腹筋崩壊ニュース | あなたの知的好奇心を刺激する https://fknews-2ch.net あなたの知的好奇心を刺激する Tue, 05 May 2020 13:12:24 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.4.15 https://fknews-2ch.net/wp-content/uploads/2016/04/cropped-favicon-75x75.jpeg 腹筋崩壊ニュース | あなたの知的好奇心を刺激する https://fknews-2ch.net 32 32 むしろ、天然痘の時はどうだったのか。 https://fknews-2ch.net/archives/20200505.html https://fknews-2ch.net/archives/20200505.html?noamp=mobile#comments Tue, 05 May 2020 13:00:35 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=29342  注意!
本記事における画像の一部はあまりに刺激が強すぎるので、モザイク処理してます。
どうしても見たいという奇特な方だけクリックすること。

これまでの歴史で最も強烈なパンデミックを起こした伝染病はスペイン風邪ですが、最も長い期間に渡って人類を苦しめたのが天然痘でした。

そして同時に、よく分からんけど収束したスペイン風邪と違って、人類が真っ向から戦い完全勝利した唯一のウイルスでもあります。

天然痘ウイルス

天然痘の特徴

天然痘は、飛沫感染や接触感染で広がっていきます。

これにかかると40℃前後の高熱が出て、その3〜4日後には一旦熱が下がります。

しかしここからが怖い。

解熱と同時に、顔面を中心にやや白色の豆粒状のブツブツが発生し、全身に広がっていくのです。

つらすぎる。閲覧注意。

そしてブツブツは化膿し、再び40℃以上の高熱が発生。

天然痘によるブツブツは体の表面だけでなく、呼吸器・消化器など体の内側にも発生するので、重篤な呼吸不全等が併発して死に至るのであります。

その致死率は3050に上ります。

運が良ければ2〜3週目には治癒に向かいますが、痘痕(あばた)が消えることはありません。

なお、一度天然痘にかかった人は免疫を獲得し、二度とかかることはありません。

天然痘の起源

この恐ろしい天然痘ウイルスの起源については、やっぱり諸説あってはっきりしません。

一応の定説は、今からだいたい3500〜4500年くらい昔に、アフリカ大陸の南東部あたりで発生したというもの。

天然痘ウイルスの兄弟分にあたるウイルスはいくつかあって(猿痘、ラクダ痘、牛痘など)、その中でも最も近いDNAを持つのがラクダ痘ウイルスです。

ラクダ痘もヒトに感染して発熱やブツブツを引き起こすケースがありますが、その症状は天然痘より遥かに軽く、死に至るようなことはほとんどありません。

ラクダ痘のラクダ。当然、閲覧注意。

このラクダ痘ウイルスがやがて変異して、ヒトに対して凶悪な殺傷力を持つ天然痘になったというわけ。

で、ラクダと接点の多かった地域という観点から、アフリカ南東部というエリアが発生地として推定されているのです。

古代の天然痘

最古の天然痘患者

最古の天然痘患者と目される人物は、紀元前12世紀中頃のエジプト王ラムセス5世(在位:BC1145年〜BC1141年)と言われています。

ラムセス5世のミイラのには、あばたが確認できます。やや閲覧注意

ファラオがかかっているということは下々の人間にも蔓延していたであろうという風に想像もできますが、この時代にエジプト天然痘が流行したという記録は残っていません。

そもそも彼のあばたが天然痘によるものかの確証もないので、よく分からんというのが本当のところ。

BC5世紀以降、古代ギリシャやローマでも何度かかなり凶悪な疫病が流行った記録がありますが、どれも天然痘かもくらいの感じで、ハッキリしません。昔の文献のざっくりした記述では、麻疹や水疱瘡とかとの区別がつかないのですね。

アントニヌス帝の疫病

古代ローマ時代に、中近東に遠征した軍隊が持ち帰ってきた疫病。たぶん、天然痘か麻疹のどっちか。大穴でエボラ出血熱。

毎日2000人以上が死亡するレベル。AD165〜AD180年の15年間で累計500万人が死亡。死亡率は25〜33%。この疫病によりローマ軍は壊滅状態となりました。

ドアを叩く死の天使

キプロスの疫病

ローマ帝国における二度目の疫災。AD250〜AD266年。「アントニヌス帝の疫病」の再流行と考えられています。

ローマでは、酷い時には一日に5000人が亡くなったとされており、死者は少なくとも100万人に上りました。

これ以降も大半の記録は失われているものの、定期的に大規模な天然痘の流行があった形跡があり、天然痘ウイルスは12世紀ごろにはもう完全にヨーロッパに定着したのです。

ルネサンス期のヨーロッパでは顔にあばたの残っている人ばかりだったので、肖像画にあばたを描かないのは当然のマナーとされていました。

日本の場合

長屋王の変

7世紀初め。時の権力者は、天武天皇の孫にあたる長屋王という男でした。

しかし、それを快く思わない藤原不比等の息子達(藤原四兄弟)にハメられ、長屋王が自害に追い込まれるという事件が起きました。

これが長屋王の変

無実の罪で非業の死を遂げた長屋王は怨霊となり、日本に天然痘を大流行させたのです。

これが、735〜737年に日本を襲った天平の疫病大流行です。

200万人が命を落としたとされますが、これは当時の日本の人口の1/3にあたる数です。

主犯格の藤原四兄弟も、全員がこの天然痘により病没。

このインパクトはかなり大きく、これ以降の日本では「無実の罪で非業の死を遂げた人は怨霊になる」という信仰が確立されていきました。

ちなみにこの疫災をなんとか収集するべく建立されたのが、奈良の大仏だったりします。

新型コロナでもぜひ頑張ってほしい。

その他いろいろ

日本史において、天然痘はわりと存在感のある疫病。それほど苦しんだ人が多かったということでしょう。

以下、いくつか天然痘がらみの豆知識。

・伊達政宗の片目は、天然痘によって失明した。

これはハッタリ。

・天然痘は疱瘡神によるものと考えられていた。疱瘡神は赤色や犬・猿を嫌うという伝承があるため、赤ベコや猿ボボのような玩具が作られた

・八丈島で天然痘が流行しなかったのは、あの最強武士源為朝がいたから。と信じられている。

疱瘡神を追い払う為朝の図が、魔除で人気だった。

・「令和」で248回目の改元だが、それまでの改元のうち14回は、天然痘の大流行を抑えるために行われた。
天暦(947年)、永久(1113年)、大治(1126年)、応保(1161年)、長寛(1163年)、安元(1175年)、治承(1177年)、建永(1206年)、承元(1207年)、嘉禄(1225年)、嘉禎(1235年)、乾元(1302年)、弘和(1381年)、享徳(1452年)

天然痘、アメリカへ

もうヨーロッパではすっかり天然痘が定着し、誰かしらが必ず天然痘を発症するようになっていました。

そんな中、牛などの家畜から類似の牛痘ウイルスをもらったりして免疫を獲得する人もチラホラいて、ヨーロッパの人々はなんとなくちょっぴり天然痘への抵抗力が上がっていました。(それでも発症すれば、命に関わるのは変わりませんが。)

で、そうこうしているうちに時代は16世紀、大航海時代へと突入します。

人の移動はウイルスの格好の乗り物になってしまうわけですが、大航海時代により天然痘ウイルスは地球全体へと拡散していきました。

アメリカ大陸に天然痘は無かった

それまで、明らかにアメリカ大陸に天然痘ウイルスはいませんでした。

すなわち、アメリカ大陸先住民は、天然痘に対してまっっっっったく免疫を持っていなかったわけです。もう赤ちゃんみたいなものです。

そこに天然痘ウイルスをたっぷりまとったスペイン人が来たものだから、もう大変。

最初の接触で勝負はついてしまった

1519年、スペイン人エルナン・コルテスは最初にメキシコに上陸しますが、そこで繁栄を極めていたアステカ帝国はコルテスがどうこうの前に天然痘に対してなすすべなく蹂躙され、膨大な死者を出します。

コルテスがたった600人足らずの部下を引き連れて、数百万人の人口を擁するアステカ帝国を征服できたのは、天然痘によるものが大部分と言われています。

パイプで天然痘を治療を試みる健気なアステカ人

その後、1533年には同じくスペイン人のフランシスコ・ピサロがたった168人の兵士のみでインカ帝国を征服していますが、それもやはり天然痘によりインカ帝国の戦闘力が激減したからと考えられます。

インカ帝国では恐ろしいことに最初の感染から50年のうちに、人口の94%が亡くなっています。2000万人の民が100万人にまで激減したのです。

インディアンも勝てない

北米も同様。

イギリス人が北米へ入植し始めたのは17世紀に入ってからですが、北米の先住民族もやはり天然痘への耐性はゼロ。

その致死率は80~90%にも上ったと言われており、部族が丸ごと全滅するケースもありました。

18世紀から本格的に白人とインディアンの戦争が始まりますが、その際には天然痘患者が使用した毛布をインディアンに差し入れるなどという畜生行為も行われました。

さすがブリカスと言えよう

ワクチンという発想

最初の方でも書きましたが、天然痘は致死率の高い伝染病ですが、一度かかって生き延びられれば二度とかかることはありません。

実は、このことは古くから経験的に知られていて、古代インドや10世紀頃の中国などでは、軽症の患者の膿を乾燥させて健康な人に接種させるという予防行為が行われていました。

18世紀に入ってからこのテクニックはようやくヨーロッパやアメリカに伝わり、一定の効果を上げています。

ただ、乾燥させてウイルスを弱らせるといっても、天然痘は危険な疫病。この接種でも2%くらいの人は命を落としました。

エドワード・ジェンナー

イギリスの片田舎で開業医を営んでいたジェンナーは、牛の乳搾りなどをして牛と接することによって自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えに着目しました。

天然痘と違い、牛痘は命の危険の無い安全な病気。

ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えるかもと考え、1778年から18年にわたって研究を続けました。

牛痘を研究するジェンナー

そして1796年5月14日、ジェンナーは自分の使用人の子に牛痘を接種しました。その子は若干の発熱と不快感を訴えましたが、深刻な症状には至りませんでした。

6週間後、今後はその少年に天然痘を接種したが、少年は既に免疫を獲得しており、天然痘を発症することはありませんでした。

こうしてついに、人類は天然痘を防ぐワクチン、種痘を手に入れたのであります。

根絶の成功

実は、天然痘は恐ろしい疫病ではあるものの、根絶しやすい特徴があります。

まず、患者が見た目で分かるので隔離しやすい

そして、人から人へしか感染しない。動物は天然痘を媒介しないので、感染経路を遮断しやすいのです。

さらに、完全に予防できるワクチンがある

この3拍子を根拠に勝算ありと踏んだWHOは、1958年、ついに天然痘根絶計画へと乗り出したのです。

作戦1:全人類への種痘

WHOの最初の目論見は、地球上の全人類に種痘を行わせちゃおうというもの。

啓蒙ポスター

しかしこの作戦はすぐに躓きます。

行政や医療機関の体制が整っていない発展途上国や、インドみたいに人が密集しまくってる国ではどうしても漏れが出てしまうのです。

根絶計画がスタートしてから9年経過してもなお、南米や南アジア、アフリカなどで天然痘の流行は続いていました。

作戦2:懸賞金

このままではラチが開かないと判断したWHOは、1967年に方針を転換します。

人類全員に種痘をする前に、何はともあれまず天然痘患者を発見することに全力を注ぐことにしたのです。

そのために取った策が、天然痘患者を発見した者に賞金を与えるというキャンペーン。

これによりWHOは天然痘患者を次々に特定し、その発病1か月前から患者に接触した人々全てを対象として集中的に種痘を行ったのです。

アフリカでの種痘のようす

この作戦は目覚ましい効果を上げ、世界各国の天然痘患者はものすごい勢いで激減していきました。

方針転換した1967年の時点で、世界には天然痘の患者が1000〜1500万人いると推定されていましたが、この封じ込め作戦開始からわずか3年で西アフリカ全域、翌年には中央アフリカと南米でも根絶に成功したのであります。

当時のWHOの行動力の凄さよ。

そして根絶へ

その後も根絶計画は順調に推移し、1975年にはアジアでも根絶に成功。残る感染地域はエチオピアとソマリアを残すのみとなりました。

アジアにおける最後の自然感染患者。バングラデシュの3歳の女の子。閲覧注意。

1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されなくなり、それから3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発したのであります。

人類最後の自然感染患者。治癒後、ワクチン接種の普及に尽力した。

以上をもって天然痘ウイルスは完全に根絶され、現在ではもう自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないレベルになったのであります。

こうした経緯を見ると、伝染病との戦いには、明確な作戦目的にまっすぐ向かう行動力が大事と思い知らされます。

この頃のWHOはもう無いのでしょうか…( ´Д`)

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じゃあ、スペイン風邪の時はどうだったのか。 https://fknews-2ch.net/archives/20200501.html https://fknews-2ch.net/archives/20200501.html?noamp=mobile#comments Fri, 01 May 2020 04:00:20 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=29323 世界中で猛威を振るっている新型コロナウイルス。

年末年始ごろ武漢で起こったパンデミックのニュースは、まだ我々に取っては現実感のない人ごとの話でした。

しかしあっという間に世界に感染者が広がり、日本でも着実に感染が広がってしまっている状況。

当ブログごときがこの事態に対してできる事などありませんが、せめて皆さんの自粛期間中の暇つぶしにでもなれば幸いです。

人類史上最悪のパンデミック

新型コロナ以前にも、人類は何度となく伝染病に襲われてきました。

その中でも、人類史上最悪のパンデミックを起こしたのが、1918年に大流行したスペイン風邪でした。

その大したことなさそうな名称とはうらはらに、当時の地球人口のおよそ26%にあたる5億人が発症し、そのうち5000万〜1億人が命を落としたとされています。

死亡者数で言えば、あの悪名高いペストをも抑えて1位であります。

しかも、高齢者よりむしろ若者の方が致死率が高いという…。死者数の99%は65歳未満、そのうちのほぼ半数が20〜40歳でした。

オーストラリアなど緊急的に鎖国した一部を除き、欧米、アジア、アフリカのほぼ全ての国でパンデミックが起こり、被害が酷いところでいうと、インドでは全人口の5%(1500万人)、タヒチ島では全人口の14%、サモア諸島では何と全人口の20%が息絶えました。

アメリカでは平均寿命が12歳も下がったと言われています。

日本でも全人口の40%(2300万人)が感染し、死者は39万人に上りました。

現代でもこういうノーガードのおっさんいる

スペイン風邪が流行した1918年は、第一次世界大戦が大詰めを迎えた頃でしたが、スペイン風邪によって戦闘不能者が続出したことが戦争終結を早めた要因のひとつだったとされています。

ちなみに第一次世界大戦の戦死者がおよそ900万人。スペインかぜでの死者の1〜2割に過ぎません。

どこから始まった?

コロナと同様に、スペイン風邪もどこで最初に発生したかは諸説あってはっきりとした結論が出ていません。

しかし、最初に公式に記録された集団感染は、アメリカ合衆国カンザス州の米軍訓練キャンプでした。

1918年3月初旬のある朝、訓練キャンプのコック料理人がインフルエンザのような症状を訴え、ランチタイムにはさらに107人の兵士が同様の症状を訴えたのです。

わずか5週間後には1000人以上の兵士が感染し、最終的に47人が死亡しました。

この訓練キャンプには100万人の新兵が集る超過密な施設でしたが、まだスペイン風邪の恐ろしさを認識していない米軍は、新兵達をウイルスと一緒にヨーロッパへと派遣してしまったのでした。

うがいは大事

なぜこんなに感染拡大しちゃったのか

第一次世界大戦終結が早まったのはスペイン風邪のせいですが、スペイン風邪が世界に広がったのは第一次世界大戦のせいと考えられています。

第一次世界大戦という戦争には、いくつかの特筆すべき点があります。

塹壕戦がメイン

第一次世界大戦で目覚ましい活躍をした新兵器の一つが機関銃、そして鉄条網でした。

それまでの戦争というのは、勇猛な騎兵が突撃すればなんとかなるという素朴なもの。

死者が200〜300人も出れば、それはもう大被害という扱いだったわけです。

しかしそんな騎兵隊の突撃も鉄条網を張り巡らせ機関銃を配備した陣地に対しては無力。完全に無力なのであります。

いつものように突撃しようものなら鉄条網に引っかかり、そこでモタモタしているうちに600発/分の速度で弾丸をぶち込まれ皆殺しにされてしまうのでした。

で結局、守備側の方が圧倒的に有利なものだから、戦況は膠着状態になってしまいます。

塹壕を掘って、その中で敵の重火器から身を守る。背後に回られるとヤバいので、塹壕はどんどん横に広げざるをえない。

こうして、かの有名な西部戦線では、イギリス海峡からスイス国境まで、全長750kmにわたる塹壕が掘られました。

赤い線が西部戦線ね

これがずーーーーっと続いていく

この塹壕の辛いところは、超環境が悪いところ。

所詮は単なる溝でしかないので、雨が降れば汚水まみれの泥が溜まる。しかも、見方の兵士が密集している。

もう伝染病にかかるしかない!みたいな環境なのです。

グローバルネットワーク

もう一つ第一次世界大戦で注目したいのが、世界中から人と物資が集まってきたという点。

主な戦場はヨーロッパですが、軍需物資はそれこそ世界中から集められました。

イギリス、アメリカ、インド、オーストラリアからは兵士と軍需物資が。

中東からは石油が。

アルゼンチンからは穀物と牛肉が。

マレー半島からはゴムが。

コンゴからは銅弾丸の材料が。

その全ての物資の終着点が西部戦線で、その塹壕の中で培養されたウイルスが空の容器と共に各国へと送り返されたのです。

このグローバルネットワークのおかげで、コンゴの山奥にある銅山ですら、労働者の20%が病死したとされています。

終息

スペイン風邪の流行は、大きく分けて3波に分けられます。

第一波は、1918年春のアメリカでの流行。

アメリカ人がスペイン風邪をヨーロッパに持ち込んだ可能性が高い。この時点ではそこまで凶悪な致死性はなかったみたい。

第二波は、1918年の秋頃。

例のグローバルネットワークによる感染拡大。拡大していく中でウイルスが変異して死者が急増したのもここ。

第三波は、1919年の春から秋にかけて。

第2波と同じく世界で再流行した上、医師や看護師の感染者が多く医療崩壊を起こしてしまったため、犠牲者が増えました。

しかし、新たな感染者は徐々に減少し、1920年にはもうほぼ終息を迎えました。

なんかよく分からないけど終息

スペイン風邪が終息した理由にもまた諸説ありますが、ウイルスが変異を繰り返す中で致死性の低い株になったというのが有力です。

ウイルスはすごいスピードで変異を続けていくわけですが、致死性の高い株の宿主はわりと早く死ぬので感染が広まりにくい。

で、致死性の低い株が感染拡大していった結果として、みんなが免疫を獲得していったという仕組み。

免疫を獲得するまでに甚大な被害がありましたが、こうしてなんとなくスペイン風邪は終息したのでした。

今は医療が発達しているから、当時ほど死者を出さずに免疫が獲得できる気がしますが、これからどうなりますかね。

参考文献、サイト様
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来
史上最悪のインフルエンザ-忘れられたパンデミック 新装版 付「パンデミック・インフルエンザ研究の進歩と新たな憂い」
Why October 1918 Was America’s Deadliest Month Ever

