性が濃厚」だそうだから、九州各地で出土されこれまで「由緒正しい中国産」と思われてきた「内向花文鏡」も「方格規矩鏡」も「日本の鏡だという可能性が濃厚」ってことだね!
これは俺の論理ではなく最新の研究の結果だからな?
畿内説学者「この三角縁神獣鏡は舶載鏡、これは彷製鏡」
橿考研「最新の三次元測定器で計測した結果全部同じ型から作られているぞ」
橿考研「はっきり言って彷製鏡だぞ」
>「500枚出ていて、総数は2000枚くらいあるかもしれない、これが全部魏鏡のはずがない」のは当然で、最初に100枚もらって、あとはそれを元に国内で大量生産したって考えるのが、考えやすい
その最初の100枚の中国製っていうのがまず怪しい
中国人学者も三角縁神獣鏡は魏の鏡ではないとしてるし
舶載鏡の三角縁神獣鏡がまずどれなの?
その舶載鏡と言われているものが今回彷製鏡と同じ型だとわかった
このような例は他にもあるというのが橿考研の結論
纒向遺跡では古墳時代になっても銅鐸の一部が出土するんだな。
銅鐸文化圏は剣・鉾文化圏に取って代わられたのではなく、古墳時代の始まり、4世紀初めまで畿内を中心に栄え、その後崇神天皇や四道将軍により天皇家が勢力を拡大していったとすれば記紀と一致する。
※3887
・水行陸行 → 九州に不一致は”一般常識レベル”。これを九州に収まるとするのは詭弁。よって九州× 畿内○
何をもって一般常識としているのか不明。
魏志倭人伝の表記が唐代の「○日程」の意味ではないことは既に明かした。
漢文に明るい中国人学者は水行陸行表記を含めて、邪馬台国は九州であると断定している。
・其山有丹 → 採取してない限り存在することを知りえない。九州にあったと強弁するのは屁理屈。よって九州× 畿内○
産地はともかく丹が九州に流通していたのは発掘調査から照明済み。
倭地に丹があったとしても何ら不自然ではない。
・一大率 → 畿内説では方角が合わない、九州説では近すぎて刺史のようだという記述に矛盾。よって両方とも×
近すぎたらダメな理由が意味不明。刺史は監察官のような職なのだから「特置一大率檢察 諸國畏憚之」の表記によく合致している
・南狗奴國 → 畿内説では方角が合わない、九州説では面積が足りない。よって両方とも×
面積が足りないの意味がわからない。
倭国30国を北部九州におけば熊本以南ぐらいは狗奴國の領域になる。
現に北部九州と中部より南の九州では文化の隔絶がはっきりと見られる。
・五尺刀 → 製作時期を3世紀に特定できる有力な刀はない。よって両方とも×
上町向原遺跡から五尺の刀が出土した。
時期や大きさも申し分ない
・銅鏡百枚 → 決定的な証拠はともにない。漢鏡7期以降は九州にはないので候補さえもない。よって九州× 畿内▲
決定的な証拠がないのは認めるが
漢鏡7期のような4世紀の鏡が出た所で邪馬台国の時代とはなんら関係がない。
弥生時代後期に漢鏡が出土する畿内の遺跡はどこにあるのか?
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XRumer20170725
3894
要するに方角が正確じゃないってことでしょ。
だから方角という九州説最大のアドバンテージは消滅。
北海道でも良いと思うよ。そういうものが出土するならね。
となると結局、奈良になる。
>横レスだが、なるべく中立的立場でコメントする
うわー嘘吐き捏造民族の登場だー。
九州説を支持しない奴はみんなみんな嘘吐き捏造民族
レッテル貼り暇があるんならさ、九州で
誰にも文句を言わせない水行に恥ずかしくない巨大な川の発掘
邪馬台国の発音に近い地名の調査
戸数7万戸の遺跡
卑弥呼の墓径百歩の古墳
なんかを発見して覆してみせれば、吠え面かかせられるよ。
3897を見れば明らかなように屁理屈をこねくり回して九州だと強弁しているだけ
ただのゴリ押し
ひとつ例をあげると、行程を記述どおりにたどると太平洋の海の上い出てしまう
こんなの日本人のほぼ全員が知っている
小学校でもそう教えている
日数表記を唐代の「○日程」云々で屁理屈こねても隋書にある倭人の距離表示方法と矛盾してる以上
説得力はゼロで無意味
>3901、3902、3903
うわー嘘吐き捏造民族の登場だー。朝昼お仕事ご苦労さん。
ちなみにどこでもいい派、無くても何も困らないし、これが普通じゃね?
どうして強弁ごり押ししてるのかな~?
※3904
どっちもどっち論で相対化するも同類。
強弁ゴリ押しを肯定するつもりはさらさらないが、
議論に関しては、しっかりとした根拠を示していけばいいだけで、誹謗中傷もプロパガンダも必要ない。
結局、倭人伝は方角が間違ってるか、距離が間違ってるかに行き着く
これは小学校で習った通りのこと
距離が間違ってると仮定すると様々な矛盾が生じる
倭人伝の他の記述や考古資料との矛盾
一方、方角が間違ってると仮定すると文献上の矛盾がなくなり、また考古資料と整合性が取れる
畿内説は真実である
遺物は何も発掘されないが宮内庁が発掘を認めていないところから出るに決まっている
宮内庁が発掘を禁止していないところからは何一つ出てこないが宮内庁が隠しているに決まっている
朝日新聞をはじめ、大手新聞社の記事は全て畿内説なのだから畿内に決まっている
日本の大手マスコミは決して捏造をしないから正しい
記紀に邪馬台国のことが書いていないことがむしろ畿内説の正しさを証明している
記紀は単なる神話であり書いていないことが真実なのである
※3907
何を主張したいかよく分からんが方角が間違っているならその時点で文献と矛盾するぞ
方角が間違っていて距離が正しくとも陸行水行の正確な距離換算も一万二千里の正確な出発地も分からないからそもそも正しい距離が分からんぞ
そして考古資料が何を表しているかは不明だがこれぞ邪馬台国の決定版といえる遺跡も遺構も出土品もないぞ、魏志倭人伝と整合性の取れる遺物があったらすでに邪馬台国論争は決着している
どんな小学校の授業だったのか興味深い
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XRumer20170725
畿内説を裏付ける住居跡も卑弥呼関連の出土品もないことはよく分かった
3908
行程論が唯一の根拠とも言える九州説が自爆してるwww
行程記事からは邪馬台国の場所を特定できないと自ら認めてしまってるやん
※3899
そもそも角度のズレも
二十四節気暦は日本の土地から見る東西線の太陽の位置について30度の誤差がある
北を0度(360度)とした場合82.5度までは東南である
ということが証明されているのでな
3911
特定できたならそこが邪馬台国だろ?
つまりどこも特定できていない
何を当たり前のことを書いているんだ?
3913
行程記事からは邪馬台国の場所を特定できない
つまり倭人伝の他の記述、あるいは考古学的アプローチなど他の方法に頼るしかないってことだ
頑張って遺跡見つけてこい
3914
つまり魏志倭人伝の他の記述、刺青をしていた地域の中に邪馬台国はあると言いたいわけだね
倭人伝に書かれているものが一番出土するのが北部九州だからな
それは畿内説の連中も認めている
だから、女王国は九州から畿内までの連合国家だとかわけのわからん理屈をつける
しかし畿内からは九州や中国と交易した遺物が出ないから、三角縁神獣鏡なんかを魏からもらった鏡として主張するしかない
こんな畿内説の学者の一部しか中国産と言わず、中国の学者も日本の研究者もほとんどが国産と認めているものを捻じ曲げて主張するしかない
3915
曲解でこじつけは不可
>3897
酷いなこいつ
水行陸行以外も詭弁、屁理屈、歪曲のオンパレード
・其山有丹
九州で発掘された丹を成分分析してすべて大陸産であったことは掲示板でも何度も出てきているので
知っていたはずなのに九州説に都合の悪い結果は意図的に無視して、
しれっと九州にも丹があったという結論に導こうとしてる
大陸産を使っているのは九州では丹を採取できなかったことを意味する
・一大率
刺史が首都近郊ではなく地方に置かれた官職であることも掲示板で何度も出てきているので
知っていたはずなのに九州説に都合の悪い部分を意図的に無視している
邪馬台国から見たら伊都国は首都圏ではなく地方にあるというのが魏使の認識
・南狗奴國
根拠のない強弁
・五尺刀
伊都国から何が出ようとそこは邪馬台国ではないのに、伊都国の出土品を根拠にしようとするところに悪意がある
年代もズレているのを意図的にごまかしている
・銅鏡百枚
漢鏡7期が4世紀とか一般には通用しない年代を強弁しているだけ
漢鏡7期を4世紀にすることは日本史だけでなく中国の古代史も変更しろという意味になることに気づいているのか疑問
3917
刺青は記述されてますよね?
※3918
丹については畿内とは全く交流がなかった証拠になってしまうから畿内説的には触れない方が良い
水銀と古墳
竪穴式石室に敷き詰められていた朱(赤色の顔料)のうち、木棺中央部だけに貴重な「水銀朱」を大量に使い、石室内のほかの部分の顔料はベンガラ(酸化鉄)を用い、使い分けをしていた。
このような使い分けは、弥生中期末の北部九州地方が国内最大の出土例としてある。
丹生神社の祭神である丹生都比売という女神は、北九州の伊都を発祥とし、水銀鉱業を生業とする丹生氏族の氏神である。水銀鉱業は当然大陸伝来の技術であり、丹生氏も大陸から移ってきた一族である。各種文献に基づき、紀元前5~3世紀、呉越の戦いから秦による統一に至る中国の戦国時代に呉王女姉妹を奉戴し新天地の倭国へ向かった金属採取に長けた呉越の一族が丹生氏の祖であるとしている。 呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。 水銀の原鉱である辰砂は赤土であり、原始古代社会において炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられていた。水銀原鉱の産地のほとんどは中央構造線沿いにあり、丹生氏族も中央構造線に沿って豊後水道から四国松山、吉野川、阿波、淡路島、さらに紀伊まで進出して行った。この中央構造線に沿って丹生という地名が多く存在するが、この丹生が丹生氏族が水銀の生産を行った地であり、丹生神社のある、または、あった場所である。
当時の鉱床は露出しており、九州から四国、紀伊半島から伊勢を移動した丹生一族がそれぞれの場所で辰砂を確認、利用し、その土地ごとの権力者に献上していたことが伺える。
>3920
畿内と北部九州の交流については何度も出てきてるだろが
双方向の交流ではなく、畿内から北部九州への一方向の交流だったと
※3923
つまりそれは伊都国から物資を畿内に運ばずにいたってことだろ
邪馬台国に間違いなく献上していたのに畿内には届いていない
これは邪馬台国ではないことを意味する
>3912
>二十四節気暦は日本の土地から見る東西線の太陽の位置について30度の誤差がある
北を0度(360度)とした場合82.5度までは東南である
こういう聞きかじりの、意味のない書き込みが一番情けないなと思う
二十四節気暦ってなんだよ 太陽暦って言いたいのか?
>>3924
九州説は曲解歪曲ばっかりだな
ほんとウンザリ
往来してたのが畿内系の人だったということだ
九州の胎土で作った庄内式土器が纒向で出てる
九州 畿内
邪馬台国の地名 × ○ 九州の候補地を山門郡に絞る場合は○になる
戸数7万戸 × ○ 九州に収めるのは不可能
30の国々の盟主 × ○ 倭国の盟主≒日本列島の盟主とすれば、邪馬台国論争は決着
宮室、楼観、城柵 ▲ ▲ 九州の候補地を吉野ヶ里に絞る場合は○になる
卑弥呼の墓径百歩 × ○ 箸墓の円墳部分
徇葬百人 × × 九州は集団墓地、畿内は記紀の記述のみで証拠なし
そもそも邪馬台国論争とは3世紀における倭国の盟主がどこの国であったかを探すもの
なお考古学的事実として畿内ヤマトが日本列島の盟主であった
もし魏使が畿内ヤマトの存在を認識していたことを証明できればその時点で邪馬台国論争は終了
>3922
1068>丹生氏は畿内の奈良から和歌山に拠点があった氏族
1131>熊本などで辰砂が出るのは、丹生氏が日本中を探し回った飛鳥時代以降
>丹生神社の祭神である丹生都比売という女神は、北九州の伊都を発祥とし
丹生都比売神社の所在地が「紀伊国伊都郡」だということから、個人の考え付いた俗説を、さも根拠があるように書き連ねてもしょうがないだろうに
>>3927
そもそも邪馬台国論争とは3世紀における倭国の盟主がどこの国であったかを探すもの
なお考古学的事実として畿内ヤマトが日本列島の盟主であった
定義自体が間違ってんじゃねえか!あんた高校生だろ?
倭国と邪馬台国の関連要素は何だ?女王国はどこ行った?
畿内ヤマトってどういう定義されてんの?
まったくもって意味不明
※3918
・其山有丹
>九州で発掘された丹を成分分析してすべて大陸産であったことは掲示板でも何度も出てきているので
>知っていたはずなのに九州説に都合の悪い結果は意図的に無視して、
>しれっと九州にも丹があったという結論に導こうとしてる
>大陸産を使っているのは九州では丹を採取できなかったことを意味する
大陸から丹を下賜されたことは魏志倭人伝の通り
つまりは九州こそが邪馬台国のあった地域だと証明している形
・一大率
>刺史が首都近郊ではなく地方に置かれた官職であることも掲示板で何度も出てきているので
>知っていたはずなのに九州説に都合の悪い部分を意図的に無視している
>邪馬台国から見たら伊都国は首都圏ではなく地方にあるというのが魏使の認識
伊都国は女王国より千五百里北にあると魏志倭人伝から読み取れる
陳寿はもちろんその距離関係を知っている
刺史のようだといわれているのは監察官という特性であるのは
「諸國畏憚之」から読み取れる
しかも「諸國」を監察していることが読み取れるので
その点は刺史のようではないことを陳寿も百も承知
つまり監察官という特性を言っただけなのは誰でもわかること
・南狗奴國
>根拠のない強弁
何が根拠の無い強弁なのか?
教えていただきたいね
・五尺刀
>伊都国から何が出ようとそこは邪馬台国ではないのに、伊都国の出土品を根拠にしようとするところに悪意がある
>年代もズレているのを意図的にごまかしている
年代がどうズレているのか?
五尺刀どころか刀もロクに出ない畿内よりはマシだと思うが?
・銅鏡百枚
>漢鏡7期が4世紀とか一般には通用しない年代を強弁しているだけ
>漢鏡7期を4世紀にすることは日本史だけでなく中国の古代史も変更しろという意味になることに気づいているのか疑問
※3774でも述べた通り
3世紀の前半~中ごろの遺跡から出る漢鏡7期とは何という鏡か?
どこの遺跡から出るのか?
※3925
『漢書』律暦志
>3927
>倭国の盟主≒日本列島の盟主とすれば、邪馬台国論争は決着
九州説の人は「畿内に纏向があっても、九州の地方王権が魏に遣使したのであり魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は九州、30国は全て九州」って立場だよ
そんな地方政権だったら、議論する意味はないんだがね
3923
畿内に中国のものが伊都国経由で運ばれてないなら邪馬台国は畿内にないぞ
そして九州説の今このコメント欄でイキっている人は、自分に不利なことは「言ってることが分からない」とか「意味不明」とかいって、議論から逃げて論点ずらしをするのが得意です
>3931
二十四節気は今でも使われているんだから、それはどうでもいいんだよ
問題にしてるのは
「日本の土地から見る東西線の太陽の位置について30度の誤差がある」
「北を0度(360度)とした場合82.5度までは東南である」
これが根拠がないって言ってるの
こんなことは『漢書』律暦志に書いてないだろ?
>3929
まさに3934の人が書いている通り自分に不利な状況になると、罵ったり「意味不明」といつものフレーズ出してごまかす
自分の定義を書いてから偉そうなこと言えや
そもそも畿内ヤマトが3世紀の列島の盟主であることは古代史の常識レベルの基礎知識
再々掲
九州説の人の根拠の中核となるべき
「邪馬台国の比定地」
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
を教えてくれないか?
それと
中国の史書で内陸航路という記録すらない細い川で、水行という表現をしているところはあるか?
※3932
魏志倭人伝の時点で
南と東が全然倭国ではなく、倭地に様々な勢力がいて統一されていないことが物語られているのに何をもって統一政権だとか言ってるのか?
しかも漢のころは百カ国も使役は通じていた
自分だけしかしらない魏志倭人伝の読み方の登場か?
※3934
議論で敗北して逃げてレッテル張りとは悲しいなあ
3820,3821あたりから質問にほとんど反論できず・・・
逃げながらレッテル張りが得意なの?
>3938
>倭地に様々な勢力がいて統一されていないことが物語られているのに何をもって統一政権だとか言ってるのか?
