邪馬台国畿内説と九州説まとめ
前回の記事で、魏志倭人伝の記述は、とりあえず九州に上陸するまではそこそこ正確っぽいことが分かりました。
そう、ここまではね。
問題は、そこから先。
普通に行くと海の上になっちゃう。
そこで、魏志倭人伝の記述を読み換える必要が出てきます。
かの有名な「畿内説」と「九州説」は、魏志倭人伝の記述のどこを間違っていると見なすかという点が一つの対立軸なのであります。
畿内か九州か
畿内説
単純に言うと、畿内説は「方角が間違っているよ」というスタンス。
「不弥国から南へ水行20日で投馬国へ至る」の部分を、あえて東に進んでみる。
つまり、瀬戸内海をグイグイ進んで行きます。
畿内説の場合の行程
そうすると、若干距離に誤差はあるものの、見事に畿内へと到達します。
この行程は一つの説で、他に日本海ルートや太平洋ルートもあるので、わりとあやふやです。
九州説
一方の九州説は、「距離が間違っているよ」というスタンスです。
そもそも、魏志倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までトータル12,000里と書かれています。
そして、帯方郡から伊都国までの距離を足して行くと、既に10,500里ほど進んでいます。
帯方郡〜狗邪韓国:7,000里
狗邪韓国〜対馬国:1,000里
対馬国〜一支国:1,000里
一支国〜末盧国:1,000里
末盧国〜伊都国:500里
伊都国は「福岡県糸島市」なので、そこから南方1,500里(=115km)くらいのあたりに邪馬台国があるはずだと考えられます。
九州説の場合
この場合、投馬国までの「水行20日」とか、そこから邪馬台国までの「水行10日陸行1月」というのは、誇張表現だという風に解釈します。
畿内説有利
もちろん、上にあげたそれぞれの説のルートはあくまで一例にすぎません。
他にも無数の解釈があって、プロアマ問わず実に多くの人々が、それぞれの解釈で持って邪馬台国の位置を推定しています。
ただ、逆に言うと、それだけ自由に解釈できる余地があるわけで、魏志倭人伝の記述だけで邪馬台国の位置を確定させることはもう不可能でありましょう。
しかし、考古学的には、今のところ畿内説が圧倒的に有利と言われているみたい。
纒向遺跡
魏志倭人伝では、邪馬台国は7万余もの建物があったと書かれています。
7万余戸というと、人口換算で30万人規模。
そこに当てはまりそうなのが、纒向遺跡(まきむく遺跡)という超巨大遺跡。
これは、奈良県北部にある3〜4世紀頃の遺跡なのですが、その時代としては異例の大きさを誇る遺跡であります。
纒向遺跡はここ
2km×1.5km=3km2の広さに大型の建物がいくつも計画的に配置されていることが分かっていて、なおかつそこにあんまり生活の痕跡が見られないため、超巨大な祭祀空間だったのだと考えられています。
広大すぎて、まだ全体の5%くらいしか発掘調査ができてない
この纒向遺跡は街じゃないことがミソ。
この時代に、祭祀の為に、巨大な祭祀空間を構築できる権力を持った国が畿内にあったという点で、特筆すべき遺跡なのであります。
箸墓古墳
卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。
魏志倭人伝に寄れば、卑弥呼は直径100歩の塚に埋葬されたとされています。
魏の時代の1歩=約1.45mなので、卑弥呼の古墳は直径145mクラスのでっかい古墳だと思われます。
前述の纒向遺跡には、箸墓古墳(はしはか古墳)という前方後円墳があります。
前・方・後・円・墳……見事な……
この箸墓古墳の後円部分の直径は約160m。サイズ的にも割と近い。
で、ここに埋葬されているのは、日本書紀によると「倭迹迹日百襲姫命」という女性です。
読み方は、「やまと とと ひ もも そ ひめ のみこと」。
読みにくい。しかも誰だかよく分からない。
調べてみると、この女性は7代孝霊天皇(←実在するか不明)の娘。8代崇神天皇(←実在したっぽい)の叔母にあたります。
ただの女性ではなく、トランス状態で神様の意向を伝えたり、オオモノヌシという神様のお嫁さんになったり、まるでシャーマン的な行動をしたとされています。
この姫様は、夫のオオモノヌシが蛇だったことに驚いて尻餅をついて、その拍子に箸が陰部に刺さって死ぬという微妙な最期をとげます。(だから箸墓古墳なの。)
彼女のシャーマン的な行動が卑弥呼とダブって見える事などから、現時点での卑弥呼の正体候補No.1とされています。
ただ、女王と皇女ではちょっとランクが違いすぎるし、あんまりメジャーな人物ではないので、その結論では少し寂しい(´・ω・`)
出土品
纒向遺跡からは、九州様式から関東様式まで、幅広い種類の土器が見つかっています。
これはすなわち、この纒向を中心に日本の文化が交流しているような雰囲気が強い。
あくまでも状況証拠でしかありませんが、それでもやはり邪馬台国は畿内にあった可能性が濃厚っぽいという結論になるのであります。
九州説の有利なところ
というわけで、考古学的な部分では圧倒的に不利な九州説。
しかし、それでもなお九州説に根強い論者がいるのは、ストーリー的に九州だとしっくりくるから。
神武の東征
例えば、日本書紀にある「神武の東征」。
初代天皇である神武天皇は、もともと九州の日向(宮崎県)にいました。
しかし、「日本を支配するには畿内の方がよかろう」と判断して東に出発。関西らへんの敵を征服して、正式にヤマト朝廷を開いたとされています。
八咫烏に導かれる神武天皇
この東征が史実かどうかは分かりませんが、少なくとも記紀を編纂した時点でのヤマト朝廷は、自分たちの起源は九州と考えていたはず。
もし邪馬台国がヤマト朝廷の起源なのであれば、これは邪馬台国九州説の強い根拠になりうる神話であります。
九州人っぽい風習
魏志倭人伝によると、当時の日本人はみんな顔や体に入れ墨や顔料を塗っていたようです。
「皆黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている。
縄文時代の土偶
確かに、縄文時代の日本には間違いなくこうした風習がありました。
しかし、畿内においては、3世紀の時点でもうこの風習は廃れていたのではないかという主張があります。
一方、九州の南に住んでいた人々は隼人と呼ばれ、全身にガンガン入れ墨をしていたことが分かっています。
入れ墨をする風習が畿内では既に廃れていた事は、古事記に書かれています。
姫はそのオホクメノ命の入れ墨をした鋭い目を見て、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目尻に入れ墨をして、鋭い目をしているのですか」
「古事記中巻−『神武天皇』」より
神武天皇の部下が顔に入れ墨をしているのを、畿内育ちのお姫様が不思議に思う、というエピソード。
畿内の人々が顔に入れ墨をしていないなら、邪馬台国も畿内じゃないのでは?
邪馬台=山門?
邪馬台は、「ヤマト」とも読めます。
そうなると、日本人の多くは、まずは「大和」を連想するわけです。地名は「言葉の化石」的な発想から行くと、畿内説を推したくなりますね。
しかし、冷静に考えてみてください。
そもそも「大和」は完全に当て字で、日本語の読み方ではありません。音読みしても訓読みしても、「大和」を「ヤマト」とは絶対に読めません。
では、なぜこんな当て字を使うようになったのか。一説には、次のような流れだと言われています。
元々中国が使用していた「倭(小さい)」という文字。これを、同じ読みで良い意味の「和」に変えて、そこに「大きい」を加えた。
こうして「大和」という言葉を作ったわけですが、これはあくまで中国語ベースの単語。そのままだと「ダイワ」になっちまう。
日本は自分たちのことを日本語では「ヤマト」と読んでいたわけで、仕方なく変則的に「大和」を「ヤマト」と読むようになったというわけ。
だとすると、元々の「ヤマト」の語源は何か。
そこで出てくるのが、福岡県の「山門」という地名であります。
ヤマト朝廷は、元々は山門朝廷だった。
それが「神武の東征」によって、畿内に移動し、さっきの流れで大和朝廷へと変わっていったという可能性。
証拠はありませんけどね。
邪馬台国は大和なのか
こんな感じで、邪馬台国はどこにあったか論争は、当分決着がつきそうにありません。
ただ、この論争の根底にあるのは「邪馬台国は大和朝廷の起源なのか?」という問いであり、そうであって欲しいという気持ちであります。
みんなが侃侃諤諤の議論を繰り広げているポイントはこの点なのです。
「神武の東征」を信じるなら九州説。フィクションと捉えるなら畿内説。
纒向遺跡を邪馬台国と捉えるなら畿内説。別勢力と捉えるなら九州説。
そもそも邪馬台国と大和朝廷は無関係という可能性も十分にありえます。
というわけで、ちょっと荷が重い感じはありますが、次回は大和朝廷の起源について、もう少し考えてみたいと思いま〜す。
コメント (9,043件)
普通すぎる考察で、ちと残念(´・ω・`)
位置的には九州だろうし、遺跡はこれからも発掘が進むだろうしね。
邪馬台国そのものが本当に存在してたのか
疑問なんだが。
一つ前の記事のコメントめちゃくちゃ伸びてるのに
古田武彦の名前上げている人が一人しかいないって驚きだな
前スレの
「南を東に置き換えても、機内には到達できない」
「当時の航海技術じゃ、瀬戸内海は水行できない」
ってツッコミはどうなったの?(;´・ω・`)
旧唐書に書いてなかったっけ?
あれ面白いよね、中国の方に行った九州から来た邪馬台国の人と近畿から来た邪馬台国の人が目の前でケンカしだして。あー、どこも同じで困ったもんだなあってやつ。
魏の時代に台はタイと発音せずにドと発音されたとか。それなら、ヤマド=大和だな。
又、九州では当時30万人も住む町は存在していない。結論は明らかだ。
卑弥呼も日命か日皇女が正解だろう。天照の末裔だな。
豊丸「イグ~イグ~」
卑弥呼「私もイグッ!!」
魏志倭人伝から都合のいいところだけつまんだ感じだな
距離だったり人口だったり
方角どうするのかとか住居跡が見つかってないとかどうするんだ?
九州説は「水行10日陸行1月」を総日程と見なす立場なんじゃないの?
宮崎県の高天原が神武天皇と関係あるかは怪しいらしいが
九州に拠点をおいてたら、近畿に拠点を移すメリットは無いんじゃないの?
九州は温暖だし、関東東北は寒くて済むには魅力的じゃないから
九州を捨てて、近畿に行くとは考えにくい
中間の中国地方等ももっと発展していって、徐々に近畿に行く感じじゃないの
倭の五王が九州なのにどうするんだ
畿内説は無料筋。各地に大きな街があったとしてだから邪馬台国だ、とはいえない訳で。大体瀬戸内海から畿内まで具体的な記述がないだろう。オカシイ。それに距離表示でなくて何日陸行、水行何日とかかかった日にちがかいてあるなら短距離でもかかった訳で海上に出てしまうとかナイナイ。三角縁神獣鏡を都合よく卑弥呼の鏡とか畿内説は先に結論ありき杉。畿内になくては困るのか?印象操作は止めよう。
崇神は八代目で無くて十代目。
大局的に見て里数から北九州。また、女王国のある島から海を渡った先も倭人が住んでると書かれていて、女王国が近畿なら北海道が倭人の地になってしまうぞ!
まきむく遺跡は、九州に有った倭国の東方に有ったと支那の史書に書かれている、元は小国の日本国。これこそが、2世紀中頃の神武東征で生まれたヤマトの百年後の都。
まさに、この後、近畿各地の銅鐸が破棄されていったが、これこそ剣や鉾ホコを祭器とする九州系のヤマトの崇神天皇が、3世紀後半に奈良盆地から急速に支配地を近畿各地に広げたせいである。
方角は目隠しや船内から出さないなどして(侵略の足がかりを与えないため)誤魔化せるが、日程は誤魔化しようないでしょ。
朝鮮までの旅程の正確さを見るに、日本に着いてからの記述だけが不正確なのは明確におかしいっしょ。日程は正確なんだと思うよ。
とはいえ、金印が出てきたのがなぜ博多? って話だから、物証的には九州説を取ってもいいかな。
行って戻ってしたんでねーの?
平城京の人口が10万人。
現在の奈良市の人口が37万人。
これらの数字から考えて、
邪馬台国30万人はあり得ない数字で、
明らかな嘘ということには何で触れないのー?
魏志倭人伝は問題がある書物だよー。
※16
上国の賓客を軟禁?目隠し?ないない
太陽さえ見れば進んだ方角なんて一目瞭然だし方角なんて偽る意味が薄すぎる
それなら距離や日数の方が使者が苦労を誇張したくて弄った可能性があるレベル
投馬国(中国地方)の5万戸と邪馬台国(近畿)の7万戸は広範囲だったのかも
※16※17
実は、使者は伊都国までの途中までしか行ってないのでは?という説がある。
前回に出ていた伊都国の記述で
「帯方郡の使者が往来する際はいつもここ(伊都国)に駐在する。」
は伊都国から先には行けなかった意味では?と、また魏志倭人伝で伊都国の次の奴国などの記述がアッサリ目なのは、実際にこの目で見たのではなく現地民の伝聞による記録だからでは?と、考える人がいる。
魏志倭人伝のころはまだ関門海峡が開削されておらず
船が通れないんじゃないの
纒向遺跡はあぶみの発見で卑弥呼の宮殿とは違うって説がね
「方角が間違っているよ」
「距離が間違っているよ」
両者ともそれ以外は間違ってない前提なのがおかしい
間違いだらけで正確な箇所のほうが少ない可能性だってあるだろうに
畿内も九州もまず結論ありきの誘導に思えてくる
魯迅の説(ソースは昔の本) 昭和11年頃 魯迅に面会した日本人がいた それによると
魯迅は「海内華夷図」「石刻華夷図」「声教広被図」「混一疆理図」「混一疆理歴代国都之図」を挙げ 中国の地図の間違いを指摘した 測量学が西欧から入ったのは1700年以降だ
九州説が初めて出たのは 新地図が出始めた本居宣長の「馭戎概言」(1777年)からで それ以前の新井白石 北畠親房らは古地図を見ていたので大和を疑わなかった 邪馬台国は機内の大和に間違いない
魏志倭人伝では至ると到るという2つの漢字を使い分けていて、日本での意味は同じだが、中国では明確な違いがあるそうな。
一方は現在地からの距離、もう一方は出発地からの距離だという。
それなら邪馬台国は九州となる。
ってなことを台湾の学者が唱えている。
また、九州には地名の類似も多いそうだ。
ということで、九州説が有利じゃね?
邪馬台国知りたい様なロマン残しで知りたく無い様な。
でも私は楽しく拝読させて頂きました。
邪馬台国旅団説の本を読んだのを思い出した。
邪馬台国は近畿で、のちに大和朝廷の元になる九州の国に征服された。それが神武東征である、で良いんじゃ無いかな。
とりあえず韓国の陰謀で場所がわからなくなったことにすれば丸く収まるよ!
三角縁神獣鏡がいっぱい見つかるから畿内だろ
古伊万里・浮世絵はヨーロッパでいっぱい見つかるけど、
江戸はヨーロッパにあったのかな?
何でそうなる
※31の理論だと
モノは産地以外に存在してはいけないらしい
日本産の物が外国にあればそこは日本というバカ理論
これぞ九州説クオリティ
まず、弥生後期から古墳時代の始まりにかけての年代感を確認してください。
古墳時代の開始は「箸中山古墳の築造」からと、ほぼピンポイントで指定できます。この古墳が最初の200メートル超の超巨大古墳であり、この古墳により「前方後円墳」という規格が定まったという意味で、この古墳を作るイベントが古代史における一つの画期であったことは間違いありません。
そして、箸中山古墳とほぼ同時に最初期の前方後円墳が日本のかなり広い範囲に同時に作られたことから、その時点で日本のかなり広い範囲に「前方後円墳を作る共同体」が成立していたと考えることができます。そして北部九州もその範囲内であり、作られた古墳の大きさは畿内に比べるとかなり小さいものであることを確認してください。
前方後円墳に代表される「古墳」は、いきなり生まれたものではなく、先行する弥生時代後期には各地に「王墓級」とも言うべき副葬品を伴った墳丘を伴う弥生墳墓が作られます。そして、そのうち特に大きなものは、岡山の楯築墳丘墓や、丹後の大風呂南一号墳墓、出雲の西谷墳墓、福岡の須久岡本遺跡など、古墳時代にも一定の勢力=古墳築造能力を有する地域にあり、こうした遺跡を見ていけば、ある程度当時のクニが見えてきます。箸中山古墳に先行する勝山古墳などの巻向墳墓群も、弥生墳墓の範疇だと思います。
こうした巨大な弥生墳丘墓ができる前の弥生時代は、家族墓として複数の遺体が埋葬される墓制がとられており、多くの副葬品を伴う「王墓級」の出現は、社会のあり方が変わってきたとこを示してもいます。
「王墓」とともにクニを見出せる遺跡に環濠集落があり、九州の吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡、大阪平野の池上・曽根遺跡、奈良盆地の唐古・鍵遺跡は、当時のクニがどんなものかを知る手がかりになります。壱岐の原の辻遺跡は、東夷伝倭人条の一支国そのものです。ただ、ここに挙げた遺跡が邪馬台国の時代に合う訳ではありません。
箸中山古墳の築造年代は、精確には分かっていませんが、年輪年代法によりそれなりに信頼できる推定ができるようになって来ました。古墳の年代は、円筒埴輪の形式や出土する土師器や須恵器による編年が作られており、そこに年輪年代法で求められた池上曽根遺跡の柱の年代などを合わせることで推定されています。それによれば、箸中山古墳の築造年代は3世紀後半と考えられ、魏志東夷伝倭人条の卑弥呼の没年247年のすぐ後の時期となります。
ただ、日本の年輪年代法がたった一人の研究者によるものであり、追試ができないため、過度の信頼はできないとする人もいます。一方、この年輪年代法とC14年代法との間に大きな矛盾はなく、大まかな年代推定としては十分だともいえます(本来年輪年代法は、1年単位の正確な絶対年代が出るものですが)。
私の結論としては、魏志東夷伝倭人条が書かれた時代は弥生後期から古墳時代に差し掛かる頃であり、日本の広い範囲(最初期から前方後円墳を作った範囲)で倭国としてのまとまりがあり、その中心的な存在は纏向遺跡の勢力であった、というものです。
箸中山遺跡が卑弥呼の墓であってもなくても、その当時の国の中心が、この纏向の勢力であったことは間違いないでしょう。そして、この纏向の地は、崇神、垂仁、景行という実在とされる最初の三代の天皇の磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮の地であり、当時の倭国の中心勢力が大和朝廷(という呼び名は後付けですが)そのものと考えることに問題はないと思います。
その一方で、東夷伝倭人の条を素直に読めば、北部九州の平塚川添遺跡あたりになります(自郡至女王國萬二千餘里)。おそらく、中国側に「漢の委の奴の国王」が朝貢し金印を授けた頃からの、倭国の中心は北部九州という常識というか思い込みがあり、加えて後漢書等の先行する倭人の条に引きずられて、倭国=北部九州という行程記事になっているのだと思います。
つまり、魏志東夷伝倭人の条に「書かれている邪馬台国」は北部九州(けれど情報が古くていい加減)で、実際の当時の倭国の中心であり「本来の邪馬台国」は大和の纏向遺跡でよいと思います。
邪馬台国ってそもそも当時の日本最大の国って訳じゃなくて
九州地方の最大の国程度だったんでないかな
近畿には後に大和朝廷になる国があって、後々同じ勢力になるとして
邪馬台国=大和朝廷ってのがまず無いと思うんだよなあ
魏志倭人伝当時は九州に邪馬台国があって
近畿にはさらに大きい大和朝廷の基盤となる国があったって感じがする
「まとめ」と題するなら、前スレの※欄の意見をまとめてくれ。
年代的に邪馬台国の(というか魏志に書かれている年代の)頃には、倭国はすでに九州から近畿までを含む領域全体で共同体意識があったと考えられます。それだから、箸中山古墳とほぼ同時に九州にも前方後円墳が作られる。
その一方で、卑弥呼や台与の「共立」というのが、前方後円墳を作る契機だと考えることも可能です。前方後円墳は、吉備の円筒埴輪、出雲の葺き石、北部九州の副葬品、巻向を墳丘墓の墳形を併せ持つ「王の墓」ですから。
九州から追放された男王が畿内に国を建て力をつけて邪馬台国を征服した
とか
更新待ってた!今回も面白かったわ
どっちも説得力を持たせようと思えば持たせられるのね。この曖昧さはなんかエヴァンゲリオンとかみたいな伏線をとりあえず撒けるだけ撒いときました感がある
ところで、前方後円墳って実は地球の鍵穴で地磁気を開けたり閉めたりできるとかなんとかってゆで・・・
3世紀当時の巨大前方後円墳がある
魏の鏡の三角縁神獣鏡が出ている
これが揃っているやまとという地名のある場所は畿内
ちょうど今日のNHKで同じ題材やっててワラタ
番組では日本列島が90度東に傾いた間違った状態で認知されてて、それで南=東になっちゃってるって言ってるね
>34
例えば、ピラミッドは初期(古い)の方が小さいですが、それはどうとらえていますか?
練習を経て、大きなものを作れたという方が不自然でない考えではないでしょうか?
>42
>37でも書きましたが、箸中山古墳が作られ古墳時代に入る直前の弥生最晩期に、様々な特徴を持つ巨大墳丘墓が各地で作られるようになります。
巻向でも勝山古墳(と呼ばれていますが円筒埴輪がないなど定型化する前の墳丘墓と考えた方が分かりやすい)のような、箸中山に先行する墳丘長数十メートルクラスの墳丘墓が作られています。
そうした弥生時代の墳丘墓で「練習」した後で、各地の墓制を統合した形で、以前のものとは隔絶した大きさの箸中山古墳の築造をもって、古墳時代が始まるのだと考えています。
>42
>43の補足
北部九州で前方後円墳が作られるのは、箸中山とほぼ同時で決して先行はしません。また平面図がほぼ箸中山と相似で同じ規格で作られており、かつそれ以前の九州の墳丘墓の墳形と連続性がありません。
北部九州で見られる最初期の前方後円墳が、箸中山に先行する先駆的な練習とみなすべき理由はないと思います。
ヤマト王権まであと100年くらいしかないなかで、
間に吉備や出雲もあるってのにそれ全部さっくり飲み込んで
九州から畿内を平定なんかできるわけないだろ。
弥生人が九州から東遷してきたのは多分確かだけどもっと前の時代だろ
それがあったかどうかはともかく、百年あれば十分な気がするが
日本の歴史は動乱期になると一気に勢力傾いて、塗り替えに百年以上もかからんし
「方角が間違っているよ」
「距離が間違っているよ」
しまいには「国名も間違っていたよ」が追加されたりするかも
間とって四国か岡山とかは?
川が重要なんでしょ?
100年あれば十分過ぎるでしょ。
昔、三好政権つって畿内11カ国を治めた巨大武家政権があったが、
(当時は畿内5カ国を治めた人物を天下人と呼んだ。だから信長は東北と九州が手つかずだったが天下人と呼ばれた)
全盛期から十数年で信長に皆殺しにされ歴史から姿を消した。
今じゃ三好政権なんて誰も知らんだろ。
安土桃山時代でもこれじゃ、生野菜くって裸足で歩いてる集団を潰すなんて、100年もいらんでしょ。
>49
そして、織田政権や豊臣政権も(ry
鎌倉幕府も滅ぶ時はあっけなかったしな
土器の編年も近畿は当てにならぬらしい。
近畿は時代考証に土器くらいしか手掛かりなくて、ひたすら土器編年をいじるのだけれど、大分恣意的で、編年だけで机上で古色を添えている。
要するに偽物づくりの域に達しつつある。
前方後円墳の祖型説もある畿内円形周溝墓も、実は新しいものだ説が根強い。
生活臭のない巨大祭祀都市纏向は、縄文以来の歴史はあるが、中国風土木技術などで整備され、巨大化が進んだのは3世紀末なんだよな。
いきなりのこの畿内の「進化」を説明する必要性があり、3世紀中葉がカギになる。
3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
吉備がなぜ取り込まれたかは、吉備にとって日本海航路→瀬戸内海航路がおいしいからだ。
安芸、讃岐、伊予も含めた瀬戸内連合が畿内入りをサポートする理由はある。
※49
信長が家督を継いだのが1551年
畿内を完全平定したのが本願寺を下した1580年
名古屋から畿内でもこれだけかかる。
明治維新は、薩長同盟から戊辰戦争終結まで3年ぐらい。
時代が下るほどスピードが早くなる。
生野菜食って裸足で歩いてる時代の方が時間かかるだろう。
※51
>3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
神武即位は紀元前660年だよ
まあこんなもんだろうな
弥生文化が徐々に広がっていく様を一代英雄記にした感じ
※51
>3世紀中葉の激動について、神話物語的に神武東遷だけが言及しているわけで。
神功皇后の熊襲討伐があるじゃん。
畿内説を支持する人に聞きたい。
朝鮮から畿内への道のりを記述するときどうする?
1 釜山から海を渡って対馬、壱岐、そして松浦に上陸するんだよ
#ここはわかる
2 そこから歩いて 糸島・博多・北九州へいくんだ
#まぁこれもわかる
3 そこから海を渡ると畿内(邪馬台国)だよ
#いきなり飛躍しすぎだろ!!!
大体 千里-五百里-百里 と国家間の里数が小さくなっているのに
いきなり数千里分の距離のある箇所へと 飛ばすものだろうか?
そもそも神武が東征した大和の国こそが邪馬台国なわけで
で神武が邪馬台国を乗っ取って出来たのが大和朝廷
※55
まぁこの指摘は妥当性あるわ
陸行に関して、前回記事本文にて道が悪いから距離が稼げなかっただろうと推定しておきながら、水行でしっかり距離を勘定しているあたりにも片手落ち感が否めない
大航海時代と比較するのもアレだけど、欧州へ渡航するのに実際の航海時間以上に「風待ち」のために何か月も、下手したら半年も拘束されてしまい、それで合計すると何年もの時間がかかってしまう。
古代の使節がどんな船を使ったかは謎だが、国家使節がまさか手漕ぎのボートというわけでもないだろうし、ガレー船みたいなものが荒海の日本海でまともに使えたとも思えないから恐らく帆船に乗っていたのだろう。一方で現地の倭人たちはせいぜい釣り船程度の船しか知らなかったのではなかろうかと推測すれば、効率の良い風の稼ぎ方も分かっていない連中が試行錯誤しながらなんとか船を進めていったというのが実際の様子だったんだろうし、そうなると水行一日で平均どれだけ進めたかと言えば大した距離にはならなかった可能性は高い。
そもそも最短コースの瀬戸内海は島と浅瀬と複雑な海流に支配される難所だし、大きめの帆船を安全に航海させるには山陰もしくは南海から回っていくしかなく、畿内説だとやや距離が離れすぎているきらいはある。日向など九州南部であれば距離感が現実味を増してくるようには思えるね
その地に合ったかもしれない邪馬台国と纏向遺跡の巨大政権が同一である必要性は必ずしもないし、指摘さえているように九州の出先機関を邪馬台国本拠地だと中国側が勘違いしていた可能性もある
日数に風待ちや悪天候を避けたと考えれば距離と合わなくなるのか。
考えもしなかったが当時を考えれば自然かも。
魏志倭人伝だけでなく、漢書とか旧唐書とかの倭国についての記述を比較すると、かなりの部分が前例踏襲のコピペだってことが分かります。そういうテキスト比較の研究も進んでいるので調べてみてください。
魏志倭人伝にこう書いてあるから、、、というのは、実はあまり意味のある議論ではありません。中国側からすれば、王朝の徳の高さ(遠くから朝貢に来るほど徳が高い)を示す材料として、以外の点では、特に興味もない夷狄のことなので、もとからいい加減です。
>>59
奴国までは遺跡があるんですけど…
※59
>魏志倭人伝にこう書いてあるから、、、というのは、実はあまり意味のある議論ではありません
実際の発掘と歴史書を同時に研究することに意味があるんですよ。
きっとこれから中学の授業で習うと思うので予習しておいてくださいね。
>>59
「中国側からすれば、王朝の徳の高さ(遠くから朝貢に来るほど徳が高い)を示す材料として、以外の点では、特に興味もない夷狄のことなので、もとからいい加減です。」
お前の考えよりよっぽど当てになるけどな
>51
以前は九州と近畿の土器編年が大きくずれていて、先進的な九州から近畿まで文化が波及するのに時間がかかるというような説明がかつてはされていました。それが年輪年代法の登場で、このずれはほぼ解消されています。九州が先進地域という立場の人からすれば、この古い方へのシフトは恣意的でいい加減なものと感じられるようです。
一方で、縄文時代から神津島の黒曜石が全国流通していたように、古代から地域間の物流を含めた交流が、我々の想定以上に盛んだったことを思えば、九州とほぼタイムラグがなくなった修正された近畿の編年は、妥当なものだと思います。
倭人伝の地名(私見)
・那(ナ福岡博多)・不弥(フミ小倉門司)・投馬(トマ鞆 吉備)・那岐(ナギ美作)・巴利(ハリ播磨)・邪馬台(ヤマト大和)・邪馬(ヤマ山城)・為吾(イガ伊賀)・弥奴(ミヌ美濃)・姐奴(ソヌ信濃)・華奴蘇奴(カヌソヌ甲斐駿河)・狗奴(ケヌ毛野)・己百支(シヒャッキ阿波土佐)・伊邪(イヤ伊予)・郡支(ヌキ讃岐)・対蘇(タイソ遠江)・躬臣(コシ北陸)・烏奴(ウヌ出雲因幡)
*華奴蘇奴 富士山(カヌソヌ カルスル 激しくこするの意 甲斐 駿河となった)
>60,61
>59ですが私も同じ立場ですよ。遺跡など考古学的な裏付けのある部分を押さえながら、検証していくものだと考えています。
前回の記事のコメント欄にも、7万戸の国が云々というコメントがありましたが、当時の倭国にそれだけの国は確認されていません。そういう確認できない部分については、魏志倭人伝のテキストを根拠に議論してもあまり実りはなく、考古学資料の解釈など別のアプローチが必要になるだろう、というのが論旨です。
教育はすでに十分に受けていますのでご心配なく。
>65
上の記事には、まきむく遺跡、3〜4世紀頃の遺跡で7万余戸に当てはまりそうと書かれてるが
これは違うということですか
※55
いきなり飛躍しすぎだろ!→だからなに?
※57
>そもそも最短コースの瀬戸内海は島と浅瀬と複雑な海流に支配される難所だし
そうか?基本的にはめちゃめちゃ穏やかだぞ。
難所と言えなくもないところもあるにして太平洋や日本海とはレベルが違う。
考古学的には畿内完勝だから、九州派は「文書」に頼るしかないw
辺境の夷狄のことを適当に書いた報告書と、後世に作文した神話に。
(文書でも実は畿内の方が若干有利なんだけど)
>66
奈良盆地の最大拠点はもともとは唐古鍵遺跡の環濠集落で、纒向遺跡は住居跡のない人工都市だといわれています。他の方のコメントにもありましたが、7万戸に4人家族だとそれで人口28万人ですから、現代でも地方中核都市レベルで、下手すると当時の日本の全人口を超えます。
まあ 、その頃の倭国で最大の拠点くらいに取ればよいのでしょうが、テキスト通りに読んでどうこういうことにはあまり意味がないと思います。
四国はなんか出ると中央が没収して闇に葬られること多いから四国には何かあると思う
神社とか遺跡が色々あるみたいだし
個人的には古代イスラエル人の系譜が途中で日本に入って来てると思う。ある時急に発展したから。
>>70
もし、カナンの民が極東に流れたなら中東と日本の間にその時代ごとの痕跡があるのでは?
ネットを調べるといろいろな人がいろいろなことを言ってますよね。
卑弥呼の墓は山口だとか沖縄系の血が入ったへブライ人だとか
魏志倭人伝には、邪馬台国のことをヘブライの国という記述があったと思いますが。
自分は、神武天皇が東征によって倭国を作ったということと
ヘブライ人が大和国を作ったことは、あまり関係ないのではと思います。
たぶん時代が500年以上違うので。
コメントの多さに驚きです。
関心が高いのですね。私もか。
※52
>信長が家督を継いだのが1551年
>畿内を完全平定したのが本願寺を下した1580年
それでも29年じゃないですか、その倍でも58年、3倍でも87年で100年には全然及ばない。
100年てのは長いですよ。
だいたい当時の情勢では桶狭間以前の信長なんてカスみたいな存在で、まともな勢力じゃないですが、それでもたった29年ですよ。
桶狭間から起算すればさらに短くて、20年じゃないですか。
――実際には、義昭追放(幕府滅亡)、三好滅亡の1574年あたりで畿内掌握といってもいいんじゃないですかね。これだと14年(一向一揆鎮圧まで入れれば15年)。本願寺もずっと戦っていた訳ではないですし何とか持ち堪えていたというところですし――
>明治維新は、薩長同盟から戊辰戦争終結まで3年ぐらい。
さすがに銃火器使用が常識の時代とは、まったく別物として分けませんか。
その頃には既にガトリング砲とかあったわけで議論の前提が違いすぎます。
安土桃山でも銃はありましたが一般的な武器でなく(特に長篠以前は)、信長の鉄砲隊も手取川の戦いで鉄砲を持たない上杉軍に大敗してます。その程度の代物です。
邪馬台国から大和朝廷まで100年として話が進んでいますが、大和朝廷をどこから(いつから、どの天皇から)と考えているのですか?
天皇の実在をどこからとするのか、については議論がありますが、欠史八代の次の崇神天皇の実在を認めるならば、その宮都は磯城瑞籬宮で纒向ですから、遺跡の年代間から言ってほぼ同時代、あっても数十年くらいの時間差しかありません
8代天皇は崇神ではなく孝元で欠史八代の一人
崇神は10代
>69
その人口数は朝鮮、または中国人を含めての数だと思います
日本人限定で考えたら厳しいが、外来系土器の発掘から朝鮮人が渡来したわけで
三国時代の戦乱、または食糧難で移住してきたとしたら
十分考えられないでしょうか
魏志倭人伝の記述が全て正しいなら、こんな議論にはなっていない。
※74
>桶狭間以前の信長なんてカスみたいな存在
そうでもないよ。父・信秀の頃から大国美濃や名門今川と熱い接戦を繰り広げるぐらいの戦力。
>さすがに銃火器使用が常識の時代とは、まったく別物として分けませんか。
では信長の時代と倭の時代も別物じゃないとおかしいのでは。
記紀に東遷が書いてあるから!って言う割には記紀に書いてある時代設定(東遷は紀元前660年)を無視したり、九州説はいろいろ都合良すぎんだよ。
「東遷は紀元前660年」・・・これは流石に無視させてもらいます。
それ以外にもいろいろ時代設定、在位期間、天皇の実在など、疑わせてもらいます。
でも、素材の中から巨視的に合理的な筋、口伝でも伝わりそうな重大な出来事の痕跡というか、匂いは、他の様々な参照データと一緒に照らして、せめて拾わせてもらいます。
じゃあ東遷()も無視しないとおかしいんですがそれは
神功皇后=倭の女王って書いてるのも無視するのは卑劣極まり無い
今やSNSの時代、WGIPの洗脳によって日本の歴史が歪められ学者連中は学問ではなく政治として歴史をとらえているのが周知の事実。この論争自体がGHQの狙いである、日本の歴史と伝統文化を忘れさせるために。記紀由来の地名は「地名は言葉の化石」として日本中に腐るほどある。いい加減な矛盾だらけの記述の魏志倭人伝は学問としては無価値になったといってよいだろう。
>77
外来系の土器、青銅器の遺物が出ますから、渡来人がいたことは間違いありませんが、その人数となるとそれほど多くなるとは思えません。海を渡るのに持衰(じさい)という、人柱候補を乗せる必要があった時代です。万単位の渡来人は考えにくいです。
以前は、縄文系と弥生系の骨格の違いから、日本人の骨格が変わるほどの大量の渡来人がいたと考えられたりしていますが、考えてみれば昭和の戦前と戦後の体格の違いの方が、縄文と弥生の差よりも大きいんですよね。その間、日本人の遺伝的背景に変化があるほどの外国からの遺伝形質の流入はありません。縄文と弥生の骨格の違いは、弥生文化、稲作による食性の違いと考えた方がよさそうです。その点からいっても、「半島、大陸からの渡来人を入れれば7万戸になるかも」、というのは考えなくてもよいと思います。
今やSNSの時代、皇国史観の洗脳によって日本の歴史が歪められ学者連中は学問ではなく政治として歴史をとらえているのが周知の事実。この論争自体が保守層の狙いである、日本の歴史と伝統文化を忘れさせるために。魏志倭人伝と合致する地名は「地名は言葉の化石」として日本中に腐るほどある。いい加減な矛盾だらけの記紀は学問としては無価値になったといってよいだろう。
※85
皇国史観もGHQのWGIPも嘘ってことで宜しいか?
魏志倭人伝なるものの記述もインチキってことになるが。
方向無茶苦茶、裸足で気候は海南島と同じ、上海の東って、どこだよ?
一年中生野菜食べてて裸足ww日本じゃないわな
支那人や朝鮮人の文献信じるって情弱ってのが世界の常識って時代なんだが…
機内には倭の大乱の時代の遺跡が出てこない。
北九州の弥生時代の遺跡には大乱の跡とその跡平和になった跡がある。
このことから邪馬台国で卑弥呼が推挙される前の倭の大乱は北九州であろうとされている。
>87
何をもって倭国大乱の時代としているのでしょうか?
池上・曽根遺跡、唐古・鍵遺跡は、畿内の環濠集落ですが、環濠集落はそもそも防御目的の戦乱の時代の集落形態です。また、戦時の避難所の性格を持つと考えられている高地性集落は、近畿から中国、四国、九州まで広く分布しています。
倭国大乱は、北部九州に限定する必要はないと思うのですがいかがでしょう?
※81
東遷は巨視的にあった方が説明できる事象が多すぎるので、
神武がいたかどうかは全く無視しても、何か東遷めいた出来事を想定したくなるだけ。
東遷がないと、あんな古臭い祭祀催行盆地に六合の中心は持っていかないし、中国文明のダイレクトな影響は届かない。
神功皇后は作り物感が濃厚ですが、何らかの史実を材料にかなりの加工を経て、あの物語になっていると想像したい。
何かを伝承したくて、口伝があり、口伝そのままでは差し障りがあって改造する。昔から日本は豪族が強い。弥生時代に根を張った「村」社会を無碍にできない。中央集権国家は7世紀でも未熟。
ときには落首のように、一書に曰くの方が本当で、
一書にも成り上がれずに、様々な地域に現在でも残る何か、儀式やら、地名やら、遺物やら、祭りやらに逃げ延びたものに、日本の歴史の分厚い過去の証言が埋もれていると信じたい。
そこには弥生どころか縄文ですら物言わず遺されている。
※86
日本人は近世まで裸足も多かったぞ
>>86
生野菜が食べられるということは農業が盛んだったということと温暖な気候だったということ
>>86
>支那人や朝鮮人の文献信じるって情弱ってのが世界の常識って時代なんだが…
当時東アジアで文字を使い記録していたのは中国だけだぞ、情弱
どうやって文字がない日本が歴史を記すんだよ、朝鮮人じゃないんだから分かるだろうに
お前は漢字を捨ててハングルだけにした隣の国がどうなったか知ってるだろ
かきこめない
琉球
>一年中生野菜食べてて裸足
おそらく撰者が元記事の距離と方角をそのまま読んで倭国の位置を誤認し
琉球と同一と考え、琉球の情報を書いたのだろう
書き込めた
「ふーぞく」はNGワードかな?
88
矢じりが刺さったままの人骨や首から上が無い人骨の入った甕棺が北九州から出土してる
いずれは纏向遺跡からも出土するといいなぁ…
吉備平定と出雲との戦争、奴国は遺跡があるから確定できるけどそのほかはまだ決定打にかけるよね
早く奈良全域の発掘ができるといいな
町おこしするより、20年ぐらい掛けて一気に掘り起こしたほうがいいと思うんだよね
畿内説だと邪馬台国の先や敵対してた狗奴国の場所がおかしくならない?
未だ九州説、畿内説が居る事に驚き。 もっと勉強しなはれ、情弱過ぎるわw
古墳しか見てないんじゃないのか?w
倭の五王がそれぞれ・讃 → 履中天皇・珍 → 反正天皇・済 → 允恭天皇・興 → 安康天皇・武 → 雄略天皇なら「日本は昔小国だったが、倭国を併合し、日本と改名した」って記述はどうするんだろう
自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史
とあり
日本書紀によるとその祖の名は五十跡手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされることから
北九州説が正しい
三国志と日本書紀が同じ場所を示している以上間違いないだろう。
ただし、日本書紀が魏志を参考にして書いただけなら一緒になるのは当然だけど。
※99
お前の妄想より古墳みろよw
それとも今ある古墳はお前が埋めたのか?w
>>99
魏志倭人伝が正しかったら君の好きな朝鮮半島南部が倭人のものになってしまうものな
それは困るよねw
>>99
お前の祖国ではどう教えてるんだ?
>97
戦死者の遺体限定でという話ですね。
集落遺跡に比べて、遺骸は残りにくいですから、もう少し広く考えた方がよいように思います。
北部九州は甕棺墓のおかげで遺体が他の地域よりも多く発掘されているから、そう見えやすいということもあるのかもしれません。纒向では、一般人の墓所は見つかっていないので、戦死者の遺体は出ないように思います。
8世紀に書かれたガラパゴス物語(記紀)と、3世紀に書かれた外国人による客観的なレポート(魏志倭人伝)
どっちを信じるかはあなた次第
>98
古墳時代初期の墳形が、前方後円墳の地域と前方後方墳の地域があり、これが伝承の上での天津神(天孫系)と国津神(土着系)に対応しているのではと、個人的には考えています。
そういう見方をすると、濃尾平野の辺りは前方後方墳の地域であり、前方後円墳地域の畿内との争いというのを想定してもよいのではないかと思います。
※98
畿内ならば倭人伝の方角は90°ずれてるから狗奴国は南ではなく東にあった
日が昇る方角に進んで南と記すかね?
>>105
棺あって槨なしと記述があるから、もし畿内の遺跡が邪馬台国なら北九州と同じような埋葬の仕方なのでは?
何世代にもわたって人が住んでた遺跡の墓の記述が一致しないのはどうなんだろう。
必ずすべて正直に記してあると信じる理由があるかね?
111は109宛て
わざわざそこだけ東を南って書くかなぁ…。
他は合ってるのに
全て反時計回りに90度ずれてるで。
「しまった東を南と書き間違えた!この一文字のために一枚丸々書き直さないといけない…
…もう南ってことでいいや」
太陽で簡単に方角わかるのに間違えようがないじゃないか、近畿はないよ。
所要日数は、当時の移動速度を速く考えすぎなければ九州内で不自然はない。
日が出てから準備して出発して、日没前に夜営準備を完了しなければいけないから
一日当たりの移動時間なんてたかが知れてるし。
水や食料調達しながら旅しないといけないのをみんな忘れてるんじゃないかな?
記紀由来の地名は全国各地に数多くあるが、魏志倭人伝なるものに関する地名は永遠のゼロ。
記紀>>>絶対に越えられない壁>>>魏志倭人伝
8世紀のフィクション小説>>>絶対に越えられない壁>>>3世紀の歴史書
中国の地方志に載る多くの場所を現代地図で確認した経験でいうと、
方角を間違えるわけがないということは全くない
たとえば北西を北といったりなんてのはよくあることだし
方角自体間違っているものも偶にある
距離に関しては当時どうやって測ったか知らないが
道なりより直線の距離のものが多い
二つ地点の距離を計測する技術があったのだろう
倭人伝の方角に関しては間違いではなく意図的な改変が疑われる
「太陽で方位なんて簡単に分かる」とか言う人は一回時計も地図も無しに知らない土地を旅してみればいいんだ
正確な時刻がないと方位は分からない
日出日没の2回だけチャンスはあるがフラクタルな景色の中ジグザグ移動すればすぐに当てがなくなる
羅針盤が三大四大発明に数えられるワケを考えてみればいい
一応3世紀中国には指南魚なる羅針盤の原型があったそうだが精度が低く普及しておらず使節が持っていたとは考えられない
日本列島は実際に南北逆転してたんだろ
測距を目的とした人員なら風待ちで動かなかった日はカウントしないぐらいの事はするだろ、さすがに
3日しか動いてない九州のすぐそこなのに「掛かったのは20日だから20日です」って報告するか?
古代人の知能バカにしすぎ
方角がいい加減なのは技術的限界なのでそういったマヌケ話とは違う
何の知識もない俺の素朴な疑問なんだけど、古墳とかからお偉いさんの骨見つけてDNAとかでこの後の著名人との関連性見つけたりは出来ないの?
昔は陸地だったけど、沈んじゃった、説は無いのかね?
>>117
そうだな、魏志倭人伝が本当なら狗邪韓国と対馬国が倭人の国になっちゃうもんな
君たちにとって都合悪いもんね
帯方郡から奴国(儺県:なのあがた)まではほぼ異論はなくて問題がなく、その後が問題になるわけです。そして、奴国までとそれ以降で、書き方が変わっていることもほぼ合意されていると思います。
ならば奴国到着後の旅程記事は、あまり信頼できないとして、その字義解釈にこだわるのではなく、別のアプローチを考えた方が建設的だと思うのですが。
距離が日程になってるところは倭人からの伝聞との見方が有力。
なぜなら倭人は距離を測るのに日数を用いると記されてるから。
※127
どこになんて?
だ か ら【邪馬台国論争そのものがプロパガンダ】
記紀由来の地名は全国各地に数多くあるが、魏志倭人伝なるものに由来する地名は永遠のゼロ
記紀>>>絶対に越えられない壁>>>魏志倭人伝
※126
ほぼ確定してるのは対馬国、一大国(壱岐)までだろう
その先は平戸か松浦か唐津か糸島かわりと諸説ある(平戸松浦は一大国説もある)
末蘆国を唐津にすれば伊都国は吉野ヶ里に
糸島にすれば大宰府になる
倭人伝の地名が文字の無かった倭人語の地名を外国人である中国人が耳で聞いて漢字を宛てて記したものという基本的なことがわかってないひとがいる
日本の ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国
というのがツベにアップされているから、魏志倭人伝の記述に固執している人は
見てみるといい。興味深い意見が解説されている。
また、Eテレ 先人たちの底力 知恵泉邪馬台国はどこにある?古代ミステリー楽しもう
もアップされている。(こっちは、まだ俺は見ていないけど)
いずれにしても、考古学は最近の10年でガラっと見方が変わっているから、
古い情報(自分とって都合の良い)のままじゃなく、最新バージョンの情報も
得てから、考えを組み直したいいんじゃないか?
>>129
そもそも魏志倭人伝に記されてるのは倭人の読み方に漢字を当てたんだから読み方が先では?
あなたの頭の中は倭人が付けた地名の前に魏志倭人伝があるの?
訂正 考えを組み直した方がいいんじゃないか?
生野菜に関してだが、江戸時代は平均気温が低いとされていた時代ではあるが、
多くのものが生で食べられている事が、料理物語に記されている。
この本の料理は、料理名などから近畿~東海~関東地方の料理が書かれていると
推測できるようだ。
隋書より
夷人不知里數但計以日
と書いてあるから
魏志の時代も同じと考えられる
魏志倭人伝の時代の話で中国人はいませんね。中華人民共和国なる国は建国70年足らず。
増して中華思想という21世紀の時代に野蛮な考えを持ち続けている。邪馬台国論争が
プロパガンダである所以です。
陸を1ヶ月進んでその間に他に国がないのはどうしてなんだろう。
それまで結構な密度で国があるのに。
※136
今に連なる中原の民はいたろ…
※89
>東遷は巨視的にあった方が説明できる事象が多すぎる
↑わかる
>紀元前660年は無視
↑は?
>神功皇后は作り物感が濃厚ですが、何らかの史実を材料にかなりの加工を経て、あの物語になっていると想像したい。
うん。14代仲哀天皇妃である神功皇后がヒミコorトヨ。つまり初代神武の東遷はもっと前の時代のお話。でFA。
>中国文明のダイレクトな影響は届かない。
畿内からは鏡や鉄器も出てるのでこの時代の前にはもう影響が届いていた。
>>136
高校生だとまだ習わないかもしれないけど殷だって昔は伝説上の王朝とされてたんだよ。
殷墟が発掘されて始めて認定されたんだから。
邪馬台国が強大だったのは鉄器のおかげ
つまり鉄が一番手に入る場所が邪馬台国
それを考えると吉野ヶ里遺跡をはじめ北九州が鉄器の一大集積地だったのが分かる
畿内は吉備のせいであまり鉄器が入っていない。だからこそ大和朝廷の吉備征服がある(鬼ヶ島のモデル?)
しかし、投馬国が吉備ならそこを属国として支配していた可能性は残る
弥生時代は北九州、吉備、出雲、畿内、南九州で覇権争いをしていたようだ
畿内説なら畿内勢力が全てを統一した王朝(邪馬台国=大和朝廷、狗奴国は伊勢か濃尾平野か関東?)
九州説ならそれぞれの勢力は別物。(狗奴国は南九州、後の熊襲?)
※135
魏志倭人伝には女王国より向こうの国についての記述があり
女王国から何里か書かれてる
夷人が里を知らず魏人が邪馬台国に直接行ってもいないとすれば
それらについてどうやって測ったというのかな?
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種,又有侏儒國在其南,人長三四尺,去女王四千餘里,又有裸國,黑齒國復在其東南,船行一年可至。參問倭地,絕在海中洲島之上,或絕或連,周旋可五千餘里。
※135
魏の関係者が行ったんじゃない?
帯方郡から邪馬台国までの距離も里でしょ?
※137
近畿だとすれば鳥取市で上陸して京都に出るまでの長い距離深い山の中を通るから
献上品や下賜品、使節が何度も通ってると考えると街道みたいなのは整備されていてもおかしくないと思うなぁ
いくら案内人がいても道がないと迷うと思う
道があれば東と南を間違ってもたどり着けると思う
知恵泉のやつは、音声だけだった。
※145
侵略されるのを警戒して敢えて険しく難しい道を案内したと思われる
普段は玄関口の伊都国で応対した 使節を都に案内する事は滅多になかったはず
>130
奴国が儺県(なのあがた)であることは、ほぼ鉄板でよいように思います。
なので、そこまでの行程は、奴国に行く経路上で考えればよいので、それほど異同はないと思っています。もちろんいろんなことを言う人はいますけれども、最も妥当な線として前回記事の旅程でよいと思っています。
>>147
わざわざ金印渡すのに侵略するだろうか?
俺は倭への使節団が遠くに行ったという実績作りのために倭人が使う日数を伝聞形式で書いた説をとる
甘英みたいに素直に羅馬に行きませんでしたって言えばよかったのにと思ってる
纏向に後の大和政権に連なる勢力があって、邪馬台国は北九州の地方政権という見方もありますが、下賜された金印は「親魏倭王」とされていて、「漢委奴国王」の「奴」国王のような注釈なしの「倭王」です。
これは魏が「倭国全体の王」であることを認定していることを示しているそうで、だとすると邪馬台国は北九州の地方政権程度で、大和にもっと大きな政権があったとする見方はできなくなります。
狗奴国や倭人伝にでてこない出雲など邪馬台国以外の巨大勢力はあったし、弥生文化の入ってこなかった諏訪湖周辺や東北など中国に朝貢してない国もあったから倭=日本列島全域=邪馬台国ではないのでは?
のちに倭は日本に滅ぼされたって書かれてるから倭=邪馬台国の勢力圏とみていいと思う。
※151
>のちに倭は日本に滅ぼされたって書かれてるから
どの史書に、どういう風に書かれている? 出典は?
結局は纏向遺跡と箸中山古墳の年代観なんですよ。
これらが魏志倭人伝の時代であることを認めれば、ここ以外に倭国の中心を求めることは無理があります。
152だが、
新唐書の「日本は小国で、倭に併合された故に、その號(ごう、よびな)を冒す」の事だろ。
新唐書は1060年に成立したもの。「日本は、古の倭奴なり」という記述もある。
636年成立の隋書には、そういう事は書かれていない。
あるのは「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが) なきや、云云」
945年成立の旧唐書にも書かれていない。
>152
横レスですが
舊唐書 卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
新唐書の原文も書いておく。
日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。
明年、使者與蝦蛦 人偕朝。蝦蛦亦居海島中、其使者鬚長四尺許、珥箭於首、令人戴瓠立數十歩、射無不中。天智死、子天武立。死、子總持立。
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。
使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。
卑弥呼の墓は円墳のはずなのになんで前方後円墳になってるんだ?
※155
ちょっと勘違いしていた。旧唐書にも確かにあった。で、そこの和訳はこうなるはず、
日本国は倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
つまり「或いは」であって、一部の都合の良い部分だけを取り出して、自説を押し通そうとするのは事実をゆがめる手口だよ。
※157
九州には卑弥呼の古墳があるの?
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人」て書かれてあるけど、円墳限らないだろ。
ぜんぽう‐こうえん‐ふん【前方後円墳】広辞苑第六版より引用
日本の古墳の一形式。平面が円形と長方形ないし台形とを連結した形の墳丘で、江戸後期の蒲生がもう君平「山陵志」に始まる名称。中心的な埋葬施設は後円部に営まれるが、前方部に埋葬が行われる例も少なくない。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)・誉田御廟山こんだごびょうやま古墳(応神天皇陵)など日本列島の巨大な古墳はほとんどこの形をとる。朝鮮半島南部にもある。俗称、車塚・ひさご塚・銚子塚・茶臼山など。
円墳に埋葬し、のちに儀式の為に台形の部分をつくった可能性もある。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
この国々が見つかれば解決だよな
卑弥呼のお墓についてはこれかな?
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
大きさは直径でいいのかな?前方部分は?
もし箸墓古墳なら周りから殉葬者の人骨が出るのでは?
そもそも年代あってたっけ?
>>161
確かに卑弥呼かその次ぐらいの王(女王)の墓で最初は円墳で東征した天皇家が前方後円墳に改造してその後に日本書紀を書いたとすれば納得できる
※144
瀬戸内じゃなくて日本海側を通った可能性は高いかも
それなら間に国は出雲以外ないし奈良の北側全てを九州の伊都国の代官が治めてても不思議はない
投馬国が出雲ならつじつまも合う
日本海側と畿内なら正確な距離は分からなくても不思議はないな
鏡ばかり注目されるけど刀はどこいったんだろうな
>160
平原遺跡の平原一号墳っていうのが、伊都国の王墓級弥生墳丘墓で、最大級の銅鏡等副葬品も大量に出ています。また副葬品の種類から被葬者は女性であり、女王だったと推定されています。
イメージ的には卑弥呼の墓を思わせるものがありますが、伊都国で、時代が合わず、方形周溝墓で14×12メートルと、径百歩には合いません。
>>160
卑弥呼の墓と断定されたものはまだないよ
弥生墳丘墓というのがあるよ
鏡なんかの副葬品が出てるよ
>164
纒向には、箸墓より古い黒塚古墳とかあって、その時点で前方後円形をしているので、後から前方部を足したとするのは無理があると思います。
>>169
そうすると卑弥呼の墓じゃないのか、残念
年代も違うもんね
魏略が見つかればもっと詳しく分かるのに
>170
年代的には卑弥呼の死後数十年くらいと推定されているので、死後に作り始めたとすれば、時期的にはむしろちょうどいいくらいだと思います。
※141
今年、淡路島で国内最大級の鉄器工房が見つかったよ。
扇谷遺跡などのある丹後や但馬は砂鉄がよく取れるらしい。
>173
イザナギ、イザナミの国産み神話ももともとは淡路島の神話じゃないかって言われてるよね。だから最初に生まれるのが淡路島なんだとか。
※162
次有斯馬國(志摩) 次有巳百支國(伊吹) 次有伊邪國(伊予) 次有都支國(土岐) 次有彌奴國(美濃) 次有好古都國(?) 次有不呼國(?) 次有姐奴國(讃岐) 次有對蘇國(土佐) 次有蘇奴國(信濃) 次有呼邑國(?) 次有華奴蘇奴國(?) 次有鬼國(甲斐) 次有為吾國(伊賀) 次有鬼奴國(?) 次有邪馬國(山城) 次有躬臣國(高志、越) 次有巴利國(尾張) 次有支惟國(紀伊) 次有烏奴國(魚沼) 次有奴國(?)
※149
>わざわざ金印渡すのに侵略するだろうか?
