「邪馬台国」なる国はどこにあったのか。
「卑弥呼」なる人物は誰なのか。
古代の日本を探る上で避けては通れない、日本史における最大のミステリーの一つであります。
少なくとも江戸時代から、この問題については多くの議論が交わされてきたみたい。しかし、それから300年以上経った今もなお、解決の兆しは見えません。
今回は、なぜ邪馬台国に関する議論が未だに決着を見ないのか、知ったかぶりできる程度にまとめてみようと思います。
魏志倭人伝
3世紀の中国は、三国に分かれてその覇を競っていました。
蒼天航路大好き
その三国のうちの最大勢力である「魏」と「倭」は、お互いに使者を交わしていたとされています。
当時の倭は一つの国ではなく、少なくとも100以上の国に分かれていて、日本列島を統一した国家はありませんでした。
そして、その国々のうち30国程度が、それぞれ個別に魏と朝貢関係にあったようです。
その魏に朝貢していた国の中でも最も有力だった国の一つが、邪馬台国でした。
魏と倭はそこそこ関係性が深かったこともあり、魏の使者が倭を見聞した内容が、歴史書「三国志」の中に記録されています。
厳密に言うと、「三国志」の30巻目にあたる「烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人の条」という部分。
これが、通称「魏志倭人伝」。邪馬台国に関する、最古にして最大のソースであります。
倭についての記述はたった2000文字。
朝鮮半島から九州へ
それでは早速、魏志倭人伝の記述に沿って、邪馬台国を目指してみましょう。
舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
倭人は帯方郡の東南の大海の中にあり、山島が集まってクニやムラを構成している。
もともと百余国あって、漢の時代から謁見に来る者もいた。現在、魏の使者が通じているのは30国である。
帯方郡というのは、朝鮮半島のちょい北の方。当時は魏の領土でした。
ここ
そこから見て「南東の海の中に倭国がある」と言っているので、これはもう日本列島の事に違いありません。
帯方郡から倭国に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、時には南へ、時には東へ進むと、7000余里で倭国の北岸にあたる「狗邪韓国(くやかんこく)」に到着する。
魏で使われていた距離の単位は「短里」というもので、今の基準で言うと1里=約77mだったようです。
7000里だと大体539kmくらい。まあまあいい塩梅の距離感です。
文中にある「韓国」というのはあの韓国ではなくて、当時朝鮮半島の南部に住んでいた韓族の事かと。
で、その「韓国」を横目にしながら南へ東へと7000里ほど進むと、倭国の北岸である「狗邪韓国」に到着します。
帯方郡から狗邪韓国まで
なお、この「狗邪韓国」という国は、烏丸鮮卑東夷伝の別の箇所で「韓国と陸続きだった」と書かれているので、朝鮮半島の南端にあったのは確実であります。
※この朝鮮半島南端の「狗邪韓国」が「倭国の北岸だった」という点はかなり興味をそそられますが、話が逸れちゃうので無視。
倭国へ
海を渡って
対馬国
其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。
1000戸程の家がある。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へ行く。
いよいよ倭国に入りました!
最初に登場する「対馬国」というのは、地名から見て対馬島と見てほぼ間違い無いかと。地名は言葉の化石です。
一支国
官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000戸ばかりの家が有る。
田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、船で南北岸の市へ行く。
対馬からさらに南へ海を渡ると、「一大国」につきます。
「一大国」というのは、「一支国」の書き間違えというのが通説。
「一支」は「いき」と読めることから、これもまた地名から考えて壱岐島と考えて良さそうです。
九州まであと一息!