誰も統一政権だなんていってないだろう
「乃共立一女子爲王」
共立ってのは、それぞれ自立している勢力が合意の下で一人の王を担ぐってことだろ
この共立範囲には王と認められているわけだ
そして親魏「倭王」である以上は、わざわざ属さないと書いてある狗奴国とかを除いた範囲の倭国の王だよ
>3938
>逃げながらレッテル張りが得意なの?
3937に「再々掲」って書いてあるのは読めるかな?
逃げずに答えてね!
>議論で敗北して逃げてレッテル張りとは悲しいなあ
>3820,3821あたりから
議論って、「九州北部から出雲」に行くのが「北東だから東じゃない」ってやつのことか?
南を東というなら投馬国まで東のはずだが、それを出雲だというなら北東だってやつか?
これ、答えるに値しないだろう?
北東って、真東じゃないが、普通の感覚なら九州から山陰への海岸沿いの移動って東で何か問題あるか?
それよりも、
「中国の史書で内陸航路という記録すらない細い川で、水行という表現をしているところはあるか?」
に答えてね!
「水行は川(キリッ)」の方がよほどひどい捏造解釈だと思うがね
※3940
「中国の史書で内陸航路という記録すらない細い川で、水行という表現をしているところはあるか?」
これなんで条件を絞りまくってるのかわからない
川を水行してる表現はいくらでもあるが?
それに細い川の定義は?逆に太い川も
そしてなら細い川を行くときは水行と言わず何と表記するのか?
むしろ水行を陸行と表現してる箇所を示す方が早いんじゃない?
いくら待ってても「中国の史書で内陸航路という記録すらない細い川で、水行という表現をしているところはあるか?」に答えそうもうないから、こっちで調べたよ
三国志前後の大陸の正史で漢書から新唐書までの範囲で「水行」で全文検索をかけた結果
漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書
の史書に43ヵ所「水行」表記がある
ただ「罔水行舟」みたいな故事成語もあって、地理、旅程として「水行」が使われているのは19ヵ所
そのうち、倭国までの水行、投馬国までの水行、邪馬台国までの水行の3つセットが「三国志」「梁書」「北史」にあるので、残り10ヵ所
流求國が「北史」と「隋書」で計2ヵ所
それから東南アジアの
赤土國,扶南之別種「北史」 プノンペン辺り
安南 「新唐書」 ヴィエトナム
佛逝國 「隋書」「新唐書」 マレー半島からスマトラ辺り
それから、大秦国(ローマ帝国)の属国で紅海沿岸の澤散王の話が、三国志の本文ではなく注釈にある
琉球から澤散王までの7つは、全て海の水行だって分かる
残りの「水行」は3つ
うち二つが「梁書」と「南史」にまったく同じ表現があって
循海大灣中正西北入,歴灣邊數國,可一年餘到天竺江口,逆水行七千里乃至焉
天竺江口つまりガンジス川河口から、「逆水行」七千里で着く
と書いてあるが、ガンジス川くらい大きな川なら水行と書かれることが分かる
ただ、川を遡るので『逆』水行になってる
で最後が、「新唐書」の
北經大泊,十七里至金河。又經故後魏沃野鎮城,傍金河,過古長城,九十二里至吐俱麟川。傍水行 ,經破落汗山、賀悅泉,百三十一里至歩越多山
ここでは、吐俱麟川の傍水行をしている
この吐俱麟川がどれくらいの川幅かは分からないが、これは傍「水行」ではなく、「水(吐俱麟川)の傍らを行く」つまり「川沿いを行く」だろう
これで、大陸の三国志前後の正史に出てくる「全ての『水行』」を検討したが、
1. 基本的には海
2.ガンジス川くらい大きければ川でも水行 ただし河口からは『逆』水行
3.吐俱麟川は、水行してない
ということで、水行を「川のぼり」あるいは「川舟を引いて岸を歩く」とするのは無理だよ
あきらめな
川のぼりなら『逆』水行だし、川沿いを歩くなら『傍』水行と書かれる
ただの「水行」は海を行くことだよ
>3941
>川を水行してる表現はいくらでもあるが?
また嘘を吐く!
3942参照!
川を水行している表現は、ガンジス川だけ!
他にあるなら、出してみな!
結局、九州説の人はきちんとした論拠もなく、調べる手間を相手任せにして、調べがつくまでの間自分が正しいような顔をするだけ!
論拠は論証側が自分で出して欲しいね!
三掲
九州説の人の根拠の中核となるべき
「邪馬台国の比定地」
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
を教えてくれないか?
九州説のガイジくんは
>おまえへにしか返信してないんだから馬鹿にしてるのはおまえだけだぞ
これだけはっきりした日本語も認めないからな〜
もう病気なんだよ
>3941
>むしろ水行を陸行と表現してる箇所を示す方が
そんなものは、端からない!
つまり畿内に魏志倭人伝の内容を示すものはないということですね
史書によったら水南行とか船行という表現もあるのに水行で検索かけたらそら少ないわ
ちなみにガンジス川は短里で書かれてるね
短里を一つ見つけてよかったね
内海が水行と表現されている例はあるのか?
>3948
>水南行とか船行という表現もあるのに
水南行も水北行も全文検索かけてもヒットしないんだが?
何度も言うが、適当なことを書かずに「論証する側が論拠(原典)を挙げてくれ」
船行が、川なんじゃないのか?
これも「論証する側が論拠(原典)を挙げてくれ」
川の水行はガンジス川しかないって言うのは確認できたか?
>ガンジス川は短里で書かれてるね
ガンジス川も遠いから「遠いところは適当」ってだけだろ?
負け惜しみもいい加減恥ずかしくならないものかな?
>3948
全部は見てないけど「船行」も見た限り「海」だぞ
船行でも、水行でもいいから、川を進む旅程があるなら出してくれ
逃げるしかできない九州説の人へ
四掲
九州説の人の根拠の中核となるべき
「邪馬台国の比定地」
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
を教えてくれないか?
これって畿内説の連中も応えられないよな?
いくら比定しようが違うのはわかってるんだから
今まで流石に川を水行とは書かないと思っていましたが、皆様の例を見て、ありかもと思いました。
そもそも邪馬台国には中国人は到達していないとの説が有力のようなので、倭人から聞いた日程を水行陸行と記したのであれば間違いとは言えませんね。
倭人の言う水行と中国人の言う水行のイメージが違ったとしてももはや分からないですね。
倭人は海も川も水と言ったのを中国人が単に水行と記したと考えることにしました。
比定すら出来ないのが九州説
どっちがマシかという比較に持っていかれると畿内説に惨敗するからな
だからどっちもダメ理論に持っていくしかない
>3953
>これって畿内説の連中も応えられないよな?
>いくら比定しようが違うのはわかってるんだから
はい、逃げ口上いただきました!
「九州説は具体的な比定地も上げられない戯言」だってことですね!
了解です!
畿内説については何度も何度も書いてあるけれど、もう一度
「邪馬台国の比定地」
纏向遺跡が卑弥呼の居所というか、卑弥呼の共立に伴って作られた新しい都=邪馬臺國 女王之所都
「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
その母体が唐子鍵遺跡や亀井遺跡を含む畿内連合=可七萬餘戸
まあ七万戸は盛ってるだろうけど、当時の列島最大規模の集落だからな
「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
年代が合うなら箸墓古墳
箸墓で年代が合わないとしても、纏向遺跡の中央に位置する纒向石塚古墳、纒向矢塚古墳、纒向勝山古墳、東田大塚古墳のいずれかで問題ない
この4つの弥生墳丘墓は全て90メートル長で、他地域で最大の楯築墳丘墓の方形突出部を入れた墳丘長両端72メートルよりもずっと大きい
上の方でも書いたが、卑弥呼の墓の徑百餘歩の「徑」を差し渡しととれば円墳とは限らず、東田大塚古墳の墳丘長110メートルはほぼ徑百餘歩にあたる
箸墓の286メートルはむしろ大きすぎるようにも思う
>3954
この時々出てくる、話の流れにまったく合わない九州説に迎合した丁寧語の書き込みって、3953の別名義なの?
大体、3954と一緒に出てくるし
まあ、3954は九州説の矛盾を突かれると、その書き込みは俺じゃないってよく書いてるけどさ
だいぶ過疎って来たこのコメント欄で、九州説でがんばってるのがそうそう何人もいるとも思えないんだが
>3954
>今まで流石に川を水行とは書かないと思っていましたが、皆様の例を見て、ありかもと思いました。
3864,3867で
>たびたび洪水が起きる豊富な水量の河
>「御笠川」が実は「今でもたびたび氾濫することで有名な河」
って書いて、水量豊かな川だから水行もありうるって言ってたのは3954じゃないのか?
この書き込みのあとで「流石に川を水行とは書かないと思っていました」になって、それからまた「ありかもと思いました」になったのか?
住居跡のない纒向遺跡を魏志倭人伝の邪馬台国にしてはいけない
住居跡を発掘するためにみんなでこの夏掘りに行こう
箸墓古墳は年代が違う
他の古墳は大きさが違う
畿内説的としては倭人伝と完全に一致した古墳のみを認めている
他は認められない
箸中山古墳は4世紀の古墳だがここが卑弥呼の墓である。
なぜならここ以外に円墳部分が100歩の古墳が畿内に存在しないからである。
つまり魏志倭人伝は年代も方角も間違っており、魏の3世紀半ばは畿内では4世紀を表していると考えればすべての矛盾は解決できる。
これこそが唯一絶対の真実であり、畿内説の確かな証左である。
住居跡無いからなんなんだ?規模の大きな施設ができてる時点でそれだけ多くの人の手が掛かってることは動かせない事実だよ?
3961
そうか
じゃあ九州説の比定地と比べてみようぜ
邪馬台国は四国にあるから比定地の話は的外れ
例え住居跡がなくとも心の目で見れば纒向遺跡には七万戸の住居が存在する、故に祭祀場しかなく、宮殿も市場もない纒向遺跡が邪馬台国である。
住居跡どころか何にもないのが九州なんだけど
心の目で見れば墓も祭祀場も存在するw
九州の負け
畿内説=自民党
九州説=民主党
沖縄説=共産党
蓮舫辞任とか…もう共産党にも負けるかもね
連発書き込みで、ろくな根拠のない印象操作が入る。声闘(ソント)ってやつなんだろなぁ。
後漢書
出白珠、青玉。其山有丹土。氣温暖,冬夏生菜茹
化粧に使ってたベンガラの方と見るか、九州では大陸産しか出ない辰砂が、九州飛び越してやりとりされていたか、どちらも若干無理がある気がしますが。
魏志倭人伝
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
短里ならこれが30mくらいとなって、近畿の墓では大きすぎると言うことに、そして殉葬者も見つかっていない。
十数mの糸島の墓には、十数人の殉葬らしき人が見つかっているそうなので、30mなら100人いけないこともないのかな、高さも増えるし。
人口については、稲作先進で金属器も先進で、より広い平野をもつ北九州の方が可能性が高いと思います。数百人入る程度の辺境遺跡では、当時の人口を語るのは無理だと思います。
稲作が広まって500年以上ですし、稲作向きの良い土地に多くの人口が存在し、そこにはずっと人が住み続けています。
直接訪れた場所で4000戸など書かれていますが、遺跡は出てきません。なぜならそこには今も人が住んでますから「遺跡」なんて存在しないのです。
>3969
>十数mの糸島の墓には、十数人の殉葬らしき人が見つかっているそうなので
伊都国の女王墓と言われている平原1号墓の「殉葬」の話はすでに否定済
2634,2635,2638,2647,2654と読んでおいて
そもそも日本で殉葬だと確認されている遺構はないはず
>3963
>住居跡のない纒向遺跡を魏志倭人伝の邪馬台国にしてはいけない
住居跡は唐古鍵とかにたっぷりあるよ
唐古鍵と纒向がどれくらい離れてると思う?
ヤマト国が邪馬台国なんだから何も問題ないだろう?
箸墓古墳に住居跡がないっていうのとあんまりレベルが違わないいちゃもんだぞ
>3962
一生懸命コピペを貼ってないでちゃんと3957に反論しなよ
箸墓じゃなくていいし、円墳じゃなくていいって書いてあるだろ
3971
箸墓古墳が住居?
斬新な説ですね
※3971
唐古・鍵遺跡は邪馬台国ではないと結論が出ている
>3969
>数百人入る程度の辺境遺跡
唐古鍵遺跡や亀井遺跡について調べてみて
数百人はいる程度の「辺境」じゃないから
>遺跡は出てきません。なぜならそこには今も人が住んでますから「遺跡」なんて存在しないのです。
奈良県に今は人が住んでいないと思っているのかな?
住居の工事でも遺跡が出たらとりあえず発掘するんだよ、今の法律では
まあ、面倒だし工事が遅れるから、見なかったことにする人もいるだろうが、王都級の「大遺跡」であれば、その範囲の工事の全てで不正が行われるってことは考えられないよ
平原1号墓だって工事の偶然で見つかったんだし
「はさみ山遺跡梨田地点」の話も上の方で出てただろ
人が住んでるから遺跡が出ないなんていうのは無理筋
畿内には大型遺跡があるが、魏志倭人伝等の中国史書によると疑問点が多々ある。
九州には大型遺跡はないが、出土品等中国史書と符合する点が多い。
こうなるともう日本人らしく玉虫色で四国でいいんじゃないか。
3957に言及するときにはこの部分をコピペしような
>3953
>これって畿内説の連中も応えられないよな?
>いくら比定しようが違うのはわかってるんだから
はい、逃げ口上いただきました!
「九州説は具体的な比定地も上げられない戯言」だってことですね!
唐古・鍵遺跡は、奈良盆地中央部に展開した環濠集落遺跡である。現在の奈良県の田原本町大字唐古及び大字鍵に立地するところから唐古・鍵遺跡と併称されている。現在知られている遺跡の面積は、約42万平米。大型建物の跡地や青銅器鋳造などの工房跡が見つかっていて、平成11年(1999年)に国の史跡に指定された。
この遺跡は弥生時代の前期すなわち紀元前3世紀頃から紀元前1世紀頃に形成された。居住区は3ヵ所に営まれたが、やがて一つの居住域に統合された。その環濠は楕円形の形で、長径は約500m、短径は約400mである。
唐古・鍵遺跡の環濠は、弥生時代の中期後半から末にかけての洪水で完全に埋没してしまう。再掘削が行われたが、弥生時代後期後半から末になると、環濠は再び埋没し、住民たちはまわりの集落へ移っていった。そのため、移住区は放棄され遺跡中央部に前方後円墳さえ造られた。その後発展したのが纒向遺跡であり、同時代に共存していたことはない。
さらに卑弥呼が倭国の王として共立されたのは、大陸の歴史書により西暦190年前後であり、それからおよそ半世紀、彼女は女王として君臨した。その時期は弥生時代後期後半にあたり、唐古・鍵遺跡では、この頃環濠が完全に埋没し、居住域が縮小し、集落自体がほぼなくなる時期にあたる。
>3975
日本最古の前方後円墳である徳島の古墳は道路を作るために削られて石室も破壊されたよ
これが残っていれば纒向型が最古の前方後円墳とはされなかった
今では他の地域でも纒向型より古い古墳が見つかっているけどろくに調査されないから残念
3971
唐古・鍵遺跡は邪馬台国の時代にはすでに衰退している
唐古・鍵遺跡を持ち出す時点で時代が分かっていないことが明らか
畿内には殉葬の風習がなかったと見るべき
※3978
唐古・鍵遺跡と纒向遺跡の変遷
■ 藤田氏も、唐古・纒向遺跡の縮小と纒向遺跡の成立には、何らかの関係があったことを否定されない。だが、その住民が纒向地域に移ってあらたに集落を作ったとは断定されなかった。理由として、纒向遺跡が成立した後にも唐古・鍵遺跡では集落が継続しており、古墳時代の初めに環濠が再掘削され集落が形成された形跡があるためだ。
■ 集落が消滅するのは古墳時代後期以降で、遺跡の中央に前方後円墳が造られ、墓域となった。そのため、両遺跡の間にバトンタッチがあったのではなく、両遺跡は”連動”していた、と微妙な表現を使われた。
※3979
かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。
※3940
>議論って、「九州北部から出雲」に行くのが「北東だから東じゃない」ってやつのことか?
>南を東というなら投馬国まで東のはずだが、それを出雲だというなら北東だってやつか?
>これ、答えるに値しないだろう?
>北東って、真東じゃないが、普通の感覚なら九州から山陰への海岸沿いの移動って東で何か問題あるか?
問題大ありだろう。南を東に置き換えているのなら、南を北東に置き換えるのはおかしいよな
八方位で表記されているものを、135度ぐらい自由に置き換えてはどこにでもたどり着く
九州比定地
・「邪馬台国の比定地」
筑後川流域を中心にした地域
・「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
吉野ヶ里遺跡
魏志倭人伝の記述に一致する出土物や集落の造りが確認される
しかし卑弥呼の居住ではなかったとは思う
・「卑弥呼の墓の候補となる大きな墳丘を持つ王墓級弥生墳丘墓」
これははっきりわかる
現在発見されていない
そもそも発見されていたらもう決着はついている
しかしながら副葬品が最も合致しているのは平原遺跡
被葬者も女性だし
※3951
「又順恒水東行,其南岸有瞻婆大國」
「自條支乘水西行,可百餘日,近日所入也」
そもそも川を細いとかなんとか条件つけたら例が少なくなるわけで
いくらでも条件を付けて行ったら該当例がなくなる
川を行くことを水行と表現するんだからそれで問題ない
逆に細い川を行くのが水行でないなら何になるのか、答えをもっているんだろうな?