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https://fknews-2ch.net/archives/20200501.html/feed 26
チンパンジーをナメてはいけない https://fknews-2ch.net/archives/20200428.html https://fknews-2ch.net/archives/20200428.html?noamp=mobile#comments Tue, 28 Apr 2020 12:58:20 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=29113 このスレッドは天才チンパンジー「アイちゃん」が
言語訓練のために立てたものです。

アイと研究員とのやり取りに利用するスレッドなので、
関係者以外は書きこまないで下さい。

                         霊長類研究所

5chではもう使い古されたこのコピペ。

しかし、天才チンパンジーアイちゃんがどれくらい天才なのか、その実態を知る人はそう多くはありません。

そこで今回は、アイちゃんをはじめとする世界の天才チンパンジーたちの驚くべき天才性の一端をご紹介したいと思います。

天才アイちゃん

知性の溢れ出るアイちゃん

アイちゃんは1976年10月の西アフリカ生まれの女の子。1歳の頃に京都大学霊長類研究所にやってきました。

梶原一騎「愛と誠」のヒロインにちなんで「アイ」と名付けられ、様々な教育が始まりました。

学習を続けていくうち、彼女は研究者の予想を遥かに超えて賢いことが分かっていきます。

以下、アイちゃんの凄いところ一覧。

・強制されていないのに、毎朝9時になると自発的に勉強部屋に来る。

・1歳半の時点で、身の回りの品物(コップとか靴とか手袋とか)を図形文字で言い当てられた。

・アルファベット26文字を覚えた。人やチンパンジーをキチンと区別し、それぞれの名前をアルファベットで表現できる。

・数の概念を理解し、アラビア数字を使いこなせる。

小さい順に数字を選ぶアイちゃん

・赤、橙、黄色、緑、青、紫、桃色、茶、藍、黒、白という色の名前を覚え、チンパンジーにも人間とほぼ同じ色覚があることを証明した。

・「お金」を使うことができる。クイズに答えると100円玉をもらえる実験では、その100円で自販機を利用するだけでなく、100円玉を貯金したことも。

お金を使うアイちゃん

・飼育人の様子を観察して檻の鍵を開ける方法を習得。隙を見て脱走した。ついでにオランウータンの檻も開けた。

ざっとこんなところである。

そこらの幼児に比べても、遥かに賢いのがお分かりいただけたかと思います。

しかし、そんな天才アイちゃんも、チンパンジー界においては決してトップというわけではありません。

投石のサンティノ

スウェーデンのフールヴィッツ動物園にいるサンティノくんも、その知能の高さで名高いチンパンジーです。

サンティノくん。明らかに知性がある。

彼はイタズラ好きで、趣味は動物園のお客さんへの投石です。

彼の戦略はこう。

早朝のまだ客や飼育員が来ないうちに、サンティノは檻の中の石を拾い集めておきます。

そして開園時間になり無防備な客が近づいてくると、その集めておいた石を次々に投げるのです。

このことから分かるのは、サンティノは少なくとも早朝の時点で既に、あとで自分が石を投げることを決めていて、そのために計画的な行動を取れるということ。決して行き当たりばったりで行動している訳ではないのです。

この石投げが有名になって、間も無くサンティノの檻には「サンティノに注意」という看板が立てられ、サンティノが集めておいた石に近づくとお客さんは逃げるようになりました。

ここまでなら、まあチンパンジーも多少賢いんだね、で終わる話です。

しかし、サンティノはここからがすごい

看板のせいで客がサンティノを警戒するようになったため、簡単に獲物を見つけられなくなったサンティノは、新たな戦略を考案します。

朝、サンティノは自分の寝床からベッドがわりの干し草の束を両手いっぱいに抱えてきて、何食わぬ顔で檻の端の壁=客に近い位置に敷きます。

そして、ゴキゲンを装いながら、隠し持った石をコツコツとその干し草の下に隠すのです。

開園時間になり客がちらほら見えるようになっても、サンティノはいたって涼しげな顔で石を投げるそぶりすら見せません。

やがて、間抜けな客がくつろぐサンティノの姿をよく見ようと、油断し距離を詰めたその瞬間ーーー。

干し草の下の武器庫から石を取り出し、物凄い勢いで石を投げつけるのでありました。

その後の調査によると、サンティノの軍事戦線は益々拡大していることが判明しています。

木の穴や建物の影はもちろんのこと、ちょっと干し草が置いてあるとその下には必ず石が隠されているという状況。

もはや檻全体が武器庫と化しているのであります。

ただ一つ悲しいのは、サンティノがいくら賢くてもチンパンジーの骨格に限界があって、投石の威力が出ないこと。

今のところ、けが人は1人も出ていないのであった。

参考記事
https://fknews-2ch.net/archives/45097274.html

残虐なブルーノ

一方、サンティノやアイちゃんと一線を画す、残虐で知能の高いチンパンジーもいます。

その名はブルーノ

生い立ち

1986くらいに彼はアフリカ西部のシエラレオネの密林で生まれました。

長く続いた内戦でシエラレオネは疲弊しており、人々は子供のチンパンジーを密猟して売り払うことでようやく生活していました。

チンパンジーを捕獲する際は、母子のチンパンジーを捕獲し、商品価値の低い母親のチンパンジーは殺処分するのが普通でした。

ブルーノも、そんな密猟で捕獲されたかわいそうなチンパンジーでした。

小さな可愛いブルーノ

1988年、小さな村の市場に並べられたブルーノは、心優しい夫妻に20ドルでペットとして買われました。このとき夫妻には、そのかわいい子猿が将来人間を襲うことになるとは知る由もなかったのであった…。

無邪気なブルーノ

成長

生後数年の間、ブルーノは夫妻の自宅で放し飼いにされていましたが、体が大きく成長してしまったため、1998年に保護区へと預けられることになりました。

ブルーノの体長はおよそ180cm、体重90kg。だいたい全盛期のマイクタイソンと同じくらいのサイズ感です。

大人になったブルーノ

普通のチンパンが体長85cm、体重50kg前後なので、ブルーノの大きさが際立っているのがお分かり頂けるかと思います。

ブルーノは、大きな体だけでなく、優れた運動能力とリーダーシップを発揮し、保護区の群れを完全に支配し、ボスとして君臨します。

それと同時に、ブルーノは人間のもとで育ったがゆえに、人間が高い上背に比して反射神経が鈍く脆弱な身体能力しか有さないことを学び取っていました。そのため、保護区に預けられた時点で既に、彼は野生種ならば恐れて決して近づかないであろう人間を完全に見下していた節があります。

それでも彼は、闘争本能をむき出しにして自分を警戒させるような愚かなまねはしませんでした。ブルーノは人間に愛嬌を振りまき、自分が人間を好きだと錯覚させることに専念したのです。

仲良し(のふり)

ブルーノは人間とのコミュニケーション能力に長けていて、身近な人間には表面上は友好的な態度を示し、舌を丸めたり捩じったり、投げキス、笑うといった人間が行う高度な身体表現を示すことが可能だったと言われています。

脱走

ブルーノたちが生活するエリアは二重のフェンスで囲まれ、それに加え電気柵が設置されていました。

エリア内への出入りには3つの異なる鍵を開けるという複雑な手順が必要だったため、管理人たちはチンパンジーごときが脱走できるはずなどないと信じ込んでいました。

しかし、ブルーノの知恵はそんな管理人たちの想像をあっさりと超えていきました。

ブルーノは、日頃人間たちがどのようにゲートの鍵を開錠するのか冷静に観察し、その方法を密かに学習していたのです。

そしてついに2006年、ブルーノはゲートの鍵を開けることに成功し、30匹の部下を引き連れて保護地を脱出。

襲撃

事件が起こったのは、2006年4月23日の日曜日。

3人のアメリカ人と1人の現地労働者が、新しいアメリカ大使館の建設現場に訪れた際のこと。

地元出身のアイサ・カヌーが運転するタクシーで現場へ向かう途中、ふと車中から外を眺めると、チンパンジーの群れが静かに自分たちをじっと見つめているのに気が付きました。

チンパンジーについての知識を持たないアメリカ人たちは、自分たちがすでにかなりヤバい状況であることを理解できず、呑気にカメラで撮影しようとしました。

唯一、運転手のカヌーだけは、地元出身でチンパンジーがいかに危険で邪悪な生物であるか知っていたので、ただちにアメリカ人たちを制止して窓を閉めるように指示し、とにかくその場を急いて離れようとしました。

しかしながら、あまりの恐怖で慌てちゃったカヌーは、運転操作を誤り保護区のゲート激突。車体は鉄製の檻に引っかかり、抜け出ることができなくなってしまいました。

ここから、ブルーノたちの人間狩りが開始します。

まず彼は、こぶしで車のフロントガラスを叩き割り、運転席のカヌーを車体から引きずり出し、首根っこをつかみ、頭部を地面に何回も叩きつけ弱らせます。

手と足の指の爪を一枚ずつ剥がしてから、改めてカヌーの20本の指を全て噛み切って切断。

こうして獲物を抵抗できなくさせてから、ブルーノはあたかも果実を齧るように生きたまま彼の顔面を食いちぎり始め、時間をかけて、もてあそぶようにして死に至らしめたのです。

この地獄のような光景を前に、残りの4人は正気を失い、我先にとバラバラの方向に逃げ出しました。

しかし、それもブルーノの計算通り。

彼はあえて1人を痛めつけることで獲物をパニック状態にし、自発的に車外に出るように仕向けたと考えられています。

ブルーノは人間たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていったのを見ると、すぐさま群れを数匹ごとの小部隊に分けて個別に襲わせたのです。

特に現地人(黒人)に対する攻撃性が強く、運転手のカヌーは前述の通り拷問の末絶命。もう1人の現地労働者も腕に重傷を負わされ、後に病院で腕を切断しています。

一方の白人たちは、現地人に比べ遥かに軽症で済んでいることから、ブルーノたちは明らかに現地人と外来者の白人を区別して襲撃しているのが分かります。

目の前で母親を殺された恨みからか、長い間の飼育生活で受けた迫害からか。

いずれにせよ、ブルーノたちが長い間胸に隠していた人間への憎しみは、こうして最悪の形で晴らされたのでした。

なお、その後一部の部下たちは野生に戻れず保護区へ戻ってきましたが、首謀者のブルーノは未だに行方が分かっていません。

猿の惑星的な事件が起こる日がいつか来るかもしれませんね・・・。

参考文献・サイト様
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来
愛と誠1~最新巻(文庫版)(講談社漫画文庫)
猿の惑星 (吹替版)
京都大学霊長類研究所※アイちゃんのとこ
フールヴィック動物園※サンティノのとこ
Stone-Throwing Chimp Is Back
タキュガーマ チンパンジー自然保護区※ブルーノが脱走したとこ
King Bruno: A chimpanzee’s tale of tragedy and hope

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https://fknews-2ch.net/archives/20200428.html/feed 43
世にも奇妙な法隆寺 https://fknews-2ch.net/archives/20190504.html https://fknews-2ch.net/archives/20190504.html?noamp=mobile#comments Fri, 03 May 2019 16:45:51 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=29090 日本が世界に誇る、世界最古の木造建築物、法隆寺

法隆寺

前回の九州年号の話に続いて、今回は法隆寺に隠された九州王朝の痕跡らしきものに迫ってみます。

法隆寺の基礎知識

年代

日本書紀によると、法隆寺が創建されたのはいつか分かりませんw

だって書かれてないんだもん。

一応、日本書紀によれば次の通り。

・601年、厩戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(法隆寺のあるとこ)に新居を建設し始める。
・605年、新居が完成。引っ越す。

このあたりで、法隆寺も一緒に建立したのではなかろうかと考えられていますが、確証はありません。

焼失

さらに、この7世紀初頭に建てられた法隆寺は、現存する法隆寺とは別物です。

なぜなら、日本書紀に670年4月30日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大雨が降り雷鳴が轟いた。と書かれているから。

「一舎も残らず」の所から、随分と大きな火事だったこと、そして現存する法隆寺が670年より後に再建されたものであることが分かります。

法隆寺に伝わる『資財帳』によると、711年ごろには既に再建が完了していたことが読み取れます。

再建

一時期は、現存する法隆寺が再建されたものかどうか、激しい論争がありました。

なぜならば、建築様式から見ると、現存する法隆寺は明らかに7世紀初頭の特徴を有している。

例えば、組み木の細工であったり、五重塔の下層と上層の屋根の比率であったり。

五重塔

年代が古いほど上下段の屋根の面積差が大きく△に近い型になる。らしい。

もし火事のあと8世紀初頭に再建されたのなら、時代と様式が合わないじゃないか!!というわけです。

結局、現法隆寺の南東すぐ近くに若草伽藍跡という寺の焼け跡が発掘されたため、日本書紀の記述は正しい=法隆寺は再建されたということで、とりあえずは決着がつきました。

法隆寺と若草伽藍

位置関係

問題点

しかし、ちょっと冷静に考えてみてほしい。

確かに、書紀を裏付けるように寺の焼け跡はあった。つまり、法隆寺は一度全焼した。

ここまでは良いとしても、それでもやっぱり建築様式と再建年代が合っていないという問題は残ったままです。

さらに調べていくと、法隆寺には奇妙な点がいくつもあるのです。

柱の伐採年代

まず最初は、五重塔の心柱として使われている材木の伐採年代。

法隆寺の構造

真ん中に通っているのが心柱

奈良国立文化財研究所が心柱の年輪を元に伐採年代を算出した結果、なんと594年頃のものと判明しました。

ただ単に「火事で全焼したので一から新しく建て直しました」というだけでは、全く辻褄の合わない話なのです。

なぜ、594年の時点で既にもう伐採されていたのか。

木造建築というのは精緻なパズルであり、計画を立てて初めて必要な部材を確保し加工できるわけです。

最初の法隆寺すら影も形も無い594年の時点で、心柱用の部材を伐採しておけるはずも、理由もないのです。

間違えた基礎

五重塔の心柱の基礎となる礎石は、地中2.7mの位置にあります。

しかし、心柱そのものはなぜかその礎石の上に乗っていません。というか長さが全然足りてなくて、地上部分に後から設置された礎石の上に乗っているのです。

そして、地中の礎石と地上の礎石の間は空洞になっているという不思議。

図にするとこんな感じ

技術的な観点から言うと、7世紀の大和地方では、心柱の基礎は地下3mくらいのところにあるのが普通です。

時代が進んで8世紀頃になると、地下にあった礎石の位置が上昇して地表面くらいの高さになります。これは、木を地中に埋めると湿気で腐食しやすいため、改善されていった結果と思われます。

法隆寺の建屋を作った職人は礎石が地上にあるつもりで心柱を作っています。

つまり、基礎工事を行なった職人よりずっとに進んだ技術を持っていた、ということになります。

しかし、一つの建物の基礎と建屋で、採用された技術レベルが異なるなんて、おかしくないですか? ていうか、失敗してるし。

向きを間違えてるっぽい

まず、法隆寺の伽藍配置はこのようになっています。

で、横並びになっている五重塔と金堂を正面(南側)からみてみると。

お分かり頂けただろうか…。

金堂の方は、本来正面から見えないようにするべき「小口(東西面の石組の端っこ)」が正面に見えてしまっています。

模式図でいうと、こうなっとるわけです↓

まるで建物の配置を90°間違えてしまっているかのように見えます。

実際、今現在の法隆寺では、この小口は正面から見えないように「補修」されています。

その他あれこれ

・建物の部材には、どこに使うものか分かるように「記号」が書かれているが、法隆寺には存在しない位置を示す記号がある。

・建物内部なのに、十数年間というレベルで風雨に晒された痕跡がある。

・後から交換できないような位置に、他とは木質の異なる部材が使用されている。

というように、法隆寺にはいくつもの不可解な事実が指摘されています。

結論

こうした不可解な事実に説明をつけるとするならば、法隆寺の再建は、一から新築したのではなくどこかにあったお寺を移築したと考えるしかありません。

もともと斑鳩の地ではないどこかに建っていた寺を分解して、丸ごと持ってきちゃったというわけ。

移築で全て説明がつく

①建築年代と建築様式が合わない
もともと既に建てられていたものを持ってきたのだから、むしろ辻褄が合います。

②心柱の伐採年が早すぎる
移築前の寺が、594年らへんに建てられたということになります。

③基礎を間違えてる
移築前の寺は、地上部に礎石を置くような、進んだ技術でもって建てられたことになります。

斑鳩にはそこまで進んだ技術はなく、いつも通り地下に礎石を置いて工事を進めていったら、心柱の長さが足りなかった。

それで慌てて地上部に礎石を差し込んだと考えられます。

④向きを間違えてる
元の寺から少し配置を変えて見たけど、小口にまで気が回らなかった(ノ≧ڡ≦)

⑤法隆寺には存在しない位置の記号
元の寺から向きを変えた結果、存在しない位置が発生してしまったことになります。

⑥建物内部なのに、風雨にさらされた痕跡
一度バラされた部材が、長期間屋外に置いとかれた。

これ以外に、建物内部に風蝕の痕跡が残る理由はないでしょう。

⑦後から交換できないような位置に、他と木質の異なる部材
膨大な部材の山から、目的の部材を探し出せなかった。部材の搬送中に紛失した可能性もあるかもしれません。

いずれにせよ、不足の部材はその場で作るしかありませんので、結果として木質の異なる部材が混入してしまったのです。

どこから来たの?

