邪馬台国の場所が未だに分からない理由
「邪馬台国」なる国はどこにあったのか。
「卑弥呼」なる人物は誰なのか。
古代の日本を探る上で避けては通れない、日本史における最大のミステリーの一つであります。
少なくとも江戸時代から、この問題については多くの議論が交わされてきたみたい。しかし、それから300年以上経った今もなお、解決の兆しは見えません。
今回は、なぜ邪馬台国に関する議論が未だに決着を見ないのか、知ったかぶりできる程度にまとめてみようと思います。
魏志倭人伝
3世紀の中国は、三国に分かれてその覇を競っていました。
蒼天航路大好き
その三国のうちの最大勢力である「魏」と「倭」は、お互いに使者を交わしていたとされています。
当時の倭は一つの国ではなく、少なくとも100以上の国に分かれていて、日本列島を統一した国家はありませんでした。
そして、その国々のうち30国程度が、それぞれ個別に魏と朝貢関係にあったようです。
その魏に朝貢していた国の中でも最も有力だった国の一つが、邪馬台国でした。
魏と倭はそこそこ関係性が深かったこともあり、魏の使者が倭を見聞した内容が、歴史書「三国志」の中に記録されています。
厳密に言うと、「三国志」の30巻目にあたる「烏丸鮮卑東夷伝」の中の「倭人の条」という部分。
これが、通称「魏志倭人伝」。邪馬台国に関する、最古にして最大のソースであります。
倭についての記述はたった2000文字。
朝鮮半島から九州へ
それでは早速、魏志倭人伝の記述に沿って、邪馬台国を目指してみましょう。
舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
倭人は帯方郡の東南の大海の中にあり、山島が集まってクニやムラを構成している。
もともと百余国あって、漢の時代から謁見に来る者もいた。現在、魏の使者が通じているのは30国である。
帯方郡というのは、朝鮮半島のちょい北の方。当時は魏の領土でした。
ここ
そこから見て「南東の海の中に倭国がある」と言っているので、これはもう日本列島の事に違いありません。
帯方郡から倭国に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経て、時には南へ、時には東へ進むと、7000余里で倭国の北岸にあたる「狗邪韓国(くやかんこく)」に到着する。
魏で使われていた距離の単位は「短里」というもので、今の基準で言うと1里=約77mだったようです。
7000里だと大体539kmくらい。まあまあいい塩梅の距離感です。
文中にある「韓国」というのはあの韓国ではなくて、当時朝鮮半島の南部に住んでいた韓族の事かと。
で、その「韓国」を横目にしながら南へ東へと7000里ほど進むと、倭国の北岸である「狗邪韓国」に到着します。
帯方郡から狗邪韓国まで
なお、この「狗邪韓国」という国は、烏丸鮮卑東夷伝の別の箇所で「韓国と陸続きだった」と書かれているので、朝鮮半島の南端にあったのは確実であります。
※この朝鮮半島南端の「狗邪韓国」が「倭国の北岸だった」という点はかなり興味をそそられますが、話が逸れちゃうので無視。
倭国へ
海を渡って
対馬国
其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。
1000戸程の家がある。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へ行く。
いよいよ倭国に入りました!
最初に登場する「対馬国」というのは、地名から見て対馬島と見てほぼ間違い無いかと。地名は言葉の化石です。
一支国
官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000戸ばかりの家が有る。
田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、船で南北岸の市へ行く。
対馬からさらに南へ海を渡ると、「一大国」につきます。
「一大国」というのは、「一支国」の書き間違えというのが通説。
「一支」は「いき」と読めることから、これもまた地名から考えて壱岐島と考えて良さそうです。
九州まであと一息!
実際、対馬や壱岐では、中国・朝鮮製の鏡や土器なんかが出土していますので、魏志倭人伝の記述を裏付けていると言っても良さそう。
九州上陸
末盧国
有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。
好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。
4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。
魚やアワビを捕るのを好み、皆潜ってこれを取る。
壱岐島を出発してさらに海を渡ると、「末盧国」に着きます。
記述から察するに、この辺までは草木が茂りまくっていて、超ど田舎だったようですね。
「末盧國」は「まつらこく」。現在の佐賀県にある、「松浦」という地名に対応しているという説が有力。
この地域にある桜馬場遺跡からは、中国製の銅鏡や甕棺なんかが出土していて、ここにある程度の規模の国があったのは明らかなのであります。
後漢時代に鋳造されたの銅鏡
伊都国
官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。
丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南に陸行すると、500里で伊都国に到着する。
長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。
代々王が居て、みな女王国に属している。帯方郡の使者が往来する際はいつもここに駐在する。
松浦から東南方面へ38.5kmほど歩いて進むと、「伊都国」に着きます。
「伊都国」は「いとこく」。松浦から東に30kmほどのところにある「糸島」という地域が、この伊都国とされています。
この糸島らへんは、明治時代までは怡土(いと)郡という地名でした。
糸島にもまた有力な遺跡がいくつかあり、そのうちの一つ平原遺跡にある墳丘墓からは、40面もの銅鏡が出土しています。
平原遺跡の墳丘墓
奴国
官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東南に100里進むと奴国に至る。
長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
糸島からさらに東南方面へ7.7km進むと、今度は「奴国」に着きます。
「奴国」は「なこく」。
福岡県の博多周辺は、古代には「儺縣(なのあがた)」と呼ばれていました。
したがって、奴国は博多近辺にあった可能性が濃厚。
博多近辺の遺跡としては、須玖岡本遺跡とか那珂遺跡群といった有力なものがいっぱい。
須玖岡本遺跡
那珂遺跡群
不弥国
官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
東へ100里行くと、不弥国に至る。
長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
博多から東へ100里(7.7km)進むと「不弥国(ふみこく)」に到達するとあります。
この不弥国がどこにあったかは未だ定説はありませんが、博多のすぐ東にある「宇美」という地域がそれじゃないかと言われています。が、名前が似ているだけで証拠はなし。
この辺から少し怪しくなってきます。
でもとりあえず、ここまでの行程をまとめると、以下のようになります。
上陸してから南東に進むと書かれていますが、実際には北東に進んでいます。
方角が45°90°ほどズレておりますが、「草木が生い茂り、前を行く人が見えない」感じの道を進んでいたので、正しい方角を掴むのは困難だったのでしょう。
邪馬台国へ
ここまでの行程は、多少の意見の違いはあっても、まあ大筋ではほぼほぼみんなが合意しています。
ハッキリしないのは不弥国ですが、奴国の近くだったみたいなので、あの辺のどっかにあったんでしょう(適当)。
問題は、ここから邪馬台国への道のりであります。
投馬国
南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
水行とは船で進む事。
当時の船で1日あたりどのくらい進めたかというと、せいぜい25kmくらい。
とうわけで、九州北部から南に向かって20日、つまり500kmほど進んで見ましょう。
便宜的に直線距離をはめて見ると…
海やんけ!
ここにきてついに、記述に矛盾が生じてしまいました。
邪馬台国
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
海の上にある?「投馬国」からさらに南へ水行10日(250km)、さらに陸行1ヶ月で、念願の邪馬台国に到着します。
陸行は、歩いて進む事。
当時の倭国には獣道みたいのしかなかったので、1日あたり7kmくらいが限界だったようです。
とすると、1ヶ月で210km。
どう考えてもおかしい。九州北部から南に750kmのところに、そんなデカい陸地は無いのであります。
帯方郡から女王国に至るまで、1万2000余里である。
ここで、おさらい的に帯方郡から邪馬台国までの距離が書かれています。
その距離12,000里=924km。
帯方郡から半径924kmの円を引いてみると、
どこかが間違っている
これで、邪馬台国の位置論争における論点がハッキリしてきました。
素人が単純に行程を見て行くと、次のようになってしまいます。
明らかに、12,000里の範囲を大幅にはみ出してしまいます。
怪しいのが、九州北部にあったと思われる「不弥国」より先、「水行二十日」とか「陸行一月」とかの部分。
この問題を解決すべく、古今の学者たちはあの手この手でなんとか説明をつけようと試みてきたのであり、今でもモメているのであります。
続く。
コメント (706件)
九州のどこかだと思う
九州説にしたいだけだろー
白々しい………
「南東」を「北東」にしたのに、「南へ」はそのままなのか。
とツッコんでほしいような気がした。
まわりくどい
末盧國まで1万里。あと2千里じゃあどう頑張っても九州から出られそうにない。
多分未来永劫分かんないよ。企業が建物を建てようとした時に、土壌検査で遺跡が見つかると、行政が割って入って文化遺跡判定して工事を中断させてしまうから、もし邪馬台国に関する資料が見つかっても、企業が処分してしまう。多分これまでも、いくつかの証拠は潰されて来ただろうね
決定打が見つからない限り泥沼だろ
九州も畿内もそのほうが得なんじゃないか
大ネタキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
どっちに持ってくのか楽しみ
お店でよくある「元祖」「本家」みたいな感じで、それぞれ自由にやれば商業的にwin-winじゃね
実際に何処だったんだろう、どんな暮らしだったのだろうとか興味はあるけれどもね
清水義範の説が正しいと思う
古文(って言うかヤツらの漢文な)中国人が中国語で読むと
位置は九州南部であって
魏志倭人伝読むときに
別に方角が曲がってたり距離をごまかしたりしなくていいらしいぜ
あと、似た地名の強引な当て字とか
なお日本の研究者にいうと
どうしても九州北部か近畿にしたいらしくて
「そういう説もありますねw」って相手にしないらしいけど
南ではなく東へという事なら、距離的に近畿圏な気がしますね
ほとんど決着ついてるけど
大人の事情で考証やめてんのよね
魏志倭人伝を読んで思ったことは
経路に出てくる支配者の称号に「卑」の字が共通していること
とすると「卑弥呼」も何か関連性があるのではないかと思うが
そのあたりは余り重視されていないようだ
方角についてはの著述が怪しいと断定して、日本海航路で博多から水行20日で丹後半島手前に投錨
そこから、本州横断最低高度線を通って陸行1ケ月で瀬戸内海岸線に出て、
播磨のいずれかの港で再度船に乗り水行10日で着く範囲っていう説を推すな
「(邪馬台国まで)水行なら十日、陸行なら一月かかる」ってことなんだろうか
現在、天皇の墓(古墳)と呼ばれてる所を全部発掘出来たら色々な事がわかると思うのだが、未来永劫出来ないのかな。
それだけ詳しければ海部氏文書のことを知っているだろうに、どうして無視するの。
>>6
企業が処分?
土壌検査で遺跡が見つかる?
良く知らないならもっともらしく語らないほうが良い。
あと、邪馬台国はとっくに見つかっている。
纏向遺跡だよ。
でも多くの物書きにとっちゃ飯のタネがなくなるから認めず、論争を続けたいだけ。
そもそもなぜ「ヤマタイ」国と読ませるの?
国名として残る「ヤマト」国で良いのに。
これだけあやしい文章だって自分達で分析してるのに
「ここまでは確定だから」ってするのが凄いなぁって思った
※14
中華思想だから自分達以外は全員卑しい人間以下の存在ってだけでしょ
東夷にしろ南蛮にしろね
なんで魏志倭人伝なんて言い方を頑なにするのかは分からんよ
当時から今にも続く感性そのままに直接言葉を使えばいいのにね
鯨統一郎説で
※14
中原の王朝は、他地域の諸部族に蔑字を充てるのが普通だったんだよ。
21の人の言う中華思想で、中原以外は「北狄・南蛮」「東夷・西戎」。
「狄・蛮・夷・戎」は全て「獣・野蛮人」の意味。
「匈奴」「鮮卑」なんてのもその例だし、「倭」の文字も同じ。
その地域の小国の王の名に「卑」とか「狗」とかを充てているのもそう。
当の諸族は「ヒミコ」「クコチヒク」と呼んでいて、漢字を充ててはいなかったからな
※6
仁徳天皇陵が戦国時代では城に改造されて使われていたように、遺跡の破壊なんて昔から当たり前のように行われてる訳だが…
昨日、マキムク遺跡と箸墓古墳行ってきました。興味深い記事ですね、続きが読みたい!!
どうみても、やまと国だろう。発音。
誰かの霊視でももそのひめみこが卑弥呼だってでてるし、それが信憑性ある。ももそのひめみこの墓、箸墓古墳は宮内庁が調査させないんだって。
多分、ここから色々でてくるはずなんだけどね。
遺跡出ちゃうと工事業者が割を食うからね
工事中断の日数だけじゃなく発掘の金も工事業者に負担させるんじゃ
業者も無かった事にするわ
豊丸「イグ~イグ~」
卑弥呼「私もイグッ!!」
渡邉義浩「魏志倭人伝の謎を解く」だと
当時の中華思想だと世界は方一万里と考えられており、
司馬懿が公孫淵を討伐したことによって魏に服属してきた邪馬台国を
できるだけ遠くに置く必要があるから合計が一万二千里になるようにした。
これは、曹真によって魏に服属してきた大月氏国までの距離が一万二千里だから、
曹真の息子、曹爽を正始の変で殺した司馬一族の功績を釣り合わせるため、という面もある。
また、呉の背後に国力の大きい国があれば呉も討伐しやすいとの考えから、
邪馬台国の位置は東南でなくてはならず、「いれずみ」「女が多い」「人口が多い」「背が低い」などの特徴も
実際の邪馬台国の姿とは関係なく、備えていなければならなかった。
としている。つまり魏晋の都合のいいように書かれてるんだからどこまで真実なのかはわかりっこない。
ヤマト国のヒノミコでいいじゃん。
日の巫女、姫の巫女…そのへんで。
屁理屈捏ねるな
古い古い古の事だから分からないんだよ
TOKIOのリーダーが高知だって言ってた。
そういうSSがあって、面白かったって話だけどw
まぁ宮内庁と東大と京大がある限り、見つかんないだろうな。
ここで言われてるようにヤマタイ国じゃなく、普通にヤマト国とよんでいればなんの問題もない事なのにな。
四国でしょ
徳島には倭大国魂神社もあるので、少なからずとも繋がりはあったはず
古語のヤマトは日向(ひなた)と同源で、地名として使われる場合は稲作向きの土地の意味
大和・山門・山戸等々に加え日向系も加えると九州から山陽にかけて多い地名で
逆に畿内は奈良のあそこにしか残っていない
ヤマタイをヤマトと読み替えると神武東征あたりと絡んで
畿内説に勝ち目が無くなるんで畿内説派の方が嫌がってる
奴国が福岡市周辺として2万戸、投馬国が倍以上の5万戸、邪馬台国が奴国の3倍以上の7万戸。
つまり投馬国と邪馬台国は福岡市より広い平野部だと考えられる。
で可能性があるのが九州では筑紫平野(約6倍)、熊本平野(約3倍)
投馬国と邪馬台国は筑紫平野にすっぽり入るから
邪馬台国は
本命 筑紫平野
対抗 熊本平野
かな人口と稲作的に考えて
邪馬台はヤマトと読めるかも知れんけど邪馬壹はヤマトとは読めないよ
九州にあったのは間違いなさそうだと思う。ただ、政情や何らかの都合で東進はして、確定地域が割り出せないとは思う。魏志倭人伝の情報も、ある程度の長期スパンの情報を要約した物であり、その間の出来事を書かれているので事情が異なる事が一堂に会した結果、解りづらくなったと推察する。水行も海だけでは無く、銅鏡の様な重い品物を舗装されていない陸路を大量に運搬する訳だから、小舟に分けて積んで河川を運搬に使ったと思う。ロープで小舟を馬で引かせれば合理的であり、現在のヨーロッパの水路でも船を馬で引かせるところもある。何しろ皇帝の権威がかかった品物であり、未整備の陸路はリスクが伴う。私の当初の邪馬台国の指定地は、宇佐、豊後の辺りと考える。そこからは瀬戸内海か中国地方に東進する事も容易である。
起点が違うだけだと思いますよ
卑弥呼の後継者・台与を”とよ”と読むんなら邪馬台国は”やまとこく”
また台与は壹與の代用字
詳しくはwikiの台与の項で
当時の食料自給を考えるのはいかがですか?
とか思いましたが、そもそも邪馬台国が最大の国であった確証がなく、使者を送ったため記載された可能性も十分有り得る。
かつ邪馬台国が皇家に繋がる物証も無い状況では、確定は難しい。
本邦上陸後に陸→船→陸と乗り換えるのは効率的ではなく、また船が途中で使用できるのも不思議です。
移動日数が盛られている(天候及び継続航行能力)+休息補給を考えると、実質2/3以下となるのではないですかね。
そもそも、そんな国はなかった説が俺の中では有力
単純に、北東に進んで博多方面じゃなく、記述通り南東に行ったとして佐賀の辺りから有明海を経て、九州を南回りコースで舟で迂回。(20日)
それから、四国か瀬戸内海を通って、(10日)
それから陸を210Kmを歩行なら、近畿で符合しそう。
当時は出雲と言う強大な鉄器文明の軍事国家が、北九州辺りまで進出して通行不可能だった為に、こんな大回りコースになったと思われる。
単に地図を距離的に俯瞰した感想・・・ですが。。。
魏に朝貢して権威を得ようとしたのは、遠交近攻の外交政策。
また、貿易・通商の為でもある。
当時の出土品の分布からして、朝鮮半島経由の鉄器を出雲が独占していたのはほぼ確実とされ、これが、わざわざ海路を大きく迂回してまで、通商を必要とした理由でもある。
総合して考えると、対馬→壱岐→松浦あたりから九州の海岸線を反時計回りに船で20日かけて迂回。
瀬戸内海を10日かけて通行。
難波あたりから陸路で一ヶ月で邪馬台国・・・としても、果たして奈良や京都になるのだろうか?
これでは近畿で符合するにしても、場所が異なりそう。
仮に神武東征のルートをそのまま採用すれば、10日の海路で紀伊半島南岸までたどり着き、ここから陸路で北進して一ヶ月山路を走破。
こうしてたどり着ける内陸の土地・・・これで奈良や京都付近になるのだろうか?
この仮説ならば瀬戸内海や大阪辺りまでは、邪馬台国の敵対国の支配下だった。
もしくは、あまりに雑多な都市国家が続くので、これら全てを外交で誼を通じてルートを確保する事が困難で、陸路のルートがそもそも無かった・・・と推測。
起点を邪馬台国から逆進させて推測すると、勢力範囲の陸路を最短で海に繋げ(紀伊半島)、ここから海路で壱岐や対馬にたどり着くまで、日本国の沿岸を時計回りに迂回し北九州西岸まで、
ここから、壹岐に渡る前にいくつかの都市を通過するのは、渡海して朝鮮半島に行くまでの補給の為???
このような空想するのは浪漫があって楽しいけども、まったく証拠が無い罠。
わからないから想像が面白いのだけど。
畿内一択
中で出てくる壱岐から松浦~宇美までの地図でも、もうおかしいじゃん。松浦の位置が長崎の県境で糸島が唐津の位置になってる。唐津も松浦の一部だからね(以前の東松浦郡の地域内)。
陸を歩いたあと海を進むんなら、間違いなく方向を合わせて有明海沿岸まで行けるじゃん。吉野ヶ里もあるし。無理もくそも無い。
その後が船とあるけど、玄界灘を渡るような船があるわけでも無く、手こぎ船が当たり前。
そんな船で1日25キロも進むはずも無く、行けて陸伝いに鹿児島だろうな。
その後の陸は方向が書いてないからほぼ1ヵ月で200キロ~歩けたとしたらどこかって話だろうな。
中国本土じゃあるまいし、測量技術が当時の日本にあるわけでも無く測量技師を連れて行ったわけでも無い。基本は少人数の探検隊で、持ってるのは中国の暦と太陽の方向しか無いんだから、南東って言えば南東、船で南って言えば間違いなく南と考えるべきで、日本の地名を参考にしすぎるのはあまりにも馬鹿すぎる。
半島の特定地から12,000里?!?・・・ だから彼らがその測量ができたかだね。
もう1つ。日本からの使者は魏の国を見ているわけだから、そんな大国の使者を自国にまともに案内するか?オレだったら絶対しないな。だから最後の陸は見晴らしの利かない山道を歩き続けるな。
問1
どんな珍妙な説でもかまわないので
「邪馬台国は朝鮮半島にあって韓国の属国だった」
という説をでっち上げなさい(手段もコストも度外視でOK)
いいねぇこういう答えがはっきりしない問題ってw
誰も正解じゃないし間違ってもいないw
そもそも中国の古文書を参考に探すことに無理がある。
「魏志倭人伝」という用語は歴史の授業で必ず覚えさせられるけど、
地元の人(倭人・日本人)が書いた文献ではないのだから不正確な部分があって当然。
現代人だって1度や2度旅行で訪れた場所について、記憶を頼りに正確な記述をすることは難しい。
極論すれば全くの虚構の可能性すらある。
部分的に今の地名・地形から類推できる箇所があるから一定の信憑性があるように感じるけど
これだけの資料で場所を特定することは不可能。
久しぶりの更新嬉しいのですが聖書の話は前回で終わりだったのですか?
もっと先までありそうな感じに受けていたのですが
見苦しい争い。近畿しかありえん!九州しかないだろ!って言ってた人が、
逆が本当に正しいと仮に判明したとして立場なくすだけだし。
そりゃ歴史的にも有名なものは全部自分の地元や知った場所だと言いたいだろうけどさ、
真実は一つしかないんだし。ちな九州人だがどっちでもいい。
ハニワ幻人め、死ねぇ!
今回のシリーズは邪馬台国と古代日本かな?楽しみだなあ
龍谷大学に南北が逆の地図がある(混一彊理図)
歴史の「ロマン」という名の金儲け主義によるもの
「鑑真和上が日本に渡ろうとして大陸人の船乗りに依頼したら海南島に連れて行かれた」という話があるように、当時は倭国=南の島のイメージだったらしい。
このため、過去の記録に「東」と書いてあるのを「倭国だったら南だろ!いい加減にしろ!」といって勝手に書き直した可能性が大。
そもそも卑弥呼は日巫女。邪馬台国は大和国、ないしは大和大国でしょ。
いちいち中国側の蔑称で日本人が呼ぶ必要ないんだよ。
旧国名で大和の国が奈良県だから邪馬台国も奈良にあったんじゃない???
歴史は文化であり、政治や経済の礎。
ネットによりグローバル化の進んだ現在、重要度は増している。
まぁそんなことより分かりやすく面白いねぇ
こんな中国の擬書の一文で、日本の、パヨク勢力が決め付けてるだけ
そんな国はねーよ、騙されすぎ、日本にそんな言い伝えとかないから捏造もいいこと
邪馬台国って漢字見ればいつもの中国の日本鬼子、小日本の嫌がらせだと気付けや
日本は
昔から日本王国であってパヨク勢力が嘘を教えてきたから全然噛み合わない
金印もパヨク勢力の捏造、騙されるな
記紀神話・神武東征や皇紀2600年やらの信憑性が絡むから多分にイデオロギッシュなんだよなぁ・・・
いっそ全く関係ない欧米人に調べてもらったほうがええんちゃうの?
まあ絶対ゆるさない人多数だろけど
「全部ただの予想」
古代における文字を使った記述なんて、ある意味でプロパガンダ、時の権力者が自身の権威付けに
つかう「道具」なんだから、本当よりも嘘の成分が濃いと疑って掛かるべきなんだと思う。
地名もしかり。権力の中心に近い土地はコロコロ変わる。一方でどうでもいいやって放置気味な土地は
地元の人の利便優先で長く変わらない、かも知れない。中心だの権力だの資料として残れば勘案の余地も
あるけど、ことごとく後の権力が消し去ってる可能性もある。難しいことだ。
奈良の纏向遺跡からの出土により、九州説を言っていた学者も畿内説に傾いているのが現状だよ。
畿内説を押す学者がなにをいっても
九州説を押す学者は「明治政府が九州説を押したから」といって聞き入れない
それが70年代から40年以上続いてるだけ
九州学派の老害が絶えれば多少は議論も進む
邪馬台国→大和の国
ちよっとしたいい間違えか漢字のあて違いだよ。
大人の事情ちゅうもんがあるねん。
決めへんからあっちこっち邪馬台国・卑弥呼ネタで稼げる。
実際見たヤツ居らんから好き勝手言える。
このサイト本当に面白い…
更新楽しみにしてます。
邪馬台国について書かれている貴重な資料である魏志倭人伝をそのまま信じるなら
どうしてもここで行き詰まるんだよな
でも待ってほしい
そこにムー大陸が存在していたとしたら?
「決着つかない(つけない)理由」 たくさんの人のめしのタネだから
※67
冗談だとはわかるが、水路ってどこよって話なので
海をどんなに埋め立てても状況は変わらないぞw
邪馬台国は大和で確定、問題は大和朝廷成立までの経過が良くわからない。
水行二十日から打ち切り決まった漫画並に行程すっとばしてんな
amazonで「邪馬台国」調べたらムー本がわりと上位にあって草
しかも5人全員★5の高評価
冗談なのかガチなのか全く分からんw
途上までは方角、距離を割と詳細に記載しているのに、
不弥国から南に水行20日とか、
投馬国から南に水行10日とか、
ここから日付の表示になったのは、恐らく方角が目まぐるしく変化する複雑なコースだった為。
船出して最初の方角が南だっただけで、様々な方角を経て長い日数を経て到達したと言う事が、迂回していた裏付けと思われる。
ちなみに邪馬台国を中国のピンイン読みをすると、シェー・マー・タイ・グォ。
シェーマタイってどんな国??と思ったら、古代読みで読み直すと、
ヤ-・マ-・タイ・グォ。
ヤーマータイとなり、ヤマトの音を充てたっぽいね。
邪馬台国=大和であってるんじゃないかな。
邪馬台国は当時の超巨大都市であることが明らかになってる
この規模の巨大都市があったのは畿内か少なくとも本州だけだから
畿内の超巨大遺跡と同規模の遺跡が九州で発見されないと九州説は無効になる
でもいつまで経っても九州で出てくる遺跡は極小集落ばかりなんだよ
だから九州説の学者はとりあえず保留ってことにしてるけど
畿内からは毎年のようにザックザクと遺跡が出てくるから
もう九州説は畿内から決定的な証拠が発見されるまでの足踏みでしかないよね
まだまだ九州で発掘する気満々の学者なんてもういない
そもそも、記述の方角を無視して、地名が似てるからと発見された遺跡に無理やり合わせていくのが意味不明。
そして船で海を渡ること~里という最初の頃の記述が水行~日という記述に後半で変わるのは同じ船での移動でも書き分けが必要なほど何か決定的に異なるのだろう。
何となくだが、水行とは陸を視界に入れながら沿岸沿いに移動することのように思われる。
もしそうだとすると、南下してたどり着くのは鹿児島。
・・・そしてそこにあるのは桜島の大噴火、と。
ポンペイみたいに火山灰の下でもおかしくないな。
※6
行政を批判してるのか?
文字で示す資料が出ないと進まないよ。
無意味だからまともな研究者は別の研究してる。研究意欲がなくなった人が余暇でするもの。
あとはまともじゃない人たち。
邪馬台国はヤマタイじゃなくヤマトだという人は
大和でヤマトと読ませることに疑問はないの?