さらに内海を行くことをを水行とした表現は例があるのか?
と質問されたらどう答えるのかな?
平原遺跡の副葬品の評価がどうなっているか調べてみ?
出土40面の漢鏡と言われていたのが、38面まで国産鏡だっていう認定になってるぞ
それで一番あってるとか言われてもなぁ
墓の所在地も伊都国の他の王墓とは離れた場所で、本当に王墓だと考えていいのか?って言いだしてる人もいる
漢鏡だと思っていたのが国産鏡だったことから、その鏡を根拠にして決めていた年代推定も微妙になっているし、もういっぺんきちんと調べてみな
そして、何度も言うが「伊都国は邪馬台国ではない」
伊都国の領域に邪馬台国の王墓があるって主張する時点でおかしいって気付けよな
>3980
>唐古・鍵遺跡は邪馬台国の時代にはすでに衰退している
>唐古・鍵遺跡を持ち出す時点で時代が分かっていないことが明らか
3978も同じ人かな?
3982を書いたのは私じゃないけど、読んでみて
この辺は弥生末期から古墳時代にかけての編年がいろいろと再検討されてるから、3978の見方は古い見解だよ
唐子鍵が、古くからの中心集落で、他の環濠集落が衰退、廃絶される中でさらに強大になっていって、唐子鍵がある意味全盛期の頃に纏向が作られ始め、纏向が成長していく間も唐子鍵は維持されている
畿内政権は、古墳時代の初期から古墳に複数系列(4ないし5つ)が見られ、連合政権だったと考えられている
そのうちの一つはおそらく唐子鍵で、他に葛城や亀井遺跡に代表される河内も参加していたのだろう
あとは大和盆地北部の佐保あたりかな 狭穂彦の叛乱伝承があるし佐紀盾列古墳群の母体がこのあたりだろう
これら全体が、大和であり邪馬台国、そしてその宮都が纏向で問題ないと思う
>3984
あんまり時間もないから、少しずつ論破するぞ
>九州比定地
>・「邪馬台国の比定地」
>筑後川流域を中心にした地域
前にも書いたけど、弥生時代の土木能力では、水深1メートルくらいまでが堰きとめられる限界=灌漑用水として利用できる限界なので、意外に大河川の周囲は農地化が遅れるんだよ
しかも筑後川は、氾濫が多く筑後三郎と呼ばれたほどの川だから、その河口域に安定した大集落が営めた可能性は低いし、実際弥生時代の遺跡の分布も平野部から一歩上がった段丘部が多いだろう
筑後平野が広いから、というのは基本的に素人考えで論評に値しない
中心にした地域、ではなく、ピンポイントで指摘して欲しいってのもあるしな
やり直し!
※3987
応神天皇は宮が難波とも橿原とも言われてるが、羽曳野に古墳がある
仁徳天皇は難波に宮がありながら堺に古墳がある
墓がある=その地に宮があったというわけではない
委奴国も志賀島から金印が出た
伊都国の代々の王は女王に属してるんだから伊都に墓があっても何らおかしくはないわな
まあ、今一番副葬品が一致してるのが平原というだけで、卑弥呼の墓と断定する気はないが
ついでに鏡だけど、弥生時代に中国製の鏡が一切でない畿内より2枚でもでた方が普通は近いと感じるわな
※3988
自分は奈良県を上げてるのに、なぜ人には川の流域の非常に狭い範囲に限定させようというのか?
吉野ヶ里を例にあげてるように広くその一帯だということぐらいは文面からわかってもらいたいな
羽曳野や堺に別の王か豪族でも居たのならまあ同じ条件だけど、全然違うだろ。
ていうかそんなのがアリなら「奈良に邪馬台国があって、福岡に墓があった」もイケるし。
大、大、大豪族の物部の本拠地やん羽曳野というか河内なんかは
邪馬台国と伊都国の関係とよく似てると思うけど
墓と宮の距離も、ある程度の限界ってもんがあるやろ
具体的に何キロとか言うわけではないけどさ
>3984 3989もあわせて
>・「その比定地の代表的な弥生末期の遺跡」
>吉野ヶ里遺跡
>魏志倭人伝の記述に一致する出土物や集落の造りが確認される
>しかし卑弥呼の居住ではなかったとは思う
弥生「末期」の遺跡って書いてるだろ?
「邪馬台国と同時代」って意味だよ
弥生時代「後期の吉野ヶ里は解体・分村化の段階にあり、途中、北内郭の大型建物といったポイントはあるものの、集落規模は縮小の一途をたどります。この間、首長墓に比せられるようなお墓もありません。環濠内には庄内期の遺構が全くと言っていいくらい無く、内・外の環濠は庄内式併行期の土器をふくむ土で埋まり、この時期に中期以来営まれつづけた環濠集落は廃絶します」
ttp://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html より引用
吉野ヶ里は、弥生末期の卑弥呼の時代にはもう、首長(王)のいる集落ではなくなっている
繁栄のピークはざっくりで、卑弥呼の時代より100年前
吉野ヶ里を代表的な弥生末期の遺跡と言われても困る
やり直し!
あと、吉野ヶ里で面白い話題は、後漢書に見られる107年永初元年の帥升等の朝貢について、北宋版の「通典」では「倭面土國王師升等」と書いてあること
先代旧事本紀に筑志米多国造(ちくしめたこくぞう)という記述があり、佐賀県三養基郡米多郷という古い地名もあり、それが吉野ヶ里遺跡から数キロの距離にあることから、この倭面土國は、倭の面土(米多)国ではないかと考え、帥升を吉野ヶ里の王ではないかと考える説がある
卑弥呼より100年前という年代も、吉野ヶ里遺跡の盛期と重なる
倭面土国表記の大陸の史書がわずかしかなく検証のしようもないため、俗説レベルではあるけれど、この説が正しいなら、王都レベルの遺跡はやはり見つかるものなのだと思う
だが、この説が正しくても正しくなくても、卑弥呼の時代に吉野ヶ里を持ち出すようでは落第!
>3989
>墓がある=その地に宮があったというわけではない
古墳時代初期と、王権が拡大し勢力範囲が広がった古墳時代中期を一緒にしてもらっては困る
九州説の人間はいつも、箸墓の年代が100年違うと言い張るくせに、古墳時代初期と中期の間に100年以上の時間経過があるのを無視するのはおかしい
馬見古墳群が葛城氏の墳墓だと考えられているように、初期の古墳は基本的にその勢力範囲に作られると考えるのが普通
さらに、ここで具体的に問われている平原1号墓は王墓級弥生墳丘墓とされていて、まだ30余国の単位が強固にあった時代であり、伊都国は邪馬台国から一大率を置かれ監視される立場
そんな土地(邪馬台国から見て監視対象の外国)に特別な理由もなく卑弥呼の王墓を置くと考えるのが常識に反しないと思うなら、考古学に限らずまともな論理体系を持つ領域には触れないほうがいいと思う
物部の本拠は、河内北部や大和北部なんだよなあ。
纒向のある桜井市や神武陵のある橿原は大和南部だし、羽曳野は河内南部。
惜しいけどちょっと違う。
>3978
>現在知られている遺跡の面積は、約42万平米。
これって、600m×700mで、420000平米だよね。
600m×700mって、村や町のさらに一部の集落に数百人住んでます、程度の面積だぞ・・・。
さらにその辺りって、神武東征の時に戦った敵側となってるし、裏付けるように南側から奈良南部に入った勢力(大和母体?)とは、近いのに交流がほとんど無いって発掘から伺える。
これらを全部混同してしまえば邪馬台国って、暴論が過ぎるな。
>3985
「自條支乘水西行,可百餘日,近日所入也」
ここはシリア辺りの国からエジプトらしいから、西海(地中海)のなだらかな沿岸を舟で行ったんだと思う。
その距離は400~800kmくらい。南記述がなくて西とだけ書かれているから、400kmに近い距離と見るべきか。
とすると水行10日で進んだ距離は50km前後。
なだらかな地中海沿岸でこの速度であり、起伏に富み島などで海流も変わる日本では、これよりも遅い可能性が高い。
最初の水行20日(海岸線100km前後)でどこまで行けて、次の10日(50km前後)でどこまで行けるのか見たら、広島にもたどり着かない。
水行30日で海岸線150kmでは、短里1500里の範囲に収まる程度しか移動できない。
後は陸30日が、60日千里の記述を大きく外れる強行軍(使者だけど)である事を祈らないと、畿内には届かない。
それと、三国志では、舟と船は使い分けられているね。
水軍表記で舟船とあるし、人がそのまま乗る(部屋がこしらえてない)ものが舟であって、
船行があるのに舟行は無く水行がある、とすると舟で日中天気を見ながらのんびり行く事を、水行や水に乗ると表現したんだと思う。
>3987
>唐子鍵が、古くからの中心集落で、他の環濠集落が衰退、廃絶される中でさらに強大になっていって、唐子鍵がある意味全盛期の頃に纏向が作られ始め、纏向が成長していく間も唐子鍵は維持されている
3995
神武の兄を殺した側の勢力とすると、ちょうど良く読めるねぇ。
そしてこの話には、筑紫平野は出てこないし初期纏向との繋がりもほぼ無い。
その出てこない福岡~佐賀辺りが大陸と交流を持っていた可能性が高い(国名などからも)。
魏の頃の邪馬壹国はそちら側のまとめ役だったという事かな。
そして大陸からの評価が非常に高い、北九州地域を受け継いでいると称して、石器攻めで九州の歴史を吸収した大和が出てくる。これならわかりやすいな。
未だに唐古・鍵遺跡が邪馬台国だと主張するのは吉野ヶ里遺跡が邪馬台国と主張すること同じだぞ
>3985
>又順恒水東行,其南岸有瞻婆大國
これだけでは何も分からないじゃないか
こうやって自分の主張にあうのがあるって形だけ示して、その論証をしないっていうのは止めようや
これがどこのことで、この水行が海なのか川なのか判断できない形で示してどうする?
これが、「九州北部のたいして大きな川でもなくて、内陸水運に使われていたという記録も知られていない川を、魏の正使が移動に使って、それが正史に水行と書かれる」ことの根拠になるかどうか、全然分からないじゃないか
またこっちで調べたよ
まず、原典は水經注巻1 正史じゃなくて北魏代の地理書
法顯曰:城之東北十里許,即鹿野苑,本辟支佛住此,常有野鹿栖宿,故以名焉。法顯從此還,居巴連弗邑。又順恒水東行,其南岸有瞻婆大國。
で、どこを水行してるかと思えば、結局ガンジス川で、その南岸に瞻婆大國があるって文章
>自條支乘水西行,可百餘日,近日所入也
これは、漢書だな
漢書/列傳 凡七十卷/卷九十六上 西域傳第六十六
行可百餘日,乃至條支。國臨西海,暑溼,田稻。有大鳥,卵如甕。人衆甚多,往往有小君長,安息役屬之,以為外國。安息長老傳聞條支有弱水、西王母。亦未嘗見也。自條支乘水西行,可百餘日,近日所入云。
で「條支」という場所がどこかははっきり分からなくて、明確な比定地はないが、西域傳で大秦国(ローマ帝国)へ行く途中で「國臨西海」と書いてあるから、地中海の東岸、シリア辺りではないかと言われているそうな
だから当然、そこから「乘水西行」するのは、地中海という「海」だよな
適当に例を挙げてくれたけれども、結局「水行」は「海」または「ガンジス川」の例しか出てこなかったね
>そもそも川を細いとかなんとか条件つけたら例が少なくなるわけで
>いくらでも条件を付けて行ったら該当例がなくなる
3942で調べた例は「細い」とも「川」とも条件を付けずに、水行の全例を調べてるぞ
その上で、ガンジス川以外の川の水行はない
条件つけたら例が少なくなるわけではなく、もともと「川を水行」するという記述そのものが、ガンジス川以外、正史にはないんだ
黄河も長江もなかったのはかえって意外だった
結局、大陸国家だから、船で行く「水行」は本来的に眼中になくて、川は渡るもので基本的に移動の経路としては使っていない
「水行」は基本、海を行く場合に使う言葉で、何日もかかる長距離移動のときにしか、地史や旅程では使われていない
ガンジス川は川ではあるけれど、梁書の該当箇所では「七千里」を逆水行している
帯方郡から狗邪韓國までの水行も七千餘里だし水行の距離感ていうのはこれくらいの長距離なんだろう
その意味でも、九州説のいう残り千五百里を水行30日というのは、水行の距離としては不適切だと分かる
最後におまけ、七は大きめの陽数ということで、よく分からない適当な大きな数を言うときによく使われる
七千里ってのは適当な大きな数という意味で、それをもって短里だとか言うのは意味がないぞ
大体根本からして、末廬國に上陸してから奴國まで陸行してきて、そこからたいして高い峠もなく歩いていけるところ(九州説なら有明海沿岸なんだろ?)へ行くのに、わざわざ船を用意して水量が多くよく氾濫する暴れ川を水行するってのが、おかしいだろうが?
※3993
は?伊都国は卑弥呼の勢力範囲だろ?
一大卒は伊都国から諸国を検察する、そもそも使者が常に駐在するという外交の中心であり、品物の検閲もふくむ経済の中心でもある
倭という国の中心だよ
これだけ機能を集中させてるということは余程統制が効いているということ
伊都国は倭国とか関係なしに代々王が女王に仕える忠臣だしな
しかも卑弥呼はぽっとでで共立されただけなんだから邪馬台国出身である必要もない
継体天皇が大和出身じゃないように
まあ、平原が卑弥呼の墓とは思わないが、しかし副葬品が一番魏史倭人伝の記述に合うのは間違いない
畿内説の時には魏の使節は邪馬台国に行かず、九州説を批判する時には魏の使節が邪馬台国に行ったという。
水行陸行はその様な瑣末なことには拘らず、畿内から逆算し都合の良い様に解釈すべきであり、今までの検証は無意味である。
※4000
ぎゃくやぎゃく
川を行かない限りわざわざ内陸の不彌國に行く必要がない
※4000
日本海と竹島が記載されているからと日本列島の地図を見ない方ですか?
国土地理院の地形図面白いよ
奈良と京都の盆地感が凄い
九州の平野もでかい
古い都市は地形を上手く活かしていると思った
九州が倭国と狗奴国と隼人と日向に分かれていたのが地図を見ると納得する
>4003
不彌國へ行くのに水行なんて書いてないんだが?
>川を行かない限りわざわざ内陸の不彌國に行く必要がない
不彌國をどこに想定してるかは知らんが、内陸ったって唐津から那の津まで陸行してきてその先も高い山がある訳でもなし、船に乗る必要がないだろう?
それにそもそも不彌國に行く必要があるかどうかは、魏志倭人伝からは読み取れない
で、3999に対するコメントがないってことは、大陸の史書で「水行」といったら海で、「川の水行」はガンジス川だけってのはいいな
あと3999で書き忘れたが、ガンジス川を東に水行するとき=流れに乗って下流に進むときは「順」恒水東行、と順の字が入るんだね
流れに逆らうときは、逆水行、流れに順うときは、順水行
とりあえず見てきた範囲では川の水行の時は、流れの向きによって、順・逆の別も書かれる訳だ
そういうところを見ても、投馬国までと邪馬台国までの水行は順も逆も書いてないし、川の水行と考えるべき理由はないね
「それだと九州説が困るから」以外では
※4006
不彌國へ水行するじゃない、不彌國から水行だよ
畿内に行くなら那の津から水行すればいい
それどころか伊都国で検閲が終わったらそこから水行でもいい
しかしわざわざ内陸部へ進んでから水行ということは海を行っていないということ
海へでるなら不必要な行程である
邪馬台国の北に伊都国があるなら伊都国から南に行けば邪馬台国はあるな
>4009
確蟹。
南には山が険しくていけないから東に回ったと見れば、伊都国南の山を迂回する道程と見ればいいのかな。
不彌國(宇美?)まで行ったとするなら、御笠川が下りに変わって宝満川も下って筑後川も下っていったんだろうか、これなら宇美まで足を伸ばす理由にもなる。
すぐに到着しそうだけど、下賜品を運ぶのに往復でもしてたんかな。
水行の数が少ないのに、その中で川にも使われる事が確認できた。
船行という表記に対して、舟で水行というのが他ならぬ禹の記述に出てくる。
禹堙洪水十三年,過家不入門。陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮,以別九州 漢書
この舟での水行は、海とは関係無い。漢書にも、船行はあっても舟行は無く、水行乗舟がある。
水行とは舟で水の上を行くことだろうね。
故事成語だから除くって誰かが書いてたけど、なーんか怪しい人が居るね。
水行
汉 (1).水上航行。《庄子·天运》:“夫水行莫如用舟,而陆行莫如用车。”《史记·夏本纪》:“陆行乘车,水行乘船。”《晋书·傅玄传》:“大将军 苟晞 表请迁都,使 祗 出诣 河阴 ,修理舟檝,为水行之备。
そもそも言葉の意味としては水上航行だからなあ
そこに海も川もない
>4011
>そもそも言葉の意味としては水上航行だからなあ
洪水があって陸路で運べないが船でも無理、みたいなところでも水行って言葉は使われてるよ
でも正史の地理や旅程記事(魏志倭人伝を含む)で、水行をそこらの川で使っている例はないってこと
「海」と「ガンジス川」だけでしか、水行も水西行も使われない
地理や旅程は長距離を対象にしていて、そういう場面で出てくる水行は、基本は海でガンジス川の例もある
それが全てだよ
あと、漢鏡(三角縁神獣鏡を除く)と絹は九州で出るが畿内では出ないとか言ってる人は、桜井茶臼山古墳の2010年の発掘記録は無視なんだろうか?