あんな立派な寺院を丸ごとバラしてもう一度組み立てる工程を想像すると、発狂しそうなほど面倒くさそうです。

しかしこれは、完成したプラモデルをバラしてもう一度組み立てるのと、パーツを削り出すところから始めるのと、どっちが良いかという話です。

そう考えれば、移築の方が楽だし、仕上がりも良さそう。

残る問題は、移築したその寺はもともとどこにあった何という寺なのかであります。

そのヒントとなるのは、前述した柱基礎の技術。

既に地上に礎石を据えていたのは

6世紀末〜7世紀初頭にかけて、礎石を地上部に据える技術は、当時の近畿地方にはありません。

7世紀までに建てられた近畿地方の古い寺院は、例外なく全て地中に礎石を埋めていました。

その時代に、既に地上部に礎石を置く建築技術を持っていたのは、九州だけでした。

例えば、福岡県太宰府市にある観世音寺という古い寺。

これは建立の経緯や年代がはっきりしていませんが、遅くとも7世紀にはもう着工しています。

そして、その心柱を支える基礎は、しっかり地上に据えられています。

観世音寺の心礎

この礎石は設置以来一度も動かされていないのが確認されています

この観世音寺が法隆寺の移築元である証拠はありませんが、それでもこの太宰府のあった九州の筑紫地域以外に、7世紀時点で礎石を地上に据える技術を持っている地域は無かったのであります。

したがって、法隆寺は筑紫地方にあった寺院を丸ごと移築したものである可能性が高いのです。

前回ご紹介した九州年号といい、この法隆寺といい。

やはり九州には畿内とは異なる文化があったのではないかと思わされます。

いずれ、この九州王朝説については詳しく扱ってみたいと思います。ちょっと今の管理人では荷が重いので、いずれ。

参考文献、サイト様
法隆寺は移築された―大宰府から斑鳩へ
法隆寺のものさし―隠された王朝交代の謎 (シリーズ・古代史の探求)
法隆寺の中の九州王朝 (朝日文庫―古代は輝いていた)
法隆寺
うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」
古田史学とMe

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https://fknews-2ch.net/archives/20190504.html/feed 70
そんなことより古い年号の話しようぜ! https://fknews-2ch.net/archives/20190224.html https://fknews-2ch.net/archives/20190224.html?noamp=mobile#comments Sun, 24 Feb 2019 08:00:48 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=29061 今年4月に予定されている、天皇陛下の譲位。

それに関連して新元号が色々と予想されているようです。

小渕恵三

この時からもう31年も経過しているという事実…

とはいえ新しい元号の公表は4月1日なので、それまで答え合わせはお預け。

そこで今回は、逆に昔の元号について振り返ってみたいと思います。

最初の元号

645年〜650年

日本書紀によると、645年の皇極天皇の時代に初めて大化という元号が制定されました。

あの大化の改新の大化ね。

これが、公式には最初の元号ということになっています。

650年〜654年

その5年後の650年。今の山口の国司から白いキジが献上され、「こりゃめでたい」というわけで白雉という元号に改元されました。

しかし、654年に皇極天皇が崩御し、そこからしばらくは元号が制定されずにいました。

686年〜686年

686年8月。天武天皇の治世15年目にして、なぜか突然朱鳥という元号が制定されますが、そのわずか1月半後に天武天皇が崩御。

結果、この朱鳥も忘れ去られ、またしばらく元号無しの状態が続きます。

なお、ここまでの3つは実際に使用されたか微妙という学説もあり、やや疑わしい元号なのです。

701年〜現代

平成まで切れ目なく続く元号の最初は、701年の文武天皇時代に制定された大宝であります。

文武天皇

文武天皇

この年、対馬で初めて金が採掘され、その金塊が朝廷に献上されました。

それまで日本国内で金が採掘されたことはなかったため、「こりゃめでたい」というわけで大宝が制定されたのです。

なお、このときの様子が続日本紀に記されています。

以下意訳。

701年3月21日
対馬が金を献上してきた。そこで新しく元号をたてて,大宝元年とした。

701年8月7日
以前から、忍海郡の人である三田首五瀬を、対馬に派遣して黄金を精錬させていた。
そこで詔を発して、五瀬に正六位上の位を授け、封50戸と田10町、そして絹・綿・麻布・鍬を与え、雑戸の名を免除し良民とした。

注:年代暦によると「後になって錬金のことは、五瀬の詐欺であることが発覚した」

騙されててワロタw

この金塊詐欺事件の詳細はどこにも書かれておらずよくわかりませんが、現代まで続く元号が制定されたきっかけと思えば、ほのぼのニュース感がありますね。

中国の元号

というわけで、実質的に日本における最初の正式な元号は701年に制定された大宝です。

一方、広く目を東アジア全体に向けてみれば、最初の元号はやはり中国。

紀元前115年頃、前漢の武帝によって建てられた建元という元号であります。

武帝

中国皇帝はそもそも広大な空間を支配しているわけですが、元号によって時間をも支配しちゃおうと考えたのが始まりだと言われています。

そうした発想から、中国と君臣関係であったは、中国の元号を使用するというルールが出来ます。

逆に言うと、東アジア諸国において独自の元号を使用するのは、中国の冊封体制からの脱却を宣言するのに等しいわけです。

ベトナムの場合

その脱却宣言をした数少ない国の一つが、ベトナム北部にあった丁朝

ベトナムは長らく中国の支配下にありましたが、907年の唐滅亡あたりから徐々に中国支配から脱却し始めました。

966年に成立した丁朝において、ようやく独自の元号太平の制定までこぎつけます。

その後、幾度かの王朝交代を経つつも中国の支配を退け続け、結局1945年のベトナム民主共和国成立まで、独自元号を使用していました。

朝鮮半島の場合

朝鮮半島の諸国もまた、独自元号を使用していました。

記録で確認できる最古の元号は、高句麗永楽という元号。

高句麗の第19代の王広開土王によって、391年頃に制定されたものです。

広開土王碑に刻まれた碑文で確認できます。

発見当初の広開土王碑

高句麗といえば、中国と地続きというハードモードな立地でありながら、およそ700年もの長きに渡って中国の支配をはね除け続けた武闘派。

朝鮮半島に侵攻した倭国軍ともバチバチにやり合って撃退。

魏の侵攻に敗北して国土を大きく失うも、やがて中国の混乱に乗じて国土を回復。

隋の侵攻も3度退け、4度目でようやく和睦(でも朝貢はしない)。

また、唐の侵攻も2度まで撃退(3度目で敗北、滅亡)。

こうした独自元号を使用したのも当然のことなのであります。

遅すぎる元号制定

ところで、高句麗の事例を見て、違和感がありませんか?

高句麗は独自元号=中国支配からの自立という感覚を持っていて、391年時点で独自の元号を制定している。

だとするならば、当時朝鮮半島に攻め込むほど影響力を持っていた日本にだって、その常識を持っていてしかるべきでしょう。

しかし、645年の「大化」制定以前に日本に元号は無かったことになっています。

ということは、少なくとも645年以前の日本は中国の忠実な臣下であったということになります。

いやいや、そんなはずはありません。

日本書紀によれば、607年に推古天皇と聖徳太子が遣隋使を派遣して、次のような国書を送っています。

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々。

これ、今風に言うならば「お日様が昇る国の天子から、お日様が沈む国の天子に手紙を送るよ。元気?」みたいな感じ。

推古天皇(と聖徳太子)は、明らかに中国に対して対等な関係を主張しているのです。

事実、これを読んだ隋の楊帝は「無礼な蛮族の手紙なんぞ、二度と朕に見せるな!」と激怒しています。

ではなぜこの時の日本は、中国に喧嘩を売ると同時に独自の元号を制定しなかったのでしょうか?

繰り返しになりますが、高句麗はこれより200年以上も前に独自元号を制定していますし、新羅だって70年も前に独自元号を制定しています。

なんで日本はこんな遅いの?

大化以前の年号

日本書紀は日本の正史なので表向きには絶対に言えないことですが、日本書紀に書かれていない元号が使用されていた可能性があります。

二中歴の年号

例えば、鎌倉時代初期の1220年頃に編纂された二中歴という百科事典的な書物。

二中歴 年代記

その中に「大化」以前の年号についての記載があるのです。

二中歴によれば、最初の年号は継体

継体二十五 (応神五世の孫。この時に年号が始まる)
二中歴 人代歴より 

この継体以降、次のように列挙されています。

身近な果物
九州元号 西暦 天皇 公式元号
継体 517〜521 継体天皇11年〜継体天皇15年 なし
善記 522〜525 継体天皇16年〜継体天皇18年 なし
正和 526〜530 継体天皇19年〜継体天皇23年 なし
教倒 531〜535 継体天皇24年〜宣化天皇1年 なし
僧聴 536〜540 宣化天皇2年〜欽明天皇1年 なし
明要 541〜551 欽明天皇2年〜欽明天皇12年 なし
貴楽 552〜553 欽明天皇13年〜欽明天皇14年 なし
法清 554〜557 欽明天皇15年〜欽明天皇18年 なし
兄弟 558〜558 欽明天皇19年〜欽明天皇19年 なし
蔵和 559〜563 欽明天皇20年〜欽明天皇24年 なし
師安 564〜564 欽明天皇25年〜欽明天皇25年 なし
和僧 565〜569 欽明天皇26年〜欽明天皇30年 なし
金光 570〜575 欽明天皇31年〜敏逹天皇4年 なし
賢接 576〜580 敏逹天皇5年〜敏逹天皇9年 なし
鏡當 581〜584 敏逹天皇10年〜敏逹天皇13年 なし
勝照 585〜588 敏逹天皇14年〜崇峻天皇1年 なし
端改 589〜593 崇峻天皇2年〜推古天皇1年 なし
告貴 594〜600 推古天皇2年〜推古天皇8年 なし
願転 601〜604 推古天皇9年〜推古天皇12年 なし
光元 605〜610 推古天皇13年〜推古天皇18年 なし
定居 611〜617 推古天皇19年〜推古天皇25年 なし
倭京 618〜622 推古天皇26年〜推古天皇30年 なし
仁王 623〜634 推古天皇31年〜舒明天皇6年 なし
僧要 635〜639 舒明天皇7年〜舒明天皇11年 なし
命長 640〜646 舒明天皇12年〜孝徳天皇2年 なし〜大化2年
常色 647〜651 幸徳天皇3年〜孝徳天皇7年 大化3年〜白雉2年
白雉 652〜660 幸徳天皇8年〜斉明天皇6年 白雉3年〜なし
白鳳 661〜683 斉明天皇7年〜天武天皇11年 なし
朱雀 684〜685 斉明天皇12年〜天武天皇13年 なし
朱鳥 686〜694 天武天皇14年〜持統天皇8年 朱鳥1年〜なし
大化 695〜700 持統天皇9年〜文武天皇4年 なし

という具合。

二中歴以外にも、李氏朝鮮で1471年に刊行された海東諸国紀や、九州を中心として日本各地に伝わる風土記や神社の縁起書に、同様の年号が登場しています(多少バージョンの違いはある)

続日本紀の中にも、聖武天皇の言葉として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」という一節があり、公式には存在しないはずの元号が登場しているのが確認できます。

一般的な理解

しかし、こうした謎の古代年号は、現代の学会ではあまり相手にされていません。

仏教的な単語が多いことから、鎌倉時代あたりの坊主による捏造じゃないのという風な結論で終わっています。

その根拠をざっくり説明すると、次のような感じ。

平安時代から鎌倉時代あたりは、仏僧が中国に勉強しに行く事がよくあり、日本の歴史について話す機会も時々あった。その際に、日本の元号の使用が遅すぎて恥ずかしいので、大化以前の元号を創作したというわけ。

僧聴和僧などのように、やけに仏教っぽい元号があるのも、そういう理由からであると。

また、上の聖武天皇の発言に関しては、「白雉→白鳳」「朱鳥→朱雀」と言い換えた(良い表現にした)というやや苦しい説明が成されているのみです。

通説への反論

しかしこの創作説は、次の3点の反論に答える事ができません。

①日本書紀に明記されている大化や白雉、朱鳥と明らかに重複している。


「まともに」創作しようとするなら、↑の「元号なし」のピンクの部分だけを埋めれば良いわけです。簡単ですね。

ところが、二中歴に書かれている古代逸年号では、↓こうなっています。

もうね、めちゃくちゃである。

特に問題なのが、640年から646年に当たる命長

大化という日本初の元号が制定されるきっかけとなった大化の改新という超重要イベントを完全に無視しています。

この程度の基本的な辻褄すら合わせてないのは、いったいどういう了見なのでしょう。

②変に中途半端なところからスタートしている。

古代逸年号のスタートは、継体天皇11年目の継体からです。

いやいや。マジメに創作するならもっとキリの良いところから始めるでしょう。

最低でも継体天皇1年目からにすべきだし、それこそ神武天皇即位年から始めても、大した手間ではなかったはず。

③仏教伝来より前の元号

日本に仏教が伝来したのは、日本書紀によれば、552年のこと。実際には538年というのが通説。

そこで問題になるのが、536年〜540年に当たる僧聴という元号。

明らかに、日本に仏教が伝来する前なのに、仏教色丸出しの元号が制定されています。

この古代逸年号の創作者は、有名な仏教伝来の時系列すら認識していなかったということでしょうか。

江戸時代の研究

こうした矛盾点を見て、「日本書紀も知らないアホが創作したんやろ」と結論づけるのは簡単なこと。

しかし、仮にも日本の古の元号を創作しようと思い立った人物が、日本書紀を知らないなどという事があり得るでしょうか。

江戸時代中期の大学者新井白石は、知人の水戸学者に次のような手紙を送っています。

朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。

しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。

この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。

新井白石という近世屈指の学者にとってさえ、この古代逸年号には「単なる出鱈目や創作以上の何かがある」という風に見えたのでしょう。

その一つの可能性として挙げられるのが、九州年号という発想であります。

九州年号とは何なのか

江戸後期の国学者鶴峯戊申は、この古代逸年号に注目した人物の1人。

彼はその著書「襲国偽僣考」において、卑弥呼のいた邪馬台国は後の熊襲国国であり、熊襲国は中央のヤマト王権であると偽って中国に朝貢していた、という論を展開しています。

少なくとも鶴峯は九州の熊襲国は大和王権であると偽れるほどの国力を持っていたと考えました。

そして彼は、各地や諸資料に断片的に伝わる古代逸年号こそが、その熊襲国が使用していた九州年号であると主張したのであります。

鶴峯の説が正しいかどうかは置いておくとして、この九州年号という概念はやがて、ヤマト王権とは全く別の王朝が、かつて九州に存在していたという説へと発展していくのであります。

その説の詳細は、いつかそのうち・・・・。

参考文献、サイト様
日本書紀 5冊 (岩波文庫)
失われた九州王朝:天皇家以前の古代史 (古田武彦・古代史コレクション 2)
倭国と日本古代史の謎 (学研M文庫)
失われた日本古代皇帝の謎 (学研M文庫)
新 もういちど読む 山川日本史
新古代学の扉
Histrical
日本古代史についての考察
古田史学とMe

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https://fknews-2ch.net/archives/20190224.html/feed 40
崇徳天皇とかいう悲しき怨霊 https://fknews-2ch.net/archives/20190126.html https://fknews-2ch.net/archives/20190126.html?noamp=mobile#comments Sat, 26 Jan 2019 14:48:17 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28897 明けましておめでとうございます(遅い)。

今年もこれまで通り脈絡なくいろんなテーマを扱っていきたいと思いますので、引き続きお付き合い頂ければ嬉しいです。

で、今回のテーマは日本最強の怨霊としてよく知られている崇徳天皇についてです。

怨霊とはなんぞや

怨霊というのは、生前の怨みを力に変えて、人に災いを与えてくる恐ろしい思念体であります。

そう言った思念体だと、四谷怪談のお岩さんなんかが有名ですね。

しかしお岩さんは、厳密には幽霊。しかもその祟りのスケールは、せいぜいが人間を呪い殺したり怪我させる程度のもの。とても天変地異を起こすほどのパワーはありません。

本格的な、大物の怨霊になってくると、それはもう物凄いパワーを持っていて、人を呪い殺すのは当たり前で、大火事を起こしたり、雷を落としたり、飢饉や疫病を引き起こすことだってできちゃうのです。

怨霊になるコツ

怨霊になるためにはいくつか条件がありますが、まず大前提となるのが、無実の罪を着せられて憤死すること。

いくら強い怨みを持って死んでも、無実じゃなければ怨霊にはなれないのですね。

怨霊というのは迷信であるからして、無実の罪を着せた側に罪悪感があって初めて、「この災害の原因って、あいつの怨霊じゃない…?」となるわけです。

歴史に残るほどの怨霊となると数える程しかいませんが、その中でも特に高名なのが次の3人。

崇徳天皇
崇徳天皇

菅原道真
菅原道真

平将門
平将門

この3人は、日本三大怨霊なんて括られ方をされるくらい、別格にパワーのある怨霊とされています。

そして、その中でも最強と位置付けられているのが崇徳天皇なのであります。

可哀想な崇徳院

最恐の怨霊とされる崇徳天皇は、はたしてどのような人生を送ったのでしょうか。

院政

時は12世紀の初頭。

時代でいうと平安時代の後期にあたり、この頃はいわゆる院政の全盛期でした。

天皇は早めに引退して自分の子や孫を天皇に据え、自分は上皇(太上天皇の略。引退した天皇のこと)法皇(出家した上皇)という立場で実権を握るという仕組み。

この院政システムにおいて、天皇は文字通り傀儡でした。

時の天皇であった第74代の鳥羽天皇も例外ではありません。

父である堀河天皇が若くして崩御したため、1107年にわずか5歳で天皇に即位。

幼児に政治は無理なので、祖父にあたる白河法皇(先々代の天皇)の権力はより一層強まっていきました。

崇徳天皇誕生

1119年5月28日、鳥羽天皇に第一子が生まれました。それが崇徳天皇

系図

その4年後の1123年、白河法皇は鳥羽天皇にこう提案します。

白河「鳥羽ァ、お前引退な。

鳥羽「引退!?なんで俺が引退なんですか!!

白河「だから、カタチだけだからよ。しばらくしたらお前が上皇で仕切ればいいんだからよ。な。

鳥羽「…。

白河「それから、跡目はお前の息子の崇徳な。

鳥羽「崇徳…っすか…。

こうして白河法皇は鳥羽天皇をやや強引に引退させ、その跡目にはわずか3歳の崇徳が据えられました。

黒い噂

跡目が崇徳というのは、鳥羽天皇にとっては非常に屈辱的な人事でした。

というのも、崇徳天皇には本当の父親は白河法皇であるという疑いあったのです。

本当の系図↓

鳥羽天皇の妻であり崇徳天皇の母である藤原璋子(たまこ)は、幼女の頃から白河法皇のオキニで溺愛され続けた美女。

彼女は7歳で父を亡くし、白河法皇に養女として引き取られましたが、2人が男女関係にあったのは朝廷内では公然の秘密でした。

たまちゃん

2人の関係は、璋子が鳥羽天皇へ嫁いだ後も続いており、崇徳天皇の父が白河法皇だという噂が流れるのももっともな話だったのです。

その真偽はもう分かりませんが、少なくとも鳥羽上皇は崇徳が自分の子でないことを確信しています。

彼から見ると崇徳天皇は叔父にあたるので、事あるごとに「あいつは叔父子だろ、気持ち悪い」と言って遠ざけていたと言われています。

崇徳も引退

そんなわけで、崇徳天皇は鳥羽上皇からたいへん嫌われていたのであります。

そして崇徳が即位して20年後の1143年。

鳥羽「崇徳ゥ、お前引退な。

崇徳「引退!?なんで俺が引退なんですか!!