魏がどういうつもりでいるかなんて倭にわかるわけない
大国を相手に用心するのは当たり前
国内を纏める権威が欲しくて魏に従ってるのに
間違った場所なんて教えるはずないと思う
そんなこと国内他勢力にチクられたらどうする。あえてそいつらに切れるカードを渡すようなもんだ
偽装ルートは多少なら
まあそんな小細工リスクは割に合わんと思うが
>>176
周りとの停戦の調停頼んでるのにたどり着けなくしてどうするよ
※175
蘇の文字が着いてる国は阿蘇山の周り
※178
トレッキングコース並みの道じゃたどり着けない
街道のような大きな道じゃないと国の人間も迷うから通るわけない
これがそちらの主張だっけ?
用心深くない国は滅ぶんだよな
古蜀なんて秦から金の糞をする牛を贈るからといわれて迎えるための道を造り
その道によって侵攻を受け滅ぼされた
アユタヤ王朝も象の道でパガン朝に滅ぼされたんだっけ?
>>180
アッピア街道や江戸時代の五街道も今から見るとしょぼいけど当時の人から見たら今の高速道路に見えたんだろうなぁ。
更新を待ち望んでたけど、なんかサラっとしてて当たり障り無い感じだ…
このネタで偏ったコト書くと集中砲火だろうし、客観的検証なんだろうけどね。
>184
ただ、プロの世界ではほぼ決着がついたような状況ですし、ここまでのコメントを見てもそうそう集中砲火にもならないように思いますけど。
年輪年代法は科学的アプローチとしてはとても素晴らしいのであるが、100年遡上問題は解消されたのだろうか?
畿内に3世紀前半の前方後円墳の確証が出たら、女王国は邪馬台国で、畿内が俄然有力になる。
>156に引用されている新唐書の時代でも
天智死 子天武立 死 子總持立
となっていて、天武は天智の子ではないし、總持というのが持統天皇であることを考えると、かなりいい加減であることが分かります。
魏志倭人伝も、これより正確と考える理由はないと思いますよ。
>>187
宋代に盛んとなった中華思想を背景に、復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれているから次の天皇は兄弟ではなく子供にしたんだろうな
兄弟や夫婦で位を継ぐことは儒教では認められないだろう
>>186
前方後円墳ははたして邪馬台国の墓の形式なのか?
そこに葬られてる人物は女性か?
壹與の墓も一緒に見つかるか?
年代だけだと確証は得られないんだよなぁ…。
※185
決着はまだついてない
金印が出るまで続く
※190
金印は移動が簡単だから、埋葬品として古墳や遺跡から出たら別だが、盗掘されて全く違う所から出る可能性もある。
>190
決着がついたと「言わない」のが、大人の判断なのだと思っています。
絶対に確定、というのはほぼ悪魔の証明に近いものがある(他の可能性がないことを示すのは無理)ので、その意味では決着はついていません。
>>192
魏からの下賜品と女性の骨が一緒に出てくる弥生時代の墓が発掘されれば確定だろう
>189
前方後円墳は、古墳時代の倭国の墓の統一形式です。宗派(?)によって初期には、前方後円墳か前方後方墳かという違いはありますが、箸中山が作られて古墳時代に入ってからは、ほぼ倭国の範囲全域で首長墓はこの形式になります。
箸中山の築造年代が卑弥呼の時代と言えるかどうかで、決着がつく状況です。
九州説は地名だけを根拠にしているように思える
似たような地名があるからエルサレムはアラビア半島みたいな
>193
それで行くと平原遺跡1号墳などはかなり条件に合いますが、何をもって魏の下賜品をするかとか、それで確定というのはなかなか難しいと思います。
古い時代のものが残っているかどうかというのはもともと確率が低いものですから、今後そうした確定的な発掘があることはあまり期待していません。
確定的とは言えないまでも、状況証拠と積み上げていくことしかできないのだと思っています。そしてその方向だと、確定は「しない」のだと思います。
>>196
魏で作られた刀が出てくればいいんじゃない?
今の技術なら鉄器の不純物から製作地が分かるんでしょ?
>194
卑弥呼の時代である弥生時代も前方後円墳なのか
いつ円墳に前方がついたのか
それすら分かってないのに倭人=前方後円墳は乱暴じゃね?
>198
言葉足らずですみません。
「古墳時代の倭国」の首長墓は前方後円墳、という意味です。
古墳時代の始まりは箸中山古墳の築造から、というのは認めていただいてよいと思います。
そして、私は箸中山古墳の築造が卑弥呼の死後、それほど時間が経たない頃だと考えています。
>197
鉄器は銅器と比べて、錆びやすく朽ちてしまうので残りにくいので、望み薄です。
また金属器は、融かして作りかえることもできますし、大本の産地が分かっても、最終的に鋳込まれたのが国内かどうかって、意外に決めにくいんですよ。まあ貴重な下賜品であれば、融かして再利用と言うことは少ないでしょうが、今度は稀少な威信材であるが故に伝世品になったりするので、いつ貰った物かが分からなくなったりします。
発掘で決着がつくというのは難しいと思っています。
一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い
卑弥呼は175年 – 247年あるいは248年頃と考えられてる
壹與が死んだ後の空白の4世紀(西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないためそう呼ばれる)
卑弥呼の墓からいきなり前方後円墳になっちゃうし、その後南九州から東北まで前方後円墳が広がることと天皇陵が前方後円墳、さらに朝鮮半島南部もその流れで前方後円墳ができるから邪馬台国=大和朝廷なのかねぇ…
>200
北部九州と出雲、吉備では大量に出土するのに近畿だけ出ないんだよ
しかも畿内以外は鉄器の出土に合わせて石器と青銅器が減るのに畿内は相変わらず石器がでる。
しかも石器を研ぐ砥石がでる
他の地方はリサイクルする必要もないくらい鉄器があった
リサイクルしてたなら炉の跡が出るのでは?
初期の畿内勢力は鉄を持てず、淡路島、吉備、出雲、北部九州、朝鮮半島南部と鉄器生産地を征服していったのではないだろうか?
九州勢力と近畿勢力が別で九州勢力が敵対する近畿勢力に勝つために魏に朝貢していたとすればおかしくないと思う
呉を挟み撃ちしたい思惑の魏が、列島の勢力をろくろく調べもせず、近場ってだけの弱小九州を倭の代表として遇するなんてことはまず有り得ないだろう。
邪馬台国は倭の統一的勢力だったのは記述からも明らか。
やはりタイミング的に大和王権の成立と朝貢開始が一致しているのでは。
大和政権が続いてたなら倭の五王の説明がつかないぞ
飛鳥時代の開始で前方後円墳が作られなくなり、天皇家の大和朝廷が始まったと考えると前方後円墳王朝を大王王朝が滅ぼして日本書紀を作ったのかな
きっと王と7人の幹部を酒宴の席で謀殺したんだな
天照大神の子孫を名乗るのも卑弥呼の子孫ですよアピール?
東征で奈良県で負けた相手が邪馬台国だな
>206
初期の仏教寺院の塔の礎石の下に、宝物が埋納されているのですが直前の古墳の副葬品と同じ物が納められています。王権の権力の誇示が古墳の築造から寺院の築造に変わっただけで、同じ文化風習が続いており、異なる勢力の侵入や征服は考えにくいところです。
>205
倭の五王が応神の系統の誰かで、最後の武は雄略というのはほぼ多数説だと思うのですが、それで説明がつかないことってなんですか?
>211
日本側の記録では朝貢していなかったはず
※209
東征は邪馬台国より大昔だから関係ない
日本側の当時の記録はぜんぶ焚書されて「生まれたときから独立国でした」と改竄された記紀しか残っとらん
>212
在野の方の論考ですが、日本書紀の淡路巡狩記事が倭の五王の遣使の帰還に対応していると考えているものがあり、日本書紀には遣使が明示的には書いてなくても、倭の五王が仁徳から雄略のいずれかとすることにそれほど問題があるようには思いません。
諸説があるので適当に考えてますが・・・
たとえば、福岡の西区の山門もあるし佐賀の吉野ヶ里の西に大和町がある
ここは中心部に尼寺の地名があるように奈良期においては当時としては大きな町であったことが想像される
もちろん吉野ヶ里の遺跡が出てくるぐらいだからそれ以前も大きな町があったかもしれない
ところで、米沢藩の有名なお殿様である上杉鷹山が養子であって元々は宮崎高鍋藩の秋月の生まれであったのですが、この秋月家は元々渡来系の大蔵氏の流れです 間違いなく渡来系であっても地域の支配層にそのような人たちがいたでしょう 福岡筑紫野市の秋月に勢力があったから地名から秋月と名乗ったのですが、その後秀吉によって高鍋に領地を変えた訳です
でも鷹山のおばあちゃんとお母さんが米沢藩からと秋月・黒田藩からお嫁に来たから養子縁組となったわけですが、このことからも遠隔地にあっても血縁ないしその他の理由での!?な関係が出来るのはこの卑弥呼の時代でもあると思います(想像なので適当に) その間に敵対関係の勢力があったとしても
それじゃ、大和朝廷と山門・大和・山都などの地名があるのは縁戚などの関係があったとも言えるかもしれませんか
もし、日向までいくのに南進すると考えれば、糸島なり唐津からは敵などがあり日向や奈良大和まで行きづらいから、使者に対して「こうして行くとたどり着ける」といったガイドがありそれを記載したとすれば腑に落ちる(気がする?)かも?
地名って馬鹿に出来ないですからね
奈良に鉄器が出にくい(出てない)理由はいくつも考えられますが、しかし鉄器が無いと鉄器を持っている地域を占領支配は出来ませんからどのような理由からか出土しないという方が良いかも
※199
年輪年代法でも無理だとは思うが、どれとはいわず前方後円墳が卑弥呼の死より「前」に出現してた証拠が欲しい。そうなれば畿内=女王国(=邪馬台国)説は確定はしないまでも圧倒的。
※169
>箸墓より古い黒塚古墳
まさか・・・
>218
纒向石塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、矢塚古墳、がひとところに集められていて、これらは箸中山古墳より古い弥生墳丘墓だと考えられています。もう一つホケノ山古墳というのがあって、これが最古の前方後円型墳墓とされています。
黒塚古墳は三角縁神獣鏡がたくさん出た「古墳」ですから、箸墓より古いってことはないですね。
三角縁神獣鏡について、舶載だ、彷製だ、同笵だ、同型を議論し、枚数ガー、デザインガー、大きさガー、華北で出ない、成分が中国と同じ、違う、成分分析は意味なしは論じるけれど、肝心のことを論じることができていない。
なぜ4世紀に、三角縁神獣鏡が好まれて国産され、副葬品になったのか?
「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」「景初三年」銘など、偽造にしては懲りすぎた制作動機は何か?
現時点では奈良、京都、福岡、兵庫、大阪、岡山の順に出土が多いが、すべてを三次元計測して類縁関係を(同笵、同型)構成するようなライブラリープロジェクトは、ネット環境と3Dプリンターがあれば今や大して予算を要するものでもなく、その気になればできるはず。
魏書は西晋の人が書いたんだろ?
司馬懿の王朝が曹操の国について本当のこと書く訳ないじゃん。
※219
ホケノ山・・・円形周溝墓や柄鏡型からの形状発展を想定すると、ホタテガイ型、一見年代が古そうに思えるものの、石室やら横穴やら、出土物からしても6世紀までいじくり倒した感もある。円形周溝墓の瀬田古墳の年代も怪しむ身としては前方後円墳の先駆形態には思えない。どうして名づけたか、「纏向型」は全国区だし、北九州では中部、伊勢地域に多い方形周溝墓は古墳時代以降に増えている。
魏を警戒して本当の場所を示さなかったなら、7万戸も誇張かな?
見栄を張ったのかも
まんがで読んだ「九州から畿内に移った」説を信じてる
畿内説でほぼ決定してる
畿内だとしたら日本書紀と合わない
ここまでコメントが伸びても、一番正しそうな論考は ※15 かよ。
後は無駄とは言わんが疲れたよ
>女王国が近畿なら北海道が倭人の地になってしまうぞ!
佐渡
>228
佐渡は女王国の東かね?
まだそんな事いってんのか
邪馬台国が近畿なら東は北だ
>>227
自郡至女王國 萬二千餘里
って結論書いてあるからしょうがない
※230
邪馬台国が畿内なら風習が違うんだよなぁ…
距離や方角が間違ってるのは用心深いから騙したとしよう
文化や風習まで偽るか?
>230
東が北なら
計其道里 當在會稽東治之東
はどうするんだよ
会稽郡の北になっちゃうぞ!
邪馬台国は山東省か?
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
昔から日本人は日本人だったんだね
本当にスレ読んだのかな?
魏人は都まで行った
方角をずらして書いたのは魏人だ
風習が違うのは撰者の誤認による琉球との混同で
琉球の情報を倭人の情報として伝えた
或いは交流のあった九州の情報を倭全域のものであるかのように伝えた
※233
会稽の東といってるのは後の撰者
この撰者が元記字の距離解釈を誤り方角のズラしにも気付かず
真に受けて会稽の東と推測したのだろう
それで琉球と混同した
現地を知らない人間が方角のズラしに気付くことはあり得ないから誤認するのは当然だけどね
元記事ね
伊勢湾の向こう側を別の島だと見てただけだろ
異邦人が島と半島を混同するのは19世紀になってもたびたび起こってる
木曽三川のつけ根はグチュグチュで陸行できないしな
※239
>>175
※240
それぞれ「この国はどこまで続いているのか?」の答えと「あの海の先はどうなっているのだ?」の回答を別々に載せたと見れば矛盾はないんじゃないか
伊勢湾の先は尾張 伊勢湾は女王国圏内だ
そもそも邪馬台国が近畿なら方角のずれは確定事項だ
ソースが同一と思われる倭に限っては
女王国圏内といいながら国名列挙してるし、「国」の用法が二つ以上混在してるだろ
通訳も極めて曖昧だったろうからそこらへんはソフトに解釈しないと
と考え、
曖昧に読み、ゆるい解釈をして、伊勢湾の向こう側だとかいい加減なことを言ってしまった
ってことだね
そんなレスをぽいと投じるのは、まじめにやってる人達に失礼じゃないか?
原文読むと位置に関する畿内説のこじつけ感半端ない
日本における三国志研究の第一人者は「原文を読む限り九州だけはありえない」って言ってたけどな
ソースはNHK
考古学的にも畿内が圧倒的優性ならこれもう決まりじゃんって空気になるのも分かる
いまだ反対してるのは神話()を重視して歴史クリエイトしてる在野の面白い人たち
別に邪馬台国が九州でも畿内でも琉球、ジャワ島でも構わないのだが自説に合うように方角を読み変えたり素直に読めば無理のある地域に持ってくるため原文にケチ付けたりはおかしいのであって埋まってるものがでたから決まりだ、これで完全に決まったとか某皇国代理店臀痛みたいなプロパカンダは止しましょう。※にもあったけど倭の五王時代でも九州視点←武?の上奏文に北渡海して平定とか云々、なのにほんとドウスルノ?って感じ。畿内説の方々は倭人伝とか切り離して邪馬台国は畿内だ、って主張してもらいたい。
だって結論ありきなんでしょ?歴史←一応記録されたもの、外国側が倭人伝、日本側が紀記、他神話等とすればどう整合性を付けるのか拝見させていただきますわ。
※245
あ?
じゃあまじめにやって侏儒国・裸国・黒歯国はどこになるんだ?
国の位置の話をした後に習俗の段落いれて、そのあと突然東方の話ってこれ情報の種類、毛色が明らかに変わってると察するのが自然じゃないか。
この段は「ところであの海の方どうなってるの?」って聞いた小話を挟んでるようにしか見えん。海中の島々は伊豆小笠原のことだろ。明らかに重要度低い規模の島だが、聞いた小話をとりあえずぶっこんだと見ればおかしくは無い。
>248
その論立てだと武の上表文の
東征毛人五十五國「西服衆夷六十六國」渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿
の西66カ国ってどこって話になりませんか?
九州より西にはそんなにたくさんの国がありそうな土地、ないですよね。
倭の五王を九州王朝とするのは、大和朝廷とするより無理が大きいと思います。
>249
突然とは思わないな
女王国に従っていない狗奴国の話の後だから、女王国以外の倭種の話をしたのでは?
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
と女王国の北(畿内説だと西)は分かるけど女王国の先は情報無いから詳しく分からないって書いてある。
もしかしたら狗奴国の支配地域かもしれないね
>>250
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
とあるから朝鮮半島の国々だろうな。
>252
それは
渡平海北九十五國の方でしょう。
畿内説の否定に朝鮮半島は畿内の北ではないと言いながら、九州の西66カ国ってどこと訊かれて、半島のことだろうというのはおかしな話ですよね。
古墳時代に倭国の代表として大陸と交渉した九州王朝を想定するのは無理があると思います。
よくまとめられていて面白かったです
魏の使者「邪馬台国見にきたで!」
倭 人「遠くて無理やでw」
魏の使者「え?」
倭 人「倭国は広くて国もようけあるからな」
魏の使者「でも任務やし行きたいな」
倭 人「まず、この先の投馬国まで「水行20日」な。
で、そこから邪馬台国まで水行10日陸行1月やで」(適当)
魏の使者「うわ、なら情報だけでええわ」
倭 人(お前らに軍事情報教えるアホはおらんで。まして小さいことばれたらアホみたいやしw)
こんなやり取りを想像してしまいました
>>254
張政「よし、本国から出張費ごまかせたぜ!」
>>255
「出張費マシマシでw」
「倭国大きいし邪馬台国は遠くて無理」(方向も嘘教えたったわw
握手(www
↓
魏志倭人伝
卑弥呼「南の狗奴国との調停お願いします。」
魏「おかのした」
倭人「邪馬台国の場所は投馬国から海を10日陸を1ヶ月(里数とか知らないし)」
魏「東を南と書いて報告します(倭人に騙されました)」
今なら
「金印を授かった奴国(北九州)、石器と青銅器の邪馬台国(畿内)に敗れる」
と大ニュースだろうな
根拠は無いが
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支
これが 生駒彦(イコマヒコ孝元) 坐彦(イマスヒコ開化) 水間城彦(ミマキヒコ崇神)ならば決定かと なお生駒彦の父君 考霊天皇は 和珥埴彦(ワニハニヒコ)と尊称奉りたい
※249
倭国の主要の話の後に倭の邦域の話をして、中国との歴史の話に繋いでる
情報の色が変わったのはその通りだが、女王国の海の向こうの国が女王国でないことぐらい方角に関わらず分かるだろう?
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種,又有侏儒國在其南,人長三四尺
ごめん、これ佐渡じゃないな たぶん隠岐諸島だわ
裸国は伊豆諸島、黒歯国は小笠原諸島だろうな きっと
裸国・黒歯国に関しては方角は歪められていない
しかも周旋五千余里は短里ではない
ここに倭国の方角を歪めた魏の意図が見える
※259
年代違わない?
官位名(役職)じゃないの?
※260
魏の意図は見えないが貴方の妄想は見えます
結局近畿説にしたい人が自説に沿うように方角が不正確だってしたいだけなんだよな。
邪馬台国と言われる国は九州にあった、これは間違いないだろ。
和朝廷や天皇家、または漢委奴国王の金印と関連付けようとするから問題が出るわけで
九州も統一してない程度の連合国家だったとしたら何の問題も無いじゃないか。
仮に同時代により強力な国が近畿にあったところで別に構わないと思うがね。
>263
150にも書いたのですが、親魏倭王の金印である時点で、倭国の最高権威と魏が認定しているので、より強力な近畿の国が、というのは考えにくいんですよ。
結局記紀の矛盾は悪意、魏志倭人伝の矛盾は善意で解釈って、どこまでもダブスタってことのなるが。
※264
奴国の金印も昔その議論があった。
今はその地域の最大勢力でなくても金印を授けたことが分かった。
古代史って発掘によりどんどん変わるから面白いよね。
距離について
魏志東夷伝倭人条では距離が100里の整数倍のみ記述されていると思う。
例えば陸路の場合1日あたりの移動距離を100里として扱う(地図上の距離とは無関係)
出発してから5日目に目的地に着いた場合は500里と記すといった具合
海上は距離を計測する方法が無いため、出発してから目的地に到着するまでの日数×魏での1日当りの船旅距離(=1000里:帆走 歴史読本1998年9月号篠原俊次 『魏志』倭人伝の海上里程と『道蔵』より)
魏志東夷伝倭人条では「いたる」に対し「至る」と「到る」が使い分けられている。
「至る」は移動の通過ポイントを示す。
「到る」は終点を示す。
よって伊都国から先に進めないため、末慮国までは連続読み、末慮国以降邪馬台国までは放射状読みが正しい。
また邪馬台国までは水行10日、陸行1ヶ月とあり、
出発地点から船で行く場合は10日、陸路で行く場合は1ヶ月かかると記述されている。
(距離ではなく日数になっているのは、実際に行ったのではなく人から聞いた話だからだと思う)
従って出発地点・邪馬台国とも比較的海に近い位置にある事と、陸路は大回りになる地形、船の場合はほぼ直線に近い航路となる。
末盧国、邪馬壹國とも海の近くにあり、海路はほぼ直線、陸路は大回りになる地理的条件が課せられる
張明澄氏によると末慮国は現在の佐世保市であり、邪馬台国は現在の阿久根市出水地方だそう
末盧国から邪馬壹國は南の方向にある事。佐世保-阿久根間がその条件を満たす位置関係にある。
対馬-壱岐間1,000余里、約65.5km
壱岐ー佐世保間1,000余里、約78.3km
合計 2,000余里 、約143.8km
佐世保ー阿久根間(海路)約144.2kmから2,000余里。
佐世保ー阿久根間(陸路)約251.7km
計算上到着まで
佐世保ー阿久根の陸路を1日7km(当時の道路事情を考慮した踏査による)進んだ場合、約36日
海路は倭人の手漕ぎの船(時速2~3キロ程度)1日5時間漕いで進んだ場合、9.6日、約10日
かかる。
また帯方郡から邪馬壹國まで1万2千余里、帯方郡から末盧国まで1万里ですので、
佐世保-阿久根間約144.2km:2,000余里は魏志倭人伝と一致。
みんな邪馬台国大好きだなw
私は歴史好き
邪馬台国は浪漫ですよね
畿内説で決定的になっててもうロマンもない
※246
九州説は距離がコジツケ
※226
日本書紀に神功皇后=卑弥呼って書いてる。北部九州はもう奈良の支配下。
※254
倭人「東の方に海でずーっと行ったとこにあるで」
魏の使者「サンキュー倭ニキ」
魏の皇帝「えー東か…呉への牽制に使えるように、南ってことにしといたろ」
>266
150にも書きましたが、地域のトップの場合は漢委「奴」国王のように、地域名が入るんですよ。
金印かどうかとは別の議論です。
女王国の卑弥呼は親魏倭王ですから、倭の中の地域のトップではなく倭国の王であるという認定です。
なので邪馬台国が九州の地方政権で、畿内により大きな国があるなら、倭王の称号は送られません。
九州派が唯一強いのは狗奴国=球磨で確定されてるってとこか。
畿内派の狗奴国候補地おしえてクレメンス
※275
愛知県一宮市の萩原遺跡群。
※275
静岡高尾山古墳
邪馬台国が正確な倭の情報を出さず、自分達が最強と伝えたのかな?
それとも奴国を征服したから倭王になったのかな?
隋書だと南を東と書いてるのか。
隋書は対馬の東に壱岐があると記されてるのね。
畿内説の方角間違えて記した説も信憑性あるかも。
当時の日本列島と大陸が描かれた地図見たいね。
隋書だと九州になるみたいだけど。
※265
日本書紀を素直に読むと邪馬台国は畿内にないから。
畿内説にとって不都合なんだよ。
※280
素直に読めば畿内だろ。
歴史学者も7割が畿内と言ってる。
まあ、9割畿内の考古学者よりはマシかもしれんがw
※280
日本書紀に神功皇后(本拠地奈良)=卑弥呼って書いてる。北部九州はもう奈良の支配下。
>>281
邪馬台国自体出てこなくない?
本当に自分達の祖先なら、なぞらえる必要もなくない?
東征してからずっと畿内にいるにも関わらず、畿内の邪馬台国は何処に?
※282
神功皇后の時代にはすでに卑弥呼女王は亡くなっております。
※283
邪馬台国=大和国でしょ
二行目何言ってるのかよくわからんが
※284
台与で充分説明可能だし、
そもそも後世の作だからちょっとだけずれるのは許容範囲
箸墓古墳から古墳時代の土器が出るのが悪い。
なんで卑弥呼の墓のはずなのに弥生式土器や大陸や半島経由の品が埋まってないんだよ〜。
※285
結局日本書紀だと卑弥呼は誰なの?
※287
神功皇后
九州説は根拠を出せないくせに、畿内説の根拠にイチャモンをつける卑怯者ばかり
大倭から大和でしょ?
大和=奈良=邪馬台国=邪馬壹國って意味じゃないんでしょ?
元々のやまとは山門か山東でしょ?
※288
神功皇后は台与な
※291
神功皇后=卑弥呼+台与
>287
表面的には神功皇后のところに魏志倭人伝の引用があって、神功皇后を卑弥呼だとしたいように書いてる。よく言われるのは、箸墓の被葬者だと記紀に書いてある倭迹迹日百襲姫命。ただ、女王扱いはなくただの皇女として書かれている。
その一方で彼女の母親が意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おおやまとくにあれひめのみこと)と、大王級の名前で何かありそうな感じではある。
※280
後世の作文を盲信しちゃいけないと言うだけのことなんですが
考古学的的知見が九州説にとって都合が悪いから、目をそらそうとしてるだけ
>>285
畿内説に不利だからそういった主観でのずれの許容という怪しい話はやめてくれ。
そもそも邪馬台国と天皇家は連続性がない。
古墳時代に纒向遺跡をはじめとした巨大勢力が畿内にあり、天皇家が後に滅ぼし、日本を打ち立てた。
だから古墳時代が終わり飛鳥時代になったのだよ。
そして邪馬台国の痕跡を消すために、記紀を作ったから、記紀に邪馬台国が載ってちゃいけないんだよ。
※295
2行目以降の根拠ゼロの怪しい妄想に比べれば、全然許容範囲
※295
九州説なんかかすってもいないからw
九州説「神功皇后と卑弥呼はちょっと時期がズレてる!」
九州説「神武天皇が東遷した!時期?知らん?」
クズすぎワロタ
いわゆる魏志倭人伝以外にも結構倭の記述ってあるんだね。
※298
神功皇后は壱与
>274
>倭の中の地域のトップではなく倭国の王であるという認定です。
地域のトップであるかの真偽確認、判定は誰がどのように行うの?
邪馬台国は出雲
大雑把に福岡は奴国、佐賀は邪馬台国、熊本は狗奴国、宮崎、鹿児島は投馬国
帯方郡から南に1万2千里は倭人表記で水行10日陸行1月なのである
末蘆国から伊都国、奴国経由で女王国。さらに末蘆国から百支国の長崎周りの国を次々に
列挙して烏奴国(鳥栖)の次が奴国なのである
卑弥呼がたとえ九州だったとしても、その邪馬台国とやらを遥かに超える大規模な街が当時奈良県には存在してたんだよねって話
つまり、九州<関西は覆されない事実なわけで。
知ってるか?平城京跡のど真ん中に近鉄電車が通ってるんだぜ
奈良県民の遺跡に対するウンザリ感は異常。
地面掘り返したら大体の場所でなんか出てくるから、企業もビルを建てようとしないし、その為の地質調査もしない
一般家庭を建てる時も「あっ・・・」って感じで見なかったことにして上にコンクリ基礎を流し込む
九州に「これだけの大規模集落が発見!!」とか大騒ぎしてるけど、そんな発見なんて日常すぎて地元の土建屋が無かったことにしてるだけ。
まぁ学術的にはもう畿内説でほぼ決まりみたいなもんだから
楽天の梨田監督が家建てようとしたら何か出て来たんだよな
※304
奈良県民最低だな。
※300
神功皇后は卑弥呼+台与
斎藤道三も親子2代の事績が道三1代のものとして最近まで伝わっていた
それと一緒
>>304
不思議なことに鉄器と住居跡と人骨だけ出ないと思ってたんだよ。
土建屋が壊したり、闇に流してたりしてたんだな。
※309
そもそも纒向は2%しか発掘されてないから焦るなよ
※310
早く全貌が知りたいぜ
専門家でない素人にとっては歴史はロマンなので
自分と意見の違う相手をクズとかクソとか言ってる人は消えてほしいです
萎えてしまいます
×意見が違う相手
○ダブルスタンダード
萎えるのはこっちなんですけど
近畿行くならわざわざ九州で上陸して陸行しないんでないの?
船を乗せ換えてるんだよ
北九州で一旦休ませて(という名目で)安全確認したのち、大和の船でご案内。
直行ルートを魏や半島の船員に学習させるわけにはイカンだろ。さすがに
※279 当時の日本列島と大陸が描かれた地図見たいね
「混一疆理歴代国都之図」 龍谷大学に現存する
魯迅の「新地図が出始めてから 邪馬台国論争が起こった」 は一理あるかも
倭人は隋の時代まで里数を計れなかったというから、
水行とか陸行って言い出すところからは
話だけ倭人に聞いて魏の使者は行ってない気がする
で、奴国の隣つまり北九州まで女王国だから
そこまで行けば事は足りた。
九州でも畿内でもどっちでもいーが、畿内説はいちいちもう決まりだ~♪学会が~♪とか、九州説は論拠が~♪言ってるやつクズ杉とか全部自己紹介。
だから結論ありきだろうと言ってる訳。これだけ必死杉なのは…後に都ができたとは言え、墓場←ナラカというあまり威張れない土地に居たのが都合が悪い?太古からず~っと都だったって言い杉る。で、畿内説側?のが…?←ってなる。両論冷静に眺めてる側から見てるとな。こういうと九州説の奴等は~♪って言われそうだけど違うから。畿内説への違和感を指摘してるだけ、悪しからず。
・学会ではもう決定的になってる ←ただの事実
・それに対して論拠をあげて反論できない ←ただの事実
・記紀の中から九州説の都合いいとこだけつまみ喰い ←結論ありき
・九州説の都合悪いとこは無視 ←クズ
九州説への違和感を指摘してるだけ、悪しからず。
神武の故郷は九州だと認めるぐらいの余裕があるでしょ。
でも卑弥呼は物証があるから畿内で決定なのはしょうがない。
畿内は解釈や訂正以外の史書の裏付けが必要。
問題は史書に書かれた国がどこなのかであって、倭で一番大きな国がどこなのかではない。
九州説を推してた東大って、旧石器捏造してたとこでしょ。
近畿が太古から都だという事実を感情的に認めたくないんだよ。
九州は裏付け必要ないんですか?またダブスタっすか?
倭王と認められたってことは一番大きな国なのでは
>318さん
このネタの割にはここまでそんなに荒れずに来たのに「クズ杉」とか汚い言葉を使う人がいるととたんに雰囲気が悪くなるので、注意してほしいです。
自分の考える論拠を述べるのに、感情を交える必要はないでしょう。
年輪年代法の100年遡上問題とか、素人でも考察できるネタもまだまだ残っていますし、罵り合いではなく、議論がしたいです。
畿内説に対する反論がなくなった時が畿内説が定説になる時。
九州説に対する反論がなくなった時が九州説が定説になる時。
箸墓古墳から卑弥呼の骨が出れば確定する。
※323
魏の知る限りで倭人の一番戸数の多い国だったのだろう。
当時、王朝が変わると前王朝の金印を返還し、新たな金印を授けられたことを考慮すると奴国は金印を返還する前に邪馬台国に滅ぼされ、邪馬台国は大和朝廷となり金印は後の天皇が返還したんだろうな。
当時ウホウホ言ってた土人に中国朝鮮から稲作と同時に文明が伝わったのに、近畿なわけないやん
今も昔も福岡は大陸との交流が日本一深い場所で、何も変わっていない。
文明は中東から始まり、
西はヨーロッパそしてアメリカ。
東は中国、朝鮮、日本では九州から奈良、京都。東に東にへと進んで行き着いたのが今の東京。
ただそれだけ。
近畿はその都が移っていく中間点でしかない。
神武が三韓から北九州に降臨して畿内征服したのははるか紀元前の話だから
邪馬台国の時代にはとっくに日本の中心地
じゃなきゃあ関西が弥生チョ○顔のメッカで九州はそれほどでもない事の説明がつかない。九州は短期間でスルーされたと見るべき
あと、稲作と同時に必ず必要なのが製鉄技術。
これも中東から伝わってきたもので、当時は朝鮮に多くの技術者がいた。
日本に伝わってきたルートもいろんな説があるけど、対馬ルートで最も近い九州が有力だと思う。
他には東北にも既に伝わっていたというのも聞いたことがある。
とにかく、九州を飛び越えて、武器開発にも直接つながる製鉄技術(当時は武器は青銅を使い続けていた)がいきなり近畿に到達するのは意味が分からない。
仮に伝わったとしても、技術者の大部分が移動する事も考えにくい。
「文化の深さ」ってのは=その土地の歴史だからな。
畿内日本2000年の歴史に今さらどうゴネたって勝てないアズマが、必死になって関西をただの「通り道」って毀損したがってるだけにしか見えん。どおりで関係ない関東人がなぜか邪馬台論争に首突っ込んでくるわけだ。成金が欲しがるのは歴史。でも歴史は買えないから捏造、か持ってる人のを堕すしかない。日本の中心はどう考え立って畿内だ。文化的に最高級。
畿内は石器の技術が優れてたから。
砥石だって鉄器ではなく石器を磨くためのものが出土してる。
鉄器の生産と輸入が北九州と中国地方で止まっており、それを奪うために畿内から戦争を仕掛けたのが倭国大乱と見るべき。
伊都国と邪馬台国連合軍に滅ぼされたのが奴国と投馬国。
だから伊都国が邪馬台国以北を代官として支配していた。
北九州に残る鉄製鏃の刺さった人骨は奴国対伊都国の戦争の跡。
卑弥呼は闘っていない。だから畿内からは鉄の武器も戦争の跡も大量の戦死者も発掘されない。
どーでもいいけど、「畿内」って使い方間違ってない?
そもそも、明治に日本の土着のアニミズムを無理やり結び付けて、
「すべての神社の祭祀は天皇です。これからは天皇を崇めてください。」って無理がありすぎやろ。
そして、古事記とかを証拠にだして、日本には偉大な神話があります。ってそれ7世紀やからね。
それ以前の弥生時代の話なのにわけわからんやろ。
その当時テンノーとかおらんよ。
多くの日本人と外国人が勘違いしてるけど、日本文化の栄華を極めたのが、奈良・京都であって、決して日本の文明そのものの起源ではない。
>>331
つまりアフリカが一番ということですね。
分かります。
※331
天皇家の出身地である高天原とされてる日向のほうが古くない?
2000年じゃなくて2600年だよね?
邪馬台国は畿内以外関係ない!
邪馬台国は倭で一番大きい!
記紀>魏志倭人伝
神功皇后=卑弥呼
邪馬台国=大和
稲作は縄文時代に日本に伝わっていて、
※338
卑弥呼の時代以前に中国朝鮮と文化交流あったに決まってるやん
最初に書物に記録されたのがたまたま魏志倭人伝
「日本海側」か「太平洋側」か
それだけですべてを物語っている。
※316
この地図は李氏朝鮮で作られたんだ。
他に3枚あって、龍谷大学の地図だけ90°ずれてるんだ。
他は正確な向きなんだね。
確かにこの1枚がなければ90°説はない。
面白い。
ありがとうございました。
稲作は縄文時代には日本に伝わっていて、菜畑遺跡は2700年ほど前とされています。
また、東北地方でも弥生時代でも最初の頃の砂沢遺跡、垂柳遺跡で、水田跡が発掘されています。
縄文時代は列島全体規模の交易が確立されており、しっかりと文明社会です。
大陸に近いから北部九州が文明の先進地という思い込みで語る前に、ファクトを押さえてもらうと話が進みやすいと思います。
諏訪湖周辺は弥生文化拒否ってます。
※328
その中間点である近畿が、日本国の歴史の原点であり、最も長く、現在まで続く日本文化のほとんどが形成されている。
明治に東京が首都とされたが、1970年代までは関西>関東というように差が大きかったんだよ。
少なくとも江戸時代からの正しい近代史を知っておいた方がいい。
テレビなどで流布されている江戸・東京の歴史は、文献の史実とは違う事が非常に多い。
文献などでの都合の良い一部を取り出して歪曲し、全体とは違う歴史観を作り上げようとしている。
これは、邪馬台国の九州説派にも言えるだろう。
魏志倭人伝の記述(三国志が書かれた当時の魏の視点から世界観による解釈が重要)だけでなく、考古学の発掘結果の方も文献より重要なので、これらを総合的に考える必要がある。
自分が思い込みたい結果を導くために、都合の良い部分だけを抜き出して思考するのは、真実を見誤る。
※329
弥生系はテョンではなく、中国系な。
テヨン顔が多いのは、奈良時代以降に半島渡来人の開拓地とされた関東である事ははっきりしている。
>>341
交易をするには交換する品物が必要。
当時の日本にはそんなもの存在しない。
列島全体で大陸と交易が確立されていた=絶対にない。
そもそも、移動手段が徒歩と小さな船のみ。
それでわざわざ遠い地まで足を運んで交換するものがあったのだろうか。
当時は奴隷売買もあったかもしれないから商品といったら奴隷くらいだろう。
じゃあ邪馬台国が大陸と交流があったかといえば、同じくないはず。
当時の製鉄技術も交易でもたらされたものではなくて、戦乱の朝鮮から逃れてきた人が住み着いて技術を伝えただけ。
※343
関西に在日が多いのは戦後住み着いたからだぞ
在日以外の日本人はどこも顔変わらんだろ
※345
>関西に在日が多いのは戦後住み着いたからだぞ
そんな事は知っている。大正時代以前には関東にテヨンが多かった。
顔の調査はないが、いくつかのDNA調査はされているんだよ。
しかし、この話題は本スレとはズレるので、これ以上はしないが、
興味があるなら、「母方のルーツで見た縄文と弥生の割合」で検索。
※343
欧米では奈良時代が最初の日本国とされているけどな。
そして、日本の文明の発祥は九州。
これも欧米だと普通の考え方。
343
東京へは奠都な。
都は御所であって、京都全域ではない。
当たり前だよな?
※346
関東の東夷はどう説明するの?
>343
何千年経ってると思ってるんだよ。
お前に至るまで何人のご先祖様がいるか計算できるか?
そのうちの全員が純血の縄文人か?
>344
日本と大陸と、ではなく、列島内での交易です。
神津島の黒曜石や新潟姫川の翡翠などが全国で出土するのはご存じですよね?
また、関東の貝塚の貝殻の量も、周辺の消費量ではとても説明できる量ではないので、干し貝にして、交易に使われていたと考えられています。おそらく内陸への塩分の輸送という意味もあったのだと思います。米などを炊くときに、干し貝を一緒に煮込めば出汁になりますし、日本人が今でも海産干物好きなのは縄文以来の嗜好なのかもしれません。
神津島の黒曜石は大陸でも出ていますし、環日本海の物流は思ったより盛んだったようです。
遣唐使船が沈んだり、鑑真がなかなか日本に来られなかったりするので、日本海を渡るのは大変という印象がありますが、後の時代の構造船と違って丸木舟は「転覆しても沈まない」ので、波の穏やかな日を選んで渡る分には丸木舟でも十分だったようです。
昔は天皇が即位するたびに都を作ったからずっと同じ都市を使い続けていた纒向は都ではなく祭祀場。
都は纒向の周りに天皇毎に作ったはず。
邪馬台国の都が見つからない理由はそのため。
そんなに純血にこだわるなら、自分のクローンを作ればいい。
※346
今もだよ。
埼玉東京の人間は酒強いからね。
近畿はむしろ弱い方で典型的な日本人。
それでも愛知や三重より強いのは在日の影響か俘囚の影響かというところ。
邪馬台国は弥生系!
大陸から多くなる(関東)ほど朝鮮系!
※354
なんで酒の強さと日本人かどうかが関係あるのかみんなに説明してくれ。
DNAのどの遺伝子がアルコールに反応して、その遺伝子が日本人以外のアジア系で違うのかどうか。
そして日本のそれぞれの県でその遺伝子に違いがあるのか。
説明してくれ。
>>354
???
海外の文献読んでも九州で間違いないよ。
正確にどことは書いてないけど、簡単にまとめると。
1.中国朝鮮から逃れてきた移民が九州に移住
2.現地土人とアンアン → ニュータイプ弥生人誕生
3.倭人の村がいっぱいあってカオス
4.ヒミコが賢い弟の力も借りて統治
5.全国で古墳フィーバー
6.近畿に中国式軍隊を備えためっちゃ強い国が登場
7.周りの土人どもをフルボッコ
8.邪馬台国消滅
ttp://www.shsu.edu/~his_ncp/Japan.html
ttps://heritageofjapan.wordpress.com/
戦後GHQは昭和20年10月30日に教職追放で真っ当な教員を追放し共産主義者が東大京大などの教壇に上がり歴史を改ざんした。12月15日に神道指令で日本の素晴らしい歴史と伝統文化を教えることを禁止した。
日本の家庭に今も息づく記紀の伝承が神棚に残る。邪馬台国や卑弥呼って左翼学者のプロパガンダであり、矛盾だらけの魏志倭人伝って聞き流せばよい程度の法螺はなしですよ。
※354
蝦夷を俘虜として使役してたのは大伴氏とその一族だろ?
うちは神道成立以前の伝統が残ってるから神棚ないよ。
※356
1行目→日本人は世界有数の酒弱国だから。
2行目→ALDH2。日本人に近いのは中国江南地方のみ。
3行目→山陽〜近畿〜東海にかけて、弱い人が多い。
長江の河口付近に住んでたのは倭人集団だぞ
朝鮮半島南部にも倭人は住んでたぞ
今の日本の支配地域と倭人の範囲は一部違うぞ
※359
祭りとか参加したことある?
全国の祭りだとその地方の神社、そこを管理している宮司ですべて完結するよ?
そこに天皇とか一切出てこない。
確かに天照大神を祀っているところもある。
でもそれは神話であって人間とは繋がっていない。
このサイトも聖書に神話は載っているけど、フィクションというスタンスで説明しているし、あなたも読んだはず。
なのに、日本書紀のまとめられた720年以前の内容を現実の内容と捉えてるとか?
あと日本の神社は天皇を祭るためではなく、その地方を納めていた豪族の霊を鎮める為でもある。
だから古墳の上に神社がたてられることが多い。
とりあえず、歴史のある祭りに参加すれば大体わかる。
※362
日本のアルコール消費量=世界55位(酒弱国?逆にアジアの中では強い方だが)
なら近畿に住んでる人間は中国人なんやろ(テキトー)
※365
好きなのと得意なのは別ですから
※366
だから日本はアルコール消費量多いんだよ
酒飲めないのが日本人ならおかしいだろうが
東を間違えて南と書いた証拠が朝鮮半島作成の地図だとは知らなかった
※367
下手の横好きって言葉ご存知ない?
>>362
民族なのか国家なのかはっきりしろ
>352
初期の天皇は都というほどのものは作っていなくて、天皇の居館を宮と呼んでいたのだと思います。
崇神~景行天皇の宮は、ピンポイントでどことは言えませんが、纏向の中だと思います。
>363
中国の史書が何をもって「倭人」としているのかがはっきりしないので、遠く離れた長江下流の倭人と列島の倭人にどれだけのつながりがあるかは分かりません。
逆に、倭人としたために、「長江河口の倭人」の様子が「帶方東南大海之中の倭人」に投影されている可能性もあります。
※370
どっちでもいいわボケ
魏志倭人伝に「人性嗜酒(倭人は酒飲み)」って書かれてるのに日本人が酒弱とか笑止。
少なくとも魏や帯方郡(朝鮮北部)で生活してる人間から見ても日本人は特に酒飲んでるように見えたのだよ。
当時の華北人は今より酒弱だったということかな?
魏志倭人伝は和弓を正確に記してるから間違いなく倭人の風習を記してる
もし想像だったりよその地域を記してたら弓の形が絶対違う
俺が注目するのは
其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香 其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷 不知以為滋味 有獮猴黒雉
この部分だな
出汁が古事記に出てくることを考えると魏志倭人伝に出てくる倭人は刺青も含めて記紀の文化圏とは違うみたいだな
女王の都は使者の出発点から一万二千里と明確に記載されているみたいだから、
水行十日、陸行一月もその範囲に収まる解釈以外はない。
※344
大陸と往来が全く無いとは言えないだろ。
品物が無いなんてありえない。
日本は古代から海産物や真珠の産地として有名だったんだよ。
複雑で長い海岸線のおかげだな。
あと砂金・水銀ね。
※378
青玉ってなに?
※374
好きと得意は別だって何回言っても理解する気ないんだな
※380
意味分からん
DNAの話だろ
※376
>有獮猴黒雉
たぶん台湾の情報だ
台湾にミカドキジという台湾固有の黒い雉がいる
またタイワンザルもいる
※381
DNA(得意不得意)の話をしてる時に、酒の量(好き嫌い)の話をするやつがいる
>>377
都とは書いてなくね?
女王国の境界までが一万二千里で、都のある邪馬台まではもっとある
動機と位置と態度で判断すれば良い
そもそも『海外の強国に対して「相手の権威と勢力の地理的な延伸による」後ろ盾を求めた』
動機から言えば、その行為と判断の主体は九州であって畿内じゃない、位置的にも勢力的にも
隣国でなければ共通の敵国に対する同盟で良いし、畿内の商業圏勢力にはその力があるだろう※
そもそも外的権威が仮想敵国に向かった時の背後にある状況ではなくむしろ敵国の背後だから
接しても居ない畿内は九州に勝った後で無い限りは大陸勢力を重視したり「従う」必要はない
正面の畿内と後方との二正面作戦になるから少しでも有利な条件で自ら従うしかなかったのだ
畿内ならば地理的な位置関係が違うから、「自ら属国になる」動機も時期も食い違う事になる
※349
東夷の事を知りたかったら、平安時代を勉強したらいい。
あと「新羅郡」「高麗郡」とかも調べておく必要がある。
※364
天神地祇八百万の神のうち、天神が天つ津神で渡来系、地祇が国つ神(土地神)で地方豪族と
捉える事ができる。
ヤマト政権は侵略したというよりも、その土地の豪族たちを従える形をとったから、神として祀られている。もちろん武力や戦争などが背景にあるわけだが。
卑弥呼時代には鏡を与える事で従属の証としたが、ヤマト政権では姓を与える事にした。
この事によって、地方豪族は自分の土地を支配する事を認められた。
※379
代わって答えるが、宝石の青玉(せいぎょく)は「サファイア」の漢名。
しかしウホウホ言ってたとか品物が無かったとか
変わった見方をする人が多いな。
※382
ミカドキジ黒っちゅーか青いな。
>>385
>正面の畿内と後方との二正面作戦になるから少しでも有利な条件で自ら従うしかなかったのだ
畿内が魏と組めば、そういう状態に持ち込めるってこと
畿内も動機は十分じゃないの?
※ポリネシア諸語と民族
台湾の船乗りがポリネシア諸語の地域に拡散している、太平洋の大部分は台湾民族のものだった
→台湾のコネの対象は国津神(シベリアから大陸中央部ハートランド、現ロシア圏から中欧圏)
コネを持っているのは畿内だろう、ロシア正教の浸礼と道頓堀のカーネル像投入の動機は同じだ
発想自体が東京/九州や他のキリスト教圏に解り難い、技術より地理的統治力の文化であり文明
九州はトルコ(アナトリア)の鉄鋼技術系天津神アマテラスやスサノオの系統で、より一般的な
ナンナル/シン=ツクヨミ=ティレニアのそれではない(三貴子の枠組など原点はこちら側だ)
ドイツのドレスデンなど欧州の鉄工の起源でもある、トルコの主なる太陽女神アリンナにあった
ふいご本格採用前の製鉄技術は、山の斜面で加速された季節風(台風)に全面的に依存している
それ故に「普通の街の繁栄」に向く土地には適さない、風害の強い山地でしか行う事ができない
そして、鉄製品の大規模海上輸送は、水上輸送が王道だった古代でさえ、簡単では無かったろう
日本に来たのは「一般的な天津神(アナトリアの月神=主神=都市国家神の系譜)」、ではない。
相当なキワモノだ。 九州ローカルだったのも無理はない。 遺伝・血統的にも珍しいらしいな。
畿内(=国津神)は古代の大陸中央で最も一般的な文化系統で民族問わず合流する大多数はコレ。
北朝鮮はDNA検査もできてないから、酒弱って可能性もあるか・・・
となると畿内に移住してきた弥生人は昔のあの辺の民族?
色々辻褄が合うな
卑弥呼が外交に聡かったのは帯方郡の人間と懇意で便宜を図ってもらっていたからだとも聞く
寄せ集まりの女王国は必ずしも狗奴国の征服したかったわけじゃないだろう
他の国のように従属してくれればそれでよかったはずだ
大陸の先進的な強大国の後ろ盾を得て女王国の国威が増大すれば
狗奴国もついには屈服するかもしれない
そういう狙いがあったのではないか
※391
稲作の起源はもっと古いって上にレスがあるのに見てねえのかよ。
※391
無いんじゃないの。
満州や韓国に全くそんな気配ないし。
史実では大陸の北東部は騎馬民族系が完全に支配していた、漢民族がそれに匹敵した事はない。
彼らは、遊牧地域から離れると「消滅」してしまう。 土地の生活習慣に結び付き過ぎている。
モンゴルのような強大な覇者でさえ跡形もない。 生活至難な土地でないと文化の意味がない。
そして生活習慣が消えると、それに伴う文化も考え方も哲学も発想も皆、消えてしまうようだ。
それら以外の大陸のほぼ全ての民族が、「普通の人々」である国津神、日本だと「畿内派」だ。
むしろヤマタ列島ローカルではキワモノが目立ちすぎている。 ほとんどは普通の平地の民だ。
日本こそ「畿内派が畿内でしか勢力を振るっていない異常な状況」だが、大陸は皆「畿内派」。
大陸では大多数の民族が「畿内」文化文明派なのだから、日本等の局所以外では、「勝てる」。
※388
青紫色に光る黒色
ネットに挙がる画像は綺麗に光沢が見えるものを選んだり色調いじったりして強調してるんじゃね
※394
日本国内ですら畿内濃尾の地域で特異的に分布してるのに
なんで半島で無いって思えるのか?
※397
九州、四国、関東でも明確にその兆候が見れるのに、韓国や満州でなぜ出ない。
というか北朝鮮で検査してないのって本当か?
おいおい、稲作の時期がさかのぼって弥生・縄文っていう頭骨から見た区分は
実は農耕によって食べ物が変わったからかもしれないのに、何で邪馬台国の話で
DNAの話になっちゃうわけ?
>>387
ありがとう!
調べてみたら、今でも日本でサファイア取れるんだ。しかも結構広い地域で。
弥生時代ならもっと採れたかもしれないな。
真珠とサファイアが採れるなら魏も交易しようと思うに違いない。
昏睡期(0.41~0.50)
ビール(大びん10本以上)
日本酒(1升以上)
ウイスキー(ボトル1本以上)
◆揺り動かしても起きない
◆大小便はたれ流しになる
◆呼吸はゆっくりと深い
◆死亡
国税庁のwebページにあったけどこんなに飲めないよ
ある説によると日本人は、縄文人系はNN型、弥生人系(大陸から日本列島に移住)はND型あるいはDD型が多いと言われていますが、その割合は、NN型56%、ND型40%、DD型4%と言われています(別の説では、ALDH2型を持たない人が25%はいると言われています。)。国税庁より
今まで弥生人の王国である奴国と邪馬台国が大陸と朝貢してたのか不思議だったけど
お酒飲めない遺伝子=江南=稲作&鉄器=弥生人だと考えれば、むしろ大陸と交易することは不思議でもなんでもないな。
もしかしたら言葉も江南の言葉とほぼ同じで通訳要らなかったかもしれん
養蚕や紅花も同時に伝わったのかもしれないと考えると楽しいな
そう考えると南九州の狗奴国や女王国の南は同じ倭種でもまた別の民族集団、たとえば縄文系の生き残りの国かもしれんな
邪馬台国が畿内だとすると、狗奴国は愛知から静岡な
古代においては金よりも高価だったヒスイ
糸魚川のものは6000年前で支那にも輸出
漆製品は鳥浜貝塚遺跡が6000年前で
なんと支那の河姆渡遺跡が6200年前
なんだ、やっぱり支那から文明が伝わった?
いえいえ、垣ノ島B遺跡は9000年前
そして、ここで謎の放火事件発生!
支那人に都合よく歴史作るアルよ
>400
青玉っていうとむしろ翡翠を思い出すんですが。
翡翠なら縄文時代から日本では大事にしていますし。
あと碧玉というと青い瑪瑙をいうようです。
日本でサファイアが出るという話は聞かないんですけどね。
せい‐ぎょく【青玉】広辞苑第六版より引用
①サファイアの漢名。②竹の異称。
へき‐ぎょく【碧玉】
みどりいろの玉。菅家文草[5]「―の装ひせる箏の」
(jasper)不純物を含む石英。緻密・不透明で、酸化鉄を含むものは赤褐色、水酸化鉄を含むものは黄褐色。微細な緑色系雲母類を含むものは緑色。縞模様があるものを縞碧玉という。主にウラル・エジプト・ドイツなどに産出する。佐渡の赤玉、出雲の玉造石たまつくりいしなどはこれに属する。玉造石は古くより曲玉まがたま・管玉くだたまなどに作り、また印材・指輪・簪かんざし・笄こうがいなどの装飾品に使用。
め‐のう【瑪瑙】
縞状構造が明らかな玉髄。主成分は微小な石英。樹脂光沢を有し、往々鉄分などが滲透して美しい赤褐色・白色などの縞文様を現す。細工物・彫刻材料などに用いる。倭名類聚鈔[11]「馬脳、女奈于」
ひ‐すい【翡翠】
玉ぎょくの一つ。鮮やかな翠緑色を呈し、緻密で光沢がある。ミャンマー・カザフスタン・グアテマラなどに産出し、装身具・装飾品として愛玩され、日本では新潟県に見出された。ジェード。
こう‐ぎょく【硬玉】
翡翠ひすい輝石からできた岩石(翡翠)のこと。純粋なものは白色で、クロムを含むものは緑・青緑・緑白色。ミャンマー(ビルマ)・日本などに産する。中国の玉ぎょくの一部はこれである。角閃石を主成分とする軟玉より硬いところから硬玉といわれる。翡翠輝石。翡翠。
なん‐ぎょく【軟玉】
玉の一種。角閃石かくせんせき族鉱物から成る。細粒緻密な透角閃石から成るものは無色、緑閃石から成るものは暗緑色。近世まで中国で玉ぎょくと呼ばれていたものの多くが軟玉であった。
明 李時珍《本草綱目・石二・青玉》:“按《格古論》云:古玉以青玉為上,其色淡青,而帶黃色。
国産サファイアは富山、岐阜、奈良などにあるようだよ。
>>306
初めて知って調べたら、「何か出てきた」どころか結構重要な遺跡でワロタ
>405
400に代わってお伝えしましょう
ヒスイ 新潟県糸魚川市など
サファイア 富山県庄川流域など
アクアマリン 佐賀県富士町など
黒曜石 佐賀県伊万里市など
ルビー 岐阜県白川村など
トルマリン 岩手県三陸町など
オパール 福島県西会津町など
ガーネット 長野県諏訪市など
スピネル 岐阜県春日村など
ベリル 岐阜県中津川市など
トパーズ 岐阜県中津川市など
勝手に採ってはいけませんよ?