※4005
九州の平野部は筑紫平野を除いて、火山の近くばっかりで使い物にならないのもよくわかる
>4001
>は?伊都国は卑弥呼の勢力範囲だろ?
>一大卒は伊都国から諸国を検察する、そもそも使者が常に駐在するという外交の中心であり、
>品物の検閲もふくむ経済の中心でもある
>倭という国の中心だよ
>伊都国は倭国とか関係なしに代々王が女王に仕える忠臣だしな
本当に信頼できる忠臣なら一大率は置かれないだろ
郡使の往来常に駐まる所は、倭國の入国管理的な位置だからだろうし、「皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」の部分も含めて、その前の一大率の記述の続きで、一大率の職掌とする解釈が普通
伊都国がやるんじゃないよ
長崎出島ですな
鎖国(統制貿易)の拠点だけど
九州は外様大名の掃き溜めで信用なんか全然できないところ
>3995
>さらにその辺りって、神武東征の時に戦った敵側
神武天皇から邪馬台国(纏向、崇神天皇)の時代まで、何年かかってると思ってる?
皇紀をまともに信じれば800年くらいになるのかな?
記紀を元に話を組み上げるなら、そういうことになるよ
それに、記紀の物語でも神武天皇が即位する前に、その辺は帰順して配下になってるじゃん
その後の時代なんだから問題ないだろ?
神武天皇の実在を信じて、その実年代を出そうとしている人の考えでは、神武天皇から崇神天皇まで、5世代120年くらいって推定できるそうだけど、その間に周りの勢力と合同できて、卑弥呼の頃に倭王に共立された、で何も問題ないと思うよ
>3984
>筑後川流域を中心にした地域
>4005
>九州の平野もでかい
今の地形で考えると筑紫平野は広いけど、縄文海進の名残のある時代、大阪平野もまだ河内湖だった時代には、有明海がずっと陸の方まで食い込んでて、吉野ヶ里の近くに港があったなんて話まである
有明海で3メートル海面が上がったときの地図
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/62/68a4ac3d190ea1db66b4297fee3e5b57.jpg
末盧国の宇木汲田遺跡のあと、奴国の須玖岡本遺跡の頃が甕棺墓Ⅲ期だそうだけどその頃の遺跡の分布を見ると、筑後平野の平野部は利用されていないように見える
甕棺墓Ⅲ期の出土位置の分布
ttps://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan4.jpg
筑後川流域は平野部の面積が広く、 ← 実は海が迫ってて広くない
多くの人口を養えただろうから、 ← 当時の技術では大河川の水は潅漑に利用できない
ここに大きな国があったに違いない ← 平野部にまともな遺跡はない
ってことで「筑紫平野に大勢力」っていうのは現代から見た錯覚、あるいは妄想だって分かってもらえるかな
実際、時代の合わない吉野ヶ里遺跡以外、めぼしい遺跡もないし
4017
つまり神話である神武天皇や実在した崇神天皇と卑弥呼は繋がりがなく別勢力であり、紀元前から続く畿内勢力の天皇家は邪馬台国ではなく、当然邪馬台国は畿内ではないということですね。
9割ぐらいの人が納得できる素晴らしい説明だと思います。
※4016
そりゃあ松平家と違って九州の大名家は歴史が長いからな
守護大名から戦国大名になった家も多いし
しかも源氏や平氏、要は先祖が皇族の家も多かったし、経済力も軍事力もあるから徳川幕府からしてみたら困ったんじゃない?
※4013
時代が違うから比較は無意味
4世紀の古墳から出ても意味がない
4世紀ごろから九州より畿内の方が発展していったのは出土物より明らか
この辺から倭の中心が九州から畿内に移っていった
土器やモノの流れもそう
それまで九州優勢だった鉄、絹、漢鏡などが4世紀以降から畿内が優勢になってきた
3世紀にほとんど畿内に流れていなかった九州の土器も畿内に流れはじめた
この頃から
・九州勢力が東遷した
・畿内勢力が九州勢力と融和した
・九州勢力が畿内勢力に滅ぼされた
などの出来事が起こったことは間違いない
※4015
信用されていないならなぜ世々の王が女王国に属しているのか?
こんな記述は他にはない
伊都国を検察してるんじゃなくて、伊都国から諸国を検察してるんだから
伊都国が倭の要所という理由もあるだろうが、忠臣だからこそ一大率他の重要な機構を伊都国に置いてるんだろう
>4008
>しかしわざわざ内陸部へ進んでから水行ということは海を行っていないということ
>海へでるなら不必要な行程である
不彌國をどこに想定してる?
大宰府のあたりを抜けて八代海の方へ抜けるって、九州説で川の水行を唱えてる人は言ってるんだが、そのために遡るべき御笠川は奴国の須玖岡本遺跡のすぐ横を通ってるじゃないか?
「川を水行」なんていう戯言がもし正しかったとしても、それなら奴国から船に乗ればいい訳で、それこそ不彌國へわざわざ行く必要はないだろ?
不彌國へは水行するために向かうのだとしたら、不彌國は内陸ってのがまちがっていて、海港のある海岸沿いに想定すべきなんじゃないか?
>4021
例えば絹の出かた
この桜井茶臼山古墳の発掘調査では、土をふるいにかけて破砕された鏡片を丁寧に拾い出して調べたら、鏡片に絹の繊維がついているのが発見されて、鏡が絹の布に包まれていたのだろうという見解な訳だ
こういう、土にまみれてしまった有機物っていうのはきっかけがないと見つからない
九州で絹の出土が多いっていうのは、結局甕棺墓というタイムカプセルがあって、その中を探せばいいっていうバイアスがかかってるからだと思うよ
纏向遺跡からも絹の巾着袋が出てるからね。こっちは漆塗りになってて、そのおかげで残ったようだ
古墳時代と弥生時代は地続きなんだから、古墳時代の畿内には普通にあるものが「弥生時代の畿内には絶対にないから、倭人伝に絹を倭国から送ったって書いてあるから畿内じゃない」って言うのはおかしな話だってわかるかな?
それと、桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡 26面
内行花文鏡(国産) 10面
内行花文鏡(舶載) 9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡 5面
環状乳神獣鏡 4面
だ龍鏡 4面
細線獣帯鏡 3面
方格規矩鏡 2面
単き鏡 1面
盤龍鏡 1面
で、九州説の人が、三角縁神獣鏡の前の鏡が重要って言ってた鏡種が全部揃ってるよ
だ龍鏡とか、盤龍鏡とかは、古墳時代の前の鏡なんだろ?
埋納されたのは古墳時代でも、こうした鏡の頃から大陸と交流があったってのはOKかな?
それともまたダブルスタンダードで否定する?
>3948
>問題大ありだろう。南を東に置き換えているのなら、南を北東に置き換えるのはおかしいよな
>八方位で表記されているものを、135度ぐらい自由に置き換えてはどこにでもたどり着く
畿内説の立場では、南を東に、つまり全ての方位が90度回って、大陸の人は認識していたという説だ
つまり、「南と書いてあるのは本来東」でそこから「北東っていうのは45°の変位」
正確には45度も北にぶれてないし、まあ普通の感覚で、東の範囲だろう
それに対し、唐津に上陸してから、南東に陸行しているはずなのに、伊都国や奴国の方角は唐津から見て北東
完全に90度ではないけれど、こっちは45度以上90度近くぶれてるぞ
こういうのがダブルスタンダードだよな
>4018
あほらし、ほんと否定する事だけで頭がいっぱいで論理を捨て去ってるのが、議論でなく声闘って言われるのがわかるわ。
その歴博の研究報告とやらを見ると、図8まであるうち最も少ない時期を切り抜き、時代が全く異なる事を隠して印象操作。やり方からしてお前は歴博朝日新聞関係者か?
ttps://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan8.jpg
しかも、図8の次にある、表4 地域毎の時期別基数、これを見たら、九州の過半数が筑後平野に存在してる事がわかる。
これを筑後は発展してなかったと、印象操作どころか真逆の捏造だぞ。
>(3)大形棺の周辺地城への波及と衰退
筑前・佐賀に限定されていた大形棺も城ノ越式段階になると南筑後・熊本(菊池川流域)で成立する。立岩式段階になると,須玖式段階に大形棺がもたらされていた嘉穂において在地の大形棺が成立する。しかし桜馬場式段階になって,福岡・春日で甕棺葬が衰退しはじめ他の墓制へと転換していくのを皮切りに三津永田式段階には佐賀でも同じ状況がみられる。そして日佐原式段階には,北部九州的甕棺葬がすでに終焉しており,一部の地域で残存しているほかは糸島地域で特殊に展開している程度となる。
普通に筑紫平野が重要拠点だったって書いてあるし。
>(4)甕棺に副葬される副葬品の種類と所有形態の変化
小田富士雄の研究によれば次のように大別される〔小田 1987〕。
第Ⅰ期(金海式~汲田式) 分散所有型 複数の集団から構成される共同墓地内で,有力集団の家長,さらには家族が漢以前の朝鮮製青銅器を一棺一品的に所有する。
第Ⅱ期(須玖式,立岩式) Ⅰ期の副葬品に加えて前漢・九州産青銅服,鉄製武器を所有する。墳墓形態には地城型が幾つか存在する。
第Ⅲ期(桜馬場式,三津永田式) 集中所有型 王莽・後漢前半代の境,九州産青銅器を所有する。
「漢以前の朝鮮製青銅器を一棺一品的に所有」からすると、つまり北九州は朝鮮人、天皇も朝鮮人の子孫、絶対それ以外は認めない!!ってごり押しの都合まで見えてくる。
道理で、論理の通じない奴らがわいてくると思ったら、色々事情が掘れてきてるな。
佐賀県には厚さ2mmの銅鐸だの優れた青銅器技術が存在してた事がわかってきてるし、優れたものは全部支那朝鮮産、とかいう戦後積み上げられた出鱈目歴史を、未だにごり押しする奴らが居るって事はもうばればれだな。
残念ながら鏡が古墳時代の畿内の古墳から出土したとしても弥生時代の畿内にその鏡が存在した証拠にはならない
弥生時代にはその鏡は中国や朝鮮半島にあったかもしれないし、日本海側にあったかもしれないし、九州を平定した戦利品かもしれない
あくまで弥生時代の墓から出土して初めてその場所に存在したと確定できる
これが金属製品の難しいところ
因みに平安貴族の持ち物にも漢の鏡が混ざっていたりする
中国の盗掘品が流通していたそうだ
平安時代に漢の鏡が京都にあってもそれは畿内と漢の繋がりの証拠にはならんだろう?
>4018
弥生時代終期の北部九州は縄文時代だったのですね!
だから我々畿内説派は魏志倭人伝の風習などすべての記述を無視して考えなければなりませんね
完璧な証明ありがとうございます
「弥生時代の北部九州は縄文時代のため邪馬台国も倭国もなかった」
これこそまさに歴史の真実と言えましょう!
ダムが無ければ、宇美川、御笠川、宝満川、筑後川、これ全部繋がりそう。
今でも200mも離れてないし、道路整備されてない時代に水路として繋がってたのなら、安全という意味では良いかもしれない。
不彌國が宇美で、宇美川の上流が御笠川とほぼ繋がっている事、御笠川と宝満川もほぼ繋がっている。
そして宝満川周辺や、筑後川周辺には、奴国地域よりも大量の墓が見つかっている。
歴博研究報告21、表4より
甕棺総基数
早良1,586
福岡・春日1,769
小郡・鳥栖2,522(宝満川周辺)
神埼2,951(筑後川下流佐賀に近い)
さらにⅠⅡⅢⅣⅤの時期でそれぞれ
Ⅰ糸島に数が多い、Ⅱ筑後に多い、Ⅲ福岡に多い、Ⅳ筑後に多い、Ⅴ筑後南部と糸島に多い
という傾向がみられる。筑後南部の地名はみやま、その隣はやめ。
可能性はあるね。
※4024
>で、九州説の人が、三角縁神獣鏡の前の鏡が重要って言ってた鏡種が全部揃ってるよ
>だ龍鏡とか、盤龍鏡とかは、古墳時代の前の鏡なんだろ?
>埋納されたのは古墳時代でも、こうした鏡の頃から大陸と交流があったってのはOKかな?
>それともまたダブルスタンダードで否定する?
何がダブルスタンダードかわからんが、それは君の得意技だろ?
聞くがなぜそれらの遺物が3世紀の遺跡からは出なくて、4世紀の遺跡からはよくでるようになるのかということ
これはつまり3世紀はそれらの品がなかったということに他ならない
九州の土器とともに4世紀ごろから畿内に流れ込んだ考古学的事実である
3世紀の遺跡から3世紀以前の遺物がでる=3世紀にその遺物を入手していた
3世紀の遺跡から3世紀以前の遺物がでない=3世紀にその遺物を入手していない
4世紀の遺跡から3世紀以前の遺物がでる=4世紀になってからその遺物を入手できるようになった
誰でもわかること
※4029
北部九州の川は水城の建設のときや江戸時代、もちろん現代にも大小様々な規模の治水工事の記録があるからね
当時の地理の再現図などがネットに転がってたら話がしやすいんだが
何でそんな間違い(?)だらけなんだという疑問はどのくらい議論されたんだろうか?
外国に行って教化するってことはそこそこエリートだったんだよな。
>4030
>聞くがなぜそれらの遺物が3世紀の遺跡からは出なくて、
>4世紀の遺跡からはよくでるようになるのかということ
ここが逆なんだよ
この遺跡が4世紀じゃなくて3世紀の遺跡だと認めれば全て繋がるのにそこを否定するから、物事が見えなくなるんだよ
九州の遺跡では鏡に合わせて編年を決めてるのに、なぜヤマトの鏡は後の世に入手して副葬したと言い張るのか
そこがダブスタだって言ってるんだよ
※4033
4世紀の土器が出土する4世紀の古墳から3世紀以前の鏡が出るのは珍しくない
逆に4世紀の土器が出土する3世紀の古墳はありえない
畿内は古墳の築造順がはっきり分かるから年代の誤差はない
さらに土器編年も可能な限り古く見積もっているからこれ以上古くできない
畿内は同じ勢力が支配し続けていたが故に年代の捏造は難しい
桜井茶臼山古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、自然丘陵を利用して築造されたものである。墳丘長207メートル、前方部が細長く、全体が柄鏡形を呈する柄鏡式古墳である。古墳時代初期の内でも比較的新しいものであり、4世紀初頭に築造された。
この古墳の後円部の空濠の外に、宗像神社がある。筑前国宗像郡の宗像神社と同神である。いつ頃からの鎮座か、さらに社殿が建てられた年代はいつなのか、詳細は不明であるが、北部九州系の神社が大和にあることは注目に値する。
副葬品は4世紀初めの古墳の副葬品の典型的組合せ、つまり、銅鏡や玉類、剣や刀などの武器類をセットにしている。
>4026
>これを筑後は発展してなかったと、印象操作どころか真逆の捏造だぞ。
また話をそらそうとする
4018で示されているのは、遺跡の数ではなく、遺跡の位置と分布
平野部からは出てなくて、山沿いにへばりつくように出てるだろ?
筑紫平野は広いから云々というのが否定されているのが分かるか?
それにこの歴博の資料で見ても甕棺墓2期が最盛期で、3期以降衰退傾向にあるのが分かるだろう?
九州の繁栄は卑弥呼の遣使の時期まで続かないんだよ
卑弥呼の頃には大型甕棺墓もめっきり減っているし、集落遺跡も大きなものは見つかっていない
>4028
>弥生時代終期の北部九州は縄文時代だったのですね!