鳥羽「だから、カタチだけだからよ。しばらくしたらお前が上皇で仕切ればいいんだからよ。な。

崇徳「…。

鳥羽「跡目は俺の息子の近衛(※3歳)な。お前の息子の重仁はまだガキ(※2歳)だからよ。

崇徳「近衛…っすか…。

鳥羽「大丈夫、あいつをお前が養子に取ればいいんだよ。そうすりゃお前が親父として院政やれるだろ。

こうして崇徳天皇は近衛親王を養子に迎えた上で、引退することになりました。

しかし、この引退の裏には鳥羽上皇の企みがあったのです。

崇徳がそれに気づいたのは、まさに譲位をする儀式の最中のことでした。

そもそも、崇徳天皇は近衛天皇を養子にしているのだから、崇徳は「皇太子に譲る」と書かれているはずでした。

しかし実際に書類に書かれていたのは、「皇太弟に譲る」。

養子に譲るからという条件で引退したのに、弟に譲ったことになってしまったことになってしまったのです。

子が未熟なので父親が仕切るというのが院政のキモあって、弟が未熟だから兄が仕切るというのはあり得ません。

崇徳天皇はものの見事に、鳥羽上皇にハメられてしまったのでした。

崇徳終了

こうして即位した近衛天皇でしたが、体が弱くわずか17歳で崩御。

上皇となった崇徳院に再びチャンスがやってきます。

ここで、もし崇徳院の息子が天皇になれたら、その父として院政を敷くことができます。大逆転です。実際、息子の重仁親王は周囲からの評価も悪くなく、有力な天皇候補でした。

しかし現実は非常である。

鳥羽上皇の崇徳嫌いは徹底しており、周囲の反対を押し切って、人格に難ありと評判だった後白河(崇徳院のにあたる)を天皇にします。

系図

ほどなくして、鳥羽上皇は崩御。

鳥羽上皇は死の床でも「崇徳にだけは俺の死に顔を見せたくない」などと周囲に言い含めており、臨終の見舞いに訪れた崇徳上皇は追い返されています。

何れにせよ、後白河天皇の即位により、今後崇徳院が権力を握るチャンスは無くなりました。彼の血筋が皇室に残る可能性もゼロで、余生はもはや消化試合となってしまいました。

鳥羽上皇の執念がそれほどまでに凄まじかったということでしょう。

保元の乱

崇徳院の仲間たち

皇室内だけでもこのように権力争いがあったわけですが、これとほとんど同時平行で、藤原摂関家でも家督争いが勃発していました。

家督争いは藤原忠通(兄) vs 藤原忠実(父)&藤原頼長(弟)という構図で、負けたのが頼長の方でした。

崇徳院と藤原忠実・頼長が、同じ敗北者として親しくなるのは自然なこと。

しかし、勝者側の後白河天皇+藤原忠通サイドとしては、遺恨を残したままでは不安。憂いを残さないよう、敗北者を徹底的に潰す機会を伺っていました。

弾圧

鳥羽上皇の崩御が1156年7月2日。

そのわずか3日後の7月5日、「崇徳院と藤原頼長がクーデターを計画してる」という噂が流れます。というか、後白河天皇がデマを流しました。

さらに3日後には後白河天皇が「忠実・頼長が自分の兵を呼ぶのはNG」というピンポイントな命令を発し、同日には藤原頼長が謀反人とされて屋敷や家財を没収されてしまいます。

このあまりにテキパキとした弾圧の様子を見ていた崇徳院は、身の危険を察知して翌日の7月9日未明に自宅を脱出。妹の住む白河北殿へと逃げ込みます。

翌7月10日に藤原頼長が崇徳院の元を訪れ、この局面を打開するために共に挙兵することを決心します。

というか、2人にはもう挙兵しか選択肢が残っていなかったと言った方が正確かもしれません。

激突

この後白河軍と崇徳軍の衝突が、保元の乱なのですが、直接のきっかけは後白河天皇サイドが流した「崇徳院と藤原頼長がクーデターを計画してる」というデマでしたね。

ということは、デマを流した時点ですでに後白河天皇サイド戦争の準備は万端だったということになります。

一方の崇徳院サイドは、追い詰められてようやく挙兵を決心した段階。心構えからして不十分なわけです。

7月11日未明に後白河軍が崇徳軍が立て籠もっている白河北殿を包囲し、戦闘が始まります。

序盤こそ奮闘した崇徳軍でしたが、白河北殿に火がかけられると総崩れとなり、あっさりと決着。

白河北殿

白河北殿焼き討ち

開戦からわずか4時間の速攻。大塩平八郎の乱よりも短い、あまりにもあっけない決着でした。

1: 風吹けば名無し 2014/02/05 12:49:46 ID:2PUGlkya半日 2: 風吹けば名無し 2014/02/05 ...

崇徳院は白河北殿を脱出し、出家した弟に仲裁を依頼しますが、普通に通報されて捕縛。

藤原頼長は流れ矢を受けながら敗走し、父忠実を頼りますが面談を拒まれて失意の中死亡。

こうして保元の乱は終結を迎えました。

荒ぶる崇徳院

崇徳院崩御

捕縛された崇徳院は、讃岐(香川県)へ島流しの刑となりました。平安時代に死刑はありませんので、流刑は最も重い刑罰でした。

なお、天皇経験者の流刑は400年ぶり2度目のこと。

讃岐は流刑先としては割とメジャーで、そこまで遠方じゃないけどまあまあキツいみたいな位置付け。

平安時代にはまだうどんもありませんので、仏の道に入って修行に勤しむくらいしかやることがなかったと思われます。

崇徳院が特に熱心に取り組んでいたのが、五部大乗経(天台宗において重要とされる『法華経』とかの5経典。)の写本作り。

保元の乱での戦死者の供養、そして反省の証として、指の先の血用いて全190巻!にも及ぶ写本を丹念に丹念に描き続けました。

この写本は3年がかりでようやく仕上がり、崇徳院はこれを朝廷に送り、石清水八幡宮に納めてもらうようお願いしました。

しかし、後白河上皇は「なんか呪いが込められてそうw」として、讃岐を送り返します。

この後白河の冷たい対応に、流石の崇徳も激怒。

キレちまったよ

崇徳院はその場で舌の先を噛みちぎり、その血でもって写本に「日本国の大魔縁となり、皇を民とし民を皇となさん」と書きつけ、それを海底に沈めたとされています。

また、それ以降崩御するまで爪や髪を伸ばし続け夜叉のような見た目であったとも、また崩御後には蓋を閉めた棺から血が溢れてきたとも伝えられています。

崇徳院は最終的には天狗になってどこかへいってしまったという言い伝えもあります。

崇徳上皇

変わり果ててしまった崇徳院

天狗になった崇徳院※左上

崇徳院の祟り

崇徳院が崩御したのは1164年。讃岐に写って9年後のことでした。

崇徳院は罪人であるからして、ごく簡単な葬儀があったのみで、皆がその死を無視しました。

しかし、崇徳院の崩御からちょうど干支が一巡した1176年、遂に崇徳院の怨霊が爆発します。

この年、後白河法皇(←出家した)に近しい建春門院(後白河の妃)、高松院( 〃 妹)、六条天皇( 〃 孫)、九条院( 〃 義理の妹)が相次いで死去。

これだけ続くと、どうしても怨霊を意識してしまうのが日本人というもの。

極め付けは、その翌年の1177年に起こった大火事。

太郎焼亡と呼ばれるその大火事は、平安京の東端で起こった火が強風に煽られてどんどん北西へと燃え広がり、遂には大内裏にまで火の手が及びました。

あたかも大内裏を目指して進んでいくような燃え広がり方が、怨霊の仕業っぽい感じを出しています。

太郎焼亡

太郎焼亡の延焼範囲

しかもその翌年にも大火事次郎焼亡が発生。今度は、太郎焼亡を逃れた南側を焼き尽くしに来ます。

次郎焼亡

次郎焼亡の延焼範囲

後白河、折れる

五部大乗経を突っ返したり葬儀をやらなかったりと、わりと強気だった後白河法皇でしたが、ここまで不幸や災害が続くと流石に崇徳の怨霊を信じざるを得ません。

後白河法皇は崇徳院の怨霊鎮魂のため、当時「讃岐院」と呼ばれていた崇徳院に正式に「崇徳院」の諡号を与えますが、効果はイマイチ。

その後も元号を変えたり大規模な法会を開いたりしますが、崇徳院の怨霊の勢いが止まることはなく、1179年には平清盛によって京都が占拠されます。

ついに朝廷から政治権力が失われ、その後700年にもわたって武士が権力を握ることになります。

まさに、崇徳院が誓った「民を皇となし〜」の通りになってしまったわけですね。

造られた怨霊

四谷怪談とかいうフィクション

冒頭でチラッと触れた、お岩さん。

お岩さん

彼女は自分に毒を盛った旦那の伊右衛門を幽霊になって呪い殺したわけですが、現代においても彼女の呪いは健在であるとされています。

「四谷怪談」を題材とした映画や舞台をいきなり制作するとスタッフや役者に不幸が起こる恐れがあるので、今でもわざわざ制作前に四谷の於岩稲荷に参拝に行くというのは有名な話。

ところが。

実在した本物のお岩さんは、四谷怪談のお岩さんとは似ても似つかぬ素敵な女性なのです。

これは江戸初期の実話。


伊右衛門とお岩さんは、世間でも評判のオシドリ夫婦でした。

しかし、伊右衛門の給料が安くて家計はいつも火の車。

そこで、お岩さんはお金持ちの家に奉公に出て、一生懸命働きます。

お岩さんの働きを認めたお金持ちは、夫の伊右衛門の出世を取り計らってくれ、夫婦は幸せに暮らしましたとさ。

お岩さんはいつも自宅の庭にあるお稲荷さんに参拝していたことから、金運のご利益があると評判になり、多くの人々が四谷の稲荷を参拝するようになったのです。

で、その200年後の江戸後期。

歌舞伎脚本家の鶴屋南北が、自分の書いた怪談のキャラクター名を、当時から有名だった「お岩さん」と「伊右衛門」から拝借したのです。ご利益を期待したのかもしれませんね。

何れにせよ、今となっては実話の方は忘れられ、怪談の方だけが有名になってしまっています。

では、制作スタッフたちは四谷於岩稲荷で誰に参拝しているのでしょうか?

実在していた賢妻のお岩さん?それとも架空のお岩さん?

崇徳院は魔王になったか

崇徳院の怨霊も、これに近い感じがあります。

崇徳院が讃岐に流されてからの生活は、実際には寂しいながらも穏やかなものだったのが、いくつもの和歌や史料から読み取ることができます。

また、そもそも例の血で書いた写本も実物を見たという人は誰もおらず、崩御から19年も経った1183年にようやく一度だけ「吉記」という史料に登場するのみです。

現代においても19年といったら結構昔のこと。ネオむぎ茶の事件とか、2000円札発行とか、もうあんまりよく覚えてないでしょう?

そんな長い時間が経ったのちに、ポッとこんな強烈なエピソードが出てくるものでしょうか?

また、もし崇徳院が本当に「魔王になる!」なんて叫んで恨みなが死んでいったのならば、いちばん怨まれていたはずの後白河天皇の耳に入らないはずがありません。

しかし当の後白河天皇は、12年後に近しい人の死や大火事が起きてからようやく慌てている始末。

当時の日本には既に怨霊信仰は十分浸透しており、平将門菅原道真を始め、数多くの怨霊化の前例があります。

にも関わらず、崇徳院の崩御をさっぱりと無視するなど、かなりのん気な対応です。

こうした点を踏まえると、どうも崇徳院の血書経や魔王宣言は、不幸や災害社が続き社会情勢が不安定になった後に、崇徳院という怨霊を作り出すために考案された後付けエピソードである可能性が少なくありません。

だとすれば、崇徳院は相次ぐ不幸や災害の原因として後白河に利用されたのであり、後世にいくら鎮魂をしようが祭り上げようが、それは崇徳院の無念を晴らすことにはなりません。

崇徳院の生涯が不遇であったことを考えればなおさら、死してなおスケープゴートとして利用されていることに釈然としない思いを持ってしまいます。

果たして崇徳院は、本当に怨霊になったのか。

それは、生きている我々が次第なのではないでしょうか( ・`ω・´)キリッ

参考文献・サイト様
怨霊になった天皇 (小学館文庫)
怨霊とは何か – 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)
崇徳院を追いかけて (創元推理文庫)
平家物語・義経伝説の史跡を巡る
四谷 再発見 ー 於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)

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発明王エジソンの畜生エピソード https://fknews-2ch.net/archives/20181224.html https://fknews-2ch.net/archives/20181224.html?noamp=mobile#comments Sun, 23 Dec 2018 15:46:29 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28874 さて。

世間はクリスマスムードかも知れませんが、俺たちにそんなの関係ないよね!

いつも通り一人で家にいるよね!

というわけで前回からの続き。

偉人の代名詞のように評価されているエジソンですが、その一方で彼の暗黒面についてはわりと無視されていたりもします。

部下の扱い

ワーカーホリック

現役時代のエジソンの平均睡眠時間は、たったの4時間。

さらに、基本的にはラボに籠もりっぱなしで研究に没頭し、時々ラボに持ち込んだベッドで仮眠を取るという生活を送っていました。

ラボの仮眠ベッド

エジソンに言わせると、睡眠は時間の無駄であり、何かを成し遂げるなら一日に18時間は働かないといかんということのようです。

実際、エジソンは仕事の虫。彼に就業時間という概念はありません。

週に100時間以上働くなんていうのは日常茶飯事だったのであります。

いつの時代にもワーカーホリックはいるもの。個人が好きでこういう生活を送るのは自由であります。
 
しかし、エジソンの助手はたまったものではありません。

夜、帰宅して自宅のベッドで寝ていたら、研究室から呼び出しの電話が来るなんていうのはまだ可愛い方。

「今夜は二人でこの研究テーマの答えが見つかるまで、絶対に寝ないようにしようね!」などと、エジソンに言われてみてごらんなさい。

陳宮

この時の助手の気持ち

こうして、この激務に数多くの助手が心を折り、エジソン研究所を去っていきました。

ただ、去っていった助手はまだマシ。

エジソンの鬼畜ポイントは、それだけ助手たちを働かせておきながらもその努力に報いようとしなかったところにあります。

アメリカンジョーク

エジソンの常套手段はボーナスをチラつかせるという卑劣なもの。

助手たちに課題を与え、それを達成すれば多額のボーナスを払うという約束をする。

助手たちが不眠不休で頑張る。

研究成果を挙げる。

ボーナスを請求する。

HAHAHA!あれはアメリカンジョークだよ。

この書いてるだけでイラつくテクニックで、エジソンは助手たちを徹底的に搾取していたのであります。

電流戦争前夜

このアメリカンジョークの被害者の一人が、かの天才ニコラ・テスラでした。

ニコラ・テスラとかいう天才

ニコラ・テスラはクロアチアの天才科学者。

天才でイケメン

幼い頃から勉学に励み、特に数学や物理学の分野で突出した才能を見せたテスラ。彼はクラーク工科大というオーストリアの名門大学を卒業し、さらにプラハ大学に留学して学びました。

その後、既に発明家として世に知られていたエジソンに憧れたテスラは、渡米してエジソン・カンパニー(のちのゼネラル・エレクトリック社)に入社。

エジソンの下で1日18時間くらい働くことになりました。エジソン・カンパニーでは一般的な労働時間ですが、超ブラックであることに変わりはありません。

でも「憧れのエジソン先生と一緒に働けて幸せ!」と、テスラは一生懸命頑張りました。

持ち前の天才的な頭脳で、テスラは与えられた課題を全て解決し、発電機やモーターの改良に多大な貢献をしました。

そんな健気なテスラには、一つの夢がありました。

それは、交流電流を実用化するというもの。

直流と交流

まあ管理人もよく分かっていないのですが、電気には直流交流の2種類があるというのは、理科の時間に教わった気がします。

直流というのは、電気が1方向にだけ流れるやつ。

交流というのは、電気の流れが行ったり来たりするやつ。

ACとDC

直流はわりと素人でもイメージしやすいですね。川の流れのように電子が流れるみたいな感じです。

問題は交流の方で、これはイメージしにくいですが、例えば直流が普通のビンタだとすれば、交流は往復ビンタ。行きと帰りで仕事をします。ウチワは往復運動で風を発生させ、扇風機は1方向に回転して風を発生させます。

というわけで、1方向運動でも往復運動でも、工夫次第で仕事をさせることは十分可能なのです。

東日本の電気は60Hz、西日本は50Hzというのは聞いたことがあると思います。これは、電気が1秒間に50回とか60回とかのオーダーで行ったり来たりしていることを意味します。

電気のスピードは秒速30万km電線の中だとその半分くらいらしいなので、控えめに言っても1往復で電子が3,000kmくらい動くことになるので、全然オッケーなわけです。

どっちも大事

直流と交流というのは、どっちが優れているかみたいな話ではなく、向き不向きの問題 です。

直流は1方向に水を流すようなものなので、遠くに電気を送ろうとするとどうしても無駄が出てしまう。かと言って、無駄を減らすために電圧を上げると危ないし、電圧の変換も大変な設備が必要になります。

その一方で、常に一定の方向に一定の勢いで電気が流れているので、電気回路の設計がシンプルで済むとか、モーターのパワーを出しやすいとか、電圧のON・OFFで論理演算するような回路に向いている、みたいなメリットがあります。

一方の交流は、電線の中に電気が満ちていて、ギュンギュン行ったり来たりしているイメージでしょうか。

この「ギュンギュン」の度合いは変圧器によって簡単に変換することができます。したがって、発電所から遠くまで超高電圧で送電し、それを使いやすい電圧に下げて使用するというのが可能になります。

決別と対立

電球や蓄音機の成功で巨万の富を得ていたエジソンが取り組んでいたのは、一般家庭にも電気を普及させること。なんとも素晴らしい志であります。

そして、直流によって 各家庭に送電する事業に多額の投資をし、その実現に邁進していました。

しかし、テスラは直流と交流のメリット・デメリットを正しく理解し、各家庭に電気を送るという点においては交流が圧倒的に有利であることをエジソンに訴え続けました。

しかし、エジソンはこれをにべもなく却下。

既に多額の投資をしている状況で、今更方針転換するのは無理。なのにしつこく「交流交流」言ってくる男がもうウザくて堪らないわけですね。

それでもしつこく食い下がるテスラに、エジソンは一つの課題を与えます。

エ「うちの工場にあるモーターの一つでも交流で動かすことができたら、5万ドルのボーナスを払ってやるよ」

テ「マジすか」

エ「男に二言はない!」

2週間後・・・

テ「出来ました。ボーナs」

エ「ボーナスぅ!?貴様はアメリカンジョークが分からんのか!!」

この時、エジソンはやや逆ギレ気味だったとも伝えられています。

努力の人を自称するエジソンにとって、このスマートな天才はあまりにも眩しすぎる存在でした。

何れにせよ、この瞬間テスラはエジソンを見限り、逆にエジソンと対立することになったのでした。

電流戦争勃発

こうして生まれた二人の確執は、直流vs交流という形をとって激しい論争へと発展していきました。

まあただの論争であればそれは科学技術の発展に有意義なものですが、この戦いにおいてエジソンは持ち前の鬼畜性を存分に発揮させたのであります。

ワンちゃんの命の輝きを見よ!