あなた様が聞いたことがなくとも存在している事象は世界にあふれておりますぞ
これからは是非、ご自身でお調べになると知識がよりあなた様の血肉になることでしょう
はさみ山遺跡(はさみやまいせき)は、大阪府藤井寺市に所在する旧石器時代から近世までの各時代の遺構や遺物が見つかった複合遺跡。全国的には、現在わかっている日本最古の住居跡が見つかったことで知られ、そこでは後期旧石器時代の住居の構造が明らかになったことが特筆される。
円筒埴輪のなかには井戸枠として転用されているものが見つかり、話題となった。
その旧石器時代住居・土坑の検出地点は「はさみ山遺跡梨田地点」(はさみやまいせきなしだちてん)と命名されている
大ニュースじゃねぇか
縄文時代および弥生時代の遺構・遺物は少ないけどもうここが邪馬台国でいいよ
>406-409
ありがとうございました。
日本でもサファイヤ採れるんですね。
>411
重ねてありがとうございます。
ただ、負け惜しみを言わせてもらうと、日本が鉱物の見本市と呼ばれているのは知っていて、いろんなものがとりあえず採れるのも承知しています。
けれどそれらのうちで、献上品に値する宝石レベルのものが出るかというとまた別問題なんですよね。
文化としてサファイアを愛でる文化があったかは、今でも分かりません。古墳時代に入る前から青いものは青ガラスの管玉などが弥生墳丘墓の副葬品として出ていますが、副葬品にサファイアがあったというのは聞いたことが私はないです。
魏志倭人伝は支那人が書いた法螺話
「ホント日本人信じる、ばかアルね
学会もコントロールしてるアルからね」
酒に関して
古代の酒は、練酒というペースト状のものだったという話があり、がぶ飲みできるものではなさそうです。酒に強いかどうかというコメントが多くありますが、ペースト状の練り酒を嗜好品として楽しんでいたのかもしれません。
この辺の研究は進んでいないようですが。
台湾が倭人伝に混じってるのは明らか
練酒は博多や出雲で作られてたのか
弥生時代は口噛み酒の可能性もある
日本書紀には八塩折之酒が出てくる。8回醸してアルコール度数を高くしてる(再現したもの売ってら…)
縄文時代には果実酒(土器に果物を入れて発酵)を作ってたみたい
風土記には麹からお酒を造った記録がある。酵母の種類が大陸と半島と違うから日本列島独自の製法
結論:日本人は酒好き
ちょっと調べただけでこれだけ出てくるんだから、
魏の使節も「あいつら出汁のとり方知らないくせに酒は呑みすぎ」と思ったに違いない。
人類そのものが船で渡ってきたのではなく
日本が大陸と陸続きの時に日本には人が住んでいたし、石器も使っていた。
そこに、稲作と同時に製鉄技術が伝わったのが、弥生時代。
人の流れというのは、断続的ではなく常に流動的であるから、明確に何年前には稲作はあったと反論している人はおかしい。
重要なのは、地理的に九州は災害も少なく、水資源も豊富で平地もある。
ただでさえ住みやすいその土地を離れて、近畿に移住するのは考えられない。
そして、近畿は太平洋沿いだから直接たどり着いたなら日本海側の鳥取あたりに大きな文明があったはず。
鬼界カルデラや姶良噴火で全滅してる
阿蘇山の噴火は大陸の正史にも載ってる
台風は毎年来るし、地震も多い
>419
水田遺構があれば、稲作が行われていたとするのが当然ですし、ケイ酸質のプラントオパールはよく残りますから、稲のプラントオパールを見ることで稲作の有無が判断できます。それとその遺跡の推定年代を求めれば、何年前にどこで稲作が行われていたかは、実証的に述べることができます。
何をもっておかしいといっているのか分かりません。
繰り返し述べていますが、縄文時代から人・物の交流、移動は列島全体に及ぶほど盛んです。日本に届いた文物は、それほどのタイムラグなしに広範囲に伝播します。
その後受容されるか、または受容後にまた廃れるかは、地域ごとに異なります。
近畿に移住するのは「考えられない」というのは、あなたの判断だと思いますが、根拠が薄弱だと思います。
※421
詳しいね よっぽど邪馬台国に興味があるんだなぁ
その情熱で琉球と台湾について調べた方が早いよ
>>422
>その情熱で琉球と台湾について調べた方が早い
邪馬台国の場所並みになぞなコメントだな
※421
ならあなたが明日から鉄の鍬と鎌を10人分でいいので作ってくださいと言われてすぐに作れますか?
現代のように情報化が進んでいても、窯の作り方や精錬方法等のノウハウが文章のみで伝わるはずがない。
「文物」といって誤魔化しているけど、口伝えで師匠が弟子に伝えなければ、鉄製品は絶対に作れない。
あなたが近畿地方在住だからゴリ押ししたいのだろうけど、地理的要因は絶対に無視できないし、発掘調査からは当時の生活を推測することしかできない。
※423
俺は理解できたけどな
当時の邪馬台国が台湾とか琉球とも交流があった。
それを無視して語っているのが滑稽だということ。
>>425
なるほど
所有無與儋耳朱崖同
海南島と同じって記述があるから当然同じ文化圏の台湾、琉球ともつながりがあると解釈したわけだ
狗奴国との抗争があり台湾、琉球とは交易できなかったと考えてたから分からなかったというわけだ
ありがとう!
>424
なんだかポイントがずれますね。
私が繰り返し述べているのは近畿の優位性ではなく、縄文文化のレベルの高さです。
三内丸山遺跡の時点でほぞ組を作って、相当大きな木造建築を作っていたのが縄文時代です。
鉄器が入ることで文明が飛躍的に進んだ、なんてことはむしろ想像しにくいです。
鉄器は戦争の武器としては優秀でしょうが、生活レベルでは石器でかなりのことができていたわけですから。
それがどうして稲作の話をするのがおかしい、となるのかが分かりません。
※427
いやだから、戦争に使われたのは当時青銅器って言ってるじゃん。
何でもかんでも石器で全部できるとか頭逝ってるだろ。
畑仕事やったことあんのか?
TOKIOのDASH村も見たことないのか?
書き込んでる内容が畑仕事を一切したことのない素人だし、一度は自分で畑耕してから出直してこい。
あと、日曜大工もやってみろ。
石器で全部作れるわけないだろ。
>>428
世界最古の磨製石器が出土したのは日本
>428
どうしても、稲作の話をするのがおかしい、について答えてくれませんね。
縄文後期に水田稲作の遺跡があるのは、事実です。
弥生とは鉄器の制作技術だ、との意見で、石器では農作業はできないという立場のようですが、それだと縄文時代は鉄器がなく、稲作はできないことになりますが、実際に水田遺構は出ていますし、稲のプラントオパールはさらに広く検出されています。
農作業のかなりの部分は、木鋤とか木鍬などの木製品でできるんですよ。そして木製品の加工は石器でかなりのことができます。私、農学部出身です。
文物が移動して人が移動しないと考える理由も分かりません。鉄器の鍬先をもらって、便利だと思ったら、作り方を教えてもらいに行くって思いませんか? ものが自分で歩くはずがなくて、人も移動できるんですから。それを師匠から直接教えてもらわないと絶対にできないと言ってくる理由が分かりません。
※428
邪馬台国の都である纏向遺跡からは鉄製品が出土せず、石器とその砥石が出土するんだぜ?
魏志倭人伝にも書いてある鉄製の鏃を持つ北九州勢力と戦争して倭国一の王国になったんだぞ
石器と木の鏃の矢の威力で九州から近畿まで統一したんだぞ
インカ帝国も石器で開頭手術までしてたんだから不思議はない
>428
イリアンジャヤとパプアニューギニアディスってんのか?
>>428
縄文晩期の稲作どう説明するんだよ
※430
もう自滅コメやろ
農学部出身なら石器で日本の土壌を耕したらどういう結果になるか分かるやろ。
それが分からないなら、余程勉強してなかったんだろうな。
あとプラントオパールをやたら提唱しているけど、
もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない。
それよりも、簡単に育てられて、食べられる量も多いイモ類を育てる。
邪馬台国以前に稲が伝わっていても多くの日本人は見向きもしなかっただろうし、雑草のように自生していただけだろう。
それと炭素年代測定は数十年前は絶対的な信頼性を認められていたけど、最近になって炭素年代測定が正確ではないという意見が出てきているし、特定される年代も正確ではない。
てかお前ID出ないからって連投コメきもいからやめろ
>434
>もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない。
お前の感想が全ての世界なのか?
※434
稲作が伝わったのは邪馬台国以前ですよ
稲作に使う稲は自生してるものとは違いますね
ていうかよく分かったわ
この議論が長いこと続いてるって、
今も昔もキチガイが起源捏造するからだな。
なるほど、よく分かった。
>>434
イモ類を主食にしたら邪馬台国の人口は支えられないのでは?
やはり稲作を始めたことで7万戸の人口を支えられ、石器しかなくとも倭国最大の王国を築き、金印をもらったんだろう
魏志にも「収租賦有邸閣」とはっきり書かれてる
438
日本の稲作の起源はどんどん古くなるんじゃないかな?
昔は弥生時代って習ったけど今だと縄文人も稲作してたし、逆に弥生時代を経ずに古墳時代になったところもあるんでしょ?
世界で最初に稲を植えようって思った人凄いよね
>438
結局、縄文後期に水田稲作の遺跡がある事実に対してはどうなんですか?
鉄器を使わないと稲作ができないから捏造なんですか?
理由が分かりませんね。
For a long time the earliest evidence of rice farming was dated to around 300 BC which worked nicely into models that it was introduced when the Koreans, forced to migrate by upheaval in China n the Warring States Period (403-221 BC), arrived around the same time.
日本に稲作が伝わったのは紀元前300年ごろの戦乱の中国から逃れてきた朝鮮人がもたらした。
日本には多くの朝鮮の遺物が見つかる。
ttp://factsanddetails.com/japan/cat24/sub159/item939.html
※425,426
違う
中国が台湾や琉球とも交流があったはずなのだ
倭が中国との繋がりを会稽でもつというのが考えにくい
ならば先ずは琉球の可能性を疑うべきだ
琉球は文句無く温暖
ところが琉球には猿がいない
そこで台湾 台湾には猿がいて黒雉もいる
日本が海南島(香港付近)と似ているわけがないが
台湾は海南島とわりと近く緯度も大差なく似ていても不思議はない
倭人伝の一部は明らかに台湾の情報が混じっている
これを無視したら真実には永遠に辿りつけないぞ
>434
耕すのは木製品って書いてるじゃないですか。
プラントオパールがなんだかご存じですか?
これまでの研究で明らかになったことを軽視、あるいは無視していたら、話がかみ合わないのは当然です。
近畿に移住するのは「考えられない」というのは、「もし俺が今現在、稲作というものを知らずに稲を見たならまず育てない」と同じで、個人の感想と言うことでよろしいですね?
※444
とりあえずお前は黙れ
そして畑仕事をしてこい。
>445
畑より水田のほうがいいのでは?
>443
そこで、魏志倭人伝のいう「倭人」って何だろう、と思うんですよ。
375に、和弓のことに触れたコメントがありますが、これは明らかに日本のことです。その一方で、南方系の台湾を思わせる記述もある。
倭人伝を書いた人にとって、日本人も台湾の人も「倭人」という括りだったし、長江河口にも「倭人」が住んでいた、ということなのだと思いますが、大和朝廷としても九州王朝を仮定したとしても、倭国に台湾・沖縄は、入っていないように思います。
この辺は知識がないので、詳しい人に教えていただけると助かります。
>445
自分に答えられない話になると相手を罵って精神的に勝ったつもりになるのは、精神勝利法というらしいですよ。
縄文稲作はすでにほぼ定説化していますから、勉強してみてください。自分の論旨に合わないことを無視して話をそらして勝った気になるのは建設的ではありません。
水田稲作に重要なのは水利であり、水路です。そのための土木には土止めその他で板材や杭など、木材の加工品が大量に必要であり、鉄器よりもそちらの方が重要です。もちろん、鉄器があった方が木材加工もはかどりますが、縄文時代は木の文化で石器の頃からその分野は技術の蓄積があるので、鉄器の有無は決定的というほどではないと思います。
>>443
ならば原文のどの部分が台湾でどの部分が琉球でどの部分が倭か他の文献と照らし合わせて明らかにしないといけないぞ
一応文献当たってみた
三国志呉書
遣將軍衞温 諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家 其上人民 時有至會稽貨布 會稽東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者 所在絶遠 卒不可得至 但得夷洲數千人還
種子島も出てくるけど見つけられなかったようだ。つまり種子島の存在自体は知られていたと考えられる。
隋書 煬帝本紀
大業三年三月 遣羽騎尉朱寛使於流求國 大業六年 武賁郎將陳稜 朝請大夫張鎭州撃流求破之獻俘萬七千口 大業三年 拜武賁郎將 後三歳 與朝請大夫張鎭周、発東陽兵萬餘人 自義安汎海 撃流求國
隋書 東夷列伝 琉求
大業元年 海師何蠻等 毎春秋二時 天清風静 東望依希 似有煙之気 亦不知幾千里
大業三年 煬帝令羽騎尉朱寛入海求訪異俗 何蛮言之 遂與蠻倶往 因到流求國 言不相通 掠一人而返 明年 帝復令寛慰撫之 流求不従 寛取其布甲而還
時【イ+妥】(たい)國使來朝 見之曰 此夷邪久國人所用也
帝遣武賁郎將 朝請大夫張鎭州率兵 自義安 浮海撃之・・・至流求
虜其男女数千人 載軍實而還 自爾遂絶
台湾滅んじゃったよ
念のため琉求は中国本土から見えるって書いてあるから台湾ね。
だから沖縄を琉球と名づけて歴史的領土だって主張する国があるからね。
沖縄は日本書紀(7世紀ごろの出来事かな?)には出てくるみたいだけど後期旧石器時代と貝塚時代の風習が中国の正史に見あたらん。探し方が悪いのかもしれん。
沖縄には今のところ水田のあとが見つからないようだから魏志に載ってるものはあてはまらないかもしれないな。
台湾も人狩りにあったり煬帝に滅ぼされたりしてるが倭人のような風習は分からなかった。
どちらかというとやはり海南島や揚子江付近と倭人の習慣は同一視されてるみたいだなぁ。
※447
少なくとも三国志の時代は台湾と日本(倭)は別扱い
さすがに目の前に見えるでかい島と朝鮮半島の先にある海中の島々を一緒にはしないだろう
もし台湾と倭を同一視してるなら除福は東の日本列島ではなく南の台湾に行けばいいんだから
>>447
倭人伝が書かれた時代は西晋だから台湾(夷州)と日本(倭)を一緒にしたとは考えづらい
現在の台湾の先住民はオーストロネシア語族がほとんどでハプログループO1aが多いことを考えると
煬帝に滅ぼされた後東南アジア経由で移住したか、滅ぼされる前からそのようなグループが住んでたかだから倭人とは関係ないと思うよ
>445
情けない
まず連騰コメの自演はやめろ
※448
まずお前は全て回りくどい言い方をするが中身がない。
だからわざわざ俺が説明するのがめんどくさいと思った。
でも、仕方ないから丁寧に説明する。
まず、お前は農作業をやったことないから分かっていないが、
日本という国はヨーロッパと違って土壌には恵まれていない。
どこにでもすぐに雑草が生え、土は硬く、砂利が含まれている。
それは日本ならではの、山と川がある地形だから仕方ない。
まず、日本のこういった土壌を石器で耕そうと思ってもまず不可能。
1時間耕したところで、石器は使い物にならなくなるし、全く耕せない。
そもそもなぜ、鉄製の鍬が登場したかと言えば、土を耕す時に刃が必ず小石にぶち当たる。
だからこそ、それに負けない強い素材が必要になった。
そして、日本特有の硬く、太い雑草の根を断ち切るには石器ではまず不可能。
畑と田んぼは違うという固定概念もあるようだが、基本的には同じ。
畑には田起こしという作業が必要になるが、現代のホームセンターの鍬でも本当に大変な作業だし、素人がやっても30分で筋肉痛になる。
稲作に鉄器が必要なのは間違いないし、鉄器の伝番と稲作の伝番のルートは全く同じ。
だから俺はとりあえず畑仕事をやってみろと言った。
別に田んぼを作るのに木製品は必要ないよ。
重要なのは鍬。
>453
欧州には雑草が生えてないんですか?驚きです。
※453
日本の土壌を生成する環境条件の特徴は雨量が多く地形が急峻なことから、
侵食・堆積作用が激しく運積土がおおく緻密でないため耕しやすいはずですよ
>>453
日本でも有数の土、鹿沼土は礫岩が風化して出来たものである。火山に近い所の土は良くないが、遠く離れて石が積もり、風化したところは最高の土になる。
なんで火山について言及しないんですか?
日本の土壌を語るならまず、火山、火山灰でしょうよ
ttp://soil-inventory.dc.affrc.go.jp/index.php
はい。
あとは自分で調べて。
あー、分かったわ
やたら、弥生以前に稲作あったって主張してる人がいるから少し調べたら、
「陸稲」と「稲作」を勘違いしてるんだろうな。
陸稲は4000-2300年前だから、これのことを言っているんだろう。
だから学者も勘違いしてて、縄文稲作を最初に唱えた山内清男もあとで否定してるぞ。
※447,449
>長江河口にも「倭人」が住んでいた
漢書地理志呉地の項に「會稽海外有東鯷人,分為二十餘國,以歲時來獻見云。」とある
すなわち前漢代の東鯷人がそれ
同じく漢書地理志の燕地の項に「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」とある
漢書に於いて倭人と東鯷人は別の存在だった
台湾は会稽のほぼ真南なので、東鯷人とはおそらく沖縄人のことと思われる
魏略が倭の方角を曲げたので、位置的に沖縄と重なって
東鯷人が倭人ということになったのだろう
だからその東鯷人の本国(沖縄)の情報も倭人伝に混ざり込んだ可能性が高いと考える
※450
三国時代の呉は倭の正確な情報を知らず、魏は台湾を知らない
陳寿は魏志以外に外夷伝を設けておらず、
魏志は魏の史料を中心に編まれた
それゆえ三国志に台湾伝がないのだろう
陳寿は呉に大して興味が無く、外国の台湾のことともなれば
もはや何の興味もなかった可能性がある
沖縄の南端と台湾は極めて近く、地理的には同じ夷と見做すことも可能
その沖縄に倭が位置的に重なって同一視されたならば
台湾・沖縄・倭国が「会稽の東の島国」と一括りにされても不思議ではない
ちなみに中国本土から台湾は遠くて見えないよ
魏略の逸文読んでも方角を歪めたところが分からなかった…。
残念。
サツマイモ以外のイモは連作障害が激しいから、主食にはできないよ
パプアみたいに焼畑すれば別だが
日本の平野はほぼ沖積地で、定期的に氾濫してたから、稲作ってもその半沼地に種籾撒いて刈り取ってただけだろうな。ナイルの賜物みたいな。沼が乾かないように囲いをつくる土木はあっとろうが
その時期の日本には牛も豚すらも居なかったってのが明示的だと思う。雑草の生える平地や疎林に手を焼いてたなら、それらの家畜が大活躍で、生産性を上げることができたろうにな
つまり弥生人は、川の氾濫で生まれた沼地平野以外には興味がなかった。
>453
耕すのは木製品って書いてるじゃないですか(何度目だろう)
結局、あなたの意見は「現代の身近な狭い範囲の自分の見聞(DASH村とか)」からの思い込みですね。
プラントオパールからは、陸稲か水稲かは区別できませんが、東北地方の砂沢遺跡、垂柳遺跡は水田遺構で、時代区分としては弥生に入りますが、東北がいわゆる「弥生化」する前で鉄器も出ていませんし、魏志倭人伝の時代より数世紀前のことです。
水田には鉄器が必要でうんぬんという狭いところでなんとかごまかそうとしているのは分かりましたが、これも繰り返しになりますがもともと私が書いているのは、国内の交流の盛んさで、倭国の中に入ったものは想像よりも早く伝播するし、大陸から近いからとかそこから移動するはずがない、というのは根拠がないという話です。
連投している部分もありますが、別に自演しているわけではなくて、話が通じない人へのレスと、他の人との議論を分けているだけです。
芋(種類多くてあれだけど)っていつ頃日本に伝わったん?
もう一つ考えに入れてほしいのが、縄文海進の問題です。縄文時代も長いので一概には言えませんが、縄文時代に一度温暖化し、海面レベルが高くなっています。
大阪平野や出雲の平野部は海になっていて、奈良盆地も湖だったといわれています。これが弥生時代に陸化して沼沢地だったところに、水田耕作が広がったと考えられています。当時の土木技術では、水深1メートル程度の小河川がせき止められる限界で、大河川流域はむしろ灌漑が困難だったようです。
この出雲や奈良盆地の沼沢地を開発した様子が、豊葦原瑞穂の国、というのは直感的に分かりやすいのですが、九州北部の縄文海進についての情報はあまり見たことがありません。
この辺りの話(九州の昔の海岸線)について、ご存じの方に教えてほしいです。
※403 邪馬台国が畿内だとすると、狗奴国は愛知から静岡な
「狗奴」の地名は上毛野(かみつけの)下毛野(しもつけの)として今でも残っている
栃木、群馬周辺とされるが 蝦夷の支配地と思われる
※462
そう来ると思ったよ。
あまりにも素人の考え。
弥生時代の代表的な遺跡である静岡県の登呂遺跡では木製の鍬が出土している。
なら木で耕していたのか?
何度も言うけど石器でも耕すのは不可能。
上の人も書いてるけど、基本的に水稲作以前の農業は、適当な湿地に種をばら撒いて終わり。雑草も刈り取らない。
じゃあ登呂遺跡の木製の鍬は何か?
実は鉄製の刃が付けられていた。
しかし、登呂遺跡のあたりは金属の腐食が進みやすい土壌らしく、あいにく鉄製の刃は残っていない。
日本に古くからの文明が気づかれていたという主張だけども、世界の国々では石器時代→青銅器時代→鉄器時代と推移している。
しかし日本には製鉄の技術がなかったために、弥生時代に青銅と鉄が同時に持ち込まれ、青銅は祭祀の道具、武器として使われ、鉄は農具として使われた事実がある。
ヨーロッパ・中東・中国では石器を使って農業を行っていたというのは確かに残っている。
しかしながら、前にも書いたように日本という島国と大陸を同じように考えるのは間違っている。
畿内説に賛同している人は近畿地方で邪馬台国が成立しそしてヤマト王権へと変わっていったと考えれば、すべての日本の文化の起源は近畿であり、そこに日本人のアイデンティティがあるのだという意見なのだろうと思う。
しかし、日本に住んでいるのはあなただけではない。
多くの人間が日本全国その土地にはるか昔から住んでいたし、先祖を大切にしていた。
だからこそ、あなたの意見を深く追及する気はないが、自分の意見が全て正しく、相手の意見が間違っているというスタンスは変えてほしいし、本当に自分の考えが正しいという確信があるのであれば、前にも書いたように、ただ文章を読んだり書いたりするだけではなく、実際にその土地に行って「目で見て触れて体感して」真実を自分の感性で語れるようになってほしい。
※464
博多は中世まで草香江、冷泉津といった海が残った
糸島の志摩はちゃんと島だった(らしい)
佐賀平野は弥生時代に海岸線が後退して行った(早津江、諸富津などの地名が残る)
>467
ありがとうございます。
あと気になるのは、崗之水門おかのみなと(遠賀川河口)と洞海くきのうみ(洞海湾)の関係です。縄文海進の頃は洞海湾が遠賀川方面まで広がっていて、繋がっていそうに思います。
>466
プラントオパールを調べて、それが陸稲の可能性をあなたは知った。調べてよかったですね。
そこから、縄文稲作は陸稲だから水田ではない。水田ではないから鉄器はいらない。鉄器は日本の石の多い雑草の多い土地を耕すのに必要。
そういう筋立てをされていますが、陸稲を植えるような場所こそ、水田適地より石や雑草の多い耕しにくい土地だと分かっていますか? そして陸稲の縄文稲作には鉄器はないという立場ですよね?
縄文稲作を水田ではないという論理で持ってきているわけですから。
耕すのに鉄器が必要と、縄文稲作は陸稲だから弥生文化(鉄器)とは関係ないというのが、矛盾しているのは分かりますか?
登呂遺跡は1世紀の弥生遺跡ですから、そこで鉄鍬が使われるのは当たり前で、逆に東海地方まで鉄が普通に使われている例であり、鉄使用が大陸に近い北部九州の独占物ではなかった証座ですよね。
稲作がかなり古く(縄文後期~弥生最初期)から列島に広く広がっていたというのが、邪馬台国の所在地論争に、必要な視点であることは分かってもらえましたか? そして、でまかせではなく学術的な根拠のある論点であることは分かってもらえましたか? プラントオパールまで調べたのですからお分かりいただけたと思いたいです。
逆に、ヨーロッパの、石器時代、青銅器時代、鉄器時代と進んで、鉄器時代こそが文明社会で、それ以外の文明の発展様式はない、という考え方が偏っているんですよ。
縄文時代は、三内丸山遺跡一つとっても、定住型で栗の栽培をし、木材加工の面では臍組みを作って大型の木造建築を作ることができ、漆で処理をしたポシェットが作れる文明社会です。
※469
まず、俺の意見を述べる。
まず俺はたまにこのブログを訪れて、記事を覗いている。
今回の邪馬台国に関しては正直場所は畿内でも九州でもどっちでもいい。
そして俺は福岡在住で、実際に遺跡も見たし、福岡市博物館で金印含む遺物を実際に見た。近畿の遺跡、博物館はまだ見ていないから、心の中で多少のバイアスがかかっている可能性はある。
しかしながら、正直どうでもいいと思いつつコメントを覗いてみたら、あまりにも偏った意見が多いことに気づきレスをした。
本当の客観的な見方をすれば、遺跡発掘調査と数少ない文献のみで邪馬台国を特定することはまず不可能であるし、これからも決着はつかないのは目に見えている。
今までのあなたの、コメントを見て思ったのが、すべての年代区分を断続的に捉えているということ。
現代的な政権というシステムがない古代で断続的に社会システムが移行するということはなく、すべてが川の流れのように流動的であるということ。
別にあなたの主張を貶しているわけではないけれど、あなたが歴史が好きそうな感じはよく伝わるしよく勉強していると思う。ただ、教科書は人に教える以上、時代区分というものを明確に記述するけれども、実際に古代の年代を明確に知ることはできない。
そして、地層からの年代特定と炭素年代測定は実は正確ではない。
だからこそ、年輪から正しい年代が分かったというのも炭素年代測定ありきで論じているわけでそこに盲点がある。
別に九州説を主張してこう言っているわけではない。あなたは俺が九州派だから反論をするのだろうと感じているが、先ほど書いたようにぶっちゃけどこでもいい。
別に近畿だから九州だからと言って俺は何も得をしない。近畿だったら俺は何も失わないし、何も得ない。
損得勘定なしに物事を考察するのは其れすなわち「公正」。
この世のすべての事象をすべて、頭の中だけで論理立てて組み立てていくと最終的には2択になる。其れすなわち「二元論」。AかBか。コンピュータではすべての計算は二元論で成り立っている。
しかし人間はコンピュータではなく生き物だ。最終的にたどり着くのは何を思うか。
法律という西洋式の二元論の社会システムもたどり着くのは「裁判」。
日本語では「どっちつかず」というけれども、まさにこの邪馬台国の議論もそうだろう。
俺はお前に「回りくどい言い方をしているが、中身がないと言った」
その中身とは何か。それはお前自身の「感情」だ。
俺は福岡という土地でいろいろな歴史文化、人とのふれあい、空気感。様々な体験を通じて、この九州という土地で古代の人々の想いを自分なりに感じ取った。
実際に農業も経験したし、前に書いていることも事実だ。
そしてそれは、福岡で育ったからなんてことではなく、公正な視点で考えコメントしたつもりだ。
あなたが近畿地方の人間かどうかは知らない。
ただ、本当にその土地のことを思うなら、損得感情なしに自分の経験したことを元に「公正」な意見で述べるべきだと思う。
あなたが裁判官で答えが出せないのならば、本当に信じるべきは「義」であって、人の意見ではない。
だから、本当にまっすぐな意見であれば俺は必ず受け入れる。
でも、もうこのブログには一切来ないから、レスしなくていいよ。 話に付き合ってくれてマジでありがとう。じゃあな。
※442
ウリナラファンタジーですね。妄想と捏造の歴史。
半島南部の前方後円墳の遺跡は日本より約2世紀遅れたもの。
「都合が悪いものは埋めてしまうニダ。チョッパリのものは
全部ウリたちのものが起源ニダ。騙される奴が悪いニダ。」
韓国では、政府は歴史的発見だけは大きく求めますが、実際の予算のほどが、産業にならない学問には雀の涙ていども付かないのが現状ですので、考古学発掘はまだまだ黎明前と言えます。
ですので、現状の古墳や水田遺構の古さのみで、「日本のほうが先」と断言するのは、それは発掘バイアスというものです。
韓国がさらなる経済発展を遂げれば、
その時には日本王朝の起源を揺るがす大発見が続出することも大いに考えられますので、どちらが先かと言う論争はそのときでいいでしょう。
今から結論を出している諸氏は、日韓を覆す新発見があったときに受け入れられず、「捏造ダ!」と意固地になるのは目に見えています。
なぜなら感情で「日本が兄」と決め付けてしまっているからです。
心をフラットに保ちましょう。
韓国が経済発展するまでは。経済でも日本が兄の時代はじき終わります
※472
>今から結論を出している諸氏は、日韓を覆す新発見があったときに受け入れられず、「捏造ダ!」と意固地になるのは目に見えています。
そういうのをウリナラファンタジーというのですよ。まだ見つかっていないのに空想物語で強がりを言う。だから日本人からバカにされる。そもそも「日本王朝の起源」などという段階で歴史ではなく政治の視点であり、半島での発見は未来永劫不可能。残念ながら半島では文化も文明も生まれず、ただの通り道に過ぎなかったというのが現在の発掘による事実です。
※413-414
※406、407、409の者だけど 408は別の人。
邪馬台国は魏か色々と貰っているから、一番良い物(大量に採れていなくても)を献上したと
考えた方がいいかも知れない。
「出真珠、青玉。其山有丹、」の有丹は単砂(辰砂)で、水銀と硫黄の化合物らしい。
奈良には大和水銀鉱山というのがある。硫黄温泉もある。
また、空海は吉野辺りで水銀を発見し、遣唐使の船に乗る為の資金を得たという話もあるらしい。
真珠は大阪湾でも獲れただろうから、近畿一帯での産出物とみることも可能。
「倭地溫暖 冬夏食生菜」は、前にも書いたが、気温が低かった江戸時代前期の料理物語では、生野菜を食べていた記述があるし、幕末の守貞万稿には、大阪の泉州でも砂糖が栽培されていた記述がある。
そもそも、魏から見れば日本全体が温暖に感じられるだろう。
※465
>「狗奴」の地名は上毛野(かみつけの)下毛野(しもつけの)として今でも残っている
この説を書いているサイトを見たけど、少し無理があるだろうと思う。
邪馬台国と狗奴が争った結果、狗奴が勝ち男の王になったが、また戦乱が始まり臺與が女王になった事で戦乱が収まったと解釈すると、狗奴と邪馬台国は一つに統合されている事になる。
↑は?全部ブーメランだぞ♪それらは皆お前らが言ってる事だろうが。鏡乙♪それとも燃料投下のつもりか?
※470さんが来ないのは残念だが…※319
畿内説につっこんだら九州説攻撃、畿内でも困らんで?俺は。雅な古都文化憧れます♪で、決まってるんでしょ?学会で。そちらでホルホルしてれば?コンナとこ来ずに。神武の故郷を認める度量?自分でいうか、度量を。身内じゃないのか?他人目線だな。俺達は共通の祖先を持つ日本人だろう?
で、燃料投下♪
1ナラカという場所だった事が気になる
2今の皇室はニセモノだと貶めたい
3畿内、九州ドチラモくさせて日本自体を貶めたい
4そちらに利権がある
まぁ、古い遺跡遺構が出たところで先住民のものだわな。
あ、でも邪馬台国は畿内だと思いばす♪偉いセンセや学会がユートッタ♪(゚∀゚)ワカリマス
※477と470は同一人物だろうな(笑)
確かに、畿内説に反論できなくて「凄く悔しい」というのが、どちらも文面に出ている。
※465
地名だけ見ればそうだからロマンはあるし気持ちもわかるけど、
あの時代の遺跡があの辺りでは見つかってないからね。
※468
真鍋大覚は約3500年前は福岡平野と筑紫平野が海の底で
大宰府を通じて博多湾と有明海が繋がっていたというから
そういう時代なら地形的に海だった可能性は高いけど
一方で鹿児島県出水市や薩摩川内市では標高10m以下の遺跡から縄文式土器が多数発見されたりして
つまりよくわからない
戦後の占領政策で歴史学会に左翼が入り歴史改竄
プレスコードで表現の自由も言論の自由も許さず
戦後72年を経過も閉ざされた言語空間変化せず
TV新聞も今やアルかニダが支配しオワコン状態
自虐史観に反するものは歴史修正主義として排除
ここ十数年の飛躍的な考古学の進歩にも拘らず
邪馬台国の物的証拠は無しも不毛な議論が続く
邪馬台国も卑弥呼も悪魔の証明状態で不可能
魏志倭人伝なるインチキ記述の指摘はネットのみか
ニダと言えば、
断定の【~(なの)だ】 【~ニダ】
疑問の【~(なの)か?】【~ニカ?】
で日本語・韓国語は奇妙な一致してるんだよね。文意を決める文末の最も大事な形態。こういう相似は他の言語では見られない。
ふだんネットじゃ当たり前にニダ~ニカ~?で煽って日本人同士で意味を教えられるまでもなく伝わってるけど、よく考えるとこれって凄いことだよね。
1800年前だともっと近かったんだろうなぁ。
通訳も要らないくらい?
関西弁だと
【〜(なん)や?】
【〜(なん)け?】
477と470、482~484
畿内説でほぼ決まったのが、めちゃくちゃ悔しいんだろうな(笑)
色々と※にボロが出ているのさえ、気づかないくらいに(笑)
関西弁だと
【~(なん)か?】だろ。
~か?の場面で~や?を使うことは出来ない。意味が全然違う。エセ関西人か?
※463
ごめん間違えて「?」付けてしまった
断定の方だからいらなかったね
大和政権の成り立ちに関しても謎が多いと言われてる。古事記そのものが神話と化した伝聞上の歴史記述。それ以前のものは考古学で現れた物証と伝説を付き合わせる作業で得た推論に過ぎない。
日本国内の墳墓の多くが宮内庁管理で調査も好き勝手には出来ない現状では、これ以上の進展は望めない。
もともと古代日本には九州に出雲に畿内に東北にとそれなりの大型地方文化圏が乱立していたと思われる。出雲大社の元の外観は大和朝廷の様な今の地上の平造り様式ではなくて、遺跡調査によると巨大な何本もの柱に支えられた階段状の社(やしろ)・神殿が聳え立つものだったらしい。
出雲と大和は明らかに独立した別のルーツから生まれた文化圏。
畿内と九州の歴史解釈上の混乱も、元々が別の大型地方文化圏として並立的に存在してた可能性が高い。
中国への朝貢の折、それぞれが外交戦略として倭国代表の使者を送りそして名乗っていた、とも考えられる。
訂正
×※463
○※486
473> おまえ、キムチ臭いわ。韓国で発見された前方後円墳、どうなったか教えてくれ?。
473> わずか100年前の日韓併合の歴史すら、ウリナラ捏造する朝鮮民族が考古学を語るとはねー。
福岡でも自分のDNAに半島の血が入っている事に気づかない奴が多いんだろう
※488
縄文時代、日本各地に色んな集落ができていたし、ルーツもそれぞれって事は皆知っている事だよ。
ただ、北九州からは畿内式の土器も出ているし、畿内からも日本各地の土器が出ている。
また黒曜石などからも日本各地で交流があった事が分かっている。
纏向からは、伊勢神宮式と出雲大社式の別々の建築様式の建物跡が整列して建てられていた事も
分かった。これについては日本書紀や古事記の国譲り神話を裏付ける証拠の一つ。
まち、新唐書には倭人が蝦夷を連れてきた事も記述されている。
※488
で、邪馬台国九州説が濃厚となる証拠が出ない限り、単なる願望にすぎないぞ。
※483
中国の語尾はどうなんだろうね?
「〜アル」はさすがにちがうよね
※495
あと九州弁もどうなんだろうね
>481
ありがとうございます。
縄文海進は4~6メートル程度の海水面の上昇(ソースなし)らしいので、海抜10メートル以下ならまだ陸上かもしれません。ただ、波打ち際すぐですよね。
ただ、縄文時代といっても長いので、縄文海進がどの時期なのかも抑えないとはっきりしたことは言えないのでしょうけれど。九州南部だと縄文遺跡は喜界カルデラの破局噴火の前でしょうし。
>481
497への自己レス
縄文時代はざっくりで約1万5,000年前から約2,300年前
縄文海進は約7000年前から始まりピークは約6,500年前-約6,000年前
喜界カルデラの破局噴火は7300年前
なので、九州南部の縄文遺跡はおそらく縄文海進より前ですね
英語に語尾がないように、中国語にも決まった語尾はない。
文の最後で肯定・疑問・自制・仮定などが一気に定まるのは日本語と韓国語の特徴だ。あと敬語や話者の属性など諸々。
お♪マダマダいけるな。※743なんだが※740だけは勘弁してくれ。あれは挑戦人だろう。No!
それと9州在住って言ってた人は最後は和解的に退場したじゃん。俺9州じゃねーし、農業したこともない。だから関する知識もない。俺はもっと話を聞きたかっただけ。例上げして迷惑かけてしまったか…。
畿内で悔しい?全~然。俺は他の説が面白いから来てるの。畿内説おもんないから。※でトルコ、アナトリアから台湾まで非常に興味深い話あったろ?まぁイスラエル云々はどうかと思うが、そういうのも期待する訳。
俺の気持ちの忖度は意味はない。で、忖度希望で敢えて言うが、アメリカで云えばインディアン政権時の首都?を何処だ此処だといってる様な議論だろ?←テキトウ、比喩デス。燃料投下、ヨシ。
※475
>料理物語では、生野菜を食べていた記述がある
具体的になんて書いてあるの?
砂糖の話よりそっちが重要
※470
横だけど、
石鍬というものが存在した事実に関して、どう思う?(>453)
自らの経験に基づく感覚は、理解の助けにも妨げにもなる
経験を買い被っちゃいけない
時代区分云々は一理ある
煽り合いも去られるのも見ていて惜しい
戻ってほしいな
西日本で2番目にお酒に強い沖縄県人
※499
中国語 語尾
でググったら何かあるっぽいけど
倭人伝の記述を和弓と断定するには
当時の台湾や沖縄の弓を確認する必要がある
和弓の上長下短の形って何か理由があってそうなったのかな?
ぜんぜん根拠といえるようなものではないんだが、
複数人が詰めて乗る肩幅しかないような細長い小舟(カヌー)同士が戦う場合、
兵は立たずに弓を射ることになるだろう
矢を遠くに飛ばせる方が有利で、材質が同じなら弓は大きい方がいい
しかし詰めて座って射るので、大きくしようとするなら上に伸ばすほかない
それで上長になった 理屈としては成り立つ
小舟(カヌー)同士が戦う イメージに過ぎないが
沖縄ならばそういう海戦が沢山起こり得たはず
沖縄で発展した弓が倭に伝わった可能性はあるかもしれない
大昔の沖縄の弓がどんなだったか結構に気になるところ
現代農法なんて、例え手作業重視のレクリエーションであっても古代とは単位収量のケタが違うからな
経験が認識を誤らせる典型だろう
ロクすっぽ土を耕さず、表面水を張るだけで種撒いても低い収量なら上げられる。人が少なく土地があり余ってる時代なら面積あたりの効率は重要でないので、むしろ労働力こそを効率よく配分するために手間のかかる耕うんはしないor少量という戦略も考えられる
社会限界を縛っているファクターが違うということなんだな
※490
お前が言え、このキムチ野郎
死ぬまでウリナラファンタジー言ってろw
1万2千年前から約7千年前まで半島は無人
半島の下半分は大和民族が住んでたんだよ
朝鮮には文化も文明もなかったんだね
7300年前の鬼界カルデラの噴火で日本人が移住
半島にもあった縄文文化ってやつw
偽書倭人伝の記述
気候は海南島と同じ
1年中生野菜を食べ裸足
畿内説って小氷河期に有り得ないんだが…
大丈夫ですか?
※508
新参か?上から読んでおいで
北海道の東大雪(紋別郡白滝町)の奥地には黒曜石の古い採掘、加工跡の古代遺跡がある。ここから掘り出された黒曜石の石器は日本全土に運ばれている。古代日本でもかなり広範囲の交易があった証拠だね。
505 > 和弓の上長下短の形って何か理由があってそうなったのかな?
★現在の日本の倭弓の形は平安期の騎馬武者の戦闘様式からの必然だと聞いたのだが・・違うのかね?。
492 >
古代朝鮮と今の韓国土人は人種的には別ものでしょ。
韓国人直系のご先祖様は朝鮮エベンキ。そのルーツはアリラン民謡の言葉が残るシベリアエベンキ。
古代朝鮮と倭国(古代日本)中国(漢民族)との血の相互交流はあったと思えるが、今の腐った血の朝鮮族とは日韓併合時代から戦後の混乱期に乗じて日本に侵入した密入国者の群れ以外、それまでの日本人との血の交流はほぼ無い。
>510
神津島の黒曜石ばかり話題に出してきましたが、北海道の白滝村(東大雪)や信州の和田峠のものも、広範囲で流通しています。おもしろいのは、黒曜石というのが、どこでも採れるとまではいきませんが、結構いろいろなところで採れるにもかかわらず、広域流通している産地は限られる点です。つまり近場のそこそこのものより、遠くから運んでまで質のよいものを使いたいというこだわりがあったようなのです。
こういうことを知ると、日本人は縄文時代から日本人だったのだなと、個人的には感じます。
>>512
そんなそっくり入れ替わるわけないだろ
というかエベンキも古代朝鮮人も同じ北アジア人として大して変わらんだろ
違うというなら証拠だせ
和弓については飛び道具の記事でも言及あったろ。
コメントするならせめてサイトの記事読めよ。
尚敬王の時代の弓の記録はあるな。
日本と運用が違う。
もし、昔から使ってたら形は似てても別もんだな。
※505
沖縄には櫂術あるだろ。
古墳時代には3mを越すものもあったのか。
和弓って昔から独特だったみたいだな。
だからこそ魏志倭人伝に書かれたんだな。
≫512
遺伝子を調べるとエベンキの民族と南方原住民が半々だぞ。
>>513
三内丸山遺跡も栗の栽培をして輸出してたんだぜ。
しかもその栗も年代を経ると遺伝子がまとまってくる。
身が大きく、病気に強く、美味しい木だけ選んで代々植えてったようだ。
環境の変化で滅んだけど、日本人は昔から品種改良と栽培が好きだったようだ。
神津恭介の説が一番美しい
末盧国は松浦=唐津だろ
日本最古の水田跡がある菜畑遺跡もあるし
佐世保に人が住みだしたのは明治になってからだっての
>>521
急性肝炎にならないといけないということですね
※521
魏志・倭人伝の重要部分には,いっさい改訂を加えないこと,古い地名を持ち出して,原文の地名や国名をあてはめないことという二つのタブーを設定して,邪馬台国の場所を推理するから邪馬台国=大和、邪馬台国の場所だけ南=東の畿内説を否定してる。
さらに当時の海岸線を想定してるから内陸の纏向遺跡が都である畿内説に不利。
また、投馬国が瀬戸内海に面してないし、狗奴国が愛知や栃木にないから不採用。
畿内説を前提にしていない推理に何の意味もない。
>いっさい改訂を加えないこと
じゃあ沖縄の海の底になりますけど
九州説もアウト
>原文の地名や国名をあてはめないこと
途中の国も全部ダメになりますけど
前者はともかくこっちは良いだろ。畿内説の方が優れてるってことだわなw
>内陸の纏向遺跡
当時の大阪は海だらけだったから、奈良は言うほど内陸じゃないよ
>狗奴国が愛知や栃木にないから不採用
愛知と静岡にあるから採用
はい、論破
>>525
小説なんだけど…
もしかしてラノベしか読んだことないのかな?
※525
畿内説のお前が論破してどうするんだよ
あと狗奴国は北関東だから
其地無牛馬虎豹羊鵲
と書かれてるのにどうやって陸で1ヶ月も下賜品を運んだんだ?
生口かな?そうだとしたらその食料はどうしたんだろう。
魏の使節団は何人で行ったのか?間に国がないのに。
謎は尽きぬ。
>525
>当時の大阪は海だらけだったから、奈良は言うほど内陸じゃないよ
それだと日数が合わなくなるんだよ
アンチ畿内説は黙ってろ
※526
は?この小説を読んだことない=ラノベしか読んだことないになるの?いみふ
※527
だから畿内説を前提としてない推理を論破しただけだよ
あと北関東に当時の遺跡は無いから
※529
俺は畿内説なんだけど
※175を見るに、狗奴国(毛野、鬼怒、久努)は関東平野から静岡あたりまで勢力範囲だったと思われる
※531
おまえ175信じてるのか?
※530
小説だと知らなかったからって怒るなよ
>>530
奈良=邪馬台国だから、その先から北関東に狗奴国の勢力がないと
又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
これが関東になっちゃうんだよ、おかしいだろ?
畿内説なら当然、北関東=狗奴国と遺跡が出てなかろうが決まりなんだよ
※533
神津恭介ってググって小説だとわかってましたけど
畿内説否定されたと勘違いして怒ってるのはお前だろ
※534
??kwsk
愛知狗奴国と静岡狗奴国があるの?
なぁんだ ※15 で結論がでてるよ。
魏の都の工房後からは漢式鏡の型しか出土してないから、ヒミコがもらった鏡はそれだ。
そして、日本でその漢式鏡が圧倒的に大量出土するのは福岡近辺の北九州!
倭人は正歳を知らずに春耕秋収を持って年数を数えると書かれているのに、なんで神武東征が紀元前7世紀になるんだ? 頭可笑しいよ、安本美典のいう2世紀中頃の方が信じられるな。
だいたい、弥生時代の矢ジリは畿内はほとんど石器なのに、九州では鉄の矢ジリが豊富に見つかるんだ。つまり、使い捨てじゃない剣鉾も鉄器の九州系の鵜がや(近畿天皇家の苗字)一族という豪族が、迂回して隙をついて攻め込んだとは言え、少数でも奈良盆地を制圧出来たんだな。
原文で邪馬台国とされる記述
南至邪馬壹國 女王之所都
邪馬「台」国とは記されてない
ヤマタイ(ヤマト)と呼ばれてなかった説まである
音読み イチ 呉音
イツ 漢音
訓読み ひと(つ)
意味 ひとつ。一。数の名。
すべて。もっぱら。まったく。ひとえに。
ひとたび。一度。
契約書などの文書で、書き換えを防ぐために「一」の代わりに用いる大字。
調べれば調べるほど謎が出てきて楽しいな
宮崎県の西都市に3世紀半ばの帆立貝形古墳あるんだね
こっちのほうが前方後円墳のモデルじゃない?
女王国じゃないのかな?
まあ九州かな
畿内だと狗奴国はどこにあんのって話になるし、畿内在住が北九州を抑えるのは難しい
卑弥呼以前に王が男だと争いまくり、卑弥呼死後もすぐバトルするような国だぞ
南九州でシャーマンが王様役やってなんとか邪馬台国連合を保っていたんだろ
>531
魏志倭人伝の最古の「写本」に邪馬壹國とあることをもって、これはヤメイと読んで八女市周辺だっていう人もいますが、魏志倭人伝以外の史書では軒並み邪馬臺國となっています。文献はより古いものを重視するというのは、文献史学の基本ですが、そもそも現存の魏志も「写本」な訳ですし、本来は邪馬臺國だったのだろうというのが大勢の見方です。
九州派はせめて邪馬台国は山門なのか日向なのかぐらいハッキリしてくれ・・・
時と場合でどっちも使い分けるから聞いててイミフ
「とにかく九州なら、神武東征が事実ならなんでもいい!」感が出ててなんだかねぇ
そらプロの世界では少数派なわけだわ
3世紀以降に九州王権が畿内に移ったなら当然発掘されるはずの明確な状況証拠(土器・武具・墳墓の定向遷移)がまったく見られない
それどころか、日本各地の在地文化が卑弥呼以降に近畿文化を中心として緩やかに統合されていったように見られるから
考古学的には邪馬台国=畿内説が圧倒的に勝ってる
記紀神話だけ読んで九州に飛びつくのがシロウトでは圧倒的に多いからいつまでも荒れる要因なんだろな
もう別々に考えているのが間違っているよね
30国くらいの連合国だったのだから、畿内派が治めることもあれば九州派が治める事もあったが普通じゃねぇの
※537
・三角縁神獣鏡。九州説サイドの反論への反論もwiki載ってる。
・記紀を根拠にしながら、都合の悪いところは記紀に書いてある通りに読まない東遷説のほうが頭おかしい。14代仲哀天皇の后が晋に朝貢したって書いてあるわけだから、初代神武はこの時代よりもっと前の話。
・近江や淡路に鉄器工房があるんで普通に畿内勢力も鉄器を持ってたことは確実。古墳が天皇陵に指定されてるから発見しにくいだけ。
※536
邪馬台国が畿内であれば南は東だから、畿内の東に狗奴国がある。よって、愛知から静岡にあるあの時代の遺跡が狗奴国だと推測される。どちらかはわからない。
※528 其地無牛馬虎豹羊鵲 と書かれてるのにどうやって陸で1ヶ月も下賜品を運んだんだ?
馬の化石は岐阜県、長野県など第三紀の地層から出土している 骨は愛知県高倉貝塚や鹿児島県出水貝塚から出土している(林田重幸著 日本在来馬の系統) 縄文時代から飼っていたらしい
狗奴国と奴国の間までが女王国。
つまり愛知から北九州までが邪馬台国(奈良)を中心とした連合国家。
使者が見た北九州は牛馬がいなかっただけで、倭国や女王国全てがそうだったわけではない。
上の方によると畿内説は畿内説を前提にしてこじつけないといけないみたいだから
やっぱり違うんだろうな・・・
九州説の方がコジツケが多いんで
距離
九州× 畿内○
方角
九州○ 畿内×
地名
九州× 畿内○
畿内の勝ち
九州説がサンドバックで息してない
※501
料理物語では、生野菜を食べていた記述がある 具体的になんて書いてあるの?
1643年刊の料理物語の主に第七青物之部に書かれてあるのは「さしみ」=「生」の事で、
たんぽぽ、夕顔(干瓢)、ボタン、クチナシなどの花。シチャ、川チシャ、なすび、ねぎ、
あさつき、などが挙げられているが、「さしみ」で、まとめと書いてあるわけではない。
例 〔ちしゃ〕汁、さしみ、和え物 〔あさつき〕なます、さしみ といった具合に
食材名を題して、それに合う料理が順に書かれてある。
畿内説を前提にしないコメントに価値はない。
奈良で発掘されないものは近隣で出土したもので補えばいい
邪馬台国は奈良であり、魏志に載ってる邪馬壹は別かもしれないが、もはや畿内なのだから、魏志倭人伝は無視してよい。
畿内の風習と違っている倭人伝の記述は九州であり、邪馬台国は倭人伝に書かれていないのだから、必然的に邪馬台国は畿内になる。
東征も邪馬壹を邪馬台国にするための神話であり、九州の神話を取り入れた記紀は邪馬台国と無関係。
狗奴国も畿内以東では確たる遺跡はないが、魏志倭人伝は邪馬壹の話なので畿内説には関係ない。
三角縁神獣鏡も邪馬壹から奪ったものを元に畿内でコピーしたものだから、中国にない年代と韻を踏んでない文章をつけた。
このことからも邪馬壹と邪馬台国は別であり、邪馬台国が畿内だということを表している。
つづき、第十一指身之部に料理方法が書かれてあるが、主に鶏・魚・獣肉類で、その調理方法が書かれてある。湯引きのようなのものは「白めてよし」と書かれてある。
野菜では〔川ちしゃ〕よめがはぎ、あさつき、又は菊の花、シャクヤクの類はいずれも酢味噌にてよし
とある。つまり、湯をかけたりもしておらず、生で食べた事が分かる。
※554
畿内説を否定したいがための工作か?(笑)
※547
青玉=サファイアの産出は岐阜にもあるから、邪馬台国=奈良だとすると、岐阜あたりと交流があり、邪馬台国がサファイアと馬を入手していた可能性があるだろうな。
※551
距離で畿内って何をどう読んだの?
558
お前がコメントしてるブログのエントリを最初から読んでみなさい
※554読んで畿内は絶対ないなって思いました
これで半分くらい候補が減ったかな
めでたい
557
纒向から出てくる土器の中で東海地方が一番多い
560
精神勝利おめでとう(棒
馬がうまれたのは紀元前4000年のウクライナ
縄文時代の日本に居たってもそれは半島から船で北九州にやってきたルート以外考えられないので、長野だなんだに拘る意味はない
日本に居たなら九州にも当然いるし
倭人伝に居ないって書かれてたってことは超少なかったんだろうな。少なくとも組織的労働力として使われてたとは思われない
名前つながりで氷見
※551
地名は奈良付近の地名は九州と被ってるという有名な話が有るだろ
いや魏志倭人伝に載ってる地名と被ってないと
※566
邪馬台国=大和
これだけあれば証拠になる。
単なる大倭の当て字だが纒向遺跡=邪馬台国の証拠。
畿内説の否定は意味がない。
魏志倭人伝には、鉄の鏃が出てくるが、纒向遺跡周辺を始め、奈良県では出土しない。
儀礼用の木の鏃と見間違えたはず。
狗奴国と戦争していたとされるが、愛知、静岡、北関東と纒向が戦争した後はない。
張政の出番などあるはずがない。
これが魏の使節が邪馬台国までたどり着かなかった確かな証拠であり、旅程が間違っている証拠である。
北九州の倭国大乱を見て、邪馬台国と狗奴国が争っているに違いないと思い込み卑弥呼の話術に騙され、下賜品と金印を授けた。
在野の研究者がネットにあげていた文章なので、信憑性はその程度のものなのですが面白いと思った話に、247(8?)年に卑弥呼死すと書かれているのは台与の死だ、というものがあります。
そうでないと、卑弥呼の年齢が70歳くらいになるそうで、ちょっと長生きし過ぎな気もしていたので、そんなこともあるかなと思いました。
狗奴国との争いの中で卑弥呼が死んで、男王を立てたが国中服さず、宗女台与を立てておさまったのは247年よりもだいぶ前のことになる訳です。
平均寿命が短い時代は、乳幼児死亡率が高いため平均が短くなるだけで、育って大人になった人はそれなりに長生きなのは分かっています。
魏志倭人伝では卑弥呼が共立されて時期は書かれていませんが、後漢書や梁書では、「桓・靈閒 倭國大亂」「靈帝光和中 倭國亂」と書かれていて、その後に共立されるので、遅くて西暦200年前後になります。その時点で年已長大で、最初の遣使が239年、没年が247年だとすると、共立時に20歳でも67歳、長大というのをもう少し年上に考えると70歳を超えます。
まあ、この辺は想像するしかないですが、卑弥呼の事跡が卑弥呼+台与の二人分というのはありそうな気もします。
中国史でも日本史でも倭国と大和国を混同してる?。
倭国は北九州一帯の勢力圏。
大和国は畿内一円の勢力圏。
こう捉えれば理解しやすいのかも。
魏志倭人伝の時代、そもそも日本は中央集権的な統一国家だったのか?。
むしろゆるやかな連合国家群が日本全国にひしめき合ってたのではないか?。
古事記以前の神話、伝承物語に描かれている日本の情景はそのように見える。
>539
西都原古墳群は長期に渡って比較的大きな古墳の造営が続く古墳群ですが、古墳群中最大の古墳が作られるのは、大仙陵古墳が作られる頃です。その頃に日向の髪長姫が仁徳の妃になったという日本書紀の記述があり、大和を超える勢力には見えません。各時期の古墳も同時期の近畿の古墳より規模が小さいですし。
宮崎に円墳に近い前方後円墳みたいな古墳がある→奈良に突然巨大な前方後円墳が現れる。
東征の証拠じゃないですか…。
神武東征記事の、日下まで船で行ったなどを見ると、縄文海進の名残のある時期の物語のように見えます。
欠史八代以前は歴史ではないというのが、歴史学者の立場ですので、この辺は在野の研究者しか言及していないのですが、古系図の研究者によると、系図の残る豪族との世代対応を見ていくと、神武から欠史八代の存在を否定する必要はなく、ただ直系の父子相続ではないそうです。神武から10代の崇神まで、世代で五世代とすると各豪族の世代と整合性が取れるのだそうです。
記紀の記述に従って、纒向(記紀では磯城ですが)の王が崇神だとすると、神武東征はその五世代前、一世代25年とすると125年くらい前になります。倭国大乱よりも昔になりますね。
この辺りは、思考のお遊びみたいなものですが、ご参考まで。
※511
>倭弓の形は平安期の騎馬武者の戦闘様式からの必然
違うと思うよ
弓矢を射る真似をしてみれば分かると思うが、騎上では
利き手側に矢を放つ事ができない
騎上で弓は正面から左側だけで使う物(右利きの場合)
馬の反対側に移動させる事がないし
正面を射るときは少し傾ければいいだけ
弓が下に長くとも困ることがない
上長下短になったのは騎乗が原因ではないはず
※516
少なくとも19世紀の沖縄の弓は上長下短だったのね ありがとう
日本(本土)にも大昔から完成された和弓や弓道があったわけじゃない
弓の形が似ているならルーツが共通してる可能性があるな
現状、倭人伝の上長下短の弓の記述が和弓とは断定できない
※518
弓矢はドローイングの幅も重要
弓が3mもあっても人が引ける幅は変わらないので威力は大して出ないと思う
実用的でないから祭器の類あるいは上下対称で横向きに複数人で使う軍器では
※522
同意
唐津は中国との交易地についた唐以降の名称だと思う
※553,555
「さしみ」が生とは限らないよ?