縄文海進の最盛期は現在の海水面から6~7メートル上がってたとされてる
そこから下がり始めて下がりきってない状態が弥生時代で、大阪平野がまだ仁徳天皇の頃でも入り江から潟湖だったことを考えれば、今より3メートル高い海水面は妥当な推定だと思うぞ
吉野ヶ里の近くに船着場ともとれる遺跡があることとも整合性がある
まあ、そこまで正確な推定でもないが、有明海は今でも地形の関係で満潮と干潮の潮の満ち干の差が大きいから、平均海水面以上に満潮の海水面は高くなるし、満潮で潮水が上がる場所は農地に使えない
「筑紫平野は広いからコメも多く穫れて人口も多かったに違いない」ってのが、的外れだってことだよ
平成22年1月、橿考研は桜井茶臼山古墳の石室に、60年前の調査の分と合わせて、384個の鏡片が見つかり、国内最多の13種、81面あるいはそれ以上の銅鏡が副葬されていたことが明らかになったという発表を行った。興味深いのは、これらの銅鏡は完形または破損した形で出土したしたのではない。大きさが1cmから2cm程度の鏡の破片として見つかったものがほとんどで、完全に元の鏡の形に復元できるものは一面もなかった。
中国大陸においては、鏡を破砕した事例は知られているが、鏡を用いた積極的な祭祀行為は見いだせない。朝鮮半島でも、破壊または加工された鏡の報告は数少ない。3世紀以前に北九州で生じた独自の銅鏡破砕副葬の風習が、北部九州から東へ伝搬し4世紀になり大和地方にも及んだことは事実である。
※4036
弥生時代のはじめから中頃は寒冷化していたけど海面の高さは温暖な縄文時代と同じなの?
奈良県大和盆地の纏向遺跡について発掘調査から、この遺跡群の成立つまり人口の急増した時期は2世紀終盤~3世紀初頭以降とされており、弥生前期から中期の住居跡は殆ど発見されていない。環濠集落や楼閣の跡なども見つかっていない。また、武器や武具等の出土も殆ど記録されていない。このことから、当時この地には大規模な戦乱等の混乱は無かった。古墳の原型の存在が確認され、その発生地である可能性がある。その築造年代は4世紀とされている。
遺跡群の存在期間は4世紀中盤までで、それ以降、集落は消滅した。
出土した土器の15%が北部九州以外からの流入と推定されており、北部九州以外との交流が盛んであったと考えられている。以上より類推される事はこの地に、卑弥呼の時代(AD230年代)に既に人口30万を擁する『長い歴史を持った』国がなかった。
また、この地を大乱の前後の都として考えるのは無理である。
この遺跡群はむしろ、突然の人口増という、その成立過程から見て、2世紀中盤からの世界的天候不順の影響で発生した飢饉や大乱で、各地から逃れてきた人たちが移住してきた所、とした方がスムースに理解できる。
だから、弥生期の遺跡が殆ど無く、その後一気に『難民』で人口が増えたのである。
難民の出身地については、特に人口の密集していたと推定される北部九州辺りが可能性の一つである。
北部九州は、当時の天候不順を引き金とした大規模な戦乱が発生していたと考えられている。
(倭国大乱の余波である)
北部九州から移住があったことの裏付けとしては、この大和盆地の地名が、福岡県筑後川流域(朝倉郡夜須町付近)と良く一致し、移り住んだ人たちが元の居住地の地名を新天地に付けたと考えるのが自然である。つまり、大和盆地のヤマトは、第二のヤマトだと考えられる。
ここに移り住んだ人たちは、周りに余りまとまった敵がおらず、環濠を廻らす必要も無く、また、北部九州に比べ作物の出来も比較的良好だったと考えられ(集落の発展)当初は平和に暮らせたと推察できる。
つまりこの纏向の地は、最初は北九州邪馬台国及びその周辺の人々も含む倭国の云わば『植民地』或いは『分家』として成立したと考えられるのである。
そして半ば独立した王国を築き、独自の文化を持ち始めた後、東側の地域と交流を持ったのである。これこそが『神武王朝』である。
その中で、治水技術などを応用した畿内独自の墳墓『古墳』が作られ始めた。
この地が戦乱に無縁だった為に、移り住んだ2世紀以後日本全国各地との交流も盛んに行われ、他地域からの移民の動きもあった。
出土する土器も北部九州以外の各地の特徴を備えるものが多いのもそれぞれの地域からの流入時期を表している。
1.弥生時代の自然環境
今からおよそ6,000年前の縄文時代前期、地球規模の気候温暖化により氷河がとけ、海水面が10m 近く上昇し、海岸線が陸地の奥深く入り込んでいました。縄文時代中期後半以降、気候が寒冷化し海岸線が徐々に後退し始めます。
海岸線の後退に伴って陸地化した場所には沖積平野が形成され、また海が取り残されたところは、干潟や湖となっていきました。縄文時代の終わり頃から弥生時代の初め頃にかけて、こうした海退(海岸線の後退)はさらに進んだと考えられています。
海退によって出現した湿地や沖積平野は初期の水田稲作にとって絶好の耕地となりました。集落も台地上から平野部に進出するようになります。 稲作の開始と進展に伴い、大規模な森林伐採が行われるようになります。稲作を行うために必要な農具、水田を作るために必要な矢板など木材の需要が飛躍的に高まります。北部九州地方で木を伐採するために必要な福岡県今山産の太型蛤刃石斧が広い地域に普及するようになったのも、こうした状況の表れでしょう。森林伐採は、西日本の平野部で集落が急激に増加する弥生時代中期以降、さらに進んでいったと考えられます。
しかし、そうした伐採が山林の荒廃を引き起こし、自然環境を決定的破壊していった痕跡は見られません。弥生時代は縄文時代以来の自然環境の変化によって形成された沖積平野に水田を作って耕し、その近辺の低い台地上に集落を営み、背後の丘陵から山にかけての森林から生活のために必要なだけの木材や資材を得るという、長く日本に根付いた土地利用の原型が生まれた時代だと言えます。
北部九州における縄文海進以降 の海岸線と地盤変動傾向では 弥生時代遺跡は, 最近の調査で標高4m以下の低地からも次々と知られるようになった。これらの一部は縄文時代 の海岸線を越えてかなり南に分布している。佐賀平野では, 縄文時代前期以降弥生時代末までに海岸線が急速に南下したと考えられる。このような急速な遺跡の拡大は非海成層 の分布拡大と調和的である。両者の関係を地質断面図でみる。
ボーリング調査までして海岸線と遺跡の分布を調べた論文とかあるじゃん。
縄文海進より江戸時代の海岸線の方が弥生時代の海岸線に近いそうだよ。
※4033
なら3世紀の遺跡だという証拠や根拠を提示すればいいんじゃないか?
副葬品から見るに多分他にはホケノ山古墳あたりのことを言いたいんだろうけど
それを提示すりゃみな黙るだろう
庄内式土器の時代は、弥生時代で3世紀でいいんだろ?
C14とか持ち出さなくても?
纒向石塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳
こいつらは、庄内式土器の時代だろ?
庄内式土器の時代の纏向遺跡は小さいって一生懸命主張している人がいたけど、この4つは庄内式土器の出る範囲の真ん中辺にあって、この時点で吉備の楯築墳丘墓より大きい
箸墓を持ち出さなくても、その前の段階=邪馬台国の時代の3世紀で纏向の動員力は列島最大なんだよ
この4つの埋葬主体が発掘できてたら、九州説の連中はぐうの音も出なかっただろうに
たぶん、九州の甕棺墓の副葬品の伝統に沿った、剣、鏡、玉が出たと思う
そうすれば、九州と畿内の交流もばっちり証明できたのに
先の大戦時に高射砲陣地にするために、削平されてたりで埋葬主体どころか墳丘も削られてるのが多いからどうしようもないけど
まあ、ないものを根拠にしてもしょうがないから、これ以上は言わないがな
九州でも3世紀半ばの王墓とか、筑紫平野の低平部での大遺跡とか見つかるといいね
あと、東田大塚古墳の周濠から出た土器棺墓をどう評価するか
土器棺墓は甕棺墓の墓制の地域で、子供を葬るときに使われたものだそうだが、甕棺墓制のない畿内での土器棺墓をどう見るか?
九州の人が纏向に来ていて、その血縁の子供が亡くなって土器棺で葬ったと考えていいのかどうか?
ホケノ山はおそらく、箸墓と同時期だからこの手の論議では混乱の元
>4039
>この地を大乱の前後の都として考えるのは無理である
VS
>2世紀中盤からの世界的天候不順の影響で発生した飢饉や大乱で
>移り住んだ2世紀以後日本全国各地との交流も盛んに行われ
どっちなの? 倭国大乱は2世紀末と考えるのが普通だろ?
それから、九州説の人は纏向遺跡は九州との交流がないって一生懸命言ってるけど
>北部九州から移住があったことの裏付け
これは、人的交流どころか九州からの殖民ってことだよね?
関係はばっちりだよな?
そして
>移り住んだ2世紀以後日本全国各地との交流も盛んに行われ、他地域からの移民の動きもあった。
ならば、3世紀半ばの卑弥呼の時代にちょうど、倭国の中心になってるってことで話が合うんじゃないの?
筑後川流域には、九州全体の過半数を超える墓(甕数だけど)が存在している。
河川氾濫に巻き込まれるような地域に墓は残らない又は作らない。
そして歴史を知らないやつらが河川氾濫で住めなかったなど言っているが、そういう所にこそ豊かな食資源が存在し、文明という文明は、時には氾濫する河川の傍で興ってきた。
エジプトはナイル(氾濫)の賜物等は、日本の義務教育を受けていれば、誰でも学ぶ事である。
難民話は眉唾だなぁ。難民が奈良に入り込んで、一体どうやって食べるというのか。開拓してる間に飢え死ぬと思うんだが。さらに、難民がそこまでの距離を旅することなどできないだろうし、難民が最初に居住区でも食生産でもなく神殿作るなんて絶対に無い。
倭と大和を繋げようとすると矛盾だらけになってしまう。
>4040,4041
気温だけじゃ、縄文海進後の海退は説明できないんだよ
「最終氷期と呼ばれる今から約10000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。
この北半球の巨大な氷床の融解に伴って、約19000年前以降、氷床から遠く離れた場所では、 海面は年間で1~2センチメートルというものすごい速さをもって100メートル以上も上昇し、 ちょうど約7000年前までには海面が一番高くなりました。これが「縄文海進」の原因です。 しかし、その後起こった海退の原因は、氷床が再拡大したためではなく、その後、氷床融解による海水量が増大したことによって、 その海水の重みで海洋底が遅れてゆっくりと沈降した結果、海洋底のマントルが陸側に移動し、陸域が隆起することによって、 見かけ上、海面が下がって見えることによります。」
日本第四期学会 Q&Aより ttp://quaternary.jp/QA/answer/ans010.html
4023に対する回答はなし?
九州説「川を遡るためにわざわざ内陸の不彌國へ行く」
↓
4023「九州説が想定している川は奴国の中を流れているから、水行のために不彌國へ行く必要はない」
「水行を始めるために不彌國へ行くなら、不彌國は海港のそばになるんじゃないのか?」
「川の水行」は無理筋だからあきらめる?
※4043
はっきり言って庄内式土器と言っても様々
ホケノ山古墳では4世紀の小枝(c14が古く観測される様々な効果が見られにくい試料)といっしょに庄内式土器が出てる
はっきり言って大和の庄内式土器は九州より使われていた時期が新しい
庄内式が出たからといって3世紀とは限らない
>4046
その話掘っていくと、地域(太平洋と大西洋とか)によって海面変化に差があるとか、海水面だけじゃなく地盤沈下や隆起が激しい所はそちらも関わるとか、結局地球規模の話ではなく、その土地、の歴史を調べなきゃいけなくなるぞ。
確か九州では(火山の噴火などで地形が変わり上から押さえつけられるから?)、数mの地盤沈下が起こっていて、時代が古いほど土地が高い(海水面痕跡が予想より低い)地域があるってボーリング調査の論文見た覚えがある。うろ覚えだが。
(世界(ヨーロッパ世界)では)1m海水面が低かったと書かれていても、同時代の日本の古地図では2mは高かった海岸線だよね、とかそういう事が割とよくある。
※4036
貴方の九州の平野が海の底だったはずとの主張は何に基づいているのでしょうか?
>4043
勢力の大小ではなく、七万戸が入るかどうかの広さの大小のことを議論しているのでは?
纒向遺跡の3世紀の範囲は七万戸には狭い上にそもそも住居跡が全く見つかっていない
3世紀の纒向遺跡は祭祀場及び墓専門の遺跡
>第 四 紀 研 究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360
Dec. 1994
北部九州 にお ける縄文海進以降の海岸線 と地盤変 動傾 向
下 山 正 一 *
海成層の最大分布に基づ き, 北部九州各地の縄文海進 ピーク時期 の海域 と海岸線が明 らかになっ
た. 縄文時代以降の海岸線は前進傾向にあるので, 海成層 の分布限界, 弥生時代の遺跡分布, 江戸
時代初期の国絵図の3つ の情報が十分得 られれば, 佐賀 ・筑後両平野の例に示す ように, 縄文前
期の海岸線, 弥生時代末の海岸線, 江戸時代初期の海岸線をそれぞれ描 くことがで きる.
北部九州の うち, 玄界灘 ・響灘沿岸地域の海成層上限高度は一様ではな く, +0.4か ら+4.5m
までの値が見積 られる. 有明海沿岸の佐賀平野と筑後平野の縄文海進 ピーク時期 の海成層 の上限高
度差は-1.9mと+4.8mで, 隣接地域 としては最 も大 きい. これ らの上限高度の差 は過去5~
6,000年 間に生 じた垂直変動量 とみなせ る.
北部九州各地の下末吉海進 ピーク時期の海成層が現海面下にのみ存在 することから, 北部九州は
全体に緩やかな沈降地域 と考えられる
佐賀地域は縄文海進ですら今より高くて広かったらしい。佐賀辺りは8000年前の漆塗りとか籠目編み(六芒星)とか出るんだったか。その文明は滅んでしまったかもしれないけれど、倭人が住み着いて発展させるには申し分ない場所だったんだろう。
稲作が西から広まった事は科学調査で明かで、佐賀や筑後川周辺には奴国を超える大勢力があったことも発掘から明かで、そこに優れた金属器文明があったことも発掘で明らかになっている。
にも関わらず一切無視して、近畿以外には何もなかった連呼する連中は何なんだろな。
まぁ近畿に住み着いた朝鮮人や近畿に教えてやった支那人が、日本に全てを与えてやった、という支那朝鮮史観をごり押ししてるって所だろうが。
考古学と遺伝学など、科学、に基づいて見ると、全然違う歴史なんだよな~。
ttp://livedoor.4.blogimg.jp/nwknews/imgs/4/8/48981031.jpg
返事もないし、とりあえず、川の水行はなしってことでいいね?
次は、唐津から伊都国までの東南陸行が90度間違ってるのは、どうする?
>4053
全国古墳編年集成は1995年の出版だね
もっと新しいのだと、もっと時代が古くなってると思うよ
>4048
>はっきり言って大和の庄内式土器は九州より使われていた時期が新しい
それ何か根拠あるのか?
畿内の年代が九州と同じでは九州説が成り立たないからありえないことを強弁してるだけだ
>4054
>4047
>4023
4010に返事はしないの?
※4055
横から失礼。
もっと古い「古墳」が発見されているってことです?
>4054
>3985
>いくらでも条件を付けて行ったら該当例がなくなる
>川を行くことを水行と表現するんだからそれで問題ない
>逆に細い川を行くのが水行でないなら何になるのか、答えをもっているんだろうな?
>さらに内海を行くことをを水行とした表現は例があるのか?
>と質問されたらどう答えるのかな?
どう答えるの?