おそらくエジソンは、直流送電が不利であることを分かっていたのでしょう。

そこで、技術論争ではなくイメージ戦略によって戦うことを決意したのであります。

方針はシンプル。事実はどうあれ、交流は危険というイメージを徹底的に広めることに尽力したのです。

その中でも話題を呼んだのは、野良犬殺しでした。

まずは、地元の子供達に小遣いを与えて、野良犬を何匹も集め、それを交流電流で殺すというデモンストレーションを行ったのです。

しかも、交流電流を流す前に、あらかじめコッソリと直流電流で半殺しにしておくという念の入れよう。

実際に手を下したのはブラウンという電気技師でしたが、彼に裏で指示を与えていたのはエジソンに他なりません。

こうしたデモンストレーションはやがてエスカレートしていき、ついには馬まで殺すようになっていきました。

馬の処刑

胸糞

電気椅子の推進

もう一つよく知られているのが、エジソンによる電気椅子への支援であります。

電気椅子

エジソン自身は死刑反対派として知られる人権派でした。にも関わらず、テスラ陣営を貶めるために、電気椅子による死刑執行を積極的に支援していました。

1890年頃のニューヨークでは、伝統的な絞首刑は非人道的だとして、よりスマートな処刑方法を検討する委員会を設置していました。

エジソンは相当な資金をつぎ込んでこの委員会に電気椅子をねじ込み、その電源としてテスラ陣営の交流を採用させたのです。(エジソン陣営の直流は、刑務所まで十分な電圧を届けられなかったという技術的な都合もありました。)

こうしたイメージ戦略に対抗して、テスラは交流電流がいかに安全かをアピールするために、あの有名な写真を公表しました。

ニコラ・テスラ

交流電流の中で優雅に読書するニコラ・テスラ

完敗

こうしたエジソンの卑劣な努力も虚しく、最終的にはテスラ陣営の推進した交流による送電が勝利しました。

象徴的なのは、ナイアガラの滝に設置された大規模発電所。

これにテスラ陣営の交流発電が採用されたことで、この電流戦争は終結を迎えたのでありました。

被曝

最後にもう一つエピソードを。

エジソンは電流戦争に敗北した後も、精力的に様々な研究、発明を続けていました。

こうしたタフなメンタルはうらやましい限りではあります。

その中の一つが、X線の研究でした。

1895年11月、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見しました。

この発見が電信で報じられるのを聞いたエジソンは、わずかその10時間後にはX線の実験と研究に取り掛かりました。

そこからいつものように不眠不休の体制で研究を続け、わずか4ヶ月後の1896年3月にはフルオロスコープと呼ばれる、レントゲンのような装置の完成に漕ぎ着けたのであります。

フルオロスコープ

メガネのように覗き込むタイプのレントゲン装置

その後もX線の研究を続けたエジソンでしたが、1901年以降はいつもクレアレンス・ダリーという助手が実験台になっていました。

クレアレンス・ダリー

エジソンの常軌を逸した長時間の実験に、ダリーは忠誠心を持ってつき合いましたが、X線を浴びた手足の痛みは相当なものだったようです。

毎晩寝るときは赤く腫れた手を水に浸して眠り、原因不明の水疱に見て見ぬフリをして、実験を続けました。

しかし、わずか2年で彼の両手両足は皮膚がんを発病し、切断してしまいました。それでもガンはすでに転移しており、 1904年にダリーは亡くなってしまったのです。

彼は、世界で初めて被曝により亡くなった人物と言われています。

エジソン自身も同時期に目に異変を感じたため、X線の研究は諦めることになりました。

エジソンはそれでも偉大

エジソンは精力的に研究をしていたのは事実だし、その後の人々の生活を大きく変えたのも事実。

ただ、その影では多くの被害者がいて、多くに人に恨まれてもきたのです。

エジソンは「善人なおじさん」という感じのイメージが広く普及しています。

また、自己啓発系の下らん書籍の中では「仕事に熱意があれば労働時間なんて関係ない」的な、社畜養成的な文脈で崇められることもわりとあります。

しかし、実際のエジソンには嫌な面もたくさんあって、そう単純なものではないよ、というお話でした。

参考文献・サイト様
変人偏屈列伝 (集英社文庫―コミック版)
新書765知られざる天才 ニコラ・テスラ (平凡社新書)
交流のしくみ 三相交流からパワーエレクトロニクスまで (ブルーバックス)
凡人が一流になるルール (PHP新書)
蒼天航路(7) (モーニングコミックス)
brain pickings”Thomas Edison, Power-Napper: The Great Inventor on Sleep and Success”
LITERATE APE ”Lives That Science Claimed: A Piece of Radiological History”
天才?未来人?物語としての二コラ・テスラ

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エジソンは偉い人。そんなの常識。 https://fknews-2ch.net/archives/20181122.html https://fknews-2ch.net/archives/20181122.html?noamp=mobile#comments Fri, 23 Nov 2018 05:52:17 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28842 天才とは、1%の閃きと99%の努力である。
“Genius is 1% inspiration and 99% perspiration.”

このよく知られた名言に表されるように、発明王エジソンは天才肌というよりは努力の人でした。

たくさん勉強し、たくさん挑戦し、たくさん失敗した。その回数が尋常でなかったために、今日の彼の名声があるのです。

皆さんの多くも、小学生の頃、エジソンの伝記を読んだでしょう。

こんな感じのやつ↓

今回は、軽いおさらい的な感じで、エジソンの略歴を振り返ってみます。

問題児エジソン

発明王の育て方

エジソンは、1847年にオハイオ州で7人兄弟の末っ子として生まれます。

彼は、4歳になるまで言葉を話せなかったと言われています。一般的に、赤ちゃんは1〜2歳でもう意味のある言葉を話し始めますので、これは相当遅い部類。

幼少期のエジソン

子供エジソン

さらに性格が異常なほどの知りたがりであり、事あるごとに「なんで?」「どうして?」としつこく質問するタイプのちょっとめんどくさい子供でした。

彼のこうした性格は小学校に入学しても変わらずむしろエスカレートします。

1+1=2を教わったときに、「1つの粘土と1つの粘土を合わせても、1つの大きい粘土だよ」などと教師に突っ掛かったのは有名なエピソードですね。

またある時には、モノが燃える理由を知りたくて藁を燃やし、うっかり自宅の納屋を全焼させてしまうなどの問題行動を起こします。

こうした行動の結果、エジソンは教師から「このクサレ脳ミソがァー!」という物凄い悪口を浴びせられます。

クサレ脳ミソが

このコマは明らかにその教師のオマージュ。

およそ教育者とは思えない発言ではありますが、逆に言うと、エジソンはそれほど可愛くない子供であったということでもあります。

ママ〜

これらのエピソードから、エジソンが何らかの発達障害的なハンデを持っていたのはほとんど間違いのないところですが、彼が幸運だったのは優しいお母さんがいた事でした。

エジソンの両親

エジソンのご両親

J( ‘ー`)し「子供の好奇心に理解を示さないような器の小さい学校に行かせては、この子の才能が潰されてしまうわ!」

母の愛は偉大であります。

それからエジソンは小学校をわずか3ヶ月で退学し、自宅でお母さんに勉強を教えてもらうことになります。

エジソンが特に科学分野に興味を示すようになると、お母さんは自宅の地下室を実験室として自由に使わせ、実験に必要な薬品や器具類を推しいなくエジソンに買い与えました。

彼は図書館で本を読み漁っては自宅で実験を繰り返し、やがて人並みどころではない科学的知識を得ることになったのでした。

なお、友達にガスを発生させる薬品を飲ませて人間気球にさせようとする実験なども行っており、相変わらず危険な人物ではありましたが…。

エジソン21歳の夏…

16歳になったエジソンは、当時花形だった電信技師になるための勉強を始めました。

電信というのは、モールス信号で遠くの人とやりとりする通信方法。電話のない時代、電信技師はとても重宝されていたのです。

およそ3ヶ月で電信のあらかたを学んだエジソンは、すぐに電信技師として働き始めます。収入もかなり良かったようですが、エジソンはその給料の大半を学術書につぎ込み、最新の科学技術を学び続けていきました。

そんな彼にとっての転機、発明王への道を切り開いたのは、ある一つの発明でした。

1869年、22歳になったエジソンはウォール街の株式投資会社で電信技師をやっていましたが、その時に株価を受信してプリントアウトするティッカーという機械に着目します。

当時の投資会社は、株価を電信で受信して株の売り買いの指標にしていましたが、その受信した株価を出力するプリンターがしょっちゅう不具合を起こすことに悩まされていました。

プリンターが復旧するまで、その投資会社は情報を受け取ることができないわけで、これは死活問題なのです。

そこでエジソンは、複数のティッカーを親機に接続できるような改良を施します。

株価表示器

Universal Stock Ticker

株式市場から来た電信をオペレーターが親機で入力すると、会社のあちこちに設置したティッカーが同時に「同じ情報」を出力するという仕組み。

パソコンがある今だと、ものすごくショボい発明に感じますが、これは当時としてはかなり画期的でした。

エジソンは早速このアイデアの特許を取得すると同時に株式投資会社に売り込んだところ、その特許はなんと2億円で買い取られたのです。

彼が初めて「発明」でお金を稼ぎ、そしてエジソンが発明王への道を歩みだした瞬間でした。

エジソンは何を発明したのか

エジソンは、20代の時点ですでに、得意の電信分野を中心に100以上の特許を取得しています。

20代のエジソン

キレッキレのエジソソ

中でも重要なのが四重電信というやつで、一本のケーブルで両方向に同時に2 件(計4件)の電信メッセージを送信できる優れもの。この装置の権利はまたもや数億円で売れ、彼の発明人生はついに軌道に乗ったのです。

こうして手に入れた資金を元手に、エジソンはその人生で最大の発明をします。

エジソン最大の発明

それは、研究開発施設の設立。

今風に言うなら、R&Dラボみたいな。科学技術の研究 (Research)と、研究成果を実用化する(Development)ための機関です。

古来から、科学的な研究の成果を道具に応用するというのは行われてきましたが、それは研究とは独立したものでした。

科学の原理を研究することと、その成果を実際に活用することは別々の概念だったのです。

そもそも研究というのは学者が一人で行うのが普通で、たくさんの学者や技術者がチームを組んで研究に取り組むことは滅多にありませんでした。

そうした状況に対して、エジソンが明確な問題意識を持っていたのかは定かではありませんが、とにかく彼は1876年にニュージャージー州メンロパーク (メロンパークではないことに注意)史上初の研究開発施設を建設したのでした。

研究室外観

エジソンの言うことをなんでも聞く男たち

研究室+ガラス工房・鍛治工房・材料倉庫などを含む巨大複合施設である

ラボの成果

エジソンが生涯で獲得した特許は、アメリカ国内だけで1,093件、国外の特許は1,239件、合わせて2,332件にのぼります。

もちろんこの膨大な特許取得を可能にしたのは、エジソン一人の能力ではなく、それを補うメンロパーク研究所があったからであります。

蓄音機

音が空気の振動であることは、古代からよく知られていました。

しかし、その振動を保存しようという試みは、19世紀に入ってようやく始まりました。

世界で初めて「録音」に成功したのは1857年のこと。エドワールというフランス人技術者が、タルの底に取り付けた針を音で振動させて、ススを塗った紙に波形を記録する装置を開発します。

しかし、この装置は音の波形を紙に図形として記録するだけなので、当時これを再生する術はありませんでした。

再生が可能になったのは、2008年のこと。コンピューター処理によって、この装置で1860年に録音された歌声の再生にようやく成功しました。

若干、不気味である

1877年、エジソンはこの装置の原理を改良し、蝋管に針で波形の溝を刻み録音し、その溝を同じように針で読み取ることで再生するという画期的な蓄音機を発明しました。

エジソンの蓄音機

エジソンの蓄音機

エジソンは、メリーさんの羊の歌詞を朗読したものを録音・再生し、人々を大いに驚かせました。

この発明で、エジソンは「メンロパークの魔術師」と呼ばれた

この世で初めて、記録された音声が再生された瞬間でした。

この蓄音機はその後も改良が施されていきますが、その作業で5日間徹夜した後のエジソンの様子が写真に残されています。

その後のレコードの発展に繋がる規格は、後発の別の発明者によるものですが、録音・再生の道筋を開拓したのは紛れもなくエジソンの功績なのであります。

電球

とはいえ、1877年頃のエジソンは、蓄音機よりむしろ電球の開発の方に興味があったようです。

エジソンの電球

実際、エジソンの「発明品」の中でも電球こそが最も有名なものでしょう。

しかし、電球それ自体は1802年くらいにはすでに考案されていて、エジソンが電球を発明したとは言えませんし、エジソン自身も「電球を自分が発明した」とは言っていません。

では、エジソンは何をしたのか。

それは、フィラメント(実際に電気が流れて光る部分)に適した素材を発見したのです。

当時存在していた電球の寿命はおよそ40秒(笑)。しかもフィラメントには高価なプラチナを使っていたりして、とてもランプやガス灯の代わりになれる代物ではありません。

そこでエジソンは、ラボの総力をあげて様々な素材を片っ端から試します。このマンパワーこそが、ラボの強みであります。

そうして1879年に、硫酸で処理した木綿糸をフィラメントに採用して40時間の点灯に成功します。

さらにその翌年には、竹を採用して200時間もの連続点灯に成功し、記録を大幅に塗り替えます。

どうやら竹がフィラメントに向いていると分かったあとは、エジソン10万ドルもかけて世界中からありとあらゆる竹を集め、これまた片っ端から実験を行います。

最終的には、日本の竹を使うことで1200時間までその記録を伸ばしたのであります。

電球に関してよくエジソンが揶揄されるのが、エジソンは改良しただけで発明したわけではない、みたいな話。

確かに、エジソンが生まれる前から電球という概念は存在していました。しかし、点灯時間を40秒から1200時間に伸ばしたのは紛れもなく偉業。

エジソンがいたから、電灯が実用化される道筋が切り開かれたと言えます。

企業家として

エジソンは、ただ研究と発明をしていただけの人物ではなく、企業家としても非常に優秀でした。

彼がもともと電球を売るために1878年に設立した会社エジソン電気照明会社は、やがて電球だけでなく送電事業や各種家電も扱うようになっていきます。

そして種々のライバル社との合併を経て、今ではゼネラル・エレクトリック社として、世界有数の大企業として存続し続けています。

GE社が扱う分野は、航空機エンジン、医療機器、産業用ソフトウェア、各種センサ、鉄道機器、発電および送電機器、鉱山機械、石油・ガス、家庭用電化製品、金融事業、、、など多岐に渡っており、その年商は1,220億ドル13.7兆円くらい!にものぼります。

創業当時のGE社

最初のロゴはエジソンが針金細工で作った。

このGE社の特徴とされるのが、社長の任期が長いこと

任期20年が基本とされていて、40代で誰かが社長になったらその時点で、それより20歳下までの社員が社長になる目はもうなくなるという。

エジソン電気照明会社の設立から数えて今年で140年目になりますが、その間の歴代社長はたったの9人。だからこそ、目先のことに捉われず、長期的な視野で経営ができるという仕組み。

この仕組みの優位性は、GE社が様々な分野で成功していることで証明され続けているのです。

詳しくはこちら↓
CEOはわずか9人。インフォグラフィックで見るGE137年の歴史

しかし…

という具合に、発明王エジソンの偉業を振り返りはじめると、ちょっと終わらなくなってしまうので、でこの辺で一旦締めます。

今回の記事は彼の人生のほんの一端にしか触れられていません。

ただ、彼の「良いところ」についてはよく知られているものばかりで、本当は今更扱う必要もないくらいです。

むしろ注目したいのは、エジソンの闇の部分。彼の生涯は、その偉業を讃えるエピソードと同じくらい、クズエピソードにも満ち溢れているのであります。

その辺は次回。


参考文献・サイト様
エジソン (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記)
ジョジョの奇妙な冒険 49 (ジャンプコミックス)
偉大なる発明家トーマス・エジソン
電球の歴史
General Electric

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https://fknews-2ch.net/archives/20181122.html/feed 43
ヘビの恐ろしさは異常 https://fknews-2ch.net/archives/20180930.html https://fknews-2ch.net/archives/20180930.html?noamp=mobile#comments Sun, 30 Sep 2018 13:52:15 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28787 ヘビの怖さは異常であります。

毒があるとかないとか以前に、あの四肢が無い細長のフォルム、にょろっとした動き、感情の無い目がもう無理。

もし家の中にでも現れようものなら、気絶するしかないかもしれん。

みなさんだって、インディ・ジョーンズの毒ヘビに埋め尽くされた部屋に閉じ込められるシーンで、気が狂いそうになったでしょう?

インディ・ジョーンズ

失われた聖櫃より

この圧倒的な恐怖心を克服するためには、敵を知るしかないのです。

なぜ手足がないのか

まずは、ヤツらがどうやってあの忌まわしい形状に進化してきたのかから始めましょう。

とはいえ実際のところ、四肢を失う方向の進化(というか退化)は珍しいものではありません。

有名なのは、クジラとかイルカね。

彼らの尾びれ、あれは尻尾が進化したもの。

後ろ足はというと、ほんのちょっぴり申し訳程度に可愛い骨が体内に埋まっているだけです。

クジラの骨格

既に絶滅してしまいましたが、ニュージーランドの巨鳥モアは、完全に腕(翼)が退化し痕跡もなくなっています。

モア

ヘビの中でも、ニシキヘビやボアは同じように足の痕跡を持っています。

蹴爪

↑蹴爪と呼ばれる大腿骨の痕跡。

このことから、ヘビも元々は四肢を持っていたトカゲ的な生物だったことが分かります。

実際、およそ1億2000万年前の、小さな四肢を持つヘビの化石も発見され、蛇足が実在したことを示しています。

4本足のヘビの化石

4本足のヘビ

想像図。手足があるだけで、若干親しみが湧く!