国際的な学会で九州説が真実となってるぞ
大和と邪馬台国は無関係ってのも常識
九州だと思う。
俺奈良県民だし畿内説を推したいけど、まぁ学者さんにはそういった感情は無視して正確な結論を出してほしいよね。
ちなみに、中国の文章なんて無意味って言ってる奴らは歴史上での中国の凄さを全然解ってない
というか、他国の視点を無視して自国から見た歴史だけを見続けるとそのうち半島国家みたいなのが出来上がるよ。
他国の歴史書と自国の証拠を擦り合わせるのはすごく大事。
自国の歴史書と自国の証拠を擦り合わせてたら都合のいい解釈しかし無くなる
※78
ヤマトがあちらの字で(意味として)=倭であって
倭が汚い字だから和に換えてもらって
さらに美称として大を付けた。それだけやん。ヤマトという音自体はずっと日本にあった。つか「日本」も初期はヤマトって読んでた。
距離が狂うことはあっても方角を間違えることはちょっと疑わしい
1800年前でも太陽見りゃ方角はそれなりの精度でわかるはず
漢字は当時の日本にはなく当時の日本の音に魏の中国人が勝手に当てた当て字だから気にするな。
音だけわかれば良い。
だから「わ」や「ひ」や「な」等には倭だの卑だの奴だのいやしい漢字をわざと当てている。
当時の日本の音の「ヤマト」をわざと魏の漢字の中からいやしい漢字を選んで「邪馬台」と当てただけだ。
九州南部と近畿には幾つもの同じ地名がある。
しかもそれぞれの位置関係が重なる。
普通に考えれば、九州にあった邪馬台国(ヤマト)から追われた人達(政権争い?)が近畿に逃げて近畿で新たに新邪馬台国を作ったんでしょ。
つまり本家と元祖、南北朝みたいなもの。
その後、西暦600年頃には九州ヤマト(邪馬台国)は滅びていて奈良ヤマト(新邪馬台国)が漢字を仕入れて「大和」と表記する事にしたんでしょ。
「魏志倭人伝」
南至邪馬壹國 女王之所都
(南に行くと邪馬壹國に着く、女王の都である)
「隋書倭国伝」
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
(邪靡堆を都とし、すなわち魏志でいうところの邪馬臺である)
なぜヤマトを「邪馬臺(壹)」から「邪靡堆」へと表記を変える必要があったのか
倭国を統べるヤマトとしての役割は同じだが別の都であるからではないのか
みたいな説
素人が趣味の範囲で考える分にはロマンそのものなテーマだけど
学者さんたちの縄張り争いを見ると一気に萎えてしまうテーマ
畿内でも九州でもどっちでも良い、「日本」にあったで良いじゃないか
※85
神武東征が、まんまソレっぽいね。
出雲に破れて近畿に逃げて再建したのか、九州邪馬台国(前期・邪馬台国)が、近畿の都市国家群と同盟連合し、その証として神武が近畿に迎え入れられたのかは不明だけど。
一部の学者では、東征ではなく東遷(都)と表現する人もいる。
なぜ、こんな飛び地で逃亡or連合を・・・といえば、この時代で脅威扱いで表記されるのは常に出雲の存在。
最盛期は中国地方(吉備は除く)~北九州・筑紫平野~日向・宮崎平野あたりまで出張っていた。
出雲型古墳(特大級)が日向からも発見されている事、古代神社の祭神の分布から推測してたけど、なるほどと思った。
>上陸してから南東に進むと書かれていますが、実際には北東に進んでいます。
方角が45°ほどズレておりますが、・・・・正しい方角を掴むのは困難だったのでしょう。
>南へ水行20日で、投馬国に至る(九州北部から南に向かって20日、つまり500kmほど進んで見ましょう。)
前述で方角を見失っていると指摘しておきながな、何故?そのまま南下させる必要があるのか。
ここでは方角をズレたままで計算して、東方向だろ。
※70
かなり正確な記録である日本書紀の中で、
前半部分の不自然な年代のズレとかかなり怪しいよな。
投馬(於投馬)国は出雲で決定している
よって邪馬台国は大和(奈良)
狗奴国は毛野、斯馬国は志摩、己百支国は伊吹、彌奴国は美濃、姐奴国は信濃
※85
>普通に考えれば、九州にあった邪馬台国(ヤマト)から追われた人達(政権争い?)が近畿に逃げて近畿新たに新邪馬台国を作ったんでしょ。
根拠がない以上逆とも考えられるのに
当たり前のように「九州が先」と言って聞かない
こういう九州学派のせいで邪馬台国の位置は
まだ議論すら始められない
静止した時間を切り取っておらず、東遷をまんま含んでいるから、場所が曖昧。なぜ東遷が片鱗も記述されていないか?
1 そんなものはなかったから
2 あったかもしれないが。魏志編纂者の知るところでは無かった
※83
帆船はまっすぐ進むわけじゃねーんだから
乗せられてるだけの人間がどっちの方角に進んでるかなんてハッキリ分からんよ
つか太陽は刻々と動くのに時計もない時代に方角なんて素人に分からん
365日同じ風景と刷り合わせてる定住民ならともかくな
だから羅針盤が3大発明に数えられるワケで・・・
「実は神武は播磨あたりの凡夫の生まれで、荒くれ舎弟束ねて橿原に東征し乗っ取った」
程度の話を誇張してるってんなら権威も何もあったもんじゃないからな
前スレのイスラエルじゃないが
日本列島の西の果ての森深い山奥から神仙思想よろしく先祖が天孫降臨したってのは権威付けとしちゃ上等
※85
卑弥呼の死後に争いがあったので、内乱起きないように国内を御しやすい位置に遷都したんじゃね
鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか」を読んで以降、投馬国は富山だと信じている。
当時の地理感なんて当てにならなくてほぼ未整備の山道ぐるぐる回ってたらそれぐらい長くかかってたとか身も蓋もない理由だったりして
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
斯馬国(志摩)、己百支国(伊吹)、伊邪国(伊代)、都支国(土岐)、彌奴国(美濃)、 好古都国(加賀)、不呼国、姐奴国(信濃)、對蘇国(土佐)、蘇奴国(讃岐)、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国(紀伊)、爲吾国(伊賀)、鬼奴国、 邪馬国(山城)、躬臣国(越、高志)、巴利国(尾張)、支惟国(甲斐)、烏奴国(魚沼)、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である
東南に進んだつもりが北東に行ってるんだから
南に進んだつもりなら東に行くよね
あとここからは多分倭人の船を使うから
水行20日は当時の大船よりかなり短くしないと
下手すれば毎日上陸して夜越してたんじゃ
当時の日本は九州を北にして逆立ちしてた説好き。
それなら距離的にも方角的にも近畿一択。
さらに東北から南方の貝の貝塚が大量にあるのも説明付く。
当時の中国人が方向や距離を間違えたってのはあまりに馬鹿にしすぎ。そんなんで当時の旅などできるわけない。
日本の下はプレートが折り重なってるわけだから日本列島が大移動した可能性は十分あり得る。
年代ずれてるのかもしれないが
強大だった出雲や発展してた金沢は
全く名前出てこないのかな
個人的な想像だけど、魏の使者に細かい場所を欺くため迷い道や瀬戸内をぐるぐる巡って
時間稼ぎしたかもしれないよ?
単なる属国というか衛星国家のつもりなど無いが攻められて守り切れるほどの国力も無いから
都の位置や個人情報部分は大いにフェイク用意してボカした可能性だって捨てきれない。
あと、結構な頻度で遷都をしたと推測する。
+なんでも都集中ではなく、機能別にあちこちに重要地点を置いて
漢から続く土産物も分散した可能性。
どこで見たかは忘れたけど、方角や距離がおかしくなる地点から先は現地人の伝聞を元に行ったっていう体で書いたんじゃない?っていう説はすごく納得したな。
その地点から先ってあからさまに記述が曖昧になってるしスケール感も変わるから。
自分は『九州にあったはずだ!』みたいな感じじゃなく『九州島から外には出てないだろう』って感じの認識。だって紀伊半島まで移動してたとしたら同時代にすでにまとまった勢力になっていた出雲や吉備が出てこないのは不自然だもの。しかも畿内より先にもそうしたまとまった勢力はすでにあるんだよ?
たぶん邪馬台国とそれにまつわる話って意外にローカルなものなんじゃないかなって思うな。懐良親王の時代になってさえあのレベルなわけだし。
そもそも魏の誰かが邪馬台国まで出かけていったことを自然と前提にしてるけど、その前提って合ってるの?
マルコポーロの東方見聞録よろしく人伝に聞いただけで、実は行ったことないよってことはないの?
伊都国までは少なくとも使者が行ってるけど、そこから先は行ったことなかったりしてね
※105
作者の陳寿は倭に来てないな
元々九州説論者だったけど、今は近畿説に鞍替えしてる。
自分が調べた中で特徴的なのが以下
・方角
松浦の時点で破綻しているので信用価値なし
・投馬国=出雲国
5万戸もの人数が暮らすには相応の平野部が必要
地名の類似で広い平野部があるのは島根県出雲か宮崎県妻付近
出雲のように影響の大きい存在を大陸側が無視するとは思えないこと
また発音が「投馬=du.zu」「妻=tu.tsu」「出雲=zu.du.zi.di」であるため投馬は出雲と推測
・邪馬台国は近畿
奴国付近から水行二十日で投馬国に至る
ここから東へ水行十日進み丹後半島付近に上陸、
そこから南に陸行一月進むと奈良県に至る
当時は道が舗装されてないことを考慮すると一ヶ月かかるのはおかしくない
・奴国は静岡
よく熊本球磨郡、熊襲、紀伊熊野、濃尾平野、毛野国などに比定される
球磨説→わからん、けどあの土地で邪馬台国と争えるほどの力を有せるがどうか
熊襲説→官の名称がミミとミミナリで、熊襲の支配者であるイサオとタケルではないため除外
毛野説→邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓されていなかったため除外
濃尾説→以下と関連?尾張だと卑弓弥呼が尾張国造の物部氏と関係あるかも
静岡説→昔静岡県には久努国造があり、それに関係する。
クヌと呼ばれた国があってそれが滅んだ後に国造家が置かれたと思われる。
領域内には大きな古墳もあり、相当な国力を誇ったということがわかる。
・著者or使者は邪馬台国まで行っていない
行っていれば邪馬台国をより詳しく記すはず、遠かったのが原因か
・卑弥呼は倭迹迹日百襲姫
箸墓古墳は、天皇である崇神天皇の陵より大きく、大きさは魏志倭人伝の記述と一致する
天皇よりも権威または権力があったと思われる
・弟は孝元天皇
倍年説を採用し、七支刀などから逆算すると、孝元天皇と卑弥呼の時代が一致する
ただしこの場合、卑弥呼が極めて高齢になるため、それを指摘されると反論出来なくなる
台与は豊鍬入姫命(崇神天皇の娘)
・邪馬台国=ヤマト国
当時日本(倭国)には漢字がなく、全て大陸側の当て字
当時の音と、日本の地名から推測するとヤマトでほぼ確定
ついで、倭国≒日本列島、邪馬台国≒列島に複数あるうちの1ヵ国で連合の盟主、と思われ
国名の推移は倭→和→大和、時代とともに倭国はヤマト国と同義になった
「倭」と「和」はともにヤマトと訓むことができ、
そこに偉大という意味で「大」をつけたのが今現在の「大和(ヤマト)」の単語
この※欄見てる限りだと
九州を推してるやつは感情論が多いな
>毛野説→邪馬台国の時代にはまだ毛野地域の平野部の開拓されていなかったため除外
北関東は古墳多いだろ
倭に来てレポートしたのがいる。卑弥呼の時代にやって来て、卑弥呼は既に死去、トヨを担いだあの人が。トヨは彼を送り返しており、彼が晋に報告したのが、倭人伝のソースのひとつ。
そう言えば、その人物の墓も見つかったとかいうニュースもあったな。あくまでも、彼の任務は、東方の脅威を鎮めること。それに因んだ名を贈られていた。東遷があったとしたら、奴が主導するか、そそのかした可能性はありそう。意外に倭はすでに未開の土人の国ではなく、百年後には、半島侵略するからね。北九州から追い払ってもこの勢い。みたいな話くらいぶっ飛んで欲しいね。
どうでもいいけど近畿説推す方の「近畿で決まり」って言い方、思考停止で議論も糞もないんだよね
「マキムク」ありきだからほかの可能性も、不都合も無視をする
東→南なら「マキムク」はその他諸々のうちの一つだったんじゃないの?
その可能性は考えない?
印刷なんか無い時代で魏志倭人伝の初版原本とかが現存してるわけでもなくて
出典は写しの写しのそのまた写しだったりするんでしょう?
旧約聖書コピペ説じゃないけど写し間違いやら人為的改変やらでそもそもソースの信憑性低そうなんだけど。。
卑弥呼の邪馬台国は、北九州、台与の邪馬台国は、近畿。こう考えるとスッキリする。二つの大和。磐井の乱や、継体の謎も紐解けそう。
仲哀、応神、神功、武内宿禰エピソードも、捏造なりに何かを意味しているとしたら、それは何か?
瀬戸内海航路の開拓やら、船で葬送、畿内で反乱。
磐井の乱も混入して、何度もリフレーンされる東遷の焼き直し物語。
こが邪馬台国だって断定されるにはどうしたらいいの?
金印でも見つけるん?
卑弥呼の墓が特定できてもダメ。卑弥呼は、歿後、モガリにふされて運ばれた可能性もあるから。モガリって長いんだよね。
>意外に倭はすでに未開の土人の国ではなく、百年後には、半島侵略するからね。
匈奴など見ても分かるように、遅れた蛮族が戦争に強いなんてあの時代の常道。ゲルマン人でもヴァイキングでもいいが。
官僚的な農耕社会を営んでた半島民が半ば狩猟漁猟の刺青ヒャッハー民に海岸付近を荒らされたことは想像に難くない。
時間が経つと組織的反攻のすえ一兵残らず叩き出されたのが本当の文明力差を物語ってると思わんかね。
弥生時代何百年やってると思っているの?稲作が、半島より旧いのも常識なをだが。
なお、高句麗の強さは認める。根が馬賊だし。高句麗ショックは、日本を形成したな。
「魏志倭人伝」に拘ってる限り色々こじ付けが出来て、如何に珍妙な解釈でも出版して金儲け出来たからここまで抉れたんじゃないの? と言うより、抉らした方が色々とうま味のある利権出来上がってるんだろ。
『魏志倭人伝』とはいうが三国志(演義じゃなくて正史の方)の中の魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条という極一部分だし、魏を滅ぼした西晋が陳寿に書かせたものだから「海を越えた東の彼方から朝貢使節が来ていた魏を引き継いだ晋は偉いんだぞ!」という意味しかないだろうよ。
中華思想の歴史観は政治そのものなんだから「魏志倭人伝」も正確な記録より政治的な正当性を優先して書いてある。つまり、当時の王朝にしてみたら朝貢使節は遠くからやって来たもの程箔が付いて価値があると思っていたのだろうから、旅程を誤魔化して遠くから来てる事にするのは当然だと思うよ。東夷の中でも最も東が邪馬台国だったなら殊更遠くにある事にしたのじゃないの?
久保・・・帯・・国?
あと、中華文明とか言いつつ、漢族の支配は、あまり無く、鮮卑、匈奴、女真なんかが統治する。サイコパスがリーダーになるみたいなもの。東夷として対外進出する人口扶養力は国力の要。統治ツールなとは、今も昔も
容易にコピーされてしまうのだ。高句麗王家も亡命して来るし。
朝鮮出兵生理は、西郷、秀吉以前の古代からのもの。
荷物を大量に運びながら船で1日25キロコンスタントに進むのは無理
近畿と九州の中間の四国で
実際はいっぱいクンニがあったのかなと
今と違って西日本のあちこち栄えてたみたいだし、山の上も海沿いも
近畿と九州の中間の四国で
実際はいっぱいクニがあったのかなと
今と違って西日本のあちこち栄えてたみたいだし、山の上も海沿いも
クンニ破れてマン毛あり
竹内文書の解読が待たれるな
あの時代すでに漢字あるんなら日本もそれ学んで記録とか書いてくれたらよかったのに
魏志倭人伝に邪馬台国と記された国のことは、最近の科学に発展に伴い解明されています。ではなぜ謎とされるかと言いますと、科学が発展する前の世代の研究者たちが学会の主要ポストを占めているからです。彼らは自分たちが長年提唱してきた学説が否定されることを恐れるあまり事実を捻じ曲げています。このおじいさんたちが全部死ぬと、邪馬台国の謎は突然解明されます。
東大系の学者が九州説の誤りを認めたくない
奈良に決まってるだろ。裏の首都は奈良やぞ。覚えとけ!
科学で解けるわけないだろ。科学なんて曜変天目も、豊洲の水質も、袴田事件もすっきりと解決する根拠は示せない。なおかつ、安全より安心が大切、つまり「心」が重要。
心=文科系=神話は国民国家の礎。
抗日パルチザン神話を旧ソ連から捏造してもらった北朝鮮は、ああ見えて国体を樹立。
それを欠いた南朝鮮は未だ国家の体すらもががない。でもって、慰安婦像を反日、反帝国主義、反米の象徴として唯一すがるが、そんなもので国が建つわけもない。
というわけで、戦後、天皇制神話もろともタブーとなった日本神話から免れた「邪馬台国論争」は、ロマン派の遊び場。
だが、新たな神話形成はいつしか遊びの域を超える。
地名の推測が正しいなら45度ではなく90度弱ズレてるからね…
海流で言うと、対馬から松浦とか近そうで近くなく、大きく逸れて出雲、丹後半島、越前なのかな。
本州横断最低高度もいいけれど、小浜-若狭-近江今津ラインで琵琶湖→大津→奈良って遠すぎ。
奈良は、やはり瀬戸内海航路を待ってから発展する湿地帯。
つまり、出雲系の半島ルートを無効化したのが瀬戸内ルート。このルートはなかなか難儀で、卑弥呼の時代までは拓かれなかった。
北九州と出雲、そのおこぼれで若狭というのが弥生時代の海外通商窓口の先進地域なのだろうかね。
とりあえず、古事記では男神でなく、女神の天照大御神が最高神の段階で卑弥呼が大和朝廷にかかわっていることがわかる。
縄文後期の阿蘇大噴火のせいで九州が壊滅した後再建された稲作中心の弥生社会のしくみの指導者(アイドル)として日の巫女が重要と魏志倭人伝では大陸とは違う政治形態、男系でない社会と記載されている。
末盧国から南東の伊都国は有田
そこから東で武雄、佐賀
南に水行したのは有明海
邪馬台国は人吉あたりでどや
近畿なわけないんだよ
邪馬台国が近畿ならそこに行く途上に立ち寄るであろう中国地方平野部の記述が全くないのは不自然
出雲の方から行ってるからな
卑弥呼がいたのは福岡市東区香椎付近
魏の使者が実際に訪れたのは奴国か不弥国までで
そこから先は現地の住民からの伝聞で報告書をでっち上げたカラ出張説
二つの大和説は興味深い。
瀬戸内海航路が実現した二つのこと。出雲、敦賀、近江連合を駆逐。東海、紀伊、河内、大和、吉備、阿波、北九州まで及ぶ瀬戸内連合の出現。桃太郎エリアは、モモソヒメエリアに重なる。
そして東遷。豊後、播磨、勝浦まで結ぶ浦島太郎エリアだ。
関門海峡が、地政学上のチョークポイントになった。
それが古墳時代草創期に、この国で起きた出来事だった。古墳と鏡のレガリアで特徴づけられる時代は、瀬戸内海航路へのシフトが支えた。
考古学の重鎮、故森浩一「倭人伝を読みなおす」辺りでも読んでみるかという気になりました。
単純に日本列島が東じゃなく南に延びているのだと勘違いというか意図的にそういう方向にもっていっただけって話を聞いたな。上でも誰かが言ってるけど、要は呉への牽制として、呉の背後へも行ったんだよって主張を残しておいたわけだ。距離の正誤はともかく、東と南を変えたらいい感じに最後邪馬台国につくやん。それでFAよ
根拠は無いが
卑弥呼は日の巫女で 考霊天皇皇女 ヤマトトドヒモモソ姫
弟はミマキイリヒコイニエ命で崇神天皇
後継者トヨは 父が崇神 母がアユメマクワシ姫
考古学も大事だが 日本民族の精神的な連続性も重視すべきではないかと
魏志では邪馬臺(邪馬台)じゃなくて邪馬壹(邪馬一)ですので。
誤記じゃなくて数字の一を改竄されない為の大字で壹。間違える訳ない。
隋書の邪靡堆の堆もtaiじゃなくてtui。
邪馬台なんて国は元々ありませんでした。
福岡・伊都国の2世紀末の女王の古墳(平原王墓)は発見されているが、3世紀の物は発見されていない。
纏向遺跡と箸墓古墳は、卑弥呼時代の3世紀半ばで一致する。
伊都国から奈良へ遷都し、邪馬台国ができたと考えるのが自然。
日本神話に九州でクニ作ってたけど途中で関西へ移るエピソードがあったような気が?
瀬戸内の潮の流れに無理矢理逆らったり海岸沿いを方角勘違いして進んでくと飛鳥時代の地震で土佐湾に沈んだ幻の陸地に着くってどこぞのSS書きがTOKIOに言わせてたぞ
今度は邪馬台国ですか
また荒れそうだなーと思ったら
すでに荒れてるw
邪馬台国がどこか、より、古墳時代とは何か、なんだと思う。どうして始まり、なぜ終わったのか?
※142の方向性。
大和盆地の継続的政治勢力が内発変化したとしたら理由が弱い。きっかけが欲しい。
そこに、東遷の誘惑がある。魏鏡の権威、後ろ楯、吉備系の埴、瀬戸内での、やたら長い滞在期間。前方後円墳の正体。瀬戸内の航行難易度。航路開拓後の高地性集落の興亡。古墳時代後期の阿蘇ピンク石の流行の意味。
周囲を固めれば、自ずから、邪馬台国の場所は限られそうだ。
>瀬戸内での、やたら長い滞在期間
安芸7年 吉備8年
>航路開拓後の高地性集落の興亡
というより、完全消滅
>前方後円墳の正体
天地思想の円丘、方丘(夏至、冬至)合体・・・は中国向けの説明
本当の元型は・・・・
何が出土すれば、邪馬台国認定となるのだろうか、と思う昨今
親魏倭王印が出てくれば有力地になるのだろうけど。
伊都国から奴国に行く時点で方向が90度ずれているんだから、投馬国には南に水行で20日って言っても90度曲げて東に水行20日と読み替える。
瀬戸内海を縦断して大阪に上陸。そこから陸行して名古屋か、静岡あたりじゃないのかな。
登呂遺跡のあたり。
※146
宋代の紹興本で「壹」だからつーてもね、
少なくとも12世紀よりはるかに古い5世紀の現存范曄「後漢書」(など他にも多々あり)で叩き返すのがパタンらしいが。「東観漢記」や、原「後漢書」を下敷きにしたのが范曄の「後漢書」。もちろん「臺」。
※113の言うとおり、誤字の多い写本で、「邪馬台国」って1か所しか出てこない名称ですから。
「魏志倭人伝の謎を解く」(渡邉義浩)
「倭国」(岡田英弘)あたりは必読ですかね。
※153
どうなんでしょう?遺体も運べるけれど、金印はもっと簡単に持ち運びできるからねえ。
※154
伊都国からでも不弥国からでもいいけれど、日本海航路で水行20日投馬国=出雲ではないか?
そこから水行10日で丹後半島付け根 由良川から遡行する「氷上回廊」に入る。最低中央分水界を経て加古川を下るに陸行をたどるルートは、当時すでにあった「鉄の道」。播磨からも明石海峡の流れを避けて陸行だから。1か月。
邪馬台国は近畿に決定。
藪から棒にいうけど
中国がただで倭国にいくとは思えない。何らかの交易があって、倭国側も何か輸出したと思うの
魏志倭人伝から推察して倭国側は木材、水銀を輸出して、奈良県からの産出だとみてる
これは素人の考えだよ
中華思想において辺縁蛮族のすべてを舎弟におく事に理由なんてない
強いて言えば安全保障か
「強い部族的紐帯を武器とする辺境の蛮族は都市に攻め上り、文明化によって軟弱化した支配者を打倒する」循環史観は中原のトラウマ
だから辺縁にも法律制度宗教道徳を輸出して文明化、軟弱化をさせようと試みる
※156
末廬國から伊都國へ行くのに陸行を挟んでいるから日本海ルートは考えにくい
それより、ひなもりってなんやろ?
対馬国 大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。
一支国 大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
奴国 長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
不弥国 長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
ウィキによると『国境を守備する軍事的長の名称』・・・つまり名前ってことでしょうけど、何で副官の名前が揃いも揃って同じなん?
同じ日とやったって可能性もあろうけど国って言ってるし。
まぁ、役職名といった称号になるんでしょうけど、それをわざわざ外国の役割的なものを現地語で書く理由にはならんよな・・・・・。
なぞやわ
1000年前以上なら、海が無かったか?ムー帝国と関係があるだろうか?
与那国島の海底遺跡もあるしね。
タイムマシンがあったらなぁ。
宇宙人が記録を取っていたなら分けて欲しいね。
※158
文明化=軟弱化。いい線ついていますね、おそらく、2~3世紀の中華文明の周辺国との関係性は、感化(=漢化なんてね)にシフトしていたようで。その前までは流れ者でも乗り込んで現地支配者というパタンもあったんだけど。時流で邪馬台国も、乗っ取られることなく文明化されるんですね。ところが、虚弱化しなかった。
中原、黄河流域のように砂漠化せず、豊かすぎた。そして、その風土を礎に、あまりにも出来の良い神話を創作してしまった。
それ以降、もう、日本の歴史は繰り返しパタンに嵌る。駆逐され、封じ込められて国風化すると洗練されて持続力を蓄え、強大になる。たった1750年前、今と大して変わらない。
京都は江戸にあったと、さらに2000年後の日本人は議論するわけです。遷都しているのに、たぶん明治維新は神話だと思われている。鎌倉幕府、明治維新は東遷ですよ。
明治新政府は意識的に東征を演出していた可能性がある。
日向から大和へ進軍した神武天皇の再現ドラマ。
薩摩、周防、土佐くんだりが東進して将軍担いで関東へ。
演出のクライマックスは無血開城。
中華式禅定正統性の物語。饒速日もそうだったから。
里と日ではだいぶ違う。
里は明確に距離だけど、日は実際に到着するまでの日数だと思う。
潮を待ったり、嵐があったり、祝宴があったり、逗留したりで
距離はあまり当てにならない。
※162
白村江で負けて朝鮮半島から追い出されてるし弱体化してるじゃない
再侵攻かけられたのは1000年以上あとの秀吉時代になってから
まあ秀吉も石原莞爾も田舎者だし文明人では無かったんでしょう
結局1度も国を落とせなかった日本民族は女真モンゴルよりも武勇ランクは下
ただし1度でも中原に足を踏み入れた異民族は絶対に許さず吞み込むのが中華秩序の掟なので、これから西洋科学を受容して超大国となる中国が日本を今まで通り対岸の蛮族と放っておくことはない。東夷がついに虎の尾を踏んだ。
本文関係なし、レス内にあった「魏志倭人伝の謎を解く」(渡邉義浩)についてで執筆者には恐縮。
文献学の限界ですね。大率一本背負いで。
「大率とは中国の刺吏みたいなもんだ」から、伊都国のそれが、その上の首都圏ランクを統括する「司隷校尉」じゃないゆえ、北九州エリアは「地方」だと。
これだけを言いたいんか!