>4050
例えば「諸富町には諸富津という地名が残っており、奈良時代には肥前国の国府津として機能したと推定されている」と、ウィキペディア辺りでも書いてある
諸富津の場所は、吉野ヶ里から10キロくらいで、今の海岸線から見て10キロ近く遡ったところにある
まあ、この津=港が海港か川港かというのは、地名だけでは分からないけど今の海岸線よりも、奈良時代、古墳時代、弥生時代には海が陸側まで上ってきていたという推定は、それほど突飛ではないと思うがね
この海退は気温によるというよりも、地球地殻の変形による部分が大きいので、相当にゆっくりだよ
それと、海に近い低湿地は塩害が生じる(地下水に海水が浸透する)ので、海退で陸地化したからすぐ農地になるかというと、そんなことはない
それと何度も書くが、弥生時代の土木力では深さ1メートルを超える河川は潅漑に利用するのが困難
筑後川下流域の開発は、九州説の人が思うより遅れるよ
それと、海進海退の時期の見積もりが不正確だったとしても、九州の王墓級遺跡は
須久岡本遺跡D地点甕棺墓 奴国 前一世紀中ごろ
三雲南小路遺跡甕棺墓 伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓 伊都国 一世紀第1四半期
平原周溝墓(1号墓) 伊都国 二世紀初頭前後
と、どれも魏志倭人伝の時代、3世紀中ごろより100年以上古く、このあと続かない
まあ、遺跡の年代推定は、今後見直されるかもしれないがね
特に平原1号墓はその可能性が高い
甕棺墓自体も
「第Ⅱ期(須玖式,立岩式) Ⅰ期の副葬品に加えて前漢・九州産青銅服,鉄製武器を所有する。墳墓形態には地城型が幾つか存在する。」
「第Ⅲ期(桜馬場式,三津永田式) 集中所有型 王莽・後漢前半代の境,九州産青銅器を所有する。」
の後漢初期の1世紀以降、小型化し顕著な副葬品を持つものが見られなくなり衰退傾向にある
文字記録のない時代だから、考古学資料から判断するしかないが、前一世紀から二世紀前半までの繁栄が、その後の倭国大乱を乗り越えられなかったように見える
吉野ヶ里遺跡の盛時も、だいたい2世紀前半くらいまでのようだし
>4060
編年について、近畿の土器を100年古くして九州に合わせるというのが、科学のねじ曲げ解釈による不正確なものと、ここで結論付いたわけだが、
そうすると逆に、九州のほうが100年古く出し過ぎているのではないか、という疑問が起こる。
鏡編年をやっても、大陸で作られた時期と同時期に墓に入るのか。という疑問がぬぐえない。
墓に副葬されるまで数百年たったものも沢山存在する。
特に時代が古いほど、大切に使用された期間が長い、副葬までの時間差が大きい、可能性が高いのではないか。
科学に基づき(証拠が少なく不安定ではあるが)九州の編年を近畿側に近づけ100年新ためると、きれいにまとまる気がするね。細かい所は知らんけど。
>4060
弥生時代中期には、稲作に不向きとされた関東ですら、稲作が始まるくらいの技術力。
筑後の金属器からするに、その中でも最新の技術が筑後川周辺にあったと見るべき。
また大陸との交流もあり、米文化の最先端とも言える呉越地域の同族に見られる人々。
日本に優れたものなどなかった、という決めつけ、から語る事をやめれば、十分すぎる傍証があると言える。
潮が引いた後の湿地帯にこそ、簡単に稲作できる土地があったというのは、海沿いからの発展や後の開拓の歴史でもはっきりしている。また海岸沿いが狭かったとして、筑後に大量の墓(比較上大型の棺みたいなもの?)が残っている事から、その条件でも大勢力が存在したことは間違いない。
また、筑後の有明海は周囲を陸地に囲まれた穏やかな海で、潮の満ち引きにさえ対策をとれば、氾濫するのは真水の筑後川の方で海水が入る事は少ないだろう。筑後川以外にも山から真水が流れ続けている。
さらに佐賀辺りは1000年1mくらいの沈降があると考えれば、2000年前は今より2m高かった。最も大量の墓が佐賀周辺の文化圏から出る、最大勢力があったと見られる事は、考古学からも地質学からも裏付けられていると思うよ。
>4060
>諸富町には諸富津という地名が残っており、奈良時代には肥前国の国府津として機能したと推定されている」と、ウィキペディア辺りでも書いてある
日本地図見てから物を言えと。支流の川沿いに(=海岸線ではない)、たった数百m範囲だけでも津の地名が並んでるし海抜20mでも100mでもそこから船出せるならそれは津(港)なんだろ。(京都木津林20m、大阪津堂15m中津原250m)
それから、3m摂津まで海だと半分くらい沈んでしまう大阪平野と違って、筑後は3m海でも1~2割程度しか変わらない、ボーリング調査でも今より高かった(影響が少なかった)と出てるのに、妄想上乗せで反論演出だけするのは何なんだ。
事実を見ずに混同して語る、妄想でケチつけてやった雰囲気作り、は大阪寄生民族かぁ。
4060
縄文時代には海だった平野部に弥生時代の遺跡がたくさんあるから弥生時代にはすでに平野になっていて人が住んでいたと考えられている。
米が取れないとしたらあれだけの数の遺跡に住んでいた弥生人は何を主食にしていたのだろうか?
深く耕さないですむなら、塩害もそこまで酷くないな
表土が川から運ばれた土なら十分稲作ができる
逆に灌漑技術が発達するとメソポタミアみたいに塩害で滅亡する
※4039
「纒向遺跡」には以前人が住んでなかったが、その周辺の「唐子鍵遺跡」などにはもっと前から人がたくさん住んでた、ってことが判明してるから。
神武が九州から来たのが本当だとしても、それはもっと前の時代だろう。日本の記録にもそう書いてるよね。というか、神武のエピソードは重用するくせに出身地が南九州だってことは都合よく無視するよなお前らほんとクズだな。
(南九州→)大和→北九州だよ。つまり、大和と北九州の地名の一致は、大和からの分家や殖民者が故郷大和の地名をつけただけ。
南九州 火の本
東 あづま
日ノ本、あま・・・
つまり北部九州から弥生文明は始まり、日向の弥生人は畿内に移りヤマト王権になり、北部九州の弥生人は倭人として奴国から邪馬台国の間の期間繁栄し、4世紀に畿内のヤマト朝廷に屈し、縄文系の狗奴国は熊襲となり、4世紀の終わりまでにはヤマト王権に滅ぼされたというわけですね。
普通ですね。
※4066
纒向遺跡には卑弥呼の時代の住居跡は発見されていない
唐古・鍵遺跡は纒向遺跡が発展するとほとんど人が住まなくなる
卑弥呼の時代の唐古・鍵人と纒向人はどこに住んでたのだろうか
唐古・鍵人は滅んだとしても纒向建設用の人夫は居たはず
何故纒向遺跡から骨すら出ないのか?
建設のためだけに毎日通勤していたのか?
考えることはいいことだが、妄想を事実と思い込んではいけない
新たな発掘による発見があるまで、あくまでそれぞれの主張はひとつの説とするべき
(畿内)原理派の様に攻撃的な主張は全て妄想だと判断して良い
「陳寿は史料を尊重するという編集態度であったようで、参考とした諸本間の矛盾がそのまま三国志に現れています。また、成立過程が曖昧なため、いつごろの情報でかかれているのかがわかりません。さらに、最初にまとめられた段階では、複数の資料を繋ぎ合わされたと考えられることから、古い情報から新しい情報までが混在している可能性もあります。例えば、晋書、梁書などの史書を見れば分かることですが、中国の史書では、新しい情報がない場合は右から左へ古い情報がそのまま書き写されていくということがあります。魏志倭人伝の場合も同じことが考えられるのです。現実問題としては、個々の部分についてこれは古い、これは新しいと切り分けていくことは不可能です。魏志倭人伝を読む場合、このような史料上の制約というものも頭の隅においておく必要があるでしょう。また、陳寿の書いた原本はもとより、古い時代の写本も既に失われてしまっているため誤写の問題があります。現在に伝わっているのは、ずっと後代の12世紀の宋の時代に成立した刊本で、当然のごとく誤字脱字があります。紹熙刊本に至っては、次の皇帝の諱をさけ、「拡」、「廓」、「郭」の字が書き変えられているそうです」
「魏志倭人伝には誤りがある。まず第一に、実際に倭に渡航した人物の勘違い・誤った理解があるでしょう。通訳を介しても意思の疎通が完全でなかったことは想像にかたくありません。これは仕方のないことでしょう。最初に倭人伝をまとめた人物が、倭へ渡航した人物に直接話を聞いたとは到底思えません。提出された断片的な報告書か何かを参考にしながら書いたのではないでしょうか。ここでも誤りが混入されたことでしょうし、陳寿の誤解もあるでしょう。上述のとおり、諸本間の矛盾による難解な箇所もあります。これに、伝写時の誤字脱字が加わります。現存する版本が原本を写したという保証もなく、誤字脱字が何段階にも積み重ねられた可能性もあります。」
『異国人の見聞記事には、少なくない誤謬も含まれているであろうし、また『魏志』撰者の原資料に対する誤解が加わっていることも確かであり、その上古書の伝写の間には誤写の生ずることも免れえないであろう。このように幾重にも重なった誤謬を訂正するのは、研究上重要な仕事であるけれども、あくまでそれは異本の校合による実証を得てのことでなければならない。単に誤解だという理由から軽々しく字句の訂正をあえてし、あるいは自己の主観による解釈をもってその史料価値を云々するような、勝手な訂正が加わる度合が多ければ多いほど、その論考の客観性は失われ、それだけ多くの反対意見が対等の権利をもって現れてくるのは、論者自身の招くところである。(三品彰英 邪馬台国研究総覧)』
『邪馬台問題が百論いでて、いよいよ帰着するところを知らないということは、それらが史料の限界を越えての議論であるからである。このような盲評は、歴史家たらんと願う私自らに対する自戒でもある。私が試み、今後努めようとするのは「資料の限界」の設定である。脚下照顧、この四字が総覧の結語である。(三品彰英 邪馬台国研究総覧)』
ttp://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi.html
※4069
3982や3987を読んでね
妄想なのは九州説ばかりだよ
ネットでなら暇人がハードワークすれば誤魔化せるけど
リアルではそんなもの通用しないから悔い改めた方がいいよ
>4068
>北部九州の弥生人は倭人として奴国から邪馬台国の間の期間繁栄し
「邪馬台国の期間」繁栄してないんだって!
九州の王墓級遺跡は
須久岡本遺跡D地点甕棺墓 奴国 前一世紀中ごろ
三雲南小路遺跡甕棺墓 伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓 伊都国 一世紀第1四半期
平原周溝墓(1号墓) 伊都国 二世紀初頭前後
と、どれも魏志倭人伝の時代、3世紀中ごろより100年以上古く、このあと続かない
だから、九州説は無理なんだって!
>4061
>編年について、近畿の土器を100年古くして九州に合わせるというのが、科学のねじ曲げ解釈による不正確なものと、ここで結論付いた
それ、九州説の妄想だから
それから、「短里」も「川の水行」も「平原1号簿の殉葬」も全部妄想だから
4070でも読んで、味わってみて
魏志倭人伝が正しいとしたら九州、じゃなくて、「短里」とか「川の水行」とか「正使はものすごく遅い」とか、当時の大陸の人の常識で魏志倭人伝を読んでもムチャな仮定(妄想)がないと成り立たないし、奴国も伊都国も邪馬台国じゃないって書いてあるのに、その二国の遺物でしか邪馬台国を語れない時点で、九州説は無理なんだよ
>4069
>何故纒向遺跡から骨すら出ないのか?
これまでこの日本列島に生まれて生を全うし、亡くなった人がどれだけいると思う?
その人数分の骨が出ると思ってるのか?
死んで土に返るって言葉をどう思う?
墓地でもなければ、そうそう骨は出ないよ
※4068
北部九州はお呼びじゃないです
神話のどこにも出て来ません
奈良盆地、東西に約15km、南北に約30km。面積約 300㎢。
福岡平野、博多湾に臨む平野。面積約250㎢。西側には糸島平野がある。古代からの遺跡・史跡に富む。博多平野。
筑紫平野、有明海の湾奥に面する平野、面積は約1,200㎢。
熊本平野、熊本県中北部に位置する沖積平野。面積約775㎢。
日向平野、宮崎県中部の大淀川,一ツ瀬川の下流域に広がる平野。日向市美々津綾町の綾,宮崎市青島を頂点とした三角形の海岸平野で,面積約 800㎢。
関東平野、関東地方一都六県にまたがる日本で最大の平野である。面積約17000km²、四国の面積に近い。
濃尾平野、木曾川左岸の尾張平野と右岸の美濃平野をあわせた名称で,面積 1800㎢。
簸川平野、東西約30キロメートル、南北約20キロメートルの長方形。
岡山平野、面積約 230㎢。
神話に北部九州が出てこないということは畿内勢力とは別の勢力が支配していたということだな。
それが3世紀中頃は邪馬台国ということか
疑問が解けたよ
>4073
うわぁ。
正しいとしたら日本じゃなくなるのに、九州説???、意味不明な事を言って批判「演出」する声闘ってやつよね。
ほんと嘘ばっかりの印象操作で気持ち悪い。畿内原理主義者って言うのかこれ。
短里は他でも使われている→証明済み。
水行は川でも使われている→間違いとは言えない。
水行陸行○日の平均速度も出してある→万二千里範囲に入ってもおかしくない
筑後流域に卑弥呼時代の描写に繋がるものが存在していた。
これを、認めないニダって連呼してるだけじゃん。
本物が見つかるまでどこでもいいけど、今のところ魏の時代一番の候補は筑後辺りよね。
1世紀から2世紀は玄界灘周辺が栄えて3世紀は有明海沿岸が栄えたのかな?
農耕技術が上がって博多周辺だと手狭になったのかな?
それとも筑紫平野は縄文の遺跡があるから弥生人が徐々に南下したのかな?
南下した結果、狗奴国と戦争していたのだろうか?
とりあえず、東遷した大和朝廷は北部九州じゃないことは認めるんだな。
んで、邪馬台国の女王は日本書紀に神功皇后として出てくるから大和朝廷なんで、悪しからず。
4078
>一番の候補は筑後辺り
学者には誰にも支持されてないけどね
※4080
神功皇后の先祖である新羅の王子である天日槍はどう折り合いつけるの?
>4081
無根拠印象操作でたー。
4080
天孫降臨の候補地調べてみ
>4080
未だに三韓征伐を無くしたい朝鮮半島学者の学説を信じる朝鮮人が居るんやな
4082
何の折り合い?
4084
北部九州はお呼びじゃないです
4085
日本書紀の否定→三韓征伐の否定
朝鮮人はお前じゃボケ
≫4080
台与は狗奴国と係争中で征服していないのに卑弥呼である神功皇后は熊襲も征伐し九州を平定しているのが謎なんですけど…。
※4083
例えば誰?
>4079
弥生人が突然どこかからやってきたわけではないですね。
縄文時代の頃から海越えた交流があり、呉越地域(長江下流域)からは、洪水と海流で日本(九州~日本海側)に流れ着く人も居たのでしょう。長江上流域の少数民族とアイヌ服の柄がよく似ているなんて事もあるようです。
>4087
日本書紀は嘘が混ざってるから置いておくとしても、大陸や半島史料でしっかり確認できますよ。
4088
??狗奴国は九州じゃないよ
>4089
学者は研究し事実を積み上げる人、説の支持があるないなんて学者の名を騙る印象操作。
4086
卑弥呼の時代に新羅が存在していないこととの折り合いでしょうね
神功皇后が卑弥呼ならその時代に存在しない王朝の王子が日本に来て卑弥呼の先祖だったことになる
新羅の神話だと邪馬台国の前から建国していることになるから神功皇后が卑弥呼で3世紀の人物なら朝鮮人としても神話が事実になるから嬉しくなるでしょう
狗邪韓国なくなっちゃうけどね
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:43:34
※1529
神功皇后を卑弥呼にすると三韓征伐がなくなるんですよ
北朝鮮と韓国の学会は広開土王碑さえ否定して三韓征伐をなかったことにしているんです
神功皇后を卑弥呼に見立て、三韓征伐がなくなると嬉しい方達とは?
朝鮮半島の考えを日本に押し付けるのはやめませんか?
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:51:27
※1530
神功皇后=卑弥呼+台与
なので無くなりませんけどw
過去一千年以上記紀を読んだ日本人はずっとそれで納得して来てるんですけど。
勝手に他国の歴史を無くさないでくださいね。
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:52:17
1529
神功皇后は新羅王の血を引いている
神功皇后が卑弥呼なわけがない
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:54:25
1532
記紀を否定するチョンコ発見w
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:54:46
>1529
卑弥呼は独身、子供もいない
名前:名無しさん@腹筋崩壊 投稿日:2017/07/14(金) 18:57:11
※1534
台与にはいたんだろう
4087
卑弥呼は三韓征伐してないぞ
※4081
天動説と地動説、どちらが当時の学者に支持されていただろうか
脚気はビタミン不足なのかウイルス性の病気なのか?当時の学者の治療法はどうだったのか
学者が支持しているから正しいか否かではなく、その中身を吟味することが学問ではないだろうか
※4073
様々な効果からc14の年代測定で古い年代が出るのはもはや常識
国外でもこれは常識で日本国内でも常識だが弥生時代を研究する畿内説の学者の中だけでは知られていない
というか無視している
読み方が無理矢理というが
東南を北東にしたり女王国を倭国にしたり、水行は海のことなどと歪曲してるのは畿内説の方
日本国民も多数は九州説を支持しており、漢文に明るい本場中国の学会の間では九州説が通説である
畿内説は国際的には一切通用しない
中国の畿内説の学者は魏史倭人伝の道筋解釈を一切放棄しているほど
畿内には無理な読み方をしないと辿り着かない
当時の大陸の常識とは離れた読み方などと根拠のないことを言っているが
少なくとも現在の大陸の常識とはかけ離れているのが畿内説である
>4876
関東そんなに大きいのか、筑紫河内濃尾3つ足せば並ぶくらいかと思ってた・・・。
奴国が博多平野約250㎢で2万戸なら、筑紫平野約1,200㎢で10万戸くらいあってもおかしくないね。筑後の方が水が豊富で稲作発展してたとすると12万いけるかな?