実際、対馬や壱岐では、中国・朝鮮製の鏡や土器なんかが出土していますので、魏志倭人伝の記述を裏付けていると言っても良さそう。
九州上陸
末盧国
有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。
好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。
4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
魚やアワビを捕るのを好み、皆潜ってこれを取る。
壱岐島を出発してさらに海を渡ると、「末盧国」に着きます。
記述から察するに、この辺までは草木が茂りまくっていて、超ど田舎だったようですね。
「末盧國」は「まつらこく」。現在の佐賀県にある、「松浦」という地名に対応しているという説が有力。
この地域にある桜馬場遺跡からは、中国製の銅鏡や甕棺なんかが出土していて、ここにある程度の規模の国があったのは明らかなのであります。
後漢時代に鋳造されたの銅鏡
伊都国
官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。
丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南に陸行すると、500里で伊都国に到着する。
長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。
代々王が居て、みな女王国に属している。帯方郡の使者が往来する際はいつもここに駐在する。
松浦から東南方面へ38.5kmほど歩いて進むと、「伊都国」に着きます。
「伊都国」は「いとこく」。松浦から東に30kmほどのところにある「糸島」という地域が、この伊都国とされています。
この糸島らへんは、明治時代までは怡土(いと)郡という地名でした。
糸島にもまた有力な遺跡がいくつかあり、そのうちの一つ平原遺跡にある墳丘墓からは、40面もの銅鏡が出土しています。
平原遺跡の墳丘墓
奴国
官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東南に100里進むと奴国に至る。
長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
糸島からさらに東南方面へ7.7km進むと、今度は「奴国」に着きます。
「奴国」は「なこく」。
福岡県の博多周辺は、古代には「儺縣(なのあがた)」と呼ばれていました。
したがって、奴国は博多近辺にあった可能性が濃厚。
博多近辺の遺跡としては、須玖岡本遺跡とか那珂遺跡群といった有力なものがいっぱい。
須玖岡本遺跡
那珂遺跡群
不弥国
官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
東へ100里行くと、不弥国に至る。
長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
博多から東へ100里(7.7km)進むと「不弥国(ふみこく)」に到達するとあります。
この不弥国がどこにあったかは未だ定説はありませんが、博多のすぐ東にある「宇美」という地域がそれじゃないかと言われています。が、名前が似ているだけで証拠はなし。
この辺から少し怪しくなってきます。
でもとりあえず、ここまでの行程をまとめると、以下のようになります。
上陸してから南東に進むと書かれていますが、実際には北東に進んでいます。
方角が45°90°ほどズレておりますが、「草木が生い茂り、前を行く人が見えない」感じの道を進んでいたので、正しい方角を掴むのは困難だったのでしょう。
邪馬台国へ
ここまでの行程は、多少の意見の違いはあっても、まあ大筋ではほぼほぼみんなが合意しています。
ハッキリしないのは不弥国ですが、奴国の近くだったみたいなので、あの辺のどっかにあったんでしょう(適当)。
問題は、ここから邪馬台国への道のりであります。
投馬国
南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
水行とは船で進む事。
当時の船で1日あたりどのくらい進めたかというと、せいぜい25kmくらい。
とうわけで、九州北部から南に向かって20日、つまり500kmほど進んで見ましょう。
便宜的に直線距離をはめて見ると…
海やんけ!
ここにきてついに、記述に矛盾が生じてしまいました。
邪馬台国
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
海の上にある?「投馬国」からさらに南へ水行10日(250km)、さらに陸行1ヶ月で、念願の邪馬台国に到着します。
陸行は、歩いて進む事。
当時の倭国には獣道みたいのしかなかったので、1日あたり7kmくらいが限界だったようです。
とすると、1ヶ月で210km。
どう考えてもおかしい。九州北部から南に750kmのところに、そんなデカい陸地は無いのであります。
帯方郡から女王国に至るまで、1万2000余里である。
ここで、おさらい的に帯方郡から邪馬台国までの距離が書かれています。
その距離12,000里=924km。
帯方郡から半径924kmの円を引いてみると、
どこかが間違っている
これで、邪馬台国の位置論争における論点がハッキリしてきました。
素人が単純に行程を見て行くと、次のようになってしまいます。
明らかに、12,000里の範囲を大幅にはみ出してしまいます。
怪しいのが、九州北部にあったと思われる「不弥国」より先、「水行二十日」とか「陸行一月」とかの部分。
この問題を解決すべく、古今の学者たちはあの手この手でなんとか説明をつけようと試みてきたのであり、今でもモメているのであります。
続く。