じゃあ、邪馬台国の「司隷校尉」記事は別にあるんか?「伊都国が一手に握った交易窓口の強い監察権限」をしか意味していない記事で、ただでさえ拡大延長されて南に追いやられた女王国なんだから、伊都国を首都圏にできるわけないだろって話。
まあ、現時点クリーニングで基礎知識を得るに役には立ったけど、これで「畿内説」には靡かないな。
※165
あちらのかたですね。失礼しました。
白村江の前に高句麗にも追い出されていますけれど、
敗れて弱体化なんてしていませんよ。結局、清国は破りましたけれどね。
我が国は半島や大陸に関わらないといいことがあるんですな。国力も増す。
荒れ地の無法者たちを御す遊牧民族の知恵は期待されても出て来やしません。
そちらは異民族支配時代はグローバルで寛容で、いい時代でしたでしょう?
国それぞれ地政学的な幸福の法則、国力伸長法則があるってことです。
※167
自から戦略的に植民地を撤収した欧米白人ならともかく
連合国に破れてその監視つきで小島に収められたあとに言っても説得力がありませんな~
イケイケだった時代はわれ先にと半島大陸に進出した癖にw
「ハルノートは日本に対する死亡宣告」などと息巻いてた郎党の子孫とはおもえない無節操無責任ぷり
そういうのをね、負け犬のなんとやらと言うんですよ
あるいは漸く”己が分を知った”というところか
※160
「ひなもり」の「ひな」は「鄙」ですね。
ど田舎。辺境。くにざかい。それを防備する。
投馬國では「ミミ」「ミミナリ」なので、文化の毛色が異なる。ニニギの父、オシホミミを思い出させるが、アマテラスとの誓約でこんがらがっているから本当はスサノオ系なのではないか?厩戸皇子も豊聡耳だから耳の系統ってことはないでしょうが。
女王国はさらに違って「イキマ」、「ミマショウ」、「ミマカクキ」
ミマキイリヒコあたりしか思い浮かばない。
北九州方面はやっぱり田舎、僻地だったんじゃない?
※166の著作並みの見解かねえ。
それとも、列島内部には部族国家対立はあれど「外国」がない認識で、対馬海峡寄りに「ひなもり」が集中しているのかナ?
今の日本人にとって興味ない話題だと思っていたが、
やはり興味ある人はいるんだな、とコメント欄を見て再認識。まあ、マニアな方々なんだろうけど。
本来、自文化の根元に近い議論なんだから、もっと一般的な話題になるべきだと思うんだがなあ。定説的な日本神話すら知らない日本人がほとんどだし
むなしいね
方角を45度ずらせばいいんでしょ?
そうすれば四国紀州あたり
※157
魏志倭人伝の物産に真珠、翡翠があります。丹砂(水銀と硫黄の化合物=硫化水銀)もあります。
産地は奈良吉野、伊勢。丹塗りの朱に使う。
翡翠は糸魚川。
木材は照葉樹林系の楠、樫、橡・・・吉野杉じゃないけれど。
九州だけに限られない地域の情報で、旁國として記述されているのは、東海地方、伊勢、美濃、尾張、遠江が明らかに含まれていますね。
真珠は伊勢・・・ではなく、淡路、豊津。
物産が近畿っぽいのはその通り。
※169
ありがとう。
でも、それだと、ひなもりの意味などは解釈できるんですけど、魏志倭人伝を書いた人間・・・中国人がわざわざ日本語で記録を残すとは思えないんだよね。 当て字までして。
記録はほかの人にも読ませて意味があるわけで、なら概念の近い中国語で書くと思うわけです。
そういう概念がないとは思えないし。
書いた人間が知識を独占したかったってのはあるかもしれないけど。
それに自分たちの呼称をひな・・・辺鄙なとか、田舎守護兵って言うのかなって思うんよね。
まがりなりにも国って言ってるわけで。
まぁ、国って概念がなく、これは村って意味なのかもしれんけど・・・・・。
なので日本人が書いたって言われたほうがすっきりする記述の仕方なんですよね。
意外と謎のカギってこの辺にあるのかも・・・なんてね。
でも興味深いのは、文化圏が異なることを表してるのか。
確かに、そもそもなぜ天『孫』降臨なのかってのもあるわけだし。
その辺も解釈できそうですね。
手漕ぎボートで移動は無理が~とか、距離が稼げる訳が~との意見が多い。
しかし、縄文時代は太平洋横断してペルーまで行って、そこに移民国家建国している程の抜群の移動能力。
30日も水行を経て、移動が九州内で終わってた・・・感想のが無理感ありありの気がする。
※173
地名、人名、職名は、現地の呼称の「音」を漢字に置き換えているのが一般的。
わざわざ当時の日本語のままで記録するので、漢字録音装置。
とすると「大率」は漢字めいているのが逆にちょっと怪しい(大学を卒業したみたいだw)。
すでに漢字文化圏だった伊都国だからではないか?でもその役職は中国にはないので、「刺史」みたいなものだよと説明した。
ちなみにずっと下るが、百済にも「大率」があることが、日本書紀に記されている。
官制、役職名の普及領域というのは何か意味していそう。
古文書にここまで詳しく書かれていたことを
初めて知った。ためになった。
伊都国の官名も独特。ニキとシマコ。伊都国だけは、半分中華街っぽい華僑の棲む国際村だったと思われる。だから大率もいる。奴国の長官は、伊都国の副官と同じシマコ。シマコで思い出すのは、浦島子くらい。糸島は島でもないのになぜ糸「島」で、シマコなん?委奴国のなれの果てなのか。
※107
奴国ではなく女王と対決していた狗奴国ですね?
狗奴国の官名はミミ、ミミナリではなく、「狗古智卑狗」。
どう読むんか?クコチヒク?ヒクとくれば「彦」になる。卑狗=彦
クコチとは何だ?菊池氏の祖先だろうというのが九州説。男王は卑弥呼と1文字しか異ならない「卑弥弓呼」。天照と悶着起こしたスサノオキャラにダブるのはともかく、隣接部族らしく類縁を想像させる。
九州説なら肥後国菊池郡。畿内説ならどこだろう?濃尾?静岡?伊勢?・・・旁國エリアになっちゃう。
※173
なるほど、当時の一般的な記載方なんやね。
地名や人名はともかく、職名まで現地語で書くのは面白いね。
ただ、それだと解説になってない気もするけど。当時の中国は役職名に何か特別な意味があったのか・・・逆かな?
名前が特別だから、役職名で代用するため、呼びかけや手紙の宛名のために記録を残した、といったところか。
ありがとう。
あってるかどうかはわからないけど、すっきりしました。
※178の宛名が※173になってる~。
※175です。
失礼しました。
邪馬台国は大和国として畿内説を採用しこの使者は行ってはいないが九州での取材で知った
卑弥呼は肥の巫女として九州説を採ればケンカしなくて済むし矛盾も減るよ
※177
糸島は伊都と志摩が合併して伊都志摩→糸島
島は当て字
※177
糸島は怡土イト+志摩シマ
旧怡土郡は糸島市の付け根のほう
旧志摩郡は糸島市の半島のほう
志摩は魏志倭人伝にある斯馬国かもしれない
三重のほうの志摩にもそういう説はある
こういう荒れるネタに果敢に特攻する管理人さんに敬意を表します。
※181,182
志摩、シマつながりで伊勢にワープするのはすごいな。
大和と山門、山都みたいだ。考えてみれば、二見ヶ浦や夫婦岩もあるという・・・
夏至の同時期に朝日と夕日。できすぎている。
五十鈴川も伊勢と宮崎にあるし。
もういいや、九州と近畿は繋がっているんだろうよ。
あほすぎ。
邪馬台(ヤマト)国=ヤマト朝廷に決まってる。
一大率については、古田武彦氏が迫れているように思える。
「天子の都を守る門衛」これが「率」。一大は「a big」であり、「大いなる」という誇張表現。
現地語(倭語)ではないし、漢語っぽくても松本清張氏のいうような魏、楽浪郡側の送り込んだ役職名称でもない。一般名称だ。
晋にも「率」はいた。「二率」、「五率」とか増減した。
国々に市場警察「大倭」があり、女王国より北には、特別に「率」(天子を守る門衛めいたもの)が置かれて、(北の)諸国を監視している。しかもそれは伊都国に常在している。女王の都もないのに。それで「刺史」という説明も被せて見せた。まるでおかしいけれど(だったら最初から「率」とか言うなよ)、女王の都は近くにあったんじゃないかと思わせる。
少なくとも、こんな重要な権限を持った役人が、伊都国にいて睨みを利かせているのを、あの時代、遠く大和からコントロールする違和感はある。
で、九州説に傾き始める。
伊都国との信頼関係が強すぎるからだ。伊都国ではなく若狭湾に伊都国並みの通称窓口があればまだ別なのだが。もちろ難波津はまだ影も形もない砂洲。
どうでもいいけど、卑奴母離(ひなもり)って副官の掛け持ちしすぎだろw
クマソの遺跡が九州から出てる。
最盛期は福岡に迫るくらいで時とともに南部に追いやられてる。
邪馬台国の場所は不明とされているが、他の周辺国は九州から遺跡が出土している。
もし邪馬台国が近畿なら他に記述されている周辺国も機内か瀬戸内に存在しているはず。
なぜ邪馬台国とされる証拠のみが近畿なのだろう?
南東を北東にしたんだから、南は東
つまり畿内説で終了
※180
邪馬台国という、名も知れぬ女王が都にいる国があるってだけだからね。他に5回でてくる女王国は、卑弥呼関連だが、ただでさえ女だらけイメージに描かれた倭人エリア、女王は、2人いても不思議はない。機内説は、ヤマトのブランド名だけ勝ち取るのか。
邪馬台国の謎を解明すると、困る人達が居るんだよ
宮内庁は、古墳の調査を拒否して居るんだ←これマジ
天皇の祖先が、半島から来たら困るからな
※190
それじゃ、卑弥呼の国がないじゃないか?
それはそうだ。卑弥呼は、将来の「レポーター」=軍事顧問団、張政等来日時に「以て死す」。もともと共立されていた存在。死んでしまったので、国(おそらく在九州)は消え、乱れたのだろう。対立していた狗奴国の男王が立った説もあるが、ますます乱れた。
これはいかん、で、どこから連れてきたのか、台与共立。
「ここは物騒だ、新たな都を探そう。いいところがありまっせ」で、東遷。
女王の都する所、邪馬台国にたどり着く。
「共立したんだから文句言うな!」
「いや、俺は知らん、聞いていない」・・・と反旗を翻す大和民。
「瀬戸内の連中はすでに傘下である。文句言うな!ものども包囲しろ!」
一部始終を知っていて(というか影で糸引いて)、魏が晋に変わったその時に、無事大和に押し込んだ台与に朝貢を促す軍事顧問団、張政。ついでに帰還を申し出る。
「やべーよ、長居しすぎ。国が変わっちまった。そろそろ帰るか。」
報告します!かくかくしかじか。
いろいろあったけど、女王の都は大和だと言うしかないね。
「それは大儀であった。」
黙って張政の英雄譚部分は削除する陳寿。
張政は19年間の獅子奮迅で距離を稼ぎ、陳寿は机上で角度を捻じ曲げた。
まあ、邪馬台国はわれわれ日本人の「聖地」だからな。あまり外国人に介在されたくはないのだろうけれど。
でも、明治維新でも薩長土佐でなぜか「佐賀」が登場。長崎のグラバーとか、怪しい外国人の工作が渦巻く北部九州。伊都国の江戸時代版が長崎の出島。そのまえの戦国キリシタン大名も九州。島原の乱は磐井の乱にちょっとだぶる・・・。
北九州という地の歴史上の役割は独特なものがある。
それが古墳時代以前からの伝統だったとは・・・という話。
4世紀に半島から来た三韓の辰王(振る=布留=神武)に乗っ取られたんだろ
九州人だけどどうでもいいわ♂
土蜘蛛人の方が気になる。
※172
266年の朝貢準備で、物産をあたったのがすでに大和入り後だから、近畿系のものが多いということになる。
※169
邪馬台国の官名だと思いきや、イキマ、ミマショウ、ミマワキは、ひょっとしたら、人名かも。
ミマワキは、まさにミマキイリヒコ、イキマは、イクメイリビコのことではないか?イリは、ヤマト入りの意味で、イリ王朝とは、遷都第一世代。
>>水行10日と陸行1月
中国人は今も昔も話を盛りたがる
それは事実だ。
意外と三王朝交代説は、いい時代区分なのかもしれない
■崇神王朝(三輪王朝)(イリ王朝): 古墳時代創始 九州からの遷都組 神武東遷神話の実在モデル巨大古墳で奈良湖灌漑
■応神王朝(河内王朝)(ワケ王朝): 巨大古墳で河内湖灌漑 難波津造営 瀬戸内海航路を使い倒した対外進出 半島支配挫折
■継体王朝(近江王朝): 九州から再びの東遷圧力勃興するも鎮圧 中央集権化を強化 蘇我氏の興隆
ワケは名に「ワケ」が多いからだが、そもそも河内に分かれたことを意味しているんだろうね。
必要なのは「都は近畿にあった」という事実確認だけであって
他の辻褄とか要らんのだわ
近畿にデカい遺跡があったらもうそれはその時点でそれが邪馬台国で決まりなのよ
何回九州から大和への東遷があったか?
1回目ニギハヤヒ
天孫族であると信じて
2回目神武天皇
3回目神功皇后と応神天皇
焼き直しストーリーとして
4回目磐井の乱
瀬戸内連合形成ゆえ
0回目があるとしたら、神代の猿田彦とアメノウズメの道行きに続く大国主の国譲りで葦原中國平定。中国地方から近畿までを掃討しているので。
1から4のうち、2、3は、本当は1回で、崇神天皇と台与なのではないかとも思える。同様に、実は0回目は1回目と同じかもしれないし、逆に何度もあったのかも知れない。
※201
(名も知れぬ)(男王ではなく)女王の都する盛気味の7万戸の邪馬台国があるよ、では意味ないよね?
で、それが畿内で、卑弥呼も台与も関係なく、未だ統合されざる部族国家段階の倭のこととて、周辺の国々にもそれぞれ都があり・・・では、本当に名前だけになってしまう。
「大和の地は結構前から呼び名はヤマトだったようだ。以上」ではね。
この「女王」は、卑弥呼、もしくは台与のことなのか?どんなクニがいくつ存在しての、どんな統合状態であっての「都」なのか?これも吹いているのか?
できるかぎり呉の背後を突く位置に強大な国家があり、都を構えているという虚構構築の意思を、編纂者の陳寿がもっているのであれば、近畿に特定されたヤマトの人口を多くし、統合国家の都にするのは筆先で可能。纏向が急に大きくなるほな3世紀終わり。魏志倭人伝の最新倭人情報(3世紀半ば)の後。
歴史はプロセスを掴みだしたいのであって、そのプロセスに民族のパタンを発見したい社会科学なのではないだろうかね。邪馬台国の場合、国家形成プロセスを知りたいんだな。
陳寿が参照にした資料はいくつかあるが、倭人については、大きく分けて239年資料と266年資料の二つがあり、朝貢時情報更新である。卑弥呼のことをもっぱら書いている239年資料は、卑弥呼の朝貢時更新情報だから、女王国は伊都国の南にある。新しい266年資料は、台与(豊)のもので、女王の都は大和。水行+陸行だ。大和は卑弥呼との連続性を主張し、陳寿は239年のイメージのまま、南にし、新たな距離情報を加えた。
方向を意図的に操作しない陳寿像。人がよさそうだ。
この説の面白いところは、卑弥呼と全く関係のなく居場所も異なる台与が、継承関係を主張するだけで、ありもしない東遷が起きてしまうこと。
なんて~か…
まだ考証の途中なのにいきなり否定コメしてるヤツってなんなの?
邪馬台国論争は、いろいろ喧々諤々出てくるから、先走るね。
連続もの仕立てにするには管理人さんやりにくかろう。
一言居士程度で済む海外ねたと違って、しょうがないけど。
くれぐれも全部無視でお願いします。
日本の古代史はもっと注目されるべきだよな。この国がいつ始まったのか知らないし。
色んな説あるんだね
ずっと四国だと思ってたわ
邪馬台国は日本諸族連合のまとめ役を務められる大国。農業生産性=国力の時代なのだから、畿内以外にない。九州なんて室町時代になっても開拓事業が必要なくらいに田舎。開拓の余地がある未発達地域が先進地域だったわけがない。
※153
親魏倭王印は出てこない可能性がある。
慣例として、朝貢国は、王朝交代時には古い金印を返納するのが習い。
だから、
※204で言う「連続性」「継承性」は、帰国する張政が、倭国の主張として結託して伝えたというより、金印を返納したから伝わったと推定できる。
親晋倭王印の記事が無いので、代わりの印綬を受けたかどうかだが、たぶん授けたであろうから、途次なくさない限り、出てくるとしたら、「親晋倭王」印。
以上のように推定できるので、また、倭人伝の語りからは、卑弥呼と台与には共和国としての初期倭人国家に連続性が感じられるため、縁もゆかりも無い二つ国の女王の話とは考え難い。
となると、東遷が実際に存在した線が濃厚になるね。
昔の漫画だったら手塚治虫の「火の鳥黎明編」なら畿内説、藤原カムイの「雷火」なら九州説だったな。
昔のアニメだったら「鋼鉄ジーグ」が九州説、ってアレは邪魔大王国か
はっきり言って、誰もが「張政」を軽視、もしくは無視しているんだね。抗争中の朝貢国に旗立てて送り込まれて、19年もいた連中が、単なるCNN記者のわけないんで、ましてや、浦島の龍宮接待三昧じゃないんだから。
同時期、同じように内乱状態だった公孫氏に、魏のライバル呉は、燕王の称号を授与、援軍を派兵している。なんと239年にね。魏が親魏倭王にどんだけ加担するか、想像つかないくらい目が節穴。これが、アカデミズム。
瀬戸内海航路開拓と東遷くらい企てる
時間はあった。狗奴国と和睦したかどうかもカットされているから、読み取れる情報は少ないが、より安定した統合国家が親魏勢力であるべきことから、上でも触れられている豊穣な耕作地=大和入りが必要だったのであろう。ぬかるんた湿地の大和は、生活臭を欠いた祭祀都市だったが、魏の後ろ盾、魏鏡の権威を最大限に活かして大国主は排除され、大物主として三輪山に祀られる。
ミマキイリヒコイエニノミコトが、男王として、臺与を輔弼したのだろうが、プロデューサーは、張政だったはず。この黒幕めいた不可解な役に相応しい人物は、日本側の史書では、武内宿禰の名で知られ、蘇我氏の祖とされる。
ムー大陸の近くにあった島説を唱えます。
邪馬台国の位置って距離数と方向で示されてるんだが、方向は太陽の向きで判ると思うが、距離はどうやって測ったんだろ。
個人的には邪馬台国はハワイだったんじゃないかと思ってるが。
別に謎でもなんでもなく卑弥呼も居なかったし邪馬台国もなかっただけw
そもそも倭人伝を書いた奴は日本に来てなかったし興味すらなかっただろう
今と違って正確な地図もなくてまともな通信手段もない時代、うわさ話や伝聞を元に適当な話をでっち上げたから辻褄が合わないわけだw
転載じゃ無いこういう奴の方が好きなんだが2ちゃんの転載も多くて探しづらい。転載記事とオリジナル記事でそれぞれタグ作って欲しい。
あこぎな公孫氏は238年に滅ぼされているから、援軍間に合わず、だな。
張政も、たどり着いたら卑弥呼は死んでいる。
親魏倭王候補者探しに任務が代わったのだと現地判断できる器だったようで、臺与の安定王国と、朝貢で使命を果たした。
>>今と違って正確な地図もなくてまともな通信手段もない時代、うわさ話や伝聞を元に
そんな時代に うわさ話や伝聞になっただけでもすごいと思うのだが
シナ人は昔から蔑称をつけたがるからな
邪馬台国は大和国、卑弥呼は姫巫女と予想
つまり大和朝廷じゃね
遠くなればなるほど、距離が大きくなればなるほど、水行、陸行その他の交通手段/日数表記が普通みたいだ。方角なの方が謎。
呉は280年に滅んでいるのだし、呉の鏡も日本で出土例はあるし、呉から九州海上ルートは稲の来た道と言われるほど海流が味方するしで、呉が倭を知らぬわけが無いんだが。
なぜ、呉が熟知しているかもしれない倭の地を、史書の上でだけで、呉が滅んでから歪曲するかね?
そうか、呉が滅んだからこそかって、んなアホな。
※220
魏志はもっと前に書かれた魏書や魏略といった資料を元に書かれてる
それらが書かれた時期に呉はまだあった
魏略は魏を偉大に呉蜀をつまらなく描いて
当代魏が圧倒的だったと印象づけることを企てる偏向書物
呉を包むように東の海に魏に従う国があったとなれば
呉を窮屈にし魏が他を圧して優勢であったように思えるだろう
それが狙い
伊都が糸島なら奴国は博多
[東]の不弥国は45°ズラして博多の北にある福津か
宇美(うみ)は名前に反して海ではなく、まるで隠れてでもいるような
三方を山に囲まれた奥まった地にある
福津に在った不弥国がのちに異国の侵攻を受けて滅亡し
今の宇美のところに落延びたということも可能性としてはあり得る
福津から[南]に水行二十日の投馬国は、規模からいって東にある出雲
そこから[南]の邪馬壹国
出雲から東へ水行十日、福津‐出雲の半分の距離いくと鳥取
鳥取で上陸して京都奈良方面へ長い山道を行く(google map地形図参照)
これが陸行一月
警戒して敢えて長く険しい道を案内したのではなかろうか
そういうわけで邪馬台国は近畿
記述なんて適当だったり間違っていたり意図して違う事を書いたりする。
魏志倭人伝以降にも多くの倭人伝が、各年代の中国で書かれているが、
多くは前史で書かれたものを少し変えていたりするだけ。
(伝言ゲームを想像すればいいが、何人かに伝えると尾ひれなどが付いて別物になる)
出土したもの >>>>>>>>>>> 書物の記述 だよ。
つられた 45°じゃなくて90°だ
魏志倭人伝の記述を信用し過ぎている。陳寿は秦・前漢・後漢の時代から伝わる倭国に関する伝聞を都合よく纏めたにすぎず、特に、話し合いにより王(アマテラスオオミカミ)を決めたと言う下りは、中国人の陳寿からすれば驚嘆する出来事と感じられたに違いないが、自国より進んだ国が存在する事実を認める事が出来ず、倭国が統一された国である事実を否定する観点で多くの国が存在するように記述した。陳寿の言う卑弥呼はアマテラスオオミカミの伝聞と当時、魏に使節を派遣したヒミコ=日御子=崇神天皇を混同したに過ぎない。
魏志倭人伝が書かれた時代の紀元200年ころの遺跡として奈良県桜井市纏向遺跡は当時既に中央集権国家体制が完成しており、埼玉県行田市の稲荷山鉄剣の銘文からも日本書紀の記述を裏付ける証拠が出ている。古事記・日本書紀は日本国家誕生の経過を伝える重要な書物だと思います。
邪馬壹国が、漢委奴国王印が見つかった場所から離れることはないと思う。細石神社の宝物は金印だったらしい。
個人的には邪馬台国「甘木・朝倉説」が有力だと思う。
別の説で、邪馬台=大和=山処=高天原
甘木=天城が「山のように高い場所」を示し、
山処=高天原(アマテラスの君臨していた場所)というのも結構しっくりくる。
邪馬台国の領域に関して、甘木「山のように高い場所」を囲むように
「山への入り口」の筑後の山門、肥後の山門、豊前の山戸があるのも興味深い。
狗奴国は熊本県白川流域を中心にして菊池川あたりで邪馬台国と接していたと思う。
実は邪馬台国がどこかはもう分かってて、俺は知ってんだぜ
みたいなトンデモが多くて楽しい
知ってる人、確信ある人なんていないだろ。いたとしても、そんな人は、なんの所説も吐いていないだろ。トンデモも、曲がりなりにも説だからな。なにがしかの根拠、論理を展開できなければならない。受け売りが多い気はするが、誰かしらかの説に組みするのは、悪いことではないよ。
邪馬台国は、266年以前には、つまり魏には、その存在が知られてはいなかったのではないかな。卑弥呼の女王国の名前が具体的には無い不思議。多くが、邪馬台国だと思いこむのは、無理も無い。名前が無いからだ。
もしも、女王国はあるが、邪馬台国ではなく、名前か無いとしたら、どうか?