九州は他にも大国があったという歴史もうなずけるね。
>4078
>ほんと嘘ばっかりの印象操作で気持ち悪い。畿内原理主義者って言うのかこれ。
九州説の人は独善がひどいよね
さんざん川の水行なんて「いくらでも」あるって言っておきながら、自分では一つも例を出さずに
別の人が、かなり広い範囲で全例調べた上で「海」と「ガンジス川」しかないって示しても
ガンジス川も川、とか言い出すし
ガンジス川の例では、遡るときは逆水行、流れに乗るときは順水行って、海の水行とは区別できる書き方がされてるのに、魏志倭人伝の水行では逆も順も記されていない
この時点で魏志倭人伝での「川の水行」は全否定だよ
これだけ丁寧に解説されても、ガンジス「川」って書いてあるって言い張るのがどんなにみっともないか分からないんだろうな
>4098
>奴国が博多平野約250㎢で2万戸なら、筑紫平野約1,200㎢で10万戸くらいあってもおかしくないね
でも実際には遺跡は出ないね
早く見つかるといいね
というか、甕棺墓からして衰退してるし、その後も大きな古墳一つ作れないし
大和朝廷の傘下に入ったら大きな古墳を作れないってことはないんだよ
吉備や日向、毛野や丹波では大きな古墳作れてるからね
早く大集落遺跡や、大応急の墓が九州で見つかるといいね
見つかったら九州説が定説になるかもね
でも、見つかるまでは「ないのが事実」だからそれを前提に論立てしてね!
4095
神功皇后=卑弥呼+台与+アルファ
遺跡は道路とか団地の建設なんかの工事で見つかることが多いから、人が住んでいる地域だと、偶然に頼らないともはや見つからないんじゃないかな。
日本書紀は基本的に新羅を敵視してるし、下に見てる
神代でも一書曰でスサノオにこんなことを言わせたりしている
是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」
天日槍の話も、日本書紀では帰順に来たって話だし、わざわざ王子が来たのにほぼ放置だし
>4099、4100
うわぁ。
原理主義者じゃないので、別にどうでもいいです。
のんびり発掘進むの待ちたい所だけど、邪魔なのが居るんで仕方ない。
4101
卑弥呼と台与の間の男王は?
で、中国人学者とやらの邪馬台国比定地ってどこやねん
>4102
>人が住んでいる地域だと、偶然に頼らないともはや見つからないんじゃないかな
前にも書いたけど、人が住んでいる地域だからこそ、家の立替の基礎工事とかで遺跡が見つかったら調査されるんだよ
奈良県には人が住んでないと思ってるのかな?
4105
知らんけどw
日本書紀否定するなら、神武東遷もナシってことになるけどいいの?w
4102
見つかったら聞いてやるから、それまでは黙っとけカス
>4104
>のんびり発掘進むの待ちたい所だけど、邪魔なのが居るんで仕方ない。
4078と同じ人だよね?
誰も邪魔してないよ?
というか、文化財保護法で埋蔵文化財も保護されているし、工事中に埋蔵文化財を発見した場合は、その現状を変更することなく、速やかに「埋蔵文化財発見届け」を提出することが義務付けられているんだから
九州説が明らかになるような発掘が邪魔されてるとか、妄想が進んでないかな?
とりあえず「川の水行」は解釈上むりってことで!
4104の人も、この件に関しては「原理主義者じゃないから」っていう言い訳つきで、もうこだわらないそうだし
ますます、九州説の比定地探しは混迷が深まるね!
4108
古事記の東遷は?
つまり川でも海でも水行と表すという結論だな
水行 水の上を行く事、古典を引用した支那の辞書にも書いてある。海なんて意味は無い。
これに、海の上、と勝手に妄想条件をつけ、自分の設定した条件に合う合わないという声闘(議論に非ず)に持ち込もうとする。
他ならぬ禹(倭人との繋がりがわざわざ書かれている人)の話で、水行乗舟や水行載舟(同じ文の異字)として、海に限らない場所をあちこち移動した(当然順も逆もない)部分が反証として挙げられるも、一切無視して声闘(ソント朝鮮文化)を続けるおぞましい原理主義者。
そもそも、魏志倭人伝の
循海岸水行 歴韓国
循海岸 水行 の時点で、海岸を巡る形式の水行、水行単体の意味は水の上を行くなんだなと、言語論理がまともな人間なら理解するんだが、論理がだめだめな言語でもやってる人なんかな。
要するに海岸を付けないと海だとわからないということは水行が海も川も表すということか
納得できた
で、川を「水行」しないとたどり着けないような場所にある当時の洛陽に匹敵する集落ってどこよ。
>4117
洛陽ってそんなに大きくないぞ?、周囲を山で囲まれた天然の要害で、狭いからって遷都されることもあった場所だろ。
筑後平野の方が普通に大きいし、水利も良いし気候も温暖で人が増えやすいだろう。
日本は人口集積が、縄文の頃から世界一に近い国だぞ。
日本には何も無かった論でなければ、人口密度が高くても納得できるはずだが。
筑後の方が大きいはさすがに盛ったわ。
ぐーぐるMAPで見たら、洛陽が少し大きいくらいだ。
ただ、稲作の方が麦よりも人口増やしやすいから、水利があって開拓が済んでいれば、単位面積で人口3倍くらいはいけるね。
※4118
洛陽が気に入らないなら、言い方変えよう。
当時の九州だけで大月氏のクシャーナ朝に匹敵していたということ。
遺跡でも出てくれば早いんだけどね、それだけの人口を賄える生産能力を有した土地が後世どうして衰退し人口が減ってしまったのかも、納得できる説明があればご教授願いたいものだ。
4120
魏の使節が直接邪馬台国に行ってない説は引っ込めるの?
神武天皇が降臨した日向は筑紫の国であり、韓国の向かいにある
どっからどう見ても北九州
>4114
>禹
三帝五皇って知ってるか?
伝説の聖王であって、それを「現実の歴史解釈」の根拠にしようっていうのは、普通の神経ならしない
堯舜禹が実在の人物でその事跡も史実って主張するならまあ筋が通らんでもないが
※4120
その説は自分が出したものではありませんので引っ込めるもくそもありません。
別の方だと思いますよ。
>4116
>要するに海岸を付けないと海だとわからないということは水行が海も川も表すということか
そうじゃなくて川(ガンジス川のみしかないけど)を水行するときには、流れの向きによって逆水行か順水行か、区別されるんだよ
地理・旅程ではその情報が重要だからね
投馬国まで逆水行って書いてあったら川の水行と判断できるけど、そう書いてない以上、普通に海だよ
4116は順行か逆行かには、一言もコメントしないよねww
4122
韓国岳っていう山が鹿児島にある
>4116
>要するに海岸を付けないと海だとわからないということは
そうじゃなくて「循海岸」は朝鮮半島の「南西の角で曲がる」っていう注記だよ
海岸がそこで曲がるからその曲がる「海岸に循いて」
そろそろ自分の主張が無理筋どころか完全の破綻していることを認められるといいんだけど
原理主義者には無理かな
自分が上位者だから話の内容にかかわらず自分が正しいって価値観を持ってるみたいだし
チョッパリはウリナラの弟子で下僕ニダ
ウリナラと近い北九州じゃないと困るニダ
ウリナラと北九州をスルーして南九州→畿内では困るニダ
この声闘には自尊心で絶対に負けてはいけないニダ
魏の使節団「倭人よ、邪馬台国はどこだ?」
倭人「水行10日陸行1◯」
魏の報告書の写し「水行10日陸行1月」
これでどう探したらいいんだ…
中韓人は九州説
日本人は畿内説
かー
仮に神武東征を史実とみた場合、大阪平野の地形がどのようになっていたのかが非常に重要。
最近判るようになってきた。出土した貝などから淡水、汽水域かも判別が可能。
西暦150年から350年ごろは、すでに河内の湾口は閉ざされ淡水化し、湖となっており舟(船)による湖侵入は難しい。
それ以降は、河川による土砂体積により埋め立てられ平野に変っていった。
日本書紀の記述通りに、満潮時の潮流に乗って難波碕に行き、川を遡って草香に上陸することができた時代は、河内潟となっていたBC50~BC1050
4128
やっと卑弥呼が天皇家の祖ではなく朝貢していた倭国と天皇家の日本は別であり朝鮮半島は日本に朝貢しており、天皇家の日本は一度も中国に朝貢していない史実を認めていただけましたね
>4131
1000年も幅があるのかよwwwwww
そもそも河内湾だったところが河内湖になりやがて陸地になった過程で
いつまで海と繋がってたか年代を特定したところで
そんなの神武東征が史実かどうかとは全く関連性のない話だしな
現実的には神武東征が史実とする根拠や証拠は皆無だけどな
神武東征が史実かどうか云々以前に、少なくとも当時の河内の地形を知るものでないと、あの話は書くことはできないな。
※4123
伝説を書いた話の文章中に出てくる語句も伝説であり使い方が正しくないとでもいうのかな?
4132
>卑弥呼が天皇家の祖ではなく朝貢していた倭国と天皇家の日本は別であり
日本人「卑弥呼天皇家の祖だし、天皇家は倭・日本の主」(日本書紀)
>朝鮮半島は日本に朝貢しており
朝鮮人「朝鮮半島は倭の臣下となった」(広開土王碑)
>天皇家の日本は一度も中国に朝貢していない
日本人「昔中国に朝貢してた」(日本書紀)
つまり、朝鮮人の主張をみとめて、
日本人の主張を認めないということだなお前は
あっ…(察し)
>4135
>伝説を書いた話の文章中
伝説がなぜ伝説なのか考えれば、それを根拠にどうこうってのは意味がないだろ
魏志倭人伝の丹木も、山海経に出てくる伝説のアイテムらしいからそれが現実の何に当たるかとか考えるだけ無駄
>4135
川だったら、順行、逆行が区別されるっていうのは理解できたかな?
これだけ丁寧に何度も説明されれば、分からんとか言わないよな?
※4131
とりあえず卑弥呼の時代以降ではなさそうだね
ということは邪馬台国東遷は消えたか
>4133
>そんなの神武東征が史実かどうかとは全く関連性のない話だしな
4134も書いてくれてることだけど、河内潟だったことを伝える伝承がなかったら、陸地化して何百年後かに、平野の奥まで船で行ったっていう創作は難しかろう
そして幅が1000年あっても、その下限は絞られる
3世紀の邪馬台国後に神武の東征(に相当するでき事)を考えるのは難しい
神武東遷(にあたるでき事)が史実だった場合、入植後、3世紀までにヤマトの王権が十分に成長する時間的余裕があることも分かる
遷都ならともかく、肥沃な土地(九州)をわざわざ捨てて東遷する理由がいまいち判らない。
mktg-center.blogspot.jp/2014/01/1600_11.html
九州はあんまり肥沃ではない
※4142
九州説を唱える人は、九州だけで15万戸をやしなえる農地を持っていたと主張しているものでね。
4142
1600年頃の石高分布の面積地図から分かることは
国力が低く国力に比べて人口が多い地域は畿内諸国、山陽諸国
石高を全て穀物の収穫量だと仮定すれば、商業によってのみ畿内と瀬戸内は人口を維持できる
つまり畿内と瀬戸内に人口をまかなう稲作の収穫量はない
個人的に千年以上違う石高の分布を比べてもどうなのかなとは思う
石高とは太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や 海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。
屋敷であれば当然生産量はないが石高に含まれる。
逆に隠し田は含まれず、八公ニ民の地域でも餓死者や逃散がないのはこのためである。
耕地面積の内、田方・畑方の面積の割合はそれぞれ55%、45%であるのに対し、田畑の石高の内、田方・畑方の割合は全国的にそれぞれ約70%、約30%であり、石高は米に偏重する傾向があるとはいえ、米の収穫高を表すものではない。
筑後平野に遺跡がない
邪馬台国九州説は完全終了のお知らせ
大和 石高 448,945.5 面積 3,107km²
筑前 石高 335,695. 面積 2,447㎢
筑後 石高 265,998. 面積 1,247㎢
単位面積当たりだと筑後は肥沃と言って差し支えあるまい
まあ、東征というより、移住だと思うけどね
縄文時代から結構長距離移動してたんだし、それなりに遠距離でも通婚もあっただろう
大国主は、九州や越の国まで妻問いしてるし
北部九州の王家筋の人間が、畿内に移住して住み着いたって程度のような気もする
>4147
大和の国(奈良県)は、奈良盆地以外の南部はみんな山の中だって分かっていってるのか?
九州にあった場合は九州内にたくさんのクニがあるので、地域の広さが限定されるけども、畿内の場合は大和(奈良)一国に収める必要はないのではと思っていたんだけど。どうして?
>4150
4149への返事なら「山の面積まで入れて単位面積当たり」肥沃も何もないだろうっていう4147への返事
※4150
なるほど。
農地の広さで見たほうがいいですね。
4152
石高には農地以外の面積も入るし、米の生産高以外も入る
石高はそもそも太閤検地以降の数値
弥生時代の農地と生産量及び人口は何をもとに推測すべきかを決めた上で皆が納得できるだけのデータがないと議論にはならんよ
筑後平野に遺跡がないって話を逸らし中
4148
東遷は、北部九州関係ないですから
無理矢理ねじ込むなよクソチョソ
>4155
>東遷は、北部九州関係ないですから
え~、直後に大和朝廷が日本の中心になるのははっきりしてるから「大和朝廷を邪馬台国の東遷で成立ってことにして、東遷前の邪馬台国はもちろん九州だよな」って論法にしたがるのは九州説だろ?
そんな話は成り立たないし、そもそも邪馬台国の時点から畿内だって話
日向からの東遷ってのは、それはそれでいろいろと難しい
日向に見るべき遺跡がないとか、東征経路でわざわざ関門海峡を行ったり来たりするとか
>4153
>弥生時代の農地と生産量及び人口は何をもとに推測すべきか
まあ、弥生時代の遺跡の分布、だろうね
どうしても発掘バイアスがかかるから、ざっくりした推定にしかならないけど
そうした推定の結果、大河川の下流の氾濫原は、開発が遅れるって分かってるのに、筑後川は水量豊富な大河川で平野も広いから、とか言う人は、佐賀と福岡の県境が筑後川下流部でどうしてグネグネしてるかをよく考えて欲しいな
鉄器が多いからなんて理由で弥生時代から潅漑利用=治水ができてたら、江戸時代まで蛇行してないだろうと
もっと平塚川添遺跡とその周辺の発掘に予算が付いて欲しい
>4140
>4134も書いてくれてることだけど、河内潟だったことを伝える伝承がなかったら、陸地化して何百年後かに、平野の奥まで船で行ったっていう創作は難しかろう
大和川流域の住人たちにとっては単に昔話として知っていたということじゃないのか
大和川を使って瀬戸内海まで出ていたんだから
神武がどうとか全く関係ない
>4159
>大和川流域の住人たちにとっては単に昔話として知っていた
4159は、1年前の今日の夕食を覚えているかな?
平凡な日常は記憶されない
昔話が残るには、残るに足るだけのインパクトと必要なんだよ
大和川を使って大阪平野を抜けて大阪湾まで出て、それから瀬戸内へ行く
そんな暮らしを日常として何百年も経った時点まで、昔は日下から海だったって話が説話として残ると思うか?
神武の東遷(にあたるできごと)が紀元前一世紀として、古事記が書かれた8世紀まで800年
インパクトのあるエピソードでもなければ、800年前の地形が説話で残ると思うか?
4159がどこの国の人かは知らないけれど、4159の故郷の800年前の海岸線とか聞いたことがあるかい?
※4137
>魏志倭人伝の丹木も、山海経に出てくる伝説のアイテムらしいからそれが現実の何に当たるかとか考えるだけ無駄
そんな伝説のアイテムの話じゃなくて、ただの水行の概念の話
話をすり替えないように
伝説で使われていようが史実で使われていようが水行という言葉の指す意味はかわらない
海だったとか、湖だったという逸話が現地に残っていたとしても、他者の伝聞(真偽不明)を利用して、未経験である細かい描写(満潮でどうなる。干潮でどうなる。船が早く進んだから浪波と名付けた)はなかなか難しいだろうし、正統性確保のために年月をさかのぼらなければならない理由もない。(神武東征では戦って最初負けてるし。兄も亡くなっている。)
※4126
岳とかどこにもついてないから
さらに韓国岳の向かいってどっちから向いての向かいなのかわからん
日本から見た場合の韓国の向かいっていうのはどこかはある程度はわかるけど
>4158
>もっと平塚川添遺跡とその周辺の発掘
オレもあの辺は面白いと思うし、いろいろ調べて欲しいけど、やっぱり規模が小さいんだよな
中央集落と呼ばれる部分の面積が2ヘクタールくらい
吉野ヶ里が外側の環濠の内側が40ヘクタールと言ってるのと比べてやはり小さい
もっとも、吉野ヶ里も墓域まで環濠で囲ってるから「環濠内面積」だとでかいけど、他の環濠集落(簿息を含まない)と直接比較できる生活空間の面積は、そこまで広くないそうだ
それから、この平塚川添遺跡も筑後川のかなり上流域で、下流の氾濫原の遺跡ではない
筑後川の下流域にきっとある、卑弥呼の王都・邪馬台国にあたる大遺跡が早く見つかるといいね
>4161
だから、川だったら川の流れに逆らうかどうかを、順行か逆行かで示すんだって!
この件については頑なに触れないよね?