調べてみると同書の指身の部に
「雉子 丸煮してむしり山椒みそすよし
にハとり これもきじのごとくつかまつり候」などと書かれてる
一口大に切って味付けしないでタレの類につけて食べる
これが刺身の定義のよう
読むかぎり生で食べる物のほうが少ない
その「川ちしゃ」以下の5種のうち冬に食べるのはあさつきだけ
根拠として弱くない?
そもそもこれも当時の沖縄・台湾の食文化についても調べない事には
何処と特定できない問題
>>576
邪馬台国は畿内だから台湾と沖縄を調べる意味はない
>>576
邪馬台国は畿内だから台湾と沖縄を調べる意味はない
種禾稻紵麻
とあるからカラムシで弦を作ったようだな
>574
東アジアでその形の弓を使うのは日本だけなのに倭人がどこか特定できないっておかしくない?
もし捏造するなら自分たちと同じ形にする
弓の下側を持つなんて想像できないだろう
※577
明らかに畿内と一致しない情報があるじゃないか
一部の一致だけを見ても意味が無い
全体の性質を明らかにする事が、読み解く事に繋がるんだよ
※569
原文読もうぜ
其人寿考 或百年或八九十年
って書いてあるじゃん
※581
調べてみたら沖縄も使ってたようじゃないか
いつからか知らないが
※581
捏造?
捏造じゃない 混同だよ 上の方読み返してくれ
>581
おいおい李氏朝鮮が1402年に作った混一疆理歴代国都之図は知ってんだろ?
これに日本列島が書かれてるんだよ。
そして中国の地図のものより正確な形をしていて、向きが90度回転してる
この地図によれば畿内に「至る」
ただしこの地図の元になったものから書かれたほかの地図は全て正しい向きをしているから他の地図は畿内説と違うので無視していい
そもそも当時の人間の皮膚も食事も残ってないのに何が沖縄や台湾だよ
台湾は一度煬帝に滅ぼされてるし、今住んでる先住民(本当は原住民と書いたほうが現地の人たちの漢字から受ける印象は良いが日本語なので先住民とする。先住民だとまさに滅んだ後の意味になってしまうので現地では使わないように)とは遺伝子のグループが違う。イメージ的に倭人と同じと思っている人も多いがそれは台湾先住民を無意識、あるいは意識的に下(野蛮人)に見ている差別意識からきている。
沖縄と倭人を同一視している人もいるが、明治まで少なくとも中国と日本では沖縄は日本とは別に扱われていた。むしろ今同じ日本国家だから先祖も一緒ではないかと思いがちだが、文化も言葉も風習もまるで違う。弥生時代以前から交流があったことは間違いないが、未だに奄美と沖縄と南九州を一からげに扱うのはいかがなものか。薩摩藩が琉球の武装解除したというのもイメージ、実際は銃の所持を禁止しただけ。そうじゃなければ釵術もティンベーも残らんわ。
日本書紀のほうがよっぽど沖縄の人を対等に見てるね。
南国で生のまま食べるほうがよっぽど危ない
>>584
畿内と違う情報は全て伝聞
畿内と合致する情報のみを拾っていけば正しい情報に行き着く
>585
邪馬台国は2~3世紀頃の国なのに、どうして1400年代の書物を参考にするんですか
日本書紀より後の書物で信憑性はありますか
魏は倭を遍く見て畿内にある邪馬台国が倭で一番大きい国だとして国王としたにもかかわらず
「其餘旁國遠絶 不可得詳」と書いてあるからおかしい。
兵を連れてこず張政が魏を持ち出しただけで狗奴国が停戦に応じるのもおかしい
畿内の邪馬台国のすぐ傍の狗奴国は愛知から静岡を経て北関東まで有する巨大国家であり、ここからは中国のものが出土していないにもかかわらず中国の魏の使節から停戦命令を出されても従ういわれはないはずである。
つまり中国のものが日本製(邪馬台国特産のコピー製品)の銅鏡以外出土しない地域にも魏の正確な権威が届いていたことになり魏志倭人伝はおかしい
後漢の時代から交易があり金印を授けられていた奴国がある九州ではないのだから魏と交渉する必要は邪馬台国以東の倭人には全くない
このことからも魏が近畿地方にあり、しかも倭国最大の国であり、石器を用い、鉄器勢力をも凌駕し、一人の戦死者すら発掘されない最強国家邪馬台国に権威を貸す必要など全くない
さらに纏向遺跡周辺と愛知、静岡、北関東の遺跡は戦争をしていない
このこともさらに魏志倭人伝の記述と違いが出てしまう。
圧倒的強者である奈良=大和=大倭=邪馬台国は戦争をする必要がないのである。
戦乱が続いたりそれを収めるために女王を立てたり、魏の使節を迎え入れる必要は畿内の邪馬台国にはない
狗奴国1つとっても畿内説という歴史的事実の前に魏志倭人伝の不合理さが透けて見えるのである
※588
畿内説に沿ってる日本列島の配置だからだよw
畿内説が出るずっと前に存在してたこの地図の存在が全てを物語っている
>588
古い新しいじゃなくて補完してるんだよなぁ
581じゃない
580
九州説が息してないな
>582
569ですが、魏志倭人伝に限らず漢書も後漢書も晋書も梁書も、原文に目を通してますよ。
魏志倭人伝に書いてあるからといって、80・90歳とか100歳とか医者もいない弥生時代に、現実にあるはずがないでしょう?
私は日本の古代は春秋年だったという説を支持していますので、40~50が寿命と言われれば、まあそうかなと思います。それと比べて、暦年(春秋年ではなく)で70超の年齢というのは難しいだろうということです。
ちなみに、縄文時代の推定平均余命は、遺跡(墓)から出る人骨の推定年齢(15歳以上に限る)から15歳時点で15~16年、足して30歳前後が育った人の平均寿命と見積もられています。15歳以下の人骨の出土が少ないので平均寿命(出生時の平均余命)は、計算できませんが借り物として18世紀のヨーロッパの15歳までの死亡率を入れて計算すると、平均寿命は15歳くらいになってしまうそうです。
弥生時代の平均寿命は、ざっくりで30歳くらい。江戸時代で40歳手前くらいです。秀吉より長生きすることで天下を取ったと言われる徳川家康でも、75歳で死んでいます。
卑弥呼が70を超える長寿(暦年で)だったというのが、信じがたいという感覚はお分かりいただけたでしょうか?
>589を読んで、狗奴国が、毛野国だと納得が行きました。
これまで、毛野国が上毛野、下毛野の領域だと思っていたので、離れすぎているしめぼしい遺跡もないしと思っていたのですが、邪馬台国連合(倭国)に属さない領域の太平洋側全体を毛野と呼んでいたのでしょう。それを音で聞いた中国の人が狗奴の字を当てた。日本語でも毛野と書いて、読みは「けぬ」ですからね。ざっくりで、後にヤマトタケルが征伐した領域全体が毛野国(狗奴国)でよいように思います。
統治の届かない土地は一括して一つの国名で呼ばれるのは、日本海側の「越」「出羽」、関東まで朝廷の支配が届いた以降の東北の陸奥の例があり、それと同列で考えれば、大和の国の東側で邪馬台国に属さないところを一括して毛野(狗奴)国と呼んだというのは、ありうる話だと思います。そして毛野国全体を治める王ではなく、毛野国の大和国に近いところにいた王が卑弥弓呼なのでしょう。
日本の氏族名は、地名で呼ばれることが多いので、豊城入彦命が毛野に入って上毛野氏になった。一方で尾張の国は、尾張氏が入ることで元の毛野国から分離して尾張の国と呼ばれるようになったのでしょう。尾張氏の氏族名は、もともと大和の葛城の高尾張にいたためのようです。
※589
>日本製(邪馬台国特産のコピー製品)の銅鏡以外出土しない
あれは中国製だってわかってるよ。情報が古いw
>石器を用い、鉄器勢力をも凌駕し
畿内勢力にも鉄器があったことは発覚してます。残念だったね九州説くん。
※576
ちゃんと読めよ、全ての指身=とは言っていない。『青物の部』では、書いてあるだろう。
『第七青物之部に書かれてあるのは「さしみ」=「生」の事』
そもそも日本原産とされる野菜は三つ葉・フキ・みょうが・ワサビ・セリなど20種類程度とされる。
江戸時代には色々な野菜の種類が増えたが、料理物語に全ての野菜が書かれているわけではない。
料理物語は料理書だから、調理するものを主として書かれているんだよ。
江戸時代以前から、ブドウや柿・スイカなどのフルーツは生で食べていたものだが、料理物語には記述がないだろ。
野菜をそのまま生で味噌をつけて食べるなんて事は初歩の事だから料理の範疇には入らない。
特筆する必要なんてないんだよ。
これくらい理解できるか?
ぶっちゃけ何時の時代も富裕層・支配層ってのは同じようなレベルの暮らししてるから、
75くらい生きても全然おかしくないよ
未経産の女性ならなおさら
外部と隔離されてたなら富裕層にとって一番怖い伝染病のリスクも大幅に減るしね
検疫隔離こそが前近代でとりえた最良の医術
その他は薬草まじないの域から数千年間脱してない
「狗奴国が魏の権威でもって邪馬台国に下った」ってのは当然ながら「正史」としての誇張表現だろ
国司元相 100歳
平賀元相 98歳
小梁川宗朝 96歳
北条幻庵 96歳
三好政勝 95歳
沖縄・台湾説は基本的に論外なのだが、この説を推したい人は、その後の歴史にどう繋がっていったか
複数の客観的証拠を出して説明できないとダメだぞ。
>598,600
王侯貴族や富裕層はいつの時代でも長生きというのは承知していますが、限度ってものがあります。
600で挙げられている例は軒並み戦国時代~安土桃山時代ですが、江戸以降で匹敵する長寿を多く挙げられるでしょうか?
戦国時代は戦乱の中記録も散逸しがちでしょうし、家督争いもあり複数の人物が一人とされている例も多いでしょう。北条幻庵のWikiにも以下のような記述があります。
最期と年齢に関して[編集]
天正17年(1589年)11月1日に死去。享年97という驚異的な長寿だった。ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。その根拠として、大永3年(1522年)に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。一説に文亀元年(1501年)生まれという説がある。また、没年に関しても現在では疑問視されており、天正12年(1584年)、天正13年(1585年)などの説がある[7]。いずれにせよ当時としては長寿な部類の人物であった。
私自身詳しくないですし調べる方法もないので、すべて当てにならないという気はありませんが、それほど信頼できるというものでもないと思います。それと、戦国時代と弥生時代で同じくらいというのもさすがに難しいと思います。
>601
私が台湾・沖縄に言及するのは、魏志倭人伝を書いた側にその辺まで倭人という認識があって、台湾・沖縄の風物が、魏志倭人伝に混入しているのではないかと考えるからです。
魏志倭人伝の倭人の習俗に南方要素が色濃いから近畿というより九州だろうという論立てに、どれだけ妥当性があるのかを考えたい、ということです。
>>602
はじめに戦国時代・家康の例をあげたのは君だろ…というかもうどっちでも良いんじゃない邪馬台国の場所には関係ないでしょ
家康の数え75でも相当な長寿、それ以上の長寿は疑わしい。家康の生涯は研究、検証が進んでいるが、挙げられている人物程度では、資料も少なく検証も難しい。戦国から江戸期の人物でも75が珍しいレベルなのに弥生期末で家康と同等というのは疑問、ということです。
卑弥呼の没年齢の話は、邪馬台国の位置論争に直接は係わりませんが、魏志倭人伝の程度(信憑性)や卑弥呼および台与の共立の意味、時期に係わってきます。
女王卑弥呼を護衛する伊都國に郡使が駐在していた
ことから邪馬台国は伊都国とそう遠くない場所に
あったのではないか?
伊都国から1か月も掛かる所にいる卑弥呼をどうやって
郡使が救援できるのか?
奈良の都はナガスネヒコの統括するところで青銅器を生産していた。
大和時代になって地中から青銅器が発掘されたとき
当時の大和人はそれが何物か分からなかったといわれている。
資料なんて似たようなもんだろう
家康なんぞ生まれた時にはもと田舎豪族にすぎないんだし
伊都国のすぐ近くにあったのは「女王国」。
つまり女王連合(JU)加盟国圏。
その盟主的存在「邪馬台」までは距離があったというだけの話。
衣食足りて、労役もせず、あとは綺麗な上水を確保できれば死の原因が思いつかんだろ
感染症ぐらいしか
平均余命はあくまで平均であって
弥生の人間に50前後で何らかのリミットイベントがあった訳ではない
同時代の人がいいなら
孫権(182-252) 70歳
張昭(156-236) 80歳
顧雍(168-243) 75歳
司馬懿(179-251) 72歳
賈ク(147-223) 76歳
程イク(141-220) 79歳
鍾ヨウ(151-230) 79歳
など
地域が違うけどね
女性は記録が少ないけど男よりだいぶ長いだろうしな
出産がハイリスクだけど
「子を産まなくていい女」ってはあの時代ある意味最高の待遇よな。皇女も多くは生涯未婚で神社か寺にぶちこまれてたんだっけ
605です。
少し離れている間に多くのレスをありがとうございます。一応家康の松平家は、三河半国とはいえ国持ち大名ですし、家康が織田家に人質に出されていたように、人質のやり取りが必要な程度の家ではあります。信長公記などでも足跡が追えますし、出自も分からぬ田舎侍ということはないです。
まあ、私もこの件にそれほどのこだわりがあるわけではないので、反論がしたいということではありません。ただ、弥生時代末に「70過ぎまで女王位にいた卑弥呼」というのが、しっくり来ないだけです。
魏志倭人伝では「其人寿考 或百年或八九十年(おそらく春秋年)」と書かれていますし。
70まで生きる人が当時絶無ということはないと思いますが、大勢の中のごく少数でしょうし、女王その人がその数少ない長寿者になるかというと、やはり疑問に感じます(個人の感想ですので、これで終わりにします)
>611
皇女の多くが未婚を強いられたのは、嫁ぎ先がなかったからという点も大きいように思います。
相手が皇族でなければ釣り合わない、という感覚が強かったのではないでしょうか。
邪馬台国全然わかんないけど
このコメント欄見てて思ったのが九州説唱える人は頭がおかしい人が多いと思いました。(言動的な意味で)
※612
龍造寺家兼 93歳
松平忠輝 92歳
真田信之 91歳
島津義弘 85歳
宇喜多秀家 83歳
細川忠興 83歳
家康と同じぐらいだったら
伊達政宗や織田信雄、毛利輝元、今川氏真…いくらでもいる
>>612
不知正歳四節但計秋収之時以為年紀人多壽百年或八九十國
とちゃんと書いてあるじゃん。
四季はないけど秋の収穫でもって1年と数えてると。
いくらなんでも春と秋でそれぞれ1年ておかしいでしょうよ
「長生き」で80歳や90歳まで生きるって書いてあるんだから、一部の人だけ長生きとか、
2倍年で80歳=本当は40歳(ドヤァ)とか書いてないじゃん
※614
そりゃそうだ
畿内説を朝鮮半島で15世紀に作られた列島が90°回転してる世界で1枚だけの地図という強力な物証があるにもかかわらず批判してるんだからな。
>596
戦争で使われた鉄器が見つかったの?
鉄の鏃が打ち込まれた人骨が見つかったの?
近代に到るまで戦争の基本は投石
おまいは投石するときに「威力があるから」つって鉄の塊を投げるのかい?
鉄なんてその程度
まあ無いよりはマシってとこかな
※617
>この場合、投馬国までの「水行20日」とか、そこから邪馬台国までの「水行10日陸行1月」というのは、誇張表現だという風に解釈します。
九州説のこれに比べればかなり理知的だからな
※618
九州から出てきたやつがそれの可能性もあるんじゃない。
なんにしろ持ってたのは事実だから。
戦いは数だからな
全兵に潤沢な鉄を分配できるならともかく、一部の富裕将校が儀礼的に鉄器装備してる程度じゃ戦況に大差はあるまい
むしろ1つの鉄購入したせいで10の石器や木材を加工する資金を失ったならマイナスだろう
鉄器の所有はむしろ大規模戦ではなく平時の上下示威、治安秩序維持に役立ったと考える。少数VS少数なら装備の差は絶対だからな
明治時代以前は支那から人も文明も伝来した
独立を維持するため明治になって和魂洋才で
西洋の書物を翻訳し富国強兵により白人に対抗
支那人留学生受け入れで今の支那語の7割が和製
近年の考古学の進歩で実は古代も日本は技術大国
磨製石器や漆製品、ヒスイは世界の最先端であった
高度な技術が当然支那にも伝播したと考えられる
つまり文明は日本と支那では相互交流があった
ある時期は日本から支那へ、ある時期は逆の流れ
正確だと仮定するなら当然邪馬台国はフィリピン?
魏志倭人伝の記述は支那の一時期の記述でしかない
それ以前は逆に日本の先進技術で支那が豊かになった
歴史は全体を俯瞰する見方で捉える時代になった
視野狭窄での邪馬台国論争は不毛でしかない
まっ、それが狙いの人がいるのは事実ですが…
五斗長垣内遺跡、舟木遺跡は邪馬台国の時代には滅んでるのか、残念
そして日本海側では鉄器の出土する出雲~富山あたりが邪馬台国だという主張があるわけか
さらにその日本海ルートと瀬戸内ルートの交わるところが奴国と伊都国があったあたりになるとは面白いな
宮崎と鹿児島は鉄器があまり出ないからここが狗奴国だとの主張もうなずける
福井が鉄器王国だとはしらなかった。何事も調べてみるものだね
弥生時代の倭国の覇権をこの鉄器で争ってたと思うと面白い
九州が鉄器を以て畿内を制圧したなら、
むしろ鉄器で死んだ遺体が畿内から出てくるんじゃないの
>623
3世紀には、扶南国の交易相手として巨延洲の記述があり、フィリピン諸島とみられている
少なくとも中国では倭種とは違う認識みたいだよ
Q畿内では鉄生産はしてないのではないか?
A淡路島!淡路島!
⇒五斗長垣内遺跡は、卑弥呼が出てきた3世紀には鉄器生産が終わっていたようです。一方、舟木遺跡は、現在のところ鉄器は出土していません。
なんと…なんで肝心の卑弥呼の時代に石器&青銅器に戻ってるんだよ…。
宮崎と畿内の記紀由来の地域に鉄器が少ないのは関連があるのかな?
※622
鏃には大量に使っていたみたい
九州から福井まで日本海側では人骨に鏃が刺さってる
木の盾も貫通したんじゃないかな。痛そうだし傷口から破傷風になって死にそう。
仮に100人対100人で片一方は鉄剣&鉄の鏃、もう片方は青銅剣&石斧&木の鏃だったら勝負は見えてるよね。
これが100人の鉄装備対1万人の石器軍団だったらおそらく石器軍団の勝利だよね
ドズル・ザビ曰く「戦いは数だよ兄貴!」
仮想敵国との最前線がどんどん畿内から離れて平和だからじゃないかな(適当
平安時代も武士は東北で戦ってたけど、貴族は京都で遊んでたしさ
石崎曲り田遺跡が興味深い
伊都国の可能性がある
627
しれっと嘘つくなよ
兵庫県淡路市教委は25日、弥生時代後期の舟木遺跡(同市舟木)から大型の鉄器工房跡を確認したと発表した。遺跡中心部の状況を把握するため狭い範囲で溝(トレンチ)を掘って調査した結果、鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかった。
邪馬台国は東大京大の最新の共同研究で群馬県太田市付近と判明
>616
特に争うつもりはないですが、引用部分について。
不知正歳四節但計秋収之時以為年紀人多壽百年或八九十國 これは晋書ですね。
元ネタがあって、其俗不知正歳四節但計「春耕」秋収爲年紀 と魏略の逸文(『三国志』裴注)にありますが、晋書では春耕が落ちています。
続きは魏志倭人伝ですが 其人壽考或百年或八九十「年」となっています。引用の「国」は、次の文の文頭(國多婦女不淫不妬无爭訟)の文字ですね。
ここまで皆さんが挙げてくれた長寿の例でも、100年、100歳という例はありません。「寿命を考えるに100年あるいは8、90年」って、むしろ100年が主な言い方ですが、これを素直に信じられるのは、私からは不思議です。
あまり意識されませんが旧暦は日付が月齢と連動するので、1月が新月で始まって7日(上弦)が人日の節句、15日(満月)が小正月、半年後の7月も新月で始まって7日(上弦)が七夕の節句、15日(満月)がお盆です。
この二つが半年ごとに繰り返され、それぞれ春耕と秋収に対応すると考えるのが春秋年の考え方です。
四季を知らないのになぜ春と秋があるんだろう?
>634
そういわれても、直接見に行って書いてんだ
人の姿かたちを間違えたり、うそ書く理由がないだろ
中国の人が書いたのにわざわざ倭人の歴を使う必要はない
>628
鏃は消耗品だから
比べるなら鉄製と石製それぞれ当時の生産性を見なければ意味があるまい
鉄の鏃1つ作ってる間に石のを5つ作れるなら?
戦争は生産力の勝負なんだから、1騎打ちでやーやーワレこそわー、じゃない
技術発展を見るならそれぞれ兵器の威力ではなく生産性の進歩こそを見なければならない。日本人はどうもその辺の現実的な考えが弱いよね
>635
タネをまく時期と収穫の時期、でしょう。春とか秋とかを付けたのは作文をした人です。
>636
ある程度以上のお年の老人が、見た目で70歳と80歳の区別がつくでしょうか? 個人差も大きいですし、姿形で年齢が分かるってものではないと思いますよ。嘘を書いたとは思いませんが、現地の倭国の人にそう聞いたってことだと思います。そして倭国の人は春秋年で、年齢を数えていたと考えるわけですが、繰り返しますが争いたいわけではないので、そういう考え方をする人もいるんだくらいに思っておいてください。
>639
たとえ100歳がありえないとしても、見た目で70歳と80歳と35歳と40歳の区別がつかず長生きと表現するでしょうか?
>>638
鏃だけに限定するなら鉄で作るほうがはるかに生産性あがるぞ?
当時の製造技術段階では鉄が総合コスパ悪かったのであれば
工房閉鎖して石・青銅に戻すことは何もおかしくないよな
鉄の方が先に進んでるって思うのは現代人だからであって
当時の人間からすれば数ある素材選択肢の一つにすぎない
移行がゆるやかで行きつ戻りつしてたってことは優位性がその程度だったという証左でもある
石の鏃について調べたら近畿地方だけ大型化してる
他の地域は石の鏃については縄文時代から狩猟用の大きさで戦争には同じ大きさでも重く威力の増す金属製なのに、畿内だけ石の鏃が進化してる。
邪馬台国は石器で金属器勢力を遠征で打ち破ってた説がますます現実味を帯びてきた
意地でも鉄器を使わなかったのか、技術がなかったのか、他の国と戦争中で輸入できなかったのか、畿内は制圧済みで吉備と北関東を属国として戦わせていたのか、いろいろ考えられるな
※642
つまり技術力と資源があり早いうちに石器、青銅器から鉄器に移行した北部九州と出雲と吉備と福井と北関東は効率の悪い鉄にこだわって滅んだということか?
641
それは現代だからだろ
鉄資源をほとんど輸入に頼ってた弥生時代ではそうじゃない
対外貿易の対価に差し出す収穫をマイナスファクターに組み込まなきゃいけない
ボラれるからな戦略資源貿易は
日本最古の製鉄遺跡は6世紀前半?
それまでは全て輸入してたってことでいいんだよな
644
かもね
吉野ヶ里遺跡で発掘された甕棺(かめかん)の中から多くの鏃が突き刺さった一体の人骨が見つかっている。部分的に磨いた石鏃、打製の石鏃、サメの歯で作った鏃など10本が刺さっていた。(wiki「石鏃」)
>640 この話を続けたい訳ではないのですが
40歳が初老と言われていた訳ですし、当時の平均寿命を考えると十分に老人扱いな気もします。農業機械なしの農作業を炎天下で腰を曲げて続けていた訳ですから、しみやしわは今よりずっと若い頃から顔に刻まれていたでしょうし、腰が曲がるのも早かったでしょう。
610に挙げられている同時代の中国の人で上限が80くらいの年で、70歳が古稀、古来稀な年齢なのに、倭国の寿命が100歳あるいは80,90というのは、私にとっては不思議(個人の感想)です。
>>646
畿内説「淡路島」
>648
中国本土で40歳から50歳の人間を見たことがないと仮定するならば、倭人にこれが80歳から100歳ですよといわれて信じてしまうのも無理はないな
逆に本土で80歳くらいの老人を見たことがあって、この人は80歳(2倍歴により40歳)ですと紹介されて長生きと表現するかね?
>平均寿命が短い時代は、乳幼児死亡率が高いため平均が短くなるだけで、育って大人になった人はそれなりに長生きなのは分かっています。
とのコメントを残してる人もいてますます混乱するよね
九州北部はメソポタミアの肥沃な三角地帯やヨーロッパのガリア地域、中央アジアの草原地帯みたいに防御に適さずどんどん侵略されたり、覇権が移り変わる修羅の地域だったんじゃないかと思った。
一方大和は山に囲まれて防御しやすかったんじゃないかな
だからこそ鉄器も要らないし、神武天皇も東征で目指したんじゃないだろうか
>650 この話、そろそろ切り上げたいのですが
魏志倭人伝の其人壽考或百年或八九十年の「考」の字が、気になってはいます。
(倭人に聞いた話だと、(春秋年で)もっと上の年齢を言われたけれど、そんなはずはないので)其(の倭国の)人(の)壽(命を)考(えると)或百年或八九十年、くらいなら話が通るようにも思いますが、ここまで来ると妄想なので、返答は要りません。100年とか8,90年を素直に受け取る人が多いのに驚きました(個人の感想です)。
中国本土では100歳の人はほとんど見かけないのに
倭ではたまに見かけるので驚いたという話なのでは?
鹿児島の世界長寿1位になったお爺さんも結局15歳?も数え間違ってたのがバレてギネス取り消しになったしなぁ
戦前生まれですらそれなんだから
文字のない弥生の日本人なんて歳はかなりアバウト申告だったことは容易に想像がつく
ちょっと前まで沖縄が長寿日本一の県として有名だったよな
壽考は長寿という意味の単語
一般市民は三十四十で死ぬような食生活とか労働してたんだろうけど、偉い位の人も似たようなもん食ってたんかね
610で挙げたのは有名どころだけだよ
より長命がいいなら
呂岱(161-256) 95歳
司馬孚(272-180) 92歳
高柔(174-263) 89歳
士燮(137-226) 89歳
王祥(185-269) 84歳
など
生没年不詳ながら張セン(105歳)、来敏(97歳)というのもいる
あとはほとんど伝説で華佗やその弟子たちは100かそれ以上まで生きていたとされる
歴史書の人物が長命って言うのは日本でも、初期天皇は100歳超えてるよね。
そういうのは伝説扱いだけど、何歳くらいから史実扱いできるんだろう。
652です。
>656 訂正ありがとうございます。もう恥をさらすだけなので、この話題は終わりにしてほしいのですが。。
あと、現代と区別して考えるべきは、食中毒関係ですかね。冷蔵庫やコールドチェーンのない時代の食品管理は、食中毒との闘いです。中国では何でも油で加熱して食べる、という調理法が発達しましたが、このコメント欄でも何度も話題になっているように、倭国は刺身(生食)があったということですし。基本は獲ったものをすぐ食べるってことなのでしょうけれど。
無双シリーズの卑弥呼たんは関西弁だから九州じゃないよね
はい論破
畿内説完全勝利
素人目線だと末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいることを考えると畿内説の90回転ってのが自然な気がするな
九州説を取るなら上陸後もちゃんと南東に進むのが自然だと思うんだけどそっちのルートだと不弥国が山の中でそこから水行10日ってなるのがよく分からない
九州説くんうざかったけど、おとなしくなったらそれはそれでなんか寂しいw
※659
よく考えたら卑弥呼は曹操や華佗など、三国志の人物と同時代なんだよな
曹操と劉備が60歳前半だったわけで
そう考えるとあちこち転戦しない支配者階級の女性の寿命が長くても不思議ではないと思う
古事記での雄略(倭王武)までの宝算、要は各天皇の寿命です。
神武137
綏靖 45 安寧 49 懿徳 45 孝昭 93
孝安123 孝霊106 孝元 57 開化 63
崇神168 垂仁153 景行137
成務 95
仲哀 52
神功100
応神130 仁徳 83
履中 64 反正 60 允恭 78
安康 56 雄略124
欠史八代も、他と比べて特に長くなっている訳ではなく、むしろ短めです。
崇神、垂仁、景行の纏向に都した三代は特に長くなっています。
若くして亡くなったとされる仲哀や、弟があとを継いだ履中、反正、安康は、やはり相対的には若いですが、それでも50~60代です。
全体に見て、最も若くて綏靖の45歳、最長寿が崇神168歳で、そのままでは信じられません。実在がほぼ確実視されている応神以降でも、応神130歳、雄略124歳と神話レベルです。
これを春秋年と考えると、最も若い綏靖が22,3歳、最長寿の崇神が84歳で、人の寿命として不自然ではない数値になります。それでも纏向三代は長命ですが。
応神が生まれる前に亡くなった父親の仲哀は27歳と、ありそうな数字になります。
これが、実際にこの数値で伝承が残っていたのか、古事記を書くときに機械的に2倍にしたのかは分かりませんが、少なくとも日本の史書の雄略以前の紀年は春秋年と見た方が、自然な年数になります。
これで計算すると、崇神天皇の崩御は3世紀末になるそうです。箸墓古墳の築造推定年の前後ですね。
魏志倭人伝に記載されるものがほとんど出土しない畿内に邪馬台国はない
大和朝廷の前身はあったかもね
千里=一月も挹婁だったか夫餘だったかで資料が残ってるしな
九州説くんキター
良かった生きてた
>魏志倭人伝に記載されるものがほとんど出土しない
具体的になんだい?
ていうかちゃんとこのスレッド読んだか?
工作員の皆さん、ご苦労様です。
デタラメな記述を都合よく改ざんして纏向遺跡に当てはめる手口
もう魏志倭人伝なる書物の信頼性って地に堕ちてます、もっと言えば
歴史学会が特亜に汚染されて歴史的学問でなく政治マターってことも
邪馬台国も卑弥呼もすべて嘘ですから…
われわれは、この日本に愛すべき過去を投射したい。
どこかで断絶などのない過去。その過去に出会い、丸ごと愛したい。
愛する以上に、実は愛されたい。
愛されていると確認したい。
「美」と同じで、それはこの世界から我々への無条件の褒賞。生きるツラさを補って余りある覚醒剤だ。
国家、国民のアイデンティティとか、ルーツとか、歴史は、共同幻想であり、個人では作れない作品だ。
どんな物語であれば、愛が芽生えるのか?
古代史がロマンだと言われる理由の一端はそこにある。
物語である必要がある。鋭く「現在」のニーズに応える「ストーリー」でなければならない。
ということで、日本書紀編纂、古事記編纂のその時にも、今現在であっても、事情は全く変わらない。中国の正史編纂の動機であっても・・・立場は違えど。
最も美しい物語・・・その調べを奏でる自由がある。ただし、かき集めた同時代の事実は、整然とその物語からはみ出ることなく整列しているべき。
そのような物語を創れないと、従軍慰安婦一点張りで国体を支える某国のようになってしまう。
はたして現代のわれわれには、物語を「構成」する力量があるのかないのか?ないのか?
NHKの邪馬台国番組でも、石田衣良が適切であったかはともかくも、「構成主義」こそが歴史の醍醐味と伝えているかのようであった。
そもそも、人間にとって現象界のすべては「構成されたもの」なのであって、そうじゃない事実は脳が把握しない。
歴史は科学そのものでありようがなく、科学を使役はするが、作曲家のような歴史家が存在するべきなのであろう。
その過去への投射は、弥生時代?縄文時代?旧石器時代?それとも、古墳時代?飛鳥時代?
柳田國男は弥生時代で手を打った。私は縄文時代まで愛したい。
邪馬台国はどこにあっても愛せる。でも、歴史家には美しい交響曲を奏でてほしい。埒のない食い散らかしの分析主義よりも、そろそろ物語を紡ぐ頃合いではないだろうか?
まあ、通りすがりの酔っ払いのたわごとです。
ネトウヨくんお言葉ですが、
中国は歴史も余裕もあって、あそこのゴミ国とは違うと思う
鵜呑みには出来ないがそこまで否定する必要はない
日本王朝の起源が馬韓による東征だと判明したとき、この酔っ払いはどうするんだろうか・・・
愛が無いと、
ロマンが無いと、
美しくないからと「捏造捏造!」言って拒否し続けるんだろうな
慰安婦をまるで嘘のように書き立てる某3系経新聞のように
おそらく
卑弥呼さんは馬韓王の直系子孫ですね私の予想はよく当たる
※672
>ネトウヨくんお言葉ですが
有難うございます、何がネトウヨか脳内変換ご苦労様です、ハイ
※673
>慰安婦をまるで嘘のように書き立てる某3系経新聞のように
日本人は嘘だってみんなわかってるから。もう無駄な事は止めなさい
>日本王朝の起源が馬韓による東征だと判明
ウリナラファンタジーを死ぬまで唱えましょうw
※671
>NHKの邪馬台国番組でも、石田衣良が適切であったかはともかくも
反日のNHKを参考にしてる段階で情弱と言わざるを得ない
戦後一貫して捏造の歴史を支えてきたのはNHKであった
※669
円墳、鉄の鏃、鉄製品、絹とかかな
逆に畿内には魏志倭人伝には記述されていないものがよく出る
前方後円墳とか
邪馬台国は魏志倭人伝の中に登場するので、魏志倭人伝の記述と合致しないものがいくら出土しても無意味
どれだけ先進的な物質が畿内から出てきてもそれは魏志倭人伝に言う邪馬台国ではない
昔は本州と九州は陸続きだったので瀬戸内航路をとるなら
いったん九州に上陸する必要があった、としたほうが辻褄があう
海流の関係で九州東側を船で南下するのは難があり、
瀬戸内はすぐに変わる潮の流れに乗っては港で休みを繰り返すのだから
日数がかかる
對海國と一大國は米が取れないから米のために南北の倭人と交易してるって書いてあるな
好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之は倭国全体ではなく末盧国のことを書いてあるんだな
女王国に帰属してる王国は伊都国だけ、他は全部代官が置かれてる。他は倭国大乱で滅ぼされたな
自女王國以北~此女王境界所盡は「女王国より北はわかるけど女王国より先は良くわからないけど国名は分かるよ」だとすれば女王国の南側をあらわしてる
其南有狗奴國は奴国(女王国の境界)の南にあった男王の国を書いてる
そう考えると女王国と狗奴国の間には21カ国あるから狗奴國は愛知から静岡説や伊勢説ではなく北関東から東北になるな
自女王國以北特置一大率檢察~不得差錯は狗邪韓国から投馬国は伊都国による間接統治、それ以外を女王国の直接支配と読むことができる
女王國東~船行一年可至は邪馬台国は纏向遺跡だけの都市国家であり、狗奴国が北関東から東北なのを考えると女王国の東は北海道かグアムだな
方角は間違っており、年月は全て正しいからグアムからハワイが正しい
つまり畿内説大勝利!結構方角以外は正確に書いてるもんだな
狗奴國との調停を頼んでるけど実際は半島から畿内を制圧したから東に勢力を伸ばそうと狗奴國に侵略したのが原因なんじゃないのかな
東北も石器文化だから石器対石器で勝負がつかなかったのではないだろうか?
九州の鉄器文明を数で圧倒しても北関東から東北の広大な戦場で両国が渡り合っていたことを鑑みるに狗奴國も邪馬台国に負けず劣らずの巨大軍事石器国家だったのではないだろうか
いつの間にかすごい繁盛してるなここ
679ってもうコメント多すぎて目を通すのも大変になってきた…
ゴールデンウィークだったからな
距離か方位どちらが怪しいかといえば、方位だろうな。魏志倭人伝を書いた人は、日本には来ていないわけで、そうすると、実際に来た人から話を聞いて書くことになる。説明するには地図が必要。時代は後になるが宋の地図を見ると距離的にはそこそこ合ってるが方位が滅茶苦茶。90度近く日本が回転している。少なくとも方位の方が確実性が低い。邪馬台国と大和朝廷の関係はわからないが、宋時代の地図を見る限り、当時の技術レベルでは圧倒的に方位にミスがあると考えるべきだ。
朝鮮人が混ざって、強弁したり話をすり替えたり、全部嘘だと言ったり、議論を破綻させてる。
目的は、1300年前の朝鮮移民が日本を創った、という朝鮮史観で日本の歴史を塗りつぶすため。
朝鮮人によって日本人を支配し、1000年奴隷にする、新世界、を創る為。
近畿、九州、沖縄に住み着いた朝鮮人が、この話題については担当しているようだな。
うちの県でも帰化朝鮮人が、○○地域は新羅移民が作ったなどと歴史本を出して(歴史上の有名人も居る場所でそんな事実は無い)県内の公的機関や事業に食い込んでいる。日本の歴史学会でも同様の事が行われているだろう。
これは朝鮮民族による組織的な敵対行動であって、日本人は彼らを駆除する必要に迫られている。
朝鮮に対しては同情心もあるし、半島統一して周辺国に負けず対等に付き合える国になって欲しいと思っている。
しかし、日本国内においては、朝鮮系による侵略が明確になってくる以上、帰国の覚悟をして貰わねばならない。半島統一も近づいて戦争も終わるだろうから、それで良いな。
※678
むしろ関門海峡は現在より広かったと思われる
現在の下関市街地は海か群島
小倉から曽根のほうに海が繋がって企救半島も島だった可能性がある
>>667
鉄は畿内でも出てる。
円墳なんて書いてたっけ?
>>677
絹は確かに。しかしよく読んでほしい。
伊都国までは距離や習俗または地勢を詳しく書いてあるが、
伊都国より先はなにも書いてないし距離も陸行水行など大雑把になってる。
>>677
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
>>679
だいたい同意見だけど、
21カ国は個人的には「伊都国〜邪馬台国」間にある国だと思う。
根拠は奴国の位置。最初に邪馬台国までの道程の中に奴国が出てくる。そして21カ国の中にも奴国がある。よって21カ国も、奴国と同じく九州とヤマトの間にあるはず。
邪馬台国論争、畿内説や北九州説、琉球説、フィリピン説
出雲説、群馬説etc.北海道を除くどこでも説状態
ここ十数年の考古学の飛躍的な進歩にも拘らず不明のまま
物的証拠はなく魏志倭人伝の記述のみで続く論争
これは戦後GHQによる記紀否定が狙いということか
690
記紀に書いてないから困ってるんだよ。
畿内説が勝利してるんだから、東征はありえない。
つまり記紀は嘘。
こうなっちゃ困るだろ?
このバカウヨ同じことしか書かないな
卑弥呼の前の倭国大乱の時に、九州から畿内への東遷はあったと思う。
そして畿内に邪馬台国が作られ、畿内から山陽~九州にかけて安定した。
その後、愛知の狗奴國と争い負けたが、邪馬台国側のトヨが女王になった事で
上記地域に中部地方を加えた地域が一つの連合体となっていった。
そして記紀に書かれてあるように、出雲を併合。
古墳時代から平安期にかけて、残る小国と関東・東北を加えて日本という国の形が
ほぼ完成、安定していったと見るべきだろう。
691
しつこいな。
卑弥呼+台与=神功皇后
邪馬台国は畿内。東征はあったが、卑弥呼よりだいぶ昔。
とう‐せい【東征】広辞苑第六版より引用
東方の敵を征伐すること。「神武―」
とう‐せん【東遷】
東方にうつること。
意味を間違えるなよ。
※691
記紀の記述どおり、出雲大社の大きな柱も出てきていたりする。
記紀に書かれてある事は、ほぼ史実に近いという認識になってきているんだよ。
どんだけ頑張っても三韓(新羅)征伐があった事は史実。
邪馬台と大和朝廷(天皇家)を同一に見るからおかしなことになるんであって
天皇家は九州からきて当時内紛状態だった邪馬台を婚姻政策で乗っ取っただけ。
東征といっても正面から入れなくて、在地の有力者と組んで裏道から奇襲かけて
しかも一番強力な敵は友軍(ニギハヤヒ)に倒して貰ってるんだから征服もなにもない。
そのあとニギハヤヒ勢力と婚姻して、政治的にその後釜に収まった。
収まらない奴ら(出雲とか九州勢とか)は再征服する必要があった訳だが。
697
しつこいな。
卑弥呼+台与=神功皇后
邪馬台国は畿内。東征はあったが、卑弥呼よりだいぶ昔。
「年齢」 ツッコミ禁止
仮に乱が鎮静したのが180年頃で卑弥呼が21才ならば 159年生 248年に89才で没
異母兄生駒(孝元)は10才上で149年生 坐(開化)は170年代生? ミマキ(崇神)は201年生?
異母弟の武彦は1才下で160年生 実弟の芹彦は3才下で162年生 214年(ヒミコ55才)父君の考霊天皇崩御106才ならば108年生まれか ?年孝元天皇崩御 219年(ヒミコ60才)黒田の宮から海柘榴市へ移る 239年(ヒミコ80才)魏より銅鏡など下賜される 240年頃トヨ姫生?
※686
鉄は畿内でも出土する。
但し出土数は400倍ぐらい九州の方が多いけどな
径100歩の塚が円墳に当たるだろう
他にも埋葬文化で言えば「有棺無槨」に類似する甕棺も九州では発掘されるが畿内では出ない
逆に畿内ではきちんとした石槨が出る
魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬壹国
邪馬台国は別
魏志倭人伝で纒向遺跡を始め、畿内文化と違おうがどうでもいい話
狗奴國ではない邪馬台国の対抗勢力が愛知から北関東にあったと見るべき
出土品より:沖縄、九州北部、九州南部、日本海側、瀬戸内、畿内、関東、東北、北海道、全て別文化(交易はあった模様)
記紀より:紀元前に日向から大和に東征、その後朝鮮半島南部制圧、九州北部、吉備、出雲、関東征服
書かれていることは全て史実。
魏志倭人伝より:倭人は朝鮮半島南部から日本列島に住んでる。
分かれて争い過ぎ(倭人大乱)
交流国は100から30に減少
九州の伊都国(女王国の北)まで使節は毎回行く(流石に伊都国の場所が九州以外ってことはないだろう)
女王国の北側は分かるがそれ以外は知らん。
他にも倭人の国はあるし、狗奴国と争ってるから魏が面倒見てやるよ。
畿内説より:鉄器をほとんど持たないが、優れた石器で倭国統一!埋葬の方法が魏志倭人伝と違うこと、90度ずれた地図の証拠が朝鮮半島作成の地図1枚、刺青もないが学会では大勝利!
結論:邪馬台国は畿内。
通りすがりでざっと読んでの感想ですが、「邪馬台国はなかった、卑弥呼もいなかった」と考えてられる方がいらっしゃいます。確かに色々な説がある中でこれも検討されるべきだと感じました。
3月に「聖徳太子(厩戸王)」を「厩戸王(聖徳太子)」に変更についてのパブリックコメントをしました。当時使わなかったおくり名という事でした。それならばGHQの神道指令で変えられた「太平洋戦争」でなく「大東亜戦争」に戻すべきだと思います。歴史学者は平気で嘘をつく人達であると感じました。
>703
嘘を吐く訳じゃなくて、しがらみに絡め取られているだけ。
ただ、戦後の皇国史観批判からの津田左右吉を評価しすぎたのが、悪弊になっている感は私の感じます。
>701
>魏志倭人伝に書かれてるのは邪馬壹国
それで言ったら魏志倭人伝に書かれてるのは對海國ですよ。対馬ではありません。
中国の史書は、王朝が滅びる度に正史が編まれますが、結構以前の文をコピペしています。その後の史書では軒並み邪馬臺國ですから、邪馬台国でいいでしょう。
>698
>卑弥呼+台与=神功皇后
これは日本書紀編者の考えであって、さすがに時代が合わないし史実ではないと思いますよ。
>>700
畿内は古墳が天皇陵に指定されてるところが多いから鉄が出にくい。
鉄にしろ絹にしろ棺にしろ、
>>688にあるように伊都国近辺にしか行ったことのない筆者が、
伊都国近辺の様子を倭地の習俗として書いただけ。
塚に関しては邪馬台国のことを書いてる数少ない事柄であり、
時代と大きさから見て、箸墓古墳が最有力。
自演ネトウヨ死ねよ
>>702
関東説より : 長崎出島のあたりの習俗は関東とは少し違うところはあるが、学会では大勝利!
結論 : 江戸城は関東。九州にあるとかいうやつはバカw
>>709
距離なんてどうでもいい!
とにかく日本人は九州弁を喋ってるんだ、
だから江戸城は九州にある!
驚くなかれ、久留米に「江戸屋敷」って地名がある!
デカい城跡なんてないけどそんなのカンケーネー
※707
2世紀より前の天皇陵なんかほとんどないし、鉄製品は古墳から出るだけが全てではない
そもそも鉄剣や刀ならともかく鉄の鏃なんか有力者の古墳に埋めないよね
また、箸墓古墳は前方後円墳なので、魏志倭人伝に記載される径100歩の塚とは全然違う
女王国の東から海を渡った倭人の住むところは畿内にはないし
伊都国の人間が畿内に出張して監視しているというのも難しい話だろう
逆に何が魏志倭人伝の内容と合致して畿内が邪馬台国と言い張るのか教えて欲しい
※711
残りにくいのは確かだよね
>鉄の鏃なんか有力者の古墳に埋めないよね
つ 島内地下式横穴墓←こういうのが畿内ではうっかり天皇陵に指定されてたりして見れないんだよね
>径100歩の塚
前方後円墳じゃないと断定できる要素がゼロだろ
>>664にあるように方角は結構あやふや。まだ羅針盤発明されてないからね。
伊都国の人間が監視してるのは
「女王国の北」であって、「邪馬台国の北」ではない
※712
鉄は残り難いが出土数が何百倍も違うのは流石にね
別に鏃なんか古墳にほとんど埋めないから天皇陵に指定されようがされまいが関係ない
魏晋鏡や勾玉なんか残りやすいものも九州が圧倒的だからな
径100歩というのは直径100歩という意味だ
直径だけで表現できる塚は円墳しかない
方角は星を見れば古代でも正確に把握できてるからな
というか間違ってる描写がほとんどない
703
聖徳太子が厩戸になったのは、そもそも「聖徳太子の実在が極めてアヤシイ」ということが分かってきたからだぞ。
でも今さらお札にまでなって、戦前道徳教育のカナメでもあった聖徳太子が「全部ウソでした」なんて言えない(保守が発狂する)から、とりあえず同時代に居たっぽい(でもどう考えても聖徳太子とは別モノ)の厩戸王にすり替えてフェードアウトしてく算段だったんだよ。
それを、まさかまさかの保守キチは厩戸カッコ聖徳太子にしただけで発狂しちゃって学者もアタマ抱えてる。w
まあ「正史」なんて間違ってても、考古学と合わなくても、日本人が気持ちよく誇り持てればそれでいい、って考え方もあるワナ。バカだと思うけど日本人って基本バカだし。教育勅語の時代に戻りたいんだろ
右に寄せたにも関わらず右から叩かれるってのは皮肉だよなぁ・・・
日本人のよくやる典型的ミス。なるたけ波風立てないように、左右どちらの顔も立てるように、真意をあえて曲げて折衷案通したら、何言ってるのか分からなくてどちらからも総スカンという。
初めにハッキリ言うべきだったんだよ「聖徳太子は実在しない。証拠もどんどん挙がって来てる」てさ。
邪馬台国も同じ。畿内だよ。状況・直接証拠でほぼ決まり。
九州派に引導渡す事を怖れてる。神武東征がウソって白日に晒すことも怖れてる。日本人は怖いことだらけだ。中途半端は良くないって知ってるのに止められない。
※713
>何百倍
ソースは?
箸墓の円墳部分は径100歩ある
方墳部分は陸橋説があってそれを裏付ける円形墳墓が見つかっている
よって円墳部分以外は墓の一部とみなしてなかった可能性が高い
正確に把握できてなかったから
>>664の指摘するように間違ってたのでは
同時代にいくつも前方後円墳あるのに見間違うかなぁ?
箸墓古墳は年代がなぁ…。
記紀だと別人の墓だしなぁ。
鉄の鏃は出ないし、大乱の跡も見つからないんだよねぇ。
せめて戦死者出てほしいよねぇ。
畿内は平和そのものだぜ?
つまり、畿内説で決まり!
710
他に文献がなければその論法は成り立つが他に文献があるとその論法は使えんよ
>717
箸墓より前には、ちゃんとした前方後円墳はないんですが、同時代っていつ頃の年代感ですか?
箸墓は早すぎるのですか?それとも遅すぎるという考えなのですか?
円墳と前方後円墳の間に位置する古墳もちゃんとあるよ。
畿内じゃないから無視されたけど。
箸墓古墳は完成されすぎてる。
あれを最初の前方後円墳だとすると技術の進歩がおかしい。
よって卑弥呼が霊能力で作った墓であり、邪馬台国は他と技術が断絶してる超国家であり、畿内にあった。
畿内説の証拠を探す必要はない
畿内説だと初めから考え、全てを当てはめていけばいい
地図も朝鮮の地図だけあればいいし、鉄の鏃も石だったことにすればいい
刺青をはじめ、風習も見間違いとすればなんらおかしいことはない
千人あまりの戦死者も当然ない
卑弥呼の墓も年代も形も合わないが、箸墓古墳に決まっている
都も当然、住居のない纒向遺跡である
畿内説に基づいた遺跡を世界遺産にすべきである
※721
あのーその考えですと、
魏志倭人伝なんかどうでもよくて、たままた魏志倭人伝が記述している時代に
畿内に魏志倭人伝と関係ない国(集落)がたまたまあったってことですか。
>722
すでに勝利が確定している畿内説を疑うことは許されない
聖徳太子の抹消工作の狙い。
渡来系勢力が次期天皇候補である聖徳太子一族を虐殺した。という史実を消し去るため。
蘇我氏の過剰な持ち上げも同じ。
蘇我氏は朝鮮人で日本を創ったのは全て朝鮮人の功績、聖徳太子なんて存在しなかった。と捏造してる。
朝鮮移民が日本を創った、という「朝鮮史観」で日本の歴史を塗りつぶすため。
朝鮮人によって日本人を支配する事が目的。
朝鮮民族による組織的な敵対行動であって、日本人は彼らを駆除する必要に迫られている。
※721
>地図
末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいることを考えると、方角がいい加減なのは確定では?その地図はダメ押しだ。グッバイ九州説。
>鉄の鏃
何百倍って言うのはウソだよね。陵墓指定されてる古墳がいっぱいある奈良大阪からは確かにごく少量しか見つかってないが、京都兵庫からは割といっぱい出てる。「だからあの当時近畿の中心地は奈良大阪ではなく、京都兵庫だ!」とでも言うつもりなのかな?そんなだからまともなプロから誰にも見向きもされないんだよ九州説は。
>大乱の跡
>千人あまりの戦死者
倭国大乱だから、女王国内や邪馬台国内で大乱が起こってる必要はないよね。
邪馬台国が九州に攻め込んだりしても倭国大乱だよね。
>風習
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
726
江戸城が九州から発掘されるのですか?
※726
同じ地図を写した他の地図やもっと古い地図は正しい向きをしてるから、15世紀頃の朝鮮の地図の話は出さないほうがいいよ。
>>709
熊本城があるだろ!
とにかく日本人は九州弁を喋ってるんだ、
だから江戸城は九州にある!
驚くなかれ、久留米に「江戸屋敷」って地名がある!
江戸城は遠かったらしいが距離とかそんなのカンケーネー
江戸城九州説万歳
×>>709
○>>727
※728
末盧國上陸から不弥国までが東南と書かれつつ北東へ進んでいるから、方角の話は持ち出さない方がいいよ
使節が毎回訪れる伊都国が畿内の邪馬台国の北(西)を治める一大国家だとしたら。
難波か京都か滋賀か淡路島まできて、大和が分からない⇒無能
大阪、京都、兵庫、滋賀まで南国の風習⇒大和は刺青なし
邪馬台国の都の様子、人口⇒想像
女王卑弥呼崩御に伴う墳墓(前方後円墳)の形が分からない⇒円墳だと思い込む
張政⇒出張費ごまかし
魏の皇帝⇒無能の報告を鵜呑みにして金印を授ける
邪馬台国は畿内で間違いないな。
※731
横から失礼します。
方角が分からず、どのように朝鮮半島から日本列島まで海を渡るのでしょうか?疑問に思ってすみません。
古代中国は方角がないのですか?
>709
小倉城じゃダメなの?
末蘆国から北東に進んだというのはあくまで一説
南東に進めば佐賀平野があり吉野ヶ里がある
※732
>伊都国が畿内の邪馬台国の北
×「邪馬台国の北」
○「女王国の北」
「女王国」は邪馬台国から奴国までの20以上の国から成る連合国家。
つまり女王国は九州伊都国の近くまで勢力圏。
無能なのはお前だ九州説。
>>734
九州説は常に変幻自在だからな
山門だったり、吉野ヶ里だったり、西都原古墳だったり、高千穂だったり、都合のいい時に都合のいい場所を出していけばOK
※716
はいソース
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm
魏志倭人伝を無視していいなら邪馬台国に拘らなくてもいいんじゃない?
※738
おせーよハゲ
何百倍って言うのはウソだよね。陵墓指定されてる古墳がいっぱいある奈良大阪からは確かにごく少量しか見つかってないが、京都兵庫からは割といっぱい出てる。「だからあの当時近畿の中心地は奈良大阪ではなく、京都兵庫だ!」とでも言うつもりなのかな?そんなだからまともなプロから誰にも見向きもされないんだよ九州説は。
735
そこから南に行ける川や海があるんですか?(小声)
※739
割といっぱい?
かなりの差があるけどね
兵庫と京都は鉄作ってたからそりゃあるだろう
奈良はないけどね
それと墳墓とか関係ないよ
現に天皇陵が多い4世紀~以降は鉄の発見数が畿内>九州になるからね
それに~2世紀の発掘できない天皇陵ってどこ?
はしはかも3世紀だから邪馬台国とは関係ないしね
というかなぜ畿内説なのかわからない
魏志倭人伝無視していいならローマでもエジプトでもいいんじゃないの?
魏志倭人伝には関係ないけどはるかに先進的な遺物がでるぞ?
※741
何百倍は盛りすぎたね。
京都や兵庫で作ったやつは普通に考えて都である奈良に献上。
wiki箸墓古墳
現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。
こういうのがいっぱいあるのが奈良。
※742
たしかに盛りすぎたな。100倍だったな。
で、献上された奈良での発掘量は?
そして、邪馬台国の時代である~2世紀の発掘できない天皇陵はいかほどあるの?
それに遺物の発掘は墳墓だけじゃないからな
最古?の前方国円墳のはしはかも3世紀~だぞ?
また、発掘した遺物の墳墓から出る割合と他から出る割合の比較は?
これがわからないと意味がない主張だぞ
女王国に女王と伊都国王が両立してる
かつてのスペインと同じ体制なんだね
卑弥呼はお飾りで実態は伊都国王?
丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
自郡至女王國 萬二千餘里
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南
せっかくなので女王國と書いてあるところを抜き出してみた
「以北」は「~の北なのか」「~より北なのか」
邪馬台国連合の北、ではなく、女王国の都のある邪馬台国より北じゃないの?
そもそも女王国は帯方郡から1万2千里ってかいてあるんだから、狗邪韓国から邪馬台国「より北」の伊都国統治地域を合わせて1万2千里とするかな?
女王境であって女王國境ではないんだよね
女王の統治範囲はちゃんと女王ってなってるようだよ
方位も90度ずれてるなら東は北だから海を渡った先は琵琶湖の先かな?ここも以東とは書いてないね
以北は伊都国を書くときだけ使ってるようだから女王國の北あるいは西にある伊都国と位置関係を分けて書いてくれたんじゃないかな?
南至邪馬壹國 女王之所都
女王國は邪馬台国のことで倭国最大勢力の邪馬台伊都連合王国そのもののことではないんじゃないかな?