共立とはなんぞや?に絡んでくる。シャーマンのような祭祀王。連合体を束ねる権威。似た存在が、大国主ではなかったか?国が分立しているとき、共通言語と文化を持つエリアは、宗教というアート、もしくは虚構で統合される。弥生晩期の近畿圏を中心とする銅鐸祭祀だ。
ルート的に明らかに東に向かってるから大和なんだろうなぁ
これが九州なら船で南下してから陸を歩けばいいだけだから。
自前の船がきちんとあんのにわざわざ陸を通った理由にならん。
船の調達の苦労は今の比較にならんのだから。
船で行けなかったのは世界一狭い海峡を通るからだ。
魏志倭人伝の記述内容を魏で語ったのはおそらく奴国の人だろうね
だから奴国魏間の道程は正確に詳細に書かれている
一方奴国邪馬台国間は語った人が歩いたことがないため大雑把な事しか書かれていない
記述内容に関しては不弥国までと、それ以降では最初から精度が違うと判断するべきかと
推測だけど投馬国は国東半島大分市辺り、そこから呉辺りまで船で行き、以後は陸路ってところでしょ
五万戸や七万戸の大都市が九州にあった訳が無い
朝鮮と九州北部にあるていど交流があり、魏の使者が倭を訪れるとき朝鮮の人間をガイドにしたとしたら、情報が不弥国までだけ詳しいことを説明できる
※10
やまてゃあこくか
※22
八幡平か
割と昔からシナ人ってのは欲望に忠実だから、ヒントは文中にある。
「住民は魚やアワビを取って食う」
「住民は魚やハマグリを取って食う」
実によく似た文章が2回繰り返されている。
要するに、内陸の住人たるシナ人は、海産物に飢えていた。
貝殻が通貨として流通する程度に、魚介類は価値あるものとされた。
そんな連中にとって、倭とはどんな国に見えたか…無論、宝の島である。
いかな歴史書とて、宝の島の位置をわざわざ正確に記すはずがない。
ゆえに朝鮮半島以降の記述はごまかしてあるか暗号かウソで意図的に塗りつぶしてある。
あの記述のみから邪馬台国に辿り着くことは永遠にありえない。
バカですか
マツラは唐津、イトは方角通り吉野ヶ里、九州北部は豊(トヨ)の国(豊前、豊後)
日数表記は出発からかかった日にち。
※237
そうそう。伊都国は佐賀平野。だって末廬国の「東南」500里って書いてあるじゃん。
吉野ケ里かどうかはともかく、佐賀平野だと思われる。
邪馬台国論争勃発の出発点は、ここ。国内基準点たる伊都国を勘違いしたため。
だから畿内説だとかトンデモ論が大量噴出した。
「怡土」って地名は、邪馬台国勢力に追い出されて逃げた、旧伊都国の支配者連中が現福岡糸島に移住した名残じゃないかな。想像に過ぎないけど。
で、肝心の邪馬台国は宮崎市付近だと思ってる。市内で国内最古級の大型前方後円墳が複数ある。
うち2つは魏志倭人伝記載の、卑弥呼の墓ジャストサイズ。
伊都国佐賀平野説をとれば、あとはすんなり謎が解ける。
有明海に出て(概ね)南へ水行20日。投馬国は薩摩のどこか。
同じく有明海を(概ね)南へ水行10日し、熊本八代あたりに上陸して霧島連山を突っ切って宮崎平野へ。
ずっと山道の難所超えだし、太陽が見えないから当然方角は不明(だから方角の記載がない)。陸行1月も妥当か。
これだと帯方郡から(敵対する狗奴国を避け)大体最短コースだし、1万2千余里の辻褄も合う。
女王国から北の国々、としてずらずら国名が列記されているが、これは宮崎市から北上~延岡市~大分回りもしくは高千穂や阿蘇を抜けるルート上の国々。
で、ぐるりと回って奴国(久留米付近か)に戻る。
その南側、つまり熊本北部に狗奴国。
これで魏志倭人伝の行程記述は概ね説明がつく。
1つ大事な事は、政治学的な視点。つまり邪馬台国は、
・魏朝から「倭王」と認められるだけの強大な勢力を持っていること。
・畿内の大和朝廷自身か、もしくは大和朝廷が邪魔できない程の勢力であること。
の2つが条件だった筈。誰も指摘しないけどw
それを考慮すると、神武東征の出発点であり、大和朝廷の本家本元たる宮崎ってのがどうしても最有力となる。
宮崎は、例えば西都原古墳群などをみると、畿内や瀬戸内など広範囲との大規模交流の痕跡がある。
豊の国(大分)をも勢力下におき、膨大な鉄器生産力を有していた可能性が高く、そういった力でもって畿内大和朝廷をバックアップしていたのかも。
であれば、宮崎邪馬台国が倭国王として魏朝と外交を行っても、大和朝廷は口出せなかった、という政治的な構図も推測される。
もう何十年も前にとっくに解答が出てることをまだウダウダやってんのか
当時の呉は台湾の原住民と交易があった(一方的に)
台湾が歴史に表立って出てくるのは日本と同じでこの時が初めて
呉の孫権は海路から遼東(朝鮮半島のすぐ西)の公孫淵を攻めようと(裏切られたため)したこともある
つまり、その程度の航海技術は当時からあった
魏としては、それを牽制するためにも、呉の東部にある海上の異民族を臣従させてるとアピールしたかったわけ
だから日本列島の位置がありえないほど南として記述されてる
三国志が編纂されたのは魏が滅んで晋になってからだが、記録上は魏時代の交易の記録しかなかったのだろう
魏が滅び、このあと日本列島は完全に歴史上から姿を消す
また再び日本のことを知れるようになるのは約200年後
三国時代が終わり魏との交易(実質的にはただの朝貢だが)がなくなって、日本と接触する意味もそれを記録する意味もなくなり、日本は空白期間に突入するわけだ
そう言う意味では、結果的に魏が日本のことを後代に知らせたことには(位置的にあえて誤謬させた記述があるとしても)呉という国の存在が必要だったわけだから、俺たちは呉に感謝だな
※241
>もう何十年も前にとっくに解答が出てること
おいおいおい出典は何?
>魏としては、それを牽制するためにも、
なんで?
呉が東方の海を渡って軍事行動を起こしてくれるなんて、魏にとっちゃ逆に美味しい話じゃん。
呉が東に気を取られているうちに、すきを突いて攻撃できる。
>だから日本列島の位置がありえないほど南として記述されてる
帯方郡から邪馬台国まで1万2千余里。
そのうち、狗邪韓国(釜山付近)までが約7千里。つまり残り約5千里。
ありえないほど南…という記述でもないと思うよ。現代日本人の側が勝手に「九州より南」と勘違いしてるだけで。
※241
倭が日本だってことにはほとんど誰も異論がなくて
邪馬台国が日本のどこかって話なんだけど
九州にも山門(ヤマト)があるから邪馬台国の読みがヤマト国だから畿内だって主張するのは見当違いだね
※242
魏が呉の隙を突いて遠征してる隙を突いてあの万年北伐国が攻めてくるんですね、わかります
更新はよ
いまだに九州説主張するやつはアホ
近畿関西圏に決まってるだろwww
どんだけ古墳あると思ってるんだよw
それから狗邪韓国ってのは縄文人側から植民地にしてた日本様側の領土だからな
それだけ古代日本は海洋領域で強大だった
大和と書いて日本ではヤマトと呼ぶ
大和→大倭と書いても大陸人はヤマトとは呼ばない。ダイワとしか読まない
だから大倭は現地読みでヤマトと呼ぶんだよって表記したのが邪馬台
例えば山城国を日本ではヤマシロ国と呼ぶけど大陸ではサンジョウ国としか読まない
大陸人が現地の発音を漢字で表記しようとしたら邪摩支呂国とか表記していたに違いない
そして古地図では日本は逆さまになっていて北海道が南になっている
間違った地図を頼りにいったからたどり着けずに伝説の島扱いにされた
さまよったあげくに実際に辿りつけてもそこは日本で地図上の不老不死の秘薬がある伝説の黄金の国とは別扱いにされた
※238-240
大きな矛盾点として
統治の九州に5万や7万戸たつような平地がない事。
〇〇のどこかと自分でもいってる通り、途中の国々に該当しそうな国がない。
こんなでかい国が二つもあるのに日本国内での記述がないのが決定的に説得力に欠ける説だと思う
※247、※248
畿内で一向に構わないのだけど、口が悪いと頭も悪そうに見えるぞ
何故こんなに粋がってるのだろう中学生か?と思ってしまうので煽るのはほどほどにしてほしい
※250
佐賀平野を除いた筑紫平野は奈良盆地と同じくらいの広さになるが
魏志倭人伝に書かれてる数字は「八百万≠8,000,000」と同じで
「遠いとこやで」っていう意味でしかないって唱えてる人がおったな
パズルのピースを書き出そう。
弥生時代晩期、銅鐸祭祀の途絶。
大和もふくめた広大な、連合体の中心にいた大国主系は、弥生時代。
1~2世紀100以上存在した部族国家が、大乱の度に統合され、3世紀前半、30位になっていること。
大国主は、鳥越、梅原説の言うように、出雲土着神ではなさそうなこと。
大国主は、出雲へ、大物主は、三輪山に祀られるが、同一神。
巻向の発展は、3世紀末。
弥生時代と古墳時代の違いは、前方後円墳と鏡などの埋納習俗だが、この墓制は北九州系の文化。
前方後円墳と埴輪は、吉備系。
大規模土木工学の流入がなければ、古墳築造は、流行らない。
古墳と灌漑事業は、1セット。
殉葬は、中華臭い皇帝色習慣なれど、始皇帝時代に既になくなっている。
埴輪は、兵馬俑の影響。弥生時代は、驚くほど人物造形物がない。
狗奴国は女王国と対立。
二つの大きな連合体が、同時に存在した可能性はあるが、直接対決するには、離れすぎていた可能性はある。距離を無視すれば、女王国が大和なら、狗奴国は九州かもしれないが、女王国が九州なら、狗奴国が大和かもしれない。
なぜなら、大和は、糸国のある九州に用がある。
奴国の南などからすると、畿内説でも、狗奴国を在九州と見るのが大方。なれば、距離は、そう簡単に無視するべきではないから、狗奴国と女王国は、結構隣接しているはず。されば、女王国九州説だ。
女王国が九州で、邪馬台国が、大和の線でなにか問題があるか?
臺与は、卑弥呼の宗女だから、邪馬台国とは関係がなく、東遷でもしないことには、九州にいる可能性が高い。
中国文化と関わりなく、同時代に、畿内邪馬台国では、なぜか古墳時代が始まる。王墓には魏鏡もふんだんに埋納され、大国主系が掃討されてしまう宗教改革が、内発的に起きたのだ。
そもそも狗奴国と邪馬台国は、別ものと扱われているので、大和に狗奴国があるわけはなく、大和に女王国があるかないかなのだが、邪馬台国こそが女王国だとすると、奴国の南にある狗奴国と交戦状態だということになる。
すごい派兵能力。2ヵ月も片道かけて、騎馬兵も組めない時代で、おそらくは日本海航路しかない時代に、あたかも中国の統一国家みたいだ。まあ、陳寿の狙いが大国演出なのだから、いいんだろうけれど、援軍要請するくらいだから、実際に交戦状態にあったことは、信じないと。
そんなこんなで、邪馬台国=女王国=畿内説には、もれなく奴国と狗奴国どころか、末盧国力以下、ほとんどのわこが畿内にもれなく付いてきます。
わこ=倭人国
※232
大分に投馬国とな?
出雲との妙な縁を覚えますな。
どちらにも杵築がある。
卑弥呼の塚への殉葬は、陳寿の捏造。王への忠誠溢れる古き良き習俗が、倭人の地には残っていると言いたい。倭国は、それ程デカイんだぞとも言いたい。
だが、もちろんそんなしきたりも、強権も倭国にはない。むしろ、倭国には、王権の誉れを高からしむ古墳造営技術が、卑弥呼の死にあわせて伝えられた。
これを皮切りに、古墳が政治的統治テクニックとして採用、普及するが、偽造鏡が大量に造られるほど、三角縁神獣鏡は、魏鏡としてその権威を認知され、倭国初の中華帝国介入=魏のバックアップは、威力があったのだと見るべきであろう。
古墳文化は、虚心に評価すれば、中華の天帝埋葬文化の伝播以外のなにものでもない。
九州から2ヵ月もかかり、だれしもが、中国人は、北九州の波打ち際から先には入っては来ていないだろうよとうそぶく時代、どうすれば古墳文化を大和の内奥にまで導き入れられよう?
さては、徐福の仕業か?
たぶん違う。チャンスは1度きりだが、あったのだと推定するのが合理的だ。
秦氏「勝手な事言いおって」
自分も含めて素人目には九州説を推したくなるんだけど、所詮は素人だからね
専門の研究者の大半が機内説をとっていて、もう覆りようがないようだし
大体的に流布をしないのは、九州説をとっていた研究者への遠慮とかもあるのかもな
本当に当時の記録が正しかったのか?
水行30日+陸行30日(一か月)片道2か月隔たった者同士が交戦状態にあって、魏に援軍要請ってどんな中華帝国?
それとも嘘だとして距離が嘘?交戦状態が嘘?
距離でしょうね、嘘は。
でも距離もそんなに間違っていないとしたら、狗奴国と交戦状態にあったのは女王国であって、邪馬台国じゃない。奴国の南にある狗奴国は普通に考えて在九州で、女王国も九州にあるとするのが自然な理解。
邪馬台国だけは遠くにありて思うもの。
東遷を認めなけりゃならないんなら、邪馬台国なんていらないよ派は畿内説にいる?
邪馬台国は畿内だけれど、縄文-弥生-古墳-飛鳥-奈良と直線単線的に進化したに過ぎない派が多そう。
名前だけは、それこそ縄文時代から現代までずっと「やまと」で連続している派だな、私は。
卑弥呼の女王国は在九州だけれども、筑後や肥前の山戸(山門、山都)にもこだわらなくて大丈夫だよ派でもある。
その代り、東遷支持派なんだ。
わざわざ遠方の大和=邪馬台国の名を出したのは、陳寿の勝手な妄想+捏造ではなくて、266年の遣使が実際にその大和の府から女王の名で行われたからだろう。それどころか、軍事顧問団の帰国というお土産付なのである。
張政の帰国も捏造なのか?
どうしても、中国側の記録にない「東遷」が必要で、日本側の史記にはどかんと中心に居座っているのだが、神話だとして葬り去られているのが解せない。
東遷の後、古墳時代というイメージは持っているくせに、いかにしてどのような東遷が可能であったかは推理しない。
この島国では、国内限りで煮込み続ければ、「統一国家」が自然に生まれると思っている。
・日本に当時、文字がない
・遠方の異民族には無関心の大陸のちょろっとした記録のみ。しかも写本しか残ってない。
・日本は歴史的に記録の重要性に疎く、最古の記録も政治色バリバリで信憑性がない。
・なので王朝の連続性も確認できないので遺跡から追うことも難しく、追うと万系一世や
大和朝廷の信憑性にも踏み込まなきゃいけないのでタブーに近い。
結果、進まない。
記録者は、きちんと記録しろよと
あとから読むもののことを考えないのは、いかにもお役所仕事
水行20日、さらに水行10日に陸行20日ねぇ、、、
薩摩が琉球を攻めたときも、航海日数って20日くらいだっけ?さらに昔の船で沖縄に行けると思いにくい
もてなしとかでゆっくり移動した?出発時に酔っ払ってたか、方角に疎かったか
まぁその土地のルーツではあっても、日本のルーツになる国家ではなさそう
まぁいろいろな意見を読むだけでも、外野としては楽しい
中国の当て字とか、中華思想、当時の日本の技術や勢力図事情等々
水行も、海流に大きく影響されてそう。
有明海から九州南部(おそらく薩摩湾)までの20日は、海流を逆進する。
薩摩湾発の10日間は、おそらく黒潮に乗る。
移動距離は飛躍的に跳ね上がったと思われる。
以前2hでの古事記編纂1300年記念討論スレ?で、倭(=邪馬台国)が何処か答えは出たよ。
徳島だよ。
弥生時代当時の人口は一番多いとか、最古の前方後円墳(萩原2号古墳)があるとか。
大分県辺りからの水行20日陸行30日も合う。 1万2千里もピッタリでしょ?
みんなネットにあるよ、真剣に探せば見つかるよ。 九州奈良との思考停止はやめてさ
誤読してるようだが、
女王が支配する一大連合国があり、邪馬壹国はその都。狗奴国は連合国の南。
南というのも邪馬壹国が大和なら南でなく東なので、狗奴国もまた東にある。
邪馬壹国が日向なら狗奴国もその南にあることになる。
※35
神武東征こそ眉唾だろ
遺物から考古学的にわかる九州の国力的に近畿侵攻は無理難題な訳で
ヤマタイやかヤマトかで真顔で争う奴等がいる程度にはこの頃の日本史は怪い
古墳なんぞ掘れなくても遥かに広域な庶民の暮らしがあるわけで
庶民は東遷しないけどな。連合体の支配層が何らかの事情で困難な距離を克服して、10年以上もかけて遷都したかもってだけで。難事業だから、易々とはできないのは確か。出来たとすれば、どのように、なぜをかを考えるのは、必要とあらばせなあかん。
※269
倭人伝、奴国が二度出てくるからな。
東遷論者にとって※204のように、陳寿の参考資料には239年資料と266年資料とがある。
239年資料は女王は卑弥呼、女王国は九州
266年資料は女王は台与、女王国は大和
ここからの推理に過ぎないが、下記のようには考えられまいか?
266年資料から服属国群=「旁国」が引っ張りこまれており、卑弥呼を共立した北九州の連合とはすでに異なっている。北九州連合はからきし頼りにならず、狗奴国との交戦では全く役立たずの弱小連合体。松浦や伊都国、奴国、不弥国などであろう。
20ほどもある旁国はそれ以降に服属した国家群だから、狗奴国との交戦とは関係ないし、邪馬台国遷都後は、かなり離れてしまったので女王も狗奴国とは対峙しないで済んでいる。
5世紀の後漢書で、「倭の奴国は倭国の極南界」とある。これは、すでに邪馬台国が大和東遷後だから、奴国が南の際になっている。
同じように、狗奴国を語るに、魏志倭人伝では「旁国」を挙げ連ねた後、「其南」と記述している。
当然である。「旁国」は東遷後の支配国だから、奴国と同じくその南に狗奴国がある。
また、魏志では卑弥呼の女王国の東千里に国があると記しているが、それがどこかは書いていない。
後漢書では女王国の東千余里にある国の名は、なんと「狗奴国」なのである。このくだりは、魏志と同じく卑弥呼の女王国を語っている箇所で言及される。
資料の新旧の混在が混乱を招いているようであると推理できる。
今時なら!劉備[職人芸バイト] 孫権[防衛大学出身者の自衛隊を父親に持つ] 曹操[オカマの政治家宅お手伝い]
曹操は息子か!
東北!東北!八幡平!八幡平!
昔は九州説信じてたけど、この20年の発掘見りゃ、もうどう見ても畿内で決まりだろ。
もうほぼ決着済み。
畿内に何も無かったなんて誰も言うとらん。畿内に何か起きたんじゃないかと、魏志倭人伝に照らしながら、考察しているだけ。何か起きたって、国家統合が進んだんやけどな。古墳も中国側史料に出て来たかと思ったら、大ブームで、後世、墓の形式で時代を名付けたなんざ、よっぽどのきっかけがあったに違いないんよ。そう、多くは六合の中心、畿内を押さえた集団から起きたんや。
なぜ、畿内なのかも、考える人は考えおる。
邪馬台国論争は、渡海技術の向上に連動した中華圏の拡張と東アジア政治勢力の胎動にほかならず、日本列島の民族のダイナミクスの分析なんやで。
水行を 瀬戸内なら
良いかも
近畿から 伊勢?
豊葦原千五百秋瑞穂国とは、日本の国の美称とされ、天上界と根の国の中間などとも言うが、実は奈良盆地の奈良湖がまだ水が引ききらぬ葦原の潟を表す。
wikiより
「神武東征以前の大和も出雲勢力の行政地であったため葦原中国とよばれているため、非出雲勢力が出雲勢力の行政地を指した言葉」
「狗奴国」はどうなった?
敵前逃亡ですよ。方向転換。三十六計逃げるに如かず。
一気呵成の東進の矛盾か、四道将軍派遣メンテナンスも必要なら、熊襲征伐や磐井の乱鎮圧も必要であったとさ。
宿敵中部九州との因縁ゆえ、神話補償作用として「二ニギの笠沙岬」(天孫降臨の高千穂、神武出立の日向などやたらな九州への固執)があるのではないか。
魏志倭人伝の記述に誤りがあったってことですか?
まあ今からかなーり前の話だし、それも仕方ないのかもしれない。
昔小学校の授業で自分の家から小学校までの通学路を書くっていう時間があったけど
見事の見事に間違えたし……。
とりあえず自分は関西に住んでるから近畿説を信じたい。
最新技術、ハイテク産業、インターネット!早く邪馬台国の場所を特定してくれー!
出雲型古墳の出土範囲と、当時の神社の祭神の分布から、
『狗奴国』=出雲と推定される。
『狗邪韓国』も出雲の属領。
伝説どおりなら、狗邪韓国が本領で、遠征侵略し建国された朝鮮系の鉄器文明が出雲。
全盛期は、
朝鮮半島南部
九州北部(筑紫平野)・宮崎平野
出雲~京都北部の交易線(沿岸部)
瀬戸内海側は山口。
倭国大乱後の1回目の卑弥呼の使者が派遣されたのは、出雲の全盛時代の直後になる。
なぜ邪馬台国が遠く魏まで出向いて国交を結んだのか?
この強大な出雲(狗奴国)を外交で包囲する為と思われる。
狗奴国の西に隣接する国と言えば、魏の帯方郡だったからだ。
しかし、出雲(狗奴国)の立地上、敵対国である邪馬台国・女王国の使者は通行できない。
山陰ルートx 瀬戸内海ルートx 筑紫平野もx
結果、遠く九州を海岸線を時計回りに大規模に迂回して、やっと松浦あたりから朝鮮半島に出航できたと思われる。
この通路を大陸側から逆に通行すると、魏志倭人伝のルートと思われる。
古代神社に祀られている人物は、実在した人物であり、土地に影響を与えた人物。
日本人は神社に名を残した先祖を祀る習慣がある。
彼らは、神話にも登場する人物である。
この古代神社の祭神の分布と、古墳の様式を調査する事により、古代の国家の勢力範囲をある程度推測が可能になるようだ。
「方角がずれていて南東と書いてるけど実際には北東に進んでいる」まで認めてるのに何故その後南に水行20日をそのまま素直に受け取ってるんだよw
南方だとそこから長い距離陸路を進まないといけないんだから記述が無い時点で方角が違うとわかる
つまり陸路の記述がいらない程すぐに海に出られる位置に不弥国はあったという事でそこから海を20日進んだ先が投馬国で、そこから水行10日+陸路1月で邪馬台国なのだから畿内説が有力になる記述だと考えるのが妥当
ただし、九州にヤマトの名を冠する地名が多い事や古事記でわざわざ九州から畿内にやってきた旨が記されているのは皇族の祖先が九州からやってきたという言い伝え自体はあったと考えるのが妥当で、卑弥呼より以前の時代に神武東征に相当する畿内への移住はあったのだと思う
古代人がどうやって方位を知るかを考えたら記録上の東西南北が精密精緻とは到底思えない
掛かった日数と移動手段はあてになりそうだけれどそれだって陸路なら道の整備具合に
海路なら潮流や満ち引き港湾の整備加減やら利用する船か舟の都合やら相当アバウトに
ならざるを得ないんじゃなかろうか
今の日本人が向かって南の太平洋上の国を大雑把に「アメリカ」と認識しているように
記録が雑なのも当時の大陸方面からみた朝鮮半島・日本列島が「海に面する土地」って
大雑把に捉えられていた結果だろうから卑弥呼の治めた土地探しも「雑さ加減」を加味
しないとね
神武東征についての疑問。
・そもそも神武東征はあったのかなかったのか?
・あったとして、それはいつの時期か?
・そもそも、本拠地こそが経済基盤である以上、「本拠地を移す」こと自体が異例ではないのか? 征服した土地は属領となるだけで、そっちに移動すること自体が不自然ではないのか? ぶっちゃけ、「東征」と称しちゃあいるが、単にその時点では敗走だったのではないか?
強豪ひしめく九州から追い出されたが、比較的空白地帯の近畿で勢力を涵養し、その後に失地奪回を果たしたとすればそれはそれで合理的。
神武東征についておいらも疑問。
狗奴国九州説で東征ありの場合、共立母体であろう北九州(もうちょっと広域だとしても中四国南部まで)は放置されて狗奴国に蹂躙されるんか?
北九州まで狗奴国が北上したら、重要な伊都国も手中に落ちるが、どんな対策を打ったのか、打たなかったのか?
打たなかったから、266年最後に朝貢も途絶えた。奇しくも4世紀頭には、西晋も滅び、五胡十六国時代に突入。平和な交易拠点から、軍事侵攻拠点に変質、朝鮮出兵の倭の五王が、必ずしも大和朝廷かどうかも不確実。狗奴国が九州を牛耳って、より厄介な政治勢力に成長してしまったかも。
方角が間違っていないなら、投馬国が沖縄で、邪馬台国が台湾という解釈もできそう
投馬国が奄美大島、邪馬台国が沖縄という解釈も
何も知らんのだけど、邪馬台国ってこの後の歴史にどう繋がっていくん?
大和朝廷に連なる可能性大。
全ての国民国家の歴史は、神話。
これか上手く形成できないと某国みたいに統合が図れず、パフォーマンスも得られない、という観点も無視できない。
距離と方角が狂ってるのは当時使ってた地図が歪んでたからじゃないの?
※287
神武東征・・・徒渉して行われていませんね?船です。丸木舟じゃ無理。筏でも無理。
この神話イベント、航海術に強く結びつきますので、日本列島の航海史でも重要な出来事。
海人族同士の繋がりとか、7世紀後半、壬申の乱に至るも、海神族ネットワークを云々されるわけです。
でも、弥生時代までは広域海洋軍事ネットワークは形成できない。商業、儀礼交換海洋ネットワークなら、縄文時代からなんですが。
構造船の導入と航路の開拓、これなくして進軍などもできません。
一方、行く先々で賛同者、味方を募る方式も重要。
「桃太郎方式」。
安芸と吉備の滞在年数の多さは伊達じゃない。このあたり、妙なリアリティがある。
潮待ち以前の海路開拓事業が並行していた感があります。
少しあと、古墳時代、構造船めいたものが初めて現れます。埴輪でも表現されますね。
神武東征の時代はいつか?
おそらく3世紀。崇神と同じころなので、神武天皇の存在は疑問です。
敗走の美化はその通りと推測。
※293
❌287 〇286
だな。
弥生人が九州から来たのは多分確かだけど、
この時代にはもうヤマトは畿内に無いと色々間に合わないと思う。
学者の間では9割方畿内説で決定してる
昔の人はヤマトじゃないことにしたくて色々工作したのに、
今はヤマトだったことにしたくて色々やるのよな
そりゃややこしくなる
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
この「水行」って海を渡ってるんじゃなく、河川を上ったり下ったりしてる記述じゃない?
魏志倭人伝では海に出るたび、「海岸水行」「度一海」ってわざわざ「海」表記してるし。
だかた邪馬台国は九州にある説を自分は採るな。
※295
安心召されよ。天孫族ニギハヤヒが先に大和におろうが。
大国主も、実は国津神ではなく、スサノオの子か孫かひ孫かなので、天孫族。
記紀は、難攻不落で手を焼いた九州、それも薩摩まで天孫の降臨地にし、天孫で覆われた葦原中国にわざわざ神武東遷するストーリー。
古い昔、天孫が大和に古い国家を築いたことに、記紀の編纂当時も現代の学者もしているわけ。
じゃあ、東遷とは何ぞや?
「邪馬台国」という中国の史書に記述された国についても、記紀成立の昔からわが国の識字階級は意識してきた。「卑弥呼」も誰かに当てたくて整合性を取ろうとしてきた。
「大和」と呼ぶようにしたのは、もしかしたら「邪馬台国」の影響で、順序が逆、元明天皇より前ではあるだろうが、遣隋使のころかもそれないという暴論だって否定できないのである。
それらを無視して、滑り込ませて神代の中核ストーリーにしている純国産の「東遷」とは何か?
東遷なんてうそだぴょーん、でいいのか?
※299
卑弥呼を模した女神の後継が国津神から支配権をもらい、ヤマタノオロチを倒し国宝の神器を得た、という神話を作り日本という国号に変えた
当時の政権は明確にヤマトを滅ぼしたか奪っているよ
ヤマト朝廷と呼び出したのは後世
※300
なるほど。
ヤマタノオロチは「やまとの大蛇」だったのか。新説?
三輪山は白蛇が大物主だし、山体が大蛇のとぐろを巻いた姿だしね。
よいセンス。
ヤマトの起源は邪馬台国も新説なんだけどね。
続くのか・・・
完全に想像だけど
唐書によると古代の倭人は入れ墨
してたらしいし蛇に例えられて
いたかもね
邪馬台国は大和国
で滅亡間際の魏から亡命してきた神武(モンゴル系の傭兵騎馬民族)が大和国を乗っ取って大和朝廷成立
卑弥呼の2世紀、無論、「都」などというものはない。のみならず、それに似たものもない。陳寿は、架空の都を遠くに創作し、名前を適当につけた。
史書は、ここから独り歩きし、幾星霜。一方畿内は、何度か争乱へて、東遷めいたものもあり、オロチ族の大国主支配が滅んだ。大国主一派は出雲へ落ちのびる。
やがて、支那も落ち着き、再び交流がはじまると、使者は国の由緒なども質される中、接する史書に邪馬台国と卑弥呼とある。ヤマトだと?
近畿王権は、一計を案ずる。「いいじゃないか、オレらがヤマトで。」
旧い歴史書にある一番大きな国こそ我らの元でありんすと回答。
って感じ?