堯舜禹の伝説がどうこうっていう話に、話題をそらして一生懸命ごまかそうとしているけど
いくらでもあるはず(笑)の川の水行話が、伝説しかないんじゃ話にならないだろう?
魏志倭人伝の記事と比較対照できる「正史の地理・旅程記事」には「川の水行」はないってことがまだ認められないかな?
って書くと、ガンジス川は川だとか言うんだろうけど、ガンジス川の水行と御笠川の水行を同列に語って説得力があると思うのがおかしいし、ガンジス川でも順行、逆行が区別され明記されているんだから、御笠川の水行でも逆行って書かれないとおかしいよな?
4163
北九州のどこに高千穂があるの?
山門地区の弥生時代の遺跡多すぎない?
これ全部の調査終わるのかな…。
纒向遺跡も巨大だし意外と人口多かったのかもね。
>4114
さて、だいぶ泳がせたから、そろそろ恥をかかせてあげようかな
>他ならぬ禹(倭人との繋がりがわざわざ書かれている人)の話で、水行乗舟や水行載舟(同じ文の異字)として、海に限らない場所をあちこち移動した(当然順も逆もない)部分が反証として挙げられるも、一切無視して声闘(ソント朝鮮文化)を続けるおぞましい原理主義者。
これ漢書卷二十九 溝洫志第九のこの部分ってことでいいかな?
夏書:禹堙洪水十三年,過家不入門。陸行載車,「水行乘舟」,泥行乘毳,山行則梮,
禹は洪水を治める(湮(ふさ)ぐ)ために13年間、家の門もくぐらずに通り過ぎた。陸を行くときは車に載り、「水を行くときは船に乗り」、泥を行くときにはそりに載り、山を行くときにはカンジキを使い、
ちゃんと原文を読んで解釈したか?
これで、水行が海も川も関係ないとか言ってるのはおかしいって分かるかな?
これは、旅程としての「水行」ではなく、「陸や泥や山との対比としての水」を行くとき、だから「移動経路、方法としての水行」という単語とは、ほぼ無関係だぞ
※4165
そもそも逆行、順行なども一例あるだけであってそれをもって全例とするのはおかしい
時代が違うし文章の書き方も違うのだからそういう区別がなくてもおかしくは無い
史書によっては東西南北行の区別がない部分があるように
そもそも陸行水行併記は普遍的に見られる道程記述ではないしな
まあ、それをいうなら早く内海を行くことを水行と表現している箇所をもってこいということだ
川を行く水行の例はあるんだからな実際
内海ってなに?
海でも川でも水の上に船を浮かべて移動することを水行と書くことが明らかになりましたね
川の時は順行逆行なんだね
水行
1 水上を舟などで行くこと。⇔陸行(りっこう)。
2 水が流れて行くこと。
倭人から聞いただけだから遡るか下るか分からなかったか、遡ったあと下ったから水行で済ませたかしたんじゃない?
>4169
>そもそも逆行、順行なども一例あるだけであってそれをもって全例とするのはおかしい
いや、漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史 旧唐書 新唐書の範囲で、川の水行の「全例」がガンジス川の2例で、それが片方は河口から逆水行と書いてあって、もう一つが「順」恒水東行
これで全例だよ
そもそも川の水行が他にないんだから
川の水行はいくらでもあるって言ってたのは4169なんだから、そのいくらでもある例を示せば、こんなグダグダ言わずに論破できるだろ?
>時代が違うし文章の書き方も違う
「時代の違う漢書」の禹の治水の活躍の伝説のエピソードの一例で、海も川も書いてない水行があるぞ、この反証に答えてみろって言ってたのは4169だよね?
これまでとは論証スタイルを変えるのかな?
「『水上行路の水行』という旅程記事での言葉」と「『水を行くとき』という普通の文章」を同列に扱って訳の分からないことを書いてたのは4169だよね?
>史書によっては東西南北行の区別がない部分があるように
水南行とかいくらでもあるとか言っていて、水南行も水北行も一つもなくて、やっと出してきた水西行が地中海の水行(海の水行)で、もう一つが上のガンジス川の水東行
東西南北がついていようがいまいが、水行は海とガンジス川しかないってのを確認してくれたのが4169だよね?
>そもそも陸行水行併記は普遍的に見られる道程記述ではないしな
そうだよ?
水行単独でも、かなりの長距離(=ほぼ海限定、ガンジス川クラスの大河ならありうる)にしか使われないから、基本大陸国家の中華王朝の正史には、めったにない記述だからね
だから、3942で全例検討ができる訳だ
普遍的に見られる道程記述ではないから、水行といえばほぼ海と限定できるし、川の場合は全例「順か逆」がついてる
>それをいうなら早く内海を行くことを水行と表現している箇所をもってこい
論証する側が論拠を出せと何度言えば? もう降参かな? エラそうに(笑)
まあおまけで答えてあげるけど、この直上でも書いているように、旅程記事での水行は「かなりの長距離」でないと出てこない
内海は基本すぐ向かいに着くからこそ内海なのだし近距離だから水行とは書かれない
おそらくは渡海と書かれるか、海岸沿いを陸行するよ
それから、畿内説で内海経路を主張してる人を見ないんだが、何を言っているのかね?
>4174
中国の史書(北書、隋書)で、流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日 と、建安郡から流求國まで水行五日と書いてある
この流求國が、後の琉球国(=沖縄)を指すのか、それとも台湾(小琉球、沖縄=大琉球に対してこう呼ぶ場合がある)を指すのかは、論争があるそうだけど、水行五日で少なくとも台湾海峡が渡れるのであれば、投馬国までの水行二十日で、どこまで行けるかをそれなりに想定できるだろ?
福岡県内の「川の水行」で30日かかるなんてのは、考えるのもむなしいくらいだよ
4174も4169と同列扱いされたくないだろ?
日中対訳辞書
水行する
読み方すいこうする
中国語訳水上航行
中国語品詞動詞フレーズ
対訳の関係完全同義関係
水行するの概念の説明
日本語での説明 水行する[スイコウ・スル]
(船に乗って)水上を行く
>4160
全く逆
・1人の人間が1回だけ経験すること
・数千人の人間が数千回経験すること
どっちが、後世に伝わるか?もちろん後者だ
この件に戻ると、奈良時代初期の奈良盆地南部の人々(=大和川流域に住む人々)が
大阪平野が800年前海であったことを知っていたかどうかだ
白肩津という地名がその当時あったのだから昔そこが海だったことを庶民に認識されていたと考えるべき
少なくとも神武が1回だけ通った場所が800年も伝承されてたなんて話より遥かに現実的
大阪湾から筑紫までの古代における平均航海日数が10日前後(日中双方の様々な文献による)だったことを考えると投馬国は濃尾平野で邪馬台国は毛野地域だな。関東の上陸地点は神奈川か鹿島でどうだろうか。
『山海経』東山経
南水行五百里、流沙三百里。至于葛山之尾、無草木多砥礪。
南水行三百里、流沙百里。曰北姑射之山、無草木多石。
南水行五百里、曰流沙行五百里。有山焉、曰跂踵之山。
南水行五百里、流沙三百里。至于無皋之山、南望幼海。
※水行と流沙(タクラマカン砂漠)陸行の行程説明である。
『山海経』北山経
北水行五百里、流沙三百里、至于□山。
北山行五百里、水行五百里、至于饒山。
『山海経』南山経
西水行四百里、曰流沙、二百里至于□母之山。
※流沙は中国西北方のタクラマカン砂漠。ここでいう水行は、明らかに(タリム河やホータン河など)砂漠周辺の内陸河川行である。
しかし、畿内説により水行は海上移動にしか用いられないことが明らかとなり、当時のタクラマカン砂漠は海に面していたことがこの文章から判明した。
このことは世界的な大発見であり、当時のタクラマカン砂漠は海に面しておりシルクロードこそが海の道だったのである。
恥ずかしながら教えていただきたいのですが、九州説における水行ルートってどこを通っているんでしょうかね?
※4176
何度も述べたが、日程表記と日表記が混同されていた古代において移動だけに費やした日数を計るのは不可能
魏略には日数の表記はなく、魏史の日数表記は使いの実際にかかった日数を挿入したと思われる箇所でありこれが日程表記である可能性は低い
何度も言うがこれを日程の意味とするなら陸行の時間がかかりすぎる
>4011、4114、4177、4173
長きに渡って、辞書表現を貼ってくれてるけど、池や湖を渡るのが「水行と書かれない」なんてことはこちらは一言も言ってない訳だ
普通の中国語の言い方として、船に乗って水の上を移動するのが水行と表現される
それについては一言も論評していない
それは基本的に「水を行くとき」という文章表現というか「行くという動詞」に修飾語として「水」がついたもの
今、議論の対象になっているのは「正史の地理・旅程記事」での「水行」の扱い
じゃないと、魏志倭人伝という正史での倭国の旅程記事の解釈にならないからね
その上で「水行」表現自体が少ない
あるのはほぼ全例「海」で、川は「ガンジス川のみ」
さらにガンジス川の例は、河口からは逆水行、東向きのときは順恒水東行と書かれる
このガンジス川の2例目は、「恒に(つねに)水の東へ行くに順う」と読むべきかもしれないがね
『漢書』 地理志
自日南障塞、徐聞、合浦船行可五月。
有都元国、又船行可四月。
有邑盧没国、又船行可二十余日。
『魏略』西戎伝
従安息界安谷城乗船、直截海西、遇風利二月到、風遅或一歲、無風或三歲
中国でも日数表記はある
『晋書』陶璜伝
又南郡去州海行千有余里
又廣州南岸、周旋六千余里
『新唐書』
自州正東海行二日至高華□、又二日至□□□、又一日至流求国
廣州東南海行二百里至屯門山
乃帆風西行二日至九州石、又南二日至象石、又西南三日行至占不勞山
直交州南、海行三千里
船で1日進むことを千里と表している箇所が多い
目視できるところは距離が書いてある
『南斉書』祖沖之伝では実際の1日の水行距離を川で実験し百里としている
川を遡るのが逆水行はわかりやすいけど、下るのは水行だけでいいのでは?
4183
タクラマカン砂漠の川の移動も水行みたいですよ
※4175
そもそも魏史倭人伝中の水行は岸沿いに行くなら循海岸水行である
同一資料内の表記と矛盾する以上、後に出てくる水行は循海岸しないものである
畿内で内海航路を主張してないのはいいが、わけのわからん言い訳以外です南を北東に置き換える合理的な根拠が無いからな
当時コンパスが無い時代に太陽の向きだけで方位を判断した場合、対馬を1日で渡ることができる最も安全な季節は夏
夏至の時には方角が約30度ずれるのは照明されている
南東が多少北東よりの東に解釈されるのはおかしいことではない
※4182
古代でもある程度表記ルールはある
そのルール自体を書いたものがないから明確に分からないだけで当時の読み手には伝わった以上必ずルールはある
古代の政府の公文書であり、その公文書を使って徴税や軍事などの行政を行なっていたことを軽く見るべきではない
>4181
オレは九州説じゃないけど、これまで九州説だと思われる人が一生懸命訴えてたのは
唐津から奴国まで陸行してきて、それから内陸の不彌國まで川の水行を始めるために移動する
不彌國へはそうじゃないと行く理由がないそうだ
で、不彌國から御笠川を遡って、大宰府辺りで筑後川の支流の宝満川に乗り替えて、筑後川を下るんだそうな
でも、奴国の中心付近とされる須玖岡本遺跡のすぐそばを御笠川が流れているから、わざわざ不彌國へ行く理由が分からない
この経路で、奴国の中心近くから大宰府通って三笠川を筑後川の合流地点まで行くと道なりで約30キロ、そのまま筑後川の河口(現在)まで行っても50キロ
この距離を行くのに「水行二十日」+「水行十日陸行1月」かかって、間に投馬国があるんだって
普通に考えて、おかしいんだけど、大陸王朝の正使の移動はものすごくゆっくりで、ゆっくりな方には限度はないから、たった50キロ:マラソンランナーなら3時間くらいで行けそうな距離を2ヶ月かかってもおかしくないんだって
この経路、一番標高の高い分水嶺の大宰府付近でも海抜40メートル行かない、すごくなだらかな経路で歩くのに特に不自由はないと思うんだけど、「大陸の史書には他に例のない川の水行」で行くんだってさ
理解できた?
オレにはこれを水行だと言い張れるのが理解できないんだが
>4183
池や湖を渡るのが「水行と書かれない」なんてことはこちらは一言も言ってない訳
頑なに「川」と書かないことに拘りと厭らしさを感じる
4189
水行20日の時点で畿内も通り越しちゃうもんな
>4180,4186
山海経は、論拠にならないと何度言えば
これは、地理でも歴史でもなく、妖怪とか平気で出てくる伝説を書いた書
日本書紀で宇摩志阿斯訶備比古遅神の神が出てくるから、日本人は泥から芽を出す葦から生まれたなんて主張してる人がいたらどう思う?
オレは4180をそういう人だって見てるけどさ
>4188
>その公文書を使って徴税や軍事などの行政を行なっていたこと
「水行」表示は、その行政が届かない、夷狄の領域にしか使われてないんだって
基本的な部分をちゃんと押さえてから書き込みしてくれ
公式文書である正史に夷狄の領域だからと適当なこと書くはずっておかしくね?
>4187
>魏史倭人伝中の水行は岸沿いに行くなら循海岸水行である
これは4127でも書いたように、朝鮮半島の南東角で曲がるから後ろの「乍南乍東」が分かりやすいように書いてあるだけで、基本的に水行だけで、海岸沿いまたは島伝いの海路だよ
>南を北東に置き換える合理的な根拠
だから畿内説は、南が東に90度回ってるっていう主張なんだから
>夏至の時には方角が約30度ずれる
のであれば、九州北部から出雲の方角はそれこそばっちりじゃないか
誤差45°弱だったのが、こういう計り方をするなら誤差15°弱になって、八方位でも東の範囲内だろ?北東まで行かずに?
で、魏志倭人伝編纂までのどこかで、倭国は会稽の東(朝鮮半島の南方)にあるんだから、この東は南じゃないとおかしいって思った人がいて、東が南に化けたんだろ
分かりやすい根拠(夏至の時には方角が約30度ずれる)を出して、アシストしてくれてありがとう
>4194
>夷狄の領域だからと適当なこと書くはずっておかしくね?
じゃなくて、行政も届いてないから、正確なことが調べがつかなくてもそのまま書いてるってことだよ
魏志倭人伝でも「遠絶不可得詳」って書いてある通りだよ
>4190
ガンジス川(天竺江)のことは何度も書いているが、何か?
畿内説勝利の方程式
先発:倭人伝は夷狄の領域であり全て適当
中継ぎ:遺構や出土品、地形を無視
抑え:魏志は正史であり他の正史との表現の違いは一文字足りとも許さない(ただし旧唐書を除く)
『山海経』は、中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、最古の地理書(地誌)とされる。
構成している総編数・総巻数には時代によって異同があり、劉歆が漢室にたてまつった際には伝わっていた32編を校訂して18編としたとされている。『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。
4192
山海経と正史は共に皇帝に献上されているから文章に使われている言語とその表現は同じだと思う。
日本書紀は神話も混じっているから編纂当時とは違う日本語で書かれていて日本語の研究には一切役立たないと主張する人がいたらどう思う?
私は4192をそういう人だって見てるけどさ
>4178
よほど神武の東征をなかったことにしたいようだけど
>白肩津という地名がその当時あったのだから昔そこが海だったことを庶民に認識されていたと考えるべき
津は川港でも物資の積み下ろしをするところには付けられる地名だから、白肩津という地名があってもそこが海だという認識には繋がらない
ましてや「何千人もが何千回」も陸地の中の川として利用していたら、昔は海だった記憶は「その回数によって上書き」されてしまうだろう
それにこれは「庶民に認識」されるではなく、「王権の正当性の根拠」として「指導者の一族周辺」にこそ語り伝えられなければならないことであり、それこそ初代大王の説話というインパクトを持つ物語だからこそ800年後まで残ったと考える方が普通の考えかただぞ
※4201
民衆の記憶とか神武インパクトじゃなくて普通に語り部がいて代々口伝えで伝わっただけじゃない?
4198
先発 筑後平野に遺跡ないだろ
9イニング13奪三振完封勝利
住居跡のない纒向遺跡にどうやって七万戸の住居があったのか知りたい
九州から畿内まで行くのに水行30日陸行1月もかからない
海岸水行10日陸行1日の間違いでしょ
※4178
後世に伝えるためにある口伝を集めて編纂された書物と人々の記憶を同列に語って何の意味があるんだ?
4195
日の出と南中を間違うほど方角はずれないからやっぱ無理じゃね
>4200
>日本書紀は神話も混じっているから編纂当時とは違う日本語で書かれていて日本語の研究には一切役立たないと主張する人がいたらどう思う?
日本書紀には神話も混じっているから、歴史追求には神話の部分は使えないっていうのは正しいだろ?
実際、荒唐無稽なことも書いてあるし
「(山海経は)最古の地理書(地誌)で」っていう