郡諸韓國及郡使倭國
私は統一邪馬台国王国を表すときは「倭國」、卑弥呼のいた都市は「邪馬壹國=女王國」を使った説でいこうとおもいます。
※743
まだ盛りすぎだぞ
近畿:九州では10倍も行かない。
「宮内庁治定陵墓の一覧」で検索しろ
墳墓からは絶対出ないというなら割合を調べて出してみろ
これがわからないなら意味がない主張だぞ
畿内説を否定する出土物は認められない
たとえ大和で鉄の鏃が発見されなかろうが畿内だけ鉄の代わりに石器が発展し大型になり砥石も磨製石器用のものしか出土してなかろうが関係ない
絹もほとんど出土しておらず、中国に献上できなかったが関係ない
魏で作られたものと同じ鏡がほとんど出土していなくとも畿内説のためには1枚でもあればそれでいい。
箸墓古墳はあきらかに年代が違うが畿内説の正しさの前には些細なことである。
今までの調査で出ていないが、これから出る可能性さえあれば畿内説の正しさの証明としてよい
※745
結局はデータがないけどとりあえず主張してるだけやん
宮内庁治定陵墓の一覧の発掘できない~2世紀以前の墳墓の数を教えてくれよ
それに墳墓からは絶対に出ないとか主張してないぞ?
天皇陵が圧倒的に多くなる4世紀以降は九州と奈良の鉄の出土数が逆転してる現象もなぜか教えてくれ
調査できない墳墓が増えるんだから出土数も横ばいもしくは減るんじゃないのか?
で、魏志倭人伝の記述と一切関係ないのになぜ奈良に邪馬台国なの?
九州説を否定することは認められない。
たとえ大和が陵墓指定されて発掘不可だとしても、そんなハンディを言い訳にしてはいけない。
石の鏃で九州人が死んでても、鉄が無敵だという神話は絶対である。
神獣鏡が中国製だとわかっても無視。
箸墓と魏の年代が三世紀で完全一致してるけど無視。
邪馬台国も江戸城も九州にある。
※746
自分で調べろよ
四世紀以降は技術が発達して鉄の製造も余裕になったから天皇陵からはみ出して来た
※740
有明海があるだろ
751
で、邪馬台国はどこ?
俺がガキの頃は魏志の倭人伝とかゴミ資料扱いで終わってた。金印の嘘くささも異常だし。
※750
まてまてまて
自分で天皇陵があるから発掘できないはずと主張してるくせにデータはないから俺に調べろっておかしくない?
つまり現時点では何の根拠もないけど憶測で話してるってことでいいんだね?
とりあえず畿内説の根拠が知りたいよ
※748
データはあるやん
兵庫京都で普通に出てる
※754
とりあえず箸墓は発掘不可なのは事実だししょうがないよね
発掘できないのにデータがないとかただの難癖
箸墓古墳は記紀をもとに年代を確定するから卑弥呼とずれてる
※754
京都や兵庫からは結構出てるんだし
鉄なんぞ九州の専売特許でもなんでもない
>>758
ほんとだよな
畿内の100倍しか出てないくせにな!
※688、710、726、729、749が畿内説を主張しているので畿内説が正しいに決まってる
なぜならこの5人のコメントにより江戸城が九州にないことが証明され、邪馬台国が纏向遺跡であり、畿内にあることが証明されたからだ
是非論文としてまとめてもらいたい
※755,756,758
あれ?邪馬台国って京都と兵庫だったのか?
奈良じゃないの?
ついでに絹もない甕棺もない魏鏡もないのないない尽くしの奈良がなぜ邪馬台国なのか意味不明だ
さらに墳墓が発掘できないといいつつそれに関するデータも出せない
発掘できない墳墓が爆発的に増える4世紀には鉄も爆発的に増えてるという矛盾
データないで憶測でものを言うのは簡単だ
しかしそれを人が納得するかは別の問題
>741,743
卑弥呼の死が247年か248年と、魏志倭人伝から読み取られている訳ですが、箸墓は3世紀で2世紀の邪馬台国と関係ないっていうのはどういう意味なんでしょう?
247年て3世紀ど真ん中ですよね?
>>761
何言ってるんだ?
畿内説は正しいんだよ
魏志倭人伝は朝鮮半島の地図により方角がずれてることが確定した
つまりどこで鉄が出てもその範囲が全て邪馬台国なんだよ
だから九州以外から鉄が出ればそれが1つだけでも纏向遺跡が邪馬台国である証拠
鉄が出たところが伊都国の支配下であり大和が邪馬台国
※762
失敬ミスだわ
はしはかは3世紀後半以降だから3世紀半ばの卑弥呼とは関係がない
それ以前に円墳と前方後円墳はちがうので関係ないけどね
※762
第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓だぞ
九州が優勢だったのは奴国王が金印をもらってた頃で、その後に倭国大乱があって、それが収まる頃には畿内の優位が確立していたというのが、多数説(定説とまではいかない)だと思うのですが。
倭国大乱後の卑弥呼の共立が、大和を倭国の中心にするエポックで、その数十年後に公孫氏が滅んで中原との通交が復活したおかげで卑弥呼が遣使した。そのことが,魏志倭人伝に書かれているのだから、九州が優位だった頃に九州の方が遺物が多いっていうのは当たり前だし、さっきから箸墓は時代が合わないと繰り返し書いている人の方が、年代感がずれているのだと思います。
考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もある。
少なくともど真ん中ではないな
>>766
お前の「思い」が現実になるといいですね~w
※766
近畿優位は古墳時代だぞ?
弥生時代と古墳時代を間違えてないか?
時代は下って中国の使者が浪速津に行く時は瀬戸内を水行した記述が出てくるのにそれがない時点で畿内はない
重機のない時代に人力で平場に墳丘長300メートル弱の大古墳を作るののどれくらい時間がかかると思いますか?
数十年後なら誤差範囲も考えたら、むしろどんぴしゃと言ってよいくらいだと思いますよ。
邪馬台国は2世紀だから時代が合わないというのは間違った印象操作でしたね。
>>771
涙拭けよ
※771
時間かかったらよけい合わなくなっちゃう…
もう箸墓古墳を貶めるのはやめて!
※728 同じ地図を写した他の地図やもっと古い地図は正しい向きをしてるから
15世紀頃の朝鮮の地図の話は出さないほうがいいよ
南北が逆の地図
1「海内華夷図」唐8世紀 2「石刻華夷図」南宋12世紀 3「声教広被図」元13世紀
4「混一疆理図」明14世紀 5「混一疆理歴代国都之図」朝鮮15世紀
3の「声教広被図」は戦前に北京図書館で確認されている
5の「混一疆理歴代国都之図」は龍谷大学に現存する
759
5倍程度でしょ
九州説はすぐ小さい話を盛るから
>769
だから古墳時代の始まりの時期の年代感の問題なんですよ。
古墳時代が箸墓の造営で始まるというのは定説で、古墳時代の始まりが邪馬台国の時代と重なるかどうかで決着がつく状況です。
箸墓を作るために近畿が優勢になったのではなく、近畿が優勢になっていたからこそ箸墓が「近畿に作られた」ことを理解してください。
761
九州説の邪馬台国はどこ?w
>ついでに絹もない甕棺もない
魏志倭人伝ちゃんと読めよ
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を伊都国がしていて、出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
768
現実=考古学者はほとんど畿内説
751
で、邪馬台国は九州のどこなの?
九州説って、民主党と同じだよね
とにかく畿内説の足を引っ張るだけで対案が何もない
だから誰にも支持されない
去年東大寺観光した後時間余ったから電車とバス使って箸墓古墳見に行って観光客全然いないしよく見たらゴミポイ捨てされてるしでみんな興味ないんかなって思ったけど、コメ見てる感じ興味ある人もかなりいるんやね
悲報 箸墓古墳の為に卑弥呼、古墳時代になる
776
箸墓古墳にこだわるのは吉野ヶ里遺跡が邪馬台国と主張するのと一緒。
いいんだよ、新たな発見により今までと違っても
あれだけでかい前方後円墳をつくる前にもっと古い前方後円墳見つかるから
きっとそれが初代大王の墓だよ
卑弥呼の円墳はまた別に見つかるよ。
※777
九州で九州弁喋るのは当たり前だよね?
>>780
やっぱりでかいの?
※777
倭人伝を全く無視していいなら、同じ論法で関東でも東北でもアメリカでもいいけどそこに比定されたらどう反論するんだ?
邪馬台国は倭人伝に登場するのだからどこまでも倭人伝を尊重すべき
倭人伝の記述を好き勝手に取捨選択や拡大解釈するのなら、それは邪馬台国否定派になるべきじゃないか?
倭人伝は無視するけど邪馬台国は畿内っておかしくない?
>>784
外周グルっと回ったけど、隣接してる池の分余計に歩いたがけっこう時間かかったで(行ったの去年の夏だからかかった時間は忘れちゃったけど)
ただまわり道路はさんですぐに民家あって生活感溢れまくってるし近くじゃただの雑木林にしか見えないから古墳って観光地向けじゃないなって思ったわw
造営時は130メートルを超すとみられる古墳もあるんだ。
まだまだ発見はありそうだね。
785
無視?ちゃんと読めばそうなると言ってるだけですけど
無視してるのはちゃんと読んでないお前
水行陸行で行ける範囲だから、アメリカと東北はアウト。
関東もあの時代の大した遺跡がないからアウト。
狗奴国の分も考えると静岡もアウト。
畿内じゃなければ愛知がギリギリ。
邪馬台国はここだって断定してあげられれば、その地域のまちおこしさせてあげれそう(小並)
※777
検索したが伊都国の後、国をわたった様で
伊都国、奴国、不弥国。その後が投馬国の順で最後が邪馬台国と
邪馬台国から北は不可得詳、自女王國以北 特置一大率檢察と確かにかいてあったけど
それは単にあなたの解釈が間違ってるだけで
長野から東北の蝦夷と呼ばれる勢力が邪馬台国に敵対してる
奈良、京都じゃやばいから、九州に引っ越そうって話じゃね
※786
ありがとう!
千年以上前の本物が今もあるなんてすごい。
きっと地元の人にとっては単なる山だったんだろうなぁ。
※788
倭人伝の記述と出土する遺物の整合性がとれないのになぜ畿内なの?
愛知じゃだめなの?
なぜ畿内なのかを教えてくれ
金属は鋳返すこともできるので、どういうときに金属が遺物に残るのかってことも考えてみてください。
金属が貴重品なら、威信材として首長墓に副葬されるのは理解できます。逆に生活雑器であれば、鋳掛け屋とかで直したり、くず鉄業者に引き取ってもらったりしてリサイクルします。そのような状況下で遺物に残る(土中に遺棄される)のはある意味偶然ですよね。
鉄が出る出ないにそこまでこだわるのは、そこしかポイントがないのか?とも思います。絹が出ないといっている人もいますが(同じ人?)、有機物の遺物が残るのはかなりまれですよね。日本は正倉院があって、奈良時代平安時代のものが平気で残っているので感覚がおかしいですが、1000年前の有機物が残っているのは本当に偶然です。大量にあったから残るというものではなく、たまたま保存状態のよい環境に置かれたために残り、またかなりの偶然があって見つかるものだと思います。
逆に、奈良で絹が出たらその瞬間に畿内説を認めてもらえるのでしょうか?
>781
逆です。
畿内説のために卑弥呼が古墳時代になったのではなく、弥生時代の推定年代が開始期で500年、終末期で100年程度古い方へシフトしたために、古墳時代が卑弥呼の時代に届くようになってきて、そのために畿内説の妥当性が高まったというのが話の順序です。悲報でも何でもありません。
科学の成果を軽視していたら、話が進みませんよ。盲信するのもおかしな話になりますけどね。
※752
熊本か八代、人吉
※793
どんな理屈をこねようと
遺物が出るのと出ないのでは出る方が倭人伝の記述に近いのは疑い用のない事実だからな
絹1つで畿内説が確定するわけないだろ
今は1つ1つ根拠を積み上げて確率を高めるしかできない
実際問題畿内にしても九州にしても確定するのは、金印が出土するしかないだろうな
同じ事を強弁したり(○○に決まっている)、話をすり替えたり、全部嘘だと言ったり、議論を破綻させようとする朝鮮人が湧いているな。
>796
なら絹一つで畿内説が否定できる訳でもないですよね。
魏志倭人伝の時代は文献なので絶対年代が出る。それに対して考古学資料は推定年代しか分からない。その状況下で、以前弥生時代が新しい(現代に近い)年代で推定されていた頃は、畿内が優勢になるのは古墳時代だから、邪馬台国は九州という説に一定の説得力がありました。
それが、一つ一つ根拠を積み上げて、弥生時代の年代全体(始期~終末期まで)が古い方向へずらした方が整合性が取れるということになってきました。魏志倭人伝の絶対年代(卑弥呼の死が三世紀半ば)が、弥生終末期から古墳時代の始まり(=箸墓の造営)の頃というのが、確率の高い推定であり当時のもっとも勢力のある遺跡が纏向遺跡ということな訳です。だから、考古学者の九割が畿内説という状況名訳です。
魏志倭人伝と遺物が合わないというのこそ、一部だけを見ていて整合性が取れない話ですよ。
※798
倭人伝の記述と合致しない遺跡があろうがなかろうが、それは当時すごい遺跡があったというだけだからなあ
何にせよ邪馬台国は文献に登場するのだからその文献と内容が一致しないとそれは邪馬台国ではない
学者の9割というのも怪しいものだが、数を恃んでなんになるのかわからない
9割が天動説を主張したら天が動くのか?
792
愛知でもいいと思うよ個人的には
なぜ畿内なのかは学者に聞いてくれw
795
そこは狗奴国じゃないの?
邪馬台っぽい地名無いよね?
記紀にも天皇関連で出てこないよね?
796
魏志倭人伝ちゃんと読めよ
記述してるのは倭国九州の風習であって、邪馬台の風習ではない
※802
それが詭弁なんだよなあ
それなら畿内じゃなくても愛知でもいいよな?東北でもどこでもいい
年代が違おうがでかい遺跡があればいいってな理由で
女王国まで萬二千里、女王国の東に海を渡った倭人の住む地
他にももろもろこれらすべてがないのはどうなの?
また同じ事を繰り返しているな。
金曜以降に書き込んだ人たちは、スレを頭から読み直した方がいいぞ。
803
は?
何が詭弁だよw
倭人伝の記述に従えばそうなるんだからしょうがないだろ。
愛知は確かにいいと思うよ年代も合ってる。
どこでもいいことはない。東北はダメw
女王国まで萬二千里→何が問題?
女王国の東に海を渡った倭人の住む地→(南→東)つまり(東→北)琵琶湖を挟んで近畿の北にある北陸ですね
>799
「親魏倭王」の金印を授けられたことの意味を軽視しない方がいいということです。
でかい遺跡はでかい権力の存在を明かすものですし、魏志倭人伝の邪馬台国が重要なのは、そこに倭国の権力中心があると書かれているからです。
ならば、その時代の権力中心と思しき遺跡の存在する場所を邪馬台国に比定することが、魏志倭人伝の記述に一番沿う解釈だと思うのですが?
このスレに書き込もうと思って、色々調べたら日本海側も鉄器が大量に出土していることを知った。
それと北関東も畿内よりは鉄器が出ることも分かった。
畿内は鉄器がほとんど出土せず、逆に石器文明を洗練させていったことが分かった。
鉄を溶かして再利用したからほとんど見当たらない説は様々な理由で廃れたことを知った。
調べると楽しいね。
>799
>数を恃んでなんになるのかわからない
>9割が天動説を主張したら天が動くのか?
それだけ多くの専門家が支持するだけの論拠があるってことですよ。
その論拠を薄弱な意見で無視あるいは軽視し、絹の存在とか本質でないことを根拠に強弁するから話が落着しない、というだけです。
>803
>年代が違おうがでかい遺跡があればいいってな理由で
これが、一つ一つ研究を積み重ねていった結果、「年代が違わないと推定されるようになった」から、畿内説が専門家の間でも優勢なんですよ。
私も含めて、ここにいる畿内説論者はそれを聞きかじった連中だと思います。十分な説得力がすでにあると思いますよ。
※806
当時の日本に大きな遺跡が1つしかないと仮定した場合しか成り立たないよなあその考えって
別に九州と並立して畿内に大きな集落があってもいいわけだよ
東に海を渡ると倭人の地があるわけだし
ただでかい集落があるだけでは意味がない
倭人伝の記述のものが出土しない限りただの同時代に存在した大きな集落でしかない
しかもマキムクは住居がほとんどない遺跡であり、倭人伝の7万戸=大人口の都という性質とも違うしな
そして9割の統計はどっからでてきたの?
全くどうでもいいことだけどそれも教えて欲しいな
※805
倭人伝をわざわざ誤ってると仮定して解釈してる時点で詭弁でしょう
ありのまま解釈しないと
南を東に読み替える意味が薄弱
方角を間違えてる史書があれば教えてほしい
千里=陸行は一月
琵琶湖は全く海ではない
奈良により近い湖南側から見たら陸続きなのは明白
同じ人物の主張について
魏志倭人伝は間違いだらけ!
でも纒向遺跡は魏志倭人伝にある邪馬台国!
さらに箸墓古墳は魏志倭人伝にある卑弥呼の墓!
魏志倭人伝があてにならないならどうして魏志倭人伝の邪馬台国と卑弥呼にこだわるのか?
そして出土品より魏志倭人伝の記述で纒向遺跡と箸墓古墳を考えるのか?
魏志倭人伝が正しくないと纒向遺跡と箸墓古墳は邪馬台国と卑弥呼の関連遺跡にならないからね?
>810
纒向遺跡の巨大さは相当に隔絶したものがありますよ。他の遺跡と較べて。箸墓がそれまでの弥生墳丘墓と較べて、隔絶した大きさを持つのと同じです。
逆に九州にそれに匹敵する巨大遺跡が見つかって初めてできる議論ですよね、810の言い分は。九州の巨大遺跡があれば教えてください。あってもいいですけど、現実になければ、為にする空論ですよね。
前の方にも書きましたが、7万戸の人口の都市はなかった、というのが私の立場です。魏志倭人伝に書いてあることがすべて正しいとする原理主義は意味がないですよ。
813
魏志倭人伝は貴方の妄想の産物ではありません
なぜ、弥生時代の話に古墳時代の前方後円墳が出てくるのかね?
前方後円墳は、大和朝廷のものだろう?
卑弥呼=大王かい?
記紀には伊都国に代官をさせてた様子も魏に使者を派遣した様子もなくないかい?
811
前回の記事で、魏志倭人伝の記述は、とりあえず九州に上陸するまではそこそこ正確っぽいことが分かりました。
そう、ここまではね。
問題は、そこから先。
普通に行くと海の上になっちゃう。
そこで、魏志倭人伝の記述を読み換える必要が出てきます。
かの有名な「畿内説」と「九州説」は、魏志倭人伝の記述のどこを間違っていると見なすかという点が一つの対立軸なのであります。
812
で、どこにあるの邪馬台は
魏志倭人伝で、なぜ方角が違うように書かれているのか?
ユーチューブに番組の動画があるから、九州説派は見てみろよ。
ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係
※811
古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあふみ、単に淡海とも。万葉集では「淡海乃海」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。
ウィキペディア「琵琶湖」より
九州説くん残念w
俺の煽りが効いて九州説くんが元気になってくれて嬉しい
812
ああついでに
一大国
伊都国
これもどこか答えとけ
>815
同じことを何度も書くのも飽きてきましたが
邪馬台国の時代が「弥生時代だから大和じゃない」という筋立てが「古い」んですよ。
弥生時代の開始も終了も、考古学の進展により以前より遡った年代が定説になっています。
さっきから一番一生懸命に九州説を書き込んでいる人も、箸墓(=古墳時代の始まり)は3世紀半ば過ぎ~後半と認めていますし。箸墓がいきなりできる訳ではなく、それ以前から権力の中心がそこにある訳で、それはほぼ完全に卑弥呼の死の前後の時代に重なります。
面倒なので、邪馬台国は弥生だから云々という書き込みは遠慮していただけると助かります。
魏志倭人伝の記述に合わないから畿内説は間違い、というなら、ここまでの書き込みにもありましたが、黒い雉子や吠える猿が九州にいないから九州説は間違い、というのと同じレベルですよ。
ここまでの議論では、雉子や猿は台湾の描写だと思われる、中国の史書では倭国と台湾は区別されている、が、この雉子や猿の記事は台湾の様子が倭人の地の記事として混入したものだろう、ということになっています。倭人の住む範囲というか、倭人の定義が現代の我々の感覚よりも広いようです。
※813
都市の巨大さとかは一切関係ないよね
巨大な都市で倭人伝の記述と合致してるかが問題
確かに九州にはまだ見つかってないがそれだけのこと
金印やら倭人伝に記述されているものでも出ない限りただの巨大都市でしかない
※819
琵琶湖の呼称がどうであれ海じゃないからな
中国の史書で渡海と書いて湖を渡った例を教えてくれ
※823
どれだけ記述に近いかが問われている
もちろん完全に合致などしないだろう
しかし畿内はあまりにも記述と矛盾している
というかフル無視に近い状態だ
卑弥呼の死と壱与までは中国の文献に載ってるけどその後100年空白があってまた出てくるんでしょう?
その間に弥生時代から古墳時代になって、前方後円墳が盛んになったんでしょう?
819
横からコメントします
魏志倭人伝は中国で書かれた書物ではないでしょうか
>825
古墳時代がいつから始まるのか今の定説を調べてみてください。
古墳時代は卑弥呼の死と同時かその後ほど遠からぬ時、台与の頃には古墳時代に入っています。邪馬台国は、古墳時代あるいはその前夜ですよ。
そこを押さえずに言い張る人がいて疲れます。
>824
>確かに九州にはまだ見つかってないがそれだけのこと
今後見つかると思っているのですか?
箸墓が卑弥呼後数十年後でほぼ同時代と認めた後で?
九州では箸墓の三分の一程度の前方後円墳しか造営されていないのに?
吉野ヶ里は堂々たる大遺跡ですが、外堀に囲まれた範囲は40ヘクタールほどで、それに対し纒向遺跡は300ヘクタール、7倍以上です。
これも繰り返しですが、「親魏倭王」に除せられる卑弥呼の都するところが、一地方政権の集落である方が、よほど魏志倭人伝の記述に合わないと思うのですが。
※824
>琵琶湖
別に中国人が直接見たと限ったわけじゃないから
むしろ上にあるように邪馬台国まで行ってない可能性が高い
日本人が結構あとの時代まで「海」と認識してたのは事実
824
>もちろん完全に合致などしないだろう
なーんだ
じゃあ畿内説でなんら問題ないじゃん
お前が思う一番記述に近い場所どこよ
※828
前方高円墳は倭人伝に記述されていないのだからいくら巨大な前方高円墳が発掘されても無意味
むしろ明確に矛盾するのだから発掘されない方がマシ
九州の端の奴国も金印もらったけど、当時の奴国は日本統一してたほどの勢力なのか?
畿内説頼みの綱の距離も
ゆうろうがふよから千里=六十日行で、旧唐書で倭地の東西が五月行なんだから短里千五百里があれだけの日数かかっても何らおかしくはない
※801
狗奴=球磨をとるなら邪馬台国はそれより北
記紀は記述が信用ならんので無視(ある程度は信用できるんだろうけど
>831
>九州の端の奴国も金印もらったけど、当時の奴国は日本統一してたほどの勢力なのか?
この話も何週目かなのですが、地域のトップで倭国のトップじゃない場合は「漢委「奴」国王」と注釈が入るんですよ。
卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
前方後円墳を前方高円墳と書く人を初めて見ましたがそれは置いといて、魏志倭人伝に円墳とも書いてないですよね? 大作冢 徑百余歩とあるだけで。径とあるから円墳だろうというだけで。そして、831が主張する北部九州の王墓級弥生墳丘墓は、平原一号墳など方形周溝墓が普通で、円墳じゃないですけど、これは明確に矛盾することにはならないのでしょうか?
結局、ご自分の主張に合うところを強調というかこだわって、おかしいところは無視しているだけではないでしょうか?
※833
>卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
これの論拠は?
当時の倭は東に海を渡ってまた倭人の地がある上に敵対勢力の狗奴国もあることから統一政権ではないと魏志の中で認めていると思うんだけど
>そして、831が主張する北部九州の王墓級弥生墳丘墓は、平原一号墳など方形周溝墓が普通で、円墳じゃない
だれも平原一号墳が円墳であり卑弥呼の墓だと主張してないからな
妄想で人の主張を決めるのはやめて頂きたい
九州でも畿内でもどこでもいいけど、円墳以外の墓が卑弥呼の墓だというのは魏志倭人伝に明確に矛盾するのでありえない
832
でも九州説論者はよく名前が似てることを根拠に熊本=狗奴国って言ってるよね
でも九州説論者はよく記紀では天皇は九州から来たって書いてることを根拠にしてるよね
で、熊本近辺=邪馬台国をとるなら狗奴国はどこ?
ていうか水行十日水行二十日陸行一月が熊本あたりで収まるとは思えないんだけど
831
円墳云々は昨日論破されただろお前
>834
平原一号墳は、北部九州の王墓として最も有名なものの一つとして、九州の王墓の例として上げたものです。北部九州の首長の墓の伝統は、方形周溝墓であるのはよいですね?
つまりあなたは、九州には畿内の纒向遺跡に匹敵する、女王国に比定しうる遺跡もなく、卑弥呼の墓の候補もなく、径百歩の「円墳」は九州の首長の伝統にも合わないけれど、九州に邪馬台国があったに決まっていて、畿内には鉄の出土が少なくて絹が出ていないからあり得ないという意見ですね?
かなりおかしな、思い込みベースの主張だとは思いませんか?
ここにいる九州説は無能な野党と同じ
何にも具体的対案がないけどとりあえず畿内説に難癖つけてるだけの駄々っ子
※836
全く論破されてないけど?
何をどう論破されたのかな?
※837
>北部九州の首長の墓の伝統は、方形周溝墓であるのはよいですね?
全くよくないよ
>つまりあなたは、九州には畿内の纒向遺跡に匹敵する、女王国に比定しうる遺跡もなく、卑弥呼の墓の候補もなく、径百歩の「円墳」は九州の首長の伝統にも合わないけれど、九州に邪馬台国があったに決まっていて、畿内には鉄の出土が少なくて絹が出ていないからあり得ないという意見ですね?
遺跡が発掘されてないのは畿内も一緒
まきむくが邪馬台国なら既に証明されているはずだ
今だ証明されてないということは違うということ
墓も同じ。畿内にも候補がない。形も違うし全く違う人物の墓であると記紀に記されているのに勝手に比定していいのならどうとでもなると思わないか?
九州に邪馬台国があったに決まってるなんて誰も言ってないよ
魏志倭人伝の記述に一番近いのが現状九州であるというだけ
万人が承知のように証拠はない。これは畿内でも同じだが
むしろ魏志倭人伝の記述を距離も方角も遺物もほぼすべて無視して、同時期で規模がでかいというだけでまきむくに比定するのが無理がある。
※835
ざっくり仮説で熊本平野に邪馬台国、人吉盆地に狗奴国
仮説なんで違ってても構わんよ
記紀の記述なんぞ時代が違いすぎてどうでもいい
「挹婁在夫餘東里北千餘里」
「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
千餘里=六十日行か?
>839
邪馬台国と同時期に「それまでになかった最大規模」の遺跡が畿内に作られていることまで認めていて、それでも九州ではまだ見つかっていないだけ(きっと見つかる)、と言えるのは正直すごいと思います。
私は今後も九州で纒向規模の遺跡は出ないと判断しています。纒向の出現がそれまでの弥生の遺跡とは不連続であり、その直前の王墓級弥生墳丘墓でもそれ以降の古墳でも、北部九州のものが近畿のものに規模の面で圧倒されていますから。国力の点で大きな差が見て取れます。
>遺跡が発掘されてないのは畿内も一緒 まきむくが邪馬台国なら既に証明されているはずだ
ここで使われている「証明」は、ほぼ悪魔の証明ですよ。824で「もちろん完全に合致などしないだろう」とし、796で「1つ1つ根拠を積み上げて確率を高めるしかできない」と書いたのは同じ人ですよね? それなのに畿内説の比定に証明されてないじゃないかというのはダブルスタンダードですよね。
記紀に箸墓は違う被葬者が書いてあるというのもあまり意味のある議論ではありません。
記紀は実年台より記事を古くしてしまっているので整合性が取れず、神功皇后が卑弥呼ではないかと思わせることでお茶を濁していますから。その一方で、天皇ではない一皇女の墓なのに、箸墓の造営方法の記事があり、これが特別な墓であることが明記されています。
正直に言えば、私個人は箸墓は崇神天皇の陵墓の可能性の方が高いと思っていますが。
※842
九州に見つかると信じてるのではないよ
纏向は明らかに邪馬台国ではないのだから、もし邪馬台国が実在したとするのなら日本のどこかから発掘されるのは間違いない
もちろんもはや開発が進みすぎて発掘が困難な可能性はある。これは邪馬台国に限ったことではないが
纏向が出現した時期あたりから徐々に九州との国力差が反転していく
当時の先進文物である鉄などは北部九州が圧倒的だが、4世紀には奈良に逆転される
纏向が大きな遺跡で高い国力を示しているのは疑う余地もないが、それは邪馬台国とは全く無関係
纏向にしてもどこにしても邪馬台国だと証明されていないのは同じ
ただ候補を上げただけ(しかも魏志倭人伝の記述と大きく食い違う)で女王国に比定する遺跡がないと言われるのはどうなのかと思う
全く見当違いの場所でもとりあえず比定だけしたらいいのか?
あと話がはずれるが「参問倭地、絶在海中洲島之上。或絶、或連、周旋可五千余里」
などの記述も畿内説はどう説明するのか教えてほしい
いわゆる「魏志倭人伝」の元になる歴史書が編纂された経緯、編纂者を考慮しましょう。
明らかに内容が「意図的な改竄」を受けています。
そもそも、中国の歴史書は「事実」を記すものではありませんから。
842
預言者現る
766、762、776、794、798、820、822、827、842、844のコメントを読んで確信しました。
正始八年(西暦247)の次の年を箸墓古墳の建設時期に合わせて修正すればいいということですね
つまり西暦247年の次の年は西暦300年から400年ということですね
すべて畿内にある遺跡から魏志倭人伝の文章を修正すればいいのですね
鉄の鏃は石の鏃と直径も全長と読み替えればいいのですね
前方後円墳は書いてないので存在していないことにして、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。というのは無視すればいいのですね
邪馬台国は大和朝廷の敵対勢力
だから魏を頼った
しかし結局滅ぼされ歴史から姿を消す
839
反論できなかったってことは論破されたんだよおまえは
840
具体的にどこかも言えないようでは、少なくとも纒向には勝てないなあ
勝てる要素、あるいは負けてないという根拠があるなら言ってみてくれ
言えないなら、仮説の中で纒向が一番可能性が高くて支持されて当然だと認めたってことで
※839
>むしろ魏志倭人伝の記述を距離も方角も遺物もほぼすべて無視して、同時期で規模がでかいというだけでまきむくに比定するのが無理がある。
「記述」に忠実であれば、「遺物」はむしろほとんど無視した方がいい。理由はコメ欄上で言われてる通り。
「方角」と「距離」は、このブログエントリで言われてるように二者択一。伊都国までの道のりですでに方角が90度ずれてるんで、死ぬのは「方角」。
よって畿内説の勝ち。仮説の域はまだ(ギリギリ)出てないが、圧倒的比較第1党で政権与党。九州説は死にかけの弱小野党。
>843
これも何度目か、と思いつつ書いていますが、時期の問題なんですよ。焦点は、弥生から古墳時代に移る時期の絶対年代です。
843は、纒向ができてから国力差が反転していくことに「したい」のは伝わってきますが、纒向は自生的に成長したものではなく計画的に作られた人工都市で、国力差ができたから、纒向が作られたと考える方が合理的だと思いませんか?
畿内ではない、と決めてかかっているから、纒向ではないと言い張ってまだ見ぬ発掘されていない大遺跡を想定しなければならないんですよ。私が畿内に絹が出ないというより九州で絹が出たことの方が偶然、に対し、「遺物が出るのと出ないのでは出る方が倭人伝の記述に近いのは疑い用のない事実だからな」と書いたあなたが、実際に大遺跡が確認されている方が、まだ見ぬ大遺跡を想定するより、倭人伝の時代の倭国の中心地=邪馬台国に近いのは疑い様のない事実だとどうして認められないのか不思議です。
現状、纒向が邪馬台国の遺跡であるというのが、あなたのいうところの「一番確率の高い仮説」ですよ。
九州説の立場で畿内説を一生懸命否定する人が、途中から「俺は九州説にこだわっているわけではなくてどこでもいいけど(畿内だけは違う)」と言い出すのはなぜなんでしょうね。
奴国は絹を取引してたんだ…
九州は魏の前から朝貢してたんだ…
九州で絹が出土することは疑問でもなんでもないんだ…
ごめんね…
鉄を再利用していたならその炉の跡があると思う
絹とか服は3年が寿命っていわれてんだ
1700年前の古墳時代の絹なんてのこってるわけないだろ
※848
何をどう論破されたのか教えてくれ
そのレス番号よろしくね
※850
なぜ遺物は無視するのか?
距離もなぜ無視するのか?面積もなぜ無視していいのか?
全部無視していいなら邪馬台国じゃなくていいのでは?
畿内説は周旋五千里の解釈を早く教えてくれ
※851
>纒向ができてから国力差が反転していくことに「したい」のは伝わってきますが、纒向は自生的に成長したものではなく計画的に作られた人工都市で、国力差ができたから、纒向が作られたと考える方が合理的だと思いませんか?
纏向造営当初は各地の豪族が集まって作った計画都市だと言われている
各地の土器が集まって争いの跡がないのが証拠だと
しかし、造営当初の当時の国力であるといえる鉄があまりにも出ない、が4世紀には九州と畿内が逆転する
しかも最後に九州勢力が合流したことは土器の流入からもほぼ間違いないだろう
実際にどこで国力が逆転したか正確な年代はわからないだろうが、造営当初は九州勢力の方が国力が高かったのは事実
>畿内ではない、と決めてかかっているから
そうではない
魏志倭人伝の記述にあわなければ九州でも畿内でもどこでもそれは邪馬台国ではないというだけだ
仮に九州で3世紀中ごろの箸墓古墳ぐらいの大きさの前方後円墳が見つかったとしてもそれは卑弥呼の墓ではない
円墳ではない=倭人伝の記述と合わないから
>実際に大遺跡が確認されている方が、まだ見ぬ大遺跡を想定するより
大遺跡がでようがでまいが魏志倭人伝の記述に合わなければそこは邪馬台国ではないというだけ
距離・方角・面積・遺物・他国との位置関係、後の歴史書との整合性、そのすべてを無視して大きい遺跡があったからというだけで邪馬台国を決めていいのならローマでもいいのでは?
奈良のように魏志倭人伝とは距離も方角も遺物も面積も全く違うけど当時巨大な遺跡はあったぞ
という馬鹿げた理論にも反論できないのが畿内説だ
>俺は九州説にこだわっているわけではなくてどこでもいいけど(畿内だけは違う)」と言い出すのはなぜなんでしょうね。
それは何度も言うが倭人伝の記述に合致していないから
当時の日本は色々な勢力がひしめき合ってたのは事実
その中でただでかい都市が奈良でみつかっただけ、邪馬台国とは関係がない
>>854
古墳時代には奈良からも京都からも出土してるよ
大和天神山古墳をご存じないかな?
絹は服にだけ利用したわけじゃないよ
弥生時代に絹が出土するのは九州北部
古墳時代に絹が出土するのは畿内と日本海側
絹だけ見ると弥生時代まで優勢だった九州北部の勢力が古墳時代に畿内勢力に滅ぼされて絹を奪われる様子が伺える
さらに古墳時代は畿内と日本海側の2強体制だったかも
九州を併合した畿内勢力と日本海勢力の激突が空白の100年だとしたら面白いね
邪馬台国四国説が今一番新しいんだな
※856
もう一回、このスレの※を頭からじっくり読み直した方がいいぞ。
>856
魏志倭人伝の記述に合致しないから絶対に違う、「しか」言いませんが、それで言ったら黒い雉子も吠える猿も居ないですよね?畿内はもちろん九州にも居なくて、台湾には居ます。これをもって邪馬台国は今の日本の領域には絶対にないって言い張るのと同じだとは思いませんか?
結局、「違う」の根拠として出してくるのは、絹と鉄、だけのようですし。ものレベルだけで否定していて、状況(弥生終末期から古墳時代にかけての首長墓の発達)や遺跡(同時期の遺跡の分布や規模)を無視するのは、恣意的だと思いませんか?
纒向が計画都市で広範囲の勢力が協力していたのまで認めながら、しかも邪馬台国の時期と同時代だと認識していて、それを「ただでかい都市が奈良でみつかっただけ」というのがおかしいと思いませんか? 広範囲の勢力が協力した理由として魏志倭人伝のいう「卑弥呼の共立」が最もありそうな理由だと思いませんか?
様々な状況証拠、856も認めている部分こそが、纒向遺跡が魏志倭人伝の記述に合う邪馬台国の比定地と考えられている理由なのですが。纒向遺跡はただでかい遺跡ではなく、古墳時代への移行が行われたと考えられる場所であり、それが卑弥呼と台与の共立を契機とすると考えるのが最も尤もらしい推定だと考えられているからこそ、多数説になっている訳です。
鉄は北陸でもたくさん出ていますし、登呂遺跡でも普通に使われていたと考えられていますよね? 鉄があった方がいろいろ捗るのは確かですが、北部九州の独占物でもなければ、権力や国力を示す唯一の指標でもないですよね?
「周旋五千里の解釈」と言いますが、「水行十日水行二十日陸行一月が熊本あたりで収まるとは思えない」と同じで、魏志倭人伝に書いてあることが何でも正しいと思うのが無理があるんですよ。黒い雉子や吠える猿と同じで。
魏志倭人伝の著者、陳壽は倭国に来たことはなく、先行する魏略や答礼使の報告書を見て書いたのではと考えられている訳ですよね。そして想定される報告書の作者も、行程記事の形式が変わるところから先は行っていなくて、伝聞だけではないかと多くの人が想定している訳です。なので、魏志倭人伝の記述が九州中心なのはある意味当たり前だと私は考えていて、ほぼそれ「だけ」を根拠に「畿内説は絶対にあり得ない(俺は絶対に九州だとは言ってない)」と言われるとなんだかなぁ、と正直思います。
>>860
台湾は距離が違うと思いますし、朝鮮半島よりは中国大陸から直接行くのではないでしょうか?
>861
邪馬台国が台湾だと言っているわけではありません。現実の生物の分布から考えると「有獮猴黒雉」は台湾のことと考えられますが、「作者の頭の中」ではその辺りまでぼんやりと倭人の活動範囲なんだろう、ということです。
魏志倭人伝の正確さはその程度と捉えてください、というつもりの例示です。
中国の史書では倭国と台湾は別立てになっています。
※860
>魏志倭人伝の著者、陳壽は倭国に来たことはなく、先行する魏略や答礼使の報告書を見て書いたのではと考えられている訳ですよね。そして想定される報告書の作者も、行程記事の形式が変わるところから先は行っていなくて、伝聞だけではないかと多くの人が想定している訳です
魏志倭人伝をもとに邪馬台国探せないじゃん
どこの遺跡もここだっていえないじゃん
日本に来た人しか日本のことを書いちゃいけないじゃん
>862
それなら別に畿内でも九州でも出雲でも福井でも京都でも沖縄でも大田でもどこでもいいのでは?
ってなってしまうがな
郡から1万2千里の範囲にあるからこそを探せばいい
魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
これね
正月や季節の区切りがなくて春に種まいて秋に収穫したらそれを1年(一区切り)としてるってくだりか
収穫祭とか田植え祭りとかしてたのかな?
二期作とか二毛作してなかったのかな
徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の時代はまだ殉葬者がいて、その後の古墳では代わりに埴輪を置いたから、殉葬者の骨が100体分出てきたらそこが卑弥呼の墓ということになる
855
>そのレス番号よろしくね
つ >>716
>863、864
これも繰り返しこのコメント欄に出てくる議論で、極論ですよね。
私も他の人も繰り返し書いていることですが、魏志倭人伝に「書いてあるとおりの場所はどこにもない」っていうだけです。だからいまだに決まらない。
その状態で、魏志倭人伝の「この部分(絹と鉄)」に合わないから(畿内説は)絶対に違う、式の議論をしていたら、どこでもいい、ではなく「どこであっても否定できてしまう」から不毛だということです。
魏志倭人伝の字義解釈では決まらないので、考古学資料で確認できる部分を押さえながら、総合的に検証していくしかないということです。そして考古学資料では畿内説の圧勝状態、という状況です。
>869の補足
魏志倭人伝に書いてあるとおりの場所はどこにもない、ということは、魏志倭人伝だけで場所を特定できるほど、魏志倭人伝は正確ではない、という当たり前のことです。
860は、その正確ではない理由として昔から言われていることを、改めて書いただけですよ。
「方墳部分は陸橋説」を調べた感想
弥生時代の円墳にも陸橋部はあるから箸墓古墳みたいに弥生時代の陸橋部と形が変わってたら流石に墓の一部と思うんじゃないかなと思いました。
『魏志倭人伝の謎を解く-三国志から見る邪馬台国』でほぼ説明されている通りだと思うけど。
邪馬台国や倭国に関する情報は、一定正しいのだろうけど、多くの偏向に満ちているのはほぼ間違いない。
中国の史書は、事実に基づいた記録を残すものではない。
黒い雉の記述だが、ヤフー知恵袋の「「雉」という字が有りますが、日本のキジとは」というのを
見てみると、
〈中国で言う「雉」というのはキジの仲間の総称であり、特定の種名を指す言葉ではありません。
日本のキジ(Phasianus versicolor)は日本の固有種であり、日本にしか生息していないため、中国の「雉」はおのずから日本のキジとは別種ということになるのです。
中国では通常、キジのことを「雉」ではなくて「野鸡」と言います。
雉という文字には「垣根」という意味がありますが……
中国に棲んでいる雉の仲間は色々いるので、いずれかだと思います
高麗雉(日本雉の亜種で北海道にもいるのでこれは違うかな?)
尾長雉(三國志の呂布の頭飾り…)
金鶏、銀鶏、雪鶏、雪シャコ、唐山鳥、蒙古雉、耳雉、帝雉、ハッカン(漢字は不明…)
ヒマラヤから中国の西部にかけての広範囲にキジ科の鳥類は多いです〉 とある。
※855
>なぜ遺物は無視するのか?
理由は散々上で説明されてるだろ池沼か?
>距離もなぜ無視するのか?
ちゃんと読め無視は方角。距離を重視した結果が畿内
>畿内説は周旋五千里の解釈を早く教えてくれ
伊都国の先はよくわからないって書かれてるわけだから、伊都国までのわかってるところ、参問できるところの倭地が周旋五千里ってだけの話
何があっても「邪馬台国=畿内」を認めたくない意固地な奴が難癖をつけているだけのスレになってきたな
871
形は変わってても、墓として神聖な部分と認識できるのは円墳部だけだった可能性は充分あるんじゃない
弥生時代に前方後円墳なくね?
※877
スレを頭から読め!!
箸墓古墳を見て前方後円墳はあれで1つの古墳だと認識できました。
後円部分だけ抜き出すのはどうかと思います。
>>878
魏の使節が前方後円墳をみたことがあったら円の部分だけを記述するのがおかしくなっちゃうだろ?
魏志倭人伝の著者がわざわざ間違える必要ないから何かしら事実が含まれてないと
※880
スレを頭から読め!!
魏志倭人伝の著者、陳壽って私も書きましたが、陳壽が書きたかったのは東夷伝倭人条ではなく、正史としての「三國志」です。わざわざ間違える必要はないですが、力点を置いて正確さを期して書いている訳でもない部分です。晋において司馬氏の功績を強調するために、司馬懿が公孫淵を滅ぼし、それによって公孫氏が遼東を押さえたために途絶えていた倭国の遣使が復活したことを、長く字数を割いて書いているという側面はあるそうですが。
魏志倭人伝がそこそこ正確で、今の研究のほうが的を射てないのかもね
>884
???
魏志倭人伝がそこそこ正確で、方角があやしいね程度の解釈修正で、今の研究と整合性が取れるから、今の多数説があるんですよ。
今の研究が的を射ていると考えられるのは、魏志倭人伝がそこそこ正確だからです。
どれだけ頑張っても、スレを読めば畿内説の方が圧倒的有利だと言う事が分かるから、いつまでも朝鮮人みたいにダダを捏ねるのは止めた方がいいぞ。
纏向遺跡が邪馬台国じゃないと思われる理由は
宮室、楼観、城柵がないこと
鉄の武器で武装した兵が厳かに守っていたはずなのに鉄製品がほぼでないこと
奈良には倭国大乱がおこった痕跡(死体)がないこと
東に海を渡ったところに住む倭人の地がないこと
南に大した勢力がないこと(和歌山も奈良同様鉄などの出土品がほぼない)
北に伊都国がないこと
※868
何か証拠のようなものが出てくるかと思ったら
>可能性が高い
ってただの感想、願望やないか
反論が仮説とはいかに?
ちゃんと確定してから教えてね
>>885
動物は台湾で風習は南九州で鉄と絹は畿内になくて年寄りの年齢は二年歴だと50歳で
方角も距離も違って実際は邪馬台国に行ってないと主張されていたはずでは?
方角が怪しい程度と今までの書き込みの落差に驚きました
朝鮮人言うてるのは同じ奴か?
まるで朝鮮人のように印象操作をするんだな
※860
>「卑弥呼の共立」
>>卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」で倭国の王として除正を受けているので、地方政権では話になりません。
>当時の倭は東に海を渡ってまた倭人の地がある上に敵対勢力の狗奴国もあることから統一政権ではな>いと魏志の中で認めていると思うんだけど
これについても反論してくれ
別に日本を統一するほどの大勢力じゃなくても魏は金印をくれているんだから、巨大勢力を想定しなくてもよい、というか当時の奈良は明らかに九州より国力下だったけどね
>北部九州の独占物でもなければ、権力や国力を示す唯一の指標でもないですよね?
国力をしめす唯一の指標ではないが、重要な指標の1つ
朝鮮半島の鉄を日本海ルートと対馬海峡ルートで手に入れていたという事実があるが、大和政権が成立して以降は大和に鉄が大量に流入したように、時の大勢力が鉄を多く入手していたのは事実※860
>889
そこそこ正確と、一通り正確の違いは分かりますか?
方角を90度回せばだいたい畿内にたどり着けば、その部分はそこそこ正確でしょう。
それでも旅程が距離から日数に変わるところから先は不正確と言うより不明確だし、風物や風習は、大陸の外のことが適当に交ざっている感じなのは、ここまでのコメントを読んでもらえば分かると思いますが。
結局自分の都合のいいところだけ切り出して勝ったような顔をする点は変わらないんですね。
>それでも旅程が距離から日数に変わるところから先は不正確と言うより不明確
え?
※892
>>方角を90度回せばだいたい畿内にたどり着けば
なにこれ。自分の都合のいいところから出発すればいいだけじゃん。
学者はこんなことを言えばいいのか、学問ってこんなもんなん
>>892
結局大陸の外が混ざってるって
混ざってるにもかかわらず肝心の畿内のものだけピンポイントでないんですけど
弥生時代から前方後円墳なんでしょ?鉄を鋳とかして何度も使うための炉は?祭祀場と住居を分けてたこと書いてなくね?市場と人口は?刺青ないんでしょ?東の狗奴國と戦争してたんでしょ?戦死者は?献上品や交易品の絹は?殉葬者は?
ここまで記述と違うといっそ奇跡だよね
>887
>宮室、楼観、城柵がないこと
建物は基本的に柱跡しか出ないので、どんな建物かは推定によるしかない部分が多いので、ないと言い切るのはむつかしいですよ?
もしかして、吉野ヶ里遺跡にはあるのに、と思っての書き込みじゃないですよね? あれはそうだったらいいのにな、という願望の混じった地上部の復元ですよ。
纒向遺跡では当時最大級の建物の柱跡が出ています。これを宮室ではなかったと考えるのは自由ですが。それから纒向に先行する大和盆地の唐古鍵遺跡から、楼閣の線画が出ています。
>鉄の武器で武装した兵が厳かに守っていたはずなのに鉄製品がほぼでないこと
原文は「常有人持兵守衛」ですよね。鉄の武器で武装ってどこから読み取れるのですか?
よほど「鉄」に思い入れがあるのでしょうが、魏志倭人伝に合わないから、とさんざん言ってきた人が、魏志倭人伝に書いてもいないことを根拠にするのは驚きです。
>奈良には倭国大乱がおこった痕跡(死体)がないこと
倭国大乱であって、邪馬台国が戦場になった、とは書いてないので、それを根拠にされても。奈良盆地では庶民(兵士階級)の墓が余り出ていないので、単に発掘バイアスなのかもしれませんがこの辺は詳しくないので深入りしません。
>東に海を渡ったところに住む倭人の地がないこと
畿内説が正しく方位が90度回っているなら北になるわけですが、それだと隠岐の島とか佐渡とかありますね。どちらも記紀に載っています。対馬海峡が千余里ですから距離もそんなものでしょう。
>南に大した勢力がないこと(和歌山も奈良同様鉄などの出土品がほぼない)
畿内説が正しく方位が90度回っているなら東になるわけですが、濃尾平野にはそれなりの規模の環濠集落があり、十分な勢力だと思います。
>北に伊都国がないこと
畿内説が正(ry
濃尾平野(狗奴國)との戦争跡はなんて遺跡ですか?
○濃尾平野が狗奴國→魏志倭人伝は一部方角が間違ってる
×魏志倭人伝は90度回転させなければならない→濃尾平野が狗奴國
主張すべきは逆なんだよなぁ…
※896
>もしかして、吉野ヶ里遺跡にはあるのに、と思っての書き込みじゃないですよね? あれはそうだったらいいのにな、という願望の混じった地上部の復元ですよ。
吉野ヶ里とかはこの際どうでもいいよ
ただ纏向は記述と合致しないというだけ
>兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃
少なくとも鉄の矛と鏃は使わないとな
>邪馬台国が戦場になった、とは書いてないので、それを根拠にされても
九州は各地に争いによって死んだと思われる遺骨が、有棺無槨の記述と合致する甕棺から多く出土するよ
>畿内説が正しく方位が90度回っているなら北になるわけですが、それだと隠岐の島とか佐渡とかありますね。どちらも記紀に載っています。対馬海峡が千余里ですから距離もそんなものでしょう。
そのような小さな島の情報まで載せるのに、なぜ畿内までの道のりや淡路島、四国などは不明瞭なのか?
そもそも女王国より北は詳らかではないではないか
この北も西に読み替えるのか?それなら西は九州と通過したであろう支配下である瀬戸内海の国家なのだから詳細がわかりそうなものである。
>濃尾平野にはそれなりの規模の環濠集落があり、十分な勢力だと思います。
ちなみに濃尾平野は鉄製品などの出土数は畿内よりもさらに低い
九州から畿内まで跨る大国とはもはや勝負にはならない吹けば飛ぶほどの雑魚でしかない
>891
倭人の住むところと、倭国はイコールではないんですよ。
魏志倭人伝でも夏后少康之子封於會稽と、会稽に倭人がいるとされていますがここは倭国ではないでしょう。
基本は遣使の上表文に対して除正するのですが、間違った除正は皇帝の権威に関わりますから、抑制的に値切られる方が多いようです。倭の五王の時も、求めた称号のいくつかを削られています。倭王は地域の首長ではなく、倭国の王という認定というのは文献史学の人の受け売りなので、今ソースに行き着けないですが、使譯所通三十國の30国から文句が出ない程度の正しさは認めてよいと思います。
要は一地域国家を倭王と除正したら、別の地域国家の長が朝貢してきたときに困るということで、それを魏朝は認めないということです。
大月氏と同じく当時の最恵国待遇のはずでは?
>899
私は纒向には当時最大級の建物跡がある、と書いたのですが読めますよね?
これが宮室や楼観ではないと、「証明」されなければ、纒向に楼観や宮室がないとは言えないですよね。さあ、楼観や宮室ではなかったと証明してください!
あなたが畿内説の否定に使っているのは、こういう論理です。バカバカしいと思いませんか?
もう一つ>899
>兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或骨鏃
少なくとも鉄の矛と鏃は使わないとな
ここで「鐵」がかかっているのは鏃だけですよ?鉄の矛なんて書いてませんし、もともと宮室の護衛とは関係のない記述ですよね?
漢文、読めますか?
先にも書いたことですが、魏志倭人伝の記述通りの場所なんてないんですよ。あなたが九州説の具体的な比定地を挙げてくれれば、同じレベルかそれ以上に否定の論拠を並べられますよ。纒向という具体的な場所に対しては具体的なけちが付けやすいと言うだけで、一部ねつ造に近いことまで書きながら、一生懸命反論するエネルギーが凄いなと思いました。
>>903
その鉄の鏃は?
せっかくなので>899
>そのような小さな島の情報まで
隠岐も佐渡も記紀にいう大八洲なので、日本にとっては小さな島ではないし、倭人からの聞き取りなら入ってもおかしくはないと思いますよ。別に大きな島と書いてあるわけでもないですし。
※903
私は畿内に行くには日本海を通っていったと思ってるので、貴方の論に反対しますが、九州の場所は分かりません。
それとも貴方に反対する人は全て九州説で九州の遺跡を邪馬台国認定しなければならないのでしょうか。
横から失礼と書かなければいけませんでしたかね?
>903
邪馬台国は土佐だと学者が認めてる
壱岐も対馬も国ですからね。
俺は北関東説だから九州の場所は言わない
巨大都市+鉄の鏃=出雲=邪馬台国
距離も方角も関係ないからこれが正解
※903
矛と書いたら普通鉄の矛じゃないの?同じく剣も。これは記憶違いかも知れないが
銅矛とは書いてないからね
ちなみに銅矛も奈良からはほとんど出土しない
宮室の護衛も兵だろうに
まさか厳かに警備してるはずの宮室の護衛が徒手や棍棒で警備していたのかな?
>魏志倭人伝の記述通りの場所なんてないんですよ。
それを持ってして倭人伝の記述を全て否定するのが畿内説
というか九州説の弱点と言われる距離も
千余里=六十日行や、倭の東西五ヶ月行、南北三ヶ月行を考慮すると相当歩みが遅いので妥当だと思われるが
>あなたが九州説の具体的な比定地を挙げてくれれば、同じレベルかそれ以上に否定の論拠を並べられますよ。
現状確たるところはない。まあそれは纏向も同じことだけど
>一部ねつ造に近いことまで書きながら
具体的には?
他にも畿内説の根拠が薄いところは、後の史書にはきちんと瀬戸内海を航行して筑紫を発ったことや周辺国のことが書いてあること
そもそも、(やまたい)じゃなくて(やまと)だろ
場所がわからなくてもせめて読みは直せや
「遠津川族(とつかわぞく)伝説」
吉野の山奥に住んでいた遠津川族は、柿渋で染めた合羽を着ていたので「カラス」と言われた。また頭が大きいので「八咫烏」とも言われた。神武東征の際に道案内をした部族で、ヒミコの時代には宮殿の警護や情報収集をしていた。「倭、載烏越等を遣わし・・」とあるように、魏への使者を務めたこともある。
また、衛士の長が献上した遠津媛(トオツヒメ)は霊力があり ヒミコの侍女をしていた。またの名を遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクワシヒメ)という。後にミマキ(崇神)の妃となりトヨ(豊鋤入姫)を生んだ。
結局、鉄と絹が畿内に少ない、以外の根拠は言わないんですよね。
そして、論理から言えば、「ある」ことは根拠になりますが、「ない」ことは証明が難しいから根拠にするのは難しいのは分かりますよね? あなた自身、「纏向遺跡じゃない大きな遺跡は見つかってないけど、どこにあるかは分からないけどあるはずだ」って言ってましたし、そんな遺跡は「ない」ことは証明できませんから。
遺跡よりも小さな鉄鏃は見つからなくてもおかしくないし、今後見つかるかもしれないし、それをもって魏志倭人伝と合わないから「絶対」違うという根拠としてはそもそも厳しいのは分かりますか? そして、畿内からも鉄は出ているし、稲作関連で稲作をしていた範囲で使われていたのは鉄自体が出土していなくても確実で、単に少ないから違う、というのは難しいのは分かりますか?