出雲大社の注連縄。あれは雲、紙垂は稲妻。
一説に、あれは蛇の交尾、紙垂は脱皮。永遠の命、生命のパワーを意味するとも。
かがみとは、蛇。鏡餅もとぐろ巻く蛇。
蛇こそ猪と並ぶ縄文以来の日本のカムイ。
大和の大蛇三社とは、大和国、現在の奈良県に所在する三つの神社を、大蛇(巳)、あるいは竜に見立て、その頭、胴、尾になぞらえたもの。蛇も竜もいずれにしても水神。三社とも水との関わりが深い神社とされる。
大神神社はもともとが蛇の社という側面がある。石園座多久虫玉神社(竜王宮)は海神色が強い。長尾神社は、竜と蛇の伝承だらけ。社号の尾は、そのまま蛇と竜の尾の意と考えられる。
大神神社と長尾神社だけでも、蛇あるいは竜の頭と尾ともされる。巨大な蛇が頭を三輪山(大神神社)にしてとぐろを巻き、その尾が長尾神社まで届いた、という伝承による。
「神社と古事記」より引用
なにが斐伊川だよ。製鉄の赤茶けた川だよ。古代製鉄で川が赤くなるか?伊勢の猿田彦だってオロチと同じ風貌なんだが。
諏訪大社も蛇神ソソウ神、蛇体のミシャグジ神も習合している。
魏志倭人伝離れて、どんどん国産神話の世界へ・・・
南へ行ったつもりが潮に流されて近畿の方に行ったのでは??
古代では、距離を正確に計る方法はなくても、方角だけはきっちりあっている
なぜなら太陽や月・北極星の方向を見て、自分たちの進む方向を決めるからだ
大体、方向がいいかげんなら、国と国との交易が成り立たないからだ
※310
残念ながら古代の方角がアテにならないのは日本列島が完全に南東を向いた古地図が証明している
多分東と西だけが大体合ってるという
前提しか置けない
磁石も日時計も無い未開人の証言が頼りなんだから
自分のペースで動ける陸上なら、方角を特定するのは容易。
しかし、他人のペースで動き、水流の影響を受ける、船上の人となったら話は別。
水行は目まぐるしく方位が変わるコースだったと推測される。
出発時の方角しか分からなかった為、このような書き方になったと思われる。
めんどくせーな。大川隆法尊師に交霊させたら一発回答だろ!!!
倭人は冬も裸足で生野菜食ってて、男は入れ墨してて海に潜って魚を捕まえるのが上手いという、ほぼ東南アジア土人
その後、入れ墨の風習が無くなってるのは、半島から来た騎馬民族に倭人が駆逐されたから。
日本の先住民であるアイヌや沖縄の人々は、つい最近まで入れ墨の風習を保っていた。
方角とか日数はどう考えても途中から
使者が現地人に「○○国はどっち?」
って聞いたときの回答になってるだろ
地図どころか東西南北の概念すらあったか疑問
※315
支那南部系の移民→混血→朝鮮半島にまで進出している倭人の記述(まだ刺青していて海洋民族の風習)
朝鮮半島に国歌の原型が出来始める頃には、日本は統合が進んで(朝鮮から見た)大国になっている
邪馬台国問題も悩む必要がないぐらい明確だと思うが朝鮮系騎馬民族征服説は論外だよ
反映されないからNGワードかもしれんので修正
国歌は国家の誤変換な
※316
行ってないにしても人の往来はあったわけで伝聞は結構正確なんじゃねえかな
南に進んでる(実際には東)人に「この方向(南)にそのまま進むと何がある」と訊かれたなら自然
海を20日で投馬国、更にその先は10日で陸に着き、そこから歩いて一月で倭で最大の国がある
九州内だとしたらどう考えても時間かかりすぎでまっすぐじゃなくても陸地をはみ出す
邪馬台国が現在の皇族に連なる事にしたくない層が左右問わずいるんだろうけど
くだらないゴミ記事
※304
※315
大陸北方民族はみんな酒が強い
日本人は近畿中心に酒が弱い→大陸南方系だとはっきりしてる
魏志倭人伝が言う、「やまたいこく」は九州にあったのは間違いないだろ
ただ、それが「やまと」なのかどうかは疑問が残る
それ以外の「いずも」がどうなっていたのかも不明
そもそもこの金印が昔から繋がりのある
呉ー九州ラインを断ち切るためのものだから
近畿にあってもしょうがない、近畿ー九州がすでに、統一王国だった可能性もあるけど
日本側もよくわかってなくて、もしくはそれほど強大ではなかったので、とりあえず朝貢しといた
っていうレベルだと思われる
このことが後の聖徳太子の時代に、中華帝国に対抗しようとした
白江村でまけて、朝鮮利権から撤退させられるわけだが
※319
いや最初はこっちに歩いてたのに
いつのまにか進んでる方向ずれるとか
標識や道路が整備された現代でも
普通にあることだし
当時なら川とかに渡るのに大きく迂回とか
してただろうしアテにならないと思う
沖縄(与那国島)の海底に神殿遺跡としか見えないシロモノがあったよね?
三国志の時代って小氷河期だったんだぜ
それで男は裸で入墨でしょ。
方角とか距離とか無理に解釈せずに
そのまま当てはめてみれば東南アジアになるんで、それが正解だと思うけど
邪馬台国が不明なのは日本じゃ無かったからだよ
#315 騎馬民族って、ジンギスカン義経説並みにNGじゃないのか?
#321 確か日本人に伝わる、アルコールに弱い遺伝気質(正確な表現はわからん)った、大陸北部の民族から伝わったって何かで見たぞ。あの辺の女に手を出したスケベ野郎がいたため下戸が誕生したんだな(笑)、って。
大林太良が民族学の視点で考察した本も面白かった。
フィクションとしては星野之宣の「ヤマトの火」「ヤマタイカ」が虚実交えていて楽しかったなぁ。
星新一・小松左京が飲み歩いていた頃の酒場のバカ話に「邪馬台国ハワイ説」があったらしいが、両御大亡き今、そういうホラ話も聞かなくなりましたねえ。
大和=ヤマト
大陸では大和と書いてヤマトと発音しないからその発音に当てた漢字が邪馬台
大倭の事を邪馬台と倭人たちは発音するんだよって注釈してあるにすぎない
音に当てただけの字だから時代によって文字が変わる
邪馬台の事を知らない人がヤマトに漢字を当てたら別の漢字を当てる可能性の方が遙かに高いことは容易に想像が付く
違いに疑問を持つのは日本と中国が西洋の国を漢字で表記する時に当てた字が違うのと同じでその違いに何か意味があるかどうか疑問に思うのと同じくらい馬鹿らしい
そして日本人がなぜヤマトに大和という字を当てたのかというと
和を以て貴しとする理念を国体とする国だったので和がヤマトの象徴だった
その象徴である和に大を付けて大和としヤマトと呼ぶ様にした
古代の大陸の地図では日本は南北が逆になって描かれていて東北、北海道が南の方にある
現代の地図に照らし合わせて見てもわかるわけが無い
例えばカーナビシステムを調整せずに地図だけを古代のものに差し替えて走ったら地図上のとんでもない所を走ってるからカーナビが壊れてるっていってるようなものだよ
※325
それは無理がある
邪馬台国が日本である根拠は物産である丹生(水銀)が記されていて、物を間違えるとは考えにくい
東南アジアのうち、ベトナム、マレーシアで水銀がとれるが12000里以上の距離になる
日本から迂回する意味がなく、遠すぎて現実味がない
大和の枕詞は「敷島」 枕詞になるほど有名な土地だった
シキのミズガキの宮は崇神天皇の時代
崇神の姉がヤマトトドヒモモソ姫 崇神の娘がトヨ
大和が妥当ではないかと
ガキの頃に読んだ本が九州→畿内の遷都説を唱えてたから、なんとなくそれを信じてるな
ホントはどこにあったんだろうねぇ
未だに四国説を信じない奴がいることの方が驚き。近畿に移るのは4世紀から5世紀にかけて。九州北部ほ早くから四国のヤマト政権の軍門にくだっていただけの話。
四国説って……。
大和朝廷以前にそこそこ大きな集落や文化が存在してたなら、もう少しハデに風土記の逸文とか残っていてもよさそうなもんだろうに……。
九州説の最有力地である筑紫平野に「山門:やまと」っていう地方がある。
背後に耳納山地、筑肥山地が控えていて正に「山の戸口」という感じ。
邪馬台=大和の比定はほとんど意味のない邪論。
※334
邪馬台国=筑紫平野なのに伊都国だか、奴国だか、不弥国だかから2か月かけて邪馬台国・・・は脚色ですか?
距離の盛り上げ豪勢過ぎやしませんか?
そも投馬国って本当に出雲ですか?
出雲って、荒神谷銅剣出土までは、現在の島根県の惨状同様に、古来人口を養えぬ過疎地認定されていたくせに、荒神谷の由縁も解明されずに、出雲、本当に古代一大勢力ですか?
邪馬台国は明らかに畿内。
ただ、それをもって卑弥呼が畿内の近傍にあるに違いない狗奴国と交戦というのはありえない。
それだと畿内勢力弱すぎ。伊都国に一大率を置き、シナに朝貢までしている(=北九州勢まで取り込んでいる=中四国瀬戸内制覇済み巨大国家連合)邪馬台国を煩わせる狗奴国すげえ!!どんだけ強えの狗奴国?
で、どうなったの狗奴国?連合を向うに回した狗奴国の比定が極端に嘘臭くなっちゃいけない。
・現時点の考古学的知見
・古代豪族勢力均衡妥協産物=中央権力の勝手な捏造を許さない牽制の働いたであろう日本神話にエキスが散らばる痕跡解釈
・シナの文献
・同時代の中華文明内および近隣諸国の態様参照
これを想像力と合理的解釈で埋めとどうなるのか?
これなくして、明らかな邪馬台国=畿内自体の不思議はと解き明かせないでしょう。
想像力を働かせるには、資料を熟読し、現地を見ることです。ブラタモリじゃないが、地形を観察し、現場に立つことです。手漕ぎボートで瀬戸内海を航行可能か、地勢を読むことです。
たとえば、日本海の海流と太平洋の海流の強さの段違いの差に気がつくべきなのです。
※335
「現在の島根県の惨状」
熱くなるのは構わんけど口悪くないか
邪馬台国を畿内と論じるのに、何故現在の他の地方を貶める必要が?
八幡平(はちまんたい)が「やまたい」だろ。つまり、東北
八幡だけで「やはた」「やわた」だぞ
大和国の日本語読みを中国語であてた説がもっともらしい
古事記や日本書紀に、大和朝廷は東遷したと書いてあり、
日向から瀬戸内海を通って、大阪に上陸して土豪に撃退され、
紀伊半島に上陸して奈良に入って朝廷をひらいたとされて
(&宮崎が国生みの高天原だと伝えられて)いるのに、
なぜ1つのあいまいな史料だけを厳密に適用して、解釈
しようとする?
九州南部の熊襲に追われ(+阿蘇山の大噴火で)、九州の
宮崎から脱出した邪馬台国が東遷して大和朝廷をひらいた
のは自明だろう(宮崎=日向は「ひむか」と読み、昔は
貴人の名は直接呼ばず、その地の名で呼ぶのが一般的だっ
たので、「ひむか=卑弥呼」であって当然で(ちなみに
卑弥呼の死後、あとを継いだ伊予は愛媛で)。
願望利権入り混じったゴッドハンドが横行して収集付かなくなってるんだろうな
※336
鳥越憲三郎に言ってほしいってすでに故人だがね。
水行、陸行のくだりが移動手段と実際に到達した日数とすると、
国ごとの歓待・逗留・視察、潮待ち・悪天候などを考慮する必要が出てくる
距離は当てにならず、合っているのは方角のみかもしれない
確かに、出雲はかつては、過大評価説が主流になりつつあった。考古学知見が、膠着を崩すんだが、今度は巻向みたいに反動で盛りすぎてしまうのが常。
1984年に発掘された荒神谷遺跡は、崇神天皇記の出雲振根エピソードを思わせる。
熊野大社の意宇郡などがある東部が、伯耆を含めてどちらかというと発展していたともいうが、3世紀にはどっちにしても現在の平野部が海底か低湿地。島根半島は島。
島根県、いかんせん平野部が少ない。時代下って10世紀半ばの和名抄では、出雲国の田積は9,435町、筑前18,500とは大きな差。大和17,905、播磨21,414、讃岐18,647、肥後23,500、近江33,402、伊勢18,130・・・大和など武蔵35,574の半分である。出雲、すでに有名なエリアになっているのにこんな感じ。
邪馬台国は九州なのは間違いないでしょう
問題はヤマト政権との関連で畿内が無視できないこと
遷都もしくは勢力拡大のために移動して落ち着いたのが畿内じゃないかな
九州に上陸してからの水行が問題でしょう。
当時あった河が干上がったと考えられていて、
干上がるような河は狭くそんなところ行く船も小さい船でしょう。
よって水行の距離はそんなに進まない。
また邪馬台国=大和朝廷と考える人が居るが、
邪馬台国=ヤマタイコクと発音しないのでこの説は無駄。
全国式内社分布図を見ると、驚くほど少ない筑前、筑後、豊前、豊後、周防、安芸。
これも説明を要する現象だね。
神社とは何か?古墳と比べると面白いかも。
船便が瀬戸内海を通っててあれを川と勘違いした可能性もありなん
あそこ狭くて海流地味にすげえし
ヤマトと出雲の共通点。
どちらもその昔、空っぽの低湿地、葦原で、あまり人が住んでいない。遺跡でもないと、虚ろな空白地帯であったと現代でも想像されがち。
なのに、立派な祭祀跡、広域ネットワークを示す遺物が出る。
この二つは、たぶん異なる文化圏の交わる要所だったことがある点で共通する特徴をもつのではないか。
ヤマトは、3世紀以前に近畿、東海、信越、中四国東部、北陸までカバーするそれだった。
出雲は、3世紀以降、4世紀くらいまで、北九州と畿内を結ぶ結節点。6世紀からは、伊勢に対置された新たな信仰的役割を担う。
ヤマトは、エアポケット過ぎて、河内、京、近江遷都を招き、やがて交通の軸から外れた、地域丸ごと正倉院状態になる。出雲も瀬戸内海航路だけに人、モノの流れが偏し、日本海航路も若狭に取られ、虚ろを取戻す。
※348
謎を解く鍵は、そもそも神社、なかんづく式内社が、仏教寺院の国風化に過ぎないこと。つまり、九州には旧くて壮麗な寺院、あまり思い当たらない点などにも相関している。
これらは、もちろん、ポスト古墳。
古墳代替物。
だいたい、「やまと」という単語は、固有名詞なんですかね? 一般名詞かもしれないですね
やまとの語源は、山門と言う意味らしいし、山の入口は、やまとと言うんではないでしょうか?
対の言葉があるとしたら、みなとではないかと考えられますね
みなと 水門・港・湊・水の入り口ですね
そうすると、やまとが二つ以上あってもおかしくないですね
邪馬台国との関連がどうであれ何もないところにいきなり大和朝廷が誕生するなんてミステリーは絶対に起きない
近畿地方には十分にその礎となる大国があったことは間違いないわけで、それが邪馬台国だったなら何の不思議もないし、邪馬台国とは別ものだったなら記述に残ってないだけで色んな勢力があったというだけ
むしろ近畿に邪馬台国がなかった場合は急に日本の歴史から邪馬台国は消失したことになるから、実は大した勢力ではなかったということになる
はよ更新すれ
というか普通に岡山、徳島、島根、鳥取の何処かだぞ。
海を移動する記述がある事から九州から移動したとして島根と鳥取が微妙になる。
そして大和と対立もしくは互角かそれ以上の「国」があった場所と過去の地名を含めれば
岡山(吉備)となる。吉備は古代の文献が悉く消され吉備の繁栄ののちに大和の繁栄がある。
魏志倭人伝に載るレベル=日本でも有数のはずなのになぜかわからないのはその後「敗者」である為。
中央と同等な古墳が大和の権力が高まった時期で尚作れてる古代吉備が邪馬台国だろう。
地名や遺跡もそれを示しているが九州説や近畿説を唱える能力はないけど権威はある人たちにゆがめられてるだけだよ。九州か機内のどちらかなら既にわかってないとおかしいからね。
九州と畿内はない。畿内でそうだと言われて祭られてるものとかもこっそり岡山とかにもあるんだぞ。
邪馬台国は大和朝廷に負けた国、畿内のその前の覇者よ。
邪馬台国論争には、神武東征が付き物。
日本の物語空間の特性から言えること
。
南方進出に日本人南方起源説が随伴。満洲進出に日本人北方起源説が随伴。
神武東征(東遷)では、日向、最南端岬まで起点に仕立てられている。
つまり、九州熊襲制覇の裏返しの可能性。
素朴な疑問
九州から東北の八幡平までどうやって行ったの??
当時の気候は寒冷期だったとのことだが
海岸線への影響はどうなのだろうか
沖積平野も土砂の堆積は後世ほどではないかもしれないし
海面は今より数メートル~数十メートル高かったみたいよ
海沿いの平野部はだいたい海
国譲りの出雲(島根)大国主 天叢雲剣スサノウ(草薙の剣ヤマトタケル)
伊勢(三重)斎宮 いつきのみや ひめみこ
イヨ・トヨ・ヒミコ
イザナキ・イザナミの高天原(宮崎)三重と宮崎は地形が似てる?
倭の五王(讃・珍・済・興・武)武がタケル?
ヤマトタケル国(邪馬台国) 倭→和→大和
魏志倭人伝は3世紀後半、倭の五王の時代は4~5世紀、漢字伝来
後漢は3世紀初頭までだが、中国では周の時代にはすでに文字があった。
それなのに、なぜ「漢」字として伝わったのか謎。秦字や魏字・晋字とはならなかった。
謎だらけの古墳時代。埴輪かわいいよハニワ
支那でも漢字と呼んでますがな。字体が統合整理されたのが、漢代だから。あと、漢民族の誕生に連動した民族文化運動だから。国民形成と言語との関連は、漢代にスタートが切られ、それ以前と以後で周辺地域との関わり方も変わる。地球が太陽との幸福な距離にたまたまあったように、日本は、独自の歴史を紡ぐに、支那と適当な距離にあったなあ、と偲べるのも、魏志倭人伝の意義。
出雲大社の創建は、7世紀末の伊勢神宮とあまり変わらず、8世紀。今世紀になって発掘された巨大神殿を支えた宇豆柱も13世紀のものにすぎない。8世紀、日本書紀成立に合わせ、意宇郡から国司が出雲に何年も出向し、創建に携わったようだ。
あれは、ディズニーランドのような装置だった。つまり、官製建国物語の具現化、3Dビジョン。神宮建築、大社建築は、8世紀時点における「古代」建築のイメージを壮麗に表現した和風の粋。
なぜ、出雲か?
陰陽道の影響と、邪馬台国とは異なる独特な文化的、交易中心を形成していた古代投馬国の南限だったからではなかろうか。
荒神谷遺跡は、大社建設のために、伝世の宝器を埋納した、比較的新しい遺跡なのかも知れない。
※360-361
そもそも古代はどこも「漢字」なんて名前で呼ばずにただ「文字」か「字」だよ
何故なら東アジアでは「文字」=「漢字」なので改めて名前付ける必要が無かったから
例えば隋書での倭国の描写だと「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字」
(文字は無く木を刻むか縄を結んでたが、百済に仏典を貰ってから文字を使い始めた)
日本は平安中期頃から本格的に平/片仮名が整備され始めて区別する必要が出来たので
「仮名」に対して「漢字」=「その文字を呼ぶ真の名」=「真名(まな)」と呼んでた
「漢字」と呼び出すのは、10世紀前後の宋代に独自文字使う周辺民族が台頭し始めて、
中国側でも区別する必要が出て来て「漢代に成立した文字」=「漢字」と称してからで、
日本では12世紀頃に禅宗が盛んになった際に渡来僧が持ち込んだ表現として定着した
※323
南だと言いながらほぼ真っ直ぐに東に向かって進んでるのにその論調は無いだろう
強引だが奴国から急に方向音痴になって蛇行し始めたと仮定しても鹿児島を超えちゃうぐらいなのに
水行20日を海路以外の意味に受け取るのも無理だし、九州内だけは絶対ありえない記述
素直に受け取れば少なくとも畿内までは到達する時間が経過しているので
俺も皇族の先祖は九州から来ていると考えているけど、邪馬台国の時代にはとっくに九州にはいなかったと考えないと無理がある部分が多すぎる
※347
ネットの有象無象の書き込みだけじゃなく、本読めバカ
海路といっているのが瀬戸内海で、近畿圏に通じるってのが妥当なのでは?
水の確保が初期国家において重要な発展要素だったことは、古今東西の文明において判明している
インダス、黄河、エジプト、メソポタミア すべて主流河川沿いの文明。
日本で真っ先に文明が発展する河川と考えると、琵琶湖からの瀬田川沿いとなるはず。 それ以外の河川は干ばつ時には飢え死にするレベルなので文明発展には厳しい。
日本の邪馬台国は、近畿圏にあったが、すでに各年代の遺構によって覆われて痕跡を見ることが出来ないってのが妥当だろうねぇ。 ギリシャなんかも同じで掘れば掘るほど古い遺跡が出てくるので、自分がらするギリシャ・ローマ時代なんてのも、ギリシャの長い歴史からすると最近なんだよね。
てことで、地政学的な文明論からすると日本有数の古代国家は京都~大阪の淀川周辺にあったというのが定石でしょうね。 古代人からすると地中海の航路は海を渡っていたと記録するのでは? しっぱいし、魚は海のものばかりだし、中国~朝鮮の沿岸地区と似たような景色だしね。
そろそろ更新しないかなあ
はやく続きが読みたい!
ここのコメントで何一つ考古学的な証拠が出てこないな。
妄想って楽しいよなぁ…。
ここのコメント以外の考古学的証拠を一つでもお願いしますわ
本当は邪馬台国なんか存在しなかったと言う可能性はないのでしょうか
疑似倭人伝の記述そのものがいい加減だったとか
>>366
地政学的な文明論?なにそれ?
大河流域以外の文明もあるのに。
そらまあ、国の位置を正確に把握されるわけにはいかないからね。
使節をわざとあちこち引っ張り回したんだよ。
卑弥呼の最後は 「以てタヒす」 これは○殺と思われる
もしそうならば箸墓古墳の由来と一致する
邪馬台国が謎のままなのは、この国の成り立ちとして古事記・日本書紀から続く、日本創世のアイデンティティが揺らぐ事実が秘されているから・・・。
この可能性が極めて高い。
だからこそ、古墳の発掘の許可が下りない。
天孫降臨 ➡ 日本国外からの侵略国家が樹立。
神武東征 ➡ 侵略され国家滅亡。一部の落ち武者が東にかろうじて逃亡し、新たに建国。
客観的に見て資料の中からでも、この2点は容易に想像できる。
>>374
そんなの関係ないし、邪馬台国だけを秘密にしておけば隠しておけるようなことじゃない
充分な証拠が積み上がらないからに過ぎない。
弥生時代の大和へのルートは、日本海側から琵琶湖経由がメイン。次が同じく日本海側航路で加古川由良川ラインからの陸路。
残念ながら、瀬戸内海は弥生時代の技術レベルでは、部分的、または、漂流などは別として航行不能という前提を置くと、なにか見えてくる。
ざっと読んで※325が面白いと思った。
邪馬台国が日本じゃないなら、
古事記・日本書紀に記述が無く、魏志倭人伝の不可解な記述も全部説明がつく。
考古学的な証拠が何一つ提示できないようであるから、私から。
2007年の発掘出土した4世紀後半の巣山古墳の「喪船」。
これ、なんと準構造船である。
では喪船とは何ぞや?
古事記の仲哀記に曰く
「是に息長帯日賣の命(神功皇后)、倭に還り上ります時、人の心疑はしきに因りて、喪船を一つ具へて、御子をその船に載せて、先ず「御子は既に崩りましぬ。」と言ひ漏らさしむ。」
あるいは隋書倭国伝
「死者は、斂むるに棺槨を以てし、親賓は屍について歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴人は三年、外に殯し、庶人は日を卜して痤む。葬に及んでは、屍を船上に置き、陸地でこれを牽くに、あるいは小轝を以てす。」
エジプトのピラミッドなどにある魂を運ぶ船ではなく、実際に遺体を棺に入れて運んだ船なのである。
伊勢神宮の遷宮に伴う最も大事な中核儀式に「遷御」がある。そこの登場するのも船である。
御樋代を納める御船代。一説には東遷の反復儀礼、擬きであるとも言われる。
古墳を継承したのが神社様式だとして、これらの船が象徴するのは、神武東遷のオマージュではないか?神武東遷は、大和への武力侵攻である以上に、卑弥呼の威光を移植する「宗教改革」であるとの認識が必要だ。
大和に古墳時代を開始させた「何か」こそ、卑弥呼の死であり、副葬文化、副葬品の魏鏡は、前方後円墳様式ともども、北九州瀬戸内連合がもたらしたものという推定が立つ。
>>378
何を言いたいのかを明確にする文章力が必要なんだなと思いました
※377
邪馬台国が日本じゃなかったり創作だと考える専門家は一人もいない
不可解な記述というが、現実の日本との一致が多すぎて偶然とすると更に不可解になってしまう
急に水行が日数になったのが不自然だと言う人がいるが
当時の舟の進み具合なんて海流で全然変わってしまうからな
朝鮮半島やその近くの島までは距離を把握しようという試みが執られたが
一度送られただけ使者が、自国のテリトリーの完全に外の日本列島で長距離の把握はできないだろう
途中から日数の記録になったのは不自然でも何でもない
北九州に小国が密集していたのに対して、中国地方から東は国と国の距離が大きかったのだとすれば
統一が進んで大国化していた畿内や出雲と、まだ細分化したままの九州の構図を示している事になる
旁国が20ほどもあるから、有力国以外は省略している感じでは?
考古学的見地からだと、日本海側の但馬、丹後は、出雲東部と並んで鉄器の先進地帯。大和は反対に永らく青銅器と訣別できなかった。出石市の袴狭遺跡からは、外洋航海大船団の図も古墳時代前期に現れるが、弥生時代から朝鮮出半島に鉄を求めて往還していた。
対抗して、大和が行ったのは、立派な巨大銅鐸を窓口となる国に贈ることぐらいだった。かくして畿内系の後期銅鐸が西播磨や山崎、鳥取の青谷上寺地遺跡などから出土することになる。
瀬戸内海航路が存在しなかった傍証である。
大川隆法センセの霊言芸でも、卑弥呼は邪馬台国の場所を教えてくれませんからw
※379
トンデモ説なのでどうでもいいのだが、※378再説。
卑弥呼の女王国(邪馬台国ではない)=北九州説前提+東遷史実立場での話。
卑弥呼死後、亡骸を殯(もがり)に付し、塚を築いた場所は北九州ではない。ヤマトであるという妄想。
卑弥呼亡き後、狗奴国に苦戦を強いられた女王国は、台与を推戴し、同時にその取り巻きが、ヤマトへの東遷を企てる。豊後(トヨの地)あたりから、遺体を喪舟に載せて航行するのである。
瀬戸内海を喪舟が行くイメージは仲哀記でおなじみだ。
随所に帰されるまで継続された葬送行事、つまり、殯の後になぜ遺体を船に載せるのか?実はこれが古墳時代の伝統になった最初も、卑弥呼の葬送がきっかけだったとするのである。
武力侵攻ではなく、むしろ、ヤマトへの瀬戸内海航路の提供(山陰勢力への対抗)という実利面と、卑弥呼という超有名人の送り儀礼を伴う宗教改革をヤマトにもたらすことで、※383に言う青銅器文明で行き詰ったヤマトに打開の道を導きいれたのが東遷であると言う新説である。
この記憶は古墳時代を通じて繰り返し再演されるが、古墳時代終焉後も、伊勢神宮の最重要行事「遷御」にも痕跡をとどめる。
巣山古墳の喪舟の出土の意味は、このように説明可能であるかもしれないとうこと。もちろん、研究者がこぞって喪舟だといい始めただけで証拠は無い。喪舟と記されているわけじゃあるまいし・・・
今まで不可能であった瀬戸内海航路を拓いたいきなりの技術的裏づけがどこにあったか?