ただ結果論ではありますが、南極を除く全大陸にへびが生息していることを考えれば、四肢の退化はヘビを大いに繁栄させたことに間違いありません。

ヘビのサイズ感

ヘビのサイズは大小さまざまですが、最小のヘビはバルバドススレッドスネークという種。

全長10cmというミミズくらいのサイズで、若干の可愛さがあります。

史上最大のヘビ

一方、史上最大のヘビはティタノボアという種。

6000万年前に生息していた超大蛇で、全長は最大で約15m、胴体の直径1m、その重量は1t超というバケモノです。

人間などオヤツくらいの感覚かもしれません。

実物大模型

ただ幸いなことに、このティタノボアはもう既に絶滅済 ε-(´∀`*)ホッ

なお、現生のヘビでの最大サイズはアフリカニシキヘビで、10mを超える個体は稀です。映画にもなった有名なアナコンダも、だいたい似たようなサイズ感。

それくらいであれば、なんとかアマレスが通用しそうな気もします。

ヘビの毒

ヘビが持つもう一つの特徴は、

大きいヘビよりも、こちらの方が危険度は高いと言えます。

何しろ、この地球上で毎年270万人が毒蛇に噛まれ、13万人が亡くなっているのです。一命を取り留めても、手足の切断に繋がってしまうケースも少なくありません。梶原柳剛流クラスの危険度と言えます。

なお、こうした蛇咬被害はインドがダントツで多く、半分以上を占めています。

コブラダンス

インドはこれが原因ではなかろうか

消化を助ける

ヘビの毒は、もともともは唾液に由来します。

ヘビのほっぺの内側には毒腺という毒を生成して貯めておく器官がありますが、これは人間でいえば唾液腺に相当します。

毒腺

ヘビの毒にはタンパク質を分解する機能がある(唾液だから)ので、毒を打ち込まれた獲物は内側から分解されていくことになります。

基本丸呑みのヘビにとって、大きな獲物を消化吸収している時間は隙だらけです。

ここで敵に襲われたらお終い

なので、少しでも早く消化を終えるために、胃液と唾液(毒)をフル活用していくというのは非常に理にかなっとるわけです。

毒ヘビのなかまたち

せっかくなので、危険度の高い毒ヘビをいくつかご紹介しておきましょう。

積極的に攻撃してくる

アフリカ大陸のあちこちに生息しているグレーの毒ヘビ、ブラックマンバ

名前のブラックは、口の中の色から。

ブラックマンバ

細身のシルエットですが、全長は最大で4.5mにも及びます。この長さは毒ヘビ界ではキングコブラに次いで2位。

その性格は凶暴で、わりと積極的に咬んでくる上に、毒も強力。

一咬みで100mgほどの神経毒を注入しますが、その量は10人殺してお釣りがくるレベル

なお、毒液はたっぷり1500mgも蓄えてあるので、12回くらい連続攻撃ができる計算になります。

さらに動きも素早く、その最高速度は時速20kmにも達します。平地なら人間(平均24km/h)の勝ちですが、薮の中で追われたらまず間違いなくブラックマンバの餌食になるでしょう。

同じように危険なのが、オーストラリア沿岸部に生息するタイパン

タイパン

全長は4mと、ブラックマンバよりやや小ぶりですが、毒ヘビだから大きさはあんまり関係ありません。

毒の強さはブラックマンバを凌いでおり、噛まれるとほぼ1時間以内に死亡します。

血清が発見されるまでは致死率100%でしたが、現代でもやっぱり血清が間に合わなくて、限りなく100%に近い致死率を維持しています。

タイパンに襲われた死体にはだいたい複数箇所に咬み跡があることから、その攻撃的な性格がよく分かります。

何しろ毒がやばい

毒ヘビの中で最も強力な毒を持つ種は、ナイリクタイパンです。

色違いモンスター

上で出たタイパンの仲間で、同じくオーストラリアの内陸部に生息しています。

が、毒の強さはタイパンの比ではなく、一咬みで289人殺せるほどと言われています。

ただし、性格が臆病なおかげで、ナイリクタイパンから攻撃してくることはほぼ無いとされています。

その次に強い毒を持つのが、イースタンブラウンスネークという種。

イースタンブラウンスネーク

こいつもオーストラリアの中央部に生息しています。オーストラリアやばい。

その毒は一咬みで58人いけますが、ナイリクタイパンと違ってわりと積極的に攻撃してくる気性の荒さを持ち、年平均で2〜3人のオーストラリアンが殺られているとか。

ヘビのおかげ

ここまで、ヘビが進化してきた歴史、そしてその危険度について見てきました。

知れば知るほど、ヘビに対する恐怖心や嫌悪感が増してきますね!

実際、ライオンを怖いと思う気持ちとヘビを怖がる気持ちでは、感覚的にだいぶ怖さの質が違いますよね?

ヘビに対しては、「食べられちゃうかも😇」というだけではない、なんとも言えない恐怖感があります。

ある調査によると、およそ人類の30〜50%がヘビ恐怖症を持っていると言われています。

ヘビ恐怖症というのは、要するに過剰にヘビを怖がる症状。実物はおろか画像を見ただけで震え上がっちゃう感じの症状です。

恐怖症には色々な種類があります。高所恐怖症をはじめとして、虫、蜘蛛、飛行機、先端などなど。この中で、ヘビ恐怖症を持つ人はダントツの一位であります。

霊長類はヘビが嫌い

なぜ人間はそんなにもヘビが嫌いなのでしょうか。

ここに、ある一つの事実があります。

それは毒ヘビのいない地域の霊長類は視覚が劣っているということ。

ある学者はこの事実を受けて、ある時期まで霊長類にとって最凶の捕食者はヘビだったのでは、と推理しました。

すなわち、霊長類は天敵であるヘビを素早く見つけるために視覚野を発達させ、ひいては脳の肥大化に繋がっていったというわけ。

確かに、霊長類の大半は樹上生活をしていたわけで、大型の捕食獣がいない環境にいたわけです。その霊長類を脅かせるのは、木に登ってこれる危険な動物。

と言ったら、これはもうヘビしかありませんね。

こうした説を受けて、名古屋大学で興味深い研究が行われました。

それは、次のような画像を見せて、何の動物の画像かを当てさせるというもの。

ヘビ画像の場合、STEP8の時点で9割以上の人がヘビと看破しています。

一方、にゃんこの画像の場合、STEP8時点での正答率は7割。

自覚しているか否かに関わらず、脳の緊張感が段違いなのです。ヘビを見ている時とぬこを見ている時では。

名古屋大では他にも面白い実験をしていて、3歳児であっても、たくさんの写真の中からヘビの写真だけは素早く見つけ出せるなんてことも明らかになっています。

さらにカルフォルニア大学では、脳の視床枕という部位にヘビを見ると即座に反応する細胞があることを突き止めました。

視床枕というのは、哺乳類だけが持つ脳の部位で、視覚的な注意を促したり映像に素早く反応する機能を持っていると考えられています。

視床枕

この視床枕は高等なサルになるほど大きく発達しているのですが、カリフォルニア大の実験では、サルの視床枕がヘビの画像を見た途端に強く反応し、他の画像ではあまり反応しないことを突き止めました。

これは本能

ここまで来ると、ヘビに対するえも言われぬ恐怖、これは本能であると言わざるを得ません。

危険な生き物はたくさんいますが、その中でも特にヘビに対しては、霊長類は本能から来る別格の恐怖心がプログラムされているというわけです。

世界にヘビの出てこない神話は無いと言われていますが、それも納得。

アダムとイブに林檎を食わせた奴

女媧

八岐大蛇

石にしちゃうおばさん

ケツァルコァトル

脱皮するから不死の象徴とか、形がペニスに似てるから豊穣の象徴とか、そういう表面的な話ではないのです。

本能に「ヘビ苦手」とインプットされているからこそ、人類に強烈なイメージを残したのです。

という風に納得してもやっぱり怖いので、逆に美しいヘビ画像で〆ますね。

おえっぷ…。

参考文献、サイト様
Pulvinar neurons reveal neurobiological evidence of past selection for rapid detection of snakes
ヘビが怖いのは生まれつきか?
霊長類の脳が大きいのはヘビのせい?
Top 10 Most Venomous Snakes
Wikipedia-“Snake detection theory”
グラップラー刃牙 34 (少年チャンピオン・コミックス)
喧嘩稼業(6) (ヤングマガジンコミックス)

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https://fknews-2ch.net/archives/20180930.html/feed 58
え!!たったの4億年で生命を!?  https://fknews-2ch.net/archives/20180826.html https://fknews-2ch.net/archives/20180826.html?noamp=mobile#comments Sun, 26 Aug 2018 09:02:49 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28741 最初に言っちゃいますけど、今現時点で存在する生命の起源に関する説明は、大きく次の3つに大別できます。

奇跡説

これは前回記事でたらたらと書いたような感じのやつ。

確率が低い→奇跡!神様!!

みたいなね。思考停止に過ぎません。

パンスペルミア説

かつて一世を風靡したのが、このパンスペルミア説。

一言で言えば、生命の種は宇宙から飛んで来たんだよという説です。

隕石に生命の素がくっついてきて、地球で繁栄したというわけ。

けっこう真面目に検証されて、大気圏突入の高熱や、宇宙を飛び交う放射線も、ある種の微生物なら耐えられるという事で、俄然盛り上がりを見せました。

しかし、その根本の「生命の素」が、どこでどのようにして発生したかという説明を放棄しているので、今となっては微妙。

やっぱ地球で生まれた

残るは、なんらかのメカニズムによって、地球に生命が誕生したという説。

このメカニズムの説明がなかなか難しくて、奇跡説やパンスペルミア説が我々一般人の間で幅を利かしてきたわけです。

が、そのメカニズムも少しずつそのベールを脱ぎ始めています。

生命の歴史

地球が誕生してから今まで、ざっと46億年。

まずは、その46億年の中で生命がどのように発生し進化したのかを、軽く年表形式にしてみます。

生命の歴史

この年表において注目すべきは、生命が誕生するまでのスピード感です。

生命がその歴史上で一番苦労したのは、意外なことに原核細胞から真核細胞に進化することでした。

ここに18億年もかかっています。

次点は単細胞生物から多細胞生物に進化すること。これにもけっこう手こずり、10億年かかりました。

なお生命の誕生は3番手。地球が誕生してからたったの6億年後のことでした。

赤ちゃん地球

地球が誕生してから6億年と言っても、実際の年数はもっと短かかったはず。

というのも、46億年前の生まれたばかりの地球の環境は、とても生命が生まれる余地などない過酷なものだったからです。

地球の誕生

46億年前より昔、太陽の周りには大小様々な惑星が飛び交っていました。

それらが衝突と合体を繰り返して、赤ちゃん地球になっていったと考えられています。

そして45億6700万年前。

かなり大きめ(火星サイズ)の天体が、その赤ちゃん地球に衝突して融合。そうして現行サイズの地球になりました。

ジャイアントインパクト

エヴァでいうところの、ファーストインパクト

この頃の地球には小惑星が降りまくっており、そのエネルギーによって地表は数千度のマグマに覆われていました。

この地獄のような環境で生命が誕生する可能性はゼロでした。

冷却

ただし、宇宙は寒い。

そのおかげで急速に地球は冷え、空中にあった水蒸気を雨に変えたのであります。

年間降水量は10m。毎日大雨が続いた結果、44億年前の時点で原始海洋が生まれました。

仮にこの時点を下地が整ったタイミングとすると、生命誕生までの猶予はたったの4億年です。

え!!たったの4億年で生命を!? 

出来らあっ!」と言いうのは簡単ですが、実際どういうプロセスがあったのでしょうか。

生命はどこで生まれたか

ダーウィン以来、生命は地表の小さくて暖かい池で生命は生まれたと考えられてきました。

しかし、40億年前の地球は穏やかな環境ではありません。

41億〜38億年前は後期重爆撃期といって、小天体が集中的に地球に降り注いだ時代でした。

したがって、もし仮にその池に原始生命が生まれても、すぐに衝撃で吹っ飛ばされるか蒸発してしまう感じ。

そうした衝突の影響から逃れられそうなところって、深海しかありませんでした。

深海に生きる微生物

深海の中でも、特に生命誕生の最有力候補地と考えられているのは、海の底にある熱水噴出孔の周辺です。

深海のあちこちには、地熱で温められた熱水(300〜400℃)が吹き出る噴出孔があります。

熱水噴出孔

モクモク出てる黒いのが熱水

この噴出孔からは熱水だけでなく、硫化水素、メタン、アンモニアといった生命誕生の材料となりうる化学物質が豊富に噴き出ています。

さらに、その周囲の微生物を分類したところ、そのほとんどが古細菌という系統(ドメイン)に属していることが分かりました。

ドメインというのは、生物を根本的なレベルでのゲノムの違いによって分類したもので、この世の生物は3つに分類されています。

3ドメイン説

俺たちは真核生物ドメイン

この3つの中で古細菌は最古の系統であり、さらにその中でも最も早い時期に誕生したのが好熱菌でした。

好熱菌とは、高温環境を好み、100℃の水の中でも元気に暮らせる驚異の生物。

この発見により、海底の熱水噴出孔の周りには、地球のごく初期の段階に生命が存在していた可能性が強まったのです。

海底で生命が生まれるメカニズム

ここからは具体的な話。

有機物の作り方

まず大前提として、生命が生まれるためには、その材料であるタンパク質とか脂質とか核酸みたいな、いくつもの分子が組み合わさって構成された高分子化合物がなくっちゃいけいない。

しかしながら、その高分子化合物が生成されたプロセスがよう分からん。

原始の地球には、鉄とか硫黄とか二酸化炭素とかメタンとか窒素みたいな、わりとシンプルな物質は豊富に存在していました。しかし、それらはシンプルであるがゆえに、化学的に安定しているのです。

化学的に安定しているということは、そうそう簡単には他物質とくっついたりはしないということ。したがって、ほうっておいても変化が起こりません。

高分子化合物が生成されるためには、触媒となるような何かが必要になるのです。

ところが、例えばタンパク質を作るには触媒としてRNAが必要になります。じゃあRNAがあればいいのかというと、そのためにはタンパク質が必要。ということは、タンパク質があればいいとのかというと、そのためには、、、。

という具合に無限ループになってしまいます。

表面代謝説

ここで、タンパク質とは全く異なる触媒が必要になるわけですが、その候補の一つとして挙げられるのが、硫化鉄という鉱物。

硫化鉄

硫黄がくっついた鉄(FeS)です。

この硫化鉄の表面に硫化水素と二酸化炭素を用意してあげると、

FeS(硫化鉄) + H2S(硫化水素) + CO2(二酸化炭素)
 ↓
FeS2(二硫化鉄) + H2O(水) + HCOOH(ギ酸)

という反応が起こります。

この化学反応において注目すべきは、硫化水素と二酸化炭素という無機物から、ギ酸という有機化合物(脂肪酸の一種)が生まれているところ。

鉱物の表面で代謝っぽい現象が起こっているわけです。

しかも都合のいいことに、海底の熱水噴出孔の周りにはこの硫化鉄や硫化水素が豊富に存在していますので、生命誕生の地が海底であるという説を後押ししています。

なお、硫化鉄に限らず、鉱物はけっこう触媒になりやすいものです。

例えば、アウトドア派には必須のハクキンカイロ。

ハクキンカイロ

半永久的に使える

これは、プラチナが酸素を吸着しやすい性質を利用して、ベンジン(炭化水素)を水と二酸化炭素に分解するという仕組み。この分解の過程で熱が発生するのです。

粘土

こうして鉱物の表面で生成された有機化合物は、海中を漂うことになります。

それが、広大な海でたまたま別の有機化合物と出会って結合するというシナリオは、かなり確率が低そうに思えます。

しかし、もし何か土台のようなものがあったならば話は別です。

現在、多くの科学者は、海底にある粘土こそがその土台だったと考えています。

粘土というのは、何層ものシート状に原子が並ぶ構造を持っています。

シート状になっているということは、大きな表面積を持っているということ。そして、層の間の狭い空間に集まりやすいということ。

まず、海中に漂う有機化合物が粘土にぶつかり、その表面にくっつく。やがて同じようにい、くつもの有機化合物が粘土の表面に集まる。お互い粘土にくっついて逃げ場がないので、自然と有機化合物同士が結合する。

より複雑な高分子化には、粘土のシート状構造が不可欠だったというわけです。

そのおかげで効率的に「試行回数」を稼ぐことができ、結果として様々な有機化合物が生成されたのであります。

アミノ酸だけでなく、RNAの材料であるヌクレオチド、そしてそれが繋がってRNAの断片まで作られた可能性は十分にあります。

実は、イメージに反して、細胞を包む膜の発生はさほど難しいものではないっぽいです。

話はシンプル。

脂質が潤沢にある場所で攪拌されたかなんかで、小さな泡ができた。その泡の中に、たまたま粘土から剥がれたRNAが取り込まれた。

これだけ。

泡

脂質分子は、混ぜられると内部が空の球状にまとまりやすい性質を持っています。

これが細胞の原型であるのはほぼ間違いないところと考えられています。

この泡の中には、RNAだけでなく、タンパク質の材料であるアミノ酸なんかも取り込まれました。

原子細胞

RNAはヌクレオチドの鎖ですが、その鎖が短いうちは何も起きません。

しかし、その並びはどうあれ、30個以上の長さになった途端に、複製を始めます。触媒の機能を獲得するのです。

RNA

脂質の泡に取り込まれたRNAの断片は、その中で結合して30個以上の長さになっていったのでしょう。

もちろん、原子細胞が持っていたRNAはランダムな並び。個体によって、素早く複製できる細胞とゆっくり複製する細胞、複製すらできない細胞もあったはず。

そういうダメな細胞はすぐに消滅し、逆にテキパキ複製できた細胞は、あっという間にその個体数を増やしていくことになります。

まとめ

もう一度、生命発生のメカニズムをおさらいしましょう。

①有機化合物の合成

海底の熱水噴出孔の周囲で、鉱物の表面で有機化合物が生成される。

材料は硫化水素とか二酸化炭素とか窒素とか。

②さらなる高分子化

①で生成された有機化合物が、粘土の表面でさらに結合を繰り返し、高分子化。アミノ酸やRNAが生成された。

③脂質の膜で覆われる

②で生成されたRNAやアミノ酸が、脂質の泡に取り込まれる。

その結果、生命のプロトタイプともいうべき雑多な種類の細胞もどきがたくさん発生した。

④自然選択

その多種多様なプロトタイプのうち、RNAが有効に機能して素早く大量に複製できた細胞が生き残った。

これがこの地球の生命の共通祖先です。

ここまでのステップをだいたい4億年でこなしたというわけ。

まあ、実際にはこれは諸説ある中の一つに過ぎなくて、まだまだ分からない事だらけなのですが、なんかまあ普通にできそうな感じでしょ?

参考文献、サイト様
生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学
生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像 (講談社現代新書)
スーパーくいしん坊
ウィキペディア「生命の起源」
Life’s Rocky Start
るいネット「鉱物の表面で生物は生まれた」

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https://fknews-2ch.net/archives/20180826.html/feed 56
生命が誕生する確率ワロタ https://fknews-2ch.net/archives/20180729.html https://fknews-2ch.net/archives/20180729.html?noamp=mobile#comments Sun, 29 Jul 2018 13:00:50 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28689 せっかくなので、生命誕生の不思議についても触れてみたいと思います。

この問題は、奇跡としか言いようのないくらい、もうあり得ないくらい低い確率の出来事だったようですね。

曰く、猿が適当にタイプライターを打鍵して、シェイクスピアの戯曲が完成するくらいの確率だとか。

無限の猿

他にも、

竜巻がスクラップ置場を通過した時に、巻き上げられたスクラップによってボーイング747が出来上がるくらいの確率。
25mプールに投げ入れられたバラバラの時計の部品が、水の流れだけ組み上がるくらいの確率。
宝くじの1等が、100万年間毎週当たり続けるくらいの確率。

みたいに表現されます。

細かい数字はよく分かりませんが、物凄く低い確率だというのは伝わってきますよね!

実際、ある識者によると「数学的見地から言うなら、確率が1/300,000以下なら0パーセントと解釈してよい」とのこと。

愚地独歩

ある識者

しかし現実には、この地球上は生命で溢れています。起こり得ないことが起こっているわけです。

生命の定義

そもそも、生命とはなんぞやというところから始めましょう。

生命の根本を突き詰めて考えると、次の3つの機能に集約されます。

・代謝系を持つ。
・自分と外を区別する膜を持つ。
・自己複製できる。

代謝系

代謝系というとなんだか小難しい感じがしますが、要するに、脂肪を燃やしてエネルギーにしたり、タンパク質を筋肉に変えたりするようなシステムです。

pizza

このシステムは、種によって色々なパターンがあります。植物は光合成をするし、深海には硫化水素(人間には猛毒)を栄養にしている細菌もいます。

が、その違いはどうあれ、物質を分解してエネルギーを取り出すもしくはエネルギーを使って物質を合成して体の材料を作るという働きが、代謝です。

この機能がないことには、生命は自分を維持することはできません。大事。

膜も大事。

A.T.フィールド

A.T.フィールドと同じで、自己と外界を区別するためには、仕切りが欠かせません。

原始の生命は水の中で発生したと考えられていますが、膜が無ければ溶けて流れてしまいます。膜があるから個体として存在できるのです。

自己複製

地球の生命はDNAという細胞の設計図を持っています。それは、人間でも細菌でも一緒。

DNA

DNAに沿って身体の材料であるタンパク質が生成され、それが組み合わさって、複雑な構造が組み上がっていくのです。

そのプロセスは、実に神秘的なものです。

その細かい説明は、↓この動画に丸投げさせていただきます。

DNAが複製されていく過程が超分かりやすい!