鉄の出土量が国力の「一つの」指標になるのは確かですが、遺跡の規模や古墳の大きさの方が、より直接的な指標になります。
そして、「そもそも論」として根源的なこととして、魏志東夷伝倭人条であって、邪馬台国条、あるいは魏志邪馬台国伝ではないというところも確認してください。いわゆる魏志倭人伝に書いてある倭人や倭国の習俗、文化水準は、倭国の記述であって、邪馬台国ピンポイントの様子ではないということです。つまり、鉄鏃を使う倭人が九州にいれば、それは魏志の倭人条に書かれるだろうし、それが邪馬台国で出るかどうかは分からないってことです。
後漢書には
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
桓・靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞 法俗嚴峻
とあって、安帝永初元年西暦107年の帥升から「倭国王」とされています。鉄と絹にこだわっている人の論法は、この帥升の時期のこととすればぴったり当てはまると思いますし、この帥升は九州の伊都国あたり(根拠なし)の王であり、倭国王(倭国で一番の中心)で問題ないと思いますし、後の大和朝廷とも直接は関係ないと考えてよいと思います。
しかし、その後桓帝と靈帝の在位の頃に倭国大乱がある。
纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり、大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが、乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
定形の前方後円墳は、箸墓以降だというのは、
数段の段築成で各段に円筒埴輪を置く 吉備
葺き石を置く 出雲
副葬品は剣・鏡・玉 北部九州
前方後円形(天円地方の思想?) 畿内
という、各地の弥生末期の王墓級墳丘墓の特徴を全て併せ持つ最初の大古墳が箸墓だからです。
纏向+箸墓は単にでかい遺跡などではなく、倭国内の各勢力が協力して作り上げた特別な都市であり古墳であることが分かります。そしてこのこと自体が、倭人伝のいう「卑弥呼の共立」を思わせるものです。
そして、倭国の習俗、鉄を使うとかは、倭国王帥升のときの遣使の情報も入っているでしょうし、九州の情報が多くても何の不思議もないし、それをもって邪馬台国は近畿ではないと言い張るのはおかしな話だということです。
繰り返しますが、弥生終末期から古墳時代に移行する時期の年代観の問題です。弥生時代のある時期までは北部九州が日本の中心であり鉄器もたくさん出ているけれども、それをどこまでも延長して、鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
「証拠はなくても、俺の考えの中では確実だ」ということまでは否定しませんが。
あと、狗奴国の位置について後漢書では
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王
となっています。女王国の南ではなく東に千里海を渡ったところが拘奴國になっていて、魏志倭人伝の記述が一部ニコイチになっている感じです。
王朝の順序としては、前漢、後漢、三国(魏呉蜀)、晋の順ですが、史書は三国志の方が後漢書よりも先に成立しているので、後漢書は三国志の記述を受けてのものです。中国の史書をどの程度信頼できるかの、参考にしてください。
ああ、箸墓の発掘は陵墓参考地で行われていないので、副葬品については他の発掘調査が行われた初期古墳からの推定です。北部九州の勢力も古墳時代の成立にしっかり関与していることだけ確認してもらえばOKです。
※914
倭國王帥升 すいしょう は水松の音読みで 「水松彦」第六代考安天皇(ヒミコの大伯父)
(根拠はないので無視してください)
※887
この間放送があった知恵泉によると、纏向遺跡の発掘はわずか2%程度。
これから、色々な出土が期待できる。環濠や城柵などの跡が出てきたら、
纏向=邪馬台国で確定してもいいって事だな。
ちなみに、大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代中期の池上・曽根遺跡は、
南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる、総面積60万m2に達する大規模な環濠集落
鉄製品の工房もあったようだ。
これらの事を考えると、纏向でも出てくる可能性が非常に高い。
914さんが書いたと思われるコメントを前から読んでいくと他に大きい遺跡が見つかったらダメだし、箸墓古墳の年代がいま考えられているより遡らないとダメなんだと分かりました。
あくまで、魏志倭人伝を都合のいいように抜粋して変更した上で現状、年代と様式を都合よく当てはめた結果だと分かりました。
その上でわたくしの考えは、纒向遺跡だとか箸墓古墳だとか決めつけず、遺跡の発掘や調査を楽しみたいと思います。
もしかしたら、思いもよらないところから大発見があるかもしれないですしね。
888
お前の「径100歩=円墳」理論も一緒だろ
鉄だとか絹だとか高楼だとかは、九州の習俗や建物であり、
それが邪馬台国のものだなんて書いてないよ。
ちゃんと魏志倭人伝を読めよ九州説の低学歴くんはw
911
>千余里=六十日行や、倭の東西五ヶ月行、南北三ヶ月行を考慮すると相当歩みが遅いので妥当だと思われるが
中国人がその道のりをちゃんと行ってればそれもあり得るが、
中国人「奴国以降は遠過ぎてよくわからない」
と書いてあるわけだからその可能性は極めて低い。
九州説への学者の支持率とぴったり一致するくらい低い。君の偏差値と民度(ry
魏志倭人伝の記述で、九州に合致しない事は、どう説明するんだろうか?
※914
>結局、鉄と絹が畿内に少ない、以外の根拠は言わないんですよね。
女王国まで万二千里、周旋五千里、魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、戦乱の遺体、方角、距離(水行十日、陸行一月では到底畿内まで到達できない)、東の倭種の地、南の対抗勢力、これら全てが根拠であり、畿内にはないもの
早く瀬戸内航海の記録がないことと、北の不詳の地、南のくな国、東の渡海した地をくるくるくるくる方角を回転させていることの回答を教えて欲しい
「絶対」だとかなんだとか勝手に人の言葉を付け足すのはやめて欲しい
相手の言葉を勝手に作り出して議論するなどはただのシャドーボクシングではないか
議論は建設的に行うべきだ
何度も言うとおり、今は確率を1%1%と積み上げる作業しかできないのが現状だ
(金印なり卑弥呼の墓なりが出てきたら話は一瞬で決着するだろうが)
その根拠の積み上げ作業が畿内説は一切合切無視してるということ
何度も言うとおり魏志倭人伝の記述にそぐわないならいくら巨大遺跡でも邪馬台国とは関係のない1つの遺跡である
>纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり
あなたは卑弥呼の共立を超巨大な統一体だと思っているのかもしれないがそれは間違いだ
なぜなら、かつて100ほどもあった使役通じる国が今や30国ほどに減っているからだ
それを見ても女王国連合が思ったよりも小規模だということがわかる
さらに北も不明、東も不明、南は敵。全く巨大な統一体だと思わせる節がない
逆に大和朝廷になってからは倭王武の上奏文や隋書、旧唐書の記述を見る限り、限りなく大きな統一体だということがわかる
>大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
奈良や大阪にも同時期の戦乱の死体はでない、卑弥呼が死去した後もまた大乱が起こったのだから上記のような批判は当たらない
>鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
これの意味がわからない
畿内説派は自説の勝利のために議論してるように見えてしまう
大事なのは真実の探求であり、自説の勝利などではない
ただ真実に導くために議論が必要であり、根拠の提示が必要なのだ
あなたは鏡を見て私が畿内説の否定を強弁してると思い戦ってるんだろうが、そのような低い次元の話はやめたほうがよい
真実の探求を諦め、自分のプライドのために議論を行うのは学問に対する冒涜ではないか?
※920-922
>お前の「径100歩=円墳」理論も一緒だろ
径百歩だけで表現できるのが円墳
色々わけのわからない解釈を付け足さなくても成り立つ
>鉄だとか絹だとか高楼だとかは、九州の習俗や建物であり、
>それが邪馬台国のものだなんて書いてないよ。
>ちゃんと魏志倭人伝を読めよ九州説の低学歴くんはw
宮室樓觀城柵は女王国というか卑弥呼の住まいの様子であり、絹は倭国の産物である上に魏から賜ったものでもあるんですけどね
どちらがちゃんと読んでないんでしょうかね
>中国人がその道のりをちゃんと行ってればそれもあり得るが、
>中国人「奴国以降は遠過ぎてよくわからない」
>と書いてあるわけだからその可能性は極めて低い。
>九州説への学者の支持率とぴったり一致するくらい低い。君の偏差値と民度(ry
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
わからないのは女王国より北にある国々ね
女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
あと人格攻撃は余裕のない証拠だからやめたほうがいいと思うよ?
偏差値と民度が高い高学歴大先生君に説教するのも申し訳ないが
で、九州からは青玉の産出や、生野菜を食べていた証拠、黒雉、吠える猿とか居るの?
青玉=翡翠は九州でよくとれるし、雉は※873に詳しい、吠える猿の吠えるはどこからきたのかわからないが猿はいるわな
生野菜を食べていたという証拠は申し訳ないが勉強不足で提示できない
しかし芹や葺等日本原産の野菜が日本各地に自生してる事実はあるんだから
野菜自体は存在した、そしてそれを食べたという文書がある
あとは自分で食べたか食べていないかを判断してくれ
まあ証拠が提示できないのはどこも同じでしょう
この極論君は1間違ってたら残りの99も全部無視ってのが面白いね
信憑性というものは100点満点中、何点とれるかだろう
これが90点取れるのが九州地方で、10点も取れないのが畿内
925
>色々わけのわからない解釈を付け足さなくても成り立つ
偏差値が低くて理解できないか、民度が低いから勝手な基準で拒絶してるか、その両方か。人格攻撃ニダとか言ってるが、ただの事実だったね…。
そういうのは誠実な学者の間では通用しないよという忠告だよ。
そんなことだから九州説ボロ負け、畿内説圧勝なのよ。
>女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
そうだよ。それが何か?
927
>これが90点取れるのが九州地方で、10点も取れないのが畿内
伊都国周辺のこと=邪馬台国のこと
だと勘違いしてるとそうなる。
「伊都国から先は遠くてわからない」と書いてるので
伊都国周辺の記述はなんの加点にもならない。
だから九州説は0点になって、もはや愛知説よりも低い。
>924
いい加減疲れてきましたが せっかくなので逐条解説しましょうか
> 女王国まで万二千里、周旋五千里、魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、
>戦乱の遺体、方角、距離(水行十日、陸行一月では到底畿内まで到達できない)、
>東の倭種の地、南の対抗勢力、これら全てが根拠であり、畿内にはないもの
「ない」ものを根拠にするのは難しいって書きましたよね?
あなた自身、843で
「もし邪馬台国が実在したとするのなら日本のどこかから発掘されるのは間違いない」
といっていますが、これを私は「ない」と証明することはできません。
それと同じで、「魏晋鏡、甕棺、勾玉、矛、鉄、絹、丹(丹土)、戦乱の遺体、」がないとあなたが証明することはできないと思いますが、あなたの根拠の場合あなたがないと思えば根拠にしていいんですよね。
それはさておき、
魏晋鏡については、あなたが何をもって魏晋鏡としているのかいまいち分かりませんが、畿内でたくさん出る三角縁神獣鏡の研究は地道に進んでいて、一部のバージョンは中国製とされるようになっていたと思います。暇だったら調べてみてください。
甕棺は九州の墓制ですから、畿内では出ないでしょうが、棺あって廓なしの棺は甕棺である必要はないでしょう。
勾玉が畿内で出ないというソースを私は知りません。矛はメスリ山古墳から出ていますね。鉄はこれまでのコメントにもあるように、兵庫京都からはたくさん出ています。でもあなたの認識では、畿内に「ない」ものなんですよね。
絹は有機物だから(ry
丹というか水銀朱はむしろ畿内に特産地があります。
戦乱の遺体は、纏向遺跡が大乱後の造成だからで十分だと思います。
方角は、九州内での移動ですでに90度回っています。
距離はむしろちょうどでしょう。「到底畿内まで到達できない」はあなた個人の感想ですね。
東の倭種の地、南の対抗勢力、90度回っているなら特に問題ないのは896ですでに書きましたし、914でも書きましたが、後漢書の記述を見るとこの二つがニコイチになっていて、それほど中国の史書も正確性を期していないことが分かります。
>早く瀬戸内航海の記録がないことと、北の不詳の地、南のくな国、東の渡海した地をくるくる
>くるくる方角を回転させていることの回答を教えて欲しい
全部、90度回すだけで説明したつもりですが。くるくるはしていませんよ。
瀬戸内航路の話は私は一度もしていません。この件については詳しくないので一度も触れていません。ただ、瀬戸内航路でも日本海経由でも特に問題だとは思いません。最後の陸行1月が長いくらいで。
>「絶対」だとかなんだとか勝手に人の言葉を付け足すのはやめて欲しい
まあ、絶対とは言っていないかもしれませんが、「全くよくない」「間違いない」等の全否定や決め付けの言葉は何度も使っていますよね?
>相手の言葉を勝手に作り出して議論するなどはただのシャドーボクシングではないか
>議論は建設的に行うべきだ
私には「あなたの議論」の仕方が、あら捜しや揚げ足取りに見えます。途中からかなり荒れた言葉も使っていますし。建設的な議論ならよいのですが。
>何度も言うとおり、今は確率を1%1%と積み上げる作業しかできないのが現状だ
(金印なり卑弥呼の墓なりが出てきたら話は一瞬で決着するだろうが)
その1%ずつ式に、考古学資料その他の研究を積み上げた成果が、弥生年代の遡上であり、古墳時代前代が邪馬台国の時代に重なってきた、という流れなのですが。一度、弥生期から古墳時代始期の年代論の研究成果を調べてみてはいかがでしょうか?
>その根拠の積み上げ作業が畿内説は一切合切無視してるということ
>何度も言うとおり魏志倭人伝の記述にそぐわないならいくら巨大遺跡でも
>邪馬台国とは関係のない1つの遺跡である
私から見ると、あなたの方が年代論の積み上げ一切を無視して議論しているようにしか見えません。
魏志倭人伝の記述にそぐわないと「判定する権限」はあなただけが持っているのですか?
>纏向遺跡が自生的な集落ではなく計画都市で、日本の各地域の特徴を持った土器が多数見つかることを考えると、纏向遺跡は卑弥呼が共立されて王となり
>あなたは卑弥呼の共立を超巨大な統一体だと思っているのかもしれないがそれは間違いだ
> なぜなら、かつて100ほどもあった使役通じる国が今や30国ほどに減っているからだ
> それを見ても女王国連合が思ったよりも小規模だということがわかる
ここを見て、あなたの判断の仕方が一部分かったような気がします。
100から30に減ったのは、倭国100カ国のうち70カ国が女王国連合から漏れていると考えているのですね?
この部分は多数説では、地域の統合が進み小国は地域の盟主の下に統合されたから国の数が減ったと判断しています。女王国連合に入っていない国が多く、女王国が弱体であるのではなく。
先にも書きましたが、弥生期晩期にはただ一人の首長のために多くの労力・宝物をつぎ込んだ王墓級巨大墳丘墓が各地に作られるようになります。こうした地方王権の伸張が、周りの小国を吸収する形で進んだと考えられている訳です。
> さらに北も不明、東も不明、南は敵。全く巨大な統一体だと思わせる節がない
>逆に大和朝廷になってからは倭王武の上奏文や隋書、旧唐書の記述を見る限り、
>限りなく大きな統一体だということがわかる
不明なのは魏志の作者にとってであって、倭国の人間には不明でもなんでもないと思いますよ。
周囲を併呑して成長した30カ国の統一体は、あなたの言う「限りなく大きな統一体」とみなしてよいと思います。
「思わせる節がない」というのはあなたの誤読に基づく個人的な感想ですね。
>大乱がおさまってから作られたと考えるのが、一番自然な推論です。纏向遺跡には倭国大乱の跡がないと「鉄と絹の人」は繰り返していますが乱が収まった後に作られた都であれば、乱の跡や戦死者の墓がないのは当然でしょう。
> 奈良や大阪にも同時期の戦乱の死体はでない、卑弥呼が死去した後もまた大乱が
>起こったのだから上記のような批判は当たらない
まあ、乱が畿内で起こる必要はないですからね。倭国王帥升後の乱は、九州中心らしいですし(そうですよね?畿内ではない理由にそれを挙げているくらいですから)卑弥呼後の乱も、そのときの残党と考えれば、九州でよいのでは?
>鉄が多くあるのが北部九州だから邪馬台国も九州だ(とは俺は言ってない、機内でなければどこでもいい、でも結局は同じです)、畿内ではあり得ない、というのはただの強弁だというのは分かってもらえるでしょうか。
>これの意味がわからない
>畿内説派は自説の勝利のために議論してるように見えてしまう
>大事なのは真実の探求であり、自説の勝利などではない
> ただ真実に導くために議論が必要であり、根拠の提示が必要なのだ
> あなたは鏡を見て私が畿内説の否定を強弁してると思い戦ってるんだろうが、
>そのような低い次元の話はやめたほうがよい
でも、あなたのやっていることは客観的に見て、畿内説の否定、纏向遺跡は魏志倭人伝と関係ない、という主張のみに見えるのですが。畿内説の肯定的な理由根拠には一切言及せず、鉄が畿内には出ないから魏志倭人伝の記述と違う、という否定のみに字数を割いているように見えます。
相手の意見を一顧だにせず、違うったら違う式の書き込みは建設的だとは思えません。
>真実の探求を諦め、自分のプライドのために議論を行うのは学問に対する冒涜ではないか?
私、特にプライドはないですよ。年齢と春秋年のところでは恥をさらしてますし。
基本的に素人の聞きかじりですから、プライドも何もないです。ただ、これまでに読んできたことなどで、十分に説得力があると思った部分を紹介しているだけです。
あなたの方が、文体が荒れたりブレが合ったりしている部分が見受けられますが、プライドを傷つけられたと感じているのではないですか?
>925
>「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
>わからないのは女王国より北にある国々ね
>女王国までは方角、距離、戸数、国々の様子まで詳らかにされてますぜ
漢文、読めますか?(二度目)
自女王國以北 ここまでが「女王国より以北」女王国の北側です。
魏志倭人伝では女王国まで南に向かっていますから、「倭国に着いてから女王国まで」が「女王国の北側」です。
其戸數道里 可得略載
其餘旁國遠絶 不可得詳
これが対句になっているのは分かりますよね?
その戸数や道里が略載できるのは「自女王國以北」であって、
その余の旁國については遠絶なので、詳しいことは分からないと書いてあります。
つまり、女王国の北側「以外」の国が分からないと書いてあるのですよ。
単に筆が滑っただけかもしれませんが、きちんと読みましょう。
>>930
絹は出土してますよ
別に有機物が出土しないわけではないですよ
畿内説を唱える人が絹の出土状況知らないわけではないですよね
租税を徴収してたことは書かれてるけど、調はどうだったんだろう
もし畿内説さん(便宜上こう呼ばせてもらおうかな)は九州を支配下においてるから別に畿内では出土しなくていいって書いてたけど、そうしたら税として絹を納めなくてもいい優しい政権だね。
倭国の王とまで称される巨大国家の支配層の人たちは麻を着て、大事なものも麻にくるんでたのかな?
九州で米と交易していた鉄や絹を自分たちの本拠地に税として運ばせないってことはそんなに強い政権ではなかったのかなと思ってしまう。
のちの大和朝廷の中央集権ぶり(手本は中国)を考えるとそんなに権力は強くなかったのかもね
傳送文書賜遺之物詣女王
ここに絹は含まれてなかったと考えればいいのかな?
>932,933
ものがないことを理由にしても、それは強い根拠にはならないと何度言えば。
絹みたいなものは、出ることもある、であって、どんなにたくさんあっても出ないときは出ないし、逆に明日畿内で発掘されるかもしれませんし。
絹がいくらあっても、蚕が出たって話はあるんですかね? 養蚕をしているって書かれていたら蚕が出てないと否定されるのかというのとそんなに違わないって分かりますか?
分かりやすいように極論で書いてますが、有機物の遺物の扱いは注意が必要です。
914でも書きましたが、再掲します。
そして、「そもそも論」として根源的なこととして、魏志東夷伝倭人条であって、邪馬台国条、あるいは魏志邪馬台国伝ではないというところも確認してください。いわゆる魏志倭人伝に書いてある倭人や倭国の習俗、文化水準は、倭国の記述であって、邪馬台国ピンポイントの様子ではないということです。つまり、鉄鏃を使う倭人が九州にいれば、それは魏志の倭人条に書かれるだろうし、それが邪馬台国で出るかどうかは分からないってことです。
これと同様に、倭国からの献上品が邪馬台国産品に限定される必要がないのは分かりますか? 倭国王としての遣使であり献上品なのですから、むしろ国中からよいものを選んで献上するでしょう。
物のあるなしで否定しようとするのは、根拠として弱いですよ。
>>934
鏡と土器が出たから畿内って書いてたよね?
弥生時代には楽浪系の三眠蚕が飼われてたそうですよ
1世紀から2世紀にかけて伝わったんだね
本当かどうかは分からなかったけど伝えた人の記録まで残ってる
中国で門外不出になる前にもたらされたのか、それとも長江河口の倭人が持ち帰ったのか、記録どおり朝鮮半島経由でもたらされたのか、興味は尽きない
>927
>青玉=翡翠は九州でよくとれるし、
青玉というのはサファイアらしいですよ。
私は九州のサファイア産地を知らないのですが、あったら教えてください。
吉野ヶ里遺跡は紡錘車が出土してんじゃん
※938
コランダムなら産出してるよ!
是非掘りにきてみてください!
>936
で、倭国で三眠蚕が飼われていたという記録文献があって、蚕の遺物が出ないからそこは倭国ではないって言われたら、何を言ってるんだろう?って思いますよね。
物、特に有機物が出ないことを根拠にするのは、根拠として弱いっていうのが分かってもらえるでしょうか。
>940
ありがとうございます。
コランダムの青いのがサファイアですよね。九州のコランダムで青い良いのは出るんでしょうか?
質問ばかりですみません。
弥生時代の区分が変わったという主張を受けて調べました
以前は、弥生時代を3つにの区分に分け、前期 紀元前200~紀元前100年、中期 紀元前100~紀元後(西暦)100年、後期 西暦100~西暦300年頃としていました。
しかし、近年時代測定法の進歩により、弥生時代が広がりつつ遡るようになり、西暦2000年には、早期が紀元前1000年頃から紀元前800年頃、前期がその後紀元前400年頃まで、中期が紀元後50年くらいまで、後期はこれまでと同じ。という風に変更されようとしています。
つまり弥生時代の始まりは早まったが弥生時代の終わりは変わりがなかったです。
確かに弥生時代の区分は変わっていましたが、卑弥呼の時代が弥生時代であることに変わりはないようです。
なんか時代がどうのと主張されている方に危うく騙されるところでした。皆さんも気をつけていただければと思います。
これからまた、変わるかも知れませんが、少なくとも卑弥呼の墓が作られたときが古墳時代の始まりとは学会のほとんどの学者は決め付けておりませんでした。
経糸と緯糸の完全度と断面積と1cmあたり織密度を中国のものと倭国のものを比べると明らかに違うのね
もしこれが同じだったら輸入品といえるけどここまで違ったら倭国産だといっていいレベル
奈良県の唐古・鍵遺跡から出土した男根形の木製品を是非見て欲しい
これを見れば邪馬台国が間違いなく畿内にあったと確信できるであろう
できれば畿内説を採用する方々は名前をこの出土物の名前にしていただきたい
倭国大乱の理由は稲作の開始により人口が増加し、収穫率のいい土地を手にしたものと、しないものとの間の格差が開き、土地をめぐる争いも起きるようになったことだと考えれば一番いい耕地を持ったところが邪馬台国だな
登呂遺跡だっけ?
ここまでの畿内説の結論
倭人伝のことは全部九州のことを書いてるけど
方角と距離をねじ曲げてまきまくを邪馬台国にしたい
これで合ってるよな
>>942
失礼
>コランダムの青いのがサファイアですよね
間違いではないですが、正しくもないです。
「サファイアはコランダムのうち宝石としての価値があり、かつ色が赤でないもの」をいいいます
ただ、青玉といえば青色をしたものをさします。
九州ですと長崎、大分、熊本、福岡で産出された記録がありますが、閉山してるところも多いのでどうでしょう?
ただ、昔はもっと取れたのかもしれないということ正直日本全国で産出するのでコランダムから邪馬台国を特定するのは無理ではないでしょうか?
きっと倭国全体の山から採れたので魏志倭人伝に書いたのではないでしょうか?
もしかしたら、弥生時代の庶民はサファイアやルビー、(ルビーのほうが稀少です。九州でも四国でも中国地方でも中部地方でも採れますよ!)を身に付けてお洒落してたかもしれませんね
それとガラス細工も作っていたようで、今だとガラスが宝石の代わりですが、当時は宝石がガラスの代わりだったかもしれませんね
纏向遺跡は縄文時代からずっと続く遺跡だけあって祭祀場が真ん中にあってまだ発見されてない住居が周辺にあるのは縄文時代の集落の特徴だな
鉄と絹を持ってなかったことからも縄文人が水田だけ取り入れてそのまま暮らしてたんだろう
石器と青銅器+水田稲作で九州から畿内までを制圧したと考えれば大和朝廷の天皇家が万世一系であり、名前が倭の伝統を受け継いでいるのも当たり前だな
弥生時代に「貫」の技術があるんだから高い建物造れるな
>943
また微妙なごまかしを。
卑弥呼の墓を特定するような発言は、まともな考古学者はしないですよ。
なので、卑弥呼の墓が作られたときが古墳時代の始まりという学者はいなくて当然です。それを「少なくとも」と表現するのはさすがですね。
纒向遺跡が古墳時代の始まりを告げた地であること、定型化した前方後円墳が各地の弥生墳丘墓の特徴を統合したものであることは、一定以上認められているはずです。
そして、箸墓が最初の定型化した前方後円墳であることは、唯一五段築成であることあること、円筒埴輪が最古級であることからほぼ認められています。
で、あとは箸墓の築造年代ですが、これは幅があり3世紀半ばから後半程度で何年とは特定できません。そして、纒向遺跡は箸墓よりも早く「弥生時代から」作られ始めています。
弥生後期の各地の地方首長が成長し、王墓級弥生墳丘墓が作られる時代は、もちろん「弥生時代」ですが、これを古墳時代前代と表現しています。これまでかなり丁寧に書いてきましたから、基本的には誤解はないと思いますが。
弥生時代の絹織物面白いね
畿内からは出土しないから無視されるだろうけど
透目絹とか献上したのかなぁとかこの絹で鉄を買ったのかなぁとか想像すると楽しいね
対馬から瀬戸内にかけて製塩の跡もあるから塩も作って漬物作ってたかもね、これなら冬も野菜が食べられる、生じゃないけど
※951
こいつやっと箸墓古墳が卑弥呼の墓じゃないと認めたよ…
>951
纏向遺跡は縄文時代から古墳時代の遺跡じゃないの?
3世紀前半にいったん衰退して3世紀終わりからまた復興したみたいだけど、新しい発見あった?
>948
丁寧に教えていただきありがとうございます。
宝石級のはどれくらい採れたのでしょうね? 産出されたというのは鉱山として成り立つほど良質な物が出たのでしょうか。
青ガラスの腕輪は丹波の大風呂南墳丘墓で出ているのですが、サファイヤの副葬品ってあるのでしょうか。
>>34・199
箸墓古墳は卑弥呼の墓でその箸墓古墳から古墳時代が始まったというあなたの新説を信じてます
>953
結構前に、卑弥呼よりむしろ崇神天皇の陵墓の可能性の方が高いと個人的には思っているってとっくに書いてありますが。
その辺にも誤解と思い込みがあるようですね。
私の最初の書き込みでも、卑弥呼の墓であってもなくてもっていう書き方してますよ。
纒向遺跡が特別な遺跡で、箸墓が特別な古墳としか言ってませんよ。
>954
新しい話じゃなくて、その3世紀後半の復興というのが、3世紀半ば前後まで遡った編年でよいのではないかという話です。
唐古鍵の環濠集落から纒向に奈良盆地の中心が移る頃が、魏志倭人伝の時代にかかるかどうかという視点です。
碧玉でまとめられちゃってるね
明らかにヒスイに比べて地位は低いね
縄文時代から緑>青だから仕方がないのかな
せめて碧玉(コランダム)って書いてあれば分かるのにね
まあ、どこからでも出る珍しくもない石だからしょうがないね
957
もはや邪馬台国関係なくなってる…
※957 ※842
日本書紀の春秋年は採用して同じく日本書紀に書いてある倭迹迹日百襲姫命は採用しないのはおかしくない?
なんだ、自分の都合いいように解釈してここまでコメントしてただけかよ
畿内説のエースだと思ってたのにがっかりだ
畿内かそれ以外かは一から議論のし直しだな
>>930
>>951
古墳時代前代という言葉を調べましたが橋本博文という人しか使っていませんでした
さらに佐渡の研究者のようですが佐渡が邪馬台国なのでしょうか?
さらに畿内を中心に発掘されている腕輪は佐渡までいきわたっているようですが、魏志倭人伝には出てきますか?
日本の固有種のキジは中国で緑雉という名
野鶏とは中国北部に広く生息する高麗雉のこと
台湾固有種のキジの名は帝雉(ミカドキジ)
これが件の黒い雉
生野菜の記述もたぶん台湾
江戸時代に野菜の刺身があったとかいう根拠はお笑いもの
倭に刺身があったのでないなら江戸時代の刺身とは繋がらない
もし倭に魚の生食があったなら、中国人の目には間違いなく異様に映ったはずなので
冬の生野菜などでなく魚の生食について特筆される
これが無いということはその地に魚の生食がなかったということ(可能性が高い)
青玉がサファイアというのは何を根拠した説?
中国語でサファイアは藍宝石
青玉は碧玉の一種
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393?fr=aladdin
台湾は翡翠の名産地 これもおそらく台湾
何が出土しても、特定の「卑弥呼」なる人物の墳墓であることの証明は限りなく困難。
「親魏倭王印」の本物が出たら学術的には一応決着かな。
文献的には九州の方がありそう(筑紫平野を無視するのはおかしい)。
畿内説の一縷の望みが箸墓古墳なんだろ。
個人的には
倭 =漢字表記
邪馬台=「ヤマト」発音の漢字表記
だと思ってるので、逆から見ると畿内の政権で「何故大倭をヤマトと読むのか」説明出来る人間がいないって時点で本場の「倭」じゃないだろって思う。
あと磐余彦の元で倭国造になった珍彦が速吸門(九州北部沖とも)で合流したって古事記の伝承は気になるね。
九州にも出雲にも吉備にも関西にも別個の勢力があって、そのうち半島に近い九州勢力が公孫氏次いで魏に朝貢したでは問題なのかと訊いてみたい。
その後百年余りこそ本当の「倭国大乱」で、更に継体天皇以前の事情はまだ検討の余地がありそう。
好太土王との戦もどれだけの勢力が参加したのかハッキリしないからね。
神功皇后の事蹟はこれなのかも。
九州説w
池沼は大変だなw
※964
「今倭水人好沈没捕魚蛤」は?
捕るだけで食わないの?
※966
それは降参って意味ですか。
>筑紫平野を無視するのはおかしい
邪馬台国への通り道じゃないから
>967
煮たり焼いたり
蒸したり
干したり?
燻したり(燻製の歴史は1万年超え)
※969
オレはそこが本命だと思ってるですが。
筑後川流域から博多までがまずクニとして纏りやすい。
悪魔の証明みたいになるけど、近代以降の土地開発で失われた遺構も多いだろうから「親魏倭王」の金印は永久に出土しないかも。
オレ的には後漢書の「奴国」が後に「倭(実体は邪馬台と同じ)」を統括してたと見てて、上記の地域が正にその版図だと思ってる。
里程が記されてないクニには原則使者は行ってないと。
大和の元の読み方はミワだ
畿内は邪馬台国と関係が無い
神武は侵略者で大和は奪われた
それが本来の歴史だ
その上で、朝廷成立後は畿内の民も朝廷に協力してきた
帯方郡(ソウル)から女王の都まで一万ニ千余里で、
郡から末ラ国(松浦郡)まで一万里だから、後の残りはニ千余里。
どう逆立ちしても北九州じゃん。畿内説pgr
魏の工房跡から大量に出土する鏡の型枠は漢式鏡で、それが女王が大量にもらった鏡。
この漢式鏡でも立派な物が数多く出土するのが福岡市近辺!
この辺りは昔から都市化が進んでてもう女王の墓や宮殿跡の発掘は望めない、残念。
因チナみに、2世紀半ば前後に神武の兄弟達がこのままでは行き詰まってダメだから東征しようと相談した岡田の宮も福岡市だよな。
※15, ※537, 参照
976
× 帯方郡(ソウル)から女王の都まで
○ 帯方郡(ソウル)から女王に服属する一番端の国まで
そこから女王の都までは、水行20日水行10日陸行1カ月
どう逆立ちしても北九州ではないじゃん。
そこから同じ方向のさらに先に、女王に服属しないほど大きな国がある。
どう逆立ちしても九州ではないじゃん。九州説pgr
畿内で大量に出てくる神獣鏡が中国で作られたものだとわかって、
完全に九州説の息の根は止められたよw
947
実際に「女王国の北はわかるがその他は遠すぎてよくわからん」って書いてある。また、「女王国の北」には「伊都国に一大率がいる」とあるから、これらを総合すると伊都国の南は(行ってないから)よく知らないってことじゃないのか。
つまり、江戸時代の長崎出島のような役割を九州伊都国がしていて、九州出島に行ったオランダ人が江戸に行かずに九州長崎だけ見て日本人は大体みんなこんなもんだろと日本人の習俗を描写したようなもの。
これを真に受けると、日本人は全員九州弁を喋っていることになり、九州弁を喋ってない関東に江戸城は無かった!→江戸城九州説爆誕!それと同じではw
※976
記紀を根拠にしながら、都合の悪いところは記紀に書いてある通りに読まない東遷説のほうが頭おかしい。14代仲哀天皇の后が晋に朝貢したって書いてあるわけだから、初代神武は2世紀よりかなり前の話。
947
九州説は、距離が都合良過ぎ
方角も、末盧国や伊都国の時点で狂ってるのに、
その先だけはちゃんとしてるというトンデモ理論
卑弥呼が奈良に住んでたから奈良に古墳があるの?
埋葬は出生地か死んだ場所か適当か霊的な場所だったのか?
埼玉古墳群の近くに住んでるけど、当時日本の辺境だったのに何で古墳が多いか謎なので教えてくださいな。
>960-963
私は考古学その他の研究成果のうち、自分で納得がいくものを中心に書き込みをしています。考古学者で、卑弥呼や邪馬台国に積極的に言及する人はほぼいません。どこかと聞かれれば、纏向が候補だと答える人が多いですが、断定する人はいないはずです。それはまだ科学ではない状態ですから。
倭迹迹日百襲姫はもちろん知っていますし、海部氏の勘注系図を引用して倭迹迹日百襲姫を卑弥呼だと結論付けている論考も読みましたが、勘注系図が後世の偽書だという論説の方が私は説得力があると考えていますし、記紀の情報だけでは倭迹迹日百襲姫が何者であるかははっきりしたことは言えません。その一方で、倭迹迹日百襲姫は記紀において一皇女としては最も多くのエピソードが書かれており、その陵墓造営記事があり、母親の名前が意富夜麻登玖邇阿礼比売で、天皇級かつクニを生んだ姫というような名前がつけられており、憶測でよければ一番卑弥呼っぽい伝承だとは思います。
まあ素人の落書きに、信憑性は要らないといえばそれまでですが、トンデモ説との境界が怪しいと思う部分は、書き込んでいません。だから、箸墓が卑弥呼の墓かどうかというのは、直接の話題にはしていないということです。
文献史学と考古学は別の学問分野で、考古学者で記紀等の文献に言及しているのは森浩一さんくらいだと思います。また、考古学でも、土器編年を専門にしている人と、三角縁神獣鏡を研究している人、古代の葬送儀礼を研究している人は、別々の研究分野であって分野横断的な研究は多くありません。
で、私は素人としていろんな話を読んで、自分の中で「トンデモにならない範囲」でいろいろな分野を総合して書き込みをしているつもりです。
古墳時代前代という言い方は、他に誰か使っているからという理由で書いたものではありません。自分のオリジナルだというつもりもないですが。吉備の楯築墳丘墓のような王墓級弥生墳丘墓が各地で作られ、古墳時代に入る前の、それでいていわゆる弥生時代から、時代の針が一つ進んだ段階を指して使っています。巨大な弥生墳丘墓が何代も続けて造営されている様子は見られないので、これは世代にして1世代か2世代の短い時間のようです。
私の興味の方向は、
邪馬台国はどこだろう→纏向遺跡がある! ではなく
日本の国家形成はどうなっているのだろう→弥生時代の地域王権の伸張→纏向遺跡→古墳時代 です。
それと、土器編年を中心にした遺跡遺物の年代観、魏志倭人伝に言う3世紀半ばの倭国の中心、をあわせて考えると纏向遺跡でいいだろう、という判断です。もちろん、中国の史書も原文で倭国関連の部分は一通り目を通していますよ。
※964
もう一回スレを頭から読み直せ。
青玉はサファイア。魚の刺身と野菜の生を混同させたごまかし論法。
魚の刺身と野菜の指身とは別。魚の生食の話は全く関係ないものだよ。
ちなみに魚の生食は室町時代には四条流などの料理の流派である程度確立されたもの。
江戸時代の生の野菜を食べていたというのと、堺で砂糖が生産されていたというのは
気温が低い時代であっても畿内は中国から見て温暖で、生の野菜も食べていたという事だ。
文献がある畿内の情報より、文献や証拠を提示せず、台湾で生野菜を食べていたと類推する
のは、まともな思考ではないね。
こういった思考をする人間の言う事を信用する奴は、よほどの無知だけ(笑)
この※だけでも、君が願望妄想を基本して論じている事が分かる。
※981
埼玉の古墳群が多いのは、それなりの大勢力があった事を示しているが、
卑弥呼の時代とは関係ない。
日本各地の前方後円墳は、大阪藤井寺市の土師ノ里という場所があるが、そこを領地としてきた
土師一族が古墳づくりを伝えたとされる。ちなみに土師氏は菅原道真の母方の一族。
はじ【土師】
(ハニシの約)大和政権で葬式・陵墓・土器製作などを担当した氏うじ。はにし。
はじ‐き【土師器】広辞苑第六版より引用
弥生土器の系譜につながる、古墳時代以降の素焼の赤褐色の土器。文様は少なく、実用的で、煮炊きや食器に用いるものが多い。
はじ‐べ【土師部】
古代、大和政権に土師器を貢納した品部しなべ。北九州から関東地方まで各地に分布。埴輪はにわの製作、葬儀にも従事。はにしべ
古墳時代の5世紀とされる埼玉稲荷山古墳と熊本の江田船山古墳のどちらからも雄略天皇と推定される人名(ワカタケル)の文字が入った鉄剣が出土しているから、大和王権の勢力が関東~九州まで及んでいたとされる。
ドキュメンタリー 2017 : 日本古代史最大のミステリー 邪馬台国と三国志の関係で
日本の三国志研究の第一人者とされる教授が「文献学者は考古学の発見によって、色々と
覆される」と言っていた。
推論が含まれる可能性がある文献より、物証として出る発掘による出土の方が圧倒的に
信憑性が高い事を文献学者自体が認めているんだよ。
だから現時点において、九州および他の候補より、纏向遺跡が邪馬台国である可能性が
非常に高いとされている。これは九州説をとってきた九州の研究者の多くが認める所らしい。
九州説を推している人は、その現実を受け止めるべきだね。
平安時代から栽培されている泉州特産の水ナスは水代りにもいで生で食べるよ
>>947
畿内で合致していないものは、これから出土する可能性があるもの
しかし九州で合致していないサファイアなどは、現在見つかっていなければ
見つかる可能性が極めて低い物だ
畿内説派は倭人で以外にも文献やサイト・番組など客観的な証拠を明示しているが、
九州派の場合はそれらを都合の良いように脳内変換して論破した気になっているだけ
議論の基本は、客観的な証拠を明示して自分の意見を裏付けしなければ、誰も信用しない
できれば複数の裏付け証拠を明示してから、自分の意見を言うことにすべき
上からずっと読めば、畿内派の方が正しいと思うのが普通だろう
プロパガンダが酷いねぇ。
天皇が唯一の皇帝になっちゃったから、天皇は支那のおかげで日本を支配できた天皇は支那皇帝が作ってやったって事にしたいのだろうねぇ。
それは置いておいて、いくつか気付いた考察。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶
女王国の北(到着するまで)は書けるが、「他の国は遠絶」
これさ、「女王国まで地域が繋がってた」んじゃないの?
北九州の平野(福岡から佐賀県まで)は繋がってて、近畿とほぼ同等の平野が広がってるし。
女王国までの残り1500里については、
朝鮮半島の1000里を(陸行?)60日、倭人の水行は30日1000里。
水行20日水行10日陸行30日 = 1500里 これで概ね当てはまる。(12000余里だから200里は気にしなくていいよね、12200余里とは書かないし)
福岡から南に川上り20日、2万の平野、宝満川南に下って10日と陸行30日、5万の平野(福岡+佐賀)。南には敵の強国くまもん。
それからWikiに載ってないけど、
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
南に4000里で侏儒国が種子島(小人人骨発見された)、東南?船1年(12000里)で黒歯国が近畿(黒歯は風習の事って他の書物に書いてある、お歯黒やってたのは近畿で入れ墨倭人と風習が違うって日本側の記述とも合う)
周旋5000里は福岡+佐賀でちょうどそれくらい。最初の東?に1000里は、福岡→山口で、出雲などは朝貢してなかったから国名が無く倭種とのみ記述された?
方角?については、朝鮮半島と九州が南北扱いされていて、対馬(400里なので浦の島)から南が壱岐島(300里)とある事からも、45度くらいは誤差の範囲らしいから、東で山口、東南で近畿もおかしいことはないね。
それで後に、黒歯国が大倭統一したから、公家がお歯黒してる。
それゆえ、5世紀以降の記述が、ヤメイからヤマトに変わる。
それと、倭から大倭になると、国の広さが船で年単位になるんだったか、
こんな感じで両国の記述がだいたいあってくるかねぇ。
琉球(台湾)の猿や雉が混同して書かれてるって話は、中原を世界の中心にするため、東世界の朝鮮半島が実際より大きく思われていた事、倭人は南シナ海~東シナ海沿岸に広がっていた事(海南島にも倭人が居た)、などを考えると、九州=琉球(台湾)のようなものだと思って、日本の雉と猿を実物は見ずに琉球(台湾)の雉と猿として書いたって事かなぁ。
日本の古代史はファンタジーすぎて考えても答えが出ない。
神武天皇からして実在しないのに実在の人物として扱ったり、権威的な理由で歪められてる人物がいたりして訳が分からない状態になってる。
※989
神武天皇や神話時代の各天皇や武内宿祢、ヤマトタケルなども一人ではなく何世代もしくは何人かの集合体として一つの人物に集約されたんだろうと思う。
ファンタジーではあるけど、記紀の記述を裏付ける出雲大社の柱跡などが出土しているから、元になった出来事はあるんじゃないか?
台湾の記述と度々出てくるが、魏が台湾を認識していたという記述は三国志などを
含めた史書のいつの時代に初出があるんだろうか?
上にもあるように、雉は中国では日本で考えている雉より幅広い。
中国で「吠える」は日本と同じ意味なんだろうか?
わずかな倭人伝の記述だけを見ていても木を見て森を見ずって事だから、
もっと視野を広げて考える必要があるんだろうな。
魏志倭人伝をそのまま読む。(3)というサイトを見つけた。
台湾猿は日本の猿と近縁種で、外見的には尾が長いかどうかの違いくらいしかない。
他のサイトでは朝鮮の雉より日本の雉の方が黒っぽいから黒雉と書いたという内容もあった。
前方後円墳に関していうと、航空写真で見るから前方後円墳と認識できるが、地上から実際に
見たって全体の形を掴むのは難しい。
埋葬部は円墳の部分であるから、「墓は?」と聞かれた「丸い墓」と答えるだろう。
現代と同じような知識で考えてはいけない。筆者は別に日本の為に倭人伝を書いたわけでは
ないから、実際に手にもって見られる物以外はアバウトな見方をしていただろう。
呉は台湾に人狩りに行ってるから認識はしてたと思うよ。
魏は倭国は海南島と同じ文化と書いてるから、台湾を知っててもおかしくはない。
九州説の人のコメントからは、九州王朝を認めたいという願いが感じられます。
九州王朝仮説は、大和朝廷とは別に九州には独立王朝があり、倭の五王も、隋の煬帝に日出處天子という国書を送ったのも九州王朝で、記紀は大和朝廷が九州王朝の歴史を盗んで書いたものだとするものです。
これまでの九州説の書き込みを見ると、巻向は立派でいいから、魏志倭人伝の邪馬台国は九州で巻向・大和とは無関係という立場のように見えます。その邪馬台国が、大和とは別に九州王朝になるという筋書きのようです。
※994
全部読んできてるが、そんなコメントどこにもないぞ。
お前らのプロパガンダ気持ち悪いんだよ。全部自己紹介になってるじゃないか。
そんなことするのは、成り済ましで自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴だよ。
訂正
成り済ましで自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴
洗脳で、自分が誰か解らなくなってる工作員の特徴
日向から東征したんだから天皇家のルーツは九州だろ?
問題は東征した後、邪馬台国になったのか、邪馬台国を滅ぼして日本になったのかだろ?
東征があったとして、その東征の年代が問題ですよね。
トンデモの隣のレベルで書かせてもらえば、私は日向は宮崎ではなく筑紫の日向説の方がいろいろと納得が行きます。そして、日向から東征で大和入りして、五代あとくらいが3世紀中ごろで崇神天皇が三輪山の山裾に宮を築いたくらいだと、ちょうどいい頃合だと思っています。
ただこの辺は、系譜図も信頼できませんし、推論に推論を重ねるとこうなる、くらいの話ですから信憑性はあまりありません。
雉や猿については考えなくても良さそうですね。声だけ聞いて書いたとしても見た上で書いたとしても問題なさそうです。
大陸の権威誇示器具と人材派遣を受けた九州北部の勢力が西からの脅威となり、黒歯風習の人達は呉の国で作られた鏡などを手に入れ対抗し、勢力を伸ばすため東国に進出した。
最も大陸の脅威を感じていたであろう出雲の人々とは同盟し、関東を従えその兵力を以て東の55国、西の66国、そして百済新羅の95国まで行ったところで高句麗に止められる。
関東が朝鮮半島に影響力持っていたのは、関東兵力が遠征していたためかもしれない。
倭国が抑えられた北九州には、関東勢力の拠点として影響が残り、後の防人などでも東国の人が入り、南九州の倭人と対立してた地域と、ほぼほぼ同じような分布になった。
壇ノ浦で関東勢力が平家を追い詰めたのは北九州だし、足利尊氏を支えたのも北九州勢力だし、この繋がりはずっと続いていったのだろうね。
3世紀には日本に色んな勢力があったのだし、別王朝でもなんでも大した問題ではないと思います。
記紀の記述を信頼できないと避ける人も多いようですが、土地の代表者が男女2名で同じ名前という描写が多くあります。宇沙都比古、宇沙都比賣のような形です。これはいわゆるヒコヒメ制を思わせるものです。魏志倭人伝も、卑弥呼を女王とし有男弟佐治國とあり、邪馬台国もヒコヒメ制のように見えます。
ここで話が飛ぶのですが、前方後円墳は後円部に埋葬主体がありますが、前方部にも方形壇を設け埋葬施設が作られているものも知られています。島の山古墳は後円部の埋葬区画は盗掘されていましたが、前方部の埋葬施設から多くの石製腕飾りが発掘されていて、前方部の被葬者は女性と想定されています。
何が言いたいかというと、前方後円墳は前方部と後円部に一人ずつ埋葬する、ヒコヒメ制の墓なのかもしれないということです。だとすると、後円部で一つのお墓、前方部で一つのお墓と見ることもできるわけです。まあ、前方部に埋葬区画が確認されない古墳も多いですし、ただの妄想ですけどね。
※1000
そう言われてみれば、継体天皇以後は、推古天皇や持統天皇のように夫婦でやっていた形跡があり、皇女を巫女として送り出したり、そういった文化が見受けられる気がしますね。
支那と付き合う上で男1人が統治者になる必要があったと考えると、すぐに廃れたのも納得がいく。
>979
>14代仲哀天皇の后
神功皇后って書いた方が分かりやすいと思います。三韓征伐の逸話で有名な人です。
日本書紀では仲哀天皇の皇后であり、仲哀の死後の天皇は応神で皇位には登らず、摂政だったという扱いですが、一つの巻を天皇一代に当てている日本書紀で、神功皇后に9巻を当てており、その意味で天皇扱いとも言えます。
三韓征伐は史実ではないという扱いが主流ですが、神功皇后を広開土王の石碑の頃の年代の人とする紀年解釈もあり、当時倭国と半島の間に深い関係があったのは確かなようです。
青玉はサファイアの和名
魏志倭人伝は漢籍
この意味わかる?
江戸の刺身の話も砂糖の話も関係なし
中国から見て温暖で生の野菜も食べられていたと言いたかった?
魏都より寒い朝鮮でサンチュが生食されてきた事実
江戸時代の生野菜がなんだって?
ここの人たちは書物を「撰」することがどういう作業か分かってないようだ
神功皇后を天皇から外したのは明治政府(大正時代)だぞ。
それまでは天皇として扱われてたの知っててコメントしてるんだよな?
門外漢でよくわからないんだけど、どちらも正しいという可能性はないの?
邪馬台国はみなの心の中にあるんだよ
~完~
まあたぶんこれを元ネタにしてるんだろうな
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/data.htm
信じるものは人それぞれ
>1005
よく知らなかったから調べたけど、その前も一般に天皇とされていたってことは特にないようだね。
扶桑略記などに神功天皇という表記もあるけれど、日本書紀はじめ六国史ではすべて皇后だし、水戸藩の大日本史では皇妃伝で記載して、本紀には入れていない。
大正15年の詔書は、皇后でありながら神功皇后の称制が天皇の代数(15代)に入っていたのを外すというのが、目的だったようだ。
>>988
>「女王国まで地域が繋がってた」んじゃないの?
女王に服属する一番端の国(東南至奴国、次有奴國 此女王境界所盡)まではそうだけど、女王の都までは繋がってはいないと思う。
>女王国までの残り1500里
女王に服属する一番端の国(烏奴国?)があと1500里ぐらいってことなんじゃないかな。
>朝鮮半島の1000里を(陸行?)60日、倭人の水行は30日1000里。
水行のほうは根拠ないでしょ。陸行1000里60日のほうも、あの辺は険しい山岳地帯らしいし。
そもそも里数がわかってるなら中国人はちゃんと里数で書いてたと思うけどな。後の時代でも倭人は里数がわからなかったらしいし、そこは多分倭人の話を聞いて書いただけかと。
>黒歯は風習の事って他の書物に書いてある、お歯黒やってたのは近畿で入れ墨倭人と風習が違うって日本側の記述にも合う
へえ。そこだけ風習なんだ(不信)
ちなみにアイヌもお歯黒するらしいんだけど。
柳田国男によると、佐渡では衾(ふすま)という妖怪は刀や弓では傷つけられないが一度でもお歯黒をした歯なら噛み切れるという伝承があり、男性でもお歯黒をしていたという。
アイヌなら口の周りの刺青のほうが有名だな。
材料も木の実から鉄に変わったようで、ここでも鉄が出てくる
間を取って岡山で手を打たないか?
出雲か吉備か土佐が妥当だな
日本海、瀬戸内海、太平洋、このルートが特定できれば解決する
青玉 が結局訳分からんくなってるね
青玉はサファイアの和名ってどや顔で書いてるけど、中国語のネット辞書で青玉って引くと
青玉
中国語訳 碧
青玉
中国語訳 竹子 (植物の竹のこと)
青玉
中国語訳 蓝宝石 (サファイアのこと)
青玉
日本語訳 青玉、サファイア
青玉
英語訳 sapphire
てな感じで出てくる。下の二つは「中国語の青玉」を日本語と、英語に訳したものだけど、少なくとも現代語の中国語では、青玉にサファイアって意味があるね。
そして、台湾あたりで藍寶石というと、サファイアはもちろんトルコ石やジェムシリカも、藍寶石の範疇に入るらしい。
また、ラピスラズリを藍方石というけど、これも藍宝石とも書かれるし、要は青い宝石は全部、藍宝石でいいみたいだね。もちろんサファイアも。
ここまで調べた限りでは、青玉にも藍宝石にもサファイアは含まれるし、藍宝石には碧玉ははいらないっぽい。サファイヤだったら藍宝石だから、青玉と書いてある以上サファイヤじゃないっていうのは無理筋じゃね?
青玉に碧が入るのはありそうだけど、「日本語の青玉」の中国語訳が碧だから、魏志倭人伝が中国語であると言い張るなら、むしろ碧ではなさそうってことになる。
>1013
>日本海、瀬戸内海、太平洋、このルートが特定できれば解決する
水行十日陸行一月
この8文字から、どのルートか特定する方法があれば教えてくれ
サファイア(sapphire)または蒼玉、青玉(せいぎょく)は、コランダム(Al2O3、酸化アルミニウム)の変種で、ダイヤモンドに次ぐ硬度の赤色以外の色の宝石。9月の誕生石。
語源は「青色」を意味するラテン語の「sapphirus」、ギリシャ語の「sappheiros」に由来する。
せい ぎょく [0] 【青玉】
青色の鋼玉。サファイア。
三省堂 大辞林
質問者のPCはインターネットと繋がっておらずご自宅に国語辞典もないのかな?
海を渡って別の陸地に行く場合は「渡」、渡らない場合は「水行」と書き方を変えている→九州から出ていない。という説もあるんだ
余計分からんな
前のほうで地図を出してる人いたけど
1532年に中国で作られた地図は倭国は九州、日本国は本州、の位置に描かれていることは知らなかったのかな?
>1016
ここまでのコメント全部読めとは言わないけれど、
948,964,1003
この3つくらいは読んで。
1016の立場なら、964と1003を書いた人にはなんて答える?
「お前んちにはネットに繋がったPCも国語辞典もないのか?」って言っておいてくれるのかな?
雉も朝鮮半島の雉に比べれば黒いって意味か、
南越の雉が黒いから南の雉は黒雉とかかれた可能性があるとは知らんかった
長江や黄河を知ってる中国人からすれば、関門海峡なんて海を渡った感ゼロなんじゃないの
流石に海水と淡水まちがえんだろ
>1019
この人のコメントが魏志倭人伝より難解だ
こういうところだけ切り取られて後世に残ったのが魏志倭人伝だとしたらそこから読み取るのは非常に難しい
現在の中国大陸だと蓝宝石が一般的だが、簡体字だしなぁ…、青玉でももちろんサファイアのことだし…
※1003
いいから、九州や生野菜が食べられていたという証拠と、九州でサファイアが産出していたという証拠を出せよ。また挑戦でサンチュが食べられてきたは、いつからか文献の記述を提示してみろ。
いいかげん、脳内妄想だけでの誤魔化し理論が通用していない事に気づけ!!
泉州では少なくとも平安時代から生のナス(水ナス)を食べている。
それと卑弥呼の墓に比類できる古墳がない以上、九州説は全くないんだよ。
※1022
魏志倭人伝に海水や淡水なんて文字はないんだよ。
上にも書かれてあるが、日本では琵琶湖を『近江の海』と読んできた。
当時の魏で、大きな湖を何て読んでいたのか気にはなるが、魏は呉と違って海洋戦を得意としていない民族だったという事を三国志研究者が言っていたから、海と琵琶湖を区別していたかは分からない。
そもそも、当時はまとも地図が無い時代、情報だってわずかだし、現代のように物事を詳細に区別するための知識も必要性もなかったと考えるべきなんだよ。
現代人の常識知識のまま、魏志倭人伝を読み解こうとするのが間違い。
湖海で世間だから少なくとも湖と海の区別はあるよ。
其山有丹 ← 水銀が産出される山の記述について、丹生の民俗というサイトには
『邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。
どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。』とある。
※1025
山の上などから見渡せる程度の湖なら区別はできるだろうが、琵琶湖は非常に大きな湖なんだよ。
そこが重要なんだ。地元の海洋民族と言われている日本人ですら「近江の海」と呼んでいたんだぞ。
中国人がちゃんと邪馬台国まで行ってればさすがにわかったとは思うけど
関門海峡のところで倭人に「ここをあっちにずっと行くんだぞ」って言われただけだとわからなかったと思う。
>1023
964に
「青玉がサファイアというのは何を根拠した説?
中国語でサファイアは藍宝石
青玉は碧玉の一種
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393?fr=aladdin
台湾は翡翠の名産地 これもおそらく台湾」
とあって
1003では
「青玉はサファイアの和名
魏志倭人伝は漢籍
この意味わかる?」
と書いてる。この間にこれまでのコメント欄の議論で青玉はサファイアって書いてあるだろうという反論あり
保証はないけど964と1003は同じ人
切り貼りじゃなくて該当箇所、全文引用したよ
この人の言わんとするところは、
「魏志倭人伝は漢籍だから、青玉はサファイアの和名、というのを根拠に「出真珠青玉」の青玉をサファイアというのは間違い」
という論拠だと思われます
で、それに対する回答のつもりで書いたのが、1014
中国語でも青玉はサファイアを指すってこと
それに対して1016が、青玉はサファイアに決まってるだろう、辞書を引け(意訳)って言ってきたから、これまでの文脈で読んでくれっていう返事が1019
1016も、どや顔でコランダムとサファイアの関係を説いてくれてるけど、その辺は948の人の方が詳しい
この964と1003の書き込みはかなりケンカ腰
1023と1016が同じ人かどうかは分からないけど、これでお分かりですか?