ここで張政一派に登場してもらうのである。台与の取り巻きの重要な一角を占めたのがシナ人では面白くないだろうが、不自然ではない。
×随所に帰されるまで
○隋書に記されるまで
伊勢神宮の権禰宜の吉川竜実氏の見解では、遷宮の折、御樋代を納めた御船代を厳かに送る儀式がイメージしているのは、「天孫降臨」に外ならず、その反復再演だとする。
私は、東遷であるとする。
AはBである、なぜなら~
もしくは
どうのこうのでうんたらかんたら、よってAはBである
長文ほどこのような書き方をしないと相手には伝わりませんよ
教えるのが下手な大学の教授の講義みたいだといえばわかってもらえるかな
いや、それ以前に、大多数の日本人、記紀を知らないんだから、無理だろ。
※385 東遷であって東征ではなかった可能性はありえそう。武力侵攻ではなく、畿内にも大きなメリットのある出来事だったかも、というのは初見。
※380
邪馬台国は、温暖な土地で無加工の布を巻いただけで生活してたんでしょ、それも一重。
日本で、布一枚、半裸で生活できる時期なんて限られてるし(当時の技術じゃ大した布も作れんでしょ)、
日本列島は九州でも冬場は平均気温が6度台になってしまうし、雪も降るし積もる。
人間は10度を下回れば、一重じゃ寒くて生活できないよ。
現代でも酔っ払いが冬に凍死する。しかも当時、小氷河期だったんでしょ。
「(邪馬台国の)土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている」
雪の積もる冬に生野菜食べるかね?、暖房がある現代でも普通加工しない?、鍋とか炒めたり…。
それにこの文章は、文脈から考えて、前部を補強しているのだろう。
じゃないと唐突に生野菜の話が出てきておかしい。
要するに「冬でも生野菜を常食するほど暖かい土地だった」ということを言っているのだろう。
これ本当に日本のことなの?
邪馬台国は大和国の当て字だろうに、周辺国は低い身分と言うので
卑下する字を使ってた
※390
それ、生野菜じゃなく刺身と結果がでた
冬夏食生菜との文で「生のまま食べる菜(おかず)」ととらえ
魚の切身、木の実、果物を食していたと考察されてる
纏向遺跡から魚の骨、種が出土したから間違いない
※385
日本は島国なんだし、水行何日とか書いてあるんだから、確かに古代船については、ちゃんと考察すべきだな。
失敗した民博の実験航海は、3万年前を想定だから古すぎだが、野生号実験とかもあったし。日数も半端なくかかり、結途中牽引したりしてごまかしたりしてすら、半島までは想像以上に結構大変なんだなってオチだった。
邪馬台国の人間って入れ墨してたんだろ?
田川とか飯塚の筑豊には入れ墨した怖いおじさんがいっぱいいるぞ
これが最も有力な証拠。
※392
菜・・・普通は古代中国でも野菜でしょ
果物は取り立てて生食をめずらしがらないだろう
魚の骨が出た=刺身とは限るまい
結果が出たってそんなに確証あるか?
間違いないってほどか?
海南島など、南方系の描写に類似した叙述混入が目立つのは指摘されてきたが、舞台丸ごと意図的、政治的南方偏移なのだから当然。
刺青や貫頭衣習俗は正しそうだが、北部九州の冬は山陰北陸と大差ない。今と同じで冬は寒い。
なお当時は小氷期でもない。
場所が分からないのはファンタジー小説だから
※395
横槍だけど、中国語で菜は野菜とは限らないよ
中国菜で中国料理の意味だし、日本だって今でもメインディッシュのことを主菜と書くでしょ
確証あるのかなんて言い出したら全ての話に確証はないからその反論は暴論
元の文献が中国語で書かれたものなのだから、菜=野菜じゃなく菜=食事ととらえる方が理にかなうはず
いやいや、どっちにしたって「刺身」と結果が出たっておかしいだろ
おかずなら獣肉も入るじゃないか
断言したり確証だとか結果だとか言っていることに対してそれは変だと言っているまででしょ
※395は
安易にゼッタイとか言うなって意味だよ
反論が暴論とか言っているところからしても、同じような言い切りトーンだから横槍かどうかも「?」だけどね
※398
君は392を否定しているその口で395では野菜だと言い切ってるじゃないですか
「安易に絶対とか言うな」とは正しい指摘だけど392がそこまでの断定した書き方をしてるようにも思えない
刺身ときくと現代のお皿に盛られた刺身を想像して変に思うけど要は生魚を食していたということを言ってるのでしょ
もちろん生魚とは限らずに獣肉を生食していたのかもしれないし生野菜かもしれないから、魚に限定するなという意見なら賛成だよ
でも君も野菜限定かのような書き方をしてるよね
だからそれはたぶん違うと思いますよと書いたのだけど、同一人物のなりすましまで疑うなら菜=野菜ももう少し疑ってみてはどうでしょう
中国語の菜の意味についてもどうぞご自分で調べてみてください
※395
山陰北陸と変わらないなら、
11月・12月・1月・2月・3月・4月は布一枚巻いただけじゃ生活できないよねぇ。(山陰北陸は4月でも雪が降るし)
そもそも、そんな気候を取り立てて「温暖」とか表現するだろうか?
「食生菜」が刺身・果物という意味限定なら、なんか文章が繋がってないような気がする。
温暖な気候である――(なぜなら)―→冬も夏も生野菜を食べている(し裸足だ)
↑はおかしくないけど、↓だと変じゃないかな…シベリアだろうが沖縄だろうが刺身と果物は生で食べるし。
温暖な気候である――(なぜなら)―→冬も夏も刺身・果物を食べている(し裸足だ)
邪馬台国は本当に日本なのかな・・・。
更新が遅いからコメント欄でケンカが始まってるじゃないかい
三角縁神獣鏡についてもコメントお願いします
狗邪韓国~対馬国、対馬国~一大国、一大国~末廬国
これらはみな「渡一海千餘里(海を1000余里渡る)」
しかし現在の朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北岸に当てはめると距離にばらつきがある
古代において海上で日をまたぐということはしないからそれぞれにかかった日数は一日
つまり「千餘里」というのは「一日で移動した(と思われる)距離」からの逆算
さかのぼって帯方国から狗邪韓国までは「七千餘里」つまり七日かかった
この日数を合算すれば「水行十日」となり
「水行十日陸行一月」を帯方郡からの日数であると考えれば邪馬台国の所在は九州以外にはない
日本書紀には「日本此耶麻騰云」=「日本これヤマトという」とあるらしいが、当時は充て字が多いから他の字も充てられただろう。
中国の「邪馬台国」もヤマトの可能性である事は否定しがたい。
※402
三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に「239年に魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡を100枚下賜した」という記述があって、邪馬台国の手がかりとされてきたが、日本から400枚以上出土しているが中国からは一切出ていないので、日本産と考えられるのが普通になった。
大阪の高槻市にある今城塚古墳の(近年、継体天皇陵と推測され始めた)近くの古墳からは
魏の明帝時代の年号である「青龍」3年=西暦235の年号が入った銅鏡が5枚出土している。
これが卑弥呼に贈られた鏡の一部である可能性は高いと思われるので、畿内に邪馬台国があった可能性は高い。
ただ継体天皇は6世紀前半の天皇であるので、どういう経緯で鏡を入手したのかの解明は難しいだろう。
レガリア的なものは、伝世品多いから、埋納時期が制作年代と無関係になりがちで推定はムズそう。
ただ、なぜ景初3年の銘の三角縁神獣鏡鏡や、銘こそないが似たデザインの三角縁神獣鏡が、支配層の古墳に大量に副葬されたのか?国産であっても意味がありそう。
卑弥呼にあやかろうとする強い意思を感じてしまう。
100枚じゃ足りないほど、魏鏡への需要があったとか。
中国最古の現存料理本、6世紀の済民要術に、蔵生菜法が説かれている。すべて、野菜、キノコ類で、魚や肉などない。副食を彩の意をこめて菜と呼びならわし始めたのがいつかは断言できないが、語源からして野菜、野草が「普通」は、菜。古代に遡れば遡る程ね。
大和国だろうな
皇族が中国に朝貢してたと認められないので明らかにならないだけ
>地名は言葉の化石
私が住む地域には古事記由来の地名があります。『霧積』や『吾妻』などがあり、日本全国に地名として伝わっています。
近年の発掘調査により日本から世界最古のものが多く出土しています。岩宿遺跡の磨製石器は3万年前、大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)の土器は16500年前、高度な加工技術が見られる垣ノ島B遺跡の漆製品は9000年前で糸魚川のヒスイは6000年前です。物的証拠から日本は世界の文明発祥の地であったとさえ推定できます。
教科書に出ている邪馬台国の卑弥呼、実は物的証拠はゼロであり外国の魏志倭人伝にでているだけのもの。古事記や日本書紀に由来するものは、日本各地の地名、日本語の言葉、伝統行事そして物的証拠まで含めて数限りなく残っているのにその内容は教科書にありません。歴史が学問でなく政治になっている状況です。
星新一だったか何だったかで、
古代の役人が出張費水増しの為にデタラメ書いたってショートショートがあった
アレは面白かったわ
※390
当時の支那人が把握していた華北や満洲の冬と比較したら当然日本は冬でも驚くほど温暖な国となる
それが人の口を経て多少大袈裟に伝わったのかもしれない
その程度の些事で、他の類似点を無視して日本国外にする方がナンセンス
※340
弥生人が九州から東遷したのは事実だと思うが、
三国志の時代にはもう畿内にいないとその後のヤマト王権には間に合わない。
中国や四国あたりでギリギリ。九州はないよ。
卑弥呼=日巫女でしょ。
太陽はどこからでも見れるんだし宮崎にこだわる必要はゼロ。
正しい場所が記されてなかったとすると彼らは報告はしたが大和に侵略させたくないという気持ちがあったのかもしれない
※412
縄文時代から船での移動は普通に行われている。
多くの時代において、九州から畿内への移動手段の主流は船だからな。
中国・四国あたりは陸路を行くことが少ない。
徐福がなぜ東を目指したのでしょうか、たぶん倭国の裕福な平和な情報が届いていたのでは
ないのでしょうか、つまりかなり発達していた文明国家がすでにあったと考えられます、だから
互いの国家で外交として行き来があったのは事実、古墳から見れば畿内でしょうねー
邪馬台国もなかったし卑弥呼なんていなかった。魏志倭人伝なる書物より古事記の記述を研究すべき。
近年の考古学の成果は、昔から日本列島には人が住んでいて「日本人はどこから来た」って発想から訂正すべきですね。
大和王朝と邪馬台国を比較するから、初めから両者を同一の朝廷と考えたくなりますよね?
そこでまず、二つの朝廷をとりあえず分けて考えて見ます
近畿地方の朝廷を、仮に「神武朝」
場所が不明の朝廷を、仮に「卑弥呼朝」と呼んでみるのはいかがでしょうか?
上手く説明できなければ両者は同じ朝廷でありますし、
上手く説明できれば両者は別々の朝廷というこに成りますね
邪馬台国は無かったことにしたい奴って何なの。ネトウヨ?
※417
失礼、なにを「うまく説明」?
この時期、国家は体をなしてはおらず、朝廷らしきものもなし。実在を信じていいかなとされる応神、仁徳も、プレ国家段階だと思われる。
大和朝廷に間に合う合わぬ議論が、2回ほどこのレスに提議されたが、近年、古墳時代は、まだ朝廷とは呼ばず、朝廷と呼べるのは6世紀末、飛鳥あたりからだ。慌てることはない。
コメント欄は「思う」だけだな。
自分の頭の中の仮説をあたかも事実のように捉えて、それに合致したもののみを認めてる。
ここでコメントしている人たちは、似非科学や宗教に騙される人たちに「違いない」と「思う」
蒼天航路大好き(蒼天航路じゃない画像貼りながら)
※420
当たり前。想像の共同体作りだもん。近代国家だってそうなんだから、科学がなんの下僕でしかありえないかも、「想像」しよう。
まあ、レスごときは実は頭の体操なんだろうけど、プロは、真実という名の神話請負人だから。
騙される、騙されないで言えば、かっちりした事実に科学をもってすればたどり着くという素朴な科学信奉もやばいね。それ以前にAならBとか単純明快、明晰な因果律信者も心配になる。教科書みたいにはっきり覚えるべきことだけを教えてよとか、曖昧なことが嫌いであったり、不安であったりする傾向も要注意。
真実は一つ、そして必ずあるという信念自体、真実を誰かかが隠しているとか、妨害しているとか言う妄念に陥りやすい。
脳のお遊戯と割り切ってゆるっと流せない方が、一見しっかりとして見える「確かなもの」に騙される。
※420
寧ろその使い方だと、
ここでコメントしている人たちは、似非科学や宗教に騙される人たちに「違いない」と「私は期待する」
この方が事実に有って無いかい?
決定的物証が出ない限り全てが推測
それが考古学だろ
「思う」も「違いない」もそればかりになるのが当たり前なのになに言ってんだか
南と東間違えてた説
>>426
いくら古代でも日が出る方向を間違えるか?
※418
卑弥呼も邪馬台国も伝承も物的証拠もなし。
記紀の「地名は言葉の化石」である地名は多数存在、物的証拠も。
よって 記紀>>>「魏志倭人伝」
記紀に卑弥呼も邪馬台国も記述無し
よって卑弥呼も邪馬台国も無かったってことなんだが…
※416
オキクルミの神話じゃないんだから。
日本人が日本列島で自然発生したわけじゃあるまい。
※428
魏志は丸ごと否定かね。
※430
記述がいい加減、もしくは間違い
明らかに実際の地形と一致しない
丸ごと肯定できないのも事実ですよ
※431
・・・笑
日本列島の南北が逆の地図 (ソースは昔の本)
1 「海内華夷図」・・・8世紀 唐の時代
2 「石刻華夷図」・・・12世紀 南宋の時代
3 「声教広被図」・・・13世紀 元の時代
4 「混一疆理図」・・・14世紀 明の時代
5 「混一疆理歴代国都之図」・・・15世紀 明の時代(1402年朝鮮で作成 龍谷大学に現存)
列島全体が南にずれているので 倭人伝の「その道里を計るに 正に会稽と東冶の東にあるべし」と合致する
※429
人類がアフリカで自然発生したってのも否定ってことでよろしいか?
※434の内容が分からないのですが、どなたか解読していただけませんか?
聖書の記述が正しいということなのでしょうか?
人類の自然発生というのを猿からの進化だとして、それが起きたのがアフリカではない
もしくはアフリカだけとは限らないということを言いたいのかもしれないけどこの手の書き込みは賢さアピールをするたいして賢くない人の匂いもするからよくわからんよね
※436さん
ありがとうございます。
※416は日本人がアフリカ大陸とユーラシア大陸を経ずに日本列島で直接進化したと主張し、
※429はその説を否定し、
※434(※416と同一人物か?)は人類発祥がアフリカという説を否定したってことですね!
もしくは※434は自然発生自体否定したいのかもしれませんね。人類を創造主の創造物か宇宙人と考えているのであれば納得のコメント内容ですね。
話が世界スケール&人類発祥まで壮大なスケールになってきたなw
なんで神が生み出した日本列島に隼人や東夷なんかの先住民がいるんだろうな。
明らかに神話おかしいよな…。
東遷に拘る連中ガイルからややこしくなるんだろ・・・
東遷が事実なら発祥地の九州と現代の終着点・東京の正当性が増す。という訳で邪馬台国九州派は関東閥と九州閥のサンドウィッチタッグで古都近畿をイジメてるんだな。維新志士どもが九州人なのも大きい。実に政治的だ。
羅針盤をもたない旅人が方位を把握することは極めて困難、という大航海以前の常識を見れば答えはすでに出ている。
昔から日本の都は奈良やねんV。
記紀では神功皇后によっての三韓親征、朝鮮半島の多くが日本の支配下になった。これは広開土王碑にもあり、また百済では前方後円墳が発掘されていることで物的にも証明されている。考古学においても世界最古の磨製石器や、漆製品では9000年前の大平山元I遺跡や6000年前の鳥浜貝塚遺跡、そして古代においては金よりも高価であった糸魚川の翡翠製品が日本の多くの地方のみならず、支那にも輸出されている。これらの物的証拠があるにもかかわらず脚光を浴びることなく、全く物的証拠の無い卑弥呼や邪馬台国論争は歴史というより政治の問題なのでは?
最近韓国で日本最古よりも古い水田が発見されたし、最古だなんだは発掘の進展ですぐに塗り変わるからそれ前提に理論構築なんかしちゃダメ。韓国は考古学やる経済的余裕ができたのつい最近だからね。中国はまだまだ。業者は無視して家建てる。北とか学問の概念があるかすら不明。石器時代は半草原でそうとう人が居ただろうにな勿体ない
>最近韓国で日本最古よりも古い水田が発見された
ぐぐっても出てこないから詳細を教えて欲しい
もしくは遺跡名なり地名なりずばりヒットする検索ワードを教えて欲しい
※442-443
ちょっとぐぐってみたら慶尚南道蔚山、オクキョン遺跡という名称が掲示板サイト等に散見された
具体的にどのようなものかはわからなかった
神功皇后が実在した証拠なんか何処にも無いぞネトウヨ
古代文書に書かれている人物が存在しなかったと証明するのは、ほとんど難しいですよ
実在が証明できるわけではありませんが、不在証明もまた難しいのですね
※445
神功皇后の由来とされる地名などは近畿各地にあるけどな。
※446
中学生かな?
これから学問を学んでいくと思うけどきちんと理解できるようになろうね
※448
そういう物言いが不必要なやりとりを増やすことになる
言いたいことがあるならはっきりと書くべき
書かないのは書けないのと同じで、つまりバカと同じ
※440
東遷に拘るストリートファイター?
※440
奈良って百済の言葉で「クニ」のことだろ?
百済だって読み方は「クンナラ」、偉大な国って意味だし。
つまり奈良は百済よりあとに整備された都市で九州や出雲より後に発展した場所じゃないのかな?
※451
>百済の言葉で
資料が殆ど存在しない百済語・高句麗語をソースに何かを語ること自体NG
>>451
君が新しい町をつくったとしてそこの名前をマチにするかな?
しないよね、つまりそういうこと
他言語で似た発音の言葉なんて探せばいくらでもあるから関係ないよ
一応通説をウィキペディアから
日本語における呼称クダラについては『図書寮本類聚名義抄』(1081年)に「久太良」とあり、この「太」は清音のタを表わすことから本来はクタラであって、クダラと濁るのは後世の訛りであることがわかる。
クダラの語源については諸説がある。
鮎貝房之進の説では弁韓12国の中の古淳是国を現在の晋州だとした上で、晋州の古地名「居陀」に由来するという。
白鳥庫吉の説では百済の上古音[pak-tsan]の転訛という[注釈 2]。
李寧煕の説では「大いなる国」を意味する朝鮮語「큰 나라 (クンナラ)」に由来するという[1]。
他にもいろいろな説があるが、いずれの説も問題点を抱えており、これぞ定説といえるものは今のところ存在していない。
日本語の数詞、3(みっつ)5(いつつ)7(ななつ)は高句麗語と一致してるんだろ
あと村(マウル)、里(サト)といった言葉も朝鮮語と似ている
ウリナラとかのウリ(我々)も、日本語のウチ(内、家)ウジ(氏)などと同系
※414
個人が旅行するだけならそれでいいけど、
国自体が他所を制圧して勢力圏を広げて遷都までするのはそういうわけにはいかんだろ
※419
大和朝廷なんて誰も言ってない
ヤマト王権っていう畿内を中心としたデカい勢力が3世紀後半には登場してる
※451
「平たくすること」を「ならす」っていうだろ。
「平」城京との関係が指摘されてる。
ということで百済とは残念ながらたぶん関係ないけど、
平城京なんてものは奈良の歴史の中では比較的新しいのは事実。
纒向や藤原京などそれよりも古代のヤマトの中心地は
南の方にある桜井市あたりで、奈良市とは結構位置が違う。
朝鮮語のナラは、もともと川(ナ)と川の間という意味を持つ。
都市や国というものは、川に「ならされた」肥沃な沖積平野に発生しやすい。
百済の「済」という字もそういう意味も持つ。(百は“大きい”の意味)
メソポタミア文明のメソポタミアも「川の間の土地」を意味する。
※460
・川=ナって本当なの?ググったけど出てこない
・「親戚の友達の先輩」レベルのこじつけ
・奈良は沖積平野じゃなくて盆地だし大きな川もない
・というか古代大和は「奈良」とは関係ないって言ってんの
・自国に当時の記録がないこと。
・古事記や日本書記などの後年にまとめられた記録は、大化以前の記録はかなり怪しいこと。
特に推古以前の天皇はおめでたい干支にあわせて、後付けで誕生年決めてるから
記録に齟齬が出ているため、正確な年代がわかりにくい。
・天皇陵などの発掘調査がまったく行われていないこと。
・基本、東方王朝やウガヤ王朝など別系統天皇の説が全面否定されるため、
多面的な歴史考察が基本、できない。
まあ、正確な場所は無理だろ。
偉い学者様が「ここ」って断定して権威でねじふせたらそうなりそうだけどね。
※461
「古代の地名における言語の多様性」でググれ
奈良盆地は近代まで川だらけの泥沼湿地帯だった
462
考古学的には巻向でほぼ確定してるぞ。
九州説なんてもうほとんど息してない。
※463
反論になってない
※463
反論になってない
沖積平野がーとか言ってたくせになに勝手に単語変えてんだよw
※466
お前こそ全く反論になってない
うろたえて二回も書き込むな
百済語・高句麗語・朝鮮語って??ウリナラファンタジーw半島は万年属国の地、文明も文化も無し
百済で前方後円墳の遺跡発掘も日本より約2世紀遅れのため、都合が悪くて埋め戻しってのが朝鮮人の発想。コメントが工作員ばかりって感じになってるんだが…
今の日本語と大昔の日本語では読み方が違ったり意味が違ったりするでしょ
違ってることや変わってることがわかるのも日本には古い書物がたくさん残っていてそれを研究しているから
一方、百済の言葉なんて基本的にはよくわかってない
中国の文献によると百済と高句麗は同じ言語を話してるといった記載がある程度
あくまで近代の朝鮮語での解釈をしてる
だから百済語ではこうだったというソース自体にソースが必要なレベル
なんだネトウヨかよ
相手して損すた
※467
逃げるなよ
※467
・川=ナって本当なの?ググったけど出てこない
→これは解決した(そのサイトが正しければだが)
・「親戚の友達の先輩」レベルのこじつけ
→広い心で許してやるわ
・奈良は沖積平野じゃなくて盆地だし大きな川もない
→大きな川はないけど小さな川はあるということで広い心で許してやるわ
→よく見たら平城山(ならやま)っていう丘陵地帯だからやっぱちょっとだめだわ
・というか古代大和は「奈良」とは関係ないって言ってんの
→反論まだ?明治までは大和国であって、「奈良」は平城京のあるあそこだけだからね
※472
・川=ナって本当なの?ググったけど出てこない
→これは解決した(そのサイトが正しければだが)
謝罪して首吊って死ねよ
・奈良は沖積平野じゃなくて盆地だし大きな川もない
日本大百科全書(ニッポニカ)
奈良盆地
奈良県北西部にある構造盆地。面積約300平方キロメートル。南北に長い長方形で、肥沃(ひよく)な沖積層に覆われ、盆地底の標高は40~80メートルである。東方は春日(かすが)断層崖(がい)によって盆地と画される大和(やまと)高原、西方は大阪平野との間に断層地形の特徴を示す生駒(いこま)・金剛(こんごう)山地が南北に走り、北方は京都盆地と境をなす奈良山丘陵、南方は低山性の竜門山地など四周を青垣の山々に囲まれる。面積は県全体の8%にすぎないが、平坦(へいたん)で肥沃な沖積層は水田耕作に適し、古代は平城京などが造営され政治・文化の中心であった。
確かに、前前から思っていたが
日本に元々住んでたのが古モンゴロイドのD2系統だとすると、日本語とアイヌ語が全く連続性のない言語なのがおかしいよな?
となると現日本語はやはり渡来系、おそらく百済人を源流とする言語なんだろうか。
東征伝説もそれが雛形だろう。
宮崎出身とか合理性なさすぎて吹くwけど、朝鮮半島出身でさらに韓族の建国伝説、白頭山から始祖が来たとういう伝承なら意味がやっと繋がる。
※460
朝鮮語は新羅の言語の延長で百済の言語とはほとんど無関係なのでは
百済も馬韓の「伯済」が起源だとしたら百の字も済の字も邪馬台同様当て字で意味を持たないのでは
朝鮮語のナ(川?)、百済の「済」、奈良の「奈」、無関係な物を同列に扱ってしまってる
※475
韓族とは新羅→高麗→朝鮮系の民族のこと?
満州から出た高句麗とは別系統ですよね
白頭山の建国伝説の初出は三国遺事(13世紀)で日本の記紀(8世紀)よりも後
白頭山自体も李氏朝鮮時代になるまで韓族の領土ではなく
旧高句麗領の領有を正当化したいため白頭山を舞台としただけなのでは
※473
ググっても出てこないから聞いただけだぞ
なにを謝罪するんだよ
※474
→よく見たら平城山(ならやま)っていう丘陵地帯だからやっぱちょっとだめだわ
・というか古代大和は「奈良」とは関係ないって言ってんの
→反論まだ?明治までは大和国であって、「奈良」は平城京のあるあそこだけだからね
※475
一般的に縄文人と弥生人という分け方があって、弥生人が渡来人だとして、その渡来人がどこから来たかという話なら朝鮮半島からではないというのは昨今の研究では最早定説なんじゃないかな
稲のDNA解析でも中国南部沿岸地域から直接日本に入ってきたことがわかってる
渡来人が百済人でその百済人が日本語の源流になるほどの勢力を日本で築いたとするのはかなり無理があるというか、願望以外の根拠があるならぜひとも知りたいくらいですよ
※475
アイヌ語と共通する部分もあるらしいよ
もちろん中国や朝鮮ともあるだろうけども
弥生の稲は朝鮮と中国両方から入ってきたのが定説だったはず。
朝鮮と日本のイネには共通のDNA部がある以上、どっちが先でどっちが後というのは水掛け論いじょうにはなりえない。
政治的な理由で朝鮮とは無関係と言い張りたい人間が拡大解釈してるだけだろう。
日本語と朝鮮語は「膠着語」
アイヌ語は旧大陸では非常に珍しい「抱合語」
中国語は完全なる「孤立語」
※446
よっぽど悔しかったんだな
※449に現れてる
邪馬台国人と魏人が通訳なしで話ができたとするなら少なくとも支配層は魏語(今だと何語だろ?北京語?)が話せたんだろうか?