何が大変なのか

ダーウィン以来、生命は生命のスープなどと呼ばれる、有機物たっぷりの池とか浅瀬みたいなところで発生したと、伝統的に考えられてきました。

生命のスープ

原始の地球においては、まだ複雑な分子構造を持つ有機物は存在しませんでした。

しかし、有機物の材料は豊富にあり、それが長い時間をかけて徐々に結合して海に溶けて、生命のスープが出来上がったのです。

最初の難関

しかし、そのスープの中で実際に生命を誕生させようとすると、まず初めにタンパク質を作る難しさに直面します。

プロテイン

ボディビルダーが常飲していることからも分かるように、タンパク質は身体のもっとも根本的な材料に他なりません。

それは、単細胞生物であっても同じ。およそ地球上の全ての生命が持つ細胞は、全て例外なくタンパク質によって構成されています。

で、そのタンパク質の原料はアミノ酸という有機物です。

アミノ酸は500種類ほど存在していて、そのうちのだいたい20種類だけがタンパク質の原料となります。

そして、その20種類くらいのアミノ酸のうちの特定の種類のものが、100個以上も特定の配列で結合する事によって、ようやくタンパク質になるのです。

タンパク質

では、生命のスープの中にゆらゆら漂っているアミノ酸が、ランダムで結合する状況を想像してみましょう。

まず、500種類のアミノ酸から、重複を許して20種類を選び出す組み合わせの総数は、5.7×1035通り

さらに、そうして選び出された20種類のアミノ酸を100個並べる順番のパターンは、1.2×10130通り

この二つを合わせると、だいたい6.8×10165通り

ちなみに、この世で最も数多く存在する分子は水素分子なわけですが、その数は全宇宙の分を全て足しても、たったの1080

ちょっと計算に自信がないので間違ってたら教えてもらいたいわけですが、とりあえずもう一度画像を貼りますね。

愚地独歩

もうタンパク質がたまたま地球上で生成されたという事実。それだけでもう奇跡なのです。

更なる難関

とは言えまあ100歩譲って、なんとかタンパク質が地球に登場したとしますね。

しかし、それだけで生命がパッと生まれるわけではありません。

先に触れた、生命の3つの定義。これをなんとか満たすような形でタンパク質を組み合わせなくてはなりません。

生命が持つ3つの機能はどれが欠けても生命としての体をなさないように思えます。

代謝システムを持たないなら、それはモノと変わりありません。

自分を包む膜が無ければ、それは拡散して消えてしまいます。

また、もしそれが自己複製できなければ、1世代で消滅。存在した痕跡すら残りません。※管理人もです。

ということは、最低でもこの3つが同時に成立しなければ、生命は地球に誕生しなかった事になります。

ただでさえ複雑なものが、たまたま3つ機能を満たすような形で、せーので成立した。

まさに、「竜巻でボーイング」とか「プールで時計」レベルの奇跡。

その確率たるや、もはや計算で算出できるレベルのものではありません。

フレッド・ホイルという天文学者の試算によると、1 / 1040,000の確率らしいです。

こうして生命は生まれた??

いったんまとめましょう。

地球が生まれてから長い時間をかけて、有機物がたくさん溶けたスープのような海が生まれた。

そして、そのスープに含まれる有機物が、ものすごく低い確率を乗り越えて、タンパク質を生み出した。

さらに、そのタンパク質がたまたま組み合わさって、別の物質を取り込んでエネルギーに変換する仕組みと、自分と同じタンパク質の組み合わせを複製できる仕組みが生まれた。

その2つの機能が生まれた瞬間、膜がそれを覆った。

こんな偶然、自然に起こるなんてあり得ると思います!?(1 / 1040,000の確率)

そこになんらかの超常的な存在(神様か宇宙人)の干渉があったとしか考えられませんね!!!!

だが待ってほしい。

なーんていうのは、嘘ピョン。

こういう、誰かの意図で生命が発生したという考えは、インテリジェント・デザイン、ID説などと呼ばれています。

インテリジェント・デザイン

超低確率 → でも実際に起こった → 偶然とは思えない → 偶然じゃない → 神様(or宇宙人)の仕業だ!みたい思考回路ね。

そこには、なんかよく分からないから問題を先送りにしちゃおっと♪みたいな軽さがあります。

確かに超低確率なことが実際に起こったのならば、そういうオカルチックな方向に行きたくもなります。が、その前に別の可能性を考えるべきではないでしょうか。

別の可能性というのは何か?

そう、生命の発生はそこまで低確率じゃないという可能性です。

低確率じゃない → 実際に起こっただとすれば、実にシンプルではありませんか。

次回またこのブログに来てください。本物の生命誕生プロセスをお見せしますよ。

参考文献、サイト様
生命・DNAは宇宙からやって来た (5次元文庫マージナル)
範馬刃牙(17) (少年チャンピオン・コミックス)

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生物が眼を手に入れた結果wwwww https://fknews-2ch.net/archives/20180709.html https://fknews-2ch.net/archives/20180709.html?noamp=mobile#comments Sun, 08 Jul 2018 22:00:26 +0000 https://fknews-2ch.net/?p=28517 生き物にとって、感覚器官はとっても大事です。

敵が近くにいないか。危ないものはないか。食べ物がどこにあるか。自分は空腹なのか。どこか怪我していないか。

これらは全て感覚器官があって初めて把握できるものです。

ご先祖様

今からおよそ40億年前、海の中で誕生したとき、生命はまだ3つの機能しか持っていませんでした。

・細胞という形状を持っていること
・何かをエネルギーに変換できること
・ゲノムを持っていて自己複製ができること

シンプル

この原始生命体は、単細胞で核すら持たない非常にシンプルな身体だったと考えられています。

彼らにとって、世界は真っ暗。というか、明るい暗いという概念すらありません。

そして、世界は無音。近くで気泡が弾けようが、噴火が起ころうが、静かなもんです。

さらに、無味無臭。海水がしょっぱくても苦くても関係ありません。

もちろん、泳いで移動なんてしないし、岩に挟まれても痛くないし、ひっくり返っても上下の感覚なんてないし、自分がどういう姿形なのかも分からないし、暑くも寒くもありません。

なもんで、ただただ海水の中に漂うだけ。そして、そこに栄養があれば摂取してエネルギーに変換する。何もなければ何もしない。それだけの存在でした。

動物門の分岐

このご先祖様は、感覚器官も無いし自分で移動することもできないので、よほど運が良くないとすぐ死にます。

しかし、体の構造はとてもシンプルなので、すぐ死ぬけどそれ以上のペースで分裂することができます。

分裂。つまり、倍々で増えていくので、恐ろしいほどのペースで増殖していきます。

最初の1匹が10回分裂するだけで1024匹。20回分裂すれば1000万匹。30回なら10億匹を超えます。

分裂のペースをおよそ20分毎とすれば、1日に72回。数え切れないほどDNAが複製されているのです。

それだけ分裂していれば、うっかりDNAのコピーミスが起こるのも当然。

そして、その偶然のコピーミスの結果生まれた特性が有利なものなら、その特性は次世代に受け継がれていくというわけ。

これが、進化論の基本的な考え方です。

感覚器の獲得

こうした流れの中で、たまたま生物が獲得した特性の一つが感覚器官なのです。

感覚器官を大別すると、物理刺激に反応するタイプと、化学物質に反応するタイプがあります。

物理タイプの方は、人間でいえば、眼(特定の波長の光)、耳(空気の振動)、皮膚(圧力とか温度とか)が代表的なもの。

化学タイプの方は、舌と鼻になります。味も臭いも、本質的には化学物質に他なりませんからね。

はじめての味

化学タイプの感覚器は、かなり初期段階で獲得しているようです。

生物はエネルギーを得るために外部から栄養を取り込まなくてはならないわけですが、それが毒だった場合、ヤバいわけですね。

シンプルな機能しか持たない原始生命体がうっかり毒を摂取しまくっていたであろう事は、想像に難くありません。

それが、味覚を獲得することによって、自分にとって「よいもの」かどうかの判断がつくようになったのです。

ここではじめて、生命は「自分の外側」を認識したのだと言えます。

例えばアメーバは甘いものが好きで、酸っぱいものが嫌いです。

アメーバが砂糖をあま〜いという風に感じているわけではないでしょうが、味覚によってそれが栄養である可能性が高いと判別しているのです。

眼が登場してしまった

およそ40億年前に原始生命体が誕生してから、生命は長い間ずーっと単細胞生物でした。

そのため、敵に食べられちゃう恐れも少なく、基本的には硫黄とか硫化水素とか酸素とかを栄養にしながら、のんびりと過ごしていました。

たまに噴火や隕石で絶滅しそうになったりもしましたが、基本的には生存競争は全然キツくなかったと思われます。

その中で、徐々に生物は少しずつ進化を蓄積。やがて、ひょっこりと多細胞生物が生まれ、様々なカタチの生物に分かれていったのです。

そんな中で、ある種の生物が視細胞を獲得します。

理由はよく分かりません。

しかし、最初は明暗が分かる程度だったのが、やがて進化して「眼」になっていきました。(雑な説明)

眼の進化

もう少し説明を試みると、まず単細胞生物などによく確認される原始的な眼として眼点というものがあります。

眼点とは、光を受容するタンパク質のこと。

光が当たると変形して化学物質を分泌するタイプのタンパク質です。

機能的には昼と夜の区別がつく程度のもの。ただ無いよりはあった方が圧倒的に便利なのです。

これが多細胞生物になっていく中で、光を受容することを専門とする細胞、すなわち視細胞を持つようになっていきました。

進化の初期段階では体の表面に点在して明暗を感知していましたが、それが徐々に徐々に一か所に集まっていきました。

この集まり方にも種類があります。

くぼみに集まって視細胞の「面」を形成したのが、人間のような眼の起源。

眼の進化

こんな感じね

一方、虫とかのような複眼は、視細胞を筒状にして、それをくっつけたような形になっています。

ハエの複眼

だから、虫の眼はドーム状に出っぱっているというわけです。

こんな風にね

なお、体の表面に点在している眼点がレンズを備えた眼に進化するまでの期間は、意外と短いようです。

ある研究者がコンピューターでシミュレーションしたところ、たったの40万世代で十分だったとか。

平和は進化の母

今我々が知り得る最も古い眼は、およそ5億3000万年前、カンブリア紀の三葉虫のものです。

三葉虫

三葉虫。立派な複眼である。

それ以前の化石からは眼の存在が確認されていないので、まあだいたいこの頃に眼が完成したのでしょう。

カンブリア紀は、あのカンブリア爆発があった時代。

「生物の多様性が爆発的に広がった時代」という風に考えられています。

しかし、これは実のところあんまり正確な理解ではありません。

実際のところ、カンブリア紀とは、ある意味では「生物の多様化が止まった時代」なのです。

「眼」が起こした闘争

相手の視覚を奪い、一方的に攻撃する。これは闘争におけるかなり効果的な手段であります。

テニスの王子様

卍解閻魔蟋蟀

カンブリア紀に起こったのは、こういうのと一緒。

それまでは臭いと手探りで、のんびりと獲物を見つけていた捕食者。そして同じように臭いと手探りで、のんびりと逃げていた被食者。

ところが、眼が登場したことにより、こののんびり感は消し飛んでしまいます。

何しろ眼を持った天敵が正確にこちらの位置を把握して襲ってくるという超ヤバイ状況なわけです。

獣臭

などとのんびり臭いを嗅いでいる暇など無いのです。

ここで一気に、生物界に激しい淘汰圧がかかりました。

結果として、眼を持つ捕食者に対抗するかのように、被食者も眼を持つようになりました。これで五分。

さらに、外形がものすごい多様化を見せます。

カンブリア紀

特に、硬組織(殻やトゲ)を持つ生物が目立って増加しました。

どんな生物も光から逃れることはできません。そこで、見つかっても食べられないようなスキルを身につける方向に進んだというわけ。

そうして生物が硬組織を獲得すると、どうなるか。

答えはもうお分かりですね。化石に残りやすくなるです。

人間、生まれたからには、何か自分が生きた証を残したいと思うものです。 そして、出来ることなら後世になるべく大きな影響を与えたいなんて思った...

↑参考

本当のカンブリア爆発

基本、柔らかい組織は簡単に腐るので、化石になる前に朽ちて消え去ります。殻とか骨みたいな組織だけが化石として後世に残ります。

それで、カンブリア紀以降から急に化石が増えることになり、それがあたかも、カンブリア紀以降から急に生物が多様化したように見えちゃったというわけです。

真実は、カンブリア紀以前から生物は多様化を見せていたが、それぞれの種が眼の発生によって一斉に硬組織を獲得したです。

↓こうではなくて、

↓こう。

動物門は増えていない

動物をそのボディプランで分類すると、概ね34種類に分けることができます。

この分類はと呼ばれます。我々人間は、脊索動物門に属しています。魚とかトカゲとかも、同じ脊索動物門です。

門の一覧は、ウィキペディアを見てください。

門が異なると、例えばクラゲとかの刺胞動物門や、イカタコとかの軟体動物門、昆虫とかの節足動物門、といった具合に、もう根本的に身体の設計方針が違う感じがあります。

で、この動物門は生命の発生以後少しずつ増えてきましたが、カンブリア紀に入って以降は一つも増えていません。

ここ5億年、新たな設計の動物は一つも増えていないのです。

確かに見た目はバラエティ豊かですが、その根本的な部分での枝分かれはピタリと止まってしまっています。

なぜか。

それは、眼の登場によって生存競争が激化したことによるものと思われます。

もうね、余裕がないのです。のんびり進化する余裕が。

うっかりDNAのコピーをミスって新しいボディプランの生物が生まれた場合、カンブリア紀より前であれば生き延びて新しい門を作るまでに繁栄する可能性もありました。

しかし、ガチガチの食物連鎖の世界において、それはもうほぼ無理なのですね。

平和も大事

眼を獲得して以降、生物は強く逞しくはなったけれども、門は増えなかった。

このことから分かるのは、淘汰圧は形態的な進化を加速させる一方で、根本的な進化を止めてしまうということ。

我々の常識に反して、生物の根本的な進化は平和な世界でしか起こり得ないのです。

みんなが仲良く暮らすのが大事なんですよ。

参考文献・サイト様
眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く
図解・感覚器の進化原始動物からヒトへ水中から陸上へ (ブルーバックス)
生物はなぜ誕生したのか:生命の起源と進化の最新科学
カンブリア爆発の正体
Wikipedia「眼の進化」
「光スイッチ説」とカンブリア紀の大進化

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視力の大切さを知ろう。 https://fknews-2ch.net/archives/20180604.html https://fknews-2ch.net/archives/20180604.html?noamp=mobile#comments Sun, 03 Jun 2018 16:30:57 +0000 http://fknews-2ch.net/?p=28377 我々がこよなく愛する(主に格闘系の)フィクション世界において、もはやテンプレートとも言えるのが、盲人系強キャラ。

以下はほんの一例
宇水さん
泣き虫サクラ
市川
東仙要
座頭市
伊良子清玄
この月光生来目が見えん

宇水さんを筆頭に、彼らは実に魅力的なキャラクターであり、そのほとんどは作中最強クラスの実力者でもあります。

異常聴力や心眼などを駆使し、常人よりもよっぽどよく「見えている」のです(という設定)。

こうした風潮の背景には、当然ながら盲目というのは物凄いハンデキャップであるという世間の共通認識があります。

実際大きなハンデキャップなのですが、それをひっくり返すことで意外性を演出しているのですね。

ある研究によると、我々の知覚や行動は、そのおよそ80〜85%を視覚に頼っているとか。

眼で見てモノを認識し、眼で見て行動する。つまり、活動の大半を「眼」に頼っているわけです。

実際、眼をつぶってしまうと、まっすぐ歩くことすら困難。我々が眼に頼っている度合いが80%以上というのは、体感的にも納得できるものです。

眼の仕組み

そんな重要な器官である「眼」ですが、実は生物がこれをどのように獲得したのかというのは結構難しい問題です。

角膜に入った光の量を虹彩で調節し、水晶体で屈折させ、網膜にピント合わせる。

目の仕組み

こんな複雑で精密な器官が「自然に」発生するはずがないということで、いわゆる創造論を唱える人々も少なくありません。

実際、進化論を提唱したダーウィン自身も、その著書『種の起源』の中で、

極度に完成度が高く複雑な器官(=眼)が自然淘汰によって形成されたという想定は、率直に言ってしまうと、この上なく非常識なことに思える。

と書いています。

よく創造論者が引用する部分ですね。

しかし実際には、ダーウィンはこれに続けて

しかし、仮に完璧で複雑な眼から極めて不完全で単純な眼まで数えきれないほどの細かい段階が存在し(中略)それほど非現実なこととは思えない。

と書いています。

つまり、ダーウィンは「眼」の存在も進化論で十分説明できると考えていたわけです。

一言で「眼」と言っても、その機能は生物の種類と同じだけ様々。そしてそこには進化の痕跡が残っています。

シャコの場合

「眼」といえばシャコ。

シャコ

「テラフォーマーズ」のおかげで広く知れ渡っていますが、シャコは甲殻類のくせにめっちゃ眼が良いです。

モンハナシャコ

人間の4倍もの色覚を持ち、普通の光だけではなく紫外線や赤外線、果ては電波まで見えているとかなんとか。

また、生物の中で唯一、円偏光が見えるなんて話もあります。

円偏光というのは、こういう感じ↓の光。

円偏光

なぜにシャコだけがこれを区別できるのか。ここまで視力が発達したのか。

一説には、感覚器官が高性能だと、その分脳で処理する情報が少なくて済むらしいです。感覚器官だけで情報の処理が完結するみたいなイメージでしょうか。

そのおかげで、シャコはマッハパンチだけを武器に数億年を生き抜いてこれたということです。

クラゲの場合

クラゲは透明に見えて、実は立派な眼を持っています。24個も。

中華クラゲ

単なる食感だけの食材だと思ってナメていませんか?