>1024
948によるとコランダムは
「九州ですと長崎、大分、熊本、福岡で産出された記録がありますが、閉山してるところも多いのでどうでしょう?
ただ、昔はもっと取れたのかもしれないということ正直日本全国で産出するのでコランダムから邪馬台国を特定するのは無理ではないでしょうか?」
だそうです。
コランダムの青いのが青玉と思ってよいようです。そのうち宝石級がサファイアで。
※1030
その具体的な産出場所を書いてほしいんだよなぁ。
コロンダムというのを広辞苑で調べると、サファイア以外の事もいうようだから、
コランダム=サファイアの原石と決めるのは無理があるようだよ。
なので、青色のコランダムを産出したという九州の記録を具体的に示してほしい。
こう‐ぎょく【鋼玉】広辞苑第六版より引用
酸化アルミニウム(アルミナ)から成る鉱物。六方晶系。硬度は9。金剛ないしガラス光沢をもち、青・赤・黄・褐灰色など。透明もしくは半透明。ルビー・サファイアはこの一種。飾り石・ガラス切り・研磨材などとする。コランダム。
※1024
琵琶湖が海扱い?淡水か海水かの違いぐらいわかるだろう
淡海ってことは海のように大きい湖(淡水)って意味だろう
海じゃないことは誰でもわかる
しかも湖南から見渡せばすぐに海じゃないこともわかる
鉄は半島からの輸入で九州から福井にかけての地域ばっかり⇒関係ない
弥生時代の絹は北部九州で多く出土⇒関係ない
水銀は奈良か阿波⇒邪馬台国は畿内
素晴らしい論理展開ですな。
サファイア知らない人って意外と多いのね。
洞庭湖を海と呼ばないから中国では湖は湖だろ
倭では海です
>1034
関係ない、ではなく「決め手にならない」ですよ。
決め手はもっと大きなものに求めるべきだということです。
どっちもどっち論は、明らかな負けの時に引き分けに持ち込んだ(様な気になる)精神勝利法だそうです。
>1035
サファイアは知ってても、青玉って言い方はあまり知らないんじゃないかな。
酸化アルミの鉱物って知ってる人も少ないだろうし。
琵琶湖は淡海ってちゃんと分けて書いてあるじゃん。
大きな水たまりを全部 うみ ってあらわしてたら流石に不便だったんだろうね
>1039
そういうことか、ありがとう。
※1038
つまり、距離では負け、方角では90°負け、猿の描写では台湾に負け、鉄では日本海側に負け、墓の形では他の地域に負け、描写のない土器で勝ち、水銀で阿波と引き分けることで貴方は精神的に勝った訳ですね。
おめでとうございます。
倭人伝にいう丹は後に修正された後漢書でいうところの丹土(ベンガラ)だろう
後漢書での修正箇所(誤記?)には検証の必要があるが、丹(水銀)を体に白粉のごとく塗りまくったらあっという間に水銀中毒で死ぬ
>>1032
コロンダム?
弁柄
古くは弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて濃尾平野を中心に生産された
知らなかった。
丹は仙丹を表すから、卑弥呼が作る霊薬という説もあるよ。
徐福伝説からわかるけど、東にある霊薬、妙薬は献上されるに値するとの説もある。
今だったら、中国人の上司に虎の骨や象牙や真珠の粉を東南アジアで買い付け、プレゼントするみたいなものかなぁ?
水銀を体に塗って水に入るということは、無機水銀でも微生物によりメチル水銀などの有機水銀に変質させられるであろうから、周辺水域での生物濃縮や有機水銀の直接摂取が恐ろしい
邪馬台国滅亡の謎は水銀にあり
これで本を出そう。
※1046
その仙丹の材料は硫黄と水銀らしぞ。だから水銀の産出は必須。
※1049
むしろ早死にするぜ…
歴代皇帝も大迷惑だな。
ウィキ『辰砂』によると
辰砂(しんしゃ、cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。
伝統中国医学では「朱砂」や「丹砂」等と呼び、鎮静、催眠を目的として、現在でも使用されている。有機水銀や水に易溶な水銀化合物に比べて、辰砂のような水に難溶な化合物は毒性が低いと考えられている。辰砂を含む代表的な処方には「朱砂安神丸」等がある。
>1048,1049
ちょっと時代は下るけど、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と、妻、膳大郎女、そして本人が相次いで亡くなったのは、仙薬として水銀朱を服んでいたからという説もあるよね。
1042
距離 魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
方角 魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
猿の描写 魏志倭人伝「伊都国のこと」
鉄 魏志倭人伝「伊都国のこと」
墓の形 魏志倭人伝「形は詳しくは知らないがデカイから畿内説の勝ち」
強すぎて申し訳ない
複数のサイトを見てみると、赤土に全国各地で産出されるようだが、奈良が最も有名だったようだ
丹といえば丹の三侠
※1026
>丹生の民俗というサイトには
って今検索して見たら、青森と北九州の風習で、松浦(九州北西部)で産出って書いてあるんだが。
水銀使うようになったのは秦氏が来てからだとさ。当時の日本人にその技術は無かったらしい。
丹の記述からは、北九州確定だな。(青森からは出ない)
1053
伊都国の勝ちじゃん
※1053
絹は?
>1053
生野菜はどうなった
1057
伊都国は邪馬台国じゃないだろ
1058
魏志倭人伝「伊都国のこと」
※247
意外だったな
むしろ文献の方が九州にチャンスあるのかと思ってた
※1056
また、脳内改ざんされているな(笑)
『朱の呪術
血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。
葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
朱の原料
天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。』
朱の呪術で使われたも朱色が辰砂とは書いていない。ベンガラのほうだろう。
「水銀使うようになったのは秦氏が来てから」という部分はあっているが、
『丹生氏と丹生都比売
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。』と書いてあるんだよ。
邪馬台国時代、九州では辰砂(水銀)の鉱山発掘がない。
秦氏は飛鳥時代の渡来人。この時代、九州に水銀精錬技術があったら活用されているはずだよな?
※1056の理論だと、九州は日本ではないという事になるな(笑)
昨日の知恵泉で邪馬台国の後編をしていたが、愛知=狗奴国のS字目甕土器に入れ墨を入れた顔と思われる文様があるとやっていた
纏向は九州・出雲・吉備などは全く違う出土傾向があることもやっていた
各地の土器の出土もあるらしい
1056の九州派くんは【ああいえば上祐】と同じ詐欺師論法だよねw
※1062
>葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
>九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。
>朱の呪術で使われたも朱色が辰砂とは書いていない。ベンガラのほうだろう。
>施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。』と書いてあるんだよ。
言ってる事が変わってるのはおいとくとして、
その文章からは、九州北部にのみ縄文時代から呪術具としての朱の風習があったとしか読めないが。(青森は縄文で終焉)
そして風習があるのだから、朱が手に入る事が確定してる。
30年以上前の出版物持ち出されて、九州北部での産出がなかったとする根拠がさっぱり解らないが、※1056の秦氏の下りは蛇足だったな、へびの足を取られたわ。
蛇の足を描いたのが蛇足の故事
※1066
だから、東北と九州の儀式で用いられていたものは天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)であって、水銀の辰砂ではないといっているんだよ。
次の丹生氏と丹生都比売の「施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸…」は東北や九州とは全く関係ない記述だろ。別々の項目で分けられて書かれている文を都合よく脳内でミックスするな。
今すぐ病院で脳と精神検査をしてもらった方がいいぞ。
この丹生氏は畿内の奈良から和歌山に拠点があった氏族。
丹生都比売神社は和歌山県伊都郡かつらぎ町にある。
丹生川上という地名は奈良県吉野郡川上村から東吉野村にかけての地域の古称だ。
1068
伊都国は和歌山にあったの?
丹が水銀か酸化鉄かも分かってないなら何処で採れようが邪馬台国の場所探しには役に立たないのでは?
※1069
僕ちゃん、文章を正しく理解できるようになってから、書き込もうな
とりあえず小学校から通い直す事をオススメするよ。分かりましたか?
鉄と絹が畿内で出土しなくても邪馬台国が畿内なら丹が何処で産出してもいいのでは?
>1066
前に「魏志倭人伝は漢籍」って書いてた人がいたので、中国語のネット辞書で調べてみたら、
丹
日本語訳 丹
対訳の関係完全同義関係
で、丹は丹で問題ないけど、
ベンガラ
中国語訳 红土
でベンガラだと中国語では丹にならないみたいですよ。
まあ現代語での話ですけど、ベンガラはただの赤土
九州北部では、紅土(中国語)が出るんですね。
※1071
つまり卑弥呼はその一族であり、邪馬台国は和歌山ですね。
分かります。
魏の言葉と今の北京語違わない?
ベンガラは中国語だと红丹,印度红のようだが
※1075
じゃあ、その疑問を調べて報告してくれよ。
※1074
君は幼稚園から入りなおした方がよさそうだな(笑)
>1072
鉄は弥生期には農具等で広く使われていたのが知られています。静岡の登呂遺跡とか、鉄器そのものは出なくても、使われていたと考えられています。鉄は九州で大和では出ない、というのは、甕棺墓等から鉄の鏃の出土数に差があるということですが、当時鉄は九州北部の独占物ではありません。北陸でも多く出ています。鉄を理由に大和より吸収が有利というなら、北陸と九州北部で差はないという話になりますよね?
絹については、現実の出土品が北部九州に多いのは確かですが、桑の木は日本中生えていますし、有機物なので遺物が出る出ないで論じるのは難しいという話です。
どちらも、わりに日本に広く存在しておかしくないもので、それを以て比定地を決めるのは難しいという話です。
それに比べると、辰砂などの水銀朱の原料は、国内でも産地がある程度限られます。
ただ、何度も書いているように、倭人伝であって邪馬台国伝ではないので、倭国内で採れるものはどこで採れても倭人伝に出真珠青玉 其山有丹のように、出○○有△△と書かれるでしょうから、物の出所にこだわってもあまり深い議論にはなりません。
>1075
>魏の言葉と今の北京語違わない?
中国語と言いますが、北京語と広東語は話が通じないレベルで発音が違うらしいです。
それだから、「書き文字の文章」が、ある意味共通語として通用しているらしい(ソースなし)ので、文字になっている部分はそれほど意味が変わらないような気がします。
まあ、気がする、のレベルですから、詳しい人がいたら解説をお願いします。
>>1066
30年以上前の出版物持ち出されて、九州北部での産出がなかったとする根拠がさっぱり解らないが
魏志倭人伝に比べりゃ昨日書かれた本くらいの感覚だけどなw
30年前の本が信用ならないなら最新の本で卑弥呼時代に北九州から水銀が産出していたというを示すべきだぜww
1074
九州の邪馬台国はどこなんですか?w
1062
三内丸山遺跡(青森)から纒向遺跡(大和)に移動して邪馬台国になったってのは新説だな。
丹で分かった真実。
まず、魏志倭人伝の丹が本当に水銀なのか?
検討すべきはこのことだと思うんだが。
有機物だと出土しないっておかしいよな。
>1084
漢字の世界では、丹は丹だと思います。
三国の前の漢の前の秦の始皇帝が仙薬を探し回ってますから。
※1079
物の出所にはある程度拘る必要があるよ
普通に考えると、九州で産出しない品が献上されていたという事になると、産出地は邪馬台国の勢力に含まれる事になるから
畿内より西に産出地がなく畿内に産出品があった場合、畿内が邪馬台国に含まれる
この時、九州に邪馬台国があったとして、狗奴国などの国の配置は記述と整合性がとれるのか
という問題が出てくるから
>1085
出土しないではなく、「出土しなくても何も不思議はない」です。
肉や卵、麻や木綿、絹の布を土に埋めて3年後に掘り出してみてください。
こういうものが、有機物です。
絹を織るのに使われた道具も有機物だったの?
>1088
畿内から出土した古墳時代の絹は無機物なの?
>1087
確かにそうですね。
ただ私は九州から近畿地方までの共同体ができていたという立場なので、邪馬台国が九州でも畿内の産品は九州に届くし、倭人伝にも記載されるんじゃないかと思っています。
共同体といっても、中央集権の主従関係ではなく、卑弥呼を共立して王と認める、という程度の意味ですが。
殷の紋織物も発掘されてる
>1089
絹を織る道具と、麻を織る道具の区別が私にはつきません。
古事記では高天原でも機織をする様子が出ていますが、絹かどうかは知りません。
ところで ※1024で九州派に要求されている
九州や朝鮮での生野菜を食べていた証拠や 九州でのサファイアの産出の証拠はいつになったら
明確に回答されるんだろうねw
邪馬台国は神聖ローマ帝国と同じ。
卑弥呼はハプスブルク家と同じ役割。
伊都国王は選帝侯。
狗奴国がブルボン朝。
弥生時代に絹織物を生産していた証拠は畿内ではまだ見つかっていない。
古墳時代になると逆に生産は増える。
有機物なのに出土してる。
だから古墳時代を卑弥呼の時代にしてしまえば、卑弥呼の時代でも畿内で絹を生産したことになる。
箸墓古墳も年代を変えて、卑弥呼の時代にしよう。
みんなで署名して、畿内説のために弥生時代と古墳時代の区切りを変えよう!
魏志倭人伝にカラムシでてくるから、織物はしてただろうな。
※1094
青玉=サファイヤとかいう現代日本の用語を古代中国に適用しようとしてるアホがいるけど
青玉は翡翠のことだからな(厳密に言えば違うが割愛)
ttp://baike.baidu.com/item/%E9%9D%92%E7%8E%89/6212393
丹は水銀化合物ではと言われてるが神農本草経には
丹砂と水銀で項目がわかれている
抱朴子だったか何かでは丹は水銀(水銀か水銀化合物か不明)丹土はベンガラのことである
しかも生野菜がどうとかわけがわからん
九州は生野菜が食べられてなくて他の地域は食ってた証拠でもあるのか?
互いに証拠が出せないなら意味のない論争である
大阪で機織り機が出土してる。
有機物の木で出来てる。
3年以上たっても地中から発見されてる。
肉や卵とは違うね。
でも有機物だね。
でも麻布なんだね。
一本でいいから絹糸が付着していてほしいね。
有機物だけど。
サファイアの名前の語源は、ラテン語の青からきています。中国でもサファイアを青玉と呼んでいた事でも古代の人々が心の安らぎや誠実な心をこの青色に求めていました。
有機物が出てこようが出てこまいが意味がないというのはすごい暴論だな
今も世界中で発掘され重要な考古学的遺物とされる木製品、織物、骨等を全否定する歴史の冒涜みたいなものだろう
※1098
「其山有丹」だから「丹」は水銀で決定だなw
生野菜は関西では平安時代に水ナスが食べられていたし江戸時代にも食べていたという記録が書かれてあるだろw
むしろ朝鮮半島南部から西日本、東日本、東北の倭国のなかで生野菜食べてない地域があったらそっちのほうがビビる。
中国語でも青玉=サファイヤって書かれてあるぞ
もしかして生野菜君は弥生時代に日本に文字がないことを忘れてるのでは?
魏志倭人伝などの中国の文献以外でどう残ってると思ってるんだ?
そう捉えれば彼の文章に納得できる。
平安時代の貴族の日記や宮中の食事の記録を根拠にしてて違和感があったが、これで分かった。
ちなみにアイヌの人達は生野菜食べるよ。
1042
距離…魏志倭人伝「畿内説の勝ち」
方角…魏志倭人伝「方角は苦手」
猿の描写…魏志倭人伝「伊都国のこと」
鉄…魏志倭人伝「伊都国のこと」
絹…魏志倭人伝「伊都国のこと」
野菜…魏志倭人伝「伊都国のこと」
墓の形…魏志倭人伝「形は詳しくは知らないがデカイから畿内説の勝ち」
強すぎて申し訳ない
※1102
後漢書には丹土に変更されてるけどな
先にも言ったが朱丹を塗りたくってるなら水銀中毒が恐ろしいので長寿は実現不可能
無機水銀が固体の場合は経口摂取しても排便され無害に近いと言っても白粉のような微粒子の粉なら呼吸器系から吸収されるし、海につかるなら有機水銀(メチル水銀)への変質による水質汚染と生物濃縮が心配である
そのためか後漢書では丹土(ベンガラ)に変更されたのだろう
平安時代と弥生時代って1000年近く離れてるけど何か参考になるのか?
※1103
無知だな。日本で広くサラダ類の生野菜が食べられるようになったのは戦後かららしいぞ。
江戸時代以前の日本では、瓜、スイカなどを果物として食べ、ネギなどを薬味にする以外に、野菜をそのままで生食する習慣はなかった。付け合せやビタミン源としての野菜は漬物、おひたし、煮物、汁物がその役割を果たしていた。
第二次世界大戦後の日本では下肥の利用が一般的であり、回虫、ギョウチュウなど寄生虫が蔓延していた。これに対しGHQは化学肥料、堆肥の使用徹底を推し進めた。その後も、厚生省から1955年(昭和30年)に清浄野菜の普及について指導されるなど衛生面の改善が徐々に進み、安心して生で食べられる食環境の整備・浸透が図られたが、各家庭の食卓にまでサラダが普及するには、1970年代中期頃までの年月経過を待たねばならなかった。
※1105
で、アイヌの人たちはいつから生野菜を食べているのか、書き込んだ以上年代をはっきりしてくれ。
※1088
つまり、畿内の絹織物は有機物で他の地域の絹織物は無機物なんですね。
また、新しい知識が増えました。感謝です。
仮に副葬品として埋められていても3年でなくなっちゃいますもんね。残念です。
1109
10000年以上前から
※1109
アイヌ文化成立からずっと
>1109
7世紀の擦文文化は確実
縄文時代と同じだから1万5千年前からだな。
青玉=サファイヤ君はもう観念しろ
いつの時代の話をしてるのか知らんが過去の文献に見える且末、于田等の青玉の産地で発掘されるのはサファイヤではない
ttp://blog.163.com/wangweihao_6/blog/static/16616621920120102620708/
また古代の遺物でも青玉とされるものが発掘されるがサファイヤではない
青玉には軟玉と硬玉があるとされてるからこれはまさに翡翠のことだ
生野菜て、冬でもとれる野菜さえあれば何でもいける、後は好みの問題。しかも料理が下手っぽい記述もあるし。
華北や半島みたいに冬凍り付くわけでもないし、どうでもいい話。
縄文時代から、日本列島各地で交易が行われていた事はわかってて、
倭人の習慣や特徴を書いている場面で、東に倭種の島、南の小人国(種子島らしい?)、
さらに東南船行1年とあるから、女王国から船行1年の間に四国を見聞していったのなら、丹が出る山として徳島が十分条件を満たすね、縄文時代から産出してるらしいし。
※1107
後漢書の記述は前の史書の倭人伝を少しずつ変えながらコピペされてきたコピペだから、ほとんど参考にならないぞ。
上にも書かれてあるように水銀そのものは精製する技術は飛鳥時代までなかったという事だから、
それ以前の日本で産出される水銀は辰砂の事だよ。
邪馬台国の時代、九州では産出が無かったようだから九州での施朱はベンガラという事になる。
デカい都市が奈良にあったんだから
丹の和歌山徳島、鉄の京都兵庫もそうだけど
それらは奈良の支配下だったんだろ
青玉がサファイアでないと畿内説が正しくないので青玉=サファイアに決まってる。
畿内説万歳
※1116
支那からの輸入品が、北九州~中国では使われていたそうです。
四国と奈良は国産辰砂だそうです。
翡翠だと宮崎や熊本でも産出されちゃうから畿内説の人達困っちゃうじゃん。
別に困りはしないけどね
>>1114
もし青玉が翡翠(軟玉、和田玉)だとしたら産地は姫川か長崎か?
※1119訂正
出雲は国産優勢8/10でした。
近畿大学の遺跡出土朱の起源という資料です。
辰砂も西日本ならいたるところで取れるんだ
翡翠は畿内から産出できるから青玉=翡翠であっても構わない訳だが、邪馬台国時代に北九州では辰砂の産出はなかったとされている
今度はこの反論を九州説派は頑張って!!
あと卑弥呼の墓とされるものの存在も教えてほしい
※1124
至る所で採れていても卑弥呼の時代に採れていた事が証明できないと意味ないげとな
もし、北部九州の朱が中国のものならなんで邪馬台国の畿内の阿波と大和の辰砂を使わなかったんだろう
同じ倭国の水銀を使ったほうが安いし、わざわざ倭国内にあるものを交易で手に入れる必要なくないか?
それとも女王國の上層部が独占してて九州では中国から買わないといけなかったのか?
同じ邪馬台国連合だとしたらおかしくないか?
辰砂から畿内勢力の勢力範囲が割り出せたな
※1125
残念ながら弥生時代後期の翡翠の遺物が出るのは九州ばっかりですな
それに辰砂は熊本から出るで、というか日本各地から出る
ウィキペディア翡翠によると(記述がどこまで正しいかは分からないが)
古い時代の中国では、特に白色のものが好まれており数々の作品が残っている。これらの軟玉の産地は、現在の中国新疆ウイグル自治区に属するホータンであり、他の軟玉より硬く籽玉(シギョク、シは米へんに子)または和田玉(古くはコーラン玉)と呼ばれていた。
18世紀(清の時代)以降、ミャンマーから硬玉が輸入されるようになると、鮮やかな緑のものが好まれるようになった。そのなかでも高品質のものは琅玕(ロウカン、(カンは玉へんに干)と呼ばれ珍重されることになった。台北故宮博物院にある有名な翠玉白菜の彫刻は硬玉製である。
元々、翡翠は美しい石として、瑪瑙やその他の宝石とともに「玉」と総称されていた。
「翡翠」は中国では元々カワセミを指す言葉であったが、時代が下ると翡翠が宝石の玉も指すようになった。その経緯は分かっていないが以下の説がある。翡翠のうち白地に緑色と緋色が混じる石はとりわけ美しく、カワセミの羽の色に例えられ翡翠玉と名づけられたという。この「翡翠玉」がいつしか「玉」全体をさす名前になったのではないかと考えられている。
中国サイトでは、昔から碧玉も翡翠を意味するようだよ
※1129
熊本などで辰砂が出るのは、丹生氏が日本中を探し回った飛鳥時代以降の事だけどな。
少し時代は下るけど、北九州~朝鮮南端辺りは、大和の指示に従わず独自行動みたいな話を見た気がする。
奈良勢力に対抗するために、支那王朝と高誼を持ち、中国にも流していたという事かな。
大陸から派遣されたのはただの調査員で、女王国は奈良勢力に敗北し空白世紀ができたんだろうか。
1132は1127宛てです、すみません。
①以朱丹塗其身體
②出真珠青玉 其山有丹
③又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受
④上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
①赤い丹を体に塗ってる、中国だと白粉のようなもの
②真珠と青玉を産出し山には丹がある
③鉛丹を授けた
④丹を献上した
①は赤土?虫除けかなぁ?これが水銀だとしたらちょっと恐ろしい、ただ、日本画の朱の原料が辰砂だから可能性はなくはない。魏の使節が単に赤い色を見て「あの塗ってるの辰砂じゃね?」と思ったのかも
②と④は倭国のことだから同じもの、これが水銀(辰砂)?もしくは弁柄?
③は水銀?これが北部九州の遺体に塗られた朱?
もしくは四酸化三鉛を主成分とする赤色の無機顔料?
ローマでも平安時代でも顔料として使われている
朱丹はこの中だと別物って気がするけど、どうかな
北部九州で中国産の辰砂を使ってたなら③は水銀でいいと思うんだ
あとは②と④だけど絹も倭は献上してるけど高級品を下賜されてるから、倭国産はワンランク下に見られていて、魏はわざわざ国力を見せ付けるために最高級品を下賜したのかもしれないね
※1112
糸川だと思う
まあ各地で出たんだろうけど
>1122
新潟姫川(糸魚川)は硬玉翡翠じゃね
>1119
九州説の論理だと、畿内にでかい国があったとしてもそれは魏志倭人伝のいう女王國東渡海千里復有國皆倭種の国だから、倭国とは違うってことだよね。
九州北部は体に赤いのを塗るけど、1119によるとそれは大陸産だと分かっている。
だったら、倭国の山に丹ありとは書かれないんじゃないですかね?
1129に九州でも出るって書き込みもあったけど、それは1131に飛鳥時代に畿内豪族が見つけたものだって書かれてるし。
九州では体にベンガラを塗ってて、それを丹と書いてくれてたっていうのは、大陸から丹を輸入していたことを考えると無理なんじゃないですかね?
水銀朱を体に塗ってたらたとえ無機水銀でも有機化すると危ないからベンガラに決まってると繰り返し書いている人(九州説?)がいますが、それだと天然に辰砂の採れる水系は水銀中毒で死の世界になってしまいませんか?
畿内豪族が見つけたのが飛鳥時代ってだけで九州豪族はそれ以前から知ってたんじゃないの
※1138
硫化水銀自体には毒性はない
それを精練して使うから問題がある
>1140
なら、水銀として生成せずに使う水銀朱とかなら、体に塗っても大丈夫ですよね。無理にベンガラだと言わなくても。
>1139
別に飛鳥時代には畿内と九州が敵対していたわけではないので、九州豪族が知っていたら教えてもらえば良いわけで、丹生氏が探して見つける必要はないんじゃないでしょうか?
その辺は原文に当たっていないので、分からないといえば分からないですけど。
1110
無機物じゃなくて保存条件が良かっただけ
高級品だった場合は、陵墓指定されるような大きい墓を作れる権力者の副葬品になってて、近畿では発掘出来ない
「箸墓古墳 異聞」
織田有楽斉(信長の弟)は 関ヶ原の戦いの後 大和に領地をもらった 形の良い山があったので そこに築城しようとしたが 近隣の住民に百襲姫が乗り移り この御陵は昼は民がつくり夜は三輪山の神がつくったことを有楽斉に伝えた 有楽斉はそれを聞いて築城をやめたという
山はクヌギやナラの雑木林であったが 明治時代に宮内省の通達により 常盤木に植え替えられた 100年くらい前までは 前方部と後円部の間に溝があり 通路として使われていたという
※1142
水銀朱は蒸発した場合と水環境に流出してメチル水銀に変異した場合に毒性をもつからね
精練して純度を高くして細かく砕いたりして水に蓄積されやすくするから問題
ベンガラなのは後漢書に丹土だとそう記載されなおしているから
体に塗る朱丹が何かは不明だが、ここでは塗料としての朱色丹色のものだと思われる
>1145
九州と畿内は別の国で、九州で遺跡から出る丹は大陸からの輸入物だったら、其山有丹って書かれますか?
正直ベンガラかどうかはどうでもいいですけど。
水銀朱、常温では蒸発しないですよ? そして水に不溶です。
成分及び含有量:硫化水銀(Ⅱ)構造式:HgS … 溶解度 水、アルコールに溶解しない。
後漢書は時代的には5世紀の文書ですよ。そして倭人伝部分の多くはコピペ。
>1145
後漢書を根拠にするなら、
自女王國東度海千餘里至拘奴國
ですから、拘奴國は女王国の東ですね、南ではなく。
これまで九州説だと狗奴国は熊本(球磨)という意見が多かったのですが、海を千里渡って東へ行くとなると、邪馬台国は島原半島ですね! 千里もなさそうですけど。
※1146
上の文は俺はそんなこと言って無いので知らない
丹がないことが再確認れたから丹土に変更されたのでは?
当時の精練の方法がどんな方法なのかは知らないが、硫化水銀から水銀に精練もできるしどのような不純物と混和して水銀化合物を精製するかわからない
毒性の高い水銀化合物は暴露や経口摂取で毒性を示す
それと水に可溶と蓄積はまた別なんだな
用は水に溶けずとも、水辺に蓄積されたら有機生物有機水銀に変異するということ
水辺の底で硫酸還元菌によりHg+をメチル水銀に変質させる
そのメチル水銀が生物濃縮されて水俣秒の原因になったのだ
ついでに硫化水銀自体が水に溶けずとも水銀イオンが水分中に流出する
※1147
上でも書いたが後漢書の表記が違うところは検証しないといけないと述べたが?
少なくともこの丹土の件は水銀の危険性によりこちらの方が妥当なのではないかと考えたまで
>1148
あなたが言ったかどうかではなく、九州から出る丹が大陸産(論文で報告されている)状況で、九州からは丹は出ていないと思われる訳ですよね?
だからあなたは、九州で丹は出なくても赤いのを体に塗る風習があってそれはベンガラであると言っている訳ですよね? 本来、硫化水銀(水銀朱)に毒性もなく、当時日本で水銀の精製をしていた記録もないのに、精製したら水銀は危険という謎の論陣を張って。
>少なくともこの丹土の件は水銀の危険性によりこちらの方が妥当 と考えるのは、九州では水銀朱(丹)ではなく、丹土(ベンガラ)を使っていた、丹は使っていないと考えるからですよね?
「私が」「あなた(1145,1148)に」「あなたの考え」を教えてほしいと思っているのですが、
「この状態で、九州と畿内は別の国(畿内での産物は九州にもたらされない)なら、魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?」
知恵泉によると、九州の遺跡から出土する翡翠は北陸産らしい。
伊都国遺跡からは出雲の土器が多く見つかっているので、交流が深かったようだ。
別に番組だったと思うが、近畿の土器も見つかっているので、畿内勢力が鉄を買いに来たのでは
ないか?と推測されている。
狗奴国最有力候補の愛知の土器は関東など東日本に多く分布しており、これらと交流があった。
奈良の纏向からは日本各地の土器が出土、特に愛知の土器も大量に見つかっており、争いで負けた
後、邪馬台国が狗奴国の支配を受けた形跡ではないか? とも言っていた。
墳墓の形は国のアイデンティティーを示し、大きさは王の権力を表す。
土器の発見は国同士の交流関係、人の移動を表す。
このサイトでは、これらからの推論がほとんどない。もっと議論するべきなんじゃないか?
※1150
精製と精練は違うからな
鉱物のまま辰砂をどうやって使うの?逆に教えてほしい
だから丹は丹土に変更されたんだろう?
俺も上の文章で精製と精練を間違えてるところがあったわ
辰砂が含有した鉱物の精練過程で水銀化合物が精製されることもあるし、精練された比較的純度の高い辰砂は水環境中に蓄積して有機水銀を精製する
で、この状態で、九州が大陸から丹を輸入して使っている状態で、
「魏志倭人伝に其山有丹って書かれますか?」
※1125を見ろ
畿内説派は青玉をサファイアだとねじ曲げてそれが否定されるとぽいっと持論を捨てる
これは畿内を邪馬台国に結論付けてから、根拠を探してくるという行為だ
順序が全く逆
原因があるから結果が出るのであって
結果を決めてから原因を捏造までして探す
これは歴史を軽んじる行為ではないか?
こんな奴が多いから信用できないのだ
福岡の弥生時代後期~晩期の平原遺跡の墳墓は方形周溝墓ってある。
伊都国の女王の墓で卑弥呼や八咫の鏡と関連があると推測されているようだけど、
九州で箸墓級の円墳が発見されていないのは、なぜ?
※1154
それが間違いだとされて丹土に変更されたのでは?
それに畿内説派は倭人伝は邪馬台国伝ではなく倭人伝なので、倭のどこかかから産出されたらいいという立場なのに九州説派にだけ九州原産を強要するというのは明確な矛盾ではないか?
ちなみに九州にも辰砂の産地は存在する
※1155
それは違うな。議論の結果、より正しい結果が出たから結果を受け止めただけの話。
より正確な知識を得る為に議論しているんじゃないのか?
より正確な知識が出ているのに、証拠を提示せずヘリクツで自説を曲げない九州説派の方に
非常に問題があるだろ。
卑弥呼の墓に比定される大きな墓が九州にない事に関して、どう思っているのね
九州説派の諸君は。明確な見解を聞きたいものだ。
>1157
畿内説は、九州北部まで女王国の範疇だから、九州の事物も倭人伝に記載されるだろうといっているのですよ。
九州説は、畿内は別の国だから纏向遺跡は違うという立場ですよね? ならば畿内の産品は倭人伝に記載されないというのが、九州説の立場ですよね? 畿内は倭国に入れないのですから。
九州の辰砂の産地は飛鳥時代の発見って書いてありますよね?
何の為に議論しているか>>1155の方がいいんじゃないの?
都合の悪い事にはちゃんと答えないで誤魔化しているくせに
※1158
>より正確な知識が出ているのに、証拠を提示せずヘリクツで自説を曲げない
例えば?
魏史倭人伝をわけのわからん解釈を入れまくって解釈してるほうはどっちなのか?
確かに鉱物は他の資料と表記がぶれてたり矛盾していたりするところは解釈が入る余地はある
しかしながらほとんどの箇所で九州説派は全く解釈なしでそのままで成り立つが、畿内説はわけのわからん屁理屈をこねてばっかりではないのか?
1161
>ほとんどの箇所で九州説派は全く解釈なしでそのままで成り立つ
「伊都国から先は遠すぎてよくわからん」という記述を【無視】して
書かれてあるものほとんど全部邪馬台国だと【解釈】してるのが九州説。
※1161
産物などは移動するから様々な解釈が可能だが、移動せず最も重要な重要な記述である
「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」が明確に説明できていないと
何の意味も持たないだろ?
付属品が揃っていても本体が無いと全く意味ないね
※1162
伊都国より北?そんなことどこにも書いていない
「自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳」
女王国までの戸数道のりなどは詳らかにされている
また、邪馬台国の女王の宮殿の様子まで書かれているし
張政一行が倭国に長期滞在しており壱与とも接触していることが覗えるのに、
伊都国あるいは不彌国以降は実際に行っていない説は妥当ではない
※1163
箸墓も明確に説明できてないだろ?
「徑百餘歩」から読み取れる円墳でもないし、「徇葬者奴婢百餘人」も未だ発見されていない
未だ調査が進んでいないのは確かだが現状証拠も何もないのに、ここが卑弥呼の墓なのではないかと勝手に想像するだけでいいのか?
1165
詳らかなのは女王国以北
女王国が絶えるのは奴国
女王の都までは里数もわかってない
九州に径百歩で「想像」出来る古墳はどれなんですか?
想像すら出来ないようでは話になりませんよ
※1165
円墳に埋葬され、方墳は後から造られたという可能性もある。
箸墓が卑弥呼の墓である事指摘している学者も昔から多い。
卑弥呼の墓に比定できるのは箸墓であると明確に言っているが?
都合の悪い時は、議論のすり替えばかりだな。
九州で卑弥呼の墓だと思われるのはどこなのか? 明確に答えろよ。
簡単だろ? それも出来ないで、邪馬台国は九州にあるとか、とんだ笑話だな。
※1166
女王国までは帯方群から萬二千里ちゃんとわかってるんだよなあ
※1168
何が議論のすり替えなのか教えてくれ
証拠も何もないけどとりあえず比定してこじつけたらおkってすごい考え方だな
現状箸墓に関しては何も確定していない以上、吠えても無駄
吉野ヶ里が邪馬台国ですととりあえず言えば候補地があがった以上それでいいというのか?
※1169
脳内妄想ばかりしているから文章読解力が全くないんだろうな。
「九州で卑弥呼の墓と思われる古墳を、名前を挙げてくれ」と言っている。
又は「九州に卑弥呼の古墳と思われるものが無い事について、どう思っている?」と言っている。
それに対し「箸墓も明確に説明できていないだろ」と返してきた。
畿内説派は卑弥呼の墓は箸墓古墳の可能性が高い。と何度も明確に言っている。
1169
邪馬台国までは何里?
吉野ヶ里にある径百歩の古墳どれ?
続き、吉野ケ里などの遺跡の事は聞いていない。
「※1169が卑弥呼の墓と思う古墳の名前を明確に教えてくれ」と聞いているだけだ。
※1169
九州で卑弥呼の墓と思われる古墳はどれだ?
×候補地があがった以上それでいい
○候補地すらあげられないなら話にならない
最も重要な記述だから普通の思考を持つ人間だったら、それ位想定してから自説を展開するよ
普通の思考の持ち主なら ね!!
三角縁神獣鏡が魏国製というソースを教えて下さい
考古学ないし工学の研究論文等だと嬉しいです
九州 畿内
萬二千餘里 ○ × 帯方群からの距離
水行十日陸行一月 ○ × ※1
兵用矛~鐡鏃或骨鏃 ○ × 記載されている兵器の出土数
倭地温暖 ○ △ 気温の比較
有棺無槨 ○ × 甕棺の出土
人性嗜酒 ○ × 下戸の数(根拠としては薄い)
出真珠青玉 ○ × 真珠、翡翠の出土数
其山有丹 × × 硫化水銀の出土数
× ○ 硫化水銀
其山有丹土 ○ × ベンガラの出土数
女王國以北特置一大率 ○ × 伊都国が北にあるかどうか
倭國亂相攻伐歴年 ○ × 死者の墓の出土数
東渡海~復有國皆倭種 ○ × 東に海を渡った地に倭人の地があるか
周旋可五千餘里 △ × 周旋可五千餘里に収まるか
白絹 五尺刀 ○ × そのものかは不明だが絹と刀の出土数
鉛丹 × × 鉛丹の出土数 奈良時代まで無い
銅鏡 ○ ○ 神獣鏡が魏製とするなら
倭錦 ○ × そのものかは不明だが絹の出土数
白珠 青大句珠 ○ × 勾玉の出土数
※1「挹婁在夫餘東里北千餘里」「肅慎氏一名挹婁,在不咸山北,去夫餘可六十日行」
1176
http://www.athome-academy.jp/archive/history/0000001100_all.html
※1170
現時点で卑弥呼の墓に相応しい墓は畿内九州及び全国に1つもなし
※1177
涙拭けよwwwwwwwwwwwww
>>1179
脳内妄想乙!!
九州で卑弥呼の墓らしいものが1つも挙げられない時点で、相手にもされないレベル
「卑弥呼さま~」って言いながらオ○ニーでもしてろよ(藁)
※1177
質問とは違う事を答える←明かな誤魔化し論法だろうが。
九州で卑弥呼の墓を早く答えろよ。
※1179で自爆したな。もう、二度と九州説は言えないぞ。
1177
>挹婁在夫餘東里北千餘
挹婁は山岳地帯なので北九州の平地と同一視は出来ない。というか水行のデータではない。
>方角
末盧国や伊都国の時点でずれてるので無意味。
>その他
「倭国」の習俗であって、邪馬台国を特定しうるものではない。畿内説派としては九州が倭国で女王国圏内であることは否定してないのでノーダメージ。
1179
畿内90点
九州 0点
※1178
ありがとうございます
一方で
arai-hist.jp/thesis/archeaology/johokouko/sankaku.doc
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-16/2015_11_03.htm
等の研究もあるみたいですね
科学的には鉛同位体比の分析が信憑性が高いようにも思えますが
いろんな説があって面白いです
思考が半島系だと思ってみていたら、案の定ファビョって終了か…
卑弥呼の墓が出てきたらもう勝負はついてる
未だ論争してるということは日本全国どこにも見つかってないということ
こんなことすらわからないのか?
ただ比定するだけなら日本全国にあるがな
学者や町起こし担当の役人によって言うことは変わるが
畿内説のアホなところは箸墓がなぜかもう卑弥呼の墓として確定したかのようにほざいてることだ
馬具まで出土してしまったというのに
824
>どれだけ記述に近いかが問われている
>もちろん完全に合致などしないだろう
100点ではなくてもいいってことでしょ
畿内は90点
九州は5点
その他が5点
こんなもんだろ
確定とも勝負がついたとも言ってないぞ。
9回2アウトランナー無し10点差でリードしてると言ってるだけだ。
九州派、畿内派の意見をどちらを見ても確定ではないのになぜ畿内派は確定として語るのでしょうか?
箸墓が卑弥呼の墓であると100%確定したとしても纏向が邪馬台国であるということでもないのでは?
纏向自体が200年頃から作られた計画都市で生活用具が出てないのなら神事を行うための場所。
遺跡が見つかってないだけで、中国四国、兵庫あたりにある可能性はないのかね?
9回2アウトランナー無しから10点差を追いつく可能性を問われたらそりゃあるだろ。それがどうした。
※1184
苦しいなあ
たった合計六十日行ないし、四十日行だけで九千里程進める資料を教えてくれ
>その他
魏から下賜されたものや魏と交易で手に入れたものが九州で止まって畿内まで来てないってどういうこと?
普通女王に献上されるはずなのに、九州勢力がネコババしたのか?
神獣鏡なんかほんのお情けで実際は魏で作られた証拠が一切ないのが現状だぞ
「又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀」
それに女王国までのは詳らかにされてるらしいのに、後代の瀬戸内海を渡ったこういった情報が詳らかにされていないのはどういうことだ?
長政一行と壱与の関係にまで言及されているのに、邪馬台国には到達していない説はないよな?
ところで反論できない印象操作だけの連投君は印象悪くなるだけだからやめた方がいいんじゃないかな?
今の日本列島を逆立ちさせると
距離も方位もピッタリ一致するそうだけどね。
>>1195
朝鮮半島作成の地図ですね。
使役通じるところは三十ヶ国
魏志倭人伝に記載されてる国名 狗邪韓国+二十九ヶ国 他、狗奴国
隋書「經十餘國達於海岸」
あれ?大和まで行くなら四十ヶ国以上になるのでは?
九州から大和まで女王国という一国扱いにするのなら(周旋五千里と超絶に矛盾するが)、雄略天皇の中央集権体制を経て結束が強まった隋代にまた国が分かれてるのはおかしいのでは?
1194
会稽の東だったら、ちょうど奄美と屋久島の間にあるトカラ列島。
福岡市〜十島村(トカラ列島の島) 512km
福岡市〜桜井市(纒向遺跡)599km
神獣鏡が魏国製のソースが2つも出てるのに根拠もなく無視か
箸墓古墳は時期が違う
畿内説を唱えてる人で箸墓古墳=卑弥呼の墓としてる人はほとんどいない
だから未だみながその周辺で探してる
1197
ごめん何が言いたいのかわからん
※1186
面白いですね。鏡は長江下流域(呉の地域)に工房があったそうなので、呉と交流した可能性が気になります。呉は朝鮮半島に援軍を送って華北を攻撃させようとしたり、東南アジアと交易したり、当たり前に船旅する国ですから、広島や大阪までやってくるのも可能でしょうし。
それと、北九州から出た鏡が世界最大だと見たけれど、それも全部同じ場所で作られたのか気になります。
縄文時代から交易があったこと、そして各地の土器がそれぞれの国で発見されること、
この二つの条件を見ると、ローマなどの土器片山を思い出しますね。
交易する物を土器に入れて運ぶので、使い終わった各地の土器が、大量に廃棄されて山になったと。
他地域の土器=交易の跡と考えると、奈良→京都→中国→九州(逆も)という交易跡かもしれないですね。辰砂などは徳島や奈良から出雲にまで運ばれていたわけですし、当時の日本で宗教上重要なものを徳島奈良が独占していたとしたら、奈良に多様な土器があるのもわかる気がします。(辰砂交易の対価を土器入りで支払った?)
丹も台湾
ttps://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%80%80%E8%BE%B0%E7%A0%82&spf=1495104936691
「男子無大小皆黥面文身~國國有市,交易有無」の箇所は
台湾・沖縄の情報が中心である可能性が高い
この行から邪馬台国の場所を探るのは不可能
※1198
それは計算した結果だぞ
長里と短里をごっちゃにしてるからそういう計算になったという話
神獣鏡のソースって全然ソースになってないやんけ
結局材料分析かけた結果不明で中国では見つからないし
中国工人の跡というのもソースなしの記事やったやん
九州説は九州説で自信を持って論じてくれればいいのですが、どうも九州説を唱えている方がごく少数で(活発な書き込みは1人?)、その方(たち)がケンカ腰なので微妙に場が荒れていますね。
質問には答えられる人が、煽り抜きで答えるようにすれば、議論も深まっていくと思います。
>1204
1029の人?
オレ964と1003だけど、オレのどこがケンカ腰?
どう見ても相手だろう?
畿内説の人は箸墓古墳が卑弥呼の時代じゃないのに未だに卑弥呼の墓扱いしてるの?
邪馬台国は四国か日本海側だから畿内にはないよ
>1189
>馬具まで出土してしまったというのに
周濠に落ちていたあぶみの事でしょうか?
唯一五段築成であること、円筒埴輪が特殊器台と呼ばれるタイプであることから、最初の前方後円墳であることは動きません。
逆に、馬具が副葬品に増える中期古墳であれば、三段築成でなければなりませんし円筒埴輪の編年からしてもありえません。
たった一つの流入物で、箸墓の築造時期を動かそうとしても無理ですよ。
移動可能な「物」で決定的なことを論じようとするのは無理があると何度言えば分かってもらえるのでしょうか?
1143
負け惜しみもここまでくると立派だな
畿内の重要なものは全て宮内庁のせいで出土しないことにすればいいんだからな
畿内派の根拠
15世紀の朝鮮半島製の地図
>1207
殉葬者いたの?
※1207
埴輪あったら弥生時代じゃなくね?
吉備地方で弥生時代のもっとも終わりに出現して畿内に移ったんだろ?
埴輪があったなら箸墓古墳は吉備地方の豪族が東遷した結果じゃん
つまり吉備の豪族が畿内を征服して古墳時代に前方後円墳を作ったんだから邪馬台国関係ないよね
さらに兵庫の1例除いて都月型円筒埴輪と三角縁神獣鏡が一緒に出ないことを考えても
箸墓古墳と邪馬台国を同時に議論することに意味があるとは思えない
中心的な埴輪には、表面にベンガラなどの赤色顔料を塗布して、畿内では赤以外の色はほとんど用いられなかったことからみても箸墓古墳は邪馬台国時代というよりは大和朝廷のものだと思うんだよなぁ
箸墓古墳のことを持ち上げれば持ち上げるだけ畿内説から遠ざかるんだぞ
卑弥呼の時代はその前だからな
つまり卑弥呼の墓が前方後円墳なら箸墓古墳の前に前方後円墳があることになり、最古の前方後円墳が箸墓古墳ならそれは間違いになる。
纏向遺跡のはしのほうにまだ見ぬ円墳が眠っており、殉葬者とともに眠りについているはず
そこには卑弥呼のミイラが盗掘を免れていれば存在しているはず
陵墓指定されると主張するかもしれないが、前方後円墳以外が天皇陵になる可能性は低いから大丈夫だ
その近くには宮殿も租税を納めた建物もあるはず
奈良県は全県民を強制移住させて100年くらい掛けて全県を掘り返すべき
せめて地中レーダーが衛星か航空機を使って一度調べて欲しい
1203
1194「たった合計六十日行ないし、四十日行だけで九千里程進める資料を教えてくれ」
↓
当時の中国人「それくらいの日数水行陸行したら、ちょうど会稽の東くらいの位置までいける計算になるよ」
↓
そこまでの距離を測ったら、ちょうど纒向まで
長里と短里がなんだって?
ソースになってないというソースは?
※1204
畿内説の連中の方が朝鮮人だの低学歴だの低民度だの煽ってきてると思うけどそこのところどうなの?
※1207
馬具がでようが出まいが、径百歩、奴碑百人、もしくは金印でも出土しないと箸墓はないだろう
しかも4世紀前後箸墓が260~280年代の可能性があるというのも堀から見つかった土器が炭素14年代測定法でその年代だからという理由ではないか
それならそんな流動物をもってして箸墓を3世紀の墓とするのは言語道断という立場じゃないといけないのではないか?
流動可能な物云々はまあ物が出ない方の言い訳だわな
流動可能なら双方に出るはずなのに、出土量に圧倒的開きがあるのはやはり原産地が一番数が多いという理由でしかない
それに甕棺のような墓や絹織機などの工作機械が流動するのかと
1213
防衛上邪馬台国の正確な場所は教えてないので
ちょうど纏向遺跡まで行くわけがない
そもそも魏は邪馬台国まで行かず伝聞で倭人伝を書いてる
お前は畿内説の根幹が分かってない
1208
×負け惜しみ
○論理的考察
論理的考察を否定できずに負け惜しみほざいてるのはお前だろ
というか、以下↓の理由で負け惜しみなんてする必要は別に無いしね
鉄とか絹は「倭国」の習俗であって、邪馬台国を特定しうるものではない。畿内説派としては九州が倭国で女王国圏内であることは否定してないのでノーダメージ。
1215
防衛上正確な場所を教えてないという根拠は?
>>1213
日数になっているところは倭人から聞いただけだからそれで正しい位置にあったらむしろ間違い
※1213
お前本当に文章読めないのな
短里だとわからず萬二千里南下したら長里で萬二千里南の会稽の東にあるという計算だ
というか計って書いてるだろ
ソースにならないというソースって日本語いけるか?
上の人も言ってたけど論文なり出せよと
あの記事ではただ発言してるだけで、中国工人の工作跡がどんなものなのかも提示していないではないか
1218、1219
などと意味不明なことを言っており
※1143
傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
が分からないみたいだな
なんだ>1143は魏志倭人伝読んでないだけか
よかった
1221
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw
1222
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw
1198
512km=599km?
1225
グーグルマップで測っただけだから大まかだw
とりあえず九州は論外
1143
とりあえず原文読めば?
※1226
なんだそうだったのかw
古代の人もこんな感じだったんだろうなw
1227
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(3回目)
前の記事のコメントでも用心深いから邪馬台国の人は嘘を教えてたってなってた
つまり魏志倭人伝に書いてあることをより正確に辿ったところ以外のところになる
>1143
涙拭いていいんだよw
1230
お前の中ではそうなんだろうなとしか言えないんですけど
※1143※793
かわいそう
1231
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(4回目)
>>1232
畿内説を否定するコメントはいらない
1233
言いたいことがあるならビビってないではっきり言えよw(5
1235
論理的客観的なものならいくらでもどうぞ
邪馬台国=畿内
この真実から全てのことを見ればいい
箸墓古墳も弥生時代から古墳時代に掛けて延々造営していたとすれば不思議ではない
魏の使節が見たときは円墳部分だけ作っておりそこから100年、150年掛けて全ての土や副葬品を入れ替えて作り直したとすればどうだろう
殉葬者も一度全て掘り起こしてなかったことにすれば今の状態となるだろう
前方部分と後円部分に時代的な差もつくりの差もないことからも一度全て壊し、作り直したことが分かる
魏志倭人伝に記述のあるものが畿内にはない
→倭国全体ではあったことにすればいい
→女王の下に献上されていた記録あり
→女王とは倭国全体のこと
これで完璧
これを論理的客観的という
九州派はおぼえとけ
1238、1239
畿内説に反論できないからって、反論できそうな文に勝手に変えるなよw
九州説はこの手の精神勝利が多いねw
1240
具体的な反論のない文章なんて九州信者の見本のようなコメントですね
邪馬台国=纏向遺跡
卑弥呼の墓=箸墓古墳
この事実に対して具体的に反論してもらおうじゃないか
古代の史書編纂ってこういういかにも関係ない煽りあいでもとにかく話を聞いて情報取捨選択していったんだろうな
448さん精神的勝利おめでとうございます
木材が重要といいながら有機物は出土しないというその姿勢に畿内説一同感服しております
>1214
どこまで同一人物か分かりませんが、科学の軽視が凄く気になるんですよ。
硫化水銀は塩ですから、イオン(水銀イオン)化するというのは水に溶けることを意味します。でも、硫化物イオンと水銀イオンの溶解度積が非常に小さいから水に不溶とされているわけです。まあ、厳密に0ではないですが、毒性を云々できるレベルではありません。水にたまると危険と何度も書いていますが、辰砂は川沿いの産地が多くもとより水に浸かっているものが多いですが、その川で水銀中毒があるかっていうとそんなことはありません。それに辰砂から水銀朱を作るのに、精錬も精製もしません。ただすり潰して粉にするだけです。基本的な事実誤認(あるいは知ったかぶりか思い込み)が多いんですよ。
箸墓の年代は木片一つで決まっている訳ではありません。吉備の楯築墳丘墓の推定年代とも矛盾しない、土器編年その他を総合して推定されています。それに矛盾するものが出た場合、新たな説明ができなければ、その一つがおかしいことになります。
※1243
歴史を編纂しようとしたら宮刑に処された人いたらしいよ
もし仮に箸墓古墳で見つかった土器が卑弥呼の時代のものだとするとその後150年ほどいったんその形式の土器が消えちゃうんですけど…
その後また大量に使用されるようになるのっておかしくない?
纏向遺跡はずっと続くのにその土器だけ150年タイムスリップしてることになるんですが…
古墳時代には弥生時代と自由に行き来できるタイムトンネルがあってその土器だけ置いてきたんですかね?
>1212
私は箸墓を「定型化」した最初の前方後円墳、という言い方で書いてきています。箸墓の前に数十メートルから100メートル超の5つの前方後円型の古墳(定型化前なので厳密には弥生墳丘墓扱いの方が分かりやすい)がありますよ。
繰り返し邪馬台国は弥生時代だから、というコメントがありますが、時代区分には絶対年代がなく、時代の区切りが絶対年代でいつに当たるのかは、様々な資料から推定することになります。
箸墓から古墳時代が始まりますが、その前から纒向の人工都市は築かれていますし、その中に箸墓につながる大きな墳丘墓が作られていて、その時代は魏志倭人伝の邪馬台国の時代に重なります。
それにしても纏向遺跡のまわりは古墳だらけだね
魏志倭人伝の投馬国と邪馬台国の人口は推計値ということは魏の人も行ってないから、
行き方は伝聞に過ぎない可能性が高い
奴国が福岡市周辺で2万戸、投馬国は2.5倍の平地、邪馬台国は3.5倍の平地が必要だと考えられる
かつ大きな国はでかい川のそばにできるものだというのがセオリーだとするなら、投馬国は筑後川沿い上流部(久留米~うきは)、邪馬台国が下流部(久留米~有明海)
この2国が周辺を巻き込んで争えばそれは倭国大乱といえるレベルになる
そもそも纒向の近くに大きな川がないゆえ大国があったとは思えない
纒向遺跡はおそらく祭殿、当時の伊勢神宮や出雲大社のような存在、信仰の中心地だっただけ
九州、出雲、近畿、北陸、etcそれぞれ交流のある別勢力
九州=倭 出雲以東は蝦夷地みたいなものだった可能性は大きい
>1211
ある意味、前方後円墳の円筒埴輪は吉備の楯築墳丘墓の直系の子孫です。しかし吉備が大和を征服した形跡はありません。九州派の人が、大和からは戦死者の遺体が出ないといっているとおりです。
その一方で、定型化した前方後円墳は墳丘を覆う葺き石を伴いますが、これは弥生墳丘墓では出雲など日本海側の四隅突出墓に見られるものです。
さらに、初期古墳の副葬品は、剣、鏡、玉が多いですが、これは吉備や出雲というより、北部九州の伝統的な副葬品です。
前方後円墳が大和朝廷のものというのには同意します。そしてそれは各地の勢力が共立したもの、つまり「邪馬台国が女王の都」するところになったためだと考えています。
以前にこのコメント欄で、伊都国に置かれた一大率について、女王国の北に置かれたのだから女王国のそば、伊都国の場所は九州だから邪馬台国も九州、という書き込みがありました。
しかし、邪馬台国が伊都国の近くだったのなら、わざわざ伊都国に一大率を置かなくても、邪馬台国の人が直接諸国を検察すればよいと思うのですが。むしろ伊都国から遠かったから、一大率を置く必要があったのだと思います。
ただ、その遠くが、どの程度なのかが問題なのですが、魏志倭人伝によれば水行10日陸行1月ですから十分に遠いように思います。投馬国までの水行20日を加えればさらに遠いですし。
>1250
>大きな国はでかい川のそばにできるものだというのがセオリーだとすれば
当時の土木治水の技術だと灌漑のためにせき止められるのは、水深1メートル程度の小河川までだろうという推定があって、それだと大河川の流域はむしろ農地として利用しにくいことになります。実際、ここでも繰り返し話題に出る出雲や吉備に、大河川はありませんが、一定の勢力があったことは同意されることと思います。
古事記や日本書紀に大規模土木工事の記事が出るのは古墳時代中期くらいですから、弥生時代には筑紫次郎とも呼ばれた筑後川流域は農地化はむつかしかったのではないでしょうか。
伊都国が九州なのを前提にしないと畿内にたどり着かないから伊都国は九州
そうすると女王国の北だとすると大和の北を九州の伊都国が管理することになるし、
90°回転してるなら女王国の西を伊都国が管理することになる
九州と瀬戸内海は全て伊都国が管理することになる
ただし女王国の先にもその支配下の国は広がっており、その先に狗奴国があったとするならば、西(北)は伊都国、東(南)は女王国と分けていたのかもしれない
王がいるのは伊都国と女王国と狗奴国だからこの3つが3強でその内二つが手を組んだのかもしれない
纏向遺跡の中に川があり、たびたび氾濫して建物を作り直していたことが遺跡から分かっている
わざわざ何回も流された上、その小さな範囲にこだわって祭祀場を作っていたことは何か意味があるのではないかと言われている
※1245
前にも言ったかもしれないが
硫化水銀は経口では毒性を示さないが暴露で毒性を示す
鉱石と粉末の表面積の違いを考慮すればわかると思うがイオン化傾向が圧倒的に違う
前にも言ったとおり別にイオン化は必要なく、無機水銀の有機水銀への変遷は水中での「蓄積」によるものと考えられている
すごく伸びてるので記念書き込み
1254
この期に及んできみぜんぜん理解できてないわ
女王国=倭の1大勢力
邪馬台国=女王国の都国
伊都国=女王国下の二十数カ国ある内の1国
狗奴国=女王国に服属しない1勢力
やで
>二十数カ国
訂正:コレ明らである国の数だから、二十数カ国というのは最低数
南至邪馬壹國 女王之所都
女王の住む都であり女王国の都国ではない
>>1258
その説って邪馬台国は大和にあって女王国は九州にあるっている魏略の逸文から来てるんでしょ
卑弥呼は女王国で九州、台与は邪馬台国で大和
卑弥呼と台与の間の混乱も説明できるし、伊都国の代官の説明もできるし、箸墓古墳が頑張って遡ると台与の時代だし、大和朝廷誕生も分かるし、邪馬台国が倭国最大の勢力だったことも分かる
倭人伝が九州の文化や産物しか記していないことや邪馬台国が伝聞形式で書かれていることも説明できる説でしょ
女王国が支配している国名に奴国が出てくることと狗奴國が九州にあることもスマートに説明できる
コメント1200ってなにごとだ?荒らしか?と思ったらまだやりあってたんか
好きだねぇ・・
荒しが大部分だぞ。
朝鮮人が声闘(ソント)やって、議論を妨害してる。
支離滅裂な事を騒ぎ立てて、日本人に必要な情報を隠そうとしてる。
九州は朝鮮半島経由の使者が確実に通った場所。
畿内はそれなりの遺構はあるかも知れんがそこまで魏使が行った確証はない。
決め手は「親魏倭王印」だけど、それは未発見。
オレが九州説支持するようになった理由は「(畿内説では)朝鮮半島に比べても西日本一帯を統治する政権が成立するのが早過ぎる」って学者の著作(タイトルも著者も忘れたけど)を読んで共感したから。高句麗との対決が西暦400年なのに、その150年も前に西日本の諸国連合があったってのは余りに無茶な議論じゃないか。
国家形成の過程を考慮しても畿内説は無理だと思う。
>1264
諸国連合、国家形成をどう考えるか、なんですよ。
兵士を動員して戦争ができるようになるのは400年代初頭でも、その前から列島の広い範囲でほぼ同時期に、同一コンセプトの前方後円墳(一部で前方後方墳が優勢)が作られるようになり、その時点で倭国というまとまりが共有されるようになったのだと思います。
>1256
溶解速度と溶解度が異なるものだと理解していますか?