それとも楽浪郡や帯方郡の人が通訳したのかな?大陸語→朝鮮半島語(高句麗語?)→古代日本語?
日本海側では古代から大陸と交易してた(遺跡の出土品より)から通訳もいたと思うんだよね。
卑弥呼の親世代は中国南部に住んでた倭人という説もあるくらいだし。
それと卑弥呼が魏から金印をもらっても他のクニや地域が魏を知らなかったら権威付けにならないから、古代は大分グローバルな世界だったと思う。
※481
日本と韓国と中国の稲のDNAを調査するといくつか種類があるのだけど、中国にしかないもの、中国と日本にはあるけど韓国にはないもの、がある
これは中国から半島に稲作が伝わりそれが日本にも伝わったとするルートが事実とは違うことを意味する
そもそも半島の気候では当時の稲は寒くて育たないので中国北部から地続きで半島を南下してきたと考えるのもおかしな話
日本の方が古い稲や耕作地後が見つかっていることからも半島→日本ではなく、日本→半島ではないかというのが現在の説だよ
※485
違うぞ。
「日本韓国どちらにもあるもの」「日本にしかなく韓国にないもの」「韓国にしかなく日本にないもの」の3パターンがある。(もちろん中国には全種ある)
全体の品種数としては韓国の方が多い。韓国に欠けてる種は寒さに弱いとされてるDNA.
半島は寒いってのも語弊がある話で全体平均すりゃそうだけども、南西部は暖流が直撃してるので日本の山陰なんかよりは暖かい。
山東半島から目と鼻の先だわな。
※481
君のおうちに地球儀はあるかな?緯度は分かるかな?
是非当時の農耕技術を調べながら水田跡の発掘状況を白地図に記入してみて欲しい。
当時の平均気温が分かるとなおいいぞ。現代との違いに驚くと思うよ。
それと当時の海岸線や君の出身民族の遺跡なんかも一緒に記入してみてごらん?
あとは黒曜石や鏡や金属製の出土品も調べてみるといい。
きっと君も古代ファンになってくれるはずだ。
DNAの分析の結果はその後見るといいよ。毎年のように新しい発見があって君のこれからの人生を豊かにしてくれるはずさ。
マジでタイムマシンできないかなぁ…。それか朝鮮半島でまともな発掘ができないかなぁ…。
統一でも中国の併合でも何でもいいからさぁ…。これ以上ナショナリズムで研究が邪魔されるの困るんだよねぇ…。
三韓があった地域は昔から稲作できるぞ
できなかったのは北部大部分の高句麗とかが支配してた所
農作できない不毛の地だから騎馬民が支配してたんだぞ
別に韓が弱かったから高句麗に押し込められてたワケじゃあない
※488
だから中国北部→半島北部→半島南部というような稲作の伝播はありえないってこと
半島に稲作が伝わったのも海路であると考える方が自然
中国南部から海路で日本に伝わった時に半島にも同時に伝わったか、日本から半島に伝わったかになる
種籾もって移動するだけなら寒冷地なんてすぐ越えられる
なんで通り道ぜんぶで水田作ってかなくちゃならない仮定なのか意味不明
危険度の極めて高い外洋に漕ぎ出す前に、情報のある程度ある陸の行けるとこまで行くのが普通の発想だ
台湾が近代まで手付かずだったように大陸の人間にとって海はとても恐ろしい世界
種籾持つのは農民ぐらいで、わざわざ寒冷地なんて行きたいと思わんだろうし、経由したいとも思わないだろう。
農民が耕地を求めて移動する時は、稲作出来る所を移動すると思うが。
※490
中国北部でも稲は育たないんだぞ
長江周辺からどんどん寒い方に向かって種籾もってってどうすんの
それにね、少し前までは研究家たちも陸路の方がたやすかったはずと根拠なしに思い込んでただけなのよ
ヒトのDNA解析で人類のルーツや移動がどう行われたかなんて図を君も見たことがあるだろ
稲のDNA解析でわかることにも色々あってそれを否定するにはきっとこうだったはずだなんてものでは無理
起業と同じだよ
「投資」と「リターン」そして最重要なのは「情報」
陸伝いなら「一度北に行ったあと南のほうに陸が続いてるよ、あったかいらしいよ」程度の話は入ってきて当然
なら目端の利く若い男がまず少数で視察して、あら稲作できそうってなったら資本もってる連中に話通してGOサイン
海で日本まで漕ぎ出すってのも起業原理は同じだが
外洋船を用意するコストや遥か黄海を隔てた先の情報量が陸伝いの半島とは比較にならんことぐらい現代人でも分かる
そもそも東シナ海直通ルートが先行するほど容易なんなら、倭国は魏なんかより呉とのほうが活発に結びついてなきゃおかしいw
魏の使節の通ったルートが答えでしょ
海か陸か、ヒトも稲もなぜ一つのルートのみに限定しなきゃならないんだ
複数のルートで伝わったりとか、いったん滅びて再興したりした可能性とかを無視してないか
白か黒かみたいな議論してると真実を見落としたりはしないか
邪馬台国の場所だってそう
※494
定期的に交易を行っていたなら容易なルートの方がいいけど、交易によって稲が流入したとは限らない
なによりDNA解析の考察での話だし、日本には陸稲なら6000年前、水稲は3000年前まで遡れる
現在の朝鮮人と日本人がDNA的に関連がないという科学考証を疑わないでしょ?
それと同じように稲作の伝播は半島からではないというのが現在の主流
韓国は認めてないみたいだけど半島からだとする根拠はいつものように願望に近いものしかないよ
朝鮮人と日本人のDNAに関連がないなんて聞いたこともない学説だな。。
日本人の4割程度に大陸朝鮮とは隔絶したD2系統が見られるってだけで、それは縄文系の話。
渡来人の遺伝子と推測される残りの6割はほぼ朝鮮人と同じ遺伝子だよ。江南のほうがより近いなんて事もない。
「一部に日本独自系統がある」って話を「全く韓国人とは無関係ww」って広めてるのはネットでよくある言説だな。
※497
朝鮮人が日本に渡来した弥生人だなんてことを言う人もいるでしょ
でも少なくとも今現在朝鮮半島にいる朝鮮人の先祖が日本人のルーツであるということはない
それはDNAからわかることで、関連がないというのはそういうことだよ
すべての原因は、魏志倭人伝にこだわりすぎていることだと思う。
明治期に統合されて消えた神社なんかを調べれば、よい手がかりが出てきそうな気がするのだが。
※499
今も全国に残る8万以上ある神社、その中には記紀由来のものも多くあります。地元にある大きな神社はご祭神が日本武尊や健経津主命(国譲りに由来)であり記紀の記述を裏付けるものです。
※497
江南の方が近いよ
その証拠に日本人と南部中国人は酒に弱いが、朝鮮人は酒に強い
弥生人は呉越民で、そこから稲作がダイレクトに来たのがわかる。
※482
日本語とアイヌ語は語順は似てるらしいよ
※495
可能性を否定はしないけど物証がないものは説得力にかける
江南地方→台湾→沖縄→高天原=宮崎・高千穂
弥生人=朝鮮半島出身だったら
宮崎じゃなく福岡に来るはずだもんな
※476
ナラ(奈良、平)はどう見ても百済の熊津(クマナリ、コマナル)や高句麗の平壌と同系の言葉
※505
言葉が同系であることを証明するには奈良だけでなくもっと多くの語彙が共通していることを示さないと
百済や高句麗の言葉は現存してなくて当時の人名地名で痕跡を探るしかないのでほぼ不可能に思えるけど
※505
→よく見たら平城山(ならやま)っていう丘陵地帯だからやっぱちょっとだめだわ
・というか古代大和は「奈良」とは関係ないって言ってんの
→反論まだ?明治までは大和国であって、「奈良」は平城京のあるあそこだけだからね
※501
分子人類学シロウトか?
酒の強弱(ADH遺伝子)のように表現型に差が出る遺伝子は祖集団比定には使えないよ。
使えるのはY染色体ハプロみたいな「環境中立的」な、要するに毒にも薬にもならない変異。
下戸遺伝子はhomoだと少量の飲酒で生死に直結する。
ここまで強力な淘汰圧にさらされる遺伝子は短期間に文化(飲酒の多寡・必要性)要因で大きく間引かれるor増やされるからその存在比は同祖の指標には用いられない。
肌色の濃さと同じ。メラニン色素量は環境圧で速やかに淘汰適応されるから「同祖」集団より「同環境」集団が似通ってくる。しかもかなり短期間で。
朝鮮がなぜ深酒強要文化になったのかはまた別の話。
※504
残念ながら台湾原住民は日本人や沖縄人と遺伝的に完全に断絶してるから
そのルートは現在では否定されてる
南方ルートを取るなら、近くにあり降雨も気温も十分な台湾島をまったく触れずにスルーして沖縄に行くっていう不自然すぎる行動を取らなくちゃならないな
※501
>下戸遺伝子はhomoだと少量の飲酒で生死に直結する。
>ここまで強力な淘汰圧にさらされる遺伝子は短期間に文化(飲酒の多寡・必要性)要因>で大きく間引かれるor増やされるからその存在比は同祖の指標には用いられない。
無理矢理ですねえw
少量に酒で生死に直結なんて、酒はトリカブトじゃないんだから
環境なんて関係ないよ
◯※508
×※501
だった…
※509
台湾原住の首狩族に狩られて絶滅したんじゃないの?
これに関しては、民族も王朝も変わっておらず、少なくとも他民族よりウソが少なく、隠す必要性もない日本の記紀をもう少し信じてもいいんじゃない?
※510
本当に酒弱いやつ見たことないの?
日本人の半数いる「少し弱い」やつじゃないよ?(それはヘテロ接合)
1滴で顔赤くなるし1杯も呑めば死に関わる
※514
日本人の大多数じゃない人の話はどうでも良いんじゃない?
1杯で死に関わるなんて表現をするから変な誤解を与えるんだよ
それで死ぬならその民族は死んでるよ
下戸遺伝子といわれるものがあってこれはモンゴロイドの特徴の一つ
日本人だと約半数が酒に弱く、4%か5%ほどは全く飲めない
この遺伝子の分布を見ると中国江南地域と日本に多い
日本の中での分布だと関西と中国地方に多くて、これが弥生人の影響によるものだとすると
ここでも議論されてるように中国から海路で渡来した弥生人が主に中国地方及び近畿圏で土着したのかもねって推測はできる
北海道東北九州は酒に強くて、縄文人の特徴が強い地域と重なってる
都合よく解釈しすぎな気がしないでもないけど面白くはある
肌の色と同じは明らかに例えとしてスベってるよね
日本と中国南部の環境の一致点って具体的になんだよ
そしてそれ以外の東アジアとの違いはなんだよ
※510
昭和20年12月15日にGHQの4大教育指令の最後の神道指令が出され、古事記など素晴らしい日本の歴史と文化を教えることを禁止しました。天照大御神の岩戸隠れ由来で神楽やしめ縄、鳥居、戸隠など現在にも脈々と伝わっています。記紀由来のものが数多くあるにもかかわらず、GHQの指令で現在の日本人の記憶から消そうとしてきたわけですが、SNSの普及で多くの国民が知るところとなりました。ここのコメント蘭も消したい工作員がわんさかいて必死です、最早無駄な抵抗って感じ。卑弥呼や邪馬台国由来のものは現在の日本には皆無なのが現実です。
※510 ×
※513 〇
※518
邪馬台国=橿原
卑弥呼の墓=箸墓
※520
妄想乙
卑弥呼の墓は箸墓古墳と習ったが相違はないだろう。まあ箸墓でないというのであれば畿内説は勢力を落とすだろうな。
※522
>卑弥呼の墓は箸墓古墳と習ったが
妄想乙
くれ‐はとり【呉織】(ハトリはハタオリの約)広辞苑第六版より引用
大和政権に仕えた渡来系の機織はたおり技術者。雄略天皇の時代に中国の呉から渡来したという
呉とヤマト政権が古墳時代から関係がある事ははっきりしているらしい。
※521、卑弥呼の墓=箸墓の可能性がある事は、多くの考古学者が指摘しているぞ。
はしはか‐こふん【箸墓古墳】広辞苑第六版より引用
奈良県桜井市箸中にある最古の前方後円墳の一つ。墳長約280メートル。後円部の直径約160メートル。葺石や最古の埴輪があり、3世紀中葉から後半の築造とされる。崇神紀に倭迹迹日百襲姫命やまとととびももそひめのみことの墓とする伝説があり、卑弥呼の墓とする説もある。
ネトウヨに学問は通用しない
戦後GHQの4大教育指令の中で約20万人が公職追放され、学問的な研究をする学者たちの後任にイデオロギー優先の人が就いた。昭和22年の教育基本法で日本側が示した「教育の目的」を「真理の探究と人格の完成」と定めた要綱案に対しGHQは「真理の探究」を削除した。また「普遍的にしてしかも個性ゆたかな伝統を尊重して、しかも創造的な文化をめざす教育」を「伝統を尊重して」が削除され「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」に変えられた。今日の学者と称する人達は「真理の探究」より「イデオロギー優先」であり、数多くの地名の由来や伝承や物的証拠があるにも拘らず、記紀という「伝統を尊重して」いるものは都合が悪いわけだ。そして物的証拠が無いにも拘らず支那のまた聞きや孫引きを引用して邪馬台国の「畿内説」や「北九州説」を70年も続けているということである。
邪馬台国畿内説への反論はもう完全論破されてるからほぼ決まりだよ
全部ゴッドハンドでしたとかでもない限り無理
※527
イデオロギー優先はお前だろが
※527
この人のコメントをたどってみたけど古事記も日本書紀も原文で読んでなくね?
※428
古事記と日本書紀に記述がなければ全て嘘って…
※527
古事記と日本書紀の記述の違いや矛盾はどうするの?
どっちが正しいの?
※428
邪馬台国は北九州と日本書紀に。なのになぜ論争するのか?
>古事記と日本書紀に記述がなければ全て嘘って…
記紀>>>魏志倭人伝ってことなんだが…
>古事記と日本書紀の記述の違いや矛盾はどうするの?どっちが正しいの?
きたーって感じ、ある部分の矛盾を指摘して全否定ってやつw処女懐胎で誕生のキリストも否定するパターンなのに、なぜかダブスタなんだよね
※527
天地開闢から違うけど。
国産みの順番が違うのはなぜ?
イザナミの黄泉における表現が日本書紀の異説と古事記が同じで本説だと違んだが。
高天原なの?天つ国なの?
黄泉は地下なの?別世界なの?
タカミムスビと天照大神の関係はどう解釈すればいいのか。
別にそれぞれ間違ってるとは言わないけど、「記・紀」として一緒にするのはいかがなものかと思うよ。
>>534
>古事記と日本書紀の記述の違いや矛盾はどうするの?どっちが正しいの?
これが全否定になるとは思わないけど、全否定なんだろうか
それともこの一文をそのように捉えて解釈することが古事記と日本書紀をマスターできる条件なのか
悩む
※534
日本書紀が正しいなら邪馬台国は北九州で決着じゃないか。
米534
最初は処女懐胎はとなえられてないだろ?
今の聖書になる前の聖書も読もうぜ!死海文書とか弟子たちの書とか。
その例を出すなら仏陀誕生を引き合いに出せよ
※515.517
初めから朝鮮≠日本って決めてかかってるネトウヨには馬耳だと思うが
集団の内一部の劣勢homoであろうと生存に不適格な遺伝子持ちが淘汰されるなら全体の遺伝子比率が数十代でおおきく変わるのは高校生物レベルでも習うだろ。。さすがにこれにインネンつけるレベルならもうお手上げ。
朝鮮と江南の違い?それはだから文化的要因だって言ってる。おそらく飲酒が耐寒に重要なのと無関係ではないだろうさ。逆に熱帯地域はたとえ飲酒適応遺伝子であろうとイスラムみたいに酒に頼らない文化が多いな。
言いたいことは肌色と完全に同じってんじゃなくて、遺伝子のうち表現型(実際の生理反応)に関わってくる遺伝子の比率なんかは祖集団を辿る道具には使われないってことだよ。これは分子生物学の常識。
使われるのは実際の生き死にには「まったく」無関係な変異部分。言ってる意味分かるか?程度の問題じゃねーぞ。ていど問題にするとお前さんみたいに「○○による有利不利なんて大したことねーよw」とか主観でゴチャゴチャ俺様判断するやつが出てくるからな。
朝鮮と無関係だって言いたいんなら表現型に依らない常染色体の遺伝子比率で弥生=江南≠朝鮮って示す遺伝子でも捜してこいってんだ。そんなもんあるならな。事実ならソッコーで見つかるわ
記紀を「学校教育で事実として教えろ!」とか言ってる人らて、アメリカで進化論否定して聖書の天地創造教えろ!言ってる原理主義者と全く同じだよな・・・
どこの国でもこういう無教養な人って一定数いるんだねぇ・・・
まだ日本は敗戦でカルト洗脳が一回クリアされたからマシか
それでも70年も経ちゃ
おかしなのがまた湧いてくる・・・
※539
ネトウヨという言葉を用いる時点で君自身の考察にも正常じゃないバイアスがかかってると思われて当然だとは思わない?
わざわざそういうディスり方を入れいと話をできないの?
君の意見は弥生人=朝鮮人なのか、当時朝鮮半島にいた人なのかはわからないけど半島から来たということに拘ってるのかな?
それともとにかく色んなことに反論をしたい人なのかな
>生存に不適格な遺伝子持ちが淘汰
下戸なんて生存に不適格でもなんでもないだろ
飲めないなら飲まなきゃいいんだからw
>朝鮮と江南の違い?それはだから文化的要因だって言ってる。おそらく飲酒が耐寒に重要なのと無関係ではないだろうさ
「おそらく」「だろうさ」うーん、苦しいネw
中国の下戸遺伝子分布図を見ればわかるが、福建省あたりを爆心地として放射状に分布してて、緯度はそんなに関係ないんだよ。日本もそうで、「北国」にあたる石川県が下戸遺伝子発現率トップクラスだったりするし。
542
こういう俺様判断するやつが出てくるから学問として「生理反応に関わる」遺伝子の比率は用いられないって何度言ったら分かるのか。ハァ
もう頭から結論決めてかかってるから何言ってもイチャモン揚げ足とんだろ
だからネトウヨって言ったんだ
無関係な541には悪かったね
ネトウヨは学問ゴッコなんかせずにマンガでも読んでろ
※543
俺541だけど結局君は何を言いたいのかという質問には答えてくれないんだね
弥生渡来人がどこから来たのかという科学的結論は出ていない
イネDNAにしても人DNAにしても
一部のトピックを拡大解釈して「江南から来たのでキマリ!」と豪語してる人は酷士サマと思って間違いない
なぜ愛国の人が朝鮮NO!で江南OK^^の観念を広く持っているのかは良く分からんが
愛国だの国士だの持ち出すことが科学的でない
科学的検証により半島伝来の陸路ルート説はどんどんうすくなり、
明確にどこからかはともかく海路ルート説が主流になってる
それを否定して半島に拘ってるのは韓国の学者くらいで、その根拠が脆弱だから主流ではなくなったという現実をちゃんと見つめるべき
日本のイネ発掘がどんどん古いの発見されてるって、そりゃ発掘技術の進展ってことでしょ。日本の考古学技術が周辺国に比べて進んでるのは大変結構なことだが、日本が技術進展で時代を遡れたのなら同様の技術進展で韓国北朝鮮も古代更新できると考えるのが普通ではないか。ならば相対比較においては同じ程度の原始的発掘であった高度経済成長以前の発見で比べるのが妥当というものだ。絶対的な年代水準で日本の考古学がどんどん遡ってるのはそりゃ結構なこと。だがそれは自国内だけの考古学熱に留めておけ。その技術優位を歴史的な優位にまで拡張、「勝った勝ったw」の連呼でマウントポジションを取るのは歴史の弱さから来るコンプレックス丸見えでとてもみっともないから。
543
「下戸は死ぬ」「寒いところは死んでも酒を飲む」とかいう俺様判断を頭から決めてかかってゴリ押ししてるから「いやいやw」って言われてるだけだぞ
546
ネトウヨは江南もノーなんじゃないの?まーお前の中で、ネトウヨ、国士様、酒を飲めなくても北の方の人間は酒飲んで自殺する、っていうのが確定しちゃってるんだろうけど
反論できなくなって、「あいつはネトウヨw!だからノーカン」で逃げ切りを図ろうというのはみっともないよ…
江南地方には倭人も住んでたよ。
同じく朝鮮半島南部にも倭人は住んでたよ。
逆に北海道と東北には倭人の住んでなかった地域もあるよ。
沖縄の人を倭人に入れないとすれば沖縄にも倭人はいなかったよ。
今の日本列島=当時の倭人の活動範囲ではないよ。
↑コメ欄が記事の趣旨とずれてきてないかな
ネトウヨとか半島とかもうお腹いっぱい
邪馬台国について楽しく語ろうよ
※548
本当に発掘技術のせいなの?怪しいなあ。
そもそも北朝鮮はともかく韓国とはそんなに技術レベル変わらないでしょ。
でもここほんの10年15年で日本の考古学年代が劇的に古くなっていってるのは事実でしょ
箸墓も含め
新発見が相次いでるしね
いずれは邪馬台国の遺跡も発掘されると思うよ
日本だけじゃないけど例えば警察の鑑識技術が上がって確かな証拠能力として採用されるようになってる
人間のDNA解析だって昔の科学技術では特定できなかったことが今の技術で再検査したら特定できて犯人が捕まったor誤認逮捕だったみたいなことがあるでしょ
それと同じで昔に発見されてる出土品でも調査しなおして改めて分かることがあるってこと
DNA解析は単品だけじゃなくで色んなとこの分布も調べないといけないから日本だけでどれだけ調べてもダメだしね
あとは炭素年代測定の鑑定結果がちゃんと採用されるようになったのも大きいでしょうね
発掘技術の発展じゃなくて単純に科学力向上によるものだよ
でもそれは韓国中国も同じだと思うんだけど
※537
邪馬台国のことなんか書いてないだろ
邪馬台国なかったってのは悪魔の証明で不可能。
邪馬台国が畿内か北九州にあったって希望的観測も、発掘技術の発展にも拘らず物的証拠ゼロで魏志倭人伝といういい加減な記録のみ。記紀由来のものは数多く存在するが邪馬台国や卑弥呼の記述無し。まして支那の遺跡は外国の研究者を受け入れ拒否し韓国は鑑定すると捏造発覚、日本の遺跡は謎の放火事件。何をかいわんや!
※557
中国は古いものはしっかりと古い
稲だって日本は6000年だけど中国では7000年前のがある
韓国は日本より古ければ公表するし、違うなら公表しない
本当は調べてると思うけど科学的根拠なしに語ってるときはたぶん何かウソついてる
うん、つまり科学技術の問題ではないと
日本の稲作は半島を経由していないでファイナルアンサー
555
されたんだよ
畿内で出た鏡が中国から貰ったやつだと判明した
魏志倭人伝に書かれてるでかい国が時代的に橿原一帯だとわかった
※558
記紀を読め
※563
読んだけど書いてなかったよ
※562
時期ちがくなかったっけ?年代測定やりなおしたの?それとも新発見?どの遺跡のこと?
まだ住居跡見つかっていないよね?
魏に献上したものと同じものが発掘されてないはずだけど、全て魏に持ってっちゃったのかな?
それとも見つかった?
(北九州で作られたものは魏の遺跡でも発掘されてる。それが邪馬台国からの献上品かどうかは定かではないが、間違いなく北九州と魏は交流があった)
弥生時代(祭祀跡)と古墳時代(前方後円墳)との連続性がなくない?突然高度な都市なのは他で栄えた氏族が移動してきたんだと思うんだけど。
これらも発掘が進んで住居跡や都市の連続性と卑弥呼の墓が見つかるといいなあ。
※564
また独自解釈で記紀を否定するやつか
まさに、きたーって感じ
※566
書いてるところさっくり書けばいいのに書けないんだね
※562
鏡ってこれのこと?
”奈良県黒塚古墳でも三角縁神獣鏡の大量副葬例があり、被葬者にとって三角縁神獣鏡はそれほど珍しくないものであったことが伺われる。”
565
箸墓っていう大規模古墳があの時代のものだということがわかった
当然周辺に人がいたということに
魏に献上したものって何?丹か?畿内周辺でそんなものいくらでも採れるけど
畿内周辺で発掘される鏡が中国からのものだと最近わかって、
学会では畿内説への反論が一切不可能になってる
※567
日本書紀の編纂者は卑弥呼を神功皇后として記述してるからな
崇神天皇から数えて4代あとの仲哀天皇の后、神功皇后のところで、治世39年に、分註として
・・・・『魏志』によると、景初3年6月、倭の女王は使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという・・・・
として記述してる。
誰もが知っている通り神功皇后は、北九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、自ら政治を行う。
仲哀天皇は熊襲征伐を行い、まず、豊浦津に泊まり、穴門豊浦宮を建て、筑紫の伊都県主の先祖で五十迹手が穴門の引島に迎えにくる。五十迹手の本国を名付けて伊蘇国(伊都国)とした。
灘県に着き、橿日宮に入りなくなった。その後、神功皇后が天皇に代わって政治を引き継いだ。
日本書紀の編纂が行われたころはまだ邪馬台国の記録があり、それは九州だと認識されていた。
それを機内の大王家の歴史とするために天皇の寿命を延ばしたりしてる。
日本書紀が魏志倭人伝に対抗するために、その関連地を一つづつ、神功皇后の実績もしは関連地として潰していっているのがよく分かる。
※569
確かに中国でも「発見」されたが「出土」してないんだよなぁ…
しかも「洛陽周辺」だけなんだよなぁ…
それって学問的には微妙でさぁ…
魏の貴族の墓に一緒に埋葬されていればいいんだけどねぇ…
>>当然周辺に人がいたということに
その証拠が発掘されないと確定とはいえないんだよなぁ…
「当然」ではなく「確実」にじゃないと…
まあ、確かにあの規模ならないとおかしんだよなぁ…、どこにあるんだ?
※570
神功皇后=卑弥呼
っていう根拠は女ってことだけ?
卑弥呼に夫はいなかったはずだが?
565
鉛丹は下賜品じゃん?
せいぜい西暦700年頃に書かれた記紀と、西暦300年頃に書かれた三国志では、古代への情報の価値が段違い。
初代神武から15代応神天皇まで、「神」の字が入ってる天皇は実在の人物じゃないからな。
議論の参考にどうぞ
神功皇后元年(西暦201年)~神功皇后69年(西暦269年)
卑弥呼(西暦175年 – 247年あるいは248年)
571
纒向遺跡
※574
つまり邪馬台国の歴史を天皇家が奪って自分たちの祖先にしたということですね
よくある話ですね
574
仁徳天皇長生きだな
576
北飛塚地区でも住居跡は発見されてないよ?炉の跡ないし。
569
箸墓古墳は前方後円墳だし建造時期が卑弥呼とずれてない?