クラゲをよーく見てみると、内部に4つの黒い点があります。

クラゲ

これはロパリウムと呼ばれる器官で、それぞれに6個の眼がついています。

そのうちの4個は単純な光センサーにすぎませんが、残りの二つは角膜、レンズ、ガラス体、網膜を持つちゃんとした眼なのです。

クラゲの目

流石に色彩が分かるほどではありませんが、色の明暗くらいなら余裕で感知可能。

この器官によって、クラゲは障害物を察知したり、餌がたくさんありそうな場所を見つけたりできるのです。

クラゲには脳が無いので、視覚情報に対して直接反射しているようなイメージでしょうか。

イカの場合

この世で最大の眼を持つのがイカです。

イカ刺し

イカにも色々な種類がありますが、ダイオウイカと呼ばれる種は全長20mにも及ぶと言われています。

 クラーケン

その巨大さと謎に包まれた生体から、伝説の海獣クラーケンのモデルになりました。

で、このダイオウイカは、生物界最大の目玉を持つことでも知られています。

ダイオウイカ

目が怖すぎる。

記録によると、体長8m程度の個体でおおよそ直径30cm弱の目玉を持っているとのこと。

ゾウやクジラの目玉がせいぜい10cm足らずなことを考えると、ダイオウイカのそれは異常な大きさだということが分かります。

ダイオウイカの目玉

当初は、暗い深海で僅かな光を感じ取るために目玉が大きく発達したとも考えられていましたが、他の深海に生息する生物で同じように目玉がデカい例はありません。

さらに研究を続けた結果分かったのは、目玉がデカいと遠視になるということ。

ダイオウイカは、近くがあまり見えない代わりに、遠くはよーく見える。これは、天敵であるマッコウクジラをなるべく早く発見するための進化だったのです。

末端と先端

なお、イカやタコの目玉は、哺乳類の目玉とは別個に進化しつつも同じような形状に落ち着いた(これを「収斂進化」という)事例としても知られています。

しかも、イカの目の方が哺乳類より優れているという事実。

上の図から分かるように、哺乳類は、眼球に入った光を眼球の一番外側にある錐体細胞で光を受け取り、それを神経に乗せて眼球の内側に向かって伝達し、それを再び眼球の外側にある脳へ運んでいきます。

神経が眼球の外へ脳へと出す所には錐体細胞が無いので、いわゆる盲点が出来てしまうというわけ。

もうね、設計段階から間違えています。

一方のイカやタコの目は、素直に眼球の内側で光を受け、その情報を外側にある神経で受けて、外側へ伝達していきます。この構造なら、盲点は出来ません。

哺乳類の眼は自分自身の錐体細胞が邪魔で光がぼやけてしまいますが、イカやタコの場合は眼球に入った光をそのまま内側で受け取るので光がピュア=高性能なのです。

これは、それぞれの進化の道筋が異なることから起こった違いです。

哺乳類の眼が脳の末端の変化であるのに対して、イカやタコの眼は皮膚が陥没して変化したものなのです。

哺乳類の眼は、言ってみれば逆向きについているようなものだと言えます。

ホタテの場合

どうでしょう、この美味しそうなホタテ!

刺身かバター醤油ソテーが定番ですが、呑気に食べている場合ではありません。

驚くべき事に、ホタテは眼を持っています。それも80個以上

帆立

青いのが眼。完全に悪役である。

帆立の眼

アップでどうぞ。

かなりのキモさですが、このホタテの眼はいわゆる一般的な眼とはちょっと仕組みが異なります。

人間の眼と帆立の眼

人間の眼がレンズによって光を屈折させて眼球の奥にある網膜に集めているの対し、ホタテの眼は一旦光を眼の奥の鏡に反射させ、それを眼球の中心にある網膜(的な部分)に集めています。

ホタテの眼の鏡

しかも、2種類の網膜を持ち、一つは弱い光専用、もう一つは強い光専用と、使い分けています。

帆立はこの眼でもって、薄暗い海の底でヒトデの襲来を察知したり、捕食するための口の開閉を判断しているのだと考えられています。

眼と進化

という具合に、地球上の多種多様な「眼」のごく一端を観てみました。

が、実は「眼」は地球の生物が多様な進化を遂げるためのキーでした。

カンブリア紀に置ける種の大爆発。そのトリガーこそが「眼」の獲得だった可能性があるのです。

つづく。

参考文献・サイト様
Wikipedia 「眼の進化」
Inside the Eye: Nature’s Most Exquisite Creation
帆立貝は200の反射望遠鏡型の目で周りを見ている
巨大イカ、目玉は極度の遠視
種の起原〈上〉 (岩波文庫)
るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 (11) (ジャンプ・コミックス)
テラフォーマーズ 6 (ヤングジャンプコミックス)

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ミサイルはどこに落ちた? https://fknews-2ch.net/archives/20180506.html https://fknews-2ch.net/archives/20180506.html?noamp=mobile#comments Sun, 06 May 2018 01:00:58 +0000 http://fknews-2ch.net/?p=28341 さて、当ブログは何の脈絡もなく話題がコロコロ変わります。

今回は弾道計算のお話。

以前に飛び道具の歴史を何回かに分けて記事にしましたが、戦争の歴史はそのまま飛び道具の歴史でもあります。

最初は石を投げていたものが、やがて投槍→弓→火薬兵器(銃や大砲)へと発展。飛び道具の射程距離はグングン伸びていきました。

間合いを制し、こちら側だけが一方的に攻撃することを目指していったわけですね。

しかし、射程距離が伸びれば伸びるほど、命中率が下がっていくというジレンマに陥ります。

昔は経験豊かな隊長が「ちょっとアゲてっから、仰角36°でぶっ放してみようか」みたいな雰囲気でやっていたわけですが、当然そんなんではなかなか命中しません。

そんなわけで、人類は弾道を正確に算出する必要があることに気づいたわけですね。

最も単純なケース

ちなみに、もし地球に空気がなければ、砲弾がどこに着弾するかは、割と簡単に計算できます。

高校生レベルの数学と物理の知識があれば大丈夫。

これが弾丸の軌跡を表す方程式だ!!

\(y=\tanθ・x-\frac{g}{{2v_0}^2\cos^2θ}x^2\)

どうですか?

人生の早い段階で数学・物理を諦めた管理人は、すでによく分かっていません。

しかし、心を落ち着かせて眺めてみると、\(y=bx-ax^2\)という形に単純化できることに気づきます。

そう。中学校で習った2次関数なのです。

ということは、あのグラフになるわけですね!

あのグラフ

今回の場合、\(x^2\)のトコがマイナスなので、グラフにすると山なりの曲線を描くことになります。

\(θ\)という記号は角度を、\(v\)は速度を、\(g\)は重力加速度を表します。

重力加速度は地球にいる限り一定。そして弾の発射速度は、同じ大砲に同じ量の火薬を入れればほぼ一定。

ということは、「大砲の筒を向ける角度」さえ分かれば、弾がどういう軌道を描いて飛んでいくかが明確に分かるというわけです!

※ただし真空中に限る。

上の式から計算すると、弾が一番遠くに飛ばすには、どうやら45°の角度でてばよいことが分かります。らしいです。※具体的な計算過程は(゚⊿゚)シラネ。

この方程式に基づいて敵との距離(公式でいうところのy)に応じて適切に計算してあげれば、100発100中になるはず…でした。

面倒な色々

しかし実際のところ、話はそう単純ではありません。

空気抵抗

地球には空気があり、そして風があります。

なので、空気抵抗というものを考慮しなくてはなりません。

物体が音速を超えた瞬間に強烈な空気抵抗を受けるというのは、あまりに有名ですね。

マッハパンチの場合

他にも、弾の形や重さ、天気、気圧、気温、風向きなど、無数の要素が空気抵抗の度合いに影響を与えます。

したがって、上にあったみたいなシンプルな方程式に基づいて撃っても、砲弾は絶対に命中しません。絶対にです。

そして、この空気抵抗を考慮すると、計算式は複雑かつ膨大な量となるのです。

その他色々

なお、気合いと根性で空気抵抗を考慮した弾道を計算したとしても、それでもやっぱり砲弾は命中しません。

例えば、大砲の足元。

地面が岩盤なのか土なのか。それとも船の上なのか、砂漠なのか。

それによって踏ん張りが違ってくるので、砲弾の初速に影響が出ます。

あとは、

・砲弾の回転に伴うジャイロ効果による左右のズレ

10kmで100mくらいズレる

・地球の自転に伴うコリオリ力

1kmで10cmくらいズレる

みたいなのもあります。

他にもありそうだけど、まあその辺はまあいいや。

とにかくそういった全部を考慮に入れないと、正確な弾道を予測することはできないのです。

射撃表を作ろう

さて。

弾道に影響する要素が大体わかったところで、各国の軍は射撃表の作成に取り掛かるようになります。やっぱり砲弾は命中させたいもんね。

それが大体1900年代の初めくらい。第一次世界大戦の頃であります。

射撃表というのは、こんなの↓です。

これは米海軍の「Mk2 16インチ砲」のやつ

現場でチマチマと弾道計算なんてしていたら全然間に合わないので、あらかじめ計算して表にしておこうというわけ。

この表があれば、「〇〇km先に命中させるには砲の仰角を何度にすれば良いか」が一目でわかるのです。

なお、表の数字は標準的な状況を想定したものに過ぎず、実際に砲撃する際はその瞬間の状況を踏まえて補正します。

例えば空気抵抗に影響する気温や気圧、風向き。また、弾速に影響する砲身の磨耗度や火薬の温度や湿気。

射撃表にはそういった要素の補正係数までがまとめられており、砲撃には必要不可欠なものでした。

計算が間に合わない件

ところが、である。

これまで見てきた要素を考慮した弾道を算出するには、ひたすら延々と微分方程式を計算し続けるという方法しかありません。

しかし、まだ歯車式の手回し計算機しかなかった時代に、そんな計算は正直かなりキツい。

レバーをガリガリ回して計算する

「延々と計算」というのはどれくらい延々かというと、大学の数学教授みたいな人が20〜40時間かけてようやく一つの弾道が分かるというくらいの延々さ。「僕が言いたいのは永遠」と言いたくもなります。

なお、射撃表を一つ仕上げるには、色々と条件を変えて3000本の弾道を計算しなくてはなりません。ワロタ。

一人の男が手作業で射撃表を作ろうとすると、まあ1本30時間として単純計算で10年ちょいかかることになります。戦争終わっちゃいますね。

たまにメートルとヤード(1ヤード=0.9144メートル)を間違えちゃって、計算がやり直しになったこともありました。

さらに当然のことながら、新型の大砲が登場すれば弾の形状から何から全部変わっちゃうので、また新たに一から表を作らなくてはなりません。

(#ノ`Д´)ノ.:・┻┻

実際には数百人単位のチームで計算に当たっていたのですが、それでも軍の要請にはまったく間に合わない状態でした。

計算手たち

男は兵士として戦地に行ってしまっていること。そして当時は女性の方が賃金が安かったこと。

そうした理由から、この計算チームには多くの女性が採用されていたことはよく知られています。

数人の数学者が複雑な微分方程式を単純な計算に分解し、女性たちがそれをワーっと一斉に計算。そうして少しでも早く計算を行うような工夫をしていたのです。

しかし、第二次世界大戦の頃になると、次々に登場する新型の大砲の前に限界を迎え、その計算量は人間の手に負えないレベルになってしまいます。

人間の偉いところは、そんな困難な状況にもメゲないところ。

もっと早く計算をしなければならないというプレッシャーが、コンピューターの発展を促したのであります。

参考文献、サイト様
桜と錨の海軍砲術学校

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全てのお金は誰かの借金だという事実 https://fknews-2ch.net/archives/20180401.html https://fknews-2ch.net/archives/20180401.html?noamp=mobile#comments Sun, 01 Apr 2018 02:17:39 +0000 http://fknews-2ch.net/?p=28293 前回記事でチラッと触れた、「信用創造」というテクニック。

突然ですが、この地球上にはどれだけのお金があるでしょうか? ある統計によると、ざっくり90.4兆ドル。日本円にすると、およそ1京円(1...

お金を貸すことによって、銀行が自在にお金を生み出す仕組みであります。

今回は、そのカラクリを詳しく見ていきたいと思います。

労働はお金を生まない

常識的な価値観からすると、借金というのは不健全。勤勉なる労働こそが尊い。

みたいな感覚があります。

しかし、こと「お金を生み出す」という観点から見た場合、あなたがどれだけ一生懸命働いてもそれは無意味です。

キンキンに冷えたビール

例えば、ビールを生産して、誰かに売った場合を考えてみましょう。

キンキンに冷えたビール

ビールの原料を誰かから200円で仕入れる。

すると、あなたの財布から200円が減り、原料を売った人の財布には200円が増えます。

あなたはその原料から一生懸命ビールを作り、それを300円で売ります。

ビールの売上300円から原料代200円を差し引いた100円が、あなたの労働の対価ということになります。

この流れを一見すると、あたかもあなたの労働が100円を生み出したかのように見えます。

だが待ってほしい。

これは、あくまでもあなた目線の話。経済全体を見たときに、円はビタ一文増えていません。

なぜなら、あなたのビールを買った人の財布から300円が減っているから。

ね?

驚くべきことに、あなたがいくら汗をかいても、新たにお金を生み出すことはできないのです。

お金を増やす方法

それでは次に、あなたが銀行から100円借りる場合を考えてみましょう。

という具合に、あなたが銀行からお金を借りると、この世に流通するお金が増えるという現象が起きるのです。

え?なんで銀行のお金が減ってないのかって?

それが、信用創造のテクニックの肝なのです。

銀行預金とは何か

本題に入る前に、銀行預金についてちょっと触れましょう。

私たちは、ついつい「銀行預金」というのは「銀行にお金を預けること」だという固定観念を持ってしまいがち。

イメージ的には、手元にあるお金を手放して、銀行という名の金庫にお金をしまっておくみたいな。

そういうイメージを持っているから、例えばATM手数料を払うときに、「なんで自分のお金を引き出すのにお金がかかるんだ!」などと不満に思ってしまうのです。

しかし、銀行預金を「銀行にお金を預ける」という風に解釈するのは、実は全くの見当違いだったりします。

銀行預金は立派なお金

実際のところ、私たちが手元の「1万円札」を銀行に預金をする時、「1万円のお金」を手放しているのではありません。

「1万円のお金」は変わらずあなたの手元にあります。

ただ、そのカタチが「紙」から「数字」に変わっただけのことなのです。

1万円札だろうと1万円の銀行預金だろうと、あなたの意思で自由に1万円分の買い物ができることに変わりはありませんね。

銀行があなたの預金を勝手に増やしたり減らしたりすることはありません。

自覚があるかないかは別として、「紙」より「数字」の方が便利だから、あなたは銀行にお願いして「現金」と「銀行預金」を交換してもらっているのが実態なのです。

現金は意外に不便

実際、現金はけっこう不便

かさばる。
いちいち数えないといけない。
無くしたら終わり。
対面で直接手渡ししないと取引できない。

メリットとしては、物質なので「お金を持っているぜ」的な実感がある、というくらいでしょうか。

一方の銀行預金を見てみると、

数字(データ)だからかさばらない。
いちいち数えなくていい。
物質ではないから無くさない。
遠くの人とも取引できる。

どう?冷静に考えると銀行預金の方が使い勝手が良いでしょう?

その結果、世の中のお金のやり取りの大半は、銀行預金によって行われるようになっています。

私たちの家計だってそうです。

支出で言えば、家賃や光熱費や携帯代や生命保険とか。これらは銀行引落しによって支払うのが普通ですね。

クレジットカードでの買い物も似たようなもの。

一旦クレジット会社に代金を立て替えてもらって、それを後日まとめて銀行引落しによって支払っているだけであります。

収入に至っては、ほとんど100%銀行預金のカタチで受け取ります。

会社の給料も、メルカリの売上も、アフィリエイト報酬も、すべて銀行振込です。

という風に見ていくと、現代社会において銀行預金はそれそのものがお金として機能しているのが分かります。

紙幣や硬貨が物理的に移動することで支払いが完了するのと同じように、預金の数字が移動することで支払いが完了する。

つまり、私たちにとって銀行預金とはそれそのものがお金なのです。

銀行にとっての銀行預金

一方、銀行にとっての銀行預金というのは、負債です。

例えば、あなたが銀行に100円預けると、銀行の手元には現金が100円増えますね。

しかしそれと同時に100円の返済義務も発生します。あなたが「100円を引き出したい」と言えば、銀行はすぐに現金を渡さなければなりません、

したがって、あなたが銀行に預けた100円は銀行があなたから借りているのと同じ。

とすると、銀行預金の数字は、あなたからの借金を証明する銀行が発行した借用証書ということになります。

銀行が融資をする時

以上を踏まえて、改めて、銀行が融資を通してお金を生み出していく様子を見てみましょう。

銀行の部

まず銀行の方から。

銀行にとって、銀行預金は負債。

その代わり、銀行は資産として現金債権(国債や借用書)を保有しています。

銀行があなたにお金を貸すと、新しい資産としてあなたの借用書が、そしてそれと同じだけの負債である銀行預金が増えます。

ここで注目すべきは二つの点。

もともと銀行が保有している資産は、1円たりとも減っていないということ。

そして、銀行は現金を貸しているのではなく銀行預金を貸しているということ。

あなたに貸したお金は、他人の預金でもなければ銀行自身の資産でもありません。

あなたの預金口座の数字をデータ上で増やすことによって、全く新たに銀行預金を生み出しているのです。

その結果としてこの世に流通するお金が純増するのです。

あなたの部

一方、お金を借りたあなたの資産は次のようになります。

融資によってあなたの預金残高が増えるので、とりあえず資産としての銀行預金が増えます。

それと同時に、あなたは銀行に借りたお金を返す約束をします。通常は、借用証書を銀行に渡すことになります。これにより、借りたのと同じだけ負債も増えます。

言い方を変えると、銀行はあなたなら借金をキチンと返済してくれるはずという信用を、銀行預金に変換したとも言えます。

逆に、あなたが借金を返済すると図の矢印は反転します。

銀行預金が消滅し、それに伴いあなたの借金、銀行の債権も消滅します。

つまり、この世に流通するお金が純減するのです。

歯止め

口座の数字を操作するだけで簡単にお金を発行できるため、銀行はニーズさえあれば無限に銀行預金を発行することができます。

しかし、お金を流通させすぎると、お金の価値が下がる=物価が上がる=インフレが起きる恐れがある。

それを規制するために、準備預金制度という歯止めが定められています。

これは、簡単に言えば、銀行預金全体に対して、一定割合の現金を用意しておかなくてはいかん、という決まりです。

日本の場合だと、準備率はだいたい1%くらい。

つまり、1億円の銀行預金を発行するためには、100万円を用意しておかなくてはいけないということです。

逆に言えば、100万円の現金を持っていれば、1億円まで融資できるということ。

こうして、世の中のお金は何倍にも膨らんでいったのです。

借金は返済するべきか

こういうお金の仕組みを踏まえると、およそこの世界に流通するお金は、元々は誰かの借金だということになります。

個人の信用、企業の信用、そして国家の信用に対して、銀行が値踏みして銀行預金(借用書)が発行されている。

世の中の経済は、誰かが借金をするのが前提になっているのです。借金によって発行されたお金がないと、取引もままなりません。

したがって、例えば日本の借金1080兆円を返済したとすれば、世の中に流通している1080兆円のお金が消滅することになります。

そんなことが起これば通貨制度が崩壊し、経済は麻痺し、深刻な不況に陥いることは明白。

本当に景気をよくしたいなら、国も企業も個人も、みんながどんどん借金するべきなのかもしれません。

参考文献・サイト様
Money creation in the modern economy
「通貨のひみつ」中村てつじの「日本再構築」
「全ての問題の根源は、お金の発行の仕組みにある。」フェア党
「緑のお金と茶色のお金(1) MSとMBを正しく捉えるためのモデル」経済学を疑え!
「銀行はこうやっておカネを貸す 信用創造」ネコでもわかる経済問題
「日本の財政関係資料」財務省
賭博破戒録 カイジ 1

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