粉にして表面積が大きくなったときに大きくなるのは溶解速度であって、溶解度=溶ける量は物質の性質で決まっているので塊だろうが粉だろうが変わりません。
たとえば岩塩の塊を水に入れて、十分に時間をおき飽和したあとに、その岩塩を砕いて粉にするとさらに溶けるっていってるのと同じですよ。1256に書いてあるのはそういうことです。
分かる人から見たら、馬鹿なことをいってるなとしか思いません。溶解度積という言葉の意味は分かりますか?
>>1261
九州が倭、その東に日本国って書いてある唐書もあるね。
その後に、日本が倭を支配したのか、倭が日本地域を支配して国名を日本と変えたのかわからないって続くけど。
そこそこ日本の情報は入ってて、後の時代になっても九州=倭だと思われてたって事じゃないかな。
壱与の時代に張政が調査した時点では、倭の邪馬壱ヤメイ国は九州にあり、空白世紀以降は、邪馬台ヤマト国の名が知られていた(奈良勢力ヤマトが朝鮮半島まで支配してるから)が、現地調査は遣隋使まで無かった、と考える方が矛盾無く読める気がする。
それから、壱与の時代を報告した張政が、女王国の勢力圏に無い国として、東に海を越えて1000里の倭種島、南4000里の種子島、東南水行1年の裸国黒歯国なんかを挙げていて、さらに別の書で、倭の島が東西三月南北五月って記述からも、倭が九州島を指している(1年かかるのは別の島)と見るべきだろうし。
その1年で、九州から出た先も見てきたとするなら、四国辺りの産物(辰砂)が書かれていてもおかしい事はないだろうね。
※1266
多分ウィキペディアとかで一生懸命調べてるんだろうけど問題とするところがおかしい
海ほどの体積に溶解度って何を言ってるんだ?
問題は蓄積なんだから、重要なのは溶解する量であり速度なんだよ
なぜなら海中への投棄量が海がもつ拡散力より下回ると蓄積しないから
排水基準というのがなぜ存在するのか考えてみてほしい
しかもイオン化の話は誰かさんが水には不溶とかいう全く的はずれな反論を言ったことに対して、厳密にはそんなことはないよと教えてあげただけで
しかも無機水銀が有機水銀に変質する過程はまだ完璧に解明されていなく
水環境に蓄積された無機水銀がある一定量を超えると有機水銀に変質するというだけでここを掘り下げても意味がない議論
あのね、水に不溶というのはガラスのようなものを言うんですよ。ガラスでも水に入れれば、ソーダガラスならナトリウムイオンが微量に水の中に出てきますが、それをガラスが溶けたとは言わないでしょう? さらに言えば、ガラスを粉にしても水に溶けないですよね?
海の水の量が莫大だから飽和しないとかまた的外れなことを言っていますが、それを言うなら微量ずつでも溶けていたら日々雨に濡れるうちにすべて溶けて流れてしまうって分かりますか? 水に不溶だから、川沿いに辰砂の鉱床があるんですよ?
結局、溶解度積が何を意味するか分かっていないでしょう? 高校レベルの化学の知識が不十分です。だからウィキペディアとか無駄なことを言い出すのだと思います。先に示した、硫化水銀の水に不溶の文言は、硫化水銀のCSDS(ケミカルセーフティデータシート)からとったものです。
それから、水に蓄積したらと的外れなことを繰り返し書いていらっしゃいますが、辰砂の鉱床は川沿いにある場合も多く、水にほぼ浸かりっぱなしで蓄積するも何も大量にありますが、それが死の川になったりしてませんよね。何度も書いていることですが。
自分に反論されること、持論に不利なことは否定しなければという認知バイアスがかかっているから、書かれていることが理解も把握もできないのだと思います。
現代科学の産業規模で水銀廃液を出していたチッソと、人口密度も低い状態でちまちまと粉にして使っていたのを同列に考えようとしているのが、そもそも間違いです。
>1261の考え方は面白いし、理解できます。ただ、卑弥呼の宗女と表現される台与が遠く離れた場所にいるというのが、やや難しく思います。
私は、1261のいう権力の移動がもう一段前の、卑弥呼の共立のときに起こったのだと思っています。
もともとは、伊都国かどこかの九州北部の国の中に倭国王帥升らがいて、それが死ぬか戦乱の中で後継者が決められない状況で、その倭国王の血筋の遠縁の卑弥呼を大和に見出して共立した。卑弥呼はもともとの倭国王の血筋だから、王に推されたと考えることができます。そして、卑弥呼の何代前になるか分かりませんが、九州の倭国王の血筋の大和への移動が、神武の東遷として逸話に残っていると考えると、一通り話が繋がります。まあ、ほぼ推量だけなので、根拠は挙げられませんが。
私は時々平原遺跡の平原一号墳の話を出しますが、この被葬者の女性を天照大神に当てれば、その子孫が大和に移住して、そこから卑弥呼が出て大和朝廷に繋がる、というのが話としてはきれいです。
1261
>その説って邪馬台国は大和にあって女王国は九州にあるっている魏略の逸文から来てるんでしょ
違う。女王国の尽きるところ、女王国の境界が九州伊都国から千里余の奴国にあって、倭国が水行陸行で福岡から500km以上離れた場所(会稽の東)まであるという、魏志倭人伝の記述から。
>卑弥呼は女王国で九州、台与は邪馬台国で大和
根拠は無いよね。
>倭人伝が九州の文化や産物しか記していないことや邪馬台国が伝聞形式で書かれていることも説明できる説でしょ
九州伊都国が長崎出島だったけど、都までは行ってないということで説明できる。
1264
>高句麗との対決が西暦400年なのに、その150年も前に西日本の諸国連合があったってのは余りに無茶な議論じゃないか。
古代の歴史の流れは、中世以降より全然遅いだろ
この時代にはそれぐらい出来てないと間に合わない
弥生時代にはある程度の西日本連合と、東日本連合ができていた事は土器の出土と前方後円墳で説明できるだろ。現在の国家のような中央集権ではなく、ゆるやかな国家連合(共同体)だったんだろう。
そもそも黒曜石の出土状況から考えると、縄文時代には日本各地で広く交流があったんだし。
つまり種子島説が一番説得力があるわけか・・・
奴国の後、北九州から福井辺りまで修羅の国になって倭国大乱と言われ、その後、北九州の有力者達が卑弥呼を担いで平和になって、卑弥呼の死で今度は九州から畿内まで乱れて、大昔に日向から大和に東征した子孫の畿内の台与が担がれたのか。
神功皇后がこのあたりだな。
熊襲征伐だっけ?
その後倭の五王から大和朝廷まで繋がるんだね。
そして呉の人狩りでは台湾は行けても種子島には行けなかったとかいてあるから、種子島あたりまで倭人領域とみなされていたようだね。
魏志倭人伝の謎は謎でもなんでもなく、素直に出来事をかいていた、もしくは原典や使節の報告書が複数あって組み合わせて書いてあったんだね。
※1270
ちょっと話が意味のわからない方向にいってるね
水に蓄積は辰砂を砕いて白粉のように塗って海に定期的に浸かって蓄積された場合とはじめから言ってるだろう
川沿いがどうのとかは君以外誰も言ってないの
何度も言うが相手の言葉を勝手に妄想して議論を進めていくのはやめていただきたい
まあ何にせよ粉末の硫化水銀を吸入した場合は危険性が高いので、直接顔面に白粉のように塗るものとしては適さないだろう
ゆえに後漢書では丹土に訂正され、白粉のように塗っていたのは安全なベンガラであろうと推測する
1276
で、径100歩の墓はどこだい?
纒向=邪馬台国の怪しい所は
九州の土器がほとんどないこと、また中国や朝鮮のものもほぼ出ないこと
九州から畿内にまたがる大勢力のくせになぜ九州系の土器がほぼないのか?
対馬は朝鮮と日本と行き来しているというし、伊都国は使節が往来する、国々には市があったという
そして邪馬台国はそれらの国から租税を課して、中国からの賜下品は女王に献上されたという
邪馬台国には朝鮮中国九州の文物が集まって然るべきなのにそれがないということは
つまりは纒向は邪馬台国ではないということだ
また卑弥呼が東遷ったということも考え難い
畿内の古墳の形状や搬入土器を見る限り、最後に九州勢力が合流する
故に記紀にいうニギハヤヒに相当する者が纒向の盟主であり、後に北九州日向神武に相当する人物が合流し王に推されたと考える
これは記紀が古代の記憶を神話化して再編したと仮定した場合の話である
>1277
私が確認していなかったのも悪いですが、
>ゆえに後漢書では丹土に訂正され
何度も書かれているコレ、間違ってますね。
後漢書
出白珠青玉 其山有丹 土氣温腝 冬夏生菜茹 無牛馬虎豹羊鵲
魏志倭人伝
出真珠青玉 其山有丹
倭地温暖冬夏食生菜
其地無牛馬虎豹羊鵲
で「其山有丹」の部分は、まったく同じですね。訂正されていません。
1277の人が繰り返し書いている後漢書の「丹土」部分も確認すると
後漢書
並以丹朱坋身 如中國之用粉也
魏志倭人伝
以朱丹塗其身體 如中國用粉也
で、魏志倭人伝にも対応箇所があり、丹に関する部分については、後漢書はほぼ魏志倭人伝のコピペであることが分かります。
つまり九州の様子に合わせて「訂正などされていない」ことが分かります。
そして1134の人が引用されているように
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布「丹」木短弓矢
倭国から丹が献上されてもいます。
これ、ベンガラだったら献上する価値ないですよね?
硫化水銀は水にも溶けないし、事実上無毒なんですよ。ただ、そう思っていたら、水俣病が起こったので、無機水銀が有機化することもあることが確認され、安全とは言えないけど、という状態です。
1256で
>鉱石と粉末の表面積の違いを考慮すればわかると思うがイオン化傾向が圧倒的に違う
などと無知なことを書かれていますが、イオン化傾向って元素に固有の値ですから変わりようがないんですよ。
ということで、倭国にあったのは「丹(水銀化合物、たぶん辰砂)」
そして、当時九州では採られていなかった
→九州で出るものは中国産
→九州の産地は飛鳥時代に畿内豪族、丹生氏が見つけたもの
でいいですね?
九州で使われていたのは、丹土、つまり大陸への献上品にならないベンガラなんですから。
そして後漢書は、魏志倭人伝から丹についての訂正はないのは、確認いただけましたでしょうか?
九州で畿内の水銀が使われず中国の水銀が使われたのは下賜されたものを使っていたから
下賜されたものは女王にいき、間違いは許されないから女王は九州
丹により科学的にも文献的にも正解が出てしまった
倭国の丹はベンガラ
中国の丹は辰砂
そうじゃないと邪馬台国が畿内にならない
土気という単語の使用例を教えてくれ
それと献上品はベンガラで何が悪いのか?
まあここは中国から出土してないので何とも言えないが
顔料に適しているぞ
さらに粉末の硫化水銀は何度も言うが呼吸器系から吸入されることにより毒性を示す
SDSも結晶状のものを見てるんだろうけど、粉末は顔面に塗るには適さない
そもそも水銀は白粉のように身体に塗れるの?
秦の始皇帝の墓は地下宮殿になっていて水銀の川が流れていたというし、霊薬の材料でもあったから、中国の水銀需要は高かったに違いない。
丹木という名の木だよ
魏志倭人伝
其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人,上獻生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、、短弓矢。
山海經‧西山經
峚山 , 其上多丹木, 員葉而赤莖, 黃華而赤實, 其味如飴, 食之不饑。
原文は丹木と短弓矢の間に一字がある
書き込んだが消えた サイトの環境が適さないようだ
ケモノへんに「付」という字で、羊に似た動物らしい(山羊?)
>1283
何が悪いのかと思うのなら献上してくれてもよいですけど、献上品は大陸の王朝に届くわけですから、それが中国でいう丹かどうかは分かった上で記録するでしょう。遠絶で詳らかにできない倭国のことではないのですから。
その上で「其山有丹」と魏志倭人伝でも、ずいぶん後に書かれた後漢書でも「訂正されることなく」書かれている訳ですから、それを疑うには相当な理由が必要だと思いますが?
これまで「九州で使ってたのはベンガラ。その証拠に後漢書では訂正されている。九州で当時、「丹(辰砂)」が採れなかったとしても、問題ない。」っていっていた論拠が、全否定状態ですが、どうなさいますか?
後漢書の丹土が丹と土気だというのなら
土気という単語を教えてくれと言ってるんだよ
それにどうもないよなあ
もし仮に丹が産物としてあったとしても
九州と四国は縄文時代から交易が盛んだしな
四国のことは倭人伝にも記述されているしおかしくはない
土気
ttps://pedia.cloud.edu.tw/Entry/Detail/?title=%E5%9C%9F%E6%B0%A3
ttp://www.chinesewords.org/dict/72152-118.html
倭国の人が風習として白粉代わりに使えるくらい大和と阿波から辰砂が採れたのか?
>1286,1288
ありゃ、そうなんですか。
失礼しました。
丹木っていう木(材木?)があるんですね。
となると中国に届いたから丹があるには間違いないってのは言えないですね。
私がよく読ませてもらっているサイトでは「生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木(けものへんに付)・短弓矢を上献す」と訳されていたので考えもしませんでした。
ただ、ググってみても地名の丹木町しか出てきませんし、中国語のネット辞書でも「丹木」はヒットしませんでした。どんなものかご存じの方がいたら、教えてください。
まあそれでも、その山に丹あり、というのは動かない訳ですが。
>1294
1287下部
※1273
古代ギリシアの歴史時代が紀元前700年頃からだとして、500年経ってもヘラス全体の諸国連合は出来なかったよ。
イタリア半島もエトルスキの記録が残る紀元前7世紀から事実上ローマの支配下に入った紀元前3世紀まで400年くらいか。
朝鮮半島でも百済や新羅の王朝が信頼出来るようになるのが4世紀。支那の王朝との接触は倭よりずっと早かったはずなのに。
状況的に整合性が取れない。
オレは倭の五王を天皇家と結び付けるのも、関東の剣に刻まれてた「ワカタケル」を雄略天皇と断定するのも証拠不足だと思ってるかんね。
邪馬台国の時代には文字も無かった国の人間が、文字を教わった国をイキがって支那とか言ってると痛い
中国人の民族性考えたら、邪馬台国の位置が台湾の東あたりになるのは当然じゃないかな。
魏としては呉の後背を突く位置に同盟国があって欲しいだろ。
中国のニュースとか見てると、願望をそのまま記事にしてるのが多い。
つまり、魏志倭人伝も当時の魏の願望が背景にある。
>>1297
シナのほうが由緒ある呼び方ですよ
秦に由来するギリシャ語またはラテン語から来ています
歴史ある素晴らしい言葉ですよね
魏志倭人伝に書かれてる事と考古学的事実を照らし合わせてみるのはいい
しかし魏志倭人伝に書かれてる事から考古学的事実を創出してはいけない
実際にある事実と魏志倭人伝の記述を照らし合わせていけば
おのずと邪馬台国がどこにあったのかは明白になる
丹木で検索したら、対馬侍従起草ってところで、丹木黒角が出てきたけど、東夷の産物として丹木があったのかねぇ。時代が違い過ぎるし、その文章の後に、対馬は朝鮮由来みたいな意味不明解説ついてるから、信憑性は無いけど、一応出てきたって事で。
木丹って漢方薬もあるっぽい?、帛布が布帛って訳されたりもするし、この辺りは知識がないと難しそう。
鉛丹朱丹・・・布丹?、丹だけでも表すみたいだし無理があるか。
丹木の持ち手が付いた短弓、とか、持ち手に布帛が巻いてあったのかとか、そこまで考えると説明長すぎて語呂?も悪いし、
素直に丹で、交易で手に入れていた化粧用の丹を献上したんだろうか。周囲に見せびらかす様にって下賜された財物や鏡を取引に使えば、辰砂なんかも大量に手に入るだろうし。
会稽の部分が場所を表すって読んでしまうと、小学生並の文章力だと思う。
倭のやってる風習に対する考え方まで説明して、そこから風 俗説明に繋がる文章で、いきなり場所の説明は無い。
会稽に伝説の聖王が祀られていて、その東側に倭人風習の人達が住んでいたって話を見ると、理想の政治が為されていた時代の風習が、まさにこれ東に在り、と風習についての感想を述べているって解釈のが合ってると思う。
1296
?
いまいちその3国の例の何がどう関係あるのかよくわからない。
ヤマト王権を否定するんならまあしょうがないかなとは思うが。(同意はしない)
時代的に纏向と重なりながら、次第に衰滅したといわれる唐古・鍵遺跡(銅鐸の主な生産地)では、漢式鏡は一枚も見つかっていない
奈良県全体の弥生遺跡の中で、唯一漢式鏡が出たのは唐古・鍵遺跡の北にある清水風遺跡だけ
近畿地方にまで広げても、大阪府の瓜破北遺跡と神戸市森北町遺跡から2例の前漢鏡が出土しているにすぎない
唐古・鍵遺跡では成人用土坑墓や木棺墓、方形周溝墓、小児用土器棺墓などさまざまな墓が見つかっているが、弥生時代の墓には副葬品は埋納されていない(副葬の習慣が絶無)
鉄族の数の県別比較で、福岡県398個に対し、奈良県はわずか4個にすぎない
纒向遺跡も大して異ならない
朝鮮半島系遺物は非常に少ない。楽浪系や三韓系の土器は、対島や壱岐、北九州、瀬戸内で多く見つかり、大阪平野でも久宝寺遺跡や加美遺跡、四ツ遺跡などでも出土している
しかし、纒向遺跡では、朝鮮半島の土器は、かけらが3点見つかっているにすぎない
つまり、卑弥呼の時代以前、中国、朝鮮半島との交渉を想定させる遺物がほとんどない
伊都国を遠隔支配していたとは到底思えない
また、纒向遺跡で楼観らしい建物跡は見つかっていない
建物Bの周りには柵が巡らされていたが、単なる建物の範囲を区切る区画柵にすぎない
以上、纏向を始め大和地方の多くの遺跡を発掘調査した橿原考古学研究所の元職員関川尚功氏の見解
纏向→大和王権だろうが、倭人伝の女王国は纏向ではなさそうということ
では、地方色豊かな土器の出土で観察されるように、なぜ、纏向に多くの地方から人が集まり始めたのか?そして古墳時代(以降)の中心スポットになりおおせるための何がその後に起きたのか?
九州が北に描かれている地図
「海内華夷図」8世紀唐 「石刻華夷図」12世紀南宋 「声教広被図」13世紀元
「混一疆理図」14世紀明 「混一疆理図歴代国都之図」15世紀朝鮮(龍谷大学に現存)
南北が逆で しかも日本列島の位置が東シナ海にずれているので「其の道里を計るに当に会稽と東冶の東に在るべし」に一致する
元の「声教広被図」は戦前に北京図書館で確認されている 元寇が二度とも九州を襲ったのは九州を最北端と考えていたのかも知れない
九州が倭、本州が日本と書かれた地図もあるから地図から確定することは無理
女王国=九州から大和にかけての大国家とか言ってる人間に聞きたいが
じゃあ女王国七万戸って少なすぎない?
対馬・伊都国などと比べても面積の割に戸数が少なすぎる
また奈良時代以降から現代にかけての日本でそれほどの広域の自治体が発達したこともない
以前検討された道州制の州を1つの自治体として見たとしてもそれをはるかに超える広域連合である
そんな広域連合が成されたとは考えづらい
雄略天皇が豪族の力を奪って中央集権体制を敷いた以降でも地方の国々は独立したクニなりアガタなりとして残っていた
>1295
山海經、目を通してきましたが、丹木が何を意味するのかはよく分からないですね。
山海經で「丹」を検索すると、丹木の他には、丹粟、丹水、丹火と出てきます。
このうち丹火は、単に「赤い」火のようです。
丹水は、丹火と同じように「赤い」水ですね。
そして丹粟は、朱砂の別名で、粟粒に様に細かくなった丹(硫化水銀)ですね。
丹粟とセットで出てくる丹水もあり、丹粟を含んだ赤い水を指しているのかもしれません。
丹木が出ているところを見ると
又西北四百二十里,曰峚山,其上多丹木,員葉而赤莖,黃華而赤實,其味如飴,食之不饑。丹水出焉,西流注于稷澤,其中多白玉。是有玉膏,其原沸沸湯湯,黃帝是食是饗。是生玄玉。玉膏所出,以灌丹木,丹木五歲,五色乃清,五味乃馨。
となっていて、赤い茎赤い実と書いてあるのを見ると、要は赤い(丹色の)木なのでしょうが、実の味が飴の如しとか、丹水が近くに出ていたりとか、五歳、五色の清、五味の馨、玉膏、黃帝是食是饗など、神仙郷に近い表現になっていて、具体的な何かの木を表すものではなさそうです。
この文章、山海經の西山經・峚山の描写で、東夷のことではありませんし、魏志倭人伝の生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木犭付短弓矢は、丹木・犭付と読むより丹・木犭付と読む方がいいような気もします。
「犭付」がなんだか分からないので、なんとも言えませんが。
とりあえず
丹(たん、に、あか)
辰砂 – 硫化水銀からなる赤色の鉱物。
仙丹 – 霊力のある薬。
丹色 – 赤・朱系の色。
赤土 – 赤みがかった土壌。
燕太子丹 – 中国戦国時代・燕の太子。
荘丹 – 荘子の孫・達人伝の主人公
其山有丹は山から赤土が採れるでも辰砂が採れるでも両方でも意味通じるからね
播磨国風土記逸文には、神功皇后が三韓征伐の際、播磨で採れた赤土を天の逆矛や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊の管川の藤代の峯に祭ったとあるから赤土でも間違いではないよ。
倭国の産物や献上品には丹だけ使って下賜品には鉛をつけてるから
丹=朱丹=赤土、鉛丹=赤い金属だろうと個人的には思うよ
丹木拊短弓矢
は「丹」と「木の握りのついた短い弓」って意味
戦争用や狩猟用とはべつに儀式用の木の握りのついた短い弓と木の鏃の矢が出土してる
体に塗る神聖な顔料と儀礼用の弓を献上して皇帝への敬意を表したと考えられる
もしかしたら皇帝を神と同一視しますよという卑弥呼の外交だったのかもしれない
>1303
やっと話ができるところまで来ましたって感じです。
>時代的に纏向と重なりながら、次第に衰滅したといわれる唐古・鍵遺跡
これは、唐古・鍵の環濠集落が元の拠点で、これを母体に広域連合の新しい中心=纒向を作っていったと考えるとすっきりします。
唐古鍵にいた倭王の血筋が共立されたのは、倭国の国内の論理なので大陸との交流の有無は唐古鍵の時点では少なくても特に不思議はないと思います。そして共立された卑弥呼の都するところが邪馬台国=纒向ですっきりするじゃないですか。
戦乱が畿内でないから倭国大乱の枠外➡邪馬台国じゃないという論理展開をする人がいますが、戦乱で疲弊していないから&争いの直接の当事者ではなかったから、共立するのに多くの賛同が得られたのかもしれません。
>纒向遺跡で楼観らしい建物跡は見つかっていない
これは地上部は分からないのでなんとも言えませんが、唐古鍵から楼観の線画が出ていたと思います。絵じゃん、と言われればそれまでですが。
纒向にあるのは宮殿じゃなくて神殿という主張もあったように思いますが、自爲王以來少有見者であれば、神殿の方が卑弥呼の居処としてふさわしいように思います。
※1310
発掘も書籍も無視して、願望推論になってますね。
それは日本では、出鱈目と呼ばれるものです。精神勝利ですか?
>>1310
上から目線ありがとうございます
唐古・鍵の土器から纏向遺跡の建物を想像するのは唐古鍵を捨て纏向遺跡に移ったことがまず最初になければなりません
九州から日本海側や山陽で争っていた弥生人が
「そうだ、唐古・鍵の女王をみんなで擁こう、伊都国以外の王は廃止にしよう」
となったとすれば凄いですね
「唐古・鍵は古いから纏向に新たに都を作ろう、鉄製武器は持ち込み禁止」
となったのでしょうか?
今の民主主義世界よりよっぽど平和ですね
>1306
國が何を意味しているのかが、魏志倭人伝を読んでもはっきりしないんですよ。
百余国に分かれ、というときは、環濠集落一つを一つの国としている感じですし、
纒向遺跡は、全長280mの箸墓古墳を含む東西約2キロ、南北約1.5キロに及ぶ全国屈指の大規模遺跡ではある。しかし、この3平方キロにおよぶ面積は、実は布留式土器が出土する頃のものだ。卑弥呼が君臨したとされる3世紀前半の規模ははるかに小さく、庄内式土器が出土する地域とされている。
この時期の土器群は、庄内0式~庄内3式、布留0式~布留4式(5世紀末)に分類されることが多い。しかし、こうした分類は相対的な土器編年の一部であり、絶対年代を正確に表したものではない。そのため、専門家の間でも庄内土器の年代観には大きなバラツキがある。
まず、倭国大乱を収束するために邪馬台国の卑弥呼が共立されて倭国連合の王とされたと理解されている。ということは、卑弥呼が倭国大乱を収束された西暦190年頃には、すでに邪馬台国が纒向の地に存在し、卑弥呼がその国を治めていたと考えなければならない。しかし、考古学的知見はそのことを実証していない。
纒向遺跡の中枢部からは弥生時代の集落跡は発見されていない。集落の周りに巡らした環濠も検出されていない。以前はわずかに銅鐸の破片や土坑が2基発見されていたにすぎない。
纒向遺跡が大和政権発祥の地であることは、誰しも認めるところである。そこを邪馬台国の所在地と考えることで、さまざまな無理が生じてくる。
唐古・鍵遺跡やその他の奈良盆地の拠点集落からも大勢の住民が王都の建設に参加したであろう。だが、その王都は陳寿が記した邪馬台国とは関わりがない。
調べたら卑弥呼の時代の纏向遺跡ってそんなに大きくない
だから卑弥呼の時代は古墳時代だって主張してた人がいた
土器編年をやたら主張してるからおかしいと思ってた
唐古鍵遺跡も古墳時代までずっと継続して人が住んでた
各地域の集合政権は大和朝廷だな
都の周りにそれぞれの出身地域の地名をつけて土器や生活様式を持ち込んで暮らしてたことが知られている
それなら箸墓古墳が前方後円墳のはじまりであり、大和朝廷の始まりとすることに異論はない
>>1313
はいはい、女王国が日本全国で邪馬台国が纏向遺跡で箸墓古墳が卑弥呼の墓で日本列島の戸数が7万でいいですよ、もう。
1313が切れてしまいました。
末廬國も伊都國も領域国家ではなさそうです。
邪馬台国というのは魏志倭人伝の中に一カ所しかなくて、あとは女王国になっています。そして、邪馬台国は女王之所都と書かれていますから、女王国は倭国の中で卑弥呼を王と認める範囲、邪馬台国はそのうちの伊都国などと同じ階層(?)の国で、卑弥呼の居処ということだと思います。
女王国は倭国の広域連合で、邪馬台国は王都のある一国でよいのではないでしょうか。
邪馬台国の7万戸はもちろん、投馬国5万戸、奴 国2万戸も盛りすぎだと思いますが。
>1308
>其山有丹は山から赤土が採れるでも辰砂が採れるでも両方でも意味通じるからね
意味は通じるのですが、赤土の場合、倭国の特徴として倭国の特徴としてわざわざ書くだろうかと思うのですよ。直前が出真珠青玉ですから、真珠や青玉程度には特産物感がないといけないと思うのですがいかがでしょう?
※1316
邪馬壱(ヤバヰ)国な
中国には黄土、黒土、紅土がある
海南島と同じとの記述と倭国の山は赤土との記述はまさに整合性がある
よほど呉を挟み撃ちにしたかったようだ
※1316
それなら女王国まで萬二千里という表現はおかしい
萬二千里に到達していない対馬なり伊都なり奴なりは女王国ではないのかと
伊都国は女王国に属していると書かれている
女王国ないし女王というのは邪馬台国の別名で問題は無いだろう
女王国=邪馬台国とみたときは矛盾はないが、女王国=邪馬台国を含めた広域連合とみた場合は矛盾が多い
七万が盛ってるか盛っていないかは置いとくとしても
伊都などと比べるとやはり比率がおかしい
張政が壹與を卑弥呼の跡継ぎとして擁立したせいでこうなった
女王、女王国、邪馬台国、倭国、倭を同一視するやつが現代でもいることを考えると
張政の報告書は大成功だったといえるだろう
邪馬台国を想像以上に大きく見せ、大月氏と同じ待遇を得た卑弥呼なら
今でも外交官が務まるだろうし、
呉を倒すためにあえてそのブラフに乗る魏の皇帝は政治センスがある
古代も同じ人間が政治をしているんだから今と同じように考えていた
不正会計をしてる●芝としていることは変わらない
そう考えれば不思議でもなんでもないと思う
倭国=日本=女王国=邪馬台国は立派すぎ!涙が出る!って考えも素敵だけど
実際は朝鮮半島南部から九州中部の出来事なんだろうなぁ…
※1305 九州が倭、本州が日本と書かれた地図もあるから地図から確定することは無理
地図名 年代など詳しくお願いします
奴国や投馬国は邪馬台国にとって同盟国で、伊都国や末盧国は格下の属国だったんじゃ無いの
1322
別に立派過ぎではないだろう
もうすぐ(古代タイム基準)ヤマト王権が確立するんだから
この時代にはこれくらい出来てても不思議ではない
連盟構成国=女王国
その植民地=女王国に従属する国
EU加盟国はメルケルに従属してるわけじゃないのと同じ
1323~6
伊都国の重要性もわからんとか、また出鱈目言い出す工作員が出たな。ケチ付けてやったから論破ニダって毎日やってそう。
朝鮮史観ごり押しするために、日本人にまとまられたら困るよな、わかるわ。
>1322
>邪馬台国を想像以上に大きく見せ、大月氏と同じ待遇を得た
ここのところ、少し教えてほしいのですが、西域で大月氏より遠くで魏に朝貢使を送ってきた国はあるのでしょうか?
中国の王朝は、遠交近攻という言葉があるところですから、最も遠いところは基本的に最恵国待遇になるってことはないでしょうか?
>1319
倭在韓東南大海中(中略)樂浪郡徼去其國萬二千里(中略)其地大較在會稽・東冶之東
これは、魏志倭人伝ではなく後漢書の冒頭の倭国の位置を記した部分ですが、こうしてみると1219の言うとおり、大陸の人の観念では倭国は「大まかに會稽・東冶之東」にあって、だから「樂浪郡徼去其國萬二千里」なんですね。魏志倭人伝では帯方郡からが、後漢書では楽浪郡からになってますけど。だから、呉の背後にあるという認識は分かります。
それはそれとして、
>中国には黄土、黒土、紅土がある
の対比として、赤い土(テラロッサ?)を丹と表現するでしょうか?
現代語ですが、中国語にはベンガラを紅土とする表現もあるようですし。
真珠や青玉と、併記する形で土が赤いとは書かないように思います。やはり、献上品にも使えるような特産物=辰砂などの水銀化合物・丹の方が、理解しやすいように思います。
>1307
丹木だってば
朝鮮王朝実録
琉球國王二男賀通連遣人致書于左、右議政,獻丹木五百斤、白磻五百斤、金襴一段、段子一段、靑磁器十事、深黃五十斤、川芎五十斤、藿香五十斤、靑磁花甁一口、沈香五斤。
一歧萬戸道永遣人獻丹木一百斤、白磻三十斤、胡椒二十斤、訶子二十二斤、良薑三十斤、丁香十五斤,仍求米穀。
「犭付」
ttp://www.cidianwang.com/kangxi/4/429624.htm
>1309
「犭付」は写本で確認済み
>1301も
>1312
共立というのは、争いに疲れた後でないとできないと思うのですよ。そしてその場合でも争いの当事者から選ぶのは、血で血を洗う争いの後では難しい。まあ、想像といわれれば想像ですけどね。
記紀のいう神武東遷で、高天原の天照大神の血筋(北部九州の倭国王の血筋)が畿内にいたなら、ある意味適格者になれると思いませんか? 民主主義というより戦いに疲弊したのだと思います。
>唐古・鍵の土器から纏向遺跡の建物を想像するのは唐古鍵を捨て纏向遺跡に移ったことがまず最初になければなりません
これは、私にとっては意味不明です。唐子鍵の土器に楼閣の線画が出ているということは、単に大和の地の住民が楼閣の形を知っていたというだけで、「唐子鍵に楼閣があって、それを捨てて纏向に移動した」とは読み取れません。
共立というのは、単に御輿を担ぐだけで、伊都国以外の奴国にも王はいたと思いますよ。そして邪馬台国にも王がいて、その王を倭王と認める、ということだと思います。
魏志倭人伝ではなく後漢書ですが「使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國」とあって、使訳通ずる所三十國の、國皆王を稱す、とありますから。
その30カ国全体が倭国であり、その大倭王が邪馬臺國に居る、ということだと思います。
>唐古・鍵は古いから纏向に新たに都を作ろう、鉄製武器は持ち込み禁止
ということになったら、各地の土器が纏向に集まることはなかったと思います。倭王に共立された卑弥呼のもともとの拠点が唐子鍵(想像)ですが、唐子鍵の王に攻められて負けたから従うのではなく、「新たな王権を立ち上げるから新たな都を作ろう」(想像)の方が落ち着くということではないでしょうか? そして、戦いをやめて(戦いに疲れて)新都を作るので、環濠も柵もなく武器も出ないというのは話としてはきれいだと思います。
巻向宮殿は景行天皇の巻向日代宮に決まってるだろう。
古事記が伝えている。三重采女(雄略記)がその様子を歌っておる。
麻岐牟久能 比志呂乃美夜波 阿佐比能 比伝流美夜 由布比能 比賀気流美夜
多気能泥能 泥陀流美夜 許能泥能 泥婆布美夜 ゝ本尒余志 伊岐豆能美夜
麻紀佐久 比能美加度 尒比那閉夜尒 淤斐陀弖流 毛ゝ陀流 都紀賀延波
・・・・・・以下略
なぜ女王共立で丸く収まるのかよくわからなかった。仮に、「戦いに疲れて女王共立」・・・2回なのだとする。2回とも機内で起きたことなのだろうか?
纏向の3世紀後半からの変性、変質は、「大陸要素」の侵入と土器以外の葬制や鍛冶技術など北九州文化の移植。「もの」そのもので語らないとすれば、日本列島の古代「鉄の道」の組み替え。察するに「瀬戸内海航路」の開闢。
なぜか「冢」を造る古墳文化が花盛り、銅鏡の副葬が始まり、4世紀からなのか、国産でわざわざ「魏鏡」を演出している。
魏志倭人伝の逆輸入状況が畿内で始まり、継続しているのを古墳文化と呼んでもいいくらい。4世紀初頭に「魏志倭人伝」を入手し、ずっと大和王権内には読みこなせる階層がいたか、あるいは、そんな存在はおらず、魏志倭人伝で若干触れられた「非常に大きな出来事」によって実際にまかれた種の一端が、継承されて古墳文化を花開かせたか?
弥生時代に東遷があったのか(←たぶん3世紀半ば以上に難しい)、3世紀半ばに東遷があったのか、3世紀末から4世紀以降に東遷があったのか?記録はないので分からないが、纏向の3世紀後半からの変質を想うとき、3世紀半ばにあった線も捨てがたい。
着実なる成熟や、内部衝突限りの弁証法的発展段階を踏んでではなく、ポールシフトを起こす「一突き」を材料として求めたくなるのが、この3世紀半ばなのである。
3世紀までの奈良は銅鐸が発達し矛はなし
4世紀から徐々に剣矛珠のような九州の文化が流入し、製鉄技術が発達してきた
これは土器の流入でも証明されている
弥生時代まで倭の中枢であった九州の文化が一気に畿内に流れ込んできた
支配者層が九州系なのかガラッと九州の文化が取り入れられた
これが大和朝廷の始まりであり、危機に言う神武東遷のことであろう
倭の中心が九州から畿内に移ったのは4世紀以降からとみて間違いないだろう
小説の体になっていますが、鯨統一郎の 邪馬台国はどこですか? という本の、邪馬台国東北説が好きです。
小説の体になっていますが、鯨統一郎の 邪馬台国はどこですか? という本の、邪馬台国東北説が好きです。
原文読むといい加減な記述って明らかw
邪馬台国?卑弥呼?そんなのないよw
支那人と朝鮮人が作った架空の話w
アホな日本人が真に受けて研究ww
神武の東遷は古事記では足かけ16年におよび、日本書紀では6年だとする。
古事記における安芸、吉備での長期滞在は、調略工作と海路啓開に要した時間であり、対岸の伊予や讃岐も含めた瀬戸内海連合の形成に費やされたと考えれば決して長くはない。
戦は大義を掲げ、豪族を味方につけ、戦士を糾合し、資材含め現地調達で行うもの。畿内に船積で九州系の土器などが運ばれる速やかさはなく、瀬戸内連合と化した人とモノが、緩慢なうねりのように政治と技術と交易ルートを引っ提げて押し寄せ、畿内銅鐸祭祀文化を崩壊に導いたのではないか。
蛇体の三輪山信仰ともども畿内男根ファルス信仰も駆逐された。大国主がファルス信仰の象徴である。新しい時代の古墳は「ホト」を形象化している。
wを使う数と知能の低さは比例する説
三輪山信仰は復活する。太田一族が召喚される。
太田一族・・・出雲にもおり、猿田彦にも関連する「太田」。
伊勢神宮の設置にも関わっている・
一体何者なのか?
太田という地名は纏向周辺にもある。
東遷があったとした場合、北九州は放置された。
台与以降、五胡十六国で荒れた中国情勢と同期して、朝貢行事は停止。
でも、本当は、ヤマトに引っ込んだので、瀬戸内海海航路開発後であっても、遠いから(大変だから)、266年の晋への朝貢を最後に、さぼっていたのが正直なところ。
中国勢力後退後は、朝鮮半島がもっぱらの関心事になるのは道理。
どうやって料理してくれよう・・・
関門海峡封鎖を買って出る忠実な勢力を、ヤマト王権はマネジメントしてはいない。できるわけもない。
放置された北九州はどのように育つのか?
やんちゃにも朝鮮半島に進出したのだ。倭の五王は、ヤマトとはおそらくは関係がない。半島いじりは北九州の伝統だ。中国が統一されれば、真っ先に北九州が反応する。乱世になっても、北九州が即座に反応する。日本列島の「触覚」みたいなものだが、やんちゃも得意なのが九州勢力。
キリシタン大名とかね。
磐井の乱で鎮圧されるときまでは自由にやっていた。
船舶航行技術の飛躍的発展は、5世紀後半からの阿蘇ピンク石の輸送で知れる。ピンク石をわざわざ運んだ石棺を持つ古墳は下記。
〈1〉岡山市・造山古墳
〈2〉大阪府藤井寺市・長持山古墳 (伝・允恭天皇陵陪塚2号棺)
〈3〉大阪府羽曳野市・峯ヶ塚古墳
〈4〉奈良県天理市・鑵子塚古墳
〈5〉奈良県桜井市・兜塚古墳
〈6〉桜井市・慶雲寺
〈7〉桜井市・金屋ミロク谷
〈8〉岡山県瀬戸内市・築山古墳
〈9〉奈良市・野神古墳
〈10〉滋賀県野洲市・円山古墳
〈11〉野洲市・甲山古墳
〈12〉大阪府高槻市・今城塚古墳
〈13〉奈良県天理市・東乗鞍古墳
〈14〉奈良県橿原市・植山古墳
古墳の石棺に使用する何トンもの重量物を、船で運ぶ能力がすでにあった。
実証実験も行われている。「大王のひつぎ実験航海実行委員会」の航海実験だ。
一体どんな船が?実質的な航海日は23日間。古代なら50日間であろうとの結果が出た。陸上は「修羅」で曳いた。
瀬戸内連合の記憶を新たにするような労苦である。日本海航路ではない。
※めっちゃ伸びてるな、すごい!
ところで次の更新は6月ですかね?
1342のような考え方が九州王朝仮説です。
「邪馬台国は北部九州で、纒向・大和王権と関係ない」とすると、その仮定を引きずっていって「倭の五王も大和朝廷とは関係ない」と考えるのがある意味当然になります。
>1342
五胡十六国の前に、漢末の混乱期にも、遼東の公孫氏の自立もあって、倭国から大陸の王朝への朝貢が途絶えています。
卑弥呼の遣使は239年で、倭国王帥升の107年の遣使から約130年ぶりのものです。
後漢の時代に使者送ってるのに漢字読めないとかあり得ない。
日本書紀の漢字伝来の時期は流石に不正確な情報を敢えて載せる必要があったから(支那に早くから通じてた地域に優位を示すためか?)だと思う。
記紀の記述は(当然だが)神話的要素が初期ほど強い。
オレの説では崇神天皇に関わる伝承は神武東遷より古いんじゃないかと。
神武・崇神・応神の伝承はそれぞれ年代の整理が必要だと思うし、そこに魏志の記述とどう整合性を見付けるかってことが大事。因みに、確か「神」の字が入る諡号はこの三人の他は神功皇后だけだと思ったな。
「魏志」を普通に読んだら畿内説は出て来ないだろ。
奈良京都が都の時代が長かったからそこに引き付けたいと(無意識にでも)思う人間が畿内説に固執してる。京大学派が頑なに畿内説唱えてるのがその状況証拠。
実際には「西暦3世紀に魏王朝と通交したのはどの地域か」ってのが核心なのに「日本の国家成立」と必要以上に絡めるからややこしくなる。
関西の学閥がゴリ押しして世論誘導してないか?
※1302
※1273へのレスだから文脈読め。
国語の成績悪かっただろ。
初代と10代目と15代目の天皇に「神」の字を入れてるのは、
神道の魔法陣の数字のマジナイなんだよ。(1+9+5=15)
七五三で11月15日に神社に行くのもそういうマジナイ。(7+5+3=15)
伊都国は、「東遷」後は中央政権にとって江戸時代の長崎の出島のように、遠きにありてよし、むしろ遠ざけるものと化したかもしれない。
九州のやんちゃの伝統は明治維新でも発揮されるほどである。九州勢をどんげかせんといかん。
まず、「東遷勢力=鎌倉幕府」が鎮西探題を置く。室町時代には九州探題に強化される。尊氏は京都落ちをして九州に逃走、菊池氏と一戦を交え、再びの「東遷」をやってのけて、京都に室町幕府を開く。
「東遷勢力=徳川」の江戸時代初期にも当然対策を打たれた。西国筋郡代の設置はもちろん、細川氏を小倉に据えて熊本加藤家北上を警戒した。加藤家は清正の子の代に迅速に改易され、細川家が送り込まれ、薩摩島津家の監視のために南下させた。小倉には家康の血を継ぐ小笠原家を据えた。
それにもかかわらず、薩摩と肥前、長州が、統幕の「東遷」を繰り広げたのは周知のとおり。
日本史は「東遷」だらけである。
だから2~9代目、11~14代目の天皇はほとんど意味の無い存在
※34
敗走
>1330
提示された朝鮮王朝実録の該当部分見てきましたが、これ15世紀の文書ですよね。もう少し時代の近い丹木の用例をご存じでしたら教えてください。
丹木の用例は、山海經と朝鮮王朝実録と示していただきましたが、丹木がどんなものか見えてきません。山海經は三皇五帝が出てくる半ば伝承を扱う書ですし。15世紀に分かることなら今でももう少し、丹木が何か分かりそうだとも思うのですが。
丹木と読むと後ろは必然的に「犭付」を1字で解釈しないといけないのですが、羊に似た獣って何でしょう。死体は運ぶうちに腐るでしょうし、生きた獣を船に乗せて運ぶのも大変だなと思います。
漢字も日本が日「夲」と書かれていたり異体字が多いですし、其山有丹との関係を考えても、1309の丹・木附短弓矢の読み方の方が分かりやすいように思います。
朝鮮王朝実の記述では、丹木は琉球からの朝貢品になっています。琉球と倭の共通の産物だとするとどんなものが考えられるのでしょうか?
>>1353
同じ時代の朝鮮半島で90°ずれてる日本地図も作成されたんだぞ
90°回転説は正しくて丹木は15世紀だから間違いか?
邪馬台国は畿内であり90°回転も朝鮮の地図により正しいんだから、当然同じ朝鮮が証拠の丹木も正しいんだよ
さらに倭人伝の記述は台湾と琉球と九州を混ぜてるから邪馬台国は畿内なんだろ?
丹木が琉球でも九州でもむしろ邪馬台国畿内説の強力な証左じゃないか
もう諦めろ
畿内説派の議論が一般的に受けいれられないのは、記紀の古代史の部分の大幅な書き換えを前提にしているからだと思います
九州派は、記紀の書き換えを前提にしていません
>1355
逆に九州説派は「記紀には書いてないから違う」という理由で、あとの部分を無視してしまうんですよね。もうコメ番は追いませんが、定説になっている雄略天皇を指すとされるワカタケルと記されている鉄剣とかを信じないという九州王朝仮説の書き込みもありましたし。
記紀の書き換えというより、読み方・解釈の問題なのだと思います。崇神天皇紀のタケハニヤスの乱や、四道将軍の派遣が倭国大乱や卑弥呼死後の乱の記憶なのかもしれませんし。
あと、紀年の延長があるのは確実です。古事記では雄略天皇の宝算が124歳となっていますが人はそんなに長生きできません。その辺りを解読したものに、高城修三の『紀年を解読する』があります。これによれば、倭の五王の遣使も形を変えて日本書紀に書かれていることが分かります。高城氏の見解がすべて正しいとはいいませんが、ネット上でも骨子の抜粋は読めるので興味のある方はどうぞ。
>1354
私は朝鮮半島の地図に言及したことはありませんよ。
それよりも後漢書その他の倭国は會稽・東冶之東というのとセットの樂浪郡徼 去其國萬二千里というのを考えると、「中国の史書を編纂する人にとって倭国というのはそれくらい南まで伸びるもの」と思われていたことを重視しています。
魏志倭人伝ではその辺りが後漢書ほど明確な表現ではないですが、後漢書との対応を見れば、同じ想定をしていたと考えて差し支えないと思います。
古地図というのは古代の様子が描かれたものではなく、古代の人が「そう思った」という構想を絵にしたものですから、むしろ字に書かれた史書を元に地図を書いていると思った方が妥当のものも多いと思います。
1354が例に出している地図などは、相当に後世のものですし、まさにこの例ではないかと
TVでやってたが畿内説だろうな
当時三国志において日本はあくまで参考程度
作者は魏と同盟結んでる日本が呉に対して牽制する位置にいてほしかった
実際には奈良の位置なんだろうけど九州の南海上にもってきて
呉の横に位置するように書かれたというだけの話
神武の即位が紀元前660年とか信じるなよwテキトーもいいとこだぞ。
120歳だの180歳だの生きる人間なんか居るわけねーw
当時の王なり天皇の在位年数は平均10年程度。中国もその他の国の王も同じだ。
とすれば、21代の雄略天皇から計算すれば、神武は西暦300年前後の天皇だろ。
卑弥呼が247だか248年に死んでるが、神武より5代前のアマテラスだ。
ぴったり50年前だしな。
つまり、卑弥呼の死=社会的混乱=アマテラスの岩戸隠れだろ。
岩戸から出てきたアマテラスがタカミムスビに牛耳られてる(岩戸前のアマテラスは主体的に命令を出してるが、岩戸後はタカミムスビが指示者になってる)のは、卑弥呼の跡を継いだ新たな巫女のトヨが、ガキで実権がなかったからだ。
つまり、邪馬台国の卑弥呼は九州の女王だ。
まきむくだのなんだのは、西暦300年よりもあと。
神武が畿内に引っ越してから出来たものだろう。
じゃあ、なんで神武が引っ越したか?内戦続きで嫌になったんじゃねーの?
民族的にもこいつら渡来系で、隼人だのなんだのの縄文系とは別系統だよ。
卑弥呼=縄文系の血を継ぐオシホミミと結婚したのはタカミムスビの娘だよな?
つまりは渡来系のこいつらが、政略結婚で縄文系の卑弥呼の権力基盤を引き継ごうとした(卑弥呼の死後に立った男王とかもその一派)・・・ところが内戦でガタガタになった。
じゃ、縄文系のバカが居ない土地に行こう、とな。
実際、縄文人の遺跡は畿内にはほとんどないことが分かってる。
九州と関東には大勢いたが、なぜか畿内には居なかった。
だから、神武は畿内に行ったんだ。
※1357
順序が逆
長里と短里を区別せず計算した結果、帯方群から萬二千里南と洛陽から萬里南に下ったところを同一視した
地図がどういう意図で作られたかは知る由はないが、上記のような錯誤を元に作ったから間違った地図が生まれたと予想する
>1353
魏晋人阮籍の東平賦や清思賦に出てくるけど、賦だしね
伝説の丹木の正体は後世の誰も知らないのでは
もちろん魏晋人も
誰も知らないがゆえに、他国から見た事ない物が持ち込まれ
伝説の物を称されたらそれを否定することができない
その物の性質などに説得力があれば、敢えて疑う(否定する)意味がなく
国内における稀少価値も相まって
それは世に於いて本物のように高い価値があるものとして通用する
魏志倭人伝のは分からないけど、
朝鮮王朝実録の丹木は「アカギ(学名:Bischofia javanica)」の木材かと
「犭付」
毛皮では
これについても上と同じで誰も知らないから
見た事もないそれっぽい毛皮が献上されれば通用する
木附短弓矢
文章上「木の附いた短い弓矢」としか読めない
「木握短弓矢」ならまだしも「木握附短弓矢」なとと書くわけないし
「木附短弓矢(木の附いた短い弓矢)」に至っては意味すら通じない
よく考えると、ただの「短い弓矢」を献上するのもどうかと思うので
ここは「犭付」で区切らず、「丹木、[犭付]短弓矢、」かもしれない
伝説の動物で製った短い弓矢=見た事もない動物の毛皮が巻かれた動物製の弓矢
ではないかと思う
>1360
長里と短里の取り違えがどこであったのかは分かりませんが、史書の編者がそう思ってたってことですよね。ならば、報告書の東を編者の段階で「間違ったことが書いてあるな」と修正することに妥当性があるってことですよね?
まあ、短里って言葉もこの魏志倭人伝に関わるところ以外では出てこない言葉みたいですけど。里という言葉と75メートルという距離の対応が悪いのはなんとも言えないですよね。75メートルだと里と言えるだけの軒数が入る気がしません。また、300歩が一里なので、短里だと径100歩の塚が25メートルくらいになってしまって、大いに塚を作るの、大いに、とここでも感覚がずれます。
[犭付]短弓矢が毛皮をまいた短い弓矢だとしたら文法として滅茶苦茶だな
魏志の倭人部分を書いた人は中国語のできない人だな
つまりこの部分は中国人以外が後で付け足したんだよ
本当に[犭付]短弓矢が毛皮をまいた短い弓矢をあらわしているとしたらね
>>1362
造成年代の合わない箸墓古墳を卑弥呼の墓にするためにありとあらゆる手段と取ることを畿内説というんだから何でもいいんだよ
※1362
報告書の東を編者が修正するはずないでしょ
南行したって書いており、それを信じて萬二千里南に計算した結果、會稽・東冶之東に行き着いたんだから
当時南に下ったというのは魏の中では確定事項だった
ちなみに短里を否定しても仕方がないよ
三国志には何度も出てくるんだから
>1361
1309に「戦争用や狩猟用とはべつに儀式用の木の握りのついた短い弓と木の鏃の矢が出土してる」とありますが、これだと「文章上「木の附いた短い弓矢」としか読めない」という木附短弓矢そのもののように思えるのですがどんなものでしょう。
琉球にアカギがあることを教えていただいてありがとうございます。丹木というのは、やはり魏晋の頃でも山海經にあるような伝説の事物なのですね。勉強になりました。
>1365
短里で計100歩なら25メートルくらいってあまりいう人がいないなと思って。
その像を説明しただけで、文章上は「[犭付]の短い弓矢」だよ
文章上破綻している「木附短弓矢」と一緒にするな
>1365
三国志でも距離は里としか書いてなくて、ある部分の里をよその里とは区別しないと話が合わないから、それを短里って呼んでるだけじゃなかったでしたっけ?
だから萬二千里が會稽・東冶之東になるんですよね? 三国志っていうか魏志倭人伝でも里の基本はいわゆる長里ってことですよね?
1368は1361じゃないですよね?
あなたには聞いていません
同じ人だったらごめんなさい
>1368
木鏃弓矢とかになるかな
基本的に弓矢には木が使われている
先進文明国に対して蛮族が祭祀のための道具を贈るって考えにくいけどね
自分たちの宗教の押し付けに他ならないし相手に価値のないものを贈るのは失礼
そもそも字が違うのにこれ以上論じる必要があるのかな?
※1369
確かに短里も長里も里としか書いてない
短里は魏晋の時代に使われていが公定里かどうかは定かではない
周髀算経のように明確に短里が使われている書物もある
三国志は前時代の書物から引用されたところは長里であり、魏代に新しく短里によって測られた部分だけが短里ではないかと予想している
何にせよ色々な書物をまとめた書物には混乱が生じているのは確か
で単なる獣の意味もあるな、毛皮かもしれん
宮内庁所蔵の写本を見てみたが、けものへんとは違う気もする
「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説
『三国志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝の朝鮮半島の広さが短里だと正しい大きさになることから、その先も短里とすれば成り立つという説だね
周・漢の1歩は1.3m、300歩四方で1里、これが普通の里だね、その後1歩を5尺、360歩(=1800尺)を1里とし、清まで続いた
ただし周王朝やそれ以前は短里に近い長さで測っていた記録もあるから間違いとはいえないね
もし短里も300歩だとすると短里の1歩は0.25M、直径100歩は25M
むしろ普通の円墳だね