579
大都会すぎて一般集落とちょっと違うだけで人がいたことには変わらんだろ
マンションを見て一戸建てじゃないから住居と認めないと言ってるようなもの
なんせまだ纒向は全体の一割ぐらいしか発掘されてないしね
580
ほぼ一致してると言っていいんじゃないの
※577
当時は自分で自分の歴史を書く力がなかったから後付けしただけで天皇というか畿内勢力のものであるのは変わらない
581
最初は竪穴式住居といわれてたの知ってるでしょ(112,137,138次調査)
その後、平屋か高屋のどちらかって言われてるぐらいまだ確定じゃないんだから
最初一戸建てだと思ってたらやっぱり一戸建てか二階建てかわからんってなってるのが現状でしょ
その例だとマンション(住居)かビル(商業用、祭祀用)か分からないというべき
個人的には未発掘の場所に竪穴式住居と高床式の集会所及び貯蔵庫があると思ってる
紅花の花粉が発掘されていて稲などの主食や炊事の跡が大量に出土しないのはありえない
邪馬台国が畿内で天皇家が九州発祥なら神武天皇の東征は邪馬台国征伐だな
※585
もうその頃には九州に畿内を制圧する力はないから
もっと前じゃないと無理だべ
神武東征は遥か紀元前にあった百済→畿内の征服の口伝が残ったもので
邪馬台国の時代には畿内が政治の中心
東征の出発点を宮崎なんて僻地にしたのはやっぱり朝鮮出身王朝だといろいろ外聞が悪いし、かと言って北九州にルーツがあるとか言ったらそこらの豪族が増長する可能性があるから
邪馬台と東征は無関係というのが学会の常識
・イネの種類
・下戸遺伝子分布図
から見て
弥生人=呉越地方人
よって、宮崎というのは合理的
当時の日本って誤解されてるけど、血縁関係で繋がった、かなりしっかりした国だった。中国(なかこく、Chinaでは無い)は十カ国とも呼ばれていた。十とは神を意味し、アメノトコタチ(タテ)と、クニノトコタチ(ヨコ)が、キチンと揃った国でもあった。本家筋では子供が出来なかった為に、ヒタカミ国を臨時の高天原として、根国のイザナギと、ヒタカミ国(多賀城)のイザナミを結ばせて王統を繋いでいる。この危機を救ったのは、ヒタカミ国の豊受大神。イザナギとイザナミは秀真国(筑波)で産んでいる。豊受神はアマテラスの教育係りでもあった。根国とは、元々を意味し、半島南部を含む倭国の事でもある。そしてこの根国も、ヒタカミ国も、秀真国も、全部親戚である。
従って、邪馬台国とは、当時の国々から見た時、魏国(大陸国)との異常に密接な関係性が見えて来る。ハッキリ言って別系統だと言える。これは白村江の戦い当時の、唐と密着した新羅の関係性に似ていると言える。
結論
沖縄の海に沈む海底遺跡、当時の海水面の高さを鑑みても、文明があった事は否定出来ない。
更に、争いが絶えなかったところを卑弥呼が治めたとあるが、卑弥呼が入って争いが生まれたとも取れる。又、魏志倭人伝で言う日本の東側の国とは、秀真国やヒタカミ国が該当する。そもそも日本は親戚筋で出来ていた国でもある。そこに新たな何かが加わったと言う見方が出来る。
因みに、イザナミは「隅の神」とも呼ばれる。隅に追いやられたとも取れる。スサノオも、月夜見も根国に行っている。更に豊受神は「朝日神」と言う別名がある。カミとは、そもそも火(カ)+水(ミ)で神である。片方だけではカミにはならない。しかもそれはタテとも繋がった「タテ+ヨコ」であり「十」の事でもある。三種の神器はその本当の持主を意味し、更にその三つを扱える資格は「十」に集約される。
三種の神器は、今別々にある。纏められた時期もあったが、色々あって現在は別々になっている。
口承民話の一つの特徴として「時系列がメチャクチャになる」というものがある
「太陽(日)の巫女が歌って踊って国を治めた」
「ヤマトのオロチを退治した」
「東征で建国を為した」
みたいに印象的なエピソードはよく保存されるが、それの起きた順番や時代は人を伝わるにつれ自由きままに前後入れ替わりが起こるというものだ
※588
宮崎はのんべぇだらけなんですが、それは・・・
実際には北東へ向かっていたのを「南東」と間違えて記述していたのだとすれば、その先の「水行10日(250km)」や「陸行1ヶ月(210km)」も北進したと考えるべきだろ
方向がどうであってもそれだけの日数をかけてもまだ九州から出てないのか?というツッコミが一番きついんじゃないの
九州に邪馬台国があったなら陸行1ヶ月かからないところまで海岸沿いに水行できないものなのか?
ところで九州説を唱えてる人でも、邪馬台国が移動して大和朝廷になった派と、邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた派があったと思うのだけど九州説の中での主流はいまどっちなの?
魏志倭人伝の謎の記述を善意に解釈し、記紀の謎の記述を悪意に解釈するダブルスタンダード。
悪意を感じるのが極めて少数派なのはなぜ?
※592
噴火とかがイネに悪そうだからすぐに放棄されたんじゃないの
隣に熊本や鹿児島がいる割には意外と弱いよ
587
百済が紀元前?
「記」と「紀」を編纂した目的で違う字にしてるんだから、一緒にしないでほしい。
古代の日本人が馬鹿にされてるみたい。
よし、北九州から朝鮮半島の東側に行ったことにしよう。
邪馬台国は新羅の辺りにあったことにすれば、南→北を間違えた説と距離が正しい説を一緒にできるぜ!
※596
噴火は地層に確定年代が出るからそういう誤魔化しの逃げには使えないよ
ご愁傷様
自撮り写メは綺麗綺麗に修正する必要があるが
どうでもいい他人の姿はそのままupすることが多いから。
600のコメントが魏志倭人伝なみに難解
※600
噴火が直撃したとは言ってないよ
過去の火山灰か軽石が残ってて生育に悪いとか
603
そんな所に一時的でも地所を構えるのはおかしいだろ・・・渡来人は白痴か?
突然の噴火で追い出されたでもないとイミフすぎる
一時ならしょうがないんじゃない
遠く離れた離島に初めてきたんだし
ロクに稲も育たない地を目指して命懸けの外洋航海してくる不思議な渡来人
もはや東征とかレベルじゃないドラマなのに記述は「降臨した」でオワリ?話のセレクトがめちゃくちゃ過ぎるな記紀はやっぱ信用ならん
稲が育つ地を目指したに決まってるでしょ
宮崎の地はちょっと目論見が外れただけ
イザナギが海を矛でかき混ぜて日本を作ったっていうドラマチックな記述があるではないか
どんぶらこ感があるよね
太陽が昇る場所を見てみたくなったんでしょ
無茶苦茶な記述の魏志倭人伝を信じてる奴って頭逝っちゃってる人って考えて宜しいか?
邪馬台国を何と読むかの確証がない
古い文献に読み仮名がふってあるわけじゃなし、これは現代の学者が便宜上読み方を決めてるだけ
ヤマタイ国をヤマト国とも読めるけど、それだとまんま大和朝廷になったことが自然な印象を与えるから九州説の学者はヤマタイに拘る
あとは、なんとなく弥生人が邪馬台国を築いたみたいな論調があるけどそんな確証もない
縄文人=狩猟民族という固定概念は今や古い常識だし
魏志倭人伝
・海に潜って魚や貝をとっている。
・一年中生野菜を食べている。
・長寿で百歳ぐらいまで生きる
・みんな裸足で生活している。
えー、これって日本でないわ
これを信じてる人いるのか?
607.609
なら記紀にそう書くだろ。なんで中継地がスタート地点になんだよ。わざとガイジの振りしてんのか?
邪馬台国の話に見せて.実は韓国というまがい物の国がこの頃からあったというプロパガンダに過ぎない。
この手のステマは、はい前後の日本にあふれており、未だにこのように増殖している。
これをテロといわずして何という。
落ち着けよ
スタート地=天界でしょ
宮崎は中継地にすぎない
615
だからそれなら宮崎前の話も東征と同じくらい詳細に書けるだろつってんの
宮崎前のことはぼやかすほど分からない
つまり一時逗留ではなくずっと住んでた
稲に不適な地にそんな長く住む意味がない
よって渡来=呉越民は破綻してるQED
※616
一応書いとくけど、既出の下戸遺伝子の国内分布では中国地方から関西地方にかけてが多い
九州と四国は少ない
だから下戸遺伝子を根拠に江南よりの渡来人がとする説でもその渡来人は九州には土着しなかった可能性の方が高いよ
それとは別に縄文イネの発見場所が九州だと有明海沿岸部に、本州だと岡山の瀬戸内海沿岸部に偏ってるから
そこにはかなり古くから集落があったことを示してる
616
宮崎前も宮崎後と大して変わらん程度には書いてるぞ
お前が知らんだけ
※614
日本の伝統ある歴史が余程羨ましいのでしょうね。SNSの時代、もう嘘は通用しないのに…
※616
下戸・稲の遺伝情報>>>>>>>>>[超えられない壁]>>>>>>>>未開人が書いたポエム
だからな。勘違いすんなよボケ。krすぞ。
※619
日本の伝統ある歴史=入れ墨して裸足で生野菜食って魚捕まえてる
※621
それ、魏志倭人伝に書かれてるやつw嘘だから
世界最古の磨製石器や漆製品、独自の前方後円墳、125代続く御皇室、今に続く珠玉の伝統工芸品、武士道精神、自力で植民地にならなかった唯一の有色人種、21世紀米国に次ぐノーベル賞受賞etc 枚挙にいとまがない。
嘘だとは限らないんじゃないかな
明確に否定できることでもないと思うし
それに今だって生野菜は食べるし魚も捕ってる
入れ墨だってたいていのとこで伝統的文化とうか民族的特徴として今でも普通にあるでしょ
ちなみに島国で魚を捕らない食べないなんてありえない
※622
前方後円墳とか皇室は日本列島で発生してないから
「珠玉の伝統工芸品」も陶磁器や鉄器は中国朝鮮ルーツだからな
武士道精神=権威に盲従する卑屈な奴隷精神
※622
>自力で植民地にならなかった
自力で植民地になったところなんてあるか?
きたーって感じ。
>125代続く御皇室
最初の何代かは魏志に記されている邪馬台国より古くするための神話だぞ。
2ちゃんねるのまとめ記事とそうではないこういう記事を分けてほしい。
※622
妄想乙
※624
一応、瀬田遺跡の弥生時代終末期(2世紀頃)の前方後円形の円形周溝墓が前方後円墳の原型である可能性が高い。
朝鮮半島は栄山江流域の前方後円形の墳形を持つ10数基の古墳が5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされている。
発掘したらまだ出てくるかもしれないけれど、前方後円墳に関しては日本が古い。
ちなみに九州だと宮崎県が多く、今のところ畿内と宮崎が中心らしいよ。
確認されてない県は北海道・青森県・秋田県・沖縄県ね。
※622 ×
※624 〇
酔っぱらっいw
※624
武士道精神は西洋のキリスト教の価値観がないのになぜ日本人にも倫理観があるのかという疑問から明治時代に西洋に対抗するためにできたものだぞ
倫理=権威に盲従する卑屈な奴隷精神ではない
九州説や畿内説って物的証拠がないことの証左
いい加減、魏志倭人伝って眉唾って議論になるべきなんだがw
支那人の言う事を最も信じてないのが支那人自身って事実がある
>>624
>鉄器は中国朝鮮ルーツ
人類が鉄を利用したのはいつかまだ分かってないぞ。
隕鉄の利用ならエジプト、鉄片の出土なら紀元前3300年から紀元前3000年頃のウルク遺跡、製鉄技術の普及ならアナトリアだ。
もし鉄器のルーツが中国と朝鮮半島で同時に起こったなら人類史に残る大発見だぞ。
失礼ですがお名前を教えていただけますか?ぜひ論文を読みたいです。
いずれノーベル賞を取ることでしょうし、教科書にも載りますよね!
※631
東夷伝の奴国までは物証もあるし間違いないんじゃない?
不弥国までは距離だけどその後は日数になってるのがネックだろ?
中国・二十四史の一つ「隋書」と「北史」に
「東夷の人は里数を知らない。ただ日を以って計っている」とあるから、
東夷伝は途中から倭人の伝聞を書いてるのかもね
「郡より女王國に至ること萬二千余里」
結論はちゃんと書いてあるしね
倭国大乱のあと推挙された卑弥呼は当然九州だろう
畿内の弥生時代から古墳時代の遺跡には大乱の後がない。
九州北部は卑弥呼の時代を前後に環濠が変わる。
あれだけ殺しあってたのに急に平和になって驚く。
畿内説を取ってる人に邪馬台国に行く間に吉備と出雲が出てこない理由を教えて欲しい
俺は狗奴国が邪馬台国を滅ぼし、東征し、大和朝廷を確立した説を推したい
畿内説だと
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國」と
「女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至」
の説明がしづらい
隋書倭国伝には倭の出来事として
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭」とある
この阿蘇山が今の阿蘇山だとすれば「倭」=九州となるだろう
※624
もうそういうのいいんで釣りならよそでやって
※638
倭が九州だけのことならあいつら日本のことをたいして知らなかったに等しいレベルになっちゃわないか
※635 >>畿内説を取ってる人に邪馬台国に行く間に吉備と出雲が出てこない理由を教えて欲しい
吉備は「投馬」として出ている 鞆(鞆の浦)に都があったのでトモ国 またキビの産地なのでキビ国ともいわれた 瀬戸内航路なので出雲は通らない
古事記 考霊天皇に不思議が一節がある
「オオキビツヒコ・・いわいべを据えて・・吉備の国を言向け和したまいき」
(祭祀によって吉備の国を平定した) 祭祀をしたのがキビツヒコの実姉ヤマトトドヒモモソ姫ならば 倭人伝の「鬼道につかえ よく衆を惑わす」に一致する
一旦CMです
5月2日火曜
NHKEテレ1 午後10時00分〜 午後10時45分
先人たちの底力 知恵泉
▽邪馬台国はどこにある?
古代ミステリー楽しもう・前編
※640
朝貢してた北九州しか倭と認識してなかったのかも
東夷伝には四国のことが出てこないから
倭の五王のあと倭は日本に滅ぼされたって出てくるから倭が九州で日本が九州を征服した畿内勢力って認識かもよ
>>641
なるほどねぇ。
※642
NHKは歴史を戦後一貫して数知れない捏造を繰り返してきた。
SNSの時代、ピエロであり自虐史観の元凶という存在である。
記紀は矛盾を指摘し評価を下げ、魏志倭人伝なるものは数少ない
一致点を指摘して信ぴょう性を高めるという番組構成の繰り返し。
もういい加減書物の記述は為政者に都合よくなっているという
原則を矛盾だらけの魏志倭人伝にも当てはめる時では?
>>645
為政者の都合というよりもこれもいわゆる教科書の近隣諸国条項が邪魔をしてると聞いたことがあるよ
一番の問題は半島が日本の属国だったという部分
中国の文献にもそう書いてあるけどそこを大々的に議論するのはタブー
記紀の歴史文献としての価値低下は戦後のGHQの指示の一つだったはず
要は天皇の神格化につながるものは排除せよという命令です
>>645
正史を馬鹿にしすぎ
※647
正史である記紀をバカにしてきたのがGHQでありNHKなんだが…
外国の書物である魏志倭人伝に依拠するのは愚の骨頂である。
※648
三国志は正史
>>648
日本はずっと皇室が続いてるから正史はない
648
「正史とは一つの王朝が滅びた後、次代の王朝に仕える人々が著す」ものな。
万世一系はどこに行った?
※648
帝紀と旧辞をもってこいよ
※648
魏志が記された時代に日本に文字がねぇのにどうやって日本人が日本の歴史を記録するんだよ
>>648
>外国の書物である魏志倭人伝に依拠するのは愚の骨頂である。
朝鮮半島から見たら日本書紀に日本人に朝鮮半島南部が支配されていたと書かれても納得いかないね!
と上記を書き込んでやっと朝鮮半島民族の気持ちが分かったよ。
君みたいな人間のおかげで長年の疑問が解けた、ありがとう
なんで中国と日本の歴史書の内容が朝鮮の人は信じられないのかなぁと思ってたけど、外国の書物は全面的に認められないということか…。歴史って難しいね…
外国の書物といっても当事者ではない第三国の記録というのは不必要な美化も卑下もされてないはずだから史料としては第一級なんだけどね
※655
第三国の記録というのは不必要な美化も卑下もされてないはずだから史料としては第一級って?
支那ってのはATMから偽札が出てくる国、その歴史書が一級品って頭逝っちゃってるってのが日本人の本音なんだよね。
>>656
きたーって感じ
そもそも日本書紀が対中国のために書かれた書物なんだよ
当時の最先進国が中国でそれに対抗するために日本書紀を編纂したんだから、それなら当時の日本人は頭逝っちゃってるってことになるぞ
※656
中国の文献に中国がいかに凄いか、いかに優秀かが書き綴ってあってもそれは少なからず内容を盛ってるかもしれないことを考慮するよね
でも半島南部が日本の属国で倭人が住んでるという記述が嘘ならなぜそんなことが書いてあるのか君や韓国ではどう分析してるんだい?
今でも中国人の訪日評とか読むとかなり的確だからな
日本のやった侵略は嫌いだけどそれはそれ、って感じで
逆に日本人の海外旅行は色眼鏡ありきで短期滞在は読むに値せず。数年住むとフィルターがやっと取れる
投馬国と邪馬台国への水行にも方角のズレを反映させるべきでは。
というか対馬から壱岐へ渡る時点で実際は真南じゃないからもう方角ズレてるよな。
さらに上陸後の水行は内陸の河川をクネクネ曲がりながら
海上より小さな船でゆっくり行っただろうし。
それと、帯方郡から狗邪韓国まで7000余里、女王国まで1万2000余里で
そのうち狗邪韓国~対馬国~一支国~末盧国が1000余里×3
なんだから、畿内まで行くのはどう考えても無理だろう。
かといって九州北部では近すぎるし、宮崎や熊本あたりが妥当では。
そもそも、今風に言えば安全保障上の問題から
邪馬台国側としては正確な位置を魏に把握させないようにしたんじゃないかな?
例えば、本物の邪馬台国は畿内にあったとしても
魏の使者は東遷前に国があった宮崎あたりに案内して
適当な皇女に女王の真似事をさせてお茶を濁しておいたとか。
上陸後の水行が海ではなく河川ということはありえるのかな?
日本の河川で使える船はかなり小さくなるし、下るのはいいとしても上りはどうするの?
日本の河川を上れる船が当時あったとは思えないから下り専門の使い捨て?それとも誰かが船をさらに長い時間をかけて陸を運んで戻したのか
>>29
これが全てでしょう。
中国の正史は「正しい歴史」ではなく「王朝の公式見解」だから。
>>660
むしろ安全保障上、正確な位置を教えないと意味がない。
張政が停戦に来たことを考えれば、素直に情報を開示していたハズ。
むしろ、魏国内の派閥抗争・儒教的観念などから史書に記載された情報が歪曲されていると考えるべき。
>>662
「次の」王朝による「前の」王朝の正史、な。
森博達みたいな言語学からのアプローチももっと盛んになってほしいなあ。
通説の不弥国=宇美はどうなんだろうと思う。
現存の地名との辻褄がいまいち合わないが、
「不」の字音に入声もあるからホツミ、フタミ、フチミなども考えうる。
また好古都国はヲカタで、後世の遠賀郡域(現在の遠賀郡4町と中間市、北九州市西部)と考える。
記紀にも神武天皇が東征中に岡田宮あるいは岡水門に滞在したとあり、古くから開けていたのだろう。
※641の投馬=鞆説だが、トマからトモへの変化を
奈良時代の母音調和(いわゆる有坂法則)と矛盾無く説明できるのか微妙だ。
ひとつ問題なのが好古都国の「好」や卑弥呼・卑弥弓呼の「呼」の頭子音は
奈良時代~江戸初期の日本語に無かったh音と推定されていることだ。
繰り返し使われているからには邪馬台国時代の倭人語にはh音があったのだろうが
奈良時代までに脱落し母音融合を起こすなどして消滅してしまったのかもしれない。
もしそうであれば卑弥呼=pimihaという名は奈良時代以降の日本語ではヒメに当たり、
卑弥弓呼=pimikuhaこそが真のヒミコだったということになる、かも。
>>656
「支那人の書いたコトなんだから間違ってるに決まってる」って言ってるの?
古代と現代じゃ民族だって入れ替わってるのに?
まぁ「韓国人の主張なんだから間違ってるに決まってる」って現実はあるよなぁ…
>>660
女王国…邪馬台国を盟主とする連合国家。United States of Himiko
って考えれば、
女王国からまだ先に邪馬台国があるってことになる。
サンフランシスコについた=アメリカについた、だけど首都ワシントンはまだまだ先。みたいな。
皆さんのいろいろな意見議論見ていて嗚呼すごいな皆さん勉強されているなと、まこと有意義です。ミミと出ている所があるので宮崎県北部に耳川なる川があり太平洋側にはそれはそれは不思議な所たたあるそこを南下していくと西都なる地域がありサイト古墳群ここはかなり大規模な古墳群、海沿いに日向灘があり平野も広がり内陸に進むには草原をかき分け進しかないと西都から西米良を超えていくには多少困難な所が随所あり湯前に行きつく湯前もいろいろ伝説等ありますしその地域の伝説伝承も調べるのもいいかもしれません
オカルト的アホ妄想だと
その時代の日本列島がフォッサマグナあたりでぶった切られてて南日本は6時方向に回転してたからってのがあったなw
そうすると距離的にはちょうど瀬戸内海にあたるところを水行して今で言う畿内あたりになるんだよwww
そのある意味天才的な発想力には脱帽したわ
聖書と同じで本当に解析してはいけないものなんやなあ
聖書はもうイスラエル建国までしちゃって戦争しまくってるから後戻り出来ない所まで来てるが
ヤマトと呼ばれた所以も更に昔ヤハウェの民でヤマトとなったとある
まぁ戦後の歴史編纂でGHQがコリアンを使って自虐史作ったのは有名
他国が使う俗称で国史を教えるわろえる国になったよ
※656
韓国人が漢字を読めるようになったら三国史記の内容がバレてしまうので
漢字を教えなくしてると韓国の教授が言っていた
簡単
魏志倭人伝が書かれた当時、日本を支配していたのは神功皇后。弟は日子王。
つべ→卑弥呼の真実 名前を奪われた日売子姫(日女子姫)の悲劇
コレ→卑弥呼 と 邪馬台国 の謎を教えます( 天照大御神 さま ) 神功皇后 改
そして近代に至っては、やはり都合の悪いアメリカがプロパガンダで歴史修正してしまった。
コレ→日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず
アメリカは経済戦争で先制攻撃し、真珠湾攻撃作戦日をハワイの艦隊に教えず多数の犠牲者を出してマッチポンプ式で日米戦反対の議会と米国民を「リメンバーパールハーバー」で大々的に煽って参戦まで持ち込んでる。
公文書を書き換えたりせず残っているのはエセ民主主義の韓国よりマシだが、自国の汚点そらしと戦後日本を経済植民地にしておきたかった点で利益が合致、日本にとっては同類。
プレスコードで日本支配の駒として特権民族に仕立てた理由。
っていうか、日本人って従順な子羊で愚民。支配層、一部インテリは知っていてマスコミパワーで偽装、タブー化して隠滅。
アメリカを始め当事者が書いた暴露書籍は戦後たくさん出てたが、ネットでやっと目にとまるようにw
韓国人が真実知って驚くくらい、日本人も騙されていたって言う
俺は高木彬光の説でいいと思うな。
>>28
つまんねーんだよ、オッサンのくせに情けない
四国でしょう。
大川先生の交霊本に卑弥呼があったってよ。誰か金出して買ってきて教えてくれ。俺はもったいないからそんな本買ってられない。
なぜ解らないのかって?
そりゃあ、魏の使者に国の位置を特定できないよう、わざとあちこち連れ回したからさ。
幼稚園児の文章よりひどかった内容だった。
単純に沖縄だと思う
当時の支那は、いやつい最近まで
日本列島は南に延びてると考えられてたんやで
チンギスハンの時代の地図にも日本は南に延びる列島として描かれているし
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil”:
captcha recognition of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another size-types of captchas,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? There are a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer201707
末盧国から不弥国までは高木彬光説の方が好きだわ
疆理図を見ろと言うよりは
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captchas solution of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another size-types of captchas,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? You can find a lot of demo videos about XEvil in YouTube.
Good luck!
XRumer201707
Revolutional update of SEO/SMM package “XRumer 16.0 + XEvil”:
captcha solving of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another subtypes of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM software: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? You can find a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170717
Absolutely NEW update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil”:
captcha recognition of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another size-types of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? There are a lot of impessive videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170718
Absolutely NEW update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captcha breaking of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another subtypes of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM software: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? You can find a lot of demo videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170721
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captchas breaking of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another subtypes of captchas,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? There are a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170721
Absolutely NEW update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil”:
captchas regignizing of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another categories of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? You can find a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
See you later 😉
XRumer20170721
Revolutional update of SEO/SMM package “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captchas regignizing of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another types of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? You can find a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
See you later 😉
XRumer20170721
Absolutely NEW update of SEO/SMM package “XRumer 16.0 + XEvil”:
captchas solving of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another categories of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? You can find a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170721
Absolutely NEW update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil”:
captcha solving of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another categories of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? There are a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
See you later!
XRumer20170725
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captchas recognition of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another types of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM software: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? You can find a lot of impessive videos about XEvil in YouTube.
Good luck 😉
XRumer20170725
Absolutely NEW update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captcha breaking of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another categories of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM software: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? There are a lot of impessive videos about XEvil in YouTube.
See you later!
XRumer20170725
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil 3.0”:
captchas solution of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another size-types of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM programms: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other programms.
Interested? You can find a lot of impessive videos about XEvil in YouTube.
See you later!
XRumer20170725
Revolutional update of SEO/SMM software “XRumer 16.0 + XEvil”:
captchas recognition of Google, Facebook, Bing, Hotmail, SolveMedia, Yandex,
and more than 8400 another subtypes of captcha,
with highest precision (80..100%) and highest speed (100 img per second).
You can connect XEvil 3.0 to all most popular SEO/SMM software: XRumer, GSA SER, ZennoPoster, Srapebox, Senuke, and more than 100 of other software.
Interested? There are a lot of introducing videos about XEvil in YouTube.
See you later 😉
XRumer20170725
邪馬台国の風習が琉球王朝以前の原住民そっくりなんだよな、、、刺青その他
普通に考えれば南九州辺りなんじゃじゃねぇの?
流石にもうコメントされてないのねw
支那 朝鮮 在日は永遠の敵
支 那 朝 鮮 在 日 は 永 遠 の 敵
福岡の糸島にある平原遺跡が初代卑弥呼の墓
初代卑弥呼が死んだあとの2代目卑弥呼のトヨの墓が箸墓古墳
つまり九州から東征して邪馬台国から大和政権になった。
平原遺跡の墓を「大作冢 徑百餘歩」と記された倭女王卑弥呼の墓とするには小さ過ぎる
平原は伊都国王墓と考えるのが妥当
704
糸島(平原)は伊都国だろ
邪馬台国は北部九州から水陸2ヶ月の場所にあるんだぞ